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タケさんの死の報を受け、葬儀に参列してきました。タケさんは日支事変で戦地に赴きそこで銃弾を受けました。若きタケさんの胸のポケットには、小型聖書がはいっていました。脇腹から入った弾は、向こう側に抜けて行きました。胸に当たった銃弾は、聖書の所で停まっていたそうです。優しいお顔と共に、そんなお話を伺ったことを、思い出しまた。
2005年03月31日
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午前中は「祈りの集まり」を持って、午後は会計さんたちが、1年間の集計をしました。ボクと妻も手伝いました。心を許し合う信者さんたちと、楽しく語らいながら、お仕事をすることは、喜びです。一段落して、お帰りになったのが、4月から娘さんが家から離れる予定のかた。ご主人と買い物だそうです。相棒の会計さんは居残りで、仕事を仕上げて下さいました。「夕食を一緒に食べましょう?」ボクが提案します。「インスタントラーメンならあるわ。具をたっぷり入れて、作りましょう」ちょっと考えて、妻もまもなく同意。こんな妻は大好き「こんなに早くですか?」5時前です。「いいんです、早くても」??訳の分からないことを言った気が、しないでも、ありません。
2005年03月30日
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日差しが残る夕暮れ町を歩いた。小さな町のわずかな繁華街を通り抜け駅前に出た。すれ違う人の顔付きはみんなはつらつと生きているように見えた。みんなの顔が、一様に、ステキに見えた。
2005年03月29日
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最近はイースター・エッグを装飾するフィルムをキリスト書店で売っている。土曜日の夜も、妻が「あっ忘れたわ」といって9時過ぎてから作り始めたけれど、手間が少なく、あっという間に出来てしまった。昔は日曜学校の子供達を、土曜日の午後に集めて、わいわいと作ったものだった。ゆで卵を作り、全体に食紅で色を付ける。それからローソクで思い思いに卵に書き付ける字や絵、模様それからまた食紅にくぐらせる。ほどよい暖かさのゆで卵は、ローソクの蝋を気持ちよく走らせる。ローが載った所が、浮き出るという仕組みだ。ユニークな作品が次々できあがったものだ。ボクだってがんばったものだった。(汗)ただ中まで色が染みこんでしまう欠点があった。それをきれいな小袋に入れて、イースター礼拝に来られたお客様達に差し上げるのだ。
2005年03月28日
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ページェントと言っても、ただみんなで台本を読み合わすだけですが、十字架と復活の場面をみんなで読み合わせて黙想したり賛美したりします。イエス様役の人が、しっかりと、心を込めて読んでくださったのが印象に残りました。このかたは、ご両親が信者さんですが、ご自分は「絶対に信じません」と言っておられる人です。ご両親はとうに天に召され、ご自分ももう70歳を越えられました。イースター礼拝に奥さんと、そして今回はお友達まで連れて、出かけてこられました。「ボクはイエス様役なんてイヤだ! ユダならヤッテもいい」そういわれたんですが、一人の信者さんが「ユダは、もうボクって決まっているんです」それで渋々・・・・でもすばらしかった。だれよりも一生懸命に読んでくださった。(台本は、右の自由ページに入れておきました)
2005年03月27日
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「あなた自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」キリストの言葉です。隣人を愛することの大切さを、お話下さいました。ボクは「あなた自身のように」というところで、考え込んでしまうことがあります。第1の理解「自分を愛することが大切であるように、あなたの隣人を愛することも、同じように大切です」第2の理解「自分を愛することには熱心でしょう。その熱心さは自分ではなく、隣人に向けなさい」「自分を愛する」ことを、果たしてキリストは喜んで下さるのでしょうか?他の箇所では、「自分を捨てなさい、自分を憎んで私に従ってきなさい」とおっしゃっているのです。「世の汚れを慕い、世の汚れに染まりやすいあなたを憎みなさい」と言われているのでしょうか。「あなた自身も、あなたが隣人にそうするように、愛しなさい。」ボクの心に、こんな風に響いてきました。自分を大切にすること、自分が「良い」と思うことを大切に行うこと。「キミのためにするのではない。自分のためにしているんだ。自分によいことを、ボクはしているんだ。」どんな善行も、愛の行いも、そのように励みたいと思う今日この頃です。 あしたはイースター(復活祭)です。
2005年03月26日
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年次総会の最後の時、あなたのお話(説教)がありました。その後ボクたちはまた、それぞれの任地に出発するのです。あなたは今、伝道生活のかたわら、自活のために警備員をなさっていますね。お話の終わりに、そのことが出てきました。 バス停で待っていた人々が、 自分の方を見ていたので 自分の顔に何か付いていたのかと、 いぶかった。 でも実際は、みなさんは、 バスが来る方を見ていた。 たまたまその方角で 自分が警備中だっただけ。 キリスト者も、脇見をしないで、 キリスト様が来られる方向を 見つめていなければならないと その事を通して感じた、と。そのようにお語りくださいました。ボクは自分の生活を振り返りました。一人の信徒として、キリスト様の方を見つめて生きてきただろうか。
2005年03月25日
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今日(3/25 日付が逆になりました)、キリスト教の暦では「受苦日」キリストが十字架にかかった記念日です。エルサレムの郊外の刑場「どくろの丘」(ゴルゴタ)で。聖書に記された、十字架の上のお言葉は7つ。(聖句は「口語訳」で)第1「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」ルカ福音書23章34節 彼を拒んで十字架に追いやった人々が、見ていました。キリストは彼らのために赦しを祈られました。「全人類への赦し」への神の意志、宣言的祈りと、理解されています。 第2「イエスは言われた、よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」ルカ23章43節 一緒に十字架に掛けられた一人への、キリストの呼びかけです。第3「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。ヨハネ19章26、27節 母マリアは悲しみにひしがれて、弟子のヨハネと共に十字架の側に。 キリストは二人にお語りになりました。この場所から、この言葉から、神の家族(教会)が始まっているのではないでしょうか。 第4「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか) キリストが語られたアラム語で記されています。余りにも印象が強かったのでしょう。 詩編22編の冒頭の御言葉。第5 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。ヨハネ19章28節 死に向かう人の渇き。また人の魂への「愛の乾き」があると思います第6「すべてが終わった」ヨハネ19章30節 新共同訳聖書では「成し遂げられた」と訳されています。彼が天国からこの世に遣わされてきた目的が達成されたという意味です。第7「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」ルカ23章46節 ボクたちの臨終も、御国の朝までの眠りであるなら、「じゃあね、お休み」
2005年03月24日
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3日間にわたる総会を終えました。妻は帰途に着きましたが、ボクは明日も所用があるので、とどまっています。ネットとつながる場所はないかと、ここ台東区の生涯学習センターを見つけました。2時間100円です。今やっているところです(笑)教団の総会での収穫は、仲間がいるって、どんなに嬉しい事か、わかったこと。ちゅにむはなにむ、キミもぼくのテーブルにきてくれた。ちゅにむの奥さんも素敵だね。
2005年03月23日
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昨日からキリストの受難週に入りました。日曜日 エルサレム入場キリストが弟子たちと一緒にエルサレムの町に行きます。ロバの子に乗られて、町に入られました。可笑しいね、ロバの子なんて。カッコイイ軍馬に乗って、「ぱかっ、ぱかっ」と、堂々とお入りになったのではなく、「ほれ、ほれ」と。 このカッコ悪さが何とも言えない! あばたもえくぼか?ああボクも・・・・もっと、もっと! キリスト様のように、かっこ悪く生きたい!
2005年03月21日
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人をコントロールしない人にコントロールされない神の前に立つ人は人に依存することから守られる神に依存し神に一心に祈る人はIndependence!そんな人々と一緒に生きる
2005年03月20日
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自治会長から電話があって「神社の社務所で、総会資料の綴じ方をします。よかったら お手伝いしてくれませんか」参じると、婦人会の面々がご奉仕に出動していた。8頁450部を、折ってからホチキス綴じ昼食をはさんで3時間半のお仕事だったみなさんがぐるっと回って、一枚ずつ8種類を重ねボクと会長が綴じる良く知った婦人会の重鎮が「やまひでさん、お幾つになった?」答えるのいやだな、と思い、もじもじしていたら「60歳の半ばでしょう?」「ええ、まぁ・・・・」帰ってから、家人に「ねぇ、60代の半ばに見られたけど、見えるのかなぁ」「見えないね」
2005年03月19日
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シーズンですね。何回も何回も通って来ました。小学校の卒業式の写真、校門の前で中学校の制服を着て、仲良し3人組が肩を組む目がはれぼったい。泣くに泣いた小学校の時今の教会を辞す時には、卒業式をやってもらいたいです。ボクと妻のために。「仰げば尊しわが師の恩~」は2人で歌いましょう。「わが師」とは、もちろん教会の兄弟姉妹のことです。
2005年03月18日
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今朝は「テモテへの手紙2」を読みました。「わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」1:8 使徒は弟子のテモテに、「私と一緒に苦しみを忍びなさい」と繰り返している。 教会での「役員の任職式」の時には、この箇所を読むように、式文に指示されている。 「あなたが主のため、教会のために苦しんでいる姿を見たことがありません。だから、この御言葉を読まれても、ボクたちには、よくわかりません」 ボクが役員さんの一人だったら、こんなふうに感じるかも知れません。 みなさんごめんね。これで良いと思っているわけではないのです。
2005年03月17日
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キミが5年間でなし終えたことをボクは50年かかってしようとしているんだ。でも50年かかっても、キミがしたようには、できそうにない。でも、それがボクに与えられた神様の恵みなら、ボクは大丈夫。
2005年03月16日
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「彼(テッド)は、12歳の時に拾ったポルノ雑誌がキッカケで性的倒錯の世界に入り込み、多くの女子学生を殺しました。」(「篠田均師を支える会」ニュースより) 連続殺人犯デッドが、死刑直前のインタビューの中で「証し」をしているビデオがあるそうです。(ファミリーフォーカス社「ユースセミナー」第7巻) 「証し」を聞いた編集者の言葉が続きます。 「私が最も印象に残ったのは、ポルノにしろタバコにしろ、中毒になり、その境界線を越えた先には「死」しかない、と言う言葉でした。」 ボクのことを言えば、中学生の頃見た映画の場面、一人の女性がブラジャーを外し、乳房が露出する場面を目にし、頭がくらくらするほどの刺激を受けました。 その時から、と言うわけでもないでしょうが、性的な刺激に敏感になりました。そういう世界をのぞかないことを、神様と約束をしても、もやもやした気分に襲われると、心が傾いていきます。 ネットの世界にはそういう誘惑や刺激があふれています。 繋ぎ、そこに浸り、それから秘密を隠すように履歴を消すのです。 自分の弱さを知ること、危険に近づかないこと、ボクは分別のある大人として、心を戒めます。また神様に絶えず助けを求めています。 しかし、戒めるもののいない若者、子供達は、どうしてその誘惑、その果ての自他の「死」を逃れることが出来るのでしょうか。
2005年03月15日
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信頼関係を構築するのは、10年はかかる。壊したければ、1分で大丈夫。
2005年03月14日
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「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、 わたしたちはいやされた。」イザヤ書53:5今朝は礼拝で、キリストが十字架刑の宣告を受ける所を、お話しいたしました。お話の中で、上のイザヤ書53章の聖句を長々と引用、朗読していたら胸がいっぱいになって読めなくなりました。ボクは最近「平和」という言葉が好きになりました。
2005年03月13日
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「病気と闘う時、私は苦しくなったり、悩んだり、弱くなったりしました。しかし神の言葉が私を救いました。私にはただ癒しを祈るだけでなく、神に従うこと、神を愛することが必要です。」 「能登一郎追悼集」より 骨に出来た悪性腫瘍のために36歳で召天 彗星のように登場して、またまく間に教会を建てあげ、駆け抜けて神の御元へ。 お父様から頂いた彼の追悼集を、最近また手に取りました。 彼はボクの後輩ですが、もう遙かな先輩となりました。 彼を励ましに病床を訪れた牧師には、こう語ったそうです。 「イエス様は私を愛しています。どうぞ心配しないでください。」
2005年03月12日
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今朝は雨のためか、バイクで来られる信徒の方は来られませんでした。「朝の祈り」が終わってから、一人で再び聖書を開き、「コロサイの信徒への手紙」に取り組みました。む、むずかしい~ たった4章6ページの小さな書簡を読むのに、30分以上かかってしまいました。内容がとても精緻で、1節1節は理解出来ても、大づかみになるとむずかしい。普通の手紙とは考えにくい。「黙想文」を読んでいるようです。それでも最後は手紙らしく消息を問うております。ただ一つのことだけは、よくわかりました。ボクが、この世のこと、地上のことに心を奪われすぎていること。心のフォーカスがゆるみ、心と行いの現実が、各部のネジのゆるんだノートパソコンのようになっていること。この手紙にそんなボクの姿が映りました。
2005年03月11日
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初めは、真ん中から右の方の腰が痛かったのに今は真ん中から左の方に痛みが移っている。起きる時は、杖の代わりに角材を体の中央に突き立てて両手で体をぐうっと持ち上げる。角材を引きずって歩いていたら「お父さん、モーセのようになったね」(妻)痛みは、まもなく終わるだろうと感じているが、受難節のさなか、キリストの十字架のお痛みを忍ぶよすがとなっている。がんばりやさんの妻が付いていると安心していたがその妻も「頭が痛い。脳圧が極端に上がったような気がする」と言って、昨日は早く寝てしまった。積んであった台所の洗い物朝起きたら片づけてあった。娘が頑張ってくれたんだな。
2005年03月10日
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今朝はフィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)を読んだ。使徒の晩年の手紙と言われている。若い頃から、この手紙が大好きだった。読みながら、行間から今朝の陽射しのようにきらきらと透明な光があふれてきた。パウロの心は、こんなにも澄み切っていたのか。神の手に、すべてを委ねられた人の思いが見えた。こんなにも澄み切って輝いていたのか。
2005年03月09日
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毎日の聖書の通読、時間を決めて読むこと「あのことの後は聖書を読む時間」そのようにして読み続けることは信徒にとっては「宝物の時間」を持つことだ。ボクの場合なら日曜日の礼拝のお話のヒントとなる聖句に不思議に出合わせられるのだ。信徒に限らず聖書に限らず何回も目を通す「座右の書」に出会えた人は、幸せな人だなぁ。
2005年03月08日
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ある本のページを繰りつつ、気づかされたクリスチャンとはどういう人かについてどのような状況でも、神との平和と希望に生きる人生きる目標についてわが身をもって神の栄光を現すこと ~私の生が長くあっても、短くあったとしても祈りについて「祈り」は、祈った通りに答えられなくても良い神に従う心が優先なら
2005年03月07日
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3月の声を聞いたというのに、腰痛を起こし、ちょっと落ち込んでいました。イタタッ箱根の集会ですばらしいたくさんのみ言葉を心に詰め込んできたはずなのに・・・・「好事、魔多し」とは本当だ(苦笑)3月はいいなぁ冷たい風を尻目に光の乱舞が始まっている。今日は休もうかと思っていたが、光の色に誘われて、フトンの中にいるのが苦痛になった。
2005年03月03日
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朝の祈りが終わると妻は犬の散歩に出るボクは朝食の支度を担当する目玉焼きおみおつけ納豆板のり梅干などが定番なのだがそれはレコードをかけながらの楽しみ1面が終わるとだいたい朝8時となって、妻が帰るのだ今はベートーベンの弦楽四重奏曲全集を、順番にかけている演奏は「バリリ・カルテット」という昔の演奏者でレコードもモノラルだ30年前に買ったプレーヤーは、マイクロ製のシリーズ最安値のものだったが、それでもアームを載せながら回るアナログレコードの優雅さはたとえようもない針を落とす時のときめきや曲が終わってピックアップを上げに走る緊張は若い時から変わらない幸福感に浸る時だ
2005年03月02日
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冷たい冷たい雨傘を差して、銀行まで通帳記入に出かけた腰痛を起こしたのは、運動不足かと往復2キロを歩いたがちょっと無理だった治りかけた腰痛をぶり返してしまった
2005年03月01日
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