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本当に良かったんだろうか。ホテルの部屋に横になりながら、僕はさっき怒鳴ってしまったことを後悔していた。怒鳴られたバイクタクシーの運転手の顔は必死だった。そして、仲裁に入ってくれた上品なタイの婦人はすがるような目で、僕にこういった。「お願いだから、50でいいから払ってあげて」そして、こう続けた。「彼らを許してあげて、彼らは貧乏なの。今、タイの経済はガタガタだから、彼らも生きるのに必死なの」その言葉が僕に突き刺さった。けれども、約束は約束だ。その約束を彼が守らなかったこと、あるいは勝手に行き先を変更したことに対して、僕は怒鳴らずにはいられなかったのだ。 旅をしているといつもこの問題に突き当たる。日本は世界の標準から考えるととてつもなく裕福な国だ。そして、そんな裕福な国から来た僕は、しかも2年間もの期間を気ままに世界中を旅している僕は彼らにとってはとても考えられない夢のようなことをしているように映って当然だ。日本では「貧乏旅行」という言葉が生まれたが、そんな言葉を使うのは僕が旅をしている国の人に対してとても失礼な言葉だ。実際僕は自分が「貧乏」な旅行をしているとは思わない。たまに「貧乏ごっこ」をしている旅人に会うことがあるが、それでも旅をしていること自体で僕らは裕福なのだ。 だから、ある意味において開き直ってしまっている現地の人々には、僕らから金を多くとって当然だという考え方を持っている人が多い。そして僕はそんな考え方に対して、真っ向から否定はできない。否定できないが、だからといって明らかにボッタくられるのも気分が悪い。そしていつも自分がどうすれば良いのかわからなくなってしまうのだ。 だが、いったん約束をしたことに対しては、守る義務がある。そしてもし何か変更が生じた場合は必ずもう一度確認をするべきだ。彼は明らかにそれを怠った。だから僕は怒鳴ってしまった。 事の起こりはこうだ。実は僕はまた旅に出てきている。というか、旅に出たのはもう5ヶ月以上も前のことで、今更そんな事を言われなくても分かっているという感じなのだが、バンコクを離れまたタイ国内を周りはじめたのだ。またデイパック一つの旅だ。今回は前回ミャンマー国境に行った時とは違って、行き先を決めないあての無い旅だ。昼前にバンコクの北バスターミナルに行って、適当にバスに乗った。字を読めるわけでもなく、本当に適当だった。とまっているバスをいくつか物色して、ハイデッカーで一番眺めのよさそうなバスを指差して、このバスに乗りたいと言って切符を買ったのだ。 バスは程なく出発して北に向かう。途中空港を通過するのを確認したのと、太陽の位置から北に向かっていることがわかった。思ったとおり高いところから眺める街の景色は抜群だ。バスの料金は80バーツだった。多分終点は300~400キロ先だろう。本格的な長距離バスでは無いらしく、途中幾度も止まっては乗客を拾い、また降ろしていく。長く停車するところでは新聞や飲み物それにソーセージのようなものを売りに来た。昼食を食べそびれていた僕は、そのソーセージを買ってみた。なかなかうまかった。 大きな街のバスターミナルに着いた。出発して3時間ほどたっている。ここが終点だろうと思って降りる準備をするが、この街で降りたのはほんのわずかで、バスは更に2時間ほど進んだ。この街からあとはほとんどローカルバス状態で、学校の終わった時刻なのか沢山の高校生達が乗り込んできて車内はにわかににぎやかになった。バス停というものは存在せず、人々は降りたいところでバスにとまってもらい降りていく。乗る時も道端に立っていて手を挙げればバスは止まってくれる。こういうフレキシブルさが良い。 太陽が西の空に傾きかけたころ、バスはようやく終点に到着した。バミという街だった。この立派なバスの終点だからさぞかし大きな街だろうと思っていたのだが、期待が外れた。バミはとても小さい、どちらかというと村と言ってもよい程の所だった。バスターミナルというか、バス乗り場のあたりに小さい商店街があって、それで終わりというようなとこだ。どこかにゲストハウスらしきものはないかと思って探してみるが、それらしきものは全く見当たらない。 途方に暮れて、バイクタクシーの運転手の知恵を借りることにする。「ねえ、この辺にどこか泊れるところはないかな」すると男達はなにやら相談しはじめ、代表者が「兄ちゃん、この街にはそんなものはねえよ。今話したんだがこっから20キロ程先の街にならあるみたいなんだけど、100バーツでどうだい?」そうか、あてが外れたか。終点は大きな街だと決め付けていた自分が馬鹿だった。それじゃあ、その20キロ先の街とやらまで行くしかないか。と思い商談が成立した。 さあ、出発しようとバイクの後ろにまたがって待っていると、また男達が議論しはじめる。そして、ようやくバイクはその20キロ程先の街に向かった。行きかけに運転手が「ロップブリー?」と言ったので、そうかこれから向かう街はロップブリーという街なのかと深く考えずにうんとうなずいた。バイクは川沿いの一本道を時速80キロで飛ばす。自動車に乗っている時の80キロと違って、もろに風を感じるバイクでの80キロはとんでもなくスピード感がある。しかも僕はヘルメットをしていない。少し恐怖感を感じた。 80キロで一本道を疾走しているのだから、20キロ先の街には15分で付くはずだ。そう思って、恐怖感に耐えていたが、一向にその街には着かない。結局30分ほどでバイクはロップブリー・インという高そうなホテルの前で止まった。そしてそこで騒動が起きたのだ。僕は約束通り100バーツを渡す。しかし運転手は200バーツだというのだ。そんな筈はない、最初に約束した時は100バーツと言っていたじゃないかと言うが、相手はいや200バーツだと譲らない。「最初はコモローという街に行こうと思っていたのだけど、そこには泊るところがないからロップブリーに変更したんだ。ロップブリーはとても遠いからだから200バーツなんだ」というようなことをタイ語で僕に伝えてくる。でも僕にとってみればそんな話は晴天の霹靂だ。少しのあいだ口論していたのだが、僕はだんだんと腹がたってきてそして怒鳴ってしまったのだ。 ホテルの宿泊客の英語をしゃべれるタイ人の婦人が仲裁に入ってくれた。彼女に言わせると、それは僕が怒るのももっともだという。しばらく彼女は運転手を諭すように彼と会話をしていた。そして彼女は僕に、「お願いだから、50でいいから払ってあげて」と言ったのだ。その言葉を聞いて激情していた僕は、急に我に帰った。50バーツを受け取った時の運転手の表情が瞳に焼き付いて離れない。確かに50バーツというのは現在の為替レートに換算して150円たらずだ。けれども彼にとってこの50バーツといのは、僕にとっての1000円と同じくらいの価値があるのかもしれない。 良く考えてみると、彼が最初に僕に要求してきた200バーツというお金だって600円である。日本で同じサービスを利用して40キロ移動したとしたら600円で済むわけが無い。それを、タイだからという理由だけで僕はそのサービスを安い価格で享受している。それだけでも僕は「ずるい」のだ。だからといって、むやみに札びらをばらまくような真似は絶対にしたくない。日本の物価感覚を引きずって行動したくない。そして、約束は約束だ。 僕はホテルの天井を見つめながら、出口の見えない堂々巡りを繰り返していた。帰国までに答えはみつかるのだろうか。
2004年10月31日
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またサイモンと飯を食う。今日は、もう一人シンガポールオフィスのアズランというマレーシア人も一緒だ。彼ともなんどかいくつかのパーティーで顔を合わせたことがある。アズランは結構この辺のことに詳しいので、彼に案内してもらっていろいろとめぐることにした。 最初はマッサージに行く。この前に行った有馬温泉の隣の店だ。マッサージをしてくれる女性たちが、ラオス人、カンボジア人、タイ人で、お客の僕らは日本人、マレーシア人、オランダ人だったので6カ国の国籍がそろったねなどと言って彼女達は盛り上がっていた。最後にアズランが担当の女性にチップを渡していた。前回僕が有馬温泉に行った時には、チップなんて考えもしなかった。けれどもマッサージは2時間で300バーツ。彼女たちも一日2人か3人をさばくのがやっとだから、一日の平均も700バーツの売り上げしかないことになる。そして彼女の取り分が半分としても一日350バーツ。一ヶ月働いて一万バーツいくかいかないかの給与だろう。いかにタイといえどもそれでは生活が苦しい。当然彼女達の生活はある程度チップに頼っていることになる。簡単な算数の計算なのに、前回はそんな事を考えもしなかった自分がすこし恥ずかしかった。 彼らとはいろいろな話をした。飯を食ったり、酒を飲んだりしながら語り合った。仕事のこと、恋愛のこと、人生のこと。国籍は違っていても同年代のもつ悩み事や、夢には共通することが多い。更に、アジアのいろいろな所を股にかけて仕事をしている彼らの考え方には学ぶべきところが多く、とても有意義な時間を過ごすことが出来た
2004年10月30日
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よく考えてみると、僕は旅が始まってから実にさまざまなタイプのところにとまっている。現地人しかとまってはいけない超安宿から五つ星の超高級ホテルまで。日本人の溜まり場的宿から現地人の家でのホームステイ。そうそう、病院なんてところにもとまった。そして今は日本人駐在員の家だ。同じようなレベルの宿ばかりを世界中巡って極めるのもいいことだが、いろいろなレベルのところにとまってさまざまな視点から世界を見るのもおもしろい。そう考えると、駐在員の生活を垣間見るというのもとてもラッキーなことだろう。 特にここに泊るようになっておもしろいなあと思ったのは新聞の折り込み広告である。それも読売新聞に挟まれてくる日本人相手の折り込み広告だ。こんな広告は駐在員家に泊りでもしない限り絶対に見ることはないだろう。今日は広告が4枚入っていた。一つは旅行の案内。お正月をオーストラリアで!みたいな広告だ。それから近く行われる象祭りへのツアー募集があって、小さく「日本人学校の運動会終了後バスで現地直行のコースを用意しました。お子様の希望にこたえてください」などと心憎いカスタマイズもされている。バンコクの旅行会社ならではだ。 それから、人材情報広告。タイ人スタッフを紹介する広告だった。年齢、性別、希望職種、希望年収、学歴、語学能力などが書かれている。希望給与は1万から最高でも6万。平均2万5千というところだ。このリストに載っている人はみな特殊な才能を持っている人たちだから、こんな所からも彼らの所得が日本人にくらべていかに低いかを物語っている。 あと二つはタニヤ情報。一つはサウナクラブのオープン告知で、今ならお徳ですので是非来てくださいというやつだった。それから最後に格式の高い接待用のバーのオープン告知。なんだか面白かったので、全文を掲載してしまおう。 特報! 11月1日 格式の高い店!「XXXXXX」OPEN! バンコク?否東南アジアではナンバー・ワンの日系企業専用・接待店「XXXXXX」が誕生! 今迄、ナンバー・ワンと言われる店が在りませんでしたが、正真正銘の店が出来ました。タニヤのイメージを、一身・・・オリエンタルな内装と美人で上品なホステス達。百聞は一見に如かず、見るだけでも目の保養です。建前の接待でのご利用には最適な店です。此れで安心して本社よりの社長、役員そしてV・I・Pの接待が出来るように成りました。 夜の商工会議所、それが「XXXXXX」の別称です! XXXXXXの紹介 店内概要:100坪 VIPルーム11室(1室5~20名様の各部屋有り) 理髪店=仕事多忙の方々の髪を、整えます ホステス:美人コンテスト入選者、大手企業OL、元スチュワーデス、モデルそして有名ホテル・レセプションetc勿論英語での会話もOK!但し、OFFは出来ません 入会資格:入会金THB2,000(但し、日本人に限る) 上場会社の支店長、現地法人の社長、取締役部長、関連会社社長、主席駐在員そして公務員接待の店ですから御一人での御来店は御遠慮させて頂きます。 乞う 御期待! 経営者紹介:会長 XX XX(以下高校からの学歴) 社長 XX XX(以下高校からの学歴) コンパニオン、ホステス教育では業界第一人者この道26年、博多中州で2軒の店経営そして接待の駆け込み寺、究極の接待の店、ホステス教育の神様等、タニヤで神話と伝説を、作った男。タニヤでの8年間の実績、「XXXXXX」は建前の店そして「*****」は本音の店と必殺営業の接待の店。5F、6Fを、併用すれば120%の接待効果を、御約束します。「*****」「XXXXXX」そしてクラブ「?」のタニヤ3大有名店を、利用すればあなたも接待の達人になれます。 以上(句読点まま、店の名前や個人情報に関することについては僕が訂正。それ以外は原文まま)こんな感じである。 これでいかに社内接待が多いかということが分かる。それから建前の店と本音の店という言葉の使い方が面白い。そうか、本音の店は必殺営業の接待の店でもある訳か。そして、しっかりOFF出来ませんとまで注意書き。それ以外にも、この広告一枚からも日本人の駐在員生活の生活が垣間見られて面白い。ところでなんで理髪店併設なんだ?なんかくさいぞ この4つの広告を強引に総合して駐在員生活像を考えるに、妻はサウナやマッサージに通いながら、年末の旅行や、子供にせがまれた象祭りのことを考え、夫はタイ人の従業員を探しつつ、本社からやってくるお偉方の接待の店を考えあぐねる。ということになりそうだ。こんな世界もどっぷりと漬かっちゃうと面白いかもね。
2004年10月29日
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このあと、インドインドと騒いでいたが、先にバングラデッシュに行くことにする。この二つの国の国境は陸路でも問題無く通れるはずで、だったらバングラデッシュに入った方が良い。航空券はカルカッタまでの方が安いのだが、ダッカに入ろうと思っている。だから、早速バングラデッシュのビザを取りに行くことにした。バスでは行けそうに無いので、タクシーをつかう。唯一の情報はバスマップにかいてある大使館の場所だけだ。住所も電話番号もわかっていない。とにかく行ってみようというわけだ。ところがタクシーの運チャンも大使館の場所は知らずに、ちかくで降りて地図を頼りにてくてく歩く。ところがそんな大使館らしき物は一向に現われない。 こいつは困ったと思っているところで、バイクタクシーがやってきた。バイクタクシーはソイを中心に活動する移動手段で、ソイのなかであれば10バーツで連れていってくれる。ソイの外でも極端に遠いところでなければ利用することができる。排気ガスさえ気にならなければ、渋滞の時などとても便利だ。道端でたむろしているゼッケンをつけた集団が彼らで、気さくないい連中が多い。でも外国人と見るとたまにふっかけてくることもある。 彼を捕まえて、バングラデッシュ大使館に行きたい旨を伝える。彼は場所を知らなかったようだが、たまたまやってきたもう一台のドライバーに聞いて場所を把握したようだった。20バーツだといったので、いつもの癖で15バーツにしてよというと以外にもOKがでた。早速後ろにまたがって出発。結構な距離を走って、しかも途中迷ったりしながら、やっと大使館に到着した。彼がいなかったらここに辿り着けなかったわけだし、それに思ったよりもずいぶん距離を走ったので20バーツでも良かったかなあとおもって20バーツ札を出して、「お釣はいいよ」と言おうとしたら、彼はニコニコしながら僕に5バーツのお釣をくれた。結局言い出せないまま彼はさっさとエンジンをかけて行ってしまった。 大使館員はとても親切だった。「ビザにはどんな種類があるの?」と聞くと、「どんな種類のが欲しいんだ」と聞かれる。「できれば6ヶ月のマルチエントリーが欲しいんだ」というと、「おまえは何人だ?」と聞かれた。「日本人だよ」というと「日本人にはそういうビザはないなあ。とにかくこの申請用紙に記入して。」と言われる。ビザの種類と滞在希望日数の部分を空欄にしたまま申請窓口に行って、もう一度「マルチが欲しい」と話すと、「日本人はシングルだけなんだよ」と言われてしまう。そこで「実は一度インドに言ってまたバングラデッシュに帰ってきたいんだよね」と訳を話すと、「よっしゃわかった。じゃあダブルエントリーをあげよう」という。フレキシブルだ。 その前に申請していたフランス人が、申請料としてかなりの高額なお金を払っていたので、ドキドキしながら、いくらですか?と聞くと彼は笑顔でこういった。「おまえ日本人だろ。日本人は無料さ。日本人だけだよ」そして彼はウインクした。なんだかちょっとうれしかった。午後にまた来いと言うことなので近くに青少年科学館とプラネタリウムが在ったのを思い出してそこで時間潰しをすることにする。たむろしているバイクタクシーの兄ちゃんに大通りまで連れていって欲しいというと、20バーツだという。さっきのバイクがあんなに長距離走って15バーツだったのに、なんでちょっとそこまでが20バーツなんだと思い、だったらいいとその場を去る。少し先にいる別の集団に声をかけたら、当然のように10バーツだよと言われた。全く油断も好きもありゃしない。 プラネタリウムは小学生の社会見学の時間とぶつかり、星を見るよりも彼らを見ている方が面白かった。入場料10バーツ。タイ語の説明なので説明は全くわからなかったが、以前中国の田舎で「星座博士」に教わったことを思い出して、なるほどあれが白鳥座だななどと一人で納得していると、全く違う場所に、たぶんこれが白鳥座ですなどいうアナウンス付きで白鳥の絵が出現した。たく、せっかく「星座博士」に教わったことが何にもいかされていない。 そのあと近くの公衆便所にはいるが、そこは落書きのオンパレード。この辺は万国共通だ。で、青少年科学館。ここはあまり人がいなかったので、ただただ不気味だった。あまりの不気味さに15分ほどで出てきてしまった。混んでいるのも困るものだが、あまりにも人がいないとそっちの方がきみが悪い。そこを出てくると小学生達のお弁当タイム。どんなお弁当なんだろうとちょっとのぞいてみると、ウインナーに卵焼き。それに鳥のから揚げなど、日本人のお弁当とあまり大差なかったのでちょっと驚いた。あるいはこういう日は特別な日なので、お母さんもがんばっちゃうんだろうか。 さて、そろそろ午後になったことだし、またバイクタクシーを捕まえて大使館へ。特に料金交渉をしないでも10バーツだった。中に入ると、まだ出来ていない模様。張り紙には2時以降と書いてあるではないか。こりゃあやられたと思っていたが、係員はいいよいいよといって、その場で僕のためにスタンプを押してくれた。僕にパスポートを渡したあとで、思い出したように「そういえばおまえダブルエントリーだったな」といって、またビザの上になにやら書き込む。後から見ると手書きで「double」と書いてあった。なんか適当だ。こんなんで大丈夫なんか?でもまあどうせ無料だしだめならまたどっかで取り直せばいいか。しかしこの大使館のフレキシブルさにはちょっと驚いた。そしてとても助かった。 またバイクタクシーだ。大通りについて当然のように10バーツ出すと、いきなりそいつは15バーツだと言いやがった。いままでこの距離を何度も乗っていて全部10バーツだったのに、馬鹿にするなという感じである。少し腹がたったので僕はそいつを無視してさっさと歩き出す。彼は特に追いかけてもこなかった。こういうことをされるととても気分が悪い。 そのあと次郎の家に帰ってくるのにまたバイクタクシーを利用したが(違うソイ)こんどは当然のように10バーツだった。このバイクタクシーはとても使い出がある。バス停はたいてい大通りにあり、家がソイの奥にある場合は非常に便利だ。次郎の家はソイの奥の方にあるので、僕はこのバイクタクシーを何度も利用した。
2004年10月28日
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相変わらずバンコクは非効率な都市だ。タクシーを使ったのにも関わらず、用事を一つ片付けるだけで、一日が終わってしまった。それもすべて交通渋滞のせいである。今日の用事、それはビザの延長である。 まず、近くのエンポリウムというところに写真を撮りに行く。最新式の写真撮影で、とても面白い。日本でもお目にかかったことのないテクノロジーだ。まずデジタルカメラで3枚の写真をとる。それをコンピュータに撮り込んで、気に入った写真を選ぶ。明るさなどの調整をして、写真のサイズを指定し、特殊な印画氏を使ってカラープリンタでプリントしていくのだ。プリントも最初に黄色、青、赤と三原色が刷り込まれていって、そのあと何色なのかはわからないが2回違う色を刷り込んでいった。そうすると普通の写真撮影で出来上がったものと変わらない、あるいはそれ以上のクオリティーで写真が出来上がる。しかも20枚も一気に出来上がる。それを切ってもらって合計180バーツだ。一枚9バーツという計算になり、とても安い。これでしばらくビザ申請の写真に困らなくて済みそうだ。 それからタクシーを捕まえて移民局を目指す。ここからが大変だったのだ。また頻繁な車線幅の変更と手動式信号のせいによって、車はスムーズに流れない。長くても30分で付くだろうと踏んでいたのに、1時間半もかかってようやく移民局に着いた。これだけで疲れてしまう。移民局はわりと空いていて手続きはスムーズに進む。それぞれ持っているビザの種類によって窓口が違うので、僕はNO VISAというカウンターで申込書をもらった。日本人も結構いる。 申請用紙に20日ほど延長したい旨をを書いて、モンコン先生に書いてもらった証明書と伴に提出した。そうすると僕の場合は特殊な事情だからなのか、これをもってメディカルセクションに行ってくださいと言われた。そこに行き書類を提出すると、あんた元気そうじゃないの。本当に出国できないの?と明らかに疑いの目で見つめられた。こっちも早くインドに行きたいはやる気持ちを押えて延長に来たのに、こんな目で見られて踏んだりけったりだ。「でも、医者がだめだって言うんですよ。ほら、11月7日にまた再診することになっているんです」と診察券を見せる。そうするとちょっと待っててとどこかに消えてしまう。多分病院に問い合わせたりなんだりしているのだろう。 係員は5分ほどで出てきて、にこりともせず書類に何か書いてまたもとの窓口にこの書類を提出するように言った。こういうところでたらい回しにされるというのはどこの国でも一緒なようだ。結局20日の申請でもらえた延長期間は15日だった。まあいいか。 目の前のダンキン・ドーナツでしばし休憩。女子高生たちが沢山いた。携帯電話なんか持っている子もいる。みんないいとこのお嬢さんなんだろうな。でも、なぜか彼女らはなにも注文せずにただただ席に座ってくっちゃべっている。いいのかな、こんなんで。 帰りがまた大変だった。またまた渋滞のなみに巻き込まれて1時間半コース。たく、いいかげんにしてもらいたい。そういえば、帰りに火事をみた。かなりおおきな火事だったようで、消防車が10台くらいでていた。そしてどっから湧き出たんだというほどの数の野次馬があたりを埋め尽くしていた。僕は車の中にいたので、詳しくは解らないが、とにかく白い太いけむりがもうもうと立ちのぼっていた。
2004年10月27日
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「観光をしたい」と次郎が言った。今日は日曜日。彼も仕事が休みで、今日は一日特に何の予定も無いのだそうだ。そしてタイに赴任してもう5ヶ月になるというのに仕事が忙しく、あっちゃこっちゃ駆け回っているので、実はバンコクの中を観光したことがほとんど無いのだそうだ。だから、散々観光している僕もいることだし、今日は「観光」したいのだと言っている。 そこで、今日は僕が彼をいろいろと案内することにした。なんだか逆なような気がするが、まあそれはそれで。最初、次郎は日の出前に起きだして、暁の寺、「ワットアルン」に朝日を見に行こうと言う恐ろしいことを言ってきた。僕は早起きは、引越しの次に苦手なのだ。僕が「えーっ」と躊躇していると次郎は「いいじゃん、一日くらい早起きしたって」と譲らない。ところが昨晩遅く彼から電話が在った時、彼は「明日の早起きパスね」と切り出してきた。なんでも今日は接待でかなり疲れており、明日早起きの自身が無いのだそうだ。頑張れ日本人駐在員。 早起きを免れた僕は、10時ころホテルにやってくることになっている次郎を待って、今日の計画を立てるために地図を眺めていた。この前乗り損ねたチャオプラヤ川のエキスプレスボートなんか乗りたいなあと思っていたところで次郎君登場。彼は入ってくるなり「ねえ、ボートとか乗んねえ」と言う。ぴったしカンカン。早速エキスプレスボートへ。汚い水の水飛沫を一心に浴びながら安宿街、カオサン通の近くの船着き場まで行った。所用時間約30分。途中通過したワットアルンはどうやら工事中のようだった。その外は特に見所も無く、沢山のホテルの間を船は猛スピードで疾走する。船着き場ではきちんと船が接岸しないものだから、次郎は「一年に2、3人はきっと川に落ちてるね」と言った。僕もそう思う。乗船料一人6バーツ。こりゃあ安い。と、意外なことに降りる場所に改札がある。僕らが乗ったシャングリラホテルの近くの船着き場にはそんなものはなかったので、車掌にもらった半券なんてどっかにいってしまっている。出口で罰金1バーツ取られてしまった。ちくしょう。 カオサン通はあいも変わらず無国籍状態。ここを初めて訪れた次郎は周りとあまりにも違うこの世界に圧倒されている。外ばかり見ていても面白くないので、宿の中も見せてもらう。最初は思っていたよりも立派なトイレ・シャワー・エアコン付きの部屋を見せてもらった。これで250バーツ。ただし窓は無い。もっとやすい部屋を探そうと頑張るが、どうやら僕らの身なりと靴を見てなのか知らないが、どこもだいたい300バーツ近い部屋ばかりを見せられた。この「靴」というのがなかなかの曲者である。カオサンを歩いている人の足元を見ると8割以上がサンダルばきなのだ。中には海岸でも無いのにビーチサンダルで決めている人もいる。そんな中次郎は買ったばかりのピカピカのスニーカー。ぼくも洗った場借りのそれなりに奇麗なウォーキング・シューズだ。こんな靴を履いていると、宿屋にもなめられるのだ。だから値段もそれなりに高くなる。ねぎれば値切れるのだろうが、それはしなかった。 適当にアメリカナイズされたレストランで焼きそばを食って、またまたマッサージ。料金を見ると、いままでやったどのマッサージよりもここは安い。コースも豊富で、僕はオイルマッサージ1時間プラス足つぼマッサージ30分というのをお願いした。これで確か200バーツ強だったと思う。二階のエアコンの効いた部屋に通されて、オイルを全身に刷り込んでいく。ネパールでやったオイルマッサージよりも揉みやタタキが充実していて、オイル自体も上質の物を使っていた。 一度僕のとまっているホテルに帰ってきて、軽く荷造りをする。というのは今日からしばらくまた次郎の家にお世話になることになっているのだ。といってもまったくホテルを引き払うわけではなく、当面必要の無い物はホテルにそのまま残しておく。全く、贅沢だ。次郎の家にいって少し落ち着いてから、今度は近くのレモン・グラスというレストランにタイ料理を食いに言った。この辺は外国人が多く住んでおり、レモン・グラスも外国人向けタイ料理という感じだ。料理は大はずれ。スープは冷めてるし、量は少ないし散々であった。 救いは、僕らの後から入ってきた日本人の女の子二人組みが僕らに話し掛けてきたことだった。彼女はなんと2泊3日でバンコクに来ているのだそうだ。格安ツアーがあって飛行機、ホテル(しかもなかなか良いホテル)、朝食、昼食、一日観光が付いて3万8千円だと言っていた。こりゃあ本当に安い。バンコクは初めてで、料理の頼み方が解らないんですけど助けてくださいと声をかけてきたのだ。更に実は彼女たちが次郎と同業者であることが発覚して話は大いに盛り上がった。どこか観光ポイントを教えてくださいと言われたで、僕が機関銃のようにあそこが良い、ここが良いと説明し、更にパッポンの歴史からなにから詳しく説明すると、彼女たちもそうだが、次郎がとても感心していた。「おい、おまえいつのまにそんなにくわしくなったんだ。よっぽど暇だったんだな。俺よりよっぽど詳しいよ。」彼は悔しそうにそういった。彼は負けず嫌いだ。 彼女らと別れて、僕らは今度は近くにあるソイ・カウボーイという歓楽街に言ってみる。次郎によるとここはその昔、少女・少年売春の温床になっていたところで、柄も悪く、胡散臭い場所の代表的散在だったのだそうだ。だから、今でも治安はあまり良くないだろうから、パスポートなど貴重品は全部置いていくようにと言われていた。少々ビビりつつもソイ・カウボーイに到着。ここはアメリカ人の遊び場だったところから、カウボーイと呼ばれている。そうか、アメリカ人はカウボーイなのか。ところが、思っていたほど胡散臭くも無い。どんな店が在るのかと思ったら、ゴーゴーバーのオンパレード。最近パッポンは観光客に席捲されており、だから駐在員の多いこの地域に、こんなパッポン紛いの場所ができたのだろうか。パッポンは道の真ん中にお土産物の屋台が並んでおり、健康的なものと不健康的なものがミックスされていて、奇妙なバランスを醸し出していたのだが、(だから観光客も気軽に行ける)このソイ・カウボーイは不健康的なものの固まりで、勧誘の姉ちゃんたちも強引に腕をとって僕らを店のなかに引きずり込もうとする。 何故か解らないが、突然僕らはしらけてしまった。ソイ・カウボーイという語感からもっとアウトローで、アンダーグラウンドなものを想像していたが、表向きは屋台の無いパッポンだったからだ。あるいは中に入り込んでいけばそんな世界を体験できるのかもしれないが、そこまでするつもりはない。だから僕らはそそくさと引き上げて、近くのディスコに行くことにした。とても立派な建物で、ヨーロッパ調の荘厳な建築物だ。駐車場には大型高級車が何台もとまっていて、入り口にはタキシードを来た男達が奇麗に並んでいる。いったいここはなんなんだ?ディスコにしてはちょっとイメージが違うぞ。中はカジノか何かかというイメージなのだ。タキシードの兄ちゃんにここは本当にディスコなのか?と聞くと、違う、ディスコはこの裏手だと言われてしまった。やっぱりね。じゃあここは何なの?と聞くと、「カラオケだ」という。おいおい、カラオケなんてイメージじゃないぞ。 次郎によると、そこは間違いなくマッサージだろうという。この場合はトラデッショナルの方ではなくあっちの方である。こんなに豪華な高級ホテルかカジノかってな外見で駐車場には高級外車で、それでマッサージなのだ。日本のそういう場所と対比するととても大きなギャップがある。とても堂々としているのだ。中に入ってどうなっているのか見てみたかったが、今日は止めておくことにした。いやはやバンコクはとても誘惑の多い街だ。 さてディスコなのであるが、巨大だった。そして豪華だった。ライティングや店の造りや雰囲気はとてもセンスがある。突然globeの曲が流れた時は少し驚いたが、従業員の数も多く、サービスもよい。300バーツで2ドリンク付きというのは安いだろう。けれどもいかんせん人がいない。本当にいないのだ。11時を周っても僕らの他に2組の客しかいないのだから終わっている。ディスコは人がいっぱいいてわーっと盛り上がるのが楽しいのに、こんなんじゃ全然楽しくない。いままで行った各国のディスコの中では施設一番、雰囲気最悪のディスコであった。 まあ、日曜の夜じゃ盛り上がらないのもしょうがないか。(といっても限度があるけど)次郎はそのうちこのディスコはつぶれるね。今でも隣のマッサージでなんとか持っているんじゃないの。と言っている。今度はもっと盛り上がるところに行ってみたいもんだ。
2004年10月26日
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旅に出てきて、荷物の重さに悩まされたことは一度や二度ではない。2年間という長い旅のスケジュールのためTシャツからトレーナーまで持ち歩いていることもあるのだが、コンピュータ関係の物の重さも実は馬鹿にならない。リブレットそのものはとても軽いのだが、周辺機器を含めると結構な重さになるのだ。それから、大きなバックを買ってしまったことも、僕の荷物を重たくさせるのを増長したようだ。いつも、ついつい「まだスペースがあるし」と使うか使わないか解らないようなものまでバックに詰め込んでしまう。そして、そんなものに限って結局使うことなく、たとえば日本からはるばるネパールまで運んだあげく、ごみ箱行きとなるのだ。 それでも、荷物の重さに悩んだことはあっても、コンピュータを持ってきたことに対しては一度も後悔をしたことはない。というよりも、いつもよかったなあと思っている。特に、Eメールを通じて日本の、いや世界各地のいろんな人と旅の間に情報交換が出来るのが一番うれしい。たいてい今まで旅行者が日本と連絡を取ろうとすると、日本に国際電話をかけるか、大使館留で手紙を送ってもらうしかなかった。国際電話はお金がかかるし、手紙では時間がかかる上に不確実だ。ところが、コンピュータを持ち歩き、Eメールを使うと確実に安価で迅速に情報を交換出来るのだから、世界も変わったものだ。それに僕が世界のどこにいようと送り手はそれに気にすることなくメールを送れるというのが最大の利点である。 最初、旅をスタートした時はほとんどが出発前に僕が親しかった友人関係からのメールだった。それが旅が進むにつれ、しばらく疎遠になっていた友人たちや、僕は直接は知らないのだが、僕のホームページを見てメールをくれる人が増えてきた。これは、とても予想外のことで、そんな激励のメールがとてもうれしかった。そして、最近また新たなパターンの手紙をもらうようになった。それは旅で知り合った旅人たちからのメールだ。 一番最初はモンゴルからの列車の中で知り合ったベルギー人のヨセフからだった。彼はいま仕事で南アフリカにおり、僕が相当先の話だが、そのうちきっと南アフリカにも行くよと言うと、それなら南アフリカに来た時は是非とも家に泊りなよと申し出てくれたのだ。気の長い話だが、お互いにメールアドレスを交換してわかれた。そして南アフリカに帰った彼が早速僕にメールをくれたというわけだ。以前ならそんなことは夢にも考えなかったことに違いない。 最近ではチベットやネパールで知り合った日本人の友人達が続々と日本に帰国しており、帰国報告や僕と別れたあとの話、今の日本の状況(安室の結婚話などけっこうくだらないが必要な情報)などを送ってくれる。「ライダー夫妻」「譲二」「リカちゃん」「お祭り兄ちゃん」「植田さん」など特に親しかった人々からはわりと頻繁に手紙がくるのでとてもうれしい。話によると「リカちゃん」と「植田さん」は「リカちゃん」が「植田さん」を困らせながらも結局インドからバンコク経由で日本までずっと一緒に旅を続けていたらしい。しかも彼らは僕が病院で唸っている時にバンコクにおり、知っていたらお見舞いに行ったのにと悔しがっていた。それから「お祭り兄ちゃん」は僕と別れたあとインドのベナレスで肝炎発病。2週間ほど何もせずにホテルで寝ており、移動が可能になったところでバンコク経由で数日前に日本に帰国。病院ではA型かE型の肝炎と診断され、絶対安静を言い渡されたそうだ。 実はネパールにいるときから、旅人仲間の間で「お祭り兄ちゃん」には肝炎の疑いがかかっており、これは医者にかかった方がいいんじゃないかとみんなで言っていたのだが、そんな話をしている最中に僕が倒れてしまったので、それどころじゃ無くなってしまっていた。そしてタイミング良く僕のことを診察に来た医者がついでに「お祭り兄ちゃん」も診察したのだが、あの医者に診てもらったところで特に何の意味も持たないことは僕の体が証明した通りである。その後僕がバンコクに飛び立つ朝、彼も無謀にもバスでインドに入国しており、僕はその動向をとても心配していた。 とりあえず無事に帰国した知らせを聞く事が出来て、一安心だ。もしこのEメールがなければこれから2年近くも消息を心配して過ごさねばならない所だったので、彼からメールをもらって一安心した。今心配しているのは「ミホちゃん」だ。彼女も僕は肝炎の可能性が高いと見ている。彼女は今ごろどうしているのだろう? 日本を離れてから、逆にさまざまな人とのコミュニケーションの密度が深まっている。こんな便利なものを手放す気には到底なれない。だから僕は今日も重い荷物に悩まされながらも、反面その重さの価値を考え、ちょっとだけほくそえむのだ。
2004年10月25日
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今日はまた病院だ。今日こそビールの許可をもらいたいもんだ。病院までは昨日購入したバスマップを駆使してバスで行く。いつも乗っている15番のエアコンバスが病院の近くまで行くことはわかった。が、病院は地図の枠の外に在りどこまでバスで行けるのか解らない。車掌に診察券を見せると、その病院の所まではいかないと言われた。そして、この先バスは違う方向に曲がるので、ここで降りなさいと教えてくれた。 仕方ないので、そこからタクシーに乗る。と、乗ってから気が付いたのだが、僕が降りたところは入院していた頃しょっちゅう通っていたあのフォーチュンタウンではないか。なあんだ。これなら歩いて行ける距離である。タクシーに乗って損した。タクシーは5分もかからず病院に到着。料金は基本料金の35バーツだった。 早速血を抜かれて検査をする。今回の結果は大変良好。これで晴れて病院から開放されるのではないかというほど良好な数字だ。もうすぐにインドに行けるだろう。なにしろGOTは35で、思いっきり正常値だし、それにその外の数値も一つをのぞいて全部OK。圏外の一つの数値だって、正常値よりも0.1高いだけである。モンコン先生も、かなり回復しましたねえと言ってくれた。ところがその後きつい一言。「また二週間後に見せてください。それで良ければもう大丈夫でしょう。」って先生、僕はビザ無しで入国しているので、30日しかいられないんで10月30日には国外にでなくちゃいけないんですけど。と抵抗するも、先生はそうと知るといきなりイミグレーション宛の手紙を書き始めた。「これを持っていけば延長してくれうはずなので、滞在を延長してください。」僕はため息交じりに「はあ」と答えるしかなすすべが無かった。 それから懸案のビールである。「どんなもんでしょうかねえ、先生」と言うと、「これから3ヶ月はだめですね」とそっけなく言う。それを聞いて僕があまりに落胆していると、「といっても、それもそれで精神的に良くないことも在るでしょうからたまーに、少し飲むくらいならいいですよ」と天使の囁き。でもそのあと「たまーにですよ」と強調した。 タイの滞在は長引いたが、その間にインドが消えて無くなるわけではないと自分を納得させながら、炎天下をバスに乗りまた伊勢丹に行く。なんだか最近毎日この伊勢丹に来ている気がする。今日は、伊勢丹というか、伊勢丹の入っているワールドトレードセンターというビルに用があってきたのだ。そう、映画を見ようと思ったのだ。昨日の「Event Horizon」が大はずれだったので、口直しになにか見ようというわけだ。今日はなんとタイのローカルムービーに挑戦。題名はタイの文字でかかれていたのでさっぱりわからなかったが、こんな話だった。 知恵遅れの青年と同居する木村拓哉顔の男が、アパートの二階に住む歌手を目指す女と恋におちる。ところがある犯罪の現場を見てしまった知恵遅れの青年が、そのために追われるはめになり、木村拓哉とともに隠れて暮らさざるを得なくなり、職も失いアパートからも逃げ出す。一方同じ頃、女は歌手としての才能を認められ、成功への階段を登っていく。しばらくしてそんな彼女をブラウン管ごしに見た木村拓哉は、一時は再会することを戸惑っていたが、ひょんなことから再会を果たす。けれども成功した彼女とどん底生活を送りつづける木村拓哉。さらに例のチンピラや木村拓哉に思いを寄せる女の登場などによって物語は更に複雑に進展していく。果たして二人の恋の行方は???というようななんか日本のトレンディードラマのいろんな部分をつなぎあわせたような映画だった。僕はタイ語が全く解らないのに、全部理解できてしまったくらいだ。 映画が終わってびっくり。観客はほぼ全員若い女ではないか。間違って女トイレに入ってしまった気分だ。はっきりいって恥ずかしい。どうやらあの木村拓哉はタイのアイドルらしい。だからこんなに女子高生達ばかりが集まっているのだろう。そういえば韓国でもいま一番人気があるのは木村拓哉似の男だった。今、アジア中で木村拓哉顔が流行っているのだろうか?そういえば、このタイの木村拓哉。角度によっては野口五郎にも見えた。木村拓哉と野口五郎って似てたっけ? 夜は次郎とパッポンの近くのコカというレストランで今度はタイのしゃぶしゃぶを食べる。そのあとタニヤでカラオケ。今日彼が連れていってくれたのは、いわゆるカラオケボックスのようなところだった。いきなり薬局に入っていくので、どうしたんだろうと思ったら、薬局の奥に階段があり二階がバー、三階がカラオケボックスになっているのだ。これでは一見では絶対に入れない。普段は2階に女の子がずらーっと並んでいて、そこから選ぶのらしいが、今日は誰もいない。部屋に入るを5人くらいの女の子がやってきて、そこから選ぶということになった。つまり客がつかなかった女達だ。何しろ今日は金曜日。混んでいるも当然だ。 このボックス、結構豪華でトイレもきちんと付いていた。そして僕らは歌う。待ち時間も無いので、ひたすら歌う。そして2時間ほど歌って店を出る。女の子達は不思議な顔をしていた。そう、ここはかなりの頻度で「連れ出し」が行われている場所だったらしいのだ。あとから次郎が笑いながら教えてくれた。「俺らきっと珍しいよ。わき目もふらず歌い続けて、そして何にもしないで帰ってきちゃうんだもん」彼はそう言って再び笑った。なんだ、そういう店だったのか。でも、残り物には福はなかったぞ。 そのあとパッポンでゴーゴーバーに行った。このパッポンというのはベトナム戦争中のアメリカ兵の歓楽街として栄え、それがそのまま観光客や駐在員に引き継がれた形として残っているバンコク最大の歓楽街の一つだ。ゴーゴーバーはタニヤのクラブなどと比べるともっと露骨で、お立ち台で踊っている水着姿の女性を指名して即連れ出すという、直接的な場所なのである。もちろん指名しないで女の子たちの踊りをただただ見ながら飲んで帰るだけでもよい。バンコクにはこの他に男番ゴーゴーバーというのがあり、男が水着姿でお立ち台に立ち、ゲイのひともそうだが沢山の観光客の女性たちがやってきて指名し連れ出したりしているのだそうである。いやはや、オープンな街だ。 ところで、僕が連れていってもらったゴーゴーバーはちょっと驚きであった。他のゴーゴーバーと同じく熱気ムンムン、色気ムンムンのピンク色の世界なのだが、踊っている人の半分くらいが女性の恰好をした男性なのである。最初は良く分からなかったのだが、次郎に指摘されて良く見ると確かにすごいゴツイ体をした人が何人かいた。けれども注意してみないと解らない。最初次郎は全員が男だといったものだから、指名もしないのに押しかけてきた子に「あんたも実は男なの?」と聞いたら、「私は正真正銘の女よ」と怒られてしまった。確かに体も華奢だし、声も低くないし喉仏も出てないし、これで実は男でしたなんてことになったら、僕はこの先不信感の固まりになってしまうところだった。しかし、良くあんなにうまく化けるものだ。 僕の隣に付いた女の子が踊りに行くと、今度は僕のところに明らかに男だとわかる子が付いてしまった。熱心に話かけてくるのだが、ここで話にのって僕が彼女(?)を気に入ったと思われあらぬ方向に話が進んでしまうと困るので、適当に相づちを打つだけにしておいた。すると彼女(?)は甘い、けれども太い声で「ねえ~ぇ、コーラ頼んでもい~い?」と聞いてくる。コーラはいっぱい70バーツでそのうち何割かは女の子の懐に入る彼女らにとっての大事な収入源だ。けれども僕は残酷に「だめ」と切り替えした。彼女はそうするとちょっと膨れて、「きーーぃっ!」と言って去っていった。こういう時に本当に声を出して「きーーぃっ!」と言う人を初めてみた。なんだかドラマか漫画を見ているみたいで、変に笑えた。そのあと、もともと隣にいた子がまた僕の隣の席に戻ってくる。けれども、ちょうどその時僕らは帰ろうとしていたところで、彼女が「私たちは?一緒に行かなくていいの?」と聞いてきた。僕らが「うん、来なくていいよ」というとふてくされてどこかへ言ってしまう。もちろん見送りなんて来ない。 アメリカを中心に栄えてきたパッポンの直接的構造と日本人向けに栄えたタニヤ通りの間接的構造がそれぞれの国の文化を象徴していておもしろいなあと思った。 今度は、全員女の子であることが確実であるゴーゴーバーを冷やかしてみたいもんだ。
2004年10月24日
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今日は一昨日のクラブで相手をしてくれた女の子のご推薦であるサーヤムスクエアに行ってみた。東急やさまざまなショッピングコンプレックス、ファーストフードの店に映画館とくれば、ここはバンコクの渋谷でしょう。案の定、若者で溢れていたのは言うまでもない。実は僕は去年の今ごろもこの場所を訪れている。会社のアジアミーティングで去年の今ごろプーケットに来ていて、その帰りしな5時間だけのバンコク滞在時間を利用して、無謀にもここまでやってきたのだ。会社の同僚や先輩と一緒で、フカヒレや蟹やあわびを食いまくった。いまやあんな贅沢はできないが、同じ場所にくるととても懐かしく思い出す。 今日はフカヒレなんて食っている場合じゃあないので、おとなしく映画でもみることにする。なにがやっているんだろうとやっている映画をチェックする。たいした物はやっていない。「The Pease Maker」「The Airforce One」「American YAKUZA」などこれは面白そうだと思う映画はみんなComing Soonと書いてあって今はみれない。なかでもAmerican YAKUZAなんかはB級映画っぽいが、石橋陵なんかも出ていて面白そうだったのに残念だ。しょうがないから「Event Horizon」という観客をびっくりさせること命の訳の解らないSFホラームービーを見てしまった。入場料90バーツ。話の展開は稚拙だし、論理的でもないので、見ていて呆れてしまった。特にぼくはホラー映画が大嫌いなので、見ていてとても後悔した。 無駄な時間の使い方をしてしまったのに後悔しつつ、東急にいってみる。ここも伊勢丹とおなじように巨大なショッピングセンターの一角にキーテナントとして入っている。伊勢丹が高級感を漂わせているのに対し、こちらはまわりの雑然としたショッピングセンターに見事に溶け込んでいた。平場ではワゴンセールのようなものをやっていて呼び込みにいちゃんが一生懸命叫んでいるのがなかなか良い感じだ。二年前に上海で買ったジーパンがぼろぼろになってポケットに穴まであいて、いくら縫ってももう修復不可能な状況に陥っているのを思い出し、ジーパンをあさってみる。が、きにいったものは見つからず結局東急を後にし、また伊勢丹へ。 伊勢丹では、挑戦的にLEEのカーキ色のジーパンを買ってしまった。これから行くところは汚いことが多く、ジーパンなども出来るだけ汚れの目立たない色を選ぶのが正しい道なのだが、あまのじゃく的にに薄いカーキ色にしてしまったのだ。ついでに半額だったことをいいことに長袖のシャツも一枚買ってしまった。こういうのを衝動買いというのだろうか。その後、更にこの街のばすを乗りこなすべくバスマップなるものを購入。ついでに Night Mapという夜遊び専用マップまで買ってまった。でへへ。 よる8時ころ、まさに夕食を食いに行こうと思った瞬間、電話が鳴った。サイモンからだった。まさに絶好のタイミングだ。サイモンもまだ飯を食っていないのでとうぜん、飯でも食おうということになる。かれはシャングリラにとまっているので彼のホテルを訪ねてそこの日本料理店で飯を食うことにする。久々の再開だ。たぶん去年のタイでのアジアミーティングのとき以来だろう。昔話やほかの友人達の近況の話。仕事の状況など話は尽きない。旧友との再開というのは本当に楽しいものだ。
2004年10月23日
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最近使い慣れて来たバスを利用して朝からパッポン通りを目指す。ここまでは歩いて15分程度なのだが、日差しの強いこんな日はちょっとの距離でもとても助かる。昼間っからパッポンに来たのにはもちろん訳がある。と言っても別にパッポンに用が在るわけではない。スリウォン通り側のパッポン2の先に小さな小路があり、そこにはマッサージ屋が密集しているのだ。マッサージといってももちろんトラディッショナル・マッサージのほうである。(ひょっとしたら場所が場所だけにそっちのマッサージもいっぱいあるかもしれない)。 先日、ワット・ポーでハーブマッサージはしてもらったが、最後にプロレスの決めわざのようなもので、フィニッシュを迎える本当のマッサージはまだしてもらっていない。だから、この激戦区、マッサージ横丁でちょっとお願いしてみましょうという訳だ。いろいろなところをチェックするがどこも値段に変わりはない。だからいちばん雰囲気の良かった「有馬温泉」というところでお願いすることにした。名前からして日本人向けであることがありありである。料金は2時間で300バーツ。1時間や30分コースはワット・ポーよりも安かった。奥に通されてシルクで出来た長ズボンに履き替えさせられる。熱いおしぼりで足を拭いてもらって、いよいよ開始だ。至福の時の始まりだ。 2時間のマッサージだったので、すこし長いかなとも思ったが、時間はあっという間に過ぎ去り、例のプロレス技でフィニッシュを決められた。残念だったのは、カーテンの向うに日本人女性4人組みがいて、どうやらはなしの流れから彼女たちがどこかの航空会社の客室乗務員(スッチーね)らしかったのだが、ついに顔を拝むことも出来ず、話し掛けることも出来ず、僕がマッサージをしている最中にさっさと帰ってしまったことだ。ああもったいない。 マッサージを終えてさて伊勢丹に行こうとおもっていると、突然大粒の雨が降り出した。激しく強い雨だ。「バケツをひっくり返したような」という表現は、きっとこんな時に使うんだろうなあというほどの激しさである。しょうがないので「有馬温泉」のロビーでしばし、雨宿りをする。このスコールタイプの雨は20分から30分もすれば止むことは経験上知っている。だから、その辺にあった全日空の時刻表などを熱心に読みながら雨が止むのをまった。なにしろ他にやることがないのである。 予想通り雨は止み、その後伊勢丹にいって、パンツなどを購入した。というのは、実はネパールでまだ元気だった頃、「荷物を少なくする運動」というのを一人で盛り上がってやっており、いらないけれど捨てるのは惜しいものは日本に送り、捨ててもいいようなものはどんどん捨てまくったのだ。 日本から持ってきて一度も使っていない音響カプラーなんかも思い切って捨ててしまった。雲南で買ったパーカーやポタラで買った本などは日本に送った。そのほかにも猛烈な勢いでどんどんといろいろなものを捨てていった。そして、気が付くとあまりにも勢いに乗りすぎていてパンツが2枚しかないのだ。確か5枚持ってきていたはずなのでいつのまにか3枚も捨ててしまったことになる。荷物はずいぶんと軽くなり、作戦は大成功だったのだが、パンツが2枚じゃ不便が多い。特にこのホテルのランドリーは目の玉が飛び出るほど高いので毎日洗面所でごしごし洗う日々が続いた。幸いここは乾燥しているので一日で乾くのだが、この先の事を考えるとさすがに2枚じゃきついと思い、新しいものを買うことにしたのだ。 ところで、突然だが自由を愛する僕はトランクス派だ。中学校3年生の時以来一度もブリーフをはいたことがない。当然伊勢丹でもトランクスを探す。けれどもタイの人というのはみんなブリーフ派なのかなんなのか解らないが、売り場の95%以上はブリーフで占められていた。非常に苦労してトランクスを見つけるが、予想の3倍くらいの値段で、柄も気に入らない。サイズも僕には少々大きい。そこで、僕は意を決して14年ぶりにブリーフをはいてみることにしてみた。でも、普通のブリーフじゃ芸が無いので、超スーパービキニのブリーフを買う。と言うのは嘘で、ボクサータイプの短パンのようなものにしたみた。伊勢丹はセールをやっている最中だので、3割り引きで購入する。それでも150バーツくらいだった。これで、毎日の洗濯地獄から開放される。 帰りはまたバスに乗るが、交通渋滞に巻き込まれる。バンコク名物といわれる交通渋滞だが、一度くらいであれば、「いい記念になる」で済ませられるのだがこう頻繁に来るともういいかげんにしろと言いたくなる。沢山の学者たちが、バンコクの交通渋滞の原因をさまざまな角度から述べているが、僕が思うにマクロ的な道路のルートだとか建物の建て方だとかそういったもの以前に解決出来そうな点がたくさんあるような気がする。 まず、車線だ。バンコクの道は車線の数が頻繁に変わるのだ。いままで片側2車線だったものが突然5車線になってそのあとまた2車線になったりする。当然5車線の部分はガラガラなのだが2車線になる前あたりから急に混み始める。そして5車線の部分の反対側の車線はいきなり1車線だったりして、こちらもこちらで当然混んでいる。車線の数がこんなに頻繁に変わる都市を僕は見たことが無い。 次に信号だ。大きな通りと大きな通りがぶつかるところでは手動での信号操作がおこなわれている。目の前の道の混み具合によって信号の長さを調整しているのだ。信号の先の道路が詰まっていると、信号は永遠に青にならない。今までの最高記録では10分間信号が赤だったことがある。そのお陰で渋滞が発生したのだが、信号を越えると車はすいすい流れていた。目の前の状況だけをみた場当たり的な対応をするものだから全体の信号の整合性が取れなくなり、それが渋滞の原因になっているのだと思う。運転マナーのことを言う人がいるが、僕がタクシーにのった限りでは運転マナーは東京とそれほど差が無いように感じられた。 とにかく交通渋滞のお陰で、バンコクはとても非効率な都市になっている。いつできるか解らないモノレールを待つよりもできることから始めてもらいたいもんである。
2004年10月22日
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昨日の夜次郎から電話があった。彼も昨晩ミャンマーから帰ってきたのだそうである。そして、今日は豪勢にこの辺で飲みましょうか(といっても僕は酒は飲めない)ということになり、夜彼が来るのを待った。日中は相変わらずその辺をふらふらしたりしていた。 さて、次郎がホテルに迎えに来る。車が込んでるから途中で降りて歩いてきたよ。と言っていた。確かに目の前のシーロムロードは車の洪水で全く車が動いていない。次郎に何か食べたいものはあるかと聞かれたので、僕は前からどうしても食べたかったものをリクエストする。それは「しゃぶしゃぶ」だ。チベットに居る時から、日本人仲間の間で「しゃぶしゃぶ」のはなしで盛り上がっていた。特に僕は木曽路のしゃぶしゃぶを愛していおり、なにかにつけて木曽路のしゃぶしゃぶが食べたいとわめいていた。 ネパールに着いた時に日本食が豊富なのを見つけて、目を皿のようにして「しゃぶしゃぶ屋」を探した。けれども「すきやき」までならなんとかあるのだが、どうしてもしゃぶしゃぶを出している店が見つからない。僕は本当に落胆して、相変わらずしゃぶしゃぶの店を夢見ていたのだ。そしてバンコク。当然のようにそこら中に日本食屋があり、ところどころで「しゃぶしゃぶ」の字が躍っている。こりゃあ食うっきゃないと思っていたのだが、いかんせん一人ではなかなか食べられないのである。だから、次郎が何を食いたい?と言った時僕は条件反射のように「しゃぶしゃぶ」と答えていたのだ。 ところで次郎によると今日はタニヤ通りを案内してくれるのだそうだ。ここは以前にも書いたがパッポンのすぐ裏手にある日本人街。しかもこちらに在住している駐在員が接待や憂さ晴らしに訪れる場所で、当然値段もそれに見合った価格設定。だから普段の僕ならこんな所に足を踏み入れることはまずないだろう。それに看板からどんな店かを察知するのはなかなか難しく(といってもどこも大差ない)一見では店一つ選ぶのにも苦労する。中にはぼったくりバーも在るということだし。で、僕らは歩いてパッポンを越え、タニヤにやってきた。 タニヤは長さ300~400メートルくらいのこの辺にしては太い道で、この道から更に細い小路が何本か出ている。その小路の周りもびっしりと日本語の看板で覆い尽くされており、ここだけ切り取ると、すすきのか、銀座かという感じだ。(といっても銀座ほど品は良くない)実は次郎もこの中で数軒しか行ったことが無く、いずれも上司に紹介された場所だといっていた。 何はさて置きしゃぶしゃぶである。タニヤプラザというショッピングセンターの2階に日本語で「しゃぶしゃぶ」と書いてある。うきうき気分でその店に入り、さあ注文とおもいメニューを開く。が、しかしなんだか様子が違う。でっかく「シーフード」などと書かれていて、それにつづいて「えび」とか「いか」とかしか書いていないのだ。「しゃぶしゃぶでシーフードか?」と最初目が点になったが、すぐに僕はこの店が「日本のしゃぶしゃぶ」ではなくて「タイ式のしゃぶしゃぶ」を出す店なのだと気が付いた。「タイ式のしゃぶしゃぶ」とは、いろんな海産物やいろんな肉を節操なくどんどん入れて、それを辛いスープに付けて食べる料理だ。「タイすき」とも呼ばれているが実態はどちらかというとしゃぶしゃぶに近い。この店の造りも、メニューに乗っている他の料理も純粋な日本食屋なのに、しゃぶしゃぶだけはタイ式らしい。わがままな僕は次郎に「夢を夢で終わらせないでくれ」と泣き付き、お絞りで手と顔をふいた上お茶なんかもいっぱい飲んだのにも関わらずやっぱりやめますとその店を出てきた。 タニヤ通りを端まで歩く。この辺はバー・クラブばかりで、食事できる店はあまり多くない。それでも居酒屋のようなところをすう軒回って、手当たり次第「日本のしゃぶしゃぶはありますか?」と聞きまわるが、皆首を横に振るばかり。最後に絶対にしゃぶしゃぶなんて出てきそうに無い雰囲気のお店で聞いたところ、予想外なことに首を縦に振る。メニューには乗っていないのだが作ってくれるのだそうだ。それが何度も日本の本当のしゃぶしゃぶであることを確認して、ようやく落ち着くことにした。 出てきたものは、本物のしゃぶしゃぶであった。感動だ。タレもぽん酢醤油である。紅葉おろしがなかったのは残念だが、そこまで贅沢は言えない。ついでにごまだれも出てこなかったが、僕は断然ぽん酢醤油派なので、そんな事はどうも良い。肉は柔らかく、あっさりとして、ほっぺたがとろけ落ちるというのはこういう感覚なのかということを実感した。物も言わずにがっついている僕を見て、次郎は半分呆れ顔で「肉が足りなかったら追加しようよ」と言ってくれた。当然僕は肉をほおばりながら笑顔でうなずいた。 食事が終わると今度はカラオケクラブに連れていってもらう。次郎はここには何度も来たことが在るらしく、しっかりボトルも入っていた。男一人に女の子一人がつくシステムで、なかなか密度の濃いサービスをしてくれる。タニヤのクラブには二つのタイプがあって、一つは「連れ出しOK」でもう一つは「連れ出し不可」の店である。ずいぶん前からタイのこの手のはなしは大きく批判されているが、需要があれば供給もあるということだ。「連れ出す」場合は店に幾ばくかの「連れ出し料」を払って、連れ出した後は女の子と何をしようと客の自由である。女の子が店からもらう給料はすずめの涙程度で、客からもらうチップが生活の糧になっている。だからどの女の子も自分を連れ出してもらおうと必死なのだそうだ。 「連れ出しOK」の店でも、連れ出すことが前提となっている店と、気があえば連れ出しても良いというタイプの店がある。次郎によると僕らの入ったカラオケクラブは「気が合えば」の方で、だからこちらも割と気が楽だ。変なところに気を使わなくてもよい。なぜなら僕はこのカラオケクラブに「歌いたく」て来たのだから。 東京に居た時、僕はカラオケが大好きで学生時代は週に2回はBOXに通っていた。就職してからも週に1回程度は行っていたと思う。次郎とも良く近くのカラオケボックスに出かけて行ったものだ。男二人で延々2時間も3時間もわき目もふらず歌っていた。端からみたら地獄のような光景だが、やっている方はもう自己満足の世界に突入しているものだからさほど気にならない。会社のアジアミーティングでタイのプーケットに行った時も夜は若手連中でカラオケで盛り上がった。10ヶ国くらいの国籍が入り交じった、大カラオケ大会で、サザンの真夏の果実を香港オフィスのやつらと日本語と中国語で張り合って歌ったりしてとても楽しかった。そしてその後僕が顔を覚えていないのにもかかわらず、他のオフィスの人から「あのカラオケの人だよねえ」などと声をかけられてられていたものだ。 そして、ここしばらくカラオケに行っていなくて、ほとんど禁断症状に陥っていたのだ。前に行ったのはいつだっただろう。貴陽で女の子に騙された時だったかな。 そんな訳で、今日は「歌い」に来たのだ。女の子を「連れ出す」つもりはあまりない。(全く無いといわないところが、弱いね)で早速歌う。次郎はいきなりSPEEDの「Go Go Heaven」でかましてくれる。彼の場合、受けをとろうとかそういうことではなくて、純粋にそれを歌いたいのだ。もっとも僕を相手に受けを取ったところで、どうしようもないのだが。それで僕は「名も無き詩」で対抗する。そして他の客が歌っている客待ちの時間に女の子とはなしをするという、彼女らにとってみれば本末転倒な客だ。 周りを見渡すと結構面白い。すぐ隣のテーブルでは、上司と部下という感じの40代半ばと30代半ばのサラリーマンが飲んでいたのだが、それぞれ女の子とは間隔が5ミリあるかないかと言うほど密着しているのに比べて、その二人の間は3メートルくらい離れているのだ。お互い女の子との二人の世界に浸っているのだがたまに思い出したように大声で会話する。日本ではあまりみられない光景だけに、見ていて面白かった。僕らが歌に狂っているあいだに彼らは勘定を済ましていなくなった。特に「連れ出した」形跡はなかった。 女の子は日本語も英語もしゃべれない。だから会話をしようにもとても苦労する。だから、彼女たちはさっきの中年サラリーマン軍団にやっていたように、密着作戦でコミュニケーションをとっているのだろう。僕らはほどほどに密着し、歌いまくり踊りまくった。けれども順番が回って来るのに時間がかかり、結局2曲しか歌えなかった。女の子にチップ(100バーツ)を渡して、そこを出る。 次に次郎はタニヤで一番高級な、アメリカの有名なゴルフクラブの名前を冠したクラブに行く。ここは「連れ出し不可」なのだそうで、そのせいかたまにチュラロコーン大学というタイの東大みたいなところの学生が働いていることがあるのだそうだ。中はまさに高級クラブという感じで、広くゆったりした空間に高そうなソファーがおいて在り、ピアノの生演奏が耳に心地よく響いてきた。混んでいて女の子の選択の余地は無いのだが、日本語か英語のしゃべれる人と注文を出して、彼女との会話を楽しむ。ちなみに彼女は英語が結構達者であった。いろいろとはなしを聞いていて、彼女たちの大変さがよくわかる。 彼女は休みが月1回しかないのだそうだ。年は26歳。僕の入院していた病院の近くに一人暮らししており、毎日8時から2時まで6時間労働。家に帰るのはいつも3時を回っており、起きるのはいつもお昼を回っているのだといっていた。「どうしてそんなに英語がうまいの?」と聞くと、「家は貧乏で学校にはいけなかったの。けれども、私、勉強が大好きで、英語は独学で学んだの。こういう店で働いているからヒヤリングはとても上達してあなたが言っていることは全部理解できるけれど、はなしをするのはまだ苦手なのよ。今は日本語もおぼえなくちゃいけないし。」と流暢な英語で教えてくれた。それから休日は何をしているかと聞くと「これといって何もしていないけれど、たまにはサイヤムスクエアに映画を見に行ったりしているわ。それから勉強するためにたくさん本を読んでいるわね。そうだ、あなたもしばらくバンコクに居るのだったら是非ともサイヤムスクエアにいってみるといいわよ」と言った。彼女の屈託の無い明るさと、向上心、それに彼女がいままで背負ってきたものを考えて僕は複雑な心境であいまいに笑った。きっと彼女は稼いだ金を田舎に仕送りしているのだろう。それはタイ、特にこのエリアで働く女性では普通のことだ。 次郎によるとタニヤには更に野球拳などの企画物で人気のある店やそれこそ「連れ出し」を前提とした店などさまざまなタイプの店がひしめき合っているのだそうだ。遠い日本の地を離れて最前線で働く日本の企業戦士の癒しの場がこのタニヤ通なのだなと思った。
2004年10月21日
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このあたりは昼間の日差しがとても強く、少し歩いただけでものぼせたようになるのにくらべ、夜はとても涼しい。夜には窓の外から鈴虫の泣き声なんか聞こえたりして、なかなかいい感じだ。窓から吹いてくる風もカラッとしたやさしい風で、だからおとといは扇風機付きの部屋なのに扇風機を消して寝た。昨日は扇風機無しの部屋で、ホテルの人はその事を心配していたがそもそもあっても使わないのだから、僕にとってそれはなんの問題にもならなかった。睡眠を充分とってさわやかな朝の光の中で、鳥たちの声に誘われて目が覚める。なんとも優雅な一日の始まりだ。 僕は大学時代、国分寺の家賃3万3千円の風呂無し、トイレ付き木造アパートに住んでいた。もう本当にぼろぼろなのだが、昔のつくりなものだから、収納スペースが膨大に在り、それだけが自慢のアパートだった。なんてったて名前は「靜柳荘」である。今時の新築アパートにこんな名前を付ける人はまずいないだろう。2階の部屋で広いベランダが付いていて、その先はちょっとした庭に草が生い茂っている。だから秋になると膨大な数の虫が鳴きはじめ、春になると鳥達がベランダの軒先に巣をつくり、子を育て、そして旅立っていった。だから東京都内でありながらも、僕はいつも虫と鳥の声に囲まれて4年間の大学生活を過ごしていたのだ。もちろんクーラーなんかない。今朝目が覚めて、突然あの大学の時の感覚がよみがえってきた。 そういえば、旅に出るほんの数週間前にたまたま国分寺に出向く用があって、ついでにあのアパートはどうなっているのだろうとのぞいてみたら、あの木造モルタルのぼろいアパートは跡形も無く、その地にはぴかぴかに輝く新しいアパートが鎮座していた。ちょうど出来上がったばかりだったようだ。思い出にどっぷり浸って浸りすぎるのは趣味ではないが、それでもその光景を目の当たりにすると込み上げてくるものがあった。僕の実家も僕が東京に出てきたあと新しく建て替えている。僕が育った、僕の匂いの染み付いた場所はもうどこにもないんだな。その時、ふとそう思った。 ところで、そうだ。気持ち良く目が覚めたのである。ところが起き上がると、ちょうど僕の背中があったあたりで、バッタが一匹天国に行っていた。昨日僕が気が付かないうちに僕の布団に忍び込み、そして僕が不意に寝返りかなんかを打ったものだからバッタは驚くまもなくあの世に行ったに違いない。これは申し訳ないことをした。とても気持ち良い朝だと思っていたが、思わぬところに落とし穴があったものだ。とは言ってもさして気にせず、早速朝飯を食って、出発だ。 8時30分発のバスに乗りカンチャナブリを目指す。ちなみにここサンクラブリーからカンチャナブリまでのエアコンバスは午前6時30分から午後3時30分まで一時間ごとに出ている。そして僕が乗った8時30分発のものと午後2時30分発のバスは大型のエアコンバスで、それ以外はミニバスというかバンなのだそうだ。料金も大型バス120バーツに比べてバンの場合は90バーツと差を付けてある。特に意識せずにいたのだが、結果的に僕は行きも帰りもこの大型バスに乗ったことになる。 出発すると右手に突然湖が見えてきた。バンコクの川の色など嘘のように澄んだ藍色をしている。そしてバスは峠にさしかかりくねくねとカーブする坂道をのろのろと進む。その度に日が射す方向が変わり、他の乗客はみんなカーテンを閉じてしまった。けれども僕は外の景色を堪能したかったので、暑い日差しにも我慢して、外を見続けていた。来る時にこの辺を走った時は、日が落ちていて僕の視界は墨汁を流した暗闇状態だったので、湖と峠の景色をどうしてもこの目に収めたかったのだ。チベットの4000メートル級後半の峠をいくつも越えて来た身としては、この峠はただの山道のように感じたのだが、それでも久々に変化のある道で、それはそれで楽しかった。 当たり前のはなしだが、来た時に通過してきた街を来た時とは逆の順番で通り過ぎていって、バスは12時過ぎに来た時と同じバスターミナルの同じ場所に到着した。カンチャナブリには「明日に架ける橋」という映画で有名な鉄橋や、沢山の滝、洞窟、戦争関係のモニュメントや博物館と見るものは沢山在るのだが、どうしてもここに寄る気にはならなかった。なにせ有名な鉄橋だかなんだか知らないが、そもそもその映画を見たことが無い身としては、「ふうんそうですかあ」という以上の感想は出てきそうにないし、それに炎天下なので昨日同様うろうろ動き回るには体力的に辛い。それにここはバンコクから2時間でこれる距離なのであとからどうしても来たくなったらまた来ればいいさと思ったのだ。 だから、すぐにバスの切符を購入。経験上左側の席なら日の光に当たらなくて済むと分かっているので、左手窓側の席を指定して、いそいで近くのセブンイレブンに食料の調達に向かう。その時の時間は12時15分。バスの出発時刻は12時30分なのでぎりぎりだが間に合う時間だ。バスにはもう乗客がどんどん乗り込んでいるが気にせずに急いで飯を買う。急いだ甲斐があって12時25分にはバスのところに戻ってきた。が、しかし、バスはドアを閉め、後進し僕をおいて出発体制に入っているではないか。あわてて駆け寄るが、バスに乗っている係員はもう満席だからだめよというそぶりで僕を無視する。僕がチケットをドアごしに見せると、しょうがないわねえという感じでドアを開けてくれた。こっちだってバスが定刻よりも5分も早く出発するなんて夢にも思っていなかったし、乗るはずのひとが乗っていなければ普通待っていてくれるものだと思っていた。中国のバスだってきちんと予約状況と乗客の数を確認して、少し遅れてもきちんと待っていてくれたぞ。と内心でムッとしながら、自分の席を捜す。 するとそこには中年のビジネスマン風の男が坐っていた。そして一番後ろの右の窓側に一席空席がある。係員はその席を指して、僕にそこに座れという。昔の僕なら文句を言いながらもそれに従い、日差しを浴びながらバンコクへの道をひたすら絶え続けていただろう。けれども中国で鍛えられた今の僕は昔とは違う。チケットの座席番号を指差し、俺はこの席以外絶対座らんぞ、とすこし強い調子で、しかも日本語で係員に言ってやった。そうすると係員も「わかったわよ」というちょっと投げやりな感じで、その中年ビジネスマンに席を空けるよう言った。中年ビジネスマンもこりゃあおとなしくしたがったほうがよさそうだぞと思ったのか、素直に席を空けてくれる。お陰で僕は日の光りが当たらないほうの窓側の快適な席を手に入れることが出来た。 ところで、行きのバスのサービスに在ったミネラルウォーターとおしぼりのサービスはこのバスではなかった。そういえば行きは52バーツだったのだが帰りはなぜか50バーツだったような気がする。この値段の差がサービスの差なのか? バスは途中渋滞に巻き込まれながらも、それでも2時間と少しで南バスターミナルに到着する。たむろっているタクシーはやっぱりメーターを使ってくれそうに無く、べらぼうに高い金額を言ってくるので、流しのタクシーを使い、ホテルに直行。帰るなり急いでシャワーを浴びてまだ4時前だというのにとりあえず一寝入りを決め込む。たった3日の小旅行だったが、自分の体の状態をチェックする良い機会になった。
2004年10月20日
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国境を通過できないのだと言うことは、2人の人から忠告されていた。カンチャナブリーの観光案内所の人と、昨日泊ったPゲストハウスのフロントの人からだ。そこら辺にたむろしているタクシーの運チャンなどの情報と比べると、この情報筋はとても確かなものだ。なんでも少し前まではミャンマー領内の市場のエリアまでは日帰りを条件として許可していたのだが、ミャンマー側が一方的に国境を閉じてしまって今ではタイ人かミャンマー人しかこの国境を通過することはできないのだそうである。 けれども、僕は国境に行くことを目的としており、ラッキーだったらミャンマーにも行きたいけど、それは無理っぽいからあきらめようと思っていたので、それほどショックではなかった。国境はこの街から小型バンの後ろを改造して座席を付けた乗合バスで40分程の距離なのだそうだ。 目的はスリー・パゴダ・パスというところだ。40分ほどで終点につき、運転手があっちが国境だよと指差してくれた方に歩いていくと、5分ほどで唐突に国境に出た。突き当たりがロータリーになっており、ロータリーの真ん中にはパゴダが3つある。なるほど「三つのパゴダがある峠」というそのまんまの地名である。突き当たりには大きなタイ国旗がはためいていて、国境ぽさを醸し出している。なんだか板門店でみた巨大な北朝鮮と韓国の国旗を思い出した。けれども周りを見渡すがミャンマーの国旗は見つからなかった。 ロータリーの左手にはお土産物屋があり、右側には国境のゲートがある。国境のゲートのほうにてくてくと歩いていくと、イミグレーションの係員に「おまえは何人だ?」と聞かれた。「日本人だよ」と答えると「残念だけど外国人はここを通れなくなっちゃったんだ」と予想通りのことを言ってきた。他にちらほらと西洋人がいたのだが、彼らも国境線の写真をとってそそくさと引き上げていっている。国境のミャンマー側には英語ででかでかと「Welcome Myanmer」と書いてあるのだが、実際は歓迎してくれないのだ。それから日本軍が作った鉄道の一部も国境には残っていて、そこにも英語で解説がある用意周到さであった。けれどもいずれもミャンマー国内に位置するので、それを近くに行って読むことはできない。残念だ。 することも無いので、暇そうなイミグレーションの若者と他愛も無い会話をする。そうするうちにだんだんと打ち解けてきて、記念に写真を撮ってやるよ。とシャッターを押してくれた。彼の名前はチャウと言うらしい。チャウとはそこで別れて僕はロータリーの反対側のお土産物屋を冷やかす。ここのお土産物屋の特徴は木製の家具が沢山ならべられていることだ。多分これがミャンマーの名産品で、だから国境でこんなに派手に売っているのだろう。それからミャンマーのお札というのも売られていた。これはミャンマーに入れない外国人の為のお土産の意味があるのだそうで、両替のレートとはかけ離れた高い値段で売っているようだ。 さて、写真も撮ったし、一通り国境も見たし、ついでにさっき写真を撮る時にどさくさに紛れて一歩だけミャンマーに足を踏み入れたし、これで満足だ。もう帰ろうと思い、最後にチャウに別れを告げに行った。そうすると彼は思わせぶりなことを言う。「お前はミャンマーに行きたいのか?」僕は軽くうなずく。「そうか、実は僕はこれから2~3時間ほど外出しなくちゃいけないんだけど、その後で良ければ僕がちょっとだけミャンマー国内を案内しようか?」と願ってもない申し出。それなりの袖の下を両国境のイミグレーションのオフィサーに支払わなければならないのだそうだけど、でもイミグレを味方につければ天下無敵だ。僕は大きくうなずいて、2時間後にもう一度ここに戻ってくることを約束した。こりゃあラッキーだ。 ところで2時間、市場があったのを思い出してとりあえずそこを冷やかすことにする。でも5分もあれば一周できてしまうほどの小さな市場で、とても2時間も時間はつぶせない。と、インド人のような顔をした雑貨屋のおじさんに突然声をかけられ、「ここに座れ」と言われた。何がなんだかわからずに座ると「どこから来た」だの「タイにはいつ来た」だのありきたりのことを聞かれる。喉が渇いていたし、ちょうどいいやとコーラを注文ししばらく親父と話をした。彼は英語がとても流暢だ。ちなみにコーラは小瓶で6バーツだった。いままでタイで買ったどのコーラよりも安かった。 そこへちょっと目つきの悪い兄ちゃんが登場して僕らの会話に加わる。といっても彼は英語が全くだめなのでこの雑貨屋おやじが全部通訳してくれた。彼はミャンマーの警察なのだそうだ。つまりミャンマー人なのだ。ここはタイ領だしミャンマー人がなんでここにいるんだろうと不思議に思った。しかも警察官である。そして、僕が日本人だと分かると、「ミャンマーを案内してやろうか?」と言ってきた。もちろん僕が幾ばくかのお金を払えばだそうだ。こういう最初からお金がかかるよといってガイドの申し出をしてくれるというのはとても気持ちが良い。よく観光地では勝手にやってきて頼みもしないのにガイドをして最後にお金を請求するという輩がとても多いからだ。 僕は一瞬いろいろと考えた。つまりタイのイミグレーションとミャンマーの警察のどちらを味方につければよいかということだ。そして、やっぱりミャンマーの警察官の彼の申し出は断ることした。というのは、タイのイミグレの彼とは最初に約束したんだしという、妙に義理堅い理由とともに、タイのイミグレは本物のイミグレの係員であるということをこの目で確認しているが、ミャンマーの警察官の方は自称であり本当かどうか確かめるすべはない。そしてもし偽者だった場合あとあと面倒なことが起きる可能性もある。それからイミグレのほうは英語が分かるのだが警察の方は英語が分からずコミュニケーションを取るのが大変難しいというのが最大の理由だ。 さて、2時間がすぎまた国境へ向かう。が、先ほどのチャウ君はまだ帰ってきていない。ところが彼の上官のここで一番偉い人にはなしが通じていて、他の若手が僕を案内してくれることになった。手続きやなんやでちょっと時間がかかったが、彼のバイクの後ろにのって無事ミャンマー入国成功。といってもパスポートには記録に残らない不法入国だ。まずバイクでメインストリートを街の端まで走ってみる。途中これは学校だとか、これは映画館だよといろいろと解説が入る。看板の文字が蛇が這ったようなタイ文字から丸がいっぱいあるミャンマーの文字に変わった。バイクが街の外れまで来ると「ここから先は何キロも何もないから、今日はここまでしか来れないんだ」と彼は言い、そして「市場を案内するよ」とバイクを街の中心部に向けた。 市場にはタイ側のお土産物屋と同じように木製の家具が沢山売っていた。国境でこの家具に対しては税金を取られるのだそうである。いくつか値段を聞いてみたがどれも結構高い。日本人だから高く言われたというわけではなさそうだ。もちろん僕はそんな家具を買う予定も無く、市場をさまよう。市場の女達はみな色白で、大きな目でこちらを見つめられると、少しドキドキしてしまう。みなタナカとよばれる白いクリームの様なものを顔に塗っている。日焼け止めなのだそうだ。なんだか化粧の途中のようで、僕としてはあまり見た目が良いとは思えないのだが、価値観はその国その国によって違うのだろう。タイではこのタナカを付けている人を見ることはなかった。そんなことからも、ここがミャンマーであることを実感する。 市場では二つのものを買った。一つはこの地方の民族衣装のようなもので、巻スカートだ男も女もこの巻スカートを身につけている。これはサンクラブリーでも多く見かけていたのだが、この辺はほとんどの人がこの巻スカートを身につけている。あまり高いものでもないし僕も一つ買うことにした。といっても何の細工もしていないただのキレである。青と白の細かいチェックのガラのもので、40バーツだった。この市場ではほとんどがバーツで取り引きされているのだ。それからもう一つはチーズおかきだ。そう日本製のあのお菓子である。突然ミャンマーの市場でそんなものに出会ってしまって少し面食らったが、意外だっただけに思わず購入してしまった。ところが、このチーズおかき。とてもしけっていてあまりうまくない。ミャンマーの人々がこの味を本来の味だと思って、「日本のお菓子ってなんか変な味だなあ」などと勘違いされていないことを望む。 そういえば市場で飯も食った。ミャンマー料理が食いたいとイミグレ・ガイドに言うと、彼は嫌そうな顔で、「えっ、ミャンマー料理?あんまりうまくないよ」と言ったが、こちらは何がなんでも試してみたい。そこで市場の人に場所を聞いて、汚い食堂に案内される。4つならんんだ鍋のなかに料理が入っていて、それを確認して注文した。これは安全だ。ちなみに4つの鍋は左から順に、魚のカレー煮込み、豚肉のカレー煮込み、牛肉のカレー煮込み、鳥肉のカレー煮込みととにかく何がなんでもカレー煮込みだった。なかでも牛肉のがうまそうだったので、それを頼む。ボサボサしたミャンマー米を、この大ぶりの牛肉をおかずに平らげる。程よい辛さでなかなかいける。 飯を食いおわると、最初に僕を案内してくれると言っていたチャウ君がやってきた。イミグレ・ガイド君がトランシーバーで連絡をしてくれていたのだ。ここでガイド交代。今度はチャウ君が案内してくれる。最初に市場から少し離れたところにある寺に連れていってくれた。大きな立派なお寺で、黄色い袈裟を纏ったお坊さんが何人かいた。ただ広い本堂はガランとしていて少し寂しい。本尊は白をベースにした線の細いお釈迦様だった。タイの物とは明らかに様式が違う。僕らがお祈りをしていると本尊の後ろの方からこのお寺を建立した住職が出てくる。チャウ君が事情を説明すると彼はどこでも好きな写真をとっていいよ。と言ってくれた。 その寺の後は少し小高い丘の上に立ったストゥーバに行く。バイクで頂上まで乗せていってくれるので、こりゃ楽チン。ストゥーバはまだ工事中でそれ自体はそれ程見るべきものはなかったのだが、そこからの景色はすばらしかった。緑の山と田園がどこまでも続く。ここは国境地帯なのだが、だからといってそこに線がひかれれているわけでも、フェンスがあるわけでもない。いままで見た国境の中では一番あっけらかんとした国境線だった。だからミャンマーの男達が何人もタイ側の市場をぶらぶらしているのである。きちんとした道はあの国境のチェックポイントを通るので、車で移動した場合にはチェックポイントを通過せざるを得ないのだが、徒歩の場合は全くのフリーパスなのである。チャウによるとここはタイの領土が細く突き出たような形になっており、この辺はその細く突き出た部分以外はみんなミャンマーなのだそうだ。 24歳のチャウ自身もタイ領土で生まれたが、ミャンマーの学校にしばらく通っていたのだそうだ。それに彼の妻は国籍的にはタイ人だが、いつもミャンマー側の市場に通い、そこで働いているのだといった。この辺の人々にとっては人為的に引かれた国境線なんて全く関係無いのだ。この地域に住んでいる人はこの二つの国を行き来するのにパスポートなんて必要ない。国境ってなんだろうと考えてしまった。 チャウ達に別れを行って、また乗合バスに乗る。国境で渡した「袖の下」はUS20ドルだった。それまでミャンマー側が国境を開いていた時は入域料が5ドルだった。けれども非合法なところを入れてくれた上、バイクでいろいろな所に連れていってくれガイドもしてくれたことを考えると、20ドルは妥当な線だろうなと思う。ガイドには「おまえはスペシャルだ」と言われた。確かにミャンマー域内には外人は誰もいなかった。僕が国境に帰ってきた時も西洋人のグループが国境で写真だけをとって引き上げていた。僕はとてもラッキーだった。
2004年10月19日
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夏の日差しになった。太陽の強い光線が肌に突き刺さる。タイもそろそろ雨季が終わりを告げ乾季へと移行する季節だ。そんななか僕はまたバスに乗る。市内を走るローカルバスではなくて西を目指す長距離バスだ。昨日医者から「バンコクを出てもいいけど、タイを出ないように」という言われて、早速小旅行に出てきた。目的は西の国境。ミャンマーとの境目だ。噂では外国人はミャンマーに陸路で入るのがなかなか難しいのそうだけれど、とりあえず国境を目指す。国境線に手を触れるだけで良い。 何度も言うが僕は今回陸路での旅行にこだわっている。世界一周の旅を陸路(または海路)で一本の線で結びたいと思っている。けれども国という大きな力がそれを認めないことが多い。特に政策の違う国がと隣り合っている場合は、そういうケースがとても多い。そして、ミャンマーと言う国はやはり陸路での国境を開放していない国の一つなのだ。そこで考えた僕の作戦はこうだ。まずタイ側から行けるところまで行く。そして飛行機でミャンマーに入り、今度はそこからタイを目指す。そしてタイ側で行ったところまで引き返し同じ国境線をミャンマー側からながめる。そうすると時差はあるが僕の旅行地図は一本の線で結ばれる。すこしずるいが、これは僕にはどうしようもない国と国との決め事なので、こうするしか方法がないのだ。だからまずはタイ側から国境を目指すことにした。 タイには行き先別に沢山のバスターミナルがあり複雑だ。国境に向かうにはまずカンチャナブリーというところにいってそこから更に先に行くバスに乗り換える。そしてカンチャナブリー行きは南バスターミナルからでるのだそうだ。南バスターミナルまでローカルバスでとも思ったのだが、バス路線が複雑な上、さっさとカンチャナブリーを目指したいというはやる気持ちを押えられなくて、結局タクシーに乗ることにした。結構距離があり、100バーツもかかってしまった。 南バスターミナルは活気に溢れている。シーロムあたりだと外国人がとても目立つのだが、ここでは沢山見かけない。東京で言えば僕が昔、大学時代に住んでいた国分寺を思い出させられる。雑然とした中にもなんとなく秩序があって、ごみごみしているようでも人の流れが出来上がっているのだ。英語の看板が見当たらなくなった。これではどこで切符を買ってよいかも、どのバスに乗ってよいかもさっぱり解らない。どう頑張っても短期間であのくねくねした時を覚えることは難しい。 しょうがないので、中国で学んだ「聞き込み作戦」を実行する。手当たり次第いろいろな人に「カンチャナブリー」とわめく。そうすると切符売場はあっちだと指差してくれる。そして3度目に聞いた人に目の前のブースを指差される。10分後の出発で、料金は52バーツだった。もちろん冷房車。さて、次はどのバスに乗るかなのだが、これは人に聞かなくても大丈夫だった。そのブースで切符を買う人はみなこの同じ時間のカンチャナブリー行きに乗るのが分かったので、とにかくその人たちに注目していればどのバスに乗れば良いか分かるのだ。うまい具合にお坊さんの集団がいて、彼らはとても目立つので簡単にバスが確認できた。 これからの長旅に備えて、とりあえず水だけは調達しておく。6バーツだった。バスの中はガンガンに冷房が効いていてとても快適だ。韓国以来こんな立派なバスに乗ったのは初めてじゃないだろうか。バスは音も無く定刻きっかりにターミナルを離れた。すぐにバスガイドさんが冷えたミネラルウォーターを配りはじめた。なんだ、わざわざ買う必要もなかったんだ。サービスいいね。 郊外に出ると突然沢山の緑が目に飛び込んでくる。畑が視界一面に広がる。あの背の高い作物は何だろう。深い緑色の硬質の葉をまとっている。空も青い。そして夏の日差しだ。僕は明らかに興奮している。久々の未知の世界への旅に興奮している。例によって手がかりは何も無い。国境を目指すと言う以外これといった情報はない。そんな旅が好きだ。 今回僕は荷物のほとんどをホテルに置いてきた。どれくらいでバンコクに帰るかは決めていなかったが、長くても病院の関係で5日以内だろう。国境までどれくらい時間がかかるのか分からないが、5日あれば十分だろうと思った。それで、小さなデイバックにバスタオル、パンツ一枚、Tシャツ一枚、洗面用具、薬一式、それにデジタルカメラだけを詰め込んで旅に出てきた。よけいなものは一切持たない。究極の軽量化に挑戦してみたのだ。身軽さがフットワークを軽くするのだと、とても実感した。 いくつかの雑然とした街を走り抜けてバスは意外に早く2時過ぎにカンチャナブリーに到着した。バスがターミナルに入る直前に「観光案内所」が在るのを見つけておいたので、そこに直行することにした。同じバスに乗っていた唯一の外国人の西洋人カップルは、バスを降りた瞬間に執拗に客引きに話し掛けられていたが、僕は何故か無視されていた。色が黒いからだろうか。荷物が少ないからだろうか。話し掛けられるとうるさいと感じるくせに、無視されるとそれはそれで、とても寂しい。 「観光案内所」の人はとても親切だった。英語も通じる。国境に行きたい旨を伝えると、「でも外国人は国境を越えられないよ」と言われる。でも国境を「見たい」んだというと、「それじゃあバスでサンクラブリーに行くといいよ。バスの時刻はここに書いてあるから。」と教えてくれる。今日はここに泊ろうと思っていたのでホテルも探しているんだけどというと地図に安宿街を丸付けてくれた上に、観光協会が出しているホテル情報の冊子をくれた。 ところがバスの時刻をみていると、2時半にサンクラブリー行きがあると言うのを発見してしまった。所用時間は3時間だそうだ。これなら充分今日中にサンクラブリーまでいけそうだ。今日はここに泊るという予定を変更して、今日はこのサンクラブリーまでいってみよう。そう思いセブンイレブンで遅い昼食を調達してからバスターミナルに戻った。途中観光客相手のトゥクトゥクに話し掛けられて、ちょっとうれしかったがバスターミナルに行くんだというとすぐに別のカモを探しにどこかに行ってしまった。 バスの時間は2時半ではなくて3時半だった。少し迷うが、一時間くらいならそんなに大きな差ではないと思い、切符を購入し冷房の聞いた待合室でボーっとしながら待つ。料金は120バーツだった。時間潰しに本くらい持ってくればよかったと思ったが、それも後の祭り。けれどもいろいろと物思いに更けていると一時間はあっという間に過ぎ、また快適なバスの旅は続く。窓の外の景色の緑の部分がどんどん増えていく。タイのもう一つの一面を見た気分だ。6時を過ぎると世界はオレンジ色にそまり、そして急速に暗闇が世界を支配した。街灯もなく対向車もまばらな山道をバスは疾走し、僕の席は後ろの方だったものだからヘッドライトの明かりもここまでは届かず、窓の外は墨を塗ったような暗闇だ。エンジンの音だけがやけに大きく耳に響いた。 7時を少し周った頃バスは小さな街に着く。そこがサンクラブリーだった。もともと空いていたバスだが、途中何人も降りてしまっており、ここまで乗っていたのは僕を含めて4~5人くらいしかいなかった。街灯も点いていない暗闇の道端にバスが停車する。そこがバスターミナルなのだ。前方には市場のようなものが見えたが、時間が遅いからなのか人影は見えなかった。バスターミナルは、客待ちのバイクが2台とまっていたのだが、他の乗客達が先に捕まえてしまい、僕は一人残され途方に暮れる。人もいないこんな暗闇の道端で放り出されて、いったいどうしろというのだ。 仕方が無いのでとぼとぼと当ても無く市場の方に歩いていってみる。その先がT字路になっており、その道まで行くとなにか手がかりがあるのではないかと思ったのだ。実はホテルは目星を付けておいた。というのはカンチャナブリーの観光案内所でもらったホテルの小冊子はこのサンクラブリーの分もカバーしており、そのなかからなんとなくビルマ・インというところがいいのではないかと思っていたのだ。だからそこを目指してみて、気に入らなければまた他を探そうと思っていた。とはいっても、地図を持っていない身としては住所だけ分かったってしょうがない。T字路のところで一人突っ立ってみるが、特に進展はなかった。 と、その時向こうからバイクが来た。といってもそのバイクはいわゆる「営業用」のバイクではなくて、地元の人のバイクだ。「営業用」の場合は必ずゼッケンを身にまとっているはずだ。少なくともバンコクではそうだったし、さっき客待ちをしていた2台のバイクの運転手もゼッケンをしていた。ところが、彼はゼッケンをしていない。けれども僕がビルマ・インに行きたいんだよねというと後ろに乗れという。料金は10バーツなのだそうだ。つまり彼の小遣い稼ぎ。ヘルメットをせずに荷台をまたぐ。夜の冷えた風は、肌に心地よい。 意外に長い距離をバイクは走った。そして連れて行かれたのはビルマ・インではなくて、Pゲストハウスというところだった。フロントの前にすぐレストランがあり、その先には川がある。濃い茶色の木でできた建物で、なんだか良い感じ。その他に川沿いにコテージというか小屋がたくさんあり、そこにも部屋がある。一人だというと60バーツの小屋に案内された。ドアを開けるとここはロッカーじゃないかと思うほど狭く、そこにマットが一つおかれているだけだった。窓も無ければ扇風機も無い。フロントのエリアの立派さとのギャップがとんでもなく激しい。普段の僕ならそこでも泊ってしまうのかもしれないが、体の調子にそれほどまだ自信が持てない僕は、ここは遠慮しておくことにする。ホテルの人に残念だけど他を探すよといって、さっきのバイクのあんちゃんを探すが、彼は既に姿を消していた。さっき「ちょっと部屋を見てくるけど、ちょっとまってて」と言ったのに通じなかったようだ。これは困った。 そんな困った様子をみて、フロントの人がこの建物の2階に3人部屋が在るんだけど、そこも見てみる?と助け船を出してくれた。一応チェックしてみようと思い、二階に登る。そして見せてもらった部屋は、申し分の無い清潔さと、広さだった。大き目のベットが3台縦に並んでいて、バス、トイレは共同なのだが、そのトイレもとても奇麗だ。150バーツという値段もこの部屋の質からすると悪くない。だから、僕は即断即決でその部屋を確保することにした。 さっそくそのゲストハウスで飯を食い、少し早いが9時前には眠りについた。
2004年10月18日
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朝から病院に向かう。今日は退院後初めての検査の日だ。この検査の結果次第では久々にビールが飲めるぞとかなり期待していった。早速血液検査。僕は注射は大嫌いなのだが、さすがにこれだけいっぱい注射されるともう慣れてしまった。それに、ビールのためにはこれくらい我慢しなくちゃね。 一時間ほど待たされて、検査の結果が出たので、先生に会いに行く。日本語ぺらぺらのここの院長、モンコン先生だ。そして、ドキドキの検査結果。いつも4つの数値をチェックしている。ビリルビンの量が二種類、それからGOTという僕にはなんのことかさっぱり解らない物の量が二種類だ。ちなみにGOTの量は本来多くても50以下でなければならないのに、僕が入院した当初は1500だった。実に30倍である。僕が退院した時の数値が200でそれまでかなりの勢いで正常値に近づいていたので、今回こそ許容範囲に入ると期待していた。ところが残念ながら今回の数値は104。まだ最大許容量の2倍である。他の3つの数値も惜しいところで正常値を越えている。 だめもとで、あのーお酒は飲んでもいいですか?とおそるおそる聞いてみるが、先生はあっさり「絶対にだめです。これは厳重注意です」とかわしてくださった。ただ今回の数値を見て、退院時に出された4つの条件のうち一つだけが緩和された。それは「バンコクを出ないこと」という条件だ。それが、「タイを出ないこと」にかわったのだ。そして来週の金曜日にもう一度検査をするということで、僕は病院から開放された。しかしまだビールはおあずけなのか。とほほ。 ホテルからここまではタクシーで来た。だいたい100バーツかかる。結構な出費帰りはとりあえずホテルまでの中間地点である伊勢丹までタクシーで連れていってもらった。伊勢丹のレストランでそばを食い、映画でも見ようとうろうろするが、面白そうな映画もなさそうなので(スピード2が流行っていたが、何故か見る気にならなかった)そこを後にし、タワーレコードに向かう。そこでドリカムの古いアルバムのカセットテープを89バーツで買った。タイではカセットテープはたいてい90バーツ程度で日本円で500円以下。CDはだいたい400バーツで日本円で1500円程度で買える。そう考えると日本のCDの価格って高すぎると思う。ちなみに日本のCDも結構そろっていてそれもその価格で売っているので、タイで買った方がずいぶんお徳ということになる。ただしそれには必ずタイ国内以外での販売を禁ずみたいなことが書かれていた。つまり逆輸入を封じているわけだ。なんかやだね、こういうの。 さて、伊勢丹をぶらぶらするのにも飽きてきたのと、何だかんだとしている内にもう結構良い時間になったので、ホテルに帰ることにした。ここで、ローカルバスに挑戦。市内を走っているバスには大きく分けて四つの種類がある。大型バスかマイクロバスか、そしてそれぞれ冷房がついているか、付いていないかだ。ここに来る時にホテルの前を走っている大型エアコンバスの種類をチェックしておいた。番号は2、4、15のどれかだ。この伊勢丹の前で番号をチェックしようとしたがバス停らしき物は見当たらない。けれども沢山の人が待っていて、バスがつぎから次えとやってくる。けれども僕が覚えている番号のバスはなかなか来ない。やっぱり、ないのかなあと思っている頃、15番のバスが来た。早速乗り込む。中は冷房が効いていてとても快適だ。 バスには車掌が乗っていて、銀色の筒の様なものを片手に新しい乗客の元を巡回している。料金はいくらかさっぱり分からないので、一応50バーツ渡したら、44バーツ帰ってきた。そうかそんなに安いもんだったのか。いままでのタクシーははっきりいってかなり贅沢だったんだなあとまた一つ学んだ。これからは極力バスを使うことにしよう。からだもかなり回復してきたことだしね。 バスは華やかなパッポンのエリアを抜けて、僕のホテルのすぐ側のバス停に停車する。バンコクのバスもアナウンスがないのでしっかりと窓の外の景色に注意を払って、タイミング良く「降りますボタン」を押さなければならない。そういえば、日本以外でバス停ごとにアナウンスのあるバスにお目にかかったことがないぞ。 夕飯はまたスパゲッティーだ。今回は心配する必要もなく、本物のスパゲッティーを堪能した。ちなみに今日はカルボナーラを食べた。とてもうまかった。
2004年10月17日
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昨日それほど夜更かしはしなかったはずなのに、目が覚めたらもうお昼だった。時計をみて仰天した。なにしろまだ7時頃だとおもって時計をみたのだ。昨日久々に張切っていろいろなところを周った疲れが、どっと出てきたのに違いない。あまり無理せずに、徐々に体を動かしていかなくちゃだめなんだなあと実感した。 かといって、実は今日何があるというこれっといった予定も無いので、遅くお起ようが全く困らない。これがまた「旅行者」の特権である。といっても、こんな生活習慣が付いてしまうと、日本に帰った時に困るから、やはり規則正しい生活を心がけねば。 最近困るのは体がまだ完全に回復していないのだが、この1ヶ月寝ている間に旅行に対する知的好奇心がかなり復活してしまって、ホテルの部屋にいるのがもったいなくてしょうがないと気ばかり焦ってしまうことだ。昨日のように一日にあんなに沢山を詰め込むのは良くないが、けれどもどこか行きたくてしょうがない。だから、午後からとりあえずどこかに出かけることにした。 例によってホテルから当てもなくその辺をさまよいはじめる。ホテルを出て向かって左側はパッポンに続く道で、こちらの方はもうほとんど把握したので、今日はホテルを出て右側の道をてくてくと歩く。屋台が沢山出ていて、なかなか良い感じ。地元出資のチェーンデパートのセントラルも近くにあった。中に入ってみるが閑散としている上に、商品のならべ方にセンスが無い。なによりエスカレーターが二階までしかなく、その上の階にいくには階段を使わなければならないというのは言語道断だと思う。つまらないので、すぐに出てきた。 その先もずんずん進むと屋台が更にどんどん出てくる。Tシャツ、アクセサリーなどのお土産屋台。焼き鳥やおやつ、パンなどの食堂屋台。そして本やカセットテープの屋台とだいたいこんなパターンである。いちいち冷やかしながら歩いていると結構時間が経ってしまった。ちなみに本屋屋台は雑誌が中心で、ファッション誌、テレビガイド、それから日本の漫画をタイ語に翻訳したものが中心だった。 更に進むとシーロムロードが終わりを告げ、道が二股に分かれていた。左に折れ、すぐまた右に折れる道を発見し、そちらを目指す。そうするとアジアの高級ホテル、シャングリラが見えてきて、更に先に進むとチャオプラヤ川にでた。バンコク滞在16日目にして初めて川に出会えた。桟橋まで行って、しばらく川を眺める。川は茶色くとても汚い。匂いもけっこうきつい。バンコクの水運の中心をになう川だけあって、ボートがひきりなしに行き交っている。といっても、貨物船はごく少数で、ほとんどが旅客ボートだった。川の向こうには灰色のコンクリートの固まりが見える。香港で有名なぺニンシュラホテルがバンコクにもできるそうだ。そして、同じ川岸の向こうの方には有名なオリエンタルホテルがそびえ立っていた。当たり前の話だが、チベットでみた青く輝く川とは大違いだ。 そうだ、せっかく川まで来たのだから、水上バスに乗ってみよう。王宮であったシンガポール人がシャングリラの近くからエキスプレスボートというのが出ていて観光ポイントを沢山結んでいると言っていた。そういえば卒業旅行で来た時も乗ったような気がする。確かとても安いはずだ。そう思ってエキスプレスボート乗り場を探してみる。僕がきょろきょろしていると、現地の少年が助け船を出してくれて「エキスプレスボートののりばはあっちだよ」と指差してくれた。その時、ぐずついていた空が雨を落としはじめた。南国特有の強い雨が短期間にどっとふるいわゆるスコールではなくて、どちらかというと日本の梅雨の時に振るようなじっとりとした霧雨だ。少しシャングリラのロビーで雨宿りをしながら様子を見ていたが、一向に止む気配がない。しょうがないので水上バスはあきらめてまた来た道をホテルに戻ることにした。
2004年10月16日
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今日は朝からエンジン全開だ。午前中からさっそく歩いて保険会社を目指す。もうすでにネパールでの治療費と航空券代は頂いているのだが、試しに空港から病院までのリムジン代650バーツはどうだろうと聞いてみると、これも保険でおりるということになり、その650バーツをとりにいったのだ。それならネパールのホテルから空港までのお金はどうだろうと一瞬思ったが、領収書もないし、どうせ400円くらいだったし、そこまでがめつくならなくてもいままでの分で充分だろうと思い、そこまではいわないことにした。 ところで、朝地図を開いて場所を確認し、これなら楽勝で歩けると思ったのが大きな間違いだった。1時間くらい歩いてもまだ全然着かない。途中でタクシーでも拾おうかなあなどと一瞬考えたが、なんだか変に意地になってしまい結局1時間半も歩いてしまった。お陰で保険会社に着く頃には汗でびしょびしょで、排ガスをおもいっきり吸い込んだものだから頭もガンガンしてきた。朝はエネルギー全開だったのだが、2時間後にはもうガス欠になってしまった。よたよたになって入ってきた僕をみて、保険会社の人は「まだ完治していないんだから無理はしないでくださいね」と言ってくれた。そうか、俺は病人だったんだ。 ちょっと意気消沈してこの後王宮などのいわゆる「観光客御用達スポット」に行ってみようと思っていたのだが、やっぱりこのままホテルに一度帰って、少し休むことに予定を変更する。保険会社の前でタクシーを拾い、ホテルの名前を告げた。この運転手、やけにフレンドリーで英語も達者だ。冷房が良く効いた車内で、僕が暑がっていると送風口を全部僕の方に向けてくれた。この冷房攻撃で僕のエネルギーはふたたび回復。ありゃりゃ、こりゃあ行けるんじゃないかと思い、タクシーにホテルじゃなくてやっぱ王宮に行ってくれと予定を再び変更する。 するとタクシーは僕を良いカモとでもおもったのか、じゃあおれがおまえをいろんなところに連れていってあげようか。たとえばここなんていいぞと地図を指差す。別に人が悪そうでもないし、その話しに乗ってもよかったのだが、今日は一人でのんびりといろいろなところを周りたい気分だったので、丁重にお断りする。彼はその申し出を断られたことをそれほど気にするでもなく、その後もここが中華街だだのあっちの方に駅があるだのいろいろと教えてくれた。料金はきっちりとメーター通りだったし、更に降りる時にはこの辺にたむろしているタクシーやトゥクトゥクは悪質な人が多いから十分気を付けるんだよと忠告までしてくれた。いい人だ。 さて、王宮の入り口に入る。ここは由緒在るところなので半ズボンやノースリーブの服を着ては入っていけないらしい。ただし、だからといってむげに追い返すわけではなく、入り口で服の貸し出しをしていた。僕はジーパンにTシャツというスタイルだったので、特に問題無く中に入れる。入場料は結構高い。150バーツもする。ただ、後で知ったのだがこれには、王宮の入場料のほかに世界のコイン博物館や少し離れたところにある何とかという博物館(タイのダンス付き)の入場料も含まれているのだそうである。チケットが3枚渡された。ところで、こういうのを抱き合わせ販売というのではないだろうか。タイには公正取引委員会とかってないのかな。しかもこの抱き合わせ販売は外国人に対してのみ行われているようなので、なんだか腹が立つ。 中に入ってから思い出したのだが、そう言えばここは前に来たことがある。それこそ次郎と卒業旅行で訪れた場所ではないか。けっこう覚えているもので、あそこにあの建物があってなどという記憶が急激によみがえってきた。けれども今回はすこし違うことを試みる。中国の故宮博物院でもそうだったのだが、一回目になんとなく訪れた時と、二回目にのんびり訪れた時ではその理解の深さが全く違った。だから今回はこの王宮でも無料ガイドというのをお願いしてみたのだ。このツアーだいたい30分に一回の割合で行われているのだが、残念ながら英語ツアーしか存在しなかった。 このガイドのお陰でいろいろと知識が深まった。たとえば入り口すぐのところに並んでいる3つのストゥーバの建築様式がそれぞれのものがたてられた当時のタイの文化交流の様子を物語っているということや、奥の方に建てられた8つの塔にはそれぞれ意味がある(といってもその意味の半分くらいはもう忘れてしまった)こと、それに有名なエメラルド仏陀には衣装が3つあって、季節によってその衣装が変わるのだが、その衣更えは国王が行うということなどが印象に残っている。それから、このエメラルド仏陀の衣装はそれまでかなり古いもの使っていたのだが、現国王が最近新しい衣装を作ったんだそうである。 この王宮の建物全体に言えるのだが、建物の中で純粋なタイ様式というのはわずか少数で、カンボジア様式との折衷であったり中華様式との折衷であったり最近の建物はヨーロッパ様式との折衷だったりする。これは当時の国王がどの国の影響を大きく受けていたかによるのだそうだ。日本様式との折衷は残念ながらどこにも見当たらなかった。カンボジア様式との折衷であるストゥーバの裏には精巧なアンコールワットの模型がおいて在り、これから実物をみようと思っている僕としては、ますます期待が高まった。 王宮をあとにして、今度は世界のコイン博物館に向かう。とてもわかりにくい場所に在ったので(王宮の入り口のチケットもぎりの横に在るのだが、特に大きな看板もなくみんな見過ごしていた。だから、中に入ると僕以外は客はいなかった)、苦労したが、なんとか見つけて中に入る。冷房がとても良く効いていてとても気持ち良い。一階はタイの歴史上のさまざまなコインや記念コインで埋め尽くされていて、二階には世界のコインといコーナーがあった。この世界のコインコーナーというのがなかなか充実していて面白い。何カ国分在るのかなあと数えてみると89ヶ国であった。良く日本の5円玉や50円玉のように真ん中に穴の開いているコインは珍しいと言われているが、数えてみると8ヶ国にその穴開きコインが存在した。まあ統計的に見ると、8/89で10%以下。充分珍しいと言えるだろう。 王宮の暑い日差しの中でまたエネルギーが無くなりかけていたところ、この冷房のなかですっかり充電することができ、張切って次の観光地へ向かう。ちょっと情報集めにカオサンの旅行会社に向かおうと思ったのだが、地図を見るとマッサージで有名な「ワットポー」が近くにあるではないか。こりゃあそちらに行くっきゃ無いということで、またまた予定を変更。また歩いて行くことを決意する。ところが、また地図に騙されたのかこれが結構距離が在る。それ程暑くもなく、体調も万全であれば問題無い距離なのだが、こんなに暑く、病み上がりというかまだ病気の最中の僕としては、コイン博物館での充電なんかすぐ空っぽになってしまうのだ。そこで先ほどのタクシーの運チャンに止められていたのにも関わらず、その辺にたむろしているトゥクトゥクの兄ちゃんに話し掛けてしまった。ここからワットポーまでの距離は400メートルほどだ。料金を聞いてみると20バーツ。おもったほどふっかけて来ない。本当は値切れば値切れたんだろうけど、そこまでの気力もなく、あっさりお願いすることにした。 で、ワットポー到着。ここは昔は大学だったそうで、今でもタイのトラディッショナルマッサージ(エッチなやつじゃ無い方)の学校がある。そしてその横で実際にマッサージもしてくれるというわけだ。30分100バーツ、60分180バーツ、ハーブマッサージ260バーツだった。ここは奮発して、やってやろうじゃないの、ハーブマッサージを。少し待たされて、着替えに綿のトランクスの特大サイズの様なものを渡される。ここは仕切りも何も無いおおきな部屋にベットが30台くらい並んでいて、隣でマッサージをやっている人の様子が丸見えだ。あまり快適な環境とは言えない。けれどもマッサージはすばらしかった。いわゆるタイのマッサージとはちがって、ハーブマッサージは照る照る坊主の頭の部分に何かの香草をつめたような物を熱し、それを体に擦り込んでいくようにマッサージする。匂いがとても良く、何度も眠りそうになった。 ただ、やはり僕の体は寝てばかりいてそうとうなまっているのか、それともまだ病気の最中だからなのか、ちょっと軽くもまれただけで悲鳴の出るほど痛い部分がたくさんあった。けれども最後にはとても楽になり、またエネルギーは満タンになった。 今度はカオサンである。マッサージパワーのお陰で、今度は1キロくらいの道のりをずんずんと歩いていく。あまり張切りすぎて、今度は道を間違えてしまい、どぶ川の様なところに突き当たってしまったが、いろんな人に尋ねてようやく有名なカオサンに到着。僕は初めて行ったので、その雰囲気に圧倒される。ここだけ別世界だ。欧米人がとても多く、ここだけカメラで写して、クイズ番組かなんかで「さてここはどこの国でしょう」とやると多分だれも答えられないだろうなというほど欧米色に染まっている。なかにはちらほらと日本人も見られる。ここにいるとこの中だけで大抵の用が済んじゃうというのは大袈裟じゃあないなと思った。更にここは街の外れのほうにあり、どこに行くにもあまり便利とは言い難い。なんでこんな所に安宿街が出来たのか、良く分からない。(その外の中華街やマレーシアホテル近辺の地の利はなかなか良い)それに空港からもかなり遠い。インドやネパールに向かう拠点として利用されることがとても多いので、長期滞留組みの他に超短期滞在者というのがけっこういる。そういう人にとっては空港からこんなに遠いと不便だろうに、なんでここに集まるなかなあと疑問に思ってしまう。 まあその話は置いておいて、旅行会社でビザや航空券の料金の情報を手に入れる。今回は陸路の旅にこだわっているが、残念ながらミャンマーは陸路の国境をかたく閉ざしていて、どうしても飛行機を使わざるを得ないのだ。あの猿岩石が飛行機を使ったのもしょうがないのである。けれども僕はちょっとそれでも陸路で繋がる方法というのをいろいろと考えていて、そのための航空券の料金をいろいろな旅行会社で聞きまくる。けれどもどこも同じような料金であとは店員の対応の良さが判断基準だなと考え、その場を去ることにした。そういえば、カオサンにはオープンエアのバーがたくさんあって、そこで欧米人の皆様が昼間っからビールを飲んでいた。その姿をみて酒の飲めない僕はとてもうらやましかった。 そろそろまたエネルギーが無くなりかけてきていたので、タクシーを拾ってホテルに帰る。タクシー代も馬鹿にならないし、そろそろバスの乗り方でもおぼえにゃならないなあ。と真剣に思った。
2004年10月15日
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次郎はすぐに仕事でミャンマーにいかなくてはならない。だから僕も次郎の家にずっとお世話になっているわけにもいかず、どこか落ち着き先を探さなければならない。僕のような旅のスタイルの場合、こんな時まず最初にカオサン通という世界的にも有名なバックパッカーの溜まり場を目指すのが普通なのだろう。何しろそこには数10バーツから300バーツ程までの安宿が密集していて、更にレストランやお土産や、旅行会社などもかたまっているエリアなのだ。ここにいけば、このエリアのなかだけで生活が終了してしまう、ネパールのタメル地区のようなものなのである。 まあ、カオサンとは言わなくても、バンコクには中華街やマレーシアホテル付近などに安宿が密集している地域があって、バックパッカーには大変過ごしやすい街である。しかも昨今のバーツ安である。(なにしろそれまで一ドル25バーツだったものが最近では一ドル35バーツになってしまっているのだ)だから、最初僕もそんな安宿を目指そうかなあなどと考えていた。けれども、同時にネパールでタメル地区のみで過ごしてしまった自分の旅のスタイルに反省している面もあったので、カオサンなんかにいったら、またそこにはまってしまいそうだなあとも思っていた。もっとも体がまだ完全に回復していないこともあって、それほど派手に行動できないのであるが、だからこそなおさら出不精になってしまいかねない。 そんな時、次郎が願ってもいない申し出をしてくれた。彼の勤めている会社がシーロム通り沿いの高級ホテルの一室を機材置場として利用していて、その部屋は普通の部屋としても利用できるのだが、今は誰も使っていないという。どちらにしても必要な部屋なので、そこに泊ってはという。そこは街の中心だからいろいろと行動するのにも便利なのだそうだ。しかも宿泊料はいらないとまでいうではないか。「こんなんでいいのか」と思いつつも、彼も申し出にあっさり乗ることにした。朝、彼の家に車が迎えに来て、僕もそれに乗って一緒にそのホテルを目指す。部屋はなかなか広く、御風呂はバスタブとシャワーブースが別々になっていた。なによりも、かなりの高層階に部屋があるため窓からの眺めが最高だ。こんなんでいいのだろうか。 次郎に、本当にこんな所にただでとまって良いのかと訊ねると、「おまえはまだ自分が病人だということを忘れちゃいかん。」という言葉が返ってきた。そして「ただし、電話代と洗濯代、それから冷蔵庫の飲み物代は自分で出すように。ちなみに朝食と日本の新聞はついているから、それはただだよ」とまあそれは当たり前だなという言葉がつづいた。そして更に「俺がミャンマーに行っている間に絶対に酒を飲まないように」という厳しい一言も浴びせられてしまった。そうして彼は会社に出かけていった。ミャンマーからは来週の月曜日か火曜日に帰ってくるのだそうだ。 さて、このホテルはあの有名な歓楽街「パッポン通」からもあるいて10分ほどの好立地ということもあり、さっそくその辺を探索することにする。蒸し暑い空気の中を強い日差しを浴びながらてくてくと歩く。排ガスで息がむせ返る。なんとか辿り着いた「パッポン」だが、当然のごとく昼間にこんな所を見ていてもあまり面白いものではない。ほとんど全部の店は閉まっているし、人通りもまばらだ。それでも、二十代後半の日本人男性が一人で歩いているという「カモ」を彼らが見逃すはずもなく、写真をもった怪しげな親父やおばちゃん達がしきりに僕に声をかけてきた。 実はこの手の勧誘おじちゃんやおばちゃんの場合、その後とんでもなくぼったくられるのは目にみえている。「ショーがある」というのにそそのかされて、建物の二階に連れて行かれるのだが、そんな「ショー」は全然始まらず、客も自分以外誰もいず、しかも入り口に鍵がかえられて、結局100ドルや200ドルを巻き上げられる。こんな話を僕は直接被害にあったひとから何度となく聞かされている。彼らによると、こういう写真を持って勧誘してくる奴等が一番怪しいのだそうだ。僕は彼らに声をかけられた時、「そうか、これが噂の」と思い、相手にしなかったのは言うまでもない。 一通りこの辺のソイをくまなく探検する。ソイというのはいわゆる小路のことで、大きな通から毛細血管のように出ている細い道で、街の細部を網羅しているものをそう呼ぶ。ソイは大抵番号で呼ばれていて、起点から向かって右が偶数、左が奇数というようになっている。たとえばシーロムロードのソイ8というとシーロムロードの起点から数えて右側4番目の小路ということになる。シーロムロードはその反対側にスリウォン通という道が平行していて、この二つの道に挟まれたエリアが、いわゆる歓楽街になる。 シーロムはロビンソンデパートの起点からソイ2、タニヤ通、ソイ4、パッポン2、パッポン、ソイ6、ソイ8とつづき、だいたいソイ8を過ぎると街もかなりおとなしくなる。ソイ2はゲイの街。タニヤは日本人街。ソイ4は小粋なバーやディスコが並び(ここも元はゲイの街だったらしいが、僕が見た限りではあまりそのおもかげは無かった。といっても行ったのが昼なので、何ともいえない)そしてパッポン2、パッポンと来る。ここは言わずと知れたゴーゴーバーの密集地帯で、夜になるとそりゃあもうという世界が繰り広げられてしまう。ソイ6とソイ8にはぽつぽつとレストランやバーが並んでいるだけで、それほど華やかな雰囲気ではない。ちなみにこの中でソイ2と4は袋小路になっていて、スリウォン通には抜けられないようになっている。でもこう見ていくと、それぞれの通にそれぞれの特徴があってとても面白い。昼間歩いているぶんにおいては、それ程しつこい勧誘に合うわけでもなく、あらかじめ「予習」をするにはとても面白かった。 これで夜に行っても大丈夫だ。
2004年10月14日
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タイで髪を切るのは二回目だ。大学4年の時にそれこそ次郎と卒業旅行でタイに来て、その時に中華街の汚い理髪店で髪を切ったのが一度目だ。その時は髪を切る以外にも耳掃除までしてくれて、理髪店で耳掃除をしてもらったのは初めてだったので、とても感動したものだ。(その後ベトナムでも耳掃除をしてもらったがそれ以外耳掃除をしてくれる所に行き当たったことが無い。残念だ)それに料金も信じられないほど安かった。確か500円以下だったと思う。 当時その感動を次郎に伝えると、彼は俺もやると張切って、彼はサーヤムスクエアという東京の渋谷みたいなところの若者向け理髪店で髪を切った。ところが、高かった上に耳掃除がなかったのだそうだ。彼はそうとうがっくりしていた。やっぱ若者向けに行ってしまったところが彼の敗因だろう。それでも、新しい髪型をけっこう気に入っているようだった。 今朝、次郎に髪をきろうと思っている旨を伝えると、彼は「バンコクで切るのは勧めない。まあ、伊勢丹に入っている所であれば日本語も通じるし大丈夫だとは思うけど、変にされると取り返しがつかないからね」などとのたまう。僕はとりあえず人前に出る予定も無いし、旅行中は髪型も見苦しくなければそれで良いという考え方なので、彼の助言を無視して切ることにした。きっとインドで切るよりはましだろう。そういえば、僕はベトナムでも髪を切ったことが在り、実はその時の髪型がとても好評だった実績もある。ここはいっちょう頑張ってみよう。 そう思い、次郎の住んでいるマンションを出てその辺をうろうろする。ところがここは高級住宅街。僕が探しているようなチープで汚い理髪店なんてどこにも見当たらない。しょうがないから、発想を転換する。前回はそういう「汚い系」で試したので、今回は「気取ってる系」の店で決めてみようというわけだ。幸い彼の住んでいるマンションの側に最近エンポリウムという高級百貨店がオープンしたので、そこの中に理髪店の一軒や二軒は在るに違いない。 1キロほど歩いて、件の高級百貨店に到着。インフォメーションで訪ねると理髪店は3階に在るらしい。けれどもエスカレータを2回使って3階まであがるがいくら探してもそれらしいものは見当たらない。3階にあるインフォメーションでもう一度聞くと僕が3階だと思っていたところは実は2階で、3階はもう一つ上の階だという。そうか、ここはヨーロッパ方式の回数表示をしているのか。とその時気が付いた。ヨーロッパ方式とは、我々のいう1階がグランドフロアーとよばれ、我々のいう2階が1階と呼ばれる方式のことだ。ちなみにアメリカは日本と同じ方式をとっている。 この辺の国でもヨーロッパの影響が強い国はヨーロッパ方式を採用している場合が多いが、そういう国では大抵どこに行っても同じ方式なので、一度慣れてしまえばそれほど混乱することはない。ところがタイの場合はビルによっては日本・アメリカ方式の階数表示をし、ビルによってはヨーロッパ方式なものだから手におえない。たとえば伊勢丹などは一階は一階なのだ。でもこのデパートは違う。こんな不揃いなところがタイらしくて良い。 僕が見つけた理髪店は男女共有のいわゆるユニセックスの店で、ガラス張りになっており、中が丸見えだ。ちょっとおしゃれな服装をした店員が有閑マダムらしき品の良いおばちゃんの髪をセットしている。店の看板にはNYという文字が躍っていた。ひょっとして、ここは最先端の「気取り系」か?と思い中に入ると、いきなりタイ版演歌がかかっていて、ちょっとずっこける。 髪を切りたい旨を伝えると、すぐに中に通された。そしてやけに女性っぽい男性に椅子に座らせられ、のけぞるように椅子に座らせられ髪を洗いはじめる。ちょうど寝そべった頭のところに洗い場があるという感じだ。最初のうちはこりゃ楽でいいやと思っていたが、なにしろ3回もシャンプーするものだからだんだんその体制が辛くなってきた。日本の場合はかならず「お湯は熱くないですか」とか終わった後に「耳にお湯ははいりませんでしたかあ」などどきいてくるものだが、ここではもちろんそんな事を聞いてくるわけは無い。それでも問題無ければ良いのだがここはお湯が思いっきりぬるかった、というより冷たかった上、水は耳の穴に入りほうだい。シャンプーが終わった後僕が必死に耳に入った水を出そうとしていたら、店員は心配するでもなくただ綿棒を一本僕に渡してくれた。 BGMとシャンプーでずっこけてしまったが、髪を切る腕は確か。きちんと英語も通じるし、手際良く髪を切っていく。「最先端」の店だからといってそれほど過激な髪型になることもなく、でもそれなりだ。最後に整髪料で髪を整え、はい出来上がり。なかなかである。なんとなくその髪型が気に入った僕は早速整髪料まで購入してしまった。これでまた荷物が重たくなってしまう。ところで、会計の段になってびっくり。なんと600バーツもとられた。公定レートで換算すると2400円。現地の物価を勘案すると6000円もする。おいおい、こりゃあ高すぎるぜと思っても後の祭り。まあでもなかなか気に入った髪形になったので、良しとしようか。
2004年10月13日
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退院が決まった。今朝まだ5時過ぎに血を取られて8時には検査の結果が出ていた。実は思ったより数値は下がっていなかった。まだ正常値の5倍くらいの数値が出ている。けれども、医者がこれくらいであれば退院しても支障が無いよと言ってくれた。ただし、沢山の条件を付けれられた。 1 今度の金曜日にまた病院に来て検査を受けること2 それまではバンコクから出ないこと3 酒を絶対に飲まないこと4 睡眠を十分にとること5 暑いところに長時間いないこと とざっとこんなもんだ。中でも「酒を絶対に飲まないこと」といのが一番つらい。僕はタイのシンハビールというのが大好きで、タイに来たら辛いタイ料理に冷えたシンハと決めていたのだが、その夢がかなうのは当分先のようだ。少なくとも金曜日以降になりそうである。ちょっとがっかり。 早速退院が決まった旨を次郎に報告する。すると、午後いちで迎えに来てくれるとのこと。彼は結婚したばかりだが、奥さんがビザの関係で一ヶ月ほど遅れてこちらに来るということなので、僕は今日彼の家にお世話になることになった。「疲れてはいけない身」としてはこれはありがたい。それに一度日本人の海外駐在員がどんなところに住んでいるものなのか見てみたかったのでちょうど良い。 お世話になった看護婦達に別れを告げたり、荷造りをしたりしているうちにあっという間に次郎が迎えに来た。彼はスクンビット通といういわゆる外国人駐在員が密集している地域に住んでいる。特に日本人が多いそうで「タイには来たけど日本人社会の中だけで生活出来ちゃうし、今のところ現地とのふれあいなんて全く無いよ」と愚痴っていた。特に彼の場合タイをベースに東南アジア各国を飛び回っていてあまりタイに滞在していないこともそれに拍車をかけているようだ。 果たして彼の家は立派だった。とても広く僕に与えられた客間は前に僕が住んでいたアパートの部屋の2倍はあった。しかも客間にもバス・トイレが付いている。窓からはテニスコートが見え、西洋人が汗を流していた。次郎は折角だからテニスでも始めたいなあと言っていた。メイド部屋なんていうのも在り、家事を一切引き受けてくれているのだそうだ。はっきりいってうらやましい。良くアジアの駐在員の生活待遇はとても良いと聞いていたが本当にそうだった。といってもそれによって犠牲にしていることも沢山在るのだろうが。 一通り家を案内してくれたあと、彼は日本から持ち込んできた長浜ラーメンをつくってくれた。久々の日本のラーメンだ。涙が出そうになるほどうまかった。バンコクやシンガポールなど日本人の集まる街には大抵ラーメン屋というのもそろっている。けれども、多くの場合「えっ」というような味で、入ったことを後悔するのがおちだ。だから日本直輸入のこの長浜ラーメンは「本物」の味がして、おもわず「おぉぉぉ」と声を上げてしまった。 その後次郎はどこかに買い物に出かけてしまい、僕は早速懸案のホームページのアップデイトに取り掛かる。最初何故かFTPがうまく繋がらなかったが、時間をずらすとなんとか繋がった。多分バックアップを取る時間とぶつかったのだろう。一ヶ月以上の大量の日記を送付する。ただ、以前から問題になっている容量の問題でいくつかのファイルを消さないといけなかった。この件については以前申し出のあった高校の後輩に泣き付いて、なんとか解決することにした。 夜は、念願のスパゲティーである。思えばネパールではさんざん騙された。メニューにスパゲティーが在るのをみて喜び勇んで頼んだこと数回。結果はさっきのラーメンと同じで、頼んだことを後悔するばかりだった。一度はネパールで有数の高級ホテルで頼んだのだが、やっぱりだめだった。さて、タイである。きっとここでは本当のスパゲティーが食べれるだろうと祈るような気持ちでオーダーする。次郎はあこがれのビールで喉を鳴らしているが、僕はおとなしくコーラで乾杯。前菜に頼んだマグロのカルパッチョはなかなかの味だった。これならスパゲティーにも期待がもてる。 そして、緊張の瞬間。おいしそうな湯気をたてたスパゲティーが僕のもとに運ばれた。見た目は間違いなくスパゲティーだ。匂いも食欲をそそる。といってもここで油断してはならない。なにしろネパールでも見かけと匂いだけは本物のスパゲティーだったのだから。はたして、味は....。おそるおそる麺を口に運ぶ。そして僕が叫んだ言葉は「おぉぉぉ」。本当のスパゲティーだ。夢にまでみたスパゲティーだ。さすがタイ。ありがとうタイ。見直したぜタイ。疑ってごめんよタイ。てな感じだ。 と言うわけで、今日は食事といい、インターネットといい、家といい、今までの願いを一気にかなえられたおめでたい一日であった。
2004年10月12日
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今朝、次郎に電話をしてみた。そうすると眠そうな声が答えた。彼は寝起きが最悪だ。たまに電話で話したことを夢の世界と勘違いしていることもある。実際日本に居る時に、朝電話をして話をした後、昼間に、「おまえ、さっき俺に電話した?」という電話がかかって来たことも在る。彼にとってみると僕からの電話なんて全く予想していないだろう。だから、今回も夢の世界と勘違いされる可能性は高い。 けれども僕は話し続けた。そして、「今どこに居るの?」と言う彼の質問に「バンコクだよ」と答えると、彼の声は一気に大きくなり、眠気も吹き飛んだようだ。更に僕が追い討ちをかけるように、「実は入院してるんだ」というと彼の驚きは最高潮に達し、いろいろなことを早口で聞いてきた。そして、午後いちでとにかく病院に来るという。帰国早々忙しいだろうに、ありがたい。 彼は本当に午後一でやってきた。5ヶ月ぶりの再会である。それまでは最低でも2週間に1度は飲み歩いていた中なので、こんなに久しく合わなかったのは初めてだ。けれども彼とはなんのわだかまりも無く話すことが出来る。話題は尽きない。彼の結婚へ至る過程。僕の旅の道のり。入院したいきさつ。日本の友人達の近況。彼の仕事の話。間断無く続く会話は2時間ほど続き、そして彼はまた明日来ると言って帰っていった。僕の精神が安定していない時に彼がいなかったのは少し残念だったが、こうして再会で来たのだから、まあ良しとしよう。 彼が帰ったあと、僕はまた例のフォーチュン・タウンに出かけていって、フロッピーディスクを大量に購入して来た。なんと100枚も購入した。これにいままで取り貯めた写真をすべてダウンロードし日本に送ろうと思ったのだ。最近写真のためにハードディスクの残り容量が少なくなってきているし、またこの辺でバックアップもとっておいた方が良い。(なにしろこれから向かうのはインドだから、コンピュータが盗まれる確率は今までの比ではない)結局フロッピー90枚を使い、写真とそれからホームページのコピーを行う。5時から始めて終わったのは10時だった。 明日もう一度血液検査を行う。ひょっとするとその結果によっては退院ができるかも知れない。病院はとても快適だが、そろそろ行動を開始したくなって来た。どうか、検査の結果が良好でありますように。
2004年10月11日
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今日は唯一の同期入社であった同僚、鬼頭くんの結婚式の日である。おめでとう、鬼頭くん。直接あってお祝いができないのは残念だけど、タイから君の幸せを祈っているよ。しかし、最近結婚が多い。次郎もそうだけど、今年は大学時代のゼミのメンバーが3人も結婚してしまった。おまけに来月にはいとこも結婚するそうだ。僕もそういう歳になったということか。みんなまとめておめでとう。 ちなみに、今日も外出することになった。今日は親友次郎がついにバンコクに帰ってくる日だ。と言っても今日の深夜に到着するそうなので、今日は連絡はとれないが、明日には話が出来るだろう。で、結婚したと知ったからには、なにかお祝いをせねばならない。旅行中ということもあって、はっきりいって懐事情は最悪なのだが、他ならぬ親友のお祝い事である。これは何とかせねば。ということで、旅行中にしてはちょっと気張ったお金を筒むことにした。ちなみにタイ版のし袋は先日伊勢丹に行った時に買ってある。現金は保険で降りた分が手元にある。でも、残念ながら新札ではない。やっぱりこういう時は新札でなければと思い、銀行を訪ねることにした。 受け付けの日本語を話すタイ人に事情を話して、紙にタイ語でその旨を書いてもらう。ちなみにタイの文字はいつみてもヘビがはったような文字だ。まあそれはさておき、教えられた銀行に向かう。そして早速その紙を銀行員に見せると出てきたのは、比較的新しいお札である、いわゆるピン札ではなかった。これではだめだと言っても、これ以上に新しいお札は無いという。あきらめて他の銀行に行くが、そのお札を見せると、「これはとても新しいお札よ。これ以上新しいお札はうちにはないわ」と一蹴されてしまった。どうやらタイにはピン札という発想は無いらしい。しょうがないのでその比較的新しいお札で我慢するしかなかった。 今日はタクシーを使わずに初めて歩いて行動した。バンコク到着10日目にして初めてこの国の蒸し暑さを実感する。気温も高いが湿度も高い。そのあと500tメートルほど歩いてフォーチュン・タウンというショッピングコンプレックスに向かったのだが、それだけでTシャツは汗でびっしょりになってしまった。息をするだけで、蒸し暑さが肺に伝わってくる。それから排ガスだ。カトマンドゥも相当な物だったが、今考えるとバンコクの比では無い。それ程息がむせ返る。けれども、ショッピングセンターに入ってしまえば冷房が程よく効いており、なかなか快適だ。最近こそバーツの切り下げで経済的な壁にあたっているこの国だが、それまでの成長は驚異的なものがあった。街の様子も一見するとシンガポールなどとそれ程変わらないように思える。それにみんな親切な笑顔で対応してくれて、中国滞在が長かった僕としては、もうこれは涙物の出来事だ。 フォーチュンタウンを歩いていて、少し衝撃的な物を見てしまった。それは最近話題のヤオハンだ。倒産したというのはこういうことなのかと実感する。バンコクのヤオハンはこのフォーチュンタウンの奥にキーテナントとしてスーパーではなくデパートとして入っていたのだが、中はゴーストタウンだった。営業しなければいいのにと思うほど悲惨なものだった。まず、人が全然いない。そしてテナントが引き上げ始めたのか、洋服売り場などにしても、まるで歯が抜けているようにいくつものエリアが何も無い「更地」になっている。いまだ営業しているテナントもあるにはあるのだが、周りがゴーストタウンだけに、購買意欲ははっきりいって減退する。店員の顔にも当然精気が感じられるはずも無く、はっきりいってみじめな状況だった。 僕は勝手に倒産したのは日本のヤオハンだけであって、海外の部門はまだ生き残っているんだろうなと勝手に考えていた。けれども現実はそれほど甘くはなかった。バンコクの場合はそれほど深刻でもないが、海外の都市では日本の食材が手に入る唯一の場所としてヤオハンを拠り所に生きている駐在員が多く存在する。彼らはこれからどうすれば良いのだろう? *この日記は7年前の今日の日記です。念のため。
2004年10月10日
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電話が鳴る。それだけのことが、単調な生活ではとてもうれしいことの一つだ。常に一人部屋にいると、誰かと話をしたくてしょうがなくなる。電話がなるということは誰かが僕に用事があって、それで僕と話をするために電話してくれているということなので(あたりまえか)最低でも誰かと会話をすることができると言うわけだ。だからそれが保険会社からの事務的な手続きの電話であろうと、なんだろうと、それだけで心がときめいてしまう。まるで、恋愛初期に待ち望んでいた彼女からの電話が鳴った時のようだ。 幸いいままでにいろいろな人が電話をくれた。といっても中心は両親とそれから前に勤めていた会社の人たちなのだが、そのどちらからの電話もとてもうれしい。特に会社の後輩は、僕が退屈でしょうとだいたい一日おきに電話をくれた。そして会社の状況やその他のことについて、いろいろと教えてくれた。僕は僕で病状やこれからの計画などを簡単に説明する。日本とこんなに落ち着いて長い間電話で話しをしたのは久しぶりのことだったので、なんだか突然望郷の念にかられる。といっても、何故か今日本に帰りたいとは思わないが。今回の入院の件にしてもみんなに何故日本に帰らずバンコクで治療を受けているのかということを何度か聞かれた。僕自身も良く分からないのだが、そもそも日本に帰って治療するという発想が全くでてこなかったのである。 ちなみに、日本を離れると逆に日本のことが良く分かると言われている。そしてそれはある程度真理だと思っている。ところで、僕の場合日本での生活を離れると、自分の日本での生活が良く見えてくるという部分があった。特に仕事の面においてだ。入院生活が退屈なので、ここのところ思索の時間が増えているのだが、日本で働いている時に気が付かなかったこと、たとえば上司のアドバイスの意味や、自分の仕事上期待されていた役割が、今なってわかるということがとても多い。それはあの時ああすれば良かったという反省も含めてだ。これは、実際その中に居て走り続けている最中には決して気が付かなかったことに違いない。そういうことを考えるようになったという点でも、この旅は収穫があったと言える。といってもまだ4分の1も終わっていない段階なので、この先いろいろなものをみて行く上で、また違ったことを考えはじめるのかもしれないが、とりあえず今の時点ではそう思っている。 おっと、話がそれたが、電話だった。そう、電話が鳴ったのだ。例によって心をときめかせながら、受話器を握る。そうすると意外な声が向こうから聞こえて来た。サイモンだった。香港編をご覧の方は覚えているかもしれないが、昔の会社の香港オフィス所属で、海外のオフィスの友人でもかなり中の良かった友人だ。彼の誘いで香港オフィスのパーティーにも招待されたのだが、結局残念ながら一番会いたかった彼にはついに会うことができなかった。そして、ひょっとしてサイモンはいまバンコクに居るかもしれないという第六感が働いて、会社の後輩に彼にEメールを流すようにお願いしておいたのだ。そうすると、彼は今アムステルダムに居るのだという。そう言えば彼の実家はアムステルダムだ。休暇で帰っているのだが、実は10月21日からバンコクに来ることになっているのだそうだ。僕もそれくらいまではバンコクを動くことは出来そうに無い。まさに第六感的中。早速彼がバンコクに来たら会おうと言うことで盛り上がって別れを告げた。 わざわざアムステルダムから電話をくれたサイモンの気持ちがうれしかった。後輩は僕が入院している事実だけを伝えたらしく、いったいどうしたんだととても心配してくれた。今から彼に会うのがとても楽しみだ。彼とはシドニーでの会社の研修で初めて会った。その時から何故か意気投合して、シドニーでも映画に行ったり、有名な歓楽街を歩いたりしてつるんでいた。その後彼が仕事で東京に来たり、僕が仕事で香港に行ったり、あるいはたまたまお互いに仕事でシンガポールに行った時など、当然のようにつるんでいた仲だ。そして今回はバンコクである。僕の友達の中で、これほどアジアの各都市で再会を果たしている友人も珍しい。 旅行をしている時にこのような再会を出来るのはとてもうれしい。けれどもそんな再会もきっとアジアを旅している時だけなんだろうな、とも思う。
2004年10月09日
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今朝血液検査があった。6時頃血液を採取して、8時前にはもう結果がでる。この辺のスピーディーさがたまらない。結果は良好。だんだんと異常値が正常値に向かっている。これは退院ももうすぐ目の前だろう。少しずつ体をならす意味も込めて外出を開始するように言われた。それじゃあと午後、早速外出することにする。 またまたタクシーを拾い、今日は伊勢丹に向かう。タクシーは贅沢なことは分かっているが、なにぶん地理感覚が全く無い上に、まだあまり体を疲れさせてはいけないと言うことで、タクシーを使わざるを得ない。伊勢丹まで80バーツプラス高速代30バーツ。1バーツが大体4円なので、日本円に換算すると450円程度だが、タイの物価や彼らの年収を勘案すると1バーツにはだいたい10円くらいの価値があり、そう考えると1100円ということになる。僕は現地に居る時は出来るだけいわゆる為替レートの感覚ではなく、現地の感覚で行動しようとしているので、タイの場合は値段をすべて10倍して考えている。そう考えると、タクシー代も馬鹿にならない。 ところで、伊勢丹に何をしに来たかといえば、それは本を買いに来たのだ。最近は暇つぶしのネタにも尽きて、ひたすら退屈な日々を送っている。だからもうこれは日本の本でも買うしかないと伊勢丹の紀伊国屋まで出向いてきたという訳だ。伊勢丹の店の造りは、中に入ってしまえばここはどこの国という感じだ。僕は東京、シンガポール、クアラ・ルンプール、そしてバンコクと4ヶ国の伊勢丹に足を踏み入れたことがあるが、店の造りが見事なまでに一緒で驚いてしまう。ちょっとだけ違いを感じたのは、伊勢丹マートといういわゆるスーパーが入っていたことくらいだ。ここは日本で言えばスーパーの紀伊国屋や明治屋のような存在で、いわゆる外国製の輸入食料品(といってもここの場合は日本食中心)がおいてあるスーパーで、日本人に混じってタイ人の裕福層の人たちも買い物をしていた。 で僕は本屋の紀伊国屋に向かった。中に入れば日本の書店とほとんど変わらない。むしろ下手な小さな本屋よりはよっぽど品揃えが良いくらいだ。僕はそこでいくつかの週刊誌と文庫本を手に入れた。その後近くのそごうにも顔を出したが、本屋はとても小さく、客も少なく、正直行ってあまりパッとしなかった。そこでは地図を購入してようやく自分の現在位置などを把握した。 そごうを出て、今度は保険会社だ。今回の病気のネパールでの治療費と、ネパールからバンコクまでの飛行機代が、AIU保険のほうから降りることになっていた。飛行機代までめんどう見てくれるとは、本当にありがたい。前回のチベットの分と今回の分を合わせると、僕が支払った保険代20万強というのはあっさり越えてしまう。やはり保険とは入っておくべきものなのだなと改めて思った。 さて、保険会社はアメリカ大使館のすぐ側だというので、タクシーの運転手にはアメリカ大使館に行きたいと告げる。そうすると、いきなり250バーツだとぬかしやがった。僕がメーターで行けと言うのにも関わらず、渋滞しているからだめだとかなんとかいってメーターを倒そうとしない。そしてすかさず150バーツでどうだなどと言ってくる。僕がメーターにこだわると、じゃあおまえの言い値を言ってみろと言う。そんな事言われたって、こっちはアメリカ大使館までどれくらいの距離か解らないのだからなんとも答えようが無い。これはあきらかに不利な交渉だ。だから僕はじゃあいいよ、降りると言って、そのタクシーをさっさと後にした。 次に拾ったタクシーは当然のようにメーターを倒して走り出す。やっぱりこうでなくっちゃ。車は順調に進み、(前のタクシーの運チャンが言っていた渋滞なんてどこにもありゃしなかった)5分でアメリカ大使館に着いた。料金は41バーツだった。危うく100バーツも損するところだった。保険会社のビルを見るけるのに少し苦労したが、見つけた後は話が早かった。もうすでに担当者はお金を用意して待っていてくれており、僕は領収書を渡して、サインをするだけだった。今回帰ってきたお金は 25610バーツ。為替レート通りに計算すると、10万円程度でこれでも充分大きなお金だが、先ほどの理論で行くといきなり25万円になってしまう。こりゃあいきなり成り金だ。 僕はほくほくしながら、今日は時間通りに病院に帰って来た。
2004年10月08日
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今日はIBMからインターネットのSLIP対応のアクセスキットが送られてくるはずだ。だから今日こそはこのホームページをアップデイト出来ると張切っていた。ところがそのアクセスキットは午後3時を周っても届かない。病院に聞いてみると、郵便物が届くのは午前中とのこと。結局今日は無理なのだろうか? 最近体の調子もかなり回復していて、だから試しに外出しても良いかどうかを看護婦に聞いてみる。すこしコミュニケーションで手間取ったが、医者に問い合わせてくれて、OKが出た。よし、こうなったらバンコクのIBMまで押しかけていって、そこでセットアップしてもらってしまおう。そう思い、IBMに電話すると、それが一番良いだろうということになり、早速出かけていく。 約一週間ぶりに病院を出た。なんだか緊張する。といっても病院の前からすぐタクシーを拾い、IBMのビルにすぐ入ったので街の雰囲気や、空気を体で感じることはできなかったが、窓からの風景以外に見た久々の世界はとても新鮮だ。タクシーは高速道路を快適に飛ばし、約20分ほどでIBMのオフィスに到着した。まだ地図すら持っていない僕にとってはここがどこであるかさっぱり解らない。街全体の構造と、自分の位置を把握できないのは僕にとってはとても気持ちの悪いことだ。 さて、指定されたオフィスに向かうと、対応してくれた若手社員(多分20代前半)はとても親切に対応してくれた。そして最新版のアクセスキットをインストールしてくれる。もうこれで完璧だと思っていたところ、なぜかこの最新版のアクセスキットが作動しない。僕の持っている何かのソフトのバージョンが古く、それでこのアクセスキットが作動しないのだというメッセージが出た。しょうがないので英語版の1バージョン古いものをインストールし直した。ちなみに僕が今まで持っていたものは、日本語版のアクセスキットで、日本語版の場合PPPにしか対応しないが、英語版の場合はSLIP、PPPの両方に対応するのだそうである。 よし、今度こそ安心だと思ったところ、そうは問屋が卸さない。またしても失敗。いままでと同じ症状で電話は繋がるがログインはできないのだ。ここで件の若手社員も頭を抱えてしまった。そして僕はこの筋のベテランらしい中堅社員(といっても20代後半。この手のことに一番詳しいのはこの辺の年代というのは日本もタイも同じようである)に引き継がれた。それから約3時間。彼はいろいろなことを試みてくれた。ところがどっこい、どうしても繋がってくれない。時間はもう8時になろうとしている。明らかに彼らは僕一人のために残業してくれている。それから僕の外出期間の期限はとっくに切れていて、一刻もはやく病院に帰らなければならない。僕はもうあきらめることにした。 ちなみに、ホームページの更新はできなかったが、メールだけは読めた。IBMのコンピュータを借りて、自分のメールアカウントにアクセスしたのだ。もちろん英語のシステムなので文字化けして読めなかったが、これをフロッピーに落として、それを自分のコンピュータで読んだら見事に全部読めた。沢山のメールが届いていた。僕のことを心配してくれているメールには心がじんとくる。激励のメールには心底はげまされる。ただ一つ申し訳ないと思うのは、インターネットのアクセスやコンピュータの使い方、それに各国のビザ取得方法などの質問がいろいろとあり、すぐにお答えしたいのだが、こちらもアクセスできない状態であり、メールを出せない。質問をくださったのにお答えしていない皆様、申し訳ありません。代わりといってはなんですが、「旅の情報」というコーナーを新たに設けましたので、そこを参考にしてください。 せっかくバンコクにアクセスポイントがあるのに、これでは全く使えない。こいつは困った。IBMの担当者によると、マレーシアはPPPなのでマレーシアにアクセスしてみるのが良いのではないかということだった。また金がかかってしまうなあ。でも、この際仕方ないか。ところで、メールを読むぶんにはIBMまで来てくれれば無料で読ませてくれるそうである。こいつはありがたい。 専門家を投入して5時間も頑張って結局出来なかったのだから、本当に無理なのだろう。でも、彼らの一生懸命な対応にはとても感謝している。ちなみに、オフィスに押しかけていってセットアップをお願いした外国人というのは僕が初めてなんだそうである。旅をしているうちにだんだんと図々しくなってきているんだろうか? *この日記は7年前の日記です。
2004年10月07日
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今日は午後一杯ほとんど眠っていた。眠りが浅かったからなのかもしれないが、ずーっと変な夢を見続けていた。不思議な夢だった。だれか夢判断が出来る人がいたなら判断してもらいたいほど変な夢だ。しかも不思議とはっきりと覚えている。それはこんな夢だった。 僕はどこかの街のゲストハウスのドミトリーに泊っている。日本人も数人おり、そんな彼らと話を少しする。近くに露天風呂があるらしいという話でもりあがり、僕らは温泉に繰り出す。けれどもそこには明らかに柄の悪い、刺青をしたお兄ちゃんが数人で占領しており、僕はなんだか知らないけれどお風呂に入るのをあきらめてマラソンを始めてしまう。 マラソンをしていると交差点にぶつかる。信号がちょうど赤なので止まって待っている。交差点には他に大きな犬をつれたおじさんと、僕と同い歳くらいの可愛い女の子がいて、その女の子はしきりに大きな犬を怖がっている。それを僕がかばう形になって僕らは話しはじめる。話をしているうちに、その街は北海道の苫小牧(実際に僕は行ったことはない)だということになっていて、彼女は何故か千葉から病院に来るためにここにやって来たのだという。話をすると僕が入院している病院と同じ(この時僕は何故か入院していることになっている)だということで盛り上がり、彼女は実は僕のことをずいぶん前から知っているのだと言う。なんでも僕が中学か、高校時代から僕のことを知っているのだそうだ。 二人はそのまま駅まで歩いていく。彼女は今日の船で千葉に帰るので港まで電車で行くのだそうだ。彼女に住所交換しようと申し出ると、彼女は突然登場した隣を歩いている男に「家の住所なんだったっけ?」と聞いている。どうやら彼は彼女の夫らしい。その事実にショックを受けながらも住所をもらい、ホームに立つと、今にも何故か総武線の快速がやってくる。(苫小牧のはずなのに、なぜか総武線になっている)あわてて僕の住所をその辺にはってあるポスターに書くが、彼女達を乗せた列車のドアは閉まってしまう。慌てた僕はポスターをはがして列車を追いかけ窓を開けて待っていた彼女になんとか住所を渡す。 そこで僕は目を覚ます。なんだ夢だったのか。そこは例のゲストハウス。でもポケットにはさっき彼女がくれたアドレスがきちんと入っていた。ちょっと混乱するが、目を覚ましたゲストハウスのドミトリーはいつのまにか満杯になっており、金髪の外国人が騒いでいる。それを見咎めた日本人が彼に注意していた。僕は前日から宿泊している日本人に、「ぬし」に挨拶するよう勧められ、髭を生やしてこのゲストハウスにずーっと滞在している「ぬし」に挨拶をした。そのあとテレビを見るのだが、そこでは何故か織田裕二が肝炎なのに酒を飲んでしまったと悩んでいるシーンであった。そして、もう引っ越さねばならないと言い出す。 僕は引越しという言葉で、「そうだ、僕の引越しはまだ終わっていなかったかもしれない」と急に不安になり、一路家を目指す。なぜかそのゲストハウスから僕の家はすぐ側なのだ。家に着くと予想は的中しており、引越しの途中ですべてが投げ出された状態で放っておかれている。これをなんとか運び出さなくてはいけないのかと唖然としているところで僕はまた目を覚ます。するとそこはまた例のゲストハウス。食事の時間のアナウンスが流れている。なんでも昼の残り物の鳥のから揚げを早いもの順に配っているらしい。僕は鳥のから揚げには目がないので、早速食堂に行くが既に長蛇の列だ。僕の番まで鳥のから揚げが残っていますようにと僕はひたすら祈った。 というところで今度は本当に目を覚ました。目を覚ました瞬間、僕は何がなんだかわからなかった。いったいこの夢は僕のどんな心理状況のあらわれなのだろうか?
2004年10月06日
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今回の入院で、当初点滴が外れずに一日中ベッドに横になって窓の外をゆっくりと流れていく雲を見ていて思い出した。もう15年以上も前にやはり入院した時も僕は空の雲ばかりを眺めていて、それでいつもいろいろな空想を巡らしていたものだった。雲の形からいろいろなものを想像してみたり、雲の一つ一つを宇宙船に見立ててみたりしたものだった。当時僕は11歳。小学校6年生になったばかりだった。 問題はスキーだった。そろそろ雪も解けはじめてアイスバーン状態になりだした3月の末に、僕は左足首を骨折、左手首の骨にひびという怪我を負ってしまったのだ。初めて乗った救急車で僕は横になり、天井に回るサイレンだけを見つめていた。痛いとか辛いとか言うよりも、ただただ驚いてしまっていた。スキー場に救急車が来ていることを何度か見ていたが、まさか自分がその「主役」になってサイレンの下にいるなんて、想像だにしていなかった。だからその事ばかりに驚いていた。 入院したのは札幌市の白石区にある整形外科だった。家からは少し離れていたが、僕は何故かそこに入院するはめになった。ギブスをはめられて、今回と同じように一日中点滴を続けた。右手に点滴、左手は骨にひび、そして足の自由を奪われた僕はすることも無くただ空を眺めるしかなかった。6人部屋で、僕のほかにはおじさんばかりが入院しており、そんな彼らと話が会うはずもなかった。退屈だけが支配した。 世間ではスペースシャトル・チャレンジャーの最初の打ち上げで盛り上がっており、僕は、あまりの退屈さにようやく手に入れたテレビを食い入るように見つめていたのを覚えている。確かその時は就寝時間になると強制的に電気が消えてしまい、テレビを見てもいけなかったのだが、僕は看護婦の目を盗んで打ち上げの瞬間を、興奮しながら眺めていた。 今日、何気なくテレビを見ていると、CNNが現在宇宙にいて、2日後に帰還予定のスペースシャトルのことを伝えていた。窓から見える空はとても広く、夏の入道雲が青い空にくっきりと浮かび上がっていた。
2004年10月05日
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朝まだ暗いうちに強引に目を覚まさせられる。時計を見るとまだ5時半だ。病院の一日は早い。こんな時間に看護婦が2人やってきて血圧、脈、体温を計って去っていく。それからトイレの回数を聞かれ、あらかじめとっておいた尿の量と僕が飲んだ水の量もチェックしていく。僕はいつも夢うつつにそんな作業を見ながら、彼女らが去るとまた即刻眠りの世界に引き込まれる。 7時になると今度は医者が回診に来る。当然僕はまた眠っているのだが、今度はこれで本格的に起きざるを得ない。医者は僕の状況を聞いた上で一通り診察して帰っていく。彼の話によると、明日の朝また血液検査をするそうだ。6時ころ血を取りに来ると言っていたので、明日の朝はまた睡眠を妨げられそうだ。 だいたい医者と入れ替わりに看護婦が薬をもって現れる。これを目の前で飲まなければ許してもらえない。それが終わるとたいてい朝食が運ばれる。朝食はアメリカンスタイルで、トーストと卵料理、それにフルーツと紅茶が着く。ちなみに今日はハムエッグだった。飯が終わってゆっくりしようと思うのもつかの間で、今度は看護婦二人が乱入してきて、即刻シャワーを浴びるようにとの司令が下る。朝からとても忙しい。僕がシャワーを浴びている間に彼女らはシーツや布団を一通り交換してくれる。そしてシャワー上がりの僕を捕まえて、皮膚炎の薬を体中に塗りたくる。パジャマは病院支給のもので、一日に2回、新しいものに着替えさせられた。いまでこそシャワーを浴びることが出来るようになったが、点滴をしている最中はそれも出来ず、この二人の看護婦がいつも僕の体を拭いていてくれた。 これで朝のメニューが終わったかといえばそうではない。今度は東大の医学部を卒業しているというこの病院の院長の回診がある。彼は日本語がぺらぺらなので、コミュニケーションはたやすい。けれどもそのしゃべり口調が妙になれなれしい感じがするのは、僕の考えすぎだろうか。さて、その回診が終わるとまた看護婦が今度は食後の薬を持ってくる。そんなことをしているうちに、日本人のお世話係をしている日本人の方が「何か困ったことはないですか」と部屋を訪れてくれ、その後日本の読売新聞が届く。これで一段落かと思えば、今度はまた看護婦が血圧その他をはかりにやってくる。これで時間はだいたい10時になっている。 ちょっとゆっくりしていると、食事担当の兄ちゃんがメニューをもって現れ、昼飯の注文を取りに来る。ここの病院は和食、洋食、タイ料理のなかから選択でき、日本食は近くの「錦」という高級日本食店からの出前だ。だから味はしっかりしていて、僕はいつもほとんどこの日本食を選択していた。この食事というところはこの病院の最大の利点の一つだろう。11時になるとまた薬、そして12時頃に昼食が届き、食後にはまた薬である。 午前中の忙しさに比べて、午後は案外ゆったりしている。2時頃トイレの回数チェックに来るほかは一度血圧その他の検査があるだけでおわりである。夕食前にはまたシャワーの命令が下り、薬を塗り、食事の注文を取りに来て、薬を飲まされ、食べ、薬を飲むという動作を繰り返す。午前と午後では忙しさがおお違いなのである。夜にはもう一度血圧その他の検査とトイレの回数チェックが入り、それで今日のメニューは消化である。 個室なので強制的に電気が消えて「就寝!」と言われる事もないし、その後はのんきにテレビでも見ながらゆっくりと過ごすことが出来る。まさに快適入院生活だ。
2004年10月04日
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今朝、まだ完全に目覚めていない朝早く、驚くべき贈り物があった。以前勤めていた会社のスイス人の上司DOMINKさんからだった。最近彼は昇進したので、昨日会社に電話を入れた時に彼にお祝いの言葉を述べ、自分の状況を簡単に説明しておいた。そうすると、早速大きな花の飾られたフルーツバスケットが送られてきたのだ。メッセージも付いており、DOMINKの暖かい言葉が僕の心に染み入る。この日記でも何度も書いているかもしれないが、改めて僕はとても良い人たちのいる環境で、仕事をしていたのだなと思う。 次に来訪者があった。これも少し前に勤めていた会社がらみである。そもそも僕が旅立つ時に会社の同僚達に僕が行きそうな場所に知り合いが居たら是非とも教えてくれとお願いしておいた。そんなかで秘書職の伊藤さんがバンコクに友達がいるから、バンコクに行ったら是非とも寄って見てくれと言ってくれていたのだ。その電話番号に昨日突然電話をかけて、事情を説明する。先方は伊藤さんから僕のことを事前に知らされており、とてもスムーズにコミュニケーションが進んだ。この辺の根回しの良さは伊藤さんにとても感謝している。そして、その伊藤さんの友人に日本の雑誌を買ってきてくれないかとお願いしていたのだ。幼い子供のいる彼女はわざわざ車で30分もかけて病室に駆けつけてくれた。そしてまだ出たばかりの日本の週刊誌を数冊もってきてくれた。 ところで、バンコクには我がIBMネットのアクセスポイントがある。部屋には電話もあるし、これはインターネットやり放題ではないか。そう考えて、さっそくアクセスを試みるが何故かうまく行かない。データ通信音は聞こえるのだが、その先にどうしても進まないのだ。困ってしまって、バンコクのIBMに電話をかける。そうするととても親切に対応してくれて、結局僕の持っているソフトはPPPという方式で、バンコクではそれをサポートしていずSLIPでなければアクセスできないのだということがわかった。そして何度かいろいろと試してみたのだが結局うまく行かず、SLIP対応のアクセスキットを病院に郵送してくれることで解決がついた。けれども今日は運悪く金曜日で、アクセスキットの到着は早くても来週の火曜日だそうである。それまでインターネットでの暇つぶしは出来そうにない。 そういえば、保険会社からも電話があった。まず最初に「とにかく大変でしたねえ、病状はどうですか」と僕をいたわる言葉から始まって、「とにかく費用はすべて保険でカバーされるから心配しないでください」と言ってくれた。ただしたとえば毎日配達される日本の新聞などは保険の対象外であることなど細かい点について詳細に説明してくれた。さらにネパールでかかった費用がここで受け取ることが出来るということや、ネパールからバンコクへの航空券の代金も保険で降りる可能性が高いことを丁寧に教えてくれた。商売とはいえさすがAIUのサポート体制はしっかりしているなと思った。 会社からも電話があった。いろいろな人に電話を回してもらい、いろいろな人と話ができた。沢山に人たちのねぎらいの言葉が、何よりの活力回復剤になった。今日はとにかく多くの人々の暖かい心に触れた一日であった。食欲も出始めて、出されたものはほとんど残さず食べれるようになってきている。気力も充実しはじめた。点滴も外され、すべてが良い方向に回転しはじめている。
2004年10月03日
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安心感に満ち溢れていた。この病院は施設がとても良く整っている。昨日はあまり冷静に観察できなかったが、通された病室は個室で、下手な高級ホテルの部屋よりも広い。大きなベランダがあり、そのわきに椅子が用意されベッドがある。ベッドの反対側には洋服ダンスがあり、そのとなりにテレビと冷蔵庫が備え付けられていた。ベッドのすぐ脇にはお湯を沸かせるポットと電話があり、その先にはなんと応接セット、それからバスルームがある。バスタブこそないが、ひねるとお湯はすぐに出てきた。こんな豪華な部屋に日本で通されたら、いったいいくらになるのだろう。もちろん空調は万全で、10階の部屋からは遠くにバンコク市内の高層ビル群、そして手前には多分何かの公園らしき緑の空間が展望できる。はっきりいって快適だ。 朝早く、昨日診察してくれた医者が血液検査の速報をもってやってきた。まだどんな病気かの判定は終わっていないのだが、いろいろな数値の結果が出たそうだ。それによると、やはり肝臓関係に関わる数値が通常値から大きくかけ離れており、何らかの肝炎である可能性が高いと言っていた。まだ食欲もわかないが、精神的にはだいぶ落ち着いてきたということを告げると、医者も安心して、引き続き点滴を続けて栄養分を失わないようにしましょうと言って出ていった。 その後、X線の検査やなにやらコンピュータのマウスのようなものを腹にあてて内部を検査などして、ついでに皮膚課にもつれていかれた。というのはそれまでわりと調子の良かった皮膚炎が今回の衰弱を期に、また一気に悪化しており、医者はそっちの方も心配してくれていたのだ。ただし肝臓が悪いのであまり不用意に薬は飲めない。だから塗り薬で様子を見ようと言ってくれた。ここまでいろいろと科学的検査をしてもらうとなんだかとても安心である。 もどると朝食が用意されていたが、やはりほとんど口にはできなかった。朝食が終わった頃また医者が僕のところにやってきてくれて、病名が分かったよと教えてくれた。血液検査によると、どうやらやはり「肝炎」らしい。それもアジアを旅する旅行者がよくかかることで有名な「A型肝炎」だ。これは肝炎の中でも割と軽傷な方で、慢性化することも、肝硬変から肝臓ガンに移行することもほとんど無い病気だそうで、とても安心した。ちなみに「A型」は経口感染で移るらしい。B、Cは体液による感染でつまり輸血をするか、それなりのことをしないと移らない病気なので、なんとなくA型でよかったと思った。これなら他人にも普通に病名を語ることができる。 そのあとこの病院の日本人担当の女性の方が部屋に訪れてくれて、いろいろと困ったことがある場合にはすべてサポートしますので、と言って帰っていった。保険の証書などを渡すと、保険会社との折衝も彼女がすべてやってくれるらしい。本当に至れり尽くせりだ。部屋から久々に家や会社に電話をかけて状況を説明する。みんな僕の突然の入院に驚いていたようだった。入院したお陰で久々に懐かしい声を聞くことができて良かった。 早速バンコクに居るはずの親友、次郎君の会社に電話を入れた。ところがタイミングが悪かった。なんと彼は昨日日本に帰ってしまったのだそうである。そして10日ほどバンコクには帰ってこないのだそうだ。理由を聞いてまたびっくり。「結婚」しにいったのだそうだ。実は彼は結婚問題でいろいろと壁にあたっていた。僕がこの日記の前半、まだ日本にいたころ「友よともに語り明かそう」 というタイトルで書いているのだが、僕の出発と彼の海外赴任はほぼ時を同じくしていて、最後に彼の家に泊って語り明かした時も、彼のこの話題が中心だった。けれども彼の会社の人の話によると、彼はすべての困難を乗り越えて、とうとう結婚まで漕ぎ着けたということになる。これはもう、大変うれしいことだ。こういう体の状況で、頼るべき人が不在だったのは正直言って落胆したが、理由を聞けば納得した。それに10日も待てば彼は帰ってくるのだし、真っ先に会って、直接お祝いを言えるのはこの上ない喜びだ。本当によかった。次郎、本当におめでとう。 今日は一日中点滴が続いたこともあり、ひたすら横になっていた。食欲は相変わらずだが、ネパールに居る時よりはマシになった。匂いをかいでも吐き気はしなくなったし、出された食事も3分の1くらいは食べれるようになった。本当に回復の兆しが見えている。やはり無理をしてでもバンコクに来てよかった。
2004年10月02日
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気力だけの勝負だった。11時にホテルにタクシーが向かいに来ることになっていたので、9時過ぎから荷物の整理を始めた。例によって体はふらふらで、一つ行動をするとそのあと10分休憩しなければやっていられないというような状況だった。普段なら15分以内に終わるパッキングにも今日は2時間を要した。それだけで息があがった。 このゲストハウスは評判はそれほど良くなかったが、やはり日本人にとってはとても過ごしやすいゲストハウスの一つだろう。なにより従業員が日本語を話せるのがとても便利だ。ただ、宿泊客以外にはとても冷たいのと、下手に日本語を話せるものだから、物の言い方が命令調に聞こえてしまいこちらが少しムッとする瞬間があるのがこのホテルの評判を下げる大きな要因になっている。それから料金が他に比べて高い。前のマルコポーロでは税込み6ドルで部屋にホットシャワーとトイレが付いていたが、ここは6.6ドル出してもトイレ・シャワーは共同だった。結局このゲストハウスにはせいぜい2泊のつもりで来たのだが、結局11泊もしてしまった。ここでお世話になった日本人旅行者達、特に「胡椒マニア」「お祭り兄ちゃん」「野人君」の3人には感謝の言葉もない。ちなみに「野人君」には金を借りたままだった。なんとかどこかで再会して返さねば。 約束通り11時に迎えの車が来て、一度帽子を忘れたのに気が付いてホテルに戻ってくるというハプニングはあったが、その外は問題無く空港に到着した。思えば考えていたよりずっと長く滞在した割にはこのカトマンドゥという街を全く把握することができなかった。ほとんどすべての時間を旅行者用の街、タメル地区で過ごしてしまったのが失敗だった。特に後半はほとんどホテルで寝たきりだったのでしょうがないといえばしょうがないのだが、南にあるパタンといういわゆる小京都や、その外彼らが生活している街をついに歩くことなく終わってしまった。それは、このネパールという国全体に通じても同じ事がいえる。ポカラにしてもチトワンにしてもそこから生活は見えてこない。この国の9割以上が農業に従事しているのだそうだが、僕が見た所だけを切り取ると、9割以上が商業に従事している。現地の生活を出来るだけ肌で感じたいと思っている僕としては、少し後悔の多い一ヶ月だった。この国には、改めてまた是非訪れたいと思っている。 「お祭り兄ちゃん」の言ったとおり、こういう状況の時はビジネスクラスに限る。出発までしばらく時間があったのだが、ビジネスクラス用のラウンジでゆったりと休息をとることが出来た。隣では日本人ビジネスマンの親父達が、大きな声で話をするのでちょっとうるさかったが、それでも一般のごみごみした待合室に比べると、雰囲気も落ち着いていてとても良かった。飛行機の席は一番前で、座席こそチャチかったが、とりあえずそれなりのサービスも堪能できた。けれどもやっぱり食事にはほとんど口をつけれなかった。なによりも良かったのは、バンコクに着くと飛行機をすぐに降りることができて、そのために入国審査でも全く並ばなくて良かったことだ。以前バンコクに言った時は、もちろんエコノミーの後ろの方の席だったので、僕らが入国審査の所に着くとそこはもう長蛇の列で、1時間近くも並ばなくては行けなかった苦い経験があるので、これは本当に助かった。荷物も優先的に出てきてくれて、僕はさっさと空港を後にすることが出来た。 行き先は決まっていた。僕の持っているAIUの保険の小冊子にはバンコクでキャッシュレスで治療を受けることが出来る病院が4つ載っている。つまり保険証書を見せるだけで、僕は実際にお金を払う必要がなく、病院が直接保険会社側に料金の請求をしてくれるのだ。ところがネパールで「お祭り兄ちゃん」に見せてもらった日本の某保険会社でバンコクで同様のサービスをしている病院は一つだけだった。そしてその一つは僕の方の保険会社でもカバーしているところだった。ということは、その病院というのはきっとかなり規模も大きく日本人向けのサービスも充実しているということにならないだろうか。そう推察して、その両方の保険小冊子に載っているPRARAM 9 HOSPITALというところを目指すことにした。 体がもうほとんど言うことを聞かない状態だったので、料金は一番高いがエアポートリムジンを手配することにする。(650バーツ)この病院は結構有名らしく、病院名を言うだけで受け付けは了解してくれ、僕を乗せたベンツのリムジンはその病院に向けて高速道路を疾走してくれた。この高速道路が出来てからバンコク市内からの空港へのアクセスは飛躍的に向上した。実際僕を乗せたリムジンは30分もかからずに目的の病院に到着する。病院はなるほどでかい。16~17階建てくらいの大きなビルが丸ごと病院だ。これなら有名なのも分かるし、今までと違って安心して診察が受けられそうだ。 車から降りて、立てずにうずくまっている僕を見つけて、すぐに病院のスタッフが駆けつけてくれる。車椅子を持って来て僕を乗せ、緊急処置室の様なところに連れていかれた。少し落ち着いてきたので、医者にいろいろと事情を話す。そうすると大いに同情してくれ、僕の様子をみて一見して「肝炎」の危険性が高いので入院が必要だと言ってくれた。僕も端から入院するつもりで来ているので、これにはすぐに合意した。けれども根拠は特にないのだが、僕は勝手に「いやあ肝炎じゃあないよ」と内心思っていた。すぐに血液を採取され、食欲が無くほとんど何も食べていないというとすぐに点滴が開始された。この辺は点滴一つにも嫌がっていたネパールの医者とはおお違いである。そしてこちらの点滴は日本でも見慣れた黄色い液体で、(ネパールでは無色透明だった)スピードも日本で見慣れた速さだったので安心した。やっぱりバンコクに来て良かった。 もう時間も遅かったこともあり、とりあえずそのまま病室に入れられ、いままで張り詰めていた気力が一気にはじけたのか、そのまま熟睡してしまった。とにかくやっと心に平静が戻り、安堵した。点滴が気になり夜中に何度か目を覚ましたが、看護婦が何度も僕の様子を見に来てくれているのが分かったので、そのまま夢の世界へと引き込まれていった。 本当に今日一日は気力だけで動いていた一日だった。
2004年10月01日
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早朝6時過ぎに、重たい体を押して、「胡椒マニア」に挨拶に行った。彼は今日旅立つ。物理的には大きな距離を移動するわけではないが、全く違う世界への大きな旅立ちだ。彼は今日から仏門に入るのだ。ボダナートの近くにある「ドジョム・ゴンパ」に入り修行を始める。「始めはチベット語の勉強が中心になりそうだ」と言っていたが、これから約4ヶ月はみっちりとしごかれるらしい。当然酒もたばこも禁止だ。愛煙家の彼にとってはこれが一番辛いのではないだろうか。とにもかくにも今回の僕の病気で一番世話になった人の旅立ちだ。ちょっとよろけそうになりながらも、彼の前途に精いっぱい祈りを込めて彼を送り出した。彼は笑顔で僕に答えてくれたが、彼の様子から不安で一杯であることが容易に推察できた。彼とはまたいつか必ず再会したいと思っている。そして、その時に彼がどのように変貌しているか、今からとても楽しみだ。 結局、今日のバンコク行きはかなわなかった。そもそも今日のお昼にタイ航空の便は存在しないのだ。けれども明日のお昼のタイ航空便が取れた。時節柄混んでいる時期で、エコノミークラスは取れなかったが、ビジネスクラスに1席だけ空席があったらしい。エコノミーUS220$、ビジネスUS314$とそれ程大差はない。「お祭り兄ちゃん」にいわせると、そういう衰弱した状態だったらむしろビジネスクラスの方がいいだろうと言ってくれた。 この「お祭り兄ちゃん」と「ミホちゃん」も明日の早朝インドに向けて旅立つ。二人とも体の調子がいまいち本調子でないのが不安ではあるが、彼らは旅の期間がそれほど長いわけでもなく、だからもうインド行きを決行するのだと言っていた。本来なら僕も「ラフティング」「ダージリン」コースを放棄して、彼らと一緒に直接バラナシに入ろうかと思ったのだが、体の不安が先に立ってしまい、彼らと行動を共にすることはあきらめた。彼らには本当に無事旅を続けて欲しいものだ。 結局今日も腹に収めることが出来たのは、ハムエッグ一皿で、体の衰弱も激しかったのだが、気力は少し上向きになってきている。なによりバンコク行きを決めたことで事態が改善に向かっているような気がするのだ。ちなみに今回の騒動で体重がかなり減っているような気がする。体が軽い。
2004年09月30日
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決断の時だと思う。相変わらず体は回復せず、食欲も沸いてこない。今日もハムエッグを一皿食べただけだ。夜みんなに誘われてレストランまで行ったが、その匂いをかいだだけで吐き気をもよおし、一人先にホテルに帰ってきた。もう、限界だ。体はますます衰弱していき、気力も落ちはじめている。まだ、気力が少しでも残っているうちに、何か手を打たないとこれは大変なことになり兼ねない。かといってネパールの医者にかかるのはもう嫌だ。 バンコクだ。そう考えていた。ここから直接飛んで行ける信用のおける大都会(この際デリーやカルカッタなどは信用のおけない大都会である)はバンコクくらいのものだ。それにそこまで行けば親友の次郎が居るはずだ。それだけでも大きな心の支えになる。 こうなってくると、陸路の旅にこだわっている場合ではない。早速明日のフライトの手配をホテルにお願いする。けれどももう遅いので明日の朝のフライトの手配は間に合わないとのこと。昼のタイ航空の便なら何とかなるかもしれないので、明日の朝返事をしてくれるということだった。とにかくバンコクでそれなりの医者にかからなければ、旅を続ける自信が無くなってきた。
2004年09月29日
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食べなくちゃいけない。それは良く分かっている。でも食べられない。それがまた辛い。食べ物のことを想像するだけで吐き気がする。かろうじて食べられたのがハムエッグだった。今朝、頑張って近くの洋食屋に行って一皿平らげた。けれどもそれが精いっぱいで、ホテルに帰ってくるなりまた横になってベットから動けなかった。こんなんで明日に延期をしていたインド行きがかなうはずが無い。「お祭り兄ちゃん」にお願いして、旅行自体をキャンセルしてもらってきた。もう気力も失せはじめている。これは危険な兆候だ。けれども不思議と日本に帰る気にはならない。これは最後のとりでなのだろうか。
2004年09月28日
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医者と相談して、やっぱり点滴を打ってもらうことになった。吐き気はすこしおさまって来たが、食欲は全くない。このままでは本当に衰弱してしまう。だから栄養剤でもなんでも点滴してもらうのが回復の一番の近道だと思ったのだ。 医者は最初躊躇していたが、僕の懇願に分かったといって点滴を買いに行ってしまった。ネパールは医薬が完全に分業で、医者といえども薬をいちいち薬局に買いに行かなければならないのらしい。かれはなんとブドウ糖の入った一本500MLの点滴を八本も買ってきて、それをすごいスピードで僕に打ち始めた。僕は点滴というのはゆっくりとするものだと思っており、一本に2時間くらいかけるのは普通だと思っていた。けれども何故か本当にすごいスピードで、一本30分くらいの速さで片付いていく。これがまた僕を不安にさせる。 また点滴をつるしておく台が無い物だから、誰かが点滴を持ち続けなければならない。今日は先生のほかに「胡椒マニア」「ナマコちゃん」「お祭り兄ちゃん」が部屋に来ており、彼らが交代で「人間点滴台」をやってくれた。またまた感謝である。それから「ミホちゃん」も僕と同じように高熱で倒れており、このインチキ先生に注射をされていた。結局点滴は午後一杯かかり、終わったが、残念ながらあまり体が回復したとは思えない。けれどももうこの医者には関わりたくないのと、それから他のみんなに心配を掛け続けるのも悪いのでちょっと元気なフリをしていた。 料金は全部で400ドル程であった。けれどもこの金額はホテルの人に言わせると破格に高いのだそうである。だからといって僕にどうすることが出来るわけでも無いのだが、そう言えばもう一人の医者の料金は25ドルだったことを考えると、ちょっと高い気もする。チベットでの時もそうなのだが、どうしても医者の料金の水準というのは分かりかねる。日本の場合は保険にに守られているので、それ程自己負担額が多くないだけに、保険が無い場合の料金というのにあまりピンと来ないのだ。ましてや外国である。それにこの種の支出というのは、日本で入ってきた海外旅行傷害保険で守られているので実際に僕の懐がいたむわけではないので、更に鈍感になってしまう。こういうのを「ボラれた」というのかもしれないが、こういう個人の医者の料金というのはあって無いようなものなのだろうか? ところで、頼みの点滴もあまり効果が無いとなると、あとはもうどうしようもない。いったいどうすればよいのだろう?
2004年09月27日
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熱は確かに下がった。昨日の注射が効いたらしい。体は高熱の時に比べたらずいぶん楽だ。けれども今度は吐き気が続いている。何も食べられない。午前中医者が様子を見に来て、その事を伝えたが「休んでいれば治る。それからとにかく水を沢山取るように」とだけ言ってさっさと帰ってしまった。彼のタクシー代のUS5ドルだけが消えていった。どうもあの医者は信用できない。水を4リットルも5リットルも飲ませて治療する方法なんて今まで聞いたことも無い。ちなみに昨日連絡がつかなかった医者もやってきた。彼の家の電話が壊れていたそうだ。ここはやっぱりネパールだ。そして彼も適当な話だけを残して帰っていった。だんだんとネパールでの治療に不安を感じはじめてきた。 吐き気は午後になってもおさまらない。それでもなにか栄養を摂らなくてはいけないと思い、「胡椒マニア」に買ってきてもらったパンを頑張って食べてもしばらくしたら全部吐いてしまう。水も言われたとおり頑張って飲むがこれもやはりだめだ。体が吸収を拒否してしまっているのだろうか。 夜にやってきた医者にその事を話す。ここが日本だったら栄養を摂るために即刻点滴を開始するところだ。そうお願いするのだが医者はなぜか嫌がる。明日の朝もう一度様子を見てそれを見てから決めようと言った。 体がだんだんと衰弱しているのがわかる。本当にこんなんで大丈夫なのだろうか?
2004年09月26日
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全く本当に嫌になってしまう。また熱だ。昨日の状況でもう山を越えたと思っていたのにまた熱だ。本当に僕の体はどうなってしまったのだろう。僕はまたもや朝からベットでうんうんと唸っていて、外へも出れない。昨日の状況を知っているみんなは、僕はもう当然回復しているだろうと思って、僕の部屋を訪れてくれない。最悪だ。 朝から何も食べれないし、起きあがれもしない。この白熱病というのはいったいどんな病気なのだろうか。そんな時、ひょこっと「胡椒マニア」が顔を出してくれた。そしてまた倒れている僕を見て驚愕している。例の医者に連絡してもらうが、どうしても連絡が取れない。そんなこんなしているうちに時間はもう夜の7時になってしまっていた。相変わらず体の調子は最悪だ。 ついにホテルの人が痺れを切らして、別の医者を呼んでくれる。今度の医者は初老の医者で僕の様子を見て全く違う診断を下した。「おまえは別に白熱病なんかじゃあない。ただ扁桃腺をはらしただけだよ」僕は喉が痛いと言った覚えは無い。なんとなくかゆい気がすると言ったら、かれはしてやったりという顔をして、僕の喉を見てうなずいてからそう言った。なんだかこの親父も信用できない気がする。扁桃腺を腫らした経験は何度もあるが、こんな症状ではなかった。けれどもここはネパール。郷においては郷に従うしかない。彼は僕に注射をすると行って、薬を買いに出かけていった。そしてその間に僕に水を1リットル飲みきるように宿題を残していった。 今回は「胡椒マニア」も「お祭り兄ちゃん」も付いていてくれていたのだが、その宿題を達成させる監視役を仰せつかってしまい、彼らまで僕に「水を飲め飲め」言ってくる。けれどもそんなに水ばかり飲めるものでもない。こっちはちょっと吐き気までするのだ。 医者は大量の薬と注射液を持って張切ってかえってきた。そして薬を調合して手の甲のところに太い注射を打ち込む。そしてまた大量の薬を飲ませる。けれども僕は吐き気が続いていて、その後更にまた水を飲むよう迫るものだから飲んだ薬をほとんど全部吐き出してしまった。けれども医者は「ノープロブレム」と澄ました顔で帰っていく。帰りがけに医者は恐ろしいことを言って行った。1リットル入りのペットボトル2本を指して、「これを全部飲みきるまでは寝てはいけない」というのだ。おいおい、それはないぜという感じだ。 「胡椒マニア」も「お祭り兄ちゃん」も僕に同情はしてくれたが、それでも一本飲み干すまでは許してくれなかった。彼らは僕のために2時過ぎまで寝ないで看病してくれた。もうこれには感謝感謝である。
2004年09月25日
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今日はなかなか気分が良かった。って、なんだか最近旅行日記を書いているのだか闘病日記を書いているのだかわからなくなってきた。まあそれはさて置き、とにかく気分が良かったのだ。熱もそれ程上がらず、高くても37度台前半で収まっていた。歩く気力も出てきて、食欲も少しずつだが回復してきている。ただし医者から肉や硬いものを食べてはいけないだのなんだの散々脅かされているので、食べれるものも限られていた。 けれども、インドへの明日出発はちょっと無理そうだ。再三の変更で申し訳ないが、また出発日を変更してもらうことにした。「胡椒マニア」にお願いして、旅行会社に掛け合ったもらうとあっさり29日の出発に変更してくれた。しかも追加料金なしだ。これはありがたい。ちょっとインドが遠のいたのと、このゲストハウスに長居するはめになってしまったが、まあそれはしょうがないだろう。これならもっと安い所にすればよかったとも思ったが、「胡椒マニア」や「お祭り兄ちゃん」それに「野人君」の助け無しにはこの病を乗り切れそうにもなかったので、これでいいのだ。 ちょっと元気になった僕は昼は例の「富士」に行ってざるそばを食べる。まさしく日本のそばだ。夜は「ミホちゃん」とインド帰りの青年をさそって「ふるさと」でおじやを平らげた。なんだか本格的に回復の兆しである。山は越えたようだ。食事以外はホテルでのんびり本を読んでいたのが良かったのかもしれない。しばらく休んでいれば体力も回復して、また元気に旅が続けられることだろう。
2004年09月24日
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夜中に何度か目を覚ました。寒くて震えが来るのだ。これは坐薬の効きすぎで体温が必要以上に下がったのかななんて勝手に解釈していた。けれども朝になると今度は猛烈に体が熱かった。熱を測ってみるとついに39度を越えていた。はっきりいって起き上がる気力も無い。助けを求めに「胡椒マニア」の部屋を叩くがあいにく留守で、とにかく戻ってきたら僕の部屋に来てくれるよう伝言するのがやっとだった。 起き上がる気力も無く、熱にうなされながら夢と現実の間をさ迷い続ける。そんななかお昼前にようやく「胡椒マニア」が来てくれた。彼は昨日の夜僕が元気に回復しているのを見て、もう大丈夫だろうと思っていたらしい。そして、最近知り合った日本人のおじさんに昼食を誘われたのだがなんとなく帰らなくちゃという気になって一度ゲストハウスに戻ってきたのだそうだ。そうしたら案の定僕が倒れて唸っていたというわけだ。僕の思いがつうじたのだろうか。 彼に事情を話して、今度はホテルの人にネパールの解熱剤をもらうことにする。現地の病気には現地の薬で治すのが一番だ。そうするとあら不思議、熱はまた一気に下がったではないか。体がどんどん楽になってくる。食欲だってちょっと出てきた。「胡椒マニア」が買ってきてくれたチョコレートやパンをむしゃむしゃとかじりつく。思えば昨日の殺人的にまずいパスタから、まともなものは食っていない。腹も減るはずだ。ところがこれでまた安心したのが大間違い。薬が切れた頃からまた熱が上がりはじめ、またうなされるはめに陥る。同じ事の繰り返しだ。そして、またベットから起き上がれない。「胡椒マニア」も部屋にはいない。ベットで苦しんでいると、今度は「お祭り兄ちゃん」と「野人君」それに「ポリ公」が食事の誘いに来た。そして倒れて唸っている僕をみてびっくりして、「医者を呼んだ方がいいですよ」と言ってくれた。しばらく迷ったが、薬を飲んでも同じ事の繰り返しなので、彼らにお願いして医者を呼んでもらう。 結局、みんなは出払ってしまったが、医者が流暢に英語を操ったのでなんとか自分の意志を伝えることが出来た。彼はしばらく診察して、最後にこういった。「あんたはホワイト・フィーバーにかかったんだよ。これはネパールに来た外国人がよくかかる病気でね。特に心配する必要も無いから安心だよ。明日一日は安静にしていた方がいいけれど、明後日になればもう元気ばりばり全開さ。」そうして明後日の夜また来るからねと言い残して、自信たっぷりに出ていった。薬をいくつか処方してくれたが、それは僕が今まで飲んでいた解熱剤と抗生物質、それにビタミン剤だった。なるほど、病名が分かるとちょっと安心だ。イエロー・フィーバーが黄熱病だからホワイト・フィーバーはさしずめ白熱病というところか。 帰ってきた「胡椒マニア」や「お祭り兄ちゃん」、「野人君」にその話をすると、「なんか白熱って「のりさん」にぴったり」と笑われてしまった。薬のお陰で熱も下がってきたし、ちょっと精神的にも落ち着いてきた。
2004年09月23日
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悲劇の始まりだった。ここ数日微熱が続いているのは知っていた。3日前にちょっと熱っぽいなと思って体温を測ってみると37.4度を指していた。その時はシャワーを浴びたばかりだし、まあ当然といえば当然かとあまり気にせず、街を散策していた。けれどもその晩もう一度熱を測ってみても結果は同じだった。そんな日々が何日か続いていたが、体の方は結構元気で、だからさして気にすることも無く、いつも通り行動していた。 それに実はもう昨日インド行きの手配を済ませており、僕の心はすでにカトマンドゥになかった。僕の計画はこうである。まず明日23日の朝早いバスで川まで行き、そこで「ラフティング」と呼ばれるゴムボートでの川下りに挑戦する。ちょっと前に流行った映画「激流」と同じようなことをしようというわけだ。そしてそのラフティング終了後依然宿泊したチトワンのスカイラインジャングルキャンプに一泊。次の日に朝からバスに乗りジャナクプールという小さな街を目指す。ネパールでは本当に観光客コースしか歩んでいなかったので、違った側面のこの国も見てみたい。そしてこのジャナクプールを中心としたエリアは民家の壁画が有名らしいので、そんな村落も訪ねてみたいと思い、この街に寄ることにした。そしてその後またバスに乗りネパールの東部の国境カッカル・ビッタを経てインドのダージリンに抜けようと考えていた。このうちジャナクプールまでのバスチケットまではもう既に予約をいれており、だから、もう明日の朝はラフティングに向けて出発できるのだ。 ところが、今日朝起きると体が重い。念のため熱を測ってみるとやっぱり37.4度を指していた。けれども今日は人と会う約束があるので、何としてもお昼には外出せねばならない。というのは日本で働いていた時の後輩の知り合いがここにいると教えられており、一度会いに行ったのだが、実はその人はとんでもない偉い人で、超高級ホテルの部類に入る「hotelMALA」の General Managerだったのだ。そのGeneral Managerが今日は昼飯をご馳走してくれることになっている。それも僕のリクエストでイタリアンを食べさせてもらえることになっているのだ。断るのも申し訳ないし、意地汚い僕は是非ともまともなスパゲッティーを腹に収めたかった。だから、ちょっと体がだるいのを押してでもなんとか頑張って出かけていった。 彼と適当に会話して、食事をしたが残念ながらスパゲッティーはどうレシピを間違えたのとてもスパゲッティーと呼べる品物ではなかった。ますます胃がおかしくなる。けれども結局2時間くらい話をしていただろうか、会話自体はなかなか面白く、ネパール人と日本人の共通項ネタなどでそれなりに盛り上がった。 けれども、自分の体調は一番自分が良く分かる。熱が確実に上がっていた。これは明日ラフティングどころではない。けれども今までの経験からこれから帰って寝れば明日の午後には熱は下がるだろう。そう思い旅行会社に出向いて出発を2日延期させて欲しいことを伝えた。旅行会社は特に追加料金を取るでもなく、簡単に認めてくれた。ホテルに帰って熱を測ると案の定38度を越えていた。本当は今日は「ライダー夫妻」のお別れ会をする予定だったのだが、残念ながら僕は参加できなかった。みんな僕の体を心配してくれていたが、熱以外はこれといった症状もないし、本当に大丈夫だと思って「大丈夫だよ」とのんきに答えていた。 日本から持ってきた解熱剤の坐薬を入れると熱はあっという間に下がっていった。これでもう安心と、のんきに一階のロビーで「お別れ会」から帰ってきた「胡椒マニア」や「お祭り兄ちゃん」と歓談していた。そういえば「ポリ公」も今晩ネパールに戻ってきて、だから話にはいっそう花が咲いた。 僕は心底「もう大丈夫だな」と安心しきっていた。けれどもこれはこれから始まる悲劇の序章にしか過ぎなかった。
2004年09月22日
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カトマンドゥまでやってくると、さすがに日本食のレストランがちまたに溢れている。どこか怪しげな「なんちゃって日本食」から「日本で修行してきました」というのを売りにしている旅行者用の安日本食(といっても現地の他の料理から比べたら、もうそれは十分に高い)そして明らかに駐在員か豪華旅行者をターゲットにした高級日本食までまあよくこんなにそろえたなというくらい色とりどりの日本食屋が軒を連ねている。 その中でも僕らのようなあまり裕福とは言えない旅行者が良く利用していたのは、「味のシルクロード」というなんだか良く分からない名前の日本食屋である。定食類がだいたい120ルピーくらいから食べられるという値段の他にも、「日本の新聞が読める」だとか「情報ノート」という旅人が思い思いの情報をつづったノートが充実しているとかその他の付加価値も加わって、現在カトマンドゥのタメル地区では一番人気の日本食屋と言っても過言ではないだろう。それに対抗してかどうか知らないが、今年になって似たようなカテゴリーに属する日本食屋が何件かオープンした。一つは「グリル富士」というレストランでもう一つは「ふるさと」である。残念ながら「グリル富士」には足を運べなかったが、「ふるさと」は「味シル」よりも中が日本的で、飯もこちらの方が明らかにうまかった。そのうちきっとこのレベルのレストランでは「ふるさと」の方が人気が出るに違いないと僕は読んでいる。 で、日本食もおいてあるでよというような「なんちゃって日本食屋」は問題外として、この「味シル」「ふるさと」レベルより少しリッチな中級レベルに「古都」と「串藤」という二つのレストランが登場する。この辺になると「お茶」の他に「おしぼり」もでてきてしまう。料金も若干高めだが、それなりの料理が出てくるのでそれほど割高感は無い。まあ、「味シル」「ふるさと」が街の定食屋レベルで、「古都」「串藤」がデパートに入っているレストランというところだろう。「味シル」「ふるさと」の従業員が街のあんちゃん風なのに比べて、この辺はちょっと教育の行き届いたおにいさんという感じである。ちなみに何故か女性はいない。 街の定食屋、デパートの食堂とくるとあと残っているのはホテルに入っているような高級日本食であろう。いろいろと評判を聞くにこの街にはそのレベルに値する日本食屋が3軒あることがわかった。それが「槙」「富士」「田村」である。実際に「槙」と「田村」はこの辺では高級とされるホテルに入居している。このクラスになるともう従業員は全員が日本語ぺらぺらだし、制服だってピシっとそろっているし、ナプキンだって出てきてしまうのだ。僕はおとといの晩に「槙」、昨日の晩に「富士」そして今夜「田村」とこのカトマンドゥ三大日本食屋巡りを決行してきてしまった。もちろんその前に街の定食屋や、デパートの食堂も試しているので、容易に比較が出来る。 このクラスの日本食屋に行っての最初の感想はご飯である。お米が本当においしいのだ。他のクラスの日本食やもいわゆる僕らが日本で普通に食べている「ジャポニカ米」を出してくれているのだが、炊き方が違うのか、そもそもお米が違うのか、とにかくご飯の味が全然違う。中でも「槙」のご飯は絶品だった。味噌汁は「富士」の勝ちで雰囲気は「田村」が一歩リードというところだ。ただし、「田村」は僕らにとっては立地条件が悪い。「お祭り兄ちゃん」と「ミホちゃん」とで行ったのだが、タクシーに乗らなくては行けなかった上に、わかりにくくて散々道に迷ってしまった。 また、これらのレストランの雑誌の充実にも目をみはるものがある。というのは他のクラスの日本食屋では新聞こそ最新のものを取り揃えているものの、雑誌となるともう1年前の週間文春が転がっていたりするのだが、「槙」には一週間前の「週間朝日」がそろっていたし、「富士」に至っては「SPA!」や「FRIDAY」なんかの柔か系雑誌も一週間前の号がそろっていた。その外「富士」では日本のテレビ番組のビデオも各種そろえていて、それを無料で貸し出してもいるのだ。 ぼく個人の感想ではこの中でも立地条件や雑誌の充実、値段と質の兼ね合いなどを考えると「富士」が一押しだろうと思う。ここはタメルからも近いし、メニューも充実している。それに高級といわれるこのクラスでも日本円で 1000円から2000円も出せば充分豪華にやれる。(これが日本だったら5000円~10000円行くのはまず間違いないので、絶対にお得だ)ただしワサビは色だけで全然辛くなかった。
2004年09月21日
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僕が今とまっている宿は結構タメルの中心地から離れている。それは、それで落ち着いて良いし値段の割にサービスは良いし特に大きな不満も無かった。毎日きちんとシーツを取り替えてくれるなんてこの値段のホテルではまず望めないサービスだ。屋上のカフェテリアからの眺めもなかなかで、先日訪れたモンキーテンプルも奇麗にみえる。何よりも人が良い。けれども、なにせ中心から離れているがためにどこに行くにも少し不便である。それだけが難点だった。これは自転車を借りることでほぼ解決していたが、一日150ルピーとポカラの3倍の値段を負担しなければいけないのはちょっと懐がいたむ。でも他のところでは平気で250ルピーと言われていたのでこれがこの街での妥協点なのだろう。 さらに、チベットやネパールで知り合った日本人仲間からはこのホテルはなかなか不評だった。何かの用があって、僕に連絡が取りたい時も僕がどこに入るのかさっぱり分からず、連絡の取りようが無いのだそうである。僕がとまっているHOTELRAMADAは有名なガイドブックにも乗っていないほど小さく辺ぴなところにあるのである。だから、たとえば昼飯を一緒に食おうと思っても、どこかの寺に一緒に行こうと思っても誰も僕を誘うことができないと言っていた。僕としては、現にみんなで夕飯を一緒に食う機会もそれなりに持っているわけだし、日中は思い思いの行動を、適当にしているのでそれは、それで良かったのだが、なにせ中心から離れているのがいろいろと不便が多い。食事一つとるにも、旅行会社に行くにも自転車をえっちらおっちら漕がねばならないことに少々うんざりしているところだった。 だから、今日は朝からホテルをチェンジして一気に中心のホテルに移る積もりでいた。どうせこの街には居てもせいぜいあと3日だ。このあとインドに向かう手配をするにしても、バスターミナルに行くにしても、タメルの中心の方が絶対に便利だ。さて、どこのホテルに行こうか。 この街には散々長く滞在しているので、ホテルの値段や評判もそれなりに耳に届いている。その中で、以前とまっていたマルコポーロはかなりのヒットの部類に入るらしいことが分かっていた。今回もマルコポーロでも良いのだが、それでは何か面白くない。折角だから他のホテルも試してみたい。いろいろ考えたのだが、むしろ否定的な意見ばかり耳にする「フジ・ゲストハウス」に行こうかとふと思った。ここに行けば「胡椒マニア」や「お祭りお兄さん」が居るし、そろそろバングラディッシュに行っている「ポリ公」もここに帰ってくるはずだ。ゲストハウス自体の評判はそれほど良くないが、けれどもやっぱりここまで人がそろっているとそこに引かれてしまうものだ。だから僕は歩いてフジをいったん目指すことにした。 途中で日本へ送り返す荷物の郵送手続きをする。自分で郵便局に行って手続きをするととても安く上がることは分かっているのだが、街に溢れている旅行会社で手続きをお願いすることにしてしまった。ネパールは内陸国だからなのか、航空便と船便にそれ程差が無いのが面白かった。けれども航空便の場合は荷物が空港に留め置きになってしまい、僕の場合は誰かが千歳空港まで荷物を取りに行かなければならない。それはとても無理な相談なので、3ヶ月くらいかかるが家まで配送してくれる船便を選ぶことにした。大理で買ったパーカーやポタラ宮で買った本などの大物を送ると、バックはずいぶん軽くなった。料金は日本円で4000円ほどだった。 積み荷を詳しく書かなければならなく、ラサで買った象の置物をどう書けば良いか迷っているといきなり係員が「two elephants」とさっさと書いてしまった。いきなり積み荷が「象二匹」なんて、なんだか変な感じがするが、まあ届けば文句は無い。 フジ・ゲストハウスには難なく潜入成功。さっそく「胡椒マニア」に挨拶して、今日は郊外にある「ボダナート」というこれまたやっぱり有名なチベット寺院を目指した。ここは寺と言うよりも巨大な仏塔といった方が正しいだろう。鏡もちをいくつも重ねたような建物のてっぺんに顔が付いていて、その周りにもう沢山のマニ車がついている。ただそれだけのもので、中に入れるわけでもなくちょっと期待外れだった。実はこの周りに「ゴンパ」と言われるいわゆるチベット寺院が散在していて、そういう寺が集まっていることでこの辺は有名なのだが、どの寺も門がかたく閉まっていて、とてもここで観光させてもらえるような雰囲気ではなかったので、僕はしょうがなくそそくさと引き上げざるを得なかった。 ちなみに「胡椒マニア」はこのボダナート周辺にある「ドジョム・ゴンパ」に入門して本格的にお坊さんになるのだそうだ。今回はまだ様子見に来ただけだと言っていたが、結構真剣に考えているらしくそのために前からチベット語の勉強もし、今回もしっかりと紹介状を携えてきている。旅に出るといろいろな人に出会うが、彼も僕がいままで出会った人から考えると、相当ユニークな部類に入る。だから旅はおもしろい。 ちなみに、ボダナートをさっさと切り上げた僕はその足で旅行会社に向かった。そろそろネパール脱出計画を練る時期だ。ただ、この先どのようにしてインドに抜けるか少し迷っている。そのままバラナシまで下りていっても良いし、ちょっと東に寄り道してダージリンを回っても良いなと思っていた。とにかく今日は情報だけを仕入れて、明日の朝までいろいろと考えることにした。 夜は早速「お祭りお兄さん」の部屋で「野人君」を含めて夜中まで酒盛りをする。まあこのためにこのゲストハウスに移ってきたと言っても過言ではない。結局深夜2時頃まで盛り上がって、いい気分で布団に入った。
2004年09月20日
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最近日本人と行動する機会が増えているし、街自体も外国人仕様になっているので、レストランの中などにいるとここが一体どこなのかわからなくなる時がある。この辺は英語も普通に通じるからなおさらだ。けれども今日、やっぱりここはネパールなんだという事件が二つ起きた。 一つ目はインターネットだ。残念ながらこの国にも我がIBMネットのアクセスポイントは無い。だからどこが外国に電話してアップデイトなりメールを読むなりしなければならない。前回の更新が8月25日でまた一ヶ月近く経ってしまったので、できればここから更新したいと思っていた。幸いパキスタンにアクセスポイントがあり、そこまでの電話料金は比較的安いので手近な電話屋さんに入って、電話をかけさせてもらった。 ところがである。電話が全然繋がらない。これはネパール~パキスタンという電話回線がいかにも粗悪そうな2国なのでそうなのだろうとおもって、それですこしお金を奮発して日本や香港にも電話してみる。ところがである。一応応答はあるのだが、「ビーヒャラララララララ」という音は聞こえるのだが、それも途切れ途切れでその先に進んでくれない。何度もトライしてみたが全然だめだ。というわけで更新はあきらめざるを得なかった。そして何にもしていないのに電話料金3000ルピー(6000円!)が消えていった。 ただし、その店の連中ととても仲良くなり、お茶をご馳走してくれたり、いろいろな話に花が咲いて面白かった。一人が外国のお札を集めていると言うので、中国とモンゴルのお札をあげたら、宝石をくれた。彼は宝石屋なんだそうだ。ちなみに昨日この国の政治のリーダーが亡くなったそうで、それで今日はお店がすべて閉まっている。だからみんな暇で、いろんな所にたむろしているのだ。しばらくするとなにかのパレードが始まった。多分彼の追悼パレードだろう。 今日は「胡椒マニア」とネパールダンスの店に行くことを決めていた。街をフラフラしているとまたいろいろと再会はあるモノで、ポカラで別れた「ライダー夫妻」にあっさり再会。それからひょんなことからラサで別れた「チャリダー候補」にも遭遇する。二組には今日の計画を伝えておいて、夜の再会を誓った。ところが約束の時間に集合場所のフジゲストハウスに行くとネパールダンスの店を紹介してくれるはずのネパール人がいない。しょうがないのでこれらのメンバーに「ミホちゃん」「ナマコちゃん」「お祭り兄ちゃん」とその同室で何故か「野人」と呼ばれてしまっているかわいそうな人9人で食事に繰り出す。 そこで「ああここはネパールだ」と思わせる二つ目の事件が僕を待ち構えていた。カメラを入れるのに使っていたバックを足元に置いておいたのだが、気が付くとそれがすっかり消えていたのである。誰かがそんなことをすればすぐに気が付くような所に置いておいたのに、プロの犯行というのはすごいもので、まったく気が付かなかった。本当に、本当に不幸中の幸いだったのは、カメラを机の上に置いておいたので、それが無事だったことである。まったくこの国は物騒だ。そういう盗まれ方をしたのは、初めてだったのでとても悔しい思いをした。 鞄の中にはたいした物は入っていない。香港で買ってあまり使っていないデジタルカメラ用の望遠レンズと広角レンズそれに日本で2万円以上もしたレイバンのサングラスとちょっとだけ度が入っている眼鏡が痛かったが、それほどの被害でもないだろう。ただ、そのなかにアドレス帳があったのが残念だった。全部コンピュータに入っているので大丈夫なのだが、ただ一つ卿城からの過酷なバスで苦楽を供にした「星座博士」の住所をなくしてしまったのが残念だ。「星座博士」君、もしこのHPを見ていたら僕にもう一度住所を教えてください! しかし本当に悔しい。旅人のその国の印象というのは、こんな些細なことからズタズタに崩れていくものなのである。いままでこの国の印象がとても良かっただけにとても残念な事件だった。けれどもこれも自分のリスク管理の甘さからきていることなので、しょうがないんだろうなあ。
2004年09月19日
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カトマンドゥのタメル地区を歩いていると、もう沢山の人から、それも日本語で声をかけられる。たいてい「トモダチ」から始まって「ミルダケネ」と自分の店の商品を売ろうとする。買う気が無いと分かると今度は「リョウガエ」と闇両替を勧めてくる。パターンだ。そして薄暗くなった頃から今度は街をフラフラと歩いている男達から「ガンジャ」と小声で声がかかりはじめるのだ。そう「ガンジャ」とは「大麻」のことらしい。 けれども、何故か僕には声がかからなかった。「ライダー夫」は茶パツに長髪といういかにもな感じだったので、100メーター歩けば5人くらいから声をかけられる程だったのに、僕にはやる気のない親父が一人「惰性で声をかけてみました」という程度の声のかけ方で「ガンジャ」と話し掛けてきただけだった。実は僕は今までの旅の過程で、「ガンジャ」が溢れている場所を何度も通り抜けてきたらしい。中国の大理などはその典型で、溜まり場的な宿には「ダイリーズ」なる長期滞留組みがいて、そこでは毎日のように「ガンジャ・パーティー」が開かれているらしい。そんな大理の街でも、僕はついに声をかけられることはなかった。いったいどうしてなのだろう? 僕も「大麻」は「たばこ」なんかよりよっぽど健康には良い事くらい知っている。それに「大麻」は「麻薬」ではなくてあくまでも「大麻」なのだ。「麻薬」とは「LSD」や「ハシッシ」などを指すものである。だからという訳ではないが、なんとなく一度くらいは経験しておくのも悪くはないななんて漠然と考えていた。けれども、全く声もかからず、周りに「ガンジャ」狂いの友人もいず、だからそんな機会も逸していた。 今日はまた自転車でいろいろと街を回ってみる。今日はホテルから見える街の西外れにある寺を訪れることにした。本来の名前は忘れてしまったが、別名「モンキーテンプル」と言われていて、猿が沢山居ることからこんな仇名がついたらしい。高台にあるので、途中で自転車を押して、ようやく入り口に到着する。自転車を手近なところに止めようとすると、いきなり「50ルピー」と言われる。そんな金は払う気はない。その場を離れて他のちょっと離れた場所に止めることにする。金額は20ルピーまで下がったが、僕には関係の無いことだった。 ネパールでなくても観光地ではどこでもそうなのだが、こういう所には僕らを札束としか思っていない輩が、いつも徘徊している。今の自転車男もそうだが、本当に親切そうに付いてきて、いろいろと寺のことを説明をして最後にガイド料を請求するという姑息な手段にでる奴等も沢山居る。こっちとしては、「親切なネパール人」に会えてラッキーだとかなんとか思っている時に、いきなりそんなことをされるものだから、思わず人間不信に陥ってしまう。僕はそんな話を良く聞いていたので、人が付きまとってきても「もし君がガイドだとしたら、一緒に来ないでくれ。そうじゃなければ構わないけど」と最初に言ってしまう。そうすると後味の悪い思いをしなくても済む。 今日もそんな男達を振り切って、寺へと続く膨大な階段を上る。すると一人の怪しい男が僕に付きまとってきた。なんだろうといぶかしげに思っていると、彼はどうやら「売人」なのだ。「へー僕もついに真剣に声をかけられたか」と妙なところで喜んで、彼と他愛もない話をした。話をしているとどうも彼の様子が普通でないことが分かる。おんなじことを何度も聞いてみたり、声の調子もおかしい。これは信用できない。だから彼の申し出はさっさと断る。彼も途中まではしつこく付いてきたが、やがて僕といても商売にならないことを察したらしく、彼はあきらめて帰っていった。 寺の頂上からの眺めはすばらしかった。カトマンドゥの茶色い街全体が見渡せる。あまり高い建物の無い街なので、なんだかのっぺりとしている。猿は1匹しかいなかったが、代わりに犬が沢山いた。これなら「ドック・テンプル」と改名した方がよさそうだ。小坊主がいたので、デジタルカメラを見せてあげると喜んで早速自分も取ってくれとせがまれた。盗み撮りのように人物を取りたくない僕としては、このデジタルカメラパワーに助けられることが多い。チベットの山奥でも、他の観光客が写真を撮ろうとするとお金を取っていた子供たちも、僕のカメラを見た瞬間、向こうから写真を撮ってくれと僕を付け回す始末だった。ここでもすぐに絵を見れるのを気に入ってくれて、彼らの写真を数枚とった。 帰り道に、一度ちょっとだけ話したことのある日本人に会った。寺の入り口の近くだったので、「これから寺ですか?」と聞くと彼からは意外な答えが帰ってきた。「いやあ今ガンジャを探しているんですよ。」彼のその言葉と表情を見て、僕はちょっとだけ背筋が凍った。彼の様子を見ていて、ひょっとしてこの世界というは「興味本位」だけで入っていってはいけない世界なのではないかと思った。1回だけというところから始まって、止められなくなり、そして旅の目的は「ガンジャ」探しに終始してしまう。それは、大袈裟なことではなく、実際そうなってしまう旅人が多いのではないだろうか。僕にはまだ1回だけで絶対に止められるという自信は無い。だったら、今、興味本位だけでそれを始めてしまって、取り返しの着かないことになりかねない。そう思った。 そんなことをいいつつ、隣で誰かが「ガンジャ」を吸っていたら、「じゃあ一口だけ」と試してみることがあるかもしれない。けれども自分から売人に近づき、進んで試すのだけは止めようと思った。 夜は「胡椒マニア」「植田さん」「リカちゃん」「ミホちゃん」それに「お祭り兄ちゃん」の例のメンバーで飯を食う。「植田さん」と「リカちゃん」は明日インドに向けて旅立つので、これでもう本当にお別れだ。だから最後に飯を食うことにしたのだ。だからといって、しんみりするわけも無く、とにかくみんなで旅の無事を祈って、盛り上がった。
2004年09月18日
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飛行機はやっぱりすごいなあと思った。あんなに苦労して走破したカトマンドゥ~ポカラ間を本当に30分で飛んでしまうのだ。40人乗りの小さなプロペラ機だったので、それほどスピードが出ているとも思えなかったがそれでも、道の整備があまり進んでいないネパールでは空を一直線に飛ぶだけで15~17倍のスピードで着いてしまう。本当に今までの苦労はいったいなんだったのだろうと嘆きたくもなる。 それにしてもヒマラヤは圧巻だった。残念ながらそこら中に雲が浮いていて、その雲の合間からちらちらと山をみるという状況だったのだが、それでも山は奇麗な表情を僕に見せてくれた。もうそれだけで満足である。ただ飛行機の窓の位置が悪くて、ずっと振り返っている形になり、首が痛くなった。 たった30分のフライトを終えて、カトマンドゥに付くと、空気がとてもひんやりとしていた。陸路の移動ではあまり感じられないが、飛行機で移動すると突然の気候の差に体が驚く。空港からはホテルの迎えが来ており、彼に着いて市内まで運んでもらった。ただし、今日はストでタクシーが無いので、重いバックパックを背負ってバイクの荷台にまたがるはめになった。 ちなみに、実はポカラでのホテルが大変気に入った僕は、その事を宿の兄ちゃんに告げ、彼の推薦でカトマンドゥでも同系列のホテルに泊ることになったのだ。そうすると彼は「じゃあカトマンドゥに電話しとくよ」と言って迎えの車をよこしてくれたというわけだ。今度のホテルは「HOTELRAMADA」というところで、タメルの中心からは少し離れているが、落ち着いた良い宿だった。なにより人がとても親切だ。ここも交渉してなんとか400ルピーにしてもらう。本当は25ドルの部屋何だそうだけど、ここはあまり値段があって無いようなもので、これで良いのだ。 すこし落ち着くと、早速インド大使館に向かう。 インドビザの取り方その2(受付時間は午前中のみ)1 掲示板に自分の名前が張り出されているかを確認する2 カウンターBに行き、自分の名前が張り出されている旨を告げ、更に前回もらったテレックスの領収証を見せる3 親父はやっと申請用紙とテレックスの領収証に何か記入して渡してくれる4 申請用紙に記入し(黒ペン・大文字)写真とパスポートと、テレックスの領収証をカウンターAに出す5 料金2300ルピーを渡し、領収証を受け取る これが第二回のプロセスだ。第三回目のプロセスは簡単で、その日の4時30分から5時15分の間にもう一度カウンターBに行くと領収証と引き換えに簡単にビザのスタンプの押されたパスポートが返却される。以上で晴れてインド入国がかなうわけだ。ちなみに今日注意書きを良く見ていたら、アメリカ人のみこの料金の他に追加料金1200ルピーが必要なんだそうだ。 最初の再会があった。といってもたいしたもんでもない。というと失礼になるが、「リカちゃん」と「植田さん」がまだ以前とまっていたホテルにいて、そこを訪ねていっただけである。夜、こちらの名物の「ジャコック」という鍋を食べようと盛り上がって、それであっさり別れた。そして僕は日本食のお店「古都」に向かった。ここは「味シル」よりは幾分高めだが、味の方もそれに比例しておいしい。注文したすきやき定食はまるで日本で食べているようにおいしかった。 飯を食いおわり、お茶でも飲んでいると唐突に二つ目の再会があった。「あれ、もしかして、のりさんじゃあないですか」と声をかけれられ、顔を上げるとそこには「お祭りお兄さん」がいた。ラサでいつも酒を飲んでご機嫌だったあのお兄ちゃんだ。本当に気の良い、一緒にいて楽しいお兄さんで(といっても僕と一つしか年は違わない)「ライダー夫妻」や「リカちゃん」などといつも「いまごろどうしているかねえ」などとうわさしていたものだ。そんな「お祭りお兄さん」がもう一人の日本人とそこにいたのだ。彼は僕らと同じ日にランクルをチャーターしてチベットのカイラス山を目指していた筈だ。話を聞くと無事そこまで到着して昨日カトマンドゥ入りしたとのこと。 彼らと一緒にビールでも一杯飲んで、それから日本大使館を目指す。「お祭りお兄さん」のところに大使館気付でなにか送ってきているかもしれないとのことだったが残念ながら何も来ていなかった。けれども初めて日本大使館なるものに足を踏み入れたが、とても立派で奇麗だった。大使館は国の顔でもあるので、これくらい立派でいいなと思った。ところで、「お祭りお兄さん」の話によると、僕がラサで同室で、いつもよる遅くまで盛り上がっていた「胡椒マニア」もカトマンドゥに来ているらしいことがわかった。さっそくホテルに会いに行き、夕飯を一緒に食べることになった。ちなみに「お祭りお兄さん」とその友人も今日の鍋仲間に既に加わっていた。 楽しくてにぎやかな夕食になった。鍋は量がいまいち物足りなかったが、それでも味はなかなか行ける。なによりも会話が一番のビールのつまみになる。盛り上がった僕らは二次会への繰り出す。いつか行ったカクテルバーへともう一度足を運んだ。その道すがらまた「のりさーん」と声をかけられる。「ミホちゃん」だった。「ガチャ」や「ポリス」と仲良くしていて、僕も何度も一緒に食事をしている仲である。その「ミホちゃん」にじゃあ飲みに行こうよと誘うと、実はもう一人友達がいるんで誘ってみますという。そうするとそれは「なまこちゃん」ではないか。というのは一回目にインド大使館に行った時に少し話をして、ポカラでもばったり道で会っていたのだ。 再会がいっぱいだ。世間って狭いんだなあと思った。こうして僕らは大所帯になりながらも夜中まで気持ち良く酔っ払ったのである。
2004年09月17日
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もう、十分休んだのだと思う。だんだんと体が元気になってきているのが分かる。今日はもう朝、6時過ぎにはさっさと目が覚めていて、なんだか体全体に「やる気パワー」が溢れている。いっちょ、チャリンコでも借りて、どこかに出かけてみようか。 チャリンコはあっさりと見つかった。一日50ルピー(100円)で、18段変速のマウンテンバイクだ。10歳くらいの少年が店番をしていて、彼はちょこまかと良く動く。けれども、名前も聞かれなければ、パスポートを預けれるわけでもなくデポジットを取られるわけでもない。そのまま持って行こうと思えばもって行けてしまう状況だ。こんなんで、盗まれないんだろうか? チャリを転がして、適当に街の中を散策する。外国人向けに明らかに用意されたレイクサイドやダムサイドを抜けてしばらく行くと、空港があり、その反対側に地元の人のためのマーケットが用意されていた。こころなしか、こちらの方がよっぽど活気があるように見えた。まあ、外国人用の街は現在シーズンオフ中でだから人がいないのも無理は無いのだが。帰りがけに生ジュースのスタンドがあったので試しに頼んでみると、目の前でオレンジの皮をむき、ジューサーでフレッシュジュースを作ってくれた。あまくておいしかったが、あまりオレンジ特有の酸味が感じられなかった。 そんな外国人用の街に帰ってきて、僕は湖を見ながら優雅な昼食を決め込む。その後、朝から張切りすぎて、更にとても高い気温に少しのぼせたこともありホテルでくつろぐ。今回のホテルの選択ははっきりいって大当たりだ。みんなに「お化け屋敷」だとかなんだとか言われても構わない。とにかくのんびりとくつろげるのが良い。周りもうるさくなく、かといって少し歩けばすぐに繁華街なので不便でもない。ルームサービスでコーヒー(40円)をとって、プライベートテラスでのんびりと山を眺めながら本を読むなんて、とんでもなく贅沢な気がする。けれどもこれで一泊US6ドル強なのだ。 実は、少し迷っていることがあった。もう明日にはこの地を離れ、カトマンドゥに戻ろうと思っている。その戻り方で迷っている。今までの経緯から行けば、ここはバスで戻るべきである。けれども、どうしても山がみたい。というのはここからカトマンドゥまでは飛行機が何本か飛んでいて、その飛行機からはヒマラヤが見事に見えるらしいのだ。料金US61ドル。その外に山を見るだけの為のフライトというのもあって、それはUS99ドル。山を見るためだけの目的だったら、このポカラ~カトマンドゥのフライトを利用した方が断然お得だ。それに既にカトマンドゥ~ポカラはバスに乗っていて、景色や風土はもう頭に入っている。陸路移動という今回の旅の大きなテーマを無視してでも、これは飛行機に乗る価値があるのだはないかと考えはじめたのだ。それにちょっとずるい言い方をすれば、地図の上ではすべて陸路で繋がる。 旅行会社に行って情報を集めると、このチケットはドルでしか買えないらしい。ルピーで買えるように交渉したら、不利なレートで良ければ構わないと言う答え。レートを聞くと1ドル61ルピーだそうである。ちょっとまて、僕は1ドル62で取り替えている。つまりなんと彼らが不利だと思っているレートは、僕にとってはまだ良いレートなのだ。後から計算すると結局1ドル得した計算になった。そんなんこんなんで、僕は明日、飛行機でカトマンドゥに戻ることにした。と言っても30分のフライトだ。明日はゆっくりと山を堪能することにしよう。 またチャリでふらふらとしていると、「ライダー夫妻」にあった。彼らもチャリを借りて一日アクティブに行動していたらしい。「妻」が僕に是非とも「デビット・フォール」と言う滝に行ってみるべきだと言う。「一見の価値がありますよ」と行き方を簡単に教えてもらった。本当は昨日のネパール人との約束の時間が迫っていたのだが、そのネパール人に事情を説明して約束の時間を少し遅らせてもらう。道すがらいろいろな親切なネパール人に道を聞きながら15分ほどで到着したその「デビット・フォール」はまさに一見の価値ありであった。 その滝は、遠くから見ると、「えっ、どこが滝なの?」というようなただの急流だった。けれども近くに行ってびっくり。地下深く抉り取られた穴に水が流れ込んでいる。その高さざっと30メートル程度だろうか。特に柵がしているわけでもないので、近くまで近寄れるのだが、足が竦む。なるほどこれは一見の価値がある。 約束のネパール人の所に行く。結局彼は文字がかけないのらしい。英語を話すことは出来るが、英語を読めるわけでも、書けるわけでもないのだ。だから僕に日本の友人に出す手紙を代筆してもらいたかったのだ。昨日の話ではちょっと良く把握していなかったが、そんなことならオチャノコサイサイだ。彼が言いたいことを適当にアレンジして文字にしていく。30分ほどで書きおわり、その場を後にする。彼は食事でもご馳走したいと言ってくれたが、今日は「ライダー夫妻」との約束があったので丁重にお断りした。そうすると彼が売っている売り物を僕にくれようとしたが、僕は特に報酬を期待して手紙を書いた訳でもないので、これも丁重にお断りした。 ライダー夫妻のホテルに行って、軽くビールでも飲む。僕は明日カトマンドゥに帰ってしまうので、ひょっとしたらこれでお別れかもしれない。旅人との出会いというのはこんなものだ。お互い移動を繰り返しているので、紙一重で再会できたり、そうでなかったりする。そんなことを話していると、突然電気が消えた。珍しく停電だ。けれどもあたりは意外と明るい。空を見ると真ん丸い月があたりを照らしていた。そういえば今日は満月だ。
2004年09月16日
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きっとこんなことを書くと、日本でまじめに仕事をなさっている皆様からは大いに反感を買ってしまうのだろう。けれども、旅人の間で良く言われている言葉に「一日一事」というのがある。これは、一日に一つ仕事をしたらそれで今日はもう他に何もしなくて良いという意味だ。そしてその仕事というのが、「手紙を書いて郵便局に出しに行く」だの「次の目的地への切符の手配をする」だの、日本にいればおよそ仕事のうちにも入れてもらえないようなものばかりである。長期旅行者というものは、だんだんとぐうたらになっていくものらしい。 その基準から行くと、今日は実にいろいろと活動した。まず手紙を書いた。しばらく筆無精になっていて、ネパールに入ってもう1週間が過ぎるのに、この国で最初の手紙だ。さすがに連絡を怠るといけないと思い、あわてて書いた。 それから、Tシャツを買った。ネパールのTシャツは、プリントものでは無くて、きちんと刺繍で模様が入っている。それが気に入っていたのと、日本から持ってきたTシャツがそろそろ本格的にくたびれてきたので、買い換えようとずっと思っていた。いい機会なので3枚も買ってしまった。やはり刺繍の複雑さによって値段が違うらしく、僕が欲しいものは結構複雑系なものばかりだったので少々高く付いたが、それでも3枚で500ルピー強(1000円程度)だった。一枚は柄は気に入っていたのだがTシャツの色が気に入らなくて迷っていると、僕のためにこれから縫うから、2時間くれと言われて、2時間後にはきれいに注文通りの品が出来上がっていた。 更に日本から持ってきて、不必要で困っていたトレッキングチェアーを売ることに成功した。といっても、たったの225ルピー(450円)にしかならなかった。まあそもそも捨てようと思っていたものだから、良しとしよう。今回日本から持ってきて唯一失敗だったのがこのトレッキングチェアーだった。この国のトレッキング用品店にいっても、みんなに「こんなの誰も買わねーよー」といわれてしまった。僕も確かにそう思う。 そのお金で傘を買った。日本から持ってきた軽くて小さくて丈夫な傘を、ラサからここにくる間に紛失してしまったのだ。そして、この国では何故か傘を見つけることを出来ないでいた。だから、紫の花柄というとんでもない代物ではあったが、三つ折り式の折り畳み傘だったので、思わず買ってしまった。重さもそれほど重たくはなかった。 それから本も売った。例の赤川本を結構な高値で売ってしまった。ちょっとうれしかった。その後道をてくてくと散歩していると不思議なネパール人に遭遇した。少しお話しましょうと店の中に案内される。商売の話ではない。彼は日本に結婚を前提に付き合っている彼女がいて、その彼女が大学を卒業したら日本に行くことになっているのだそうだ。しばらく前に日本を15日間だけ訪れて、家族などにも会って東京でネパールのアクセサリーの店を開くこともほぼ決まっているのだとも言った。けれども彼自身国を離れて日本に行くことに少なからず不安を持っていて、だからその話し相手になって欲しいと言う下りだった。10分ほど話をして彼とはまた明日話をしようということで別れた。その話が本当だとしたら、彼は単に日本人にそのことを話して、日本のことをいろいろと聞き、彼自身を安心させたいのだと思う。なんだか良く分からないがとりあえず明日また話をしてみようと思う。得に悪い奴ではなさそうだ。 「味シル」で日本酒などを飲んでいると、ライダー夫妻がやってきた。ステーキを食べようと思って僕を誘いに来てくれたのだそうだ。けれども昨日僕がステーキを食べて失敗だった話をすると、あっさりと「味シル」に切り替えて、また話に花が咲いた。そのあと場所を変えてケーキを食べになんて行ってしまった。そこのチョコレートケーキは絶品だった。 今日は沢山仕事をして、ちょっとくたびれてしまった。
2004年09月15日
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朝、6時半に目が覚めた。何気なくカーテンをめくって窓の外に目をやる。そうするとそこには突然のように山があった。手前の緑色の低い丘の向こうにヒマラヤがあった。アンナプルナとマチャプルナだ。青白く硬質的な山は、チベットから見た山とは明らかに表情が違ってみえた。眠い目を擦りながらもしばらくその二つの山を凝視する。今は雨季の終わりなので、山を見るのは半ばあきらめていたのだが、この突然の出来事に僕はちょっと驚いてしまった。案の定次に目が覚めた8時過ぎにはもうヒマラヤは厚い雲の向こうにあって、今日一日はその姿を現すことはなかった。 赤川次郎の本というのは、漫画的にぽんぽん読めてしまうものである。ポカラに入ってグウタラを決め込んでいる僕は、近くに古本屋があるのをいいことに、もうとんでもないくらい沢山の赤川本を買い込んできて、一気に読み漁ってしまった。今日一日で読んだのは ・ 三毛猫ホームズの追跡 ・ 卒業(セーラー服と機関銃その後) ・ 遅れてきた女神 ・ 静かなる良人 ・ 名探偵はひとりぼっち ・ 暇つぶしの殺人の6冊だ。良くこんなに読んだものだと自分でも感心する。でも読んだのだから仕方ない。もうしばらく赤川次郎はいいやという感じだ。このなかでは静かなる良人が面白かったが、その外はそれほど印象にのこらなかった。まあ、暇つぶしだから、こんなもんで良いのだ。ちなみにまだあと「黒い森の記憶」という本が一冊残っている。 夜は「植田さん」とステーキを食いに行った。彼と「リカちゃん」は明日もうカトマンドゥに帰ってしまうそうなので、今日でお別れだ。ただし残念ながらステーキはとてつもなくまずかった。おもわず残してしまった。肉の厚さがあまりにも厚いので、火の通加減がうまく行かないのだ。だから所によってはカリカリだったり、所によってはまだ生のままだったりして、とてもじゃあないが食えない。それにソースもいまいちだった。 ホテルに帰ると、その「リカちゃん」が僕に別れを告げにわざわざやってきてくれていた。少しはなしをして、彼女は帰っていく。だんだんと時期的にみんなが日本に帰っていく。みんなにこのページのことは伝えてあるので、このページを通じてみんなとの交流が続いていけばよいなあと思う。
2004年09月14日
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旅は、4ヶ月目あたりからが危ないのだそうである。どんな好奇心旺盛な旅行者でも、そろそろ旅に疲れてしまうのだそうだ。そして、その後惰性で旅を続けるようになる。旅に疲れると言うのは、妥当な言葉ではないかもしれない。肉体的に蓄積疲労が溜まってくるという意味ももちろんあるのだろうが、それ以上に、危険なことに、感動に対して飽きが来てしまうのだそうだ。それは景色に対してであったり、人との出会いに対してであったり、食べ物に対してであったりするらしい。 そんな話を聞いた時、それは僕には当てはまらないことだと勝手に解釈していた。自分が旅に疲れるなんて考えられなかった。そして、僕の旅もそろそろその4ヶ月めを迎えようとしている。 ネパールに来て、突然出不精になった。カトマンドゥのタメル地区にしても、ポカラのレイクサイドにしても、旅行者のために用意された街だ。その街の中だけをうろつくだけで、すべての用が足りてしまう。ホテルの中で過ごす時間が飛躍的に増えている。特に自分でもあきれるほど眠る。自分としては、この街の中にいてはネパールの表情が偏ってしか見えてこないのは分かっているので、せめて自転車にでも乗って、どこか遠くへ出かけたいと思っている。有名なお寺に行って、壁画でものんびり眺めたいとも思っている。そういう意味では感動に対しての飽きはまだ来ていないのかもしれない。でも、体が言うことを効かないのだ。どうしても気が付くとベットに横になる自分がいる。 かといって、体の調子が悪いわけではない。すこぶる快調だ。ただ、思えばチベットの旅はハードなものだった。だから知らず知らずのうちに肉体に疲労が蓄積していって、ネパールの用意された文明世界の中で少し気が緩んだのかもしれない。だから、体がここぞとばかりに「休もうぜ」と呼びかけてくれているのかもしれない。そう思うことにした。だから、この国では必要以上に行動することを止めることにした。そんな休息地点がどこかにあっても良いだろう。そういう考え方をすると、ネパールはそんな休息地点にぴったりだ。しかも、この後はインドが控えている。 インドについて、実は少し僕はビビっている。今回の旅の中で、アジアの他の国についてそんな感情は全く抱いていない。けれどもインドについては少し恐い。特に、最近多くの日本人旅行者が何らかのトラブルに巻き込まれて、行方不明になっていたり殺されたりしている事件を知っているので、すこし慎重にならざるを得ない。そして、その日本人旅行者というのは、多くの場合僕と同じバックパッカーだ。 同時に今回の旅の中で、インドは楽しみにしていた国の一つでもある。いままでの自分の常識がどこまで通用するのか、この目で見てみたい。良くインドについては、もうとんでもなく好きになるか、二度と行きたくないと言うかの二つに分かれると言われている。自分が一体どっちになるのか、とても楽しみだ。どちらにしてもインドの旅はタフになりそうである。 そんなタフな旅を目の前にしているのだから、やっぱりネパールは休息地点で良い。周りの言葉に惑わされず、のんびりと自分のペースでやれば良いのだ。 言い訳が長くなったが、そんなこんなで僕は今日もホテルでうだうだしていた。特にこの「お化け屋敷」はとても居心地が良いので、なおさらホテルを出る気が起こらない。午後、突然「ライダー夫妻」がホテルを訪ねてきてくれた。ポカラの「味シル」に僕が伝言しておいたのを見て来てくれたらしい。「妻」の体調はすっかり回復していて、昨日ポカラ入りしたのだそうだ。今はダムサイドのホテルに居るが、明日からこちら側に移るべくホテルを探し回っているのだと行った。僕の部屋の自慢のテラスでのんびりといろいろな話をする。 夜は「植田さん」が訪ねてきた。今日は彼と「リカちゃん」それに「ライダー夫妻」とイタリアンでも食おうということになっていて、待ち合わせ場所にこの「お化け屋敷」が選ばれてしまったのだ。僕はテレビのニュースでダイアナ妃特集を見ているところで、しばらく二人でテレビを見入ってしまった。ちなみにネパールではインドのテレビ放送が見れるらしい。 イタリアンはまずまずの出来だった。スパゲッティーの茹ではあまかったが、味はまあ良かった。うまかったのはピザで、生地がかりかりしているのが良かった。その外肉と魚をみんなでシェアしたが、魚は生臭くて良くない。デザートに食べたチョコレートケーキは生地がフワフワしすぎていてこれまた失格。けれども大勢でわいわい言いながら食べる夕食は、基本的に楽しい。だから料理どうこうよりもそちらの方で十分盛り上がった。 明日も一日グウタラしていようと思っている。だから、古本屋で軽く読める赤川次郎本を大量に買ってきて、明日に備えた。
2004年09月13日
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太陽が沈むと床に入り、日の出と共に目が覚める。ジャングルではそんな生活を繰り返していた。モンゴルでの生活を思い出す。今日、目が覚めるといきなり雨だった。予定では朝バードウオッチングをしてからポカラに向け出発する予定なのだがこれではのんびり鳥なんか見ている場合だはない。それでも小雨になったすき出かけていったのだが、案の定すぐに大雨が降ってきて、それで僕らは国立公園の入り口にあるちいさな美術館で雨宿りをするしかなかった。 ちなみに、今回僕らは国立公園の中には入っていない。国立公園の中に入ると、料金が倍以上に跳ね上がってしまうのだ。だから国立公園の外側に泊って、その辺をうろちょろしていたわけである。けれども公園の中に入らなくたってジャングルは十分堪能できる。これでいいのだ。 鳥は写真で見るだけであきらめて、僕らはホテルに帰ってきた。朝食をとって出発の準備をする。けれども雨は相変わらずのどしゃ降りで、僕らをバス停まで送ってくれる車はオープンカーときたものだ。バス停に付くまでに僕らはもうびしょびしょに濡れてしまったのは言うまでもない。ところで、今回の Skyline Jangle Campは滞在先として大当たりだった。このあたりには似たようなホテルが50以上もひしめき合っているのだが、はっきりいってこのホテルはそのなかでもかなりいい線行っている。とにかく人が良い。みんな親切で、僕らをもてなそうという心意気に溢れている。お金については二の次だ。そんな彼らと接しているとこちらも気持ちが良い。みんなで見送りに来てくれて、僕らは手を振って別れた。 ポカラまではだいたい5時間の道のりだった。こちらのバスは峠道を登る場合でもそれほど極端にスピードが落ちないものだから、ちょっと調子が狂う。カーブもけっこう乱暴に曲がり、睡眠を取ろうにも眠れない。仕方ないので窓の外の景色を見るが、緑の濃い熱帯植物が生い茂る車窓はそれほど代わり映えも無くすぐにあきてしまう。何故だか解らないが、最近バスの旅が苦痛だ。しばらくランドクルーザーで楽をしていたからだろうか? ポカラについた。といっても、バスはかなりの町外れに到着した。スカイラインの面々が僕らに一つの忠告をしてくれていた。「バスを降りると沢山の客引きが居るだろうけれど、決して彼らの誘いに乗ってはいけない。すぐにタクシーを捕まえてとにかくレイクサイドに行きなさいそうすればゲストハウスなんていくらでも見つかるよ」なるほど、バスを降りるとすぐに僕らは囲まれた。その中で「タクシーだけ」と騒いでいるおっちゃん一人と交渉して、僕は一人レイクサイドへ向かう。ここで「植田さん」や「リカちゃん」とはお別れだ。 タクシーは走り出す。と思ったらすぐに停車した。そして客引きの男が僕の方を振り向いてこういった。「実は私はXXホテルの客引きです。見るだけで良いので私のホテルを見てください」僕はちょっとムッとした。「それは約束がちがうんでないの」というと「そうでなければ15ルピー(30円)でレイクサイドにいくなんて無理です」とまで言う。まだカチンと来ていたが、ここはぐっとこらえて「じゃあ見るだけ見ましょうでも泊るかどうかは保証できないよ」と言った。 はたして、彼が連れていったホテルは僕の嗜好には全然合わないものだった。今日はちょっと奮発してもよいから(といっても7~8ドルまで)奇麗でバスタブ付きのホテルに泊ろうと思っていた。けれどもそのホテルはとても古く、ぼろぼろで、シャワーもとても汚かった。その事を伝えると、彼は突然怒り出し「おまえがここのホテルに泊らないと、俺にとってBig troubuleだ」とわめき散らす。「僕にとってはここに泊る方がBig troubule」だよと言い返して彼を置いて僕はさっさと歩き出した。ちょっとムカついた。 ところが、もっと腹のたつことに、なんとここはレイクサイドではなかった。ポカラの街は二つに分かれていて、一つは僕が目指していたレイクサイド。ここは繁華街もありゲストハウスが密集していて欧米人が多いところである。もう一つは僕が騙されて連れて行かれた今いる「ダムサイド」で、規模的にはレイクサイドよりもずいぶん小さいが、それでもゲストハウスはいくつかあり、なぜか日本人の溜まり場的存在だ。このレイクサイドとダムサイドの間は歩くと結構な距離があり、とてもバックパックを担いだままでは歩けない。 しょうがないのでその辺のバイクを捕まえて40ルピーでレイクサイドまで行ってもらう。全く踏んだり蹴ったりだ。ちょうど僕がレイクサイドに着いた時に「リカちゃん」や「植田さん」とも再会して、僕がホテル探しを終えたら、例の「味シル・ポカラ店」で飯でも食おうということで別れた。 さてホテル探しである。いろいろと回ってみるがなかなかしっくり行くのが無い。日本人とネパール人の共同経営でなかなかお勧めであると言われた「Access」というところも僕にとっては不発であった。料金的には100~250ルピーくらいが相場でそれはそれで良いのだが、みんな帯に短し襷に長しなのだ。来年ネパールは観光年で、ビザがただになるなどいろいろなことをするそうなのだが、そのためにこのあたりはホテルの新築ラッシュなのだそうだ。そんなんで、地図にも載っていないところに新しいホテルが雨後の竹の子のようににょきにょきと建っている。 そんな中の一つにとても気に入ったホテルがあった。「hotel holy heaven」という3階建ての新しい瀟洒な建物で、部屋を見せてもらうととても奇麗で広い。いくつか見せてもらった中で、とても気に入った部屋があって、そこに落ち着くことにしてしまった。窓からは天気が良ければヒマラヤが見渡せる「mountain view」の部屋で、なんとバスタブ付き。部屋は12畳くらいの広さで、その外に3畳くらいのプライベートテラスがある。更にバスルームも3畳程の広さだ。このホテルで唯一テレビ付きの最上級の部屋らしい。なんと電話までついていた。これで一泊税込みで400ルピーというのは断然安いと思う。ポカラではしばらくホテルでグウタラしようと思っているので、これくらいの環境が必要なのだ。 夜、「植田さん」が僕のホテルに訪ねてきてくれた。「味シル」で再会した時に僕のホテルの場所などを伝えておいたのだ。彼は僕の自慢のホテルに対して、一言こういった。「ディズニーランドのホーンテット・マンションみたい。お化けでも住んでそうだよね」それ以来、僕のホテルはみんなから「お化け屋敷」と呼ばれるようになってしまった。
2004年09月12日
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