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目の前の鳶色の目の男が、助けてくれたのは明白だった。耳鳴りと勘違いしたのは、刃が互いを弾きあった音で、間違いない。玲鈴は、今まで剣戟を目にしたこともないので、分からなかったのだ。 今更ながら、ほっと肩の力が抜けてくる。呆然としていたが、肩の力は抜けてなかったのだ。冷え強張っていた前進がようやく氷解していく。 ふと、玲鈴はたわいのない疑問が脳裏に過ぎった。「命の危機を、間一髪のところで魅力的な男性に救われ、恋に落ちる。そんなこと、あるんだ、って憧れたこともあったけど………現実には起こらないものね」 物語を、特に貴族の女性達の間で流行っている恋が強調され、冒険ものと言うよりは恋物語的な話を一時期嵌って読みふけったことがあった。流行りだからでもあったが、どこかで『運命』や『宿命』と言うのに幼い自分は憧れていたのかもしれない。 数多いる人達から選ばれ、決して解かれることない強固な『運命』と言う絆に繋がれた仲間や恋人。劇的に変わる日常。そして何より自分と同じ『異端』であるのに、特別視されているのに、それが酷く優しく心地よさそうな特別視に見え、うらやましかった。今ならそんな莫迦げたことと思う。特別視に良いものなどなく、やはり区別され、理解されにくいことなど分かり切っているから、苦笑するしかない。 そんなありきたりな物語な、ありきたりな場面。それを今、どこか冷めた視線で玲鈴は見つめていた。 確かに救出してくれた人に対し、深い感謝の念を覚える。だがそれをはっきり認識するには時間が必要だった。認識できるほど、恐怖で雁字搦めにされ動かない思考は急速に回復できない。 それに今も相変わらず心臓は早鐘をうっているが、甘い気持ちにより高鳴る鼓動など錯覚できるない。鼓動が間を空けず弾み続けるのは、すぐに拭い去ることなどできない恐怖からだ。この不安の暗い影しか呼び起こさない音は、どうやっても明るく温かな気持ちを生まれさせることなどできやしない。「ひょっとしたら、この嫌な気持ちを誤魔化すために、塗り隠すために無理矢理勘違いするのかしら」 そんなことをぼんやりと考えていたが、玲鈴は知らない。己を救助した男達が、気遣わしげにこちらを見ていることを。 玲鈴のこの思考の突拍子なさを知ることができたなら、男達は呆れるか、大物と感心するか、どちらかで二の句が続かないであっただろう。玲鈴の姉たちならば、「このお馬鹿さん………どうしてそう、変な方向に突き進む、と言うか突拍子もないことばかり考えられるの。特に非常事態になると、逃避するかの如く…………絶対に、長生きするわね、あなたは」 と本人の前で断言し、隠さずため息の一つもついただろう。 暗い感情に囚われないよう、考えないようにするためにか、どうやっても生命の危機の後とは思えないことを考えている玲鈴に近づくものがいた。「お、おい…汪燕?」 鳶色の男のどこか焦った声に、ふ、と視線を上げようとした玲鈴の耳に美声が飛び込んできた。「大丈夫か、お嬢さん」 言葉と共に、腕を掴まれ身体ごと引き寄せられる。視界が玲鈴の身体とはまるで違うしっかりとした厚みのある胸で埋まり真っ暗になり、呆気にとられ、言葉もない。 あまりの状況の急変に頭の機能が停止し、抵抗することを忘れ、玲鈴はなすがままになっていた。 玲鈴の赤い華のような色をした髪に、美声の主の男の長い指先が絡む。さらり、さらりと指の間から零れる髪の感触を楽しむかのように幾度も掬っては、逃げていく髪で遊んでいる。 後ろ髪を優しく梳かれ、確かな音を刻む心音に安堵することに気づき、慰めれれているのだろうか、と思うほどの余裕がでた瞬間だった。「ここより先の廊下の隅に、これを落とす。後で拾って胡主に渡しおけ」 耳元に小さく落とされた声に、一瞬、言葉の意味を理解できなかった。 これ、とは何だ。 そう思い、必死に『これ』と言われたものを知覚しようとし、更に玲鈴は混乱した。玲鈴と男との間は、他者からは完全に死角になっている。その空間でさっ、と長い指が動き示したものは、玲鈴に、今日数え切れないほど体験した、頭が真っ白になるということを再度強制的に体験させた。「………ぅ、え?…ええっ?…な、何なのっ!え、何でっ?!嘘でしょう!『これ』、ってこれ?!冗談でしょうっ?!」 玲鈴はもし、声帯が常が如く働いてくれるのならば、淑女としての嗜みなんてもの綺麗に忘れ、心の中だけでなく声にだしても絶叫していたであろう。声なき絶叫が頭のなかで響き、脳細胞を破壊していく。 そんな玲鈴に対し、男は身体をそっと離すと、一度も振り返ることなく鳶色の目をした精悍な男-こちらは玲鈴を気にかけ何度か振り返っていたが-を連れ、廊下の奥にある闇に姿が溶け消えていった。 慌てて部下達が後を追っているのをぼんやりと見ているうちに、ゆっくりと脳に言の葉が染みこんでいく。ようやく理解し、弾かれるように顔を上げたときには、もう廊下には姿はない。いつの間にか-隠れていたのか、駆けつけたのかすら分からない-現れた女中達が、身を案じ口々に言葉を投げかけてくるが、玲鈴には答える余裕はなかった。 あまりに都合がよい救出劇は、まるで夢幻のようで、彼らの存在も現のものだったのか、一瞬不安になる。 だが、玲鈴の身体にあるあの男の体温の残滓があっさりとそれを否定する。その温もりをまるで逃がさぬ、と言うように己の身体を抱きしめた。夢だった、と思い込み逃避しないように。戒めの為、きつく、痛いほどに力を込めた。 じくり、とした痛みに玲鈴は眉を顰めるが、痛みを脳がきちんと感知できた。少しずつだが冷静さを司る脳の部分も、連動したかのように正常化してくる。 しっかりと己の仕事を思い出し、動きだしてきた頭を占領するのは、何を企んでいるのだろう、と言う思いだ。「なぜ……」 それ以外、玲鈴は言葉にできない。 確かにあの長い指が指したのは、外套の飾り紐についていた止め具だった。彫りが繊細で、それだけであっても値打ちものであろうが、その細工が施されている宝石もそうとう高価だ。宝石や洋服など、胡家の中でも女性らしくお洒落に一番興味を持っており、目の肥えた玲鈴が呻りそうなほどの品物である。そうとうなものだ。 そんな高価なものだが、拾って置け、それ言われただけならば不思議がるだけですんだのだ。それに、家紋が刻まれてさえいなければ。 各々の貴族は、通称[上流貴族]と呼ばれる数が限られた名実ともに莫大な豊と権力を持ったものたちには特にだが、家紋というものがある。中流、下流、武家にももちろん存在しているが、案外似たり寄ったりのものが多い。だが、決して真似ることができない紋と言うものも確かにあった。 他に真似を許さない図柄の家紋は、見るだけでどこの家紋かがはっきりわかるものだ。特に、誰にでも一目で分かる家紋があった。それは三神を象ったものだ。三神を象ることは、不遜故、決して一般には許されていない。例外は、三神を祭る祭壇、祭壇に祭る像などだけだ。家紋にしてしまう、と言う不遜が許されるものは、三家しかない。 一つは王家。黄金の輝きを纏い皓国の広大な大地を収める颯狼〈ソウロウ〉は、王家の証だ。 その大地に接し、数多の恵みと守護を与えてくれる空と海をそれぞれ収める 純白の羽に虹のような尾を持ち空を自由に舞う霓鳥〈ゲイチョウ〉と、黒真珠を散りばめたような鱗と黄金の眼を持ち海を見守る黎龍〈レイロン〉を家紋にすることを特別に許された、皓国建国以来王家に忠誠を誓い、尽くしてきた羅家と籐〈トウ〉家、所謂御二家だ。「黎龍〈レイロン〉の盾……」 確かに、あの男が、指さした留め具は、翠色の宝石で、そこに盾の形が刻まれて、その中央に神々しい龍が描かれていた。 龍を守る、翠色の盾。 それは、羅家に使える近衛の中の近衛の証だ。「何故………」 玲鈴はこの時、この襲撃が羅家の御曹司によるものだとは知らなかった。だからこそ、余計に混乱する。いきなり現れ、助けくれるなど、一体何が起こっているのだ。 羅家と胡家は、交流はないわけではない。だが、それは外面を飾っただけにすぎない。ここ数十年で、胡家の力を他の貴族達が認めずにはいられない状況になり、にこやかに握手は交わすようになった。が、掌を返したような態度に胡家は冷ややかな感情しか浮かばず、あちらも胡家が実力者でなければ歯牙にもかけなかっただろう。胡家が移住してきてから、長い年月がたっても一切、本当に、胡家など口すら聞いたこともなければ、顔もしらないし、名も知らない、という態度を貫いてきた羅家だ。あの胡家の被害妄想ではない。つまりにこやかに微笑みつつも、腹のさぐり合いをする仲なのだ。 その羅家が、襲撃されている胡家の近くを通ったから、見て見ぬ振りができないから助けてくれたなど、助けてもらっておいて言えることではないが、玲鈴から見てもどこか滑稽で、薄気味悪いのだ。「っ?!…………ま、さか………」 薄気味悪さの中から、最悪の未来予想図が見え隠れるしているのを感じ、玲鈴は握りしめていた肩に更に力を入れた。痛みが少しの不安を紛らすが、反面脳の奥底でか細く鳴り響く警鐘の存在を教えた。 警鐘の音が、一本の細く儚い糸を揺らす。「…………あった」 巧妙に隠してあるが、羅家と胡家を繋ぐ確かな糸があることを玲鈴は思いだした。今にも切り裂けてしまいそうな糸が、助けを求めるが如く、震えている。 不安そうに声をかける女中の声は、愕然とした玲鈴に届かない。「…………るの?」「玲鈴様?」「麗蘭姉様は、どうなっているのっ?!」「だ、大丈夫ですよ」 玲鈴の気迫に飲まれ、言葉に詰まりつつも女中は答えた。「胡家の近衛が、ついておりますし、他の兵も向かっているはずですので、大丈夫です。狼藉者たちなど、すぐに追い払ってくれるでしょう」 落ち着けようと、穏やかで包容の響きがある声に玲鈴は、「違うっ!そうじゃない」 反射的にそう答えそうになるのを必死に言葉を飲み込んだ。 姉の無事は、確かに安心できる。だが、そうではないのだ。 胡家の近衛がついている限り、狼藉者など髪の毛一本すら麗蘭に触れさせないだろう。実力が違いすぎる。だから、あまり心配は今の今までしていなかった。 だが、玲鈴の予想があっているのなら、あの『黎龍の盾』の狙いが、胡家の危機を助けるためではないならば。助けてくれたのは、ついでなのならば。 玲鈴の顔から血の気が引いていく。「次期羅主か、羅主か………どっちの命令でも、まずすぎる」 戸惑ったように、だが無防備にふにゃりと笑う少女が脳裏によぎる。次期羅家当主ならば、あの子を奪うため、現羅家当主ならば、あの子を殺しためにきた。 どちらにしても衝突することに違いはない。しかもこのような緊急事態ならば、麗蘭は少女の様子を見に行ったであろう。彼女を守ると、盟友と約束をしたと、にこやかに笑っていた姉ならば。 それはつまり、姉を守るため傍に控える胡家の近衛と、姉の傍にいる少女に用がある羅家の近衛がぶつかるのは避けにくい事態である。どうやっても、交渉しても成立しない。 どこから少女が胡家にいるという情報を掴んだのか、と疑問に一瞬思うが、それどころではない。「姉様…………朔夜っ」 どうか、どうか無事で。 切実な願いと共に呼ばれた名の存在が、玲鈴の脳裏から翠色の宝石のことも、羅家のことも、あの不可思議な男達のことも忘れさせた。
2006年04月23日
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低い分、厚みのある声が頭の中で木霊するように響くが、玲鈴は反応できなかった。脳が消えてなくなってしまったから、空っぽの頭の中で声が盛大に反響しているのではないかとさえ思った。「怪我はないか?」 幾度も言われている同じ言葉がやっと脳に浸透し、理解できたので恐る恐る、そして半信半疑に頷いた。不思議なことに疑っているのは声の主ではなく、自分自身なのに玲鈴は困惑する。やっと反応した玲鈴に良かった、と優しげな光を灯した鳶色の瞳の方が、簡単すぎる計算でさえできないほど動揺している自身より信頼できるような気がしたのだ。 立てるか、と節くれ立った武骨な手が差し伸べられるが玲鈴はその手を取れなかった。情けないことに、気力を使い果たしたのか、気が抜けたのか、あまりの驚きでか腰が抜けてしまったのだ。「あ、あ……あ、の」「隊長、どうしますか、こいつら」 声帯をようやくのことで振るわせ、何を問えば良いかわからずのままだったか、とにかく玲鈴は声をかけようとしたが、か細かった声はそれをはるかに上回る威勢の良い声に塗りつぶされた。 何事かと思えば、鳶色の瞳の男の部下らしき男が破落戸どもを足蹴にしていた。薄汚れた服に不似合いな鈍い光を放つ武器を握ったまま倒れてる破落戸は、確かに先ほどまで玲鈴が対峙していた者達だった。 そうなのだ。いや、そうだったのだ。 今更ながらだが、玲鈴はようやく状況が飲み込めてきた。「私は、この人達に、救われたのだ」 心の中で反芻することで、ようやく現実と言う色を帯び、質感を伴ってくる。波のように打ち寄せは引いてを繰り返す安堵と、その下で見え隠れする、安全になっても消えることない恐怖に、まだ夢現のような気分が抜けない。泥沼のようにぬかるみ不安定な足元、と言うよりは雲の上で漂っているような危うさの上に立っている感じがする。 脳が、許容量を越え、壊れる際に発した熱で溶けてしまったようだ。しかもその爆発的な熱は溶かしどろどろにするだけでは収まりきらず、跡形もなく昇華させてしまっている。 ふわふわと言うよりもつかみ所のない、それどころかつかみ縋るものが一切ない思考の中で、必死につい先ほどのことを思い出す。--------------------------------------------「偉そうなことをっ」 実は虚勢なのだが、凛とした態度を崩さない玲鈴に狼藉者たちは、逆上したのだ。目をぎらつかせ、顔からは知的なものが一切消え、まるで獣のようだ。見下されたと勝手に思い込んだのも怒りの理由だが、それを上回ったのは正論を突きつけられ答えを返せないことに対する逆恨みだった。 狼藉者達は、強面で相手を威嚇し、怯えさせることで相対的に自分の立ち位置を上げて優越感に浸ることに喜びを感じる人であった。それ故、己より確固たる地位のあるものや、腕っ節の立ちそうなものには喧嘩を売ることはなかった。いくら脅かそうとしても、腰が引けるのはどう考えようが狼藉者達なのだから。 だが、今はどうだ。確固たる地位である貴族であろうが、異端で、おこぼれに預かっている胡家-あまりにも古びた偏見の目で見たらであるが-で、しかも己よりよっぽど年端もいかぬ少女が、悠然と、剣をつきつけようとそれがどうした、と言わんばかりに構えている。己の全てが否定された気がし、足場が揺らぐ恐怖を、怒りで誤魔化す。 一時的にすぎない、だが爆発的な怒りの熱に煽られて、狼藉者は短絡にも悔しさを晴らすためだけに玲鈴に剣を振り上げた。だが、それは脅しにすぎないはずだった。玲鈴が泣き喚き、懇願したならば狼藉者たちは満足するはずであった。怯えた顔は、間違いなく自分達を肯定してくれただろうから。 鈍くきらめく剣に玲鈴は凄まじい恐怖に襲われ、足元が竦み動けなかった。だが、決してそれを表面に出さなかった-出す暇もなかったのだ-のが、狼藉者たちの怒りを更に加熱してしまった。冷ややかな反応、と思い違いをし、脅しのためだけだった剣をよりによっても振り下ろそうとしたのだ。 悲鳴をあげることも、瞬きをすることさえも玲鈴にはできなかった。「………っ!」 命を、失ってしまう。死んでしまうのだ、自分は。 必死で作り上げた虚勢が、己の中で脆く崩れていくのを、視界が涙で埋め尽くされたことで玲鈴は自覚した。咄嗟に腕を振り上げ、頭を庇うことも、縫いつけられたように動かない足で逃げることもできない。 死ぬ間際、走馬燈が見えると言うが、そんな暇あるか、と思う。一気に駆けめぐると言うが、一向に訪れる気配はない。うそつき、と逃避したいのか怒鳴り散らしたくなる。 恐怖や混乱を混ぜ合わせた波に、極限まで追いつめられたのか甲高い耳鳴りが聞こえた。 うわああ、や、あうわぁともう言葉にすらならない事を頭の中でわめき散らしていて、ふと、玲鈴は違和感に気付いた。走馬燈どころか、痛みも感じもしない。ばっさりと綺麗に斬られ、絶命すれば痛みも感じない、と風聞で聞いたことがあるが、それなのだろうか。いや、あの狼藉者にそんな腕があるとは思えない。 ならば、どうして。 その疑問を解決するには、強く閉ざした目を開けるしかない。人間の五感でこの状態を一番明確に伝えてくれるだろう視覚に頼らなければならないと、気持ちでは分かっていた。 だが、目を開けるのが、たまらなく恐ろしい。 もし、目を開けて見えたのが所謂『死後の世界』と言うものであれば、二度と立ち直れない気がした。「二度と立ち直れなくても、別にかまいはしないじゃない。死んでるのだから。ずっと座り込んでいても誰にも迷惑かけないわ、きっと!」 玲鈴はそう思うことで自身を無理矢理奮い立たせ、恐る恐る瞳に光を注ぎ込んだ。 網膜に入り込んできた光が教えてくれたのは、広く逞しい背中だった。--------------------------------------------
2006年04月23日
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