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昨日の夜中の嵐が嘘なようなほどの快晴だった。午前中は夕べの疲れを引きずってしまい、活動を控えていたが、午後、ふと思い立って自転車を借りてみることにした。ラサは平坦な街なので、自転車には最適だ。ホテルで借りて、適当に自転車をころがる。最初はポタラの広場に行ってみた。そこで、どこか自転車にちょうど良い目的地はないか地図を広げて考える。そして一つの場所が目に留まった。そうだ、「セラ寺」にいこう。 ラサにはジョカンを中心として、その他に有名なゲルグ派のお寺が3つほどある。一つは明日のタンカ祭で訪れる予定になっている「デプン寺」そして少し郊外にある「ガンデン寺」そしてこれから訪れる「セラ寺」だ。セラ寺は市の北部にあり自転車で30分程の距離だった。程よい距離だ。広い滑らかな舗装道路が狭くガタガタの舗装道路に代わり、それから最後には砂利道になる。そしてセラ寺はひっそりとたたずんでいた。 あちこち回っているうちに、もう夕方になっており、拝観時間の終了ぎりぎりだった。ここには沢山の建物が並んでいるのだが、いくつも周るわけにもいかず、多分本堂らしいところの中に入ってもすぐ追い出される勢いだった。残念ながらゆっくり見ている時間はない。いくつか並んでいる小部屋を僕が出るたびに、担当の僧が部屋の鍵を閉めていく。そうして追い立てられるように出ようとすると、子供の僧が自分の写真を撮れと言ってくる。これがいわゆる観光地なら写真をとった後に金をせびられるところだが、まさか寺ではそんな事はないだろうと、素直にシャッターを押す。予想通り特に金を請求されることはなかったが、できれば出来上がった写真を送って欲しいとねだられた。 他の建物に入っていくと、屋上に上ってみなさいと言われる。観光客は僕の他には誰もいない。いくつかの階段を上り、最後には木で出来た壊れそうなはしごを登っていくと、そこにはすばらしい景色が広がっていた。ラサ市内が一望できる。遠くには、ポタラ宮がどっしりと構え、街を見下ろすように建っていた。 しばしその風景に見入ったあと、また自転車を漕いでホテルに戻ってくる。なんか、気持ちの良い一日だった。
2004年08月31日
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夕べの疲れを引きずったまま、早起きしてバスに乗る。夕べは宴会の後も「胡椒マニア」「譲二」「リカちゃん」と2時頃まで盛り上がっていたのだ。酒にあまり強くないのに、強い酒で酔っ払った「リカちゃん」は豹変して、「胡椒マニア」にせまっていた。彼のベットに押しかけ出て行こうとしない。その割に、「胡椒マニア」がちょっとでも彼女に触れるとものすごく起こるというわけのわからなさ。どうしてよいか解らない「胡椒マニア」を横目に僕と「譲二」はさっさと眠ってしまった。結局「胡椒マニア」が「リカちゃん」のベットで寝ると言うことで話は済んだのらしいが、彼によると「リカちゃん」のベットはとんでもなく汚かったらしい。 ところで、今日はラサの街から一時間ほど行ったところにある街の祭りなのだそうだ。そこで、ここのホテルがツアーを企画した。当初20名の募集だったのだが、希望者が多いために急遽バスを増発して結局100名近くが参加する。大型バス一台と中型バス2台という大所帯だ。午前中早くに着くが、何故か祭りが始まるのは午後とのこと。だったら、早起きさせないで、午後着くように来ればいいのにと思ったが、今更どうしようもない。山の上にあるゴンパでも見物することにする。小さい寺だったが中はおどろおどろしい絵や仏像ばかりだった。それからダライ・ラマの写真が結構どうどうと飾られていたのには驚いた。チベット自治区に入ってからははじめてだ。 そういえば、今日も「譲二」はチベット僧の衣装を着ているし、「ポリ」は「ガチャ」から借りたチベット人の恰好をしている。(ちなみに今日は「ガチャ」は参加していない)100人もいる外国人ツアーの中でもこの二人は異様に目立っていたのは言うまでもない。 615だか613だったか忘れたが、人民軍の非常食として有名なカロリーメイトの化け物みたいな物を昼食にして、祭りの開始を待つ。はっきりいってこの615は最高にまずかった。けれども「胡椒マニア」はうまいうまいと言って食う。カロリーメイトにしても僕はフルーツ味以外はみんなまずいと思っているのだが、彼はチョコ味が最高でフルーツ味はまずいと言い切った。味覚は人それぞれである。 ついに祭りが始まる。露天が段々出始めて、飲み物やおもちゃ、それに何故かインスタントラーメンを売っている。周りの人を見ると、ベビースターラーメンのように、生の硬い麺に中に入っているスープの味付けをするための粉を直接振り掛けて食べてみる。さっそく「譲二」が真似して購入していたので、すこし分けてもらった。すごくおいしいとはいえないが、腹が減っていれば何とか食べられるというくらいの味だった。 そうこうしているうちに、いよいよ祭りが始まる。馬に乗って民族衣装に身を固めた村の男衆がさっそうと登場しまず車座になって座る。そこには酒が用意してあって、景気付けなのかお清めなのか解らないが、とにかくみんなで飲み干していた。僕は去年の秋に町内の御神輿を担いだことがあって、その時もお清めといわれて清酒を一気飲みさせられた。どうやら、どこでも祭りには酒が付き物と相場は決まっているらしい。その男達が、今度は馬に乗り、地面に落ちている布を拾ったり、弓を的に向かって放ったりしはじめる。競技なのか、ただの楽しみなのか最後まで良く分からなかったが、それでもよいのだ。何しろ祭りなのだから。その馬の競技は2時間くらいつづいただろうか。たまに見物客の中に馬が飛び込んでくるという、お約束のハプニングもあり、祭りはいつのまにか終わっていた。 その後は、僕らはまたバスに乗りホテルに帰って来た。ホテルのレストランに行くと、満席だったので西洋人の若者達の席に紛れ込ませてもらう。ニューヨークに住んでいてミュージカルのバンドでピアノを弾いている青年と、もうすぐ公認会計士事務所で働くベルギー人だった。彼らはネパールからここに飛んできたそうで、その時の苦労話を聞かせてくれた。やはりラサに入るのはなかなか大変なことなのらしい。彼らに、どうしてチベットに来たのかという質問を投げかけたところ、ヨーロッパでもアメリカでも「Free Tibet(チベット開放)」が叫ばれており、街で垂幕を見る機会やテレビの特集に組まれていることが多いのだそうである。そしてチベットが(彼らに言わせれば)不当に中国に侵略されている現状の中で、実際にその場を見てみたかったのだという。だからほとんど地球の裏側なのにも関わらず、足を伸ばしたのだそうだ。僕が最初に「どうして中国に来たの?」と聞くと、「僕は中国に来たつもりはない、チベットに来たんだ]と切り替えされてしまったのも、そういう経緯からだったに違いない。 夜はまた「胡椒マニア」「譲二」「リカちゃん」とで盛り上がる。今日は夜中に突然カミナリが鳴り響いて、それが恐いとまた「リカちゃん」は「胡椒マニア」のベットに押しかけていた。僕らが知らん振りしていたのは言うまでもない。
2004年08月30日
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朝から「おとぼけ君」と「ライダー夫妻」とともに旅行会社に出向く。「ライダー妻」のほうがなかなか厳しく、とても細かい契約を結ぶことになった。たとえば何かの理由でツアーが延長になった場合はどうするだとか、何かの都合で目的地に着けなかったらどうするかだとかそんな具合だ。僕はとにかく彼女の言いなりに通訳して、それを契約書に書き込んでもらう。やっぱりこれくらいした方があとあと良いのだろう。 その後僕はついにジョカンに向かった。なるほど、僕が前に訪れた時は本当に人がまばらだったが、今日は違う。入り口の所から行列ができていて、その例の有名な仏像に行き着くまでに1時間以上かかってしまった。僕はこの寺独特の匂いに弱く、寺を出てくる頃にはちょっと気分が悪くなってしまった。だから折角時間をかけてみた仏像も今となってはどんなんだったかいまいち思い出せない。これはもったいないことをしたもんだ。 ホテルでしばらく休んで、うだうだとした午後の時間を過ごした。そう言えば僕は部屋を変わった。「無精ひげさん」が出ていったそのベットに居座ることになったのだ。そこでもうだうだしていると、「譲二」「ガチャ」「ポリ公」の9月1日出発組みがとんでもない格好で現れた。「譲二」と「ポリ」は僧の恰好をしている。そして「ガチャ」はチベットの民族服を着ていた。みんなその辺で買ってきたものなのだそうだ。さっき「セラ寺」にこの恰好で行ったら、無料で入れましたよと嬉しそうに語っていた。僕らも早速その衣装を帰せてもらう。そんな恰好でうろうろしていると、結構周りの注目を浴びて面白かった。 みんなで飯を食って、旅行会社から預かっていたパスポートを返しに「ライダー夫妻」の所にいった。そうすると酒盛りの最中で、同室のおもしろい酔っ払い兄ちゃんが鉢巻きを締めて盛り上がっていた。そこには「ポリ」や「リカちゃん」もいたのでさあ大変。久々に「日本的」宴会で盛り上がってしまう。酔っ払いの「お祭り兄ちゃん」は本当にご機嫌で、こちらも良い気分になる。僕は同じ酒で倒れた前科があるので、ちびちびとしかやらなかったが、「譲二」やその外いろんな人も加わって、12時くらいまで盛り上がった。隣の部屋から苦情が来なければ、きっといつまでも盛り上がっていたに違いない。はっきりいって楽しかった。
2004年08月29日
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「リカちゃん」からの伝言にあったとおり、僕は朝から早速バナクショー・ホテルの3-4という部屋を目指した。ノックするとしばらくの沈黙。まだ寝ているのだろうか。そしてしばらくして開いたドアを見てびっくり。なんとそこには麗江であって、一緒に虎跳峡に行った「無精ひげさん」がいるではないか。約1ヶ月ぶりの再会である。彼もラサに行くと行っていたが、飛行機で来ると言っていたので、もうとっくにどこか違うところに言っていると思っていた。しばらく自分の本来の用も忘れて彼との話に盛り上がる。同室のやたら何でも胡椒をかけたがる「胡椒マニア」を含めて3人でいろいろな話をした。 その部屋に居るはずの「リカちゃん」とツアーのメンバーの「譲二」は朝からどこかに出かけていていなかったので、その外のツアー「ガチャ」と「ポリ公」に話をするが、間の悪いことに、実はもうメンバーがすべて決まってしまった後だった。残念ながら僕はそのツアーには参加できないのだそうだ。こいつは困った。 「無精ひげさん」や「胡椒マニア」と話をしていて、これは僕が自分でツアーを企画するしかないという結論にいたった。軽く旅行会社を回って概略を聞いて、それからホテルもこの「バナクショー」に移ってくる。その方が連絡も取り易いだろう。9月1日はお祭りなので、出発は9月2日にセットする。張り紙を日本語と英語で両方書いて、昼飯前に掲示板に張っておいた。そうすると昼飯を食いおわった段階でもうはやメンバーが集まっていた。一言一言の発言がおもしろい「おとぼけ君」といつもは今の季節はテントを持って北海道を走っているという「ライダー夫妻」、それに僕を含めて計4人だ。9月1日出発ツアーの最高年齢が25歳なのに対し、僕らは最低年齢が26歳なので、こっちは「大人ツアーだね」などと冗談を言っていた。明日、みんなで旅行会社に行って詳しい話をつめようと言うことになってその場は別れた。 僕の新しい部屋は、例の「無精ひげさん」や「胡椒マニア」の部屋の向かいで、だから、しょっちゅう彼らを訪ねては盛り上がっていた。「無精ひげさん」は明日敦皇に向けて旅立ってしまう。だから思い出話に花を咲かせながら、夕食は大いに盛り上がった。ちなみに「胡椒マニア」は本当にびっくりするほど食事に胡椒を掛け捲っていた。みんな歳が近いので結構そんなネタでも盛り上がってしまった。
2004年08月28日
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昨日中に入れなかったポタラ宮に、今日は朝から挑戦する。なんでもここは午前中しか開いていないのだそうだ。ちゃっかりまた人民料金で入場に成功。人民20元、外国人40元だ。汗を掻き掻き、膨大な階段を上り、ようやく入り口に到着。 ここは本当にでかい。何がなんだか分からないほど沢山の部屋があって、それぞれに仏像なりスチューバなりが安置されている。中でも立体曼荼羅がとても面白かった。僕は一般のチベット人に混じって、チベット仏教のセオリー通、左周りの法則を守っていたのだが、ガイド付きの外国人ツアーは反対方向から入場して右回りで場内を回っていた。ポタラは混むので、苦肉の策でそうしているのだそうである。けれども本を終わりから読むような感じがして、僕はやっぱり左回りで良かったなと思った。 2時間程かかっただろうか。そろそろ寺独特の匂いに頭が痛くなってきて、そこを脱出してホテルに帰ってきた。しばらく休んで、今度はゲルグ派の総本山(だと思う)ジョカン寺を目指す。ここはホテルからすぐ側で、入場も無料なのでお気楽感覚で訪れることが出来た。周りを一周すると、巨大な「お経読み機(マニ車というらしい)」が沢山並んでいるところがあって、一通り全部まわしてかえってくる。そこには巨大な壁画が飾って合って、なかなか雰囲気があってよかった。また、何故か僕のほかには誰もいなかったので、静寂が心地よかった。 ところが、ホテルに帰ってきてオーストラリア人と話をしていると僕はジョカンの半分も見ていないことがわかった。というのは僕は外周部分しか見ていなく、メインの寺の中を見ていないのである。それはポタラと同じく午前中しかあいていなくて、中でもそこにはチベット最古の仏像があってそれがもう本当に見物なんだそうである。そんなこととは露とも知らず満足していた僕だが、これはもう一度ジョカンに出直す必要があるだろう。 夜は「チャリダー候補」がどこからか見つけてきた日本人の女の子2人と飯を食うことになった。5分ほど歩いたところにあるバナクショーホテルと言うところで待ち合わせをしていたのだが、そのバナクショーホテルは日本人の溜まり場的宿で、入り口にはいろいろな張り紙がしてあった。その中でも9月1日出発でギャンツェやエベレストBCなどを通ってネパール国境を目指すツアーメイトを一人募集しているというビラが僕の目に留まった。実は僕は予定を変更してこのまま先にネパールに抜けようと思っている。というのはビザの関係でそうせざるを得ないのだ。そして9月1日出発というのはなかなか魅力的だ。 飯を食ってホテルに帰ると、「リカちゃん」と言う人からの伝言が置いてあった。それはまさに僕が今見てきた張り紙のツアーの主催者で、どこからか僕が国境に抜けたがっていることを聞きつけて、僕を訪ねてくれたらしい。今日はもう遅いので、明日にでもそのツアーの話を聞きにいこうと思い、今日はさっさと床に入った。もうそのツアーに参加することを半ば決めてしまっていた。
2004年08月27日
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久々にふかふかのベットで目が覚めた。贅沢だと思う。けれども一日の高級ホテル宿泊でラサまでの長いたびの疲れが本当に良く取れた。やはり体が資本。こんな日も必要だ。このホテルには12時まで居ることができる。だから当然そのぎりぎりまでこのホテルに滞在するすることにした。 まず体を洗う。昨日頭を洗った時は2回洗っても泡が立たなかった。それ程汚れていたらしい。今日は何とか一回で泡がたつ。体の方は、ここに書かない方が懸命だろう。とにかく今は心身ともにリフレッシュしている 体の次はバックパックだ。ジープの後ろに入れておいたのが行けなかったのか元の色が何色か解らないほどドロドロである。良くこんな荷物でこの高級ホテルにチェックイン出来たものだと我ながら感心してしまう。折角ザックカバーを持っているのに、それを使うのを忘れていた僕は間抜けだ。そんなドロドロのバックパックを気合を入れて洗うことにする。一時間ほど風呂場に篭り、ごしごしと磨くと完全ではないが、なんとか元の色が分かるくらいまでにはなった。 そんなことをしている間にもう時間は12時近くになっており、チェックアウトの時間だ。早速「ヤクホテル」という一泊20元の宿に移ることにした。部屋は違うが、そこには「人民帽」もいる。汚い暗い部屋にベッドが7台並んでいるドミトリーだ。まあ20元だし文句は言えまい。(というより昨日泊っていた高級ホテル、ホリデイイン・ラサは一泊660元で、施設面を考えると、こっちの方がよっぽど高いと思う) さて、体を洗って、バックパックを洗った後、最後に残るのは服である。電気洗濯機があったので、これは使えるかと聞いたところ、案の定壊れているとの答え。だから洗面器に水を汲んで、えっちらおっちら手洗いすることになる。といっても量が膨大なので、今日は全体の内の3分の1で力尽きてしまった。それだけでも手は真っ赤になった。ここの水はとても冷たい。と同時に、あたりはとても乾燥しているので、洗濯物はすぐに乾くことだろう 一通りの「仕事」を終えるとついに観光である。僕が真っ先に向かったのはラサ観光では絶対にはずせないポイント、ポタラ宮である。ここはチベット仏教の一大中心地で、同時にチベットがまだ独立国だった頃は政治の中心でもあったところだ。ダライ・ラマの居城としても有名なところである。ただし、ダライ・ラマはインドに亡命中でここにはいない。そんな主を失った城を目指した。 丘の上に建つ白と茶色の巨大な建築はこの街でとても目立つ。だから迷うことなくポタラ宮に至るが、残念ながら中の拝観時間は終わっており、外観を見ることしかできなかった。代わりに、ポタラ宮の前の広場で民族衣装を着て、写真屋さんに写真を撮ってもらった。40分ほどで出来上がった大判の写真には間抜けな面が写っていた。ちなみに5元だった。 そういえばウォークマンも買った。どこでかは解らないが、チベット入りの最中にウォークマンを盗まれていた。結構高いものだったので残念だが、それも自分の責任だ。せめて中にテープが入っていなかったのが救いである。路上で買ったウォークマンはけれどもとてもお買い得で、180元の言い値を110元(1500円くらい)で購入することに成功した。ちなみにメーカーはSANYOのパクリでOHAYOと書いてあった。ロゴの感じも全く同じで、思わず笑ってしまった。ついでにBYONDという台湾の人気グループのテープも買った。 夜は久々に「人民帽」ともう一人僕の同室のさわやか青年「チャリダー候補」と一緒にディスコにいった。ちなみに「チャリダー候補」は今回が初めての海外旅行で、来年にはアメリカのシアトルからアラスカまで自転車で走破してみたいと夢を語ってくれた。だから「チャリダー候補」なのである。 向かったのはJJというポタラ宮の前にあるディスコで入場は無料。飲み物はワンドリンク20元だった。10時頃はいったのだが、1時間程度、歌と踊りのショーが延々と続いた。中国ポップスをギラギラのキワドイ衣装に身を固めたお姉ちゃんや、昔の演歌歌手みたいな服を着たお兄ちゃんが熱唱してくださる。途中琴の独演が会った時には絶句した。ここは本当にディスコか? 11時を周るとついにディスコタイム。お立ち台では、さっきのショーで踊っていたお姉ちゃん二人が、おそろいの衣装を着て、僕らに踊りの見本を見せてくれる。まるでチベット版「パフィー」であった。警備員が一般の客がお立ち台に登れないように見張っていた。ここの客は9割り以上が現地人で、外国人は数人しか見られなかった。
2004年08月26日
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自分でもどうして分からない。たとえば、大連でのヤンさん達や桂林での王さん達の時には、無条件に心から彼らを信頼できた。そして彼らもそんな僕の気持ちに答えてくれて、僕はとても楽しい日々を過ごした。けれどもトンファさんに関しては、どうしても心の底から信頼できない。最初、彼が一生懸命いろいろ僕らのために試行錯誤を繰り返してくれていたのは知っている。そして、その事についてはそれなりに感謝している。それにトンファさん無しでここまで来る事は不可能だった。けれども、どうしてもだめなのだ。 実は、彼に疑念を持ちはじめ、それがますます強くなったのは僕が飲み過ぎて倒れて入院した昌都を過ぎてからだった。というのはどう考えても病院の代金が高すぎる。最初はそんなにするものなのかと考えたが、他のチベット人が次々にやってきて点滴をしていくのを見ると、そんな考えも吹き飛んだ。どう考えても僕が払った金額は彼らに払える金額ではない。そう思っていると、トンファさんが「あのチベット人は、点滴が1000元以上する事に文句を言っています」などと、通訳をしてくれる。その通訳もどうもうそ臭い。 もう一つ僕の疑念が確信に近くなったのが、トンファさんの子供の服だ。いきなり僕が病院に金を払った後すぐに子供の服が頭のてっぺんから足の先まで新調されていた。聞けば病院の先生に買ってもらったのだという。トンファさん自体は儲けていないのかも知れないが、これはもうとても分かり易い反応だ。実際には診断書も領収書もきちんと公式の物を発行してくれているので、これは本当に高いものなのかもしれないが、それでも僕の疑念はなかなか消えなかった。 そして、今日彼はまた僕に明らかに嘘をついた。これ見よがしに僕の目の前で今までの経費の計算を初めて、僕に経費が車を借りる代金を除いて7500元かかったと言う。その金額を見て、僕はやっぱりトンファさんはそういう人だったのかと思った。というのは、実は僕はその前に概算で今回の経費がいくらくらいかかったものなのかを簡単に計算していた。前に勤めていた会社では、そういうたぐいの事を何度もやっていたので、僕にとってそんな計算は手慣れたものだった。それによると、どう考えても、経費は3000元を上回っていない。彼が7500元かかったと僕に言う裏にはどんなことがあるのだろう。 新しく移ったホテルで、僕らはトンファさんにお礼を言って、5000元を払った。康定で前払いで払った5000元と合わせて1万元。約束通りの金額だ。そうするとトンファさんがごちゃごちゃ言いはじめた。予想通りだ。彼によると、車を借りるのに13500元かかっているのだという。経費が7500元かかっているので、合わせて2万元かかったのだそうだ。(本当は2万1千元のはず)けれども自分も奥さんを含めてラサまで連れてきてもらっているので、自分たちも1。万元負担した。ところが、運転手が今帰りのガソリン代800元を出せと言ってきている。ついてはその半分を負担してくれないかということだ。 もちろん僕は断る。まず最初の約束でラサまでのランクルのチャーター代、ガソリン代、全行程の食事、宿代を込みで1万元と何度も細かく交渉をしている。(人民帽に言わせれば、僕の交渉の詰めが甘いのらしいが、金額とその内容に関しては僕はこれ以上無いほど細かく彼と話をしたつもりだ。ただし彼の言うとおり、日程についての交渉はすこし甘かったかもしれないと反省している)。それに彼の言う経費が既に僕にとってはとんでもない金額であり、人民帽がことの成り行きを運転手に説明しようとしたところトンファさんが必死に止めていた様子を見ると、車を借りるのに13500元かかったと言うのも嘘臭い。結局僕らは最初の契約を貫いて、1万元以上払う事はなかった。トンファさんは、結局運転手を悪者にする形で話を切り上げた。すこし後味の悪い別れだった。 ちなみに僕は今日高級ホテルに一泊だけする事にした。その目的はホームページの更新だ。いくらなんでも1ヶ月以上間を空けると、ちょっと周りを騒がせてしまう事になり兼ねない。何度も失敗しながらも何とか香港にアクセスする事に成功。65のメッセージが届いていた。このメッセージにはただただ感謝である。このメールが僕をとても元気付ける。案の定一番最後のメッセージのタイトルは「のりさん生きてますか」だった。はい生きています。ちなみにこの65のメッセージのうちもう既に半分以上は僕のホームページを見てから僕の事を知りメールを送ってきてくれている人たちからのものだ。こんなメール達は本当にうれしい。中でもここにいるとなかなか得る事ができないけれども、それなりに興味がある芸能ネタをいろいろ提供してくれる人がいて、にやにやしながら読み進めてしまう。西村知美の婚約ネタなど、どうでもいいような話でも、とても面白い。 あるいは、今アクセスしたら6000番目で、うれしくてメールしました。というようなメールも届いていた。だから僕は東京に台風が3つも来たと言う事や、それは香港でも大変だったということもきちんと知っている。日本で悪質な殺人事件が相次いでいる事も知っている。僕がまだ日本に居た時から僕の旅を見守ってくれている人も何人かいて、そんな人とは会った事も無いのに、もう他人のような気がしない。疲れて日記を書く気が起きない時でも、彼らの顔(知らないけど)を思い浮かべて、やっぱり書かねばとパソコンの電源を入れた事は一度や二度ではない。 内輪ネタでは、いとこに子供が生まれたとか、こんどだれだれが結婚する事になったとか、誰と誰は今喧嘩の最中とか、会社の先輩や仲間達からは、最近の会社の状況などひょっとして僕が日本に居た時よりも情報通になったのではないかと思うほどの情報が寄せられて来た。もちろん、知人からのメールも当然うれしくてしょうがない。 それから、僕が自分のホームページに久々にアクセスをしたら、アクセス番号が6300を越えていた。実は1~100まではほとんど僕がアクセスしていて100~1000までは半分くらいが僕でその外半分が内輪の人達で占められていた。(もちろんこの辺から僕の旅の計画を知って応援をしてくれている人も何人かいる)そしてちょうどアクセスが1000を越えた時に僕は日本を出発した。それから約100日で更に5000のアクセスがあった事になる。一日50のアクセスがある計算だ。ちなみに僕自身はほとんどアクセスしていない。実はこのホームページを始める時に、1年間で5000アクセス、2年間で10000アクセスあれば成功だなと思っていた。けれどももう既に1年間の目標を超えてしまった事になる。日ごろアクセスしてくれている皆様には、もう本当に感謝の言葉でいっぱいだ。だから、チベットからのアクセスという、金銭的にはとても辛いことも(更新とメールを読むのに15000円くらいかかってる)価値があることのように思えた。 9時を周った頃、運転手から電話がなった。すこし話をしたい事があるという。だからホテルのロビーで筆談する事にした。彼は中国語以外言葉をしゃべれない。彼は僕がトンファさんにいくら払ったのかを聞きたがった。というのは、トンファさんは彼に車のレンタル代として2400元しか払ってくれていない。一日200元の契約で、ガソリン代(800元)を含めると3800元もらわないと割に合わないのにトンファさんは払ってくれないのだという。そこで、彼と交渉するために僕らが一体いくらトンファさんに支払ったのかを教えて欲しいというのだ。 僕がいくらトンファさんに不信感を持っているからといって、僕とトンファさんの間の商談について運転手にペラペラしゃべるのはルール違反だと思った。だから、彼の気持ちは分かるが、どうしても金額は教えれないのだと言った。運転手はあの手この手で僕に金額を述べさせようとする。けれども僕は最後まで金額については教えなかった。ただし、彼がトンファさんと交渉するという上で必要な材料は僕が金額を言わなくても出来るのだと言う事を彼に示した。以下3点を箇条書きにして彼の頭の整理を手伝った。 1 運転手は僕らがラサでトンファさんに5000元を支払っているのを見ている。 2 運転手は僕らが康定でトンファさんに前金を払っているのを知っている。ただしその金額については知らない。 3 運転手はトンファさんが、この旅の今までの経費として約5000元を使っているのを知っている(トンファさんが既に運転手に支払った2400元プラスその他経費2600元(彼と一緒にもう一度計算した)) 彼は僕がどうしても金額を言えないことについて納得してくれて、更にこの3点を僕が示した事に感謝して帰っていった。僕はいままでの経緯からトンファさんに不信感を持っているが、ひょっとしたらこの運転手が真実を言っていない可能性だってある。今日は一日頭が混乱してしまった。けれども誰かが、嘘を付いているのは確かだ。いったい嘘を付いているのは誰だ?
2004年08月25日
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長い一日だった。日が暮れてもジープは走った。そして僕らはついにラサの街に着いた。午後10時を回っていた。僕はくたくたに疲れて、そのまま倒れるように硬いベットに横になった。 今日も6時に出発した。僕は今日はここから230キロほど先にあるなナチュという街を目指すのだと思っていた。昨日トンファさんとそう話をしてある。相変わらずの砂利道がつづくが、あたりの景色から険しさが消え、穏やかになった。平原が広がり、お椀を伏せたような緩やかな山が遠くに見える。峠らしきものを3つ越えたが、それはどちらかというと丘を登る感覚であり、今までのような壁を越えている感覚は無かった。 何度か車は停まった。多分ラサを目指しているで歩いているのであろうお坊さんにお金を寄付する。トンファさんは「こうやるんだよ」とお札を額にこすり付けてから寄進していた。トンファさん達は5元とか10元とか結構な額を寄付していた。そのほかにも五体投置というチベット独特のお祈りを続けながらラサを目指す人たちにも、トンファさん達は寄進をしていた。「これはとても良い事なのです」と僕に説明してくれた。 3つ目の峠の頂上での事だった。「人民帽」が突然ここでとまってくださいと叫んだ。なんだろうと思い窓の外を見ると、自転車を漕いでいるアジア人が二人視界に飛び込んできた。そのうちの一人は日本人で、なんと「人民帽」が旅の途中、5ヶ月前に石垣島で知り合った人だった。ジープでもきついこの悪路を、なんと自転車で走り抜けてきたのだと言う。心底すごいなと思った。彼と少し話をして、僕らはナチュを目指す。 ナチュは都会だった。この街は、川蔵北路という四川省からつづく僕らが通ってきた道と、青蔵公路という北の青海省から続く道が合流する街だ。この青蔵公路というのは中国から唯一外国人が合法的に陸路チベット入りすることが出来る道で、だからどこまでも奇麗な舗装道路が続いている。ナチュで一休みしたあと、トンファさんはどうしても今日中にラサを目指したいと言った。理由は二つあった。一つはトンファさんの2歳になる子供が少し風邪気味だったこと。それからもう一つは宿泊費や食事代はすべてトンファさんもちで、すでに赤字になっているらしく、だからすこしでも早くラサに着きたいという事らしかった。 僕は「明るいうちにラサに着けるのなら」という条件とともに合意した。それからのスピードはすごかった。道が良いとこんなに順調に行くのかとあきれるほどのスピードで走った。時には時速90キロは出ていただろう。相変わらず穏やかな景色で、遠くに山並みが見える広い平原地帯を走った。このまま穏やかにラサに着いてしまうのかなあと思った。 けれども、聖都は僕らを簡単には迎え入れてくれなかった。ラサまで75キロの地点で、道が急に険しくなった。山と山の合間の谷を縫うように進む。それはまるでラサへ続く深い廊下のように感じる。そして、この廊下を抜ける頃、日がすっかりと暮れ、あたりの景色は全く見えなくなってしまった。星だけが、窓の外に輝いていた。そんな暗闇を一時間も走った頃、突然前方が明るくなった。街灯の光りが眩しい。トンファさんが叫んだ。「ラサ!ラサ!]こうして僕らの長い一日はようやく終わりを告げた。
2004年08月24日
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5時に起こされた。まだあたりは真っ暗で、熟睡の最中だったので、何がなんだかわからない。今日は長距離の移動をするので、早くに出ないと間に合わないと、トンファさんが朝から張切っている。寝ぼけマナコのまま、訳の解らないうちに、僕らはジープに揺られていた。時計を見ると5時43分だった。暗闇の悪路を走るのは少し緊張する。だから、走り出すとすぐに僕の目は冴えてしまった。 チベットへの旅に出てから、「街が見えてくる」という感覚を実感しはじめた。何も無い草原や山の中を走っていて、前方に建物が見えてくると何故か安心する。ようやくあたりが明るくなり始めた、7時頃、色札の街が見えてきた。ちょうど皆が起きだして、朝の煙を煙突から吐き出しているところだった。朝もやの中のこんな光景は、まるで絵画の世界のようだ。大連から丹東に向かう列車の中で見た光景を思い出した。その色札の街を、ジープは猛スピードで通過してしまった。 川のほとりで突然車が停まった。温泉が湧いているのだという。確かに川のあたりは硫黄の匂いがして、手を入れるとぬるいお湯が沸いていた。みんなでタオルを持ち出して、手や顔を洗ってリフレッシュする。このあたりから、鳴きうさぎを見るようになった。それまでヤギやヤクそれに馬などはあきるほど見ていたのだが、黒い小さな陰が道路を横断するのを何度か見かける。 そのうち穴だらけの草原をジープは走った。その穴は全部鳴きうさぎの巣だ。「人民帽」によるとこの鳴きうさぎは日本では北海道の一部にのみ生息していて、天然記念物にも指定されているそうだ。トンファさんに頼んでしばらく車を停めてもらう。そして草原に下りてみると、そんな天然記念物がいたるところにうようよしている。穴から穴へと猛スピードで走り抜けて行くさまがとても可愛かった。けれども空には大きな鷹が、そんな獲物を狙っていた。 そのあとそんな鳴きうさぎの草原を車は何時間も走った。良く見ると穴の中からこちらの様子をうかがっている。一度は道の真ん中で昼寝をしている鳴きうさぎがいて、危うくジープに引かれるところだった。このあたりには、鳴きうさぎの他にも珍しい動物が沢山居た。濃紺の色をした、カラスよりも少し小さ目の鳥や頭が白く、尾が黒いすずめ大の鳥が印象に残った。エンジンを冷やすために川のほとりで水を汲むために止まった。そうするとそこには子ヤギの群れがいて、トンファさんが一匹捕まえてみせてくれた。 昨日は山の緑や土の茶色に目を奪われていた。けれども今日は青だ。空が青い。そしてその光りを反射してか、川の水が深い藍色をしている。峠の上からみた、真っ青な川は、まるで絵の具を流したような色をしていた。ちなみに今日も3つの峠を越えた。最初と最後の峠の高さはわからなかったが、2番目に越えた峠は4860メートルだった。壁はラサまでいくつ用意されているのだろうか? 色札の街から更に5時間半かけてようやく次の街、雅安多に到着した。それまでは小さなテント村をいくつか見かけた他は、街らしい街を見る事はなかった。そしていいかげんお腹を空かしていた僕らは、なんとか街の小さな招待所を発見して飯を食うことにする。けれどもそんな小さな街にろくなメニューがある筈も無く、カップラーメンと硬いドーナツのようなパンを腹に収めた。バターの入っているチベット特有のお茶がおいしかった。奉仕してくれた女性は、民族衣装を着ていて、長い髪にはさまざまな石のような飾りをつけていた。奇麗だなと思ったとともに重たくないのかなとも思った。招待所の前で、うろうろしていると、暇そうな男達が集まってきた。僕らを見て「香港人か」と言う。面倒くさいので、そのままそうだと言っておいた。 雅安多からはしばらく街が続いていた。といっても次の巴青の街まで50キロ、それから今日宿泊する事になった索具の街までそれから30キロの距離だ。その間は思い出したようにテントが出現するほかは、果てしなく草原が続いている。もちろん鳴きうさぎ付きだった。空気がとてもおいしい。草と高山植物の匂いがとても気持ち良かった。川は相変わらず、深い藍色をしていた。流れの穏やかなところでは、鏡のように山や空、それに雲を写していて、それがまたなおさら感動を誘った。 4時頃、索具の街に着いた。ここも人口何百人かの小さな村だ。街の外れに古いチベット寺院が見える。食事を取って少し休んだ後、一人でこの町外れのチベット寺院を歩いて目指した。チベット寺院は丘の上にあって、ゆっくり歩いて登ったつもりなのに、息切れがし、動悸が激しくなった。改めてここが高山である事を思い知らされる。チベット寺院の前で、談笑している年老いたお坊さんに、中を見せてもらいたいことを伝える。けれども今日はもう時間が遅いので、明日来てくれと体好く追い返されてしまった。中の壁画を見れなかったのがとても残念だった。そのあと訪れた「人民帽」も結果は同じで、僕の前例があったものだから、あっさりと追い返されてしまったそうだ。 トンファさんはあしたここから600キロ以上も先にあるラサを目指すと息巻いていた。けれどもそれは少し無謀で、更にゆっくり景色も見られないだろうからと何とかなだめて、明日は200キロほど先の耶曲を目指す事で合意した。けれども明日も今日と同じで早起きだそうである。だから今まだ10時だというのに、もうみんな熟睡体制だ。けれどもここも星がとても奇麗なようなので、僕はこれからしばらく星でも見るつもりだ。
2004年08月23日
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例のお医者さんのところで、朝食をご馳走になってから、2日ぶりにジープに揺られる。朝食は肉まんとお粥で、それにキャベツの漬物だった。食欲もすっかり復帰して、むさぼるように朝食を食べた。 街を出ると、いままでと少しだけ景色が異なるのに気が付く。今日は快晴で、そのせいもあるのかもしれないが、あたりの景色の色が濃いのだ。木々の緑と土の茶色がくっきりと水色の空を背景に浮き出てくる。そう言えば山には木が生えている。いままでは大抵畑になっていたり、草原が広がっていたものだが、今日の山には木が生い茂っている。 また峠を越えた。けれども、峠慣れしてきている僕らは、その頂上が4600メートルを越えているのを見ても、もう何とも思わなくなってきっている。体が順応してきているので、特に高山病の症状が出る事も無く、つづらおりの道を縫うように登って行くのにももういいかげん慣れてきた。頂上に来るとみんなで「ラッソー、ラッソー」と叫ぶのにもそろそろあきてきた。それ程僕らはいくつも4000メートル級の峠を越えている。 峠を越えると相変わらず違う世界が僕らを待ち受けている。川の流れの方向が変わり、僕らがいま峠を下っている事を実感させてくれる。そして僕らは小さな街に着き、そこで食事をすることにする。魚を辛いスープで煮たものだった。トンファさんはここのレストランは高いを文句を言っていた。街を歩く人々はほとんどが民族衣装を着ていたのが印象的だった。 拍子抜けするほど簡単に二つ目の峠の頂上に着いた。けれども二つ目の峠の表示板が壊れていて、そこがどれくらいの高さだか解らない。けれども、登ってきた感じからせいぜい4200メートルくらいのものだろうねと「人民帽」とうなずき合っていた。けれどもそれからだいぶ下った平地の高度表示が4200メートルとなっていて、だからさっきの峠はきっとやっぱり4000メートル台後半だったようだ。 峠の頂上の景色が僕は一番好きだ。いままで頂上しか見えなかった世界が、突然開けて、遠くにこれから僕らを待ち受けている山並みが、まさに波のようにうねって鎮座している。手前の低い山は緑色に輝いており、遠くにみえる山の頂上は雪がかぶっていて白い。そしてその上には、フワフワとした白い雲を浮かばせた真っ青な空が覆っている。そして、視点を下に移すと、これから僕らが通っていく道が緑色の草原の中に白くくっきりと浮き出て、遠くまで続いているのがみえるのだ。時には黒い点々がゆっくりと移動しているのが見える。それはヤクの群れだ。そして遠くに街並みが見えることもある。そんな景色は、未来を感じさせてくれる。 二つ目の峠を越えると、ますます色が濃くなった。木々は消えてまた草原と麦畑が広がったのだが、草原には色とりどりの高山植物が咲き乱れ、川は緑色をしていた。そして土の色が濃くなり、家の色も土と同じ色をしていた。収穫が終わった畑を耕しているところに何度も遭遇した。ヤクを使って土を掘り返している。掘り返された土の色は、ますます目に飛び込んでくる。ところで、どうして今ごろまた畑を耕しているのだろうか?ひょっとして二毛作でもしているのだろうか? 小さな村を過ぎるたびに、多くのチベット人を見た。彼らは皆僕らに手を挙げてくれる。どういう意味なのかをトンファさんに聞くと、僕らの旅の安全を祈ってくれているのだと教えてくれた。しばらくして、高山植物の咲き乱れる奇麗な草原で、休息をとることにした。そんないろいろな植物を見るたびに、僕はもっと植物の勉強をしておくべきだったと後悔する。僕の知識ではせいぜいタンポポくらいしか名前を言う事ができなかった。その草原の空気はとてもおいしく、周りの景色の素晴らしさとともに、しばらくそこで寝そべっていたい気分だった。そこで車座になって坐っていると、一人のチベット人がやってきた。そして僕らが飲み干して空になったペプシのペットボトルを、喜んで持ち帰っていった。 それから更に色の濃い世界を、ジープは駆け抜ける。相変わらずの悪路で、時には道が川で寸断されており、ジープは仕方なく川の上を直に横断するしかなかった。今日は快晴とはいえ、ところどころ道がぬかるんでおり、そんな道をジープはそろそろと走る。そしてその度に僕は肝を冷やした。 小さな石を積み重ねた山をいくつか見た。それは皆ラサに巡礼に行った人々が、持ち帰ってきた石なのだそうである。ようは甲子園の土だ。そんな光景を見るたびに、現地の人々のラサに対する憧れが強く感じられる。そして、そんな所に、軽々と行けてしまう自分が、幸福であると感じるとともに、現地の人々に申し訳なくも思う。 山の上に廃虚のような家が現れた。人は住んでいるようなのだが、あんな所に住んでいると、とても不便だろうなと思った。けれども、それもやっぱり何か宗教的な意味があるのだろう。日が落ちる直前に僕らは丁青の街に着いた。とても小さな、通り一つで終わってしまう街なのだが、それでもこの辺ではずば抜けて大きな街だ。そんな街で僕らは今日の疲れを癒す事にした。
2004年08月22日
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もう体は大丈夫だと思った。けれどもトンファさんは、まだ心配だからもう一日ここでゆっくりして、それからラサを目指しましょうと言った。僕の体調のことももちろんあったが、ジープの調子も悪いし、それに運転する方もここらで休息するのは良い機会だろう。実際にトンファさんは朝早くからジープの修理に出かけていってしまった。 僕らは運転手さんと三人で、昨日の病院を目指す。かなり回復はしていたのだが、それでもまた点滴を二本うたれた。もうこれで完璧だと思う。お金は4500元だった。とても高い。トンファさんの言っていた通りだ。けれども政府の病院に行くともっと高いのだそうだ。トンファさんにお願いして、医者に診断書と領収書を書いてもらう。でも保険を使うのは初めてだから、果たして本当にそのお金が返ってくるのかどうか少し不安でもある。 食欲も出てきた。この街は漬物がおいしかった。大根の漬物ときゅうりの漬物は日本の味を思い出させてくれて感動した。ところで、物騒な話を聞いた。病院に公安の人が来て、医者に話しをしているのをトンファさんが僕らに通訳してくれたのだが、昨日だか今日だか、この街でオーストラリア人が殺されたのだそうだ。チベット人に1万元を盗まれそうになって、それでそのチベット人を追いかけたのがいけなかった。慌てたそのチベット人にナイフで一突きにされてしまったのだそうだ。チベット人は皆腰にナイフをぶら提げている。時には拳銃だって持っている。チベットはやっぱり恐いところだなあと思った。 トンファさんが付いて来いというので、おとなしく従うと、美容院に連れて行かれた。ビョウインの後はビヨウインである。そこで髪を洗ってもらう。実は僕らは康定で温泉に行って以来、御風呂に入っていない。こちらの人に、毎日御風呂に入るという概念は無いらしく、どの宿にもシャワーはなかった。中国では大抵必ずもらえるお湯すらもないような宿にばかり泊っていた。とは言っても、毎日タオルを湿らして体を拭くことは続けていた。ところで、今回のラサ行きの10000元には、すべての食事代と宿代が含まれている。そう考えるととても御得なツアーだと思う。ちなみに洗髪代もトンファさんが出してくれた。 午後、この街のゴンパ(チベット寺院の事をそう呼ぶらしい)を観光に行った。ちょうど偉い御坊さんの説教をしているところで、中は御坊さんや信者で溢れていた。信者は本堂の外まで溢れていて、皆日陰に腰掛けてスピーカーから流れる説教に耳を傾けていた。多くの人が、多分中にお経が詰まっているのであろう携帯筒と回転させていた。トンファさんにいくつか壁画の解説をしてもらった。懸案の象猿兎鳥の絵は何故か知らないが、長寿を意味するそうだ。その絵が左の片隅に書かれている大きな壁画は八宝を意味するそうで、その象猿兎鳥を含めて他に7つの宝が描かれているのだと言っていた。けれどもトンファさんも7つまで宝を見つけられたが、彼は八つ目の「傘」が見つけられないとうなっていた。そのほかにも地獄と天国の絵の解説もしてもらった。チベットの人は悪い事をすると地獄に落ちると固く信じているのだそうである。中国人はそんなことは信じていないと言っていた。けれども例のオーストラリア人の事件の事を考えると、それはちょっと矛盾するのではないかとも思った。 ゆっくりとした時間を過ごす。今日は本当にのんびりとする。トンファさんと街をうろついたり、病院でベットに寝そべって天井を見ていたりしてだらだらとした時間を過ごした。ちなみに僕らは昼飯も、夕飯も病院で食べた。どうやらこの病院の先生はトンファさんの友人らしい。だから僕らは一日中この病院を拠点に動き回った。病院といってもとても小さな、汚い小屋である。点滴の針は使い捨てのものを使っているのをチェックしておいたから良いが、普通だったらあまりお世話になりたくないような所だった。先生が良い人だったので、それが唯一の救いだった。 明日からまたハードな旅のスタートだ。昨日宿泊した、ベットが崩れかかっている見るも無残な宿から、今日はカーペットがしかれたテレビ付きのふかふかベットの宿に移動した。だから今日は明日に備えて、充分休もうと思う。
2004年08月21日
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何がどうなって、そうなったのか全く解らない。朝目が覚めるととにかく具合が悪かった。めまいがして、吐き気がする。昨日の夜デジタルカメラに溜まった映像をコンピュータにダウンロードしたところでぷっつりと記憶が途絶えている。一体何が起きたのだろう?訳が分からないままに僕の最悪の一日は始まった。 ジープは出発してすぐに朝食のために停車した。けれども僕はとても食欲など無く、そのまま横になっていることにする。事情を少しずつ理解しはじめた。昨日僕らは酒を飲んだのだそうだ。それもとても強い60度もある酒で、僕はそれをコップ7分目くらいについだものを5杯も飲んだのだそうである。しかもすきっ腹で、高所である。結果がどうなるかは、自明だ。けれども僕は何と飲みはじめすら覚えていない。トンファさんにお酒を薦められて断ったのは記憶している。そして、僕はコンピュータをいじっていたのだ。それからの記憶が途絶えている。 緑色の液体を吐いた。そして3人が坐っている窮屈な後ろの座席でずっと横にならせてもらっていた。「人民帽」は窮屈さを強いられているにも関わらず、終始僕の様子を気遣ってくれており、それが僕の救いになった。彼にはとても感謝している。「人民帽」によると、今日は最悪の悪路だったのだそうだ。終始小雨が降っており、そのため土のままの道はぬかるんでいる。更に4000メートル以上の高所ばかりを走っているので、雪があちこちに残っており、そのお陰でジープはなんども滑って停車した。スピードも出せない状態だ。さらに一歩間違えると崖に転落というおまけまで付いている。これが世界最難関ルートなのだと、納得したと言っていた。 200キロほどの距離を12時間かけて、ようやくジープは昌都の街についた。この街はとても大きい。なんてったってタクシーが走っている。まだ吐き気のおさまらない僕は、即刻、病院送りとなる。実は出発前にトンファさんはひとつの事を恐れていた。というのは、中国の病院は点滴をするととても高いのだそうだ。点滴を3本すると6000元(8万円)くらい取られてしまうので、健康には気をつけなければいけないと忠告してくれていた。そして僕はその点滴を受けるはめになってしまった。幸い僕には旅行障害保険という強い味方がある。その辺はトンファさんにも説明したあったので、だから彼は僕を病院に連れていったのだろう。 一通り吐いて、点滴を受けると大分楽になった。薬もいろいろ飲まされた。皆僕の事を心配してくれている。迷惑をかけた事が本当に申し訳ないと思う一日だった。これからお酒は控えよう。
2004年08月20日
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壁だなと思った。これから向かうチベット自治区の方に、広大な山脈が横たわっている。あの壁を今日は越えるのだ。今日の空気は澄んでいて、だからその壁のような山脈が青い空にくっきりと浮き出て、僕らを圧倒する。ジープはまるでどこからこの壁を責めてやるか探るように、山脈を沿うように進んだ。そして甘孜から90キロほど先のマニカンコという街まで進んだ。途中、3台の車としかすれ違わなかった。 マニカンコに向かうまでに何度かテント村を見た。モンゴルのように丸い大きなテントではなくて、三角のテントだ。トンファさんの話によると、今は麦の収穫の時期で、この一ヶ月だけ地元の人々はテントで暮らすのだそうである。大昔は皆テントで生活をしていて、昔を懐かしむための行事なのだそうだ。そしてこの一ヶ月はほとんどお祭り状態で、毎日のように酒を飲み、歌を唄い、そして踊りまくるのだそうだ。そう言えばモンゴルで僕が訪ねたゲルの人々も、冬は街でアパート暮しだと言っていた。 ところで、チベットの家は要塞のようだ。一軒一軒の家に高い塀が張り巡らされていて、重い木戸を開けないと、家の敷地の中には入る事ができない。そして塀の上には砕いたガラスが刺さっており、進入者が容易に入れないような構造になっている。それほどこの地は物騒なのだろうか。そういえばトンファさんの家に泊っている時も何度か銃声を聞いた。それと対照的にこのテント村は無防備すぎるほど無防備だった。なんだかその対照さが印象に残った。 草原の中に木がうっそうと茂る広大なエリアを見た。トンファさんによると、このあたり一体の大地主の家だったのだそうだ。けれども今はこの地主は国を追われて、インドにいるのだと言っていた。そんな話を聞かされるたびにここは中国なのだと再認識した。 さて、マニカンコを越えると、ついに壁越えだ。ジープはうなりをあげながら、危険な峠道を登る。基本的につづら織りの道なのだが、そのスケールが違う。数キロ真っ直ぐ進んで折り返し、そしてまた数キロ進むというような大きなつづら織りだった。その間隔が短くなった頃、ようやく頂上に着く。4916メートルだった。富士山よりも1キロ以上高い地に、僕らはこの足で立ったのだ。そんな事実に少し感動した。あたりにはまだらに雪が残っていた。そして、峠の向こうには新たな山並みが僕らを待ち構えていた。 峠を走っている最中2度ほど、正面衝突の危機に直面した。なにしろ道が曲がっているところでは、先が全く見えない。だから警笛をならしながら進むのだが、それでも出会い頭の衝突の危険は避けられないのだ。幸いドライバーの絶妙なテクニックで最悪の事態は免れたが、それでもそのたびに僕らは肝を冷やした。崖の下にはトラックが転がっていた。何かのアクシデントで崖から転落したのだろう。あのドライバーの命はまず無いだろうなあと思った。そういえば、僕らの乗ったジープも一度パンクしてしまった。それほどの悪路だった。トンファさんが一つの建物を指差した。この峠を設計して、そして命を落としてしまった有名な人のお墓なのだそうだ。それはまるで普通の家のような大きさで、そう教えてもらわなければ何気なく通り過ぎてしまうような代物だった。そして、そのお墓を過ぎると、峠のエリアは終わりを告げた。ついに壁を越えたのだ。 峠を越えると大きな変化が二つあった。一つは川だ。それまで川は進行方向逆に流れていた。けれども今度は進行方向の方角に流れている。高い所を越えてきたのだから当たり前といえば当たり前なのだが、けれどもなんとなく奇妙な感じがする。それからもう一つは木だ。それまでは草原か麦畑の広がる地帯を走っており、木は道の両側に一列ずつ生えているだけだったのだが、このあたりはもうそこら中に木が生い茂っている。そんな密林地帯をしばらく走り抜けて、川の谷間に広がる小さな街デルゲに着いた。 この街でパンクの修理をする事になった。その間僕らは街を見物する。この街で有名なのは、チベット語でかかれた経典の印刷工場だ。工場の中に入ろうとすると最初断られたのだが、トンファさんが誰かと交渉してくれて、それで僕らは中に入る事が出来た。特にお金は取られなかった。中に入ると経典を印刷する人々作業に没頭していた。二人一組になっていて、一人はインクを塗る係りで、もう一人は紙を台に置いて、刷る係りだった。木版画の要領である。大き目のそろばんのような大きさの木で出来た台には、チベット語の経典が彫り込まれているのだ。刷る係りの人の動きは、まるで踊っているような、何かに取り付かれているような感じがした。印刷をしている組は何組も入るのだが、競争でもしているのだろうか? この経典の種類はかなり膨大にあるらしく、建物の裏の方には何万もの台が保存されていた。そういえばチベット寺院には、大きな筒が並んでいるところがあり、その中にはお経が詰まっていて、その筒を一回転させればそれをすべて読んだ事になるというとても優れものの「お経読み機」があるのだが、きっとその中に詰まっているのが、今日見たものなのだろう。 4時ころこの街を出た。今日は更に110キロ程先の江述という街を目指す。街を出てしばらくすると小さな看板を見掛けた。そこが四川省とチベット自治区との境目だった。そしてもう一つの壁が僕らの前に立ちはだかった。それはチェックポイントである。道路に遮断機が下りており、公安が一台一台の車をチェックしてまわる。ここを通ってラサを目指す旅行者がもっとも捕まりやすい場所なのだそうだ。ある者はチベット人に変装して、またある者は夜中にこっそりと通過するのだそうだ。なにしろ捕まると罰金5000元(75000円くらい)というのだから馬鹿にならない。そこを僕らは大胆にも白昼堂々と通ろうというのだ。けれども、さすがトンファさんである。公安の質問にも冷静に答え、公安は僕らを一瞥しただけで、あっさりと通過を許可してくれた。僕が思うに、トンファさんの奥さんと子供の存在がきっとよかったのだろう。二つ目の壁は、あっさりと通過できた。 そしてまた峠である。今度の峠も4200メートル以上だ。この二つの峠がチベット自治区と、その外の中国を大きく隔てているのだと思った。雨が振ってきた。そして峠を越えたあとあたりが暗くなりはじめる。気が付くと川の流れの方向がまた変わっていた。そして僕らは江述の街に辿り着いた。
2004年08月19日
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今朝は7時に目が覚めた。けれども、何も起きそうにない気配だったので、もう一眠りすることにする。ところが7時半にトンファさんがドアをノックした。ジープが来たのだそうだ。だからもう出発できるのだという。いよいよ出発だ。軽い朝食をとって、9時半ごろついにこの道浮の街にも別れを告げた。最初に出発すると言ってからもう一週間が経過していた。 今回のツアーの仲間は僕と「人民帽」だけではなかった。彼の奥さんと子供も一緒にラサを目指す。奥さんは初めてラサに巡礼に行けるという事で、多少うきうきしているようだ。そんな姿をみて、康定から道浮までのバスで見た、少女二人を思い出す。ラサまで行こうとして兄に止められたあの二人だ。彼女たちは今ごろどうしているのだろう。 それからもう一人、ジープの持ち主も一緒にラサを目指す。彼はトンファさんと交代で運転をしてくれる。そんな6人のツアーになった。ジープはさすがにバスと比べると全然スピードが違う。最初出発した時はあまりのそのスピードに少々肝を冷やしてしまうほどだった。ジープは最初、長江と沿うように進んだ。まだ長江なのだ。はるかかなた上海まで続いている大河のあたりを、僕はまだうろうろしているのだ。 2時間ほどで隣町のルフに着いた。そこで昼食を摂る。トンファさんに任せておけば、やはり万事がうまく行く。とてもおいしい昼食にありついた。中でもさやエンドウの油炒めは絶品だった。日本よりも幾分大き目のさやエンドウは、甘みがあり、風味が違った。それから更に3時間かけて本日の宿泊地、甘孜を目指す。大きな峠を一つ越えた。そして峠のてっぺんに着いた時に、向こう側に頂上に雪をかぶらせた山脈が見えた。峠は草原になっており、その草原の緑と、そこに戯れる黒いヤク、そしてその向こうに見える雪を抱いた山のコントラストが、とても絵になる光景だった。あたりには、白や黄色、それに紫の高山植物が短い夏を謳歌していた。 ジープをチャーターして良かったと思ったことが早速二つあった。一つはトイレである。バスに乗っている時であれば、トイレ休憩までじっと我慢していなければならないのだが、ここではその必要はない。行きたい時に止まってくれとお願いすればそれで済んでしまう。別にトイレの施設なんて必要ないから、もうどこでも良いのである。もう一つは写真である。絶好の写真撮影ポイントがあればこれまた止まってくれるようお願いできる。実際今日はそのために3回も止まってもらった。もちろんジープをチャーターした最大の目的は「安全を買う」ことにあったのだが、こんな所でも威力を発揮してくれた。 甘孜の街に着くと、ジープは早速この街で有名なチベット寺院、カンゼ・コンバに向かってくれた。本堂の造りは、中旬で訪れたチベット寺院と同じだったが、例の象猿兎鳥の絵や、黒い象がだんだんと白くなっていく絵はなかった。代わりに裸の男女が抱き合っていたり、獣と人間が絡み合っている絵がさりげなく隅の方に書かれている、いわゆる密教色の濃い絵が飾ってあった。中心に描かれているのは、たいてい三つ目の鬼のようなもので、鼻が豚みたいになっていたり、その鬼の周りを小さないくつもの人間の顔が取り巻いていたりしていて、なんともおどろおどろしい絵ばかりだった。 寺院の2階にはたくさんの仏像があって、その中の一室には一階に描かれていた鬼達が、僕を睨んでいてちょっと恐かった。やはり立体的になると迫力がある。その部屋の壁にかかれていた絵も、さまざまな方法で人間が苦しまされている様が描かれていて、これが地獄絵というものなのかなあと思った。二階の中央の部屋には観音菩薩などの、いわゆる普通の仏教で祭られている仏像が沢山飾って合って、その中央にはダライ・ラマの写真が飾ってあった。うわさでは、ダライ・ラマの写真は、中国国内からすべて撤去されたと聞いていたが、この寺院にはひっそりと飾ってあった。 そのままホテルに向かう。ここは外国人未開放都市なので、トンファさんが、友人たちから借りてきた、中国人IDが活躍する。僕らは中国人の振りをして、なんとかホテルにチェックインした。
2004年08月18日
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これから向かおうとしているルートは世界最難関ルートの一つなのだそうだ。なかなか出発できないのも、トンファさんが安全を一番に考えてくれての事であって、そのためのいろいろな手配に手間取っているようだった。けれども昨日の午後、トンファさんはとても明るい顔をして僕らにこう言った「明日6時に出発です」それから、僕らに中国人であれば必ず持っている身分証明所を一枚ずつくれた。既にこの街もそうなのだが、これからラサまでは訪れる街がすべて外国人未開放都市である。だからホテルに泊るのにいろいろとトラブルが予想されるのだそうだ。何軒かのホテルは外国人と分かっても目をつぶってくれるが、何軒かはすぐに公安に通報して、僕らは逮捕されかねない。けれどもこの身分証明証があれば鬼に金棒だ。これはトンファさんの友人のものなので顔写真に無理があるが、ホテルの手続きはトンファさんがすべてやってくれるのだ問題無いといった。けれども僕は一応、その身分証明証の名前と、住所、生年月日をすべて暗唱しておいた。 ところがである。今朝目が覚めてみると、もう8時を回っている。6時出発と言っていたのに、何も起きない。トンファさんはどこかへ行ったまま11時まで帰ってこなかった。なんと、借りるはずのジープがまだここに到着していないのだそうだ。昨日の夜までに来るはずだったのに、途中の道が寸断されていて、立ち往生しているのだと言っていた。ここはもうチベットエリアだ。そんなことも日常茶飯事なのだ。午後には出発できると言っていたが、2時にジープを見に行ってもまだ到着していない。けれどもトンファさんは絶対に今日出発すると言い張っていた。 夫婦喧嘩が始まった。奥さんが「あなた、たとえ今出発したとしても何時に甘政に着くと思っているの?これから天気も悪くなりそうだし、今日出発なんて無謀もいいところよ。あきらめておとなしく明日の朝出発するべきだわ」と言う。トンファさんは、僕らに気をつかっているのだろうが、しばらく抵抗を続けていた。けれどもやはり安全を考えて今日の出発はあきらめるしかなかった。奥さんも僕らに気を遣ってくれているのだろう。今日の夕飯は、普通とても重要な客が来た時しか振る舞わないというチベットの民族料理を作ってくれた。それは牛肉と野菜のたっぷり入った麺で、スープが濃厚でとてもおいしかった。4杯も御代わりしてしまった。 ちなみに、夫婦喧嘩から夕食の間に、奥さんが予想したように天気が荒れた。急に気温が低下し、雨が大量に降った。夕暮れ時に突然あたりが明るくなり、嵐は去った。西の山を見ると、それまで緑色だった筈の山の頂上が真っ白に変化していた。それを見て「人民帽」が何気なくつぶやいた。「八月の雪だ」その言葉がなんとなく耳に残った。そして改めて、チベットの自然の厳しさを肌身に感じた。
2004年08月17日
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僕が初めて一人旅に出たのは、小学校3年生、僕が9歳になったばかりの時だった。仲良くしていた小学6年生の友人の影響を受けて、陸路、北海道から新潟の祖母のところに遊びにいくことにした。 父親はすぐに賛成してくれた。母親は、非常に心配していたが、父親が良いというのならと、しぶしぶ合意してくれた。それから僕はアルバイトを始めた。と言っても、家の手伝いの域を出ていないのだが、せめて旅行中の小遣いくらい自分で稼ごうと、おつかいを一回するたびに100円をもらい、それを貯めていった。缶切りを使わないと開ける事ができない貯金箱の重さがだんだんと増えていくのを、いつも満足げに確かめていた。結局3ヶ月で溜まったお金は5000円弱。当時の僕にとってはそれはもう大金で、そのお金を大事に仕舞い込んで、僕は一人列車に乗った。 列車は夜の9時ころ札幌駅を出発して、深夜函館に着いた。それから青函連絡船に乗り、早朝4時に青森駅発の特急に乗り継いで、昼の12時頃祖母の住む長岡に到着した。初めて自分一人で、海を渡った事に僕はとても満足していた。たった15時間の旅だったが、それはもう大冒険だった。自分の住んでいる「島」を脱出するという感覚がなんとも心地よかった。 初めて自分一人で当ても無く「放浪」をしたのは高校一年生の時だった。ふらふらと札幌駅に行って、適当に時刻表を見て、それで僕は函館に行った。ほとんど衝動的に列車の切符を購入していた。初めて「無計画」の旅をしていて、僕はドキドキしていた。そして、そんな自分に酔っていた。それから僕の放浪僻が始まった。 大学に入学して、東京で一人暮らしを始めた事は、僕にとってとても大きな出来事だった。それまで北海道で学び、北海道で勤め、そして北海道に骨を埋めるのだと勝手に思っていた。僕は一浪しているが、現役の時には実際に道内の大学を受験している。旅行で何度も津軽海峡を越えてはいるが、生活の場を津軽海峡の向うに移すなんて、想像できなかった。けれども、一度津軽海峡を越えて生活を始めてしまうと、あとはもう何でも出来そうな気分になった。だから、大学2年の時に初めての太平洋を渡り、アメリカのカリフォルニアの田舎で40日間のホームステイ体験をした時も、それが何でも無い事のように思えてしまった。僕にとっては太平洋よりも津軽海峡の方が大きかったのだ。 大学に入ってからは僕の放浪僻は加速した。行き先を見ずにとりあえずやってきた列車に乗って、秋田県の角館に行ったり、友人と二人で、普通列車とフェリーを乗り継いで沖縄に行ったり、80日かけて世界一周をしたり。そんな放浪僻は就職してからも治らなかった。連休にとりあえず羽田空港に行って、適当に飛行機を選んで松山に行ったり、北海道の大地をを当ても無く車を転がしたり。突発的にどこかに行きたい衝動にかられる。そしてそれはもうどうにも押えられくなって、僕を突き動かすのだ。 就職してから、海外に対する概念が全く変わってしまった。入社3年目のGWに僕は少し長めの休みをとって中国を旅していた。北京、上海のみではあったが、初めて中国という大国に触れて、とても興奮していた。そしてあと休みを2日残した段階で日本に帰ってきた。そこでとても長い留守番電話を聞くことになった。留守番電話は僕が明後日にシンガポールにいかなければならないことになった事を告げていた。あまりにも急で少し驚いたが、まだ中国から帰ってきた荷物の整理も終わらないうちに、僕はもう2日後にはシンガポールに向かう飛行機のビジネスクラスに坐っていた。これが初めての海外出張だった。 それから会社を辞めるまでの間、僕は狂ったように海外出張を繰り返した。パスポートのスタンプが瞬く間にページを埋めていき、スタンプが増えるたびに僕は海外に行く事がまるで東京から大阪や札幌に行くのとあまり変わらないような感覚になっていた。実際、毎週末は国際線の空の上ということが2ヶ月間続いた事もあった。その行き先は大抵がアジアの国であったが、時にはアメリカまで出かけていく事もあった。ビジネスクラスにももう緊張しなくなった。そして、海外に対する「抵抗力」の様なものが出来てしまって、海外に行くと言うだけで大騒ぎしていた昔の自分がどこかに消えてしまっていた。 一年の3分の1は海外にいるという生活を繰り返しながらも、僕はいつか長い旅に出たいと思っていた。短い放浪を繰り返してはいたが、それは僕にとって充分ではなかった。海外での仕事を通じて、多くの人と出会い、多くの考え方に触れ、僕のその思いは更に強くなった。同時に、僕は自分がいる世界にとても満足していた。仕事に誇りももっていたし、上司や同僚にも恵まれ、毎日が楽しくてしょうがなかった。だから、長い放浪は別世界の事で、いつかはやりたいと思っているが、それは今この世界を捨ててまでする事でもないと思っていた。それに、僕は留学しようと考えていた。勤めていた会社の大半の人が何年か会社で経験を積んだ後アメリカのビジネススクールにMBAという学位を取りに留学していた。それが一つのパターンのようになっていた。だから僕も来年あたりに留学をしようと、いろいろと準備を進めている最中だった。放浪をするにしても、それは留学が終わってからだと漠然と考えていた。 夏の暑い日だった。僕はいつものように忙しく働いていた。珍しく2ヶ月以上日本にいて、東京の暑い夏に文句の一つでもつけたい気分でいた。そんな湿った暑い空気が、僕の思考回路をショートさせたのかもしれない。ある時僕は突然こう思った「そうだ、旅に出るのはいつだっていいんだ。今だっていいんだ。会社の出来上がっているパターンを踏襲する必要なんてないんだ。今いる世界に満足しているからといって、外の世界を見ない理由にはならにんだ」それは本当に突然で、天からその考えが僕の上に降ってきたような感覚だった。ま雷に撃たれたような衝撃だ。 一度「今でも良い」と思ってしまうと、僕の決断は固かった。今、留学するべきなのか、それとも旅に出るべきなのかを考えるに旅をするのには今が一番良いタイミングだと、発想を転換した。留学して得られるものと旅をして得られるものを考えた時に、今の自分にとっては旅をする事によって得られるものの方が大事なような気がした。そして、20代でそれをする事に意義があると思った。さらにビジネスマンの4年間、それも海外で仕事をしたと言う経験が、世界を見る上でとても役に立つと思った。留学するためにと思って貯めていた資金も幸い手付かずに残っている。だから、旅をするには今しかないのだと決意した。ただし、それが自分の思い付きなのか、それとも本当に後々後悔しない決断なのかを判断するための時間が欲しかった。だから、衝動的に会社を辞めてしまうのではなく、出発する時期は次の年の4月にしようと考えた。6ヶ月間しっかり考えて、それで結論をだそうと考えたのだ。 親友に相談した。池袋の汚い居酒屋だった。メニューも数品しかないようなところで、僕らは白板にマジックでかかれた今日のお勧め料理をいくつかたのんだ。明らかに冷凍とわかる赤身の刺し身をアテに僕らはビールで乾杯した。僕の決断に親友は明らかに狼狽した。彼は僕にこういった。「正直言って、自分の周りにいる友人たちは就職はしたが、自分がやりたいと思っている仕事に就けていない人が多い。そしてそんな友人たちはいつも愚痴ばかり言っている。ところがおまえの口からはそんなことを聞いた事はもちろん一度もなく、本当に仕事を楽しんでいるようで、自分の友達の中では一番うまく行っている奴だと思っていた。だからそんなおまえから仕事を辞めるという話を聞いてかなり驚いている。けれども、その理由を聞くと、それはとてもいいことの様にもきこえる。けれども、もう一度しっかりと考えてから結論を出すべきだとおもうよ。」僕の事を本当に考えてくれての発言だと思った。 その後僕は、すぐに京都に向かった。自分の今の考えを父親に伝えようと思ったのだ。父親には大阪で仕事があり、そのついでに京都に寄ると嘘を付いた。久々に親父と話をしていて、意外にも親父の方から自分が若い時にやりたいと思って、でもできなかった事があり後悔しているという話を聞かされた。そして僕は、今自由なのだから、自分のやりたいと思っている事を思いっきりやりなさいと言うような事を言われた。僕はそんな親父の話を聞いて、これから僕が打ち明けようと思っている事を見透かされているような、けれども、これからの話を切り出す道を親父が自ら作ってくれているような、妙な気持ちで話を聞いていた。それは祇園の木の高い塀で覆われた看板もないバーでの出来事だった。外からは中に何があるのか解らないようなつくりになっており、僕一人では絶対に入る事ができないようなバーだった。僕らが坐っているカウンターの向こうはガラス張りになっていて、その向こうには見事な日本庭園が広がっていた。その日本庭園は外からは決してみる事ができない、閉ざされた空間だった。 その日本庭園を見ながら、僕は打ち明けた。そうすると、父親は一瞬の沈黙のあと優しい目をしてすぐに賛成してくれた。僕はなんだか、遠い昔、僕が一人で新潟の祖母を訪ねたいと父親に相談したときのことを思い出した。その後一ヶ月ほどして仕事で札幌を訪れた時に母親に同じ事を打ち明けた。母の反応もまた僕の最初の一人旅の時と同じだった。とても心配しながらも、親父が良いというなら、しょうがないと僕に言った。そして、何よりも僕が自分で決めた事なのだから、母親としては何も言えないと付け加えた。新たに加わったこの一言が20年程の月日を感じさせた。けれども二つの事を約束させられた。一つには必ず二年後に日本に帰ってくる事、そして決して危険な所にはいかない事だった。僕は会社を辞めて旅に出るという自分の勝手を快く受け止めてくれたそんな両親に改めて感謝した。 6ヶ月の間、日増しに僕の放浪に対する憧れは強いものになっていった。そして僕が旅に出る事は確信へと変化して行った。会社の信頼できる先輩にも僕の考えを打ち明け始めた。先輩たちは皆応援してくれ、それがまた僕の励みにもなった。こうして僕は着々と準備を進め、旅に出た。そして3ヶ月がたち今僕は中国のチベットへとむかいつつある。 突然こんなことを書いたのには訳がある。僕に今回の旅の決意をさせた夏の暑い日とは、1996年8月16日のことだった。ちょうど去年の今日だ。旅の事を考えはじめてから、もう一年が経ったのだ。今日は一日道浮のトンファさんの家で待機をしていなければならない日で、窓の外に鎮座するやさしい表情の山を眺めながら突然そんなことを思い出した。だから、僕が今回旅に出たいきさつを一度整理しておこうと思った。あまりにもいろいろな事が複雑にからみあっているので、うまく表現できたとは思えない。更にこの日記の中にこの事を載せるのは果たして良いことなのかどうか少し躊躇した。けれども僕は書く事にした。それが今の僕の正直な気持ちなのだと思った。
2004年08月16日
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なだらかに続く起伏に富む草原の丘陵地帯がどこまでも続く。遠くにはあまり高くはないが奇麗な三角形のシルエットを浮かび上がらせる山並みが見えた。空には筋状の雲が山の頂上ぎりぎりに覆い被さるように迫り、流れていく。空一面に、薄い灰色のカーテンがかかっているようだ。バスはそんな景色の中を走りぬけた。 あわただしく出発した僕らは、最初、バスを見つけられないというアクシデントもあったが、何とか道浮行きのバスに乗り込む事に成功する。朝早起きして僕らを見送ってくれたお母さんは、なんども「また康定に来てね。そして来たらホテルなんかに泊らずに家に泊りに来てね」と言ってくれた。本当に暖かい家族だった。この家に2日間滞在できた事は、さっさとラサに出発してしまうよりもよっぽど良かったと、心から思える。ちなみにおとといの晩から引きはじめた風邪は、今朝はほぼ完璧に治っている。喉の奥の方がかすかにこそばゆい感覚があるが、これはすぐに消えるだろう。 また峠を三つ越えた。二つ目の峠を越えたあたりから、作物が変わった。いままで米作中心だった畑は、麦畑へと姿を変えた。そう言えば昨日のトンファさんとの何気ない会話の中で、チベットの人々は麦を主食にしているのだと聞いた気がする。いよいよ本格的にチベットのエリアに入った一つの象徴なのだろうか。三つ目の峠を越えると、今度は家の造りが変わった。それまでは灰色の石の家が中心だったのだが、今度は白と茶色のカラフルな家が立ち並ぶようになった。その家を良く観察すると一階部分が石を積み上げて作られており、その石をペンキで白く塗装してある。二階部分は丸太を積み上げて作られており、その部分はこげ茶色に塗られている。屋根の部分は白と茶色が交互に塗られており、細い木を格子状に組み合わせた窓は黄色や緑、それに青などのいろいろな色で、この建物にアクセントを加えていた。モンゴルや中旬で見たラマ教の寺院はとてもカラフルだった。やはりチベット人というのは派手な色を好むのだろうか。 そう言えば街の人の服装も明らかに変わった。民族衣装を着ている人の割合が圧倒的に増えた。民族衣装はどことなくモンゴルの人々の民族衣装を連想させる。やはり同じ騎馬民俗というのは服装まで似てくるものなのだろうか?それともモンゴルが元という王朝を中国につくり、このチベットエリアまで侵略してきた際にこの地の宗教であるラマ教(チベット仏教)を本国に持ち帰ったように、モンゴルの民族衣装も実はこの地の民族衣装を真似たものなのだろうか? それにしても、男性にしても女性にしてもアクセサリーをこれでもかと言うほど身につけている。そして髪も満つ編みにしてみたりいろいろな色の毛糸と一緒に編み込んだり、一人で一体何色の色を使えば気が済むのだと突っ込みを入れたくなるほどでいろいろな色をおりまぜた服装をしていた。彼らの肌の色は、強い日差しの中でそうなったような褐色で、ほっぺたはりんごのように赤い。目は二重で大きく、眉毛が濃い。そんな人々を見ていると、ここが中国だと言う事を忘れてしまう。 こんなことがあった。八美というところで、昼食の休憩を取った後バスは新たな乗客を沢山載せて、まさに出発しようとしていた。その時一人の男が乗り込んできて、いきなり女の子二人組みの荷物をバスから降ろし、さらにその女の子二人組みをもバスから降ろそうとした。けれども彼女たちは泣き叫んでバスから降りようとしない。5分ほど男は彼女を叩いたり、引っ張ったりしながらバスから降ろそうと頑張る。ついに、運転手が仲裁にはいり、結局彼女たちは泣きながらバスを降りた。そして外で待っていた親族らしい人々の胸に飛び込んでいった。トンファさんに事の顛末を教えてもらった。彼女たち二人はラサに巡礼に行きたかったらしい。そしてあの男は彼女たちの兄で、お金が無いのに無謀にもラサに行こうとしている彼女たちを止めに来たのだ。兄のほうもとても辛そうな顔をしていた。そしてそんなことからも、この地の人々がいかにラサに憧れているのか、そしてそれがいかに大変な事なのかが感じられた。そしてそんなラサに、それほど仏教的な意味を感じずに、ただの「観光客」として訪れようとしている自分に対して、少し複雑な気持ちがした。 ところで、トンファさんはやっぱりすごい。彼と旅をしているといろいろな情報が入ってきて、いままで何気なく眺めていた窓の景色が、がぜん面白くなる。たとえば「あの人たちは今川で砂金をとっているところです」だとか「ここは刑務所の街で、囚人が1万人ほどいます。ここの畑はすべて彼らが強制労働で耕しているのです」だとか、ここに来るまでに、いくつもの解説をしてくれた。これからの旅がますます楽しみになる。更に彼はなかなか波乱に富んだ人生を送っている。彼は89年の天安門事件の時に、先頭に立って天安門その場にいた一人だったのだ。一度は逮捕されたが、すぐに釈放されて、その後彼らはすぐに香港に向かったらしい。そこで多くの人々はアメリカへの亡命を決めたが、彼は家族を捨てる事はできなく、また中国に戻ってきたと言っていた。多少はったりも含まれていると思ったが、彼から当時の写真を見せられると、それはもう疑いようの無い事実だとしか言いようがない。 道浮に着いた僕らは、今度はトンファさんの家にお世話になる。そこにはトンファさんの妻と弟が僕らを待っていてくれた。例によってご馳走でもてなされ、トンファさんの2歳になる息子さんと戯れているうちに、あっという間に日が暮れてしまった。
2004年08月15日
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体がだるい。やっぱり昨日の予想通り風邪を引いてしまったか?これは困った。今日はもう出発できないようだし、頑張って一日で直さなければ。僕の体の具合のせいで、出発を延期するなんてことには絶対にしたくない。意地でもなおしてやろう。それにはとにかく栄養を摂って睡眠をむさぼるしかない。そう思い、僕は結局12時過ぎまでベッドでうとうとと現実と夢の間をさまよっていた。「人民帽」は10時頃に起きだして、どこかに出かけたようだ。 さすがに12時になり、起きる事にする。タイミング良く昼食の準備が出来たようで、またご馳走になる。一人暮らしが長かった僕は、風邪を引くとどうしても飯を作ったり買ったりする気力が無くなって、それでまた風邪が長引くと言う悪循環を繰り返していた。けれども今回は本当に幸運なことにトンファさんの家にお世話になっている事もあって、栄養面では心配なさそうだ。風邪も絶対に一日で治るだろう。ちなみに、いままで腹の調子を二回ほどこわしているが、このような風邪をひいたのは旅に出て初めてである。喉が痛い。これは絶対に熱が出るパターンだ。だから僕はもう既に抗生物質と解熱沈痛剤を飲みはじめていた。お陰で今のところ体調は良くもならなければ、悪くもならない状態で落ち着いている。 飯も食いおわると、お父さんが僕のコンピュータを見せて欲しいと言い出した。ちなみにこの家は中国でもとても裕福な家で、テレビはもちろんの事、電気洗濯機、冷蔵庫、自家用車、ビデオ2台など日本の一般家庭にも匹敵するような、あるいは上回るような生活をしている。家の調度品一つとってもとても値が張りそうなものが、無造作に置いてある。そしてなんとパソコンまで完備していたのだ。だから、お父さんは僕に「コンピュータと言うものはどういうものなのか見せて欲しい」というというのではなくて、いきなり専門的に「おまえのコンピュータにはどんなソフトが入っているかを見せて欲しい」というような感じで、僕に頼んできた。そして、まずどんなゲームが入っているのかチェックさせろとまるで日本の高校生のような事を言う。 お父さんの眼鏡にかなうゲームが一つあったらしく、僕がフロッピーにそのゲームをおとして(この辺もいちいち説明する必要が全く無かった)この家のパソコンに移そうとしたが、残念ながら僕のパソコンがウインドウズ95なのに対して、ここのパソコンはウインドウズ3.2だったので、良く分からないが移植には失敗してしまった。お父さんがあからさまにがっかりしているので、その代わりと言うわけでもないが、今度はデジタルカメラを見せてあげて、これがコンピュータで画像を見れるものなのだと言う事を説明した。この辺の理解も早い。大抵の人は(日本人も含めて)僕がいくらデジタルカメラの仕組みを説明しても分かってもらえないものなのだが、お父さんはすぐに「それじゃあその映像をフロッピーに入れれば、家のコンピュータでも見れるんだね」と早速写真撮影大会が始まる。 この家のコンピュータには、映像を見るソフトがもともとインストールされていて、家族の映像は無事彼らのコンピュータに収まった。普段僕は小さなコンピュータの液晶画面で写真を見ているが、大きなブラウン管で写真を見ると、その写真が僕が予想していたよりもずっと奇麗に写るのを見て、正直言って驚いた。ブラウン管で見た限りにおいては、写真よりもよっぽど奇麗に見える。これで、高画質のプリンターさえあれば、もう鬼に金棒というところだろうか。 そんなことをして遊んでいるうちに、お母さんが「あなたたち、今日出発できることになったわよ」と笑顔で話してくれた。実は午前中に「人民帽」がトンファさんと話をしていて、その時の情報では明日の朝と言う事だったので、僕らはちょっと驚く。実は僕はその時明らかに熱がある状態で、少しボーっとしていたのだが、この機会を逃すと今度はいつ出発できるとも解らないと思ったので、今日の出発に合意することにした。そこにトンファさんがやってきて、4時に出発すると言う。結局ジープの修理をあきらめて、他の車を手配してきたようなのだ。その時はまだ1時半だったので少しのんびりしていると、2時頃またトンファさんがやってきて「もう準備は出来ましたか?」と僕らを急かした。慌てて準備をして、お父さんやお母さんに別れの挨拶をするも、またトンファさんはどこかに行ってしまった。トンファさんの荷造りももう完璧に終わっている様子なので、僕らは今か今かと彼の帰りを待った。 結局、彼は6時にようやく戻ってきた。さすがに、帰ってくるなりお父さんにキツクしかられている。彼の目は真っ赤で、なにかトラブルが起きたことが明らかだ。僕はもう彼にすべてを任せるつもりでいて、彼が僕らのためにいろいろと一生懸命手を尽くしているのを知っているので、長く待たされていてもそんなに怒る気になれなかった。まして、憔悴しきっている彼の様子を見るとなおさらだ。彼はきちんと順序立てて事の顛末を教えてくれた。要するに新たに手配したジープの持ち主との間に、金銭の面でトラブルが生じたらしい。本当はもうまさに今出発と言うところまでいったのに、その辺の詰めが甘かったのか、それとも向こうが急に態度を変えたのか解らないが、交渉が決裂してしまったのだ。 そこで彼は、また次の策を巡らせるために、いろいろと駆け回ってくれた。そして僕らにこういう。「明日、朝、申し訳ないがバスで道浮まで行きましょう。そこに私の妻がいて、そこならジープの手配が何とかなりそうなのです」僕らはうなずく。けっこういらいらしていて、明日いけないのなら僕はもうこのツアーから降ります、とまで言っていた「人民帽」は「僕ももう大船に乗ったつもりで、すべてをトンファさんに任せます。もう文句も言いません。」と彼の様子に感動していた。 相変わらず、うまい夕食を食って、新たな人が家を訪れるたびにデジタルカメラで写真を撮って、それから今日もまた麻雀で盛り上がった。ひょうたんからコマというのはこういう事を言うのかもしれないが、僕はもう既にこの家族との生活をとても楽しんでいて、場合によってはここでしばらく暮らしてもいいとさえ思いはじめていた。けれども明日は本当に出発しそうな気配だ。トンファさんは僕らを6時半に起こしに来ますと言っていた。だから僕はいちおう6時に目覚しをかけて、それから忘れずに薬を飲んで眠る事にした。幸い熱は下がったようだし、喉の痛みも取れてきた。これで咳がとまれば完璧だ。
2004年08月14日
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朝、予定よりも少し早くトンファさんが僕らの部屋のドアをノックした。まだ準備が整っていない僕らは、急いで準備する。そしてトンファさんは僕らを彼の実家に連れていってくれた。「人民帽」は一度訪れていて、結構慣れたようすでトンファさんのお父さんやお母さんに挨拶している。お父さんは割腹の良い感じで、ちまたに溢れる中国人の老人という感じがしない。身なりもとても整っていて、いつも優しい目をしていた。お母さんは小柄で、何かと僕らに気を遣ってくれる。特にまだ風邪から完治していない「人民帽」は薬攻めにあっていた。トンファさんは、すぐに車を修理するためといってどこかに行ってしまった。その間、お父さんが僕らにこれから向かう地域のビデオを見せてくれる。そしてところどころ解説を入れてくれた。 昨日、トンファさんは、僕らは早ければ今日の10時に出発できると言った。けれども昼飯どきになっても彼は戻ってこない。やっぱり車の調子がかんばしくないのだろうか。昼飯はとても豪華で、松茸を大量に使った炒めものが僕を泣かせた。最近食が細くなったなどとぼやいている側から、図々しくもご飯を3杯もおかわりしてしまう。その後トンファさんのお姉さんの娘であるニイニイ(13)に折鶴を教えてあげたりして、のんびりと午後の一時を過ごした。 まだ調子のよくない「人民帽」は、待ちくたびれたのも手伝ってか、「ちょっと眠ります」と行って、居間から消えた。それからしばらくしてトンファさんから電話があり、やはり車の修理の状況が芳しくなく、今日は出発できそうに無い事、彼自身は5時ころ戻ってくる事などを僕に伝えた。そうなってくると、折角の天気の良い午後を家の中でだらだらと過ごしているのはもったいない。そこで、熟睡している「人民帽」はそのままに、僕はその辺をうろうろする事にする。 突然温泉に行きたくなった。2日前に行った温泉の快適さが忘れられなくて、だから前に行った温泉をもう一度目指した。今回は一人で広い湯船を独占できる。前回は6元の部屋だったが、今回は一人ということで、4.5元の部屋をあてがわれた。と言っても実際の広さにはそれ程の差も無く、なんとなく得した気分だ。40分ほどのんびりと湯に浸かって、トンファさんの実家にもどる。そして、僕もちょっと横になる。 あっという間に夕食の時間だった。昼にも増して豪華な食事で、大根と鳥肉の辛炒めは絶品だった。ご飯はチャーハンになっていて、それだけ食べてもなかなかいける。ここの家の料理はとてもうまい。勧められるままに、またもや腹がパンパンに膨れあがるまで箸を休めなかった。そのころトンファさんが、とても疲れた顔をして戻ってくる。僕はもうすべてをトンファさんに任せるつもりでいる。なかなか出発できないのはそれなりの理由があるのだと理解している。大船に乗った気持ちだ。けれども、だからといってだらだらといつとも解らない出発を待つ気はない。その辺をきちんと伝えるべきだとは思っていた。 「人民帽」も同じ考えだったらしい。彼がいらいらしている様子は手に取るようにわかる。そして最初に口火を切ったのは「人民帽」だった。どうしてもビザの制限があるので、ここで溜まっているわけにはいかない。もし明後日までに出発できなければ、僕らは陸路でラサに行くことをあきらめて、飛行機を使わざるを得ない。けれどもできるだけ陸路で、トンファさんと一緒にラサを目指したいので、何とか明後日までに出発できるようにしてくれというような言い方を彼はした。それはなかなかうまい交渉の進め方であると僕は感心する。 ただ、一つだけ気にかかった事があった。彼が、トンファさんと会話をしているあいまあいまで、トンファさんが言う事に対して「信用できないなあ」とか「うそくさいなあ」とか日本人相手の交渉では決して口に出さない様な事を、独り言で言う。そしてトンファさんは日本語をある程度理解できる。これは誠実に僕らの要求に対して答えようとしている相手に言うべき言葉ではない。もし仮に僕がトンファさんで、そのような物の言い方をされたら、このラサ行きそのものを破棄してしまいたい気分になる。幸いトンファさんは、彼の独り言を理解していなかったようだが、僕は彼がそのような独り言を言うたびに、いちいちドキドキしていた。 青いなと思った。トンファさんがいなくなった隙に僕はこっそりと彼に向かって、独り言の日本語に気をつけるようにと言った。そうすると、彼は、僕の常識では信じられない反応を示した。彼は突然怒り出して「そんなの大きなお世話ですよ」と言ったのだ。「そんなのは別に関係無い。トンファさんが理解していたって構わない」と続ける。その一言で僕は彼が自分のしている事が、ひいては僕にまで影響してくると言う事を全く分かっていないのだと悟った。視野が狭すぎる。まだ学生なのでしょうがないのだろうか、それとも、待たされすぎていらいらしていて、分別を失っているのだろうか。 その一言を浴びせられて、僕は急にどうでも良くなってしまった。一瞬カチンと来た事は来たが、こういう頭に血が登った相手に何を言っても無駄だ。だから「そうですか、わかりました」とだけ彼には言った。彼の一言で、もしラサ行きがだめになったとしても、それはひいては彼をパートナーに選んだ僕の責任でもあると、妙に悟ってしまう。けれども、いままで彼の評価がなかなか高かっただけに、彼の一言は僕にとってとても残念だった。 麻雀をしようと言う事になった。中国式の麻雀初体験である。ルールがわからないと言っていると、だいたい日本のと同じだからとりあえずやってみようと言われた。なるほど、ルールは日本のものよりずいぶんと簡単だった。まず中国の麻雀には字牌が無い。そしてとにかくポンをしまくって、手配を3、3、3、3、2でそろえて行けばおしまいである。ただし、手元の牌の種類は2種類までしかもってはいけない。それがなかなか曲者で、何をそろえるかによって、その後の展開が決まってくる。ドラ、やリーチなどは一切無く、点棒も無く、一回の勝負ごとに現金が行き交う。勝った人が親になるのだが、特に親の特権と言うのもなかった。 ただし、役の様なものがあるらしく、役が一つあるごとに特典が2倍になる。二つあると4倍、三つあると8倍というように、倍倍ゲームで増えていく。僕が把握した役は、カン、トイトイ、チンイツ、チャンタの四つだったが、他にもいろいろと役があるのかもしれない。3時間ほど麻雀で盛り上がりなかなか面白かった。 深夜、このままの状況で「人民帽」と旅を続けるのが窮屈に感じた僕は、僕の方から「言い方が悪かった」という形で話を切り出した。そうすると、彼は「自分のあの態度は悪かったと反省している。自分は生意気で、だから会社勤めにも自信が無い」と言うような事を言った。彼は彼で、いろいろと考えているようだ。僕も、もう少し大人にならなければいけないなあと、いろいろと考えた。 ところで、ちょっと風邪をひいたようだ。喉が痛い。ちょっと嫌な予感がする。
2004年08月13日
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日本に連絡を取ろうと思った。ずっと中国の辺境ばかり歩いてきていて、当然インターネットへの接続など出来るはずが無い。実際昨日このホテルでも試そうとしたが、郵電局のオペレーターを通じなければ香港に電話が出来ないと言われてあきらめていた。これから先ラサまで15日の道のりだ。その間は電話もできなければ郵便事情だってどうなっているのかあやしい地域だ。その上、本来は外国人が行ってはいけないところなので、あまり目立つ事はできない。だから、なんとしても今のうちに日本に連絡をして、自分の無事を伝えるのが礼儀だとおもった。 けれども、だめだった。日本に3回電話を申し込んだが、どれも繋がらなかった。しょうがないので、はがきを一枚書いたが、そのはがきだって一体いつになったらつくことやら。やはり中国はあなどれない。 ところで、「人民帽」の調子がすぐれない。今日出発する自信があまり無さそうだ。それでも、張切っているトンカさんにも悪いし、熱も無いので、なんとか行けると思うと彼は言う。僕に遠慮しているのもありありと分かる。僕は病院でもらった薬を沢山持っているので、彼から症状を聞出そうとしたのだが、彼からはあまりはっきりした事を聞出せない。僕は取り合えずトンカさんが来るまで様子を見て、それで、その時の彼の体調を見て、トンカさんと相談しようと思っていた。とにかく彼に栄養をつけなければいけないので、強引に昼食に連れ出し、なんとか飯を食わせる。そして、一応二人とも荷造りを終えて、トンカさんの登場を待った。 ところがである。約束の時間になっても彼は来ない。「人民帽」は体がやはりきついらしく、昼食後すぐに熟睡状態だ。僕もなんだか眠たくなってきて、トンカさんを待ちながら、うとうとしてしまった。気が付くと3時を回っている。今日の出発はもう無理だろう。それにしても「とんでもトンカ」は一体どこで何をしているのだろう?まあでもこちらにとっても、今日出発できないのは好都合と言えば好都合なので、良しとするか。 あまりに暇なので、髪を切ることにした。最近シャンプーの消耗が激しいので思い切って坊主頭にする。そのつもりで、床屋のねえちゃんにとにかく短く切ってくれと言ったのだが、出来上がったのは坊主というより、なんだか柄の悪い角刈りの兄ちゃんだった。今回のビザ延長騒動で髭をそる暇が無くて伸びたままになっていたのだが、さすがにそれは不気味なので、顎鬚は奇麗にそる事にした。けれども、ただいま口髭を伸ばすのに挑戦中である。 「人民帽」に熱が出てきた。頭がボーっとするという。典型的な風邪の症状だ。持っていた坐薬を彼に渡すと、彼は坐薬と言うものは見るのも使うのも初めてだと大騒ぎして、それでもなんとか薬を挿入していた。そして1時間後にはいきなり元気爆発状態になっていた。といってもまだ本調子ではないらしく、顔色の回復度も80パーセントというところだろうか。それでも、何とか明日には行けそうである。よかった、よかった。 そんな状況の時に、能天気な「とんでもトンカ」が、それでも少し申し訳なさそうな顔をして登場した。話によると、いろいろ考えた結果、自分の車は小さすぎて危険なので、おじさんに大きな車を借りに行っていたのだそうだ。そうして、そのまますぐに出発できると思っていたのだが、ちょっと修理が必要で、いままでかかっていたのだそうである。けれども明日には出発できるので安心してくれとのことだった。こちらも小さな車で事故にあっても困るし、そもそも今日の「人民帽」の状態ではとても出発できる状態ではなかったので、お互い利害が一致したという事で、しゃんしゃんと手を打った。 そうか、明日はいよいよ出発か。
2004年08月12日
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帰ってきた。ついに帰ってきた。これで4日間はき続けたパンツとも靴下ともTシャツともお別れである。ようやく髭もそれる。ちなみに、風呂にはきちんと入っていたので、念のため。 バスは予定より3時間しか遅れずに、12時少し前に康定に着いた。早速「人民帽」の待つ康定賓館にへとバイクタクシーを飛ばす。見慣れた景色が後ろに流れていく。この街には丸一日しか滞在していないはずなのだが、もっと長くいた気がする。そしてここに「帰ってきた」という感じがするから不思議だ。「人民帽」のいる部屋の扉を叩くと、彼がのそっと現れた。明らかに顔色が悪い。僕が彼に最初にかけた言葉は「風邪ですか?」だった。聞けばこの2~3日調子が悪いらしい。彼は青い顔をしてそう語った。 彼はこのホテルのドミトリーに移っており、だからそこにはルームメイトがいた。日本人の中年のおじさんで、もう20年も旅行をしたり現地で働いたりして過ごしているのだそうだ。彼はいつもラジオで日本の情報を仕入れていた。「人民帽」の話によると、昨日中国語の達者なこの「ラジオニッポン」と一緒にトンカさんと飯を食ったそうだ。そして更にトンカさんの家にまで遊びに行ってきたのだそうである。二人とも僕にトンカさんがいかに良い人であるかを、切々と語った。トンカさんは元判事だったのだがそうだが、給料があまりにも安いのに嫌気をさして、今はガイドの様な事をやっているのだそうだ。なんだかモンゴルで会ったイドレーみたいだ。なかなかアイデアマンらしく、特別の眼鏡をかけると、こちら側に牌が透けて見えてしまう麻雀牌を発明したらしい。 特に「ラジオニッポン」は経験豊富なだけに、僕らが1万元でラサまで連れていってもらえるのはとてもラッキーだと言ってくれた。自分が見たところ、トンカさんは絶対に悪い人ではないから、彼を信頼して着いていって大丈夫だと太鼓判まで押してくれた。 自分では元気なつもりなのだが、雅安、成都と駆け回って疲れていない筈がないのだから、しばらく休みなさいと二人に言われる。ちょうど近くに温泉があるので、そこに行って、ゆっくりと疲れを癒して、それから横になることにした。そうすると、「人民帽」も「ラジオニッポン」も僕の話に乗るという。そこで早速3人で温泉を目指した。 温泉は町外れにあって、大きな浴槽を備えた個室がいくつも並んでいる。一つの個室は3人から5人ほどまで同時に入れる、浴槽の奥にはベンチまで備わっていた。浴槽はとても深く、立って入るのにちょうど良い。お湯はぬるく、長時間ゆっくり浸かって疲れをとるにはちょうど良かった。入湯料は一部屋6元。一人2元という安さである。一時間ほどゆっくり使って、それから待合室のようなところでたらふくお茶を飲んだ。「ラジオニッポン」といろいろな旅のスタイルについて話をしたのだが、彼の考えと僕の考えが驚くほど一致している部分が多く、共感が持てた。彼は僕の事を見て、「君は僕が今まで会った他の人に比べて、とても肩の力が抜けている。そういうリラックスしているところから出る余裕が、旅を楽しく、より身のあるものにすると僕は思うよ」と言ってくれた。 温泉からホテルに帰ってきて、とても深い眠りに落ちた。ほんの30分程の眠りだったが、夢も見ずに、ひたすら闇の世界をさ迷った。「ラジオニッポン」が何度も僕に助言してくれたとおり、自分の気が付かないところで、僕の体は疲労しているのだなあと思った。 目が覚めてしばらくすると、トンカさんが現れた。なんだか彼は僕ら以上にチベット行きに張切っているようだ。僕と「人民帽」の間では、明日は一日休んで明後日出発しようと言う事になっていたのだが、来ていきなり「明日の1時に出発しましょう」と有無を言わさず決めてしまう。こちらが否定できない勢いだ。彼は嵐のようにやって来て、嵐のように去っていった。面白い男である。 そのあと僕ら三人は疲れた体を癒すために薬膳鍋を食いに行った。もういろいろな具が出てきて、とても全部食べられない。具のなかの一つに豚の脳みそがあったのだが、それはさすがに3人ともパスした。ビールを少しだけ飲んで、あとはひたすら鍋に箸をつつく。じゃがいもとソーセージ、それに魚がとてもおいしかった。 帰ってきて僕は溜りに溜まった日記をかきまくる。まだ調子のすぐれない「人民帽」は早速横になり、「ラジオニッポン」は当然のようにラジオを聞きまくっていた。平和な夜だった。
2004年08月11日
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のぼせた。金銭感覚にのぼせた。雅安からここまで来るのに、僕はタクシーをチャーターしてしまった。料金は交渉の末300元。成都から康定に向かうバスの時間がわからず、けれども最低でも3時間は成都に滞在したかった僕は、いつ着くとも解らないバスよりも、自分の自由が効きそうなタクシーを選んだのだ。こういう時間のない時には、お金にケチると失敗するものだ。だから少し交渉して、300元で手を打った。ちなみに僕はモノを買う時にはとことんまで値切ることにしているが、サービスを買う時には相手のビジネスの事を考えて、通常よりも少し高い金額だとしても手を打つ事にしている。彼らにとっておいしいビジネスのレベルにしておくのだ。そうしないと、お互い気持ちが悪いし、なによりも料金の差はすぐにサービスの質になって返ってくる。最近それがわかってきた。実際、タクシーは3時間きっかりで僕を成都の街に送り届けてくれ、最後に、運転手は筆談で「日本人の友よ、これからも気をつけて旅行をしてください」と書いてくれた。そんな気持ちが僕にとってはとてもうれしい。ちなみに、タクシーは街の中心部までは入っていけないのだそうで、だから僕は成都の街の入り口で降ろされてしまった。 のぼせた。久しぶりの大都会にのぼせた。成都の街はそれはもう大きな街だった。高いビルが林立し、人で溢れかえっている。中国というものはどこに行っても人で溢れかえっているものだが、それでもいままで田舎ばかり巡ってきた僕は、この街の人込みに圧倒されてしまう。息苦しささえ感じてしまう。街は広く、どこまでも整備された道が続いている。道路標識には英語が表記されていた。そんな街の中を、僕は冷房の効いたタクシーを駆使して走り回った。この街にはバスターミナルがいくつもあり、だから康定に帰るためのバスターミナルを探すだけでも一苦労だった。最初に着いたバスターミナルで、タクシーの運転手が係員に「ここから康定にバスが出ているか」と聞くと、係員は別のバスターミナルを教えてくれた。タクシーはそのまま僕をその教えられたバスターミナルに連れていってくれたが、そこは、やはり違う場所だった。そこで、バスターミナルのおばちゃんに正しい場所を教えてもらい、ようやく康定に行くバスを発見した。出発時間は4時なのだそうだ。今がちょうど1時過ぎなので、予定通り3時間ほどこの街に滞在できる。 のぼせた。大量の札束にのぼせた。帰りのバスの手配をして、僕はすぐにホテルに向かった。もちろん両替をするためだ。最初4つ星ホテルで聞いてみた。そうするとチェックの両替はホテルの客でないとできないという。そこをなんとかと食い下がって、マネージャーと電話で話すが、そもそもいま現金が不足していて、どうしても無理なのだそうだ。道の向こうにある錦江飯店という5つ星ホテルであれば出来るだろうからそこをあたって見てくれと言われ、僕はおとなしくそこを目指す。そうするとあっさりと両替が出来、トンカさんに払う10000元と、「人民帽」に貸す分、それから自分の生活費など、もう大量に両替しまくった。僕の懐にあるお札はもう人生ゲーム状態である。ちなみに人生ゲームとは、むかし流行ったボードゲームで、山を買ったり、別荘を買ったりと、もう大量のお金が行き交い、とても大金持になった気分にさせてくれるゲームだ。でも最後に子供をお金に変えたり、一発勝負で大富豪になるか、ど貧民になるかをルーレットで賭けるという、良く考えたら教育上あまりよくないゲームだった気がする。 のぼせた。久しぶりの日本食にのぼせた。両替を終えて一安心すると、次は飯だ。ホテルのフロントに高級日本食レストランの案内がでている。大量の札束を抱えて、少し気が大きくなっている僕は、ふらふらと引き寄せられるようにその店の暖簾をくぐっていた。おにぎり、味噌汁、魚の味噌焼き、それに野菜を豚肉で巻いたものを油で揚げたものを頼んだ。締めて130元だった。そういえばその前にキーンと冷えたカールスバーグも飲んだっけ。むさぼるように食ったが、最近胃が小さくなったようで、どうしても全部食べられない。そこで、思わずおにぎり一個と野菜の肉巻一個はお持ち帰りパックに入れてもらってしまった。僕が帰ろうとすると、注文していないフルーツ盛り合わせが出てきた。聞けばサービスだという。さすが高級日本食レストランだ。ちなみにレシートを見るとみんな12%引きになっていたのはどうしてだろう? のぼせた。この街の暑さにのぼせた。強い日差しに加えて、湿気がすごい。もう蒸し風呂状態だ。ホテルを出て、トンカさんに頼まれたポラロイドのフイルムを買うために道路を歩いているだけでもうバテテしまう。途中冷たい飲み物をどんどん飲んでしまい、それが瞬く間に汗となって僕の体に不快感を与える。ホテルの中やデパートの中は冷房がギンギンに効いていて、外の気温とあまりにも差があるために体の調子が狂ってしまう。最後の方は街を歩いているだけで、本当に物理的に体がのぼせた状態になって、体がフラフラした。所要を全部終えて、ようやくバスターミナルに戻って来ても、そののぼせた状態はおさまらなかった。けれども1時間ほど遅れてバスが出発して、窓から風が吹き込んでくると、体の方は楽になって、ようやく普段の自分に戻った。とにかくこの4日間のあわただしいいろいろな用件を、やっとことで全部かたずけたことで、僕は本当に安心した。
2004年08月10日
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目が覚める。一瞬自分がどこに居るのかわからなくなり戸惑う。そうか、昨日、見知らぬ街で、衝動的にバスを降りてしまったのだった。そして、公安の人に勧められるまま、この街で一番良いホテルと言われた「雅安賓館」に落ち着いたのだった。昨日は一日中バスに揺られていて、そのバスが夕方まで食事休憩を取らなかったものだから、僕は餓死寸前で、このホテルのレストランに駆け込んだ。どうしても冷たいビールが飲みたかったのだが、残念ながら冷えたビールは存在せず、だからビールに氷を入れると言う荒業でなんとか喉を潤した。レストランには日本語を少しだけしゃべれる人と、英語を少しだけしゃべれる人がそれぞれ一人ずついて、彼女達と会話をしながら食事を出来たのはとても楽しかった。なんでもこの雅安という都市は、パンダの故郷で、さらに日本の三次市と姉妹都市なんだそうである。 そんなことをぼんやりと考えていると、誰かがドアをノックした。昨日の公安の人だ。彼によると、彼は昨日僕のために沢山電話をかけてくれたらしく、なんとかここでビザの延長が出来そうだといった。まだ確実ではないが、今晩何とかなりそうなので、もう一泊この街に泊ってくれないかと言う。そして、日中はこの街を観光でもしてくださいと雅安の立派なガイドブックを僕にプレゼントしてくれた。お言葉に甘えて、今日はのんびりすることにする。 実は「人民帽」とトンカさんからそれぞれ頼まれている事があった。「人民帽」には両替を頼まれており、トンカさんにはポラロイドカメラのフィルムの購入を頼まれていたのだ。どちらも康定の街では出来ない事らしい。両替については、この後訪れる予定の都市で両替を出来る所はまずなさそうなので、「人民帽」に頼まれなくても僕自身としても是非とも必要だ。最初、ホテルで聞いてみるが、街一番のそのホテルでも両替はできないらしい。フロントの人々は、いろいろな所に問い合わせてくれたが、今日は土曜日なので、両替のサービスはやっていないのだと言った。自分で街をうろつく際にもいろいろとあたってみたが、どうもこの街では無理っぽい。ついでにポラロイドの方も3軒ほど回ってみたが、どこにも売っていなかった。 両方とも目的は達成できなかったが、とりあえず所要は済ませて、街をのんびりと歩く。ここは今までいたところに比べて高度が低いので、とても暑く感じられる。そのためか、ここでは冷えた飲み物が当たり前のように売っている。(でも昨日レストランでは冷えたビールは飲めなかった)街の人々の服装も、いままでの長袖中心から、半袖中心へと変わっており、それだけで街全体の様子が幾分軽く見えるから不思議だ。東京のように湿度が高い訳でもないのだが、乾いた鋭い日差しが僕の肌を刺す。そして僕は額にうっすらと汗を浮かべる。特に観光名所でもないこの街では、ある程度街を歩きまわると、既に見るべきものは無くなってしまう。だから僕は数時間ほど街をうろついた後は、ひたすらホテルの部屋に戻って、鋭い日差しから避難していた。 久しぶりに長い手紙を書いた。思えばこの旅が始まって以来、葉書ではなく、封書で手紙を書いたのは初めてだ。葉書にしろ、封書にしろここしばらくあわただしい日々が続いていて、日本への連絡を怠っている。だから、とりあえず僕が元気でいる旨を伝えるために、筆をとった。1時間ほどかけて書いたその手紙を、ホテルのフロントに出しに行く。そうすると、ホテルのフロンとでは、国際航空郵便は特別の封筒を利用しなければならなく、それは郵便局にいかないと買えないのだと言う。そして「私たちあと10分で今日の仕事が終わりだから、ちょっと待っていて。郵便局まで案内してあげるわ」と申し出てくれた。 なかなかおしゃれな美女二人に囲まれて、無精ひげぼうぼうの汚い身なりの僕は郵便局を目指す。途中所々で立ち止まりながら、観光案内までしてくれた。昨日のウエイシャの件と言い、公安の件といい、今日のこの二人といい、この街は暖かい親切で溢れている。こんな人々との出会いが、僕をこの街を大好きにさせる。 夕方公安の彼から電話があった。ビザの延長はOKだという。もう少ししたら迎えに行くから、ホテルの部屋で待っていてくれとのことだった。そして、1時間ほどしてから彼が現れ、僕は昨日訪れた公安の部屋に連れて行かれた。ちなみにその時の自転車タクシーのお金は彼が払ってくれた。彼は延長は出来るが、一つ残念な事もあるという。それは、僕が康定で申請に行ったのは分かったが、それでもやはり一日分の不法滞在の罰金を支払わねばならないらしい。本当は不法滞在は昨日とおとといの2日分なのだが、昨日の分は、僕がこちらに出頭しているので免除してもらえるのだそうだ。けれども罰金は500元。こりゃあなかなか辛い。 仕方ないので、500元は支払うことにする。いろいろと質問をされて、彼は調書を書いていった。僕がなにかこの罰則に不服がある時には、上級裁判所に提訴出来るのだそうだが、もちろんそんな面倒くさい事をするつもりはない。その処理に1時間ほどかかって、いよいよビザの延長だ。最大限度の30日分をあっさりくれた。しかし、この街でそういう手続きをする人はあまりいないらしく、一生懸命マニュアルをみながら、判子を探してきて、いろいろやっていたのは、少し微笑ましかった。 ホテルに帰ってきて、「人民帽」にビザの延長が出来た旨を伝える。そして、両替の件を相談したところ、やはり僕がこの後成都に行って、どこかのホテルで両替をする必要があるという結論がでた。そして「人民帽」にチベット行きを一日伸ばしてもらえるよう、トンカさんに交渉してもらうようお願いした。明日は雅安-成都-康定と、忙しい移動の一日になりそうだ。
2004年08月09日
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果たしてここは中国だ。日本のようにすべてがスムーズに行くなんて考えていると痛い目に会う。昨日成都を目指した時、僕の中のプランはこうだった。バスは今日の朝には成都に着くスケジュールだ。そして、今日中に延長手続きを済ませて、それからその足でまた寝台バスにのり、康定に返ってくる。そうすると土曜の朝には康定に着くわけで、土曜、日曜とゆっくりと静養して、それから月曜日にラサを目指して出発する。計画は完璧だ。だから着替えなんて持っていないし、ほとんど手ぶら状態だ。しかしやっぱりここは中国だ。取って置きの障害を僕に用意しておいてくれた。 昨日はバスは順調に走っていた。けれども食事休憩を終えて、峠に入った頃から様子がおかしくなった。午後11頃にバスが止まってしまったのだ。前にはトラックの長い行列が出来ている。まあ、今や中国バス旅行のベテランになってしまった僕にとっては、特にこれは珍しい事ではないので、1時間もすればまた動き出すだろうと、のんきに構えていて、熟睡を決め込んでいた。ところがである。朝目覚めた時もバスは同じ場所に居るではないか。午前8時を過ぎてもウンともスンとも言わない。こんなんで今日中に、それも公安が閉まる5時までに成都に着けるんだろうか? もう考えてもしょうがないので、いったんバスから降りて、立ち小便を始めた。元気よく出始めた頃、突然あたりが騒がしくなって、あっという間にバスは僕を置いて出発してしまった。こっちも忙しい最中で、勢い良く出始めたものを、途中で止める事はできない。ちょっと慌てたが、とりあえず用を足して、全速力でバスを追いかける。バスは意外と遠くまで走っていってしまっており、こちらは必死だ。こんな所で置いていかれた日にゃたまったもんじゃあない。と、バスはだんだんと速度をゆるめ、ようやく400メートル程先でとまってくれた。全く朝っぱらから、健康にいいんだか、悪いんだか。 問題は、崖崩れだった。この辺は崖崩れが頻繁に起きる土地で、だから夜間の通行を制限していたらしいのだ。そして、道は数キロにわたって半分ふさがっており、車が一台しか通れる余地は無い。だから9時過ぎにようやく道が開放されても、結局この渋滞を抜けるのに2時間程度かかってしまいう。もうだんだん成都でビザの延長をするのは絶望的になってきた。地図まで「人民帽」に預けてきてしまった僕は、もうここがどこなのかさっぱり分からず、だからあとどれくらいで成都に着くのかもわからない。 夕方4時頃にバスは少し大き目の街を通過した。最初ここが成都かと思ったが、世の中そんなに甘くはなく、ここは「雅安」という街らしかった。この街を通過している間に僕はいろいろと考えを巡らせる。どうもここから1時間以内に成都に着く確率は低い。いっそこの街でビザの延長はできないものだろうか。けれども康定の街では成都でなければできないと言われており、この街でだって同じ事を言われる可能性は高い。僕は勝手に成都でのビザの延長の受け付けが5時で終わると考えているが、ひょっとしたら夜の8時までやっているかもしれないし、土曜日にもやっているかもしれない。そうなれば、今日このまま成都に行ってしまった方が良いに違いない。そんなことを考えつつ、うじうじしているうちに、バスは街の中心部をさっさと抜けてしまった。そこで、僕はこのまま成都を目指す事になってしまった。 と、バスは街を外れたところで、突然食事休憩のために停車した。これは願ってもないチャンスだ。念のためバスの前方に坐っていた香港人に成都までどれくらいかを聞くと、155キロで早くても3時間だろうという。これで僕の腹は固まった。とりあえずここでトライしてみて、だめならばすぐに成都を目指せば良い事だ。だから、もうここでバスを降りて、即刻この街の公安を目指すことにする。果たしてこの決断が吉と出るか、凶とでるか。 香港人3人組みの内の一人が北京語をしゃべれたので、彼に訳を話してバイクタクシーのおじちゃんに僕を公安に連れていってくれるようお願いする。すると運転手は、バイクタクシーは街の中心部に行くことができないが、途中まで僕を乗せていって、そこで、自転車タクシーに引き継いでくれるということになった。香港人とわかれて早速僕は公安を目指す。バイクタクシーのおじちゃんは行けるところまで行って、そこでここでしばらく待っていろと僕を残してどこかのビルに消えてしまう。しばらくして彼は一人の少女を連れて現れた。彼女は学校で英語を習っているので、ほんの少しだが英語を話せる。バイクタクシーのおじちゃんは、彼女は自分の妹で、少しでもあなたの助けになるでしょうと、僕と彼女を自転車タクシーに乗せてくれた。そして僕らはなんとか5時前に公安に辿り着いた。 今度の公安の人はとても親切だった。そして彼はどうして僕が康定でビザを更新できなかったのかをとても不思議がった。どうやらここではなんとか更新できそうな雰囲気だ。けれども、彼は僕にとってショックな事を言う。なんと、その手続きをで出来る人が出張か何かでどこかに行ってしまっていて、連絡を取ろうとしているのだが連絡が取れないというのだ。そして、彼もやはり成都にいくことを薦める。ただし、今日僕がここに来た事は証明してくれるから、あまり心配するなと言ってくれた。ちょっとがっかりして、僕がまさにそこを去ろうとした時、件の「手続きが出来る人」から電話がかかった。そして、彼はここでもう少し待っているよう言った。 それから30分待ったが、結局進展はない。彼は明日の朝まで自分がいろいろと手はずをつけてみるから、今日はこの街に泊ってくれないかという。そして、明日の朝までに何も進展が無ければ、やはり成都に行ってくれということだった。僕はもう疲れていて、このままベッドに横になりたい気分だったので、彼に素直にしたがった。そしてそこで今まで付いてきてくれた少女ウエイシャとは別れた。ちなみに今回の公安の方は英語がぺらぺらで、だから実はウエイシャは横に座っているだけで、彼女には退屈な思いをさせてしまった。 果たして僕の決断が正しかったのかどうか、今の状況では判断が付きかねる。けれども、この街でたくさんの暖かい心に触れた事で、僕の心はとても穏やかな気持ちになっていた。
2004年08月08日
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あわただしい展開だった。「人民帽」は僕と一緒にランドクルーザーをチャーターするために、ここまで一緒に付いてきてくれている。僕も一人でランドクルーザーをチャーターするのは、何かと危険が付きまとうので、是非とも彼と一緒にラサを目指したい。お互いの利害は一致している。けれども問題はビザだ。この街で延長出来ると思っていたのに、それが無理だと分かるといきなり計画が狂ってしまうのだ。そして、過酷なバス旅行を終えたばかりの僕はどうしてもすぐに成都を目指す気にはなれない。 今後の具体的な計画が固まらないまま、とにかくこの街の旅行会社を周って、いろいろと情報を集めて見ようということになった。街をうろつく。「人民帽」が持っているガイドブックの地図に「康定旅行社」というのがあったので、そこで話を聞くのが良いだろう。そう思いガイドブックにしたがって、歩いていくのだが、ガイドブックの地図の所にはその旅行社は存在しなかった。と言うより、存在し得なかった。なぜならその地図の指し示す場所はちょうど川の上にあたってしまうのだ。これだからやはりガイドブックはあてにはならない。 ここでまた電話帳作戦を実行することにする。ホテルで電話帳を借りて、旅行会社をさがそうと言うわけだ。中旬で一度ホテルを探すのに電話帳作戦を実行して味をしめており、旅行会社を探すのなど訳ないと思った。そこで一度ホテルに戻って、フロントの姉ちゃんに旅行会社を探したいから、電話帳を貸して欲しい旨を筆談を通じて伝えようとした。その時だった。隣で電話をしていたお兄ちゃんが、僕が苦労しているのに気が付いて、「ラサに行きたいんですか?」と日本語で話し掛けてきた。僕がうなずくと、「車をチャーターするととても高いですよ。成都から飛行機で行った方が良いですよ」といままで耳にタコが出来るほど聞かされてきた同じセリフをはいた。僕がどうしても陸路で行きたい旨を伝えると、「北京JEEPでないとだめなんですか?」と聞いてきた。というのは僕が筆談でホテルの人に伝えようとした時に、ランドクルーザーというのをどうやって中国語で伝えて良いか解らない僕は、とりあえず「北京JEEP」という固有名詞をだしたのだ。「北京JEEP」と中国でもっともポピュラーなランドクルーザーである。もちろん「別になんでもいいです」とと答えると、彼はどこかに電話を始めた。 最初僕は彼がどこかの旅行会社に電話をして話をつけてくれているのだと思った。けれども、電話を終えるや否や、僕を駐車場の方に連れて行く。そして彼は思わぬ事をいった。「これが私の車です。これでどうですか?」つまり、彼は彼自身で僕らをラサに連れていってくれようと考えているのだ。あまりの急展開にとまどうと共に、彼がどうも胡散臭く思えてしまう。けれども情報だけは聞いておこうと思い、料金を聞くと、僕らの人数を確認した上で「1万6千元」と言った。前に一度アメリカ人3人を連れていって、2万5千元だったのだそうだ。けれども、僕らは二人だから1万6千元で良いと言う。けれどもそれは僕らにとっては大幅に予算オーバーだ。僕らは最高でも1万元までしか出せないんですよ。と言うと、彼はしばらく考えていたが、それでも良いという。あっさり6千元も下がってしまう。これもなんだかあやしい。 けれども、彼はずいぶんと経験豊富なようだし、それに日本語と英語ができるのでガイドとしてはこれ以上望むべくものはない。この後二人で相談して、今晩の8時に結論を出すと言う事で、話を切り上げた。ところで出発は月曜日だという。ここでビザの問題が再発する。もし彼の話に乗るのだとしたら今日中に成都に行って、明日、金曜日中に申請をし、ここに戻ってくる必要があるのだ。彼は胡散臭い点もあるのは否めないが、話をしていると悪い人間とも思えず、信用出来るところも多々ある。そもそも彼の話に乗るのかを、「人民帽」と話していたところに、彼、トンカさんから電話があった。 実は僕らはこのホテルに二泊するつもりで、既にお金を払い込んである。ところが、なにやら共産党のお偉方がこの部屋に泊るので、僕らにホテルの部屋を替わって欲しいというのだ。話を聞くとここよりも多少良い部屋に移る事が出来るようなので、僕らはトンカさんと一緒に部屋を移ることにした。そしてその時に、僕にビザの問題があるのだという事を伝えておいた。そうするともし今日成都に行くのだとしたら、3時のバスがあるということを教えてくれた。 3時までに結論を出さねばならない。「人民帽」と一緒に激論を重ねる。けれどもお互い、少しの疑念を持ちながらも、彼の話に乗ろうと言う事に話が傾きつつあった。そして、僕が成都に行っている間に「人民帽」が彼の様子をもう少し探ると言う事でほぼ話が固まった。どちらにしても僕はビザを延長せねばならないし、それは早い方が良いのだ。今日のホテル代を既に払い込んでしまっているが、もうそれはしょうがないだろう。せめて3時までのんびりベッドで横になっていよう。そう考えた矢先に、また誰かがドアをノックした。 トンカさんだった。彼は少し慌てた様子で、「バスは3時ではなくて、1時でした」と言う。今度はこちらが焦る。何しろ今は12時45分だ。慌てて準備をする。重たい荷物は全部「人民帽」に預けることにして、身軽な格好で、急いでバスターミナルを目指した。トンカさんも一緒に付いてきてくれた。バスはまさに出発するところで、ぎりぎりセーフで滑り込む。このバスは寝台バスで、ラッキーな事に一つだけ席が開いていた。僕はなんだか急な展開に少し戸惑いながらも、それを楽しみながら移りゆく窓の景色を眺めていた。それにしても、この先いったいどんな展開が待っているのだろう?
2004年08月07日
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短いが深い眠りから覚めて、今日もまた尻が痛くなるバス旅行の再開だ。昨日と同じ座席順が見事に再現されて、僕も「人民帽」もまた窮屈な姿勢を強いられる。けれどもそん中でも、「人民帽」は熟睡していて、すごいなあと思う。ところが、それが実は彼にとって不幸な事件を引き起こしてしまった。というのは彼の財布がすられてしまったのである。僕はバスの前の方に坐っており、彼は真ん中辺にいたのでその現場を見てはいなかったのだが、彼の隣に座っている柄の悪い兄ちゃんが怪しそうだ。それは「人民帽」も同じ意見らしく、その辺の探りを入れていたが、案の定無駄だった。 でも、「人民帽」は潔い。これは自分のミスで、今後の勉強になったと、きっぱりと財布をあきらめていた。中に入っていたのが40元と小額だったこともあるのだろうが、うじうじせずに、僕にそう語る様はなかなか恰好良かった。僕がそのような立場にたたされた時も、彼のようにありたいと思った。 バスはさらに峠を2つ越えた。二つ目の峠は舗装道路だった。舗装された道を走るのはずいぶん久しぶりのような気がする。実際は中旬までは舗装道路だったのでそれほど懐かしいはずは無いのだが、少しでもバスの揺れが収まって、尻への振動が収まると、もうそれだけで僕は天国に昇ったような気分だ。バスはようやく午後1時にビルの立ち並ぶ康定の街に到着した。そう言えば昨日何時に康定に着くのかと聞いた時に、1時と言っていたっけ。1時と言うのは今日の午後1時ということだったのか。 この街は、真ん中に川の流れる山に囲まれた奇麗な街だった。「人民帽」と二人で、今日はもうバス・トイレ付きの高級ホテルに泊っちまいましょうと盛り上がり、この街で一番高級そうな「康定賓館」にチェックインした。一泊2人で160元である。ホテルでほんの少しだけ休んだ後、僕らは公安に向かった。もちろんビザの延長の申請をするためだ。何度か迷いつつも、なんとか公安局外事課に到着する。ここしばらくビザの延長のことばかり考えていた僕としては、「いよいよ」という感じだ。 けれども、そこに坐っていた体格の良いおばちゃんは、僕がビザを延長したいと言うなり「この街では出来ない」と言い張る。僕がパスポートを見せようとしても取り合ってくれない。「成都へ行け」と言うばかりだ。英語が通じないので、なんとか筆談で、あの手この手を使ってお願いするが、もう何を言っても暖簾に腕押し状態なのだ。僕は途方に暮れてしまう。なにしろ、今日延長の申請が出来ないと、明日から不法滞在になってしまい、いくら罰金が取られるか解らない。さらに、この後の中国旅行の支障にもなり兼ねない。 そこで方針を変更する。「じゃあ、成都に行くから、今日僕がここに来たと言う証明を書いてくれ」とお願いする。僕がここに来たという証拠があれば、成都で申請する時も、向こうの印象がかなり違うと判断したのだ。ずいぶん下手にでてお願いしたのだが、それでもそのおばちゃんは首を横に振るばかりだ。しまいには、ヒステリックに叫びだした。 もうだめだ。ここまで怒らせてしまうと、もう何を言っても無駄だ。それでもあきらめずに、ホテルに帰ってきてフロントに訳を話して中国語で電話をしてもらったが、でも結果は同じだった。もうどうにでもなれという気になってしまう。今日は水曜日で、ここから成都までは一泊二日の距離だ。そして公安のこういうサービスは土曜日曜は休みなので、今週中に延長をしようと思うと、明日ここを発たないといけない。けれども今の疲れた状況を考えると、明日またバスに揺られる気にはとてもなれない。 「人民帽」は心配してくれているが、もう考える気力も無くなって一度睡眠をとることにする。眠ればなんとかいい考えが思い浮かぶに違いない。7時ころ再び起きるが、これと言って良い考えは思い浮かばなかった。そこで久しぶりに風呂に入ることにする。風呂に入れば何かいい考えが思い浮かぶに違いない。バスタブに浸かって、歌の一曲でも歌ったが、やっぱりうまい考えは浮かばない。「人民帽」とうまい飯を食おうと盛り上がって、鍋を食うことにする。その店には冷えたビールがなかったので、外の売店で買ったのを強引に持ち込んで、旅の疲れに乾杯する。けれどもやっぱりうまい考えは浮かばなかった。本当にどうしよう。
2004年08月06日
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過酷な旅だった。きっと今までのバス旅行の中でも1、2を争うほどの過酷な旅だった。バスは今日こそ卿城の街を出発した。けれども僕らは大きな過ちを犯している事に直前まで気が付かなかった。なにしろもう何日も理糖に向かうバスは出ていないわけで、ここに住んでいる人もこのバスの出発を待ちかねていたのだ。だから出発の30分も前からバスの周りは人で溢れている。それでも僕はバスの入り口の側をキープして、バスのドアが開けばすぐにでも乗り込んで、席を確保する体制に入っていた。 バスのあたりが騒がしくなる。運転手が乗り込みまさにドアが開こうとする。ところがどこからか公安が現れて、あたりを仕切りはじめる。その時に僕は気が付いた。なんと現地の人々の手には乗車券が握られている。そして、当然僕らの手にはそんなものはない。あわてて、最近人民帽を買って、中国人化が激しい「ザンギリ君」改め「人民帽」にチケットを買いに行ってもらう。僕はその間荷物番だ。ところが、「人民帽」は落胆した顔で戻ってくる。もう売れきれだそうだ。人民は公安に指図されて、おとなしく指定された席へと散っていった。確かに当たりに溢れている人々の数を見ると、バスは満席なのだろう。一体どうすればよいのだろう。 こうなると、なんとか立ち席でもよいから強引にこのバスに乗り込むしかないだろう。中旬からここまでのバスを見ると、けっこうみんな途中で下車しているので、一時間も我慢すればきっと座れるだろうと思ったのだ。それにこのバスは理糖までではなくて、その先の康定まで行くのだそうだ。康定といえば外国人開放都市だ。ということは、そこで僕のビザの延長が出来るはずだ。だから何としてもこのバスに乗るしかない。相手が公安ということで少しびびったが、(なにしろここは外国人未開放都市)なんとか強引に「康定、康定!」と叫んで、バスに乗り込む事に成功した。「人民帽」はもちろん、「星座博士」も「ルービック氏」もそれにゲイリック君も乗り込む事に成功したようだ。 ところで、バスの中は地獄だった。バスは大型バスで、左側に3席、右側に2席の計5席の構成だ。そして真ん中の通路は人が一人ようやく通れる程の広さで、そこに荷物が溢れている。そして、その荷物にまみれて何とか座るところを確保せねばならないのだ。僕は隣の席の人と格闘しながらもなんとか「星座博士」の前に自分の場所を確保した。けれどもその場所は一度座ったらもう二度と身動きは取れないような場所で、だんだんと足がしびれてくる。最初自分のバックパックを立ててその上に坐っていたのだが、バスの振動でだんだんとそのバックパックが斜めに倒れ、それを直そうにも他の荷物の重みでびくともしない。僕の横はすぐドアになっていて、そこには乗り切れなかった数人立っているので、息苦しい事この上ない。 唯一の救いは、すぐ後ろが「星座博士」だったために、日本語で会話出来ることだった。こういう時に一人で無言で入るのはとてもつらい。だからとても他愛のない会話もこういう時は十分に救いになる。何度目に僕が荷物を直そうとした時に、僕のバックパックは他の荷物に埋もれてしまい、他の人の荷物の上に座らないといけない状態になった。そして、その荷物の上に腰を下ろすと、いきなり隣に立っている人から罵声が飛ぶ。荷物に座るなと言う事らしい。無視して坐っているといよいよ険悪になってくる。みんな気がたっているのだ。そこで僕が荷物を直そうとその荷物を持ち上げると、その荷物から水分がもれていて、そのおかげで僕のバックパックが濡れている。今度は僕が叫び出す。僕が「この荷物のせいで、俺の荷物がビショビショだ!どうしてくれるんだ!」と怒鳴り散らすと、今度は相手が怯み、その荷物をドアの所の階段の下に去らせる事に成功した。 気が付くと、「ルービック氏」も喧嘩し、周りと険悪な雰囲気になっている。実はこの周りと険悪になってしまうのは、僕としては出来るだけ避けたい事だ。これからの長いバス旅行の中で、こうなってしまうと絶対に損をする。だから僕は徐々にだが、周りの人に席のスペースを譲ったり、ウォークマンを聞かせたりとだんだんと穏やかに事を進む作戦に移った。それが成功してか、だんだんと向うが席のスペースを空けてくれたり、僕の姿勢を気にしてくれたりしはじめる。やはり世の中譲り合いだ。 僕はこのバスは一度理糖で泊って、そこで一夜を明かしてそれから明日康定を目指すのだと思っていた。「人民帽」が持っているガイドブックにもそう書いてあったし、おとといの晩、卿城に到着したアメリカ人が理糖で一泊したと言っていたので、そう思ったのだ。だから理糖につくのを待ち焦がれていた。それに理糖を過ぎるとさすがに人が減って席にも座れるだろうと期待していたのだ。そんな憧れていた理糖には意外に早く5時に着いた。理糖の街を見た時、正直言って救われたと思った。もう体中痛くて、このまますぐにでもベッドに横になりたい。そして明日はまともな席に座って旅をしたい。 ところが僕は甘かった。出口のすぐ側にいた僕は喜び勇んでバスを降りる。ここで降りる事になっている「星座博士」や「ルービック氏」それに何人かの乗客も降りてきた。ところがバスはすぐに出発体制に入っている。あわてて乗り込むと、バスはあっさり出発した。いったいバスはどこまで行くのだろう?ひょっとして今日中に康定まで行くつもりなのだろうか?そう思って周りの人に聞くと、1時に康定に着くのだということだ。ところで、僕が期待したほど理糖で降りた人は少なく、僕らは相変わらず窮屈な姿勢のままだ。僕はまだマシで、なんとか前の方に置いてあった木のベンチに尻半分を載せる事ができたのだが、一緒に康定を目指す「人民帽」は相変わらず地べたに自分の荷物を置いて、その上に坐っていた。 今度は周りの人と最初から良好な関係を築いた。控えの運転手と話しはじめる。彼は僕が日本人だとわかると僕に向かって「バカヤロー」と笑顔で言った。これが彼が唯一知っている日本語らしい。誰だ、こんな日本語を教えたのは。バスは出発してすぐにパンクし、僕らは外で1時間ほど待たされたのだが、控えの運転手はタイヤを修理しながら、相変わらず「バカヤロー」とつぶやいていた。なんだか状況と彼のしゃべり口調とが妙にマッチしていて、思わず笑ってしまった。彼は気のいい男で、再び出発した後もいきなり日本の歌を歌えなどといいだし、即席歌合戦を繰り広げてしまう。もちろん彼も僕に中国の歌を披露してくれた。 本当にいつになったら康定に着くのだろうと思った頃、バスはようやく峠を抜けて一つの街に入った。時間は深夜一時だ。割と大きいバスターミナルに入る。ようやく着いたのだ。乗客はいっせいに降りる支度をする。その時に運転手は信じられない事を言った。「明日の朝は5時半出発です」周りの人にすがるように「ここは康定ですよね」と聞いてもみんな首を横に振る。ここは康定よりもずいぶん手前の街で、今日はここで一泊して、明日康定を目指すのらしい。 バスを降りるとみんな我先にバスターミナルの中にある旅社を目指す。僕らも彼らに習うが、僕らの少し前でその旅社は満室になってしまった。「人民帽」は寝袋で寝ようと言い出したが、僕は絶対にベットに横になりたい。だから僕は必死に一晩5元の宿を探し出して、「人民帽」とそこで泥のように眠った。ちなみにここの宿のおばちゃんはとても親切で、着くなり顔を洗えと暖かいお湯を用意してくれ、それが終わると今度は足を洗えとこれまた暖かいお湯を用意してくれた。けれどもトイレはどこですか?と聞くと、バケツにすこし水を入れて、「これです」と言われた時にはちょっと絶句した。そういえば僕が今日泊った街の名前は「雅江」というらしい。
2004年08月05日
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誰かの目覚しで目が覚めた。時間は5時45分だ。あたりはまだ暗い。今日は、昨日まで名前も知らなかった街、理糖を目指す。そして更に先にある康定という街に6日までに辿り着かなくてはならない。そこで、ビザの延長の申請を行わねばならなのだ。急いで準備する。他の日本人の皆の気合の入りようはすごい。バックパックは目立つと言って、他の中国人が移動の時に使っている麻袋を購入し、バックパックの上からその麻袋をかぶせてカモフラージュに使っている。ただし、恰好はどう見ても日本人。今居る卿城にしても、これから目指す理糖にしても外国人未開放都市で、だから外国人だとわかるとバスに乗せてもらえないかもしれないというのだ。 僕は二つの理由でこの麻袋作戦を実行しなかった。一つには僕のバックパックが大きすぎて、それに見合う大きさの麻袋を用意できなかった事。もう一つは、自分の恰好や中国語を全くしゃべれない状況を考えて、たとえ麻袋でバックパックをカバー出来たとしても、簡単に外国人である事がばれると考えた事だ。こういう物はばれる時はばれるものなのだ。 この呷呷旅館には僕を含めて外国人が7人溜まっていた。日本人6人とアメリカ人1人である。僕と「ザンギリ君」以外はもう何日もこの呷呷旅館でバスを待っていて、中でも、ルービック・キューブという15年くらい前に一世を風靡したゲームで、中学生以下全国大会9位という輝かしい実績をもつ「ルービック氏」に至っては、もう3日もバスを待っているという事だった。その外にはカップルで旅行している組と、星座にやたらと詳しい「星座博士」が2日間この呷呷旅館で溜まっている。それからついでにアメリカ人医学生ゲイリック君も3日目の朝を迎えようとしていた。 ところで、いよいよ出発という事で張切りすぎたのか、カップルで旅行している組の女性の方がいきなり階段を踏み外して捻挫してしまった。歩けない状態になってしまってこれではハードなバス旅行には耐えられないということで、残念ながら今日の出発を見合わせることになる。僕は、他の皆が麻袋作戦でカモフラージュしようとしているのに、僕がそのまんまで、もし僕のせいで皆がまき沿いを食うを行けないと思い、皆が出発してからしばらく経ってからバスターミナルを目指すことにする。ちなみに、バスターミナルと言っても、バスが一台とトラックが数台泊っているだけの、汚い広場に過ぎない。 ところが、僕がバスターミナルに到着すると、みんな不機嫌そうにしていた。「ルービック氏」によると、今日もバスが出ないのだそうだ。なんでも、いままでバスが来なかったのは、バスが故障していたせいで、今日一日はバスの修理にあてるのだそうである。皆、「今日こそ」と思っていただけにその落胆の度合いは激しい。特にゲイリック君などは怒りまくっている。それでも他の中国人もバスを待っている様子なので、一時間ほどそこで粘ってみるが、進展は無い。 その後ホテルの前でヒッチハイクを試みるが、全然手ごたえなし。ますます「ドロンズ」や「猿岩石」の気持ちがわかってしまう。それでも1時間半ほど粘って、ここでは埒が明かないと言うことになり、ヒッチポイントを変更してみる。ここで日本人グループとアメリカ人の意見が分かれ、僕らは道の上流の現地人がヒッチするポイントへ、そしてゲイリック君は道の下流のガソリンスタンドへとそれぞれ散って行った。 少し粘って、一台のランドクルーザーと交渉を開始した。彼らは最初800元と言ってくる。こちらは「ザンギリ君」「ルービック氏」「星座博士」それに僕の4人がいて、一人200元という計算だ。ところでこういう時集団で行動するのは難しい。それぞれは、それぞれの旅のスタイルがあり、それぞれの予算がある。ある人にとっては200元と言う金額はたいしたことは無いのだが、ある人にとっては大金だ。この時は、僕VSその他全員という構図になってしまった。他の3人は最高でも100元までしか出せないと言う。ところがビザの延長の問題がある僕にとっては、ちょっとくらい大目に出しても、是非とも今日中に理糖まで着きたい。そして、ランドクルーザーの運転手との交渉と共に、この他の人たちとの間にもある程度気を遣わねばならないのは、なかなか辛い。交渉の手法にも、それぞれスタイルがあって、僕が交渉している最中も外野がなかなかうるさく、それもわずらわしい一つの原因になる。と言っても、彼らの交渉術からも学ぶものが多くあるので、それもそれで勉強になるのだが。 金額が600元に落ちた時点で、契約を成立させた。僕が300元、他の三人が合計で300元出す事で合意した。とにかく今日中に理糖に着きたがっているのは僕だけなので、しょうがない。契約時にガソリン代はこの600元に含まれている事を確認し、皆で喜び勇んでランドクルーザーに乗り込む。そして出発を待つ。ところが一度約束したはずのガソリン代は別料金だと突然言ってきた。この際金額は問題ではない。一度約束をした事を、覆した事に僕は頭に来てしまった。そういう事が一度でもあれば、これから理糖に向かう間もどんな約束違反があるか解らない。だから、もうその車との契約は破棄する事にしてしまった。ほかのランドクルーザーも何台かあたるが、理糖に言ってくれるランドクルーザーを探す事は出来ずに、結局今日はもうこの街に滞在する事にした。ちなみに、今は松茸のシーズンで、だから多くのランドクルーザーが松茸刈りのために出払っているのだそうだ。 昼間はやはりヒッチハイクに失敗したゲイリック君と他愛も無い会話をしたり、昼寝を決め込んだりしてのんびりと過ごす。ちなみにゲイリック君は現在医学生なのだがビジネスに興味があり、僕がこの旅行の前に勤めていた業界に行きたがっていたので、面接の練習などをしたりして、遊んでいた。それから、昼寝を決め込んだのは良いのだが、この旅館には蝿が死ぬほどいて、だからその蝿の羽音のせいで、なかなか寝付けなかった。最近眠りが浅いとさんざん文句を言っていた「ザンギリ君」がスヤスヤと眠っているのを見て、彼は強いなとなんとなく思った。 夜、4人で星を見た。この小さな街には街灯などというものは存在せず、更に空気も奇麗な事から星がとても良く見える。あんなに奇麗な星を見たのは生まれて初めてだ。「星座博士」も、ここまで奇麗に星が見えるのはなかなか無いと言っていた。彼によると、天の川の真ん中が暗くなっているのを、肉眼で見る事が出来るのは、本当に希なのだそうだ。銀河系の中心部が盛り上がっている様までくっきりと見える。彼からはいろいろな事を教わった。どこにどの星座があるのかと言う事や、それにまつわるギリシャ神話について。更に、宇宙の成り立ちや、太陽系の話などを丁寧に解説してくれる。。実物をみながら、とても詳しい話を聞くと、その話がすーっと頭に入ってくる。 首が痛く鳴り始めた頃に、一筋の流れ星を見た。生まれて初めて流れ星と言うものを見た。もちろんあっという間の出来事で、願い事をかなえる暇なんて無い。けれども、「もし願い事をかなえる時間が十分にあったとしたら、僕はどんなことを願うんだろうか」と、ちょっと考えてみたりした。
2004年08月04日
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重い荷物を呪っていた。この重い荷物が僕の肩と腰にずっしりとのしかかる。僕らは峠の坂道を歩いて登っていた。この先いったいどうなるのかわからない。けれども、日が暮れるまでに何とかしなければいけない事だけはわかっている。ただ、僕の心に、不思議と不安感は無かった。 旅に出て、80日が経った。実はこの80日目と言うのは僕にとって記念するべき日にあたる。僕は前にも一度世界一周旅行というのをしている。その時は今回のルートとはまるっきり違って、横浜から船でロシアのウラジオストックへ、その後シベリア鉄道を駆使して、ロシアを横断し、東ヨーロッパから西ヨーロッパ。パリからニューヨークに飛び、サンフランシスコから東京というコースだった。そしてその全行程が79日間だったのだ。だから、今日、80日目というのは、僕にとって未体験ゾーンへの突入というわけなのだ。 貧しい旅立った。金銭的にもそうだったが、僕の中に余裕というものが無かった。だからいつも気をはっていて、誰か現地の人が近づいてくるたびに、こいつは俺を騙そうとしているのではないかと思い、いつも邪険に扱っていた。知り合った日本人とばかり一緒に行動していて、そんな狭い日本人社会の中でも、尖がって、虚勢をはっていた。後悔の多い旅だった。けれども、そんな経験があるからこそ、今回の旅があるのだと思う。以前旅をした時は79日も旅をしたと思っていたが、今回この79日間を振り替えるとあっという間だったような気がする。けれども密度の濃い、良い旅をしていると自信を持っていえる。今回の旅はこれからまだ先が長い。けれどもいつもどこかに心の余裕を忘れないでいたいと思う。 さて、そんな記念すべき一日は旅を始めていらい二人での移動となった。パートナーは言うまでもなくもうザンギリ頭ではない、「ザンギリ君」である。そしてそんな一日の締めくくりに、僕らは峠道を見知らぬ中国人一人と三人で歩いて登っていたのだ。もうそろそろ一時間になる。 中旬を定刻に出発したバスは順調に卿城を目指した。途中壁のように立ちはだかるあきらかに富士山よりは標高の高そうな山々を眺めながら、例によっていくつもの峠を越えた。チベット人にとって峠のてっぺんというのは神聖なものらしく、そこに差し掛かるたびに、後ろのおじちゃんはなにやらお祈りを始めた。最初満席で出発したバスも、途中で人がどんどん降りていき、ガラガラ状態になる。今日のバスはいつも乗っていたミニバスと違って、大型バスだったので、人が少なくなると広く席を使えたので、とても快適だ。 さて、もう一時間ほどで卿城に到着でしょうと言うところで、事件は起こった。というのは、連絡の不行き届きなのか、中国ではそもそもそういう事が当たり前なのかは解らないが、いきなり目の前の道の左半分が無くなっているのだ。というのは、工事の人が道の左半分を掘り返してしまっているのだ。その先はすぐ川になっていて、右側には大きな木が生えている。これでは大型バスは通れない。バスの幅と道の幅を計ると、わずかだがバスの幅の方が小さい。けれどもその道が半分無くなっているところを越えるとすぐにカーブしなくてはならなくて、それが大きなネックとなる。 それでも道の端っこを木や石で補強したり、窪んでいるところを土でうめたりしてバスは何とかそこを通ろうと試みた。2回試みて、2回目はあとわずかで後輪がその細いエリアを通過出来そうになった。ところが、やはりカーブすると後輪が掘り返した穴に落ちてしまいそうになる。あきらめたドライバーは僕らに一人5元づつを返して、後は自分らで何とかしてくれとさじを投げてしまった。 そういう訳で僕らはしょうがなく峠を歩いて登っているわけだ。ここから卿城までは27キロあるのだそうである。一人の中国人が俺に付いて来いという感じで歩き出したので、僕らも慌てて彼に着いていく。時間は6時。あと2時間ほどであたりは暗くなる。だからそれまでに卿城とまではいかないが、どこかの村に着く必要がある。急がなければいけないのは分かっているのだが、僕の荷物はとても重く、だからどうしても歩みはのろくなってしまう。それでも坂道を下っている時は良いのだが、上り坂になるともうどうしようもない。 何台か追い抜いていくジープをヒッチハイクしようとしても、みんな冷たく無視していく。なんだか「ドロンズ」や「猿岩石」の苦労が分かるような気がする。身軽で、本来この辺に住んでいるので薄い空気にもへっちゃらな中国人の彼と、僕との間の差は広がるばかりだ。もう、バックバックの中に入っているいろんな物を捨てたくなってきた。そんな疲れた僕の様子を察して、ちょっと休もうかと彼は言ってくれた。歩きはじめて既に1時間が経っていた。岩の上に座って、なんとか息を整える。その時に後ろに人をいっぱいのせたトラックがやってくるのが見えた。手を挙げると、5元で行ってくれるそうだ。助かった、これでなんとか卿城までたどりつけそうだ。 砂埃にまみれて、激しく揺れるトラックの荷台で1時間うずくまる。もう埃まみれだろうが、ガタガタ揺れようが今の僕にとっては全部が天国に感じてしまう。それでもそんなありがたみがだんだんと薄れていって、ケツが痛いなあと文句の一つでも言いたくなってきた頃、トラックはとても小さな卿城の街にようやく到着した。宿に行ってまたびっくり。なんと日本人が何人もたまっている。なんとこの先の街、理糖までのバスがもう3日も出ないのだそうである。宿屋のおばちゃんは明日には出ると言っているが、折り返し僕らを運んでくれうはずの、理糖からのバスもまだ到着していない。 もう何でもよいので、とりあえずみんなで飯を食いに行った。他愛のない話で盛り上がって、10時過ぎに宿に帰ってきても、まだバスは到着しない。これは明日もバスが出ないかもしれないなあと思っていたところ、10時半過ぎに理糖からのバスがようやく到着したという情報がはいった。明日はまた早起きだ。
2004年08月03日
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未練がましく、もう一度中国国際旅行社に「ザンギリ君」と共に向かった。しかしながら案の定ここはやっていない。そう言えば、今日は土曜日なのだ。昨日は祭日だったらしく、だから昨日も今日はお休みなようなのだ。その他にいくつかの旅行会社をあたってみたが、どこもやはりやっていない。だからもう、この最難関ルートを使ってチベットに入るのはあきらめる事にした。ここから北に向かい、四川省から入ることにする。 とりあえず目指すは雲南省と四川省との境目の都市、卿城だ。 ところで、少し困った事になった。それはビザだ。僕の持っている中国ビザは6ヶ月のマルチエントリービザという種類のもので、本来観光客は取得できない一種のビジネスビザらしい。そして、このビザを使えば6ヶ月間は自由に中国に出入り出来るのだが、一度入ると30日しか滞在する事ができない。普通の観光ビザの場合も滞在期間は一ヶ月なのだがその街の公安に行って滞在を延長する事ができる。ところが僕が持っているビザの場合は果たして滞在を延長できるのかどうか、良く分からないのだ。僕が今回中国に入ったのは7月8日のことだ。ということは延長しない場合、8月6日までに一度中国国外にでなければならない。そこで、その事を聞こうと、中旬の公安に行ったのだが、今日が土曜日のため公安には誰もいない。これから向かう卿城を始め、しばらく未開放都市が続くため、是非とも中旬ではっきりさせておきたかったのだが、それも無理らしい。 さて、もう北へ向かう方針を固めたので、一度ホテルに帰ってのんびりする。そうすると、ホテルの従業員がチベットの民俗楽器らしい三味線とバイオリンの合いの子みたいな楽器を弾いていた。形は小さな三味線みたいんだが、馬の毛で作った弓で弦を擦って音を出すのはバイオリンと一緒だ。彼は太く渋い音で、なにか民族音楽の様なものを弾いていた。僕が彼が弾いているのを熱心に見ていると、僕にも弾かせてくれた。まともな音を出せなかったのは言うまでもない。 午後はまた「ザンギリ君」と行動を共にする。ところで、「ザンギリ君」は午前中に髪を切ってしまい、もはや「ザンギリ頭」ではなくなってしまった。なんとか新しい仇名を考えなければ。で、その「ザンギリ君」とこの街の外れにあるチベット寺院を目指す。そこはちょうど法要の最中で、なかなかリズミカルなお経を唱えているところを間近に見る事が出来た。なまけものとはどこにでもいるようで、一番手前に坐っている小坊主が、退屈そうに僕らになにやらサインを送ってきたり、更に居眠りを始めたりしていて、そんな光景が微笑ましかった。お経は歌のようで、太鼓とでかい角笛のようなラッパが時たま合いの手を入れるように響いた。 いくつかの壁画に興味を引かれた。モンゴルでチベット寺院を見た時、象の上に猿、その上に兎、そして更にその上に鳥がとまっている像をみて、へんてこな像だなあと思っていたが、このチベット寺院でその象猿兎鳥の壁画を三個所で見つけた。やはりこの象猿兎鳥はチベット仏教で何かを象徴しているものなのだろう。それからもう一つ面白かったのは、ジグザグの道が下から上に続く道で、黒い象がだんだんと白くなっていく様が描かれていた。最初は黒い猿も一緒に居たのだが、その猿もだんだんと白くなっていって、途中で消えてしまう。これも何かを象徴しているのだとは思うが、知識のない僕には何がなんだかさっぱり解らない。 そのあと明日の卿城までの切符を買いに、バスターミナルに行く。実はさっき「博士君」に卿城は未開放都市だから、バスの切符を買うのがなかなか難しいらしいとおどかされていた。実際日本人で購入を断られた人もいたらしい。そんなんで、ちょっと緊張して窓口に向かったのだが、何のことは無い。あっさり購入できてしまった。明日は7時30分のバスだ。だから久々にまた早起きをせねばならない。 さて、今日特筆するべき出来事は、松茸である。この街は松茸で有名らしい。街の真ん中に、松茸商場というのがあって、日本の価格に比べると、信じられないくらいの値段で松茸を購入する事ができる。とうぜん「ザンギリ君」と僕はその松茸商場に出向き、日本で買うといくらくらいするのか見当も付かないほど大きな松茸を75元で数本購入してしまった。そしてホテルのレストランの従業員にお願いして、調理してもらった。 本当は僕らの理想は焼き松茸と松茸のお吸い物だったのだが、そんな難しい事は相手に通じるはずも無く、見事な中華風松茸炒めが登場した。けれどもその味は想像を絶するほどおいしかった事は言うまでもない。 今日で雲南省ともおさらばである。だからこの雲南への道編もこれで一区切をつけることにする。
2004年08月02日
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最難関ルートはやっぱり難関らしい。世の中そんなに甘くない。今日情報を集めてつくづくそう思った。今朝約束通り中国国際旅行社に出かけていくが、旅行者のスタッフは今日もいない。仕方が無いので、もう一個所目をつけておいた街の外れのホテルの中にある旅行会社を目指す事にした。と言っても、この中国国際旅行者を目指したのもまんざら無駄足ではなかった。というのは、ちょうど僕が旅行会社の前に着いた時に、何かのパレードが始まって、それをしっかりと堪能できたのだ。 人民解放軍70周年とかいう垂幕があったので、そういう事を祝うパレードなのだろう。最初軍隊が行進し、その後公安。それからさまざまな民族衣装を着た人々がグループごとに行進していく。規模が大きいものではなかったが、それでもこの民族衣装のところがとても面白かった。 さてもう一軒の旅行会社はとてもしっかりしていて、英語を流暢にあやつるネパール人の女性が丁寧に応対してくれた。そして結論から行くと、今このルートを通ってラサに至るのは物理的に無理なのだそうだ。というのは、途中で数キロに渡る崖崩れが起きていて、8月一杯は復旧しないのだそうである。これではたとえヒッチハイクでも到達はできない。更にもしツアーを組む場合もパーミットと呼ばれる許可証を3種類とる必要があって、そのうちの2種類は2~3日で用意できるが、最後の1種類については15日~20日が必要で、今申し込んではい明日から出発と言う事は不可能だと言っていた。 料金は4人でチャーターした場合で一日だいたいUS160ドルと僕が予想していたよりもずっと高い。ただし、そのツアーはランドクルーザーに運転手とガイドが乗り、その外にテントや食料を積んだサポートトラックと呼ばれる運搬車が後ろから付いてくるというとても本格的なものらしい。ただし崖崩れのため8月のツアーはすべてキャンセルになっているという事なので、今回はあきらめるしか方法がない。 実は麗江の最後の夜に、一人の日本人とある約束をしていた。ザンギリ頭が特徴的だった彼もチベットを目指すらしく、僕がランクルをチャーターしようと思っていて、誰かシェアしてくれる人を探していると言うと、すこし乗り気になっていたのだ。ただ、僕はもう翌日中旬に旅立つ事になっており、一足先に着いた僕が中旬で情報収集した後、一日後に到着する「ザンギリ君」と今晩「ラサカフェ」というところで待ち合わせをしていたのだ。ところが、その「ラサカフェ」と言うのは既につぶれているらしく、それに似た「AAAカフェ」と言うところにとりあえず行って彼を待った。 本来約束していた場所と違う場所と言う事もあり、「ザンギリ君」に会うのは難しいなと思っていたのだが、彼も同じ事を考えていたらしく、僕がAAAカフェについた2分後にひょっこりと現れた。しかも僕と同じ永生飯店の僕の隣の部屋にいると言うではないか。で、「ザンギリ君」に事の顛末を説明して、このルートで行くのは大変難しいのだと言う事を伝えた。とりあえずまだ会えていない中国国際旅行社に明日の朝聞いてみて、それから対策を練ろうと言う事で話しがまとまった。 ちなみに「ザンギリ君」は結構ビールがいけるらしく、だから僕らは他愛もない話で何本かのビールをあけてしまった。途中からは隣にいたオランダ人といろいろな話で盛り上がった。僕がオランダで想像する物は「チューリップ」「水車」「自転車」だというと彼らは日本でイメージするものは「富士フィルム」「広島・長崎」「パール・ハーバー」だと言った。そんなもんか。
2004年08月01日
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