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早朝6時過ぎに、重たい体を押して、「胡椒マニア」に挨拶に行った。彼は今日旅立つ。物理的には大きな距離を移動するわけではないが、全く違う世界への大きな旅立ちだ。彼は今日から仏門に入るのだ。ボダナートの近くにある「ドジョム・ゴンパ」に入り修行を始める。「始めはチベット語の勉強が中心になりそうだ」と言っていたが、これから約4ヶ月はみっちりとしごかれるらしい。当然酒もたばこも禁止だ。愛煙家の彼にとってはこれが一番辛いのではないだろうか。とにもかくにも今回の僕の病気で一番世話になった人の旅立ちだ。ちょっとよろけそうになりながらも、彼の前途に精いっぱい祈りを込めて彼を送り出した。彼は笑顔で僕に答えてくれたが、彼の様子から不安で一杯であることが容易に推察できた。彼とはまたいつか必ず再会したいと思っている。そして、その時に彼がどのように変貌しているか、今からとても楽しみだ。 結局、今日のバンコク行きはかなわなかった。そもそも今日のお昼にタイ航空の便は存在しないのだ。けれども明日のお昼のタイ航空便が取れた。時節柄混んでいる時期で、エコノミークラスは取れなかったが、ビジネスクラスに1席だけ空席があったらしい。エコノミーUS220$、ビジネスUS314$とそれ程大差はない。「お祭り兄ちゃん」にいわせると、そういう衰弱した状態だったらむしろビジネスクラスの方がいいだろうと言ってくれた。 この「お祭り兄ちゃん」と「ミホちゃん」も明日の早朝インドに向けて旅立つ。二人とも体の調子がいまいち本調子でないのが不安ではあるが、彼らは旅の期間がそれほど長いわけでもなく、だからもうインド行きを決行するのだと言っていた。本来なら僕も「ラフティング」「ダージリン」コースを放棄して、彼らと一緒に直接バラナシに入ろうかと思ったのだが、体の不安が先に立ってしまい、彼らと行動を共にすることはあきらめた。彼らには本当に無事旅を続けて欲しいものだ。 結局今日も腹に収めることが出来たのは、ハムエッグ一皿で、体の衰弱も激しかったのだが、気力は少し上向きになってきている。なによりバンコク行きを決めたことで事態が改善に向かっているような気がするのだ。ちなみに今回の騒動で体重がかなり減っているような気がする。体が軽い。
2004年09月30日
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決断の時だと思う。相変わらず体は回復せず、食欲も沸いてこない。今日もハムエッグを一皿食べただけだ。夜みんなに誘われてレストランまで行ったが、その匂いをかいだだけで吐き気をもよおし、一人先にホテルに帰ってきた。もう、限界だ。体はますます衰弱していき、気力も落ちはじめている。まだ、気力が少しでも残っているうちに、何か手を打たないとこれは大変なことになり兼ねない。かといってネパールの医者にかかるのはもう嫌だ。 バンコクだ。そう考えていた。ここから直接飛んで行ける信用のおける大都会(この際デリーやカルカッタなどは信用のおけない大都会である)はバンコクくらいのものだ。それにそこまで行けば親友の次郎が居るはずだ。それだけでも大きな心の支えになる。 こうなってくると、陸路の旅にこだわっている場合ではない。早速明日のフライトの手配をホテルにお願いする。けれどももう遅いので明日の朝のフライトの手配は間に合わないとのこと。昼のタイ航空の便なら何とかなるかもしれないので、明日の朝返事をしてくれるということだった。とにかくバンコクでそれなりの医者にかからなければ、旅を続ける自信が無くなってきた。
2004年09月29日
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食べなくちゃいけない。それは良く分かっている。でも食べられない。それがまた辛い。食べ物のことを想像するだけで吐き気がする。かろうじて食べられたのがハムエッグだった。今朝、頑張って近くの洋食屋に行って一皿平らげた。けれどもそれが精いっぱいで、ホテルに帰ってくるなりまた横になってベットから動けなかった。こんなんで明日に延期をしていたインド行きがかなうはずが無い。「お祭り兄ちゃん」にお願いして、旅行自体をキャンセルしてもらってきた。もう気力も失せはじめている。これは危険な兆候だ。けれども不思議と日本に帰る気にはならない。これは最後のとりでなのだろうか。
2004年09月28日
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医者と相談して、やっぱり点滴を打ってもらうことになった。吐き気はすこしおさまって来たが、食欲は全くない。このままでは本当に衰弱してしまう。だから栄養剤でもなんでも点滴してもらうのが回復の一番の近道だと思ったのだ。 医者は最初躊躇していたが、僕の懇願に分かったといって点滴を買いに行ってしまった。ネパールは医薬が完全に分業で、医者といえども薬をいちいち薬局に買いに行かなければならないのらしい。かれはなんとブドウ糖の入った一本500MLの点滴を八本も買ってきて、それをすごいスピードで僕に打ち始めた。僕は点滴というのはゆっくりとするものだと思っており、一本に2時間くらいかけるのは普通だと思っていた。けれども何故か本当にすごいスピードで、一本30分くらいの速さで片付いていく。これがまた僕を不安にさせる。 また点滴をつるしておく台が無い物だから、誰かが点滴を持ち続けなければならない。今日は先生のほかに「胡椒マニア」「ナマコちゃん」「お祭り兄ちゃん」が部屋に来ており、彼らが交代で「人間点滴台」をやってくれた。またまた感謝である。それから「ミホちゃん」も僕と同じように高熱で倒れており、このインチキ先生に注射をされていた。結局点滴は午後一杯かかり、終わったが、残念ながらあまり体が回復したとは思えない。けれどももうこの医者には関わりたくないのと、それから他のみんなに心配を掛け続けるのも悪いのでちょっと元気なフリをしていた。 料金は全部で400ドル程であった。けれどもこの金額はホテルの人に言わせると破格に高いのだそうである。だからといって僕にどうすることが出来るわけでも無いのだが、そう言えばもう一人の医者の料金は25ドルだったことを考えると、ちょっと高い気もする。チベットでの時もそうなのだが、どうしても医者の料金の水準というのは分かりかねる。日本の場合は保険にに守られているので、それ程自己負担額が多くないだけに、保険が無い場合の料金というのにあまりピンと来ないのだ。ましてや外国である。それにこの種の支出というのは、日本で入ってきた海外旅行傷害保険で守られているので実際に僕の懐がいたむわけではないので、更に鈍感になってしまう。こういうのを「ボラれた」というのかもしれないが、こういう個人の医者の料金というのはあって無いようなものなのだろうか? ところで、頼みの点滴もあまり効果が無いとなると、あとはもうどうしようもない。いったいどうすればよいのだろう?
2004年09月27日
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熱は確かに下がった。昨日の注射が効いたらしい。体は高熱の時に比べたらずいぶん楽だ。けれども今度は吐き気が続いている。何も食べられない。午前中医者が様子を見に来て、その事を伝えたが「休んでいれば治る。それからとにかく水を沢山取るように」とだけ言ってさっさと帰ってしまった。彼のタクシー代のUS5ドルだけが消えていった。どうもあの医者は信用できない。水を4リットルも5リットルも飲ませて治療する方法なんて今まで聞いたことも無い。ちなみに昨日連絡がつかなかった医者もやってきた。彼の家の電話が壊れていたそうだ。ここはやっぱりネパールだ。そして彼も適当な話だけを残して帰っていった。だんだんとネパールでの治療に不安を感じはじめてきた。 吐き気は午後になってもおさまらない。それでもなにか栄養を摂らなくてはいけないと思い、「胡椒マニア」に買ってきてもらったパンを頑張って食べてもしばらくしたら全部吐いてしまう。水も言われたとおり頑張って飲むがこれもやはりだめだ。体が吸収を拒否してしまっているのだろうか。 夜にやってきた医者にその事を話す。ここが日本だったら栄養を摂るために即刻点滴を開始するところだ。そうお願いするのだが医者はなぜか嫌がる。明日の朝もう一度様子を見てそれを見てから決めようと言った。 体がだんだんと衰弱しているのがわかる。本当にこんなんで大丈夫なのだろうか?
2004年09月26日
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全く本当に嫌になってしまう。また熱だ。昨日の状況でもう山を越えたと思っていたのにまた熱だ。本当に僕の体はどうなってしまったのだろう。僕はまたもや朝からベットでうんうんと唸っていて、外へも出れない。昨日の状況を知っているみんなは、僕はもう当然回復しているだろうと思って、僕の部屋を訪れてくれない。最悪だ。 朝から何も食べれないし、起きあがれもしない。この白熱病というのはいったいどんな病気なのだろうか。そんな時、ひょこっと「胡椒マニア」が顔を出してくれた。そしてまた倒れている僕を見て驚愕している。例の医者に連絡してもらうが、どうしても連絡が取れない。そんなこんなしているうちに時間はもう夜の7時になってしまっていた。相変わらず体の調子は最悪だ。 ついにホテルの人が痺れを切らして、別の医者を呼んでくれる。今度の医者は初老の医者で僕の様子を見て全く違う診断を下した。「おまえは別に白熱病なんかじゃあない。ただ扁桃腺をはらしただけだよ」僕は喉が痛いと言った覚えは無い。なんとなくかゆい気がすると言ったら、かれはしてやったりという顔をして、僕の喉を見てうなずいてからそう言った。なんだかこの親父も信用できない気がする。扁桃腺を腫らした経験は何度もあるが、こんな症状ではなかった。けれどもここはネパール。郷においては郷に従うしかない。彼は僕に注射をすると行って、薬を買いに出かけていった。そしてその間に僕に水を1リットル飲みきるように宿題を残していった。 今回は「胡椒マニア」も「お祭り兄ちゃん」も付いていてくれていたのだが、その宿題を達成させる監視役を仰せつかってしまい、彼らまで僕に「水を飲め飲め」言ってくる。けれどもそんなに水ばかり飲めるものでもない。こっちはちょっと吐き気までするのだ。 医者は大量の薬と注射液を持って張切ってかえってきた。そして薬を調合して手の甲のところに太い注射を打ち込む。そしてまた大量の薬を飲ませる。けれども僕は吐き気が続いていて、その後更にまた水を飲むよう迫るものだから飲んだ薬をほとんど全部吐き出してしまった。けれども医者は「ノープロブレム」と澄ました顔で帰っていく。帰りがけに医者は恐ろしいことを言って行った。1リットル入りのペットボトル2本を指して、「これを全部飲みきるまでは寝てはいけない」というのだ。おいおい、それはないぜという感じだ。 「胡椒マニア」も「お祭り兄ちゃん」も僕に同情はしてくれたが、それでも一本飲み干すまでは許してくれなかった。彼らは僕のために2時過ぎまで寝ないで看病してくれた。もうこれには感謝感謝である。
2004年09月25日
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今日はなかなか気分が良かった。って、なんだか最近旅行日記を書いているのだか闘病日記を書いているのだかわからなくなってきた。まあそれはさて置き、とにかく気分が良かったのだ。熱もそれ程上がらず、高くても37度台前半で収まっていた。歩く気力も出てきて、食欲も少しずつだが回復してきている。ただし医者から肉や硬いものを食べてはいけないだのなんだの散々脅かされているので、食べれるものも限られていた。 けれども、インドへの明日出発はちょっと無理そうだ。再三の変更で申し訳ないが、また出発日を変更してもらうことにした。「胡椒マニア」にお願いして、旅行会社に掛け合ったもらうとあっさり29日の出発に変更してくれた。しかも追加料金なしだ。これはありがたい。ちょっとインドが遠のいたのと、このゲストハウスに長居するはめになってしまったが、まあそれはしょうがないだろう。これならもっと安い所にすればよかったとも思ったが、「胡椒マニア」や「お祭り兄ちゃん」それに「野人君」の助け無しにはこの病を乗り切れそうにもなかったので、これでいいのだ。 ちょっと元気になった僕は昼は例の「富士」に行ってざるそばを食べる。まさしく日本のそばだ。夜は「ミホちゃん」とインド帰りの青年をさそって「ふるさと」でおじやを平らげた。なんだか本格的に回復の兆しである。山は越えたようだ。食事以外はホテルでのんびり本を読んでいたのが良かったのかもしれない。しばらく休んでいれば体力も回復して、また元気に旅が続けられることだろう。
2004年09月24日
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夜中に何度か目を覚ました。寒くて震えが来るのだ。これは坐薬の効きすぎで体温が必要以上に下がったのかななんて勝手に解釈していた。けれども朝になると今度は猛烈に体が熱かった。熱を測ってみるとついに39度を越えていた。はっきりいって起き上がる気力も無い。助けを求めに「胡椒マニア」の部屋を叩くがあいにく留守で、とにかく戻ってきたら僕の部屋に来てくれるよう伝言するのがやっとだった。 起き上がる気力も無く、熱にうなされながら夢と現実の間をさ迷い続ける。そんななかお昼前にようやく「胡椒マニア」が来てくれた。彼は昨日の夜僕が元気に回復しているのを見て、もう大丈夫だろうと思っていたらしい。そして、最近知り合った日本人のおじさんに昼食を誘われたのだがなんとなく帰らなくちゃという気になって一度ゲストハウスに戻ってきたのだそうだ。そうしたら案の定僕が倒れて唸っていたというわけだ。僕の思いがつうじたのだろうか。 彼に事情を話して、今度はホテルの人にネパールの解熱剤をもらうことにする。現地の病気には現地の薬で治すのが一番だ。そうするとあら不思議、熱はまた一気に下がったではないか。体がどんどん楽になってくる。食欲だってちょっと出てきた。「胡椒マニア」が買ってきてくれたチョコレートやパンをむしゃむしゃとかじりつく。思えば昨日の殺人的にまずいパスタから、まともなものは食っていない。腹も減るはずだ。ところがこれでまた安心したのが大間違い。薬が切れた頃からまた熱が上がりはじめ、またうなされるはめに陥る。同じ事の繰り返しだ。そして、またベットから起き上がれない。「胡椒マニア」も部屋にはいない。ベットで苦しんでいると、今度は「お祭り兄ちゃん」と「野人君」それに「ポリ公」が食事の誘いに来た。そして倒れて唸っている僕をみてびっくりして、「医者を呼んだ方がいいですよ」と言ってくれた。しばらく迷ったが、薬を飲んでも同じ事の繰り返しなので、彼らにお願いして医者を呼んでもらう。 結局、みんなは出払ってしまったが、医者が流暢に英語を操ったのでなんとか自分の意志を伝えることが出来た。彼はしばらく診察して、最後にこういった。「あんたはホワイト・フィーバーにかかったんだよ。これはネパールに来た外国人がよくかかる病気でね。特に心配する必要も無いから安心だよ。明日一日は安静にしていた方がいいけれど、明後日になればもう元気ばりばり全開さ。」そうして明後日の夜また来るからねと言い残して、自信たっぷりに出ていった。薬をいくつか処方してくれたが、それは僕が今まで飲んでいた解熱剤と抗生物質、それにビタミン剤だった。なるほど、病名が分かるとちょっと安心だ。イエロー・フィーバーが黄熱病だからホワイト・フィーバーはさしずめ白熱病というところか。 帰ってきた「胡椒マニア」や「お祭り兄ちゃん」、「野人君」にその話をすると、「なんか白熱って「のりさん」にぴったり」と笑われてしまった。薬のお陰で熱も下がってきたし、ちょっと精神的にも落ち着いてきた。
2004年09月23日
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悲劇の始まりだった。ここ数日微熱が続いているのは知っていた。3日前にちょっと熱っぽいなと思って体温を測ってみると37.4度を指していた。その時はシャワーを浴びたばかりだし、まあ当然といえば当然かとあまり気にせず、街を散策していた。けれどもその晩もう一度熱を測ってみても結果は同じだった。そんな日々が何日か続いていたが、体の方は結構元気で、だからさして気にすることも無く、いつも通り行動していた。 それに実はもう昨日インド行きの手配を済ませており、僕の心はすでにカトマンドゥになかった。僕の計画はこうである。まず明日23日の朝早いバスで川まで行き、そこで「ラフティング」と呼ばれるゴムボートでの川下りに挑戦する。ちょっと前に流行った映画「激流」と同じようなことをしようというわけだ。そしてそのラフティング終了後依然宿泊したチトワンのスカイラインジャングルキャンプに一泊。次の日に朝からバスに乗りジャナクプールという小さな街を目指す。ネパールでは本当に観光客コースしか歩んでいなかったので、違った側面のこの国も見てみたい。そしてこのジャナクプールを中心としたエリアは民家の壁画が有名らしいので、そんな村落も訪ねてみたいと思い、この街に寄ることにした。そしてその後またバスに乗りネパールの東部の国境カッカル・ビッタを経てインドのダージリンに抜けようと考えていた。このうちジャナクプールまでのバスチケットまではもう既に予約をいれており、だから、もう明日の朝はラフティングに向けて出発できるのだ。 ところが、今日朝起きると体が重い。念のため熱を測ってみるとやっぱり37.4度を指していた。けれども今日は人と会う約束があるので、何としてもお昼には外出せねばならない。というのは日本で働いていた時の後輩の知り合いがここにいると教えられており、一度会いに行ったのだが、実はその人はとんでもない偉い人で、超高級ホテルの部類に入る「hotelMALA」の General Managerだったのだ。そのGeneral Managerが今日は昼飯をご馳走してくれることになっている。それも僕のリクエストでイタリアンを食べさせてもらえることになっているのだ。断るのも申し訳ないし、意地汚い僕は是非ともまともなスパゲッティーを腹に収めたかった。だから、ちょっと体がだるいのを押してでもなんとか頑張って出かけていった。 彼と適当に会話して、食事をしたが残念ながらスパゲッティーはどうレシピを間違えたのとてもスパゲッティーと呼べる品物ではなかった。ますます胃がおかしくなる。けれども結局2時間くらい話をしていただろうか、会話自体はなかなか面白く、ネパール人と日本人の共通項ネタなどでそれなりに盛り上がった。 けれども、自分の体調は一番自分が良く分かる。熱が確実に上がっていた。これは明日ラフティングどころではない。けれども今までの経験からこれから帰って寝れば明日の午後には熱は下がるだろう。そう思い旅行会社に出向いて出発を2日延期させて欲しいことを伝えた。旅行会社は特に追加料金を取るでもなく、簡単に認めてくれた。ホテルに帰って熱を測ると案の定38度を越えていた。本当は今日は「ライダー夫妻」のお別れ会をする予定だったのだが、残念ながら僕は参加できなかった。みんな僕の体を心配してくれていたが、熱以外はこれといった症状もないし、本当に大丈夫だと思って「大丈夫だよ」とのんきに答えていた。 日本から持ってきた解熱剤の坐薬を入れると熱はあっという間に下がっていった。これでもう安心と、のんきに一階のロビーで「お別れ会」から帰ってきた「胡椒マニア」や「お祭り兄ちゃん」と歓談していた。そういえば「ポリ公」も今晩ネパールに戻ってきて、だから話にはいっそう花が咲いた。 僕は心底「もう大丈夫だな」と安心しきっていた。けれどもこれはこれから始まる悲劇の序章にしか過ぎなかった。
2004年09月22日
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カトマンドゥまでやってくると、さすがに日本食のレストランがちまたに溢れている。どこか怪しげな「なんちゃって日本食」から「日本で修行してきました」というのを売りにしている旅行者用の安日本食(といっても現地の他の料理から比べたら、もうそれは十分に高い)そして明らかに駐在員か豪華旅行者をターゲットにした高級日本食までまあよくこんなにそろえたなというくらい色とりどりの日本食屋が軒を連ねている。 その中でも僕らのようなあまり裕福とは言えない旅行者が良く利用していたのは、「味のシルクロード」というなんだか良く分からない名前の日本食屋である。定食類がだいたい120ルピーくらいから食べられるという値段の他にも、「日本の新聞が読める」だとか「情報ノート」という旅人が思い思いの情報をつづったノートが充実しているとかその他の付加価値も加わって、現在カトマンドゥのタメル地区では一番人気の日本食屋と言っても過言ではないだろう。それに対抗してかどうか知らないが、今年になって似たようなカテゴリーに属する日本食屋が何件かオープンした。一つは「グリル富士」というレストランでもう一つは「ふるさと」である。残念ながら「グリル富士」には足を運べなかったが、「ふるさと」は「味シル」よりも中が日本的で、飯もこちらの方が明らかにうまかった。そのうちきっとこのレベルのレストランでは「ふるさと」の方が人気が出るに違いないと僕は読んでいる。 で、日本食もおいてあるでよというような「なんちゃって日本食屋」は問題外として、この「味シル」「ふるさと」レベルより少しリッチな中級レベルに「古都」と「串藤」という二つのレストランが登場する。この辺になると「お茶」の他に「おしぼり」もでてきてしまう。料金も若干高めだが、それなりの料理が出てくるのでそれほど割高感は無い。まあ、「味シル」「ふるさと」が街の定食屋レベルで、「古都」「串藤」がデパートに入っているレストランというところだろう。「味シル」「ふるさと」の従業員が街のあんちゃん風なのに比べて、この辺はちょっと教育の行き届いたおにいさんという感じである。ちなみに何故か女性はいない。 街の定食屋、デパートの食堂とくるとあと残っているのはホテルに入っているような高級日本食であろう。いろいろと評判を聞くにこの街にはそのレベルに値する日本食屋が3軒あることがわかった。それが「槙」「富士」「田村」である。実際に「槙」と「田村」はこの辺では高級とされるホテルに入居している。このクラスになるともう従業員は全員が日本語ぺらぺらだし、制服だってピシっとそろっているし、ナプキンだって出てきてしまうのだ。僕はおとといの晩に「槙」、昨日の晩に「富士」そして今夜「田村」とこのカトマンドゥ三大日本食屋巡りを決行してきてしまった。もちろんその前に街の定食屋や、デパートの食堂も試しているので、容易に比較が出来る。 このクラスの日本食屋に行っての最初の感想はご飯である。お米が本当においしいのだ。他のクラスの日本食やもいわゆる僕らが日本で普通に食べている「ジャポニカ米」を出してくれているのだが、炊き方が違うのか、そもそもお米が違うのか、とにかくご飯の味が全然違う。中でも「槙」のご飯は絶品だった。味噌汁は「富士」の勝ちで雰囲気は「田村」が一歩リードというところだ。ただし、「田村」は僕らにとっては立地条件が悪い。「お祭り兄ちゃん」と「ミホちゃん」とで行ったのだが、タクシーに乗らなくては行けなかった上に、わかりにくくて散々道に迷ってしまった。 また、これらのレストランの雑誌の充実にも目をみはるものがある。というのは他のクラスの日本食屋では新聞こそ最新のものを取り揃えているものの、雑誌となるともう1年前の週間文春が転がっていたりするのだが、「槙」には一週間前の「週間朝日」がそろっていたし、「富士」に至っては「SPA!」や「FRIDAY」なんかの柔か系雑誌も一週間前の号がそろっていた。その外「富士」では日本のテレビ番組のビデオも各種そろえていて、それを無料で貸し出してもいるのだ。 ぼく個人の感想ではこの中でも立地条件や雑誌の充実、値段と質の兼ね合いなどを考えると「富士」が一押しだろうと思う。ここはタメルからも近いし、メニューも充実している。それに高級といわれるこのクラスでも日本円で 1000円から2000円も出せば充分豪華にやれる。(これが日本だったら5000円~10000円行くのはまず間違いないので、絶対にお得だ)ただしワサビは色だけで全然辛くなかった。
2004年09月21日
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僕が今とまっている宿は結構タメルの中心地から離れている。それは、それで落ち着いて良いし値段の割にサービスは良いし特に大きな不満も無かった。毎日きちんとシーツを取り替えてくれるなんてこの値段のホテルではまず望めないサービスだ。屋上のカフェテリアからの眺めもなかなかで、先日訪れたモンキーテンプルも奇麗にみえる。何よりも人が良い。けれども、なにせ中心から離れているがためにどこに行くにも少し不便である。それだけが難点だった。これは自転車を借りることでほぼ解決していたが、一日150ルピーとポカラの3倍の値段を負担しなければいけないのはちょっと懐がいたむ。でも他のところでは平気で250ルピーと言われていたのでこれがこの街での妥協点なのだろう。 さらに、チベットやネパールで知り合った日本人仲間からはこのホテルはなかなか不評だった。何かの用があって、僕に連絡が取りたい時も僕がどこに入るのかさっぱり分からず、連絡の取りようが無いのだそうである。僕がとまっているHOTELRAMADAは有名なガイドブックにも乗っていないほど小さく辺ぴなところにあるのである。だから、たとえば昼飯を一緒に食おうと思っても、どこかの寺に一緒に行こうと思っても誰も僕を誘うことができないと言っていた。僕としては、現にみんなで夕飯を一緒に食う機会もそれなりに持っているわけだし、日中は思い思いの行動を、適当にしているのでそれは、それで良かったのだが、なにせ中心から離れているのがいろいろと不便が多い。食事一つとるにも、旅行会社に行くにも自転車をえっちらおっちら漕がねばならないことに少々うんざりしているところだった。 だから、今日は朝からホテルをチェンジして一気に中心のホテルに移る積もりでいた。どうせこの街には居てもせいぜいあと3日だ。このあとインドに向かう手配をするにしても、バスターミナルに行くにしても、タメルの中心の方が絶対に便利だ。さて、どこのホテルに行こうか。 この街には散々長く滞在しているので、ホテルの値段や評判もそれなりに耳に届いている。その中で、以前とまっていたマルコポーロはかなりのヒットの部類に入るらしいことが分かっていた。今回もマルコポーロでも良いのだが、それでは何か面白くない。折角だから他のホテルも試してみたい。いろいろ考えたのだが、むしろ否定的な意見ばかり耳にする「フジ・ゲストハウス」に行こうかとふと思った。ここに行けば「胡椒マニア」や「お祭りお兄さん」が居るし、そろそろバングラディッシュに行っている「ポリ公」もここに帰ってくるはずだ。ゲストハウス自体の評判はそれほど良くないが、けれどもやっぱりここまで人がそろっているとそこに引かれてしまうものだ。だから僕は歩いてフジをいったん目指すことにした。 途中で日本へ送り返す荷物の郵送手続きをする。自分で郵便局に行って手続きをするととても安く上がることは分かっているのだが、街に溢れている旅行会社で手続きをお願いすることにしてしまった。ネパールは内陸国だからなのか、航空便と船便にそれ程差が無いのが面白かった。けれども航空便の場合は荷物が空港に留め置きになってしまい、僕の場合は誰かが千歳空港まで荷物を取りに行かなければならない。それはとても無理な相談なので、3ヶ月くらいかかるが家まで配送してくれる船便を選ぶことにした。大理で買ったパーカーやポタラ宮で買った本などの大物を送ると、バックはずいぶん軽くなった。料金は日本円で4000円ほどだった。 積み荷を詳しく書かなければならなく、ラサで買った象の置物をどう書けば良いか迷っているといきなり係員が「two elephants」とさっさと書いてしまった。いきなり積み荷が「象二匹」なんて、なんだか変な感じがするが、まあ届けば文句は無い。 フジ・ゲストハウスには難なく潜入成功。さっそく「胡椒マニア」に挨拶して、今日は郊外にある「ボダナート」というこれまたやっぱり有名なチベット寺院を目指した。ここは寺と言うよりも巨大な仏塔といった方が正しいだろう。鏡もちをいくつも重ねたような建物のてっぺんに顔が付いていて、その周りにもう沢山のマニ車がついている。ただそれだけのもので、中に入れるわけでもなくちょっと期待外れだった。実はこの周りに「ゴンパ」と言われるいわゆるチベット寺院が散在していて、そういう寺が集まっていることでこの辺は有名なのだが、どの寺も門がかたく閉まっていて、とてもここで観光させてもらえるような雰囲気ではなかったので、僕はしょうがなくそそくさと引き上げざるを得なかった。 ちなみに「胡椒マニア」はこのボダナート周辺にある「ドジョム・ゴンパ」に入門して本格的にお坊さんになるのだそうだ。今回はまだ様子見に来ただけだと言っていたが、結構真剣に考えているらしくそのために前からチベット語の勉強もし、今回もしっかりと紹介状を携えてきている。旅に出るといろいろな人に出会うが、彼も僕がいままで出会った人から考えると、相当ユニークな部類に入る。だから旅はおもしろい。 ちなみに、ボダナートをさっさと切り上げた僕はその足で旅行会社に向かった。そろそろネパール脱出計画を練る時期だ。ただ、この先どのようにしてインドに抜けるか少し迷っている。そのままバラナシまで下りていっても良いし、ちょっと東に寄り道してダージリンを回っても良いなと思っていた。とにかく今日は情報だけを仕入れて、明日の朝までいろいろと考えることにした。 夜は早速「お祭りお兄さん」の部屋で「野人君」を含めて夜中まで酒盛りをする。まあこのためにこのゲストハウスに移ってきたと言っても過言ではない。結局深夜2時頃まで盛り上がって、いい気分で布団に入った。
2004年09月20日
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最近日本人と行動する機会が増えているし、街自体も外国人仕様になっているので、レストランの中などにいるとここが一体どこなのかわからなくなる時がある。この辺は英語も普通に通じるからなおさらだ。けれども今日、やっぱりここはネパールなんだという事件が二つ起きた。 一つ目はインターネットだ。残念ながらこの国にも我がIBMネットのアクセスポイントは無い。だからどこが外国に電話してアップデイトなりメールを読むなりしなければならない。前回の更新が8月25日でまた一ヶ月近く経ってしまったので、できればここから更新したいと思っていた。幸いパキスタンにアクセスポイントがあり、そこまでの電話料金は比較的安いので手近な電話屋さんに入って、電話をかけさせてもらった。 ところがである。電話が全然繋がらない。これはネパール~パキスタンという電話回線がいかにも粗悪そうな2国なのでそうなのだろうとおもって、それですこしお金を奮発して日本や香港にも電話してみる。ところがである。一応応答はあるのだが、「ビーヒャラララララララ」という音は聞こえるのだが、それも途切れ途切れでその先に進んでくれない。何度もトライしてみたが全然だめだ。というわけで更新はあきらめざるを得なかった。そして何にもしていないのに電話料金3000ルピー(6000円!)が消えていった。 ただし、その店の連中ととても仲良くなり、お茶をご馳走してくれたり、いろいろな話に花が咲いて面白かった。一人が外国のお札を集めていると言うので、中国とモンゴルのお札をあげたら、宝石をくれた。彼は宝石屋なんだそうだ。ちなみに昨日この国の政治のリーダーが亡くなったそうで、それで今日はお店がすべて閉まっている。だからみんな暇で、いろんな所にたむろしているのだ。しばらくするとなにかのパレードが始まった。多分彼の追悼パレードだろう。 今日は「胡椒マニア」とネパールダンスの店に行くことを決めていた。街をフラフラしているとまたいろいろと再会はあるモノで、ポカラで別れた「ライダー夫妻」にあっさり再会。それからひょんなことからラサで別れた「チャリダー候補」にも遭遇する。二組には今日の計画を伝えておいて、夜の再会を誓った。ところが約束の時間に集合場所のフジゲストハウスに行くとネパールダンスの店を紹介してくれるはずのネパール人がいない。しょうがないのでこれらのメンバーに「ミホちゃん」「ナマコちゃん」「お祭り兄ちゃん」とその同室で何故か「野人」と呼ばれてしまっているかわいそうな人9人で食事に繰り出す。 そこで「ああここはネパールだ」と思わせる二つ目の事件が僕を待ち構えていた。カメラを入れるのに使っていたバックを足元に置いておいたのだが、気が付くとそれがすっかり消えていたのである。誰かがそんなことをすればすぐに気が付くような所に置いておいたのに、プロの犯行というのはすごいもので、まったく気が付かなかった。本当に、本当に不幸中の幸いだったのは、カメラを机の上に置いておいたので、それが無事だったことである。まったくこの国は物騒だ。そういう盗まれ方をしたのは、初めてだったのでとても悔しい思いをした。 鞄の中にはたいした物は入っていない。香港で買ってあまり使っていないデジタルカメラ用の望遠レンズと広角レンズそれに日本で2万円以上もしたレイバンのサングラスとちょっとだけ度が入っている眼鏡が痛かったが、それほどの被害でもないだろう。ただ、そのなかにアドレス帳があったのが残念だった。全部コンピュータに入っているので大丈夫なのだが、ただ一つ卿城からの過酷なバスで苦楽を供にした「星座博士」の住所をなくしてしまったのが残念だ。「星座博士」君、もしこのHPを見ていたら僕にもう一度住所を教えてください! しかし本当に悔しい。旅人のその国の印象というのは、こんな些細なことからズタズタに崩れていくものなのである。いままでこの国の印象がとても良かっただけにとても残念な事件だった。けれどもこれも自分のリスク管理の甘さからきていることなので、しょうがないんだろうなあ。
2004年09月19日
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カトマンドゥのタメル地区を歩いていると、もう沢山の人から、それも日本語で声をかけられる。たいてい「トモダチ」から始まって「ミルダケネ」と自分の店の商品を売ろうとする。買う気が無いと分かると今度は「リョウガエ」と闇両替を勧めてくる。パターンだ。そして薄暗くなった頃から今度は街をフラフラと歩いている男達から「ガンジャ」と小声で声がかかりはじめるのだ。そう「ガンジャ」とは「大麻」のことらしい。 けれども、何故か僕には声がかからなかった。「ライダー夫」は茶パツに長髪といういかにもな感じだったので、100メーター歩けば5人くらいから声をかけられる程だったのに、僕にはやる気のない親父が一人「惰性で声をかけてみました」という程度の声のかけ方で「ガンジャ」と話し掛けてきただけだった。実は僕は今までの旅の過程で、「ガンジャ」が溢れている場所を何度も通り抜けてきたらしい。中国の大理などはその典型で、溜まり場的な宿には「ダイリーズ」なる長期滞留組みがいて、そこでは毎日のように「ガンジャ・パーティー」が開かれているらしい。そんな大理の街でも、僕はついに声をかけられることはなかった。いったいどうしてなのだろう? 僕も「大麻」は「たばこ」なんかよりよっぽど健康には良い事くらい知っている。それに「大麻」は「麻薬」ではなくてあくまでも「大麻」なのだ。「麻薬」とは「LSD」や「ハシッシ」などを指すものである。だからという訳ではないが、なんとなく一度くらいは経験しておくのも悪くはないななんて漠然と考えていた。けれども、全く声もかからず、周りに「ガンジャ」狂いの友人もいず、だからそんな機会も逸していた。 今日はまた自転車でいろいろと街を回ってみる。今日はホテルから見える街の西外れにある寺を訪れることにした。本来の名前は忘れてしまったが、別名「モンキーテンプル」と言われていて、猿が沢山居ることからこんな仇名がついたらしい。高台にあるので、途中で自転車を押して、ようやく入り口に到着する。自転車を手近なところに止めようとすると、いきなり「50ルピー」と言われる。そんな金は払う気はない。その場を離れて他のちょっと離れた場所に止めることにする。金額は20ルピーまで下がったが、僕には関係の無いことだった。 ネパールでなくても観光地ではどこでもそうなのだが、こういう所には僕らを札束としか思っていない輩が、いつも徘徊している。今の自転車男もそうだが、本当に親切そうに付いてきて、いろいろと寺のことを説明をして最後にガイド料を請求するという姑息な手段にでる奴等も沢山居る。こっちとしては、「親切なネパール人」に会えてラッキーだとかなんとか思っている時に、いきなりそんなことをされるものだから、思わず人間不信に陥ってしまう。僕はそんな話を良く聞いていたので、人が付きまとってきても「もし君がガイドだとしたら、一緒に来ないでくれ。そうじゃなければ構わないけど」と最初に言ってしまう。そうすると後味の悪い思いをしなくても済む。 今日もそんな男達を振り切って、寺へと続く膨大な階段を上る。すると一人の怪しい男が僕に付きまとってきた。なんだろうといぶかしげに思っていると、彼はどうやら「売人」なのだ。「へー僕もついに真剣に声をかけられたか」と妙なところで喜んで、彼と他愛もない話をした。話をしているとどうも彼の様子が普通でないことが分かる。おんなじことを何度も聞いてみたり、声の調子もおかしい。これは信用できない。だから彼の申し出はさっさと断る。彼も途中まではしつこく付いてきたが、やがて僕といても商売にならないことを察したらしく、彼はあきらめて帰っていった。 寺の頂上からの眺めはすばらしかった。カトマンドゥの茶色い街全体が見渡せる。あまり高い建物の無い街なので、なんだかのっぺりとしている。猿は1匹しかいなかったが、代わりに犬が沢山いた。これなら「ドック・テンプル」と改名した方がよさそうだ。小坊主がいたので、デジタルカメラを見せてあげると喜んで早速自分も取ってくれとせがまれた。盗み撮りのように人物を取りたくない僕としては、このデジタルカメラパワーに助けられることが多い。チベットの山奥でも、他の観光客が写真を撮ろうとするとお金を取っていた子供たちも、僕のカメラを見た瞬間、向こうから写真を撮ってくれと僕を付け回す始末だった。ここでもすぐに絵を見れるのを気に入ってくれて、彼らの写真を数枚とった。 帰り道に、一度ちょっとだけ話したことのある日本人に会った。寺の入り口の近くだったので、「これから寺ですか?」と聞くと彼からは意外な答えが帰ってきた。「いやあ今ガンジャを探しているんですよ。」彼のその言葉と表情を見て、僕はちょっとだけ背筋が凍った。彼の様子を見ていて、ひょっとしてこの世界というは「興味本位」だけで入っていってはいけない世界なのではないかと思った。1回だけというところから始まって、止められなくなり、そして旅の目的は「ガンジャ」探しに終始してしまう。それは、大袈裟なことではなく、実際そうなってしまう旅人が多いのではないだろうか。僕にはまだ1回だけで絶対に止められるという自信は無い。だったら、今、興味本位だけでそれを始めてしまって、取り返しの着かないことになりかねない。そう思った。 そんなことをいいつつ、隣で誰かが「ガンジャ」を吸っていたら、「じゃあ一口だけ」と試してみることがあるかもしれない。けれども自分から売人に近づき、進んで試すのだけは止めようと思った。 夜は「胡椒マニア」「植田さん」「リカちゃん」「ミホちゃん」それに「お祭り兄ちゃん」の例のメンバーで飯を食う。「植田さん」と「リカちゃん」は明日インドに向けて旅立つので、これでもう本当にお別れだ。だから最後に飯を食うことにしたのだ。だからといって、しんみりするわけも無く、とにかくみんなで旅の無事を祈って、盛り上がった。
2004年09月18日
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飛行機はやっぱりすごいなあと思った。あんなに苦労して走破したカトマンドゥ~ポカラ間を本当に30分で飛んでしまうのだ。40人乗りの小さなプロペラ機だったので、それほどスピードが出ているとも思えなかったがそれでも、道の整備があまり進んでいないネパールでは空を一直線に飛ぶだけで15~17倍のスピードで着いてしまう。本当に今までの苦労はいったいなんだったのだろうと嘆きたくもなる。 それにしてもヒマラヤは圧巻だった。残念ながらそこら中に雲が浮いていて、その雲の合間からちらちらと山をみるという状況だったのだが、それでも山は奇麗な表情を僕に見せてくれた。もうそれだけで満足である。ただ飛行機の窓の位置が悪くて、ずっと振り返っている形になり、首が痛くなった。 たった30分のフライトを終えて、カトマンドゥに付くと、空気がとてもひんやりとしていた。陸路の移動ではあまり感じられないが、飛行機で移動すると突然の気候の差に体が驚く。空港からはホテルの迎えが来ており、彼に着いて市内まで運んでもらった。ただし、今日はストでタクシーが無いので、重いバックパックを背負ってバイクの荷台にまたがるはめになった。 ちなみに、実はポカラでのホテルが大変気に入った僕は、その事を宿の兄ちゃんに告げ、彼の推薦でカトマンドゥでも同系列のホテルに泊ることになったのだ。そうすると彼は「じゃあカトマンドゥに電話しとくよ」と言って迎えの車をよこしてくれたというわけだ。今度のホテルは「HOTELRAMADA」というところで、タメルの中心からは少し離れているが、落ち着いた良い宿だった。なにより人がとても親切だ。ここも交渉してなんとか400ルピーにしてもらう。本当は25ドルの部屋何だそうだけど、ここはあまり値段があって無いようなもので、これで良いのだ。 すこし落ち着くと、早速インド大使館に向かう。 インドビザの取り方その2(受付時間は午前中のみ)1 掲示板に自分の名前が張り出されているかを確認する2 カウンターBに行き、自分の名前が張り出されている旨を告げ、更に前回もらったテレックスの領収証を見せる3 親父はやっと申請用紙とテレックスの領収証に何か記入して渡してくれる4 申請用紙に記入し(黒ペン・大文字)写真とパスポートと、テレックスの領収証をカウンターAに出す5 料金2300ルピーを渡し、領収証を受け取る これが第二回のプロセスだ。第三回目のプロセスは簡単で、その日の4時30分から5時15分の間にもう一度カウンターBに行くと領収証と引き換えに簡単にビザのスタンプの押されたパスポートが返却される。以上で晴れてインド入国がかなうわけだ。ちなみに今日注意書きを良く見ていたら、アメリカ人のみこの料金の他に追加料金1200ルピーが必要なんだそうだ。 最初の再会があった。といってもたいしたもんでもない。というと失礼になるが、「リカちゃん」と「植田さん」がまだ以前とまっていたホテルにいて、そこを訪ねていっただけである。夜、こちらの名物の「ジャコック」という鍋を食べようと盛り上がって、それであっさり別れた。そして僕は日本食のお店「古都」に向かった。ここは「味シル」よりは幾分高めだが、味の方もそれに比例しておいしい。注文したすきやき定食はまるで日本で食べているようにおいしかった。 飯を食いおわり、お茶でも飲んでいると唐突に二つ目の再会があった。「あれ、もしかして、のりさんじゃあないですか」と声をかけれられ、顔を上げるとそこには「お祭りお兄さん」がいた。ラサでいつも酒を飲んでご機嫌だったあのお兄ちゃんだ。本当に気の良い、一緒にいて楽しいお兄さんで(といっても僕と一つしか年は違わない)「ライダー夫妻」や「リカちゃん」などといつも「いまごろどうしているかねえ」などとうわさしていたものだ。そんな「お祭りお兄さん」がもう一人の日本人とそこにいたのだ。彼は僕らと同じ日にランクルをチャーターしてチベットのカイラス山を目指していた筈だ。話を聞くと無事そこまで到着して昨日カトマンドゥ入りしたとのこと。 彼らと一緒にビールでも一杯飲んで、それから日本大使館を目指す。「お祭りお兄さん」のところに大使館気付でなにか送ってきているかもしれないとのことだったが残念ながら何も来ていなかった。けれども初めて日本大使館なるものに足を踏み入れたが、とても立派で奇麗だった。大使館は国の顔でもあるので、これくらい立派でいいなと思った。ところで、「お祭りお兄さん」の話によると、僕がラサで同室で、いつもよる遅くまで盛り上がっていた「胡椒マニア」もカトマンドゥに来ているらしいことがわかった。さっそくホテルに会いに行き、夕飯を一緒に食べることになった。ちなみに「お祭りお兄さん」とその友人も今日の鍋仲間に既に加わっていた。 楽しくてにぎやかな夕食になった。鍋は量がいまいち物足りなかったが、それでも味はなかなか行ける。なによりも会話が一番のビールのつまみになる。盛り上がった僕らは二次会への繰り出す。いつか行ったカクテルバーへともう一度足を運んだ。その道すがらまた「のりさーん」と声をかけられる。「ミホちゃん」だった。「ガチャ」や「ポリス」と仲良くしていて、僕も何度も一緒に食事をしている仲である。その「ミホちゃん」にじゃあ飲みに行こうよと誘うと、実はもう一人友達がいるんで誘ってみますという。そうするとそれは「なまこちゃん」ではないか。というのは一回目にインド大使館に行った時に少し話をして、ポカラでもばったり道で会っていたのだ。 再会がいっぱいだ。世間って狭いんだなあと思った。こうして僕らは大所帯になりながらも夜中まで気持ち良く酔っ払ったのである。
2004年09月17日
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もう、十分休んだのだと思う。だんだんと体が元気になってきているのが分かる。今日はもう朝、6時過ぎにはさっさと目が覚めていて、なんだか体全体に「やる気パワー」が溢れている。いっちょ、チャリンコでも借りて、どこかに出かけてみようか。 チャリンコはあっさりと見つかった。一日50ルピー(100円)で、18段変速のマウンテンバイクだ。10歳くらいの少年が店番をしていて、彼はちょこまかと良く動く。けれども、名前も聞かれなければ、パスポートを預けれるわけでもなくデポジットを取られるわけでもない。そのまま持って行こうと思えばもって行けてしまう状況だ。こんなんで、盗まれないんだろうか? チャリを転がして、適当に街の中を散策する。外国人向けに明らかに用意されたレイクサイドやダムサイドを抜けてしばらく行くと、空港があり、その反対側に地元の人のためのマーケットが用意されていた。こころなしか、こちらの方がよっぽど活気があるように見えた。まあ、外国人用の街は現在シーズンオフ中でだから人がいないのも無理は無いのだが。帰りがけに生ジュースのスタンドがあったので試しに頼んでみると、目の前でオレンジの皮をむき、ジューサーでフレッシュジュースを作ってくれた。あまくておいしかったが、あまりオレンジ特有の酸味が感じられなかった。 そんな外国人用の街に帰ってきて、僕は湖を見ながら優雅な昼食を決め込む。その後、朝から張切りすぎて、更にとても高い気温に少しのぼせたこともありホテルでくつろぐ。今回のホテルの選択ははっきりいって大当たりだ。みんなに「お化け屋敷」だとかなんだとか言われても構わない。とにかくのんびりとくつろげるのが良い。周りもうるさくなく、かといって少し歩けばすぐに繁華街なので不便でもない。ルームサービスでコーヒー(40円)をとって、プライベートテラスでのんびりと山を眺めながら本を読むなんて、とんでもなく贅沢な気がする。けれどもこれで一泊US6ドル強なのだ。 実は、少し迷っていることがあった。もう明日にはこの地を離れ、カトマンドゥに戻ろうと思っている。その戻り方で迷っている。今までの経緯から行けば、ここはバスで戻るべきである。けれども、どうしても山がみたい。というのはここからカトマンドゥまでは飛行機が何本か飛んでいて、その飛行機からはヒマラヤが見事に見えるらしいのだ。料金US61ドル。その外に山を見るだけの為のフライトというのもあって、それはUS99ドル。山を見るためだけの目的だったら、このポカラ~カトマンドゥのフライトを利用した方が断然お得だ。それに既にカトマンドゥ~ポカラはバスに乗っていて、景色や風土はもう頭に入っている。陸路移動という今回の旅の大きなテーマを無視してでも、これは飛行機に乗る価値があるのだはないかと考えはじめたのだ。それにちょっとずるい言い方をすれば、地図の上ではすべて陸路で繋がる。 旅行会社に行って情報を集めると、このチケットはドルでしか買えないらしい。ルピーで買えるように交渉したら、不利なレートで良ければ構わないと言う答え。レートを聞くと1ドル61ルピーだそうである。ちょっとまて、僕は1ドル62で取り替えている。つまりなんと彼らが不利だと思っているレートは、僕にとってはまだ良いレートなのだ。後から計算すると結局1ドル得した計算になった。そんなんこんなんで、僕は明日、飛行機でカトマンドゥに戻ることにした。と言っても30分のフライトだ。明日はゆっくりと山を堪能することにしよう。 またチャリでふらふらとしていると、「ライダー夫妻」にあった。彼らもチャリを借りて一日アクティブに行動していたらしい。「妻」が僕に是非とも「デビット・フォール」と言う滝に行ってみるべきだと言う。「一見の価値がありますよ」と行き方を簡単に教えてもらった。本当は昨日のネパール人との約束の時間が迫っていたのだが、そのネパール人に事情を説明して約束の時間を少し遅らせてもらう。道すがらいろいろな親切なネパール人に道を聞きながら15分ほどで到着したその「デビット・フォール」はまさに一見の価値ありであった。 その滝は、遠くから見ると、「えっ、どこが滝なの?」というようなただの急流だった。けれども近くに行ってびっくり。地下深く抉り取られた穴に水が流れ込んでいる。その高さざっと30メートル程度だろうか。特に柵がしているわけでもないので、近くまで近寄れるのだが、足が竦む。なるほどこれは一見の価値がある。 約束のネパール人の所に行く。結局彼は文字がかけないのらしい。英語を話すことは出来るが、英語を読めるわけでも、書けるわけでもないのだ。だから僕に日本の友人に出す手紙を代筆してもらいたかったのだ。昨日の話ではちょっと良く把握していなかったが、そんなことならオチャノコサイサイだ。彼が言いたいことを適当にアレンジして文字にしていく。30分ほどで書きおわり、その場を後にする。彼は食事でもご馳走したいと言ってくれたが、今日は「ライダー夫妻」との約束があったので丁重にお断りした。そうすると彼が売っている売り物を僕にくれようとしたが、僕は特に報酬を期待して手紙を書いた訳でもないので、これも丁重にお断りした。 ライダー夫妻のホテルに行って、軽くビールでも飲む。僕は明日カトマンドゥに帰ってしまうので、ひょっとしたらこれでお別れかもしれない。旅人との出会いというのはこんなものだ。お互い移動を繰り返しているので、紙一重で再会できたり、そうでなかったりする。そんなことを話していると、突然電気が消えた。珍しく停電だ。けれどもあたりは意外と明るい。空を見ると真ん丸い月があたりを照らしていた。そういえば今日は満月だ。
2004年09月16日
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きっとこんなことを書くと、日本でまじめに仕事をなさっている皆様からは大いに反感を買ってしまうのだろう。けれども、旅人の間で良く言われている言葉に「一日一事」というのがある。これは、一日に一つ仕事をしたらそれで今日はもう他に何もしなくて良いという意味だ。そしてその仕事というのが、「手紙を書いて郵便局に出しに行く」だの「次の目的地への切符の手配をする」だの、日本にいればおよそ仕事のうちにも入れてもらえないようなものばかりである。長期旅行者というものは、だんだんとぐうたらになっていくものらしい。 その基準から行くと、今日は実にいろいろと活動した。まず手紙を書いた。しばらく筆無精になっていて、ネパールに入ってもう1週間が過ぎるのに、この国で最初の手紙だ。さすがに連絡を怠るといけないと思い、あわてて書いた。 それから、Tシャツを買った。ネパールのTシャツは、プリントものでは無くて、きちんと刺繍で模様が入っている。それが気に入っていたのと、日本から持ってきたTシャツがそろそろ本格的にくたびれてきたので、買い換えようとずっと思っていた。いい機会なので3枚も買ってしまった。やはり刺繍の複雑さによって値段が違うらしく、僕が欲しいものは結構複雑系なものばかりだったので少々高く付いたが、それでも3枚で500ルピー強(1000円程度)だった。一枚は柄は気に入っていたのだがTシャツの色が気に入らなくて迷っていると、僕のためにこれから縫うから、2時間くれと言われて、2時間後にはきれいに注文通りの品が出来上がっていた。 更に日本から持ってきて、不必要で困っていたトレッキングチェアーを売ることに成功した。といっても、たったの225ルピー(450円)にしかならなかった。まあそもそも捨てようと思っていたものだから、良しとしよう。今回日本から持ってきて唯一失敗だったのがこのトレッキングチェアーだった。この国のトレッキング用品店にいっても、みんなに「こんなの誰も買わねーよー」といわれてしまった。僕も確かにそう思う。 そのお金で傘を買った。日本から持ってきた軽くて小さくて丈夫な傘を、ラサからここにくる間に紛失してしまったのだ。そして、この国では何故か傘を見つけることを出来ないでいた。だから、紫の花柄というとんでもない代物ではあったが、三つ折り式の折り畳み傘だったので、思わず買ってしまった。重さもそれほど重たくはなかった。 それから本も売った。例の赤川本を結構な高値で売ってしまった。ちょっとうれしかった。その後道をてくてくと散歩していると不思議なネパール人に遭遇した。少しお話しましょうと店の中に案内される。商売の話ではない。彼は日本に結婚を前提に付き合っている彼女がいて、その彼女が大学を卒業したら日本に行くことになっているのだそうだ。しばらく前に日本を15日間だけ訪れて、家族などにも会って東京でネパールのアクセサリーの店を開くこともほぼ決まっているのだとも言った。けれども彼自身国を離れて日本に行くことに少なからず不安を持っていて、だからその話し相手になって欲しいと言う下りだった。10分ほど話をして彼とはまた明日話をしようということで別れた。その話が本当だとしたら、彼は単に日本人にそのことを話して、日本のことをいろいろと聞き、彼自身を安心させたいのだと思う。なんだか良く分からないがとりあえず明日また話をしてみようと思う。得に悪い奴ではなさそうだ。 「味シル」で日本酒などを飲んでいると、ライダー夫妻がやってきた。ステーキを食べようと思って僕を誘いに来てくれたのだそうだ。けれども昨日僕がステーキを食べて失敗だった話をすると、あっさりと「味シル」に切り替えて、また話に花が咲いた。そのあと場所を変えてケーキを食べになんて行ってしまった。そこのチョコレートケーキは絶品だった。 今日は沢山仕事をして、ちょっとくたびれてしまった。
2004年09月15日
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朝、6時半に目が覚めた。何気なくカーテンをめくって窓の外に目をやる。そうするとそこには突然のように山があった。手前の緑色の低い丘の向こうにヒマラヤがあった。アンナプルナとマチャプルナだ。青白く硬質的な山は、チベットから見た山とは明らかに表情が違ってみえた。眠い目を擦りながらもしばらくその二つの山を凝視する。今は雨季の終わりなので、山を見るのは半ばあきらめていたのだが、この突然の出来事に僕はちょっと驚いてしまった。案の定次に目が覚めた8時過ぎにはもうヒマラヤは厚い雲の向こうにあって、今日一日はその姿を現すことはなかった。 赤川次郎の本というのは、漫画的にぽんぽん読めてしまうものである。ポカラに入ってグウタラを決め込んでいる僕は、近くに古本屋があるのをいいことに、もうとんでもないくらい沢山の赤川本を買い込んできて、一気に読み漁ってしまった。今日一日で読んだのは ・ 三毛猫ホームズの追跡 ・ 卒業(セーラー服と機関銃その後) ・ 遅れてきた女神 ・ 静かなる良人 ・ 名探偵はひとりぼっち ・ 暇つぶしの殺人の6冊だ。良くこんなに読んだものだと自分でも感心する。でも読んだのだから仕方ない。もうしばらく赤川次郎はいいやという感じだ。このなかでは静かなる良人が面白かったが、その外はそれほど印象にのこらなかった。まあ、暇つぶしだから、こんなもんで良いのだ。ちなみにまだあと「黒い森の記憶」という本が一冊残っている。 夜は「植田さん」とステーキを食いに行った。彼と「リカちゃん」は明日もうカトマンドゥに帰ってしまうそうなので、今日でお別れだ。ただし残念ながらステーキはとてつもなくまずかった。おもわず残してしまった。肉の厚さがあまりにも厚いので、火の通加減がうまく行かないのだ。だから所によってはカリカリだったり、所によってはまだ生のままだったりして、とてもじゃあないが食えない。それにソースもいまいちだった。 ホテルに帰ると、その「リカちゃん」が僕に別れを告げにわざわざやってきてくれていた。少しはなしをして、彼女は帰っていく。だんだんと時期的にみんなが日本に帰っていく。みんなにこのページのことは伝えてあるので、このページを通じてみんなとの交流が続いていけばよいなあと思う。
2004年09月14日
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旅は、4ヶ月目あたりからが危ないのだそうである。どんな好奇心旺盛な旅行者でも、そろそろ旅に疲れてしまうのだそうだ。そして、その後惰性で旅を続けるようになる。旅に疲れると言うのは、妥当な言葉ではないかもしれない。肉体的に蓄積疲労が溜まってくるという意味ももちろんあるのだろうが、それ以上に、危険なことに、感動に対して飽きが来てしまうのだそうだ。それは景色に対してであったり、人との出会いに対してであったり、食べ物に対してであったりするらしい。 そんな話を聞いた時、それは僕には当てはまらないことだと勝手に解釈していた。自分が旅に疲れるなんて考えられなかった。そして、僕の旅もそろそろその4ヶ月めを迎えようとしている。 ネパールに来て、突然出不精になった。カトマンドゥのタメル地区にしても、ポカラのレイクサイドにしても、旅行者のために用意された街だ。その街の中だけをうろつくだけで、すべての用が足りてしまう。ホテルの中で過ごす時間が飛躍的に増えている。特に自分でもあきれるほど眠る。自分としては、この街の中にいてはネパールの表情が偏ってしか見えてこないのは分かっているので、せめて自転車にでも乗って、どこか遠くへ出かけたいと思っている。有名なお寺に行って、壁画でものんびり眺めたいとも思っている。そういう意味では感動に対しての飽きはまだ来ていないのかもしれない。でも、体が言うことを効かないのだ。どうしても気が付くとベットに横になる自分がいる。 かといって、体の調子が悪いわけではない。すこぶる快調だ。ただ、思えばチベットの旅はハードなものだった。だから知らず知らずのうちに肉体に疲労が蓄積していって、ネパールの用意された文明世界の中で少し気が緩んだのかもしれない。だから、体がここぞとばかりに「休もうぜ」と呼びかけてくれているのかもしれない。そう思うことにした。だから、この国では必要以上に行動することを止めることにした。そんな休息地点がどこかにあっても良いだろう。そういう考え方をすると、ネパールはそんな休息地点にぴったりだ。しかも、この後はインドが控えている。 インドについて、実は少し僕はビビっている。今回の旅の中で、アジアの他の国についてそんな感情は全く抱いていない。けれどもインドについては少し恐い。特に、最近多くの日本人旅行者が何らかのトラブルに巻き込まれて、行方不明になっていたり殺されたりしている事件を知っているので、すこし慎重にならざるを得ない。そして、その日本人旅行者というのは、多くの場合僕と同じバックパッカーだ。 同時に今回の旅の中で、インドは楽しみにしていた国の一つでもある。いままでの自分の常識がどこまで通用するのか、この目で見てみたい。良くインドについては、もうとんでもなく好きになるか、二度と行きたくないと言うかの二つに分かれると言われている。自分が一体どっちになるのか、とても楽しみだ。どちらにしてもインドの旅はタフになりそうである。 そんなタフな旅を目の前にしているのだから、やっぱりネパールは休息地点で良い。周りの言葉に惑わされず、のんびりと自分のペースでやれば良いのだ。 言い訳が長くなったが、そんなこんなで僕は今日もホテルでうだうだしていた。特にこの「お化け屋敷」はとても居心地が良いので、なおさらホテルを出る気が起こらない。午後、突然「ライダー夫妻」がホテルを訪ねてきてくれた。ポカラの「味シル」に僕が伝言しておいたのを見て来てくれたらしい。「妻」の体調はすっかり回復していて、昨日ポカラ入りしたのだそうだ。今はダムサイドのホテルに居るが、明日からこちら側に移るべくホテルを探し回っているのだと行った。僕の部屋の自慢のテラスでのんびりといろいろな話をする。 夜は「植田さん」が訪ねてきた。今日は彼と「リカちゃん」それに「ライダー夫妻」とイタリアンでも食おうということになっていて、待ち合わせ場所にこの「お化け屋敷」が選ばれてしまったのだ。僕はテレビのニュースでダイアナ妃特集を見ているところで、しばらく二人でテレビを見入ってしまった。ちなみにネパールではインドのテレビ放送が見れるらしい。 イタリアンはまずまずの出来だった。スパゲッティーの茹ではあまかったが、味はまあ良かった。うまかったのはピザで、生地がかりかりしているのが良かった。その外肉と魚をみんなでシェアしたが、魚は生臭くて良くない。デザートに食べたチョコレートケーキは生地がフワフワしすぎていてこれまた失格。けれども大勢でわいわい言いながら食べる夕食は、基本的に楽しい。だから料理どうこうよりもそちらの方で十分盛り上がった。 明日も一日グウタラしていようと思っている。だから、古本屋で軽く読める赤川次郎本を大量に買ってきて、明日に備えた。
2004年09月13日
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太陽が沈むと床に入り、日の出と共に目が覚める。ジャングルではそんな生活を繰り返していた。モンゴルでの生活を思い出す。今日、目が覚めるといきなり雨だった。予定では朝バードウオッチングをしてからポカラに向け出発する予定なのだがこれではのんびり鳥なんか見ている場合だはない。それでも小雨になったすき出かけていったのだが、案の定すぐに大雨が降ってきて、それで僕らは国立公園の入り口にあるちいさな美術館で雨宿りをするしかなかった。 ちなみに、今回僕らは国立公園の中には入っていない。国立公園の中に入ると、料金が倍以上に跳ね上がってしまうのだ。だから国立公園の外側に泊って、その辺をうろちょろしていたわけである。けれども公園の中に入らなくたってジャングルは十分堪能できる。これでいいのだ。 鳥は写真で見るだけであきらめて、僕らはホテルに帰ってきた。朝食をとって出発の準備をする。けれども雨は相変わらずのどしゃ降りで、僕らをバス停まで送ってくれる車はオープンカーときたものだ。バス停に付くまでに僕らはもうびしょびしょに濡れてしまったのは言うまでもない。ところで、今回の Skyline Jangle Campは滞在先として大当たりだった。このあたりには似たようなホテルが50以上もひしめき合っているのだが、はっきりいってこのホテルはそのなかでもかなりいい線行っている。とにかく人が良い。みんな親切で、僕らをもてなそうという心意気に溢れている。お金については二の次だ。そんな彼らと接しているとこちらも気持ちが良い。みんなで見送りに来てくれて、僕らは手を振って別れた。 ポカラまではだいたい5時間の道のりだった。こちらのバスは峠道を登る場合でもそれほど極端にスピードが落ちないものだから、ちょっと調子が狂う。カーブもけっこう乱暴に曲がり、睡眠を取ろうにも眠れない。仕方ないので窓の外の景色を見るが、緑の濃い熱帯植物が生い茂る車窓はそれほど代わり映えも無くすぐにあきてしまう。何故だか解らないが、最近バスの旅が苦痛だ。しばらくランドクルーザーで楽をしていたからだろうか? ポカラについた。といっても、バスはかなりの町外れに到着した。スカイラインの面々が僕らに一つの忠告をしてくれていた。「バスを降りると沢山の客引きが居るだろうけれど、決して彼らの誘いに乗ってはいけない。すぐにタクシーを捕まえてとにかくレイクサイドに行きなさいそうすればゲストハウスなんていくらでも見つかるよ」なるほど、バスを降りるとすぐに僕らは囲まれた。その中で「タクシーだけ」と騒いでいるおっちゃん一人と交渉して、僕は一人レイクサイドへ向かう。ここで「植田さん」や「リカちゃん」とはお別れだ。 タクシーは走り出す。と思ったらすぐに停車した。そして客引きの男が僕の方を振り向いてこういった。「実は私はXXホテルの客引きです。見るだけで良いので私のホテルを見てください」僕はちょっとムッとした。「それは約束がちがうんでないの」というと「そうでなければ15ルピー(30円)でレイクサイドにいくなんて無理です」とまで言う。まだカチンと来ていたが、ここはぐっとこらえて「じゃあ見るだけ見ましょうでも泊るかどうかは保証できないよ」と言った。 はたして、彼が連れていったホテルは僕の嗜好には全然合わないものだった。今日はちょっと奮発してもよいから(といっても7~8ドルまで)奇麗でバスタブ付きのホテルに泊ろうと思っていた。けれどもそのホテルはとても古く、ぼろぼろで、シャワーもとても汚かった。その事を伝えると、彼は突然怒り出し「おまえがここのホテルに泊らないと、俺にとってBig troubuleだ」とわめき散らす。「僕にとってはここに泊る方がBig troubule」だよと言い返して彼を置いて僕はさっさと歩き出した。ちょっとムカついた。 ところが、もっと腹のたつことに、なんとここはレイクサイドではなかった。ポカラの街は二つに分かれていて、一つは僕が目指していたレイクサイド。ここは繁華街もありゲストハウスが密集していて欧米人が多いところである。もう一つは僕が騙されて連れて行かれた今いる「ダムサイド」で、規模的にはレイクサイドよりもずいぶん小さいが、それでもゲストハウスはいくつかあり、なぜか日本人の溜まり場的存在だ。このレイクサイドとダムサイドの間は歩くと結構な距離があり、とてもバックパックを担いだままでは歩けない。 しょうがないのでその辺のバイクを捕まえて40ルピーでレイクサイドまで行ってもらう。全く踏んだり蹴ったりだ。ちょうど僕がレイクサイドに着いた時に「リカちゃん」や「植田さん」とも再会して、僕がホテル探しを終えたら、例の「味シル・ポカラ店」で飯でも食おうということで別れた。 さてホテル探しである。いろいろと回ってみるがなかなかしっくり行くのが無い。日本人とネパール人の共同経営でなかなかお勧めであると言われた「Access」というところも僕にとっては不発であった。料金的には100~250ルピーくらいが相場でそれはそれで良いのだが、みんな帯に短し襷に長しなのだ。来年ネパールは観光年で、ビザがただになるなどいろいろなことをするそうなのだが、そのためにこのあたりはホテルの新築ラッシュなのだそうだ。そんなんで、地図にも載っていないところに新しいホテルが雨後の竹の子のようににょきにょきと建っている。 そんな中の一つにとても気に入ったホテルがあった。「hotel holy heaven」という3階建ての新しい瀟洒な建物で、部屋を見せてもらうととても奇麗で広い。いくつか見せてもらった中で、とても気に入った部屋があって、そこに落ち着くことにしてしまった。窓からは天気が良ければヒマラヤが見渡せる「mountain view」の部屋で、なんとバスタブ付き。部屋は12畳くらいの広さで、その外に3畳くらいのプライベートテラスがある。更にバスルームも3畳程の広さだ。このホテルで唯一テレビ付きの最上級の部屋らしい。なんと電話までついていた。これで一泊税込みで400ルピーというのは断然安いと思う。ポカラではしばらくホテルでグウタラしようと思っているので、これくらいの環境が必要なのだ。 夜、「植田さん」が僕のホテルに訪ねてきてくれた。「味シル」で再会した時に僕のホテルの場所などを伝えておいたのだ。彼は僕の自慢のホテルに対して、一言こういった。「ディズニーランドのホーンテット・マンションみたい。お化けでも住んでそうだよね」それ以来、僕のホテルはみんなから「お化け屋敷」と呼ばれるようになってしまった。
2004年09月12日
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早朝、あたりの静かなざわめきで目が覚めた。鳥の声と人がはっする物音が耳に届く。今日は牛車にのってどこかに行くことになっている。時間きっかりに二頭の牛を連れた牛車が到着して、僕らは出発した。中国にしばらくいると、ネパールの人たちの時間の正確さに驚かされてしまう。 牛車はのんびりのんびりと歩を進めていった。村の子供たちがしきりに僕らに手を振ってくれる。この村の子供たちは3人に一人くらいの割合で素っ裸である。みんなそんなことを全く気にすることなく、元気に遊んでいた。タシ族の老人ともすれ違った。彼は日本のフンドシそっくりの下帯一枚の姿であった。ガイドによると昔はタシ族はみんなこんな恰好をしていたのだという。10年前までは観光客など全く来なかったこの街では、彼らの風習はかたくなに守られていたのだろう。僕らが彼らの生活を壊してしまったのだろうか。ちなみにこの街には一年前まで電気が無かったのだそうだ。 一時間半ほどのんびりと牛車に揺られて、僕らは「エレファント・ブリーディング・センター」と言うところに着いた。いままでネパールは象をすべてインドからの輸入に頼っていたそうで、自分たちでも繁殖させるためにこのセンターを作ったのだそうだ。いままでこのセンターで5頭の象が生まれたのだそうである。その生まれた象は屋根付きの特別なエリアで飼われていて、人間に慣れているのか、僕が手渡しで渡した草を、上手に鼻でつまんで口に運んでいた。その他に2頭ほど妊娠している象がいて、彼女らもとても大切に扱われていた。ちなみに象は18ヶ月で生まれるんだそうである。 また同じ道を牛車でのんびりと帰ってくる。途中制服を着た一団が教科書を僕らの牛車に載せて付いてきた。ネパールの学校は日曜日から金曜日までで、10時から4時までなんだそうだ。10才の子供の英語の教科書を見せてもらったらなかなか難しかった。少し前までは学校に行けない子供が大勢いたのだそうだが、いまではほとんどみんなが学校に行けるようになったのだといっていた。みんな薄いブルーのワイシャツに濃紺のスラックスといういでたちで、それがどうやら彼らの制服らしかった。 途中で牛車を降りて、懲りずにまたマッサージに向かう。今回はフルボディー、1時間強で200ルピー(400円)。カトマンドゥが高すぎたのか、ここが安すぎるのかというほどいままでとは値段が違う。まあでも今までも納得ずくでお願いしていたのだから良しとしよう。ちなみにここもオイルマッサージでなかなか気持ちが良かった。昼食後また御昼寝をしてしまう。最近本当に良く眠る。「植田さん」は体が要求しているんだよと言うが、それにしても自分であきれるくらい良く眠ってしまう。僕の体は一体どうなってしまったのだろう。 お昼寝タイムの後は、今回のメインイベントであるエレファント・サファリだ。象に乗ってジャングル探検という訳である。飛行機のタラップみたいなところから巨大な象に乗り、まずは村の中を歩く。象の背中には正方形の箱が乗っていて、そこに僕ら3人が乗り込むのだ。速度は人間が歩く速度程度で、視界は二階建てのビルの窓からの景色のようだ。歩く度に揺れるので、尻の座りがあまり良くない。村を抜け川を渡るといよいよジャングルだ。ガイドが静かにしろというので何事かと思うと、目の前にサイが二匹いた。こんな間近にサイを見るなんて初めての経験だったので、ちょっと感動した。 その後も象は背の高い草むらの中を僕らを運んでくれ、これは象以外では絶対来れないねとみんなで感動していた。なにしろ草は高さ3メートルに迫る勢いで、普通に歩いてくると視界を失ってすぐに迷子になり兼ねない。そんなかを象は進み、僕らは最初のサイ以外にも4頭のサイと1頭の鹿、それに沢山の孔雀や珍しい鳥を間近に見ることが出来た。ジャングルのエリアを出る時に、バラ線で囲ってある柵を、象がいとも簡単に破壊しているのをみて、なんとなく人間の無力さを感じた。 「植田さん」と「リカちゃん」は元気にまた民族舞踊に出かけていったが、今日は僕は遠慮しておくことにした。と言うのはまだ9時前だというのに、もう瞼がくっつきそうなのである。全く、ぐうたらだね、こりゃ。
2004年09月11日
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久々のバスでの移動だった。朝早く旅行会社の人が迎えに来てバス乗り場まで連れていってくれる。乗り場にはバスが列を成して並んでおり、ほとんど池袋や新宿のスキーバスの行列状態だ。旅行会社の人はその中の最後尾のバスを指差した。久々にまともなバスだ。荷物を屋根の上に預けなければならないのは初体験だった。「リカちゃん」と「植田さん」も無事乗り込んできて、バスは定刻通りに出発する。中国でさんざん時間の概念が破壊されていたので、定刻通りに出発することくらいで、僕は感動してしまった。 バスはまた下る。チベットから散々下ってきて、もう終わりでしょうと思ったのだが、それでもまだ下るのだ。いいかげんあきれてしまう。この下り道はかなりクネクネと蛇行していて、そんな道をバスは猛スピードで駆け抜けるものだから揺れがとんでもなく激しい。乗り物に強いはずの僕も、少し気分が悪くなってしまった。ほとんどジェットコースター状態なのだ。バスは途中いくつかの休憩を挟みながら、5時間ほどでジャングルパークの入り口に着いた。そこには僕らが今日から泊るスカイライン・キャンプのスタッフが待っていて、僕らを今にも壊れそうな車でホテルまで連れていってくれた。後から聞いた話だがこの車はソ連製で、なんと第二次世界大戦中に使われていたものなのだそうだ。さすがネパールである。 つくと早速昼飯だ。ビールを頼んだがなかなか来ない。係員はとても冷たいのが来るよと言っているが、10分以上待たされる。良く観察していると、スタッフの一人が注文を受けてから店に買いに行くようなのだ。こんなんで飯はどんなのが出てくるのか少し不安になったが、これがなかなかヒット。トマトスープにパン。それからジャガイモをベースにした野菜のパテそして最後にコーヒーというコースだった。これに満足したあと、今後の予定についてのブリーフィングを受ける。だいたいこんな感じだった。 一日目16:30 村の散策(象と少数民族の見学)19:00 夕食19:45 民族ダンスの見学二日目6:30 朝食7:00 牛車にのってジャングル探検12:00 昼食15:30 象に乗ってジャングル探検19:30 夕食三日目6:30 バードウオッチング8:00 朝食9;00 ポカラに向け出発 とりあえず次の予定まで2時間ほどあるので、その時間を利用してぐっすりと睡眠をとることにする。最近眠くてしょうがない。やはり中国の2ヶ月間で相当疲れが溜まっているのだろうか。思いっきり熟睡してしまった。目が覚めると、あたりの散策の時間だった。ガイドに付いて村をあちこち歩き回る。彼はついさっき、水牛が虎に襲われたことを教えてくれた。いきなりそんなことを言われてちょっと緊張する。3匹襲われて2匹は死んでしまったそうだ。 少し歩くとすぐに巨大な象が見えてきた。この村には22頭の象がいるのだそうだ。本当に無造作に巨大な象が繋がれているのを見て、その意外性に少し驚いた。あれほどの大きな象はいままでは高い檻の向うでしか見たことが無い。それは雄の象だったようで、とても立派が牙をはやしていた。ガイドによるとこの象は今までに二人の人間を殺しているらしい。やっぱりジャングルは恐いんだとさっきの虎の話と合わせて実感した。川に行くとメスの象が水浴びの最中で本当に鼻をシャワーのようにして水浴びをしていた。大きいけれどもとてもおとなしそうで、そんな動物が人間を襲うなんてにわかには信じがたかった。けれどもガイドによると象は虎よりも強いのだそうである。 少数民族の村に連れていってもらった。といっても、ここの村自体がその少数民族の村なので、どちらかというと少数民族の家に連れていってもらったといったほうが正確だろう。それもガイド君がずかずかと勝手にいてに入っていって、いろいろと説明してくれるという少し強引なものだった。この少数民族はタシ族というらしい。葦の一種を軸に泥を塗り込んだ家に住んでおり、毎年7月に家を建て替えるのだそうだ。周りには果物の木が沢山茂っていて、ほとんど自給自足の生活を送っているのだと言っていた。ただし、最近は我々観光客が増えて、彼らの伝統的な建物では無い近代建築がこのあたりで幅を利かせてきたので、それを嫌って違う場所に引っ越すタシ族も多いと言っていた。子供の写真を撮りたいと言うと、もうそこら中の子供が集まってきてしまった。特にそのためにお金を請求するでもない彼らは、純粋に写真に取られたかったようだ。 夕食も昼と同じようになかなか美味で、その後僕らは民族ダンスを見に行った。棒を使った結構危険なダンスで、見ていてなかなか感心した。途中孔雀のぬいぐるみを来たダンスがみんなを和ませてくれ、それから参加者を募ってのみんなでのダンスとなった。僕は当然参加して、久々に汗を流した。純粋に楽しかった。
2004年09月10日
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ジャングルに行こうかという話になっていた。昨夜日本食レストラン「味のシルクロード」(通称「味シル」)で「リカちゃん」に会ってそういう話で盛り上がっていた。どうせなら「植田さん」も誘っておいてと言っておいたのだが、彼ら二人が僕がちょうど出かけようとした時にホテルに訪ねてきてくれた。本当は僕はそのまま自転車を借りて、カトマンドゥ市内をうろうろしようという計画だったのだが、そういう事ならと、早速みんなで旅行会社巡りをする。 実は昨日のうちに僕はあるていど下調べをしていて、一番安いところでUS55ドルと言うのを見つけておいた。このツアーは2泊3日で、全交通費、食事代、宿泊代それからアクティビティー代がすべて含まれての値段だ。アクティビティーは象に乗ってのジャングル探検などけっこう魅力的なものがテンコ盛りで、55ドルという値段設定はなかなか御得だと思う。けれども未練がましく他の旅行会社などを周り、更に安くて良いところはないかをみんなで探す。 けれども、結局僕が昨日見つけておいた場所が一番良いという結論になり、さらにそこで3000ルピー(僕のレートでUS48ドル)に値切って申し込むことにした。明日6時半にホテルに迎えに来てくれるそうだ。そこで「リカちゃん」と「植田さん」とは別れて、僕は今度こそチャリンコを借りて市内探索に出ようと思っていた。ところがレンタサイクルを探している時に余計なところで古本屋を発見してしまい、日本の本をたらふく買い込んでしまう。そして、ホテルに帰って久々の読書タイムだ。もう、市内探索そっちのけで、一日中本を読みふけってしまった。 ちなみに僕が今日買ってきた本は以下の通り ・ VOW9 ・ チベット密教の本 ・ ホテルアジアの眠れない夜(蔵前 仁) ・ 地図を燃やす(沢木 耕太郎) ・ 静かなる良人(赤川 次郎) このうちVOW9とホテルアジアはあっという間に読んでしまった。ちなみにここの古本屋のシステムは、読み終わったら買った時の半額で引き取ってくれるというものだ。まあ貸し本やみたいなもんだと考えれば良い。 「おとぼけ君」と「ライダー妻」の調子が悪いらしい。なんだかほとんど食中毒の症状らしい。彼らとは大抵同じところで飯を食っていたのだが、僕と「ライダー夫」のほうは無事だ。そういえば「ガチャ」も「ポリ公」も数日前にダウンしていた。「おとぼけ君」はラサの時も調子を崩していたらしく、今回の旅行では体調にいまいちついていないようだ。夜に「ガチャ」や「ポリ公」達が看病に来てくれた。考えてみると明日の朝早くジャングルへと出てしまう僕としては彼らとももうお別れなのだ。「ポリ公」はそろそろ日本に帰ってしまう。ちょっと寂しい気もするが、これもまた旅なのだろう。「ポリ」は北海道在住なので、彼とはまた逢えるチャンスも大きい。 彼らとあわただしく別れを告げて、僕は明日の準備に取り掛かった。
2004年09月09日
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今日は「譲二」と部屋をシェアしていて、ラサでも一度会ったことのある「植田さん」と「リカちゃん」が今日インドビザを取りに行くと言っていたので、僕も便乗させてもらうことにした。彼らがホテルに迎えに来るまで、ロビーで新聞を読む。久々の新聞で、目を皿のようにして読んでしまった。面白かったのは、ダライ・ラマが台湾にオフィスを作ったという記事だった。今までだったらあっという間に読み飛ばしていた記事なのだが、チベットに長らくいた身としては否が応でも興味が出てきてしまう。新聞の中では、これでチベット民族と漢民族の交流が活発になるだろうと書いているとともに、ますます台湾政府と中国政府の中が険悪になるだろうと書いてあった。 その外に最近チベットとネパールの間の貿易が減っているというローカル情報から、セガとマイクロソフトが提携して128ビットのゲーム機を1999年までに3万円以下で売り出すなどという情報までいろいろと仕入れる。そういえばマレーシアでブルネイ航空機が落ちて日本人2人死亡という話も乗っていた。この前日本の情報をまとめて仕入れた時は確かスペインでワゴン車が事故にあい日本人が沢山亡くなった時だった。旅をしている身としては、何とも複雑な気分である。 少し遅れて「植田さん」と「リカちゃん」がやってきたので、早速インド大使館に向かう。僕はインドビザについて何の情報も持っていなかったのだが、彼らによるとインドビザをここでとるのはなかなか面倒くさいのだそうだ。15分ほど歩いてインド大使館に付いてなるほど納得。ビザ取得までの道は長い。 ネパールでのインドビザの取り方(一日目)1 面接を受ける(パスポートにインドビザがいくつも押されていると、いろいろと質問攻めに会う。けれどもインド初体験の僕の場合は問題無し)2 面接官に書いてもらったメモ書きをもってカウンターBに行き、ビザ申請用紙をもらう3 申請用紙を2枚記入し(カーボンが無いので2枚、黒ペンで、英文大文字で書かねばならない)もう一度カウンターBに行く4 カウンターBで申請用紙を提出し、テレックス代300ルピー(600円)を払う。(この時パスポートは預けなくてもよい) ここで一日目は終わり。約一週間後に掲示板に名前が張り出されることになっている。というのはいちいちテレックスで申請者の本国(僕の場合は東京)まで問い合わせるのだそうだ。といっても東京のどこに問い合わせるのかはいまいち良く分からない。そして名前が張り出されてから本申請を行い、それからもう一度大使館に足を運んで、そこでようやくビザを受け取ることが出来るのらしいが、そこまで僕はまだ行っていないので、詳細報告はその時に。 ちなみに観光客が大抵申請するビザはいままで3種類あって、それは15日有効のトランジットビザと3ヶ月有効のシングルエントリー、それに6ヶ月有効のマルチエントリーなのだが、そのうち大抵の人がとっていた3ヶ月のシングルエントリーは無くなってしまったのだそうだ。トランジットをとるには、面接時にインドを出る航空券を見せねばならず、だから大して長く居る予定も無いのに、多くの人が文句を言いつつ6ヶ月のものをとっていた。 思うに、インド長期滞在組みにとってネパールは天国のような存在だった。というのは周辺諸国の中で、物価も安く、交通の便も良くさらに国境で簡単にネパール入国のビザが取れてしまう。だからインドのビザが切れそうになると皆一度ネパールにやってきて、インドビザを取り直していたのだ。本国に問い合わせるシステムや、3ヶ月ビザの廃止などは、彼らに対抗しての措置に違いない。ちなみに日本でインドビザを取るのにこんなに手間はかからないのだそうだ。結局ビザの申請手続きに午前中一杯を使ってしまった。 午後はチベットで倒れた時の保険の請求手続きをしたり、手紙を書いたりしているうちにあっという間に過ぎ去ってしまった。保険の請求手続きで日本に電話をしたのだが、そのシステムが面白い。大抵旅行会社かホテルにしか電話は無く、それを借りる形を取るのだが、電話の仕方には二通りの方法がある。一つはコレクトコールでもう一つはコールバックと言うものだ。コレクトコールはネパールのオペレータを通じて日本に電話してもらうのだが、コレクトコールのくせに、彼らは手数料と称してだいたい一分につき20ルピーもとる。コールバックは最初直接相手側に電話してこちらの電話番号を伝えて架け直してもらうというもの。最初の電話代がだいたい170ルピー(340円)で架け直してもらった後一分5ルピーだと言われた。結局どちらにしても結構なお金がかかってしまう計算だ。 そういえば、闇両替と言うのも経験した。今の公定レートは1ドル57.5ルピー。けれどもドル現金の50ドルや100ドル札なら63まで行けると、インド大使館であった日本人に教えてもらっていたので、ちょっと頑張ってみることにした。といっても僕はTCしか持っていないので、その場合少し不利である。ただ、僕が換えようとしているのはTCの中でもかなりの高額TC、500ドルTCなので、それを武器に何とか交渉する。目標は62。何軒かあたっていくつも交渉が決裂する。61.5までは行くが、どうしても62では首を縦に降らない。やはり難しいらしいが、こうなりゃ意地だと思っていると、5軒目くらいでようやくOKがでた。怪しげな洋服屋の様なところに連れて行かれて、無事交換成功。何しろその前は手数料なんだで100ドルを56,7くらいで取り替えているので、今回の両替はとても助かった。 夜はまた「ガチャ」や「ポリ公」達と日本食。ここにいると、すべてがラクちんで、ついつい長居してしまう人が沢山いるという気持ちが良く理解できる。ちなみにまたマッサージに行ってしまった。今回は1時間で1000ルピーの所を900ルピーにディスカウント。それでもちょっと高い気もするが、かなり疲れを落とせるので、まあ良しとしよう。注:上記の情報は1997年当時のものです。現在は状況が変わっているものと思われますので、直接ご確認ください。
2004年09月08日
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夕べ僕らはくたくたになってこの街に到着した。着いたのは深夜で、だから街の雰囲気などを感じている余裕はなかった。ただ暗闇の中、沢山の野良犬が群れているのだけが目に入った。僕らは最初「フジゲストハウス」と言うところを目指そうとした。というのはラサで一緒だった「ポリ公」や「ガチャ」などがここに泊ると言っており、同じツアーを一日違いで実行した仲間としては、是非とも彼らの話しも聞きたいと思っていたのだ。タクシーの運転手に無理を言っていろいろと聞いてまわってもらう。ところが間の悪い事に、「フジゲストハウス」は最近移転改築したばかりで、30分ほどこの街の宿がかたまっているタメル地区を徘徊したが、結局発見する事はできなかった。僕らがあきらめてタクシーを降りた頃、この街のこの季節特有の激しいスコールが僕らの肌に突き刺さった。 それでも、タクシーを下りて更に「フジ」を頑張って捜したが、そもそも今の時間で門が開いているゲストハウスがほとんど無い。そこで唯一開いていた「カイラスホテル」というインド人経営らしい宿に落ち着く事にした。夫婦が一部屋、僕と「おとぼけ君」がそれぞれ一部屋という計3部屋合計で500ルピー(1000円という安さだった。部屋はとても清潔で広く、もちろんシャワーもトイレも付いていた。更に腹ぺこの僕らにはうれしい事にもう深夜だというのに僕らのために夕食まで作ってくれた。この地に入って初めて食べたカレーは絶品だった。 そして朝である。昨日とはうってかわっての晴天で、それでも空気がじっとりと重いことから僕は国境を越えた事を実感した。朝から一人で街をうろつく。昨日の静寂が信じられないほどあたりは活気に溢れていた。ただそれは中国の地方都市の小さなマーケットほどの規模で、ここが一国の首都の、中心街の一つであることが信じられない。ただ土のままの細い道に小さな商店がひしめき合っている。そんな街の中をただうろつくだけで、不思議な興奮がまた僕の心の中によみがえってきた。そこには、中国やチベットとは明らかに異なる街があった。 うろついている内に、「フジ」を発見した。最近新築したばかりだけに、とても奇麗でこの街には不釣り合いにさえ映った。「ポリ公」と「ガチャ」と再会を果たす。「譲二」や「リカちゃん」は別の安いホテルに居るとのことだった。確かにシャワー・トイレ共同の二人部屋が一人5ドルというのはちょっと高すぎる。さらにシャワー付きが10ドル、バスタブ付きが15ドルだと言われた。一瞬バスタブに心が揺れたが、ちょっと考え直すことにした。 他のホテルをあたっている内に、「譲二」とも再会を果たした。彼の話によると、エベレストをしっかり見てきたのだという。ちょっと悔しいがまあそれも運命だろう。僕と「ライダー妻」の間では僕らがあの時無理をしていたら、事故にあっていてこの世にいない事になっている。晴れ男と晴れ女が二人そろっても雨だったということは、僕らにそこに行ってはいけないというサインなのだ。そういう事になっているので、もうしょうがないのだ。けれどもやっぱり悔しい。 僕らは夜に日本食でもりあがろうという事になっていたので、彼らも誘うことにした。彼らも喜んでくるという。夜の再会を誓って、僕はまたカイラスホテルに戻り、状況をみんなに報告した。どちらにしてもみんなホテルを移ることを希望しており、僕らは僕が見てきたホテルを自分の目で確かめたいと、またホテルチェックに出かける。僕が見てきたもののほかに「おとぼけ君」が気になるホテルがあると言うので、そこもチェックすることにした。そのホテルは特にガイドブックに乗っているわけでもないのだが、「マルコポーロ・ゲストハウス」という名前になんとなく引かれたというのだ。実はラサからの道程で、地図をみて僕も名前だけは気になっていた(単純にマルコポーロってここに来たんだっけと疑問に思った)ので、ちょっとチェックしてみることにした。 これがまたヒット。部屋は4ドルと6ドルと8ドルの部屋があるのだが、どの部屋も広く清潔で眺めもよい。他のホテルも少しあたってみたが、地の利や部屋の質と値段を考えて3組みともこのホテルに決めてしまった。「おとぼけ君」が4ドル、僕が6ドル、「ライダー夫妻」が8ドルの部屋を選択した。「ライダー夫妻」はちょっと贅沢しちゃおっかと舞い上がっていた。 部屋が決まると、今度はマッサージである。旅の疲れを落とすにはこれが一番と一目散にあらかじめチェックしておいたマッサージに向かう。中国の按摩式マッサージとは違い、ここは特殊なオイルを塗り込んでいくマッサージだった。パンツの中にまで手を突っ込まれてオイルを塗られるのには参ったが(後ろだけです)、とてもリラックスできて至福の時を過ごした。料金は30分で500ルピー(1000円)とちょっと高めだったが、満足したので良しとしよう。 夜は宴会だった。一つ前の組みは、仲間割れで大変だったらしい。「リカちゃん」一人がノリについていけなかったようで、そこから始まっていろいろとあったようだ。ラサで「胡椒マニア」と「あのグループはすごい仲良くなるか、とんでもなく喧嘩するかのどっちかだね」と言っていっていたのだが、彼らは悪い方のカードを引っ張ってしまったようだ。まあその話はあっさりと切り上げて、僕らは本当にいろいろな話で盛り上がった。なんだかここが東京のどこかの居酒屋のような感覚になってしまった。日本酒もおいしかったし、おでんや大根おろしも絶品だった。2次会にカクテルバーに繰り出すあたりも、日本での宴会を彷彿させられた。
2004年09月07日
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一面の銀世界だった。真っ白な平原の中を一筋の黒い道がどこまでも続いている。僕らはネパールへ向かう最後の峠の頂上にいた。標高5100メートル。空気がとても薄い。予定通り10時に出発した僕らは、霧雨の中にいた。もし晴れていたとしたら、昨日宿泊したティンリの街からもエベレストの姿が見えたらしい。女神は最後まで僕らに意地悪をした。そして山を登ってきた頃、天候は回復した。きっとこの銀世界はこの二日間の風雨が作り上げたものだろう。雪の数センチ下には茶色い大地が姿を覗かせていた。 ここから下りが始まった。とにかくいつまでたっても下り道だ。雪はいつしか消えてなくなり、緑が濃くなりはじめる。そして僕らはニャラムの街についた。そこで少し遅めの昼食をとり、僕らはラサの旅行会社と電話で交渉を始める。というのはガイドはいろいろと良くやってくれはしたが、エベレストにいけなかった事は動かしようの無い事実だ。それも旅行会社の不手際でいけなかった要素が強い。と言うのは、そもそも車が2WDだったことで峠を登れなかった可能性が高い。これは出発前に車に詳しい「ライダー夫」が車をチェックした時に旅行会社に本当に大丈夫かどうかを確認している。それに僕らにしてみればツアーを一日延長出来た筈なのに、旅行会社のとった許可証の期間の都合でそれがかなわなかった。そこで、実は昨日みんなで話し合って、ツアー代金の25%を返却してもらう交渉をしようということで合意していたのだ。 最初向うはいろいろとごねていた。けれどもこちらがきちんと事情を整理して、論理的に話を進めて行ったので、向うに反論の余地は無い。こちらは決して感情的にならず、冷静に話を運んでいき、最終的には向こうにOKと言わせる事に成功した。電話で、外国語でハードな交渉をするのはなかなか大変だったが、成功した事で達成感があった。 けれどもそんな喜びもつかの間で、ツアーは最後に最大の困難に直面することになった。ニャラムの街からそれ程の距離を走っていないうちに、僕らは数時間前に起きた出来立ての崖崩れに遭遇してしまったのだ。あたりは断崖絶壁のとても危険な道で、崖崩れの現場ではいまも大き目の石が上から間断無く落ちてきているところだった。これでは車は絶対に向こうに渡れない。しばらくそんな様子を眺めていると、その崖崩れが続いているなか何人かのチベット人が強行突破を始めた。見ているこっちはとてもはらはらする。決して自分ではやりたくない。 ところが、30分後にはそのハラハラを自分でやるはめになってしまった。ポーターを雇って荷物を持ってもらい、自分は身軽になって二つある崖崩れを歩いて越える。左からは大き目の石が落ち続けており、右側はもう谷底だ。けれども不思議と恐いという思いは無く、とても冷静にその場をすり抜ける事が出来た。というのは「ライダー妻」が腰が抜けそうな程怖がっており、僕らも怖がろうものなら彼女は一歩も先に進めないような状況だったので、僕らが怖がっている暇など全くなかったのだ。 その先にはトラックが待っていて、ガイド君の交渉のお陰でなんとか国境まで載せていってもらえる事になった。相変わらずの綱渡りのような危険な峠道をトラックはゆっくりと坂を下っていく。トラックの荷台には僕らの他に欧米人の団体客も乗っており、彼らもあの崖崩れを越えてきた仲間だ。1時間以上横揺れの激しい荷台に揺られて、僕らは6時過ぎにようやく国境に到着した。国境は6時半にしなってしまうので、まさにぎりぎりだ。けれども国境の係員はとても親切で、慌てている僕らに対して、そんなに急がなくてよいからゆっくり来なさいと言ってくれた。 2ヶ月ぶりに国境を越えた。けれども中国側の出国窓口から、ネパール側の入国窓口まではなんと10キロもの距離がある。相変わらず急な坂道で、ネパールはまだまだ下の方にあるのだ。乗合トラックを拾って更に40分ほどでネパール側の国境についた。日本円で120円くらいだった。入国窓口で同時にビザの申請もして、僕らはようやくネパールに入国した。人々はとても親切で、入国審査もとてもスムーズにいった。中国側の国境の街、ダムは遥か頭上だった。 ここからはタクシーを使う事にした。中国とネパールの間には2時間15分の時差がある。だから時間はまだ6時前に逆転していた。ネパールの首都、カトマンドゥまではここから4時間の距離らしい。バスで行けばとても安く上がるのは分かっていたが、僕らは日本円で一人1200円ほど奮発して、タクシーで行く事を選択した。道は相変わらず下っている。どこまで下れば気が済むのかと言いたくなるほど、下っている。今日一日で一体何メートル下ったのだろう。空気はどんどんと濃くなっていき、また、湿っていった。 人はチベットのことを「天空の大地」と言う。まさにその通りだと実感できた一日であった。チベットはここから見える山の頂上よりも、更に上に広がる大地なのだ。香港を出てから中国の南部に1ヶ月、チベットに1ヶ月。辛い事もあったが楽しい事の方が多かった。今僕は、久々の新しい世界、ネパールに対してとても興奮している。
2004年09月06日
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暗闇の中突然明かりが灯った。時計を見ると6時だった。広大な中国はすべて北京時間で動いている。すぐ南に下ったところにあるネパールは日本と3時間15分の時差があるのにも関わらず、ここチベットは日本と1時間の差しかない。だからようやく空が白みはじめるのは7時半を周ってからだ。暗闇の中で熟睡していた僕は、「ライダー夫」の6時ですよという一声で我にかえった。 最悪の天候だった。強い雨が地面を叩き付けるように降っている。空には低く厚い雲が見渡す限りの世界を覆っていた。こんなんで本当に夢のエベレストが見れるのか心配になる。実をいうと僕は自称「晴れ男]だ。楽しみにしていた行事が雨で中止になった経験がほとんど無い。それは「ライダー妻」も同じで、だからダブルパワーで今日は絶対晴れだねと二人でふざけていた。どこかに最悪の雨男がいるに違いない。 もっと最悪だったのは眠い目を擦りながらも、準備万端で約束の6時半を待ってもガイドはやっぱり来なかったことだ。昨日あれほど釘をさしておいたのに、ほとんど暖簾に腕押し状態だったらしい。1時間程待って、ほとんど切れ掛かっていた「ライダー妻」と僕は、雨の中ガイドと運転手を探しにあたりを右往左往した。叫びまくってようやく運転手を発見。彼にガイドの居る場所を教えてもらい、車はようやく7時半に宿を出発した。雨は幸い小降りになっており、これはやっぱり「晴れ男」「晴れ女」の本領発揮とちょっと盛り上がっていた。 ぬかるみだった。メインの道を折れていよいよエベレストに向かう道に向かったとたんに道はぬかるんでいた。そして予想通り車はそこにはまって出れなくなってしまった。最初はすぐにそこから抜けれると考えていて、だからみんなでのんきに車の中で談笑していた。けれどもだんだんと運転手の顔つきも変わり、僕らもそれどころでは無くなってきていた。小雨の中みんなで車から降りて、石を運んだり、草を引っこ抜いたりしてなんとか車が脱出できるように頑張った。車は何メートルかは進んだが、すぐに次のぬかるみにはまってしまい、状況はどんどんと悪くなった。 後ろから同じツアー会社のランクルが迫ってきた。実は僕らのランクルは故障していて4WDではなく2WDだった。けれどもその後ろからやってきたものは4WDで、だから、こんなぬかるみの中でも抜けて行ける可能性が大きかった。けれども様子を見に来たガイドは僕らのその説明にも耳を貸さず、自分たちもはまったら大変とさっさと逃げていった。そんな姿勢に少し腹がたった。 それからしばらくして、今度はチベット人が数人通りかかった。そして当然のように手伝ってくれた。ところがどっこい、人数が増えてもやっぱり車はびくともしない。そうこうしている内に、もう11時を回っている。はまってから既に3時間以上立っている。いくら高地になれたとは言え、それでも激しい運動をするとすぐに息が切れてしまう僕らの疲労はもう極限に達している。更にあたりの気温は低く、体温はどんどんと奪われていった。 最終的に車をジャッキアップして、タイヤの下に石や草を敷き詰めて車はようやく脱出できた。チベット人も、僕らももう泥だらけになっていた。それは車がはまってから4時間後のことだった。それから僕らはそのまま今朝いたニュー・ティンリに戻って事後策を練る事にした。 運転手は今日はもう無理だと言う。ガイドも難しいのではないかと言う。絶望的だ。なにしろわざわざ高いお金を払ってこのツアーを組んだのはエベレストを見るためだと言っても過言ではない。それをガイドに切々と訴えた。そしてツアーを更にもう一日延長する事を申し出た。最初の契約で追加料金無しでツアーを延長できることになっている。ところが、僕らがいるのは外国人未開放都市で、旅行会社がとった許可証では9月6日までに国境を抜けなければならない事になっており、延長は不可能だという。そんな話は聞いていない。とは言っても、ガイドとしてもなんともしようがないらしい。 そんながっかりしている僕らに追い討ちをかけるような出来事があった。僕らは昨日食べたチベット料理のレストランの向かいにある漢民族経営の中華料理のレストランで作戦会議を練っていた。冷えた体を温めるためにお茶を飲みながら話をしていた。飯を食うかと言われて、厨房でチェックをするととても高い上にろくな材料がそろっていない。だから飯はいらないといった。そうすると、お茶の料金をよこせという。まあそれはしょうがないだろう。けれどもその料金に腹がたった。とんでもない料金を請求してくる。一緒に飲んでいた運転手に助けを求めても、自分はもう払ったなどと嘘を付く始末だ。この地域の漢民族は油断ならない。チベット人のガイドに交渉をお願いしても、暖簾に腕おしだった。だから僕らは大きなポットを持ってきて、その店のお湯を大量に使ってやった。 向かいのチベット料理のレストランで飯を食っているときのことであった。ガイド君が朗報を持ってきてくれる。これからBCに向かうトラックがあって、彼らが一緒にBCまで行ってくれるのだそうだ。たとえまた道に埋まってしまってもトラックが助けてくれるし、さっきに比べると天候もかなり回復していて、更に上に登ってしまえばあとは道の状態も良いだろうから、なんとかBCまで行けそうだと言う。僕らはもちろんこの話に乗り、さっさと昼食をとって出発する事にした。 今度は先ほど埋まったところも難なく切りぬける事が出来る。そして問題の峠に差し掛かる。順調にいくつかの難所をクリアしていった。時には僕らが車から降りて押さざるを得なかったがそれでもなんとか登っていった。けれども僕らにはまた難所が待っていた。つづらおりのカーブの所を車はどうしても登っていけない。トラックに乗っていた多くの人の力によって、トラックは何とか通り抜けれたのだが、僕らの車はどうしてもそこをクリアできない。トラックを仕切っているチベット人は僕らの運転手にやる気が無いとサジを投げてしまった。そして先に行ってしまった。高地でどうしても動きが鈍くなってしまう僕らだけの力だけではどうしようもなかった。ここらへんが潮時だ。時間はすでに5時が近かった。 引き換えそうとした矢先に、峠の下の方ではとても奇麗な虹が僕らの前に弧を描いていた。それは女神が僕らを嘲笑っているようにも見えた。
2004年09月05日
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朝からガイド君がやってくれた。最初僕らは8時に出発しようと合意してくれた。けれども昨日の夜シガツェに着くなりガイド君は自分のパスポートの都合で公安にいかなければならないから10時に出発しようと申し出てきた。それでは遅すぎるので、なんとか9時半出発で合意していた。ところがである、ガイド君が公安から帰ってきたのは11時半だ。もうお昼前である。それまで僕らはどこへも行けず、ただただ車の中でイライラしているしかなかった。全く、ガイド君の時間に対する概念には参ってしまう。 相変わらずの悪路を走って、それでも車は3時過ぎにサキャの街についた。青い、小さな街だった。チベット仏教には大きく分けて4つの派閥があるのだそうだ。ゲルグ派、サキャ派、ニンマ派とあと一つなのだそうである。そしてゲルグ派はその中でも最大派閥で、有名なダライ・ラマもパンチェン・ラマも皆ゲルグ派の僧である。ラサのジョカンにしても、ポタラにしても、みんなゲルグ派のお寺だ。そして、その次に大きいのがサキャ派で、これから僕らが訪れる御寺はそのサキャ派の総本山なのだそうだ。 なるほど、サキャ派の寺は、なんとなくであるが寺の造りが違うような気がする。まず壁画が違う。今までのおなじみの壁画はこの寺には無い。お寺の中にはいたるところにダライ・ラマならぬ、サキャ・ラマの写真が飾られていて、そんな所からも違いが浮き出る。このサキャ・ラマも中国政府の迫害から逃れるために、インドに亡命しているのだそうだ。どうでも良いことだが、彼の顔はどことなく横山やすしに似ていた。 ここでもガイド君の力が発揮された。このサキャ派の僧はゲルグ派と違って結婚をする事が出来るそうで、その子供が次のサキャ・ラマになるという世襲制をとっているのだそうである。これはダライ・ラマが次の後継者を指定するのに対して大きな違いだった。その外寺の中にはいたるところに壷があって、その中には沢山の植物の種が入っている事などを教えてもらった。 この寺で、特質するべきのは、御坊さんのダンスだ。ちょうど僕らが中庭に入っていった時に、少年僧が輪になってダンスを踊っていた。近くお祭りがあるそうで、だから皆で輪になって練習しているのだそうだ。年配の僧が太鼓をたたきながら、ああでもない、こうでもないといろいろと指導していた。とても滑稽な踊りで見ていてとても面白かった。ちょっとだけ阿波踊りを彷彿させられた。 小雨の中を練習していたのだが、みんな赤紫色の袈裟の上に、同じ赤紫色の防寒具を身につけていた。どうやら赤紫色の衣装なら着ても良いらしい。おしゃれな僧の一人は、シカゴ・ブルズのウインド・ブレーカーを着ていた。彼らは僕らにも一緒に踊っていけと誘ってくれたが、時間がないので遠慮した。けれども時間があれば是非とも一緒に踊ってみたかった。それほどみんな楽しそうだった。 もともとの予定では今日はラツェの街に泊る予定だった。けれども明日のエベレストBC(ベース・キャンプ)に行くのに備えて、更にBCに近い街、ニュー・ティンリまで足を進める事にした。道路沿いのチベットレストランの中にある、とても汚い宿で、僕らは明日に備えて早めに休む事にした。ちなみに明日の出発予定は午前6時半である。 僕らの今回の最大の目的はエベレストを間近に見る事である。ただし雨季の終わりは雲が邪魔をして、なかなかその姿を現さないと聞いている。果たして、女神は微笑むのだろうか?
2004年09月04日
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忙しい一日だった。3個所も観光した上に90キロの移動もする。普通の場所では何でもない事でも、高地では体力を消耗するので疲労が蓄積する。けれどものんびりとガイド付きで観光をするのはなかなかいいものだ。 9時に予定通り白居寺に向かう。ホテルから石畳の道を20分ほど歩くと、その寺は姿を現した。ガイドの話によるとここはチベット仏教のサキャ派とゲルグ派の二つの宗派が仲良く同居しているのだそうだ。最初に本堂の方を周る。いままでのガイド無しに比べてとても面白く中を見てまわる事が出来た。たとえば本堂の裏手にある小さな部屋にたくさんの像があったのだが、そのうちのいくつかはインドからチベットに仏教を伝えた高僧の像であるということや、鬼にしか見えない像も地獄から来た神様で、さまざまな問題を解決してくれる偉い神様だと言う事を教わった。 ラッキーだったのは、普段柵がしてあって、なかなか中に入る事ができない本堂の二階にある16の曼荼羅を間近に見る事が出来た事だった。なんでも600年も前にかかれたものらしい。修復されていないので、すでに色が褪せていてすでに何が書いてあるか解らないものもあったが、それでも歴史の重みと、仏教世界の大きさを感じさせるのには十分な代物だった。 本堂のとなりには、パンコル・チョルテンという建物があって、それは8階建ての頂上に顔が付いている愛敬のある塔だった。その塔には、各階にもう沢山の部屋があってそれぞれにいろいろな仏像が安置されていた。それは巨大なものから小さなものまでもう沢山の像で、それを時計周りに周りながら一つ一つに手を合わせると、それだけで目が回ってしまった。そして、頂上から見たギャンツェの街は、まさに絶景だった。 ガイドが旅行会社に電話をした。そしてツアー一日延長の許可をもらったそうだ。ガイドが気にしていたパーミットについては問題無いと言っていた。今回はきちんと細かいところまで契約をしていて、車のトラブルなどの旅行会社側の責任でツアーが延長された場合は、僕らは追加料金を支払う必要が無い旨を契約書に盛り込んでおいたので、それはとても成功したと思った。 飯を食ってから今度は「ギャンツェ・ゾル」に向かう。ここはここがまだ王国だったころのお城で、イギリス軍にチベットが侵略された時の最後の砦だったそうだ。ラサのポタラ宮と同じく、平らな街に一つだけポツンとそびえ立つ丘のを利用した城で、街のどこからでもその城を見る事が出来た。その丘をエッチラオッチラ登ると、元ギャンツェの政府だったという建物や、裁判所や地下牢が出現して、それなりに楽しむ事が出来る。なるほど、元政府の窓からは、町中が見渡せた。丘の七合目のあたりまで登ったところで、みんな疲れてしまって、頂上に登る事はしなかったが、それでも十分堪能できた。 運転手とガイドの関係が険悪になってしまった。ガイドが待ち合わせの時間を守らなかった事が発端らしい。ちょっと険悪な雰囲気の中、僕らは約2時間かけてシガツェの街に向かう。途中の風景はどこまでも麦畑が広がる茶色と緑色の世界だった。所々で麦の収穫が行われている。最初に中国に入った頃にはまだみんな田植えの真っ最中だった。こういう風景を見ていると時の流れを感じる。今年も東京は暑かったのだろうか。 ちょっと険悪な雰囲気のまま、僕らはシガツェにあるXX寺の観光に向かう。ここは結構見所が多く、世界最大のXX像や、沢山のパンチェン・ラマのステゥーバと呼ばれるお墓を見る事が出来た。このパンチェン・ラマのステゥーバは、たとえば4世とか10世のものは一体20メートルはあろうかという黄金の立派なものだったのに、5~9世については、まとめて一つのステゥーバだったので、どうしてなのかをガイドに聞くと、この5~9世のものは10世が作ったもので、それまではそれぞれ独立したステゥーバがあったのだが、財政難のために5つのステゥーバを一つにまとめてしまったのだそうだ。その10世のステゥーバがあまりにも立派だったものだから、ちょっと苦笑してしまった。 僕らが約束通りの時間に寺を出たのに、今度はドライバーがいない。ガイドは彼を探しにどこかに行ってしまったが、その時に、間の悪い事に運転手が帰ってきた。僕がガイドが運転手を探しにどこかに行ってしまった事を告げると、彼は苦笑して、僕らと一緒に彼を捜す。10分ほど彼を捜すと、彼がようやく帰ってきた。また一悶着おこるのかとはらはらしていたら、何と彼らは腕を組んで戻ってきた。いつのまにか仲直りしていたらしい。これで明日のツアーは安心だ。 いろいろホテルを周った結果、コスト的に見合うテンシンホテルと言うところに止まる事にした。昨日と同じ一泊25元だが、質は昨日の方が圧倒的に良かった。ここはとても西洋人の多いホテルで、だからホテルのレストランではパンケーキやフレンチフライが食べられた。
2004年09月03日
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旅は順調にスタートしたかに見えた。珍しく旅行会社の連中もきちんと約束通り7時半にはホテルに着ていたし、昨日あんなに激しかった雷雨もすっかり止んでいる。当初の予定通り、8時ぴったりにホテルを出発して、みんなでポタラに別れを告げた。僕らがチャーターしたトヨタのランドクルーザーは、ここまで来る時に利用した北京ジープとは雲泥の差で、奇麗に舗装された道を時速80キロで快調に走る。音も静かだし、揺れも少ない。景色は飛ぶように後ろに流れ去った。 ヤムドク湖に向かうために快適な舗装道路を離れ、4700メートルの峠に向かう。久々の峠に少しワクワクする。今回は頂上に置いてくるためにタルチョという赤や黄色の旗の様なものを買ってきている。チベット人にとって峠の上というのは神聖なところで、このタルチョと言うものを頂上に縛って来るのだ。そしてそこにはお経が書いてあって、風がそのお経を読んでくれるということだ。今回は僕は峠を一つ越えるたびにそのタルチョをその頂上に置いてこようと計画しているのだ。 ところが、その峠道に入ったところで僕らには不運が待っていた。なんとラジエーターを冷やすためのファンベルトが切れてしまったのだ。このファンベルトが切れてしまうとエンジンがオーバーヒートしてしまい、全く先に進めなくなる。でも車に詳しい「ライダー夫」によるとこれは中国では日常茶飯事の事で、当然のように予備のベルトを準備しているから大丈夫だとのことだった。確かに、彼らはきちんと予備を準備していて、早速何事もなかったようにファンベルトを交換しはじめた。ところが、ところがである。信じられない事が起こった。なんとそのファンベルトは大きすぎてその車にはフィットしない。強引にエンジンをかけてみたが、当然全く役に立たなかった。 次に運転手が考え付いた事は、シートベルトだった。シートベルトを切って、適当な長さに切り針金で留める。ところが、これもうまく行かない。そこで、大きすぎるファンベルトを途中から切ってそれをボルトで留めるという強硬策にでた。ここに行き着くまでに既にもう3時間はかかっている。その間に何台ものランクルに抜かれていて、その度にもし予備があったら分けてくれないかと頼んでいるのだが、みんなも自分が可愛いのか知らないが、どうしても分けてもらう事はできなかった。さて、ボルトで留めたファンベルトだが、これはたった200メートル程の命だった。そこでボルトはあきらめて同じファンベルトを今度は針金で留めてみる。これはなかなかヒットだったが、それでも2キロの命で、峠の頂上を目の前にして短い人生を終えてしまった。僕らが彼らに助言する。うまく行かなかったシートベルトだが、少し改良を加えるとうまく行くのではないかと思ったのだ。果たしてそれは当たりだった。なんとかそのシートベルトは今日行き着いたギャンツェの街まではもってくれた。 さて、峠を越えると真っ青なヤムドク湖が目に飛び込んできた。空の青さを反射して絵のような水色が広がる。茶色の山とのコントラストが見事だ。遠くには頂上に雪を頂いた高い山々がそびえているのが見える。あれはもうヒマラヤ山脈の一部に間違いない。峠を下りてからもそのヤムドク湖畔に沿うように車は進んだ。 今回の運転手はとても陽気だ。こんなに大きなトラブルにもめげず、鼻歌を歌ったり口笛を吹いたり僕らに冗談を飛ばしたりしている。今回のツアーのメンツも明るい人ばかりだったので、こんなトラブルでもみんな暗くならずに何とか一日持たす事が出来た。なかでも「おとぼけくん」のかます一言一言がなかなかみんなを笑わせてくれた。こんなメンツに恵まれて、良かったと思った。 ヤムドク湖を過ぎて更に1時間ほどしてから小さな街に到着し、僕らはようやくそこでとても遅い昼食にありつく事が出来た。時間は既に4時半を回っていた。あまりうまいとは言えないカレーの出来損ないを食べたあと、ツアーガイドのティレイと今後のスケジュールについて話をする事にした。今日は予定していたシガツェまで辿り着けそうに無い。今回のトラブルは明らかに向うのミスで、契約したツアー内容をきちんと実行してもらうにはどうしても一日ツアーを延長してもらうしかないのだ。その事をガイドに伝えると、最初困っていたが、かれも僕らが言う事になっとくして、とりあえずシガツェに着きしだい旅行会社に電話して相談してみるということに合意してくれた。それから今日はギャンツェに宿泊して、明日の午前中をギャンツェの観光に使う事にも合意してくれた。 昼飯を食ったその小さな街でも適当なサイズのファンベルトを探す事は出来なかった。どれも「帯に短し襷に長し」という状態でしっくり来ないのだ。しょうがないからシートベルトで頑張ることにする。車窓では相変わらずチベットっぽい景色が広がっている。鳴きウサギの巣穴も見るし、黄色や紫の高山植物も咲き乱れている。チンコウ麦の畑も広がっていて、景色の中の色が多い。けれども今日の景色の中で圧巻だったのは氷河だ。道の少し上の手の届きそうなところまで氷河が広がっていて、圧倒的な迫力で僕に迫ってくる。初めて氷河と言うものを見たが、また自然の大きさを実感してしまった。 もう一つの峠を抜けて、並木道を進み、8時半にようやくギャンツェの街に到着した。ガイド推薦の宿をチェックしたがそれは値段の割にあまりにも汚かったのでパスして、運転手推薦の宿に泊る事にした。何か腹に入れねばとそうめんのようなおいしい麺を何とか腹に入れて、明日に備える事にした。今はただただこの街で正しいサイズのファンベルトが手に入るのを祈るばかりである。
2004年09月02日
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それは圧倒的な迫力で、僕に迫った。早起きをしてここまで苦労した甲斐があった。そして、ラサ最後の日を飾るイベントとしてはこれ以上のものはないだろうなと思った。今日は年に一度の「大タンカ祭」である。 5時半に目覚しが鳴った。最近に無く早起きである。昨日も2時に寝ていて寝不足なのにも関わらず、すっきりと目が覚める。6時半に国境に向けて出発する「譲二」たちとネパールでの再会を誓い、ぼくは「ライダー夫妻」と「お祭り兄ちゃん」と一緒にタクシーをシェアし、まだ真っ暗闇のラサの街をデプン寺目指して疾走した。 山の麓でタクシーを降ろされて、その後はきつい坂道を1時間ほどかけて登るはめになる。山の麓には公安が何人かいて、それでタクシーの運ちゃんは、今日は山の上の道までは通行止めだと早合点したらしいが、実は特に通行止めだった訳ではなかったようで、何台ものタクシーや団体バスに抜かれてしまって、ちょっと悔しい思いをした。けれども、苦労して山を登ってやっとデプン寺に着いた時には、結構な達成感があった。 入り口のところで「胡椒マニア」と会った。彼らの団体も、麓で降ろされてしまって、ここまで歩いてきたのだそうだ。軽く挨拶を交わして、僕らはタンカを見るのに良い場所を探すために、更に寺の中に入っていく。タンカというのは真ん中にお釈迦様が書かれている絵のことをいうらしい。そしてそのタンカの巨大なものが、年に一回だけ一般に公開されるのだそうだ。タンカの場所に着くとなるほどでかい。まだ絵は出てはいないが、あそこにタンカが飾られるのだろうという感じで巨大なやぐらが山の斜面を利用して作られている。幅15メートル、高さ30メートルはあるんじゃあないだろうか。それほどのスケールのタンカをこれから見る事が出来るのだ。そう考えるだけで心臓が震える。 ようやく街が白んできた。雲に隠れて朝日は見えなかったが、けれどもだんだんと一日が始まる風景を、高いところから見下ろすのはなかなか雰囲気の良いものだ。人の数もかなり増えてきた。みんなで適当な場所をキープして本番を待った。 7時を少し周った頃であろうか、あたりが少し騒がしくなった。袈裟をきた大勢のお坊さんたちが遠くから行進してくる。そしてやぐらの下と上の二手に別れて、丸まっているタンカを上に居る組が引っ張り上げた。同時に中腹に備えていた別の一団が巨大な金属でできたラッパを吹き出す。大きいものだから当然音は恐ろしく低く、遠くにいても腹に響く。そしてタンカが徐々に全貌を現す。黄色が主体の絵で周りの茶色い地膚にくっきりと浮かび上がる。そしてその巨大さに圧倒される。 しばらく無言で見詰めていた。「ライダー夫妻」も「お祭り兄ちゃん」もそれは同じらしく、しばらくの沈黙が流れる。それから、今度はタンカの近くに行ってみたり、周りを一周してみたりと、いろいろと活動する。「胡椒マニア」の一団とも何度も合って、お互いに感動を語り合った。僕はチベット人みんながそうするように、白い布を一枚買って、タンカの上段から下に向かって投げ込んだ。 その後も、今日はお経を読んでいるお坊さんを見つけては御布施をしていた。それには訳がある。今日は4年前に17歳でこの世を去った愛犬パピーの命日なのだ。たかが犬といっても17年も一緒にいれば下手な親戚よりも愛着があるのはどうしようもない事実だ。しかもヨークシャー・テリアという室内犬でいつも苦楽を供にしてきた中なのでなおさらだ。僕が東京に行く時に一番悩んだのが犬と別れねばならないということだった。本当に真剣に悩んだ。 そして、僕が就職して一年目に彼女は天寿をまっとうした。僕は仕事が忙しい中を強引に有給をとって北海道へと駆けつけた。家族には仕事が忙しくてどうしても帰れないと言っておいたので、その日の最終便で駆けつけた僕の姿を見て一同みんな驚いた。けれども予感していたのか「なんとなく来ると思っていたよ」と僕を迎えてくれた。そして次の日に彼女を火葬場に連れていって、それから僕はあわただしく帰京した。今でも、忙しい中快く休みをくれた当時の上司には感謝している。そしてこの旅に僕は唯一のお守りとして、彼女を焼いた時に一緒に入れておいた5円玉を持参している。 ところが現金なもので、去年の彼女の命日を僕はすっかり忘れてしまって、何の気に無しに過ごしていた。そうするとすぐに彼女が僕の夢枕にたった。昨日も「胡椒マニア」と他愛の無い話をしている中で、突然犬のことが話題になった。そしてそう言えば今日が命日だったと思い出させられた。何でもないことなのかも知れないが、けれども僕にはいつも彼女が付いていてくれているのだと、勝手に考えている。 だから、直接関係無いが、今日はなんとなく御布施をしたい気分だったのだ。お祭りだったのでそういう手合いが大量にいて、結構なお金を使ってしまったが、そんなわけなので、少しも苦にはならなかった。 夜は、部屋ががらんとしてしまっていた。「リカちゃん」と「譲二」のにぎやかな二人が抜けるだけで、こんなにも雰囲気が変わるものだ。けれどもお陰で「胡椒マニア」と落ち着いていろいろな話が出来た。彼と僕の歳が近いということと、お互いがお互いの考え方に共感できることが多くて、だから話をしていてとても心地よかった。お陰でまた1時半過ぎまで話し込んでしまった。 バナクショー・ホテルでの日々は僕にとって新しい体験だった。別に避けていた訳でもないが、いわゆる「日本人の溜まり場」に足を踏み入れたのは初めてだった。それはそれでなかなか心地の良いもので、沢山の友人を作ることも出来た。用は、使い分けなのだと思う。これからこのような宿ばかりを泊まり歩く気は無いが、たまにはこういう宿で、「合宿所」状態を過ごすことも悪くないなと考えた。
2004年09月01日
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