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NHKのBSプレミアム番組名である。 民放でも、BS-TBSやBS朝日などにも、よい紀行番組があるので記録すべく予約している。水野美紀は、美しいだけではなく、アクションやマッスル番組でもお目にかかっている、30代半ばの、小生の好きな女性だ。小生は、脳幹梗塞になる半年前に、市の体育館で、月3回の太極拳教室に通い始めた。随分昔の学生時代に、少しだけ空手を習ったことがあるが、視力が両眼で0.01なので、組み手は向かず、主将の突きが顎に入り、ダウンしたことはお話ししたようにおもう。いまは、片足で立ちづらい位であるから、スローモーションの動きと、激しい動きある、太極拳は小生には大変辛い武術である。幸い、小生が習うのは、柔軟運動が大半を占める太極拳で、北京大学にも行ったことがある、女性のように、やさしい先生が教える、太極拳楊式古式簡化二十四式である。今回の水野美紀が演武するのは、それとは異なり、「静かな守り」と「激しい攻撃」(「陰陽」の動き)、が流れるように繰り返される武術・陳式太極拳である。陳式太極拳の正式継承者・陳正雷老師に弟子入りをした話である。小生には、陳老師の動きは凄いのだろうが、水野美紀の演武はたった3日の直伝で、素晴らしい動きが出来ているのには、素人ながら驚いたものである。日頃から身体を鍛えているに違いない。素人には、踊りのように、指や手を大きくかつ綺麗に見せる女優・水野美紀は、うっとりするような演武として映ったものであった。また、太極拳のマークと、韓国の国旗(太極旗)の疑似にはいつも驚く。ここで、WEBから太極拳を自分用に纏めておきたい。Copy paper であるが、自分には役立つのだ。「元代、不老長寿の仙人・張三豊が少林寺で武術を修めた後に武当山に入って修行し、道教の陰陽五行思想や吐納法と呼ばれる呼吸法を取り入れて編み出したとされる伝説がある。実際の起源は、明代に現在の河南省陳家溝に強制移住させられた陳一族に家伝として伝えられていた武術に、陳氏9世・陳王廷が様々な武術の要素を組み合わせ、明代末期から清代初期にかけて創始されたとする説が有力である。陳氏の武術は、門外不出の武術として発展し、清代末期、陳氏14世・陳長興に弟子入りした楊露禅がこの武術を修め、北京に赴きこれを普及。武術理論として王宗岳の『太極拳論』が重視され、『太極拳』となった。源流の陳家太極拳、分派した楊式太極拳・武式太極拳など様々な門派が存在する。一方、太極拳の健康効果は古くから知られたが、その習得は容易でも、万人向けでもなく、中国政府・国家体育運動委員会は、第二次大戦後、誰にでも学べる新・太極拳を計画。楊式太極拳を基に簡略化した套路を編纂し1956年に制定拳を制定した。健康効果を考慮した新たな総合太極拳(三十二式太極拳)が編纂されるなどもしている。は全国に草の根レベルで太極拳教室が存在している。」また、WEBから太極拳の各派を説明伝統拳・「五大太極拳」1.陳家太極拳全ての太極拳の源流。柔軟で緩やかな動きと、纏絲勁(螺旋の道理による力の作用方法)によって全身の勁を統一的に運用して繰り出される豪快な震脚や発勁が特徴である。2.楊式太極拳制定拳の基となったことでも知られる。陳氏14世・陳長興の弟子である楊露禅が創始し、その後も、露禅の子・楊健侯、孫・楊澄甫と三代に渡って改良され、大架式の套路が普及している。その動作はのびのびとして柔らかく、発勁においては激しい動作を行わない。3.呉式太極拳楊班侯に師事した呉全佑と、その子・呉鑑泉により創始。満州族のシュアイジャオに由来する前傾姿勢が特徴で、小架式の動作は緊密でまとまっている。系統によって歩距や架式の高さに違いが大きい。中国国内だけでなく香港を中心に普及している。4.武式太極拳楊露禅の友人である武禹襄が、楊式と、陳家太極拳を修めて、それに独自の理論を加え創始。伝承者は極めて少ない。5.孫式太極拳孫禄堂が創始。形意拳の歩法、八卦掌の身法、武式太極拳の手法を統合。開合により動作を連関し、快速な活歩により転換することで、開合活歩太極拳とも称す。・和式太極拳和兆元が陳清萍に学び創始。陳家太極拳と異なり、発勁に激しい動作を伴わない。陳家太極拳一派と見なされたが、近年、代表的伝統太極拳として認定さる。・鄭子太極拳楊澄甫の弟子・鄭曼青が、楊式太極拳を整理し三十七式にまとめた。楊式から認められず、楊式より小さく柔らかい動きがあり、楊式とは別の門派。套路37式、楊式太極剣、推手、内功(気功)からなり、簡易太極拳と言われ、楊式太極拳では入門用の套路。主に欧米人の間で普及。 制定拳(套路毎に動作の数が違うため、各套路は「二十四式」のように動作の数で呼ばれる。)・簡化太極拳(二十四式太極拳)最初の制定拳として、1956年に発表さる。楊式太極拳の主要な二十四の動作から構成。全世界で練習され、健康運動としての太極拳の普及に大きく貢献。日本では一般的な太極拳教室の健康法、外国でもジムなどでヨーガなどと一緒に教えられる。楊式太極拳の入門用の套路。・八十八式太極拳二十四式太極拳に続き、1957年に発表。二十四式の原理に基づき、楊式太極拳の動作を改めたもの。動作順序は楊式太極拳大架式に準じるが、動作原理が異なり、李玉琳の楊式太極拳に基づくことなどから、本来の楊式太極拳とは差異が多い。・四十八式太極拳二十四式太極拳の上級套路として、1979年に発表。楊式太極拳をベースに、陳家、呉式、孫式の動作を取り入れた。二十四式より難度が高く、八十八式より表演時間が短く、動作も左右対称に整えられているため、競技会において頻繁に行われている。・総合太極拳(四十二式太極拳)1980年代後半になって太極拳の国際大会が催され、競技会用に套路として制定。規定套路、或いは競技套路と呼ばれ、競技会種目として採用。四十八式よりも各門派の特徴的動作を明確に演ずることが出来る。・ 太極剣 器械(武器)の入門用として編纂。楊式太極剣をもとした『三十二式太極剣』と、競技用套路として陳家、楊式、呉式の動作を組み合わせた『四十二式太極剣』(総合太極剣)がある。総合太極拳と並び、競技会の主流。
Sep 30, 2011
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国 :シンガポール:マレーシア:タイ:中国:香港:台湾:韓国:ベトナム:消費者物価上昇率 :2.80%:1.70%:3.30%:3.30%:2.40%:0.96%:2.90%:9.20%:同(対ベトナム) :30 :18 :36 :36 26 :10 :32 :100 :失業率 :2.20%:3.10%:1.04%:4.10%:4.40%:5.21%:3.70%:5.00:%同(対ベトナム) :44 :62 :21 :82 :88 :104: 74 :100: 輸出額A(億ドル) :3,512:1,985:1,953:15,779:3,901:2,746:4,664:722:同(対ベトナム) :486 :275: 270 :2,185: 540 :380 :646 :100:対日輸出額B(億ドル):164:207:204:1,211:164:180:282:77:同(対ベトナム) :213 :269 :265 1,573 :213 :234 :366 :100:B/A% :4.70%:10.40%:10.40:%7.70%:4.20%:6.60%:6.00%:10.70:%同(対ベトナム) :44 :97: 97 :72 :39 :62 :56 :100: 直接投資受入(億ドル):386 :94 :44 :1,851:689:25:131:186:同(対ベトナム) :I208 :51 :24:995:370:13:70:100:L*I :570 :17 :12:527:912:32:135:100:
Sep 29, 2011
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東南アジア訪問国&ベトナムの比較訪問国をベトナムと比較する番外編 Table 1 JETRO資料より作成 2010年データ 国:シンガポール:マレーシア:タイ:中国:香港:台湾:韓国:ベトナム:総面積(平方キロ):710:329,735:513,115:1,334,730:7,100:23,160:100,033:329,247:同(対ベトナム):0 :100 :156 :405 :2 :7 :30: 100:人口(千人):5,077:28,250:63,390:9,600,000:1,104:36,191:50,520:85,790:同(対ベトナム):6 :33 :74 :11,190 :1 :42 :59 :100:人口密度(人/平方キロ):7,147:86:124:139:6,431:640:505:261:L:2,738: 33: 48 :53 :2,464: 245: 193 :100: 実質GDP成長率:14.50%:7.20%:7.80%:10.30%:7.00%:10.88%:6.20%:6.80%:同(対ベトナム): 213 :106 :115 :151: 103 160: 91: 100 :名目GDP総額(億ドル):2,227:2,378:3189:58,784:2,245:4,299:10,143:972:同(対ベトナム):229 :245: 328 :6,048 :231 :442 :1,044 :100: 一人あたりのGDP(名目):43,117:8,423:4,992:4,382:31,591:18,458:20,591:1,174:同(対ベトナム):3,673 :717 :425 :373 2,691: 1,572: 1,754: 100:
Sep 29, 2011
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訪問国ではないが、大場由幸社長が良く訪れるベトナム(正式名称:ベトナム社会主義共和国)を加えて、簡単な比較をしてみたい。まず、ベトナムのイメージを地理、国の花、国旗でみる。国土は南北に長く、北に中華人民共和国と、西にラオス、カンボジアと国境を接し、東は南シナ海に面し、フィリピンと対する。代表的な国の花は蓮の花である。ベトナムの国旗は、ウィキペディアによると、金星紅旗と呼ばれ、赤地に黄の星を置いた旗である。旧ベトナム民主共和国(北ベトナム)が制定した旗を統一後も使用している。赤は社会主義国によく見られる色で独立の為に人民が流した血、黄(金)は革命、星は社会主義の象徴、五本の光は労働者、農民、兵士、青年、知識人を表す。首都はハノイである。 このくらいにして、前に進む。 訪問国のデータにベトナムを追加し、ベトナムの数値(以下V)を100として、各国を比較する。脳梗塞の小生には、基準を設けた方が視覚に訴えやすい。 国の表示は、そのままだと、長くなるので、次のような記号を利用する。中国(C)、 タイ(T)、マレーシア(M)、韓国(K)、台湾(F)、香港(H)、シンガポール(S)、ベトナム(V)とする。 略号の理由は、中国はChinaの「C」,タイはThailand の 「T」、マレーシアはMalaysia の 「M」,韓国は Korea の 「K」、台湾は Formosa の「F」、香港は Hong Kong の 「H」,シンガポールは Singapore の 「S」、ベトナムは Vietnamの 「V」、の頭文字表記である。 表を主に参考し、「呆けの説明」をご覧あれ!脳幹梗塞なので、綿密な比較はできないことを、お断りしておく。 国土の総面積:Vの「329千平方キロメートルを」100として比較すると、V=100に比べて、中国(C)=405, タイ(T)=156,マレーシア(M)=100,韓国(K)=30、台湾(F)=7,香港(H)=2,シンガポール(S)=0.2、である。Vに比べてCはその4倍、Tは1.6倍、Mはほぼ同等、Kは3割、F,Sは微々たるものである。 人口:Vの「86百万人」を100として比較すると、V=100に比べて、C=11,190、T=74,K=59、 F=42,M=33, S=6, H=1、である。Vに比べて中国が飛び抜け112倍、T、Kが6~7割、F,Mが3~4割、S,Hは1割にも満たない。 人口密度:Vの「261(人/平方キロメートル)」を100として比較すると、V=100に比べて、S=2,738、H=2,464、F=245,K=193,C=53,T=48,M=33の順である。Vに比べてS,Hが25倍、F,Kが2倍、C,Tが半分、Mが3割である。 実質GNP成長率:Vの「6.8%」を100として比較すると、V=100に比べて、S=213,が2倍を超え、F=160,C=151は1.5倍程度,次いでT=115、M=106,H=103,K=91が、同程度となっている。 名目GDP総額:Vの「972億ドル」を100として比較すると、V=100に比べて、C=6,048と60倍で飛び抜けておおきく、K=1,044が10倍、F=442が4倍、T=328が3倍、M=245, H=231、S=229 が2倍強である。 一人当たり名目GNP:Vの「1,174ドル」を100として比較すると、S=3,673が37倍、H=2,691が27倍、韓国K=1,754、台湾F=1,572は15倍強、M=717は7倍、タイT=425と中国C=373が約4倍である。 消費者物価上昇率:Vの「9.2%」を100として比較すると、Vに比べて、F=10が最も低く、M=18,H=26,に続いて、S=30,K=32,T=36,C=36と高くなるが、いずれもVに比べてかなり低い。しかし、この数字は増減率なので、安定している場合はいいとしても、比較してもつまらないかも知れない。 失業率:Vの「5.0%」を100として比較すると、V=100に比べてT=21が最も低く、次がS=44,少し上がってM=62、K=74,C=82,H=88で、F=104が同程度である。 輸出額:Vの「722億ドル」を100として比較すると、V=100に比べてC=2,185が22倍と飛び抜けており、K=646、H=540、S=486、F=380が3倍以上、M=275、T=270は3倍近い。 対日輸出額:Vの「77億ドル」を100として比較すると、V=100に比べて、C=1,573が飛び抜けており、K=366である以外は、M=269、T=265、F=234、H=213、S=213は二倍程度である。 対日輸出依存度:Vの「10.7%」を100として比較すると、V=100に比べて、M=97、T=97がほぼ同じであり、C=72、F=62,K=56、が少し低く、S=44,H=39はさらに低い。 直接投資額:Vの「186億ドル」を100として比較すると、V=100に比べて、C=995、H=370、S=208が高いが、K=70が半分強、M=51は半分、T=24、F=13は少ない。 人口密度*直接投資額:意味のない数字かも知れないが、人口密度をウエイトとして、直接投資を見ると、(=人口*直接投資/総面積)で見る。それをさらに、V= 100として比較すると、H=912,S=570,C=527が極めて高く、ついでK=135が同程度、F=32,M=17,T=12である。文章に戻すと、「最近の直接投資を、人口密度のウエイトでみると、ベトナムは香港、シンガポール、中国には及ばないが、韓国並みで、台湾、マレーシア、タイよりも、かなり上位にある。」となる。これらは、表面上の合計数字であり、産業構造、人口構造、貿易構造、その他を分析しなければいけないが、頭が働かないので、この程度にしておく。表は紙数面の制約で別記する。
Sep 29, 2011
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PLAY BACK AGAIN ! 陸地続きでマレーシアから、国の国花がバンダ(蘭)のシンガポールに入った。 シンガポール国旗についてはWEBから説明を借りる。:赤は友好と平等を、白は美徳と純粋性を、5つの星はそれぞれ民主主義・平和・進歩・正義・平等の5つの理想の進展を表わし、三日月はイスラム教を象徴する。 広大なジュロン工業地帯が広がっている。おもちゃの組み立て工場は、当地に死ぬ覚悟できた工場長の熱意で軌道に乗っていた。おもちゃは、部品点数が結構あり、日本から持参するわけにはいかず、現地調達するのだから、これまた仕入れ先管理・企業育成も大変である。主として、組み立て工員だけに目を向ければ良かった日本とは違う環境である。優秀な労働力は、電子機器・電子部品工場が主体のこの国では、存在するが、それだけに育成・確保に大変な努力がいる。 大手銀行の支店で情報収集した業後に、担当者から、危なくない宝石店(危ない店が多いようだった)を紹介してもらい、自分の「仕事ばか」で日頃迷惑を掛けている家内に、手元に残った自分のお金で、「おみやげ」として小さい買い物をした。この旅行中は、家内は長男が生まれたばかりで里帰りをしていた。 この国の街の看板は、香港同様に親しみやすかった。日本人には、香港や、この国が一番、看板を認識しやすい街なのだろう。 路上で尿意を催したが、ここシンガポールは、公衆道徳の先進国でもあり、「路端のタチション」、「唾タン吐き」、「タバコのポイ捨て」などは大罰金ものであり、ぐっと我慢した。 おみやげのエピソードを一つ。羽田の通関で首を一旦、傾げる仕草を受けたが、無事通過した。なぜ税関が首を傾けたかは、わからない。税関から見て、ギリギリの問題ない範囲であったのか、「こんなものを買って!」と、あきれられたのか、わからない。現地駐在の大手銀行員が「問題ない宝石店」と言ったことを信用しよう。 シンガポールの基本データ[2010年] JETRO資料を加工 首都:シンガポール公用語:英語、中国語(北京語)通貨:シンガポール・ドル総面積:710.3平方キロメートル人口:5,077千人人口密度:7,147(人/平方キロメートル)実質GDP成長率:14.5%名目GDP総額:2,227億ドル一人あたりのGDP(名目):43,117ドル消費者物価上昇率:2.8%失業率:2.2%輸出額A:3,512億ドル対日輸出額B:164億ドルB/A%:4.7%
Sep 28, 2011
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Play Back !バンコックで休日を過ごした後の訪問国は、国の花がハイビスカスのマレ-シアの首都クアラルンプールである。 この国の国旗についてWEBから説明を借りる。:赤・白・青の3色は、かつて宗主国であったイギリス国旗の配色に由来する。赤と白の横線は独立時の14の州を、黄色はサルタンの権威を表わし、月と星はイスラム教を象徴している。 日本の大手化学企業系列の塩ビパイプ工場を訪問したが、たまたま、オイルショック時であり、原料入手には苦労していたように思う。日本では、パイプは鉛管、鉄管、ベークライト管など、用途によってなんでも入手できるが、この国では塩ビパイプの製造方法が簡単で、利用方法がほぼ万能で、幅広く、よく売れていた。 面白かったのが、この国は、多民族国家であるため、企業も「民族比率」に応じた雇用をしなければならないことであった。企業は、適材適所に人を配置したいのであるが、むりに「民族比率」に合わせるとしたら、必要のない、草むしり作業員やドアマンをわざわざ雇うはめになりかねない。ここら辺が、海外に進出する企業が注意しなければならない、現地しか判らないところである。 また、土地の所有がどれだけ許されるか(国有化の危険はないのか)、宗教的な時間(日本のような定時間労働は守れるのか)をどのように取るか、だれがどのように工場内の統制をとる(縦の統制はとれても、横の統制がうまく取れない場合はどのように補うか)か、などなど、問題は日本のように単純ではない。 労働者の勤勉・優秀さ、指揮系統のすばらしさ、などを、日本国内のように期待するのはまったく、間違っている。 とは言ってみたが、日本国内で、当の大手化学会社の建築部門のフランチャイズに自宅の建設を発注した時、面食らったことがある。 土地の面積に対して、建築床面積に余裕があるというので、いうなりに当初設計よりも建築面積を増やした。CADを使って設計している会社である。 建てた後で判ったのだが、駐車場にはクラウン、セドリック・クラスは入れなくなり、ピタゴラスの定理により、斜面をつけてスペース(面積)を拡大したものだ。 設計図面を詳しく調べると、柱の部分、要するに壁の厚さをまったく計算していないのである。 古びた隣家に住む住民が移転するタイミングでそれを買い取り、壊して土地の面積を広げた。そして、土地と建築床面積の関係から、建築基準に、必要な自宅の床面積を確保して、不要となった部分を住宅地として売却した。 このような、大変な費用と、作業を課されたことを振り返っても、本国でも間抜けな部分もあるようだ。 話が脱線したが、時間があったので、マラッカ海峡にまで足を伸ばした。 エピソードを挿入する。 「ここで水を飲むと、かならずまたここに来ることになる」と、いう言い伝えの水を飲んだ。 確かに、その後に、クアラに駐在所が出来て、来るべく上司(人事部経由なので極秘情報?)から打診されたが、父の重篤な病気もあり、それよりも先述のように、小生は英語が下手なので、また、上司の「無理しなくてよい」という優しい言葉に甘えて、自分から断念したのだった。 聖水を通じて、天界からは、間違いなく、現地行きの切符がおりたのである。 行くべき切符を使えなかったのは、下界の小生の特異事情である。 「それで小生の人生は変わった」のである。 「小指」で変わった人生もあるらしいが。 もし、小生が、ここに来ていたら、親父の死に目には会えなかったろうし、現地の人々にご迷惑を掛けたに違いない。 小生より、もっと、優秀な後輩(後日、小生をメキシコに連れて行ってくれた、関西の国立大出の、今は教授をしている優男)が、小生が断念したことを知らずに、後日、ここに勇んで旅だったのである。 小生への打診があったことは、彼の名誉のためにも、言うべきではないだろう。 とにかく、彼は、現地に多大な貢献をして、現地人からいまでも尊敬・歓迎されているのだから。 マレーシアの基本情報[2010年] JETRO資料より作成 首都 :クアラルンプール :公用語 :マレー語 :通貨 :リンギ :総面積 :329,735平方キロメートル:人口 :28,250千人 :人口密度 :86 :実質GDP成長率 :7.2% :名目GDP総額 :2,378億ドル :一人あたりのGDP(名目):8,423ドル :消費者物価上昇率 :1.7% :失業率 :3.1% :輸出額A :1,985億ドル :対日輸出額B :207億ドル :B/A% :10.4% :
Sep 27, 2011
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Play Back ! 香港から次の訪問国・マレーシアにいく間に、土・日の休日が挟まり、仕事はないので、中間のタイ・バンコックに飛んだ。 この国の国花はナンバンサイカチである。国旗はWEBから説明する:タイ王国の国旗は「トン・トライロング」(三色旗)と呼ばれ、中央の青色は「国王」を象徴する。白色は建国の伝説に登場する白象に由来し「宗教」を象徴する。赤色は「国家、および国民の団結心」を表わすもので、旗全体が王室を中心とする国民の忠誠心・団結心と小乗仏教への高い信仰心を象徴する。 この街の看板は、英語は判るが、ほとんどが、知らないタイ語であり、韓国と同様に頭が痛くなった。古代のクメール文字を解析しているみたいだ。右から左に横書きするような、複雑な文字群である。この国の文字を知らないのに、解析・理解しようとする方が、ずうずうしいのだ。わからない文字と諦めると、頭が痛くなくなった。要は、判らないことは捨てて、判ることだけに、集中することが大切だ。 日本を出るときは、まだ寒かったので背広を着てきたが、バンコックでは、真夏のように暑い中、王宮とエメラルド寺院では正装(背広着服)を余儀なくされた。背広を脱ぎ、日本では季節外れで、繊維問屋街でやっと見つけたホンコン・シャツに着替えて、フローティング・マーケット、ワニ園などやアユタヤ遺跡を見た。 アヤタヤ遺跡は、1351年にウートン王の建都から1767年ビルマ軍の攻撃で破壊される、417年間アユタヤ王朝の首都であった。苔生した仏塔チェディ、大草原に悠然として横たわる涅槃像、ビルマ戦争で大部分が崩壊に瀕しているのが痛々しかった。アンコール・トム&ワットには行く間がなかったが、そこは巨根が寺院に絡み付く自然の脅威による崩壊であるのに比べて、アユタヤは戦禍による破壊の痕跡であった。チャオプラヤー川および支流に囲まれ水運が発達し、アユタヤ王朝が築いた都市計画、中央集権制、国際貿易などの基盤は、後のバンコク王朝に受け継がれる。 小生から見て、山の多い土佐に比べて、日本での関東平野は随分と、広いと思うが、このタイでは、見渡す限りの、地平線がない大平原に、大きな水牛が豆粒のように働いており、真っ直ぐな単線道路の先が消えて行くように引かれている。単線道路側売店のスイカが美味しかったことを憶えている。 北の古都、中国系が多いという、チェンマイに寄る時間はなかった。夜は民族舞踊を見学した。二人とも舞台に上がり、見よう見まねでダンサーや現地人達について踊ったものだった。恥ずかしがるわけにはいかなかった。「Do in Rome as the Romans do .」「郷に入っては郷に従え」、である。 汚いエピソードをひとつ。空港でトイレに行った。とても混んでいる。トイレット・ペーパーは、日本と同様、この地でも不足しているようだ。トイレの入り口には、一人づつドアの入り口に専用のドアマンがいる。ペーパーを千切って少ししか呉れない。足りないのでもっと要求したらいやな顔をされた。チップを沢山あげたのにと、やや不愉快に思ったことを思い出す。 タイの基本データ[2010年] JETRO資料を加工 首都 :バンコク :公用語 :タイ語 :通貨 :バーツ :総面積 :513,115平方キロメートル:人口:63,390千人 :人口密度 :124(人/平方キロメートル) :実質GDP成長率 :7.8% :名目GDP総額 :3189億ドル : 一人あたりのGDP(名目):4,992ドル :消費者物価上昇率 :3.3% :失業率 :1.04% :輸出額A :1,953億ドル :対日輸出額B :204億ドル :B/A% :10.4% :
Sep 26, 2011
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次の訪問国、香港にいく途中、TRANSITの台北空港で給油した。飛行機は滑走路に止まったまま給油し、国交断絶なので建物に入ることも叶わず、さらに豪雨で飛行機の座席の小さな窓からは何も見えなかった。撮影も憚られたのである。国交断絶というのは、かくも寂しいものかと思ったものである。この国の国花は梅である。この国の国旗について(WEBから)説明する。:青・赤・白の3色は孫文の唱えた三民主義(民族の独立、民権の伸長、民生の安定)に由来し、青は民権主義で正義を、赤は民族主義で自由と独立を、白は民生主義で友愛を象徴する。青は空を、太陽(白日)の光芒は十二刻を表わし、通称「青天白日旗」と呼ばれる。給油だけの時間を、台北空港で結局、無駄に過ごした後、静かに飛び立ったキャセイ航空機は、東シナ海を跨いで、山やビルの谷間を縫い、機敏なACROBAT操舵技術により、香港空港に「無事」着陸した。この国のPilotは、乗客の安全よりも、空の自由を楽しんでいるかのようだった。香港市の花はバウヒニアである。(中国本土の国花は牡丹である。)街にでると、看板が右も左も、空にも溢れていたが、なぜか安心感をもたらしてくれた。韓国では、全く判らない、ハングル文字で頭が混乱したものだが、香港街に溢れる看板は、漢字か英語なので、なぜか懐かしく感じるのである。イギリス映画でみるような、白(上)と赤(下)のツートンカラーの、見上げるような2階建てバスがたくさん走っていた。当時は、中国本土からイギリスが租借し残存期間がある時期であり、まだ、完全なる自由貿易港であった。WEBから説明をかりる。「香港返還(1997年7月1日)が実現した背景を理解するには、まず香港がイギリスにより植民地化された経緯を知る必要がある。まず、1842年の南京条約(第1次アヘン戦争の講和条約)によって香港島が清朝からイギリスに割譲された。さらに、1860年の北京条約(第二次アヘン戦争(アロー号戦争)の講和条約)によって、九龍半島の南端が割譲された。その後、イギリス領となった2地域の緩衝地帯として新界が注目され1898年の香港領域拡大協約によって、99年間の租借が決まった。以後、3地域はイギリスの統治下に置かれることとなった。」人口が集中しているのだろうか、大きな集合住宅が並び、屋上には小学校らしき校庭があった。九龍半島にも行ったが、写真を撮っている所を見られたら殺されると、おどかされた場所もあった。車の中から、めくら撮りしたら、ごちゃごちゃした建物が映っていたものだ。誤って「この世界」に入ったら、無事な姿では外に出られないそうだ。訪問した進出した印刷・電子製版会社は、日本では高くて手に入れにくい、コダックなどのフイルム素材等をふんだんに使い、この港の自由貿易体制の冥利を享受し、儲かっていた頃である。日本でも電子製版業界は、技術革新により巨額だった電子製版機械への投資額(例えば10億円かかった機器が、3~5年後には一億円以下で買えるなどで)は、その後、急速に少なくて済むこととなり、後発企業(late・comer)が先発企業よりも、借入金の負担面で、はるかに有利となってしまい、競争が熾烈化した。また、独立した電子製版会社でなくとも、印刷業界そのものが、安価となった電子製版機械を使い内製化できたので、急速に、「製版」分野は縮小したのである。いつの時代にも、最新の技術を取り入れやすい分野は盛衰が激しい。COMPUTER関連はDog Year で年をとる。自分に例えてみても、年賀状の手書きは、パソコン印刷に代わり、写真の印刷も小口なら、自分で印刷しているのである。ただ、なぜか、インクが高いので、仕方なく大口は業者に依頼している。ここで、いかに技術というものが氾濫しており、その利用において格差が付くかを見ておきたい。一つは、ベニヤ板の生産であるが、丸太をどのようにしてあのような平板にするかを見てみる。その前に、金属加工機械(旋盤など)の加工方法を見てみる。被加工物を回転する円の中心付近に固定する。被加工物に、加工したい形の刃(工具)をあてて、それが直線的に移動すると、不要な部分が削り取られて、綺麗な面があらわれる。単なる直線でなく、2次元に動くと複雑な加工も出来る。この機械の加工方法の最も簡単な応用がベニヤ板であり、丸太を両側で支え、それを回転させる(ロータリーさせる)、他方で、長くて鋭い刃(カッター)を押し当てていく、すると、木の年輪に沿ったような形(正目がない形)で、薄くて長い、ロール(巻物)ができかかるが、ベニヤ板として必要な長さでカッターを入れればいいのだ。もっとも、丸太は加工がしやすいように事前に柔らかくしておくことが大事である。薄い板の一枚板は、変形しやすいので、数枚を接着剤で圧着し、プレスする工程もある。この製法は、また、食品のお餅の生産に利用される。工業的な生産なので、お餅のつきかたは人間ではなく、人間の動作をまねて機械が突く。人間の動作なら、温かいうちに千切ったり、丸めたりするのだが、お餅を冷蔵庫で冷やして、加工しやすい状態にする、簡単な工程が入る。平たい、すこし厚みのある円盤状のお餅の塊が出来ると、「旋盤」にかけて回転させ、それに刃をあてて、板状のお餅がベルトコンバヤーに広がる。その前に、カッターを回転させれば、適当な「かき餅」素材となるのである。それを焼けば製品・かき餅になる。もっと簡単な応用は、果物の皮剥き器、かんぴょうの皮むき器であろう。(電子)製版工程を見てみよう。A. 一つには、強い光を当てて、その強さによって、銀などが反応して、溶ける量が異なることを利用する工程があるので、金属ネームプレートなど彫り込みの深さの制御に長けている。金属板でなく、フイルム状のものに、その加工を応用すると、電子計算機などの回路にも利用できる。TABなどという。B.また、色分解などの複雑な製版工程から、画像を大きくも、または、極小にすることも自在の分野である。Bは、他の分野で複雑・微細な金型加工をするのに、加工面を大きな画像にして、切削したりすることに応用される。回路設計では、微細なものではなく、目に見えやすい、おおきな図形を描いておいて、微細なものに、光学的や電子的に置き換えれば方法論的には簡単である。小生は素人ではあるが、日本国内企業は、新しいものや、今まで気付かなかった技術を、単独ないしは複合で応用してきたものである。たとえ、猿まねでも、応用力を効かせられれば凄いものが出来る。工場の外に出れば、特許侵害の問題となるが、個々の企業の内部では、すばらしい生産技術が満ちあふれている。コズミック・フロントでケンブリッジ大学のホーキンズ教授が地球を光速(ニュートリノが光速の定理に疑問を投げかけているがここでは無視しよう)で回転する物体Aに乗っている人aと、地球にいる人bを比較する、仮想実験を見た。時間差は少しずつ進むので、50年経過すると、人aからみると人bは老人になり、人bから見ると人aは若々しいままになるという。(その50年のそれぞれの人生が、どちらが有意義なのかは、この際にはふれてはいないが。)このように技術の最先端はたえず変化しているので、先を見通さずに、余計なものに無駄金を投資していると痛い目に遭う。くりかえすが、製版会社でも、その技術を、薄いフイルムに、超微細の電子回路を焼き付けることで、まったく新しい回路設計を可能にし、新分野を切り開いた電子会社もあるのだ。訪問企業の先行きは厳しかったものの、真面目に専業分野の特色を応用していくことで、企業の特色を発揮していたら、その後に倒産はなかったかもしれない。そこが経営者の才覚というものであろう。以下には、JETRO資料から2010年の中国、香港、台湾の基本的なデータを記載する。中国の基本データ[2010年] JETRO より加工項目:中国:香港:台湾の順である。国(首都): 中国(北京): 香港(北京) : 台湾(台北):公用語: 中国語: 中国語、英語: 中国語、台湾語:通貨: 元: 香港ドル : 台湾元:人口(千人): 1,334,730: 7,100: 23,160:総面積(平方キロメートル): 9,600,000: 1,104: 36,191:人口密度(人/平方キロメートル): 139: 6,431 : 640:実質GDP成長率: 10.3%: 7.0%: 10.88%:名目GDP総額(億ドル): 58,784 : 2,245: 4,299 :一人あたりのGDP(名目): 4,382ドル: 31,591ドル: 18,458ドル: 消費者物価上昇率: 3.3% : 2.4% : 0.96% :失業率: 4.1% : 4.4%: 5.21%: 輸出額(億ドル)B: 15,779: 3,901: 2,746:対日輸出額(億ドル)A : 1,211: 164 : 180:A/B%: 7.7: 4.2: 6.6:中国は、中華人民共和国、台湾は中華民国で首都は事実上の場所。 香港は仮に国として扱っている
Sep 25, 2011
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最初の訪問国は隣国・韓国である。企業秘密もあるので余談だけにする。当時、韓国では、ホテルから外を見ると、深夜のある時間に、一斉に電気が消える。なぜかというと、不穏分子がいるかどうかが、全市停電することで炙り出しできるという。ホテルでは、柱のそばに立っている男がこちらを見ないで、韓国語で早口に小生に捲し立てる。まるで、同国人のスパイ仲間と思われて、戦時体制下のスパイごっこをしているようだ。小生の祖先はやはり大陸系か、と思ったものだ。小生が大統領官邸に向かって写真を撮ったら、案内役が官憲に厳しく咎められてフイルムを抜き取られそうになった。訪問先の工場に向かう高速道路は、広く、かつ、電柱などの障害物が何も無く、戦闘・非常時には航空機でも離着陸できる滑走路体制にあった。橋の袂には、トーチカらしいものが覗いていた。当時は、公害企業の輸出と言われる分野の邦人企業の工場長が、現地人との融和に心を砕いていた。近くにお寺の名刹があったが、門の側に立てられた表札「JAPAN’S INVASION 」という、朝鮮の役の後遺症までも、何とか克服すべく努力している姿には頭が下がる思いがした。太閤・豊臣秀吉は、現代の邦人進出企業にも影を落とす、罪作りな人である。ただ、この工場長は、部屋に立派な神棚を置いていたが、現地人はどのように見ていただろうか。ソウルでは、商業銀行の重役と会ったが、我々よりも日本語が堪能で、人格的にもはるかに上品であった。日本に、何もわだかまりを持っていない様子をみて、人間的にも立派だと思った。彼は自分の生き方を、昔の日本人から教えられたと言っていたから、我々の方が、むしろ、先人から何も学んでいないことを悟った。小生には、頭が痛いことがあった。それは、ソウルの街を歩くと、どこもかしこも、漢字は少なく、彼等独自の表音文字・「ハングル」がほとんどで、まったく認識・理解できなかったからだった。食事をしたが、地元の人がよく通う所だったので、ものすごく辛く、慌てて水を飲んだところ、余計に辛さを感じて閉口しようにも、口が閉まらなかったものだ。この国の国花は純白な木槿(ムクゲ)であり、宗教面の考え方は先祖や年長者を敬う儒教思想が主流である。また、小生は自分が太極拳を学んでいるので、この国の国旗が、「太極拳」の陰陽のマークによく似ていると思う。似ているのではなく、「太極旗」とも呼ぶそうだ。WEBから説明:中央の円は太極(宇宙)を表し、すべてのものの統一・一体性を表す。巴の形は陽(赤)と陰(青)を表し、積極と消極・善と悪・男と女・太陽と月……といった、ものの二重性を表している。四隅のしるしは、乾・坤・坎が離と読み、四つの相対立し、しかも調和をもつものの組み合わせ、すなわち、東西南北、父母兄妹などを表す。宴席で食事をとる箸は銀の箸であるが、銀は毒に反応しやすいので、毒殺を防ぐためである。それだけ、宮廷にまで政争が及んでいたのである。銀の箸は、鉱山の坑道で使われたカナリヤみたいなものであったろう。韓国ドラマの歴史物では「朱蒙」、「イサン」や「トンイ」は面白い。2010年の韓国の基本データをJETRO資料から加工しておく。今のところ、表(Table)として旨く表せないのが残念である。首都: ソウル公用語: 韓国語通貨: ウォン総面積: 100,033平方キロメートル人口: 50,520千人人口密度: 505人/平方キロメートル実質GDP成長率: 6.2%名目GDP総額: 10,143億ドル 一人あたりのGDP(名目): 20,591ドル消費者物価上昇率: 2.9% 失業率: 3.7%輸出額A: 4,664億ドル 対日輸出額B: 282億ドル B/A%: 6.0%
Sep 24, 2011
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No.1/6東南アジア仕事旅行(1973年2月~3月)の余談小生達が、東南アジア訪問を計画したのは1972年のことであった。いや、計画をしてくれたのは、小生とともに日米会話学院の同じクラスで学んだ、後述の先輩であった。目的は、同地区に進出している邦人企業を実地に見てくることにあった。視察対象は台湾、香港、マレーシア、シンガポールへの進出企業である。実際の訪問は翌年1973年早春の予定である。台湾と日本は、蒋介石総統の「以徳報怨」という、日本への「歴史的な損害賠償請求権」の放棄などの好意に助けられて、仲の良い国交をしてきたが、こともあろうに、アメリカ大統領ニクソンの中国本土訪問に刺激された、田中角栄内閣が日中国交正常化を樹立したことで、遂に日台国交は断絶の憂き目にあった(1972.9)。小生達の訪問計画から、台湾は消えて、代わりにと言っては失礼だが、韓国に代わった。脳梗塞の頭を呼び起こすために、昔々の、二週間にわたる有意義な仕事(勉強)旅を思い出し、余談や最近の資料を、分冊で記述する。呆け頭の再生トレーニングなのである。そう PLAY BACK ! PLAY BACK ! なのだ。脱線が多いこともお許しを !エピソードがある。小生がこの時に随行した優秀な上司は、帰国後しばらくして、膵臓癌で死亡した。小生は、耳が遠いのか、英語の聞き取り能力に問題があるのか、今回の旅行でも、空港の離着陸時間のアナウンスが良く聞き取れない。上司が、さっき何かアナウンスがあったが、見に行ってくれというので表示板まで行くと、確かに搭乗時間が変更になっていた。もしかしたら、この旅行で、上司には多大の、ご迷惑をお掛けしたのかも知れない。ご冥福を祈るばかりである。ついでに小生について述べておきたい。英語が不得意の前に、まず、小生の頭の悪さをしめす。小生の父は数学に強かったが、小生は、数学の「定理」を憶えきれずに、試験の途中でも、「定理」を自分で証明してから解を求めるので時間がかかる。丸暗記ができない、記憶力がない、「揮発性メモリー」のように、「電源が消えれば終わり」のような頭なのだ。今の脳幹梗塞をカバーできる、128Gバイト級の「不揮発性メモリー」を脳内に予備として持ちたいものである。英語は、「自然言語」であり、「人工言語」(エスペラント)ではない。旨い言い回しを探そうにも、記憶力がないなら、何も表せない。小生は、日米会話学院で、Mr.Walking Dictionary(Bookish Englishの意味もある)と老女先生から「愛称」をもらった人物である。意味は、「発音も、たどたどしい男が和英・英和辞書をたえずもって歩いており、でることばは辞書をつなぎ合わせたようで、英米国人の発想ではなく、日本人の発想であるので、英米国人には話の内容は全く判らない英語である」と、皮肉たっぷりである。決して、辞書のように素晴らしい知識が歩いている、と言う意味ではないようだ。なにせ、田舎もので、大学でも外国人に習ったことがなく、まるで英語の感性が付いていないのだ。田舎ものの小生には、英語は「憧れの言語」であり、「尊敬する言語」ではなく、話す人の人格を尊ぶ「心」や、話の内容を良く「聴く耳」をもたない。英語や、母国語で話したり、聴いたりする能力以前に、誰かが言った「人間失格」である。日本の英語教育の失敗だけではなく、本人の問題でもある。FENも眠くなるまで聞き流すのが楽しいのである。意味が分かると、幻滅するので理解したくない、という不条理な弁解である。もっとも、小生は、会社からの派遣生でありながら、シャロン・ストーンよりも若く美しい米人教師に憧れて、一番前の席で、「唇を眺めてボーッとしていた時期」があった。間もなく、彼女の許嫁が来日して、あわてて連れ戻したようだ。おなじ会社から、小生以外にも2名の企業派遣生がいた。一人は、子供の頃、父親が外国の領事館で仕事をしていたので、英語は母国語に近く、学院の最上クラスにいたが、その後、会社を早期退職してアジア開発銀行で大活躍した同輩かつ友人である。もう一人は、横浜市で国立大学の学生時代から、アルバイトで外人に接し、旺盛な表現・接客能力をもっており、小生と同じクラスにいたが、学院の英語演劇発表会で熱演し、会社でも成功した先輩である。BLOGで使用する、訪問国の最近の基本情報はJETROのDataを加工したものである。それ以外の詳しい情報は下記の知人に問い合わせ願いたい。相談室にいたせいか、直ぐに、有能な専門家に振り分けるクセがついてしまった。「めいてい君の日記」を見た、と社長に言えば親切に指導してくれよう。クロスボーダー・ジャパン(株) 代表取締役社長 大場由幸 氏http://www.sailing-master.com/会社名 : クロスボーダー・ジャパン株式会社 (Crossborder Japan Co., Ltd.) 資本金 : 1000万円 本 社 : 東京都港区東新橋2-10-10 東新橋ビル2 階 ARI Flap Stage 内 渋谷オフィス:東京都渋谷区渋谷3-29-22 投資育成ビル3 階 E メール : cbj@crossborder.com.sg U R L : http://www.crossborder.com.sg/japan カバーエリア:中国、インド、韓国、フィリピン、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ベトナム、タイ、ミャンマー、ブルネイ、バングラデシュ、スリランカ、ラオス、カンボジアいま、企業進出で一番忙しく動いているのが、ベトナムかも知れない。なぜなら、かれのメール発信地を見ると、同国のハノイからが多い。
Sep 22, 2011
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先日、野麦峠を通過して、石積のダムがあって、びっくりしたと書いた。今回の台風被害で、紀伊半島が土砂ダムの決壊の危険があり、厳戒態勢にあるというからである。野麦峠付近には、コンクリート製の上流に張り出したアーチ型のダムがある一方で、普通のため池のように見える石造りのダムが多い。素材が、コンクリートでなく、石垣のように見えたので、「あぶないのでは、すぐ決壊するかもしれない」と、側を通るとき、ゾッとしたものだった。峠から下に下りても、あのため池の水が一斉にどっと下流に押し寄せるのではと、ただ怖いとおもうだけで、上高地の美しさや、大正池、河童橋を見ても、なんだか足元が落ち着かなかったものである。昨日のこと、調べたが、件の、ため池のような形をしているダムは、堰堤が堤の頂点を中心に、富士山のように滑らかな形をしている。じつは、どっしりとして重いのである。ダム湖に貯水した水の圧力は堤と共に、ダム湖底に均等にどっしりとかかるから、堤を破壊する原因にはならない。堤の頂点から真下にかけて、水を通しにくい粘土質の厚いコア部分があって、その両側にはフィルターと呼ばれる硬い岩石、さらに、その両側の外側に、なだらかな斜面を持つ部分があり、石積でできているという。蟻の一穴からこわれる堤防とは違うのである。そういえば、お城などは、外敵の侵入を防ぐため、そとから、城壁の石を簡単には壊せないように、いろいろな形の石を整形して、びっしりと隙間なく、組み上げている。鉄筋コンクリート造りだと安全で、石造りだから危ないというのは小生のような素人の言うことである。鉄筋コンクリートだって、鉄は塩分で腐るし、コンクリートも脆いのもある。良質のコンクリートが無尽蔵ならそれでも良かろうが、なにせ、ダムは巨大であり、防水のための工法には、素材として、無尽蔵とおもわれる土や砂や、岩石なら最適である。要は、素材ではなく、それを適材適所に使う工法が優れていなければならないのである。あの巨大なピラミッドを建設した国であるから、エジプト国民は自然の建造物を造るには立派なDNAをもっているのだろう。つまり、あの巨大な、ヌビア遺跡のアブ・シンベル神殿などを移設してまで造った、エジプトのアスワン・ハイ・ダムはロックフィルダムである。高さ111メートル、全長3,600mの堤は、巨大なロックフィル方式でこそ完成したのである。WEBには次のように追記がある。「アスワン・ハイ・ダムの巨大な貯水池ナセル湖の名はガマール・アブドゥン=ナーセル大統領の功績をたたえてつけられた。アスワン・ハイ・ダムの完成によって、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫を防止するとともに、12基の水力発電装置が210万キロワットの電力を供給。ダムにより出現したナセル湖から供給される水は不足がちの農業用水を安定させ、砂漠の緑化も行われた。その一方で、ナイル川の生態バランスを破壊したなどの批判もあるが、ナセル湖の漁業はとても活発で、豊富な水産物は重要な食料として活用されている。今では、周辺の遺跡とともに、観光地となっている。」ただ、「土砂ダム」と「ロックフィルダム」の区別は、どうしても、素人には判りづらい。「災害で出来た土砂ダム」と断ってもらいたい。政府や、報道機関は、素人にも判りやすい表現を、「危機管理の下で再命名・使用してもらう」ことを望む次第。
Sep 22, 2011
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土砂ダム、河道閉塞、堰止め湖この台風で、紀伊半島の土砂ダムが崩壊寸前で厳戒態勢にある、というニュースが流れる。小生などは、「ダム」などというと、黒部ダム、八ッ場ダムのような人口の超耐久構造物を想像してしまい、なぜ水抜きや流木引き上げを事前にしなかったのだろうか、なぜ浚渫をしなかったのか、何につかっていたのだろうか、などと想像してしまう。それは、構造物の素材よりも、構造物の作成者が判らないからだと思う。天災は自然が作成者で、ビーバーならビーバーが作成者、人工なら人間が作成者である。たとえば、自然が作成者の場合は、「天然または自然、またはいついつに発生した台風災害による山崩れ」などの形容詞があれば判りやすい。女工哀史で覚えている野麦峠を岐阜県から長野県へ観光バスで通過した後だったか、石で高く積み上げた巨大な人工の堤を見たような気がして、あれが壊れたら下流の市町村は大変だ、と思ったものだ。報道の「土砂ダム」は辞書で照合しても間違っていないが、小生のように、英語に疎いやからには、混乱だけをもたらす。政府や自治体の治水対策も「土砂ダム」や「堰き止め湖」では、なんだか劣後に置かれそうである。いずれにしても、この台風の被害地には、高いところへ非難する緊急用意と、お見舞いを申し上げたい。
Sep 21, 2011
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函館山にロープウエイで昇ると、長崎、神戸に加えて、もう一つの1,000万弗の日本三大夜景がみられる。他に比べて、美しいのは、海に浮かぶ星空のような街が、なだらかな山の直前に、鯨の尻尾か、三味線の撥のように綺麗に展開していることである。小生には、お天気が良かったせいかもしれないが、日本で一番の素晴らしい夜景と思う。昼間なら、右手に立待岬、津軽海峡、左手に外人墓地、前方の近くに、ハリストス正教会、旧函館区公会堂、遠くを展望すると、ウオーターフロント、函館駅、縦横に走る市電、石川啄木一族の墓、土方歳三達が戦った星形の五稜郭公園、トラピスチヌ修道院、などが展望できる。また、神戸、長崎も魚は美味しいが、函館は、対岸の青森との間の津軽海峡激流で揉まれた新鮮な魚がぷりぷりとして旨い。巨大で、超高級な大間の鮪でなくとも、充分に美味しいのである。イカなどは透き通っていて、見た目も美味しく感じる。優秀な同期生が単身赴任で旭川支店長をしていて、後述3社のうち1社の工場竣工式に際して泊めて貰ったのもこの時期だ。旬のホッキ貝などを買ってきて、自分で料理してくれたが、酒もつまみも、彼の好意とともに、美味しくご馳走になった。芝桜が群生している景色を見に行ったが、これも絨毯のように綺麗だった。札幌雪祭りの頃にも、ずうずうしく札幌を訪れたが、言うまでもなく、雪像や雪の建築物はおとぎの国の物語だった。熊ちゃんラーメンや、さっぽろジンギスカン、二条市場、時計台なども思い出である。釧路の幣舞橋付近では、バーに入ったらお客は一人もいないのに、おもてなしの方は8人くらいいて、酔って集られた苦い経験もある。小生は、なぜか北海道が好きである。裕次郎の唄のように、「時計台の下で会って」、「なぜか私にやさしくする」の札幌である。坂本龍馬も自由を求めて憧れた土地である。随分とこの地を東西南北に、一人でも旅行したものだった。別の機会があれば、その辺を話したいとおもう。さて、自分の仕事関係では、本社が東京にあり、北海道に工場を持つ企業を4社担当して、うち3社は小生が工場新設に際して、幸い現地で立ち会うことができた。企業秘密ではないので記載する。工場新設の3社はともにニット繊維産業である。当時は、韓国企業などからニット製品を輸入するアパレル(企画商社)が増えていたが、優良な墨田区のニット生地・製品製造業(東京ニットファッション工業組合。以下TNFという。デザイナー、アパレルの機能や生地メーカー、すべての機能を持つ総合メーカーの組合)が、まだ労働力がわずかに残っている北海道に、最新式機械を持って進出したのである。単に仕入れて販売するだけの商社でなく、企画・デザイン力に優れ、独自の製造技術を内や外に抱える優秀な製造能力のある企業群であった。面白いのは、ファッションの先端を行く、イタリアのミラノなどと北海道はおなじ緯度にあると、かの社長達は言っていたことだ。ファッションの発信基地を北海道に、と言うわけである。確かに、留萌市とミラノはほぼ同じ緯度にある。しかし、ミラノは緯度で見るとほぼ同じだとしても、片や地中海気候にあるので、感じる寒さが違うのではないかと、心配したものだ。すでに20年が過ぎているから、工場進出がどのような結果になったかは小生としては、トレース出来ていない。彼たちの北海道工場は、外見上は立派な外観を持った建物であった。もし、縫製工場が成り立たなくなっても、なんらかの用途に転用できるくらい、素晴らしい建物であった。立地も、当地としては良い立地にあった。従業員の厚生のためでもあり、会社が成り立たなくなっても、対応できるような措置を予め準備していたのだ。最近のWEBでトレースしてみよう。そのうち1企業だけが、ホームページを持っているのが判った。元理事長には大変お世話になったTNFの有力メンバーである。それによると、当時のメイン東北工場はそのままあるが、北海道の工場(立地条件はよかった)は「事務所」となっている。代わりに中国に大きな協力工場を持っている。やはり、他の企業と同じく、労働力の豊富な、また、将来の需要の高まりを期待して、中国に協力工場を確保するべく、あまりに寒い工場を閉めて、大陸に乗り出したのだろう。国内工場では、高品質素材の使用、高度工業技術による製法、クリエイティブで高い芸術性をかもしだす高級品を創り、急なデザイン変更や小口・突発受注にも対応できる、安定した生産体制がある。中国協力工場では、遠隔地でも意思疎通が問題ないような報・連・相NETWORKが敷かれて、生産工程、品質管理すべてに目が届いている。製品はスポーツ&カジュアル・ニットウエアーで、当時と同じく、その方面の優良取引先をたくさん抱えている。社長は息子さんに代替わりして元気にやっており、こちらが年賀状を出すものだから、挨拶だけは型どおりにしてくれる。お互いに迷惑だろうと思うが、なかなか当方から止めることが出来ない。会社のProfileに、金融機関の欄で、真っ先に小生の務めたところを掲載してくれているのが有り難い。もう一つの企業については、TNFのメンバーであり、営業品目も以前と同じである。HPは持っていないので、Mapion電話帳情報で北海道工場を見ると、そのまま操業している。この企業は、北海道でも最南端に工場があるが、他の2社は旭川市よりはるか北に工場があった。あとの1企業はMapion電話帳で東京の本社住所は見られるが、TNFのメンバーでもなくなっており、北海道にはそのような工場名が存在しない。知り合いがいるので、その辺の事情を聞けば判るが、特別必要がないので止めておく。たったこのことでも、北海道に20年ほど前に、ニット製品製造業者3社が工場進出して、1社が残り、1社は閉鎖・中国に転出、1社は全く失敗した事実がわかる。これは、サンプルが極めて少ない小生だけの情報で「統計学上の有意性はない」が、すこしだけ、日本繊維産業の現状を顕している。WEBの我が国繊維産業の現状と課題(辻村、溝下両氏)から引用・加筆補足する。・・・・・工業統計による繊維製品製造業のうち縫製業・・・・・1994年→2001年事業所数 34.2千所→20.7千所(-39.5%)従業員数(A) 633.9千人→244.5千人(-61.4%)付加価値(B) 2,5380億円→1,4280億円(-43.7%)A/B 400万円→ 584万円(+46%)貿易統計でも、日本は、素材や生地という原料や中間財を生産基地の中国などに輸出して、縫製した完成品を輸入する方式を採っていることが判る。つまらない事例であるが、呆けの記憶から述べてみた。長くなるが、アジアへの企業進出のノウハウ・最新情報は、クロスボーダー・ジャパン(株)の大場由幸社長が詳しい。若い頃、鈴木杏樹によく似て悩んでおり、英検1級であった優等生・美男である。ホームページは下記。http://www.sailing-master.com/
Sep 21, 2011
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企業は、資金繰りを組むのに際して、1.収益が高い内、つまり入ってくるお金が多い内に沢山返済したいグループと、2.収益は余り変動しないので、元金と金利を合わせて、均等に支払いたいグループに分かれる。1. の場合のグループで、元金だけ均等に返済するのが、元金均等である。元金を均等にするのだから、元金を期間で割りさえすれば良く、簡単である。しかし、借入金は次々と発生するから、数本の借入金があると、急速に月々の返済額が膨らむ期間がでてくる。一番良いのが、一旦借入金を返済して、一本に纏める方式であるが、これには資金力がいる。または、金融機関が、新規借り入れ・既往返済を、同時に、相殺するようなシステムを持っているなら問題ない。小生は、すこしだけ算数ができたので、数本の借入金の返済が合計で均等になるように、返済期間をあまり変えずに、複雑な条件変更を受け入れたものである。しかし、金利が低金利に動くと、借り換えを行いたい企業がでてくる。期限前全額償還にはペナルティがつくことになるが、それを勘案しても全額返済した方が有利となる場合は、企業はあえて返済してくる。しかし、小生が、数本の借入金について、全体としての返済額を、あえて均等にした企業は、なにもしなかった。折角、均等にしてあるものを、また、組み直すのは面倒であると。小生としては、期限前の全額返還のペナルティよりも、既往金利と新規金利差が大きい場合では、誠に申し訳なく思う。余計なことをして混乱させてしまったようだ。このように、金利は企業にとって、おおきな費用項目である。また、企業だけでなく、金利は個人にとっても重大である。特に、年金生活者にとっては、預金金利の低水準据え置きや、運用利回りの低下による年金支払額の一方的切り下げ、住宅借り入れ金利の下げ止まりなどが重大な関心事である。内部留保が蓄積された優良企業は、借入金を返済し、金利負担は小さい。赤字企業は、銀行から見てリスク債権であるからリスク分だけ金利負担が大きい。金利の不平等は、政府系金融機関に是正を促すのだろうが、政府支援で倒産を免れた銀行には、もう少し社会的協力が欲しい。預金金利は、仕入れ側にある銀行に有利となるのは金利低下であり、売り側にある預金者が有利となる金利引き上げは期待できない。政府日銀は、うち続く不況脱出のために、金融緩和政策を続行するので、金利はゼロ金利に近づいたままである。お金はじゃぶじゃぶと流れる。かつては倒産し掛かった銀行は、この低金利政策の中で、安定して利鞘を稼げる。銀行の内部留保は随分と回復したはずである。繰り返すが、年金生活者からみて預金金利はゼロに近く、また、年金受取額も削られていく。少なくとも、年金生活者のわずかの所得から、銀行へ、所得の移転が一方的に進んでいる。年金生活者は、すこしでも利回りがよい、外国銀行への預金や、為替相場に投資するのは危険が伴い、アングラ牧場などの投資も危ない、元も子もなくなる、危険が一杯なのである。この際は、東北大震災の復興に日本経済の全力を使うのだから、多少だぶつくほどに通貨を発行し、ゼロ金利でカンフル注射を打つのはいた仕方がない。しかし、ある程度の目処がついたら、年金生活者の生活も考えて貰いたい。このごろ、日本人の外国旅行者は老人が主流となっているようだ。昔の、一世を風靡した農協さんや、若者は少なくなっているそうだ。せめて、円高のメリットを享受したい年寄りばかりが、外貨を買って、外国で放出している。それも、チビリチビリとしか金を使わない人たちではないか。あまりチビリチビリと出し渋る旅行客は外国でも歓迎されないのではなかろうか。そのうちに、チビリチビリと金を使う日本の老人達が、人件費や物価が安い外国に逃げ出さないとも限らない。年寄りにもっと優しい年金支給を行うことを望む。年金は彼等受給者が若かりし頃、将来の安定した生活を求めて、命がけで働き、貯めたお金である。世界に冠する、日本人の勤労意欲、高い貯蓄性向の表れである。日本の名誉のためにも、ゼロ金利はこの緊急時だけにして貰いたい。
Sep 19, 2011
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大阪で審査にいた頃の話だから、四半世紀以上も前の話に戻る。社員積立をして毎年、社員(審査部だから部員)旅行に行く計画だった。何かの都合で、数年行かなかったものだから、積立金が貯まってしまった。この間に発生したオイルショックでは、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸の産油6ヶ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げた。石油は、化学素材であり、燃料でもあり、ビニール被覆電線など石油関連素材を使用する製品が値上がりするのは当たり前だが、便乗して、紙など日用品までが不足してトイレット・ペーパーや洗剤まで値上がりした。いままで下積みや、下請けのような生活をしていた、企業の方も極端に儲かったものである。会社も儲かりすぎて、日頃使い慣れない金を持ったものだから、税金を支払うよりも、家内従業員達へ還元する道を選び、日頃の感謝と称して、社員全員でのハワイ旅行を組んだ企業が多くでたのもこのころだ。品不足と言っても、本当にすべての品物が無いのではなく、噂(風聞)による買いだめで市場から一時的に商品が消えたことが主因なのだが。この時期を「狂乱物価」とも言う。従って、国民はおしなべて品不足のために困窮したのではない。たしかに、今のように東北大震災で電力の供給が細っているのに似て、火力発電能力が原油供給の縮小から制約されたので、実質国内生産は落ち込んでいた。電力消費と、実質国民所得とは相関関係(Relation)が強いのである。ともかく、企業が儲かり、賃金が名目も、実質もあがって、国民みんなが結構楽しんだSpanだった。その後の、反動で来る不況を見通した企業があまりいなかったので、一時的にせよ、分配率が好転し、労働者にも幸せがきた。当時の物価上昇率を振り返ってみる。昭和48年(1973年)から11.7%、23.2%、11.7%、9.4%、8.1%(以上5年の平均で12.7%、単純に足しあげると64.1%)である。前年には4.9%であり、昭和53年(1978年)から平成14年(2002年)が1.7%と低迷しているのだから、いかに物価上昇が凄かったかが判る。第一次オイルショックからの、みんなが幸福であった期間には、物価上昇とともに、雇用の増進があり、一人当たり分配国民所得(われわれには賃金としてみてよい)は大幅に増えたのである。もっとも、その景気は一時的な品不足(高い需要に追いつけない供給不足)が主原因なので、品物が充足される(供給力の追随)までの短命サイクルであり、長くは続かなかった。金利面では、ハイパーインフレーションが懸念されるため、政府は高く維持する必要があり、また、外国から見て、日本が公定歩合を引き下げると輸出奨励策とみなされ、外国経済を圧迫することになるので、公定歩合を下げることには外国から牽制があり、高止まった。当時は、高止まりの金利が続き、儲かった企業の過剰流動性から内部留保のある優良企業を中心に銀行離れが進んだように思う。もちろん、銀行は危ない企業には融資を避けるので、構造的不況業種は慢性的な資金不足で苦しみ、政府系の金融機関がその隙間を埋める必要があった。オイルショックから20年弱の期間に、金利は3回の山を経験したのち、不況と共に低下傾向に転じて、銀行金利は逆鞘となり、銀行の経営は益々悪化を辿ることになる。話を元に戻す。小生達への効果とすれば、民間賃金が上昇すれば、人事院勧告で政府公務員などの賃金は比例して上昇することになっているから、このオイルショックが所得倍増計画以上の効果をもたらしてくれたと言っても良い。給料が超倍増になっても、価格はすべてが倍増にならなかったので、社会的な厚生函数はおおいに高くシフトしたものだった。新婚ほやほやの小生の家庭は、トイレット・ペーパーを製紙業の産地・高知からカートン単位で送ってもらう不便はあったが、給料面では喜んだものだ。話が、大分逸れたが、審査部の先人および現員達の貯めた積立金を一挙に使ってしまおう(繰越金ゼロ計画)、となったことは話した。幹事はたまたま小生達である。畏れを知らない。花金の金曜日に仕事が終わったあとで、神戸・摩耶ケーブル下まで電車とタクシーで行って、ロープウェイで六甲山に昇り、1、000万弗の夜景を楽しみながら、バーベキュー・パーティをする総員30名の大名計画が纏まった。お天気も良く、夏でも涼しい六甲の天空で、夜の絶景を堪能しながら、神戸牛で舌鼓を打ち、冷たい生ビールをがぶ飲みしたものだった。翌年の幹事には、すっからかんになった積立金で苦情を言われたが、使ったもの勝ちなのである。「覆水盆に返らず」、である。ハワイ旅行こそ無かったが、自分たちの積立金で「豪遊」したのはこの時だけであった。
Sep 19, 2011
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小惑星衝突の危機「はやぶさ」が行方不明になった後に発見され、無事帰還してくれた。いま、小惑星「アポフィス」などについてNHK/BSプレミアム「コズミック・フロント」で放送されている。WEBの情報は下記である。「2029年4月13日には、アポフィスは地表からおよそ32,500km離れたところを通過すると予測されている。これは静止軌道 (35,786 km) とほぼ同じ距離である。これによって視等級は3.3となり、ヨーロッパ、アフリカ、西アジアにおいては肉眼でも容易に観測できるようになる。それ以降、2036年から2103年の間にわずかながら衝突の可能性がある接近が6回ほど起きると推定されている(2010年現在)が、2029年以後の軌道に関する正確な予測は困難である。そのため、小惑星が地球に接近した機会を狙って発信機を取り付け、軌道を詳細に追跡すべきだと主張する天文学者もいる。NASAの評価によると、仮にこの小惑星が衝突した場合のエネルギーは、TNT換算510メガトン相当とされている。実際にどのような影響が出るかは、小惑星の構成物質、衝突する地点や角度により異なるが、いずれにせよ数千km2にわたり大きな被害が生じると考えられる。しかし、氷河期や大量絶滅を引き起こすなどの長期間にわたる地球規模の影響が出るとは考えられない。」アメリカでは「ディープインパクター」という破壊兵器、太陽光線をエネルギーにして軌道を変える装置など、いろいろと考えているようだ。日本のJAXAは素晴らしい技術と、はやぶさに見るような敢闘精神でカバーされている。小惑星「いとかわ」に着陸し、小惑星の破片・微粒子を持ち帰ってくれたが、次は、ほかにも接近する小惑星に飛び移り、押すなり、引くなりしてその方向をコントロールし、場合によっては「ハルマゲドン」の映画のように破壊して、地球を救うことを、使命として頑張って欲しい。地球の救世主となるべく、二度、三度と飛び立って使命達成に臨んで貰いたいのだ。今後は、予算の切り捨てや、「事業仕分け」では切り捨てられないように、「地球人類・維持基準」を別途に設けて、国際連合的基準で研究をすすめてもらいたい。NHKの日曜日特別番組を前に思う次第である。「はやぶさ」 が地球を守る神様に見えてくるこの頃である。
Sep 18, 2011
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Cupid and/or Pierrot山の手線の電車に乗っている。椅子席は満員であるが立ち席はまばらである。美しく背が高い、髪はStraightで長く、皮膚が透明の女性が立っている。皮膚が透明なのは、日焼けをしない体質もあるが、やや病気がちでもあるようだ。「深窓のお嬢さん」とは、彼女に似合う言葉である。そのそばに、ややみすぼらしい学生のような小生が立っている。女性と小生の関係は、子と親のような言葉の契約関係がありそうである。彼女は、東京に住んでいるのに、街のことはあまり知らない。東京タワーにも昇ったことがなかった。田舎ものの小生の方が観光地・東京は知っている。「これから君に紹介したい人がいるから、次の駅で降りよう」と言った。背の高い女性は、ハイヒールを履かない。小生に気兼ねしているかのようである。緑の濃い森から夏の涼しい風が吹き抜けていくのを感じながら、大きな門のある家の前に立つ。呼び鈴を押すと、いつもにこやかな、上品なお母さんがでてきた。この家には、泊めていただいたことがあるくらい世話になっている。「ご紹介したい人をつれてきましたが、先輩はいらっしゃいますか?」というと、先輩が出てきて、「君たちか。上がりなさい。」という風になった。もちろん、先輩は小生達を知っている。なぜなら、先輩は、会社の硬式テニス部のマネジャーであり、小生達は部員である。このことがあって間もなく、上品な奥さんから、「息子に、よい嫁を紹介いただきまして。」と心から嬉しそうに、挨拶された。今日は、先輩と彼女が、チャペルで大結婚式の日である。さて、司会は、先輩と大学同輩、あのハワイアンバンドのウクレレ・ボーカリストであった。言うのを忘れたが、彼女もレイがよく似合うウクレレ奏者であった。先輩の父親が社長をしている関係で、司会者は次々と、お偉方を紹介していく。ボーカリストである以上に、饒舌な司会と、素晴らしいSpeechが続いた。何の打ち合わせもなく、司会者は、それでは、本日の「Cupid」を紹介しましょうという。実は、司会者の奥さんは、本日の花嫁と友達であり、司会者はその辺を聞かされていたのだろう。先輩のお母さんは、にっこりと、こちらを見ている。「やばい。」とあがってしまった。折角の雰囲気を壊さないように、先輩の人柄、彼女の人柄など、思いつくままに並べたが、何をしゃべったのか憶えていない。とにかく、言えるだけ、知っているだけ、最上の文句を並べてみたようだ。よく映画で、結婚式に恋人を奪っていく役柄の俳優をみるが、小生のような、どぎまぎした「キューピッド」の役柄は見たことがない。まるで、Pierrot そのもののようだった。先輩と彼女は幸せに暮らしているようだが、それ以降は彼女にはお目に掛かっていない。先輩がいうには、「Cupidは君ではなく、その前からつきあっていたのだ。」とのこと。後先はどうでもいいが、お母さんには大変感謝されており、兎にも角にも、いつまでも、お幸せにと思う。実は、彼女のお姉さんが会社の近くにいて、一度だけ、お会いしたことがある。小生達の行動が理解できないようだった。大切に思っている人を他人に紹介したり、しあったりすることは可笑しいと。たしかに、不条理だがそれが人生なのだ。彼女を自分が幸せに出来ないなら、幸せに出来る人がそうするしかないのだから。弁解じみるが、映画にあるような、俺についてこい、などといえる格好良い人間ではない。件の司会者の先輩であるが、その後、小生が出張で九州「延岡市」に行ったついでに、彼の赴任地「長崎市」まで、はるばると高千穂峡谷を抜け、バスの乗り継ぎで尋ねたものだ。夜は、バーで一緒に飲み明かした。その夜は雨だったかも知れない。雨でなければ、稲佐山から見下ろす夜景(函館、神戸、長崎が1,000万弗の日本三大夜景である)が素晴らしいのだが。諸兄には、ご注意願いたいことが一つある(読者がいればのことだが)。長崎は、豪雨で被害甚大だったので、小生のように、バーで「長崎は今日も雨だった」と唄うのは、今も昔も、賢明とはいえないそうだ(ママの話)。むしろ、歌唱力があれば、藤山一郎の「長崎の鐘」の方が、「こよなく晴れた青空に・・」で無難であろう。10数年経過して、司会者はなぜかアルコールが原因で亡くなったという。ご冥福を祈る次第である。
Sep 18, 2011
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神鍋高原スキー場は、スキー・シーズンにはその斜面全体が花形で、オフ・シーズンには平坦な部分が花形となる。つまり、スキーからテニスにすり変わる。当時大阪ではソフトテニスが主流だったが、小生達が、大阪に赴任して、本店の硬式テニス部が大勢集まったのを良いことに、硬式テニス部をつくった。その手始めに、新人達を中心に、合宿をすることにした。それが、神鍋合宿である。初めての関西圏の合宿に東京から美人が一人、応援に駆けつけてくれた。阪神甲子園の自宅を尋ねてくれたビューティ・ペアの一人である。そういえば彼女は1年後輩で、新人の歓迎会で小生のたまたま隣の席に座り、侯爵の子女かと思うくらいに眩しい存在であった人だ。星空が素晴らしく煌めいた夜であった。それほどに、満天の星がまるでPLANETARIUMのように、手に取れるような大きさで赫き溢れていた。みんながキャンプファイアーで盛り上がり、下手な小生もGUITARでROMANCEをつま弾いたものである。決して「禁じられた遊び」をした訳ではない。新婚の小生には、そのようなことが出来るわけはない。新婚でなくとも出来ないくせに、というべきか。なにも小生には起こらなかった。仲間達大勢と、友人の車数台に分乗し、途中の温泉で湯浴みをしながら大阪まで帰った。東京から参加してくれた、彼女もテニスを楽しんだようで、新神戸駅から笑顔で帰京した。合宿は、定まった民宿を連続して利用したことで、宿の家族とは親しくなり、小生が電話すると毎年の予約には不安がなかった。最初に行ったときの赤ちゃんが、小生が大阪を離れる頃には随分大きくなっていた。若気の至りであるが、新人を「振り回し」と称して、可愛がったものである。その新人達が、すぐに小生達を追い抜いた。その中の一人からの最近の短信によると、「定年退職して安曇野に隠居し、全日本クラスの県内ランクでNo.4になった。」というから、いまでは、可愛がられるのがオチになった。ついでだが、彼の奥さんは、当時の合宿に参加していた(小生と同郷とのこと)人だから、テニス・コートの愛である。神鍋合宿では、小生には何も起こらなかったが、いろいろ起きていたのだった。東京でも、一緒にテニスをしていた先輩や後輩数人が、テニス部の美人数人を捕まえているので、テニスを通じた交際は本当にうまく成功しているようだ。小生だけが、幸か不幸か知らないが、例外であったのだ。小生が、大阪を離れてからは、神鍋高原は「斜面」と「平面」の多角的利用・開発が進んで、混雑し、簡単には合宿に利用できなくなったと聞いている。件の侯爵の子女と見間違うような美しい彼女は、年賀状を見返しても、いまだに意志が強いのか名前が変わっていない。美女ほど、近づきがたいのか、小生の知っている未だに独身は美女が多い。遠い昔の懐かしい話と「不思議」である。
Sep 17, 2011
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学生時代の唄「蔦のからまる チャペルで 祈りを捧げた日」にあるような、「蔦」の絡まった阪神球場は、小生が新婚時代に過ごした街にあった。会社が借り上げてくれたマンションに「強い浦風」が吹き、阪神タイガーズの応援歌が聞こえてくると、夜空にSTADIUMの木洩れ灯が映えてくる。夜8時を過ぎると、近隣サービスとして、空いている観客席が解放されるのが楽しみで、赤ん坊を抱いて、岡田、掛布、バース、川藤などのいる球場をタダで訪れたものだ。阪神パークの白いライガー君にも会いに行った。プールにも行ったようだ。会社の仲間と阪神球場の側にある阪神テニスクラブの会員になり、素晴らしいコートで楽しんだ。クラブを運営する上品なおばさんが、小生達の会員の一人が非常に上品にみえる人物であり、また、テニスもスマートな対戦をすることで、たいへん丁寧に接する半面で、小生には素っ気なかったのも、当然のことのようにおもいだされる。かのスマートな人物は九大出の選手で、ネットすれすれの剛球しか打たない。小生のような、ロブ中心の球は、「田舎もの」の球という。そのネットすれすれの球を直接に唇で受けたことがある。歯は折れなかったが、しばらくは白く痺れて感覚がなかった。とにかく、速い球と勝負に、潔癖さがかいまみえる紳士であった。すぐそばの、阪神今津駅には安くておいしい鍋物がありよく行ったものだ。阪神梅田駅ちかくでは、一杯立ち飲み屋で、タダのキャベツを囓りながら、友人の、山の手を走る阪急電車と、こちらの海側を走る阪神電車の時間待ちで、あわただしく酒やビールを呑んだものだ。一つのエピソードがある。大阪に赴任と同時に結婚した。東京には、大変な美人たちがそば(空間的)にいたものの、だれからも個人的に相手にされず、当然のように一人で大阪に来た。来る直前に、郷里に帰り、お見合いをした。小生から見てだが、叔母が岸恵子に似た美人であり、叔母に頼んでいた人であった。何回か断られたが、親父の人物を見て信用したらしく、遂に承諾を貰った。小生は、そのとき、「いつでも外国に行けるから」と言ったのが、家内の外国旅行好きに繋がっている。いまでも不思議と思うが、東京からわざわざ、二人の美人が新婚家庭に「様子見に」訪れた。そういえば、東京での「お付き合い」はいつも複数のお付き合いであった。複数のお付き合いが失敗であったのかと、あとで思ったものだ。いや、一人でもダメだったのが正解だ。友人達が家内に向かって良く言うのは、「奥さん、よく、彼と一緒にいられますね!」である。小生は、審査の仕事が好きで、新婚でも夜9時前に会社を出たことが、あまりなかった。いまのように残業代の切り捨てのなかった時期なので、妻も文句は言わなかった。また、友人数人に、新婚時代に「おまえは、このあいだミニスカートの似合う女性と京都に行っただろう。けしからん。新婚なのに。」と言われた。確かに、家内と「四条河原町行き」阪急電車に乗っていたので、それを見られたのか。彼女は10歳くらい若く、小生は「禿げ」(友人に面と向かって言われると腹が立つが、自分から言うのは気楽である)であり、並んで座ると夫婦とは思えない「ぎこちさ」でそう思われても仕方ない。以上は、阪神大震災より遙か前の、ゆっくりと時間が過ぎる時代であった。
Sep 16, 2011
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新聞によると、東北大震災の復興のためには、「土除染1億立方メートル」、東京ドームの80杯分とけたたましい大きさのボリュームの処理が最優先課題である。これだけの量を引き取る場所もなければ、引き取る先もいない。けれどもこの嵩をうまく復興の資源に活用できないか。津波の防波堤は、今回の津波で判るように、万里の長城のような巨大なものを建設しても「ハード」だけでは防ぎ切れはしない。なぜなら、山を見ても理解できるようにヒマラヤ山脈は大陸同士がぶつかり合い、押し上げたため、あのように高く聳えているのだから、自然の力は「想定」「想定外」のような弁解では済まないのだ。「ハード」面だけは、ある程度の津波に対して、防御態勢をつくり、それが防いでいる間に、より高いところへ「ソフト」面を駆使してうまく逃げるしかあるまい。(これは、有名賢人のアイデアを借りたものである)「ハード」だけを考えたらマチュピチュのようなところに住まないといけなくなるが、広大な平地面積はそのような所にはないので、あまり現実的な考えではない。エジプトを脱出して、ユウラシア大陸を経て、当時繋がっていた、アメリカ大陸の北へ、さらにメキシコを経て、ペルーへと人類は大移動したようなのだが、高い高地にも人でいっぱいである。 東北大震災の被害地は漁業基地であり、低地は肥沃で作物が実り、人類の暮らしには欠かせない所である。低地を食物確保や生産手段の場所に使用して、中高地に住居を建設していくしかあるまい。 折角の巨大な資源があるのだから、「ごみ」として扱うよりも、「地産地消」で有効利用したい。産総研ではこの土を「流出しないような、堅牢な土木材料」に加工する方法を検索・開発できないか。例えば、ガラスや鉛などとの新合金のようなものだが。設備は釜石あたりに製鉄所があったように思うが活用できないか。表面に使用できずとも、それを防波堤の嵩に使用して嵩上げする工夫はだめなのか。産総研の蓄積された技術や、海外の新技術を利用すれば、段階的にでもできると思う。日本賢人者会議に良い考えを求めたい。
Sep 15, 2011
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企業が倒産したとする。その企業は、倒産前に意図的に「寄付」を名目にして多額の金を、資本関係はないが、なんらかの関連する事業会社に「そっと」渡したとする。企業が破産すれば、債権者は、倒産会社に事業の本来の目的を逸脱した行為として、倒産会社の役員を会社の経営を疎んじた罪や損害賠償罪で訴え、関連企業にその寄付を返還するように、管財人に請求できるのであろうか。管財人が、当該寄付行為の有効性を認めたら、事業上の必要性として仕方がないことになる半面で、「寄付」という「公共性」、「道徳性」は失われて、寄付行為ではなく、正当な事業行為の遂行のための支出となり、税法上の重加算税が適用されるだろう。また、件の関連会社が、倒産企業にたいして、何らかの請求権(事業行為侵害賠償など)を有しているとしよう。管財人から見て、関連会社の請求権は、少なくとも、「寄付行為」で利益を得た分は「相殺」されるはずである。企業に連帯保証人がいる場合は、管財人は連帯保証人にも協力を求めるだろう。小生は税法も熟知していない素人なのだが、そのように思う。上記の話は仮の話であるが、似たようなことが東北大震災で起こっている。「企業」は、倒産はしていないが「電力」、「関連企業」は直接に資本関係はないが「新聞に出ている自治体など」、「連帯保証人」は「国」、等々に当てはめてみると推定できる。これからも、このような記事が、背筋がぞくぞくするように、ぞくぞくと出ると思うが、管財人ならぬ国民の目が行方を求めて彷徨っていることを、記事を書いた本人は忘れないで貰いたい。東北大震災は、津波、原発とともに、巨額の損失を日本経済に与えたが、復興はどのようにしてでも越えなければならない。はやく日本賢人者会議を開いて、みんなが判るような方法を運営して欲しい。国会がカーテンを開いているからと言って、判りやすいのではない。つまらないパフォーマンス丸出しの批判合戦は見たくない。むしろ、「非公開」でも良いから、集まっても良し、TV電話(外国滞在の賢人)でも良し、賢人達が心を開いて日本のために良い案を選択して貰いたいものである。呆け頭には良くない日本の現状を、賢人達がその重い腰を上げて救って欲しいのだ。
Sep 15, 2011
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小生には、「若かりし頃」の思い出の場所といえば、大阪北の新地のバーで名前をたしか、「大伴」という、ママが音大出とかで、大きなPIANOの置いてある所である。小生は、ギターを少し引けるが、歌は上手くない。音符や記号は認識できるが、その指示のようにつま弾いても、綺麗にも、感動を与えるようにも聞こえない。しかし、自分よりもさらに運針がまずい人がつま弾いても、とても綺麗に、感動的に聞こえる。自分が多少とも巧く聞こえるのは、むかし、ハワイアン・スチールを弾いたときであり、伴奏が素晴らしく、旋律の編曲(シンコペーション、ビブラートなど)に助けられたときだけだ。本当に、なんと言おうと自分には「音痴」、なのである。中学時代、音楽担当の先生は、高く評価してくれたが、それは母の七光りである。あまり大きな声を出したことがないので、人前で歌うのは憚られるような気がする。会社は、堂島の新大ビルにあったので、会社の近くで宴会があった後は、繊維問屋街を抜けて、その「大伴」に少人数で良く通った。高級バーであるが、昔の「歌声喫茶」のような雰囲気がその店にはあった。みんなが酔っぱらってママの演奏をバックに歌を楽しく歌う。充分に歌を堪能した時分に、宴会の親分格が全員に唄って貰おうと言うことを宣言し、一人ずつ、数珠繋ぎのように唄っていく。「出番」がとうとうやって来た。小生は、「音感」がいいのか、自分の歌が「音程」を美妙に逸脱しているのが判るし、また、聞いても面白くない、のも知っている。嫌がっていると、ママが一緒に唄おうと言って、助け船を出してくれたものだった。それが、「若かりし頃」の文句が挿入された唄である。本当の題名:タイトルは、みんなが知っている「学生時代」であった。会社のテニスの仲間では、昔、No.1を争った先輩が二人いる。格好の良い、尊敬する慶大OB、かたや自ら「獅子のごとく戦う」という松山商大OBで、昔は、一世を風靡したものだが、アキレス腱の破断事故で、勝負はつかなかった。慶大OBは小生と同じく歌わなく静かに呑むタイプ、松山商大OBは民謡でも何でも来いの、獅子の如く歌い、みんなに感動を与えるタイプである。どちらの先輩も、男ながら当時は「おぼこい?」小生を可愛がってくれた。いまでは、カラオケは当たり前であるので、みんなは唄がうまい。小生は、笑われるかも知れないが、歌の上手い家内の特訓を安曇野(朝ドラの舞台)の貸別荘で受けてから、いまでは少しのレパートリーがある。そのレパートリーを明かすわけにはいかない。なぜならば、少ししかないので、他人がそれを唄うとその晩はそれが唄えなくなるのである。レパートリーが侵害されないことを祈って、酒を飲んでいる自分がいたのである。(今は、禁酒禁煙なのだが)カラオケをその晩に唄うのには、曲に特異な「特許」に似た性格があるように思う。まえに誰かが唄うと、その唄をあえて唄うのは仁義に反する。仁義よりも、反感を買うこととなる。特に、より巧く唄うのは失礼に当たる。不思議なことに、カラオケは巧く歌うことよりも、下手の方が「観客」には受ける。唄はもともと、自分の感情をにじみ出すように相手に訴える力をもっている。訴える力を感じなければ、感動しない。あの美空ひばりの歌声を聞くと、虹のように小節の間でも声質が変化する。感情の移入が滑らかだが、予想とは異なって新鮮に、何度その場所をリフレインして聞いても、普遍的に、たえず美しく聞こえる。素人なら感情を出すと、汚い歌い方になりそうだが、彼女だと、つねに何かしら美しいのだ。米軍キャンプの訪問などしながら、言葉の分からない人々にも感動をあたえることのできる歌い方を、また、美しく歌う歌い方をたえず研究していたに違いない。こちらが酔っぱらっていると、なにも感情を持たない歌唱力は巧いとは聞こえない。がなっているほうが、まだましになる。いや、結局は酔っぱらっているので、だれも聞いてはいないのだが。聞いているようでも、聞いていないので、勝手に自分流に唄って良いのである。マイクを離さないのは困るが、適当に流していけば問題は起きない。「俺は唄わない」と、言うほうが場は白む。だまって、どうぞどうぞ、というほうが無難だ。このようなわけで、下手な小生も、いまではタイミングを計って唄に参加している。タイトル「学生時代」は小生の「若かりし頃」の思い出である。
Sep 15, 2011
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母は、音楽の教師をしていた。中学時代の音楽の先生は、母のことをよく知っていたらしく、小生の声が美声でないにもかかわらず、良い点を付けてくれた。また、高校時代に、母の知人に全国クラシック・ギター・コンクールで優勝した人がいて尋ねてくれたこともあった。そのころ、RADIO放送ではスチール・ギターの音が心地よく流れていた。バッキー白片などのハワイアン全盛期である。小生は、音響版のない、小型の電気ギター(レスポール・ギターという)を親父に買って貰い、横に置いて、「短く重い丸い棒」を動かして、スチール・ギターのまねごとをしていた。和音も正確でなく、雑音が沢山はいるが、音痴の小生には、異国の香りを自分なりに感じたものだ。高校の学芸会に余興で出るほどの、強心臓であったのは自分でも驚く。なぜか、小生にはみんながやさしく接してくれた時代である。大学に入っても、軽音楽が好きな男ばかり友人数人と、よせばいいのにバンドを組んだ。資金は「バイト」でそれぞれが工面した。件のギター先生の「友人の友人」が、バッキー白片のバンドにいたことがあるというので、顧問に来ていただいた。小生は、手取り足取りで、「丸い棒」の動かし方を習った。レパートリーは数曲だが、その数曲だけは編曲が素晴らしくて、いちおう聞くに耐えたと思う。大学での「初演奏のみ」は学園祭のクラスの模擬喫茶店だったと思う。他のクラスはプロもどきもいて、上手だったが、小生達は若気の至りでまったく気にしなかった。会社に入っても、また、その先生に顧問に来てもらい、短い期間だが若者達で「ハワイアン・バンド」を組んだ。そうそう、忘れてはならないのは、早稲田の有名バンドで鳴らしたウクレレ・ボーカリストの2年先輩や、BASEが得意な同期もいたことだ。彼達のお陰で素人ながら、引き締まったバンド演奏が組めたのである。エレベーターで楽器を運んでいる姿を、学生時代から知り合いのお偉方に見られたが、驚いただけで、咎められはしなかった。出演は、会社の運動会だけである。ハワイアン・フラ&レイで着飾った美しい女神たちがウクレレを弾きながら唄う姿だけが、素晴らしく見えた。小生の手の動きは、高校時代から巧くなく、左手は意図しない弦を跨って押さえてしまうし、右手はトレモロがちぐはぐな雑音を奏でてしまうのだが、ハワイアン・バンドでの「スチール」は音量が大きく、多少のミスも素人には判りづらい、のが「ミソ」であった。下手な空手の練習で、ますます、微妙な指の動きができなくなり苦戦したが、この時ばかりは楽しかった。素晴らしい若い美の女神達がいたからなのだが。女性達と音楽の勉強と言っては、本物の「バッキー」や「大橋節夫」を聴きながら、ジャズ喫茶・銀座ACBなどで駄弁り、他方では、包容力のある先輩達と神田の飲み屋「六文銭」の二階などで囲炉裏を囲み「審査の方法論やあるべき姿」を「真面目に」議論したものだった。そのような「若かりし頃」が、小生にもあったことを述べたかっただけである。今は、右手右足がうまく動かないのは、才能の欠如でなく、脳幹梗塞のせいにしている。
Sep 13, 2011
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中学生のころ、野球部(準硬式ボール)に入っていた。夕方になると、近視のせいか、球が見えにくい。黄昏時にまで、特訓がある。監督のノック・ボールがライト側に飛んでくるのを追いかけるのだが、高く上がって、近くに来てから、ボールが見えるので捕球体勢は遅い。地面を這うような球は、よほどの幸運がないとお目にかかれない。音と、自分の感だけが頼りの心細い練習であった。暫くして、走って止まろうにも、膝の制動が利かなくなった。足の表面を押すと浮腫んだ皮膚が窪むが、なかなか、窪みが復元してこない。これらの原因は、栄養失調、ビタミンC欠乏症、腎臓病なのだ。これは、病院通いで治ったが、医者は危ないところだったという。また、野球部の合宿で夜寝ていると、どこかに遊びに行っていた、正捕手が自分の蒲団がないので小生の蒲団を持っていってしまい、寒い夜を過ごしてお腹を壊してしまった。別の日には、バッティング練習の補助者として、バットを立てて、その上にもう一つのバットを寝かせて、打者がその高さで打てるように支える役を任された。バッターがバットを思いっきり振った瞬間に、小生が持っているバットに当たり、さらにそのバットが鼻に当たって、目から火花が飛んだものだ。いまだに、片方の鼻の穴が狭くなっている。鼻腔から管を突っ込んで胃カメラを撮影する際に、片方は管が通過できない。マンモス大学の工学部に入り、「体育科」の教室選びを、用意ドンで先に「種目」表札の掛かった部屋に入ったもの勝ちというのがあった。小生は、「テニス」を目指したが、「バレーボール」(小生は背が低いのでバレーは向かない)しか空いていなかった。その大学は、それが原因で面白くなくて、予備校に通い、予備校の校長の薦めで、国立大(と早・慶)経済学部に受験し直した。(親父は、大学に行かず、予備校がよいの小生に驚いたものだ。)経済学部に入ったあと、「硬式テニス部」の入部に望んだが、経験もなく、体験入部で「トイレ掃除」ばかりさせられた。面白くなくて、「空手部」に入ったら、件のテニス部のマネージャーは小生が意趣返しに空手を練習していると思ったらしいが、小生は忘れっぽいのである。「空手部」では、型の練習なら見よう見まねだが、どうしても乱取りになると、具合が悪い。両眼の裸眼視力が0.01では中学時代のように、球でなく「拳」が見えない。「主将」の拳が「顎」に当たって脳震盪をおこした。そのまま寝かしておいたらしい。気がつくと夕方であった。大したことではないものの、部担当の先生は、倒れたままに数時間放置していたのを後で知り驚いたと聞く。小生の顎は砕けてはいなかったが、後遺症で一年ぐらい耳の辺りがジャリジャリという噛み合わせの不具合が続いた。だから、空手部OB会にはその後のお誘いがあっても出ないことに決めている。会社に入って、幸運にも「テニス部(同好会)」が本店入社の新人全員を集めて、「丸の内ホテル」の宴席に招待してくれた。主将は慶大出の格好の良い、六大学で活躍したプレーヤーであった。新人時代を楽しく過ごせたのは、いい人ばかりいる、テニス部のおかげであった。特に軽井沢での星野温泉合宿は楽しかった。合宿場が、時の皇太子ご夫妻が訪れていられるコートの近くというのも、楽しかった。鬼押し出しや白糸の滝などもサイクリングしたようにおもう。小生はちっとも上達しないが、テニスをする人には「悪人」はいないと思うようになるほど、テニスで楽しく過ごしている。今は、脳幹梗塞で右手・右足が不自由だが、不思議と初級者並のテニスができる。このような、楽しいテニスなので、市のテニスコートに野球馬鹿のような新人(老人)が入ってきても、優しく迎え入れようではないか、と「仲間」を説得している。
Sep 13, 2011
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小生は、遥か遠くの田舎に先祖の墓地がある。現在住んでいる関東から、電車で1時間+ジェット機で1時間+タクシーで3時間=合計5時間が最短時間であるが、ここ数年帰郷していない。田舎からは、「長男だから、墓掃除や墓参りくらいは帰ってこい」、の矢の催促である。ご先祖様にすまないとはおもいながらも、脳幹梗塞を一つの理由にしながら居座っている。 以前のこと、重役の友人が、都立霊園に墓地を取得したが、高額な永代使用料を支払ったと聞いた。取得した理由は、小生とは、反対方角に田舎はあり、電車で30分+新幹線2時間+タクシー1時間=合計3時間半が最短時間で、なかなか田舎には帰る時間が作れないとのこと。彼も、田舎には親類があまりいなくなり、帰っても昔を語る人が少なくなったという。 小生の場合は、親類はほとんど県都・高知市に移住しており、片田舎には遠い姻戚はいても、疎遠になっていて、気を許す親類は居なくなった。墓参りに戻るように、親心で言ってくれる親類は高知市にいるので、そこからの墓参りでも2時間かかる。田舎には高校までいたから友人は数人いるはずだが、卒業以来、ご無沙汰している。 墓地を移すことを親戚(本家筋。土佐石州流でこのようなことには詳しいはず)に相談すると、基本的な考えは、自分たち親類が地元にいるのだから、墓地を関東に移すことには反対だという。ただ、移すとすれば、小生は身近な親父以降の家族を見ればいいので、「親父よりも前の故人は自然のままに郷土の土に安らかに眠って貰うのが一番であり、親父の改葬だけを考えて、墓の形状はそのまま残しておけばいいのだ」、といわれた。もっとも、田舎のお墓は、墓地の広さだけは大きいが、古びており、運搬するだけでも壊れてしまいそうである。従って、新しい、◎◎家の墓を建てて親父を改葬することに決めた。小生の家は、原始的な太陽信仰・神道であるので、身近に先祖を弔えばいいのだ。 現在住んでいる市の、市営霊園でも墓地の募集が毎年ある。新規に墓地が必要になった居住者(主宰者)、改葬が必要となった居住者(主宰者)について墓地の募集である。小生の場合は、「墓地が遠隔地にあって墓参ができないために改葬する」のが理由に当たる。申し込む前に、田舎の役場に、親父の改葬許可証を申請すると、受け入れ墓地がないと許可証は出せない、というので、まず、「埋葬証明」を発行して貰った。是を貰うには、親父の古い戸籍関係の書類が必要で、親切な役場の女性とメールでやりとりし、「郵便為替」で証明書発行料金を支払った。市営霊園の抽選は、倍率が厳しいので申し込みだけは、早めにしておいた。案の定、抽選会では当たらなかったが、幸いにして補欠の最終番号(5)を得た。補欠の最終なので、諦めていたところ、市から繰り上げ当選の通知が来た。 何故繰り上げ当選があったか、と担当に聞くと、経済的な理由があり、急な出費を断念したのだろう、という。当方も、なけなしの金を集めて、東京都よりも、地元の私的墓地よりも経済的な永代使用料を支払い、「霊園使用許可証」をもらった。 次は、件の「改葬許可」をもらうべく、「霊園使用許可証」の写しなどを田舎の役場に送り、役場からは「ご苦労様でした。お墓を改葬した後の処分等は、ご親戚と相談下さい。」の手紙と共に、「改葬許可証」が届いた。 規約では、今後、三年以内に墓地を建設しないと使用の権利を自動的に失う。墓地建設予定地を見に行ったら、公園のような広大な環境にあるので気に入ったが、使用区画を見ると、隣地の墓地では、お祭りのつもりで植えたらしい木々が根を張り墓石などが倒れそうになっている。世界遺産:アンコール・トム&ワットなどは、巨木の巨根が石造寺院に絡み付き、石を引き千切るような凄まじさを見せているが、小さな墓地区画では、それほどでなくとも「脅威」である。(もしかしたら、当選者や補欠番号の先順位者は隣地の荒れように度肝を抜かれたかも知れない。)墓石屋に、隣地占有使用者へ墓地改造の交渉を依頼して、「家紋(矢違い)」、「墓誌(墓石の裏を使用し、親父の名と、享年、供養のつもりで、戒名の代わりに、叙勲名をいれる。高い戒名は金で買えるが命と引き替えに頂いた叙勲の方が自然と思う。もちろん、小生などは名前だけしかないが。)」などを打ち合わせるつもりでいる。また、墓地には、周りには木々がいっぱいあるので区画には何も植えないつもりだ。 脳幹梗塞の小生は長くは生きられないので、早めに◎◎家の墓をまず、父のために造る。個人的な話ばかりしたが、「めいてい君の日記」として勘弁願いたい。
Sep 12, 2011
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イスラム教信者と「イスラム原理主義者」を混同しないことが大切バーミヤンは東・西世界が融合した、歴史的にも重要な「世界遺産」の地点である。その象徴とも言える、石仏像が無惨にもダイナマイトで爆破された。原理主義的なイスラム教徒は偶像(キリスト教は信ずる)を信じないが、イスラム教徒すべてが「偶像の破壊者」ではない。イスラムの支配に落ちたイスタンブールでもキリスト教様式が残存していることや、レコンキスタ後のヨーロッパでもイスラム様式、キリスト教様式が建築物として共存していて、両者の共存は存在し、全くの排他的ではないと、おもう。NYの高層ビルを原理的イスラム主義者がキリスト教支配の権化であると、自身の教義に照らして、照準を合わせて攻撃に出たことは、たしかに人類史上稀に見る大事件である。イスラム教信者を、ほんの一部である原理主義者(偶像破壊主義者)と、それ以外の敬虔なイスラム教信者を識別しないで、非難の発言をすると、問題はこじれる。自民党幹事長の「キリスト教支配に反発するイスラム教の歴史的帰結」という発言の報道解釈は、本当に当をえているのか。かれは、イスラム教全体を指して言っているのではなく、高層ビル破壊の犯人の「イスラム原理主義という一派の採った帰結・攻撃」を指して、「比喩しているだけ」なのだ。マスコミはなんでも面白く取り扱うが、正確に物事を捉えるべきかと思う。とくに、国際問題や宗教問題というやっかいなところに首を突っ込むような取り上げ方は、国策上からも有意義な話でないことだけは理解して貰いたい。現閣僚を、「発言」という次元の低い(政策実行という次元の高いことに比べてだが)次元で「辞任」に追い込むことでも憚られるのに、国際問題や宗教問題を引き起こすような、誤った五~六次元を創り出さないように、注意願いたいものである。彼がそのような意味で、言っていないことは、よく考えずとも、この呆けにも分かる話である。
Sep 11, 2011
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仲間意識と公共性の相反今朝は、「早朝テニス会」で手厳しい発言がコーチや会員からでた。それは、小生が別の「地域スポーツ振興クラブ」でテニスの球出しを手伝っていた(コーチの仕事)頃の会員5名ほどを、「早朝テニス会」に紹介した件である。4名については熱心で問題ないが、1名だけ問題児が居る。また、4名は若くて、模範的な社会人でテニスにもかなりの経験がある。ただ、1名は、小生より年上でいわゆる頑固爺さん、かつ、テニスは初体験である。彼は少年野球の指導をしているらしく、大きな声を発する。テニスは球技であるから、野球のボールの処理と同じだとタカをくくっている。たまに良い球が入るが、フォームはめちゃくちゃで、ルールも知らない。小生が、サーブのときコーナーギリギリを狙って打つと、レシーバーでもないのスルスルッと出てきて打つ。それもワンバウンドでなくダイレクトに打つ。随分注意したものだが、まだ直らない。また、パートナーが打球を受けている場面では、相手側の攻撃を予測して、オープン・スペースが発生しないようにパートナーを補うべく努力すべきだと思うが、パートナーにくっついている時間が多い。コーチも会員も、「あなたが連れてきたのだから、あなたが指導して欲しい、会則上はテニスができる人のみが加入し、楽しむクラブであり、会則違反だ」という。彼は、耳が遠く、小生の言うことだけ聞こえているらしい。しかし、こちらも脳幹梗塞で動きが鈍くなっていて、スプリット・ステップも巧くできない状態である。彼は「コーチ」と言うが、すでに返上しており、指導も限界だ。 遂に、彼に、「以前にも、紹介したが、テニス教室にも行きなさい、そしてルール・ブックは野球と違うことを自分で学びなさい、ダブルスの陣形なども解説本を読みなさい。」と、言ってしまった。彼は野球の選手(監督)であったらしく、走力はあり、球を追いかける意欲もそこそこあるので、たまにコートにボールが入るのが楽しくって仕方がないのだ。相手が取れない球が、たまにだが、コートに入るのが嬉しいらしい。来週、彼は元気にでてくるだろうが、みんなが楽しくプレーできる雰囲気を維持するにはどのように指導すべきか、また、彼にも、たのしくルールを教えていけるか、悩むところである。地域振興スポーツのコーチ(お助けマン)を手伝った時には、「PATROLしよう」だった。「Process」(結果でなく、経過を重視しましょう)、「Acknowledgment」(意志を尊重し、その行動や言動を承認する)、「Together」(一緒に楽しみ、一緒に考えましょう)、「Respect」(尊敬・尊重しましょう)、「Observation」(よく観察しましょう)、「Listening」(話を良く聞きましょう)である。 テニスをするに当たって、仲間意識が強い時代である。コートを私的に使うには抽選主義を取るコート運営者(市など)にあわせて仲間をたくさん集める必要がある。市民のためのテニス同好会的な運営だと、自分と同等にテニスができる仲間だけが集まって貰いたいので、初心者は来て貰っては面白くない。初心者はテニス・スクールに行くべきで、自信がついたら同好会にいらっしゃい。そんなわけで、「仲間意識から閉鎖的なグループ」ができてしまっている。 市に、「できるだけ大勢の人が参加できる市営コートの運営をしてもらいたい」、と提言すると、「たとえ、一家族が当選することになっても、機会均等の原則から民主的な運営方法は抽選しかありえない」という。 さきの、同好会的な市民グループでも、初心者をいやがる雰囲気があり、多くの市民のためとはいえないので、もっと良い方法がないものかとおもう。 地域スポーツ振興クラブだけは、閉鎖的でなく、コーチも親切なので、市は全面的に支援を続けて貰いたいと思う。多少とも、予算を削りがちであるのが不安材料だ。
Sep 11, 2011
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テニス・コーチの背中の名言に接して小生は、早朝テニスに土曜日、日曜日、祭日の朝7時~9時のあいだ市営テニスコートにでて、初級者向け指導を受けている。もちろん、練習前には「コート」周りの清掃をする。今朝も、コーチが着ている紺色のシャツの背中には、白地で次の文章が見える。「この一球は絶対無二の一球なり!」と。全文をあえて掲載する。「この一球は絶対無二の一球なりされば身心を挙げて一打すべしこの一球一打に技を磨き体力を鍛へ精神力を養ふべきなりこの一打に今の自己を発揮すべしこれを庭球する心といふ」福田雅之助とある。 早稲田大学庭球部出身のこのコーチは高齢(めいてい君より1~2歳年上)ながら、球の(猛)スピードや(厳しい)コースなどには手加減が無く、相手が初級者であっても、全力で打ってくる。小生のような、フラフラ気味の脳幹梗塞プレーヤーがいると、最初は迷惑そうであったが、足腰が多少とも回復してきてからは、他の人と同じ扱いをしてくれるようになった。初級者同士で、フラフラ玉の追っかけっこをしていては、ただ身体を無駄に使うだけで、本来の有酸素呼吸・無酸素呼吸の切り替えができないが、彼のコーチを受けていると、手・足の構え方、使い方、球を待つ位置取り、などなど、無駄を省いて、全力で球を打ち込み、そして次に備える、「省力化」と「全力」の一連の動作がよくわかる。医者からは、夏・冬には過激な運動は控えて、適度の運動をするように薦められているが、無理はせずに、水分補給して、なんとか指導についていきたいと思っている。 今回、福田雅之助氏の名言を取り上げたのは、今日も背中の名言を見た後で、WEBでも、たまたま、尊敬する田中信弥氏の配信メール(BLOGもある)が、話題に、とりあげていたからである。 本日は、残暑が厳しく、時々、膝をついて、呼吸しながら休んでいたものだ。お迎えはまだ来ないようである。
Sep 10, 2011
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また、閣僚の「失言」が報道された。小生のような凡人は、もともと頭が呆けているので、失言ばかりしている。失言しても、また、「つまらないことを言っている」、「気の毒な人である」と、悪く取られるよりも、馬鹿にされたりするのが、オチである。つまり、「失言」が「失言」として、その「価値」をもつのは、聞く側が相手を悪く思いたい「意志」を表明するときにだけ有効なのである。 閣僚が選んだ、「死の街」という表現は、「死んだように、人気が無く、寂しい街」という「表現」なのだ。この表現を非難する人は、「葬式のような」、「復興の期待できない」、「人が住めない」、「死の灰・放射能で汚染されてしまった」などと言った、より厳しい意味を強く感じた人である。閣僚は、第二の感嘆符を意味したのではなく、第一の感嘆符の意味であったとおもう。もういい加減に、日本語の曖昧さをいいことに、世界に向かって、日本人が復興を考えない民族であるような、「非難合戦」を終わらして貰いたいものである。報道を報道として捉え、世界にも世界があるように、次元には次元があるように、非難のための非難は止めようではないか。 閣僚は、謝らなくて良いのである。どのような印象で発言したかでなく、どのように感じたから「どのようにしたい」という政策実行に結びつければいいのである。 ついでであるが、「東北支援のための物資販売」について、「輸送手段」から放射能が付随するから「中止」だ、いや、それでも「支援」だ、と騒がしい。「物資」そのもの、「輸送手段」への付着について、ではどれだけの「人体への放射能被害が計測・予想される」か、そのための「数値確認手段をどのように実装した結果なのか」などが全く思考されていない。非難者、逆非難者ともに右往左往している。日本には優れた科学者だたくさんいるではないか。自然科学のノーベル賞科学者達や、社会経済学者の鈴村興太郎教授などの叡智がいる。政府は早くこれらの叡智を集めて、日本賢人者会議でも組織して復興のためにも、力を集約して貰いたいものだ。呆け頭でも、度重なる「失言報道」にはウンザリするばかりである。外国人記者の目には、日本人の報道倫理がどのように映り、日本人は理解しがたい民族、と思われているのではないかと思う。同じ日本人でも、黒船襲来の激変時に、驚くよりもその文化を吸収し、目を見開き、知識を先導した坂本龍馬がいたことを、賢明な外国人記者は知っていよう。
Sep 9, 2011
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自宅前道路は道幅4~6mの変形道路だが、その先は大きな県道(元の自動車専用道路を拡幅)に繋がっている。さらに直ぐ南には大きな道路があり、三叉路となっていて交通信号がある。複雑な道路なので、昔は畑の中にトラックが突っ込み、いろいろと事故があったものだ。自宅の道路の向かい側、交差点の手前に、レンタル・コンテナコーナーが6列(二段)以上並び「ジークフリート防衛線」ができている。また、3つの矢印板を立てるなどの意見を具申した効果もあって車の飛び込み事故は少なくなった。玄関のドアがばたんと開き、「あなた、家の前で交通事故なのですぐ下りてきて!」とせわしく家内の叫ぶ声がする。自分がぶつかったのかと、あわてて降りていくと、「もう10分前に声を掛けたが聞こえもしない」、と怒られた。徒然なるままに、BLOG(家内は私の「日記の自主トレ」を知らない)を書こうかと、部屋を閉め切り、冷房を掛けていたので、最初の「指令」は聞こえなかったのである。みると、白髪の老人が路上へ直角に倒れており、胸を負傷したらしく、血が滲んだシャツがみえる。若い女性が、老人の首を片手にかかえて(気道確保の姿勢)、「耳元」で氏名、年齢、住所、電話番号を聞き出そうとしており、他方の片手で警察への連絡のために携帯電話を操作している。その姿は、小生が「蘇生のための緊急動作」を習った通りであった。幸いにして、人工呼吸をするまでもなく本人の意識は戻った。軽自動車で通りかかった、その若い人は看護婦さんであった。家内はいそいそと、厚手タオルを「患者」の頭の下に布き、日が当たらぬように「患者」に傘を差していた。小生は家内の「指示」に基づき、マクドナルド前で交通整理をした。その前に、冷却「ICING」が必要であると判断して、冷蔵庫から大きな保冷剤を持ち出して、タオルでくるんで「患者」の頭の下に置いた。おまわりさんが来て暫く後に救急車が到着した。件の若い女性は、手に血が付いたので洗わして欲しいと言うので、庭の蛇口まで案内したが、さすがは、看護婦、血を媒体にして病気が感染することを熟知して、まず洗浄をしたのだ。交通事故は、オートバイに乗った老人が、なぜか電柱に激突した自損事故のようだ。この事故に際して、看護婦の正確かつ迅速な緊急対応や、家内のテキパキさにも感心したものだ。家内があとで言うには、看護婦は「意識レベルは○○です。」と報告していたらしい。小生の場合は、病院で「意識レベル」ではなく、「認知レベル」を確認されたことがあり、そのときは大丈夫であった。家内は、今は怪しいのではないかと疑っている。ただ、この事故にあって、自分が「だれか、年齢は」と聞かれたら、即座に答えられるが、電話番号は、住所はなどと、さらに聞かれると、間違いなく答えられるか、不安に思ったのか、彼女は電話器のそばに張り紙をするようになった。小生が「AED(自動体外式除細動器)はこの辺にないがどうしたものか?」というと、「すぐそばにも病院がいくらでもあるじゃない。患者を連れて行ってもいいし、先生を連れてきた方が早いよ。」と笑われた。家内は小生より10歳ほど若いので、小生の呆け呆けは留守番するので、「また海外旅行に行ってらっしゃい」、と思ったものだ。
Sep 9, 2011
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宇都宮市は大谷石の採掘場として名高い。小生は、宇都宮で数年にわたり審査に携わっており、今市、日光、奥日光にもよく行った。 日光にはキラキラとしたダイヤが見つかる川のような名前の「大谷川(だいやがわ)」が流れていた。この川は利根川水系の鬼怒川の支流であり、奥日光の湯の湖から湯滝、竜頭の滝、戦場ヶ原を経て中禅寺湖、さらに華厳の滝を経て日光に入る。この川は「おおや」や「おおたに」とは読まない。いっぽう、大谷石は「おおやいし」、大谷観音は「おおやかんのん」と読み、観音様は大谷石を彫刻した宗教物体である。以上は、今市市出身の愉快な同僚から教わったが、「いまいち」判りづらい説明であった。(蛇足だが、広島市観音は「かんおん」と読む。)大谷石とは、栃木県宇都宮市大谷町付近一帯から採掘される、流紋岩質角礫凝灰岩の総称である。大谷石の採掘場は、「大谷石資料館」のあるTOKYO DOME と同じ大きな空間が有名で、多目的な貯蔵庫・展示場・コンサートホール・地下教会などに使用されている。しかし、採掘場はここだけではなく、採掘のための坑道や採掘現場は市内の地下に網の目のように張り巡らされている。一部は産業廃棄物処分場として利用され、産廃からメタンガスが発生し爆発事故が起こり、また、放置されている所では突然の住宅地を飲み込む大規模崩落事故が発生して住民を不安にさせてきた。 他方で、最近の報道では福島原発爆発による放射性セシウムが、東北は言うまでもなく、この宇都宮市を含む関東地区にも広範に放出されたという。6月現在で9都県が処分について、「埋め立て場所が見つからず、引き取る業者もいない」ために、施設内に保管している「下水処理場の汚泥や焼却灰」は1万7千トンに上っている。このうち、濃度が低い自治体の場合は、セメント業者が引き取ったり、埋め立て処理をしている。 政府の方針は次の通りという。埋立地周辺の住民の被ばく線量を年10マイクロシーベルト以下に抑えるために、 1キロあたり8千ベクレル以下のものは、跡地を居住などに使用しないことを前提に、防水対策を講じれば埋め立て処分できる。8千ベクレルを超え10万ベクレル以下の場合は、濃度や遮蔽方法 などの安全性を個別に評価したうえで、廃棄物処分場に埋め立て処分できる。 10万ベクレルを超える場合は、可能な限りコンクリート壁や覆土で放射線を遮蔽できる県内の施設で管理することが望ましい。 国土交通省は「(各自治体で)埋め立てのできる処分場を探す努力をしてもらうしかない」と 話している、と報道にある。 小生が思うには、栃木県の場合に限って言うと、その費用の補填を東電補償や政府交付金に求める手続きはあとのこととして、まず、上記の「採石場の跡地などの埋め立て」と、上記の「下水処理場の汚泥や焼却灰の処理」を結びつけて計画を策定し始めたらいかがかとおもう。採石場跡地に強靱なコンクリート構造の収納庫を建設して、地下の崩落を完全に防ぐ。他方で、汚泥や焼却灰から、放射性セシウムの濃厚な部分を抽出して固形ペレットとして、しみださないように加工して、さらに運搬可能な形状に焼き固める。放射性セシウムの濃厚でない部分も固形ペレット化して、上記のコンクリートの原材料素材として利用する。 全国に、非鉄金属、金属などの廃鉱はいくらでもある。この廃鉱の処理も遅々として進んでいない。この廃鉱の埋め立てと、今回の放射能処理を一帯として考えたら一石二鳥ではないかと、小生の呆け頭は考える。一時処理か、中間処理か、最終処理かの考えは、どこで終わるかで決まるのであり、まだ処理もしないうちに「一時」「中間」「最終」で揉めるのは、「処理」事態を「言葉上の問題として、県は真剣に考えていない」ことと同じことにならないか、心配である。 JORKER を誰も引かず、他人に回すことだけを考えているのでは、何も進まない。県内のことは、まず県内でやってみようという決意が知事にも欲しい。そのあとで、他県のことも考えてあげる余裕が生まれるのではないか。国が何もしてくれないと言ったり、国は失礼なことを言うと、話をはぐらかしては話が前に進まないとおもう。前首相のときには、廃棄物に関する専門家が折角選ばれて仙台まで行った。言葉の悪さだけを問題視し、専門知識や人脈を利用できずに、終わったのは、もったいなかった。「国民みんなが笑って暮らせる世の中」の「国民」は、「県民」でもあり、市民・町民・村民でもあるのだから。 当たり前の話かも知れないが、この呆け頭には「いまいち」要求を相手に呑ませる「姿勢」が判りにくい。産総研などが協力すれば、いま利用可能な技術的方法は検索できるような、「ワンストップ」体制があるはずである。「どぜう」内閣がこのような意思疎通上の癌を抜本的に撤去し、「泥臭くても、地道に」すすめてくれることを願うばかりである。
Sep 8, 2011
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小生の父は、胃癌の再発により71歳で死亡した。県を定年退職後は、いろんな誘いを断り、隠遁生活を送った。趣味の魚釣り、庭木の手入れ、孫達の世話、夫婦揃っての旅行など、家庭内の生活がすべてになった。小生が高校生になったばかりのころ、県への配転について、小生は、なぜか「父さんは、高知市にいってもいいか?」と聞かれた。それだけの激務を覚悟して務めたのだから、また、激務をやり遂せたのだから、「死(癌)」と「勲章(勲四等瑞宝章)」を交換したようにも思う。退職して数年経って、胃癌、それも「浸潤性胃癌」ということがわかり、日赤病院で手術を受けた。「あと、よくても1年しか生きられない」と、院長に、こっそりと宣言されたときは参ったものだった。「丸山ワクチン」が「結核病に罹った人には癌が進行しにくい」という臨床実験から生まれたことを聴き、父に内緒で、「丸山ワクチン」を取りに千代田線の千駄木駅近くの病院(日本医科大学付属病院ワクチン療法研究施設)に通い、40日分のワクチンを、日赤病院に郵送したものである。しかし、不思議と5年程度は再発が無かったこと、病院の待ち時間が長かったこと、不思議な注射薬をA、B交代に打つことなどに疑問を感じ、彼は「特別な注射」を打つだけのために病院通いするのが苦痛になった。「丸山ワクチン」は、癌細胞が少ないときには有効であるが、ある程度増えてくると抑えが効かなくなるようで、彼が注射を止めてしばらくして、再発となった。「ピストルは機関銃に歯が立たない」と同じで、もう「ワクチン」程度では手の施しようが無くなっていた。父が小生に、「お前は、なにを、そんなに私に無理をさせるのだ。」と言っていたから、既に、癌であることを本人は感知していたのだろう。父の死に際して、焼き場で骨を拾う羽目になったが、腰骨が癌で変形していたので、痛みから本人は癌が進行していることを知っていて、もう息子の薦める「特別な注射」は限界にある、と判断して、無駄な延命注射を拒否したのだ。いまでは、結果として父を苦しめたことを悔やむ気持も残るが、方法としては是しかなかった。寿命が1年から5年以上に延びたのだと。これは息子の「満足」で、本人は「苦痛」だけだが。数年前に、会社の同輩が重い肺ガンでなくなった。肺ガンの抑制に新しい輸入・制癌剤「イレッサ」を投与し死が早まったのである。以前はなかなか厚生労働省の許可が下りなかったものだが、このときばかりは、自由化の波に乗り、許可が下りたのである。その新薬には、効き目は良いものの、「厳しい副作用」が伴っていた。「効果」と「副作用」は本人の病気の進行度、体質、体調、食事などの多次元マトリックスで判定すべきだが、、判定には時間がかかる。しかし、本人の「寿命」はその「多次元マトリックス」が完成するまで待つことができない。本人も家族も、医者もそのマトリックスが未完でも、「賭け」にでざるをえない。医療行為は、患者の命を救う行為だが、それを補助する薬事等については、行政側が許可を厳密にするだけでなく、外国の行政・医療機関等と連携を保ち、早急なる投与が、いまより安心して行えるように努めるべきである。たとえ、「制癌剤」に比べて効果が小さく「延命薬」程度の薬でも、それなりの許可を認めるべきであろう。また、楽天の社長が推進したいと騒いでも、なかなか進まない次元の話がある。医薬品は庶民がもっと利用しやすいように、医師の処方があれば、ネットでショッピングできるような「一回限りの医薬品注文書作成手順」をWEBでも構築できたら良いと思う。「国民保険番号」や、「納税者番号」や「公的電子署名」などがあり、これらを持っている人たちの間だけでも、相互にチェックするシステムと熱意があればできるのではないのか。年金生活者の小生でも電子納税する時勢なのだから。父のような叙勲ではないが、小生は、昔のこと、パスすれば、会社が半分補助してくれる通信教育講座を受講して「文部大臣賞」を貰った。これは、当時のパスは、会社で二人のみであったが、審査の仕事ばかりしていた玄人には当たり前の「免許証」であった。呆けにも真面目に仕事をしたことのある、若き時代がある。
Sep 7, 2011
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片手の不自由な野口英世(ノーベル賞・細菌学者)が、幼年時代に「どぜう」を家計の足しにするべく毎朝のように小川で捕って、街で売っていた、という逸話を子供の頃読んだ覚えがある。この話は、実話ではないようだが、当時の東北での貧しい暮らしぶりを良く表していると思う。 小生の育った土佐の高南台地は、鮎の棲む清流の長曲大河・四万十川の上流にあたり、長曽我部氏の命で開墾が進んだ田圃を護るために上流の小さな支流には無数の堰があり、澱んだ支流には、鯉(ひげがある)、鮒(ひげがない)、鮠、鰻、鯰(形はグロテスクだが味は淡泊で美味)などがたくさん棲み、釣り、各種のしかけ(延縄、編み込んだ筒状竹籠など)で捕獲するのが、こども時代の楽しみであった。堰から灌漑用水路が田に延びており、産卵期には鯉、鮒などが水田に水が引き込まれると同時に遡上して、魚卵を生み付ける。しばらくすると、田圃や、小川は小魚で溢れかえる。それを、竹ひごで編んだ大きな網で捕まえるのが楽しかった。大きな魚は食べられるが、小魚はただ捕まえ、金魚鉢などで飼ったものだった。しかし、たくさん取れすぎると、お金持ちの立派な池にこっそりと「放流」したものだから、高級魚が酸欠で死ぬという、ハプニングを起こしたものだ。小生は、「学校の先生の子供」(両親や祖父も先生だったし、父は勲四等瑞宝章を授かったほどの教育者であり、まわりの人は小生を模範生のように期待していた様な気がする)であったが、両親が構わないのをいいことに、勉強を一切せず、身体の弱い割には山野を愛犬と駆け回り、川や小川を荒らしまわった、いわゆる「一人悪餓鬼」であった。脳幹梗塞を理由にするまでもなく、文章の内容が面白くもなく、構成が無茶苦茶なのは、まったく勉強をしなかったためである(蛇足も蛇足でもうしわけない)。 「どぜう」はいくらでもいた。田圃の畦道で、「どん」と足音を立てると、水が濁る、何も見えない。また、「どん」と踏むと、濁りの中から、サッと細長く、口髭のある筒状の生物が身体をくねらせて顕れ、またサッと泥に潜る。これが、「どぜう」であり、小生の田舎では、泥の中にもいる「鰻」、「鯰」までは食べても、「どぜう」は食べたことがない。小さくて骨ばかりのようで、泥の中にいるから臭くて食えない代物とおもっていた。むしろ、どうせたべるなら、きれいな湧き水の近くに棲む「田螺」の方が、味は磯の「鮑」に似て美味しいと思うくらいである。 上京して、両国で「どぜう鍋」(まるごと)や柳川鍋(ひらき)を友人から薦められたことがあり、食べる時には目をつぶったものだった。しかし、食べてみると、骨は少しあったが、泥臭くなく、一緒に食べる玉子がおいしく感じさせてくれた。土佐湾の「どろめ」のほうが小生にはもっともっとおいしいとおもうが。 WEBで「どぜう」を調べると、「土生」が原語のようで、「ドジョウ」(どぢょう)は4文字なので「縁起」が悪く、「看板」に不向きなそうな。「どぜう」は雑食性で、田圃の中の「ユカリカ」の幼虫など、何でも食べ、田圃の掃除屋として、有益な小魚である。 野田内閣が「どぜう内閣」と公言しているが、「どぜう」は生命力旺盛な小魚で、「汚濁した永田町」(小生は永田町を知らないが報道はきまってそのように形容する)の「土壌」にあっても、危険が迫るとサッと隠れて、水が澄めば現れ、悪の幼虫を雑食し、「永田町土壌」の浄化・再生を行う、有益な「どぜう」の精鋭集団であってもらいたい。金魚のように、お金のある人が開発飼育した観賞用・愛玩用高級魚を立祭る集団であっては困る。野田内閣が、濁って澱んだ政界から、悪をついばみ、良いものも、悪いものも、すべてを吸収して浄化する「どぜう」の浄化能力でもって、根気強く、したたかな政策運営をするのを期待したい。固定化したマニュフェストを守るだけのパフォーマンスではなく、「こくみん、みんなが笑って暮らせる世の中」をつくる、地道でフレッキシブルな改革姿勢を見せてもらいたい。 外国人報道陣が理解できない、「どぜう」を標榜することが、水の中で「サッと」隠れる姿とあいまって、呆けには面白いと感じるのだ。
Sep 6, 2011
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朝日新聞(本年4月10日付)によると、大谷鉱山(平泉の黄金文化の源泉。1905年試掘、最盛期には戦前年間約1トンの金産出。76年に資源枯渇で閉山)の廃鉱から、東日本大震災による土砂崩れと津波で、有害物質のヒ素を含む大量の土砂が住宅地に流出、一部住民が避難していることが、9日わかった。市の調べで、付近の井戸水や沢から環境基準の最大24倍のヒ素が検出された。その後のトレースはないものの今回の被害が、地震・津波・原発放射能だけでなく、過去の「負の遺産」が現実ものとなったことを意味する。「田中正造」が足尾銅山の鉱毒を訴えて、政府は、結局、鉱毒被害の村を移転、広大な渡良瀬川遊水池を造ったことが思い出される。正造氏は公害が社会に認知されない時代に政府、企業に、その鉱毒被害の大きさを訴えた豪傑である。同じように、高知にも、工場放水隧道の生コン投げ込み事件で、企業の公害対策に警鐘を鳴らした豪傑、「山崎 圭(次)」氏がいる。風光明媚な浦戸湾を製紙業の廃水が汚染するのを見かねて、ついに自分たちで、工場廃水を止め、鏡川に一日でも「きれいな川面」を取り戻すことで、県の公害企業の誘致政策を批判したのである。この直後から、国による公害規制が法制化され、本格的な水質、環境、騒音などの規制がやっと始まったのである。彼がやった企業活動妨害行為それだけをとりあげると違法行為であるが、公害発生という違法行為を国が規制することになる、先鞭を造ってくれた彼の行為そのものは「ジーザス・クライスト」的ではなかろうか。彼の、「星よりのことづて」(土佐出版社)に詳しいが、精密フライス・メーカーの社長であると共に、自然を愛する哲学者(ポールニューマンによく似た好人物)であった。圭次社長には、たくさん勉強させられ、当方も改善したことがいくつかある。金利、担保、融資先、技術について、企業経営者としての厳しい指摘や、哲学的思考には頭が下がったものだ。いまは息子さんの時代になっておりわからないが、当時は、「君とは話しはいくらでもするが、節操・節度のない政府のお金は利用しないよ。」、というのが口癖であった。「エピソード」がある。小生の会社には、「広報部」があり、「起業家でありながら公害を訴える哲学者」にぜひ、面会したいというので、高知新阪急ホテルでの「インタビュー」を、知人として設営したことがある。順調な仕上がりであったが、青天霹靂、彼が参議院議員選挙に立候補(みどりの党・党首)したものだから、選挙前・候補者の「インタビュー記事」は公選法上も取り下げざるをえなかったのである。もちろん、潔癖な彼はまともな選挙運動もせず、当選から見放されたのだが。かれの魂は、奇しくも「ヘールボップ彗星」とともに、宇宙に去ったが、日本の公害対策に対して警鐘を鳴らした豪傑として、記憶に残ろう。彼の死に際して、おこがましくも一番高い弔電を東京から打った、「あなたが、彗星に乗って、ふたたび地球を訪れるときには負の遺産が処理されているのを見せたいものだ。」と。また、脱線したが、「負の遺産」は、岐阜県神岡鉱山(「ニュートリノ発見」を目指した廃鉱の再利用・「スーパー・カミオカンデ」の方が有名かも知れないが)による富山県神通川のイタイイタイ病、熊本県の「チッソ水俣病」など、枚挙にいとまがない。静岡県の「田子の浦」だって、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」 山部赤人(万葉集)のような「優雅さ」とは別に、紙パルプのヘドロで海底は、ぶ厚い絨毯となっていて、津波が押し寄せたら、沿岸はヘドロで厚く覆われるだろう。このように言っても、高度成長の華やかさは、これらの企業が支えてくれたお陰であり、いまのわれわれの幸せな生活がそこにあることだけは確かである。しかし、「正の資産」に目を向けるだけでなく、「負の遺産」が裏腹に眠っていることを忘れてはならない。この際だからこそ、費用はかかっても、すこしづつ「負の遺産」を「劣後処理」ではなく、「優先処理」すべきではないか、とおもう。「そんな金はどこにあるか、言ってみろ!」と言われる向きもあろう。「増税」や、「国債発行」は「経済学者的意見」としては「正常」だが、「現実の政策」としては「デフレ・超円高」の今には向かない。幸いの「超円高環境」であり、「日銀の通貨発行権限」などを拡大解釈して、「紙幣を増発行」することができないか。増発目的は、東北大震災復興、負の遺産の整理、希少資源の備蓄等のための傾斜的資金供給である。いましばらくなら、リクイディティ・トラップの状態で「インフレ」も起こらないし、金利引き下げではないのでアメリカなども文句は言わないだろう。これはおおっぴらには言えないことだが。経済学の正統派からは、非難されようが、「毒を食らわない」では早急な復興はできない。今回の首相交代で、「NOと言える日本人」野田さんになったので(名前からすでに「NO!だ」し、泥鰌のように何でも食らう、生存力も強かだ)、過去の理論にこだわらず、財務省と日銀などを全面協力させることで、「思い切った傾斜金融・財政政策を断行」してもらいたいものである。日曜日の夜は、NHKで疲れる。琉球王国・孫寧温や大河ドラマ「江」、「同伊」の国を思う熱意を見て、女性のトップには「平和と愛」求め、歴史を変えていくような素晴らしい力があるのか、と感動し、疲れてフラフラの、大呆けの独り言である。
Sep 4, 2011
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昨日に、「マホメット&シャルルマーニュ」の英訳本が飾り棚に並んでいるのを見て、面白く思い買ったら、後で本屋の主人に睨まれたと書いた。実は、その本屋には、当時、店に似つかわしくないほどの妙齢の美人店員がいて、本よりもその人の姿を、学生ながらも見たいと思って、ちょいちょい覗いたものだった。女店員は知らなかったが、店の主人(かなりの上品なおばあちゃんであった)の方は「まさかこのような本を買う人はいまいし、依頼した大先生に見えるように飾り棚に置いてあげよう。」と、タカをくくっていたらしい。お金がなさそうな学生が、かなり高い本をさっさと買っていったものだから、後で慌てて女店員を怒り、大先生には、「その本は直ぐに再注文したから」と、謝ったようなのだ。当時でも日本橋の「丸善」まで行ったところで直ぐに買える代物ではないようだった。学生の私がそのような高価な本を次々と買えたのは、親父が、「自分は、師範(学校)の時に本を買うのに苦労したから、お前には手紙さえ寄越せば本代くらい送金してやろう。」と、言ってくれており、「本代」としてかなりの無駄遣いをしていたからに外ならない。件の女主人から、本の前で「立ちんぼ」をしていると、「はたき」で足元を良くハタかれたことを覚えている。たしか、大学通りの「銀杏書房」という本屋であったと思うが、いまは見あたらない。また、「本屋」から「世界遺産で紹介されている修道院の図書館(スイス、オーストリアなど)」を想起するが、ゲルマン民族の大移動で人々が本を読めない、文字を書けない(文盲の)混乱状態がヨーロッパでしばらく続いたようである。言語や宗教、生活様式がまるで違う民族が共生せざるを得ない「カオス・暗黒時代」がながく続いたものの、立派に文化的芸術的に再生(ルネッサンス)できたのは、「隔離された大修道院の大図書館」が混乱期にも生き残り、庶民への布教活動の中で、「文化・芸術再生のエネルギー」を育んだのではあるまいか。小生でも、本を読んでいるときは「大学の図書館」が一番理解し易い雰囲気を与えてくれた。学生の頃にたくさんの洋書を買ったものだが、中身を読んでいないものもたくさんあった。勤めだして、結婚して、所帯をもつようになると、社宅住まいで部屋が狭くなり、「蔵書」は、「紙の虫」以外に、「空間占有」で問題化した。家内からは、「一年も読まない本は、二度と読まないでしょう」と、「断・捨・離」を説諭される。「この使えない数坪はもしお金に換えたらいくらすると思うの?」と言われれば、返す言葉に詰まってしまう。たしかに、狭くなった自宅では、ご主人様のスペースは家族のためのスペースに譲らないといけないし、図書館に行けば本はあるのだから。このような経過から、いまでは、和書、洋書はほとんど無くなったので、図書館か、手っ取り早くはWEBに依存せざるを得ない。10年前は、WEBにはなにもなかったが、いまは、良識のある人々が懸命にWEBの充実に加わっており、参考となる情報、まったく利用価値のないものも、ふんだんにある。ただ、玄人(史実を知る人)、素人(史実を知りたい人);性格の正しい人(史実に基づく情報を伝えることの好きな人)、性格の正しくない人(わざと誤った情報を流して楽しむ人);いろいろだから、取捨選択する本人の才量・感度を高める意外に方法はない。「大修道院の大図書館」のような役割をWEBが果たすにはまだまだ時間がかかるだろう。おっと、著作権も関係する。ここにも経済的で複雑な問題がありそうである。WEBを参考にしたと言えば、COPY PAPER と教授達には言われるだろうが、見当をつけられるくらいのDATAはWEBには備わりつつあるので、今後もWEBの厄介になるつもりである。とくに小生の呆け頭には、WEBは「有効!」よりも「技あり!」の判定だ。著作権問題があるので「一本!」とはいかない。
Sep 4, 2011
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半世紀前の学生時代には、歴史のゼミに入らずに、「たまたま本屋で学者先生が依頼していた「マホメット と シャルルマーニュ」なる英訳本(原書はフランス語)が飾り本棚にならんでいたのを面白く思って、買って下宿や図書館で読み始めた。本屋の主人にはあとで睨まれたが、件の大先生は笑って許してくれたようだ。外大出の有名な英語教師から、「英語の発音・イントネーションが悪い(小生は山の中の高校出)、翻訳に風情がなく、不正確」とレッテルを貼られた小生であり、この歴史本を読む素養は自分にも期待できなかったが、分厚い英和辞書、英英辞書などを参考に首っ引きで1年間追っかけ、案の定、消化不良に終わった。その後に、「ヨーロッパ世界の誕生」という立派な翻訳本があるのを知り、楽しく読んだことだった。いま、歴史についてWEBではいろいろな紹介や解説・解釈が自由に見られて面白い。しかし、専門の歴史書自体が史実に基づいて正しいといえるか、征服者側にねじ曲げられているのか、怪しい部分もあるように、WEBの短い文章では「判断」もできない。自分の知らない部分であるからなおそうである。いろいろのWEB文を比較して、自分の「記憶も朧で、怪しい感性」に訴えるしかない。市立図書館などに行って調べるのに、時間はいくらでもあるが、根気がなくなった。ここに、記載するのはあくまでも自分が脳幹梗塞のリハビリのために挑戦していることであり、そのことをお詫びしてWEBの隙間で「自分への挑戦」をしばらく続けさせて欲しいと思う次第。あまり考えたり、パソコンを長く眺めていると、呆け頭には良くないとは思いながらではあるが。
Sep 3, 2011
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「ヴァイキング」は、「ヴァイキング料理」として我々にはファミリアーであるが、スカンジナビア航空ではいまなお航空機の名前に敬意を持って「英雄の名前」+VIKINGと、命名するほどである。また、彼等のVIKING船の「造船力」、「航海術」や「勇気」が伝わったからこそ、のちの「大航海時代が開けたのであった。以下では、歴史音痴の小生が呆けの予防のために、短時間にWEB内の情報をくっつけてみただけなので間違いは多く、浅い記述のはずである。スカンジナビア半島は、北は荒海で、陸はフィヨルドが奥深く入り込み、数千の島が入り組んで、陸上交通は困難を極めたが、紀元前6世紀にはカヌーなどの海上交通が発達していた。ゲルマン民族の一族・フランク族がNormans(ノルマンニ、北ゲルマン人)と呼ぶ、古スカンジナビア人は深いフィヨルドの奥地(深い入り江を意味する「ヴィーク」という古北欧語がある)に住んでおり、9世紀には「ヴァイキング」という言葉が現地で「海の遠征」を意味するようになったという。船首に強靱な竜骨(キール)を備え、船板を重ね合わせ強靱な構造船を造る技術をもち(彼等が現地に建設した木造教会もその技術を応用していて、屋根が鱗のように巧みに重なり合い、いまでも世界遺産として残っている)、たくさんの漕ぎ手による操船だけでなく、帆船による航海も可能であった。ただ、現代の船は快適な居住性がとやかく言われるものの、当時は屋根が無い人力か風力のみを動力とする船であった。彼等の航海術は、後のような「コンパス」による航海術を持たないものの、沿岸航海では「海鳥飛行パターン観測」、大西洋航海では「北極星」、「太陽」などの位置を確認することで補い、以前に航海した経験者を「パイロット」として雇い入れ操船させることで補った。彼等は793年6月イングランドのリンディスファーン修道院を最初に襲撃、さらにスコットランドの修道院も破壊し、イングランド、アイルランド、西フランク遠征をしばしば行った。西側を襲撃する人々(後に「ヴァイキング」という)とは別に、ストックホルム近くのヘルゲーはヨーロッパ大陸、バルト海沿岸、イングランドの国々との鉄、青銅、革、毛皮等の交易地として栄えた。ヴァイキングは815年にはアイスランドへ入植、982年グリーンランドを発見、さらにアメリカをコロンブスより早く発見したが現地人との抗争で入植は断念した。ゲルマン民族がイベリヤ半島まで西進した後を追った形で、北ゲルマンのヴァイキングは8世紀後半から11世紀にかけ、(わずか3世紀ほどの間に)ハンブルク、ケルン、ロンドンなどを破壊した。(1)フランス方面VIKINGノルマン人が911年にセーヌ川を遡りシャルトルの街を包囲したところを西フランク王国シャルル3世が撃破したものの、「ヴァイキング」の度重なる侵入に手を焼いて、その「ロロ」に臣下として王に服従させ、また、キリスト教に改宗させて、「ノルマンディー侯爵」に封じた。(2)ロシア方面VIKING他方、9世紀に入りロシアに向かった「ヴァイキング」は812年、リューリクがノブゴロド公国を建設し繁栄し、さらに南下して「オレーグ」はキエフなどにキエフ大公国(正式な国号は「ルーシ」)を建設し、さらに南下して「ビザンチン」に迫る。周辺国との抗争やキリスト教改宗などで息子の代には凋落し、1240年モンゴル来襲でキエフは崩壊した。(3)イギリス方面VIKINGイギリスでは、ローマ帝国が大陸のケルト人の勢力をそぐためにBC54年にローマ人を侵攻させ属領とした。5世紀前後にはゲルマン民族・サクソン人などの侵入で混乱があったが、「ケルト」と「ローマ」の人種融合(ブリトン人)とキリスト教化、および「アーサー王」の統治で復権した。その死後は再び混乱し、5世紀半ばにはゲルマン民族・アングル人が島の南東部を支配下に置き、「イングランド人」と名乗った。7世紀にはローマ教皇庁が大司教を派遣し教化をすすめ、布教にはブリトン人も協力し、半世紀あまりでキリスト教は復権した。最終的な侵略者が北ゲルマン民族の一派である「デンマーク・ヴァイキング」で、842年にロンドンを襲撃、886年には奪還された。イングランド王の支配は南西部、「デンマーク・ヴァイキング」(デーン人)の支配は北東部と、棲みわけの共存は約百年続いた。イングランド王・「無分別王」はヴァイキングとの戦いに敗れ賠償金を言うがままに支払ったとして、国民に馬鹿にされ、さらに無謀にも1002年デーン人の虐殺を命じたため、デンマーク王スウェインがその保護を名目に介入・上陸し、「無分別王」は王妃の里・「ノルマンディー公国」への亡命に追い込まれた。スウェインの死後、息子・クヌートはイギリス・デンマーク・スウェーデンを支配することとなった。クヌートの死後はその息子がイングランド王となったが、短命で死に、議会が後継者として任命したのが、なんと先述の「無分別王」と王妃に生まれた息子の「懺悔王」であった。「懺悔王」は敬虔なキリスト教徒で、子供が無く、議会は「スウェイン」の系統のハロルドを次期国王に任命する。ハロルドはフランスに亡命中「ノルマンディー公7代目のギョーム2世(イギリスではウィリアム征服王という)」に王位を譲る約束をしており、その口実から「ノルマンディー公ウィリアム」に攻め込まれ、また、北方に、たまたま「ヴァイキング」の侵入があってそれを撃退した直後、強力な騎馬部隊を中心にした敵軍に1066年敗れ去った。フランスでは西フランク王国の臣下であったが、イギリスではノルマン・コンクエストによるノルマン朝が成立したことになり、後の英仏百年戦争の遠因となる。(4)イタリア方面VIKINGシチリア島に王朝を築き、東ローマ帝国と十字軍の歴史にも関与している。後日に調べたい。
Sep 2, 2011
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先月末のこと、NHKのNEWS番組で市川市「ぼっけまち」で3人死亡の民家火災がありました、とのこと。痛ましい事故のようだが、最近、いやなもので、リンゼーさんをはじめ市川市には事件が多い。この地名は川がたくさん出合う場所を指すが、「健康都市いちかわ」宣言の街が犯罪が巣くう街では困る。小生は、「ぼっけもの」であるので、同じような「惚け者達」が集団で住んでいるところがあるのかと驚いたものだ。まさかとおもったが、調べると中山「法華」寺の「北方」の地を指す地名であり、現在は「北方(きたかた)、本北方(もときたかた)」なる正常な読みの地名の付近に、「北方町(ぼっけまち)」はある。民放のキャスターだが、東北大震災の緊急番組で「災害地名」を前もって調べる間もなく間違って読んでいる有名人がいて、気の毒に思ったことがあるが、「流石はNHK !」である。また、以前に、鹿児島県の地名は超難読だとこぼしたことがあるが、千葉県にも難しい地名があるのでWEBの力で呆けないうちに整理しておきたい。千葉市:生実(おゆみ) 登戸(のぶと)犢橋(こてはし)土気(とけ) 誉田(ほんだ)小食土町(やさしどちょう)市川市:香取(かんどり)国府台(こうのだい)稲荷木(とうかぎ)奉免町(ほうめまち)北方町(ぼっけまち)船橋市:行々林(おどろばやし)葛飾(かつしか)飯山満町(はさまちょう)神保町(じんぼうちょう)浦安市:猫実(ねこざね)松戸市:幸田(こうで)五香六実(ごこうむつみ)三ヶ月(みこぜ)主水新田(もんとしんでん)勝浦市:墨名(とな)部原(へばら)浜行川(はまなめがわ)東金市:求名(ぐみょう)大豆谷(まめざく)柏市:十余二(とよふた)篠籠田(しこだ)逆井(さかさい)船戸山高野(ふなどやまごうや)若白毛(わかしらが)市原市:海士有木(あまありき)飯給(いたぶ)不入斗(いりやまず)廿五里(ついへいじ)印西市:木下(きおろし)佐倉市:生谷(おぶかい)神門(ごうど)中尾余町(なかびよまち)野狐台町(やっこだいまち)八千代市:神久保(いものくぼ)我孫子市:我孫子(あびこ)都部(いちぶ)岡発戸(おかほっと)高野山(こうのやま) 下ヶ戸(さげと)中峠(なかびょう)日秀(ひびり)鴨川市:横渚(よこすか)貝渚(かいすか)打墨(うつつみ)太田学(おだがく)金束(こづか)主基西(すきにし)北風原(ならいはら) 八街市:砂(いさご)文違(ひじかい)八街(やちまた)その他市:匝瑳(そうさ)丁子(ようろご)神々廻(ししば)郡部:猿楽場(さかくば)酒々井(しすい)安食卜杭(あじきぼっくい)東浪見(とらみ)このほかにも、「大栄」ICは「たいえい、TAIEI」と読むので、行きすぎないように。松戸市分実(わかさね)三矢小台(みやこだい)、市川市妙典(みょうでん)国分(こくぶん)なども間違えやすい。
Sep 2, 2011
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大元朝・フビライの指示の下に属領の高麗などが二度にわたり、若き執権・北条時宗の鎌倉時代に九州北部を襲った日本遠征を、元寇(げんこう)という。もし、義経伝説のように、ジンギスハーンが平泉から逃れた「源義経」であったら、その子孫は、わざわざ、強襲の時期を「台風のハイ・シーズン」に選ぶことは無かったし、また、襲来地を京都に近い北陸に選んだであろう。だから、小生はその伝説を信じられない。ともかく、ヨーロッパ侵入を諦めた大元大モンゴル国が、度重なる臣下としての姿勢を示せという要求を断固拒否した日本に巨大な軍船団で押し寄せたのは、倭国が混乱の中から、政治の中心を京都から鎌倉へ移して、やっと武家統一国家を築き始めたころであった。一回目の攻撃は、主戦力は属領の高麗による1274年11月の文永合戦(脅し程度で引き上げたらしい)、第2回目の攻撃は、高麗に続いて属領となった南宋も加わった、1281年8月の弘安合戦(日本側も防塁線を構えた本戦)である。「ゼロ戦」を「神風特攻隊」といって太平洋戦争で米軍は恐れたが、この「神風」が吹くことで、弘安合戦では朝鮮と日本を結ぶ岩礁の多い荒波航路を大帆船軍団が渡れず、上陸間際にも台風で大混乱が起きて、海の藻屑に消えて全滅したという。蒙古が襲来の時期を台風がない穏やかな季節に選び、上陸地点を荒波と岩礁が多い九州北部でなく、防塁が築かれていない鳥取や、金沢などの京都に近い、上陸しやすい別の港に選んでいたら、あのような大帆船軍団を日本はとても凌げなかったに違いない。不幸な例で申し訳ないが、横田めぐみさん達の連れ去りが行われた浜辺などには、外国船がやすやすと夜陰に紛れて入船できるほどであり、日本は海岸線が長く国の防衛は大変であるからだ。現在では、戦略偵察機、電子偵察機、偵察衛星などがあり、ミサイルでも見逃さないように見張っており、日米の堅い防衛体制が敷かれてスクランブルできるのだが。いずれにしても、小生の家の衛星写真がネットで見え、自家用車や干し物まで映される時代なのだ。もっとも、台風だって、「目」が気象衛星からみえるので、「神風」とはならなかったとおもう。ついでであるので、倭寇(わこう。和寇とも表記する。)について述べる。13世紀~16世紀に朝鮮半島、中国大陸、東アジアの沿岸・内陸で活動した貿易商人(密貿易をふくむ)、海賊などの総称で海乱鬼(かいらぎ)ともいう。倭寇を構成していたのは、当初は日本人と高麗人で、後半はほとんどが中国人であったらしい。また、倭寇と言う言葉は、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮出兵、日中戦争の日本軍も「排日感情」の表れとして、現地では「倭寇」と呼ばれた。さらについでで申し訳ないが、東南アジアの現地人に慕われた日本人を一人だけあげておきたい。江戸時代前期の1612年に朱印船で長崎→台湾→シャム(タイ)に渡り、日本人傭兵隊に加わり、日本人町の頭領となった山田長政である。長政は、シャム王から知事に任命されているが、華僑勢力との争いのなか、傷に毒を塗られて死に、日本人町も焼き討ちされている。日本は、中国大陸から分離した列島であり、この地域の人々は人種的な祖先を共有しているものの、あまりに近いために、鮎(でなく時々、蜂のような攻撃を行い困るものの)が縄張り意識を持つように、互いに衝突した不幸な時期が多々あった。いまは、中国の首相が、日中韓などのアジアの国に「互恵の精神」で行こうと言っている。「覇権」を陸海空に主張しては、この地域には平和は来ない。だれのための「互恵」かよく考え、「この地域に住むみんなが笑顔でくらせる」ような環境をつくる時期ととらえたい。歴史音痴の希望である。
Sep 1, 2011
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