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電車を使って外出すると、車内で私は見るともなく人の姿を観察している。きょうも新宿へ行っての帰り、出発時には混合っていたが、やがてガラガラに空いた状況になった。私の向いの座席は6人。これ幸いとその6人を眺める。 向って左端の若い男性は手摺に腕をからめるような格好で眠っている。グレーのフード付のフリースを着て、そのフードを目深にすっぽりかぶっている。口ひげを蓄え、その下にやや厚い唇がある。鼻筋の通ったちょっとアラブ人のような風貌で、フードで切り取られた顔の形が幾何学的でなかなかおもしろい。私はソラでスケッチしてみる。手摺にからめた手の形もおもしろい。 私の真正面も中年の男性である。彼はしばらく目をまっすぐ据えて宙を睨むような顔をしていたが、やがてその両方の黒目がしだいに上に移動し、つまり上目蓋の内側にずりあがっていったと思ったら、目が白眼だけになってしまった。私はギョッとして、「?」と、一瞬、頭に疑問符をうかべながら顔をそむけた。自分の見たものが信じられなかったのだ。顔をそむけたまま、今見た光景を反芻し、もういちど男の顔を見た。両方の目の玉が上下にゆっくり動いている。そして再び白眼だけになった。眠りかけているのだ。襲いくる睡魔に耐えきれないのだ。目蓋が落ちてきて、白眼が細い線になった。しかし、すっかり閉じられることはなく、いつまでも白眼が細く覗いている。どうやらこの人は半眼で眠る癖があるようだ。 眠りは伝染するのかもしれない。彼の両隣りの若い女性たちもうつらうつらしはじめた。そして、とうとう私の向いの座席の6人全員が眠ってしまった。白眼の男の右隣の女性は、どんどん深い眠りに入ってゆくようで、若い顔を仰向け、コックリコックリがやがて後頭部を窓枠にガッツンガッツンぶつけだした。その音が空いた車内にひびく。3度4度、まったく目を醒まさない。アルミ・サッシにぶつけているのだから痛いだろうに、ガッツン、ガッツンとやっている。 私はおかしさを通りこして心配になってきた。注意してあげるのもヘンだ。どうにも痛けりゃ目が醒めるだろうし・・・ 6人を見比べているうちに、なんだかこちらも眠くなってきたが、驚いたことに、ある駅に着いたとたん、6人が一斉に立ち上がって降りて行ったのだ。私はあっけにとられて、てんでんばらばらに去って行く後ろ姿を振り返って見やった。 誰もいなくなった向側の窓の外に、多摩川が午後の陽にきらめく。川岸には白鷺が三々五々立ちすくんでいた。
Oct 31, 2007
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ここ数日間、多くの時間を読書に費やしている。3册くらいを別なところに置いて、同時に読み進める。2册が同じようなテーマ。残り1册はそれらとはまったく異なる、肩のこらないものという具合。 本の種類も違うが、読み方もいささか違う。先の2册は文章を味わうというより、主題についての論証、著者の立脚点、それに対する私自身の考えなどをフィードバックしながら読み、さらに、異なる著者を対比させることで私自身の考えをより明確にしてゆく方法である。その合間に読む本は、むしろ味わいながら文章の細部にたのしみを見つけたりする。随筆でも小説でもそれは変わらない。小説の場合、ストーリー・テーリングに面白さを発見することもあれば、ストーリーなどはどうでもよくて、細部のリアリティーに唸る、それだけで良いものもある。そういう読み方をしているのだ。 時間があるから読書をするけれども、時間をつくって読書をする。したがって読書に費やす時間にケチになる。読む本が厳選されるということだ。つまらない本、つまらない文章は、ポイポイと捨ててゆく。年をとると、自分に残された時間を考えるようになるのである。 話はかわる。 テレビのバラエティー・ショーに出演された若尾文子さんがこんなことを言っていた。「朝のニュースは、アクセントの正しいアナウンサーの放送を選びます」と。「朝は忙しいから、テレビを見ていられません。耳で聴くわけです。日本語は、同じ発音でもアクセントによってまったく違う意味になる言葉がありますから、正しいアクセントでなければ伝わらないわけです」 まさにそのとおり。先日私は日本放送出版協会刊行の『アクセント辞典』について触れた。スタンダードが大切で、そこに辞典としての有用性が生じるのだ、と。 たとえば、次の言葉。棒線はアクセントの高低を示す。 端 ハシ  ̄ ̄ (平行型) 橋 ハシ _ ̄ (低高型) 箸 ハシ  ̄_ (高低型) 同じ発音(ハシ)であっても、アクセントの違いによって、意味が正確に伝達できるのである。これが最近の若者のように、彼氏(カレシ: ̄ ̄_)を(__ ̄)と語尾を上げて発音すれば、耳からの判断は、枯れ死(カレシ:__ ̄)なのだ。 この問題の本質を理解するためには、中国語を例にとると分かりやすいかもしれない。 中国語日本語辞典をひもとくと、たいてい巻頭に中国語の発音についての説明がなされている。「四声(しせい)」の問題である。 中国語の「四声」というのは、高低のアクセントのことで、一つの音節には必ず高低のアクセントがついている。それが四種ある。 次の四つの言葉はみなyi(イ)なのであるが、発音によって明確に区別される。 一 yi(イ) イ―イ (第一声調:初めから終わりまで同じ高さ) 移 yi(イ) イ/イ (第二声調:低く出て急上昇) 以 yi(イ) イJ イ (第三声調:一度低くしてから急上昇) 益 yi(イ) イ\イ (第四声調:高く出て低く消える) 記号であらわしたところは伸して発音する。第三声は、このブログのフォント・システムでは記号化できないので仮にJであらわしたが、下ふくらみの弧をえがいて上昇すると考えてほしい。 この例でわかるように、中国の場合、アクセントを取り違えるとまったく意味が伝わらないことになる。もちろんいわゆるすべての漢字を四声であらわしているのだから、異字同音同声のことばも多い。愛も隘(狭い)も碍(邪魔する)もみなai(アイ:ア\アイ)と発音する。耳にはまったく同じである。文節のなかで意味を判断しているわけだ。 それはともかく、この中国語を、もし日本の今の若者言葉の語尾上がりのアクセントのように変えようものなら、言語としての態をなさなくなってしまうだろうことは容易に想像がつく。言語というものは、たんに小さな仲間世界の符牒ではなく、ひろい世界と関わってゆくための最重要共通手段であり、それが共通性を失ってしまえば言語としての役割も消滅してしまうことになる。 こんなことは、実のところあまりにも当り前すぎて、言う必要もないことであろう。いや、かつてはそうであったのだ。しかし、今日、そのことをあらためて言っておかなければならないかもしれない。「以前は信頼できたNHKのアナウンサーも、最近はどうも・・・」と若尾文子さんの言うように、日本語は鼠に食われるように端から崩れはじめ、まるで未成熟な子供の言葉のようになっているのだから。 文化が成熟するのではなく、幼児化してゆくような、なにか悪夢をみているような感じがするのは、私だけであろうか。
Oct 29, 2007
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雨はやむ気配もない。伊豆沖を通過中の台風20号の影響だそうだ。 ここ1週間ほど風邪気味で寝込んでいた老母がようやく回復して、少し歩きたいという。家中で雨のなかを買い物に出かけることにした。洋菓子店でモンブランを買ったり、数日分の献立を考えながら食材を買う。2時間ほどで帰宅したが、まもなく雨に風もまじり激しくたたきつけるように雨戸をゆすりはじめた。母はのんきなもので、「ああ、楽しかった!」などと云い、しかし病み上がりでさすがに疲れた様子だった。
Oct 27, 2007
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終日降りつづいた雨。猫のリコと一緒にモーツァルトを聴く。何曲も何曲も。ピアノ協奏曲21番、23番。ヴァイオリン協奏曲1番、2番、3番。クラリネット協奏曲KV622。フルート協奏曲1番、2番。 郵便ポストの手紙類も濡れて、宛名の文字が滲んでいる。中に清水先生からの葉書。記念誌の校正を5回目で校了し、11月6日の発行を待つばかりとのこと。ごくろうさまでした。11日にはお目にかかりに伺います。童劇プーポ50周年記念公演 『ハンナのかばん』カレン・レビン著・石岡史子訳/ 構成・脚色・演出・神田勤/補作・童劇プーポNPO法人ホロコースト教育資料センター・童劇プーポ共同企画作品 11月11日(日) 午前10:30 午後1:30開演 会津若松市・市文化センター大ホール
Oct 26, 2007
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散歩コースのひとつ、幹線道路に面して駄菓子屋兼文房具屋がある。昭和30年代を彷佛とするような小さな店だ。ここ何年間も散歩をして通りがかるのだが、ついぞ客の姿を見かけたことがない。この変わり目の激しい御時勢に、(失礼ながら)よく潰れないものだと思っていた。商売って不思議だ、と。 その秘密のようなことが、ちょいと窺える光景を目撃した。小学生たちが5人6人、店の前に坐って楽しそうにおしゃべりしていた。あとから自転車で乗り付ける子もいて、その自転車が店の横にずらり、きちんと並べられている。 店の前には、建物から1メートル余ほど離れて、2台の自動販売機が置かれてる。子供たちが坐っている場所はその自動販売機の後ろのコの字の空間である。そこに小さな木製のベンチが2台あり、子供たちはベンチに腰掛けて菓子やカップ麺を食べながら、にぎやかに話がはずんでいる。 なるほど、この店は小学生たちの社交場であったか。店主はそれを承知で小さなベンチを置いたのであろう。大事な大事なお客さんのために。 東京と云っても、私の住んでいるところは郊外なのだが、子供たちの下校時間になると一日に2度、警察が子供達の見守りを市民に呼びかけている。子供たちが自由に遊べるのは自宅の前くらいかもしれない。街中で遊ぶ姿をあまり見かけないのだ。親たちも神経質になり、なにやらトゲトゲと苛立っているように見える。あるいは、子供のない人たちであろうか、子供の遊び声がうるさいと云って抗議する事態も起っている。子供たちはのびやかに遊ぶ(それは子供の重要な仕事だ)自由も居場所もないのかもしれない。 子供の姿を見れば、その国の本質がわかる。良きにつけ悪きにつけだ。 夕方、子供たちがいなくなった店の前で、お婆さんがベンチを移動して掃き掃除をしていた。
Oct 25, 2007
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今夜は十三夜、そう思いながら夜空を見上げると雲ひとつなく月が輝いていた。色付きはじめた柿の実のような色をしている。私の横をすりぬけて猫のサチがベランダに飛び出し、月明かりのなかで黒いシルエットになって、嬉しそうに転げ回る。 「寒い寒い、帰っておいで」 サチを呼び入れ、戸を閉めた。 露けさに障子たてたり十三夜 虚子 「十三夜」という言葉を手近にある国語辞典で引くとそれぞれ次のように説明している。 【三省堂・明解国語辞典】 1,陰暦十三日の夜。2,陰暦九月十三日の夜。のちの月。 【三省堂・明解古語辞典】には「十三夜」は載っていず、「のち(後)」の項に「後の月」として、 陰暦八月十五日の夜の月に対して、九月十三日の名月をいう。「後の月 葡萄に核(さね)のくもりかな」(成美) 例文の句は、江戸時代の俳人・夏目成美(寛永2年:1749―文化13年:1816)の作であることを示している。 【岩波書店・広辞苑】 1,旧暦の毎月十三日の夜。2,旧暦九月十三日の夜。八月の十五夜の月に対して「後の月」と呼び、また、芋名月に対して豆名月・栗名月といって、月見の行事を行う。919年の醍醐天皇の月の宴に始まるとも、宇多天皇がこの夜の月を無双と賞したのによるともいうが、わが国固有のものらしい。→「十五夜」 ごくごく手近の辞典でも少しづつ記述が異なっている。ちなみに、上の二書はわざと古いものを使った。昭和42年発行の新装改訂134版と、昭和38年発行の新版4版である。また、広辞苑は昭和56年発行の第2版補訂版である。現在書店に出ている広辞苑は第5版であるから、第2版も古いといえば古い。 さて、もってまわった言い方で何故こんなことを書いているかといえば、このたび広辞苑の第6版が刊行され、これに新たに採録された言葉、その編集方針にいささか疑問をいだいたからだ。 話題になっている採録語は、たとえば「うざい」とか「ラブラブ」という言葉である。 これらいわば俗語が、現代俗語辞典と称するようなものに収録されるなら当を得ているといえようが、はたして広辞苑に収録する必要があるのかどうか。 辞典の編集方針を決定するのは難しいものである。あらゆる流通語を漏れなく収録できればそれに越したことはあるまい。だが、言葉は生きているということをそのまま無定見に方針に組み込めば、ナマモノの日常語のなかでスタンダードは見失われていくであろう。私はたしか以前このブログで書いたことがあるが、日本放送出版協会が発行していた『アクセント辞典』が、それはいわゆる東京アクセント型を標準としていたにしろ、その後、若者俗語の語尾強調型アクセントを「現代一般型」として採用する編集姿勢をとりはじめたことにより、日本語のアクセントのスタンダードを見失ったのではないかと指摘した。なんでもアリということは、正しいアクセントを調べるという本来の有用性を破壊することにほかならず、辞典としての存在理由がなくなってしまったのだ。 辞典というものを1册あれば事足りると考えるのは間違いなのではあるまいか。最近の広辞苑の編集方針には、そのようなバカバカしい商売っ気がうかがえるのだ。 私の書棚には外国語をふくめて大小沢山の辞典がある。もしかしたら、一般家庭としては多すぎるかもしれない。一般家庭には『隠語辞典』などは、まあ、所持していないだろうから。 今、机のそばの棚にならんでいる辞典だけでも書き出してみようか。 『角川国語辞典』『大明解漢和辞典』『明解漢和辞典』『日本服飾史辞典』『実用服飾用語辞典』『男性服飾用語辞典』『デザイン小辞典』『岩波理化学辭典』『小学館独和大辞典』『岩波独和辞典』『スタンダード佛和辭典』『ラルース大英和辞典』『語源英和辞典』『新クラウン英語熟語辞典』『英語会話表現辞典』『会話・作文・英語表現辞典』『社会人の英単語』『新選英和辞典』『デイリー・コンサイス英和辞典』『最新コンサイス和英辞典』『トラベル英会話辞典』『講談社学術文庫版・英和辞典』『大学書林・中国語小辞典』『Webster English Dictionary』 先に上げた3册の国語辞典をいれて27册。この他に別な部屋にもあり、それらを常時ひっきりなしに使用しているわけではないが、辞典として機能しているのだ。つまり、繰り返すが、辞典というものは1册で事足るとは少なくともできるだけ厳密をもとめようとする使用者の思念にはない。したがって国語辞典はまずは50年100年くらいのスパンをスタンダードとすることを基本に、現代俗語は付録として収録することで良いのではあるまいか。多分に一過性の流行語、未成熟な符牒のようなものもあろうではないか。辞典を引く理由はいろいろあろうが、日本語としての成熟語を探究するというのも、大きな目的であろう。軽薄で未成熟な若者言葉を多数収録したことにより、削除されてしまった言葉がないとは考えられない。私はこれまでにも、何故この言葉が収録されていないのだと思ったことがしばしばあった。「死語」とは今日若者が言うのを耳にするけれども、国語辞典の収録に関しては死語などはないと考えたほうがよい。編集方針としては、現代流行語を追い掛けるよりも、むしろ大切なことなのではあるまいか。 「うざい」と同種の言葉だと思うが、私の日常言語にまったく登場しない言葉、したがって不可解な言葉はたしかにある。「しかと」「えんがちょ」「びびる」「ばんちょう」「ヤンキー」等々。ようやく最近になってそれらの概念がなんとなく分かりかけてきた。しかし血肉となるには遠い。おそらく私はこれらの言葉から無縁でおわるだろう。はたしてこれらの言葉が広辞苑の最新版に出ているかどうか。出ていないとしたら、ますます編集方針の容易に納得できない無定見さを疑わなければならない。愛用者としての嘆きである。 水涸れて池のひづみや後の月 蕪村
Oct 23, 2007
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散歩がてらいつもの大型古書店に立ち寄り、いつものごとく100円均一本を物色。新しく入荷していた4册を購入。 ◆加藤周一『私にとっての20世紀』(2000年、岩波書店) ジャケットの袖に、「評論家・加藤周一氏が見て、歩いた20世紀とはどういうものだったのか、そのなかで何を考え、何に怒り、何に感銘を受けたのか、戦争、社会主義、ナショナリズム、歴史、文化などの20世紀テーマを、自らの足跡と重ね合わせながら読み解く。」とある。加藤周一氏は、私が信頼する評論家のひとり。 ◆森村誠一『〈悪魔の飽食〉ノート』(1982年、晩聲社) 食物に関する本ではない。1931年に日本陸軍に創設された細菌戦遂行のための部隊、・・・正式には関東軍防疫給水本部満州第731部隊・・・に関する著者の『悪魔の飽食』と前後して発表された論文や対談を収録している。 「731(ナナサンイチ)」と秘かにその存在が知られていたものの、実態については関係者の口は堅くとざされてきた。しかし1980年代にはいって、ようやくその残虐な所業の実態が明らかになってきた。森村氏の追究は、いわば在野の研究として注目をあつめ、広く一般に「731」について知らしめる役割をはたしたといえよう。 (この研究に先鞭をつけた別の本が私の手元にあるのだが、ざっと見渡した書棚には見当たらない。みつかったなら、また改めて紹介する。) ◆三輪裕範『ニューヨーク・タイムズ物語 ― 紙面にみる多様性とバランス感覚』(1999年、中公新書) これもジャケットの袖の記述を引用しよう。 「アメリカ・ジャーナリズム界の至宝『ニューヨーク・タイムズ』紙。その紙面は長年〈灰色の貴婦人〉の名で親しまれ、世界でも最も影響力があるといわれるバランスのとれた国際報道やコラムに定評がある。このような紙面づくりがどういう経緯で成立し、確立していったのか。日本の新聞と異なるのはどんな点か、豊富な事例をもとに具体的に検証する。云々」 ◆間宮芳生『現代音楽の冒険』(1990年、岩波新書) 古書店を出て、次にDVD店に行く。 ミロス・フォアマン監督『アマデウス』のデレクター・カット版が期間限定の低価格で出ていた。このDVDはすでに所持しているのだが、メーキングが付録になってい、また本編とは別に、監督と脚本のピーター・シェーファーが全編を見ながら撮影時のエピソードを話している音声が付いているというので、それは是非とも聞かなければと購入。もちろん未開封の新品なのだが、なぜか定価より安くしてくれた。 夕食後、ちょっとだけ見ておこうとまずメーキングを見て、結局61分、全部見てしまった。次に本編を少し見ておこうと、けっきょくこれも3時間、全部ていねいに見てしまった。 力のある映像は、何度見てもおもしろい。モーツァルトが死んで、袋詰めにされた屍体が共同墓地の墓穴に放り込まれる。激しく氷雨が降っている。墓掘り人がシャベルで石灰を振り掛ける。白い粉が袋をおおい、煙りのようにたなびく。袋の上の石灰のうえに、雨滴の跡がうがたれてゆく。先に放り込まれてあった汚れた袋の裂け目から、屍体の灰色に硬直した5本の指がのぞいている。穴の上では、泥濘に雨がふりそそぎ、びちゃびちゃと跳ね上がっている。・・・そういう映像がなんとも素晴らしい。神の寵児であった天才音楽家の惨めな死が胸に迫る。事実、モーツァルトの遺体が埋葬された場所は、今日でも確定していない。映画におけるこのシーンは、その事実の由縁を語るだけの力がある。 ミロス・フォアマンとピーター・シェーファーの音声解説版も見始めたが、あまりにもおもしろく、これでまた3時間はいくらなんでも無理、時間ができたときのお楽しみにしぶしぶ冒頭だけでストップした。 この映画、劇場公開時に見ているが、あれからもう22年が経つのだ。映画が少しも古びていない。たいしたものだ。
Oct 22, 2007
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国道352号は、新潟県柏崎市を起点に長岡市、魚沼市、福島県南会津郡、日光市、鹿沼市、下野市を経て栃木県河内郡上三川町を終点とする一般国道である。 と云ったものの、私はこの道路を通ったことはない。昔昔、まだ国道に昇格する以前の1963年(昭和38)、私たち一家が八総鉱山を去る時に、南会津郡田島町糸沢羽塩と鬼怒川の区間を通ったことがあるのだが・・・。そうそう、八総鉱山小学校6年生の修学旅行が日光だったので、バスに揺られてその区間を往復したこともあった。羽塩が旧日光街道との分岐点なのだ。現在もそうらしいが、会津線の陸橋の下をくぐって行く。 田島町はその後、近隣の町が合併して、現在は南会津町というようだ。そのことを知ったのは昨夜である。昨日のブログに会津若松に行く予定であると書いたが、東京から鉄道で行く場合、ふたつのルートがある。一つは、東京駅発の東北新幹線で郡山まで行き、磐越西線に乗り換えて会津若松着。二つ目は、浅草から会津鬼怒川線で会津高原尾瀬口駅まで行き、会津線に乗り換えて会津若松到着。 (上越新幹線で新潟に出て、喜多方経由で入ることもできるし、喜多方とは反対方向の只見経由で入ることもできるが、今回はそれは無しだ。) 私は二番目のルートが未経験なので、1時間半ほど余計にかかるが、こちらにしてみたい気持がある。 会津鬼怒川線は、歴史的には日本鉄道建設公団により1966年に会津滝ノ原(現・会津高原尾瀬口駅)と今市とを結ぶ野岩(やがん)線として着工した。が、国鉄再建法の施行によって工事が凍結され、その後、野岩鉄道株式会社が設立されて工事を引き継ぎ、東武鬼怒川線と結ぶ路線に変更して新藤原駅を起点とする会津滝ノ原あらため会津高原駅間が1986年に開通した。 こんなことを述べたのは、じつは野岩線の実現には私の亡くなった父がいささかの努力をしていたからである。父は八総鉱山の社員であったが、田島町議会の議員を2期務め、その最後の仕事が野岩線の実現だった。沿線の住民にとっては明治時代からの悲願であったようで、父の時代の議会議員はのっぴきならない期待が寄せられていたのだった。 先に述べたように、私たち一家は1963年に去ることになってしまったので、父は建設の着工を見ることはなかった。開通したときに田島町から東京の我家に知らせがとどいた。しかし父は都合がつかず、式典に出席することができなかった。父は亡くなってしまったので、私だけでも一度、この鉄道に乗ってみたいと思っているわけだ。 話がついつい鉄道のことになってしまった。国道352号のことだった。 インターネットで鉄道ルートを調べていて、旧八総鉱山の地図を見て驚いてしまったのだ。なんとその国道352号とやらが、昔、八総鉱山に住んでいたときの我家のすぐ裏をはしっているではないか! 近くというのではない、まさにすぐ裏をだ! そこから新潟方面へ向って右に迂回して、子供のころ遊んだ龍沢に添って三角山のふもとを通って只見・檜枝岐(ひのえまた)の方に向っている。 我家の裏といっても、山だった。山また山の峡谷のようなところに開けた鉱山町。現在はあとかたもない、幻の町。しかも龍沢の奥地は、子供たちは無論のこと大人たちでさえたぶん誰ひとりとして足を踏み入れたことはないであろう。私は、植物を索め、蝶を索めて、ヤマカガシ(蛇)に追いかけられながら奥へ奥へと踏み入っていたのだけれど。 地図によれば、国道はその龍沢の岸から100メートルも離れてはいない。あの山を掘削したというのか! 国道352号は3期に分けて開通したらしい。現在も、長岡市の旧山古志村近辺が未開通だそうだが、第1期が1975年に、第2期が1982年に、第3期が1993年に開通している。部分的には1.5車線という険しい道がつづくようだが、さもあろう。昔の様子を思えば、私にはあそこに国道が敷設されようとは想像ができない。まったく驚きだ。 八総鉱山が完全に閉山されたのが1971年だというから、それから4年後にはこの道路が完成していたことになる。ということは、私たち一家が去ってまもなく、道路開鑿工事が始まったのであろう。 そういえば、昭和29年に私たちが八総鉱山に転居したとき、会津滝ノ原と八総鉱山とを結ぶ約4キロの道路はいまだ幅のせまいものであったが、鉱山が本格的に稼動すると一級産業道として整備された。その当時、道路わきの山肌に途中で工事を放りだしたような跡があった。私は子供心にあれは一体何のためなのだろうと思っていたものだ。昭和29年以前に着工して、中断したものにちがいなかった。・・・あれが国道352号となんらかの関わりがあるのだろうか? 私は44年前の記憶をたぐり、さらに国土開発という大事業の成果にあっけにとられながら、ほとんど幻想的ともいえる八幡の薮知らずに踏み迷う。
Oct 21, 2007
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今ではインターネットによってほぼ世界中の詳細な地図が入手でき、自宅の在り処のみならず、かつて住んでいた所やゆかりの場所を見ることができる。それは驚くべき技術である。便利になったと喜ぶが、一方、思い出のなかにあった場所の記憶があからさまな現実の姿に出会って、なにやら痛ましく感じるほど損壊されることもないわけではなかろう。 私にとって会津若松市は、親許を離れて中学・高校とつごう6年間をひとりで暮らしたまさに青春の城下町である。来月、同市で活躍する童劇プーポの創立50周年記念行事に出席するため、会津若松をたずねるつもりだ。2年前に一度、43年振りにたずねている。そして43年という時間がどのようなものであるかを、私は町の変貌によって実感したのだった。私の見知ったところはほとんど消えてしまっていた。高等学校のほんの片隅の低い石塀の一部が昔のままであったことに、かえっておどろいたほどだ。町の結構そのものが大変貌していたのだから、そんな石塀の一部が残っているとは想像していなかったのである。 さて、インターネットでホテルの予約をするまえに、昔住んでいたところをあらためてモニター画面で見ていたのであるが、ふと、過日、童劇プーポの昔のバッジを探しているときに出てきた古地図の写しを思い出した。それは私が中学1年生のときに、上級生のお父上が所蔵していたものをこっそり借り出して写しとった〈蒲生若松城下明細図〉である。幅78cm×縦68.5cm。次のような記述があり、それをも毛筆で原図どおりに写している。 「本図は某氏ノ蔵スルヲ採リ諸氏奉行人始メ寺院の俸録ハ元和七年三月蒲生忠郷公の重臣稲田数馬之助本山豊前等ヨリ徳川将軍ノ監吏ニ呈シタル分限帳ヲ本領トシ又各町名称及神社仏閣位地等ニオイテハ新編会津風土記ニ拠リ是ヲ参酌シ而シテ大ニ訂正増補ヲ加エタリ」 下に掲載するのは、私が住んでいたあたりの部分図である。若松城のすぐ下に大名屋敷が二邸ならんでいる。その右側の屋敷、「七千七百五十石 外池信濃守」とあるが、そのあたりだ。保科・松平治世のずっと以前の城下図なので、後世、藩校日新館はその屋敷跡に設立されたことになる。そして白虎隊の少年達が水泳をした水練場も。その水練場の跡地に私は住んでいたのだった。 現在、私の昔の資料保存箱には、この〈蒲生若松城下明細図〉のほかに、私が住んでいた当時、すなわち昭和33年から39年(1958~64)ころの会津若松市の地図が残っている。それは、当時同市で一番大きかった、しかし現在はなくなってしまったらしい書店「福島書房」が発行したもの。私はだれひとりとして知人が住んでいない、見知らぬ町に暮らすためにその地図を買ったことを思い出す。いまその地図を眺めていると、なぜそんな光景が長年風化せずに目の裏に焼き付いて残っているのだろうと、我ながら不思議なほど街の様子や見知らぬ人物の往来がはっきりよみがえってくる。だがそれらは、かならずしも青春の甘い思い出ではなく、あまりにも古い歴史の街に、私の確固とした居場所をみつけられず、ついに日本にいながらにして精神はコスモポリタンたることに気付く寸前の苦い光景でもある。懐かしいが、悲しみのいっぱい詰まった街なのだ。 【追記】 この古地図の写しがまったく未完成であることを、いま思い出した。つまり、区割りは屋敷を表わしていて、原図にはそこに誰が住んでいたかが書き込まれていた。私は、たぶん上級生に早く返してくれと言われて、未完成のまま原図を返却しなければならなかったのだ。蒲生以降の城の結構の鉛筆による写しや、私自身が製作した昭和33年当時の城の図面のスケッチもこの古地図とともに残っている。
Oct 20, 2007
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中断している大きな作品を一気に仕上げまでもってゆこうと思い、そのための躰をつくっておこうと、しばらくぶりに遠出のサイクリングをした。往復3時間の距離。東京の天気予報は午後3時過ぎには雨となっていたが、降ったら降っただけのこと。空を見上げれば雨雲は見えなかった。 いつものように、街中観察しながら走る。近所の彼岸花、およそ200本は優にあろうが、一度にすべて枯れてしまっているのに驚く。200本もあるのだから、枯れるものあり未だ咲き残っているものありとなってもよさそうなのに、まったく同時に枯れてしまっている。同種植物間のシンパシー(同調・共鳴)というようなことが起るのだろうか。と云うのは、枯れてしまったのは赤い花をつけていた種類だけで、黄色い花をつけている種類は咲残っているからだ。 このお宅の彼岸花を通りすがりに毎年見つづけてきたが、一斉に枯れるということに初めて気が付いたのだった。 幹線道路のわきに、やや小高くなってその上が畑になっている所がある。道路際に2本の樹木があり、1本はかなり高く4,5メートルはあろう。もう一本はその半分ぐらいの高さで、樹木全体に蔦がからまってそれ自体で小薮のようになっている。その小薮のような内部からたくさんのムクドリ(椋鳥)の鳴き声が聞こえていた。おそらく10羽できかない。20羽30羽といそうだ。蔦におおわれた樹木そのものが巣になっているのかもしれない。1羽2羽と、薮のなかから飛び出しては、高い方の樹木の枝に止っていた。 おそらく、この樹木を観察していたなら、早朝、そして夕方、数十羽のムクドリが一斉に飛び立ち、また帰巣する光景が見られるにちがいない。薮の中はどんな様子なのだろう。のぞいて見たいものだ。 ムクドリは警戒心の強い鳥なのだろうか。中村草田男に次のような一句がある。 跫音(あしおと)のとまるを椋鳥のおそれけり 近づいてきた人の足音がぴたりと止った。そして、それまで騒々しく鳴いていたムクドリが、一斉に鳴き止んだ。そういう情景であろう。 ムクドリという名前はムクノキに群集するからだという説がある。蔦におおわれていたので判別できないが、この樹木、あるいはムクノキなのかもしれない。牧野富太郎博士がムクノキを説明して、「山地にはえるが、しばしば人家附近や道路わきにも栽えられる」と書いている。まさに件(くだん)の樹木の在り処を言っているかのようだ。人目の多い幹線道路わき、しかも他人の畑なので、土手をよじのぼって樹木の正体をたしかめるわけにゆかないが、たしかめたい誘惑にかられる。 帰路についたとたんに、ぽつりと雨滴が顔に当った。天気予報どおりになったか。・・・しかし、まさにたった一粒、それきりだった。予定どおり丁度3時間で帰宅した。帰宅したとたんに、電話が鳴りはじめた。おやおや。
Oct 17, 2007
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近頃といっても、もう20年25年も前からみかけることだが、女性達の物を食べる様がとても見苦しく下品になった。箸を使うにしろフォークやスプーンを使うにしろ、大口をあけて食べ物をまるで喉に突き刺すように口に運ぶ。さきほどもテレビでそのような場面を見たばかり。美人も、・・・古い表現だが・・・「お里」が知れるというものだ。 テレビは毎日毎日飽きもせず、食べ物番組を放映しつづけている。そして、いずれも女性たちの食べ方が、真正面から口中に突き刺すような食べ方をしている。私はこのような不作法な食べ方を見たとき、初めは、口紅が付かないようにしているのだろうと思った。だからと云ってその不作法を許す気は毛頭ないが、口紅が付着する不快さは分からぬでもない。が、10年20年とそんな様子を見つづけて来ると、今やその不作法がそのまま広くまかり通り、定着しているのではないかと考えるようになった。 食事のマナー、そのなかでも食べる姿というのは、なかなか自分では気が付かないものだ。これこそ家庭教育の根底にあるもので、幼い時にきちんと躾けられてマナーとして自分の肉体に浸透する。 こんな言い方をしたくはないが、昔はマナーが身に付いていない人間は世に表立つことはなかった。が、テレビ文化がすべてを等並みにして、不作法者が大手を振るっている。人の格差がなくなることは私は是とするが、テレビ文化の功罪のなかの「罪」には、まるで悪貨が良貨を駆逐するという経済原則に似た、不作法をファッション化する傾向を指摘できるのではあるまいか。目下話題の反則ボクサーも、テレビが作り出し、助長した不作法者であろう(私はボクシングが好きで、例のチャンピオン戦もテレビ観戦していたのであるが、ブログに書く気にもならなかったのだ)。 女性諸君、美容に気を使い、ファッションに気を使うのだから、食事をするときの姿の美しさ、食べ物を口に運ぶときの美しさにもおおいに気を使ってはいかがか。食事というのは、セックスと同じですよ。あなたの裸が人目にさらされているのだとお考えなさい。食べ方が美しいということは、他の欠点がみな許されてしまうほど、重要なものです。「お里」が知れるなどと云われないようになさい。
Oct 16, 2007
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今朝、住宅街を灯油販売の売り声を流しながら巡回車が通ってゆくのが聞こえていた。この秋、初めてのことだ。流している音楽で、ああ、どこそこの店の車だとわかる。我家の近辺では、これから4軒ほどの店が、それぞれの音楽を流しながら、巡回販売のしのぎを削ることになる。そういう季節になった。 Nさんから大きな段ボール箱に詰められた畑のいろいろな収穫物が送られてきた。ジャガイモや南瓜や、そのほかいろいろ。〈The harvest time〉収穫期というが、私のような絵描きにはその実感はなかなか味わうことができない。が、Nさんが毎年送ってくださるプレゼントの箱を開けるたびに、畑の土の匂いとともに収穫の喜びもお裾分けしてもらっている。 さっそく昼食はジャガイモを高圧鍋で塩茹でし、ソーセージと白菜漬けを添えて頂いた。おいしい、おいしい。ホクホクとしたジャガイモのなかに、甘味がギュッと詰まっていた。 新馬鈴薯やくるくるむけて可愛らし 妙子 ジャガイモ(馬鈴薯)は、俳句では十月の季語である。
Oct 16, 2007
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イギリスの作家ドリス・レッシング(Doris Lessing; 1919-)が、本年度のノーベル文学賞を受賞した。 私は21年前、1986年に、サンリオ文庫で彼女の『シカスタ』の装丁・装画を手掛けている。サンリオ文庫がいまはないので、この本を書店でもとめることはできないが、ごくたまに稀覯本をあつかうような古書店に高値で出てくることがある。 それはともかく、息の長い重厚な文体で書くドリス・レッシングという作家は、あるいは日本ではあまり知られていないかもしれない。 ドリス・レッシングは現在88歳、1919年にペルシャ(現イラン)のケルマンシャーに生まれた。彼女が出生した当時、父親はペルシャ帝国銀行の支店長であったが、ドリスが5歳のときにローデシア(現ジンバブエ)に入植した。ドリスは同地ソールズベリーの学校で初等教育を受ける。しかし学校になじめず、14歳で退学、その後の学校教育はなにもない。ローデシアで電話交換手、看護婦、秘書などの仕事に就いたのち、1939年にイギリス人の官吏と結婚した。1943年に離婚。1945年再婚。1949年に再び結婚は破綻し、彼女は息子を連れてイギリスに渡った。翌1950年、作家としての第一作、『草は歌っている』を発表した。代表作に『黄金のノート』、『アフガニスタンの風』。これまで発表された作品は50册をこえる。 日本でドリス・レッシングを翻訳紹介してきた大社淑子(おおこそ よしこ)早稲田大学名誉教授によれば、「レッシングの世界を支える3本の柱はマルキシズム、反人種差別主義、フェミニズムだと言われてきたが、最近ではマルキシズムからやや離れて、スーフィズム(イスラム神秘主義)に対する傾斜を見せている。加えて、宇宙小説とも呼ぶべき新しいジャンルを開拓してきた。」(10月13日付朝日新聞) 私が装丁した『シカスタ』は、まさにその宇宙小説である。 この小説は連作『アルゴ座のカノープス』5部作の第一巻にあたり、1979年に発表された。SF的な結構のもとに、大宇宙の視座から地球の姿を描こうとした壮大な実験的作品である。『シカスタ』が発表されると、賛否両論が巻きおこり、実に奇怪なことながら特に既成のSF側からの批判が強かったと言われる。しかし、彼女の社会に向ける視線は鋭く予言的でさえあり、たとえば『アフガニスタンの風』は現在の危機的な状況を非常に早い時期に適確に捉え、警鐘を鳴らしていたと言えるもので、大社淑子氏は、『アルゴ座のカノープス』5部作もSF小説と限定するよりも旧約聖書的な壮大な叙事詩であり、「警世の書」であると述べている。 ドリス・レッシング女史のノーベル文学賞受賞を祝し、お慶び申しあげます。サンリオ文庫『シカスタ』上下(1986年2月刊)装丁・装画;山田維史
Oct 13, 2007
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5匹の猫たちの日に2度の食事のために大量の缶詰やドライフードを買い置きしてある。今日はその買い出しの日。5匹の猫は、それぞれ味覚が異なるようで、缶詰の種類も12~15種類になる。猫の好き嫌いはなかなか頑固なものだ。生まれたときから我家育ち、言うならば生っ粋の「飼い猫」の、それは特権的なわがままかもしれない。ためしに嫌いな物を与えて放っておくと、1日くらいなら絶食して平気なようだ。なかなかの根性で、こちらが根負けしてしまう。5匹の猫に長々とかかずらっていられないのだ。 健康な猫なら、1日2日絶食していても心配することはない。ただ、長年飼っていても、体調の悪さを察知するのはなかなか難しく、もし病気が原因の食欲不振ならば、3日を越す絶食は危険である。30年近くに亘って代替わり代替わりで30匹の猫を飼ってきた経験だ。 そんなわけで、食欲旺盛なのは大いに結構と、せっせと買い出しにゆくのである。店側の仕入れの関係で、あれは在るけれど、これは無いということがあり、3軒をハシゴする。そのうち1軒はスーパーマーケット。フクのオヤツの無添加天日干し煮干しを買う。 さて、買い出しが済んで、ついでにいつものように大型古書店に立ち寄り、100円均一本をチェック。5册購入。いずれも気軽に読めるものばかり。 岩淵悦太郎『語源散策』(1974、毎日新聞社) かつて文芸雑誌『群像』に連載されたエセーを一本にしたもの。「あとがき」に語源研究という学問的なものではないと、何やら言い訳がましく書いている。こういう「あとがき」は、心根のいじましさを感じて私は好まない。本を手に取ればば分かる。読めば尚更分かる。内容は悪くはないのだ。 宮本美智子『女と男のニューヨーク』(1986、中央公論社) 有吉玉青『ニューヨーク空間』(1993、新潮社) 著者のニューヨーク留学見聞録。1992年の1月から12月までの丁度1年間。この本を手にとったのはたまたまだったが、1992年といえば私もこの年の6月7月をニューヨークに滞在していた。パラパラとページをめくると、記述に私の見聞と重なるところがある。 平岩弓枝『王子稲荷の女 ― はやぶさ新八御用帳』(1998、講談社) 平岩弓枝『幽霊屋敷の女 ― はやぶさ新八御用帳』(1999、講談社) これは老母へ。
Oct 12, 2007
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現在テレビでオン・エア中の缶コーヒーのCMに、モーツァルトの交響曲40番(KV550)の第1楽章の冒頭部分が使用されている。原曲はMolto allegro。二つのヴァージョンがあるけれども、CMではMolto allegroよりもう少し速く演奏されているかもしれない。演奏はひとつひとつの音が鮮明に粒立って、すばらしい。私はわずか数十秒のこのCMを、いつも目をつぶって聴き入ってしまう。そのため、コーヒー・メーカーには申訳ないが、じつは社名も製品名も知らない。私に対してはコマーシャルの役がたっていないことになる。 それはともかく、私がこの曲、わけてもこの導入部が好きなのは、その悲劇的な疾走感である。いや、私はそのように感じるのだが、別な感じ方をする人があるかもしれない。CMに使用されるというのは、たぶん制作者は悲劇的とは感じていないからだろう。 感じかたの違いを誘発するようなところが、音符そのものの配列のなかに潜在しているかもしれない。目をつぶって聞きながら、私がほとほと感心してしまうのは、その点なのだ。悲劇的と言ったけれども、じつはひとつひとつの音は明るさをまとい、軽やかに飛び跳ね、転がるようだ。めざましいスピードで音が変わってゆくと、耳に残る残響は、俄然悲劇性を帯びるのである。 何ということだろう! まるで魔術のようなことをモーツァルトはやっているのだ。ここには表現の奥義がある。 映画『アマデウス』の中でサリエリが言っていた。「どの音符ひとつを変えても崩れてしまうのだ!」 目をつむり、耳を澄まして、私は何度でも聴いてみる! 魔術を知りたいがために。
Oct 12, 2007
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2年前の冬、我家の小庭のハーブは霜にやられて全滅してしまった。特にローズマリーとスゥィートバジルは重宝していただけにがっかりした。 老母の散歩がてらの買い物につきあっていつもよりほんの少し遠出をしたところ、そこでローズマリーとスゥィートバジルの鉢を売っているのを見つけた。嗅いでみると、すばらしい香りがする。 さっそく購入したものの、帰宅してテレビの気象予報を見ると、明日あたりから関東北部に霜が降りるとのこと。「寒露」に入ったと言っていた。気温が5℃になると地表の温度は零下になり、霜が降りるのだと。ハーブの移植は様子をみたほうがよさそうだ。とりあえず鉢のまま屋内に置くことにした。 ところで、この2種類のハーブを使った私の好きな簡単料理がある。 ローズマリーは鶏肉やジャガイモの料理に良く合うが、チキン・ステーキに用いるととても美味しい。私はオリーブオイルを使うが、バターでもサラダオイルでも良いだろう。もも肉に塩胡椒を振り、ローズマリーを少したっぷりまぶして、そのまま皮がパリッとするまで焼く。それだけである。簡単至極。ローズマリーの香りだけで食べる料理である。 スゥィートバジルは冷製パスタに。夏の昼食にはもってこい。パスタが好きなら是非お試しを。 パスタを茹でている間に、ニンニク一欠をスライスして、たっぷりのオリーブオイルに香りがつくように炒め、冷ましておく。冷めたならサイコロ状にザク切りにしたトマトを加える。トマトは皮もタネも取らない。まるごと1個を使う。茹で上がったパスタを素早く冷水にくぐらせ、水を切って、トマトのソースを絡め、刻んだスゥィートバジルをたっぷり絡め、パルメザン・チーズをふりかけて食べる。茹で上がったら手早く仕上げること。シンプルながら、爽やかで、最もパスタそのものの味が楽しめる一品。(と、私は思っている。) これらの料理は実に簡単にできるだけに、ハーブは、どうしても摘みたての新鮮なものがほしい。乾燥した瓶詰物で間に合わせるわけにはゆかないのだ。
Oct 9, 2007
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10日前の9月27日の日記に4册の古書を買ったことを書いた。そのうちの1册は、ジョン・ラーベ『南京の真実(The Diary of John Rabe)』(エルヴィン・ヴィッケルト編、1997、講談社)であった。そしてこの本と対比しながら読むために、北村稔『「南京事件」の探究 ― その実像をもとめて』(2001、文藝春秋)を同時に購入した。 この2册の本を買ったのは、もちろん「南京事件」について自分なりの視点をもっておかなければならないと日頃から思っていたにしろ、この日たまたま100円均一本のなかに発見したからであった。このたまたまが、私を新たな探究へと導いて行くことになろうとは予想していなかった。 私は、昨日、夕刊のイヴェントを列記した欄に、次のような案内が載っているのに目を引き付けられた。[講演会「南京事件70周年に際して」7日午後2時、東京都国分寺市の東京経済大学2号館。講師は中国現代史学会名誉会長の張憲文・南京大学教授。主催・東京経済大学国際歴史和解研究所。] きょう、私はこの講演会に行ってきた。3時間という長い会であったが、被害者側の、しかも50年に亘って中国現代史を研究してこられた張先生のお話をうかがえた得難い機会であった。 南京大学は、「歴史を経験にして未来へ向う」という理念のもとに、2006年にジョン・ラーベの名を冠した「国際平和と衝突和解ラーベ研究所」を開設。南京事件聴き取り調査を含む3千万点におよぶ厖大な資料を収集し、『南京大屠殺史料集』を編集、現在28巻まで出版している。張先生はその編集主幹をつとめておられる。(私は今回、この28巻すべてを実際に手にとって見ることができた。) 張先生の講演内容を要約してここに伝えたいのだが、誤りがあるといけない。私のメモを整理して、後日あらためて紹介することにする。きょうのところは、講演会に出席したことだけを書いておく。
Oct 7, 2007
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引き受けた仕事がここにきて一気に片付いて、きょうは丸一日なんにもせずに過した。読書しながらいつのまにかうとうとと眠っていたりする。それでも夕方までには一冊読了してしまった。 夕食はこの秋はじめての松茸御飯。とてもいい味に仕上っていた。普段、御飯は茶碗にかるく一杯しか食べないが、今夜は少し多めの一杯。 献立: 松茸御飯、土佐煮(大根、人参、椎茸、筍、莢隠元)、茶わん蒸し(鶏ささ身、松茸)、香の物(生姜甘酢漬け)、すまし汁(豆腐、分葱)、デザート(柿)。 私といっしょに富士の裾野に行きたい、と老母が言っている。なんでそんなことを言い出したのかと思ったら、この週末から連休だと気が付いた。私は、カレンダー上の連休とはあまり縁のない生活をしてきたので、そういうことに気が付くのが遅いのだ。それはともかく、富士行きは、たとえ裾野でも、母のほうが体力的に無理だろう。普段の散歩の様子を見ていれば分かる。老いがすすむにつれて、日常においてその者にどのようにして頭脳的肉体的に刺激をあたえるか、家族の悩むところではある。
Oct 5, 2007
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運動不足がちなので午後サイクリングに出る。往復20キロ。今日はよく晴あがって、汗ばむほどだ。着ていた長袖のシャツを腕まくりする。 途中で数人の郵便配達員に出会った。この10月1日から、民営化された新会社として発足したわけだが、それにともなって局員のユニフォームが変わったらしい。オレンジがかった黒のスーツ風な上下、襟と袖口にオレンジのラインが入っている。ウ~ン、どうだろう、野暮ったくないか? 誰がデザインしたか知らないが、センス悪りィ~、というのが私の第一印象。ゴメン、ゴメン。 たぶん制服(ユニフォーム)のデザインって、難しいのにちがいない。年齢も幅広く、体型もまちまちなのだから、スマートなモデルを使ってプレゼンテーションしても見当違いがおこることは必然だろう。まして男性の場合は、普段からシェイプアップして自分の肉体的外見に気をつかっている一般サラリーマンなんて少ないだろうからね。 それに、オレンジがかった黒なんて、着こなすのが難しい色だよ。オレンジ色がまた難しい。イキかヤボかにはっきり別れてしまう色だ。これはファッションばかりではなく、一般的に配色が難しいのだ。我が母校、法政大学のスクール・カラーはオレンジと紺だが、野暮だよねー。ガッカリするほどヤボ!・・・オレンジは難しいのです。 そんなふうに、往きも帰りもやたらと郵便局員に目がいった。ちょうど一日のうちの二度目の配達時間に遭遇したわけだ。 帰りにひと休みのつもりもあって、いつもの大型古書店によって、これもいつものように100円均一本のコーナーを見た。そして4册購入。 ●加藤哲太郎『私は貝になりたい ― あるBC級戦犯の叫び』(1994、春秋社) 懐かしさを覚える題名だ。私が13歳のときに、この「私は貝になりたい」というフレーズが、ぱーっと世間にひろまった。TBSが1958年(昭和33)にテレビ・ドラマ化し、たしかその年の芸術祭賞を受賞した。テレビ草創期の名作である。脚本・橋本忍、演出・岡本愛彦、主演・フランキー堺。そして、翌1959年には橋本忍の監督第一作として東宝で映画化された。 この年、1958年だったか59年だったか、我家にもテレビが入った。しかし私は『私は貝になりたい』のテレビ版も映画版も見ていない。ちょうど同年、中学生になった私は勉学のために親許を離れたからである。 題名だけが、そして何故かその物語さえも胸に残っていたのだが、この題名の本が出版されたのは1994年、つまり今日購入したこの本が初めてなのだと知った。1958年に著者加藤氏が発表したときの題名は『狂える戦犯死刑囚』で、そのなかに「私は貝に生まれ替るつもりです」という記述があり、橋本忍氏は無断でこの原作を脚本化したというのである。著作権をめぐって法廷闘争がつづいていたようだ。本書には著作権紛争の経過資料が付されている。 そういう事情は知らなかったが、本の編集の点から私の感想をのべれば、こういう付録は本そのもを後味の悪いものにしてしまっている。『私は貝になりたい』と著作権紛争はまったく別の問題であろうから。 私が思うに、著者の橋本氏に対する不審感はこうだろう。すなはち、加藤氏のもっとも主張したかったことは、天皇の軍隊の一兵士として絶対服従の命令で行なったことが、死をもって裁かれることへの理不尽さ、それは「もし私が、こんど日本人に生まれかわったとしても、決して、あなたの思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません」という言葉で語られているように明確なる天皇制批判となって表われる。「あなた」というのは天皇のことである。これに対して、橋本氏の脚本は、そこまで突っ込んではいないのだ。言外の表現にとどまっている。その点に、実際に一命を奪われようとしていた加藤氏は、「違う!」と思ったのではあるまいか。著作の文言をこう使われた、ああ使われたというのとは少し違うように私には思える。もっとも法廷闘争とは、そのような文言の同一不同一で争うしかないのだけれど。 ちなみに加藤哲太郎氏は、1948年(昭和23)12月、横浜第八軍軍事法廷において絞首刑の判決を下された。1949年、軍事裁判のなかで唯一の例として、マッカーサーの命令により同氏のやり直し裁判が行なわれ、6月に再審判決で終身刑、即日、軍事司令官の書類審査で禁錮30年に減刑されて巣鴨刑務所に収監。1958年4月、残余の刑を免除されて釈放された。1976年、死亡。 テレビ・ドラマと映画の影響であろう、加藤氏がBC戦犯として絞首刑になったと思っている人も多いのではあるまいか。この本に付された年表によれば、同氏は1976年に食道癌で死去したとある。享年59歳。 ついでに付け加えると、テレビ版『私は貝になりたい』は、1994年に所ジョージさん主演でも製作されているし、来年冬には中居正広さん主演の映画が公開される予定と聞く。 ●水上勉『土を喰らふ日々 ― わが精進十二ヶ月』(1978,1995、文化出版局) 軽井沢の山荘にこもっての水上氏の農耕生活とその作物による精進料理をめぐるエセー。以前購入した『食味百選』(1997、岩波書店)の姉妹編といってもよいだろう。 ●淀川長治『映画物語』(1996、KKベストセラーズ) 96年1月にTBSラジオの特番でオン・エアされた4日間全8時間のトークをそのまま採録したもの。「ファーストシーンは映画の命」「私の好きな映画監督」「日本映画も好き」「私のお気に入り映画」の4章から成る。 ●新人物往来社編『新選組大事典』(1999、新人物往来社) 百数十点の参考文献から新選組に関するあらゆる事象が抽出されている。まさに大事典。こういう本は値が張るので、差し迫った必要がなければなかなか手元に置くことはできない。それが100円だというのだから・・・ 以上が買った古書。 ところで4日付け朝刊に、イタリア美術史研究の若桑みどり女史の逝去の記事が出ていた。日本のイコノロジー(図像学)の第一人者として、私はずいぶん勉強させてもらった。若桑氏に代る研究者はちょっと思いつかないほどだ。絵を「読む」ということを一般に普及した功績は大きいだろう。残念である。御冥福をお祈りする。
Oct 4, 2007
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昼過ぎ、みんなで老母の散歩に付き合う。彼岸花や、コスモスの野生化した群生を見た。遠くに望める「多摩テック」(遊園地)の観覧車の支柱が、新しく塗り替えられたのではあるまいか。灰色の曇り空を背景に、水色の巨大な花のようだった。 夕方、会津の清水先生から電話があった。記念誌のための表紙を喜んでくださる。訪れるお客様にも評判がよいのだと、お声に笑いがふくまれている。本文のゲラが今日届いたのだそうだ。164ページというなかなかの大部になったとのこと。「これから校正をするのが大変だよ」とおっしゃる。癌を克服されて、この編集作業を一手に引き受けて御活躍だ。私の製作した表紙が役立って、お声に弾みがあるのが私としては何より嬉しい。よかった、よかった。
Oct 3, 2007
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ついさきほどまでBS2でドキュメンタリー映画『ロストロポ-ヴィッチ 人生の祭典』を観ていた(2日、22時~23時45分)。監督・脚本アレクサンドル・ソクーロフ。2006年のロシア作品。 ロストロポーヴィッチとは、今年4月に80歳で亡くなった偉大なるチェリスト、ムスティラフ・ロストロポーヴィッチのこと。夫人は、これもロシアの生んだ偉大なソプラノ歌手ガリーナ・ビシネフスカヤ。映画は夫妻の金婚式の華麗な大パーティの模様からはじまり、その映像のなかに夫妻の足跡をからめてゆく。 夫妻は、ソヴィエト連邦時代に、追放されたソルジェニツィン夫妻を別荘に4年間匿ったことにより、以後、この二つの家族は長い亡命をしいられることになる。あらゆる国からのパスポート提供の申出をことわり、唯一モナコ公国からのパスポートを受けて、コスモポリタンとして音楽活動をした。 映画のなかで、夫妻一家はそのエネルギッシュな勤勉と財産運用によって、誰からの援助も必要としなかったというコメントは印象深い。「チェロリストというのは、存在を認められためには、偉大な才能が必要だ」というチャイコフスキーの言葉が鋭く胸に迫る。そして、チェリストと歌手という他に抜きん出たふたりの芸術家が、同時にすぐれた音楽教師であったというのは、私にとってはひとつの驚異である。 この映画は、もうしばらくの間、私の胸のうちで繰り返したぐってみなければならないだろう。夫妻のそれぞれの表情、目、しぐさ、言葉が、深く私の記憶にたたまれてゆく。さしあたって私は、見た、そのすべてを。
Oct 2, 2007
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ロゴ・マークの原図にするため探しつづけていた童劇プーポの45年前のバッジがみつからないうちに、会津の清水先生から真新しい現物が送られてきた。「贈呈 返却の必要はありません」と、したためられていた。そうそうこれだこれだと、懐かしく手にとった。 さっそくスキャニングしてコンピューターで作図にとりかかる。1時間ほどで完成。表紙の版下に組み込む。裏表紙もできあがっているので、共に何枚かプリントし、1部を製本状態のダミーに仕立てる。 夜12時をまわって、清水先生に宛てた説明を兼ねた手紙を書き、ことのついでにコンビニへ託送のため出かけた。 いつもは庭に虫の声がかまびすしいのだが、今夜はなぜか声が低い。日中、雨がぱらついていたので、草木が濡れている。そのためかもしれない。柿の実が夜灯の光を受けて、葉叢のなかに鈍くひかっている。我家の柿は、夏の台風などでずいぶん落ちてしまったのだが、それでも10個15個残ったのが直径5,6センチになって色づいている。甘柿なので、もう少ししたら取って食べてみよう。 2,3日前、ふいにカップ・ヌードルが食べたくなって、そのことを家人に言うと、「食べたければお食べなさい」とニベもない返事をされた。 「それはそうだけど。・・・別に、旨い物じゃないのに、なんだか知らないが、食べたくなった」と、私は言い、しかしそのままになってしまった。 コンビニで買い物をすることはほとんどないのだが、2,3日前のささやかな欲望をみたすためにカップ.ヌードルを買った。カップ・ヌードルを買うこと、いや、食べることさえ、多分4年ぶりくらいだ。どうしてこんなものが急に食べたくなったのだろう。 以前、海外へ一緒に行った知人が、カップ・ヌードルをたくさん持って行っていた。ホテルは同じだったが別行動だったので、その人の食事の様子はわからなかったが、カップ・ヌードルが手放せないと言っていたのには驚いた。私は海外で日本食をもとめることはないのである。 カップ・ヌードルが入ったレジ袋をぶらぶらさせて人っこひとりいない夜中の住宅街を歩きながら、その人のことを思い出していた。 カップ・ヌードル? 皆が寝静まったキッチンで、湯を沸かして独り食べた。旨かったかって? まあ、2,3日前の不意の欲望が消えたということですな。
Oct 1, 2007
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