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今日はフジロックの最終日ですね。オラもレッチリやマッドネス見たかったな…来年はカネとヒマ作って行きたいなー…(←と去年も言っていた)そんなサビしい気分のオラにはこんな曲がお似合いさ(↑タイトルに戻る)ホワイトアルバムの一枚目の最後を飾るジョン作の美しい曲。アコースティック・ギターによる弾き語りで、他のメンバーは録音には不参加。事実上ジョンのソロである。アコースティック・ギターの静かな音色と素朴なフィンガー・ピッキングが、何とも安らかな気持ちにしてくれる一曲で、「アコースティック・バラードの小品」という点では、同アルバムに収録されたポールの「Blackbird」と対をなすが、この透明感と気だるさはジョンならではのものだ。この曲で聴けるギター奏法は、ビートルズのインド滞在に同行したドノヴァンに習ったものだという。線の細いジョンのボーカルといい、そう思って聴くとドノヴァンの曲に思えない事もない。コード進行なんかもなかなかにヘンテコで(実際ギター一本で弾いてみるとよく分かる)、コードネームとかはあまり意識していなかったと思しき、手癖のようなコード感覚が「理論よりもフィーリング」タイプのジョンらしい。"音楽職人"ポールとは対照的なこうした曲作りが、この曲の美しさの中にも微妙な"ねじれ"を与えている。ジュリアとはジョンの母親の事だが、イメージとしては「オノ・ヨーコもかぶっていた」とジョン自身も言っている。歌詞に出てくる「Ocean Child」というフレーズを直訳すると「洋子」になるのはご存知の通り。男はみな潜在的にマザコンだというが、幼い頃に母親を亡くしたジョンが、パートナーである女性の中に「母」を求めていた事は想像に難くない。後のジョンのソロでも、この曲と同じ手法で「Look At Me」(「ジョンの魂」収録)という名曲も生まれている。「Revolution 9」や「Cold Turky」に代表されるアヴァンギャルドさと裏表一体となったジョンの優しさが味わえる曲だが、聴き終わった後になんとなく倦怠感が残るのがこの人らしいなあ…
2006.07.30
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マドンナ姉さんの来日が近づいてきましたねぇ~チケットあんまり売れてないみたいだけど…(泣さて、この曲「Live To Tell」はマドンナの3rdアルバム「True Blue」(写真)からの先行シングルで、マドンナ本人も共作として作曲者にクレジットされている。当時の夫ショーン・ペンの主演映画「ロンリー・ブラッド(At Close Range)」の主題歌でもあった。「ライク・ア・バージン」旋風が一段落した後の1986年、全世界の注目を集める中で発売されたこのシングルは同年4月に全米No.1を記録。マドンナにとって3曲目のNo.1ソングとなった。何ともシリアスなイントロから始まるこの曲は、曲全体を包むしっとりとした雰囲気が印象的なバラードで、「Like A Virgin」や「Material Girl」などに代表される、ダンサブルで軽いイメージとは違う「新しいマドンナ」を印象付けるものだった。これといったサビらしきものがあるわけでなく、曲は淡々と流れていくのだが、重くミステリアスなメロディとアレンジは、何とも言いがたい魅力があった。とはいえ、当時の僕はマドンナといったら「ライク・ア・バ~ジン☆ヘ~イ♪」というイメージだったから、この曲を初めて聴いた時は「ずいぶん暗い歌だなあ…」と多少なりとも違和感を感じた事を覚えてる。そんな事もあって最初はこの曲をあまり好きになれなかったのだが、MTVをはじめとして当時あちこちでしつこく流れており、結果的に半強制的に聴かされる形となっていた僕は、気がついた時にはこの曲を大好きになっていた。また、ここでの彼女のボーカルは、それまでのキャピキャピ(死語)したものから、より大人っぽいものへと変化している。これはアルバム「True Blue」全体に言える事だった。これによって彼女は、キャピキャピ(死語)した女の子から大人の女性へと、そしてより表現力に富んだシンガーへとステップアップした事をアピールした。この曲が収録されているアルバム「True Blue」からは他にも「Papa Don't Preach」「Open Your Heart」などのナンバーワン曲を始めとして5曲のトップ5ヒットが生まれた。また、アルバムは、アメリカを始めとした世界28カ国でNo.1を記録。最終的には2300万枚を売り上げ、マドンナのオリジナルアルバムの中では最もセールスを記録した一枚となった。つーコトで、マドンナの「Live To Tell」のPVはここをクリック!「話しておかなきゃいけない事があるの…」という歌い出しで始まる歌詞は、なかなか抽象的なものだが、どうやら不倫の事を歌ったものらしい。「人は千回でも嘘がつける」というフレーズが印象的だったなあ。また、今回の『Confessions Tour』では、この曲を歌う時に高さ6mの十字架にマドンナ自ら張りつき、話題をさらった。その時の映像のひとつがコレなのだが…↑う~ん、正直ただのアホにしか見えん…わりとまともに見える映像はこちら。
2006.07.29
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オーストラリア出身のポップグループ、クラウデッド・ハウスの忘れがたい名曲である。ニュージーランド出身のグループ、スプリット・エンズで活動していたニール・フィン(Vo,g)とポール・ヘスター(Dr)に、ニコラス・シーモア(Bass)を加えた3人組として'84年にスタート。結成直後は「ザ・ミュレンズ」と名乗っていたが、すぐにクラウデッド・ハウスと改名。グループ名はレコーディングのために落ち着いた、ロサンゼルスのクラウデッド・ハウスから取られた。この「Don't Dream It's Over」は彼らのデビュー曲で、1987年のアルバム「Crowded House」(上ジャケット)に収録。フォークロック調の名バラードで、ビートルズの香り漂う美しいメロディとニール・フィンの優しい歌声が胸を打つ。すき間の多いシンプルなサウンドは古き良き60年代ポップスを思わせ、柔らかい音色のカッティング・ギターとゆったりとしたリズムも何とも心を癒してくれる。「夢よ終わらないで」という歌詞とノスタルジックなオルガンの音色は「少年の日の終わり」を思わせ、なんとも甘く、そしてほろ苦い。ゆっくりとフェイド・アウトしていく構成も泣ける。当初のチャート・アクションは地味だったが、じわじわとチャートを上昇し、1987年2月に全米2位を記録するヒットとなった。ロングセラーを続けたこの曲は、その年の年間チャートでも13位を記録。このバンドには他にも「Something So Strong」「Now We're Getting Somewhere」など多くの佳曲があるが、この一曲でニール・フィンの歌声は多くの人の心に残ることとなった。この曲は後に「Kiss Me」で有名なシックスペンス・ノン・ザ・リッチャーもカバーしている。バンドはその後も地道に活動するが、1996年にはひっそりと解散。2001年にはレディオヘッド、エディー・ヴェダー(Pearl Jam)、ジョニー・マー(ex:Smith)らが参加した、ニール・フィンのトリビュートアルバムが作られた。ニール・フィンはその後、兄のティムと"Finn Brothers"を結成。2004年にアルバムをリリースしている。また、ドラマーだったポール・ヘスターは2005年、散歩に出かけた公園で首を吊り自ら命を絶った。享年46歳。鬱病だったという。心あたたまる名曲「Don't Dream It's Over」はここをクリック!「ウィットに富み、やさしい心を持った素晴らしいドラマー」だったというポール・ヘスターにこの曲を…( ´∀`) ヘイナウ、へ~イナウ♪
2006.07.27
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様々なトラブルに遭遇しながらも、今もバリバリに活動するHR/HMの重鎮、モトリー・クルー。'82年にデビューした彼らは、いわゆる"LAメタル"の先陣であり、80年代ハードロック・ブームを支えたバンドのひとつだった。血の気の多い彼らは、その昔ヴィンス・ニール(Vo)がGuns'n'Rosesのアクセルと「ボクシングでガチンコ対決をする」とか公言したり、トミー・リー(Dr)がジョン・ボンジョビを殴ったりと、ロケンロールな話題を提供してくれたものだが、ワイルドなサウンドの中にもメロディの光る質の高い作品を常に出し続けていた彼らは、グレイトなバッドボーイズ・バンドだった。1987年に4thアルバム「Girls Girls Girls」(全米5位)を大ヒットさせた彼らだが、「このアルバムは楽曲の出来に問題がある」と己に厳しい評価を下し、さらに当時ガタガタだったバンドの状態(ニッキー・シックスはヘロインの打ち過ぎで、心肺機能が一時停止した)を立て直す意味も含めて、メンバー全員がクスリや酒を断ち、それまでになくクリーンかつ気合いの入った状態で次のアルバム制作に臨んだ。そうして出来上がったのが1989年発表の「Dr.Feelgood」(写真)である。プロデューサーは、METALLICAのブラックアルバム(1991)でも有名なボブ・ロック。前述のメンバーの言葉通り、徹底的に磨き上げられた楽曲はどれも非常に純度が高く、オープニングSEの「T.N.T」からラストの「Time For Change」まで息をつく暇一切なしの大傑作に仕上がった。アルバムは全米1位を記録。さらにアルバムからはタイトル曲(全米6位)、お約束のバラード「Without You」(全米9位)など、5曲のシングルヒットが生まれた。特にタイトル曲である「Dr.Feelgood」は、その重戦車のようなリズム隊からしてもう凄まじいが、ワイルドでありながらモトリー的なキャッチーさを持ったギターリフも強烈!ヴィンス・ニールの金属的な歌声とサビの部分でのコーラスにも背筋がゾクゾクする。この重量感とグルーヴ感は今聴いてもまさにFeel Good!彼らの評価と地位を絶対的なものにしたこのアルバムは、LAハードロックの枠を超えた大名盤と言える一枚。その後バンドは、ヴィンス・ニールやトミー・リーの脱退など、やっぱりトラブルが続くが、現在はとりあえず元のサヤに収まって、元気にライヴを行っているとか。ヴィンス・ニールなんかは、お肉がついちゃって"デヴィンス・ニール"になっちゃったけど、彼らには「永遠のバッドボーイズ・バンド」としてこれからも頑張ってほしい。つーコトでここをクリックして、あなたもワタシもFeel Good!
2006.07.26
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僕がスティーヴィー・ニックスを初めて聴いたのは、'85年発表の3rdソロアルバム「Rock A Little」(写真)からのシングル「Talk To Me」や「I Can't Wait」がヒットしていた時だった。「I Can't Wait」のPVの中で、スカートをヒラヒラさせながら歌う彼女の姿は妙に印象に残ったが、その時はまだフリートウッド・マックなんてバンドの存在も知らなかった。リンジー・バッキンガムと共にフォーク・デュオ"バッキンガム・ニックス"としてスタートした彼女は、1975年にリンジーと一緒に当時過渡期にあったフリートウッド・マックに加入。二人の参加はバンドを大成功に導いたが、当時のスティーヴィーは「妖精」とか「子悪魔」とか呼ばれ、男性ファンを骨抜きにしていたらしい。僕には「妖精」っていうより魔女に見えるんだが…(彼女はオカルト趣味もあるらしい)。それでも彼女から滲み出る「コケティッシュさ」と「あやうさ」「儚さ」を併せ持った雰囲気は、オトコを魅了するナニかがあるのかも…なんて事は当時小学生だった僕にもなんとなく感じられた。フリートウッド・マックの1977年のアルバム「Rumour」は、全米1位を31週間記録する驚異の大ヒットとなったが、それと同時にオトコ3人、オンナ2人という構成であるバンドの内情は破綻していく。夫婦であったクリスティーン・マクヴィー(Vo,Key)とジョン・マクヴィー(Bass)は離婚。そしてスティーヴィーは恋仲だったリンジーとの関係が破綻。グループの唯一の全米No.1ヒットである「Dreams」はスティーヴィーの曲で、他に女を作ったリンジーにあてつけて作った歌だと言われている。そのスティーヴィーも今度はバンドのドラマー(にして名前だけのリーダー)である、ミック・フリートウッドとも深い関係になってしまう。バンドの人間関係に疲れた彼女は'81年にソロ活動を開始。1stアルバム「Bella Donna」が全米1位を記録したのを始めとして、彼女のソロ活動は予想以上の成功を収めた。フリートウッド・マックの音楽よりもロック色を強めたソロのサウンドは、ハスキーな声を持つ彼女の魅力をまた違った形で引き出す事となった。また、彼女は'93年にフリートウッド・マックを脱退するが、'97年に復帰している。この「I Can't Wait」は'85年のヒット曲で、全米13位を記録。80年代的ビートを軸とした力強いロックサウンドに、微妙にヴィヴラートする彼女のハスキーボーカルがよく映える、カッコいいアップテンポの一曲。哀感漂わすサビのメロディとシンセの音色もソソる。スカートヒラヒラのスティーヴィーが萌えな「I Can't Wait」のPVはここをクリック!2006年現在スティーヴィーは58歳。近年でも、彼女を信奉するというシェリル・クロウとの共演、映画「スクール・オブ・ロック」の中でも女校長に「私、スティーヴィー・ニックスにぞっこんなの!」と言わしめるなど、スティーヴィーの影響力はまだまだ健在のようだ。
2006.07.25
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'85年に実現した、フィリップ・ベイリーとフィル・コリンズの夢のデュエットによる、80年代の忘れがたい大ヒット曲である。アース・ウィンド&ファイヤー(EW&F)のフィリップ・ベイリーと、ジェネシスのフィル・コリンズの組み合わせというのは異色のように思えるが、フィルのソロアルバムにはEW&Fのホーンが大々的に取り入れられており、フィルのサウンドのトレードマークのひとつとなっている。また、フィリップ・ベイリーとフィルの交流は'80年頃から既に始まっていたらしい。この当時のフィルは、2ndソロアルバム「Hello,I Must Be Going」の成功、映画の主題歌となったシングル「Against All Odds」の全米No.1ヒットなどで、まさに勢いに乗ろうとしている状態だった。一方この時期のEW&Fは明らかな落ち目の状態にあり、ソロ活動に活路を見出そうとしていたフィリップ・ベイリーは2ndアルバムのプロデュースをフィルに依頼。フィルは快諾した。EW&Fのホーン・サウンドに恩恵を受けていたフィルにとっては、恩返し的な気持ちもあったのかもしれない。フィッリップ・ベイリーとフィル・コリンズ(と、N・イーストなる人物)の共作で、スケール感を感じさせるイントロからしてド肝を抜かれるこの曲は、ウルトラ・キャッチーなメロディとハードなギターを中心とした豪快なポップロックに仕上がっている。フィリップのファルセット・ボーカルとフィルの力強い歌声のコンビネーションは抜群で、弾けまくるフィルのドラムにも胸が躍る。EW&Fやジェネシスの音楽からは想像もつかないコマーシャルな曲調で、双方のファンから「らしくない」「商業主義に身を売った」などと陰口を言われながらも、このワクワク感とノリの良さは多くの人の心をつかみ、全米2位・全英1位まで上がる大ヒットとなった。ちなみにこの曲の全米No.1を阻止したのはフォリナーの「I Want To Know What Love Is」。この曲のビデオ・クリップも、わざわざヘリコプターに乗ってスタジオに出向くフィリップ・ベイリーと、いかにも人のいいオッサンといった感じのフィルのツーショットが実に楽しい。ビデオクリップでは、曲の最中に二人のおしゃべりが挿入されていたり、ボーカルのミキシングもワザと変にしてある箇所があり、それがまた生々しさというか、メイキング・ビデオっぽい楽しさを生んでいる。フィリップ・ベイリーにとって一生モノのヒット曲というだけでなく、フィルのプロデューサーとしての力量も示した一曲で、以降のフィルの大活躍を予感させる勢いが詰まった名曲となった。フィリップ・ベイリーのソロ「Chinese Wall」に収録されている他、フィルのベスト盤にも収録されている。つーコトでここをクリック!この楽しさ…う~ん、80年代だなあ…
2006.07.24
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80年代というのは、Band Aid、Live Aid、U.S.A. For Africaなど様々なチャリティものが流行った時代でもあったが、それらの中にまぎれてこんなのがあったりする。1987年、イギリスのゼーブルッヘで起きたフェリー転覆事故の遺族の義援金のために企画されたチャリティ・シングルで、ビートルズの名曲「Let It Be」が大々的にカバーされる事になった。参加メンバーは、ポール・マッカートニー、当時はまだそこそこ人気があったボーイ・ジョージを始めとして、ケイト・ブッシュ、バナナラマ、アンディ・ベル(ex:イレイジャー)、キム・ワイルド、レベル42、メル&キム、ギターにゲイリー・ムーアとマーク・ノップラー(ex:ダイアーストレイツ)…といった具合に、80人以上のアーティストが集まった。特に、他人の楽曲を歌わない事で有名な歌姫ケイト・ブッシュの参加は当時の話題のひとつだったとか。プロデュースは当時売れっ子だったプロデューサーチーム、ストック・エイトケン・ウォーターマンが担当。イギリスでは当然の如くNo.1を記録。当時「ベストヒットUSA」でもそのビデオクリップが紹介されたのを見てた中坊の僕は、「ほっほう」みたいな感じで見ていた。…のだが、同じイギリスでもBand Aidに比べればどうしても面子に見劣りがするし、このテのものには食傷気味だった事もあって、ビートルズの曲だったにも関わらず、当時ほとんど興奮も感動もしなかったような気がする。世間の皆様も同じように感じられていたかどうかは知らないが、当時もそれほど話題になってなかったような気がするし、今も語り継がれるBand Aid、Live Aid、U.S.A. For Africaに比べて、こちらの方はほとんど忘却の彼方といった扱い。出来は決して悪くないんだけどね。現在ではストック・エイトケン・ウォーターマンの手掛けた曲を集めた「Stock Aitken Waterman Gold」というコンピCDで聴ける。曲はポールの歌から始まるが、これはビートルズのバージョンのボーカル部分をそのまま使ったもの。ただし、自分の曲という事もあってか、ポールはプロモビデオには出演している。後はボーイ・ジョージを始めとして、様々なアーティストがバトン形式でボーカルをとり、最後はみんなで大合唱といういつものパターンで、「よーし、みんなでレリビーうたっちゃうぞー!」みたいな、なんだか微笑ましい仕上がりとなっている。個人的にはマック・ノップラーのギターソロがツボ。ただしビデオクリップは、「電気を消したWe Are The World」といった感じの芸がない作りで、見ててナチャケナイものがある。まあ「We Are The World」のプロモ自体がBand Aidの二番煎じだから、元来文句を言われる筋合いはないのだろうが、これは萎えるまあ今となっては「こんなのもありました」、それ以上でも以下でもないシングルかなあつーコトでここをクリックぅ~!それにしてもフェリー転覆事故に対して「あるがままに」とか歌われてもなあ…※ポム・スフレのホームページでは自作曲の公開や独自の名盤レビューなどを行っています!
2006.07.23
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日本が世界に誇るバンド、フィッシュマンズは、中心人物であった佐藤伸治の早すぎる逝去により、1999年に活動停止。その後、フィッシュマンズのベーシストであった柏原譲がオオヤ・ユウスケ
2006.07.22
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アニマルズのエリック・バードンと組んで「Spill The Wine」(1970年全米3位)のヒットを飛ばした事もある、白人・黒人混合の大所帯バンドWARは、ロック/ポップ的感触を持ったファンクに、タイトなホーン・セクション、ラテンの味付けをしたパーカッシヴなリズムを武器に、70年代前半に人気を博した名ファンクバンドだった。人を喰ったようなジャケットが強烈な印象を残す、彼らの1975年のアルバム「Why Can't We Be Friends?」(写真)は彼らの代表作であると共に、70年代ソウル/ファンクを代表する名盤としておなじみの一枚。「Low Rider」はそのアルバムからのヒット曲で、全米7位を記録。ラテン風味のボトムの太いリズムがエラくカッコいい一曲で、その緩やかなファンクネスには無意識にカラダが動いてしまう。ボソボソと呟くような低音ボーカルも実に楽しい。ホーンとハープによる、どこかトボケた、それでいてさりげなくキャッチーなリフは、何かと耳にこびりつく。このリフは、スリック・リック、ビースティ・ボーイズ、オフ・スプリングといった多くのアーティストにサンプリングされた。映画「60セカンズ」にも使用された(なぜかサントラには未収録)この曲は、今の若いヒップホップ世代はもちろん、普段ファンクやヒップホップを聴かない人にも充分アピールする親しみやすさを持ったファンク・ナンバーと言えるだろう。つーコトでここをクリック!この大雑把なノリがタマランなあ。そしてこちらは同アルバムのタイトルナンバーである、ハッピーなレゲエ・ソング「Why Can't We Be Friends?」(全米6位)。た~のし~い~ぞ~※ポム・スフレのホームページでは、WARのアルバムについて取り上げています!
2006.07.20
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その短い生涯の中で素晴らしいメロディを紡ぎ続けた英国シンガーソングライター、ダンカン・ブラウンの'68年の1stアルバム「Give Me Take You」は、ブリティッシュ・フォーク・ファンはもとより、シンガーソングライター、ソフトロック系の音楽ファンからも絶賛された大名盤だ。きれいなメロディを持った曲ばかりだが、その中でもイチ押ししたいのは、アルバムの冒頭を飾る曲であり、タイトル・ナンバーでもある「Give Me Take You」だ。天使が舞い降りてきたかのような美しい女性コーラスで始まるこの曲。ダンカンのつま弾くギターとフルートのクラシカルな響き、清楚で柔らかな歌声、そして気品に満ちた美しいメロディは絶品で、思わずうっとりと聴き惚れてしまう。曲全体を包む、麗しさとはかなげな雰囲気も、中世の絵画のようなジャケット(写真)のイメージそのままで、曲に身を委ねていると、そのまま溶けていってしまいそうな気持ちにもなる。60年代英国フォークの最高峰というべき一曲であり、時を超えて人々に訴えかける力を持った名曲と言える。この1曲だけでも、このアルバムを手に入れる価値は充分にあるのだが、他にもキャッチーなフォーキーポップの名曲「On The Bottom Site」が収録されていたりする。ダンカン・ブラウンはその素晴らしい才能にも関わらず、名声や商業的成功には最後まで恵まれる事なく('72年に一曲だけTOP20ヒットがある)、'93年にガンでその短い生涯を閉じた。なお、ダンカン・ブラウンが'77年に組んだグループ、Metroの曲である「Criminal World」は、後にデヴィッド・ボウイが'83年の大ヒットアルバム「Let's Dance」の中で取り上げている。※ポム・スフレのホームページでは、ダンカン・ブラウンのアルバムについて取り上げています。
2006.07.19
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忌野清志郎さんが喉頭ガンで入院しましたねえ。早期なら放射線治療で治るとも言われているが、実際の所どうなんでしょう…?あの発声にヘビースモーカーとくれば、無理もないような気もするが…僕はこの人の大ファンというわけでもないが、また元気な姿で歌うのを見たいものではある(※)。そんなわけで、本日は今から24年前に発表され大ヒットしたこの曲を。当時RCサクセションがブレイクして勢いに乗っていた忌野清志郎が、"教授"こと坂本龍一(当時はまだYMOがあった)と組んだユニットのシングルで、'82年に発表された。当時RCサクセションのメンバーだった仲井戸"Chabo"麗一も「井戸端矮鶏」名義でギターを弾いている、という豪華な顔合わせのシングルだった。「資生堂'82春のキャンペーンソング」としてCMでも使われたこの曲は、オリコンチャートの1位を記録。チャート的には忌野清志郎の音楽人生最大のヒット曲だったりする。ジャケット写真で見れるメイクは、後のビジュアル系の先駆と言えるもので、当時のお茶の間では非常に斬新に映った。グラマラスな魅力を放つ"教授"のお姿に比べて、清志郎のメイクは、おチビちゃんだった当時の僕には化粧のヘタクソなオカマみたいに見えて「気持ち悪い」という印象しか持てなかったのを思い出す。そして清志郎と坂本龍一の共作であるこの曲、清志郎のアクの強さと坂本のポップセンスが見事に溶け合った仕上がりで、外見上のキッチュな印象とは裏腹に、非常に親しみやすいポップソングとなっている。執拗に繰り返されるサビのメロディーと、何とも軽いキーボードの音色が印象的で、「Baby Oh Baby♪ いけない ルージュマジック♪」というフレーズはいつまでも耳に残る。全体に漂う軽さは、まさしく80年代を思わせるが、仲井戸麗一のタイトなギターは今聴いてもカッコいい。この曲のビデオクリップも毒と皮肉が効いたもので、清志郎と坂本がセップンするのも当時は話題になったが、八つ墓村のパロディをやっているのもスゴイ!「我々は…だ」というシュールなシークエンスの挿入といい、このビデオクリップは今見てもインパクトあるなあ。当時はイロモノ扱いされもされ、清志郎のキャリアの中では異色な一曲だが、名曲には違いない。つーコトで、ここをクリック!頑張れ清志郎!(※追記)清志郎は、2008年2月に復帰ライヴを行った。
2006.07.17
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ポール・マッカートニー&ウィングス名義での1974年のシングルで、全米・全英共に7位を記録。1973年発表の傑作アルバム「Band On The Run」に収録。曲名はポールの飼い犬の名前から取られているが、曲のカッコ良さを一言でスバリと表しているイカシたタイトルだ。現在でもライヴで必ず演奏される、ソロ時代のポールの代表作である。甘いポップシンガーのイメージを持たれがちなポールだが、この曲はハードな響きと躍動感に溢れた仕上がりで、ギターとブラスのユニゾンによる豪快なイントロが「気合い一発!」的な意気込みを感じさせる。続いて飛び出す「Jet!」のシャウトが、文字通りジェットのような飛翔感を感じさせて実に爽快だ。ストレートなビートとレゲエのリズムが交互に出てくる構造になっているが、それをほとんど意識させない程の自然な仕上がりになってるのはさすが。ブンブンうなるポールのベースもカッコいい。すき間だらけで練りの足りないサウンドは、ポールのプロデュースのツメの甘さを露呈するものだが、結果としてそれがこのロックン・ロールにはよく合っている。バックでプーッと鳴っているアナログ・シンセ(?)の音も、ふてぶてしい感じがヒジョーにイイ。サウンド的には未完成なのだが、この荒々しさがかえってこの曲(およびこのアルバム)の魅力となっている。この曲と前後して、ウィングスはグラム・ロック風のロックン・ロール「Hi Hi Hi」「Helen Wheels」や、これまたハード・ロック風の「Junior's Farm」をリリースしているが、この時期のポールにはハードな作風のロックン・ロールがひとつの特徴となっている。DJの今泉恵子などは、この当時ウィングスの曲をレッド・ツェッペリン、クイーン、kissなどと同じ土俵で聴いていたらしい。この曲が収録されている「Band On The Run」のレコーディングは、ナイジェリアはラゴスで行われたが、その直前に相次いでメンバーが脱退。ドラムのデニー・シーウェルなどは、ナイジェリアに出発する前日に脱退を告げる電話をかけたという。「結局僕は見殺しにされたわけさ。あきらめて三人(ポール、当時の妻のリンダ、デニー・レイン)でナイジェリアへ行って、僕はたくさんの楽器を自分で演奏したよ。ドラムを叩き、ベースを弾き、ギターをデニーとやり、ボーカルを自分でたくさんやった。調整もたくさんやった。だからほとんどソロ・アルバムさ」------ポール・マッカートニートラブル続きだったというレコーディングの環境が、この作品にハードさと緊張感を与えたのかもしれない。つーコトで、「Jet」を聴くにはここをクリック!※ポム・スフレのホームページでは、自作曲の公開や独自の名盤レビューなどを行っています!
2006.07.16
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1975年にDeep Purpleを脱退したリッチー・ブラックモア先生が、ロニー・ジェイムス・デュオ(Vo)、コージー・パウエル(Dr)という強力なメンツと組んで結成したグループがレインボーである。メンバーの入れ替わりが激しいグループで、ボーカルにグラハム・ボネットを迎えて「Since You Been Gone」などをヒットさせたポップ・バンドとしてのレインボーもいいが、やはりリッチー、ロニー、コージーの三人がぶつかり合う、ヘヴィなサウンドのレインボーが僕は好きだ。1978年発表のアルバム「Long Live Rock'n'Roll」(写真)は、この黄金のメンツによる最後の作品。アメリカ進出を意識したとの事で、楽曲の作りはそれまでに比べてコンパクトになっているが、リッチーの名に恥じないハイ・クオリティなハードロックを聞かせてくれる一枚となっている。アルバムのトップを飾るこのタイトル曲は、レインボウを代表する一曲で、後にアルカトラスもカバーした名曲。シャッフル調のキャッチーなロック・ナンバーで、そのアグレッシヴな曲調にはとにかく燃える燃える。イントロのシンプル&ヘヴィなリフのカッコ良さだけでも充分なのだが、ロニー・ジェイムス・デュオの終始ハイテンションな歌声とコージー・パウエルのパワフルで切れ味鋭いドラムも、えれえカッコいいーっ!リッチー先生の、適度に様式美的で適度にドラマティックなギター・ソロも実にツボを押さえています。ちなみにリッチー先生はこの曲ではベースも弾いているとか。このアルバムには他にも「Kill The King」や「Gates Of Babylon」などの名曲が入っているが、このタイトル曲のカッコ良さは問答無用と言えるほど。とりあえずここをクリックだ!ハナシはそれからだ。ドラムをひっぱたくコージー・パウエルかっこえー!なお、ボーカルのロニー・ジェイムス・デュオは、このアルバムでレインボウを脱退した後、なんと1980年にオジー・オズボーンの後釜としてブラック・サバスに加入。このアルバムが気に入った人は、ロニー時代のサバスのアルバム「Heaven &Hell」も聴いてみそ。
2006.07.15
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ピンク・フロイドの初期メンバーにして、初代リーダーであったシド・バレットが先日亡くなったとの事。七夕の日だったらしい。わが国でも中村シドが酒気帯び運転でパクられた(具体的措置はなし)事だし、本日は急遽予定を変更してみる。先述の報道を聞いて僕が驚いたのはまだ生きていたんですか、この人……という事だった。不謹慎な言い方は承知してるが、僕と同じように思われた方は少なくないはずだ。だってシドは事実上とっくに死んでいたんだし…'65年にロジャー・ウォーターズ、ニック・メイソン、リック・ライト、ボブ・クローズ、そしてシド・バレットといった面々で結成された"ピンク・フロイド・サウンド"というグループは、やがてボブ・クローズの脱退に伴って"ピンク・フロイド"と名を改め、'67年にデビュー。シングル「Arnold Layne」「See Emily Play」がヒットを記録し、1stアルバム「The Piper At The GatesOf Dawn」も全英6位のヒットとなった。この頃のバンドは、ロジャー・ウォーターズが「シド以外のメンバーは誰でも良かった」と言ってるように、シドのワンマン・バンドであり、音楽的にも後の「いわゆるピンク・フロイド」とはほぼ別のバンドである。だが、音楽ビジネスの世界の中で早くもシドは精神的にバランスを崩し、ライヴの最中ギターを弾かずに前かがみになって両腕をダラーンとたらしたり、TVショウの口パクの際にも演奏中全く口を動かさないなどの奇行が目立ち始める。結果シドは徐々にバンドからドロップアウトしていく形になり、バンドはロジャー・ウォーターズを中心として再出発していく事になる。その後のシドは、'70年に2枚のソロアルバムを発表した後音楽業界ではプッツリと消息を断つ。「医者になる」という言葉を残して実家へ帰ったという説から、死亡、自殺、精神病院を出たり入ったりなど、様々な説が飛び交った。'75年のピンク・フロイドの「炎」のレコーディング時に突然表れたシドは、往年の美青年ぶりは見る影もないハゲデブオヤジに成り果てていたという。「すごい曲ができたぜ」と言ったシドがロジャーに渡した紙は、白紙の五線紙だったというハナシもある。ロジャー・ウォーターズから「狂ったダイアモンド」の名を授けられたシドは、精神はあっちの世界にいった状態で35年もこの世に生き続けたのだった。本当のシドはとっくに死んでいたのだが、先日物質的な意味でもようやくこの世を去る事となった。この35年間のシドの生活費は、過去の作品やピンクフロイドのベスト盤に納められたシドの作品(シドを経済的に助けようというメンバーの計らいだったらしい)での印税でまかなわれていたらしい。こうしてみると、シド・バレットという男は"死ねなかったカート・コバーン"という気がする。ミュージック・ビジネスとの戦いに敗れ、精神を崩壊した彼は「狂ったダイアモンド」として35年も生き長らえた(とっくに死んだと思ってたけどw)。それがシドにとって幸せだったのかどうかは本人にしか分からないわけだが…ここで追悼とかなんとか、辛気臭い言葉を言う気には正直なれないかなあ。なんというか…「やっと死ねたんだね。お疲れ様」…といった感じだ。ちなみに、シドが中心となって作ったピンク・フロイドの1stは、世間で言われるほど凄い作品だとは僕は思わない。サイケ・トリップ作品の秀作には違いないが、現在の評価は、後のピンク・フロイドの巨大化や「狂ったダイアモンド」伝説によって水増しされた過大評価だと僕は考える。「Arnold Layne」「See Emily Play」といったシングルはサイケ・ポップソングとして単純に好き。1stソロの「帽子は笑う…不気味に…」も壊れたSSWものとして聴くと面白い。それでもロジャー・ウォーターズをはじめとした他のメンバーに、インスピレーションとトラウマを与えた、という意味ではシドはやはり偉大な存在だと認めざるを得ない。シドがいなかったら「狂気」も「炎」も生まれなかったのかもしれないのだから…そんな意味合いも込めて、今日は「Wish You Were Here(あなたがここにいてほしい)」を送りたい。シンプルで淡々としたスローナンバーで、アコースティック・ギターの演奏がローリング・ストーンズの「Wild Horse」を思わせる。デイヴ・ギルモアの細いボーカルが切ない。。。ここをクリック!(最初のギターの音が小さいのは仕様です)こちらはシド時代のフロイドの1stシングル「Arnold Layne」こちらは2ndシングルの「See Emily Play」。R.I.P. Crazy Diamond…
2006.07.14
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今回は2本立てで~す。下のオジー・オズボーンの記事とセットになっているので、まだ読んでない人はそちらから読んでね~。(オジー・オズボーンの項から続く)----'82年3月に飛行機事故で他界した若き天才ギタリスト、ランディー・ローズが在籍していたバンドとして、一躍注目を集めたQuiet Riotの本格的デビュー作であるこの「Metal Health」(写真)は、いわゆる「ヘヴィーメタル」としては、全米アルバムチャートで一位を記録した初めての作品であり、80年代HR/HMブームの火付け役となった重要な作品だったりする。Voのケビン・ダブロウとGtのランディ・ローズが出会って、1975年に結成されたQuiet Riotは、1978年にデビュー作「Quiet Riot」、1979年に2nd「Quiet Riot 2」をリリースするが、その2枚は日本でのみリリースというヒドイ扱いだった事からも分かるように、ほとんど相手にされていないバンドだった。だが、オジー・オズボーンに才能を見出されたランディー・ローズはオジーのバンドに参加。一方、ランディを引き抜かれたバンド側はこれといった活動もないまま空中分解状態となってしまう。そして、'82年3月に前述の飛行機事故が発生。Quiet Riotはランディ・ローズが在籍していたバンドとして、伝説化される事になった。これに目をつけたレコード会社はここぞとばかりに、Quiet Riotの再デビュー作を大々的に売り出した。それが'83年リリースのこのアルバム「Metal Health~ランディー・ローズに捧ぐ」である。「13日の金曜日」みたいなジャケットとベタな邦題が印象的なこのアルバムは、全米1位を記録、300万枚を売り上げ、このテの音楽としては異例の大ヒットとなった。これが80年代HR/HMブームの始まりと言われている。ここからシングル・カットされた「Cum On Feel The Noize」も全米5位のヒットを記録。イギリスの名バンド、Sladeの'74年の全英No.1ヒットのカバーで、Oasisもカバーした事で有名なこの名曲は、イギリスでは国歌のような扱いをされているらしい。ビートルズを思わせるポップなメロディ、原曲をさらにスピードアップした演奏がスリリングな、軽快で親しみやすいハードロックに仕上がっており、普段ハードロックを聴かない人にもオススメしたい名バージョンと言える。新ギタリスト、カルロス・カバーゾも楽曲にピタリとハマった、いい演奏をしている。ただし、この曲のヒットは、楽曲自体の良さと当時のバンドが持っていた「話題性」によるものだろう。Quiet Riotはこの後、またしてもSladeのカバー曲「Mama We're All Crazy Now」を発表するも、活動はどんどん尻すぼみになっていった。それでも、この「Metal Health」が名盤であるという事実は今も変わりない。それではここをクリックしてQuiet Riotの「Cum On Feel The Noize」をどうぞー!We Get Wild! Wild! Wild!こちらは本家Sladeによるバージョン。こちらはOasisによるカバー・ライヴ・バージョン。こちらも熱いぜ!
2006.07.13
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トニー・アイオミとの確執で、'79年にブラック・サバスを脱退(クビという説が有力)したオジー・オズボーンは、当初は酒に溺れていたが、やがて当時無名だった天才ギタリスト、ランディ・ローズと出会う事によって新たな伝説を作る事になる。ビジュアル的にはブラック・サバス時代のイメージを継承していくものの、ソロになってからのオジーは、ランディー・ローズを片腕に、音楽的にはよりキャッチーで分かり易いものを提示するようになった。'81年に発表されたオジーの2ndソロ「Diary Of A Madman」(写真)は、そのオドロオドロしいジャケットとは裏腹に、親しみやすいハードロック・ナンバーが満載で、HR/HMファンならずとも一度は耳にしたい名盤。世間的にはソロ一作目の「Blizzard Of Ozz」の方が有名だが、こちらも負けず劣らずの素晴らしさだ。この「Over The Mountain」はアルバムのトップを飾る曲で、重量感溢れるリフ、怒涛のように迫ってくるリズム隊、ドラマティックな曲展開と美しいメロディ、そして「神童」と呼ばれたランディ・ローズのプレイが堪能できる名曲。クラシックをルーツに持つというランディのギターは、トリッキーながらもアグレッシヴかつ流麗なプレイで、ギターキッズならずとも耳を惹きつけられる。オジーの1st、2ndソロにおける音楽的な素晴らしさはランディの存在抜きにはありえない…なーんてコトは僕がこのアルバムを聴き始める前からさんざん言われてる事か(笑しかし、「Diary Of Madman」発表後の'82年3月、ランディ・ローズは飛行機事故により、あっけなくその若い命を散らすことになる。彼の夢であった「ギターヒーロー」の名声をつかんだ矢先の事であった。25歳の若さで非業の死を遂げたランディの才能と情熱が詰まった「Blizzard Of Ozz」と「Diary Of A Madman」は、いつ聴いても色褪せる事がない。それではここをクリックしてランディーのギターに萌えろ!Quiet Riotの項に続くポム・スフレのホームページでは、ブラック・サバスのアルバムについて取り上げています!
2006.07.13
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チェリー・カーリー(Vo)の刺激的なコスチュームと名曲「Cherry Bomb」で、当時('76年)の日本を席巻したというランナウェイズは、ガールズ・ロック・バンドの元祖的存在でもある。平均年齢16歳というメンバーの中には、後に「I Love Rock'n'Roll」(ドラゴン・アッシュのアノ曲の元ネタとして有名)の大ヒットを飛ばすジョーン・ジェットや、ヘヴィ・メタル界で成功するリタ・フォードがいた。デビューした当時はパンク全盛期であった事もあり、パンクのカテゴリーに入れられる事も多い彼女達は、CBGBではラモーンズと肩を並べてライヴをやったりもしている。たが、その音楽自体はパンクというより、ハードロック/グラムロック寄りのロックン・ロールで、決して上手いとは言えないものの、16歳のコムスメ達の「ひたむきさ」と反骨精神が滲み出る演奏は、チャラチャラしたお嬢さんバンドとは一線を画する熱さがあった。「Cherry Bomb」は、"ズガガガ"という重たくも小気味よいギターリフのドライヴ感、コンパクトでキャッチーな楽曲、カーリーのシャウトがえらくカッコいい、3分間ロックの理想形と言うべき名曲だ。この曲は後にジョーン・ジェットも自らカバーしている。当時はキワモノ扱いされ、本国アメリカでは過小評価に泣いたバンドだったが、後にジョーン・ジェットは「ランナウェイズのメンバーだった事を誇りに思う」とコメントしている。彼女達の残した2枚のオリジナルアルバムとライヴ・アルバム「Live In Japan」の計3枚が、今年('06年)になって日本でのみ紙ジャケ化されたが、特に「Cherry Bomb」を収録した1st(写真)はシンプルで小気味良いハードロックが満載の傑作。デビューから30年を迎えた今こそ、真っ当に評価すべきイカしたガールズ・バンドだ。なお、このアルバムの邦題は「悩殺爆弾/禁断のロックン・ロール・クイーン」。うひゃ~それではここ(←映像はちょっとイタイけど、音質がいいのでこれを選びました)をクリックしてCherry Bomb!ちょっと音は悪いけど、こちらは彼女達のライヴ映像だ!Hello Daddy! Hello Mum! I'm A chchchchchch…Cherry Bomb!
2006.07.11
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長い歴史と多くのヒット曲を持つKissだが、その評価と有名曲の大半は70年代に集中しており、一部の曲を除けば、80年代のKissの作品の評価は著しく低い、というかほとんど無視されていると言っていい。80年代に入ると共にピーター・クリス、エース・フレイリーといったオリジナル・メンバーが相次いで脱退した上に、トレードマークであったメイクを落とした事が、Kissのイメージを地味なものにした事もあるのだろう。加えて音楽そのものも、ハードロックを基調としていながらバラードからディスコまで取り入れる「なんでもあり」なポップ路線から、時代を意識してハードロック/ヘヴィメタルに焦点を絞った結果、以前のような面白味がなくなったような気がする。そんな中でも「Crazy Nights」(写真)は、80年代Kissの中でもダントツの傑作となった。このアルバムが発表された'87年は、まさにハードロック/ヘヴィ・メタル全盛の年で、ボンジョビ、モトリ・クルー、デフ・レパード、ポイズン、ガンズ・アンド・ローゼス(ブレイクはもう少しあとだけど)といった若手バンドが猛威をふるっており、エアロスミス、キッスといった先輩バンドにも追い風がかかる好状況だった。プロデューサーに選ばれたのは、当時の売れっ子だったロン・ネヴィソン。いわゆる産業ロックな音作りには定評がある彼だったが、ここで聴けるコマーシャルで明朗快活な音作りは「ポップ」が本質であるKissとは思った以上に相性が良かった。ただし今聴くと、いかにも80年代的なシンセの音がちょっと情けない(笑Kissも起死回生を狙って気合いを入れたのだろう。曲作りにも鋭さを見せ、70年代を思わせるポップでメロディアスな曲が多く収録される事になった。中でもアルバム冒頭を飾る「Crazy Crazy Nights」は「これぞKiss!」というべき大名曲に仕上がった。聴く者を一瞬で高揚させるイントロに燃えるようなビート。思わず一緒に歌ってしまう「みんなのうた」なメロディ。そしてこの天井知らずの楽しさ。これぞKissだぜ! あの「Rock And Roll All Nite」に勝るとも劣らない名曲と断言したい。…にも関わらず、この曲はこれまでのKissのベスト盤にはいづれも未収録。あひゃこんなにポップで熱い曲が人知れず埋もれていくなんてオラ許さねえぞつーコトでここをクリック!これであなたもワタシもCrazy Night!
2006.07.10
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「俺は孤独だ!死にたい!」こんな歌い出しで始まる「Yer Blues」は、後期ビートルズの中でも、ひそかに(?)人気が高い一曲だったりする。ビートルズの'68年の傑作「The Beatles」(ホワイトアルバム)に収録。'68年当時のイギリスで全盛を極めていたブルース・ロックをジョンが皮肉って書いた曲と言われているが、いわゆるブルース・ロックとは一味も二味も違うロック・ナンバーに仕上がっている。ジョンのリズム・ギターをはじめとした、ネットリした演奏が実にカッコ良く、ポールやリンゴによる重く粘っこいリズム・セクション、ギュンギュンとまるでドリルのような音のギターソロ(by ジョージ)によるせめぎ合いも不気味な印象を残す。ジョンの痛みをぶつけてくるかのようなシャウトも強烈。8分の6拍子の曲の中に強引に4拍子をねじ込む、というジョンならではの荒技も効いており、同年に傑作「Beggar's Banquet」を発表したローリング・ストーンズや、レッド・ツェッペリン(この直後にデビュー)にもひけを取らないハード&ヘヴィなブルース・ロック・ナンバーになっている。ジョンのこの感覚は翌年の「I Want You」(「Abbey Road収録)でさらに突き詰められていく。ジョンにとってもお気に入りの曲のようで、'69年のプラスティック・オノ・バンドでの演奏の他にも、'68年のローリング・ストーンズの特別番組「ロックン・ロール・サーカス」でもこの曲が演奏されている。ミックと仲がよく、「ロックン・ロール・サーカス」の収録に招かれたジョンは、ギターにエリック・クラプトン、ベースにキース・リチャード(リチャーズ)、ドラムにミッチ・ミッチェル(ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス)を従えた「Dirty Mac」なるバンドをその場で編成。この布陣で「Yer Blues」を演奏した。この「Dirty Mac」のMacとはポール・マッカートニーの事である。荒々しい演奏ながらも、バンドをグイグイとドライヴさせるジョンの存在感がすごい。「興奮したよ。いつもと違う音が後ろから聴こえてくるのは最高だった。すごい!他の人と演るのは面白いじゃないか!」-----ジョン・レノンそれではここをクリックしてDirty Macによる「Yer Blues」の演奏をどうぞー!冒頭のジョンとミックの会話が微笑ましい。ガニマタでベースを弾くキースも最高!ポム・スフレのホームページでは、自作曲の公開や独自の名盤レビューを行っています!
2006.07.09
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竹中直人とワタナベイビー(ex:ホフディラン)のコラボによるカヴァー・シングル「今夜はブギーバック」が7月5日にリリースされた。竹中直人主演、信藤三雄監督の映画「男はソレを我慢できない」のテーマ曲だそうだ。オリジナルは1994年、オザケンこと小沢健二と、ジャパニーズ・ヒップホップの走りであるスチャダラパーのコラボレーション・シングルで、ヒップホップとしては日本で初めての本格的なヒット曲という意味でも画期的なシングルだった。両者の交流は、当時同じマンションに住んでいた事がキッカケだったそうで、当時「渋谷系」と呼ばれていた小沢健二と、同じ時期に昇り調子だったスチャダラパーの顔合わせは新鮮だった。小沢健二の歌とスチャダラパーのラップが交互に出てくるという構成になっており、ヒップホップというものがまだ一般的には浸透していなかった当時の日本では、歌とラップのミックスという作りの楽曲は斬新だった。小沢健二のミルク&ハニーなボーカルに、バック・トラックのトロリとしたグルーヴ感、それに絡むスチャダラのガチョ~ンなラップがワン・アンド・オンリーな魅力を放っており、今聴いても古さを感じさせない。日本ラップ黎明期に生まれたこの名曲は、後に宇多田ヒカルもカバーしており、小沢健二自身も2002年のアルバム「Eclectic」の中で、リメイクしている。オザケンもこの当時は「王子様」とか言われてたんだよなあ…自分の目には単なるガリ男にしか見えなかったが…なお、この曲には、小沢健二のボーカルがメインの「ナイスボーカル・バージョン」(小沢健二のアルバム『Life』に収録)と、スチャダラパーのラップがメインの「スムースラップ・バージョン」の2種類があるが、今回紹介するのは「スムースラップ・バージョン」の方。つーコトで、ここをクリック!コレよくない?よくないコレ?'94年心のベストテン第一位はこの曲だった…かどうかはもう忘れた…(遠い目)ポム・スフレのホームページでは小沢健二のアルバムについて取り上げています!
2006.07.08
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スティーヴ・ミラー・バンドの'76年の傑作アルバム「Fly Like An Eagle」の30thアニヴァーサリー・バージョンが発売されるとか。うほっつーコトで今日はスティーヴ・ミラー・バンドの'74年の全米No.1ヒットのこの曲さ1943年生まれのスティーヴ・ミラーは、'66年に自分の名を冠したバンドを結成。'67年にはモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演した後、ボズ・スキャッグスをバンドに迎え、'68年にグリン・ジョンズのプロデュースでデビューアルバム「Children Of The Future」を発表。ブルースを基盤にしたロックが組曲風に流れていくサウンドは、「ビートルズとブルースの結婚」と評され、メディアから高い評価を得た。このデビュー作と次作の「Sailor」を、スティーヴ・ミラーの一番いい作品だと考えているファンも多いという。だが、スティーヴ・ミラーが本当の意味で有名になるのは、1973年に9枚目のアルバム「The Joker」(写真)を出してからだった。「僕は挑戦を受けたんだ。2分半の曲を作って、ラジオのTOP40でかかるようにしよう。ソウル・ディスコのシンフォニーがカバーをするような曲を作ろうってね。シングルを出したいとはずっと思ってたんだ。それはゲームやクロスワード・パズルみたいなものだった。」-------スティーヴ・ミラー'74年初頭に全米1位を記録したこのタイトル曲は、スティーヴ・ミラーの音楽性をシンプル&キャッチーに凝縮した見事なポップソングに仕上がっており、ブルースを基盤にしたポップ感覚と独特のグルーヴ感はBeckを先取りしてると言えない事もない。スティーヴ・ミラーの飄々としたボーカルとトボけたギター、どこかフワフワしたサウンドは、ハマると抜け出せない魅力がある。「僕は言った。『シングルに出来る曲はあるかな。みんなに決めてもらおう』って。彼らはレコードを聴いて、それから誰かが立ち上がって言った。『これはヒットする』ってね。みんな指を立てて立ち上がった。そしてグルグルと踊りまわった。『これはヒットする』ってね」-----スティーヴ・ミラーそれではここをクリックして、スティーヴ・ミラー・バンドの名曲「The Joker」を聴こう!※ポム・スフレのホームページでは、スティーヴ・ミラー・バンドの「Fly Like An Eagle」について取り上げています!
2006.07.06
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坊主頭が印象的だった女性シンガー、シンニード・オコナーの一世一代の大ヒット曲。'90年に全米No.1を記録したのを始めとして、世界17ヶ国でNo.1を記録したという、後世に残る名曲だ。'90年の2ndアルバム「I Do Not Want What I Haven't Got(蒼い囁き)」に収録。「あなたが去ってから15日と7時間がたった…」という歌い出しで始まるこの曲は、別れた恋人への想いを歌った美しいバラードで、これを書いたのは、あのプリンスである。元々はプリンスが自分の身内のバンドであるThe Familyに提供した曲で、オリジナルは'85年にリリースされている。オリジナルはゴスペル色の強い「まあまあな出来」だったが、シンニード・オコナーと出会う事で、この曲は新たな生命力を吹き込まれた。神秘的な雰囲気、甘美なストリングス・アレンジ、そして彼女の歌の見事な表現力。どれをとっても「美しい」としか言いようのない最高の出来で、当時は「90年代最高の曲」とまで言われた。当時は「プリンスの曲を歌ってヒットを出しただけ」などと陰口も言われたが、彼女の選曲眼と、元曲を全く別の次元のレベルにまで高めてしまう消化力から生まれた名作と言える。だが、この曲のインパクトがあまりに強かったためか、以降これといったヒット曲は出る事はなく、彼女はチャート的にはほぼ一発屋的な扱いを受けたまま消えていき、その分プリンスの株がやたらと上がるという結果に終わった。その他にはピーター・ガブリエルやマッド・ジョンソンThe The)とのデュエットでも知られる。この曲はプリンスも自らライヴで歌っており、プリンスの3枚組ベストアルバム「The Hits」でも、そのバージョンは聴けるが、はっきり言ってあまり出来が良くない。やはりこの曲はシンニードのために生まれた曲というべきだろう。ジャンヌ・ダルクのような彼女の姿が美しい「Nothing Compares 2 U」のPVはここをクリック!奔放な言動とアナーキーな姿勢が売りでもあった彼女は、当時様々な方面からバッシングを受けており、「ちょっと売れたからっていい気になってんじゃねえよ。飛行機代やるから田舎へ帰れ」と、当時ちょっと売れたからっていい気になっていたMC・ハマーに言われていたりした。最も有名なのは、'92年のボブ・ディラン30周年記念コンサートにおける、シンニード・オコナーのボイコット事件だ。彼女の出身地であるアイルランド共和国では、カトリックの教義に従って、離婚と妊娠中絶が憲法で禁止されており(離婚は1995年に合法化された)、シンニードはこれに対してかねてから異議を唱えていた。'92年の10月3日、NBCの人気番組「サタデイ・ナイト・ライヴ」に生出演した彼女は、その場でローマ法王の写真をズタズタに破り、「Fight Real Enemy!」と叫んだ。この行為は全世界で大きな話題となり、特にアメリカではシンニードに対するバッシングが激しく起こった。カトリックの教義によって生み出された「悪しき伝統」を象徴するものとして、シンニードはローマ法王を選んだのだが、キリスト教が中心であり、カトリックの教義に何の疑問も抱かずに過ごしている多くのアメリカ人にとって、シンニードの行為は「悪しき伝統に対する告発」ではなく「聖人に対する冒涜」としか映らなかった。その2週間後、シンニード・バッシングの空気が強い中、彼女は前述のボブ・ディラン30周年コンサートに出演。当初はディランの「I Believe In You」を歌う予定だったが、彼女がステージに上がった途端激しいブーイングが起こり場内は騒然。歌うに歌えなくなった彼女は、たったひとりでボブ・マーリーの「War」をアカペラで歌い、泣きながらステージを降りた。その時の模様は僕もNHKの放送で見ていたが、アメリカの大衆の心の狭さと、それに対する彼女の毅然とした態度が印象的だった。
2006.07.05
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おウチに帰ったら中田が引退しとった…惜しいというべきか、イサギヨイと言うべきか…ボロボロになっても夢を追いかけるKingカズのようなヤツもいるし、人生色々だねぇ「自分探し」の旅に出る中田英寿(←29歳)と、先日のポルトガル戦で惜しくも敗れたイングランドのために今日は、ライトニング・シーズの'96年の名曲である、この曲を送ろうか。ライトニング・シーズは、プロデューサーとしても有名なイアン・ブロウディーのソロ・ユニットで、'89年に活動開始。イアン・ブロウディの確かなソング・ライティングと、ストレートで爽やかなポップサウンドで、正統派ブリティッシュ・ポップと呼ぶにふさわしい数々の名曲を生み出した。その一方で、タートルズの「You Showed Me」のカバーという荒技などもやってのける、一筋縄ではいかないセンスも魅力。この「Three Lions」は、イングランド・チームの応援歌として'96年に発表された曲で、サビの部分で一気に爆発する、親しみやすさと哀愁を兼ね備えたメロディーはベタではあるが、思わず一緒に歌ってしまう魅力がある。聴く者の高揚感を煽る、このキャッチーな名曲はイアン・ブロウディーに悲願の全英No.1をもたらした。また、'98年にはワールドカップ・フランス大会に合わせて、Baddiel & Skinner & Lightning Seedsとしてこの曲がリメイクされ、その時にも全英1位を記録。ライトニング・シーズは、本国での人気に比べ、日本では不当に評価が低いが、この曲の他にもたくさんの名曲があり、特に「The Life Of Riley」「Change」「What You Say」などは、僕の脳内iPodのヘビーローテーション曲だ。先日発売された「The Very Vest Of The Lightning Seeds」(写真)にはそれらの曲や、この「Three Lions」が収録されているので、気になったらチェックするよろし。オリジナルアルバムでは、「Jollification」「Dizzy Heights」「Cloudcuckooland」なんかがよろし。それではここをクリックしてみんなで歌おうぜ!Wear you down, through the years!But I still see that tackle by Moore!↓おまけ前園と中田が出てたラ王のCM中田テラワロスw
2006.07.04
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ビートルズの事実上のラスト・アルバム「Abbey Road」でのジョージの曲は、今までの分担通り(?)、2曲だけだが、その2曲はジョンやポールの曲に勝るとも劣らないクオリティと存在感を兼ね備えていた。そのうちのひとつがこの「Here Comes The Sun」だ。清涼感溢あふれるナチュラルな名曲で、線の細いジョージのボーカルも、アコースティックを基調とした優しいサウンドにピタリとハマッている。Here comes the sun …Dudududu…ほら 太陽がHere comes the sun and I say 太陽が顔を出すよIt's alrightもう大丈夫だLittle darling, it's been a long, cold, lonely winter リトル・ダーリン 長く冷たく孤独な冬だったLittle darling, it feels like years since it's been here リトル・ダーリン 何年もじっと堪えてきたような気がする(歌詞一部抜粋)ジョージがエリック・クラプトンの家の庭で日なたぼっこをしてる時に浮かんだ曲だそうで、アコースティック・ギターによる爽やかで、ちょっぴり感傷的なイントロは、寒い冬が終わり春の訪れを感じさせる解放感を思わせる。アナログ盤ではB面の一曲目に配置されているが、CDでは、前曲にあたるジョン作の「I Want You」の重苦しく混沌とした演奏が突然終わった後に、この曲のイントロがスーッと聴こえてくるという構成になっており、なんとも言えないカタルシスを感じさせてくれる。一聴するとシンプルなサウンドに思えるが、バンドの演奏の他にも、シンセサイザーや17人編成のオーケストラが加えられている。見逃せないのが当時ジョージが入れ込んでいたムーグ・シンセサイザーのサウンドで、数種のムーグを重ねた音色は、後のプログレなどで聴ける無機質なイメージとは違った、独特の温もりを感じさせる素晴らしいものだ。ビートルズ時代のジョージというとどうしても地味なイメージがあるが、ロック・ミュージャンとしてはインド音楽や電子音楽にいち早く関心を示し、最新のサウンドを自分流に取り込んで作品として表現する手腕は、ジョンやポールにもひけを取らなかった事がこの曲からも分かる。メロディは美しく、どこかリラックスした曲調なのもジョージならではの名曲と言える。もちろん「Sun Sun Sun, Here It Comes…」という部分でのコーラス・ワークも、ビートリーな気持ちよさを感じさせてくれる。シングルカットはされなかったものの、後期ビートルズを代表する一曲である、というのは勿論だが、後のジョージのソロ曲と並べて聴いても、さほど違和感がないというのも面白い。ジョンやポールに匹敵する実力を身につけたジョージは、同時にこの時点で「ビートルズのジョージ」から一人のソロアーティストになっていたのかもしれない。「Here Comes The Sun」を聴くにはここをクリック!ポム・スフレのホームページでは、自作曲の公開の他に、独自の名盤レビューやビートルズ・レビューを行っています。
2006.07.02
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サイモン&ガーファンクル(S&G)の言わずもがなの名盤「Bridge Over Troubled Water(明日に架ける橋)」(写真)は、タイトル曲をはじめとして、「El Condol Pasa(コンドルは飛んでゆく)」「The Boxer」「Cecilia」といったスタンダード曲が目白押しの一枚だが、この「The Only Living Boy In New York(ニューヨークの少年)」も忘れられない名曲だ。ニューヨークでひとり強く生きる少年が、旅立つ友を想う心情を綴った歌だが、これは当時解散間際の状態にあったS&Gの歌でもあった。S&Gとして成功する前にも、二人はトム&ジェリーという名前のデュオで活動しており、歌詞の中に出てくるトムとは、アート・ガーファンクルの事である。13歳の時から二人で一緒のステージに立ち、S&Gとして空前の成功を収めたこのデュオには、長い間に培われた友情の他にも他人には分からない緊張関係があり、それは成功を収めるに従って、互いのエゴや確執となって表れていった。「Bridge Over Troubled Water」のレコーディング時には、二人の関係は飽和状態となっていた上、俳優志向もあったアート・ガーファンクルは出演映画「キャッチ22」の撮影に追われて、レコーディングには全く参加してない曲もあった。こうした状況の中で、二人は自然と「解散」を意識せざるをえなくなった。そしてできたのがこの曲だった。Tom, get your plane right on time.トム、飛行機に乗り遅れるなI know your part'll go fine.大丈夫、仕事はうまくいくさFly down to Mexico.メキシコまで飛んでいきなDa-n-da-da-n-da-n-da-da and here I am.僕はここにいるThe only living boy in New Yorkニューヨークに、たったひとり生きる僕なのさポール・サイモンの抑えた歌とアコースティック・ギターのストロークを中心とした演奏は、シンプルだが実に力強い。そして、サビで静かな盛り上がりを見せるコーラスワークは、天高く昇っていくかのような美しさを持つものであり、爽やかな感動と少しばかりの寂しさをもたらす。ここにあるカタルシスと寂しさは、「別れ」と互いの「新しい出発」を思わせる。「Bridge Over Troubled Water」は当時としてはケタ外れの大ヒットを記録、その年のグラミーで六つの賞を受賞という輝かしい成績を残して、1970年にサイモン&ガーファンクルは解散した。「人々は次の曲を出すのが当然と考えただろうけど、ヒットすればそれだけ次作に要求される事はハードになってくる。そう考えれば「Bridge Over Troubled Water」の次作を作らなくてよかったと思うよ」-----ポール・サイモンデュオ解散後の二人は、新作アルバムを作る事はなかったものの、ポール作の「My Little Town」やサム・クックのカバー「Wonderful World」で共演し、1982年にはS&Gとして、ニューヨークはセントラル・パークで再結成フリーコンサートを行った。このコンサートには50万人もの観衆が集まったといわれる。集合離散は人間の宿命であり、「くっついたりはなれたり」を繰り返すのが人と人なのかなあ…とか思ってみたりする。「The Only Living Boy In New York」を聴くにはここをクリック!
2006.07.01
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