2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全7件 (7件中 1-7件目)
1
「うん。頑張ったな」 緋深は軽く咳き込んでいる朔夜の背を撫でながら、もう片方の手で、先ほど受け取った空になった碗を掲げながら、にこりと笑った。その笑顔に朔夜は何とも表現しにくい表情を浮かべる。労いに笑みを返すべきか、この状況を作り出した緋深に不服を伝える表情をすべきか。どちらにすべきか迷い、結果がでなかった、という所だろう。 緋深は苦笑しながら、優しく頭を撫でてやる。「もう一回、寝るか?」 朔夜はふるり、と小さく横に頭を振った。意外な反応に緋深は小さく目を瞠る。心身共にまだ疲れているであろうことは、朔夜を見ると簡単にわかった。実際、紫色の瞳はうつらうつらしていて、危なっかしい。「?………まだ、眠いだろう?」「おな、か…いっぱい…だ、から……」「少し苦しくて、眠れない、か?」 こくりと今度は上下に銀灰色の頭が動いた。そっか、と小さく呟き、緋深は小さな罪悪感を抱きつつ、朔夜をそっと褥に横たえた。「取りあえず、転がっとけ。眠くなったら、いつでも寝て良いから」 こちらを見上げてくる朔夜に、緋深は小さく笑み、銀糸のような髪に指を絡ませた。 髪を梳かれる。朔夜はそれを好んでいた。一度も「気持ちいい」とは口にはしないが、髪を弄られるとほんの少しだが目尻を緩ませ、固まっている表情が少し柔らかになるのだ。まるで頭を撫でられた犬、喉を撫でられた猫、のように、(朔夜を知っている者しか分からないほど些細だが)どこかうっとりと目を細める。 もちろん、朔夜は髪を撫でるのが“誰でも”良いわけではない。触れることが許された者だけの、特権だった。(気持ちいいな) 緋深はさらり、さらりと指で掬っては、逃げていく柔らかな髪の感触を楽しむ。最初は腹痛を少しでも紛らわせるために、ととった行動であった。が、これでは誰のためだか、である。(取りあえず……まぁ、朔夜も嬉しそうだし。一石二鳥、か?) 朔夜は目をとろりとさせ、余程心地よいのか、そのまま眠ってしまいそうだ。その様子にほっ、と緋深は胸をなで下ろす。 襖の向こうから入ってくる夕日の光に照らされた、韓紅花色を含んだ銀灰色の髪が揺れるたび、きらきらと光っているようにさえ見え、その美しさに緋深は目を細めていた。(けど……) 緋深は内心ため息をつき、朔夜にばれぬように気を遣いつつも、一瞬眉を顰めた。 朔夜の髪が、緋深は好きだった。柔らかく手に馴染む感触。銀、という派手なはずだが、どこか目に優しい色。朔夜を彩るもの、という理由もあるが、それを抜いてもあのさらさらした長い髪が好きだった。(せっかく……綺麗な髪だったのに) 見つめる先にある朔夜の髪は、左右不揃いな状況だった。 緋深が、斬った。結果的には朔夜を助けるためだったとはいえ、感情の荒波に身を任せ斬ったのだ。怒気で鋭く研ぎ澄まされた剣筋だったからか、なくなった髪と繋がっていた毛先は目に余るほど射たんではいない。だが、やはり旋毛から右側は背まで、左側は肩までの長さでは不自然この上ない。 緋深は、本当に今更ながら罪悪感がじわじわと背筋がはい上がるのを感じた。今の今までは、慌ただしすぎて忘れていたのだ。いや、視線を逸らしていたのだ。(けど……俺は、後悔してないん、だよな) あの綺麗な髪がなくなったのが、悲しくどこか寂しい。だが、『あいつ』が触れた部分の髪がなくなったことを考えると、まあ仕方がないか、と思ってしまっている自分がいる。 そんな自身の醜悪さと我が儘さに緋深は吐き気を感じていると、背後から声がかかった。「緋深君?」「………っ?!」 振り向いた先には、背の高い男が立っていた。 緋深は必死にあげかけた悲鳴を押し殺す。背後を取られたことに驚いたのではない。歪でいた顔を見られたことでもない。失礼極まりないことだが、振り返り男の顔を見たからだ。 だが、誰も緋深を責められはしないであろう。何故ならそれほど男の顔は、驚くに値するものであった。 青白い肌に痩せこけた頬、目の下に大きな‘くま’の顔だけでも一瞬目にいれただけでもぎょっ、とするほど病的だ。躰も骨が浮かび上がるほど痩せている。しかも男は猫背、というよりも前屈みの姿勢で、だらりと長い腕を垂らしている姿は、少々どころかかなり幽霊じみた印象を受けるのだ。 まっすぐ背筋を伸ばせば、男は緋深が今まで見た中で一番の長身であろう。そうすれば、少しは印象もすっきりとしたものになり、雰囲気も変わるであろうに。(ああ、驚いた……確か千波[チハ]、と言ったっけ) 驚きに踊る心臓を押さえている緋深に、千波は首を傾げつつもす、と長い手を動かして何かを差し出した。「はい」 青白く細長い指が支えているのは、先ほど朔夜に与えた汁物が入っているのより少し大振りの碗だ。その中に入っている液体は波打ち、芳香のする湯気を放っている。朔夜に飲ませたものと、同じもののようだ。「すぐにもうちょっと胃に溜まるようなのを持ってくるから、それまでに取りあえずこれを飲んで、胃を落ち着かせておいてね」 端正だがすっきり、と言うよりはげっそりとした風にも見える容貌に優しげな笑みをたたえつつ、千波は手渡そうとしてくる。別にいらない、と緋深は手で拒否の意を表すと、やんわりと言葉を続けられた。「君もきちんと食べないと、身体がもたないよ?」 緋深は黙り込み、視線を逸らすしかない。返す言葉がないからだ。 助けられてから、緋深は白湯と薬以外一切を口にしていなかった。この村にどうにか-道中、肉体的より精神的に、とても疲れたのだ-着き、医者から手当を施されたすぐ、この千波と言う男は病人食にしては美味しそうな食事を与えようとしてくれた。 だが、緋深は意固地なまでに断り続けたのだ。 この目の前の男、千波はそんな緋深を見てられなかったのだろう。戸惑うほど心配をし、世話を焼いてくれようとした。何度も差し伸べてくる細長い優しい手を何度-朔夜のことが不安で苛立っていたから-邪険にはね除けようとそれでも心配を続けてくれた。 何度も何度も繰り返された押し問答に、根負けした緋深は言ったのだった。 「朔夜が起きて、何か食べたら…………俺も食べる。それまでは、食べない。この条件が飲めないなら、俺は白湯も薬も断る」 緋深に取って、数日何も食べないと言うことはきついが、できないことではなかった。白湯はいくらでも飲めるのならば、たった数日などで、死にはしない。緋深は朔夜を残して野垂れ死ぬ気はまったくないのだから、問題はないのだ。……緋深にとっては。 だが、千波にとっては大問題だったのだろう。さあ、ようやく、といったのだろう。千波は更に言葉を重ね、緋深に食事を要求してくる。「約束、してくれたよね?その子が起きたら、食事をしたら、君も食事をしてくれる、って」「……あ、ああ」 心配をしてくれていることは、緋深は痛いほどわかっている。別に返事を言い淀んでいるのは、千波を困らせたいわけではない。緋深も空腹の限界寸前で、食事をすることに否はないのだ。 だが、緋深にも言い分はあるのだ。(…………何で、今、ここで言うんだよっ!!) 朔夜の意識があり、千波の声が聞こえる場所にいるというのに。 沸々とする怒りを抑えながらも、意識を集中すると背後に視線が突き刺さっていることに緋深は気付いた。言うまでもない。朔夜だ。紫の瞳いっぱいに気遣わしげな色を浮かべ、不安そうに揺れているに違いない。想像するだけで、緋深はため息が喉奥から溢れてきそうである。 だが、だからといって緋深は千波を責める気にはなれなかった。 緋深は今思えば、これでもか、というほど親切にしてくれていたのに、あまりな態度をとってしまったことの負い目か、この目の前の青年にどうも強気にでられない。それはこの青年の人柄故かもしれないが、妙に調子が狂ってしまうのだ。 これが獅吼ならば、盛大に罵れたというのに。 うう、と唸っている緋深に、千波は更に言葉を重ねてくる。「君も食べないと……薬も、何か胃に入れてから飲まないと本当は悪いのに。ずっと無茶をしてたんだ。いい加減、何か口にしないと、君。今度は栄養失調で倒れちゃうよ?」(わざとかっ!わざとなのかっ!) 内心、悲鳴をあげる。 緋深の恨みがましい視線も何のその、と言わんばかりに千波は微笑みを崩さない。「食べるよね?」 とどめだった。 目の前の穏やかな笑顔と、背後からの訴えるような視線に、緋深は敗北を悟り、深々とため息をついた。---------------やっぱり、こうなります 緋深は(笑)
2006年10月23日
コメント(0)
ぼんやりとした湯気に視界を阻まれて、ただでさえ儚く危うげな朔夜の様子に拍車がかかって見えた。蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる朔夜の顔は、どこか寝起きのせいか虚ろで、消えてしまいそうな錯覚に陥いる。 緋深のこの言いようも無い不安を辛うじて表に出さないのは、腕にかかる朔夜の以前より軽くなっている重みと、低い体温があるからだった。(………これじゃあ、華奢を通り越して、病的一歩手前だ) こくり、と汁物を朔夜が危うげに飲み込むことに安堵しつつも、白湯の時よりも咀嚼が遅いことが気にかかる。燃費が良い、とは朔夜は言えない体質なので正直なところ、こんな小振りの碗一杯よりも、もっと沢山食べて欲しいと願う。だが、必死に飲み込んでいることはよく分かっているので、せかしかねない要求の言葉を無理矢理喉の奥へと押し込んだ。 茶碗一杯ほどの大きさである小ぶりの碗に浪波と注がれていた汁物をようやく半分ほどまで飲み干すと、朔夜は心底申し訳ない顔をしながらも、嫌だ、と小さく意思表明するかのように首をゆるりと横に軽く振った。「……朔夜」 荒々しく波打つ激情を押さえ、小さな音で、そして優しさをふんだんに込め名前を呼ぶと、少し腕にかかる朔夜の身体が一瞬震えた。 罪悪感にさいなまれ、見捨てられるのを恐がっている子犬のような朔夜の表情を見ると、わがままを通してやってもいいか、と言う誘惑にかられるが、緋深はあえて優しく、だが残酷に朔夜の淡い願いを打ち砕いた。「食べて」 その言葉に反抗するように朔夜は唇を噛み締めてしまうが、緋深は咎めるようにもう一度口を開く。「朔夜?」「…………」 朔夜は瞳を惑わせつつ、何度か口を薄く開ける。だが、そこから何も声はでなかった。朔夜が、一言でも拒絶の言葉を吐けば、緋深は無理強いできない。朔夜はそれを承知なはずであった。だが、その一言が言えないのであろう。どうすべきか、と軽い困惑に陥っていることは端から見れば一目瞭然な姿に、緋深は軽く笑った。 紅い瞳を穏やかに細め、椀を持っていない右手を動かした。右腕と肩に上半身を預けている朔夜が、その動きにつられるように微かに揺れる。 やはり、軽い。緋深は朔夜にばれないよう一瞬眉を顰めた。(………やっぱ、無理にでも食べささなきゃな) 緋深は右手の人差し指を、朔夜の唇に触れさせた。朔夜は驚きに目を瞠りつつも、それでも口元を閉ざしている。その様子に軽くため息をつきつつも、緋深は強硬手段に出ることをあっさりと決めた。「朔夜…自分で、きちんと食べる気になったら、言えよ?」「……?」 緋深は小さな唇に軽く触れていた指に力を込めた。さして労せず人差し指を口内に進入させることに成功する。軽く歯を叩くと唖然としていた朔夜が、反論しようとして上下の歯の間に隙間ができた。「莫迦だな……嫌なら、噛み締めていれば良かったのに」 小さく呟くのと同時に、更に指を進入させる。人差し指で上唇と上顎を押し上げ、親指で下唇と下顎を押し下げることで口を無理矢理開けさせた。朔夜はあまりのことに目を白黒させる。そして少しは動くようになったらしい小さな手で緋深の腕を掴み剥がそうとし、指を排除しようと湿った舌で押し、単に力が入らないのか入れてないのか軽く指を噛んでくる。そんな拙い、というよりも弱々しい攻撃に緋深は苦笑した。 緋深は問答無用に朔夜の口に碗をあて、だが加減を充分すぎるほど配慮した速度で、汁物を流し込んだ。喉に滑りこんでくる食物に朔夜は必死に飲み込んだ。緋深の指が邪魔をするので咀嚼はできない。だが、もともと病人食なのであろう汁物は、咀嚼をせずにも飲み込めるようなものである。特に大きく咳き込むことなく、汁物は朔夜は喉の奥に通った。 やっと碗半分の量が消えたことを確認し、緋深は一度朔夜の口から碗を外し、床に置いた。唇の端に微かについてしまった汁物を指でぐっ、と拭ってやる。 小さくこほこほ、と咳き込みつつ、なお抵抗を開始した朔夜に、緋深は苦笑する。「これ、嫌か…なら自分で喰うか?」 朔夜は一瞬頷きかけたが、眉を顰め小さく首を振った。「どっちも嫌は、なし……どうしても嫌なら俺の指、噛み千切るぐらいの抵抗するんだな」 透明度の強い紫色の瞳大きく見開かれ、困惑したように顔を歪めた。 緋深はその反応ににこりと笑った。予想的中の反応である。朔夜にそんなことはできない、と踏んで言ったのだからその分かり易い反応は、次に話しをとてももっていきやすい。「後で吐いてしまっても、いい。取りあえず胃に何かいれるんだ…飲んでくれ」 朔夜の胃は弱っている。無理に流しこんで食べさせても後で吐いてしまいかねない。そこまで認識していても緋深は朔夜に食べることを強要した。 もちろん、いいわけがない、と朔夜は瞳で訴えてくる。だから、諦めて。だがら、もう食べなくていいでしょう。そう言いたいであろう朔夜の気持ちは、手で水を汲み取るよりよほど容易にできた。「いいんだ」 きっぱりと告げた、その言葉に一切の嘘は無かった。緋深からすれば、本当に構わないのだ。 吐けば、いい。胃にものをいれられるだけいれ、後で吐いてしまえばいいのだ。 胃にものを入れれば入れるだけ胃壁との接触面積が増え、少しは栄養は吸収される。詰め込めれられるだけ詰め込めば、しぼみかけている胃袋は拡張される。(吐けば、汚れる。けど、そんなものあとで洗えばいい。清めればいい) “そんなこと”で躊躇し、弱らせてしまうことより、よほどいい。 助けてくれた人の家で、迷惑をかけることになるが、そんな責ならばいくらでも緋深は負う覚悟は、今更用意しなくても有り余るほどある。「……朔夜。“また”食べられなくなるだろう?」「っ!」 驚いたように紫色の瞳を瞠り、何故知っているのか、という無言の問いかけに、緋深は苦笑にも似た表情で答えた。 朔夜は一時、摂食障害に陥っていた。いたらしい、というのが正確である。その現状を緋深は見たわけではないのだ。だが、かなり酷かったんだな、と話を聞いただけでも思うほどだった。 血色の悪い痩けた顔、骨が浮かび上がった身体、ふらつく足取り、か細い声。 そんな姿を想像するだけで緋深は臓器がまるで凍ったかのように、ぞわぞわと体中に悪寒が走った。朔夜は、摂食障害になる『引き金』と言ってもよい元凶と出会ってしまっている。引き金は、すでに引かれてしまっているのではないか。その不安が緋深に強行な態度を取らせていた。「どうする?自分で食べる、か?」 戸惑うように、だが小さく頷いた姿に、緋深は優しい笑みを浮かべた。----------------- 字数制限上、一旦区切ります 珍しく朔夜に対して強気の緋深です。 けど、続きを読んで貰えればわかりますが、一瞬芸だったようです(苦笑)
2006年10月23日
コメント(0)
麗蘭は薄暗い廊下を半ば早足でつかつかと進みながら、家臣達の報告を聞いていた。「侵入者は複数。推測として十数人は最低いるかと。門は半壊しており、門番は負傷。程度はわかりません。邸内のいたるところで狼藉者と衛兵が戦闘をおこなっている模様。幾人か捕らえたようではありますが、目的はまだ」 報告に麗蘭は眉を顰めた。だが不安も不信も表には決して出さず、てきぱきと指示を采配していく。「兵は狼藉者の捕縛を優先に。なるべく殺されぬようにさせて。聞き出せることは全て引き出すためにも。文官は女中などの護衛しつつ避難するように伝えて。狼藉者と出会っても無理に戦闘は行わず、生きることを優先すべし、とも。ああ、兵の一部は医師達と共に行動し、負傷者の手当するようにしてちょうだい」「畏まりました」「玲鈴、怜蓮はどうしているかしら?」「はっ、もう夜も深まっています。部屋にいらっしゃるかと」「そう。ならば兵の一部を裂いてあの二人の身柄を確保してちょうだい。人質にされたらこちらの部が悪くなるわ。そしてそのまま文官、女官達と合流させて。以上よ。行って!」 命が下ると家臣達は己のすることを行動に起こすため、麗蘭の護衛以外の姿は廊下の奥に消えていった。それでも足を止めはせずに闊歩しながら思案する。(何が………何かが引っかかる) 何が妙なのか。それは麗蘭も正確に言えない。だが、直感とも言えないのだ。 その違和感の正体を掴もうとも情報が足りなさすぎるである。舌打ちしたいのを堪えた。「胡姫[コキ]様!」 後方から聞こえてきた声に、麗蘭は歩みを止めた。胡姫、とは主君である胡家の女性を指す、尊称であり、愛称のようなものである。そして現在胡姫という称が指すのは麗蘭のことだ。 弾き飛ばされたように駆けてきた男は麗蘭の前で急に速度を落とし、勢いのまま平伏する。「損害をご報告します。負傷者5名。死者3名です」「…そう。詳細はわかる?」「文官、女官、衛兵に死傷をしたものもはございません。いずれの死傷者も門を守っていた者達です。経緯はまだ判明してはおりませんが、どうやら不意打ちにあったようで。負傷者も重体とのこと」「不意打ち?」 麗蘭は聞き流せない単語に眉を跳ね上げた。「はい。ですが彼らは怠慢をしたわけではございません。先ほども申し上げましたが、詳細を知る負傷者はいずれも重体故、判明はしていませんが、それなりの理由があるかと。譫言のように忠告のようなものを必死に喋っております。ただ、聞き取ることは困難でして………信じてくださいますか?」「当然よ。疑っているわけではないわ」「ありがとうございます」 麗蘭の言葉に男は安堵したような表情を、強張っていた表情筋に一瞬乗せた。「断片的なものでもいいわ。彼らが何を口にしていたか、分からないかしら?」「はっ………確か、『スイ』、『キラケ』、『ホコ』です。それのみを何度も繰り返している模様で。繰り返すことでどうにか聞き取れたものなので、間違いはないか、と」「そう」 麗蘭は脳細胞を活性化させ、急速に考えを収束し始める。(不意打ち、『スイ』、『キラケ』、『ホコ』) この四つの手がかりを、今までの情報を組み合わせる。胡家に襲撃をしてきた愚かな、後先を考えない行動。狼藉者達の団結。胡家の敷地内にあった不審な影。(後先考えないのは、本当に愚かだから?考えなくとも大丈夫な理由がある可能性もあるわね。これは窃盗ではない。強盗だ。そして胡家は紛れもなく『貴族』。秋官が必ず動く。それを恐れていない行動を見ると、逃れる手がある、という自信があるわけね) 秋官は十数年前ならば体たらく、としか評せない輩の集団であったが、今は改革が行われたか精鋭集団となるべく絶え間なく鍛えている、という風に変貌している。これは皓国内では誰もが知っていることだ。 秋官の手から逃れることは今では難しい。(それは何か策があるから?いや、策が自信の元であれば、彼らは間違いを犯したことになる。殺人。これがあるのとないのとでは秋官の動きが変わってくるわ。これは不確定要素だったのかしら。…いや、違うわね。大きな間違いを最初の段階で犯してしまったならば、撤収するべきだったわ。殺人は、確定要素?…そうであるならば自信の源は別ね) 麗蘭はどんどんと思考の意図を紡ぐ。「侵入者はどうやって胡家まで来たの?」「は?」 男は急に話しかけられたことに驚いてか、目を忙しなく瞬きさせた。だが麗蘭はそんな男の都合を無視して言葉を投げかける。「徒?馬?」「あ……はい。馬です」「全員?」「はい」 麗蘭は男の断言を聞いて、ある有力な考えを導き出す。(後ろ盾、ね。しかもかなり強い。少なくとも秋官を抑えるだけの、でしょうね。そうなればかなり数はかぎられるけど………どこの『貴族』かしら?) 麗蘭は最初から裏街などの表には在られない有力者は排除していた。彼らがこんな山に手をかけるわけがない、と思うからでもある。だが何よりの理由は別にあった。 貴族の中では胡家を逆恨むものも少なくないのだ。見下す対象である異人の集団、胡家が栄えていることが腹立たしい、という短絡的かつ非常に情けない輩が、意外に数多く存在するのだ。(貴族には莫迦が多いけど…それでもここまで非常識なことをしでかす輩に覚えはないわね) 狼藉者、というのは金で簡単に動いてくれる。後腐れもない。だから、利用する人物は多そうだが実はそうでもない。後腐れがないからこそ「内密に」と頼んだことすらも秋官から持ちかけられた「取引」で簡単に口を割ってしまうのだ。彼らは己の「利益」、いや「欲望」に忠実すぎるのだ。だから多量の金を積まれて簡単に危険な山にも手を出すし、簡単に裏切る。 胡家を敵視する貴族は愚かだが、それぐらいのことは承知しているだろう。 あまりにも今回の愚行は危険が多すぎることは火を見るよりも明らかだ。「後……お耳に入れておきたいことが」 ふと呟くように小さな声にふと麗蘭は思考を止め、顔を上げた。言い淀むように視線を伏せている男に怪訝そうに眉を顰めた。 目の前で跪いている男は、胡家に長く使えている者で、麗蘭もよく知っているものだ。知っているからこそ、不審に思う。竹を割ったような言動で、周りを先導している男がこれほど惑っている姿は初めてだ。「何かしら?」 問う声に、男の顔に翳りが色濃く現れる。「実は………怜蓮、様の」「…怜蓮に何かあったの?」 思わず声を上げそうになるのを麗蘭はぐっ、と堪え、冷静に言葉を吐き出した。上に立つ者として慌てたり、不安がる姿を見せるわけにはいかない。 だが、やはり肉親を心配する気持ちがないわけではないのだ。「いえ……いいえ。怜蓮様は、無事、です」「…『は』?」「はい……あの、その……蘇櫂[ソカイ]が」「蘇櫂が?」 何故この名が今、出てくるのだろう。麗蘭は内心首を傾げた。 蘇櫂、という名の男は胡家に長年使えている文官である。手腕が良く、穏やかな人柄、と麗蘭は記憶していた。顔は際立って良い、というわけでなくむしろ凡庸だ。だが、相手に威圧感を決して与えない物腰なのでその凡庸な顔が、とても暖かなものに見えてくる、人格者、と呼べる者だ。 その蘇櫂は、怜蓮の恋人である。なので麗蘭とも関係がないわけでもない。 だが今此処で聞く名ではないはずだ。「………蘇櫂が、亡くなったのです」「っ…何故?」 麗蘭は目を見開く。「あの者はいつものよう、夜半まで仕事をしていたようで…そのせいで襲撃にいち早く気付いたようです。そしてそのまま事実を確認しにいこう、と門まで咄嗟に駆けつけてしまい…そのまま巻き込まれた模様。怜蓮様は蘇櫂の屍を見て…それで」「……半狂乱に?」「いえ…そのほうがまだ、良かったです。放心して、まるで魂が抜けたようになっているようで…」「そう」 麗蘭は目を伏せた。男の死を残念だと思う気持ちと、妹の痛ましい様子に胸が痛む。 だが、麗蘭は今、感傷に浸る暇などない。麗蘭は思考を急ぎ切り替える。「怜蓮は、玲鈴や女中達に任せましょう。私たちは同じ犠牲がもう出ぬよう、この騒ぎを急ぎ収束させねば」「はっ………その、蘇櫂の親族に」「わかっているわ。親族には手厚い保証を約束をしましょう。彼は親兄弟をいつも心配していたものね」 悲しげな麗蘭の微笑に、男はほっ、としたように顔を弛めた。「さぁ、あなたも女中や文官達の元へ…彼らを守ってちょうだい。貴方に与えた剣は、彼らを守るため、その為にあるのだから」「いえ。文官達の元へは私が心から信頼し、鍛え上げた部下がすでに駆けつけております。ここで胡姫様を守る許可を下さい。貴方様に何かあれば、胡家は崩れ、多くの者が危機に陥ります。彼らの未来を守るためにも、どうぞ許可を」 麗蘭は苦笑した。この男、意外と口が回ることに驚き、珍しいことに言い返せないからだ。 ええ、と麗蘭が頷き、男が喜色を浮かべ立ち上がり、脇に控えようとしたときだ。「っ?!今のは」 甲高く細い悲鳴が、確かに麗蘭の耳に届いた。は、と周りの人間に視線で問いかけると皆一様に頷いた、ということは聞き間違いではない。 弾かれるように麗蘭達は駆ける。「逃げ遅れた女中でしょうか?」「いいえ……あれは」 男には誰か判別できないようであったが、麗蘭はあの声に聞き覚えがあった。男が知らないことも仕方がない。麗蘭も咄嗟に判断ができなかったのだ。 何故なら、その声の主は滅多に声を出さないだけでなく、あんな大きな-悲鳴だが-声を出すなど始めてのことだった。(朔夜っ) 何故、彼女が。 守人である彼女は狼藉者ごときに脅えることなどないはずなのに。自身を守ることなど容易く、そもそも狼藉者ごときに気配を察せられるほど弱くもない。 疑問に思いつつも、麗蘭は廊下を駆けた。
2006年10月10日
コメント(0)
廊下を照らす炎が之推のわずかな怒気、いや殺気に反応したかのように、小さくばちりと音を立て大きく揺れた。炎に照らされた之推と緋深の顔に濃い影が浮かびあがる。「“計画”のため、かよ」 もう一度言葉を緋深は重ねる。 之推は顔には出さぬが、内心舌打ちを盛大に鳴らしていた。緋深が声にだしてしまった『計画』とは、そう簡単に口にしていいものではない。(何故、知っている?) 教えたと思われる人物の候補はいまいち之推には図れなかった。『計画』を知っている人物は、皆弁別のある人間で数少ない信頼できる人物たちである。(……確かにこいつも、巻き込むことができ、戦力とはなるけどね。一体誰が………) ついつい視線がとがりそうになるのを、之推は無理矢理曖昧さをかぶせることで隠した。 だが育ち故か、妙に負の感情に聡すぎるほど聡い緋深は、之推の不愉快さに気が付いたようであった。ふんと軽く鼻で笑い飛ばす態度に、とうとう之推は視線を冷たく細めた。 緋深は一瞬嘲るように笑うが、次の瞬間には眉を顰めた。之推が緋深の挑発に踊らされ本性を垣間見せたのではなく、わざわざ見せてくれていることに気が付いたのだろう。(本当に……こいつといい、姫君といい。どうしてここまで人の感情に敏感なのか) 一瞬、守人の血のせいか、とも思ったが、すぐに之推は考えを改める。 幾人か之推は『守人』と呼ばれる人種にあってきた。確かに彼らは機敏ではあったが、それは周囲の人間の行動に関してのみだ。感情を察することに長けてはいなかった。と言うことは、この二人特有の能力、いや技なのだろう。積み上げられてきた過去と、経験の賜物というわけだ。「さて…それを何処で聞いたんだい?緋深」「さあね。あんたに教える義理はない」「それは困った。なら排除しなきゃならないな。俺はお前のこと、結構気に入ってはいるんだけどな?」 赤い目から発せられる鋭く冷たい視線がじくじくと刺さる。一触即発、と表現するしかない雰囲気が廊下の一部を支配しはじめる。重圧に空気は押し潰され、密度を増し、重苦しいものへと変わっていく。「へぇ…俺は、あんたなんかに殺されるほど弱くはないだけどな」 「愚かだね。別に正面から挑むだけが闘いじゃないよ。そもそも俺は『排除』と言ったんだ。誰も殺すとは言ってないんだけど?」「同義語じゃねぇか…違うか?排除するため、と言いながら武器を持ち出す。その際、例え途中で殺したとしても『排除』したことには変わりはない。そして肉体を殺さなかったとしても、排除したいと存在を頭から、記憶から、環境から、社会から消す。それはある意味『殺す』ことだ」「極論だね。まぁ、間違ってはないけど、正解とも、言えないってところかな。まぁ、いい。で、どうする?言う気はあるのかい?」「さあ?あんたこそ知ってどうするんだ」「別に。ただ把握のためだな」 之推の言葉に嘘はなかった。緋深が『同盟者』とも呼べる人間から計画のあらましを教えて貰っているならば、本当にただの把握のためだけなのだ。取り立て騒ぎ立てる気も、処罰するつもりも、何もない。 盗み聞きや、どこかからの情報漏洩でないならば、ではあるが。「さぁ、どうするつもりだい?姫君と離れる気、ないんならさっさと白状しちまいな」 之推は表情筋だけで笑いながら、緋深の弱点である一番脆い部分を刺した。微妙に歪んだ顔に之推は軍配がこちらにあがったことを確信する。 緋深は莫迦でも、愚かでも、阿呆でもない。客観的に己を見ることもでき、現状をきちんと把握することも可能だ。ここで無駄に抗っても緋深にとって良い道にならないことは分かり切っているだろう。感情さえ抜きにすれば、簡単すぎる答えだ。 だがその感情というものが一番人間に影響する。もちろん緋深も例外ではないので、大変渋った顔へとなっていた。だがここで意地を張っても仕方ない、と諦めたのか不承不承口を開く。「籐家の春呼び姫」「……あの姫君、かよ」 之推は深い深いため息をついた。脳裏に淡い色の長い髪の風に遊ばせながら、優雅に笑っている女性がどうかなさいまして、と小首を傾げている。(なさいました、だ) 春呼び姫。籐家の姫、櫻妃は「春」そのものを身に纏ったような美しいことからそう呼ばれていた。春の暖かな陽射しのような雰囲気、咲き誇る春の花々のような柔らかで優しい笑顔、春風のように心地の良い声、そして包み込むような春の陽気のように温かく、優しく包容してくれる慈悲深い人柄、と誰からも口を揃えて呼ばれるような存在である。 だが之推は知っていた。それは彼女の一面にしかすぎないのだと。 一見穏やかな眼差しだが、その奥には深い深い想いと全てを見透かすような光を宿している、聡明で気高く強い女性。それが之推の認識だ。巷で言われているようなただほわほわした少女では決してない。 だから之推は彼女をこう評した。優しい光で全ての者を照らすが、朧で自身の包み、真の姿を月は彼女そのもの。そして穏やかな気候と優しい色の闇で人々を包むが、暁と共に消えてしまう春の夜もまた彼女そのものだ。故に『朧月夜』と。「で、朧月夜の姫君は何とお前に言ったんだ?」「……別に。大まかなことだけだ……あんたらがとんでもないこと、企んでいる。そしてそれに「朔夜」が、朔夜の意思に関係なく巻き込まれかねない。無関係じゃない、いられないらしい、と。だから……守れと言われた。『朔夜を大切に想うならば、守ってさしあげてくださいませ』と言われ頼まれた」 之推は眉を跳ね上げた。緋深の言葉に嘘を見出したからではない。ただ、何故櫻妃が「よりによって」緋深に託したか、が気にかかったのだ。(緋深にとって、朔夜は唯一、ともいえる存在だと言うのに?託した?) 唯一を選べる者は、選んでしまった者は、恐い。之推はそう考えていた。 捨てられないものを、大切なものだと思えるものを、人は皆持っている。それは両手でどれだけ一生懸命に抱えても、こぼれ落ちそうなほど沢山あり、それを一つでも落とさないよう必死になって抱きしめている。だがどれだけ頑張っても指から擦り抜け、落ちて壊れてしまう。だから人は泣き嘆き、残ったものだけは、それだけはと、他には何もいらないから、と思って、だがまた新しいものを抱えてしまい、何度も繰り返す。それが当たり前なことだと之推は思っている。 だから数少ない、唯一を選んでしまった奇人達を之推は素直に恐いと思うのだ。 唯一を選んでしまった者、と言うとただ一人に忠誠を誓った「忠臣」と呼ばれるものを連想するが、それとはまったくの別物である。忠臣、と呼ばれる者は主に忠誠を誓い、尽くすが大切なものは主だけではない。家族を持っているものも、部下に心砕いているもの多くいる。彼らは最後に主を選んだとしても、決して家族や部下を蔑ろにしているわけではないのだ。 だが、緋深のような選んでしまった者は、違う。最初から唯一以外いらないのだ。 空っぽの両手でただ唯一だけを抱きしめる。余裕があっても、他のものには見向きもしない。ただ何かを恐れるように一心に唯一だけに縋り付く。その存在がいて始めて呼吸ができ、感情が動き出すと言わんばかりに。だから、その唯一を亡くしたとき、壊れ、死んでしまう。 空恐ろしいことだ。 之推も「絶対」のものがある。だが、それは「萱家の一族として守るべき領地と民と部下」だ。唯一ではない。複数に分散されたものだ。それにもし失ったとしても、多大な傷を負うことにはなるが、死にはしないだろう。奪ったものに復讐をし、決着をつける。そして残された欠片を拾い集め、また立ち上がり歩きだすに違いない。 だから、緋深のような人間の理解に苦しむのだ。之推は理解できたとしても、同じ生き方をすることは不可能である。(まぁ、緋深の過去を聞けば、納得できないこともないんだけど) 孤独の底に生まれ落ちた瞬間から落とされたと聞く。信じられるものは己しかおらず、優しさの意味も人を愛する喜びも知らなかったそうだ。与えられたものは他者からの冷たい視線と態度しかなく、心は凍え、感覚すらなくなっていたのだろう。そんな中、ようやく与えられた温もりだ。少しでも力を緩めたり、視線を逸らせば失ってしまうのではないか、と不安なのである。 之推は相手が悪かったと思う。これが朔夜ではなく、それこそ櫻妃であれば。ならば、少しでも心に余裕が生まれる余地があったはずだ。包まれるような大きな温もりで、充分すぎる安堵も与えられたはずである。だが、朔夜には無理だ。朔夜も朔夜で心に深い傷を負っており、まだ自身のことで手一杯の子供なのである。小さな温もりでは、緋深の心の奥底にある凍えた闇を全て解かすにはまだ時間が必要なのだ。(それは朧月夜の姫君も承知だ。聡すぎるほど聡い人だからね) そんな幼い子供の危うい必死さに、何を託したのか。(まあ、あとで朧月夜の姫君に真意を聞いてみるか) 之推は小さく肩を竦め、こちらを半ば睨んでいる緋深に忠告をした。「野郎に親切にしすぎるのは、俺の主義に反するけどな、良いこと教えてやるよ。むやみやたらに何でも口にしないほうがいい」「言われるまでもねぇよ」「なら、いいんだけど」 ぎろりと睨んでくる紅い目に、之推は内心苦笑する。(まぁ、番犬程度なら、ちょうどいいかもね) と緋深が聞いたら怒りそうな台詞を考えながら。
2006年10月07日
コメント(2)
薄暗い闇の中、霄弥[ショウヤ]はゆっくりと瞼を上げた。岩に預けるようにしなだらせた身体を、気怠げに起こした際、墨染め色の衣の擦れた音だけが空間に響く。何度か瞬きをしていると、紫電の瞳は淡闇に慣れたのか、ぼんやりと周辺の景色を映し出した。 むき出しの岩の中、純白の石を削って作られた神殿が浮かび上がる。東西南北に大きな、細やかに細工を施された柱の中心にそびえ立つ真っ白な神殿は、光源がないはずなのに神殿自体が発光しているかのようである。ぼんやりと淡く光り輝き、薄闇に浮かんいる。洞窟の中とは思えない大神殿である。 その神殿が一望できる場所にある大岩に霄弥は座っていた。美しい細工が目立つ、見栄えの良く、いつまで鑑賞していても飽きない神殿を視界にいれた霄弥は、一つ忌々しげに舌打ちをした。(せっかく…朔夜と会ってきた後だ、と言うのに) 何が悲しくて起きて最初に視界に入れるのがこれなのだろう。 目覚めてすぐに視界にいれたい光景ではなかった。いくら美しくても、霄弥からすればただの忌々しい象徴でしかないのである。 とは言っても、この出口のない洞窟の中にあるのは岩とこの神殿しかないのだが。「………」 霄弥は自身の両手を見つめる。墨染め色の衣から滑り出る己の白い指は、当然のごとく何もなく、ただ空気を乗せているだけだ。「………朔夜」 かすかに温もりが残っていると思うのは、己の勘違いなのだろう。天然の洞窟はただでさえ気温は涼しい。指先は実際は冷え切っているだけだ。だが、そうと霄弥は分かっていながらも幻の温かい残滓をかき集めるようにぎゅっ、と自身の手を握りしめる。「大きく、なっていたな」 霄弥は『夢』を渡り、久しく会っていなかった少女に会いに行った。二度と、会うことはないと思っていた。会わない、と決めていた。ただ遠くから見守る。それだけに留めよう、と。あの少女が笑い、幸せな姿を時折見られればいい、と自身に思い込ませた。 破るつもりは毛頭なかった。 だが、事態は少しおかしくなった。少女-朔夜-の封じていた記憶が解かれかけていたのだ。だから慌てて霄弥は記憶を再び封じに『夢』を渡ったのだった。再び呪をかけるために。 霄弥には『異形の力』がある。これは後天的に備わったものであり、霄弥は疎んでいた。だが、夢を渡ったり、記憶を封じたり、と近頃は大振る舞いである。 苦笑するしかない。「まさか会う、とは思わなかったが」 心の奥底に沈むほど、体が弱っているのだろうか。霄弥は眉を顰める。 あの場で朔夜と出会ったことは、霄弥には意外すぎることだった。 精神的な揺さぶりをかけられ、閉ざしていた扉が綻んでしまった。それは無意識なことであり、朔夜は気が 付いていないはずだった。だから、気が付く前に修復してしまえ、と思ったのだ。 だが、朔夜は心の奥底で倒れていた。 きっと身体が弱っていたせいで、心も不安定になり、奥底まで迷い落ちてきてしまったのだろう。朔夜の心は強いが、脆い。多少の罅には耐えられるだろうが、限界を超えたならば一気に砕け散るだろう。だから、精神的に傷ついたならば、心の奥底には来ない。来れない。「……何があった?」 霄弥には推測しかできない。 最後に朔夜を見たのは、胡家と呼ばれる家で戸惑いながら、失敗したようなどこか奇妙な笑顔だったが笑っていた。ここ数年、泣くのを堪えている姿と脅えたような表情しか見ていなかったので安堵したことを覚えている。 やっと、彼女が笑い始められた。そう思っていたのに。 だが、霄弥が幾らこの場で考えても、明らかに情報が足りず、何も分からない。軽く左右に頭を振り、気持ちを切り替える。(大丈夫だろうが……) 朔夜には、加護がある。加護の主を霄弥はとことん気に入っていなかったが、だがその力の威力はよく知っていた。 それに予想以上に簡単に朔夜を『夢』、いや『心の深淵』から現実に引き戻せれたのだ。それは朔夜の身体がまだ鼓動を刻んでいる何よりの証拠だ。だからそれほど身体のことは心配していなかった。心配ない、と自身に思い込ませた。 それよりも、気にかかることがある。「泣かせてしまった、な」 霄弥はどこか自嘲したような声を小さく吐き出した。白銀色の前髪をさらりと掻き上げ、そのままぐしゃりと握りつぶした。 脳裏に目尻に涙を辛うじて留めている透き通った紫色の瞳と、悲しみに歪んだ幼い顔が蘇る。 泣かせたいわけではなかった。むしろ笑っていて欲しい。幸せであって欲しい。穏やかな日々に浸っていて欲しい。そう願うのに、自身が与えたのは涙と悲しみだった。「いっそ全てを投げ捨て、抱きしめ、愛しみ……そして、自分だけのものにできたなら」 何度もそう思ったが、霄弥はその想いをその都度完膚無きまでに殺してきた。刺し、息の根を止め、細かく切り刻み、そして埋めてなかったことにした。想いを殺すことに初めは抵抗があったが、幾度も幾度もくり返すことで今では効率よく、淡々とこなせるようになっている。そして、その頃になると、想いすらも心の奥底に閉じこめ、表に出てこないようにすることさえできるようになっていたというのに。「たった……あれだけなのに、な」 意識がとぎれるその最後の、その一瞬まで霄弥を直向きに見つめ、忘れたくないと訴えていた瞳と、意識を失ってなお、必死に縋り付いていた指先。 それだけでまた想いが暴れ出している。意外に自分は意思の脆い、と思い知らされてしまう。「けど……な」 脆くても、決してその想いを解き放しはしない。できないのだ。 いくら朔夜が泣きわめこうと、縋ろうと霄弥は何度でもその必死な小さな指を振り解く自分を嫌というほど理解していた。抱きついてき、あの存在が霄弥だけのものになると囁いてきても、突き放すだろうことも。「これだけは、譲れない……我が儘、なんだけどな。貫き通させて貰う」 例え、それで朔夜が深く傷つき、涙しようとも。 霄弥は、すでに覚悟は決めてある。だが、同時に泣かせても、と思ってもできるだけその涙を少なくしたい、とも思う。それが朔夜にとってただの残酷な仕打ちでしかなくとも、自己満足だとしても、だ。 「…………っ」 ぴりり、と皮膚の薄皮を刃物で剥がされるような痛みが腕に走った。忌々しげに自身の腕を見つめれば、そこには漆黒で描かれた紋が浮かび上がっている。紋はすでに腕の半分以上面積を埋め尽くし、肌の白い色を隠している。「俺は、いつまで、持つのか………」 霄弥は小さく笑った。その笑顔に影はない。だが、光もなかった。ただ全てを受け入れたように静かに笑みを浮かべている。 この紋は、残された時間を、いや奪った時間を様々と宿主に知らしめている。この紋が全て身体を埋め尽くした時、霄弥の生きる刻は止まる。 すでに紋は、身体の至る所に現れ初め、身体の先のほう、手のひらや、足、顔以外はほぼ浸食してしまっている。近頃は額や首筋まで、となっている。 特別霄弥はそれを、どう、とは思わない。生をじわじわと奪われる感覚も、奪うために命を半永久的に誓い時間を長らえさせられることも、他者との接触を禁じられ孤独の海に叩き落とされたことも、霄弥の心にもう波立たせることなどできないのだ。嘆き、悲しみ、絶望に暮れることなど、もう飽くほどした。飽き、感情を飽和させるには、時間が充分すぎるほどあったのだから。「こんなものを……こんなものを“あいつ”に背負わせてたまるかよ」 皮肉な口調だが、どこか優しく穏やかな声音だった。 「“あいつ”は、何も知らなくて、いいんだ………“あいつ”が笑顔でいられるならば、俺は何だってしよう。例え、それで他の全てを代償にしようとも…」 霄弥は誓いの言葉のように厳かな声で呟いた。「それが、俺の罪だ…………罪は全て、俺が背負う。俺で、全てを終わらせる。俺だけで、いいんだ……」 こんな想いをするのは。 最後の言葉は声にならず、冷たい空気の中で儚く散った。
2006年10月05日
コメント(0)
「………頼む。朔夜を……助けて、くれ」 緋深の決意をこめた一言で静かで、どこか重く張りつめた空気が一気に入れ替わった。息苦しさは消え、雪以上に冷たく感じていた凍えるような威圧感は消える。 肌に感じる空気の変化にふと緋深が顔を上げると、慈愛に満ちた光を湛えた瞳がこちらを見つめている。ふっ、と浮かべた女性の笑みは、さすが顔立ちが美人、としか評せない-の割には緋深は今の今まで全然気付いてなかったが-からか思わず向けられる緋深は意味もなく照れそうになった。 綺麗だ、と緋深は素直に思った。白い肌の輪郭に漆黒の髪が滑り落ちるように沿う。先ほど見透かすようで恐ろしい、と思った瞳も今は夜の闇の色で、まるで包み込むようだ。白い雪の上に椿の花が一輪落ちたように紅い唇が描く弧は美しく、先ほどまで緋深を苦しめていたものと同じとは思えない。 透明で、皓く眩い笑みだった。まるで月のようだ、と思ったのに緋深は驚く。(……同じだ…) 緋深は月のようだ、感じる笑みを見たことが以前あった。(朔夜と、同じだ………) いつも歪んだり翳ったりしていた朔夜が初めて緋深に向かってふわり、ほわりと初めて笑った時、緋深は同じことを思ったのだ。たった片手で数える程度しか見たことがないが、今も決して色あせることなく心の奥底に刻まれている。 目の前の女性が稟と空気の張りつめた冬の満月ならば、朔夜は新月だ。緋深がこよなく愛する新月は、ときどき、本当に稀にだが太陽の光をその身に受け、綺羅と輝く。柔らかで、儚く、小さな光だ。だが、その輝きが緋深にとってはとても尊く、愛おしい。 思わぬ一致に緋深が驚いていたが、それはほんの数秒だった。はたと自身を取り戻した緋深は、何故か悔しく思い-何にかは本人にもよくわかっていなかった-ぶっきらぼうな雰囲気を纏い直す。 女性は朔夜を楽な体勢にするように抱え直しながら、緋深に向かい尋ねた。「すまないが、馬は一頭しかいない。この子を一足先につれていくが、いいだろうか?」 緋深は咄嗟に首を横に振りそうになるのを、怒鳴ることを必死に留めた。わざわざ緋深-自身より歳が下である小僧-に断りを入れてくれる誠意に、敵意を向けることはさすがにできない。 だが、女性を信用したわけではないのだ。朔夜と引き離されるのは、認めがたい。 どうすべきか。 そのような緋深の感情を読みとったのか、女性は苦笑する。「この子の症状は、かなり悪化している。これ以上、雪に晒したくない…大丈夫だ、ちゃんとこの子と同じ場所へあなたもつれていく。そう遠く離れた場所に村があるわけではない。足で追いかけてもすぐに追いつく。そんなに心配なら早くこの子のもとへ頑張って、歩いてきてくれないか?」 緋深は、内心白旗をあげた。青ざめ、震えている朔夜を見てしまうと、反論のしようがない。不承不承頷く緋深に女性はふ、と小さく笑い頷き、馬を連れてくる、と朔夜を緋深の腕に預けた。女性の黒衣に縋っていた小さな指先はするりとほどけるのが緋深の目に、妙に印象深く残った。 腕の中に、体温こそ感じないが確かな重みが伝わった。首を少し下に俯かせれば青白い朔夜の顔が近くにあり、小さくか細いが吐息が聞こえる。思わず腕に力が入った。それに安心したように、朔夜の身体が弛緩し、重みが増したと思うのは、思い上がりだろうか。「それでも…………」(縋ってはくれないんだな) 骨が入っていないのではないか。そう思ってしまうほど指は力無くだらりと宙を浮いている。先ほどしっかりと黒衣を握っていたとは思えないほどだ。 寂しい、と緋深は心痛に思う。悔しさも、何でだ、という怒りもある。やりきれない思いだけが胸の奥底を渦巻いて、正直この想いを投げ出したいとさえ何度か思った。だが、それでも。(この腕の重みが……愛しいと、大切だと、思ってしまう………捨てられないんだ) 一度強く瞳を閉じ、緋深は気持ちを切り替える。今は、考えたくなかった。少なくとも、朔夜の傍で、こんなことを考えたくはない。 八つ当たり-と緋深は思うが、第三者が考えてみればそうでもない-怒りを緋深は朔夜にぶつけたくはなかった。朔夜の心の奥に残る傷が、緋深が刻みつけられるもの、というならばかなりの魅力を感じる。だが、決してそうはならないことを緋深は知っていた。傷つけることすらもできないのであれば、朔夜にとっては苦痛でしかないかもしれぬが、温もりを少しでも与え、身体に記憶させるだけだ。優しい言葉、温かな手の温度、抱きしめてくれる腕の強さ。それらは決して忘れようとしても、忘れられないものだと緋深はよく知っていた。朔夜に『拾われた』あの時から、体験を通し教え諭さたことだ。(いっそ…馬の横を併走してみるか?) 気持ちを切り替えようと思い、これからどうすべきか。そう考えてみたとき、ふと、そう思った。最初は何をばかばかしいことを自身は考えているのだろう、と思ったがふ、と緋深は真面目にその案を考え直してみる。 病人の朔夜を抱えて馬に乗るのだ。急ぐ、とは行っても揺れなどを気にすればそう大した速度は出せない。普段の緋深ならば可能である。だが雪で足取りは悪いし、何より緋深の身体事態も病人、と言っても過言ではない。すでに弱った体を酷使しすぎている。まだ鞭を打てば動かないことはないだろう。だがそうしてしまえば、緋深にとって良い結果にはなりえないだろう。 緋深の莫迦な-本人は至極真面目で、しかも莫迦だという自覚症状はあるから厄介な-考えを更に煮詰めようとするのをくい止めるように、急に頭が重たくなった。ずしん、いきなりと重たくなった頭に驚いていると耳に低く響く声が飛び込んできた。「安心しな、坊主。俺がちゃんと、村まで連れて行ってやるんだからな」「っ?!」 緋深は思わず顔を上げる。こちらをにやにやとした笑みを浮かべながら頭に体重をのし掛からせている男の言葉に愕然とした。目に飛び込む金糸や銀糸の豪奢な刺繍の衣が、目の奥でちかちか写り痛い。 少し考えるとわかるが、まさかなのだろうか。緋深は内心、否定してくれ、と思いつつも考える。 四から二を引けば、二が残るのは当たり前だ。わかっているはずのことだが、どうやら無意識にその可能性を排除していたようである。「冗談だろう……」 唖然とした緋深の言葉に、男は何を思ってだろうか、尚更楽しそうに極悪-緋深にとっては、だが-を表情に上乗せする。「何だなんだ?俺がいなけりゃ、『大事な嬢ちゃん』に追いつけないんだぜ。わざわざこの俺が道案内を買って出るんだ、ありがたくおもいな」「頼んでいない!そんなもんっ」「ほお…雪山の中を惑いに惑ってでも村に辿り着く気か?それとも根性で先生の馬を追いかけるつもりか?」「っ!」「図星か」 にやにやと楽しげに笑う男に緋深は怒りが我慢と言う枷を振り切りそうになるのを感じた。男はそんな緋深に気がつかないのか緋深の頭に大きな手を髪をぐしゃぐしゃにする。「やめっ」「阿呆なことを考えるな。何というか、青いねぇ」 褒めたように、感心したかのような口調すら、怒りを煽るしかしない。紅い瞳をきっ、とつり上げ、緋深は蹴りを繰り出す。怒りに身を任せた、というにはあまりにも冷静に急所を狙っており、更に人一人を抱えているとは思えないほど軽やかで素早い攻撃だった。だが奇襲にも似た攻撃を男は悠々と避ける。「お前に貸しを作るぐらいなら!………阿呆で結構だっ」 あまりにもはっきりと言い切った緋深の宣言に、男は一瞬目を見開き、次の瞬間呵々と楽しげに大笑いをした。緋深は豪快な男の笑いに、朔夜さえ抱えていなければ今すぐにでも殴りかかるほどの怒りと反発を覚える。「おまえ……いい反応するな。気に入った」 緋深としては全然嬉しくない。性格の不一致からか、生理的に合わないとしか言いようがない男から気に入られても緋深からすれば願い下げである。 近寄られ、首根っこを掴まれ引き寄せられても、ただでさえ男に触れられて嬉しいわけがないのに、この男だと尚更だ。頭を撫でる手も、子供扱いで気に入らない。しかも「暴れると、『大切お嬢ちゃん』に響くぜ?」 と脅してくるのだ。あまりにも目の前の男を緋深は好きになれるはずがないので、嫌いになる要素しかわざと提示して来ているのではないか、と疑ってしまうほどである。「獅吼……あまり、苛めるなよ?」 清廉な声と共に、真っ白な世界の中から女性が現れた。全ての景色が白い中、黒衣を纏った細い肢体と黒毛の良馬は異質だ、と一瞬思う。だがすぐに考えを改めた。まるで一枚の風景画のように自然と溶け込んでいるように見えてきたのである。不思議な人だ、と緋深は妙な気持ちで感心をした。 女性は男に首を掴まれ、雁字搦めになっている緋深を見て困った奴だ、と言わんばかりの表情である。「人聞き悪いぜ、先生。誰か苛めてるってんだ?」 首の辺りを太い腕で締め上げられながら、更に頭をぐしゃぐしゃにされる。怒鳴りつけようとしても上手いことに、息は辛うじてできるが喋ることは難しい案配に首が絞まっている。 じたばたと藻掻くが、それでも腕は離れず-当たり前だ、朔夜を両手に抱えたままなのだから-、大人しくしろと言わんばかりに力が加わってくる。「な?見えないだろう?」「お前が、その子を苛めている。と、いうより遊んでいる、か。まあ、どちらにしろそうとしかみえないのだが」 男の白々しい言葉を、女性はあきれかえったような口調で否定した。男は悲しいな、とおどけたように言い肩を竦める。「年輩者として下のものを可愛がってるだけだぜ、俺は」「言動が伴っているように思えないがな。それにお前がそう言うことを口にすると、嘘臭い」「ひでぇな」「結構だ。とりあえず、放してやれ」 女性の一言で、するりと男の手は首もとからなくなった。あまりのあっけなさに緋深は呆気に取られる。 何なのだ、この態度の差は。いや、差があるのは当然すぎるとしても、だ。この野生の肉食獣のような男の手綱を取っている女性は一体、何なのだ。「大丈夫か?」 女性は男をあっさりと従えたことに当たり前のように平然と、微笑みすら浮かべながら緋深の安否を問いかけてきた。 それにまだ驚きに瞬きつつも頷くと女性はするりと指を差し出してきた。「責任をもって、預かると約束しよう」 女性の言葉に緋深は、一瞬腕の中で気を失っている朔夜を見つめた。青白く、まるで蝋人形のような朔夜に生気が感じられなかった。 助けるには、預けるしかない。 理性では分かっているのだが、感情が緋深の邪魔をしていた。(………我が儘を、言っている場合じゃない) 緋深はそう言い聞かせ、ゆっくりと朔夜を黒衣に包まれた腕に預ける。(……朔夜に、何かあったら………殺してやる) 殺気すら混じった強い感情を紅い瞳に込め、緋深は女性を見つめた。 相手を灼き殺さんばかりの視線に、女性は淡く微笑んだ。
2006年10月02日
コメント(0)
薄く開けた瞳に映ったのは、睫毛で縁取られた薄暗い風景だった。(………どこ、だろ…う?) 未だ混濁気味の思考で朔夜はぼんやりと思った。 右横のほうからゆらりゆらりと揺れる炎で仄かに照らされた暗闇は充分すぎるとは言えない光量で、朔夜が視界の先にある光景が、自身がいる場所が何処であるかを把握するには幾分か時間が必要だった。 高い位置にある天井の造りから、ここが小屋などではなく構造がしっかりした、大きめの家であろうと推測できた。肌に触れる感触と、重さから厚めの掛け布団が被されており、背中に感じる敷布も厚く感触も良い。 どうやら、助かったようである。ここが誰の家か分からないが、雪山で凍死はしなかったことだけは分かる。(死な、なかった……死ね…な…たんだ、私は) 死にたいとは思わない。だが、何処かでこんな目にあったのにまだ執念深く、浅ましく生きている自身に泣きだしたい衝動に駆られる。何て自分は醜いのだろう、と自身に吐き気すら感じた。 意識が失う前の朧気な記憶をぼんやりと朔夜は思い出す。また人に縋り付いてしまったのか、と思うと不安が心を浸食していった。 縋ってしまった人の顔はよく覚えていないが、綺麗な人だった。纏う空気が清廉な人だった。その人にまで災厄をまき散らしてしまう。巻き込んでしまう。そう思うと胸の奥底が握りつぶされそうだ。(あ……れ……?) 何故か、涙腺が弱っている。いつもならしっかりとしまっている元栓が、緩んで、気を抜けば角膜から雫が零れ出しそうだ。朔夜は困惑し、それに呼応したかのように角膜には雫が溜まっていく。(……え?……え?…) 朔夜は泣くことを自身に禁じていた。泣くことは弱さを晒すことだ。別に晒すことが恐ろしいのではない。その弱さを拭いとってくれる温かい指が恐いのだ。その温かさは全身ごと抱きすくめられるように心地よく、そのままで、と願ってしまう。 だが、それはしてはいけないことだ。甘え、縋ることは、その温もりを壊してしまうことに繋がるのだから。だから涙は枯れた、いや涸らしたはずであった。なのに。(何……で………?) 朔夜はふと、自身が『悲しい』と思っていることに気が付いた。その悲しみは今まで体験したことがないほど、底がないほど深すぎて、見渡せないほど広すぎて、すぐ正体がわからなかった。正体がわかっても、何故悲しいのかわからない。 自分の感情が、わからない。自分自身がわからない。こんなこと初めてで、朔夜は戸惑う。(……こ、わ……い)「朔夜っ!!」 混乱する思考を切り裂く鮮烈な声が頭の中に飛び込んできた。一瞬、朔夜の思考が止まる。(………え?) 頭の中の霧を一陣の風のように吹き払った声は、切なさが多大に含まれていて、けれど悲しいほど優しかった。そしてその悲しいほどの優しさの持ち主を朔夜は知っている。だから、応えたい、と思った。だが、声の主の顔を横に向けようとしても、身体の神経全てが切断されたかのように一指すら朔夜は動かせない。 絞り出すように力をこめてどうにかしよう。そう思った朔夜に、声の主はそんな無茶を窘めるように、柔らかい声と指で制止をかけた。「いい……辛いだろ?……いいから」 目覚めて、答えてくれようとしてくれただけでいい、とため息のような吐息と共に紡がれた言葉はか細く切なく、僅かに揺れていて、朔夜の胸を締め付ける。(緋、深……) 声帯を振るわせたつもりだが、干涸らびた喉では声にならなかった。朔夜は自身の不甲斐なさに思わず眉を寄せ、瞳を強く閉じた。(これ…で、何度、目………だろ、う?) 数え切れない程、幾度も名を呼ぼうとして、言えずに終わってしまったのは。 緋深だけではない。何度も名を紡ごうとし、何度も失敗してきた。声を、言葉を殺すことに慣れてしまったことで、伝えられず、悲しませ、不安に思わせたのは。少しは、ほんの少しは思いを伝えられるようになったと思い込んでしまった自分は何と自惚れていたのだろう。 一瞬唇を噛み締めることで自身の中の暴れる感情に朔夜は耐えた。これ以上緋深に心配をかけることだけでもしないでいようと思ったからである。 だが、その一瞬の動作にも緋深は気付いたのか、そっと額の辺りの髪を梳き、宥めるように手の温もりを分け与えてくれる。驚き、重たい瞼を精一杯開けて緋深を見つめると、優しい笑顔さえも注いでくれた。「ここの家人が、飯用意してくれたってさ。飯、と言っても汁物だけどな。まだ、固形物は無理だろ?……飲む、よな?」 問いかけではなく、準備はいいか、と聞く確認である緋深の声に、小さく頷いた。 だらりと力無い朔夜の身体は、まるで首が座ってない赤ん坊のようである。緋深はそっと背に右腕を回し、左手で上体を起こすのを手伝った。朔夜の頭部が緋深の肩にもたれかかるように固定し、背に腕が回して、半ば朔夜は抱き上げらるように緋深は支えた。 触れた場所から緋深の温もりが朔夜の冷えた肌に移ってくる。雪が舞い降りる空の下にいた時より余程温かい体温にほっとすると同時に恐ろしを朔夜は感じた。 この温もりもいつか散ってしまうのだろうか。 そう思うだけで心の奥底に冷たい剣が突き刺さる。不安に朔夜は緋深を見つめた。まっすぐ見つめてくる緋深の紅い瞳の奥に炎が見えた。焼かれるのではないか、と錯覚するほどだ。その苛烈な煌めきに無意識に朔夜は逃げだしたくなり、思わず少し藻掻く。「朔夜………少しだけだから、我慢、してくれ」 悲しげな声に、はっと朔夜は瞳を開けた。困ったような、痛みに耐えているような緋深の笑顔は、どこまでも優しさしか感じられず、思わず首を横に振りそうになる。(ちがっ………そうじゃ、そうじゃ…ない……緋深のこと、嫌いなんじゃ……) 嫌いなのは、嫌なのは緋深ではない。それだけは絶対ない。 どうすればここまで他者に心を砕け、慈しんでくれる優しい人物を嫌いになれるというのだろう。(きらいっ……なの、は…弱い…わた、しでっ………)「分かってる」「…え?」 驚きに瞬いた朔夜が顔をあげると、そこには少し困ったように笑う緋深がいた。「大丈夫。それより、ほら。まず、水な?」「……ぅ、ん」 冷まされた白湯が、少しずつ慎重に朔夜の口に注がれる。喉の渇きを潤すように含み、少し傷みを感じるが飲み下していくと、切断された神経が水の糸で紡がれ繋ぎあわせっていくようだ。 碗一杯分を飲み干した朔夜に満足げに緋深は笑う。「じゃあ、次は汁物……食べられるか?」 暖かくやわらかで、とても良い香りのする湯気は、食欲をそそるものがある。だが、朔夜は欲しくない、と感情が拒否しているのを感じた。身体は、胃は食物を求めて切実な願いを込め、懇願しているが、それでも口は、感情はかたくななまでにいらない、と自身でも不思議なほどに思っていた。 以前にも、同じ現象があった。どれだけ空腹で辛くとも、口に頑張りものを含めても、全て吐き戻してしまった。今、ものが食べられない状況なのは、痛感するほど理解していた。 本心を言えば、食べたくはない。拒絶したい。だが、それでも。「朔夜…」 声に促されるように、朔夜は少しだけ顔を前に傾け碗に唇を当てた。 強制されたわけではない。だが、朔夜は碗の中に入っているものが例え毒だろうと何だろうと、飲まなければならない気がした。緋深は決してそんなことをしないと分かっているが、それでもその掠れるように呟かれた名前は、わずかな反抗心を消し去ってしまう効果があるのだ。 緋深はそっと碗を傾けてくれ、一口、また一口とゆっくりと喉を通す。 口に含むと、味は薄いが純粋に美味しいと思った。だが、同時に吐き出してしまいたい。 まるで異物を無理矢理対内にねじ込まれているようだ。身体の細胞は求めているはずなのに、脳がそれを否定するという相反する命令に挟まれ、二つに千切れてしまいそうだ。 思わず感覚のない手を動かし、止めてと懇願したくなる。だが、朔夜よりもよほど辛そうな緋深の、紅い揺れる瞳に朔夜の言葉と身体は力を無くし、頭の中からこの苦痛から逃れる術が消えていく。 己の体温より熱いものを摂取したせいか、生理的にまぶたと眼球の間の水分が増え、視界が歪んだ。
2006年10月01日
コメント(2)
全7件 (7件中 1-7件目)
1
![]()

![]()