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幾重にも漆が塗られた艶のある碗を軽く揺らすと、とろりとした液体が音を立てて跳ねた。湯気からは芳香が溢れんばかりに漂い、緋深の鼻をくすぐった。とても美味しそうな粥が、食べてくれ、と訴えてきている。だが、緋深はどうにも食べる気にはなれなかった。 胃は先ほどの汁物で食事の準備を整え、今すぐにでも、と訴えてきている。だが緋深にとってその訴えよりも、後頭部に突き刺さる視線に含まれる訴えのほうが比重は重く、気にかかるのだ。「さ…朔夜?」 なるべく笑顔をつくりつつ-したつもりがどうしても張り付けたようなものになってしまった-、どうしたんだ、と緋深は首を傾げながら、朔夜の目を見つめながら尋ねた。だが、朔夜のほうが不思議そうな表情で小首を傾げている。「えっと……な。どうしたんだ?」「?」「……じっと見て無くても、ちゃんと食べるから、さ」(だから凝視するのを、止めてくれ) 表面上は苦笑しつつも、内心では懇願したいほどだ。朔夜の真っ直ぐな視線は、気になってしかたがない。 心配し、様子が気にしてくれている。そのことは胸の奥底から温かい気持ちが溢れ、満たしていく。この暖かさに包まれ、思わず口元が綻んでしまうことが『幸せ』という定義ならば、緋深は確かに『幸福』である。それは間違いなのだが。 緋深は他人の視線など、気にする方ではない。気にしても、しかたがないのだ。自身が目立つことなど、緋深は先刻承知である。いちいち嫌悪や侮蔑の視線を相手になどしてられない。だが、朔夜の、という形容詞が視線につくと、事態は変わってくるのだ。 朔夜はいつもこれでもか、というほど避け、逃げるくせに、視線だけはふいに、真っ直ぐに投げかけてくるのだ。何かを伝えたいときだけは、いつも逸れ、伏せられる瞳を、しっかりと開けて。その視線は緋深を捕らえ、逃がさない。透明な紫色は、緋深が知っている中で一番綺麗だと思えた色である。つい魅入ってしまう。だから緋深は朔夜の視線が愛おしいと同時に苦手なのである。 昔、つい本音を口にしてしまった際、聞いていた之推は大笑いしたものだ。『お前は……本当に儚月の姫君に盲愛だね。お前にかかれば、姫君には欠点一つなくなってしまうよ』 悪いか。緋深は即答した。胸を張り自慢するのではなく、当然のことだ、と声一つ変えることなく。『欠点ごと愛せているのか。欠点がないと思えているのか』 あきれ果てたような之推に、緋深は内心嗤ったものだ。 朔夜に欠点など、両手で数え切れないほどある。だが欠点を見つめていても嫌いになれない。欠点がありすぎると分かっていても、気持ちが微細も動かないのだ。これは、『欠点ごと愛している』のではない。『欠点すら愛しい』のだ。朔夜の欠点には、どれも腹立たしいさや悔しさを味合わされてきたが、その発生の理由を知ってしまうと、途端に慈しみたいものに変わってしまう。 自分でも、相当狂っていると思いつつも、もう仕方がないことなのだ。緋深が緋深となれたのは、朔夜と出会えたからなのだ。その代償が、この狂いならば、緋深は歓迎して迎え入れるだろう。たったそんな代償で、得られるのならば、安いものだ。「緋、深……?」「…………食べるから、ちゃんと……だから、な?」「???」 きょとんとした瞳を見て、緋深はがっくりと肩を落としつつ、諦めたようにため息を吐いた。首を直角を曲げそうになるほど、朔夜は疑問符を頭に浮かべつつ傾げている。緋深からしてみればたまったものではないであろうが、第三者から見れば、まったく微笑ましい光景だ。 その穏やかな光景の目撃者となった千波は、目を和ませ、楽しげにくすくすと笑った。おかしな沈黙を纏い見つめ合っていた子供達は紛れ込んだ音に、揃って視線を向ける。一人は憮然と、一人は困惑気味に。「ごめんね」 千波そう言いつつも、口元と目元はまだ笑みを湛えている。「ほら、緋深君。食べなきゃ。彼女も心配し続けなくちゃいけないし。ね?」「………」 緋深はむすりとしつつも、碗を傾け、食事を始めた。朔夜の興味、もとい意識の対象が増えたことで、ようやく視線から解放されたのだ。この機会を逃す手はない。「……君は、朔夜ちゃん、でいいんだよね?」 千波が、朔夜に話しかける。緋深が何を気にし、食事を出来なかったのか、正確に把握しているようだ。それはそれで、緋深からすればもどかしい思いもあるが、正直ありがたい。朔夜は見知らぬ人にたじろいではいるが、千波の外見とは正反対の、穏やかで暖かな、人をほっとさせる雰囲気のため、脅えてはないようだ。それを確認した緋深はゆっくりと碗を傾けた。 少しずつ、慌てずに口に含み、ほとんど汁状の粥をよく噛み砕く。すりつぶすようにし、そしてようやく胃に流し入れる。その悠長な行為を緋深は、黙々と繰り返した。胃が速度を速めよ、もっともっと、と指令をだすが、無視をして。体の負担を考えると、そのような指令は到底聞けないのだ。(本当に………千波、ってやつが朔夜の気を引いててくれて、良かったよ) 少しずつ胃にものが溜まる感触に、緋深は軽くため息をついた。朔夜があの調子のままなら、緋深は一気飲みをしかねなかったのだ。瞬間的に食事を終えるために。後で胃の中で食べ物が大暴れしようと、胃が負担に叫びだそうと。 ふと、視線を朔夜と千波に向けた。「朔夜ちゃんは、幾つ?12、13ぐらいかな?」「………」「そっか。緋深君もそれぐらい?もうちょっと年上?」「………」「そうなんだ。あ、体は大丈夫?辛いところはない?」「………」「良かった。何か、必要なものがある?あったら何でも言ってね」 声だけを聞いていると、会話は成り立っていない。千波からの一方通行のものである。だが、朔夜は小さく、だがきちんと首を縦に振り、横に振り、千波の問いに答えていた。 珍しい光景だ。朔夜が初対面の人間と接触が持てている。緋深はざらりとした感情が、胸の奥で生まれそうになるのに気が付いた。だが、よく考えてみると何てことはない。(………あの、うろうろ彷徨っている瞳。そうとう内心動揺して、混乱してるな) 朔夜からしてみれば、袋小路に追いつめられているようなものなのだ。 体はまだ自由に動かない以上、逃げられない。小さな敷布の中、隠れられる場所もない。自然と千波と対面しなければならなくなり、……自分に大きな優しさを降り注いでくれようとする人物を、正面から朔夜は拒絶できないのである。 朔夜らしい、弱く、脆い、卑怯な部分だ。緋深はそう思った。 朔夜が逃げる理由は簡単だ。傷つけたくないから。自分と関わってはいけないから。そして『他人を傷つけたくないために、あえて傷つける』という矛盾を飲み込めるほど大人でも、賢くもないからだ。朔夜は自身といることで他人に大きな災厄を呼び寄せるとわかっている。けれどその為に、相手を遠ざけるために、小さな傷をつけることも厭うのだ。自身がだれ一人として、傷つける権利など持っていないと思っているからでもあろう。 覚悟がない、と言ってしまえばそれまでだ。嵐で大怪我を負うことと、擦り傷を負うこと。どちらが辛いか、といえばどう考えても前者である。合理的な判断をすることで、後者だけですむのであれば、そちらを取るべきだ。嫌われることなどの、覚悟を決めて。だが、嵐は肉体的に負う怪我で、擦り傷は精神的に負う傷なのだ。精神的な傷は治ることなく、いつまでもあり続け、下手をすると膿んでいく。それを良く知っている、知りすぎている朔夜はどうしても、擦り傷すら相手の心に負わせることに躊躇する。胸の奥で膿む傷跡が疼いてしまうのだ。相手が傷つくぐらいなら、自分が負うほうが良い。その覚悟は簡単にできたというのに。まったく、朔夜は矛盾しているとしか、『変』な存在としか言いようがない。 だが、その弱さと矛盾が、辛うじて緋深や、その他の人達との接点を作っている。ならば緋深はその弱さにすら感謝したぐらいだ。これ以上、これ以上避けることを徹底されてしまうと、朔夜は本当に消えてしまうのだから。 仮に、その弱さや脆さ、卑怯さに、文句や批判する者がいたら、緋深は真っ向から対峙し、叩きのめすであろう。予想であるが、確実な未来だ。「何一つ禍のない、平穏な日々に浸っている奴が、朔夜の何を知って批判する!朔夜の何を知っている!13の子供に何を求める、ってんだっ!!『完璧』な強さか?!守人だから強く、揺らいではいけないのか?朔夜が弱さや脆さを持っていてはいけないのかよ!それは朔夜に『人形』になれ、『死ね』といっていると同義語なんだぞっ!!その弱さも何もかも引っくるめて、朔夜なんだろうがっ」 緋深は碗を傾け終わり、飲み干し、立ち上がった。栄養が少しだが吸収されたおかげか、先ほどより足取りが軽い気がしつつ、迷い無く朔夜達のほうに歩み寄った。「……なんかもうちょっと、腹にたまるもの、欲しいんだけど」 碗を無遠慮な仕草と声で、千波に突きつける。千波は憤慨するわけでもなく、ただ穏やかに嬉しそうに空になった碗を見つめた。「御些末さまでした…じゃあ、ちょっと待っててね?」 長い手足を器用に折り畳んで座っていたが、千波すくりと立ち上がる。意外と素早い動作に、緋深は少し驚きつつも、細長い指に碗を渡した。 朔夜は千波の穏やかな質問責め-とは言い過ぎな感もある。だが朔夜からすれば切実になのだ。長時間の会話(にもなってはなかったが)は-ほっ、と肩の力を抜いたようだ。緋深はそれを確認し、小さく安堵すると朔夜の近くに腰を下ろした。朔夜を寝かしつけようと思ったからだ。先ほどのような状態を回避するためにも。 朔夜が穏やかに眠り、緋深も食事を満足にとり、睡眠を取る。そして体調を整えて、これからを考える。 緋深が脳内で簡単な予定の筋書きを立てたときだ。 部屋から出ようと、障子を引いた千波と入れ替わるように、“影”が夕日を背負い室内に乱入してきたのは。「お?起きたのか、嬢ちゃん」「っ?!」 緋深は天敵の来襲に愕然とし。「……………」 朔夜は初めて知覚した、獅吼の煌びやかでけたたましい衣装に、呆気半分見取れたのであった。
2006年11月30日
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チリチリと微かな音が之推の耳に届く。蝋燭の火が埃と空気を焼いている音だ。 之推は突き刺すような緋深の鋭い視線に、軽く肩を竦める。視線が知覚できるのであれば、熱を孕むものならば、之推はとっくに焼け焦げ、穴が空いていただろう。それこそ今、耳に聞こえる音と同じ音を立てながら。 不躾な視線を向けられることなど、之推にとっては日常茶飯事の出来事だ。不快だと思うこともなくなるほどに。けれど緋深の視線はどこまでも真っ直ぐで、新鮮な感じがするので悪くはない、とさえ思う。 之推はひねくれているわりには真っ直ぐな少年に向かい、目を眇めつつ口を開いた。「で、おおまかなことを聞いたって?どこまで『朧月夜の姫君』はお前に手の内を明かしたのかな?」「“おおまか”」「水掛け論をするきはないんだ。俺が聞きたいのは、そんなことじゃない。お前のことだ。わからない、そういうことじゃないだろう?」 少し凄んだ口調で問いかける之推に、緋深は小さくため息を吐いた。凄く嫌そうに。「だから、本当に。別に、何も。計画がどういうものか。どういう筋立てなのかぐらいだ………あと何でそんな計画を考えているかも一応喋ってはくれたけど、抽象的な言葉すぎて、わけが分からなかったんだよ………ただ」「ただ?」「その中に、『贖罪』やら『罪』やら『成さなければならないもの』やら『望む未来』やら。聞いていて“オカシク”なったね」「へぇ?」 くっ、と唇の端を持ち上げ嗤う緋深を、之推は興味深げに見やった。確かにそれは之推も聞いたことがある単語の数々だった。と、いうよりも之推もそれしか聞いていないというのが正しい。 櫻妃を筆頭にした、それこそ数十年単位でこの計画を目論んでいる人間達は、皆“秘密主義者だ。そうでなければ長い時間をかけ、少しずつ包囲網を張り巡らせ、着々と計画への準備などできなかっただろう。祖父母から父母へ、そして子へ。謀略と策略を紡いで、計画の基盤を強固なものへと変えてきた。之推からしてみれば『ご大層』なこと、と拍手の一つでも送りたい。 一体何がここまで、『国の崩壊』を望ませるのか。之推には計り知れないことだ。下手をしたら、この計画には百年以上の刻がかけている。一体いつの代の櫻妃達の先祖が計画を打ち立て、どうやって曲がることなく、歪むことなく受け継がせたのか。どう考えても並大抵なことではない。 だからか、たった二、三十年前からの協力者の萱家にはまだあまり手の内が明かされていないのだ。緋深に明かされるわけがない。慎重なことである。(まぁ、別に萱家としてはそれでもかまわないんだけどね。動機なんて、どうでもいい。ただ、結果が萱家にとって良いものであれば、ね) 萱家は櫻妃達のほうに分があると踏んだから、味方をしているのだから。 ただ一度好奇心に負け、何故国の中枢部の権力を握っている櫻妃達が、その地位を投げ捨てるようなこの壮大な計画を目論んだか尋ねたことがあった。『私たちが、成さねばならぬことだからですわ。他の誰でもない『私達』が。これは、この国が胎動した時から、決まっていたことですわ。それが私たちの負う『罪』で、『役割』です。もちろん、このままではいけない、という想いもあります。このまま何もせず、目を瞑り続けて得られる未来の結果を知っていますから。それは私たちの望むものではありません。そのような未来、私は欲しくありません。だから私達はもう立ち止まれないのです。『望む未来』のために』 緋深が同じような問いをし、返答がこれならば、確かにわけがわからないだろう。きちんと説明しているようで、具体的な言葉を一切明かしていない。罪、という穏やかではない言葉を手がかりに、一度之推は様々なことを調べたが、巧妙に隠されていて何も洗い出さなかった。不審が多いことだ。「で、何が“オカシイ”のかな?お前は」「どこが、って全部に決まってる。“お綺麗な言葉”ばかりだからだよ。何が『贖罪』だ。何が『望む未来』だ。そんなのは、あの人達の自分勝手な想いだ。贖罪をして許されたいのも、別の未来を望むのも、それは春呼び姫達の願いで、叶えたいものだ。そんなもん、朔夜には関係ないだろうっ!勝手にしろ、ってんだ。何が『巻き込みたくはない。けれど、朔夜はもう、渦中にいる』だよ。ふざけんな。守れ、なんて言うなら最初から巻き込むなよっ」 不機嫌そうに、はっきりと言い切った緋深の言葉に之推は軽く目を瞠る。‘あの’籐家の人間に喧嘩を売っていると取られかねない言葉だ。威勢のいい、というよりも無謀、無鉄砲な子供である。 これが影でこそこそとしか言えない愚かな人間なら之推は何も思わなかっただろう。だが、口にしたのは目の前の少年だ。緋深のことだ、下手をしたら櫻妃に直接言っている可能性は非常に高い。 本当に、朔夜が絡むと直情的になってしまうやつである。「ま、それはそうだね。けどね、緋深。お前、分かったるんだろう?あの朧月夜の姫君達は、何か俺達には想像もつかないものを抱えている。それこそ普通の人間なら押し潰されかねない、ような、ね。」 之推の言葉にむすっ、と緋深は黙り込んだ。それが、答えだった。「……かもしれない。だけどそれとこれとは別問題だ。朔夜を傷つけるなら、俺は……あの人を許せなくなる。あの人がいたから、今、朔夜は生きている。今の朔夜がいる。計画に荷担している胡家の人々に助けられたから俺は生きている。………それはわかっている。けど…」 緋深の自分の心のうちを整理するように、ゆっくりと、手探りで言葉を紡ぎ、吐き捨てるように呟いていく。緋深の声の裏にある戸惑いは、之推にも伝わり、黙って耳を傾ける。「あの人達は本当のところ、朔夜を巻き込みたくない、と思ってる。そんなことぐらいわかってる。不可避だから俺に『守れ』と言っているってことも。けど……認められるかよ、そんな主張」 「緋深」「本当に守りたいなら、最後まで足掻けよ。ことをさっさと終わらせるなよ……」 緋深は口の端を小さく噛み締めた。 緋深にとって、過去周りの人間は『敵』であった。だが朔夜と出会ってから、緋深にとって『敵』ではない人間が増えていった。櫻妃や、麗蘭達はその筆頭格なのだろう。だから戸惑う。はじめてとも言える『敵』-緋深にはまだ、『味方』という概念はない-と言えない存在だからこそ、判断にいまいち迷うのだ。ちなみに、朔夜は緋深の中で、敵味方を通り越した枠組みに存在している。その朔夜が櫻妃のことも麗蘭のことも好いていることも大きな-と言うよりも9割を占めているに違いない-原因だろう。(本当に…こいつは。こいつらは) 之推は小さく、内心笑った。緋深といい、朔夜といい、何故此処まで清々しいほどに真っ直ぐで、純粋で微笑ましいのだろう。 緋深はきっと、櫻妃の前でも「足掻け」「諦めるな」と怒鳴ったのであろう。簡単にそれは想像できる。 櫻妃も、之推も状況と人、環境など情報さえあればある程度の未来を予想でき、当てることできてしまう。だからこその諦観もある。諦観をしなければならないことがあるのだ。 けれどこの目の前の生意気な子供は、子供の我が儘を振りかざして、その諦観を壊せと言う。 少々腹が立つこともあるが、面白い人間ではないか。「で、緋深?」 之推は緋深の迷いを断ち切るほどの、晴れやか(に一見見える)笑顔を向けた。 不審なまでに-之推の満面の笑顔など、女性以外なら滅多に見られない-いい笑顔に、緋深は何か嫌なものを感じたのか、数歩後ずさる。「な、何だよ」「俺を嵌めようなんて、お前にはまだまだ早いよ」 緋深が言葉を返すより素早く、腕の中の朔夜を奪い取った。之推は海賊じみた行為を何度も行ったことがある。‘お宝’の強奪などお手の物だ。「なっ……」 驚き声もない緋深を之推は無視し、朔夜に柔らかな声をかける。「おはよう、姫君」 声にぴくりと反応し、恐る恐る目を開ける仕草が子供のようで、小動物のようで可愛いな、と之推は笑みを零した。
2006年11月15日
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目の前を漆黒の艶がある髪が ふわりと揺れた。そう知覚した瞬間には、女性の姿は消えていた。緋深は視線をすっ、と横にずらす。視界の端を黒馬の後ろ姿が白銀に染められた木々の間に消えていくのが辛うじて見えた。(…………速ぇ…) 緋深はもう呆れるしかなかった。 気を失った人間を膝に乗せるようにして抱えているにも関わらず、馬を自身の手足のように自由に扱い、足場の悪い雪の上を軽やかに駆けさせる。正直緋深は人間技じゃない、と思う。だが、あの女人に対しいちいち驚いたり、呆気に取られるのは疲れるだけだ、とも同時に思うのだ。深く考えたり、気を取られるだけ莫迦をみるだけである。もう、あの人は『あんな人』なんだ。考えても仕方がないんだ。そう思い込むしかない。 朔夜と出会ってから、緋深は“非常識”な人間と多く出会うことが多くなった。なので対処方法を自然と身についていた。悟り、諦め、深く考えない。これに限る。そういう人だ、で納得するしかないのだ。ちなみに、この場合の“非常識”は、常識がないわけではない。常識で図れないほど器が広かったり、身体的に優れていることを指す。(…………結局、こいつと二人、残されてしまった) 緋深は憮然と立ち尽くす。ちらりと視線を横に移すと、男が気が付いたのかにやりと笑う姿が映る。それに苛々とし、血圧が上げるのを感じながらも、なるべく平坦な声を投げつけた。「………おい」「目上に対する態度じゃねぇな。ちっとは礼儀の一つでも身につけねぇと」「あんただけには、言われたくない」 ぴしゃりと緋深は男の言葉を跳ね返した。 何が悲しくてこの常識と、良識と、礼儀ととっくの昔に縁を切った、いや三行半をつきつけられた男にそういう言葉を言われなくてはならない。 緋深は改めて男を真正面から見た。いや、睨み付けるように観察した。 華美、というよりも『度が過ぎた派手』という言葉がしっくりくる服を、自然に着こなし、華麗な印象に昇華させている。緋深から見ると趣味が悪い、としか言いようがない服がどうしてそういう印象に変わってしまうか大変不思議なのだが、だが客観的に見てみると、どうもこの男にしっくりとくる服に見えてくるので妙なものである。 そんな莫迦みたいに値がかかりそうな服を着ている割には男は他に何ら着飾ったところはなかった。化粧や装飾品を付けていない、だけではなく顔には無精髭すら生やしている。髪も軽くなでつけた程度だ。普通ならば、そのちぐはぐ感に不相応な服を無理して着ているように取られかねないほどだ。 だが、男は違った。無精髭がうっすらと顎と頬の線に沿うように生え、それが妙な色気を発している(と緋深が女性ならば思っただろう。だが実際、緋深が思ったのは怪しい雰囲気を纏っている、であった。)撫でつけただけの髪も、とても自然なように映るだろう。真面目な顔さえしていれば、女性が放って置かないような色男だ。けれどもにやにやと笑う表情や、色悪な雰囲気などのせいで、どう考えても遊び人である。(なのに……力がある。俺を凌ぐほどの) 緋深からしてみれば詐欺だ、卑怯だ、ずるいなど色々と文句を付けたくなる。それが八つ当たりであろうが、的はずれな文句であろうが知ったことではない。「その村とやらの方角はどっちだ」 緋深は早く朔夜を追いたい一心で、目の前の男を無礼なまでに直球な言葉で問いただした。男は軽く目を瞠り、くつくつと楽しげ-何が面白いか緋深にはさっぱりわからないが-に笑う。「やめといたほうがいいぜ?あの嬢ちゃんと、また再会したいなら、な」 緋深は眉を跳ね上げ、男を睨み付ける。その不穏な言葉を聞き流すわけにはいかなかった。朔夜と出会えなくなる。その言葉は緋深にとって逆鱗と言っても過言ではない。「どういう、意味だ…」 地に這うような声にも、膨れ上げる研ぎ澄まされた殺気にも男は動じず、むしろそのある種、健気とも言える反応に目を細めた。見る者によってはそこに暖かな光が見え隠れすることに気がついたが、あいにくと緋深は気がつかない。天敵とも言っていいほど生理的に合わない―と思っているのは緋深だけだが。何せ男は『気に入った』そうなのだから―男は緋深をからかう色を消していないので、ただおちょくっているようにしか思えないのだ。「これは冗談じゃねぇよ。まぁ、話を聞け」「あんたが村の在り場所を吐くなら聞くが、それ以外に耳を傾けるつもりはないっ!」 緋深の怒鳴り声にも飄々と男は肩を竦める。「落ち着きな、坊主……お前一人だと、村までたどり着くことはできないぜ。これは、絶対だ」「……っ…………何故?」「お?ちゃんと話を聞く気になったようだな」「っ…………!!!」 緋深は必死に、何度も切れている忍耐の糸を紡ぎあわせつつ、怒りを宥める。小刻みに震えている肩が、その努力のほどを示していた。「結論からいうとな、村周辺には結界が張ってあるからだ」「………は、ぁ?」「うちの村には、な。大変優秀な術師集団がいてな。そいつらが年がら年中結界を張り巡らせている」「…………」 緋深は盛大に顔を顰めながら訝しげに男を見た。冗談だ。そうとしか思えない内容なのに男は若輩者を言い聞かせるようで、それでいて仰々しい態度でこちらを見ている。 緋深は、基本的にそういった不可思議なものを認めていない性質だった。理由は単純にそういった類のものと遭遇したことがないからではある。 皓国は、王族、貴族を中心とした一般的な王政国家と思われている。それは間違いではない。だが根本を辿ってみると宗教国家色も多大に含んだ国でもあった。三神を王よりも上に奉り、王はその加護を受ける。その構造は皓国建国以来、揺るがない。辺鄙な場所にある村人や、愚かな貴族でさえ、三神の存在を認め、信じ、奉った。そこまで三神の存在が信じられているのは、架空の存在ではなく実在するからである。そして幾度も国を救ってきた。その実績と、圧倒的な力に、皓国の民はひれ伏し、畏怖するのであった。 神が信じられ、不可思議な力を使う。神が使うのでそんな原理が不明な力も信じられる。なので、神の力をかり奇跡を起こす神官や、摩訶不思議な力を使う術師の存在も皓国の者ならば誰でも信じた。 緋深はその点から考えれば、変わった存在であった。緋深は自身で経験したことしか信じない。自分の勘と経験と思考にしか信用ならない。他人の言葉など、信じらない。そんな過去を送ってきた緋深からすれば、見たこともない奇跡も摩訶不思議な力も、眉唾ものでしかない。「結界…ねぇ」 漠然とした想像しか浮かばない。しかもそれは見えぬ衝立程度であろう、という想像力の乏しい考えである。想像力が欠如しているわけではなく、真面目に考えていないのだ。 まるでそれを見越したかのように、男はにやりと笑った。「あんま侮んないほうがいいぜぇ?何たってたちの悪い結界だからな」 そうはいわれても、である。見えぬ衝立のたちが悪い、とはどういうことだろう。ただ立ちふさがるだけでなく追い掛け回されたりするのであろうか。粘着質で一度触れると離れない衝立だろうか。近寄ると侵入者に向かい倒れ、押し潰すのであろうか。 なるほど。もしそうなら確かにたちは悪いだろう。(……………すげー、笑える光景) 自身のあまりにあまりすぎる考えに、緋深は小さく、苦く笑った。「たちが悪い?」「ああ。何たって招かれざる客が一度で結界内に入ったら最後。霧の迷宮に迷い込んだかのように、永遠と結界内を彷徨い続ける羽目になるぜ?しかも同じようなところを彷徨っている感覚じゃないときた。歩いても歩いても、変化がない。確かに地面を蹴り歩いているはずなのに、視界に写る光景はほとんど変わらない。気色悪ぃよな。そのうち自分の感覚が信じられなくなってくる。野垂れ死ぬか、狂い死ぬか。どっちも俺なら遠慮したいねぇ」「……」 緋深は口元が引きつるのを感じた。前面的に男の話を信じたわけではない。だが、もしその話が正しい、とすれば大そう捻くれ、たちの悪いものである。悪いにもほどがある。とても目の前の男のようにどこか楽しげに軽々しく口にするものではない。笑い話、というよりはむしろ怪談か拷問である。「何だよ、それ……」「ん?」「なんで、そんな…なんて言うか、妙に手の込んだもんがあんだよ」「“禁足地”と“先生”を守るためだな」「そういうことかよ」 緋深は男を睥睨しつつ、一気に思考をまとめ上げた。「適当に迷わせて帰らせるより、侵入者が帰ってこないほうが都合が良い、というわけかよ。確かにそんな怪奇現象が起きていたら、誰も近寄りもしない、ってことか」 そして、そのような些細なことで手を血に染めても、守りたいと、守り抜かないといけないわけだ。“禁足地”と“あの女性”を。 緋深の出した答えに男はにやりと笑った。「半分は正解、といったところだな」「……もう半分は?」 男が更に意地の悪そうな笑みを浮かべる。緋深は咄嗟に嫌な予感を感じ取り、距離を置こうとしたが遅かった。 男が急に緋深の胸を突いた。体勢が崩れ、思わず緋深は尻餅をつく。緋深の体はすでにボロボロで受身を取ることさえできなかったのだ。「なにをっ……」 緋深の怒声が発せられそうになるのを、片手で男は制し、にんまりと笑って、口を開いた。「それはな、その結界を作った張本人である術師自身が『性格が悪く』て、『たちが悪い』からだ」 言葉が男の口の中から楽しげに飛び出すと同時に、網膜を焼きつくすような閃光が周囲に弾けた。
2006年11月03日
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