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多くの住民の証言が存在するにもかかわらず、沖縄戦で日本軍が住民に集団自決を強制したとの記述が、文部科学省教科書検定委員会によって高等学校用歴史教科書から削除する意見が提出された問題で、これに抗議する沖縄県民大会が、きのう29日、沖縄県宜野湾市において開かれた。参加者は主催者発表で11万人と報道されている。またこれに呼応するように、沖縄県以外の自治体でも、この検定意見撤回を要求する集会や呼びかけがおこなわれたという。 私は去る6月29日付のこのブログで、「沖縄県全市町村議会に賛意」と題して、41市町村すべての議会が6月28日までに検定意見の撤回を求める意見書を議決したことに、個人的に賛同した。 文部科学省教科書検定委員会は、過去にもとかくの疑念を抱かざるをえない事跡の上に在る芳しからぬ委員会であるが、こと歴史教科書についての改竄決定は、国民の将来に対するほとんど裏切り行為と言わざるをえない。今回の沖縄戦をめぐる検定意見ひとつとっても、それは単に沖縄県民の心の痛みの問題ではなく、全日本国民の問題なのだ。 なぜなら、 一つに、沖縄県民は日本人同胞によって、しかも日本国家によって、二度の裏切りにあっているということだ。国家が国民を裏切るという構図は、じつは日本の政治の特異性として、今後、歴史的に検証してゆかなければならない重大なテーマであると私は指摘しておくが、さしあたって今われわれ国民は、その裏切りに加担すべきではない。 二つに、このような検定意見は、歴史学の学問的存在意義を根底から崩壊せしめるものであることだ。事実の検証から導きだされた歴史観ではなく、自己絶対化の歴史観から再構築された歴史は、もはや学問ではなく幻想的観念である。危険なのはそのような幻想的観念的史観で育成された人格は、世界から疎外された狂気の人格といわなければならず、人生のあらゆる真実から疎外されるのである。われわれが学問を志すのは、人生を世界の局面の真実に添わせるためであろう。クイズの答の知識を蓄積しているのではない(昨今の教育現場では、ほとんどそれに似た、学問の意義からは遠いことがおこなわれているが)。 三つに、ナショナリズムの発揚は否定すべきものではなく、むしろ必要であろう。しかし、それは従来的なナショナリズムを排したものでなければなるまい。つまり、自己愛が肥大した排他的なナショナリズムを信奉する時代ではないということだ。そのように世界を見据えなければならない、と言っておこう。大平洋戦争時の日本の失敗は、天皇制のもとでの自己絶対化政策にあった。いうなれば知性欠如の狂気の国家だった。文部科学省の推進しようとしていることは、まさにその狂気の国家の再生である。いや、曲学阿世の教科書検定委員会なるものの妄議を許していては、いずれそのような国家になるということだ。 歴史改竄を目論むような教科書検定は排さなければならないのは無論、そのような検定委員会は国民に対する重大な裏切り行為として断罪されなければならない。われわれ日本の多くの国民は、過去の戦争を通して、真実の歪曲がきわめて多くの国内的損失をもたらすばかりか、ひいては諸国間の信頼を損ねることを学んだのだ。文部科学省はその学びをあなどっていはすまいか。 このブログにアクセスしてくださる大学や専門学校、あるいは教育機関が113校ある(ほかに海外の大学が16校)。その大学関係者に、私は呼びかける。 日本の大学としての知的基盤が、恣意的観念論によって破壊されようとしているかもしれない。なぜなら、事実を、真実を、見据えることができない怯懦(きょうだ)な者たちが、学問の場を牛耳ろうとしているからだ。すくなくとも、日本の現代史学は、科学的実証主義から引き摺り下ろされることは間違いない。現代史研究者よ、あなたがたの真摯な学徒としての存在意義が否定されているのですぞ。そうしたことが意味するのは、日本の将来を担う青少年の知性を、広い世界のなかで、使いものにならなくしようとしている、ということにほかならない。
Sep 30, 2007
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きのうは今年最後という真夏日だったが、今朝方の雨があがると一転して気温が下がった。老母が「寒い」と言うのでしばらくの間エアコンデショナーを暖房にした。 猫たちも代わる代わる私の膝にのっかる。私の膝の上が誰よりも広く安定し、体温も高いらしいのだ。西瓜でも抱えるように両腕を輪にして猫を膝にのせると、腕と脇腹との隙間に鼻をつっこむようにして気持良さそうにしている。私としては、いつまでもそんなことをしていられず迷惑なのだが、せっかくうとうと眠りはじめているのを追い出すわけにもゆかない。 家人が微笑しながらキッチンを指差し、「リコが棚の上の空き箱のなかにスッポリ入って寝ている。耳だけが見えている」と言った。 空き箱といっても、タテ・ヨコ・深さともに25センチほどの段ボール箱。躯をまるめれば隙間なくピッタリとおさまり、安心なのだろう。しかし、そんな場所をよくぞ見つけたものだ。・・・あとで見てみると、なるほど四角い箱の隅に、三角の耳が少しだけのぞいていた。これも一時の寒さしのぎの隠れ家か。 9月に入るころから、猫達の食欲が増してきた。「食欲の秋」というのは、われわれ人間の話ばかりではない。猫達はこれから沢山食べて太り、冬の寒さに備えるのである。毛も密に、ふさふさとしてくる。家の中にいままでになかった獣の臭いが、強くフッと漂うことがある。飼い猫といえども、彼等にはまだ自然の摂理に準じる野生が残っているのである。
Sep 29, 2007
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数日間とじこもって仕事をしていたので、運動のためサイクリングに出ようとすると、ついでの買い物をなにやかにやと沢山押し付けられた。これでは遠出はできない。まあいいか、気が変わればそれでいいのだ。 ・・・近所の家の彼岸花を眺め(今年は赤い花といままで見たことがない白い花が咲いている)、萩の花に目をやり、掘割に覆いかぶさるように茂るススキの白い穂を見やる。 朝食のとき、「昔、寺の庭に、マリモのようなまるい花をつける木があったのだけど、何と言う木だったかしら? 知っている?」と母が聞いてきた。 「マリモって、阿寒湖のマリモのこと?」 「そう。あんなふうな丸い花が咲くのよ」 「イメージがはっきりしないけれど、ネコヤナギのようなものかな?」 「そうじゃない、そうじゃない。・・・寺に来る人たちが珍しがって、苗をもっていったものだよ。私も寺に行ったときに貰って帰ろうと思ったけれど、いつでも貰えると思いながら何十年も経ってしまった。北海道なんてすぐそこだと思ったけれど、すこしばかり遠かった」 北海道の寺というのは、母の生家である。母は生家の庭にあった花卉を突然思い出したのであろうか。 私はその花のイメージをつかめないまま、話はそれで終わってしまった。 そんなことがあったので、いつもの園芸店に行ってみた。もちろんマリモのような丸い花をつける木がみつかるはずはない。この時季、園芸店の広い売場も花の色は少なく、うら淋しい感じがするばかりだ。丸々と太った立派なチューリップの球根が花の色別に大箱にいれられてある。ほしい気持が動いたが、帰りの荷物が多くなりそうなので止めにした。 それから隣の大型古書店に行く。(アハハハ)例によって、ここでは100円均一本の物色だ。 食指が動きましたぞな。次の4册に。 ●ギー・ド・ロスチャイルド『ロスチャイルド自伝』(1990、新潮社) もちろん大財閥・大富豪ロスチャイルド家、その総帥の自伝である。訳者の酒井傳六氏は、「あとがき」に、こう述べている。 「著者はロスチャイルド家のパリ分家の直系であり、フランスのロスチャイルド一族をリードした人であって、ロスチャイルド家全体の歴史についても、事業についても、政治.社会・文化についても、ロスチャイルド一族の中で最もよく知っている人である。したがって、その記述は、一つの個人史にとどまらず、時代史になっている。1909年生れの男爵は、幼年時代から1982年までを本書で語っているので、20世紀のほとんど全体について証言していることになる。」 ●ジョン・ラーベ『南京の真実(The Diary of John Rabe)』(エルヴィン・ヴィッケルト編;1997、講談社) 著者ジョン・H・D・ラーベはナチ党員であったが、日本軍占領下の南京で国際安全区委員会の代表となって中国人を救おうと奔走し、そのときの状況を詳細に日記にしたためていた。ラーベは1950年にベルリンで死去し、1995年に彼の孫が、歴史学者でありドイツ作家協会会長であった、そしてまたラーベを直接知っていたエルヴィン・ヴィッケルトに、日記の存在を知らせた。エルヴィンはこの日記を、日本軍による「南京事件」の全貌を記した第一級の歴史資料と認識し、これを出版することを決意。それが本書である。この日記は、ドイツ、中国、アメリカでもほぼ同時に出版された。 1937年の暮れから1938年の年頭にかけて、南京に入城した日本軍が、一般中国人に対して虐待・強姦・処刑という残虐行為の限りをつくした。その事実にもかかわらずこの「南京事件」は、決定的証拠や証言がないといわれて、日中間にさまざまなレベルの論争をまきおこし、しかし70年後の現在も政治的な駆け引きの闇のなかに置かれようとしている。悪いことに、日本では自己肥大化した恣意的な歴史観が声高に叫ばれて、この事件を存在しなかった「幻」と言いつのり、それは真摯に検証する学問的姿勢を遠避けるのみならず、国際情勢の不安定に乗じて軍国主義を復活させようとする動きをつくりだしている。 ラーベの日記は、日中の当事者ではない第三者の詳細な証言であるといえる。しかもラーベがナチ党員であったことは、日独同盟を考えれば、決定的な歴史証言とみなさなければなるまい。 ●北村稔『「南京事件」の探究 ― その実像をもとめて』(2001、文藝春秋) ラーベの日記と比較のために、日本の研究者がどのように資料を読んでいるかを見てみたいと思う。私のとっかかりのためである。 ●北原亜以子『雪の夜のあと』(1997、読売新聞社) 時代小説。母へのプレゼント。数日前まで母は北原氏の『傷』を読んでいた。「この人の小説は、おもしろいねー」と言っていたので。 先々月、母は老人検診を受けた。そのときお医者さんに「88歳とは思えないほど頭がしっかりしていますねー」と感心されたのだそうだ。そのことを嬉しそうに話した。「本を読んでいるからでしょう」と私は言っておいた。100円の本のプレゼントでボケを予防できるのだとしたら、こんないいことはない。 サイクリングのつもりで家を出たのだが、結局、家人にたのまれたあれやこれやの買い物をして帰ってきたのだった。
Sep 27, 2007
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大相撲の時津風部屋において、17歳の少年力士が、親方をはじめとする同部屋の力士たちによって集団暴行されたあげく死に至らしめられた事件について、私は先の横綱朝青龍の「品格」を云々する問題とともに考察してみたかったのだが、事件は今後おそらく殺人事件として捜査の手が入るであろうし、報道による限りあまりにも陰惨な事件なので今すぐに書く気力もない。 個人的な嗜好の問題や、文化的社会的普遍性のない問題を、私はブログで取り扱う気はまったくない。私はこの相撲界の事件が、単に特殊事例ではなく、日本特有の文化的普遍性をそなえているのではないかと思ったのである。 とりあえず、私の頭にうかんだ、問題の切口を以下にメモとして記しておこう。私自身の考えを練るために。【メモ】 たとえば武士道における「人格の高潔さ」などというのは、あまり信ずるに価しない。それはごく限られた差別的な世界にのみ通用すること、あるいは通用させるべく為していることである。 限られた世界で人格者と評価されている人物が、広く人間一般の平等なる世界の倫理観においては極めて下劣なることがあるのは、経験上認識することである。政治的人格者、官僚的人格者、一宗教・一宗派的人格者、スポーツ的人格者、やくざ社会的人格者、等々。 例にあげた武士道は、歴史的制度下における人口比たかだか3%の階級の、従属者として生きるために陶冶された儀礼的人格観であって、決して階級なき全人的なものではない。なぜなら彼等を支配するさらなる上の階級は、武士道的倫理から逸脱ないし超越していたからだ。さらに、武士道をさえ包含するもっと大きな倫理観は、武士道なくして人心を育成していたことは無論であり、それは日本文化さえ超越しているとみて差しつかえない。 時津風部屋の事件をめぐって、報道によれば、日本相撲協会の北の湖理事長は、「亡くなったということは重く受け止めなければいけない」と語ったという。 この鈍感さこそが、「伝統」と「人格の高潔」を云々する精神にこびりついているものなのだ。言うならば、閉鎖的社会が一般社会と出会うときにその内なる虚偽を糊塗して出てくる潔癖なる倫理観である。日本相撲協会が否応なく国際性を具えてきて、ここにきて文化的欺瞞が露呈しはじめているのだ。 尚、相撲界を閉鎖社会とみることに異論があるかもしれないが、時津風部屋の事件において、殺された少年力士の携帯電話が二つに折られて発見されたそうだが、少年が外部と電話によって接触することを阻んだと私は推測する。加害力士たちは、少年力士の携帯電話を破壊することによって、彼を自分達の閉鎖的社会に閉じ込めようとしたのであろう。
Sep 26, 2007
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今日は仲秋。と思って寝室の窓から夜空をあおぐと、流れる雲のたくさんの固まりの切れ目に満月がのぞいた。澄んだトルコ・ブルーのなかに、月の光を含んだすこし桃黄色がかった雲が美しい。 仲秋や互にひろき海と陸 虚子 虚子はまことに素直にうたう。子供のようなこころで大人の成熟をうたう。私はびっくりすると云うより、うたうその人の顔をまじまじと見つめる、そんな気分になる。言葉に物欲しげなさもしさがない。そういう言葉を誰もがもてるわけではない。 上の句でいうと、「互に」がいい。広さが倍に開ける感じがすると同時に、詠み手の立脚点が確固としてある。ふわついていないのだ。抒情の芯というべきものがある。 ・・・私は、そんなことを考えながら、しばらく月をあおいでいた。 月といえば、突然現実に話をひきもどすが、先日9月14日、月周回衛星「かぐや」がH-IIAロケット13号によって打ち上げられた。三菱重工業株式会社と宇宙航空研究開発機構との共同開発である。 このニュースに接して、じつは思い出したことがあった。日本のロケット発達史の最初のページに登場するペンシルロケットのことである。私は中学1年生のときに、学校巡回の教育映画教室で、その発射実験映画を見ていた。そのことを思い出したのであった。しかし、忙しさにかまけて、このブログに書くことができなかった。 ところが私にとってはまったくたまたまだったのだが、先程、仲秋の明月を見上げる前までテレビを見ていた。『なんでも鑑定団』を最後の出品者を迎えるところから見始めたのだが、なんとその最後の出品物がペンシルロケットだったのである。 出品者(鑑定依頼者)は、垣見さんとおっしゃり、52年前にそのペンシルロケットを設計した方だという。私はびっくりして目を画面に釘付けしてしまった。 ペンシルロケットについて少し述べておこう。 戦後、GHQによって日本の航空機開発は禁止されていた。1952年に解禁になると、東京大学工学部教授であった糸川英夫博士がロケット開発の企画を立てた。協力を呼びかけた企業がすべてことわるなかで、ただ一社、富士精密株式会社(東京・荻窪)が名乗りをあげた。そうしてできあがったのがペンシルロケットである。その名のとおり、直径1.8cm、全長23cmの、現在からみるとまるで玩具のような(いや、たぶん当時でさえ玩具のようだと思った人は多かったにちがいない)、小型ロケットであった。1955年(昭和30年)3月12日に試射をし、1ヵ月後の4月12日に東京国分寺(現・新日鉄グラウンド)において発射された。 ロケットの発射といえば誰しも塔のように空に向って突き立つ姿を思い描くであろうが、この最初の発射実験は水平発射であった。1955年といえば私は10歳である。私がこの水平発射実験の記録映画を見たのは12歳のときだから、実験より2年経ってからだったわけだ。会津若松の第三中学校の2階の礼法室での上映会だったから、生徒全員が見たのではないようだ。私はいまでもその映画の画面を思い出すことができる。私たちは決して「玩具のようだ」とは思っていず、炎を噴射して一瞬のうちに飛び去ったロケットに感嘆したのだった。 ただ、今日、『なんでも鑑定団』の司会者のひとり石坂浩二氏が、「自分にもできるのじゃないかと思ったものです。花火でも詰めれば。できるはずはないんだが・・・」と言っていたが、石坂氏と私はほぼ同年輩、私もそう思ったものだ。いや、私の場合、思うより早く実際ロケット遊びを始めてしまったのである。 たしか以前にこのブログで書いたと思うが、私が中学生のときに住んでいた父の会社の子弟のための学生寮は、昔会津藩の藩校「日新館」の水練場の跡地にあった。白虎隊の少年たちが水泳の訓練をしたプールである。私が中学生の頃は、そのプールの一部が某家の大池として残っており、池畔に楓の巨木が茂る築山があった。他家の庭なのに私はそこを遊び場にして、その築山から手製のロケットを発射したのである。いや、ロケットと言ってはいけないか。円盤(フライング・ソーサー)だ。真似されると困るので詳しくは述べないが、点火すると、三ケ所に明けた噴射口から炎を噴き出して、そいつは池のなかほどまで勢い良く飛んだ。 この遊びは、もとはといえば、ペンシルロケット発射実験の記録映画を見たことによるのであった。 さて、『なんでも鑑定団』によれば、ペンシルロケット出品者の垣見氏は、富士精密株式会社に入社してまもなく糸川博士の指揮のもとでロケット開発に従事したそうだ。ほとんど参考資料もないところから設計したのがペンシルロケットだという。宇宙航空史において糸川博士の名前は、欠くことができぬ先人として衆知であるが、実際に設計をした垣見氏のお名前を私は今回初めて知った。 ペンシルロケットは200機ほど製作されたそうだが、現在その実物の存在が知られているのは僅か3機だそうである。出品されたペンシルロケットは、過日、宇宙飛行士野口氏がスペースシャトルで宇宙に携えて行き、地球を200周して帰ってきた。NASAは糸川博士の業績にちなむその小型ロケットのスペースシャトル内への持ち込みを、特別に許可したのだという。 私はテレビ画面を通してではあっても、まさか50年前に胸躍らせたペンシルロケットに今お目にかかるとは思わなかったので、しかもたまたまテレビを見たのだったから、この奇縁を嬉しく思った。 ちなみに鑑定士がつけたペンシルロケットの価格は1300万円である。
Sep 25, 2007
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ここ二日間、暇をみつけては45年前のバッジをさがしている。5,6年前に一度大整理をした。従来使用してきた大きな茶箱2個の資料のほかに、小学校から大学時代までの創作原稿などが金属製の大型ケースや段ボール箱が20個ほどにぎっしり詰まっている。あるいは絵のモデルとして使用した古いランプやガラス器、貝殻のコレクションやさまざまな素材で作られた球体など、描こうと思ったときにすぐには集まりそうもない品々もひとつひとつ新聞紙にくるんで箱に詰めてある。作品の掲載誌やパンフレットやポスターなどのデザイン作品もある。デッサン帳のたぐいもあれば、メモ帳や創作ノートもある。・・・とにかく、創作家という職業は作品周辺にたくさんの資料が溜まってゆくものだ。 しかし、どうもバッジはそれらの中にはなかった。書籍を詰めてある別の物置のほうかもしれない。となると、これはなかなかシンドイことになりそうだ。 ところで、保存箱のひとつに小・中学校時代の創作原稿があると書いたが、現在残っているのは400字詰原稿用紙に書かれたものが20作品ほど。2篇の戯曲もまじっている。 いま、こういう原稿をみると、自分が子供のころから、ただ一つのことしかやってこなかったのだと、つくづく思う。大学卒業後あたりから表現手段が専一的に「絵」になったに過ぎない。手元に自分の各年代の創作物がとぎれることなく残っていて、自分という人間が何をどのように考えて来たかが、まるで他人事のように客観的に見通せるのである。良しにしろ悪しきにしろ、嘘いつわりのない私というひとりの人間を見通せるのだ。 私は、私自身にとって私自身が謎であることを許さなかった。子供の頃から62歳の現在まで明瞭に意識して私がやってきたただ一つのことは、自分自身で自己をあばくということだけだ。それ意外は何もしてこなかった。サルバドール・ダリに『抽き出しのあるミロのヴィーナス』(1936年)というオブジェ作品がある。私は、自分自身をガラスの抽き出しにしてしまいたいのだ。三島由紀夫じゃないけれど、私自身の無意識なんて信じられないのである。
Sep 24, 2007
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一昨日、童劇プーポの表紙原画を六切サイズにプリントして会津の清水先生に送っておいたので、今後の進行について打ち合わせの電話をいれる。 ロゴ・マークの製作に話がおよぶと、先生は、「40周年、45周年記念誌のマークが少し違っているんだ」とおっしゃった。 このマークは、エスペラント語の人形を意味する「プーポ」のPを、2字重ねたデザインである。事に応じての出版のたびに、デザインを依頼された人が作字してきたのだろうが、50年も経つうちに正式な形体からすこしづつ違って来ていたようだ。伝言ゲームのようなもので、原型を写しなぞっているつもりでも、0.5ミリ狂い、やがて1ミリの狂いになり、いつのまにか原型とは似て非なるものになってしまった。 先生は長らく心のどこかに引っ掛かりをもっていらしたのだろう。私が、「50周年を機に、正確ならざるところは改めてはいかがですか」と申上げたので、その長年の胸の思いを吐露されたのだった。 「バッジがあったんだが、あれが正式なデザインなんだ」 「そうそう、バッジがありましたねー。私、どこかに保存してあるはずです。ブルーに・・・」 「・・・白抜きした」 「ええ、そうでした。さがしてみましょう。どこかに仕舞ってあるはずですから」 「あれが一番正式なものなんだ。あれを写してもらえれば・・・」 「そうしましょう。きっとみつかるでしょう」 私が劇団員だったのは45年も前のこと。ちいさなバッジを保存しているとは言ったものの、さてどこに仕舞いこんであるやら。たしか中学や高校の学校徽章や生徒会役員襟章などと一緒のはず。弟たちの物も一緒に、みなひとまとめにしておいたはずだ。 どうやらこれから数日間は、バッジをさがして昔昔へタイム・スリップすることになりそうだ。
Sep 22, 2007
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表紙の試案。パタパタとたちまち出来上った。ロゴマークを正式なものに変えれば、これでほぼ完成となるかもしれない。
Sep 20, 2007
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朝8時までに郵便物など事務的なことをパタパタとすませ、先日古本屋でみつけた飯島和一『始祖鳥記』を読む。飯島氏の作品を読むのは初めてだが、わが目の見立てどおり、滅法おもしろい小説である。1770年頃の表具師、「鳥人」備前屋幸吉の物語。カッチリした骨太の構成といい、悠揚迫らぬ筆の運びといい、こころに見えぬものを追い掛ける情熱の燠火をかかえる幸吉をはじめとする登場人物といい、まことに清清しい小説だ。彼等の胸の内を想い、私は不覚にも涙がにじむ。時代を細部まで調べているその抜かり無さに好感を持たざるを得ない。 私は決してマニアではないが、飛行機が大好きだ。メカニックなことではなく、乗っていることが好きだ。昔、ロンドン上空で物凄いジェット気流に突っ込んで、パニックになる乗客がいたり、同行した知人の夫人は生理が狂って異文化をまったく受けつけなくなってしまった、そんな危ない経験もしたが、私から空を飛ぶ快感を消すにはいたらなかった。 某テレビ局がもう25.6年の長きにわたって行なっている夏のイヴェント「鳥人間コンテスト」は、ほぼ欠かさず見てきた。先日も今夏のコンテストの様子を放送していた。なぜか今年はいずれの部門もあまり芳しい記録がでないまま終わって、私はいささか拍子抜けしたが、たしかこのイヴェントが始まった当初の人力飛行部門の最高記録は25メートルかそこらではなかったか。それが昨年はなんと30キロメートルを超えていた。航空力学の高度な理解をふまえた手作りの技術が、飛躍的にレベルアップしてきているのだ。そしておもしろいのは、航空力学と工作物(飛行機)の姿の美しさが一致するということだ。「美」とは個個人の感性にゆだねられているはずだが、数学や物理学の理論の達成点にたしかに美が存在するのである。 小学生の頃、押し入れの一隅を竹ひごで作った小さな古典的な模型飛行機の格納庫にしていたことがある。リリエンタールやダ・ヴィンチの考案した飛行機を、科学雑誌の挿画をたよりに、自己流で製作して遊んだ。日本の先駆的アビエイター備前屋幸吉のこともすでに知っていたのは、児童書の伝記かなにかで読んでいたにちがいない。 それ以来、50年以上も経て、私は涙ぐみながら幸吉の物語『始祖鳥記』を読んでいる。 ところで話は変わるが、昨年現役を引退したマラソン・ランナー千葉真子さんがテレビのトーク・ショーでお話ししたことは、私を仰天させた。 千葉さんは高校生の時以来、引退するまで、15年間のマラソン人生だったという。そして、その間に走った距離が、なんとなんと地球3周半に相当するのだそうだ。地球3周半! あのか細い小柄な少女のような人が、地球3周半を走り抜いたのである。一度のマラソン競技で走る42.195キロメートルというのも、なまくらな肉体の私がいつも感心するところだ。しかしマラソン・ランナーが競技人生において、いったいどれほどの距離を走るかを、地球周回に換算して考えたこともなかった。 千葉さんのお話しは一種の衝撃だった。私はテレビのなかの千葉真子さんのお顔をまじまじと見つめてしまった。
Sep 20, 2007
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昔、私が高校生の頃に所属していた会津若松の、おとなが子供のために演じる児童劇団「童劇プーポ」の創立50周年記念誌のための表紙絵ができた。劇団の理念を表現してみた。これから表紙全体のデザインにとりかかる。
Sep 19, 2007
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18日、午前中に新橋へ。作品の写真撮影。今回の作品は平滑な画面なので撮影はそんなに苦労しなくてすむだろう。明日の午後までに仕上げてもらう約束をして、あとはおまかせ。 絵ができあがったのでデザインの詰めを模索しながら、次の場所へ移動。額縁店へ。下見である。30種ほどのデザインを見る。絵を生かすも殺すも額縁次第ということがある。実際に絵を持って来ていないので、もどかしい限りだが、一応30種の中から数点を頭に入れる。 多摩川を渡りながら、川面を見やると、何という水鳥か知らぬが大型の黒っぽい鳥が、ずいぶんたくさん浅瀬に等間隔に突っ立っていた。道路のコーン標識のように、黒い円錐がほぼ一直線に並んで、なんとも不思議な眺めだ。 あの間隔が、当らず障らずの最も適当な間合いなのだろう。 こういう互の間合いの取り方は猫にもある。子猫のときは兄弟同士身を寄せあっているが、成猫になるとある間隔をとるようになる。必ずそうだというのではないけれど、ぴったり躯を寄せあうということはない。しかし、猫達だけに留守居をさせ、われら人間どもが全員が外出してしまうと、どうやら奥まった部屋の座布団の上に身を寄せあってじっとしているらしいのである。 川の岸辺にはススキの穂がまるで古狸の尻尾のように白くふくらんでいた。 芒の穂なびきなびきて古びたり 虚子
Sep 18, 2007
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あいかわらず製作に明け暮れる日々がつづいている。東京は真夏に逆戻りしたような暑さで、しばらく止めていた冷房を入れた。朝起きるとすぐに、前日描いたところを点検し、気を入れるために一筆二筆いれておく。それから食事をし、新聞を読み、猫達の世話をし、11時頃から本格的に仕事をはじめる。 こんな日常だから、ブログに書くような特別なこともない。なるべく電話にも出ないし、もちろん人にも会わない。 「無門の門」というのは、禅宗周辺の仏教的な言葉。門が無いようで有り、有るようで無い、というほどの意味である。悟達への道ということが含まれているが、単に寺という場のことでもある。 私はなんとなく透明な浸透膜を連想する。製作三昧の日常というのは、己の周囲にこの透明な浸透膜を張り巡らせているような感がある。製作によって何事かが開示されることを願いながら、無門の門にたたずむ私自身がいる。そしてさらに、他事雑然とした日常から隔離するための無門の門が、私の周囲に構えられる。じっさい、製作に必要なのは、孤独だけだ。 振りあげし堅き拳に 月下の門は 有りや無しや 蒼穹(山田維史)
Sep 16, 2007
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きょうも一日中ずっと製作していて、ただいま土曜日の午前0時30分になろうとしている。そろそろ疲れてきたし、眠くもなってきた。 仕事の息抜きに好きなコーヒーを飲みながら、10分ないし15分ばかり昨日買った『カポーティとの対話』を読んでいる。そのなかに「えッ!」と驚いたことが語られていた。 ハーパー・リーが書いた『アラバマ物語』は、グレゴリー・ペックが主演して映画化されている。たしかアカデミー賞を受賞してDVDも最もポピュラーなもののひとつなので、原作を読んだことがなくとも映画は御存知の方は多いだろう。 ハーパー・リーの父親は弁護士で、グレゴリー・ペックが演じていた。あの映画のなかの元気な少女が、じつはハーパー・リーである。そして、この少女の遊び友達で、裁判所へいっしょに裁判を見にゆく少年がでてくる。なんとそれがトルーマン・カポーティなのだという。 リー家とカポーティの家とは近所同士で、ハーパーとカポーティは親友だった。 「彼女と私はよくいっしょに裁判を見に行った。ふつうの子どもが映画を見に行くかわりに、われわれは裁判を見に行った。私は法律に非常に興味があった。彼女のほうは本当に法律学校に行ってのちに弁護士になった。」と、述べている。 私は映画『アラバマ物語』のDVDを所持していて、もう何度も見ている。しかし、まさかあの少年のモデルがトルーマン・カポーティだとは、全然知らなかった。 このモデルの件は、カポーティが10歳のときにリー夫妻のことを日記形式で書き、〈モービル・レジスター〉誌に送ったところ2等賞をもらい、活字になって雑誌に掲載された、そのことにまつわる思い出として語られている。10歳の少年の何気ない投稿が、町中の大騒ぎになって、文章を他人に見せるのを止めようと思ったが、しかし結局は以前よりも猛烈な勢いで書きはじめた、と。 全11章のうちまだ3章まで読んだだけだが、『カポーティとの対話』、おもしろい本だ。あらためて申しますが、100円均一のなかから見つけたのでありました。 【追記】 映画『アラバマ物語』 1962年ユニバーサル作品、黒白(日本公開1963年) 脚本ホート・フート(アカデミー賞脚色賞)、 監督ロバート・マリガン、 撮影ラッセル・ハーラン、 美術アレクサンダー・ゴリツェン(アカデミー賞黒白部門美術監督賞)、 装置オリヴァー・エマート(アカデミ-賞黒白部門美術装置賞)、 音楽エルマー・バーンスタイン、 出演グレゴリー・ペック(アカデミー賞主演男優賞)、メリー・パダム他。
Sep 14, 2007
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朝から仕事場にとじこもっていたので、午後になって少し気を入れ替えるつもりで、近所に買い物に出た。キャット・フードの買い置きが少なくなっている。1週間か10日に一度、5匹の猫たちのために大量のドライ・フードや缶詰を買う。このところ雨つづきで、買い足しに出かけていなかった。 いつもの店は、別に園芸部門があり、ついでに覗いてみた。美しく咲きそろったマツバボタンの鉢がある。我家では春先にマツバボタンの種をこの店で買って、大きな長い鉢に蒔いた。しかし、なぜかまったく発芽しなかった。蒔いてから1ヵ月ほど待っていたのだが、影も形もあらわれなかった。もういちど新たに蒔いてみようと種を買いにゆくと、すでに時期がおわっていて、入手できなかった。 店先のマツバボタンは売れ行きがよいのか、もう5鉢しか残っていなかった。他の花とは売れ行きに歴然の差がみうけられる。それもそのはず、一株に色とりどりに3色から4色、しかも15,6もの花がつき、さらに沢山の蕾みもついている。わずか5鉢しかないのに、その一画だけ特別に華やかなのだ。 私は、なかでも見事なものを、2鉢買った。紅、紫、黄、白。同じ株から異なる色の出るおもしろさ。 おのづから松葉牡丹に道はあり 虚子 ふむふむ。なかなか難解な句である。 帰宅して、母にプレゼントすると目を輝かせ、香りをかいだと思ったらやおら頬ずりして、「よかったね、よかったね」と言った。 我家に買われてきてよかったね、という意味である。 明日にでも別な鉢に移してやろう。 園芸店の隣が大型古書店なので、ついでにここも覗いてみる。ここでのお目当てはもっぱら100円均一本。例によって端から端を丁寧に見る。そして新たに入荷している本をみつけ、3册購入。いずれも初版本。 ローレンス・グローベル『カポーティとの対話』(1988、文藝春秋) 杉本苑子『永代橋崩落』(1988、中央公論社) 飯島和一『始祖鳥記』(2000、小学館) 『カポーティとの対話』は、もちろんトルーマン・カポーティへのロング・インタヴューを一冊にまとめたもの。訳者の川本三郎氏の「あとがき」によれば、「マスコミに出ることが好きなカポーティはこれまでも実にさまざまなインタヴューに応じている。(略)しかし単行本一冊になるほど量が多く、内容が作家活動からゴシップまで多岐にわたっているロング・インタヴューは本書が最初で最後である。」と。 私がカポーティを読むのは、じつに『冷血』以来だから、何十年ぶりになるのだろう。 『永代橋崩落』は、私が安心して読める作家のひとり杉本苑子氏の短篇時代小説集。ただし、標題の作品が存在するわけでなく、永代橋とその周辺の人々の悲喜交々を写す8篇から成る。杉本氏の小説集はずいぶん読んでいるが、このような標題の付け方をした小説集を私はかつて知らない。 『始祖鳥記』。作者の飯島和一氏を私は知らなかった。氏の作品を今回初めて読むことになる。本書は日本のリリエンタールともいうべき飛行機発明家にしてアビエイター備前屋幸吉の物語。私は名前は知っていても、〈鳥人〉幸吉の詳しい一代記を読むのは初めてである。
Sep 13, 2007
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自己の無能の醜さを空虚な言葉で糊塗しつづけた安倍普三が、総理大臣を退くことを表明した。子供じみたお友達政治は、これもまた国民を食い物にする口の卑しいお友達ばかりで、とてもとても「美しい国日本」からは遠かった。日本の政治がじつはその程度のコソ泥のような政治屋たちに牛耳られてきたのだということを、これほどあからさまに国民に知らしめた「功績は」あろうか。愚民政治という。国民を飼いならされたバカモノだと最初からみくびっているわけだ。 さて、安倍は退陣したが、次に麻生氏が出てくるとしたら、これまた厄介なことになりそうだ。吉田茂の孫という出自を誇るあまり、内心に傲慢をかかえている。祖父と似たようなところがある。第一、政治理念はいかにも古い。昏迷する世界情勢を、白か黒かで二分速断する傾向がありはすまいか。世界が必要としている人物像からはほど遠い。 成行きはまだ分からない。厳しく見つめる必要がある。生権与奪(生きる権利を与えるも奪うも)勝手とばかり、日本国民を窮地に追い込む拙速な判断を強行する政治家はごめんだから。
Sep 12, 2007
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昼から家人達はみな外出するというので、それではと、私は午前中に隣の市まで用足しに出た。帰宅すると、すでに誰もいなかった。 ひと休みしてから、気にかかっていながら忙しいままに放っていた家の周囲の雑草取りをすることにした。他人の世話をしながら、自分の家のことは手つかずで、伸び放題に伸びている。 カマキリやコウロギが大慌てで逃げてゆく。柿の木の根元で蝉の抜け殻をみつけた。我家の庭で孵化したということか。夏中かまびすしかった蝉たちが、我家産まれだったと思うと、なんとなく嬉しい。 マツバギクに大きな青虫がくねくねと体をうごかしている。アゲハチョウの幼虫のようだが、はたしてどうか。これからサナギになって冬眠するのかもしれない。マツバギクは食い荒されてしまうかもしれないが、そのまま放っておく。 家の裏手にいままでなかった萩がずいぶん枝をのばし、濃い紫桃色の花を咲かせていた。どこかからか種が飛んで来たのだろう。萩は大きな葉叢をつくってそだつので、こんなところで小薮になられてもこまる。かといって根こそぎ引き抜いてしまうのもしのびない。そういえば子供の頃に住んでいた八総鉱山の我家の庭にも萩があった。野生の萩がちょうどよい場所に生えだして、秋にたくさん小さな花を咲かせたものだ。 枝を少し刈り込んで、花のついたところを数枝残した。 一つ家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉 萩叢の一枝月にそびえたり 虚子 12時半から始めて3時ちょうどまで、みっちり2時間半。終わりの30分は雨が降り出し、濡れながらの仕事となった。 シャワーで汗を流し、コーヒーを入れたところへ、玄関のチャイムが鳴って「お届け物でーす」の声。 会津若松のEさんから見事な葡萄である。地元の葡萄園で収穫されたものとのこと。すぐにも戴きたいところだが、家人達の帰りを待つことにした。 Eさん、いつもいつも有難うございます。 南方に曲江の景や葡萄園 橙黄子 秋草の名もなきをわが墓に植えよ 虚子
Sep 11, 2007
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日曜日だというのに私は終日仕事場に閉じこもり作品を描く。 キャンバスの10号(53.0×45.5cm)サイズという、私にとっては最近めったに使用しない小さな画面。そのさらに半分ほどのなかに44人の世界中の子供達の顔を描いている。 一人一人の個性がはっきり分かるような、そしていずれもどこかで見た事があるような生き生きとした子供の表情。小さいものは1センチほど、大きいものは8センチほどの大きさ。細密描写である。 細密描写で人の顔を描くと、硬直した人形のようになりがちなので、あくまでも自然に見えるようにするのが、まあ、腕のみせどころか。大小の顔を構成して、全体に動きのある画面をつくる。ヘタをすると賑やかすぎて統一感に欠けてしまうだろう。そこが工夫のしどころだ。 ともかく描きながらめまぐるしく頭を働かせ、感覚を鋭敏にしなければならない、そこがおもしろい。なんとかなるだろう。 仕事はやっかいなほど面白い。この表紙絵を引き受けたとき、やっかいにならないかもしれないと思った。それで、やっかいな絵柄を考えた。いま、自分の仕掛けたワナにまんまと嵌まったようだ。
Sep 9, 2007
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期日までに間に合わせようと童劇プーポの表紙絵の筆を走らせていると、電話が鳴った。別の仕事を印刷にまわし、送ったデータのチェック作業の成行きを待っていたので、てっきりその連絡だと思った。データに問題があるときは電話連絡してくることになっている。 しかし、それは、自治会の会合が開かれているという知らせだった。私の出席を待っているのだ、と。今日は八日、土曜日。すっかり忘れていた! 私は例の空地の雑草問題について報告することになっていたのだ。「いま、行きます」と電話を切って、あわてて書類入れをかかえて家を飛び出した。 会合所に入ると、まちくたびれた役員たちが一斉に拍手。「遅れてきて拍手される人もめずらしいわね」と女性役員。「山田さんが話をしてくれないことには盛り上がらない」と。 私は、「すみません、すみません」と謝って、一件の経過を報告。とはいえ、まだ何も解決されていないのだから、私のほうはさっぱり盛り上がらない。午後8時解散。 ところで表紙絵だが、世界中の子供の顔を44人描いている。色々な表情を描き分けようとしているので、なかなか大変だ。あと残り七人。なんとか間に合って出来上るだろう。
Sep 8, 2007
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首都圏を直撃した台風は一夜明けて北へ去った。大きな被害が出たところもあるようだ。このブログの常連のトキワさんから、多摩川の増水についての情報が寄せられていた。 かつて、1974年におきた多摩川の堤防決壊によって家屋が流された事件をヒントにした、山田太一作の『岸辺のアルバム』という優れたテレビ・ドラマがあった。新宿発の小田急線が登戸駅にさしかかる手前で多摩川を渡るのだが、その現場は電車の窓からも見えたものである。 多摩川は山梨県の丹波山近くの山中に発し、奥多摩渓谷から青梅市・あきる野市・昭島市・日野市を通って世田谷区に入るころには、普段は水量も落ちて大人しい川のように見える。ところが長雨になるとたちまち増水し、日野市や世田谷区あたりの川中に点在する中洲はたちまち水没してしまう。どこから流れてくるのかと思うような大木の根株が濁流のなかに転がっているのを見たこともある。 山林伐採の影響かといえば必ずしもそうではないらしく、江戸時代から(おそらくそのもっと以前から)多摩川の氾濫はつづいていたらしい。国立市の西のはずれ青柳地区にとりこまれるように石田という小さな地区がある。この地区は昔は多摩川の中洲にあった聚落だが、江戸時代の洪水で全村が壊滅し、住民は村社(鎮守社)ごと現在の場所に移住させられたのである。幕末の新選組の志士たちの古里である日野市の石田は、国立市の石田地区の川をはさんだほぼ真向かいにあたる。移住以前は同村だったのかもしれない。 江戸時代は政策上、多摩川への架橋が禁じられていたようで、対岸との通行は渡し船によっていた。現在、「万願寺の渡し」など、その場所を示す碑が川沿いに点在する。 ついでながら、この石田地区の鎮守社に近い薮のなかに、江戸時代の玉川上水道のかすかな面影が残っている。江戸の人々の水の生命線である玉川上水道は、会津藩の藩祖保科正之の建議により、玉川兄弟が開削した。この苦難の事業については杉本苑子『玉川兄弟』に詳しい。 川沿いには整備されたサイクリング・ロードがある。私はしばしばそのロードを走りながら、川岸や中洲にいわゆるホーム・レスの人達がビニール・シートや段ボールで小屋掛けしているのを目にした。増水の歴史が頭にあるので、「危険はないかしらと」思って見ていたものだが、数年前の増水のときに、まさにその人達が救出されたと報道されたことがあった。 情報を寄せてくださったトキワさんによると、昨日は流域住民が避難したそうだ。新聞等でも、日野市や世田谷区の中洲で、東京消防庁のヘリコプターによる救出が数件あったと報じていた。 川が一気に増水するメカニズを私は詳しくは知らないが、実際、たちまちに増水するのだから不思議だ。釣り人が救出されたなどというニュースに接すると、何もこんな大雨のなかを好きこのんで釣りに行くこともあるまいにと思うが、危険を承知の酔狂というより、たぶん増水が急激に起ったのではないだろうか。 私は、これもサイクリングの途中でのことだが、多摩川の堰堤沿いの水路から水死体をひきあげる現場に遭遇したことがある。 それで思い出した。精神分析学者のC・G・ユングの『自伝』に、ユングが子供のころ、川が氾濫して水死人が出たと聞いて、屍体見たさに夢中になったというエピソードが書かれている。このことを今詳しく述べる余裕はないが、この告白はユングという人間を知るうえで大変重要なできごとだ。ユングは両親から止められたにもかかわらず、水死体を捜索する大人達のあとにくっつきまわって、とうとうそれを目撃する。屍体は水車小屋のなかに運び込まれ、ユングは閉め出されるが、小屋の下からちょろちょろ流れている水に血がまじっているのをみつけ、それがとても面白かったのだ、と彼は述べているのである。 この『自伝』は、ユング自身が述べたことをヤッフェが編集したものだが、ユング研究の基本図書の一冊である。先頃亡くなられた河合隼雄氏による邦訳がある(上下巻)。 話題を変える。 ことし初めての栗を食べた。茹でておやつにし、のこりは我家恒例の栗御飯にした。季節の味覚は楽しいものだが、ことに栗などはハウス栽培ができないものだから、今この時の感じが強い。 栗御飯は、ちょうど頂き物の立派な日高昆布があったので、それを使った昆布出汁。菜は、同じく北海道産の南瓜の煮付け、鮪の刺身、玉子豆腐、菠薐草のお浸し。韮と溶き卵の醤油仕立て汁。デザートは巨峰。 猫のマリは、栗が大好き。栗が茹であがると、ほしいと云って頭をすりつけてくる。剥いて小さく砕いて皿にいれてやる。あるいは水をほんの少し加えて栗餡にすると、もっと大好き。きっちり三粒食べて満足するのだ。匂いを嗅いで夢中になるのだから、本当に好きなのだろう。おもしろい猫だ。
Sep 7, 2007
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台風が今夜午前3時頃に東海・関東地方に上陸する可能性がでてきたと報じている。雨は終日降りつづき、いまも風まじりに叩き揺するように甍をわたってゆく音がする。室内は蒸し暑い。 テレビ・ニュースで隣の立川市の激しい風雨にさらされる街の様子が映し出されていた。距離にするとさほど離れてもいないのに、我家の近辺の状況とはかなりの違いがある。 若い時、嵐の夜に寝床から起き出して、ひそかに外出し、大風をはらむ柳の大木をスケッチしたものだ。しなやかな枝という枝は鞭のように唸り、狂乱の炎のように虚空を掻き回していた。私は絵描きとしてやってゆけるかどうかも分からないまま、ただ迸るような情熱と不安とをかかえ、内心はまさに狂乱状態だった。嵐の中の柳は私自身のような気がした。私の躰じゅうから棘のような無数の細枝が生え出て、イソギンチャクのように、夜の闇のなかで独り喚きながら揺れている幻想にとらわれた。 さて、今朝、会津若松の清水和彦先生から電話があった。童劇プーポ創立50年記念誌の編集が、そろそろ終りに近づいているとのこと。私が引き受けた表紙絵の進捗についてお尋ね。半分まで描いて、ほかの仕事のために中断しているので、期日までに間に合わせることを約束する。 私の略歴を紹介する原稿を書いてくれとおっしゃるので、電話のあとですぐ執筆。午後、手紙に同封して投函した。 それでは今夜は、その表紙絵のつづきを描くことにしよう。
Sep 6, 2007
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東京西部はただいま雷雨、しかもかなりの大雨である。みなさんの地方はいかがであろう。 昨夜は早々と就寝して、疲れていたためかぐっすり寝込んでしまった。しかし気温は高かったらしく、熱帯夜といってもよさそうな寝苦しい夜だったとか。 一夜明けてもその蒸し暑さはかわらず、仕事をする私の顔は火照っている。 小説家の花輪莞爾氏から電話があり、昨日避暑地から東京に戻ったとのこと。戻った途端のこの残暑ではかなうまい。私がしばらく電話も手紙も差し上げなかったかったので御夫妻そろってあれやこれや御心配くださったようだ。海外へ行ったかとも考えられたとのこと。いやはや御心配をおかけして申し訳ございませんでした。まったくの雑事と仕事に追われておりました。 仕事といえば、暑い暑いといってもやはり季節は秋にすべりこんだことを、油絵具の種々の溶き油の蒸発が遅くなったことで知れる。夏の盛りには油壷の油はすぐに蒸発して、筆の滑りが悪い。画面の乾燥も早いので、それは好都合なのだが、筆が滑らないのだから仕事の進捗はない。もちろん季節によって各種の油の調合は変えるけれども、蒸発の速度をおとすまでにはいたらないのである。 昼前からキャンヴァスに向い、筆が滑るようになっているのを感じる。こんなところに、絵描きの秋がある。
Sep 5, 2007
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日記を書こうと思いましたが、まぶたが重くなってきました。コンピューター処理するデザインを終わり、次に途中までやりかけていたペインティングの仕事に取りかかるまえのしばしのブレイクのつもりだったのですが、こう眠くてはどうにもなりません。せっかくお訪ねくださったお客様には申訳ありませんが、きょうはこれで寝むことにします。すみません。Good night!
Sep 4, 2007
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夜の10時過ぎだというのに少し暑いものだから、冷房するほどでもないので仕事場の窓を開けていた。猫のサチが窓辺に坐って暗い戸外を眺めている。 と、そのとき、サチがやおら立ち上がったと見るや、窓から下の小屋根に飛び降りて姿を消した。私は気にもとめずに仕事をしていたが、しばらくして今度は下から飛び込んで帰ってきた。三段跳びで室内に入り、床を駆け回りながら喜びの鼻声で鳴いている。なにやらただ事ではないので、見ると、口に何か黒いものを銜えているではないか。 「サチ、何か捕ってきたの?」 「ニャッ、ニャッ!」そうだ、と言う。 「いいねー。何を捕って来たか、見せてちょうだい」 「ニャッ、ニャッ!」見て、見て。 サチはお手玉をするように、そのまるまった黒いものを私のほうに投げた。パサッと床に落ちて、まるかったものが翼をひろげた。なんと、コウモリではないか! サチは夢中になって獲物に戯れる。 「いいなー、サチ。それ頂戴よ」 「ニャッ、ニャッ!」いいよ、あげるよ。 ふたたび私のほうに放り投げた。私はすばやくコウモリをつまみ、窓の外へ放った。そして窓を閉めた。 「サチ、捕って来てオリコウだったね。サチはオリコウ、オリコウ」 頭を撫でられながら、サチは大満足で喉を鳴らし、私の机のうえにのうのうと横たわった。 高台にある我家の背後の広大な一帯は、東京都の野鳥保護区になっていて、春はウグイス、夏はブッポウソウ、その他たくさんの野鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。夕暮れにコウモリが飛翔する姿もたまにではあるが、見かけるのである。数年前には、私の仕事場の雨戸の戸袋のなかに潜んでいるのをみつけた。巣をつくろうとしたのかもしれない。夜中にサーッ、サーッと奇妙な音がするので探ってみると、コウモリだった。 会津若松での中学時代に、コウモリを飼ってみようとしたことがある。 夕方、学校のグラウンドの上空にたくさんのコウモリが飛翔していた。手拭いの端に小石をつつんで、空中に投げあげる。手拭いのもう一方の端が凧のしっぽのようにヒラヒラしながら落下すると、それにつられるようにコウモリがついてくるのだ。破れ傘のようにバサバサと不器用に飛んでいるようでも、実際はとても敏捷なので、そうたやすく捕まえられるものでもないが、どうかすると手拭いとともに地上に落ちる事がある。私はそれを捕まえてボール紙の箱に入れた。 しかし、そんな狭い箱にとじこめて虫を餌として与えたところで、いつまでも飼いつづけることはできない。たしか、わずか1日かそこらで放してやった。私はこのときコウモリの実物を初めて見、そして触れたのだった。 先日、中学時代にある教師から「山田君も泥水を呑むようになるんだ」と言われたことを書いた。なぜそんなことを言われたかというと、ある事件をめぐって私が激しく怒ったのをその教師が見ていたらしく、下校前の私をつかまえて、悪意からではなく言ったのだ。しかしそれがだんだん執拗になってきて、とうとう通りかかった校長先生が助けてくださったのである。 ところでその事件、私が書いたものが教室のゴミ箱に捨てられてあったということなのだが、じつは何故捨てられたのかずっと分からないままだった。それがひょんなことから、つい最近になって、経緯が判明した。 その人はしたたか酔っ払いながら、中学時代の思い出からコウモリ捕りの話をはじめた。私と同じように学校のグランウンドで手拭いを放り投げたことを。そして、教室に入ってきたのを手近にあった或原稿の束で叩きおとしたことがあるのだと。その原稿はすっかり汚れてしまったので、ゴミ箱に捨ててしまったのだ、と。 50年近くたって分った事実。 「その原稿、私が書いたものだよ」 「そうだべ、そうだと思った。お前の原稿でコウモリを叩き落したんだ」 そのあとで私が、ゴミ箱から探し出した真っ黒になった原稿を教員室で叩き付けて怒り爆発させたこと、泥水のこと、校長先生に救出されたこと----そんなことは、彼には黙して語らなかった。私の目裏にはいまでも色褪せずあざやかにゴミ箱が浮んでくるが、----50年前のことだもの。 「コウモリかー、夕方になるとたくさん飛んでいたものなー」 薄墨色の虚空に、真っ白い手拭いが放物線を描いてヒラヒラと飛ぶ。 サチは私に獲物を分け与えたのが惜しくなったのか、机の上で聞き耳をたてては窓辺に行ってみる。あたりの臭いをかぎ回り、あきらめたようにゴロリと横たわる。そして私の顔に何か書いていないかとでもいうように、こちらを見ている。
Sep 3, 2007
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隣町に買い物に行くと、秋祭の神輿に出会った。小さな神輿の屋根が人垣の上に揺れている。子供神輿かと思ったが、立ち止まって見ていると大人神輿。神楽囃子がテケテンテケテンと聞こえている。 しかし、囃子連中の姿はどこにもなく、どうやらカセット・テープで流しているようだ。担ぎ手も、その祭半纏を見れば、かならずしも土地の人ばかりではなさそうだ。祭り好きの連中の助っ人であろうか。 東京には大小たくさんの祭礼があり、神輿の渡御(とぎょ)もつきものだが、かなり大きな祭でも神輿を担ぐ土地の若者は少なくなった。神輿担ぎが好きな人達は、じつは大勢いて、それぞれ大きなグループを組織している。組織ごとにユニフォームである祭半纏をつくり、そろいの出立であちらの祭、こちらの祭と出かけてゆく。といっても、祭礼というのは土地に根差しているものだから、他の町のものが場当たりに出かけていって神輿を担がせてもらえるわけではない。祭半纏というものがそもそも同族同類の奉仕者としてのお仕着せである。仲間意識の結集を表現しているのだ。ということは、逆にいえば、排他的な意識の表現ということである。したがって、「お祭野郎」のグループは、普段からその存在をアピールして助っ人に招かれるのを待つか、祭りの仕切人に仁義をきらなければならない。 こういうしきたりは、とても日本的のように思えるが、しかし必ずしもそうではなく、本質的には同じことが世界中にある。宗教に根差した祭礼行事の本質には必ず「差別」や「区別」がつきものなのだ。いや、そもそも宗教の本質がそれなのである。宗教的異端というのは、自己中心的な物の見方にほかならない。世界を等並みに見た時、「異端」などというものは何処にも存在しないのだ。 ところで、東京にはたくさんの祭があるけれど、江戸のころより6月と9月は別名「祭月」と言われたほどこの二つの月に集中していた。「集中していた」と過去形で述べたが、江戸の両祭と言われた赤坂・日枝神社の山王祭は現在でも6月15日を祭日とするが、もうひとつの神田明神の神田祭は昔は9月15日であったらしいが現在はたしか5月15日に行なわれている。 この両祭は本祭と蔭祭の年が隔年交互になっている。つまり山王祭が本祭の年は神田祭は蔭祭、神田祭が本祭の年は山王祭が蔭祭と定められていた(天和年間以降)。それは現在もかわらないはずだが、なぜ神田祭の祭日は9月から5月にかわったのか。明治時代に著わされた平出鏗二郎(ひらいでこうじろう)『東京風俗志』では、9月15日となっている。祭日というのは本来的な由緒があるものだから、この変更の理由は私には興味がある。どなたか御存知あるまいか。 もっとも最近はどんな由緒深い祭礼も、観光とタイアップされるようになり、人出を見込める日曜日におこなわれるというのも少なくない。毎年、祭日が揺れ動いているような状態だ。こうなると宗教的行事というより、エンターテインメントとしてのイベントである。そうなると先に述べた「差別」や「区別」も、厳密には意味合いが違ってきているはずだ。「お祭野郎」の主宰者への挨拶も、ヤクザの仁義によほど近くなっているのかもしれない。 いまではカセット・テープで祭囃子を流すていたらくだが、江戸時代の山王祭は山車が45番、神田祭は36番でたというからすごい。どんな山車であったか記録があるのだが、あまりにも長くなるので紹介はやめる。神楽を演奏する神楽師が25座から75座も出た、と『東京風俗志』に書いてある。ちょっと想像もつかない賑わいだったようだ。
Sep 2, 2007
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降ったり止んだりながら、ここ2,3日の雨のせいか、ようやく暑さが去ったような感じだ。早朝の外気に夏の盛にはなかった冷や冷やとする爽やかさがある。 今年の東京の八月の平均気温は、29℃を越えていたと気象庁が発表していた。 それにしても九月の声を聞いて、もう一年の四分の三が過ぎてしまったかと、年の秋を感じるよりも人生の秋を嘆きそうになる。「---そうになる」と言うのは、内心でかろうじて堪えているからだ。 私はしばしば自分で「爺ちゃん」と言う。実際そうなのだが、じつはそんなことはあまり思っていなくて、ただ、自分で「若い」と言うほうが自分の老年を認めているようだ。一層のこと、「爺ちゃん」と言ってしまったほうがすっきりする。覚悟にもなるだろう。 まあ、屈折しているわけですな。 日本古来の文化的精神に「枯れる」という表現がある。「枯淡の境地」などと言う。樹木がその一生の果てに、白々と枯れてしまって、超然というか生命力なく欲もなく淡々としている様を言っているのだろう。 私は、どういうものか、少年時代から他人にこの「枯れる」という言葉を呪いのように言われてきた。私の精神の、ある激烈さを、見すかしてのことだったろうか。 中学時代のある教師からは、「山田君もいまに泥水を呑むようになるんだ」と、呆れるような無礼なことを言われた。人は泥水を呑みながら枯れてゆく---と。 あるいは、初めての個展の折に、某出版社のオエライさんがお客様をともなって御来場くださった。そして、「あなたの絵がこれからどのように枯れてゆくのだろう」とおっしゃった。 私は、日本文化のなかで「枯れる」ことを目指して生きてゆかなければならないのだろうか---? もしかしたら私は、この極めて日本的な文化的精神に、反撥して生きてきたかもしれない。 それをもっとも強く認識したのは、1979年にドイツのバイエル社の依頼で同社が企画した『真菌芸術展』のための作品『肉体の荒野』を製作したときのことだった。 同展覧会は、ミュンヘン・オリンピックの芸術総監督として知られるアート・ディレクターが指名した各国から1名づつのアーチストの競作だった。医真菌というのは、病気の原因となるカビの総称で、この展覧会は啓蒙のための国際巡回展であった。日本では、第9回国際産科婦人科連合大会という医学学会のひとつのイベントとして、東京のホテル・オークラで開催された。 バイエル社の重役である医学博士が来日されて私に御挨拶くださった。そして、「あなたのあえて洗練しようと意志しない作品から、あなたの生命力が感じられるのです。それで製作をお願いした次第です」とおっしゃった。 枯れることに反撥して描く私の意志を、遠い国の会ったこともない方々が、まともに理解していることに私は衝撃を受けた。それはまた、異文化性というものを、このようなかたちで認識するとは思いもよらなかった驚きだった。 私は、少年時代から掛けつづけられてきた「呪い」が解けたような気がした。 「枯淡の境地」ということに戻って述べれば、枝葉末節を落した本質だけの人生の禅的境地ということなのだが、さて、言葉のキャッチフレーズ的なスマートさを抜きにして、絵描きの製作における実際問題として枯淡の境地などはとてもありえるはずがないと私は思っているのだが、いかがであろう。 霧雨に煙るような夕暮れの街並を、少し開けた仕事場の窓から見やりながら、「ロッケン・ロールだぜ、そこんとこ、ヨロシク!」と内心に呟いたのだった。
Sep 1, 2007
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