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アンドレ・ジード(Andre Gide;1869-1951)の著作を読むと、しばしば自分の書いた手紙を大切におもっている記述に出会う。いささか尋常ではないほど執着していて、たとえば妻に宛てた手紙が妻によって失われたと知ったときの落胆は甚だしい。つまりジードは自分の手紙を最も重要な文学活動と位置付けているのである。このことは、ジードから離れて、フランス文学における作家の文学活動というものがどのようなことを指しているかを我々におしえている。日常的に自発する言葉を書きとめてゆくこと・・・それこそが文学的な活動というものである、と。 しかし、ジードが特別なのは、妻に宛てた手紙を妻が保存することを要求していることだ。手紙を受け取った人にすれば随分しんどいことだ。 こんなことから書き始めたというのも、私はこのブログ日記でたびたび「資料保存箱」ということを言ってきた。お客様のなかには、「資料保存箱」って何だと思った方もあったかもしれない。それは私の創作的なさまざまな活動記録を保存してある箱である。トタン張りの茶箱が大中2個。金属製の大型ケース1個。ダンボール箱が20個以上。 小学校時代の蝶や植物の標本、あるいは中学時代の文章原稿もある。箱には〈高校時代の演劇活動関係〉などと、箱を開けなくても分るように名札が貼付けてある。中学生のときから親許を離れていたので、母から届いた手紙の束もあれば、大学時代の大学ノート数十冊の日記帳もある。もちろんイラストレーターとして仕事を始める前の習作もあるし、プロフェッショナルになってからの創作メモや印刷物も保存してある。 子供時代の物を保存していることに驚かれる(呆れられる)方があるかもしれないが、じつは小学1年から2年生にかけての絵日記数十冊は失われてしまった。両親の家に預けてあったのだが、私が大学生の頃、両親がそれらをすべて焼却してしまったのである。後に私はそれを知って、ジードではないが呆然としてしまった。それらの日記には私の人生の最初の先生である樋口カエ子先生のほとんど毎日毎日のコメントが記されていたのだった。両親さえ理解できなかった私という子供を、全面的に厚く保護し、科学精神を育み思考を育み創造力を育んでくれた唯一の人。自分の書くもの作るものは一切合切を先生に見せたくてたまらず、毎日毎日学校に持ってゆくのを、過重な労働となることをまったく顔にも出さず下校時までに丁寧なコメントを赤インクで書いてくださった。その何にも代えがたい先生の文字が、煙となって消えてしまったのである。まさか両親はジードの妻のように私の日記を保存することがしんどかったのでもあるまいが。 焼却を免れた物が、いま保存箱に入れてある。もちろん保存してあるからといって、普段そんな物を開けて見ることはない。意外と思われるかもしれないが、私はあまり自己執着がはげしくはないのだ。思い出を懐かしむセンチメンタリズムもない。また、記憶がよいので、いつどこで自分が何を行ない何を発言したかは、記録に当らなくとも概ね覚えている。 ではなぜ保存しているのか。記録された事実が、常に私に刃をつきつける。突き付けられることによって、創造空間がひらけてゆく。逃げ場がないので、創造空間に逃げるのかもしれない。いや、なにより、私はそれらの記録資料によって、過去の私自身の考えをすこしづつながらも乗り越えることができるような気がしているのである。〈昭和28年1月8日の消印がある樋口カエ子先生からの年賀状。私は小学1年生。〉
May 31, 2007
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食べ物の味には人それぞれの好みがあるので、一概に自分の好みを押し付けるわけにはゆかない。たとえば私には某有名高級中華料理店の味は、塩気がきつすぎて、ちっとも旨くない。「超一流」などと言ってもてはやす人たちの気が知れないのだ。また、「うまさ」と「あまさ」を取り違えている店もある。いや、これは個々の店の問題ばかりではなく、スーパーマケットで売られているような一般食品にも言えることで、添加物として砂糖が加えられていない物はないほどである。いつであったか、お惣菜のコーナーにあるフライド・フィッシュのパッケージを手にとり、何が使用されているのか見たところ、なんと砂糖と表示してあったので驚いてしまった。薄気味悪いものを売っていることよ、と。 食材の「うまみ」ということを心得ていれば、そしてその引出し方を心得ていれば、ことさら砂糖など使わなくても十分旨さも甘さもでてくるものだ。第一、和食でも、砂糖を使い過ぎると味が下品になる。 しかし、使わずともいいところに砂糖を使った食品が売場を席巻しているということは、多くの日本人の味覚がそれを旨いと思うようになってしまっているからであろう。こうなっては、改めろと言っても改まるものでもあるまい。 ところで近年私が「これはどういう感覚なんだ?」と思い、しかもあまり愉快ではないことだと思っていることに、パンの味がある。味と言うか、食感だ。口のなかでグチャラグチャラする、キレの悪い食感である。 「モチモチ感」と言うらしい。餅のような粘っこい食感ということだろう。 テレビのコマーシャルでもさかんにその「モチモチ感」を強調しているのにお目にかかる。それが販売戦略としての大切な特徴なのだ。 私は、この食感が気にくわない。食感が気にくわないということは、「不味い」ということである。餅は好きだ。日頃からよく食べる。糯米(もちごめ)を蒸し、叩き、捏ねることによって生じる特有の食感、すなわち「モチモチ感」が餅という食品をすばらしいものにしているのだ。が、パンは小麦粉を捏ねて叩いて焼くことによって、「モチモチ感」とはまったく別な食感が生じる。どちらかというと「サクサク感」である。 パンにもいろいろな種類がある。国柄もある。フランスのパンとイギリスのパンでは食味がことなる。それは使用している小麦粉のちがいによるところが大きいし、もちろん製法のちがいにもよる。 昔、越路吹雪さんがテレビ番組『徹子の部屋』に出演し、夫妻で毎年外国旅行をされることを話したことがある。その話のなかで、パリに行くと御主人がいつも口のなかを怪我するのだと笑っていた。ホテルのパンがやたらに固いことが原因なのだ、と。私はこの話がおもしろくて、30年くらい前のことなのにいまだに記憶している。じつは私にも同じ経験があったのだ。・・・フランスを旅行した方なら必ずや見かけたことがおありだろうが、朝、バケットを小脇にはさんだり籠にいれたりしてパン屋から出てくる姿は、われわれ日本人にはいかにもフランスらしい光景で、なんとなく嬉しくなってしまう。パン屋さんは随分早朝からパンを焼きはじめているようだ。いや、フランスのパン屋さんは一日に何度もこまめにパンを焼いているのだが、これは売れるから焼くのではない。もちろん売れるからではあるのだが、もっと別の重要な理由があるのだ。それは、フランスのパン用小麦粉の特質に由来することである。フランスの小麦粉は、パンにして焼いてしばらくたつと、コチコチに固くなりはじめるという特質がある。したがって焼き立ての柔らかいパンを提供するために、パン屋さんは一日中忙しくパン焼きに精をださなければならない。越路さんの御主人や私が固いパンに閉口したというのは、たぶん焼いてから時間が経ってしまったものを出されたのだ。 ついでだから重要なことを述べておこう。フランスのパンがこのような特質を伝統のように保持しているのは、パン用の小麦は自国産のものでまかなうという大前提があるからである。固くなりやすいということを、他国から別種の小麦を輸入して柔らかく変えようとは考えない。なぜか? 改善という名のもとにこの一点を崩すと、国内の小麦生産ひいては国内農業全体を破壊しかねないからである。だからパンが固いことを食の伝統ときめこんで自国産小麦を使う、それが最も大切なのだと考えるわけだ。 フランスばかりではなく、いわゆる先進国と称する国々はできるだけ食糧自給率を高めることに努力していて、ヨーロッパではもっとも低いといわれるイギリスでも確か50パーセントは維持しているはずだ。ところが我が日本は、自給率20パーセントに満たない。「先進国」としては最下位である。つまり自国産食糧に頼ると国民のわずか2割しか養えない国なのだ。この事実をどれだけの国民が明確に認識しているだろう。日本はまさに今、戦争への道を開こうとしているが、事がおこって輸入食糧が閉ざされると、餓えによって自滅して行くしかない。かつての南方戦線や餓島(ガトウ)と呼ばれたガダルカナル島の哀れで無惨な兵士たちの末路は、この日本本土そのものの運命となって降りかかって来るはずだ。日本の満腹・飽食は他国からの食糧で成り立っている。日本は徹底した平和外交の道を選択するしかないはずなのだ。そのことはパン一枚の小麦粉を各国事情で比較してみるだけで、国の政策のなんたるかが分るのである。 このようなことを代々いずれの政府も口を閉ざしてきた。おそらく生き延びる2割のなかにちゃっかり自分達を優先的に位置付けているのであろう。いや、冗談を言っているのではない。そのような日本の政治意識をはしなくもポロリと漏らしてしまったことが最近起ったではないか。インフルエンザが世界的に蔓延の傾向にあるが、それに対処するためのワクチンの貯蔵が絶対的に少ない。そこで政府はワクチン使用の優先順位をもうけた。誰が一番先にワクチンを接種するかの順位を定めたのだ。もちろん政治家が一番先である。私のようなゲイジュツカ、概して文化人は、数にも入っていない。 こういう国民をないがしろにしたプライオリティー(優先順位)の付け方に、日本政治が歴史的に有してきた無意識的な棄民思想が透けて見える。先進国ということばを再び使えば、いわゆる先進国のなかで国政のきわめて深い無意識的領域に棄民思想が横たわっているというのは、おそらくきわめて珍しい。誰の為の政治をやるのか? 現代国家論としては、日本政治は前近代的な「野蛮性」を残している、と私はみているのである。無意識的領域にあるので、克服が難しいことも言っておこう。 さて、パンの「サクサク感」に話をもどそう。いささか気の重い話になってきたので。 パンの「サクサク感」だが、これはイギリスのパンを例にとるとよい。私はパンをトーストしてバタを塗ったり、スライスしたチーズをのっけて食べるのが好きなのだが、トーストというのはどうやらイギリスの習慣らしい。イギリス人は、トーストしたパンのラスクのような「サクサク」した食感を好むのだという。ラスクのようなというのが肝心である。もしイギリスに行き由緒あるホテルで食事をされたら、間違い無くこのラスクのようなトーストが食べられるはずだ。バタを塗るもよし、しかし、食通を自負するなら何もつけないでまさにラスクのように食べるのがよろしかろう。 近年、日本の大手パン・メーカーのパンに、この「サクサク感」がなくなってしまった。日本らしさを追求したあげくでもあるまいとか思うが、餅のような粘っこい食感のパンが主流となっているようだ。こんなところにナショナリズムは御免だナー。歯切れの悪いパンを、「モチモチ感」などと言ってゴマカシテいるようにしか思えないんだナー、私には。 朝食に、音も爽やかな、ラスクのようなトーストを食べたいものだ。メーカーさん、あまりヘンな味覚の追究はしないでくださいよ。
May 30, 2007
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新作能『オンディーヌ』の制作会議用の3回目のフライアーである。制作過程で未定の部分がたくさんあり、次第にそれらが決定してゆく。たとえば出演者交渉等である。制作サイドが望む出演者がスケジュール調整がうまくゆかず変更しなければならなくなる。力量ある演者をそろえたいのは当然で、交渉は難航する。あるいはスポンサーがあらたに決定する場合もある。 デザインする側としては、すべての情報がそろってからデザインするほうが良いにきまっている。しかしそうも言っていられない場合も多々あるにはあるのだ。今回もその例にあたるだろう。追加される情報を、次々にいかにレイアウトしてゆくか。まあ、私としてはこういう状況をおもしろがるしかあるまい。
May 29, 2007
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「ニャギャー! ニャギョアー!」とパニックになった猫の叫び。「また行ったな」と思いながら、私は階下におりていった。裏窓から塀越しに隣家を見やると、案の状、うちの猫フクがお隣さんの窓辺に坐っている。叫んでいるのはお隣さんの猫。出窓でガラス越しに外をながめていたのであろう。そこへフクが塀のうえからヒョイと飛び降りた。びっくりした隣猫クンは「ニャギャー!!」と叫んだのだ。 隣猫クン、部屋の中で飼われていて、御主人の若い夫婦が、朝、ともに出かけてしまうと、終日ひとりぼっちで夜まで留守番になる。せめて出窓で陽をあびながら戸外をながめているしかない。 若夫婦がその猫クンを飼いはじめたことを、私はすぐに気がついていた。ブリティッシュ・ショートヘアと思える、なかなか立派な猫クンである。だが、窓辺に坐っているその顔は、閉じ込められて飼育されているせいか、いかにも覇気がない。活き活きした眼の輝きがないのだった。 それにくらべて我家の5匹の猫たち、マリ、マスク、リコ、サチ、フクは二階のベランダから物置きの屋根に飛び降りたり、庭を歩き回ったり、塀から塀を綱渡りのように歩いて隣家の周囲を散歩したり、自由気侭にそだっている。そのせいか感情の表出もきわめて豊かだ。 フクは隣家の窓辺に見慣れぬ猫クンがいるので、好奇心いっぱいになって遊びに行ったのであろう。ところが、あにはからんや、パニックをおこさせてしまった。猫クンは前足で窓ガラスを叩きながら出窓を右往左往している。 私は裏窓を開けてフクを呼んだ。フクは手摺の隙間から首をこちらに出そうとするのだが、その動きにさえ隣猫クンは脅威をおぼえてガラスを引っ掻きながら泣叫ぶ。するとフクはまたそちらに向う。「フクおいで」と何度呼んでも聞き流している。私は手をたたいて音を出し、すこし声を荒げるように怒った。 そんなことを数度繰り返し、ようやくフクはこちらの塀にもどってきた。私は窓から「おいでおいで」と招いた。が、フクはそのまま塀のうえを歩いて私の視界から消えた。 じつは、こんなことは今日で3度目である。過去2度は、呼ぶと、意外に早くもどってきた。そして、怒られたと思うのであろう、普段と違う声質で鳴きながら寄ってきた。人間の幼児にそうするように、「フクは可愛い可愛い。良い子だね」と頭をなでてやると、それで安心するらしかった。 ところが、きょうは様子がちがった。塀の上を歩いて姿を消したフクは、しばらく後に二階の私の部屋のベランダに姿をあらわした。窓が少し開いていたので、そこから室内をのぞいた。「フク、おいで。怒ったんじゃないよ、フクは良い子だものね」と私は声をかけた。するとフクはプイと横を向いたのである。それから私と目をあわせないようにベランダを移動した。自分は何も悪いことをしていないのに・・・という明らかな表情だった。 「まったく、人間と同じだわい」と私は思った。 昼過ぎ、御飯を食べにやってきたフクはもう機嫌をなおしていた。私は缶詰をあけて皿にいれ、手で掬って食べさせてやった。「おいしいねー。フクは可愛いねー」と言いながら。
May 28, 2007
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きょうは朝も早よから、私ャ町内を走りまわっていたぞなもし。年2回の市内一斉清掃、その第1回目。夏前に町内をきれいさっぱりにする。普段、家周りの掃除ではなかなか手をつけない道路側溝の土砂さらいや、雑草を摘み取ってしまおうというわけだ。市の環境整備予算でまかなわれている。 私は町内自治会の選挙で衛生担当役員に選ばれた。エライコッチャと内心に思いながら、市との連絡や、この日のための特別ゴミ袋や土砂袋を各地区に配布。 走り回ったのには、じつは理由があった。町内400戸といっても、すべてを把握しているわけではない。400戸を14区域に小分けしているのだが、1区が60戸という大所帯から、10戸ほどのところもあり、ゴミ袋を私の家に運んでもらうためのあらかじめの市への申請に私の勘違いがあった。申請した数が少なかったのだ。弱ったぞと思っていたら、前任者がやってきて、自治会の倉庫に前年度使用しなかった分がそのままストックしてあるはずだという。倉庫を開けてみると、アラ嬉しや、2年分くらいはたっぷり残っていた。ソレっとばかり、袋の束をかかえて不足している区域に再配布して回ったのである。 わが町内は坂の街である。そこを走った、走った。こんなに走ったのは何十年ぶりか。暑さは暑し、キャップを冠っているその顳かみに汗がしたたった。しかし、・・・「ウン?」・・・わが心臓はびくともせんじゃないか! 清掃とは何の関係もない感想が頭をよぎる。ゴミ袋を配布した後は、清掃終了をみはからって再び、こんどはゴミがきちんと分別されているか、土砂が別の袋に入れられていないかを点検してまわる。 あるある、土砂が普通のビニール袋に入れられている。それらを土砂袋に入れ替える。そんな作業を一人でしながら、朝7時半から10時半まで、エライコッチャの仕事をしましたぞなもし。 いま、寝室の枕許に半藤一利著『漱石先生ぞなもし』を置いている。夏目漱石の『坊ちゃん』その他をめぐる短いエッセーを一本にまとめたもの。それを読んでいるので、ついつい言葉が染(うつ)ってしまいましたぞなもし。
May 27, 2007
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少年時代のある資料の存在を尋ねられ、「さて?」と思いながら昔の資料保存箱のひとつを引っぱりだして探した。目当ての物はまだ見つからない。が、以前このブログ日記で書いたことがある、中学生時代にお目にかかった作曲家・故芥川也寸志氏と元首相・故岸信介氏の御署名が出たきた。 芥川也寸志氏はご承知とは思うが、芥川龍之介の御子息である。サインには1959年5月17日と記されているから、私は14才の誕生日を迎えたばかり。芥川氏は新日本フィルを率いて「未完成交響曲」や「田園」や「ラデツキー行進曲」を演奏した。私にとって初めての交響楽団の生演奏だった。私はそれ以来、クラシックに夢中になり、学校の音楽室の戸棚に雑然と積まれていた数十枚のSPレコードを、放課後、たった一人で放送室で聞き入ったものだ。廊下を歩きながら知らず知らず指揮者のように腕をふるので、クラスの女の子から、「山田さんは遠くから姿を見ただけで、すぐ分る」と笑われた。 そんなわけで芥川也寸志氏に楽屋でおめにかかれたことは、少年時代の豊かな思いでとして、50年近く経た現在でもまざまざと目裏によみがえってくるのである。 岸信介氏に御署名を頂戴したのも中学生のとき。そのときのことについても、すでにこのブログに書いている(05年9月8日「怪物の微笑」)。私はベージュ色のコートを着ていたことは覚えているので、冬であったことは確かだが、はっきりした日月は忘れていた。いま、サインのある手帖のページが12月の20日から23日にあたっている。たぶんそのいずれかの日であったのだろうと思う。 まあ、お客様にとってはつまらない、私の少年時代の思いでだが、ちょっとおつきあい下さい。
May 26, 2007
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2日間このブログ日記を休筆し、新作(F50号;117×91cm)の準備をしていた。7月末の完成をめざす。その間に『オンディーヌ』の一般用のフライアーとポスターの印刷がある。 制作会議用のフライアーは、海外におけるプロモートの話がもちあがったため、急遽、〈Ondine〉という欧文書体を薄色で透明になるように入れた。 閑話休題 庭木が手入れをしないまま伸び放題に茂り、隣家を侵犯しはじめているので、今朝、敷地の境側を少し剪定した。茱萸(グミ)が大きな赤い実をつけている。それに見とれながら剪定鋏をパチンとやったところ、思いきり右手の小指の腹をはさんでしまった。みるみる内出血して2個の血豆になった。痛みはじきに引いたが、小指の感覚がもりあがった血豆のためにもどかしい。コンピューターのキーボードが操作しにくい。 いまこの日記を書きはじめる前に、いらいら癇癪気味にプヨプヨした半球に爪をたてて千切るように傷をつけた。ピュっと血が吹きだして、みごと血豆は消失した。痛みもない。 傷に弱い人と強い人がある。私はどちらかというと強いほうだ。もちろんある程度の観察と判断してのことだが、白い筋が見えるような深傷を負ったときも、医者に行きもせず、繃帯を巻いただけですませてしまった。さすがに傷が目立たなくなるまでは半年もかかったが、傷口はすぐに癒着してしまった。止血するのもいたって早い。たぶん血小板の性能がいいのだろうと、勝手に思っているのである。 血豆をつぶした痕も、1時間ばかりたって、いまやただ少しばかり色が変わっているだけである。
May 24, 2007
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新作能『オンディーヌ』(作・本間生夫、演出・梅若猶彦、監修・観世銕之丞)のポスター原画の写真撮影も終わり、デザインにとりかかった。 まずは制作会議等における資料としてのフライアーのデザイン。この後に、宣伝用のフライアーをつくり、ポスターをつくることになる。 制作過程をご覧ください。(1) 油彩原画(80.3cm×65.2cm)(2) 原画の一部をCG加工したもの この後さらに加工するかもしれないが、つづいて文字情報のレイアウト。(3) レイアウト試案
May 21, 2007
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天気は良し、さほど暑いというほどでもない今日、日曜日。家族で調布市神代植物公園で開催されているバラのフェスタに行こうということになった。 深大寺の東参道から入り、植物園前の駐車場に向った。ところが車はじきにストップしてしまった。植物園まではものの500メートルほどなのだが、大渋滞なのだ。なんとこの距離を35分かかった。しかも以前の駐車場は、現在、東京都のいたるところで実施されている道路拡幅工事で、廃止消滅していた。渋滞の原因はこれであったか。 これから駐車場を探して、しかも植物園までかなり歩かなければならないとなれば、抱えられて歩いている88歳の老母にはとても無理。体力も限界だ。 「やめよう。到着しても、園内を散策できないだろう」 一同納得して、帰路につく。混雑をさけて知らない脇道にはいったりするうちに、薮のなかで忽然と消える道に迷い込んだ。クルリクルリと元にもどってリセット。そうこうするうちにどうやら住宅街から国道に出た。ほっとして、途中で和食のレストランに立ち寄って、少し早めの夕食。 という次第で、すこし奇妙なドライヴになった。なんのことはない、ただ夕食のために、数時間外出したようなものだ。
May 20, 2007
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昼前に新橋のスタジオにポスター原画を搬入。カメラマンに無理を聞いてもらい、月曜日までに仕上げてもらうことにした。これまでにもこちらのスケジュールに合わせる無理を言ってきた。感謝。 私はすぐに寄り道もせずに帰途につく。いまのうちに休養しておこうというわけだ。この一週間というもの十分な睡眠をとっていなかった。原画を4日間で仕上げたけれど、もし1日8時間労働とするなら、8日間分の仕事量に匹敵する。しかし、こういうスケジュール、私はそう嫌いでもない。 帰途、眠くならないように何かおもしろい光景はないものかと街を見ていた。すると、見つけましたがナ。ある喫茶店の入口の上に掲げられた店名表示。 〈珈琲 はうす〉と書いてある。「琲」と「は」との間が微妙にあいている。そのあきかたが気になった。〈珈琲 はうす〉は、〈珈琲House(ハウス)〉という意味であろう。おしゃれ感を出すためにカタカナでなく、ひらがなで「はうす」としたに違い無い。 ところが看板を書くときになって、ハタと気がついたのだろう。もしこれを〈珈琲はうす〉と、くっつけて書いたなら、お客さんは、「珈琲は薄」と読むかもしれない、と。オイオイ、この喫茶店は薄いコーヒーを出すのか?! それに気がついた看板屋さんは、「珈琲」と「はうす」との間を微妙にあけたわけだ!! ・・・いかがです?私の推理は。絶対そうだよ。あの間は! 私はひとりでニヤニヤ笑ってしまったのだった。 閑話休題 この日記に取りかかる前、午後10時から11時30分まで、NHK・TVで『神様がくれた時間;映画監督・岡本喜八と妻みね子』を見ていた。みね子夫人のインタヴューと、一部監督の癌闘病の日々を大谷直子さんと本田博太郎さんが演じる再現ドラマとで構成されていた。 私は少年時代から岡本作品をずいぶん見ている。八総鉱山小学校の講堂が土曜日の夜に映画館に変わる、その今も目に鮮やかに浮ぶスクリーンで、『暗黒街の顔役』や『独立愚連隊』や『独立愚連隊西へ』を見た。大学入学以後、東京に住むようになったが、今はない新宿のATG(アート・シアター・ギルド)で『肉弾』を見たときの感激も忘れていない。『日本の一番長い日』もある。 じつは、3年前の3月のこと、私はある映画化の企画について相談されて、まだ海のものとも山のものとも分らなかったが、さるプロデュサーに会った。話を聞きながら、これは実現がむずかしいだろうと思いながら、私は岡本喜八監督が撮るなら成功するにちがいないと、岡本監督にコンタクトをとるように勧めた。この会合のとき、私は保存していた36年前の『肉弾』のプログラムを持参していた。 そのプログラムにはシナリオが採録されていた。私はそのシナリオのあるシーンを示しながら、いま持ち上がっている企画が、かならずしも岡本監督の内的な部分と無縁ではないのではないかと私の分析を説明した。もしかするとそれは岡本喜八監督の映画作品の系列の書かれるべくして未だ書かれざる、いわば映画作家としてのミッシング・リングではないか?というのが、私の考えだった。 プロデューサーは後日、岡本監督に電話をしたらしい。そして、その返事は、「現在、とりかかっている仕事があり、お引き受けできない」というものだったらしい。 岡本監督自身が電話にでられたのか、それとも喜八プロダクションとしての返事だったのかは不明だ。それはともかく、その返事を聞いて私は、私自身がおめにかかってお話ししたいものだと心ひそかに思い、いささか忸怩たる気持になった。 たぶんこのときすでに監督は癌を告知されていらしたのだ。それをきょうのTVで知った。事情を知らないプロデューサーが、私の勧めるままに電話した、ちょうど1年後に監督は亡くなっている。平成17年2月19日の正午過ぎだそうだ。 監督がその亡くなる直前まで夫人とともに心血をそそいで取り組んでいたシナリオが、『幻燈 辻馬車』であった。山田風太郎の原作である。幕末から明治維新にかけてかつての会津藩士が辻馬車の馭者となって奇想天外な活躍をする物語。会津藩士には仲代達矢氏が予定されていたらしい。 そうか、監督が「現在、とりかかっている仕事がある」とおっしゃったのは、この『幻燈 辻馬車』であったか。 ・・・いや、それならばなおのこと、私が『肉弾』のシナリオを分析して得た考えが、さほどまちがっていなかったことになる。幕末から明治維新にかけてという時代設定は、私が相談をされた企画とまさにピタリと一致しているのだった。 『幻燈 辻馬車』はついに実現されなかったわけだが、私の勝手な夢として、もう一本「幻」の作品があった。現実には岡本喜八監督にはつながらなかったけれども。
May 18, 2007
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新作能のためのポスター原画が完成した。キャンバス・サイズで80.3cm×65.2cm(F25号)。実質4日間で仕上げたわけだが、ここまでは予定どおり。明日、写真撮影のためにスタジオに搬入する。 その後、デザインにとりかかる。まずはフライヤー(A4判)のデザイン。原画の一部分をCG加工し、そのうえで文字情報をレイアウトしてゆく。仕事はまだ半ばである。 今夜はこれで休憩としよう。 製作過程を可能なかぎりこのブログに図像を掲載してゆくつもりです。
May 17, 2007
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原画の実製作は三日目になり、細部描写に入った。もう少しゆっくり筆を進めたい部分もあるのだが、そうも言っていられない。写真撮影もしなければならないうえに、私の手を離れての作業、・・・撮影や本番印刷に要する絶対的な時間のなかに土日を加えるわけにはゆかないからだ。 そんなわけで今月30日までの時間のなかから土日分の4日間をのぞくと、他人まかせにできない分を私がフル回転しなければなるまい。明日1日で原画ができあがることを目指して、・・・それ、また仕事にとりかかなければ!
May 16, 2007
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「天気雨」という言葉が口をついて出たのは、いったい何年ぶりのことだろう。ふとそんなことを思った。今日の東京はいささか奇妙な天候だった。明方に就寝したので、まだぐっすり眠っていた私の寝室に、階下から母が電話を掛けてきた。「雨がひどく降りはじめているのだけれど・・・」 つまり花の鉢を屋内に取り込まなくてもいいのか、という意味だ。起床して、雷鳴がとどろく庭に出、大小20鉢もの花を取り込んだ。隣家の夫人の言うとおり、急にたくさんの種類の花がふえた。ふえたのはいいが、雨に弱い花もあり、大降りのときはせっせと屋内に運び込んでいる。たいへんだけれど、しかし手数をかけるせいか、花も長持して3ヵ月4ヵ月と元気で咲きつづけている。 午後2時ごろには、雨もあがった。やがて明るい日射しがもどり、このところつぎつぎに咲き始めている薔薇が、光のなかにひときはすばらしい。直径8~10cmの薔薇の花が20ばかりある。 ところが、ものの1時間ほど経ったころ、明々(あかあか)とした日射しにもかかわらず意外に強い雨が降りはじめたのである。通りをセールスマンらしい青年がずぶ濡れになって行く。まさに天気雨だ。空をあおぐと、東南の彼方に暗い雨雲があった。いま、我家のあたりはその先走りなのであろう。 子供のころ、半身が晴、半身が雨になる所はないものか、と空想したものだ。そうくっきりと分かれはしないが、もちろん晴と雨の境はある。車で走っていると、しばしばそのようなことを経験する。雨ばかりではない。雪でも経験したことがある。「雨雲を抜けると晴だった」とは、川端康成も青ざめる言い換え。しかし、「天気雨」という言葉は、ずいぶん長い間使っていなかったと思った。
May 15, 2007
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昼食後からポスター原画の製作にとりかかり、ただいま15日の午前1時、ほとんど仕事場にとじこもっていた。 キャンバスの全面に貼った銀箔の準備がととのったので、下絵を線描。すぐに油彩で最初の着色にかかった。時間の余裕がまったく無いので、乾燥を考えてもっとも描写しなければならないところから下塗りしてゆく。メディウムにはテレピン・オイルを危険がない程度に少々多めに加える。これも乾燥を速めるためである。 透明性の絵具をブラシ・ストロークをきかせて下の銀箔の効果を出す部分。しかし、刷毛目を消したい部分は、普通ならファン・ブラシを使うのだが、銀箔が露出するのでそれを使うことができない。不透明性の絵具を指でのばしてゆく。 ポスターの原画は文字情報が入るので、普通の絵画作品の製作とはある部分おおいに異なる。つまり文字情報が主なのであって、その主部はキャンバス上には実現されず、頭のなかにしかない。頭のなかにしかないことを引き立てるための従たる部分を描いているわけだ。描いていると、どうしても「絵」として完成したくなるものだが、そうならないような抑制が必要なのである。かと言って、絵がなくてもいいというような絵でもだめである。ポスター製作のおもしろさは、じつはそういう「兼合い」なのだ。 さて、一応ほとんど全面に色が入ったところで、きょうの仕事はここまで。
May 14, 2007
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日本画の画材であるが、純金泥が使いたくなった。比較的近くにある某画材店の支店に、電話で在庫を問い合わせると、「ある」という返事。昼食後にでかけた。 もう夏である。ある商店の軒下にツバメがやってきていた。立ち止まって見上げると、モルタル壁にちょっと妙なぐあいに梁が突き出ていて、それと屋根廂とのすきまに、お椀を半分にしたような見事な形の泥の巣があった。私がかつて見たどのツバメの巣よりもこじんまりしていると思えたが、形の美しさはまるで陶工の作のようである。その巣に、意外に大柄なツバメがサッと入っていった。 どのような由来か知らないが、ツバメが巣をかける家は栄えると言われている。その家では決して巣を壊さないものだ。昔住んでいた町の自転車屋の真正面の軒下にも、大きなツバメの巣がかかっていた。ツバメが飛来するのを店主が嬉しそうに見上げていたことを思い出す。ツバメの方は巣作りの場所を厳密に選択しているに違いない。たぶんその家の人たちのある種の人間性さえも。 ツバメの飛翔する姿は美しい。截然と空を切るの感がある。 そういえば、私が子供のころ、特急「つばめ」という列車が走っていた。東海道・山陽本線だったろうか。当時、世界文化社が刊行していた『科学大観』の「交通」編に、特急「つばめ」の展望車の写真が掲載されていたことを思い出した。この車体はどこかに保存されているのだろうか。ブログをお訪ねくださる鉄道ファン(「鉄」と称するらしい)のnotoshunさんなら御存知かもしれない。 さて、今日は「母の日」である。画材店からの帰途、花屋でカーネーションの鉢を買い、夕食に「海鮮ちらし寿司」を作ってあげようと思い、その材料も買込んだ。 帰宅してカーネーションを贈り、そのまま仕事場に入ってしまったが、数時間後、弟もカーネーションの鉢とケーキをプレゼントしたようだった。 夕食のとき、母が笑いながら「自分がもらったカーネーションの鉢だけ、家の中にとりこんでおいた」と言った。後ほど玄関を見ると、なるほど棚のうえに二つのカーネーションの鉢がならんでいた。
May 13, 2007
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多忙のなか、町内会回覧用の告知プリントを2種60部作成。30のファイルに分けて、それぞれの区域で全400戸に回覧してもらうため。そして月の第2土曜日、すなわち今夕7時から9時までは、定例役員会議。2時間目一杯、大事小事を話し合う。前回はつい先日だったのにと思い、日のめぐりの早さにあきれるのだが、毎回いろいろなことが出てくるものだ。 私をふくめた今年の役員は、仕事の軽量化をはかり、経費の削減を計っている。これをやめよう、あれもやめようと、かつての役員方からは何もやらない人たちだといわれそうだ。が、なにしろ一介の町内会の毎年の支出が500万円になる。町内会費でまかなっているのだが、収入をうわまわる支出となっている。毎年の累積赤字は、いまのところ大きな額の貯蓄があり、それを切り崩しておぎなってきた。しかし、このままゆくと数年後には財政破綻にいたるのは目にみえている。いままで、誰もそのことについて真剣に考えてこなかったのだ。今年の役員が初めてそれに気がつき、町内会費の値上げをせずに、収支をトントンにもってゆくための実際的なアイデアを検討しはじめたわけである。 どこかの国、どこかの地方自治体のようなことを言っているが、実際、我が全400戸の町内会といえど、なるほど上部構造のなかのミニチュアなのだと納得する。 さてさて、それはそれとして、頭を切換えて本業の仕事にとりかかることにしよう。
May 13, 2007
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新作能『オンディーヌ』の出演者情報がとどいた。広告製作のための文字情報はまだすべてがそろってはいないが、チラシは今月30日までには完成品がほしいとのこと。私としては2週間以内にすべての作業を終了させなければならない。 キャンバスのサイズで25号(80.3cm×65.2cm)の油彩による原画を描こうと思っている。時間の余裕がない。まだイメージは確定していないが、色彩の設計はできているので、さきほど下地の下地となる塗りをすませたところだ。乾いたところで銀箔を貼り、それを下地として着彩していくつもり。 時間がないので、塗を重ねて色の深みを出すことができない。乾燥させることができないからだ。そのため金属の発する力、今回は銀の力を利用しようというわけである。 とはいえ、描きたいイメージはなかなか複雑で、色を忍ばせたり励起させたりして表現しなければならない。てこずるようなことを仕組めば仕組むほど、私のエネルギーが掻き立てられる。逆にいえば、短期間で集中的にエネルギーを燃やすために、わざと困難を仕組んでいるのである。
May 11, 2007
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昨日のブログで、伝統的な能の番組について触れた。能組ともいういわゆるプログラムは、正式な能楽をご覧になったことがあれば、御存知であろうが、ずいぶん特殊な形式である。次ぎをご覧いただきたい。 能曲名とある位置に出し物のタイトルが書かれる。たとえば『紅葉狩』というように。その左下に小書(こがき)名とあるのは、特殊演出の場合にその名称を表記する。たとえば「連獅子」などと書かれている。『石橋(シャッキョウ)』という能で、元来シテ(主役)ひとりが獅子の舞をするのであるが、特殊演出でシテとツレ(助演)とが二人で親子獅子となって舞う場合である。 曲名の下のワキというのは、助演者であるが、主役を舞台に導きだして劇の進行役となる。ただし主人公が登場した後は、舞台上の脇座と称する場所にじっと控えることになる。物語の証人のような、西洋演劇にはみられないそれだけに興味深い役職である。 「間(アイ) 狂言方」とあるのは、劇の前の場と後の場との間におかれる狂言で、狂言専門の演者によって演じられる。狂言というのは、現在の時間の現実の劇である。アイ狂言が入るのは能のなかでも「夢幻能」と言われる種類の劇である。夢幻能とは、簡単にいえば、旅の僧がある因縁の場所で一夜の宿りに夢と知らずに夢を見る。怨念をいだいて地獄の苦しみにあっている人物に出会い、どうかこの苦しみから救い出すための念仏を唱えてくれよと・・・。そう言い残して消えてゆく人の無惨な姿に、旅の僧は「はっ」とし、そのとたんに目覚めるのである。 前後の場、いわば二幕にわかれた夢の劇の間に、アイ狂言が置かれているわけだが、これは旅の僧が遭遇した「幽霊」もしくは「怨霊」の物語は、歴史的な事実であると語らせるためである。夢の物語と現実とを並列しているのである。 じつはその日その時の演出によって、このアイ狂言をいれない場合がある。というのは、アイ狂言は現在劇でまさに「今」を演じているのだが、内容は夢物語としての能の部分と同じ内容で、現代の観客にとっては繰り返しとして受け取られ退屈を感じてしまうからだ。けれども、狂言の本質が、決して夢を語ることのない日常的現実の劇であることを踏まえるなら、現代人が退屈を感じようと、芸術的にたいへん興味深い劇構造といえよう。 夢幻能と分類される能曲の題名を知らなくても、もしプログラムに「間(アイ) 狂言方」と表記してあったなら、これから演じられるのは「夢幻能」であることが分るのである。すなわち幽霊や怨霊の物語であると。 「地謡」というのは、いわばコーラス隊である。しかし西洋音楽的な意味でのハーモニーを奏でるコーラスではない。ユニゾン(非和音)を常とする。歴史的には各自がそれぞれ異なった音質(声質)と異なった音程であったのではないかと考えられているが、それについての考察はここで述べない。現在ではコンサート・マスターに似た役目の地頭(じがしら)が音程(キー)をきめて、同一音程で謡われる。が、この一糸乱れぬコーラスは、じつはシテの呼吸に合わせ、シテの演能を補佐しシテがきわだつように調整しつつ進行しているのである。地頭の役目は非常に重要で、たいてい経験豊かな長老クラスの方が勤めている。 最後に左端に書かれているのは、誰もが御存知の「狂言」である。『棒しばり』とか『猿冠者』とか。 以上が能の伝統的な番組表(プログラム)だ。能はシテ中心の演劇である。スター・システムといってもよかろう。そのスターの名前は演目のすぐ右に添うように表記されているが、助演者の名前がシテの右に、しかもシテよりやや上に置かれている。能のプログラムを初めて見た方は、一番上にあるツレの名前を主役のシテと勘違いすることがある。・・・このような表記のシステムに、あるいは日本人に特有の気配りがあるのかもしれない。あちらを立て、こちらも立てる、という。
May 10, 2007
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このたび能楽師・梅若猶彦氏と18年ぶりに一緒に仕事をすることになった。私が氏に協力した最初は1985年4月、氏が主宰する〈梅若猶彦・軌の会〉の初めての能会を国立能楽堂でおこなったときである。 演目は『八島』だった。それより3年ほど前からおつきあいがあったのだが、私は〈軌の会〉という名称を氏に贈り、ポスターやチラシを製作させていただいた。チラシは、かつて一般的な能公演ではみられなかったプログラムを兼ねるもので、しかも外国人観客のために英文を並記した。能の伝統的なプログラムというのは特異な表記がなされている。シテ(主演)・ツレ(助演)・ワキ(助演・劇進行役)・ワキヅレ・子方(子役)・後見(黒子役)・地謡(コーラス)・笛・小鼓・大鼓・太鼓・・・という出演者名が、出し物の標題を中心にしてどこに配置されるかが決まっていて、その場所によって役職がわかるという仕組みになっている。英文表記にする場合、まずその伝統をどのように組み立て直すかという問題がたちはだかる。梅若氏と私は、そのひとつのモデルをつくりたかったのだった。そしてこのときに作ったスタイルが、その後、梅若猶彦の能会のスタイルとして定着した。 この〈梅若猶彦・軌の会〉の第一回公演で、梅若氏はさらに私に講演を依頼してきた。私たちはホーム・パーティを開いて、さまざまな事象に関するお互いの考えを披瀝していた。そんなときに、私は能楽をめぐる考えも述べていたので、梅若氏はそれを大勢の観客に話して聞かせよ、というのだった。 私は『能の時空間の現代性』と題して講演した。この講演原稿はブリティッシュ・コロンビア大学の日本文学教授レオン・ゾルブロウド氏が英語に翻訳してくださり、簡易製本したプリントが外国人観客と希望者に会場で配布された。このブログのフリーページ「論文室」に掲載している“The Modernity of Time-Space in the Noh Theatre: The Idea of the Nest”が、それである。私はのちにこの原稿をもとに、大幅に書き直し、『夢幻能の劇構造と白山信仰私考』を執筆して雑誌に発表した。そしてこの雑誌論文を国学院教授だった故種村季弘氏が注目するところとなり、種村氏は同大学の国文学会における講演『泉鏡花と白山信仰』で拙論を引用した。 こんなふうに梅若猶彦氏と私は互の言動を注目しつつ、私は氏の能を好んで観にでかけた。『翁』『道成寺』『松風』『菊慈童』『放下僧』『熊坂』等々。また、ジャニーン・バイチマン作の英語能『Drifting Fire;漂炎』や、バチカンにおけるローマ法王の御前能となった門脇嘉吉作『イエズスの洗礼』。『イエズスの洗礼』の衣装は染織家の故久保田一竹氏が担当した。 『道成寺』『松風』『イエズスの洗礼』は私も協力させていただいた。『松風』のポスターは、「綺羅引き」という、雲母を漉き込んだ特殊な紙に印刷したもので、メキシコ国際ポスター・ビエンナーレおよびモスクワ国際ポスター・ビエンナーレに出品した。 『イエズスの洗礼』はバチカン公演後に「つくば学園都市」で再演された。私は宣伝美術を担当した。このとき、私が梅若氏のために制作したポスター全作品とその原画が、別会場に展示された。そしてこの公演が私が梅若氏と一緒にした仕事の最後となった。1989年のことであった。 私と梅若氏とは10歳ほどの年齢の違いがあり、もちろん梅若氏がお若い。だから1990年前後を境にお互いの人生にひとつの転機をむかえていたと言っても、その意味はまったくことなる。私の場合は、イラストレーション主体から、いわゆるファイン・アートへ比重を傾け、それと同時に画肌を変えつつあった。 私の絵は、他人からはシュルレアリスムの傍系かウィーン幻想派に近いところにあるように見られる。それらを学んだ結果のように考える人もいる。ところが、案に相違して、私の絵は私の気質から自発したもので、描き始めた当初からモチーフも画風も変わらない。記憶をたどれば、中学3年のときに美術担当教師が私に壁画の下絵を製作するようにと言った。着色は美術クラブ員がおこなうと。私は美術クラブ員ではなかった。しかし言われるままに下絵をつくった。その絵が、早くもシュルレアリスティックだったのだ。 先日、このたびの新作能『オンディーヌ』の作者である本間生夫氏が、「山田さんは初めからこういう絵を描いているのですか?」とお聞きになった。「そうです」と私は答えた。きわめて意志的に作られている絵ではあるが、しかしこれが私の心身にぴたりと一致しているのだ。一致しているというより、血や肉や精神そのものの形なのである。 梅若氏となんとなく疎遠になりつつあった1990年前後、私は、その自発の画風にあらたなものを付け加えようと模索をはじめていた。「付け加える」と言うのは適当ではない。しかし、何と言ったらよいのか。 「脱皮」だろうか? いや、それも違う。 私は、年齢を重ねれば重ねるほど、かえって分らないことが沢山でてきたのだ。知らないふり、気付かないふりをして通りすぎることができなくなっていた。その分らないことを作品にとりこみ、作品のなかで解決の道をさがしたくなったのである。 それは現在でも同じなのだが。 今回、梅若氏が私に協力を要請してきたその真意を、私は知らない。聞くつもりもない。 私は記憶は良い方だが、梅若氏も同じで、先日も本間氏に、「山田さんのお話したことは全部覚えています」と仰り、私を驚かせた。たしかに、10年以上前のつづきを話し合えるほどであった。
May 9, 2007
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なんとも締まりのない一日だった。能のポスター等のデザインを模索してスケッチをとったりするものの、本格的にとりかかる前のニュートラルな気持といったらよいか。データが届かないので、それを待っている状態ということもあるが、日常的な滓(おり)を落す時間でもある。ぼんやりした、文字どおり締まりがない状態だ。 家人達はみな外出した。ひとり用意された昼食をとる前の1時間、花々に液肥を与えたり、蔓薔薇が咲き始めたので「うどんこ病」の予防のために薬剤を散布したりした。それから町内会の地区委員に配布する文書をしたためる。5月27日に予定されている一斉清掃の件である。プリントし、一軒々々訪問してポストに入れてきた。 とにかく、スケジュールが多忙になる前に、雑事はできるだけ片付けてしまおうというわけだ。逆に言えば、雑事をしながら気持を整理しようということでもある。ブログでこんなふうな日常雑記を書くのもまた、その流れであろうか。
May 8, 2007
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連休が明けて、私は新作能プロジェクトの広告美術のための印刷所さがしと見積請求に着手。予算枠内で良い仕事を期待できそうなところを選び、本間氏と梅若氏に連絡。折返し、できるだけ早く仕事にとりかかる態勢にしてほしいとのメールが届く。 すでに手元にあるデータでは不足なので、数日中に細部のデータを収集しなければならない。イメージ・クリエイションはその後のこととしても、いよいよ私も本間氏・梅若氏に少し遅れて始動である。
May 7, 2007
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昨日のこと、母が散歩をかねた買い物がしたいというので、家族で外出した。クッションがきいた肘掛け付きの座椅子を買い、いつもの園芸店に行き、ボックス型の長い鉢3個と腐葉土を買った。花の苗を見てまわり、オランダ・ダリヤに目をとめ、牡丹の鉢にも気をひかれた。どうも我家だけのことか知らぬが、花をあつめていると次々にあたらしい種類がほしくなる。一種の飢餓感にとらわれるような気がする。 先日、私の部屋の窓越しに、「いっきに沢山の花がふえましたね」と隣家の夫人が母に言っているのが聞こえた。二人は、長い間、なにやら花の鉢をめぐって立ち話をしていた。 季節がしずかに移り、それとともに春の花はそろそろ花期がおわり、夏の花に変わってきている。それに気がつくと、おのずと秋の花の準備をしたくもなる。あるいはまた、園芸店では時期が過ぎつつある花をバーゲン・セールをしているので、ついついそれを上手く育ててみようという気になるのである。 母がもうそろそろ疲れてきたと言うのを少し待たせて、私はタイム・ロンギカリウスのポット苗を6つ買った。濡れ縁のわきにグランド・カバーとして地植えしようと思ったのだった。それから別の園芸店に立ち寄り、ケイトウを4鉢と金魚草を3鉢買った。 帰宅してさっそく植え替え。過日、隣家の夫人から桜草を頂戴したが、3,4日前に母が立ち話していたときに再び桜草を頂戴した。その桜草を株分けして、長い鉢にひとまとめに植え替えした。金魚草も一鉢に、ケイトウも一鉢にまとめた。タイムも芝を植えるように地植えした。 夜中に、6日は雨になりそうだというので、雨に弱い花を屋内にとりこんだ。 さて、本日。予想のとおり雨降りである。昼に居間に降りてゆくと、母が、「タイムの花の色が変わってしまった」と言った。 「エッ?」 「植え替えしたら、たぶん元気になったのよ。きのうグレーがかった薄紫だったでしょう? 今朝見たら、きれいなピンクになっているの」 「ヘーッ?! どれどれ、見てみよう」 私は縁側のガラス戸を開けてのぞいて見た。なるほど昨日の色ではない。桜色とでも言えば良いか。いきいきと地面を覆っていた。 「すごいものだね。そういえば、ケイトウも少ししおれていたのが、ピンとしている」 「背ものびている」 「おどろいたね」 ガーデニングの楽しみは、色とりどりの花を愛でることでもあるが、それぞれの種類に合った手入れをすると、それに応えるように生命の本来の姿をありありと表現するのを目撃することである。 じつは隣家から二度目に桜草の鉢をもらったとき、夫人がクチナシの枝を3本折取って、桜草のわきに挿し木してくださった。私はそのことを知らずに植え替えをしたのだが、それまでの鉢から掘り上げると、桜草の根に見知らぬ小さい木の枝から伸びた根がからまっていて、分けるのに手こずった。何の木か分らなかったが、捨てるにしのびず、それだけを元の鉢に植え直しておいたのである。 「あれは、なんだろう?」と言うと、「クチナシを挿し木してくださったの」と母は言った。 「いつのこと?」 「だから、4日前に桜草をいただいたとき」 「勘違いじゃない?」 「どうして。奥さんが、ポキッと折り取って挿してくださった」 「だって、もう髭根が10センチも伸びていたよ。4日間でそんなに伸びるものかね」 「伸びたんでしょう」 「すごいもんだねー!」 このブログで、私は何度か、「植物力」と言ってきた。それは観念的な象徴ではない。こちらの弱まってゆく生命に「活」を入れられるような、自然の実体なのである。
May 6, 2007
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1999年の初冬だったと覚えているが、私が企画・編集・監修した哲学者・湯浅泰雄博士の著作全集の最初の一巻が刊行され、名をつらねた5人の監修者が博士夫妻をお招きして祝宴を催した。監修者の筆頭に、当時、大阪医科大学脳神経外科教授だった太田富雄博士がいらした。何を話題にしていたときであったか詳細は記憶にないが、太田博士が私に「デス・エデュケーション」について話された。 デス・エデュケーション(Death education)とは、すなわち「死の教育」であるが、生前からやがて迎える自らの死のために心の準備をするということである。それは二つのケースが考えられる。一つは、私なら私が自発的にその準備をする場合。二つは、周囲が・・・とくに主治医がその訓練された専門知識にもとづいて時間をかけて対処教育する場合である。後者の場合は、死に臨んでいる当人に対してのみならず、その配偶者などごく近親者にもおよぶであろう。要するに、受け入れがたい事実を、できるだけ冷静・平安に受け入れるようになればそれに越したことはないだろうという思想に依拠している。 太田博士は脳疾患の患者の体温を低温状態にし、つまり冬眠状態にして、外科手術をする研究の開拓者である。祝宴会場に向う途中、私は太田博士と並んで歩きながら、その原理について端的な説明をうかがっていた。 「デス・エデュケーション」という言葉が博士から発せられた経緯を思い出すことはできないのだが、さて、太田博士の言葉に、私はどのように応えたのであったか・・・? そのときまで、私がデス・エデュケーションを自覚していたとは言い切れない。しかし、なぜかは知らないが、私はずいぶん若いときから年輩者から死の心構えについて相談されてきた。切羽詰まった相談というのではなかったけれど、何か心に不安がきざすのであろう、その気持を私に漏らし、私の考えを聞くのだった。 私が10歳か11歳のころだった。僧侶の家だったので、祖母は本堂に私をともない、内陣脇の部屋に掛けられた親鸞上人と蓮如上人の御像の前で、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かんものかは」と言いながら、その意味を語って聞かされたのだった。思えば、それが、私に対する最初の「デス・エデュケーション」だったであろう。 そんなことを太田博士にお話したかもしれない。 なぜそんなことを書いたかというと、じつはさきほど小説家の花輪莞爾氏から電話があった。花輪氏は現在、まさに死の準備をされている。詳しくは述べるわけにはゆかないが、すでに私は後事を託されていた。それに関わるあらたな話をしたのである。 私たちの電話をもしかたわらで聞いた人があったなら、そんな深刻な話をしているとは思わないかもしれない。私たちは、カラカラと笑いながら話しているからだ。 花輪氏より10歳ちかくも年若な私が相談にのれるはずもないのだが、幸いにしてと言うべきか、私は長い年月をかけてセンチメンタルを克服してきた。相手を思い遣る気持は人後に落ちないと自負しているが、言わねばならないことは歯に衣を着せない。それはときに残酷ととられたとしても、曖昧は後の不幸となる。良く研いだ鋭い刀で、ずばりと切る。その方が出血も少ないし、痛みも一瞬だ。 私は他人の思考を誘導はしない。自発を尊重する。したがって花輪氏が決めたことを、私ならこうするかもしれないと思ってもそれを口には出さない。当人の決めた方向で私の考えを付け加えさせていただく。 今日、私は、財産目録の作成、美術品目録の作成をすすめ、また小説家として肉筆原稿と日記等の整理と保存処置をすすめた。花輪氏は早々その作業にとりかかると言い、電話を切ったのだった。 花輪氏は、私の作品のコレクターとして、その散逸や破壊を御心配らしかった。海外で受賞したり美術書などに掲載された、いわば私の記念的作品が含まれているからであろう。その御心配に対して、私は、手放すときにすでにあらゆる起こりうることを作品の運命として受け入れる別れをしている、と申しあげた。生き延びるか、死んでしまうか、それもまた作品の力なのだ。私があがいたとて如何ともならないのである。
May 5, 2007
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鰻の竹葉亭で能楽師・梅若猶彦氏、昭和大学医学部教授・本間生夫氏とともに昼食会。11月の国立能楽堂の新作能公演について御二方の意向をうかがう。 この公演は「能と息」と銘打たれ、新作能は『オンディーヌ』である。19世紀のフリードリッヒ・ラ・モット・フーケのロマン小説『オンディーヌ』は、ジャン・ジロドー(1882-1944)によって戯曲化されて、凡庸な原作を芸術的に昇華したことで広く知られる。この同じ原作に呼吸生理学の観点から本間氏があらたな光をあてて能に翻案、梅若氏が補作および作舞した。 本間氏と梅若氏との共同研究に、能のシテ方を対象とした内的表象の実験がある(“Breathing Mind in Noh” Springer-Verlag 2006)。能のシテ方に悲しみを演じてもらい、生理的な変化を観察したものである。 この実験の結果、動きもなく表情も変えず、しかし唯一呼吸が変わるということがわかった。悲しみや喜びなどの情動変化は呼吸に投影されていたのである。舞台芸能としての演劇的内的表象について、本間氏は、「観客にはシテ方の呼吸、すなわち息が伝わってきたのではないでしょうか」と言っている。 この実験によって、本間氏はさらに、呼吸に伴い変化する悲しみの中枢として、脳のもっとも深いところにある扁桃体が絡んでいることも分ったという。 以上の呼吸生理学の実験をふまえて、さて、『オンディーヌ』について本間氏は次のように述べた。「オンディーヌは泉の精であり、魚と考えても良いでしょう。魚の呼吸はエラ呼吸であり、唯一の中枢で呼吸リズムは作られます。自分の意思では動かすことのできない中枢です。人にも同様の中枢があります。生きるための中枢で、意思は働きません。しかし、人は意思で呼吸を変えることもできます。いくつか呼吸中枢を持っているのです。「呼吸はこころをあらわす、ということと、オンディーヌ(シテ)は唯一の呼吸しか持ち合わせず、人はいくつかの呼吸を持つ。ということから、この物語を組みなおしてみました。生きるための意志では動かせない、妖精でも人でも共通の呼吸と、人にのみ出てくる意思で変えられる裏切りの呼吸です。こころをすべて呼吸に置き換えているので、裏切りのこころを示しています。人の男のハンス(ワキ)は水界の掟により、裏切ると、生きるための呼吸が止まってしまう術をかけられてしまいます。ハンスは意思でしか呼吸をすることができず、眠ることができなくなってしまいます。眠っている間は意思で呼吸をすることができないからです。ハンスは苦しみ死ぬのです。「呼吸の関係する疾患に〈睡眠時無呼吸症候群〉があります。眠っているとき、ある時間呼吸が止まってしまう病気です。昼間は意識がはっきりしているので止まることはありません。ハンスの症状にあたります。そこで、ある著名な呼吸生理学者が〈睡眠時無呼吸症候群〉を別名〈オンディーヌの呪い(Ondine Curse)〉と呼びました。もちろんオンディーヌが呪いをかけたわけではなく、逆にオンディーヌは裏切ったハンスをかばうのですが、〈オンディーヌの呪い〉という言葉は呼吸臨床の場でよく使われています。」 梅若氏の演出プランもたいへん興味深い。しかし、それについては実際の舞台でのお楽しみということにして、ここでは伏せておこう。 このプロジェクトは、日本BS放送でドキュメンタリー番組をつくる予定になっている。 昼食会は3時間におよび、私もさまざまな観点から思うことを述べさせてもらった。すでにして脳裡にイメージがちらちらと浮んでは消えていた。予算との戦いになるだろうけれど。
May 4, 2007
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平和憲法60周年記念日に山田維史 《Life-nest》 紙にペンとインク
May 3, 2007
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消滅したと思っていた「紫蘭」が生きていた、と昨日書いた。この驚くべき植物力、紫蘭の性質についていろいろ手持ちの文献に当って調べてみた。我家の状況に一致するかどうかは確実ではないが、一応納得ゆくこの植物の性質が判明した。 紫蘭は日本の本州中部以西および台湾や中国が原産地。元来、山野に自生していた。極端な日陰でないかぎり、生育地を選ばない大層強健な植物であるという。繁殖力も旺盛らしい。 そんなわけで、庭の片隅の日陰に放置された鉢のなかでも生き続けることはできたのであろう。とはいえ、なぜ我家の誰もその存在に気がつかなかったのか。 それについては、私の家に移植したときの株分けに原因があったかもしれない。紫蘭の根は、球根に似た、園芸用語で「バブル」という玉状の根がいくつも連なっている。株分けはそのバブルを切り分けるのである。ところが、切り分けかたに秘密があった。バブルは二つ以上をくっつけておく必要があるのである。1個でも増えるらしいが、花が咲くまでに3年以上かかるというのだ。 「これだ!」と、私は思った。バブルを2個以上連結させずに、切り分けてしまった。花を咲かせるためには力不足だったのにちがいない。5年近く、それはまさに力を蓄えるための隠忍の時だったのだろう。 今朝、雨を避けるために屋内に取り込んであった鉢を明るい日射しのなかに出しながら、つくずくと紫蘭を見つめた。 他にも書きたいことがあるが、ケーブルTVの深夜映画で、ジョニー・デップとまだ少年だったレオナルド・ディカプリオが主演した『ギルバート・グレイプ』を放映する。もう始まっている。私はジョニー・デップがお気に入りの俳優。ほとんどの作品を観ているのだが、『ギルバート・グレイプ』をもう一度である。 では、これから映画を観ます。
May 2, 2007
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5月に入った。連休の谷間の1,2日、東京は雨の予報がでていた。その雨の少しのはれ間をみはからって、夏秋の花の地植えのために、ほんの一部だが庭土の入れ替えをした。 我家の庭は土質が悪く、2,30cmも掘ると粘土質の層になる。水はけが悪いので、植える品種はおのずと限定される。それを幾分でも改良しようと、50~70cmほどまで掘り下げて、その土を全部入れ替えようというわけだ。3年前に入れ替えたところは、ミミズをいれておいた。ミミズたちが土をふかふかに変え、糞も分解するので、植物の成育にはとても良い黒土になる。ミミズの生存は、危険な害毒が混入していないということの証明でもある。 ミミズ樣様だ。しかしそれとて時間もかかり、面積も限られる。きょうは、園芸店で購入した腐葉土と赤玉土との混合を使用した。もちろんミミズくんにも新居に入ってもらった。 掘り返した土は発泡スチロールの箱に保存。天気のよいときに陽に晒してさらさらに乾燥・消毒し、石灰や堆肥を混ぜて再生土として使用する。 夕方6時までの作業だった。 もうずいぶん昔、母がすぐ上の姉(私の伯母)から紫蘭(シラン)を株分けしてもらってきた。それから間もなく伯母は亡くなった。母は鉢植えにして大切にしていたのだが、今の私の家に移したらいつのまにか消滅してしまった。母は何も言わなかったけれど、おそらく大変残念に思ったにちがいない。使っていた鉢は土をいれたまま、空いた鉢とともに庭の片隅に放置してあった。 一昨日の日曜日に園芸店から買ってきたものを植え付けしていて、その放置してあった鉢のなかに丈20cmばかりの葉が3本、まっすぐ元気に伸びているのに気がついた。 「あら? これ、紫蘭だわ」と母が言った。そして片隅から引出し、日射しのなかに置いた。「消えてから5年以上になるのに・・・!」 もしそれが紫蘭だとすると、この長い年月、いったいどうしていたのだろう。隠忍の時がすぎるのをジッと待っていたのだろうか。 私はまたもや「植物力」を感じながら、黙って植え付け作業をつづけていたのだった。
May 1, 2007
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