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艶のあるゆったりとした髪が狼暉の視界の中で揺れた。紅い花のような色の髪の中から徐々に顔の輪郭が見えるのが妙にゆっくりと見えるのは狼暉に後ろめたさがあるからかもしれない。 狼暉達は玲鈴を助けた後、狼藉者達を排除しつつも、最速速度で胡主である麗蘭の執務室に駆け込んだのだ。駆け込んだまでは、いい。だが、実際に入って麗蘭の後ろ姿を見た瞬間、いや気配を察した時点で思わず回れ右をしたくなった。その衝動を必死に押さえる。 羅家の無機質な執務室とは違い、華が飾られたり、女性らしい気遣いがかいま見える置物などがあり温かみがある空間の窓際に麗蘭は立っていた。麗蘭がこちらを見据えていることに狼暉ははたと気づき、さっと礼をした。「これは、これは。“何か”御用かしら?羅家近衛軍の方々?」 輝かんばかりの艶やかな笑顔に狼暉は引きつった笑顔を返した。冷や汗が背中を伝う。そっと目線を汪燕にずらせば、汪燕すらも形勢不利なこの状態に顔を微妙に歪めている。 無理だとは分かっているが、いっそ睨み付けるなり、睥睨するなりしてくれたほうが、よほど今よりも気分は少しは楽であろう。「御当主殿……」 生来真っ直ぐな気質なほうである狼暉には、麗蘭に返す言葉が思いつかない。しかも麗蘭は狼暉にとっては特別な意味合いを含む人物だ。狼暉にとって“至上”の人の友人。それだけで、怒らせたことに凄まじい罪悪感と居たたまれなさを覚える。「しかし…………この方は“あの方”の流石ご友人と言うか…何というか……」 狼暉は内心、声なき声でぼやく。 大勢の、しかも屈強な兵士達を前に悠然とした態度は女性ながら、立派な覇気を備えている。生粋の戦士である狼暉からすれば、その覇気の強さがよく分かり、感嘆するしかない。(普段ならば、感嘆だけですんだのだが……) 今の状況では、それだけではすまない。 麗蘭から顔を逸らさないで、すっと気配を感じ取れるように神経を研ぎ澄まして、後ろの様子を伺った。後ろで控えていた部下が麗蘭の覇気に圧倒され、困惑を通り越して硬直している。だから覇気の裏に微かに存在を匂わせる怒気に気付いていない。感じ取れ、と部下に言うのはあまりにも無茶だろう。だが、ある意味幸福だな、と狼暉は思う。うらやましい。 微かに感じる怒気は密度が高くて、と言うより微かだからこそ恐い。 どうも狼暉の親しくしている人間は、幸か不幸か、笑顔のまま内心怒り狂っているという器用な人間が多いようだ。しかもその怒りを鎮めるのではなく、冷やし、怜悧な刃に変えて、必ず報復する。物騒なことこのうえないような者ばかりだ。もちろん麗蘭も当てはまるだろう。推測だが経験に裏打ちされているので、多分間違いはない。「この度は“とんだ災難”にお会いしたようで……“たまたま”“危険を察して駆けつけたのですが間に合わなかったようで」 喉の奥にであげかけた悲鳴を押し殺しつつ、狼暉は汪燕に思い切り振り返った。 白々しいにもほどがある台詞を、狼暉からしてみれば胡散臭い爽やかな笑みを浮かべながら、のうのうと言ってのけている神経に唖然とする。 災難の大本も大本。それは羅家の襲撃だ。それを知らぬ存ぜぬと言わんばかりな態度とは一体何を考えているのかと狼暉は思う。汪燕はもとから火が燃えていたならば喜んで油を盛大にかける性格であると狼暉はよく、よく知っている。そのせいで迷惑を被ったことは一度二度ではない。 だが、それを、今、ここでするのか。 盛大な文句が頭の中にある言語が収納された引き出しから溢れ出してくるのを狼暉は必死に押さえつつ、狼暉は麗蘭の様子を窺った。 汪燕のふてぶてしい態度に麗蘭は眉一筋不快そうに動かさず、むしろ笑みを浮かべていた。「いえ……狼藉者達を大勢捕らえてくださったそうで……感謝してもしきれない、ですわ」 何故微笑みが般若の如く恐く、ほう、とため息をつかれつつされる柔らかな感謝の言葉が刺々しく感じるのだろう。 狼暉は辛うじて-己を精一杯制御した結果-表情に出さない。だが後ろの方から、部下か胡家の者であろう引きつった小さな悲鳴が幾つか聞こえた。気のせいだと狼暉は思いたいが、後ろで硬直し青ざめているであろう姿がありありと想像ができ、気を抜くとため息がでそうだ。 どうにかしてくれ、と後ろからちりちりと視線が熱を持ち、後頭部を焦がす。麗蘭と汪燕を止めろ、と言う声なき声がきちんと鼓膜に届いてはいる。だが、どうしろというんだ、と言うのが正直な狼暉の思いだ。 冷えた麗蘭達の空気と、部下や胡家の人々の暑い視線が混じり合いこのまま雷雨を引き起こす雲でもできるのではないかと狼暉が半ばやけ、半ば真面目に思った時だ。 不毛な空気を断ち切る、凛然とした麗蘭の声が部屋に響いた。「あなた達は下がって……御二方、話があります。こちらへ」 狼暉の部下たちだけでなく、胡家の者達さえでさえ反論を許さない笑顔だ。この場を支配している女帝は沈黙した場に満足気に頷き、すっと裾を翻し、執務室の更に奥にある-多分私室の1つであろう-扉の向こうに歩き出す。 狼暉と汪燕は付いていくしか道はない。 狼暉はここまできたら、きちんと麗蘭と汪燕の意図を理解していた。狼暉はようやく気が付いた自身に苦笑しかける。余程己は胡家が襲撃されたことに動揺していたようだ。だが、自身が動揺していると察知したからといってその感情を遠慮なく揺さぶる波が凪ぐことはない。凪ぐ時は、狼暉の“至上の人”の“愛し子”の無事を知った時であろうな、と確信している。狼暉はそんな自分に苦笑はしても、決して自嘲はしない。こんなことを考えるようになるほど変わった自分がどうやら誇ることはあっても、嫌うことは、嘲ることはないようだ。 麗蘭と汪燕はこの場、“双方の部下がいる場所ではできない話”をしようとしていた。 だから汪燕はきっかけを与え、麗蘭は酌み取った。理解はできたのだが、どうもそのきっかけは地雷すれすれのところにかするようにわざと投げられたかのように見える。いや、間違いなく確信犯だ。でなければ冬の風や雨に晒されるよりもよほど冷え冷えとした空気など発生しなかったはずだ。 だがそれが幸いしてか、誰も疑いはしないだろうな、と狼暉は後ろに感じる残された者達の思考を正確に読みとった。麗蘭は三人きりになったならば羅家への警告と文句を狼暉達に伝え、狼暉達は反論し譲歩を求める、と言ったような部下達が介入できないことが行われるのだと思っているだろう。だから誰も何も言わないし、止めない。 好都合なことだ、と思った狼暉は、ふと汪燕を見て、そして後悔した。汪燕は何を楽しんでいるのかわからないが、楽しげな笑みを浮かべている。狼暉は何故、この男と組んでいるのか今更ながら疑問に思い、すぐに考えることを放棄した。考えるだけ虚しくなるだけなのを、よく知っていたからだ。-------------------------------------------- 落ち着いた色合いで統一された麗蘭の一つの私室は、女性らしさが垣間見えた。「あなた達の手落ちよ、これは」「返す言葉もありません」 他者がいなくなった途端、麗蘭は怒りを少しも隠さない視線で狼暉達を眺めた。狼暉は明け透けな態度の方が、気が楽なので、先ほどより落ち着いた態度で返答した。 その率直すぎる、と言うよりも素直すぎる返答に気が抜けたのか、己の態度に反省したのか麗蘭は軽く肩を竦めると右手で紅い華のような髪を掻き上げた。 「……悪いわね、気が立ってるの」「でしょうね……」 狼暉は苦笑するでなく、真顔で頷いた。 怒らないわけがないのだ。自分の配下の者を傷つけ、屋敷に土足で上がられた今回のことは、麗蘭の矜持心を踏みにじっただけではなく、胡家に関連する全てを踏みにじられたも同然だ。胡家を愛している麗蘭にとって許せるものでは決してない。 だが、それでも怒鳴り散らしもせず、不平不満を狼暉達に漏らすのでない。ただ怒りを自分の中に収め、鎮火しようとする麗蘭の態度は立派である。それ故に駆けつけることが遅くなったことへ対しての罪悪感が疼きだす。「……何があったか、聞いてもよいだろうか、胡主殿?」 汪燕が多少砕けた敬語で麗蘭に問いかけた。 麗蘭は怒るわけでなく、むしろ当然のように頷いて返事をする。 そう、麗蘭は怒るわけがないのだ。汪燕の“以前”性格を知った時、非公式かつ人目をはばからない場所ならば狼暉共々別に敬称及び敬語は構わないとあっさりと言ってのけたのだ。 だが、麗蘭を認め、多少気に入っている汪燕は別に敬語を使うことが-どこぞの莫迦相手の時と違って-苦ではないようなので仰々しい言葉を砕くに留めたようだ。 汪燕と言う人間は構わないと言われれば、つい反対に顔を向けたくなるようだ。まったくひねくれた人間である。「見ての通りよ…羅家の世間知らずのお坊ちゃんが、凶行を行った………あの執着を甘くみていたわね」 狼暉は麗蘭から語られる惨劇の現状に耳を傾けるべく、麗蘭に視線で勧められた椅子に腰をかけ、姿勢を正した。
2006年06月30日
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闇夜を燭台の光が柔らかに照らしていた。淡い光に照らされた執務室は、無駄なものが一切ないためか、殺伐とした雰囲気を醸し出している。 庚凌[コウリョウ]は視線を書類から少しあげ、報告書を読み上げ終わり反応を待っている部下に移した。「居場所だけ、突き止めておけ」 どうなさいますか、と淡々とした問いにそれだけを告げ、下がらせた。扉に向かっている部下は鼎[テイ]家に仕えて長い。側近として相応の働きぐらいはするであろう。これまでの実績と同等のものがだせれば問題はない。 姿が扉で遮られると、途端に気分が悪くなり、庚凌は書類を再び見たがどうも読む気にはなれなかった。肉体的には、何の問題もない。ただ、精神が非常に不愉快の極みを突き進んでいるだけだ。 庚凌は軽く左右に頭を振り、筆から指を放し、軽くため息をついた。普段は後ろで一つに纏めているが、湯浴みの後なので解いていた髪がうっとうしく感じ、括った。切ってしまえば楽なのだろうが、外聞上それは無理なので庚凌は断念している。 長い髪は、裕福なものの特権だ。そんな莫迦な風習が庚凌の生まれる前から存在していた。庚凌自身としては阿呆らしいことこの上ないと思っているが、貴族の中ではそれが当たり前として受け入れられていた。“髪”は売れるのだ。貧しい者や、臨時の収入がいる者は切って売っている。だから『髪など売らなくても私たちは充分な生活ができる』という主張から始まったようである。庚凌からすればただの“見栄”の延長線上の愚行だ。長髪は女性ならば似合うであろうが、男性が長髪でも似合うものは限られると言うのに、とさえ思う。実際見苦しい者は多い。豚のように肥えており、尚かつうっとうしいだけの長い髪など見るに耐えない。 だが、ここで髪を切ればとやかく周りが五月蠅いのだ。蠅が少々耳障りだろうが気にならない。だが、それが大勢になると耳障りどころではない。鼎家の力にものを言わせて潰すことはできる。けれども今、余計な注目を浴びることは大変まずい。“計画”に支障をきたすものは限りなく排除すべきなのだ。 それよりも、まさか、と言う思いが庚凌の中で渦巻ている。(あの愚か者が、ここまでのことをしでかすとは) 庚凌は、これまであらゆる可能性を考慮していたつもりだった。だが、無意識に仮にも名門中の名門の次期当主が、ここまでの愚行を犯すとはさすがに予想できなかったのだ。今までただの莫迦だと思ってあまり気にかけはしなかったが、今は愚劣な者として侮蔑心しか抱けない。 貴族の中で一部、驕った者、考えることを放棄したようにしか見えない怠惰な者達が民に対し狼藉を働いていることは知っていた。もちろんそれ相応の罰を下した。罪を犯した者を罰するほどの力をまだ、国は持っている。実際庚凌は司法の部署に圧力を加え、さっさと処理させてきた。(だが、よりによって国を支える2大貴族の片割れの子息が、野盗を引き連れ、強盗まがい……) 呆れよりも、苛立ちの方が大きい。 ふざけていると庚凌は思う。自身の立場だけでなく、成すべき、いや成さなければならない義務すらも 忘れ、権力という権利を振りかざしている貴族を、吐き気がするほど庚凌は嫌いだった。庚凌よりも下流の貴族達がやるのならば処分もできるし、勝手にやれと思う。勝手にやり、信望を失ってしまえばよい。そうすれば処分なんて生ぬるいことを言わず、完膚無きまでに潰してやれる名目ができる。 だが、庚凌の上に立つ人間が同じようなことをすることは許し難い。そのような人間の下に甘んじるなど冗談ではないと心から思う。(一体、己がどれほどの地位にいるかも知らずっ) 庚凌が内心怒りを渦巻かせているのは、この度の莫迦な行動のことだけではない。もちろん強盗まがいが良いことでは決してないし、これだけでもいっそ存在を消してやりたくなるほど疎ましい存在となりえる。だが、庚凌が頭を痛めさせている原因は、もっとこれから先の事だった。 もし、このことを他の貴族が知ったら、どうなるか。この一点である。反発心を起こさせ、貴族間の内乱ならばまだよいが、最悪なのはこれに追従したり、大義名分にされることだ。これ幸いと真似をして、羅家もやっていたと威を借りるものがでてきたならば、収拾をどうつけるきなのか。 なぜあの愚か者がこのような行動を起こしたか、庚凌は知っている。焦がれて焦がれてやまない、渇望している存在を求めているからおこったことだ。だがそれは免罪符には到底ならない。欲しいから、そうならば何をやっても許されるというのか。圧倒的な地位の上にいれば、その『欲されているもの』の意思など踏みにじり、不特定多数の人間を傷つけていいのか。本気でそう信じているならば、ふざけているというよりも、傲慢で愚かなだけだ。 頭の中ではどうすれば愚か者を引きずり落とし、庚凌の人生からの接点をなくせるか、つい考えてしまうほどだ。 だが、庚凌は思考を切り捨てるように中断させた。実行に移す気もない-そんな暇な時間はないのだ-計画など空想でしかなく、時間の無駄でしかない。今、やるべきことは目の前に山積みにされた書類を片づけることのほうがよっぽど建設的だからだ。 再び筆に指をかけようとしたとき、庚凌は片頬に強い視線を感じた。軽くため息をついて視線の主に声をかける。「何を、むくれている?」 庚凌に名を呼ばれた少年-采淵-はふてくされた顔をしたまま、控えていた壁際から近づいてきた。青味がかった猫っ毛の銀髪をくしゃくしゃとかき回している。青味がかかった銀髪は普通冷たさを醸し出すのだが、采淵の髪は空の様な柔らかさと爽やかさがあり、庚凌はその色合いを気に入っていた。混ぜられている青を見ていると、采淵は円らなつり上がった猫のような目を更につり上げ、不満の色を滲ませながら口を重たそうに開く。「……なんでだよ?」ぼそりと呟かれた声に、庚凌は眉を寄せることで先を促した。「何で、放っておくんだよ…連れ戻そうぜ」 誰を、と言葉には出さないが誰かは考えるまでもない。采淵の脳裏には、今ではもう見ることができない、自身の服の裾をおどおどと小さく掴み、見上げてきている姿が蘇っているのだろう。大切に、まるで妹のように可愛がっていた存在だ。それ故に、何もできなかった自分を恥じるように、悔しそうにしている。「そしたら、守れるじゃん」 庚凌は、ふと、采淵が手を強く握りしめているのに気付いた。力の限り、爪を掌に食い込ませ、このままだと血が出ることは容易に想像できた。唇を噛み締めて、痛みとやりきれなさを耐えている姿は痛々しさがあるがあえてそっけなく、莫迦な真似はやめろ、と言わんばかりに名を呼んだ。「采淵」「あいつ、莫迦だから……自分が泣きたいことすら気付かないし。全部、いらないものまで抱え込んで押し潰されちまう。相当の莫迦だからっ」 だから、守ってやりたい。傍にいてやりたい。会いたい。 采淵の途中で途切れた言葉に続くものなのど、容易に想像できた。唇をかみしめ、目を伏せている姿は相当打ちひしがれていることがよく分かる。 采淵はくるくると表情がとく変わる人間だった。“守人”としてどうかと思うが、ただの犬に、機械人形にしないようにしようという目論見からすれば、良い傾向だと、庚凌は自身を納得させる。「厄介だろうが、個性が強すぎようが、そんな人間の1人や2人、自由に動かせなくて、何が出来るという」 守人に意思を持たせることに危機を覚えた部下の進言に、そう庚凌は一言で切り捨てた。 意思を持ち、自立し、自らの意見を持つ。全てを言わずとも己がやることを理解し、責任を負える。そう言う人間しか傍にいらない。確かに厄介さは併せ持つが、『駒』なら掃いて捨てるほどいる。「ちびには、あのガキが付いているんだ。野垂れ死にはしないだろう」 血のような赤い目で真っ直ぐ睨み据えることで、庚凌に喧嘩を売ってくるような、無謀で、恐い者知らずな子供だった。嫉妬か、ただの敵意か知らないが、ただ庚凌に真っ正面から、喧嘩を高値でふっかける人間は物珍しく、記憶の片隅に今も残っていた。 采淵はその言葉に反発心を煽られたのか、弾かれるように顔を上げ、反論を叫んだ。「あいつなんかに、朔夜が守れるかっ!!」「人並み以上の手練れだ。生半可な相手ならば、倒せる。現に羅家の愚か者の手を払いのけ、逃げ切っている」「そう言う問題じゃっ………あんな、あんなやつっ。『朔夜を傷つけた奴』なんか、信用できるか!」 采淵の怒りを押し殺したような叫びは、妙に悲しげだった。----------------------------------サンセツキ本編の1話の辺りの時間軸の話しです。これも数話で終了予定ですちなみに、この話で出てくる彼らもしばらくすれば本編にでてくるキャラですサブタイトル、蒼の旋律、はこのシリーズの最後話にきっと分かるはずです何たって単純な意味ですから
2006年06月24日
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雪で白く染まった景色が、一瞬黒く色を変えたように見えた。 錯覚に瞬間意識が止まる。生存本能か、反射的に意識を現実に緋深は切り替えた。戦闘時、気を散らすことは死や怪我に直結するからだ。今までどれほど、この本能に助けられてきたかわからない。 だが、初めて緋深はこの能力に後悔した。意識を切り替えたと同時に周囲を把握を無意識にしてしまった。何故、景色が黒く染まったのか、考えもせずに。 悲鳴をあげそうになる。それは、一瞬こちらから目を離した男に挑み掛かり、返り討ちにされた攻撃によってではない。そんな肉体的な痛みなら、悲鳴などあげることなどない。そんな痛みをはるかにこえる、致命傷に似た痛みが緋深は囚われていた。 緋深は紅色の瞳は大きく見開き、ただ愕然と目の前の光景を見つめるしかできなかった。心臓を、鋭利で、磨き上げられた刃で切り裂かれ、そこから絶え間なく血が流れている。(う………そ、だ……ろう?) 黒い洋装の服を縋るように握りしめている、白く細い指が、緋深の思考を占拠し停止させた。 緋深の手より小さく、白く、柔らかい手は確かに朔夜のものだ。差し出された手に触れることをしない、誰にも縋ることをしない手のはずだった。(それなのにっ………) 目の前の光景は、まるで悪夢のようだと緋深は思った。 艶やかで長い黒髪の麗人の腕に、朔夜は抱かれていた。糸の切れた操り人形のように、力がまったく入っていないのであろう。朔夜は全身を自分を支えてくれている女性に委ねている。 先ほどまで、緋深にそうしていたように。 いや、それ以上なのだ。何故なら朔夜はよく見ればその女性に縋り付くように、皓国では珍しい洋装の黒服を握りしめている。 緋深は信じられなかった。 緋深が朔夜に触れられるまで、かなりの時を要した。伸ばした指の先から逃げられることは辛かったが、それは緋深だけではなく、万人にそうであることで耐えたことを今でもはっきりと覚えている。辛さに耐えて、焦る気持ちを宥めて、そうしてやっと今がある。 なのに、目の前の女性はあっさりと数刻もかけずに成し遂げてしまっている。しかも、縋られていることから、緋深よりも朔夜の深みに入ることを許されている。 自分ではなく、目の前の女性が朔夜に望まれているのだ。 その事実が、緋深の心に刃を突き立てる。(ずるい) 心が悲鳴を、絶叫を上げる。 『服を握っている』些細なことだ。だが、そんな些細なことでも、朔夜ならそれは緋深にとっては重大な意味をもつのだ。これが生死の境という特殊な状況であろうと代わりはない。自分がいくら瀕死の状態であろうと、決して縋らないのが朔夜である。そうであるはずだ。 だが、無慈悲にも現実はその考えを根底から崩していく。(ずるい) その言葉だけが緋深の脳裏で、他の言葉など知らないかのように、繰り返される。(…………くそっ!!) 朔夜が縋るのが、自分でないことが、悔しくて、何より情けない。 不思議なことに緋深の中に嫉妬心は欠片もなかった。ただ今緋深の中にあるのは、嫉妬以上に苛烈な、名前を付けられない感情だった。 やり場のない、何に向けてか分からない怒りや憎しみなどの感情が胸のうちの中で飽和してしまい、緋深自身も自分が分からなくなっている。ぐるぐると気分が悪く、吐き気すらする。 だが、そんな弱った姿を見せるわけにもいかないので、必死に自分を緋深は奮い立たせた。 だからか、苛立ちぶつけるような視線で相手を見据えることしか、今の緋深にはできなかった。 刺々しいなんてものじゃない視線を浴びながらも平然と、いやどこか泰然とした雰囲気のまま、女性はゆっくりと口を開いた。「あなた方に危害を加えるつもりはない。行く当てがあるのならば、そこへ無事に辿り着けるよう、取り計らおう」 思わず、目を瞠り、耳を疑った。 通常ならば耳に心地よさを感じるであろう声も、この時ばかりは緋深には凶器に思えた。(……こいつも、なのか?) 優しくて、甘いだけの言葉。淡い温かい色に染められた言葉。緋深には信じられないものだ。 緋深の知っている、そう言った言葉を吐き出す人間は、偽善者とすら称せない輩だ。(朔夜が……縋ったのが、“そんな輩”なのか?) だが、そうではないのだろう、と分かるから緋深は更に困惑する。『動物は、人よりもよっぽど本能が強いからな』 朔夜を『動物』と称した男がそう言っていた。それは、限りなく正しい。 朔夜は本能とも呼べる直感が、とても強い。本人は無意識だが、自分にとって害のある人間を察する能力に長けているのだ。 それは何度も暗殺されかけた頃、自身を守るために発達した能力なのかもしれない。 だが、朔夜が縋っているということで目の前の人間が『朔夜にとって害のない人間』だとしたならば、何を考えているかが分からない。 素直に善意を信じれば、話はすっきりと解決するのだが、見知らぬ他人からの胡散臭いほどの善意を緋深は簡単に信じられるわけがないのだ。「悪意のない人間に随分な態度だな。それとも怯えなきゃいけねえ理由でもあるのか?」「うるせぇ。誰が初対面なのに『はい、そうですか』って、てめぇを信用するのかよ。どう贔屓目に見たって、てめぇは堅気じゃねぇだろうがっ!!」 悩んでいるところに茶々を-しかも図星をつかれているーを入れられ、しかも緋深にとって反発心しか抱かせない男の言葉に、思わず緋深は怒鳴りかえしていた。 普段ならば、こんな迷っているときにこそ冷静に、と緋深は心がける人間だった。 だが、今、そんな余裕などどこにもない。 緋深をいつもいつも振り回す、かき乱す存在が、今回、今まで以上の衝撃を与えてくれたのだ。余裕などあるほうがおかしいではないか、と緋深自身は思うほどだ。「おいおい。言うに事欠いてそれかよ。何で分からないかねぇ。ぱっと一目で正確に俺の性格を分からせてやろうという俺の優しさが」 目の前の男は神経をこれでもか、と言うほど的確に逆撫でてくれる。なので理不尽な八つ当たりと分かっていても、容赦なくぶつけられる。 さあ、反論してやろう。巫山戯たことを言うんじゃねぇ、と。 そう思った瞬間、出鼻をくじかれた。黙って緋深と男のやり取りを傍観していた女性-腕に子供とは言え、意識のない人間をずっと抱えたままなのに、平然としている-が口を開いたのだ。「そうなのか?…………まあ、お前の格好を見て控え目で大人しい男だ、と言う者はいないだろうが……知らなかった」「先生。それは一応、執り成しているつもりかい?」「いいや。執り成して欲しいのか?」 自分の後始末ぐらい自分でできるだろう。 そう女性は言って、少し笑ったように見えた。間を置かず、ぽん、ぽん、とやり取りされる会話は、かなり親しい者だとよく分かる。 緋深は、この女性と、-凄く腹の立つ-男の接点が分からずに、更に素性の不明さを怪しいものにさせ、信用できるかどうかがわからなくなる。 ひょっとして、困惑させるためにわざとやっているのではないか。「で?先生、どうするつもりだ?」「何より先に治療を施したい。町のほうに戻ってもいいが、ちゃんと医学を修めた医者はいないだろう。あなた方の状態を見れば、温かい湯に放り込んだ後瀉血しようとするだろうが、駄目だ。あんな治療法では身体が弱まるだけだ。それより【禁足地】に連れて行って雪花【セッカ】に診てもらった方が良い」「だろうな。骨折だけでも足をのこぎり引きで切り落とす医者と汚れた包帯を使って傷口を化膿させる医者しか町にはいないからな」 ぐるぐると思惑が空転していた脳の動きが止まった。緋深にとって珍しいことに思わず素の表情が出てしまうほどであった。 確かに村や街に医学を修めているものは少ない。正規の医師よりも経験が豊富な裏町の医者の方が腕がよほど良いなど-分かどうかわからないが莫大な金がかかるのだが-ありえるのだ。腕の良い、きちんと学んだ者はだいたい貴族や大都市に引き抜かれて、辺鄙な村では医師がいないなどもありえる。 朔夜がそんな医者にかかるなど、冗談ではない。 想像するだけで臓腑全てを内側から冷えた手で撫で上げられた気がした。そしてそんな医者とも言えないやからに預けるぐらいならば、一瞬目の前の人物に預けた方がましな気がした。 だが“雪花”とやらがどれほどの腕か怪しい。国の中央地から遠く離れた場所に名医と呼ばれる腕を持つものがいるとは思えないし、名が女性だと言うことも緋深が気にかかるところだ。 緋深は男尊女卑の思想などまったくない。だが、皓国でも今はないがつい最近と呼べる、つい数十年まではあったのだ。建前上なくなっているが、女性が医学を学ぶことは、よほど地位か学がない限り難しく、大抵が貴族お抱えになってしまう。(信じて………その医者が助けようとして、殺されでもしたら……) 悔やんでも、悔やみきれない結果になってしまう。 どうすれば、良いのだろうか。 視線を女性の腕に眠る朔夜の姿に移す。未だ黒い洋装を握ったままでぐったりとした姿は弱々しく、気配もほとんどないほど薄い。 時間がない。 血を未だ流し続ける心が、慌てることで更に出血を増し、血の海で溺れそうだ。 息が、苦しい。「何処に連れて行くつもりなのか知らねぇが、俺はあんたたちに付いてはいかない………そいつを、放せ」 緋深は、そう選択した。 あまりにも不安要因が多すぎる方を選択するわけにはいかないのだ。朔夜を背負い、山を駆け下り、朔夜を心から大切に思っている人間の息のかかった場所に駆け込むほうが、安全だ。面倒ごとを持ち込むことになり、“朔夜”が -あの人たちは口でどうこう言っても朔夜に甘いほど甘すぎるので問題はないだろう-気に病むことになるが問題だが、まあどうとでも説得出来る。腕の良い医者もいる。 ただ、自身の体力がどこまでもつか、が問題なのだ。賭に近いものがある。(例え……足が、身体が壊れようと…死のうと、絶対朔夜は死なせないっ…送り届けてみせるっ) 緋深は生まれて初めて、“半端者”であることに感謝した。自身に半分、守人の血が流れていることで、賭の勝敗を少しでも上げることができる。 力が入りにくくなってきた身体に活を入れ、目の前の二人を睨みつけた。
2006年06月22日
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薄暗い廊下からこちらに近づいてくる細身の影は、燭台の炎に照らされ、揺らめき、妙に不気味に玲鈴には思えた。柔らかく温かい炎の光に照らされているはずなのに、とても不思議だ。「こんなところで、何をなさっているのですか?」 紅い瞳が、斬りつけるような鋭さでこちらを見ていた。緋深の言葉遣いこそは丁寧だが、言葉と言う薄い膜を捲れば、裏に隠されているのは侮蔑だ。視線に含まれた侮蔑の眼差しは隠そうともされていないので、勘違いなどではない。 異人だから、との侮蔑ではない。 幾度も浴びた侮蔑とは、また違うものだと直感で分かる。『異人』という薄膜に通された視線などではなく、直接玲鈴を斬りつけてくるものだ。あのじくじくと膿むような痛みではなく、一刀両断するかのようにばっさりと切り裂かれるような痛みなので間違いない。致命傷を与えようとしているような視線は、いつも喉元に刃を突きつけられているような息苦しさを覚える。 だから、玲鈴は緋深が苦手だった。元々侮蔑の視線が気持ちの良いわけがないし、第一何故か理由がわからないのだ。 玲鈴だけなのだ。緋深は麗蘭にも怜蓮にも、そして之推達にさえ向けない。 緋深は胡家に来た当初、全てを敵とし、睨み付けていた。鋭く光る瞳が、恐かったことを覚えている。少しでも視線を合わせれば、敵と認識され倒されそうだった。 いつからだただろう。緋深の視線に侮蔑を感じ、それが己のものだけだと気付いたのは。はじめは異人だから、またかとも思った。だが、緋深もまた、異端なのだ。玲鈴をその理由で侮蔑すれば、それは磨き抜かれた鏡に写されたように、それは緋深に直接跳ね返る。 ならば、何故だろう。 玲鈴は幾度くり返したかわからない疑問を心の中で思いながら、緋深に少しだけ視線を合わせる。だが、やはり緋深の視線は鋭すぎて逃げるように逸らしてしまい、それを誤魔化すように口を開いた。「……麗蘭姉上に言われて、あの子を呼びにきたのよ」「だから?」「……あの子、またいなくなったみたいで。どうしようかと思っていただけよ」 丁寧に、と心がけてもどうしても刺々しい言い方になるのを必死に自身に玲鈴は言い聞かせる。 玲鈴は、教えられてきた。感情を制御することは重要なことなのだと。何故なら感情を明け透けに出すことは、敵に弱みを見せることになるだけではないのだ。感情を顔に出すことは、特にそれが不安や恐怖ならなおさら、他者の上に立つ者としてあってはならない。「常に悠然と。そして私達は女は女であることに誇りを持ち、婉然たる態度で嫣然としてなくてはならないの」 玲鈴は長姉の言葉をくり返し心の中でくり返す。「いなくなった?」 訝しげな緋深の声に、玲鈴は頷いた。「そう……幾ら扉を叩いても、声をかけても返事はなかったわ」「…それだけか」 何がだ。 玲鈴は反射的に言い返しそうになった。 之推といい、緋深といいなんなのだと思う。玲鈴は普通に人を呼ぶ際の手順を踏んでいる。扉を軽く叩き、夜の帳が下ろされているので他者にはじめは迷惑をかけないように控えめに。そして幾度か試した後に、眠っていることを考慮し、少し大きめな声で。 間違った手順ではないはずだ。なのに、何故過ちを犯してしまっているようなことを言われるのだろう。(それに……あの子が、朔夜が脱走するなんて……珍しくもなんともないじゃない) 今はそれほどでもないが、以前の朔夜はしょっちゅういなくなると言っても過言ではなかった。姉たちがよく探していたのを覚えている。朔夜に興味があったわけではない。多忙などという言葉で言いきれないほどの仕事を抱えている姉たちが、何故あんな少女にこだわり、振り回されているのだろう、と嫉妬にも似た感情が胸の奥に渦巻いたことがあったからだ。 『またか』と思われる、幾度目かの脱走の際、朔夜は緋深を拾ってきた。泥まみれな黒い髪をした少年が、守人と人との半血とはその時思わなかったので、緋深が瞳を開けたとき悲鳴を上げそうになったのを必死で堪えたのを、今でも覚えている。(そうだ……) 玲鈴は思い出した。 そう言えば緋深は、朔夜を嫌っていたのだ。目が覚めた瞬間、視界に朔夜を入れた途端、暴言などよりよほど汚く鋭い言葉を投げつけていたではないか。あれ以外姿を見るたび、言葉で、拳で朔夜を傷つけ、その存在を認めないと言わんばかりに拒絶していたのは、緋深だったではないか。 それがいつからだろう。視線が和らぎ、殴るための拳が開いて、朔夜に恐る恐る触れるようになったのは。何があったかは、玲鈴は知らない。唯一分かることは、緋深が、玲鈴をあの視線で見るようになったのは、朔夜に対する態度が激変した後だということだけだ。 玲鈴が思考の海に浸っていると、ガチャッと金属を動かした音がした。 びっくりして顔をあげると、緋深が何の声もかけずに朔夜の部屋の扉を開けていた。「ちょっ」「あんたは、あんたらはそこから、入ってくるな」 緋深の声はどこまでも、静かだった。小石を投げ込まれ、水面で揺るれる波面より穏やかすぎるものだ。だが、その声を強烈な命令として耳は捕らえ、玲鈴の足を床に縫い止める。 玲鈴が立ち竦んでいると、緋深はゆっくりとした足取りで開いた扉から部屋に入っていく。(やっぱり、いないんじゃない……) 開けっ放しにされた扉から玲鈴が見た光景は、人がいない部屋だった。褥に人の姿らしきものは見えず、人の吐息すらはっきりと聞き取れるほどの静寂さが場を支配してる。(あの子も、怒るのかしら…) 女中でもない人間に勝手に部屋に入られるなど、玲鈴でも嫌気がさす。親しき仲にも礼儀あり、だ。いくら距離を縮めた仲である人間であっても、嫌だと思う。 だが、玲鈴には朔夜が怒る姿など想像がつかない。いや、怒る姿だけではない。喜怒哀楽どれも想像がつかないのだ。玲鈴が知っている朔夜の姿とは、俯き、言葉をほとんど発せず、気配すら危ういものだ。 そんなものだろう。 玲鈴はそう思った。守人とは、主の命令に絶対服従で、能面のような顔で、感情がないような、まるで人間以外の生き物だ。だから主の命令とあれば、戦場に行き、腕が飛ぼうと、内蔵を引きづり出されようと表情一つ変えず命がとぎれ得るまで敵の命を奪う。普通の感性ではありえない。 ぼんやりと玲鈴がそう思っていると、静寂の中で異質な音がした。「っ?!」 玲鈴は顔を上げると、緋深の行動にぎょっ、と目を見開いた。 緋深は衣装棚の扉を開けている。他人の衣装棚を勝手に開けるなど玲鈴にとっては、部屋を勝手にあけるよりよほどありえない暴挙であった。 さすがに止めに入ろうとすると、今まで一切口を開かず、まるで存在が無いように振る舞っていた之推が、玲鈴の肩を掴み、動きを封じる。「之……」 之推殿。 思わず言葉を張り上げ、之推を咎めようとしたが、それは咎められようとしてた張本人の手によって遮られた。男にしては綺麗な、だがやはり所々傷がある男の手で口が塞がれたのだ。 その手を払いのけようとする。「落ち着け」 耳元で思わずぞくりとする、まだ低く成りきっていない声で囁かれる。 大人しくなどできるわけがない。 反論の意思を示そうと之推を見上げると、之推はにこりと笑い、玲鈴の目の前に指先を向け、それをゆっくりと朔夜の部屋の方向に移す。 それにつられるように視線を移し、玲鈴の身体は強張った。「えっ?」 目を瞠った。声が妙に引きつっていたことにさえ、気付かないほど玲鈴は驚いた。 緋深の腕が柔らかく包んでいるのは、抱かれているのは、間違いなく己が探していた少女だった。 驚愕に玲鈴の身体の力が抜けるのを、そっと之推が支えた。普段より密着する身体に普段の玲鈴ならば鼓動が高鳴り、顔が火照ったであろう。 だが、傍にいる之推など気にならないほど、玲鈴は朔夜に囚われていた。「何で……」 心の中で何度も浮かんでは消える、言葉がつい口にでた。 呆然としている玲鈴に向かって緋深は睥睨した。「いつものこと、ですよ?」 いつもは僅かな反発心を抱かせる尊敬の念も微塵も含んでいない声でさえ、玲鈴には届かなかった。
2006年06月17日
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「おや?」 ふと呟いた声はそれほど大きくなかったが、秋虫の音しか聞こえない穏やかな静寂の帳を切り裂くには充分だったようだ。之推[シスイ]の声に誘われるように、僅かに幼さを印象づける原因であろう大きな瞳を瞬かせながら玲鈴は俯いていた顔をあげた。 廊下の至る所に暗闇を照らすために設置された燭台の柔らかい光は、玲鈴の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせ、幼さの残る顔立ちを普段よりも大人びて見せた。 之推の存在を認識できたのか、困惑気に眉を顰めている。 遅い。之推はそう思った。 瞬時に事態を把握する事ぐらいやってくれるようになるには、彼女はまだまだ未熟だ。そう知りつつも之推は内心玲鈴に軽く失望した。 玲鈴の姉という規格外の人物と比べてはならないと思いつつも、せめて麗蘭の背中が見える距離に近づけるほど成長して貰わなければならない。(時間は、限られているからね……)「之推殿……」「どうしたんだい?可憐な顔を歪ませて…」 僅かな年齢差を見せ付けるかのように、声に怪しげな色気を意図を持って滲ませてみれば、玲鈴はさっと頬に紅を浮かべた。その単純で少々過剰な反応は、何処か滑稽だが年相応に可愛らしく、之推は笑った。 だが、同時に困ったとも思う。 一体この少女は、いつ立派な淑女になるのだろうか。 蕾が華麗な花になるのは、ゆっくりと手塩にかけて咲かせてやるのが之推の主義だが、例外として急いでいるというのに、どうやらこの蕾は頑ななほど固いようだ。「いえ…別に。之推殿は、何か御用でこちらへ?」「用事がなけりゃ、来ちゃ駄目なのかい?」「そういうわけじゃ……萱家は、胡家にとってとても良き友ですもの」 玲鈴の返答に、之推は口の端をあげて笑う事で答えた。 胡家の家を平然と萱家の者が悠々と歩いているなど、数十年前では考えられないことだった。今では胡家の者も、萱家の者も、そして周りの者達さえ不思議に思わない光景だ。 周知の仲。そうなるようになるまでに、時間がかなりかかった。急激に近づいて怪しまれぬよう、数代前から心を砕いて、ようやくここまできた。(---そう、刻は近い。遅くて俺達の次の代。早くて、数年後) 刻が満ちたとき、胡家の役割は大きいものとなる。 家督の麗蘭殿は充分すぎるほどの戦力だ。次女も数年前からぐんぐんと成長し、あと今一歩だ。だが三女の成長が間に合うか、否か。「じゃあ、何で玲鈴殿は、“この”扉の前で親からはぐれてしまった子供のように途方に暮れているのかな?」 之推の紡ぐ言の葉に、玲鈴は言葉を詰まらせた。その反応に之推の瞳の奥が鋭く光る。 胡家の敷地内である屋敷の中で、家督の妹君、三女である玲鈴が何処にいてもさして問題はない。之推よりよっぽど、だ。だが、この部屋の扉の前ということが、どうにも之推の気になったのだ。「この部屋は……儚月の姫君の、だよね?」 之推が『姫』と称する女性は少なくない。むしろ認めた人物ならば、誰でもその女性を最も表す名称を添え『姫君』と呼んだ。例えば、目の前で沈黙を貫いている玲鈴の長姉には、『紅華の姫君』と呼ぶように。 之推が、部屋の持ち主を姫と呼ぶことを、玲鈴は理解できないらしい。玲鈴とそのすぐ上の姉には決して呼ばない、尊称にも似た『姫』という言葉が、似つかわしくないのではさえ、思っているだろう。 之推があの玲鈴よりも年下の少女を姫と呼ぶ理由は、実は自身もよく分かっていない。強い人間か、と言われれば弱い。顔立ちは良いほうだが、笑うことがないので魅力的とは言い難い。手を繋いでいないと離れていくくせに、少しでも力を入れてしまえば怯えて逃げようとする矛盾で、之推を簡単に翻弄する。 之推は女性に対してある程度自信があったのだが、初対面の際、いきなり距離をつめたのが悪かったのか脱兎の如く逃げられた。あの時、逃げられたからだろうか。半ば興味、半ば意地で少しずつ距離を縮めていった。 そして知った。小さく儚いが、とても純粋で温かな存在だと。 之推にとって、大切な存在となった。そうなれば、その存在を認めないわけにはいかない。之推の心にいつの間にか居着いていることに敬意を称して、『姫君』と呼ぼうと決めたのだ。 之推は、まだ姫君とは言えない少女を見つめた。まだまだ狭い視野、度量に、何より自分の中に一本の強い芯がまだない。 之推に見つめられて居心地が悪いのか、玲鈴はしばし躊躇し、ぽつりと口を開いた。「……麗蘭姉上に、あの子を呼んできなさい、と言われたんですが……いなくて、またか、と思って」「いないのかい?」「…何度も声をかけたのですが、返答はなかったんです」 また、ね。 之推は玲鈴には聞こえないように、小さく呟いた。 確かに“また”だ。 之推は玲鈴の傍にある扉の取っ手にすっ、と手をかけた。この扉には鍵がかけられることはいないのだ。そのまま扉を押して入ろうとすると慌てたように玲鈴の手が之推の腕に添えられた。 添えられた手には微妙に力が入り、静止をうながしていることは簡単に分かる。だが、之推は軽く肩を竦め、玲鈴を無視して扉を開けようとすると玲鈴が声を張り上げた。「之推殿?!」「何だい?邪魔しないでくれると、有り難いんだけど」「しますよ!!」「何故?」「何度も呼びましたが、返事がなかったんですよ?部屋主がいないのに勝手に部屋に入るのは、あまりにもそれは、不作法では?」 玲鈴の言うことは、正論だ。之推も常識はわきまえているので、それぐらい分かっている。 だが、例外というものはあるのだ。 それが 儚月の姫君への対応だ。 「知らないんだ、玲鈴殿は」「え?」 之推の確信を秘め、自信に満ちた声と眼差しに玲鈴がきょとんとした。「姫君は、眠っているんだよ、きっと……だから、返事がない」「え……え?眠ってる?」「そう…こんな夜半に紅華の姫君が呼んでいるんだ。起こして連れて行ったほうが良いと思わないかい?」「え、あ……でも、眠ってるって。そんなはずないです、だって」「……やっぱり知らないんだね」 無知な子供を見るような視線は、玲鈴を更に困惑させるには充分だったようだ。しどろもどろに言葉を紡いでいる。「あの子が、よく眠っているのは知ってますけど、けど、あれだけ呼んで気付かないわけ……」 玲鈴の言うように朔夜は、よく眠る少女だった。 寝る子は育つというが、あれは嘘だと証明するかのように、小さく細い朔夜はよく寝た。下手をすれば半日以上眠り続けた。人が傍に寄ればすぐに目覚めるのに、いなくなるとぱたりと眠ることも度々だった。 小さく丸まって眠る姿は、まるで何かを拒絶するかのようにも見える。だが之推には自身を癒す、回復を試みているようにも見えた。何かに抵抗し疲れ、眠りにつき、眠ることで回復している最中にも抵抗しているように見えるのだ。 朔夜と言う少女は、之推が名付けたように『儚い月』のように脆そうにみえるが、そうではない。誰かの庇護がなくてもまっすぐに立ち、前を向き、進める強さを秘めている。そう見えないのは、周りが幾重にもの紗で覆い隠しているからだ。悪意からではない。朔夜に悪意を向けるものから守るためだ。「こんなところで、何をなさっているんですか?」 どう玲鈴に説明したものかな。 そう考えていると、之推と玲鈴の耳に刺々しさを隠しもしない声が飛び込んできた。 視線を声の方向に移すと鍛え上げた剣のような鋭さを秘めた紅い瞳がそこにあった。----------------------本編の半年~1年前の物語・玲鈴の朔夜への偏見の改善の兆しを各(まだ玲鈴が守人への偏見を持っていたころの話です)・本編ではまだまだ現れることがない人物を出すを目標に数話で終わらせたいと思ってます
2006年06月01日
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