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喉元過ぎれば熱さを忘れるのは日本人の悪い習性。新潟県中越沖地震によって引き起こされた柏崎刈羽原子力発電所の事故は、発生から2週間経った現在も、毎日のように新たなトラブルの実体が確認されている。喉元を過ぎてさえいない。私たち一般人は各報道メディアを通じてしかそのトラブルとは如何なるものであるかを知るすべはない。真相追究するジャーナリズムの熱意と使命感に期待する。 私自身、事態に対する認識を明確にするために、過去4回、この原発事故について書いて来た。ここでまた、その後に明らかにされた事実を確認しておこうと思う。【1】 17日、7号機排気筒からヨウ素等の放射性物質が大気中に放出されたことを確認。その後も放出は止まず、18日夜までの間に、大気中へ放出された放射能量は約24万ベクトル。放射線量は合計1千万分の2ミリシーベルト(法定公衆線量の限度の500万分の1)。 [原因(東京電力の見解)]; タービン復水器にたまっていた放射性物質がタービンの軸を封じる部分から空気に混入して排気筒へ流出。原子炉停止時に、手動で止めるべき機器が、操作手順の誤りによって、止まらずに動きつづけていた。【2】 19日、東電は刈羽原発内にある97台の地震計の記録のうち、63台の本震の波形データの一部が消えたと発表した。消えたのは全7機のうち、1号機、5号機、6号機にある地震計の波形データの大半(最大で1時間半におよぶ)。これによって、原子力発電の重要器機や建物がどのように揺れたか等、今後の安全性の解析に影響がでると見られる。ただし解析に最も重要とされる最下階のデータは全機分が残った。【3】 1号機の原子炉建屋において、消火用配管が損傷。これにより水漏れが止まらず、地下5階に水深40センチまで溜まる。この水は、床に存在した放射性物質で汚染されていた。 その後の東電の調査で、この水漏れは放射性物質がある放射線管理区域に約2千トンが流れ込んでいたことがわかった。 [原因(東京電力の見解)];1号機は固い地盤のうえに建造されていたが周囲は砂の層であったため、地震発生時に約20~30センチの地盤沈下が起った。これによって地下に埋設されていた消火用配管が破裂した。流出した水は建屋地下の電気ケーブル引き込み口に生じた隙間から建屋内に入った。放射線管理区に入ったことで水は放射物質に汚染された。溜まった水は2千トンにのぼると見られる。【4】 建屋4階にある6号機から、使用済み核燃料プールの放射性物質を含む水が、放射性管理区域から非管理区域を通じて海に流出。 [原因(東京電力の見解)];原子炉建屋内の燃料取り替え機の電線引き込み口(直径8センチ)を伝って、中3階と3階に流れ出たため。ケーブル引き込み口の隙間をふさぐパッキングがゆるんだためと見られる。【5】 4号機と7号機のプールにおいて、使用済み核燃料が入った囲いの上に水中で器機類を載せる鉄製作業台(重量200キロ)が落下。【6】 24日、東電は6号機原子炉建屋の天井の可動式クレーン(長さ約35メートルの棒状、重量約310トン)の車軸の継ぎ手部分が破断しているのを確認した。このクレーンは、原子炉内の点検や核燃料交換時に、格納器や圧力容器の蓋を吊り上げるために使用する。地震が起ったとき、このクレーンは原子炉の真上にあった。 車軸継ぎ手が破損しても、クレーン本体は両端のレールに支持されているため、落下の可能性がない(東電見解)とされているが、「想定外」のトラブルつづきで、はたしてこの見解が信用できるものなのか、証拠はない。【7】 東電は柏崎刈羽原発の3号機の地震発生時の使用済み核燃料プールの監視ビデオ映像(16日午前10時11分11秒以降)を公表した。水が大波となってプールの縁を越えて外に溢れ出る様子が映っている。【8】 26日、柏崎刈羽原発の4ケ所の放射線区に30トンの雨漏りを確認。4ケ所は以下のとおり(データは7月27日付朝日新聞14版の三浦英之氏の記事による)。 ◆ 1号機のタービン建屋地下2階の低圧復水ポンプ室に約12トンの雨水。 ◆ 3号機のタービン建屋地下1階の南側通路に約0.12トンの雨水。 ◆ 個体廃棄物貯蔵庫地下1階に約17トンの雨水。 ◆ 補助建屋地下1階に約0.47トンの雨水。【9】 27日、ここにきてもまだ東京電力は真相を隠蔽しようとしていたことが明らかになった。使用済み核燃料プールから水があふれ出たばかりではなく、これまで公表していない1号機原子炉部分の水もあふれていたことが判明した。 原子炉とプールの間で核燃料を移動させる際、二つの施設の水路を繋ぎ、水の中を移動する。地震発生当時、1号機は定期点検を終わって、原子炉内に水を満たしてプールと繋ぎ、核燃料をプールから炉に戻す直前であった。格納容器などの附属施設の蓋も開けられた状態であった。地震が起ったのはこのような作業途中で、地震の揺れで炉の中の水があふれた。点検が終了していなかったので、炉の中に核燃料は入っていなかった。 5、6号機も点検中であったが、これら二つの機は炉内に核燃料を戻した後で、格納容器の蓋をしめた後の地震であった。したがって内部の水はあふれ出なかった。【10】 4号機の復水器水室で、冷却用の海水を循環させるゴム製の配管(直径2.6メートル)が、復水器に送り込む手前で円周方向に長さ3.5メートルの亀裂が生じ、そこから海水約24トンが放射線区域に流入したことが判明。床の塩分除去には時間がかかると見られる。 現在(30日)までに各報道メディアによって確認された情報をまとめると以上のようである。 これに加えて、原子力発電所の防災状況等について次のように報道されている。【1】 経済産業省が、今回の地震による原発事故が起ったのを受けて遅まきながら国内原発11社の全55基と日本原燃の消火体制を調査した。結果は、ゾッと背筋が凍るような状態だった。消防常駐隊は日本原燃の六ヶ所村再処理工場に組織されているだけで、原子力発電所には皆無。地元消防署への通報回線は5社に止まる。化学消防車を装備していたのはわずか4社。次のとおり。 ◆ 東北電力:女川原発に1台 ◆ 中部電力:浜岡原発に1台 ◆ 関西電力:美浜原発に1台 ◆ 日本原子力発電:敦賀原発に1台、東海原発に1台 ◆ 日本原燃:六ヶ所再処理工場に1台(常駐の専門消防隊を装備) なお、柏崎刈羽原発では事務棟に緊急時対策室があり、地元の消防署との間にホットラインが設けられていたが、地震によって建物が歪んで扉が開かなくなり、ホットラインが機能しなかった。今後の対策に重要な示唆を残した事態である。ホットライン敷設という、システム処理で済む問題ではない。そのシステムが如何なる緊急時にも機能するような、「支持体」を開発する必要に迫られているだろう。【2】 22日、経済産業省原子力安全・保安院は、柏崎刈羽原子力発電所に国際原子力機関(IAEA)の調査団を受け入れることを決める。 新潟県中越沖地震によって柏崎刈羽原子力発電所がこうむったトラブルについて、関係者はいずれも「想定外」を繰り返しつづけている。しかし、考えてみるまでもなく、そもそも原子力発電のトラブル・データの蓄積は極めて少なく、すべてが未経験の領域に挑んでいるのである。そのことを日本のみならず世界のすべての人が認識しなければならない。 その点、わが日本の原発業者は国策の上にたつ事業とはいえ、企業目的が優先し、安全面についてはいささかの厳密さも厳格さもないことが明らかになった。おそらく、今回のトラブルが起ってさえ、彼等があたふたしているのは経済産業省原子力安全・保安院に対してどのように取り繕うかという「企業的保身策」にちがいない。それが透けてみえるのは、じつは経済産業省原子力安全・保安院の態度に反映しているからだ。事故直後におこなわれた安全・保安院の新潟県知事とのやりとりは、住民意識とはかけ離れた呆れるほどトンチンカンなもの、と私は感じた。恥知らずとさえ言える。 安全・保安院がいかに怠慢であるかは今回はじめて国内原発11社の全55基と日本原燃の消火体制を調査したという、その事実を見れば分かる。安全・保安院はいったい何をしていたのだ。日本のすべての行政省庁のあの傲慢な態度で、原発業者が真相を言うに言えないような陰険な小突き回しをするだけだっとのではないか。原発の周囲には醜悪な金のバラ撒きが取りざたされ、住民人心の荒廃まで噂されている。そのような風評を耳にしている私としては、安全・保安院の怠慢を知るにつけ、お前たちもまた良からぬ金にまみれているのではあるまいなと、あらぬ考えが浮んで来る。 それほど尋常ではないということだ。国民の安全、世界人類の安全のために働かなければならない者が、それが出来ぬと言うなら、役職を去れ。われわれ国民は、働かない者に無駄飯を食わせるつもりはないのだ。 世界中が、日本の原子力発電所の防災体制を見つめている。
Jul 30, 2007
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5年間も住んでいてまったく気がつかなかったことがある。 ミステリー小説に、ある建物と別のある建物との住所がちがうので、じつはその二つの建物が単なる背中合わせであることに気がつかないというトリックがあった。先入観と認識の盲点をついたものである。小説の場合、街全体の地理を表わすことがないので、読者は、住所が違えば、それだけでおのずとまったくかけ離れた場所という先入観を植え付けられてしまうのである。 ところで、私が5年間も住んでいてまったく気がつかなかったというのは、小説のように複雑な筋立てではない。町内会役員の懇親パーティーの会場は、我家が面した坂道をほんの少しのぼって、Uターンするように別の通りに出て下って行き、ちょうど我家の向側にあたる位置にあるレストランであった。つまり我家の前の通りとレストランの前の通りとの間には、レストランを含めて二軒の建物がある。おわかりだろうか。我家の向いの家とレストランとは背中合わせになっているのだ。 私はお向かいさんとは日頃のおつき合いもあり、そのお宅も今年度の町内会役員なので、書類のやりとりのために訪問することもある。気の良い老夫婦である。私はレストランへは今日はじめて訪ねたのだが、あまり近くなのでかえって行きそびれていたかもしれない。そして、客である私を迎えたのは、なんとお向かいさんの気の良い老夫婦だったのだ。御主人はカシミアの黒い細身のトゥルーザーズに真っ白いエプロン姿。びっくり! そして、ちょっとミステリー。 背中合わせの二軒の家と思っていたのは私の勝手な思い込み。二つの家は裏で、つまり外観からは見えないところでつながっていたのだ。二つの入口がそれぞれ別な通りに向って開いていたのである。 知らなかったのは私だけかもしれないが、いや、分りにくかったのもむりはなく、看板もなにも出していない。レストランといってもフリの客は取らず、まるで隠れ家をもとめてやって来るような、予約客だけを相手にするひそかな営みなのだと言う。 客は御近所の方々かと聞くと、まるで違い、隣の市やかなり遠距離から主婦たちがグループで訪れるのだ、と。主婦たちの隠れ家とは、またビックリ。 いや、それも分らぬものでもないと、出された料理を見て思った。夫人がシェフとなってつくるメニューは、自家栽培した野菜を使って、品数多く、丁寧にしあげた家庭料理といえばよかろうか。 きょうの料理は、小豆と栗の入った赤飯に10品の菜を添えた松花風弁当を中心に、バイキング式につぎつぎ出された器は、ゼンマイの土佐煮、コロッケ、自家製香の物の5種盛り、クラゲの中華サラダ、トマト・サラダ、キャベツと大豆のサラダ、ポテト・サラダ、オニオン・スープ、ツナ入り揚げ餃子、そして飲み物はビールと赤と白のワイン、締めはマロン・チーズ・ケーキにコーヒー。・・・これで御手ごろ価格となれば、常連客に主婦が多いと言うのもうなずける。 お向かいの老夫婦がこんなレストランを営んでいたとは、知らなんだ、知らなんだ。 今年度に入ってほとんど初めて顔を合わせた10人が、もう二度と顔をつきあわせて長々とおしゃべりすることはないだろうと言いながら、しかし、「私たちって、なんだかずいぶん仲良しね!」とKさんは言う。おいしい料理が会話をはずませる。 「こんな自治会執行役員はいまだかってなかった」と言うから、ならば、それもちょっとミステリー。
Jul 28, 2007
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町内会といえど世帯数400、およそ1,500人にもなると、顔見知りというのは意外にわずかなものだ。ごく近所のつきあいでも、それぞれ生活時間帯がちがうので、1年に1,2度お互いの顔をみかけるだけということもある。 私は今年度の自治会執行役員に選出されて、1ヵ月に1度の定例会議に出席してきた。当り前のことだが、千差万別の職業が集まっている。いや、集まっているらしいと、初めて知り合ったB氏が言う。私が画家であることを知って、「ヘーッ!」と声をあげておもしろがり、「いろいろな職業が集まっているんだなー」と一人で関心していた。 B氏は、会議のときはノート・パソコンを持参し、適確なすばらしい議事録をつくりあげて活躍。皆大助かりしている。そのB氏が先日、そろそろ会議も終了というときに、パソコンのキーボードを叩きながら、ぼそぼそっと一つの提案をした。 「長年住み慣れたところですが、みなさんと親しくお話することもありませんでした。こうして執行役員として知り合えたのですから、どうですか、近い内に一杯やりませんか。この近くに、うまいものを食わせる店があるんです」 一同、しばしガヤガヤ。「そうですねー、ひとつ懇親会といきますか」「わたしは、いつでもOK、ヨ」ガヤガヤ。「それじゃあ、29日はどうです。選挙をすませたところで、集まるというのは」「アー、私は都合が悪いなー」ガヤガヤ。 そうして決定したのが本日(28日)、午後3時からのパーティーである。 私はちょいと忙しいのだが・・・出席しなければなるまいなー。 で、このつづきは、また後ほど・・・
Jul 28, 2007
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Do you want to know about numbers of the sand on the beach? by YAMADA Tadami Apply paste on your palm Crawl around like a worm Pick up, count up grains of the sand With taking care of it dropping down Don't weep A considerably fool! Don't follow like sheep Die with keeping your cool! Apply paste on your palm Crawl around like a worm Pick up, count up grains of the sand With taking care of cajolery of the gown Lily by YAMADA Tadami A lily bloom Down by head Among tombs(山田維史17歳詩集より)
Jul 27, 2007
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ミステリーの巨匠ディクスン・カーは大のナポレオン贔屓だった。作品のはしばしにその思いが出て来る。なによりも、代表作『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』を忘れることはできない。皇帝とはもちろんナポレオンのこと。 私は東京創元社版と早川書房版のカー作品の表紙絵を20年以上にわたって描いて来たので、ナポレオンについてもある程度の関心をもって調べて来た。私は、パリの廃兵院の地下にある、巨大なナポレオンの柩も訪ねて見て来た。そして、奇遇というべきか、親しくおつき合いをさせていただきその著作の表紙絵も描かせていただいている花輪莞爾氏に『石原莞爾』という評伝があるが、この石原莞爾という人物もまたナポレオン好きだったのである。 ところでディクスン・カーの『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』は、ナポレオンが所持していたと伝えられる骨董の「嗅ぎ煙草入れ」をめぐるミステリーだ。ダイヤモンドをちりばめた時計の意匠ということになっている。フィクションなのだが、まったくのデタラメかというと、そこはナポレオン好きのカーのこと、実際にナポレオンが「嗅ぎ煙草入れ」を肌身離さず所持していたことを知っていたのだろう。 ナポレオンが愛着していた物が三つあった、と伝記作者マッソが書いている。一つは、眼鏡。二つに、甘草や茴香(ういきょう)が入った菓子の函。そして三つが、「嗅ぎ煙草入れ」である。 18世紀のパリの貴族・上流階級の紳士の間ではこの嗅ぎ煙草が流行した。その理由は諸説あるけれど、貴婦人たちが煙草の臭いを嫌ったためではないかと言われる。当時のパリは、悪臭に満ちていた。風呂に入らず、衣服はほとんど洗濯をせず、街路は汚物が散乱していた。ルーブル宮の庭は大小便の垂れ流し場で、貴婦人たちはあの大きくひろがったスカートを隠れ蓑にして排泄をしたのである。そうした悪臭を少しでもやわらげようとして香水が発達するが、そんなもので間に合うはずもない。鬘にふりかける髪粉という化粧品は、つまりは小麦粉だったので、いずれ腐敗し、シラミがわんさかたかっていた。 そんな悪臭だらけのなかで、さらに煙草の臭いなど吹き付けられてはたまらん、というわけであったかもしれない。小さな凝りに凝った容れ物をつくり、煙草をつめて、クンクンと嗅いでいた。その容れ物が「嗅ぎ煙草入れ」である。 私は『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』を描くにあたって、その煙草入れの実物を見たいものだと思ったが、はたと思い直した。カーがフィクションとしてナポレオンの嗅ぎ煙草入れなる骨董品をつくりあげたのなら、私もまた写実的技法を駆使してその嗅ぎ煙草入れをつくってしまおう、と。 かくして不思議な絵、少なくとも作者の私からすると不思議な絵ができあがった。それは何の変哲もないような「写実的な静物画」なのであるが、「実」を「写した」ところはひとつもない。実物をモデルにして写生した絵ではないのだ。私の想像から生まれ、筆の技術によって「写実のように」なった「幻想画」なのである。これはミステリー・ファンへ贈る私のひそかな美術的なゲームであった。「写実」って、何? 「写実画」って、何? ・・・もっともこの絵が私の幻想だと気がつく人はいないだろうけれど。 と、そんな話のついでに、ナポレオンをめぐるもっと大きな、言うならば国家的な幻想画の話をしよう。ルイ・ダヴィッド作『ナポレオンの戴冠式』は誰でも知っている、ルーブル美術館が所蔵する巨大な油彩画である。私もルーブルで見た。 ダヴィッドはこの作品の製作にあたって、ナポレオンにポーズをとってもらったのを始め、描かれている人物は、誰が誰だか特定できるのだという。もちろん御用画家として実際にノートル・ダム寺院でおこなわれた戴冠式に参列して、その様子を見ていただろう。が、この絵にはナポレオンの意向を汲んだ大嘘があるのである。 右側に椅子に座した法皇が描かれているが、戴冠式に法皇は出席していなかったと言われている。出席していなかったけれども、政治的にナポレオンは法皇を出席したと後世に伝えなければならなかったのだ。 事実、この大作のためのエスキース(準備スケッチ)が残っている。私はこれも実物を見ている。そこにはパリ大司教は描かれているが、法皇の姿はない。 ルイ・ダヴィッドは野心的で精力あふれる画家であった。5年間のイタリア留学から帰国すると、フランス革命のまっただ中に身を投じ、山岳派議員となり、ルイ16世の処刑に賛成したりした。作品は古典的で重厚なのだが、ジャーナリスティックで、現代ならさしずめニュース・カメラマンのように革命の進行する現場をスケッチした。その様子は、アンジェイ・ワイダ監督の『ダントン』(1982)のなかに活写されている。 事件の現場へ出かけて筆を走らせる。まさに写実なのだ。しかし、それがひとたび作品として完成すると、ナポレオンの意向を反映したようにだけではなく、絵画表現としての「真実」に向っていたのだと言えよう。 写真が発達した現代では、絵画における「写実」は廃れたように見える。あるいはほとんど何も考えずに一刀両断のごとく切り捨てる傾向がある。それは時代の好みを反映しているのでもあるが、しかし、写真の写実と、絵画の写実は、決して同列に論じられないものなのだ。ちょっと煙りに巻くようなことを申し上げるが、写真のなかにはたとえば風景を撮影して幻想的なものがある。幻想的だけれども、ほんとうは写実なのである。絵画は写実的に見えて、ほんとうは幻想なのだ。 ・・・じつは、このことは、先日、A氏邸のパーティーのおり、映画作家アンドレイ・タルコフスキーがポラロイドで撮影した写真集を見ながらA氏と話したことである。拙作『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』の表紙原画。折原一氏所蔵。ルイ・ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』(部分)。同上のエスキース。アングルが描いた『ダヴィッドの肖像』
Jul 26, 2007
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上映時間が4時間におよぶ映画のストーリーを述べるのは容易ではない。復元されたアベル・ガンス監督作品『ナポレオン』は1部・2部に分かれているが、ガンス自身の構想ではこれが第1部で、この後にさらに第6部までつづくはずであったようだ。その意味では、『ナポレオン』は未完の映画なのである。完成していたなら、とても1日で上映しきれるものではなかっただろう。 おそらく現在ならドキュメンタリー・タッチとでもいえるような演出と撮影であるが、ガンス自身は次のように語っている。 「『ナポレオン』における私のアプローチは、(1)観客をも演技者にさせること、(2)展開のどのレベルでも観客をつつみこむこと、(3)画像の洪水で観客を押し流すこと」 このアイデアは、観客を「歴史の証人」に仕立てることと同じで、つまりは映画『ナポレオン』は、ナポレオンに密着取材した記録映画のようなスタイルなのだ。ガンスが目指したのはそういう映像だったと、私は考える。 私がこの映画を観て、もっとも感動したのは、出演者たちが画面の隅から隅までこれぞ18世紀の顔にちがいないという顔をしていること。そして、画面の厚みである。フレームへの人物の立て込み、あるいは群集をふくめて人物の動線の巧みさと言ってもよい。 たとえばこういうシーンがある。 ナポレオンが民衆から武器をとりあげる、いわば刀狩のような政策を実行する。すると一人の少年がやってきて、ナポレオンの前に膝まづき「父の形見の剣を取り上げないで下さい」と涙ながらに訴える。少年は、ジョセフィーヌの息子ユージェーヌで、このときナポレオンはまだジョセフィーヌに出会っていない。少年の真摯な懇願に負けて、ナポレオンは形見の剣を所持することを許す。少年は喜んで、執務室の大勢の人々の間を縫って出口へと向う。このときすでにナポレオンは、一介の少年のことなど念頭になく、部屋の中央の机に行って新たな仕事を始めている。カメラは固定したまま、パンフォーカスで執務室全景をとらえている。したがって中央あたりに位置するとはいえナポレオンも大勢のなかの一人であり、遠くに、いままさに入口を出ていこうとする少年が見え、彼は通りすがりの大人に嬉しそうにキスを投げて行く。 私が感心するのは、このようなあくまでも全体のなかのそれぞれの個人の動きとして画面をつくっていることである。このような方法論は、まさに歴史をありとある人間の奔流と認識し、それを公平な眼で記録しようという精神の謂いにほかならないであろう。 あるいはこんな画面もある。 舞踏会の場面。踊り興じる女たち。しかし画面にとらえられているのは、誰のものとも分らぬ肌もあらわな胸元であり、ドレスのスリットからちらちらのぞく股座である。まるで刷毛で掃いたような映像のブレとなって長々とつづく。旧体制の極端に腰を張った、窮屈な衣装から、いまや肩から胸にいたる肌をあらわにした、成熟した女を一層艶やにみせるファッションへとかわりつつあった。その変化のなかの猥雑ともいえるエロティシズムを、カメラはまるで窃視する男の視線のように撮っているのである。 『ナポレオン』の表現手段はじつに多様だ。 戦闘場面等におけるラピッド・カットバック(非常に素早い画面切換え)。 あるいは二重焼き付け(イメージの上に別なイメージが重なる)。 フィルムの着色(モノクロ撮影した後、赤や緑や青に着色している)。 カメラ・ワークのさまざまな工夫。現代のようなハンディー・カメラがなかった時代、手持ち撮影、馬の背にくくりつけての撮影。あるいはマリー・アントワネットの処刑場面では、落下するギロチンの刃にカメラがとりつけられている、等々。 さて、私が「これぞ18世紀の顔!」と感嘆した出演者。その配役を記すと、 ナポレオン・・・アルベール・デュードネ(Albert Dieudonne) ナポレオンの少年時代・・・ウラディミール・ルーデンコ(Vladimir Roudenko) ロベスピエール・・・エドモン・ヴァン・ダエレ(Edmon Van Daele) ダントン・・・アレクサンドル・クービツキー(Alexandre Koubitsky) マラー・・・アントナン・アルトー(Antonin Artaud) サン・ジュスト・・・アベル・ガンス(Abel Gance) ジョセフィーヌ・・・ジナ・マーン(Gina Manes) これらの俳優が私にとって親しいとは、さすがに時代が違い過ぎて言えない。むしろ未知の俳優である。しかし、アレクサンドル・クービツキーや、なによりアントナン・アルトーにこの映画で出会えるとは思わなかった。 洒落もので酷薄の天使サン・ジュストにアベル・ガンス監督自身が扮しているのも嬉しい。映画のなかで、手鏡をのぞきながら化粧に余念がないサン・ジュスト。私はかつて渋澤龍彦著『異端の肖像』で、この酷薄の天使に親しんでいた。 アルベール.デュードネのナポレオンは、一度見たら忘れられなくなるだろう。ナポレオン像の固定観念ができてしまうかもしれない。 人間の顔の造形は、意外に時代変遷のはげしいものだ。日本映画にしてから、わずか60年前の日本兵士の顔をした俳優がもういないのだと、ある監督が述懐していた。いやそればかりではない、私のように昭和20年代から30年代が少年期だった者にとって、あの時代の子供の顔を現代の子供達にみつけることはほとんどない。現代の少年たちは、スマートで、顎が細く、なにより表情に得たいの知れないものを秘めている。 淀川長治さんのお書きになったものを読んでいると、「あの時代の顔」という表現が見受けられる。私のような若者(淀川さんと較べてだが)には、現実的なイメージがとらえにくいことだったのだが、『ナポレオン』を見ると、その意味が明確になる。断然20世紀・21世紀の顔ではないのだ。そこがとてもおもしろい。ジョセフィーヌの息子ユージェーヌに扮している俳優の名前はわからないが、この少年の顔、なんだか薄気味悪いですぜ。天使のようなフランスの少年のイメージなんて、これっぽちもない。この少年俳優の顔を見ているだけで、まあ、答はでてこないのだが、何かを言いたくなってしまう。 女性の顔だって、現代とはずいぶん違う。私などは、ちっとも美人とは思わない。しかし、そこがまさに時代の感覚がつかまえられていておもしろい。現代俳優にはない「深み」が、スクリーンに滲み出る。まさに顔の味わいである。 アベル・ガンスの『ナポレオン』は、このようにいろいろな角度から述べることができる映画だ。写真を示すことができないので(パンフレットには沢山掲載されているのだけれども)、私は書いていても自分ながら奥歯に物がはさまったような感じだ。TVで日本語字幕付で放映されたということは、たぶんビデオが出版されているのだろう。巨大3面スクリーンの迫力には及びも付かないが、ぜひご覧になることをお勧めする。『ナポレオン』の1場面;ラ・マルセイエーズを唱うナポレオン(アルベール・デュードネ)。右から2番目に、当時まだ無名の女優だったアナベラが出演している。同;フランス革命の立て役者揃う! 左からマラー(アントナン・アルトー)、ダントン(アレクサンドル・クービツキー)、ロベスピエール(エドモン・ヴァン・ダエレ)。 同;化粧するサン・ジュスト(アベル・ガンス)。同;マラーに扮したアントナン・アルトー。(以上の写真は、1983年資生堂主催上映会パンフレットより)【注】アントナン・アルトー(1896-1948)は、詩人・演劇評論家・俳優・演出家。1924-27にかけてシュルレアリスム運動に加わり活躍。のちにこの運動がマルクス主義に強く傾倒したために離反し、孤立する。社会生活と闘いながら、陶酔と絶対の探究のはてにやがて発狂した。著書に『冥界の臍』(1925)、『演劇とその分身』(1938)、『ヴァン.ゴッホあるいは社会の自殺』(1947)がある。1928年のソシエ・ジェネラール・ド・フィルム製作の映画、カール・ドライエル監督『ジャンヌ・ダルクの受難』に出演している(邦題;『裁かるるジャンヌ』、昭和4年(1929)日本公開)。
Jul 25, 2007
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サイレント映画の一つの頂点と言われる1927年のフランス作品、アベル・ガンス監督『ナポレオン』を、NHK・BS2が昨日と今日と二日間にわたって放映した。かつてこの作品がTV放映されたことがあったかどうか。じつに珍しいことである。 私はこの『ナポレオン』を1983年に実際にスクリーンで観ている。日本での上映は、この作品が完成してから56年後に当る1983年に東京で3回、大阪で3回、名古屋で2回、福岡で2回、札幌で3回、計13回あった。しかしそれについて書く前に、この作品の概略とその奇しき運命を簡単に述べておこう。 アベル・ガンス(1889-1981)が映画監督になったのは1911年のことで、映画の揺籃期にさまざまな技法を試み、『私は告発する!(邦題:戦争と平和)』(1919)、『鉄路の白薔薇』(1923)と、映画史に燦然と輝く作品を創り、サイレント映画の巨匠として知られている。黒澤明は、最も尊敬する映画監督として名を挙げ、『鉄路の白薔薇』を「映画監督の道へ進もうと決心させた作品の一つ」と述べている。 『ナポレオン』は1925年1月17日に製作を開始。ナポレオンの足跡を追ってほとんど史実通りのロケーションで撮影された。ガンスのこの作品にかける意気込みはすさまじく、固定カメラを避けて手持ちにしたり馬の背にくくりつけたり、また14ミリのワイド・レンズも自ら考案したと言われる。そしてその極め付けが、彼の発明になるトリプル・エクラン(または、トリプチーク)と呼ばれる巨大三面スクリーンによる上映である。1927年4月7日、パリ・オペラ座での初演は、アルテュール・オネゲルがこの映画のために作曲した音楽が会場で生演奏され、大成功をおさめた。 トリプル・エクランは、映画技術史に画期的な業績として記される。その巨大スクリーンは後年、一面化して70ミリ・シネマスコープへと発展してゆく。飯島正は、ガンスがトリプル・エクランを考えついたときに書いた言葉をガンス自身のノートから引用して、次のように紹介している。 「・・・左右の二つの幕を突然ひらいて、なんの連続の溶解もなしに、他の二つのスクリーンをあらわす。まるでそれは、運河の三つの水門が同時にひらかれ、歴史が見た奔流のなかでももっとも豊富な人間性の熱烈さと力づよさにみちた激流が、そのとき観客の心の中にふくれあがるようなものである。」 トリプル・エクラン(トリプチーク)とはどのようなものか。1983年に日本で初めて公開されたとき、このトリプル・エクランが再現された。『ナポレオン』は上映時間4時間、途中30分の休憩をはさむから4時間30分という長丁場。その最後の20分前になると、それまでのスクリーン両脇の幕が一気に開き、巨大な三面マルチ・スクリーンになる。イタリア遠征軍司令官に任命されたナポレオンが、アルプス越え侵攻作戦のなかで、餓えと凍えで疲弊した軍隊を奮い立たせ、約束の地イタリアへの進軍を開始するのである。歴史の扉を叩こうとするフランス軍の上を鷲が舞う。ナポレオンの未来の栄光を予言するように。そして、巨大な三面スクリーンはそのまま右から赤、白、青に彩色されてフランス国旗となる! 「映画の中で私は三つの要素を同時に映すために三面スクリーンを使った。三つの要素とは肉体的なもの、精神的なもの、そして感情である。わずか1秒、いや16分の1秒の間にこの三つの要素を理解させ、溶けあわせるには相当な努力が必要だ。もし私がひとつの映像に失敗すれば他の二つもすぐ意味がなくなることに私は気づいた。観客の心、神経、そして眼が私の放縦なやり方にせめて耐えてくれることに期待しよう。」(日本上映時パンフレットより、アベル・ガンス『私のナポレオンとその映像スタイル』) パリで初公開された翌年、1928年にアメリカのM・G・Mが『ナポレオン』の上映権とトリプル・エクランの権利を買い取った。このフィルムは後に「1928年版」と称された。しかしあるいはこれがこの作品の不幸の始まりだったかもしれない。M・G・Mは結局、上映しなかったのだ。つまり「お蔵入り」にしてしまった。その理由のひとつとして、時あたかもハリウッドはトーキー革命に直面したことである。そして、同時に、サイレント映画の巨匠アベル・ガンスも忘れさられて行った。 1934年、パリにおいてサウンド版『ナポレオン』がつくられた。ガンス自身がサイレント版に新たに撮影したシーンを付け加え、さらに、音をシンクロさせたものである。そしてパリのステュデオ28において三面スクリーンで上映された。このとき観客のなかに、新しい世代の映画評論家として活躍をはじめていたフランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールがいた。彼等はあらためてアベル・ガンスという映画作家を発見した。そこに詰め込まれていたさまざまな映画技法に震撼し、驚喜したのである。 映画作家ケヴィン・ブラウンローが、『ナポレオン』の存在を知ったのは1950年代の初めだった。ロンドンの大学生であった彼は、ブロムリー・フィルム・ライブラリーのサイレント映画のリストのなかに2巻物の『ナポレオン・ボナパルトとフランス革命』という作品を発見した。それは9.5ミリのフィルムで、しかも断片の寄せ集めだった。 「その2巻が私の人生を変えた」と、ケヴィン・ブラウンローは言っている。 彼は断片の収集を開始した。それらはかなりしばしば見つかったのだという。そしてそれらを繋げ、上映会を開いた。そのうちに、アベル・ガンスという映画作家がまだ健在であることを知る。忘れ去られ無視されて、もう12年間も映画を撮らせてもらえないまま。 その情報を得てから数日後、所もロンドンでケヴィン・ブラウンローは、アベル・ガンスその人と奇跡のように出会う。ガンスは『ナポレオン』のスチール写真にサインをしてくれ、別れ際に、「まっすぐ前を見つづけるんだよ」と言い、それからすぐにそれを訂正して「いやちがう。ポリヴィジョンの眼をもつことだ」と言った。 ケヴィン・ブラウンローのこの逸話をここに紹介したのは、彼がその後、『ナポレオン』のフィルム断片を収集しつづけ、1973年にいちおう終了するまで修復作業をすすめたからである。このことは日本公開時のパンフレットに彼自身が書いている。 ケヴィン・ブラウンローが1973年に修復を終了する以前の1967年、時のフランス文化相アンドレ・マルローがガンスに資金を与え、2年後(1969)のナポレオン生誕200年を記念して『ナポレオン』を再編集するよう依頼した。しかしマルローの死によってガンスは資金に行き詰まる。するとフランソワ・トリュフォーの仲介でクロード・ルルーシュが資金援助と協力をガンスに申し出る。ルルーシュは配給権も獲得し、ガンスはトーキー版(ルルーシュ版)『ナポレオンと革命』を1971年に完成した。これはトリプル・エクランは使用されていない。130分の2部構成である。 これに対してケヴィン・ブラウンローが1973年に修復を完了した版は、あくまでもオリジナル版の復元を試みたものである。 このブラウンロー版に対してアメリカのロバート・A・ハリス主宰のイメージ・フィルム・アートと、フランシス・コッポラ率いるゾーエトロップ・スタジオのトム・ラディが関心を示した。そして、1979年秋、アメリカ・コロラド州のテルリド映画祭で上映。次いで1980年11月30日にロンドン映画祭のフィナーレを飾った。年が明けてすぐ、1981年1月23日、コッポラのゾーエトロップ・スタジオはニューヨークでもっとも大きく伝統のあるラジオ・シティー・ミュージック・ホールで上映会を開催した。このとき音楽は、フランシス・コッポラの父親カーマイン・コッポラが作曲し、フル・オーケストラの生演奏だった。 ところで、1983年の日本公開版であるが、これはそのいわばコッポラ版で、大成功をおさめて世界60カ所の上映ツアーの一環として、フランシス・コッポラと黒澤明が共同提供、資生堂が主催した。東京は武道館が会場となり、カーマイン・コッポラが指揮する総勢70名の新日本フィルハーモニー交響楽団(大阪上映は、大阪フィルハーモニー交響楽団)の生演奏付きであった。前述のように3面スクリーンに、35m/mプロジェクター4台が使用された。 私はアリーナ席で観た。料金は8千円だった。 ここからは、映画そのものについて述べなければならないだろうが、それはまた次にすることにしよう。 ただ辛口を一言。カーマイン・コッポラの音楽は最低でありました。私だって好き好んでこんな言い方したくはないが、アタマがワルイといいましょうかね、初めから終りまで休む事無く、「ラ・マルセイエーズ」とそのわずかな変奏、ところどころにベートーベンの「エグモント」その他の既成曲が入ったりするものの、オリジナル性はゼロ。やたらめったら大音響で演奏する。そのうるさいこと。アベル・ガンスが「観客の心、神経、そして眼が私の放縦なやり方にせめて耐えてくれることに期待しよう」と言っているのは、マルチ映像のこと。カーマインの音楽のことではない。ガンスの創造にあたっての繊細な神経を、カーマインはどう受け取っていたのか。 ともかく、2時間、さらに2時間、計4時間のバカバカしい音楽につきあわされて演奏しきった新日フィルの楽員諸氏には、実にお気の毒でした。 ・・・私は思いましたね、創造活動に情愛を絡んで親子や身内を引っぱり出すのは禁物だと。才能がない奴は、どうしたって、どう転んだって、無才なんだと。フランシス・コッポラさん、あなたこのときばかりは、ヤキが回ったのじゃないですか? 御自分の映画作品にこんな音楽を良しとしますかね。 さらに一言。 今日のTV放映した日本語字幕付き版は、どこが製作したものか明示されていなかったが、弁士は余計だ。オリジナルには無い、勝手な創作をしゃべっている。歴史的無声映画時代ならともかく、現代では著作権侵害ではないかしらね。アベル・ガンスの意図とは異なる解釈、深みのない通俗そのものの解釈を、「芸」と勘違いした軽薄な口調でまくしたてるのは迷惑このうえない。サイレント映画には弁士のまねごと、という図式は、いいかげん止めにしていただきたい。 日本上映会のパンフレットとチケット
Jul 24, 2007
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東京はまだ梅雨が明けないのか、一日中、霧雨が降りつづいていた。高台にある我家の仕事場の窓からのぞむ遥かな街並は、煙にとざされたように霧雨のなかに埋もれていた。煙幕のところどころの切れ間に、幻のようにビルディングの影が浮ぶ。室内の空気もなんとなく湿っぽい。エアコンディショナーを除湿にしているが、入れ始めの湿度は70%と表示されるので驚く。50%台にたどりつくまでの時間がひどく長い。蒸し暑いことは蒸し暑いのだが、それでも昨日よりは雨が降っている分、いくらか気温は低い。 そうそう、昨日、近所に買い物に出たとき、とても珍しい光景を見た。人通りも車の往来も少ない裏道を自転車で行くと、4メートル道の真中に、なんと猫が4匹、ほとんど大の字になって寝ているのだ。暑さしのぎに、コンクリート道に寝転んで躰を冷やしているのである。赤毛あり黒毛あり、ブチあり、揃いも揃ってまるで手をつなぐように大の字になっている。私が自転車で近づいても知らん顔。こちらの方がひどく気をつかって、「ちょいと御免なさいよ」と、長屋の八ッつあん熊さんの昼寝にお邪魔した御隠居さんのように、できるだけ端のほうをそろりゆっくり通り過ぎた。 たしかに猫は、コンクリートの敷石に寝転んで暑さしのぎをすることがある。我家の猫たちも、駐車場の車の下に寝ていることがある。 それにしても、仲良く4匹がお揃いで公道のまんなかで大の字になっている光景は初めて見た。面白いのなんのって、私は自転車の音をたてないようにしながら笑いがこみあげてきたのだった。 さて、午後、母が家人につきそわれて先日受診した老人健康診断の結果を聞きにでかけた。2時間ほどして帰って私への報告。 「とても丈夫なんだって」 「あっ、そう。それは良かったね」 「どッこも、悪くないんだって!」と、ニコニコしている。 「どッこも悪くないってことはないでしょう。毎日、血圧降下薬を飲んでいるのだもの」 「あははは、それもそうだ。つまり、悪いところ以外は、どこも悪くないってことね、あははは」 「あはははは、そういうことさ」 母としては、「丈夫」と言われたことが嬉しいのだ。機嫌よく笑っていた。
Jul 23, 2007
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柏崎刈羽原発に関する連日の報道は、現在10社ある原発業者にこのまま業務を続行させておいてよいものだろうかと危ぶむほどの、まあ、一種のデタラメぶりを明らかにしている。 日本の電気エネルギーが原子力発電に頼らなければならないのは事実で、しかしながら、そこには現代社会、あるいはもっと大きく、現代世界の苦渋が凝縮しているのであることを認識しなければならない。 はっきり言ってしまえば、原発従業員の被爆問題は、彼等の生活の糧を得ることと引き換えになっているし、その犠牲と引き換えに私たちの厖大なエネルギー消費は賄われている。また、水力発電の拡大開発によって、これ以上かけがいのない山河が破壊されることの防衛と引き換えになっている。私たちの生活は、極力エネルギー消費を抑制する努力はできるし、そうしなければならないが、だからと言って、前世紀の生活状態に戻ることはおろかおそらく10年前の状態に戻ることさえできまい。それが良かろうはずがないと分っていても、人類の欲望はありていに言って「不可逆的」である。おそらくそうして絶滅してゆく生物なのであろう。 私たちは常に苦渋を生き、苦渋の選択をしている。そのなかで幾分でもましな状態というのは、原子力の場合なら、迂闊な取扱をして一瞬にして私たちの生命と引き換えることがないように意識を先鋭にすることであろう。チェルノブイリの悲惨な事故を忘れてはならないはずだ。 忘れてはならないことを、忘れているのが日本の原発業者だ。いや、私たちの日本の政府である。 多発的トラブルが発生し、現在もなお発生が継続しているとみられる柏崎刈羽原発に国際原子力機関(IAEA)が調査に入る意向をしめしていることは、地震発生翌日にすでに報道されていた。 このIAEAの意向に対して、日本政府が断りの返事をしたことを、21日、報道メディアはキャッチした。「今は現場が混乱しているため、調査団を受け入れる余裕がない」というのが政府の断りの理由だ、と。 なんだか私は夢を見ているかのようだ。私たちの政府は、ここまで愚鈍であったのか・・・。 新潟県は、IAEA調査団を受け入れるようにと、文書で政府に要請したとも伝えられている。それはそうだろう。事故の実体を隠蔽すればするほど、不安の風評は世界中を駆巡ることになる。新潟の地元産業はおおきな打撃を受けるだろう。その風評が自然に沈静化することなどあり得ない。世界中が日本の原発業者の隠蔽体質を知っているのだ。もはや何を説明しても信じてはもらえまい。そこまで堕落しているのだ。そこまで、日本の原発の防災システムは異常なのだ。 日本政府は、ここまで来ても事態をとらえきれず、IAEAに対して沽券にかかわるとでも言うように取り繕うなら、もはや愚鈍の砦というしかない。 えらいこっちゃ、国民は、愚かなりといえども政府を見限るわけにはゆかないのだから。
Jul 22, 2007
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昨日金曜日の夜は、元ヨーロッパの某王国大使館スタッフで現在は同国の照明器具デザイン社日本支社員であるA氏のホーム・パーティーに招かれ、楽しくすごした。お嬢さんの16歳のお誕生日だった。A氏御一家とはかれこれ17年ほどのおつきあい。能楽師・梅若猶彦氏とも共通の友人である。 お嬢さんが生まれて間もなく、私は可愛い赤ちゃんの彼女を抱っこしている。その赤ちゃんがもう16歳、「私の背より大きいのですよ」とお父様のA氏はおっしゃった。御夫妻にお目にかかるのはひさしぶりであった。 御一家をいれて総勢15人。半分は日本人、半分は外国の方。日本語、英語、フランス語、アラビア語のにぎやかなパーティーとなった。 A夫人の故国はレバノンである。ディナーは、お友達と二日がかりでおつくりになったというレバノン料理の数々。私はレバノン料理が大好き、レバノン産ワインもすばらしいのである。以前、レバノン大使邸に招かれたときは、口当たりの良いアラク(松ヤニで香り付けした透明な酒)をぐいぐいやって、帰りの足許がふらふらした。ついそのときのことが思い出され、おいしいワインも飲み過ぎないようにと、私は内心に注意、注意。 ところが大失態をやらかした。夫人が「これ試してごらんになります?」とテーブルの上のオードブル皿に飾りのように盛られた赤唐辛子を差し出した。A氏がすかさず、「どうしてこんなふうに丸のまま置いておくの。山田さんやめた方がいいですよ」。 しかしその顔は笑っているので、私は一本を摘んでほんの少し噛んでみた。赤唐辛子のピクルスだった。 「おいしいですよ」 「すごく辛いでしょう?」 「まあ、辛いですけど、このくらいは大丈夫」 で、私は残り半分を取り皿に置いて、料理を口に運び、ワイングラスを傾けた。そして、しばらくしてから、再び赤唐辛子のピクルスを食べた。 「ウッ、ウッ、ウッ!!!」 ナプキンで口許を押さえて、あわてて立ち上がった。「ジチュレイジマズ(失礼します)」 キッチンに駆け込み、その場に屈みこんだ。夫人が背中をさすり、それから製氷機から氷を出して、「これを口に・・・」 辛いのなんのって、ヒーヒーゲボゲボ、口の中が大火事状態だった。 テーブルに戻った私の前に、夫人は細長い一本のビンを置いて、「ピリピリ」と言った。 ラベルには、「Piri Piri」と書いてある。赤唐辛子のスペイン産のピクルスである。日本語で辛いことの表現をピリピリすると言うが、スペイン語でも同じ発音をするのだろうか。イヤー、勉強になりました。「I'm so sory」 私は涙目で言いながら、ビンを手にとってつくづくとラベルに書いてあることを読んだ。 出席者はさまざまな分野で御活躍で、国連海外派遣医師団としてエジプトから帰国されたばかりの女医、音楽セラピスト、詩人、国連機関の首席弁務官、能楽師、画家、レバノン料理のクキング・マスター、etc. 会話ははずみ、時のたつのも忘れ、・・・私は本当に帰宅時間を忘れてしまった。 第二の失態! 数人とともに泊めていただくことに。 そうなるとまたワイワイガヤガヤ。私は若き詩人の処女出版詩集を見せていただきながら、素直な詩心に打たれて、ついついそのなかの1篇を朗読。詩人の母上の「ヤマダサ~ン、スゴイ、スゴイ」の喝采に乗せられて、また1篇。今度は作者自身の「私の書いているときの呼吸とおんなじだワー! ヤマダさん、ビックリ!」の言葉に乗せられてまた1篇。つごう3篇の朗読を披露。 夜が白々あけるころは、アラビック・コーヒーを飲みながら、コーヒー占いを伝授してもらう。この占い、デミタス・カップの底に残ったコーヒーのシミによって、イメージ連想をしてゆくもの。レオナルド・ダ・ヴィンチが天井や壁のシミにさまざまなイメージを見い出し、それを一種の絵画修行にしたと書いているのと似ている。魚のイメージがお金を意味するなど、基本的な解釈があるようだが、私はそのあたりを詳しく知るにはいたらなかった。ともかく、私のカップを占いのマスター(あるいはリーダーと言うべきか)が見て、その後に私自身が見て浮んでくるイメージを報告し、マスターと一致不一致を調べるのである。 「オモシロイ、オモシロイ、ヤマダサン ト ワタシ ノ イメージ ミンナ オナジニナル ワ! Yamada san is thinking about a lady from two ways, ・・・this way and this way, and these ways goto the lady」 ウフフ、それはないでしょう、マスター、ウフフ。 たのしく徹夜で会話して、レバノン風ブレクファストをいただいて、なんとやっと午前7時にA氏邸を辞去したのである。 I very appreciate delicious dinner and breafast, and also kindly attetion, Mr.& Mrs.A.
Jul 21, 2007
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つぎつぎに報じられる事実からみて、人災の要素さえあると見なければならないようだ。柏崎刈羽原子力発電所の地震による数多くの事故についてである。 事前調査におけるデータの過小評価。そこに露呈する表面をとりつくろうだけの御都合主義。「規制」の本質的な意味を理解しない知性の欠如。その傲慢さ。・・・このような組織の体質は、こと原子力発電に関わるかぎり、ほとんど犯罪的と言わなければならないだろう。 各国の報道メディアは、日本の原子力業者の嘘による隠蔽体質を熟知していて、隠蔽の歴史とまで言っているようだ。 また、国連国際原子力機構(IAEA)は、すでに2年前に日本の原子力発電所の防災システムが不十分との見解を出し、忠告していたとのことだ。 しかし当の原子力発電機関も日本政府も、その忠告に従ってシステムを再構築することはなかった。すくなくとも今回の事件への対処は、そのことを示している。 以前このブログ日記で述べているが、代用監獄制度に対する国連人権委員会の度重なる忠告をあざわらうかのような法務省の態度にしろ、このIAEAの忠告に対する無策にしろ、基盤にある精神はまったく同質である。 私はこのような社会的精神を、社会病理学的な見地から、排他的自己愛の過剰からくる知の崩壊とみなせるのではないかと考えている。目覚めることなき病。だから厄介なのだ。 前ページにおいて私は、「このような社会観を研究した学術的な業績は未だない。文化に巣食っている病なので、取出すことが難しい。方法論が確立されていないのだ」と書いた。20日付け朝日新聞朝刊13版に、同社の中村浩彦氏のインタヴューに応えて東京大学社会学教授・松本三和夫氏が、次のように述べている。 「社会学の視点から今回の地震と原発の問題を見ると、(略)電力会社も地元の人も、たまたま中越地方で地震が起き、たまたまそこに原発があった、ととらえている気配を感じる。(略)本当の問題は、できたはずの現実的な地震の想定が、なされていなかったことだ。 なぜ、現実的な想定がなされなかったのか。それには、技術的な問題と組織が持つ特性という二つの側面がある。技術的な問題だけでなく、原子炉等規制法と電気事業法に二分される規制のあり方、さらに規則から逸脱した作業を抵抗なく認めてしまう組織文化がなかったかどうかも検証しなければ、問題の原因や背景は見えてこない。(以下略)」 ようやく日本社会のなかの組織文化について、まっとうな意見が出はじめた。このような検証を積み重ねることにより、次にはそのような視点を保持し、かつ従来型の体質を脱却するための、教育的方法論を発見しなければならないだろう。 このブログへアクセスしてくださる国内外の大学関係機関(者)は、現在ちょうど115校ある。どのような目的でご覧くださっているかは分らないが、私の駄弁が、いつかしら、それらの方々の知性によって新しい知へ統合されることを願っている。 私たちは、深く自分自身をみつめることによって、いつだって、どんなときだって、希望が見出せるのだ。そのことを、私は忘れたくない。
Jul 20, 2007
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根本的にタガがゆるんでいるとしか思えない。東京電力は、柏崎刈羽原子力発電所の地震による放射性物質をふくむ水が漏れたことについて、当初公表した放射能量6万ベクトルを、計算違いをしていたとして、9万ベクトルと訂正した。当初のじつに1.5倍の数字である。 今回ばかりではなく、日本の原発機関(電力10社)は、さまざまな調査結果や数値を隠蔽する御都合主義的な体質がある。これは建設立地の調査などにもあらわれており、たとえば地震の強度予測値をどの程度とみつもったかなどということも、実はデータを公表していない。企業のことなかれ主義と、目的を設定したならしゃにむにそれを実現しないでおれない体質。そのような体質は、調査を無意味なものにし、表面をとりつくろうための実質の無いものにしかねない。 私はここに、何か、企業1社の問題とばかり言い切れない、日本人の社会観の病とも言いたい、忌わしい有り様を感じるのだ。このような社会観を研究した学術的な業績は未だない。文化に巣食っている病なので、取出すことが難しい。方法論が確立されていないのだ。したがって、私のような視点は、自己愛的な過度な愛国論者からは「被虐的」と批難されかねない。じつはそのような言辞を弄することがそもそも、国際的な視点に立てば十分「被虐的」なのである。いつまでもいつまでも抜け出せない、叡智なき社会観にひたっているのだからだ。 私はこの前のページで、「日本の原発のシステムは再検討・再構築」が必要ではないかと述べた。 NHKラジオの18日23時以降のニュースによると、国連国際原子力機関(International Atomic Enargy Agency;IAEA)は私の指摘と同様の指摘を表明したという。 日本政府から柏崎刈羽原子力発電所の放射性物質をふくむ水が漏れた事実を報告されたIAEAは、エルバラダイ事務局長が、日本の原発の原子炉の構造とシステムは再検討すべきであると述べた。そして、要請があればIAEAから専門の協力人員を派遣する用意がある、と。 「要請があれば」と断ってはいるが、その真意は、日本の調査能力に不信感をいだいていることにほかならない。それはそうだ、客観的には私のような一般シロウトの目にさえ、日本の関係機関がマトモな対応をしてはいない。 原子力発電所の事故は、当事国だけの問題ではない。国際的な責任があるのである。いかなる事故も過小評価すべきではない。IAEAの指摘はそのことを示している。
Jul 18, 2007
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柏崎刈羽原子力発電所の地震による放射性物質の漏洩は、その後の報道によると、「やっぱり」というような関係機関の不備が露呈されている。「呆れ果てた」とは言うまい。そんなことでは済まないからだ。カッと目を見開いて私は、事態と、その背後にある関係機関の意識を見つめよう。 まず、柏崎刈羽原発で何がおこったのか見てみる(東京電力が公表した各種メディアの報道を総合)。 【1】 同原発6号機で使用済み核燃料プール2カ所の水があふれ、微量の放射性物質をふくむ水が施設内の排水口から海に流出した。(16日) 【2】 この水漏れは、その後も3秒に1滴の割合でつづき、原子炉の建物屋外に流出している。ただし海への流出は収まった。(17日) 【3】 6号機以外の原発6基の核燃料プールからも水があふれ、建物最上階の床が水浸し状態である。 【4】 同原発7号機の主排気筒から放射性物質(ヨウ素、コバルト、クロム)が施設外部の大気中に放出された。 (主排気筒は、原子炉で発生した蒸気を冷却して水に戻す装置(復水器)の内部の空気を浄化し、大気中に放出する施設。この施設によって、通常は、放射性物質が外部に漏れることはないとされている)。 この漏洩の原因はいまのところ不明。 大気中に放出された放射能量は3億ベクトルと推定される(法定基準量の1,000分の1程度)。 【5】 同原発1~7号機で低レベル放射性廃棄物が入ったドラム缶が約100本倒れた。これらのドラム缶には核施設で使用済みとなったネジや配管、作業手袋、焼却灰が入れてある。倒れたドラム缶のうち数本は、蓋がはずれ、床の一部から1平方センチメートルあたり0.5ベクトルの放射性物質が検出された。 また、消火用水配管から水が漏れる等々、計50件におよぶ機器の破損や故障がみつかった。 【6】 地震直後、変圧器から出火し、消火にてまどり、2時間後に鎮火した。 【7】 出火した変圧器以外の変圧器7台でも油漏れや、地面に固定するボルトが折れているのがみつかった。 【8】 放射線量をリアル・タイムで公表するインターネット・システムの故障。地震の衝撃により、東京電力自社のウエブサイトや新潟県自治体に自動通知するコンピューターが停止したため。 おおまかに分類すると以上のように公表されている。 さて、これらに対して東京電力および消防等の関係機関の弁明は、いずれも「想定外」と言うものである。冗談を言っている場合ではないのだが、この弁明こそ、私が想定していたことである。日本人のシステム構築における、シミュレーション能力の欠如である。その欠如はなぜか? どこからやってくるのか? 文化的な欠陥か? 教育の欠陥か? 今回、変圧器から出火した当初、消火活動に当ったのは原発職員2人と協力会社員2人の、わずか4人であったという。その事実に驚くが、それ以上にシステムそのものに危惧感をいだくのは、柏崎市消防署の警防第2消防主幹が、「原発で火災が起きるなんて想定外中の想定外」と言っていることだ(18日、朝日新聞朝刊14版)。そして同原発内で消防活動をしたのは初めてだとも。 この言葉は、同原発内で正規の消防隊が、訓練さへしたことがないということを意味しているのだろうか。 同原発には原発職員によるいわゆる自衛消防隊が組織されているのだという。当直勤務のある職員が、消火活動の研修を受けて、組織している。だが、16日、火災発生時にそれらの自衛消防隊が誰一人として現場にいなかった事実がわかっている。 原子力発電所の火災が、消防署として「想定外」というのは、いったい、どういうことだろう。 そんなに難しい想定だろうか? いや、むしろ、まっさきに思い浮かぶことではあるまいか。ごくごく一般のいわばシロウトの頭にさえ。それなのに、「原発で火災が起きるなんて想定外中の想定外」などと、寝ぼけたことを言っている。 原発の火災が一般の火災とおおきく異なり、その対処については、国内外の英知をもって研究しておかなければならないはずだ。器具機材の開発も必要になってくるかもしれない。 日本の原子力発電は民営の電力企業10社によっておこなわれているが、国家の方針に組み込まれての事業だ。したがって防災についても、国として啓発的に実際的なことを開発研究しなければならない。そのもっとも基礎部分にあるのが現場にたずさわる消防署の見識であるはずだ。日本のあらゆる組織は、上部にゆけばゆくほど「寝ぼけ」になる。そういう寝ぼけ頭を張り倒すような、下部組織のまっとうな勢いがなくてはならないのだ。 原発火災の問題ばかりではない。大きな直下型地震さへ、「想定外」だったと言う。いやはや、なにもかにもだ。事が起って、「想定外」と言えば済むとでも思っているのか。当局者たちがどんな生き方をしてきたか知らぬが、世の中、想定外のことだらけだ。 日本の原子力発電所建設は、建設地に活断層がないことを前提にし、かつ直下型地震はM6.5以上にはならないと想定してきた。 ところがこのたびの新潟県中越沖地震は、その前提や予想をことごとく覆してしまった。 まず、柏崎刈羽原子力発電所は、活断層の上に建設されていること。さらにM6.8の耐震設計ではあったが、そのM6.8が起り、さまざまな事故が出来(しゅったい)したこと。 そもそも柏崎刈羽原子力発電所の建設基本が出来たのは昭和49年。着工が昭和53年。しかしながら、この一帯が地震地帯であることは、昭和39年におこった新潟地震が示すとおりである。このことからして、「建設地に活断層がない」という前提に見合うかどうかは疑問だったはずだ。日本は地震国の名のとおり、いたるところ活断層が走っていると推定される。厖大な電力供給を維持するために原子力発電にたよらざるをえない以上、あらゆる局面からシミュレーションを確かなものにしておく必要があろう。それにもかかわらず、詰めが甘いというか、・・・私にはまったく理由がわからない。なぜなら、日本国内だけをみても、関東大震災(1923)はM7.9である。原発の耐震設計基準がM6.8とするのはなぜなのだろう。 ちなみに、この基準値を上回る近年の地震を列記してみようか。 平成12年 鳥取西部地震 M7.3 平成15年 十勝沖地震 M8.0 平成16年 三重県南東沖地震 M7.4 平成17年 宮城沖地震 M7.2 平成19年 能登半島地震 M6.9 このようにM6.8を上回る地震は頻発していて、そのなかで少なくとも原子力発電所の耐震設計基準がM6.8とういのは、ほとんど意味があるとは思えない。そのような大甘な想定をしておき、さて、今回のような事故がおこって「想定外」というのだから、システムそのものを再検討・再構築しなければならないのではあるまいか。 危機管理を叫んで、アメリカと肩をならべる戦争への道を開こうと息巻く日本政府だが、外敵以前に、おのれの内部に巣食う、いい加減さを取り払うほうが先決であろう。そうでなければ、われわれ日本人の姿は、まるで狂人に刃物だ。
Jul 18, 2007
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弱り目に崇り目というが、台風が去るや去らずに新潟中越地方で大きな地震だ。死者7名、負傷者は800名を上回るかも知れないという。我家でも新潟に多くの親戚知人がいるので、母などは居ても立ってもいられずしきりに電話連絡を試みていた。無事な人もいるが、批難してしまったのか未だに連絡がつかない人もいる。被害にあわれた方々には心からお見舞いもうしあげます。 ところで、かずかずの情報のなかに、柏崎原子力発電所で微量の放射性物質を含む水漏れが発見されたとある。冷却水プール周辺2か所の床に水がこぼれていて、その水から検出されたのだという。水は排水溝から海にそそいでおり、放射性物質の量は法令の基準値以下なので環境に影響はない、と東京電力は発表した。 ・・・そのように報道メディアは、きわめて短くつたえている。 このたびの一連の災害については、海外でもニュースとして報じられている。CNNニュースも然りである。そのなかでドイツのメディアは、柏崎原発における放射性物質を含む水漏れに特別な関心を示し、この事故について更なる調査をするようだ。 ドイツは将来的に原発を廃絶する決定をしているが、その期日を延期すべきではないかという意見もあり、日本の原発の事故を他人事とは思えないのだという。日本の原発関係機関が「環境に影響なし」と短く発表したことについて、ドイツのジャーナリズムは独自の調査をする必要をおぼえたというわけである。 一方、当事国、わが日本のジャーナリズムはどうであろう。「環境に影響なし」という粗雑な発表を鵜呑みにしているのだろうか。微量とはいえ、今後、放置したままで済むのか? ・・・済むはずがない。 日本の原発関係機関の安全管理と何か事がおこった時の対処とその公表については、きわめて多くのかんばしからぬ前例がある。それは幼稚とさえ言えるその場しのぎの嘘で事実を糊塗する隠蔽体質である。事の本質を認識する知性が欠如しているのだ。悪いことをした子供が、叱られるのが怖くて嘘を言う。それとまったく同じ。これが日本の重要機関の体質となれば、問題は絶望的に深い。 ジャーナリズムは「大本営発表」を鵜呑みにしていてはいけない。少なくとも原発問題はかならず追跡調査をすべきであろう。海外メディアの鋭敏さに比して、鈍感過ぎはしないか。私はそれが心配だ。しっかりしろよジャーナリズム。とくにNHKに対しては注意をうながす。やらないと聴取料金の支払いを拒否しますぞ。
Jul 16, 2007
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沖縄や九州地方等に痛ましい犠牲者と被害を与えながら、台風4号は、房総半島沖合いを北東方面に抜けつつあるようだ。東京は、昨日一日中降りつづいていた雨は、今日の昼前には止んだ。被害の報告もでていない。我家でも早々と予防対策をほどこしていたが、何事も無くすんだ。現在23時30分、家人達はもう就寝してしまった。夕飯前、縁側にうずくまって雨のやんだ戸外をながめていた猫たちも、銘々のお気に入りの場所にもぐりこんで眠っている。「嵐の前の静けさ」と言うが、今夜は嵐の後の静けさである。 この台風は7月に来襲したものとしてはかつてめったになかった大型なのだそうだ。ふと思い立って『季寄せ』を開いてみると、「台風」は9月の季語になっている。どんな句が詠まれているかと、あれこれ繰ってみた。すると気が付いたことは、まずどの句も台風が過ぎ去ったのちの情景を詠んでいるということだ。大荒れの最中に俳句をひねる人もなかろうが、それでも、そのときの心情や情景を詠んだ句があってもよさそうだ。が、2,3の句集に当ってみつからなかった。台風一過、はじめて俳句をひねる気持になるのだろうか。 台風もそれたるらしや夕蜻蛉 きゆう わずかばかりの句集を繙いただけだから、当てにはならない。 「台風」という言葉ではないが、同じ9月の季語「二百十日」の類語で高浜虚子に次のような一句。 荒れもせで二百二十日のお百姓 虚子 農家の心情が惻々とつたわってくる。 そういえば沖縄のゴーヤは、現在では沖縄以外でも栽培されているようだが、昔は東京の八百屋でゴーヤをみかけることはなかった。というのも、収穫期に台風が来襲して実を落してしまい、収穫量がきわめて限られ、遠隔地に安定供給することがむずかしかった。それが現在のように高収穫・安定供給できるようになったのは、台風来襲を見越してあらかじめ倒して栽培することを思いついたことによる。そんなことを聞いた事がある。私がテレビの気象予報士のすすめに従って丈の高い植木をあらかじめ倒しておいたようなものだ。まさにこの思いつき、コロンブスの卵だ。これを思いついて実行してみた最初の人がいたはずだ。どなたであろう。 私はまったく自己流の「ゴーヤ・チャンプル」をつくる。あの苦味が好きだ。もちろんゴーヤは東京の自宅近所の八百屋で買う。台風の頃になるとゴーヤをめぐる「発想の転換」を思い出す。 台風の直撃にあわれた方々には心よりお見舞い申しあげます。
Jul 15, 2007
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木下順二『夕鶴』の音楽を担当した團伊玖磨は、この劇作品をオペラに創り1952年に初演している。私は昨日述べた山本安英の会公演に先立つちょうど3年前に、このオペラ『夕鶴』も観ている。 1966年2月12,13日、東京文化会館。 オペラ『夕鶴』 作:木下順二、作曲:團伊玖磨。 指揮:團伊玖磨、演出:小田健也(岡倉士朗の初演演出プランに拠る)、美術:伊藤熹朔、照明:穴沢喜美男、管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団。 つう:伊藤京子(12日)・大谷洌子(13日)、与ひょう:中村健(12日)・宮本正(13日)、運づ:栗林義信、惣ど:佐々木行綱、子供たち:東芝シンギング・エンジェルス。 一部ダブル・キャストであった。私は13日に観た。 オペラ『夕鶴』は初演以来、このときまで14年間に、世界各国で上演され、團伊玖磨の代表作になっていた。そればかりでなく、すでにして日本オペラの代表作という評価が出ていた。 そうではあるが、私が観た公演時のパンフレットにおいて木村重雄は、このオペラが「どんな場面でもみんな、うたってしまう」19世紀のグランド・オペラのかたちを受け継いでいて、「はたして《夕鶴》が現代のオペラかどうかという疑問が、そこから生まれてくるのは否定できない」と、忌憚ない意見をのべている。 木村重雄が考える現代オペラは、どんな場面でもみんなうたってしまうという「不自然さをなるべく避け、それぞれの民族のことばのもつ音楽的な美しさを生かして語られ、かつ、それが劇としての発展のなかで音楽とかかわりあった独自の効果を生みだす方法が、さまざまなかたちで追究されている」と述べる。 この意見は誤りではあるまい。だが、そのような意味での現代性は作曲家・團伊玖磨の資質には望んでもないものかもしれない。「現代性」が、木村重雄のいうような、方法論だけによるものかどうかも疑問である。 この問題は、しかし、パンフレットの作曲者自身の一文「オペラ〈夕鶴〉の15年」を読むと、意外な側面が見えてくるのである。 もともと新劇の木下順二作『夕鶴』に依拠してオペラ化されたのではあるが、初演後に演出家岡倉士朗が亡くなると、作曲者團伊玖磨をはじめとするオペラのスタッフ・キャストは、もはや新劇によりかかれないと認識する。團のことばによれば、「新劇の影響から、真のオペラへの移行の苦しさ」を経験したというのだ。そうして、こうつづける。「ようやく、新劇の影響からのある程度の良さは残しながらも、そのリアリズムに発する‘がさつさ’と幼さを払拭して、あくまでも原作の精髄と音楽から抽出された、真の日本のオペラの演出法ができあがった」と。 この團伊玖磨のことばに、じつは私は戸惑いを覚える。 「リアリズムに発する‘がさつさ’と幼さ」とは、山本安英の舞台を指しているとしか読めないのだが、そうだとすると、團伊玖磨の目と感覚を疑ってしまうのだ。初演以来の岡倉士朗の新劇スタイルの演出そのものを指しているとも読めなくはないが、それにしても、山本安英の『夕鶴』もじつは初演以来、岡倉士朗の演出で、木下順二の演出は岡倉演出に準拠しているのである。 「原作の精髄」と言う、その原作とは何を指すのだろう。木下順二作『夕鶴』だろうか。誰もがそう思うにちがいない。しかし團はわざと曖昧にしているが、この原作は、木下順二も下敷きにした「鶴女房」という民話そのものを指しているのではあるまいか。そうでなくては、その前にのべた新劇の「リアリズムに発する‘がさつさ’と幼さ」という文脈とつながらない。 「鶴女房」という民話を素材にして、木下順二が見つめていたものと團伊玖磨が見つめていたものがまったく異なる、と私は気がつく。 山本安英の舞台を観て、それがリアリズムだと思うものがあるだろうか。‘がさつさ’と幼さを感じるだろうか。ノーだ。入口と出口が違うのだ。極めて様式化された入口から、やがて観客はその幻想性をつきぬけた現実性に到達する。「リアリズム」とは方法論なので、それは山本安英の採用するところではない。けれども観客のこころには最終的にはリアルに響いてくるのである。 一方、團伊玖磨のオペラはどうだろう。彼は、歌いたいだけ歌って、幻想世界をつくりあげる。しかし歌手達の演技は山本安英にくらべようもなく、ついに人間性の深淵に到達することはない。この事実を、團は、「幼さを払拭」した結果というのだろうか。 木村重雄の表現は正しい。木村はオペラ『夕鶴』を現代のオペラというには問題があると見た。それは作曲法に通じる方法論の謂いのようではあるが、私に言わせれば、原作から現代を照射する問題性をくみとることができなかった、そのような意味での現代オペラからは遠い作品なのだ。木下順二の「歌(作家の魂)」と團伊玖磨の「歌」とには、隔絶の違いがあるのである。 私はオペラ『夕鶴』をたしかに観た。観たけれども、その舞台も音楽も、今、よみがえってはこない。私はそのことでかえって、山本安英の舞台成果に、こころを打たれる。 オペラ『夕鶴』1966年2月東京文化会館公演パンフレット
Jul 14, 2007
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午前0時15分から2時までNHK・BS2で「昭和演劇大全」シリーズの山本安英の会『夕鶴』を観ていた。昭和44年(1969.1.18~2.25)東京・砂防会館ホールにおける舞台の録画である。 この砂防会館ホールの公演を私は実際に観ている(2月24日)。そしてたまたま作者であり演出の木下順二氏にお目にかかることができ、パンフレットに御署名を頂戴した。そのことについてはすでに06年11月30日の日記に書いた。御署名の画像も掲載している。 というわけで、テレビ録画の日にちは示されなかったが、再見できるのも思いがけず、たいへん嬉しかった。 あらためて同公演のスタッフとキャストを述べれば、 作・演出:木下順二、美術:伊藤熹朔、照明:穴沢喜美男、音楽:團伊玖磨、効果:岩淵東洋男、衣装:森亮子。 つう:山本安英、与ひょう:宇野重吉、惣ど:下条正巳、運ず:米倉斉加年。 物語はいうまでもなかろう。「つる女房」として知られる民話を下敷きにしている。上演時間にしてわずか1時間ほど。 一見他愛無いような物語だが、日本の現代演劇史のなかでひとつの頂点にたつ。伊藤熹朔(俳優座の重鎮だった千田是也氏の実兄)の舞台美術は単純化された様式的なものであるが、そこでくりひろげられるドラマは端倪すべからざる深さのある重厚なものである。 山本安英のセリフ術のみごとさ。そして無言の長い間に持続する稠密な情感演技。人間の肉体に抽象的に現われる鳥の面影。下条正巳の確かな存在感、その表情のすばらしさ。宇野重吉の無邪気さ(純粋)の表現。純粋と一口に云うけれど、それを表現するのは至難の技。宇野重吉の演技は、「バカ」とは見えないのだから、その程の良さは見事である。幕切れの表情のなかにある悲哀、真摯さ。与ひょうの体験は一種のイピファニー(Epiphany:神聖顕現、接神体験)とも考えられるが、その神秘体験者の呆然としてニュートラルな表情を、宇野重吉はじつに適確に表わす。 子供たちと遊びつかれて炉端で寝込んでしまった与ひょうを、つうは純白の着物の両腕を翼のようにひろげてかき抱くように覆いかぶさる。すばらしいラブ・シーンだ。思えば「つる女房」は異類婚説話なのであるから、有りていにいえば人間の男と鳥との性交の物語。当然、その閨房(ベッド・シーン)があれやこれや想像されて然るべきなのだ。 上記の山本の演技はその昔からの民衆の無意識にきっちり応えているのである。『夕鶴』は子供向けの芝居ではない。たとえ異類婚説話の民俗学的意義や仏教教学的な意味に思い至らなくとも。番組解説者の渡辺保氏が、「この劇には舞台上に現われない裏の場面がある」と言っていた。渡辺保氏が考えている「裏の場面」が、何をさしているか、実のところまったく不明ながら、しかし、指摘は鋭い。 夫婦の型とか純愛を思うこともできる。また、資本論や労資問題をそこに見るむきもなくはない。そのように解釈せずにはおれない時代的な要請もあったのだから。 だが、事は、幕があがる以前に、与ひょうがどうやら傷ついた一羽の鶴を救けているらしいこと、そしてその事件からほどなく一人の女が家の戸をたたき、あまつさえ居着いて夫婦になっていたという事実。この与ひょうの体験。・・・与ひょうにとってはきわめて自然な成行きながら、他人に口にしてしまえばまことに奇怪な話。たとえこの時点で、救助した鶴と女房となった女とが同一であると結びついていなくとも。・・・やがて二反の美しい織物を与ひょうに残して、女は何処へとも知らず去ってゆく。折も折り、この事件の周辺にいた人々は遥かな空を飛んでゆく一羽の鶴を目撃する。 与ひょうの女房だった女と鶴とを結びつけて考えた人は、不思議な事件の立会人になったわけだ。しかし、与ひょうの意識のなかでは結びついてはいない。彼はある日あるとき、何事かの当事者になって無意識のうちに魂の浄化を経験した。私が一種のイピファニーと言う由縁だ。・・・これがこの物語の全貌である。 上記のスタッフ・キャストを一瞥すれば分るように、みなさんがそれぞれの分野で輝かしい仕事をしている。このわずか1時間の芝居がどのような知恵の結集であるか、「昭和演劇大全」という番組タイトルの観点にたてば、その芸術的成果は納得できよう。木下順二は『夕鶴』を山本安英のために書き、山本安英が存命中は他の人が演ずることを許可しなかったと聞く。むべなるかな。彼女によってこの民話劇は完璧にむかって広大で深甚な耕作がおこなわれていたのだから。私が観たときで上演回数は優に500回を越していた。観客はそのたびに山本安英によるすこしづつすこしづつ新たな『夕鶴』を観ていたはずだ。 学生時代に私は、乏しい小遣い銭を工面して、名優といわれていた人の舞台を観てきた。それらが私のこころのなかで今も色褪せることなく生き続けている。驚きであると同時に、幸せを感じる。テレビを見ながら、24歳の私と62歳の私とが座席を隣り合わせているような感じがした。その差38年。私は成熟したのかどうか。
Jul 13, 2007
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大型の台風4号が沖縄と九州の一部を暴風雨域に巻き込み、14日には九州を通過するとのこと。同地にお住まいの方々はくれぐれもご注意ください。午後11時半を過ぎた現在、四国地方も雨が降り始めているようだ。15日午前3時過ぎには関東一帯も雨になるようだ。テレビの気象予報で、鉢植えなどは取り込み、丈の高いものはあらかじめ倒しておくことを勧めていた。物干竿なども下ろしておくようにと。 せっかく注意をうながしているのだから、私もいまから10数個の鉢植えを屋内に入れ、1m2,30cmほどのビロウは倒しておくことにする。
Jul 13, 2007
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会津の「童劇プーポ」のK氏に電話を入れた。50周年記念誌について問い合わせるためである。 K氏と言葉を交すのは初めてのことで、46年前にすれちがうように出会っていた。第10回記念公演の木下順二作『おんにょろ盛衰記』が私の初舞台だが、当時、私は16歳、高校1年生。K氏はそのときすでに退団して東京在住だった。そのK氏が公演当日、わざわざ観劇に來若した。そして私は初舞台の緊張のなかでちらりと出会ったのだ。終演後の集合写真にK氏もスマートなスーツ姿で写っている。 電話でK氏は私のことを「イガグリ頭で、クリッとした目をしていましたね」と言った。 そうなのだ、私は丸刈りの坊主頭だった。『おんにょろ盛衰記』は江戸時代に時代設定した民話劇。私は役をもらったものの、坊主頭が問題になった。公演当日までに髪がのびるはずもない。結局、女性用の髢(かもじ)をかぶったうえに宗匠頭巾をつけた。髢(かもじ)と云ってもお分かりにならないかもしれない。今のエクステンション。日本髪を結うときの添え髪である。 それをずれないようにきつく結わえたので、頭がキリキリと痛んだ。舞台に出ている間は忘れているのだが、昼夜2公演だったので、夜の部が始まるまではメイキャップをすっかり落していた。K氏はそんな楽屋での私を見ていたのであろう。(日記06.November 30に写真掲載) 電話では昔話に時間をとるわけにもゆかず話しそびれたが、私は入団する2年前に、K氏の舞台姿を見ていた。それは諸井條次作『千鳥太鼓』で、K氏は少年に扮していた。これは後の評価を高からしめた素晴らしい舞台だった。とりわけK氏の少年が評判になった。K氏の実年齢より10歳以上も若い役だったので、後年、「永遠の少年」という異名をとったほどである。 『おんにょろ盛衰記』を観に帰郷したK氏の面影は、たしかに「永遠の少年」の雰囲気があった。 あれから46年が経っていた。その声からすると「永遠の少年」は、失礼ながらどうやら「好々爺」という感じだった。「イガグリ頭で、クリッとした目」の高校生は、はて、どうなっているのやら。 46年ぶりに電話で出会って、初めて言葉をかわし、しかし何の懸隔も感じないというのも、考えてみれば珍しいことかもしれない。 いやいや、懸隔を感じないというのは、互いに世慣れているということに他ならない。昔にもどったのではなく、年を重ねたにすぎないのだろう。 私は今後の連絡先をつたえて、電話を切った。
Jul 11, 2007
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あした半日ほど家人達はみな外出する予定だという。私は例のごとく猫たちと留守居役。というわけで私は一足早く小雨のなかを外出した。 会津若松市の「童劇プーポ」が今年創立50周年。その記念公演を11月11日におこなう。私は16歳から18歳までこの劇団に所属し、第10回記念公演で初舞台を踏んだ。そんな縁で、50周年記念誌の表紙絵を描かせてもらう。50年間の資料もどうやら揃ったようで、編集作業にはいったと、顧問の清水和彦氏(私の中学時代の体育の先生でもある)から連絡があった。上演演目は、ある原作の脚色権を得て劇団内で脚色するとのこと。・・・その原作を読んでおこうと、探しに出かけたのである。表紙絵は上演作品とは無関係でよいとのことだが、すべての情報は頭にいれておくというのが私の方針だ。 初版は2002年だが、書店の検索で2006年の新装版を探しだしてくれた。さいわい在庫があった。 意外に早く目的を果たしてしまった。ぶらぶら歩きながら横浜元町のパン屋「ポンパドール」に立ち寄り、焼き上がったばかりの同店オリジナルのレーズン入りバケットを買う。 あるフランス人が呆れていたが、日本のテレビを見ていると食い物のことばかりやっている。同工異曲というより同工同曲、あれはいったい何なのだろう、と。私はそのような番組を見ても、たいして食欲は湧かないのだが、奇妙なもので、各国のパン事情を見せられると途端に食べたくなってしまう。インドのナンのような無酵母パンのいろいろや、ヨーロッパの片田舎の大きな丸パン等々。・・・一見単純な製法のようで、じつはもっとも土着の知恵がこめられている。それがパンだ、と私は思っている。日本人が米の御飯にいつかな飽きないように、彼等はパンに飽きない。その秘密にふれたいのである。・・・と云ったら、知が勝ちすぎる。いや、もう、単に地元のパンが食べたいのだ。 レイモンド・カーヴァーの短篇小説『A Small, Good Thing』は、私がしばしば読み直す一篇だ。 小学生の息子の誕生日に、母親はバースデイ・ケーキを特別注文する。朝、息子は友達とつれだって登校するが、途中で車にはねられてしまう。病院にかつぎこまれ、手術がおこなわれ、その慌ただしさのなかで母親はバースデイ・ケーキを注文したことをわすれてしまう。店からケーキが出来上っている旨の電話が入っても、嫌がらせの電話としか思えない。そして、息子は死ぬ。 深夜、夫婦は疲れきって車でパン屋の前を通りかかる。真っ暗な店内の奥にぽつりと見える明かりに引かれてその裏口のドアをたたく。出て来たパン屋のおやじさんと母親は互いに気がつく。バースデー・ケーキの注文を。あれ以来、三日経過していた。 「あの古いケーキをおひきとりになるつもりですか」とパン屋は言う。 「あんたなんか、殺してやりたいわよ!」母親は泣きながら、息子は車にはねられて死んだのだと叫ぶ。 「わかりました。ケーキのことは気になさらないでください。私は仕事にもどらなければなりません」 「御愁傷さまと言わせてください」パン屋のおやじは若い夫婦に椅子をすすめ、そして「息子さんのことは本当に御気の毒としか私には申し上げることばもありません。わたしはただのパン屋なんです」 やがてパン屋のおやじは焼き立てのパンを若い夫婦にすすめる。 甘い香りが漂い、二人は夜のふけるのもわすれ、夜が明けても、そこを立ち去りたいとは思わなかった・・・ 片手に雨傘、片手に本とパンを持ち、私は甘い香りをふりまきながら帰宅した。
Jul 10, 2007
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私のこのブログが私自身のハンドル・ネーム表示に反応しなくなってしまった。たぶん他のHPを訪ねてもアクセス記録には私のニックネームが表示されていないのではないか。表示されなくとも特別不自由ではないが、理由がわからないのでなんとなく気に障る。お客様のハンドル・ネーム表示は正常に機能しているだけに、気障りがくすぶっているのである。 そこで思いついて、ニックネームを変更してみた。AZURE0702をAZURE702に。するとプロフィール画面は変更が適用されたのだが、その他のところは以前のままのニックネームである。「???」 いま、私は画面をみながら、あれこれ理由を思案しているところだ。
Jul 9, 2007
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小説家の花輪莞爾氏から『季刊 現代文学』75号が送られてきた。年に2度、刊行されるたびにプレゼントしてくださる。もう20年以上におよぶ。もちろん花輪氏の小説や評伝が掲載されている。 今号には短篇小説『善意の人』を発表されていた。と云っても、かつて昭和48年4月に『新潮』に発表した作品を改稿したもののようだ。単行本『悪夢百一夜』に収録されなかった作品で、私は氏のほとんどの作品を読んでいるのだが、本作は未読である。 花輪氏の想念にはアラビアン・ナイト、いわゆる『千夜一夜物語』があるらしく、自らの小説集も一冊の本としての物語の数に拘泥するようだ。夏目漱石の『夢十夜』も念頭になくはないだろう。そんなわけで『悪夢百一夜』から洩れてしまった旧作がいくつかあり、そのうえに、若書きの文章に忸怩たる思いがあるようで、近年、それらに再び手を入れずにはおれないらしい。 私は自分自身も作品のスタイリッシュなることを好む癖があり、シリーズとしての作品数やその配列の幾何学性に喜びを見い出す。スタイリッシュなることが、私にとってはそこはかとなくエロティックなのである。であるから、花輪氏の物語の数への拘泥を、おもしろく思っている。おもしろく思いながら氏の著書を何冊も装丁してきた。 しかし、旧作に手を入れることについては、十分理解できるのではあるが、それよりも新作を書くべきではないかと心ひそかに思っている。時代は、過去の作品に拘泥しているほど暢閑ではない。・・・いや、そのことに私自身がようやくここ10年ほどの間に気がついたのだ。 私は若い頃、自作をなかなか手放せなかった。そのことは花輪氏もよく御存知の事実。自作を愛しむあまりと思われていたかもしれないが、その点はちがう。作品の「物質的な質」に自信がもてなかったのだ。10年後に亀裂が生じるのではないか、30年後に崩壊してしまうのではないか、と不安だったのである。一例が、某メーカーの絵具の成分に疑問をもった私は、それをキャンバスに平塗りし、10年間放置してみた。すると案の定、10年目を迎えるころ、画面一面に蜘蛛の巣が張ったような亀裂が生じはじめたのだった。もちろんその10年間に私はさまざまな絵具を実験し、それによってある程度の絵画組成の問題を解決していたのであったが、それでもなお、高価な金額で作品を買ってくださる方への職業人としての責任を強く意識しないではおれなかった。それは、作品を描いては直し描いては直ししないではいられない、強迫的な観念であった。 絵描きとしての出発当初、私はある編集者に連れられて幻想画家・故秋吉巒氏の自宅を訪ねたことがあった。自作に囲まれながら秋吉氏は、「こうして見ているとつい直したくなる。だから私の作品はみな未完成なんです」と言った。私は秋吉氏の自作に対するその執着、あるいは執念を、ある種の驚きをもって聞いた。そうでなければいけないかもしれないとも思った。私は、長い間、その観念から抜けられなかった。花輪氏の『悪夢名画劇場』および『悪夢名画劇場 2』を装丁するために制作した『夢の諸相』と『宇宙母』が花輪夫妻コレクションに入ったのは、描いてから20年後のことである。20年経って、画面の状態は描いたままの輝きを保ち、びくともしていなかった。海外で受賞したり、美術年鑑や雑誌等に何度もリプリントされていたので、御譲りすることにした。 イラストレーターである私の作品は、何千何万と印刷されていたのであるから、考えてみれば私の強迫観念などお笑いぐさだったはず。仕事のすべてが自分で満足できるものではない。しかし満足できないからといって、世の中に出て行った何千何万という印刷物を探し出して消去してまわることはできない。それどころか、自分では忘れ去りたいと思っている作品が、人の心の中で生きているのだということを知るような出来事もでてきた。 私はようやく、旧作を描き直すのではなく、旧作の不出来を新作をもって克服して行かなければならないのだ、と気がついたのである。 絵と小説とはちがう。小説家の自作に対する心情を私は知らない。今日ととどいた花輪莞爾氏の『善意の人』は、虚実の皮膜のあわいを行き来する見事な短篇小説である。余計な描写がひとつもない。含蓄のある練達の筆である。素顔の花輪氏を知っている私としては、氏の推敲の苦労が目に見えるようだ。が、一読者としての私は、そこに茶飲み話のように物語られた「悪漢物語(ピカレスク)」は、どこかお伽話よりももっと遠く、もはや現実の何物も照射してはいないと思われた。先に「時代は、過去の作品に拘泥しているほど暢閑ではない」と述べたのはそのことだ。我々はベトナム戦争時代よりもっとピカレスクな世界に現実に生きて、苦悩している。そのことは、花輪氏自身が、じつは明瞭に意識しているはずだ。と云うのは、「北ベトナム」や「ベトコン」という言葉にいちいち注釈を付し、「無制限の爆撃」と書いて「北爆と称した」などと説明しているのだから。若者が物を知らないことを見越しての老婆心かも知れぬ。しかしそのような状況下で成立する物語とは如何なるものであろう、と私はまずそのことを考えてしまう。 それよりも何よりも、花輪莞爾氏よ、昭和48年の『新潮』の読者の心に残る貴作をどうなさる。あなたが旧作を磨けば磨くほど、私は、今の今書き上げた作品を読みたいものだと思っています。
Jul 8, 2007
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「竹や竹~」と売り歩く声が消えて久しいとのこと。物干棹売りではない。きょうは七夕祭。昔の東京では七夕飾りの笹竹を売り歩く人がいたらしい。 物の本によれば、江戸時代には盛んだった七夕祭が東京では明治維新後に廃れてしまったのだそうだ。明治中頃にはふたたび隆盛のきざしがあったものの、またいつのまにか屋上に高く飾り物をたてる風習は見られなくなった、と。 たしかに住宅街を散策しても笹竹飾りは見かけない。ときどき幼稚園児や小学低学年児童が、学校帰りの手に小さな七夕飾りを持っているのに出会うくらいである。もちろん仙台や平塚の七夕飾りは賑やかで今にかわらず有名だけれど。 七夕祭はもとは中国に由来し、『春秋斗運枢(しゅんじゅうとうんすう)』や『石氏星経』や『史記』の「天官書」等々に牽牛・織女の聚会の夜という記述があると、5世紀末から6世紀初期の間に著わされた『荊楚歳時記』に出ている。 この七夕の祭りは「乞巧奠(きこうてん)」と言った。一家の婦女は庭を掃き浄め、錦の布綱を張り結び、七つの針を刺して糸を下げた。あるいは金・銀・真鍮で針をつくり、筵に机をならべて酒や瓜果を供えて、占った。 七夕祭は卜占の一面があったようである。月にむかって針の孔に糸をとおす。うまくとおれば、吉というわけである。あるいは蜘蛛をとらえて小盒に閉じ込め、暁にいたって蜘蛛の巣が張っているのを見て、その網が密であるか粗であるか等を観察して占った。蜘蛛の巣は織女の機織りとの縁であろう。 このような古代中国の風習が日本に伝来し、宮中では7月7日に清涼殿で乞巧奠がいとなまれた。有職故実によれば、清涼殿東庭に机四脚をならべ、九本の灯台に明かりを灯した。机の上には瓜果やさまざまな食品を供え、香炉や鏡や琴を置いた。そして夜を徹して香を焚き、水をはった盥に星を映した。また梶の葉に歌を書いて牽牛・織女に手向けた。 卜を占じた様子はない。かわりに染織・裁縫・書道・詩歌管弦が巧みになるように祈ったようだ。 ところで七夕にちなんだ古い歌を調べてみると、「鵲(かささぎ)の橋」という言葉がでてくることに気づかされる。たとえばこんな俳句がある。 鵲の橋に間近かき御祓川 さらに調べてみると、先に述べた『荊楚歳時記』の東洋文庫324の訳注に、出石誠彦「牽牛織女説話の考察」に拠る「鵲の群れ飛ぶ有様が、天空に架せられた橋のように見えるところから考えられたものである」という説を紹介していた。そして鵲の話は『准南子(えなんじ)』に見え、さらに『顔氏家訓』の「勉強篇」に七夕の詩をつくったことが記された後に「今夜呉台の鵲、亦た往きて共に河を填む」とあると述べている。 ついでながら鵲は元来日本の産ではない。豊臣秀吉が朝鮮の役のときに持って来たといわれている。別名「かちがらす」といわれる由縁ともなっている。 また、中国においても、宮中清涼殿においても供物のなかに「瓜果」とあるのが注目される。これについても調べてみた。どうやら古代中国では織女は瓜のなかに住まっている、あるいは御霊代と考えられていたらしいことがわかった。しかしなぜ瓜なのかは不明だ。ひとつ思い浮かぶことがあるが、検証していないので今ここには述べることは慎む。 さて、今宵東京の空は星を望めそうもない。しかし私も絵描きのはしくれとして、筆墨をならべて技芸の向上を祈ろう。
Jul 7, 2007
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さきほどまで、つまり7日をまわった午前0時5分から3時20分まで、NHK・BS2で昭和演劇大全シリーズの劇団民藝公演『炎の人』を観ていた。昭和52年(1977)に再々演された舞台の録画である。 三好十郎作、滝沢修演出・主演の『炎の人』は民藝の重要なレパートリー。初演は昭和26年。当時、芸術祭賞や毎日演劇賞を受賞している。初演の演出は村山知義であった。 私はこれを再演時に観ている。昭和44年(1969)4月、現在は無い東京渋谷の東横劇場において。初演以来18年ぶりの上演であった。演出は村山知義。ヴィンセント・ゴッホが滝沢修、弟テオが内藤武敏、ロートレックが山内明、ゴーガンは清水将夫。そしてアルルの踊子に、民藝で舞台俳優の修行をはじめたばかりの映画女優有馬稲子が扮していた。 このときのパンフレットが手元に残っている。エッセーの執筆者が錚々たる顔ぶれ。作者や演出家は当然として、木下順二・大佛次郎・小林秀雄・武者小路実篤、そして三人の画家、永井潔・麻生三郎・高野三三男、そして漫画家富田英三。また表紙写真は秋山庄太郎、デザインは長友啓典。 私はこの舞台を観る5,6年前に、アーサー・ミラーの『るつぼ』に出演されていた滝沢修氏に直接お目にかかっていた。そのことについては以前このブログで書いた。 『るつぼ』における滝沢氏は魔女裁判の判事を演られ、私はその存在感に圧倒された。終演後、全身がビリビリと痺れて座席から立ち上がれなかった。そのことを滝沢氏にお話ししたのだった。滝沢氏は「ホーッ!」と声をあげられ、耳をかたむけてくださった。 その素顔の滝沢氏の印象をもとに述べれば、演じているときの氏は、「滝沢修」を完全に消去してしまうのである。丸顔の温厚な素顔はどこにも見えず、私は峻烈な判事やヴィンセント・ヴァン・ゴッホその人を見ているようだった。もちろんメイキャップも私たちがどこかで見ているゴッホの肖像画から抜け出してきたかのようだ。今日のテレビの解説者渡辺保氏も述べていたことだが(注;このシリーズの解説を兼ねた司会者との30分におよぶ対談は、毎回うんざりするほどつまらない。玉に瑕である。)、民藝の演劇スタイルがリアリズムであることにもよるが、清水将夫のゴーギャンも山内明の身体障害者ロートレックも、おどろくほど肖像画や写真に似ていた。しかし、滝沢氏のゴッホは単に似ているというのではなかった。狂気を宿す目の光り。耳を切り落すまでの蒼白な顔・・・等々。 今日の解説の間に挟み込まれた1988年のNHKインタヴュー番組のなかで滝沢氏はこんなことを言っていた。京都公演のおり、体調が悪くなり高熱を発したのだそうだ。氏は床に就いていたのだが、もしかしたらゴッホはこんな状態で絵を描いていたのかも知れないと思い、床から起きだしスケッチ・ブックをたずさえて高山寺まで行き、必死に写生してみたのだ、と。 名優といわれた氏が、どのように役作りをしていったか、その一端がうかがえる話である。 ところでBS2が放映した再々演の舞台は、先に記したように演出が、村山知義の歿後ということもあったのであろう、滝沢氏に変わっている。 私は記憶をたぐりながら自分が観た舞台と比較していたのだが、ずいぶん印象がちがって感じられた。ゴッホの生涯の精神的変遷が、いっそう明確になったのではあるまいか。 生の舞台を観るのとテレビで録画を観るのとでは、前者が常に広い舞台全体を観てい、一方、後者は映画のようにクロウス・アップがあったりするのでより集中できるからかもしれない。しかしそれでもなお、私には滝沢氏のゴッホの精神的変化に、再演時にはみられなかったくっきりした抑揚がつけられたように思った。 もっとも異なると思ったところが2カ所あった。 ひとつは黄色い家からゴーガンが出てゆくと知ったゴッホは、孤独感にさいなまれ、なじみの踊子がお金のかわりにその素敵な耳をもってきてという言葉を実行に移してしまう。次第に激昂した彼はやおら剃刀を取り、一気に左耳を殺ぎ落す。私が観たとき、滝沢氏はたしか鋭く「シュッ!」と声を発した。その瞬間、暗転した。 しかしテレビ画面を見る限り、この声が聞こえなかったのだ。演出・演技を変えたとしか思えない。 もう1カ所のちがいは、エピローグの病院に収容されたゴッホ像である。 この最終の短い場面は、ゴッホが耳を切り短銃自殺未遂の後に収容された精神病院の一室。弟テオと郵便配達夫ルーラン、そして若い看護婦がやや離れたところでベッドを取り囲んでいる。ゴッホは耳を繃帯で巻かれ、唇にパイプをくわえ、モーヴ色のガウンをはおって半身を起し、キャンバスに向ってゆるゆると絵筆をうごかしている。会話は一切無い。その場面に作者三好十郎のオマージュの声が流れる。 私が観た再演舞台は、ゴッホは顔に険しさのようなものを滲ませていたように記憶する。声が言う。「あなたは狂ったけれど、画家としてのあなたは狂わなかった」ゴッホはキャンバスを真剣な目つきで見つめる。 だが、今日のゴッホ(再々演)は、その顔に険しさはなく、なにか天上的なおだやかさがあった。世間から切り離された(切り離れた)、深い静けさのようなもの・・・。 宇野重吉が演じる「声」のオマージュがこう結ぶ。 「フランスでは誰にも理解されなかった。しかし、日本人はあなたを理解する。喝采のなかへ飛んで来い!」 静かに幕が降りる。 それにしても私はあらためて残念に思ったのは、滝沢修の『夜明け前』を観ていないことだ。その伝説的な狂気の表現を観ておくべきであった、と。
Jul 6, 2007
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夏男の私は(ほんとうは四季が好きなのですが)、やっぱりなーと言う感じで、仕事が重なりだした。 錯綜しかねない仕事をシステム化して流れを良くするのは得意とするところ。と云ってもスイスイと乗り切るために体調管理が大切。 で、きょうは梅雨のわずかな晴間というので、新しい自転車をひっぱりだして、3時間半のサイクリング。爽やかな風をきってとは行かないが、遠い夏雲をめざすかのように走ると、おのずと「緑の風もかろやかに」と鼻歌がでてくる。 軽飛行機を自作する人が多いアメリカだが、そのような飛行家が「地上から眺める雲はすばらしい。でも空からながめる地上の景色はもっとすばらしい」と言っていた。人間には空への憧れといえるまぎれもない心情がある。私も空を眺め、雲を眺めるのが好きだ。飛行機を自作して空を飛ぶことは日本国内では不可能だし、私にはアメリカに行って飛行機を作る能力も気力もない。が、じつは絵を描くこと以外でやってみたいことが私には二つある。ひとつは乗馬の訓練を受けること。もうひとつは飛行機の操縦を習うことである。乗馬は踏ん切りさへつけば可能だが、飛行機のほうは資格がない。視力が無いのだ。 「昔 ひとは鳥だったのかもしれない」と加藤登紀子は歌っている。私はそんなロマンチストではまったくない。私は私の肉体と精神のままで空へ飛び出したいのである。 重畳とする雲を遥かに見ながらペタルを踏む。「東京にはほんとうの空がない」と、狂いながら高村智恵子は言ったようだが、そいつはお生憎さまでした。私の神経は図太いのだもの。私の空はいたるところにあるんだ。 途中で2度、水分補給をする。 清水のめば汗軽ろらかになりにけり 高浜虚子 虚子の句はほんとうに真直ぐだ。 こんな句もある。 目洗えば目明かに清水かな 高浜虚子 私も目を洗わなければ。
Jul 5, 2007
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本日、『山田維史の遊卵画廊』へアクセスして下さったお客様がのべ6万人になりました。ありがとうございます。楽天会員の皆様、各ウェブ・サーバー経由の皆様、マスコミ関係各社、企業各社、自治体、そして内外110校の大学各機関に、心より御礼もうしあげます。 これまで節目ごとに御芳名帳の御披露を恒例にしてまいりました。しかし6万名様ともなりますと大変なページ数になりますので、今回御遠慮させていただきました。 考えてみるまでもなく、ハンドル・ネームによるアクセスのため私はお客様とまったくお顔を拝見することもなく、また実際的に確実に未知の方々であります。しかし、私が特別に作成した来客御芳名帳を繰っておりますと、すくなくとも数百人におよぶ常連のお客様のお名前はいつしかきっちり私の頭にはいっており、不思議ななつかしさを感じます。その方々のアクセスがしばらく途絶えると、「おや、どうしていらっしゃるだろう」とさへ思うこともあります。おもしろいものですねー。 いつだったかラジオ番組で、ブロガーについて、「閉じこもりでひとりよがりの人たち」と嘲笑的に批判する「識者」の意見がありました。さあ、この意見、どんなものでしょう。これこそ自己中心的な切り捨て御免の観念論者のように私は思ったものです。 たしかに、インターネットによるコミュニケーションは、従来のコミュニケーション論ではとらえられないものでしょう。また、「真のコミュニケーションではない」という意見もあるかもしれません。「一方的」で「のぞきみ的」で、それが何でコミュニケーションと言えるのだ、と。 そうですね。なかには私怨による私人に対する攻撃、あるいは理由なき攻撃が多発していることは事実ですから。 しかしそれでもなおかつ、そういう意見に対して反論はできるでしょう。たとえば知識や情報の摂取というのは、多かれ少なかれ「のぞきみ」によるものなのです。もともと自分にないものを他から摂取するわけですから。また、「一方的」というのも、そうなる可能性はあるけれども、サイトの運営の仕方によってコメントやメッセージを送受できるわけで、コミュニケートしようという積極的な意思があれば、そこにあたらしい関係性ができてくるでしょう。 私は世界のブログ事情を知りませんが、日本のなかで考えてみますと、文化論として次のように言えるかもしれません。 日本人は古来、よく日記をしたためてきました。名のある文人墨客や施政者ばかりではありません、ごくごく一般の庶民が家事日記や農事日記、旅日記や俳諧日記等々をたくさん残しています。それらは官製の歴史書にとりあげられることもなかったですし、文学的にとりあげられることもなかったのですが、むしろ日本人の日常生活を正しく知ることのできる貴重な資料となっています。私自身、骨董市やガラクタ市などで、ほこりまみれの大箱に埋もれた、昔昔の質屋の日記とか伊勢参り旅日記を目にしたことがあります。あるいは戦中日記などもみつかります。それらの筆者はみな、いわゆる市井の無名の人たちです。 このように市井の無名の人たちがたくさんの日記を残している国は、おそらくほかにないのではないかと言われています。比較研究をしてみなければ事実は不明ですが、すくなくとも日本人は古来筆まめに良く書いたことはまちがいありません。私は、こういう文化的気質が、ブログの隆盛におおきくかかわっているのではないかと見るのです。ひっこみ思案で、なかなか自分の意見を言わないといわれてきた日本人です。あんまり意見を言わないものだから、それを「美徳」とさえ考え、じじつ大抵の紋切り型の日本人論はそう書いています。しかし、どっこい、ここにきて、つまりブログというメディアを気軽に手にすることができるようになって、本来の筆まめが一気に開花しているのではないでしょうか。 のべ6万人のお客様の御会いしたことがないお顔を想像しながら、そんなことを考えた次第です。 これからもどうぞご訪問くださいますようお願いいたします。お待ちしております。
Jul 4, 2007
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山田維史 《久間氏の為の原爆》 CG 2007年7月2日
Jul 2, 2007
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7月2日、この『山田維史の遊卵画廊』を開設して3年目に入ります。管理画面のブログ・データによれば、開設日数、731日。日記記入率は86.9%とあります。どれほどの文字数になるのかと、ためしにざっと計算したところ、B5用紙でおよそ2,000枚になりました。仕事の片手間によくぞつづいたというのが自分自身の率直な感想です。 そして、たくさんの常連のお客樣はもちろん、通りすがりにお立ち寄りくださった方々に心よりの御礼を申しあげなければなりません。よしなしごとの駄文を、長らく御愛読くださいました。 いまだに不思議なのは、新しい日記をアップすると間髪をいれずに20人30人とアクセスしてくださいますが、どうしてお知りになるのでしょう。それが分らないのですから、私はいまだにブログ初心者というわけです。これからもご訪問をお待ちしながら、身辺雑記やアートをめぐる話題を書いてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。 さて、三周年を記念して、アクセス・ナンバー〈60000〉のお客様に、ささやかながら御礼の記念品として、オフセット美術印刷した私の作品14枚組の絵葉書をお贈りしたいと思います。もし御希望ならば、画面右側の〈Mail〉欄からメッセージをお送りください。それにもとづいて御連絡をさせていただきます。 ありがとうございました。
Jul 1, 2007
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暑い日に「暑い、暑い」と言っていても仕方がない。母が外出着がほしいと言うので、みんなでお供することにした。 88歳になって背中がまがってくると、太ってはいなくともフィットするサイズをみつけにくいのだそうだ。昔は和服しか着ないひとだったが、年をとると洋服のほうが手軽で便利。もう10年以上、母の和服姿を見たことがない。畳紙(たとう)につつまれた沢山の着物は死蔵されたまま。自分が死んだら嫁に遺贈するのだと言っているが・・・ あれこれ選んで、5,6着を私がかかえ、最終的に純白のワンピースときれいな小豆色のレースのアンサンブルに決める。ワンピースはパンツと組み合わせるとよかろうと・・・。 車を走らせながら、動物病院の前を過ぎる。そのファサードの壁一面に、ゾウやキリンやオランウータンなどが描かれている。 「ゾウを持ち込まれたら、どうするつもりだろう!」 わが脳天気な家族は、笑いながら街を走り抜ける。 次いで自転車店に寄る。今日一日だけのバーゲン・セールという広告が出ていた。あたらしい自転車がほしいと思っていたが、決めかねていた。あれこれ品定めをしたあげく、6段変速のタウン・サイクルを買うことにした。 「お持ち帰りになりますか?」と聞かれ、ここで私は車を降りて、買ったばかりの自転車で帰ることにする。 何やかにやの手続きを終え、店員に送られて出発。しばらく走ったがどうも調子が悪い。サドルが低過ぎ、まるで子供の三輪車に大人が乗っているようだ。腿がやけに上にあがる。サーカスの猿のようだ。 道路脇に停車してサドルの高さを調節した。買う前に乗って試したときはちょうど良かったのに、店員の手から店内にいたメカニックに渡ってから、サドルの高さだけはベイシックな状態にしてしまったらしい。調節している私の横を我家の車が通り過ぎて行った。 帰宅してからザーッと水シャワーを浴びて汗を流せば、暑さもまた爽快なりである。
Jul 1, 2007
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