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連日の猛暑の中、佐賀ン町は全国高校野球、北高優勝で湧きに湧きました。準決勝、決勝・・・と進むに連れてメーン通りには人影もなく、皆さんテレビにかじり付いての大声援!!ごく普通の進学校が地元の子供達だけで成し遂げた大勝利です。今年は全国高校総体も佐賀でしたので、若者の活躍が希望を与えてくれました。私が難聴会に属して四年になります。パン教室の先生のご縁で「難聴会、要約筆記」を知ったのがきっかけです。最初は、まずスクリーンに大変驚きました。話が次から次へと書き出されていく・・・もう全神経を集中して文字で話を聞き取り?ました。そして周りを見ると・・・年寄りがほとんど・・・まるで老人会ではないか・・が第一印象です。でも隣に座っていた60代の方がゆっくりといろいろ話し掛けてくれました。私よりは年上だけど、会の中では若い方・・・人工内耳を装用しているとかで{難聴なんですか?}と思えるほど聞えておられます。私に人工内耳を勧めてくれた人です。高校生の時に原因不明の突発性難聴になり、口元を読み取って会話していたそうです。「私もそうだったです」と沢山の共通の話題に話が盛り上がり、私が聞き取れない所では、メモ手帳に書いて話してくれました。(へー―ッ、書くという手段があるんだ)とビックリした事を覚えています。当時会員は10人ほど来ておられました。全体で20人に満たない小さな会です。現会長は仕事が忙しくて来れない・・・とかで会長交代の話が出ていたようです。初回、私は何もわからないまま、スクリーンの話を聞き取っていました。当時私を含めて三人が入会しました。一緒に入会した方とも話しが弾んで楽しい時間を過ごせました。(自分だけじゃなかった!私と同じように聞えない仲間がいる)と胸が弾みました。次回からの難聴会には話し掛けてくれた人に会いたくて参加しました。又一緒に入会した人yさんが、とても優しい人で、私の店にも訪ねてくれるようになりました。残念なことにご主人の転勤で引っ越していかれ淋しい思いをしました。そうして数回参加しているうちに、会の様子も少しずつわかり始め、ちょっとおかしい・・と思うと挙手して「この点は〇〇した方がいいと思います」等と図々しく意見をいうようになっていました。今思えば、それが命取り?です。一年後には「会長はmichiさんにお願いしたい」と言われました。難聴会とは二ヶ月に一回位例会を開いています。着席して前に会長が立って色々な伝達事項を話します。ほとんど全国難聴の連絡とか、どうしたら会員を増やせるか・・あるいは聴導犬のデモンストレーションであったり・・飾り物を作ったり・・・新年会を開催したり・・で食事時は皆さんが和気藹々と筆談したりして楽しまれています。例会時に意見をいう人は限られています。役員をされた方がほとんどです。みんなの前で話すのは恥ずかしい・・・と思うのか、なかなか意見をいう人がいません。その中で私は(おかしい?)と思うと意見をいうものだから目立ったようです。「会長になって下さい」と言われたときは、勿論何回も固辞しました。難聴会が発足したのは平成3年8月だそうです。10年以上も前からおられる会員を差し置いて若輩の私が・・・なんて、とんでもないことです。でも協力するから・・・と言われ渋々引き受けました。入会してから一年後のことです。よし、引き受けたからには、嫌々ながらではなく少しでも動こう・・・これが私の原点です。後から聞いた所によれば「michiさんがいなかったら難聴会は解散しよう・・という話になる直前だったよ。michiさんが会長を引き受けてくれてよかったよ」とのこと。何もわからないまま、引き受けて本当にどうしよう・・・と困りましたが、いつも要約筆記してくれる要約筆記会長Yさんに相談に乗ってもらいながら歩き始めました。会長職がスムーズにいったわけではなく、いろんなことがありました。特に協力してくれる・・と言った会員は「難聴会の中で楽しければそれでいい」という考えだったので私が思うこととずれており段々話が合わなくなってきました。私の考えは難聴会に入っている人は仲間がいるので心配ないが、本当に心配なのは聞えないことを悩んで家で引きこもっている方のことです。だから難聴会以外のどこにいるかわからない、聞えなくて苦しんでいる方に要約筆記などを知ってもらいたい・・・世の中が難聴に理解してくれるよう耳マークを広めたい・・それを考えるようになり、活動しなければ・・・との想いが強くなってきました。それで私に協力する・・・と言われた方は「活動しないと発展は無い」という私と意見が違うものだから、また当時お孫さんが生まれるので難聴会にも行く暇がない・・・ということでやめられました。とてもショックな出来事でした。その方は後ほど私の店を訪ねてくれて、「家庭の事情もあったからmichiさんのせいではないよ。これから難聴会の為にがんばってね」と言ってくれました。私が難聴会外に目を向け始めたので意見が合わなくなって活動をやめた方がいいんじゃないか・・と悩んだこともありましたが要約筆記のYさんに励まされて進みました。そうして今に繋がっていきました。何でもスムーズにいくほうが無理・・・とはわかっていても全ての方の賛成が得られることは無い・・と割り切らないと進めないのです。いつも悩みながら、これでいいのだろうか?イヤ進むべきだ・・と葛藤しながら歩いています。まだまだ未熟で失敗も数え切れないほどあります。でも自分の道を行くだけです。 では また・・・
2007年08月29日
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今年は本当に猛暑です。クーラーなしではおれないほどの35度を越える暑さ・・眠れないほどの熱帯夜・・エアコンなどの使いすぎで地球の温暖化が危惧されているけれどクーラーなしでは熱中症も心配だし・・・孫が大人になった時にはどんな地球になっているのでしょう・・・不安、怖いですね。ところで、私がこうしてブログを書くなんて思ってもいなかったです。何でこんなに書くようになったか・・・と元を辿っていくと、全て主人が亡くなったことがきっかけなのです。主人が亡くなって早や10年経ちます。それまでの私は主人の庇護のもと、店と家庭だけが生活の全てでした。喫茶店の裏方・・・として厨房だけ・・・あとは子育て、家事だけで全く不満もありませんでした。主人や子供達といつも会話があったからです。たまにPTAに行っても話が聞えず面白くないから、家に帰り主人と話すほうが余程楽しかったし(私の居場所は家庭しかない)といつも思っていました。時々近所の友人とお喋りするくらいが家庭外との接点でした。(それでもスーパーなどの買い物で出会った人と友達になったりしてました)それが主人が3年の闘病後、亡くなってから胸に大きな空洞ができました。何をしても楽しくない、子供と喋っている時や、店をパートの人に手伝ってもらって営業している時は、少し気が紛れるけれど、いつも空洞感を埋められず雲の上を歩いているような気分でした。空虚感、寂寥感、涙ばかり流れてきます。(子供がいても埋まらなかったのです)一年くらいは毎晩涙が流れて、とても辛い日々でした。これではいけない・・・と思うようになった二年弱、新聞に「卓球始めませんか?」の記事が載っていました。「これだ!」と思ったその日、記事に載っていた人を訪ねました。「卓球したいけれど耳が聞えなくてもできますか?」「耳が不自由なら障害者卓球クラブがありますよ」と教えて頂いたその足で又次のところを訪ねました。そして「翌日見学だけでもどうですか?」と言われ見学のその場で卓球クラブへ入会しました。全く知らない人ばかりで1人で入会して心細かったけれど「耳が聞えないので宜しくお願いします」と周りの方に挨拶しました。卓球クラブは健常者が半分で他は足や手の不自由な人、車椅子の人、1人だけ耳の不自由な若い女性がいました。スポーツとは無縁の生活だったので勿論卓球も50歳過ぎて初めてです。最初はラケットに球があたらない、あたったとしても球がとんでもないところ・・天井や隣のコートの人に当たったり、あまりの下手さに「すみません」の連発でした。そんなにして休まずに通い始めると自然と話す人も少しずつ増えてきました。ある日「一回だけのパン教室に行かない?」と仲間から誘われました。その頃は、何でも断らずに行ってみよう・・という気になっていたので行きました。15人ほどのメンバーの中で耳が聞えなかったのは私一人だけでした。仲間が気を遣ってくれて「michiさん前のほうへ行ったほうが聞こえるよ」と言うので前へ行ったらパン教室の先生がパンをこねながら「耳が不自由なんですか?」「ハイ耳が聞えません。手話もあまり知りません」と答えたら「貴女みたいな方が谷間にいる難聴者なんですよ。手話を知らない人に中途難聴会や要約筆記がありますよ」「要約筆記???谷間にいる難聴者?」サッパリ意味がわかりませんでした。手話も知らない、マイクや話し声も聞えない・・・だから谷間にいる難聴者・・・なんだと。よく聞けばパン教室の先生は要約筆記の会の副会長だったのです。(現在は会長)暫くしたらFAX番号を知らせていたので「手話ダンスに来ませんか?難聴会に来ませんか?」とFAXが送られてきました。このときは前向きになっていましたので迷わずに難聴会へ行きました。4年半前です。そこで初めて要約筆記のスクリーンを見た時の感動・・・涙が出ました。(ここにやっと私の居場所があった。話のわかる方法があるんだ)と。そして子供達に話しました。「要約筆記ってすごいよ!!お母さんも話がわかるのよ」と。そこで人工内耳のことも初めて教えてもらいました。tomoはその頃から「難聴者が経営する喫茶店」を考えていたようです。既存の喫茶店をリニュアールしたら?と私に勧めて試行錯誤の末、実現しました。友人が「市会議員に知り合いがいるから・・・」と要約筆記のことを議会の一般質問に取り上げるようにしてくれたり・・・いろいろ手伝ってくれました。その後は流れるようにして道が出来ていきました。あたかもこの道は作られていたのではないか・・・と思えるほど次から次へと手伝ってくれる人も増えてきました。信じられないほどに・・この活動の延長で知り合いから、知り合いへ・・・と知人が増えるうちに、仲良くなったMさんから、ついにカンボジアへ誘われ海外まで行きました。今でもMさんは、人工内耳で聞えるようになった私を「michiさんに聞かせたい」とコンサートへ誘ってくれます。もし、卓球をしていなかったら・・・今の私はいません。パン教室を断っていたら勿論・・・今の私はない。tomoの言う事を聞いてなかったら(難聴者が経営する喫茶店)もなかった。tomoから勧められて触ったことも無いパソコンで(tomoが)ブログを書けるようにしてくれた。店のお客様と友達になり台本付きで観劇まで、広がりました。人工内耳もtomoがインターネットで調べてくれて強く勧めました。思い返せば一歩進むごとに新たな道ができていったのです。自分の人生は、自分で作っている部分もあると思います。きっと一般の人も、進めば道が開けるのではないでしょうか?空洞感を埋めよう・・・と歩みだした時から人生も少しずつ変わっていきました。お金が増えたわけではない・・・でもお金で買えない、友人、知人が増えました。店のお客様、要約筆記の方、卓球の仲間、難聴会の方、活動を通じて知り合ったボランティアの人たち・・・たくさんの方の心を頂いています。それでも主人がいたときのような充足感はないです。多分主人にしかこの隙間は埋められないでしょう。でも以前より人生を前向きに思えるようになってきました。全ての方に感謝したいと思います。「有難う!アリガトウ!サンキュー」
2007年08月20日
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連日の酷暑で熱中症に罹る方が増えているようです。昼間は焼け付くような陽射しで、熱帯夜・・・と体力も低下しバランスが崩れがちです。こまめな水分補給、適切な休養でこの夏を乗り切りましょう。夏休みでtomoの子も帰ってきて、娘の子共々、第二の子育て・・かと思うほどの忙しさです。私自身が子育てしていた頃の事が思い出されます。子供は小さい頃はよく病気をします。風邪、腹痛、怪我等、その度に小児科、外科へ走っていました。まだ赤ん坊のうちは、私も聴力が90dbくらいだったので(それでも軽くは無いけれど)医師の診断の時は、補聴器と、口元を読み取り確認していました。それでも二人目、三人目とお産するたびに聴力が著しく低下しました。私の場合、子育てで困ったのは夜泣きと病院の診察です。夜泣きは、毎晩、何回も泣くたびに主人が起こしてくれていたので、そこまで困らなかったのですが、病院通いは、本当に大変でした。一番私を助けてくれたのはtomoです。tomoが一歳九ヶ月のときには長女Kが生まれたので風邪を引くと二人とも・・なんてことは、よくあってその度にtomoに言い聞かせるのです。受付する前に「tomo、〇〇さんって呼ばれたら、必ず教えるのよ」と何回も言ってました。一応、受付の人にも「耳が聞えません」と言っておくのですが、小さな小児科なので、いつも受け付けに担当の人がいたわけではなく、バタバタされていたので(もしかしたら呼ばれたんではないか?)と気が気ではありません。小さなtomoも自然に私が聞えないことをわかっていましたので、熱でグッタリしながらも呼ばれるのを気に掛けていたようです。私の手をちょっと触ってくれます。「呼ばれた?〇〇さんって言った?」と tomoに確認して受付に聞きますと、殆ど間違いなく呼ばれてました。今思えば二歳過ぎた頃です。その時は(tomoエライね)なんて思う心のゆとりもなく小さなtomoが私の命綱・・・でした。診察室に入る前にも、ちゃんと言い聞かせておきます。「お母さんが食べ物は何でもいいですか?とか、お風呂はいつから入っていいですか?と聞くからtomoは先生の言った事をあとでちゃんと教えてね」と何回も言っておきます。小さいながらも本人が熱がある時でもtomoは大事なことはちゃんと聞いていてくれてました。「お粥」とか「風呂はダメッて」とか「また来なさいって」とか単語だけですが私に教えてくれます。要約筆記を知った今思えば、(何で筆記して下さい)という考えが及ばなかったのだろう・・とつくづく思います。書いてもらう・・・ことは全く頭にありませんでした。気がつきませんでした。私の周りに聞えない若い母親は1人もいなかったし、仕方ない・・・といつも思っていました。tomoも(小さな自分が聞いておかなければ・・・)なんて思ってもいなかったでしょう。きっと私が言い聞かせていたので病院へ行けば、自分が聴く・・・ことは当たり前だったに違いありません。このことでtomoから何か不満に言われたことは一度もありません。きっと我慢していたのでしょうね。こうしていく内に、今度は長女Kも自然と私に教えてくれるようになりました。tomoだけに言い聞かせるのではなく、Kにも言ってましたから・・・二人とも市役所などでも、大人の会話に入って私に教えてくれたものです。きっと子供心にも世間の見えない差別を感じ取っていたのかもしれません。以前は今ほど障害に理解が無かったから・・tomoが7歳の時末っ子が生まれたのですが八ヶ月の未熟児で、又病院通いが続きます。未熟児網膜症の検査が必要だということで、大きな総合病院へ何回か行かなければなりませんでした。その時はサラリーマンだった主人が会社を休んで一緒に行ってくれました。とても安心したものです。医師の説明も、全て主人が聞いてくれるからホッとしたのを覚えています。その時はtomoやkの気持ちを思いやるゆとりも無かったのですが、子供が大きくなってKが「お父さんがどこかへ一緒に行ってくれると、すごく嬉しかった。だってお母さんに教えてやる為に、いつも聞き漏らさないようにしてたけど、お父さんがいると何にも考えずに遊べたもん」と言いました。考えてみればまだ幼稚園に行かないうちから、私に教えてくれていたのです。そして、その頃tomoやkは私に「聞いて教えるのはイヤだ」と言ったことは一度もありません。子供心ながらに私の耳代わりにならないといけないと思っていたのでしょう。そして末っ子といえば兄や姉が聞いて教えてくれるので(いつも子供達みんな連れて行ってましたから)何も考えないでよかったからか、のほほんと育っています。勿論、私に教えることもしなくていいので、ごく普通の子供のようにゆったりと遊んでいました。子供達が小学校に入るようになって他のお母さんと、自分の母親は違う・・・ということに気がついてtomoとkは私が聞えないことを努めて知られないように苦心していたようです。それに比べ末っ子は平気で「うちのお母さん、耳が聞えないよ」と隠さずに言ってました。(何で隠す必要があるの?悪いことしてるわけじゃないのに・・・)という気持ちだったようです。勿論末っ子も大きくなったら兄や姉が部活などで帰りが遅くなってきて耳代わりをしてくれるようになりました。こうして三人三様のやり方で私を支えてくれました。話すときは必ず目を見て話す・・私がわかるまで何回も言ってくれる・・・どんな小さなことでも目を輝かせて話してくれました。私が一生懸命聞かないと聞き取れなかったからでしょう。もし健聴だったら、こんな心の結びつきも無かったでしょう。子供達はそれぞれに家庭を持ち、巣立ちましたが三人共「お母さんのことは私たち全部が大事に思っているよ」と嬉しいことを言ってくれます。その気持ちだけで充分有難いと思います。主人が亡くなる直前「みんな仲良く」と何回も言って旅立った最後の言葉を心の支えとしてこれからも生きていきたいと思っています。 では また・・
2007年08月12日
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台風が通過したところです。夕方店の帰り頃は風がひどくなり、傘もさせない状態でした。今、深夜。家では、人工内耳を外していて、全く聞えません。外の風の音も聞こえないので恐怖感も無く、こんなとき、人工内耳の取り外しができる難聴って便利だなぁと思っています。普通の人は怖い音を消せなくって可哀相・・・ですね。先日の難聴会例会で、知り合いのHさんに、歌のサービスに来て頂きました。50代のHさんは、趣味で音楽をされていて老人施設や公民館など声がかかればどこでも行かれます。自称「ギター一本の零細企業?」だそうです。ずっと前から「歌のサービスにきていいですよ」と快く言って下さっていたHさん。私は人工内耳で聞えるからいいものの、全く聞えない会員がいます。どうしよう?と考えていたけれど、一回位はいいかな?という事でお願いしました。要約筆記の方に「歌のサービスに来てもらう予定なんだけど」と話すと「聞えない会に歌のサービスにきてもらって、どうするの?聞えない人が楽しめないでしょ?」と心配してました。「ちょっと30分だけでも・・」と答えましたが、全く聞えない方が疎外感を味わわなければいいけれど・・・と内心(私も)心配してました。念のためHさんに「歌詞プリントを持ってきてください」と頼むことにしました。通常Hさんは、歌詞プリントは持っていかないそうです。歌詞プリントばかり見て、肝心のHさんのほうに顔が向かなくなるからだそうです。でも歌詞プリントがないと、難聴者は楽しめません。何の歌を歌っているのかもわからない。ギターも聞えない人がいます。午前中は難聴会の伝達事項で時間が潰れるので午後から来てもらうことにしました。休憩の時に全く聞えない70代のEさんに「昼から知り合いの人が歌のサービスに来られます」と筆記しました。「ハイわかりました」と快い返事をもらいましたが、それでも心配でした。さて、いよいよHさんの歌の時間です。まずギターの調整・・・ポロン♪ポロロ~ン♪OHP(スクリーン)に要約筆記者が筆記してくれます。自己紹介から、ゆっくり話し出してくれました。歌は「お富さん」「高原列車がいく」「君恋し」「林檎の歌」など戦前、戦後の歌です。会員が70~80歳が多いからです。話はスクリーンを見るとわかりますので普通の方から比べるとワンテンポ遅れますが(筆記してくださったのを読むから・・)面白いところは笑い声がドッと起こります。特に佐賀弁の話では地元しかわからない言葉の続出で爆笑でした。歌の場面になると、要約筆記の方が素早く歌詞プリントを映し出してくれペン先でなぞってくれます。気になってEさんをそっと見ました。テンポは遅れているものの、ちゃんと声を出して歌われています。(あ~ぁ、よかったぁ!楽しまれてて)と安堵しました。若い頃の知っている歌が多かったようで、他の皆さんも手拍子まで出ました。70代の女性(おばあちゃんだけど、この頃の70代は若い!)が手を上げて「すみません。高原列車がいく・・を歌ってください。初恋の人と歌ったんです」とアンコールがありました。「わ~~っ」とパチパチすごい盛り上がりようです。若い頃を思い出されてニコニコ顔。張り切って歌ってくれたHさん、有難う!!戦争の話もありました。Hさんのおじさんが船に乗っていて狙撃され、海に放り出され紙一重で助かり、終戦後大分経ってから復員された事など・・皆さん涙ぐんでおられました。「戦友」「麦と兵隊」などの歌は私はあまり知りませんでしたが、一緒に口ずさんでいた方が結構いました。Hさんが「皆さん、時間は大丈夫でしょうか?だいぶオーバーしてしまいましたが?」と言われたらEさんが「大丈夫ですよ。まだ電車の時間まで(〇時まで)ありますよ」と答えられたのにはビックリです。本当は皆さんが楽しめるかどうか、わからなかったので30分前後と思ってお願いしてたのに、もう既に一時間以上過ぎていました。皆さんが楽しまれたことが一目でわかりました。Hさんにお願いしてよかったぁと胸をなでおろしました。後日80代の女性からお礼のFAXが届きました。「Hさんのギター持参での歌やお話などで、とても楽しく、久しぶりに心底から涙が出るほど笑が止まりませんでしたよ・・・」と。また他の会員も「初めは歌がある??と聞いて、聞えない人にどうする?と思っていたがHさんの話が面白かった。歌も楽しかった。又、きてもらいたいね」と言われてました。「OHPがあったから、よ~くわかった。歌詞もなぞってくれて楽しめたよ」ということでした。難聴者は 普通面白い話を聞く機会もないし、テレビの落語や漫才など全く聞き取れません。テンポも早いし、まず話を聞こう・・という気も起こりません。なので久しぶりの面白い話に心から笑えたのでしょう。これからもまたお願いしたいと思っています。Hさん、どうぞ宜しくお願いします。
2007年08月02日
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