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朱肉つき判子ケースというのを景品でもらった。三文判をいれると回転式で蓋が開き、朱の部分が触れ、シャチハタみたいに使える。便利なようで、ねじ込み具合が難しい。今日は役所で初めて、いわゆる「朱肉」を見た。色といい形といい本当に肉の塊みたいなものだった。日本の朱肉は、オレンジ色がかっている朱色だが、中国や韓国の朱肉は紅色っぽく、血判の文化から来たものなのだなあということがよくわかる。調べてみた。水銀と硫黄を苛性ソ-ダ-と加熱し、乾燥させて朱を作り、松脂と木ロウとひまし油を加熱して溶かしたものにいれ、朱油を作り、もぐさやパンヤや綿実など繊維質を混合して作るということだった。朱肉屋さんの宣伝は、「鶏血のような色」とか見慣れない表現があって新鮮である。
2004年12月20日
クリップ…着けて渡して返ってこないので、大量にあっても結構消費する。 その割に買い足さないのは、ちゃんと回収もしているから。 色や形がバラバラ。輪ゴム…1箱買っても高くはないけど、多すぎ。 8年経っても減らず、劣化してるんじゃないか。メモ用紙…急いでいるときは、そこらへんの紙に書いちゃうし、 重要なことはカレンダーに書くので、出番が少ない。ホチキスの針…針か芯かタマか。1箱が全然減らず10余年。万年筆のインク…ブルーブラックのボトルの色を透かして楽しむだけの数年。ガムテープ…移動や運搬の機会が減って出番少ない。ガムテープについて。引越しテープというか、布を引き裂くように使え、テープの上にも貼れる。剥がすときも気持ちよくはがれる。紙製のやつは、使い勝手は劣るが、粘着力は負けない。なんといっても、あの地味な色がいい。一巻もたっぷり長い。外国製のプラスティックっぽいやつは、貼るときに割れるし、重ね貼りできないし、経年変化というか短期間で、粘着のり部分が溶け出し、ものすごく汚くなる。緑・赤・黒の布製のテープもあるが、一巻の短いこと。段ボール箱を数個組み立てただけで、尽きてしまう。その上、粘着力が弱く、切れ味も悪い。日本製は、細かいところまで気配りしてあってよい。最後までかけるボールペンや、紙に粘土状にくっつくこともない消しゴムや、身の回りに配慮に配慮を重ねた便利があふれている。何でもそうだけど、便利な世の中になればなったで、逆にちょっとした不便があると、それがとても目だってしまい、不便な部分ばかりが気になるようになる。明治の人とか、戦前の人も言ってそうだが、世の中は改善すればするほど、不満が増える仕組みになっているんじゃないだろうか。
2004年12月19日
布団乾燥機日中家にいないとき、天気が悪いとき、花粉の季節、重宝する。羊や鶏を使った比較的心地よい布団でも、たまに使ってみると、乾いた布は気持ちがいいということに気づく。タオルハンカチハンカチは吸収力が高いものがいい。タオルハンカチはとりだしやすく、ふき取りやすく、アイロンをかけなくてもいいところがいい。ティッシュケースポケットティッシュ4個分くらい入る陶器の箱。安定がいいので、ボックスティッシュと同じように片手で取り出して使える。
2004年12月18日
週刊誌をめくりながら、「今年亡くなった有名人は多いなあ」と思ってから、「そうじゃない、今年は知ってる人が多く亡くなったのだ」と気づく。10歳ほど年上の人に言ったら、自分も10年くらい前にそう思ったと笑われた。今年が特別多いわけではなく、今後は毎年同じように思うのだと言われた。昔は、高齢な人というと、活躍していた全盛期を知らない人だった。それが今は、中年として認識していた人たちが、平均寿命を超えて亡くなっている。そんなことに気づいた自分が、中年世代になっていたりする。「それにしても」と、雑誌のレイアウトが気になった。金田一先生に1頁使うのはわかる。当然だろう。アラファト議長も。だが、かんじんな大きく扱うべき人がいっこうに出てこないじゃないか。と思ったら、最後の最後というページで出ていた。短パンの若いいかりやさん。なんと絶妙な配置な週刊文春。この時期、ご家族を亡くされたので、新年の挨拶はしないというお知らせをいただく。喪は穢れというより、悲しい出来事があったので、ちっともめでたい気分になれないから、という考えが主流だ。だから愛犬の死でも、出す人もいたりする。これに対して、寒中見舞いを出すべし、とマナーの本にはある。例年とは違って、お正月ができない人こそ、手紙が来たら少しは慰められるのではないかと思うのだが、あまり世間的に普及していない習慣らしい。「喪中葉書もらったから、この人は出さなくてもすむや」という扱いは、あんまりいい感じがしない。ところが、返礼というものは迅速であればあるほどよい、という考え方の人もいて、11月のうちから寒中見舞いを書いて出したりもする。全国的に相対的に寒くないし、わざわざ葉書の文面を「寒中見舞い申し上げます」とすることもないんじゃないか、と思うが、ほかにテキトーに埋められる文句って、なかなかない。よくわからない習慣に、よくわからない習慣が重なり、形式があり、時期があり、複雑だ。昨年末の28日ごろ、郵便局で、年賀状を投函したが取り返したい、ということをお願いしている人がいた。たしか、配達エリアの郵便局に連絡して、返してもらえるということだったと思うのだが、こりゃ喪中葉書もらったことを忘れて出したのかな、と思いきや「ゆうべ死んじゃってねぇ」ということだった。年賀状の受付は15日からだが、それでも、出したら失礼だと思ったということなのか。すごい。
2004年12月17日
連続して同じテーマ。「年末というのはせわしないですわよねぇ。クリスマスカードは書かなきゃいけないし、年賀状も書かなきゃいけないし」という挨拶をされたりする時期。雑で不精な性格だと、そんなのどっちかにすればいいだろうと思うのだが。年賀状というものは、「本来新年のご挨拶に伺うべきところを書状にて失礼いたします」という意味だから、年明けてから着かなければ意味がない、ということらしい。官製はがきを使えば、赤く表示されているから、前もって投函しても、1月1日に配達されるが、「これが封書とかカードとかだと、毎年フライングして来るのがあるのよね。自分で赤くいれるのを知らなかったり、忘れてしまったりして」というのが問題であるという話題があがった。無知だろうが迂闊だろうが、どうでもいいだろうと思ってしまうのだが、クリスマスと新年はいっぺんに祝うべきものではないという「日本文化」にあまり詳しくない子どもや外国人には、そこはマナーとして教えてあげるべきだというのが・・・まあ一般的な考え方なのだろう。1月1日に「来年もよろしく」と貰ったっていいじゃないか。前年に書いているということがよくわかり、そんな前から準備してくれる配慮があるのだから、じゅうぶん丁寧な態度だ。ましてや、海外から送られてくるものや、外国人の書いたものであるなら、そこまで「伝統的」日本文化に合わせなければならない必要が、どこにあるんだろうか。伝統と言われるものの長さは実際はあやしい。新設校でも翌年には「我が校の伝統として」とか言い出したり、結成半年のサークルにも伝統行事があったりする。普及して100年に満たない年賀状も、日本の伝統文化に収まり、伝統にはマナーが作られ、それをやぶれば非常識だということになる。マナーの押し付けは時として暴力になる。誠意を持った態度に対しては、お互いが尊重しあうべきだ。何らかのグループに属している限り、非常識な行動をとってレッテルを貼られてしまうことに恐れを感じてしまうのは仕方がないが、誠意に欠くわけでもないのに、常識をたてに、裁く側に立ったりそれに加担したりするのは、決していいことではない。こんなに長々書いて、何が一番気に入らないかというと、ようは事実の捉え方、伝え方に問題があるということだ。たかが郵便物の到着の時期のこととは思うが、気になるなら、「あなたたちの文化はどうなんですか、私たちの文化はこうですよ、違いがあっておもしろいですね」でいいのに、どこか「あなたたちの文化は知っていますが、それを私たちの文化で押し通そうとするのは、間違っています。私たちの文化に合わせなさい」という態度がにじみ出てくるところがいただけない。常識となってしまっている事実を伝え、最終的にどちらのやり方を選ぶかという選択の権利は、相手に与えるべきだ。まず相手に合わせるべきなのは、視線の高さである。
2004年12月16日
前日と続き、年賀状のことば。最近、常識やマナーを問う内容のテレビ番組がいくつかある。又聞きなのだが、その中で「謹賀新年」と「賀正」と「あけましておめでとうございます」どれが「目上」「目下」「親しい間柄」に使うべきかという出題がされたそうな。実際この正解がなんであるかは、はっきり言ってどうでもいい。このレベルであると、多くの善良な視聴者は、「知らなかったマナーがわかって参考になった」という感想を持つと思う。しかし、問題なのは、ここで植えつけられた常識のせいで、来年からは「目下扱いするなんて」とか、日本は、フレンドリーであれば、必ずポライトネスであると認められている文化じゃないので「親しくもないのに馴れ馴れしい」という気分になる年賀状を受け取ることになるということだ。そんな偏狭な悪感情を持たず、寛容に受け止めたとしても、相手のことを「常識を知らない人」であると、意識してしまうことになるだろう。ついこの間までそっち側だった人間が、差別をし始める。「常識」は、数で勝てるパワー。意味をよく知らないまま使っていて、実は世間とずれて使っているということはよくあるが、正しさの根拠はどの程度であるか。幼い若いうちは、タンシンフニンを病名だと思っていたり、回し飲みを茶碗をまわして飲むことだと思っていたりする。個人的な問題はご愛嬌。しかし「言葉の乱れ」とか「正しい日本語」とか言われる問題があるが、そこでの主張には、どうも悪意が感じられるものが混じる。「世の中は乱れているが、私は正しい」という主張で、私なんかには役不足ですよは謙遜じゃあないとか、枯れ木も山の賑わいだから先生も来てくださいというなとか、ことばのマナーの本でしか目にしないものもあり、二番煎じ三番煎じを読めば読むほどだんだん的をいようがえようが、どっちだっていいじゃないかと思ってくる。ことばというものは、多くは発生の瞬間は確定しないのだから、証拠となる最も古い文献に基づくことになるが、ことば自体が流動的なものなので、時代時代によってコアな意味は異なってきたりするものだ。お互いが、異なる語や、異なる意味で言葉を使っていると、意思疎通が難しくなるから、なるべく固定的であるほうが世の中便利ではある。しかし使い慣れたものでじゅうぶん便利であるという保守派もいれば、古いものだけだと不便を感じ、新しいものも使ったほうが便利だと感じる革新派もいる。コーランによって日常語にも保存され続けるアラビア語とくらべれば、日本語は新陳代謝の激しい言語だ。新年を祝うことばにバリエーションがあれば、根拠を求めたくなるのは当然だ。実はこれまで、迎春とか頌春とか賀正とかは、年齢がかなり上の人からもらうものだったので、じいさんばあさん世代に流布されてきていた表現なのかと勝手に思っていたので、考えたことはなかった。目下の者には略語程度でいいのだというのは、現代の上下感覚の捉え方には合わない。昔の人たちの感覚はどうかわからないが、現在は「目下に対する態度はぞんざいにしたほうが、その人の威厳や風格が高まる」ってもんではなくなっていると思う。いや、それをぞんざいであるとする感覚がすでに現代的なのか、ぞんざいという語の意味の定義がずれているのか。うーん、また今度ゆっくり考える。
2004年12月15日
ちょっと早すぎる季節のことばだが、書いている人はもう書いているんだろう。この時期になるといつも、英語学の先生が、「新年あけましておめでとうございます」というのは誤りだと言っていたことを思い出す。「あける」という動詞は、「喪が明ける」とか「夜が明ける」とか「徹夜明け」いうことはあっても、朝が明けるという言い方はしない。したがって、「旧年あけまして新年おめでとうございます」が正しい、というのがその主張。でも、世の中で固定してしまった常識からすれば、このとおりに書いたら変だと思われるだろう。だが、こういうわかりやすい分析的な根拠は理解しやすくて好ましい。以来、毎年正月番組の冒頭の挨拶が気になっている。最も多くあるパターンは、司会者が「新年」といい、全員で「あけましておめでとうございます」唱和しているものだ。新年は掛け声?
2004年12月14日
トワイニングのレディグレイが終わったので、フォーションのオレンジティ。アップルティとかだと、続けて2杯以上飲まないが、柑橘系のフレーバーは飽きない。日常的に「おこううちゃ」という呼び方で生活したら、何か変わるか。「お紅茶とコーヒー、どちらがいいかしら」という質問に対してしか使ってない。「お」。(この言われ方の場合、大概コーヒーを選択することは期待されていない。)今日のアフタヌーンティは、パンとチェダ―チーズ。というか怠けてだらだらお茶。…パンといってもパスコの超熟だし。はっ! 外はいつのまにか夜。超熟スティック、一番右のCM。ロッタちゃん風でよい。http://www.pasconet.co.jp/chojuku/cmpreview/
2004年12月13日
くないちょうごようたし、とあったので旨いに違いないと思って買ったもの。よく見たら、「・・・の産地と同じ橙を使用のポン酢」とあった。おから+玉葱+合いびき肉(おろし生姜+塩+胡椒+スープの素)鶏スープでのばし、まるめ、コーンスターチつけて焼いて、これをつけたら、絶品であった。「月のしずく」という名前
2004年12月12日
でっかくて子持ちで1000円。なぜ。足が不足していたのだろうか。たらばの一種とか。エビのようだった。とてもおいしかった。はじめて食べた。・・・へたくそな小学生の作文なみだな。
2004年12月11日
「お知らせさん」(***.alliedsolutions.net)という人のコメント、削除させていただきましが。あちこちに貼りまくっているようですが、目的は何なんでしょう?でっかい鶏ガラがとても安かった。いわゆる肉部分もあり、レバー部分もありというもの。鍋に水、玉葱1個刻んで、おろし生姜をいれて、先日月桂樹の葉ももらったのでこれもいれ、鶏ガラをどぶんといれる。アクをすくって、ただコトコト。ガス代節約のため、真空保温調理器(シャトルシェフ)を使う。たくさんできたので、一部をまわし別鍋でカレーを作った。買い置きしてあったふくろたけの缶詰、自家製ピーマンの瓶詰め(猛烈に苦い)、やたら膨張して処理に困る中国のきくらげをいれ、ココナッツミルクで溶いたグリーンカレーペーストにスープとともにいれる。食感がおもしろいカレーができた。東アジア食材は、特別な外国料理という認識があまりなく、日常的に使ってしまうのだが、部屋中に東南アジアのスパイスが漂うとなんだか珍しいことをしている気分になる。季節に1~2度、別に何の記念日でもないんだが、イベント的な食卓になる。
2004年12月10日
映画はよかった。文句なし。日本語訳絵本を久しぶりに読んでおどろいた。「あたい」「せこはん」「ちゅうぶる」「かっぱらう」「~ちまう」すごい!これでは北欧の世界がいっきょに裏店調になってしまう。訳者は原作者と同世代、1906年生まれであった。明治生まれに限らず、戦前教育を受けた人たちって、どこか違う語感を持っているように思う。
2004年12月09日
うーん。よくわからなかった。風景から雰囲気を鑑賞することを主眼とするものなんだろうか。混沌を混沌のまま扱ってしまうのは、子どもの視点をあらわそうとしているからか、赤かった中国時代の雰囲気を出そうとしているからか。ひとつひとつのエピソードの繋がりがあまりなかった。泣かせどころはココ!というのはわかるんだけど。すまん、情緒が貧困で。という気分。ラストは気持ちはわかるが、気持ちが悪かった。
2004年12月08日
北欧ののんびりした風景。幼児や子羊の動きがかわいい。北国は、冬の厳しさの中での楽しみがあり、春を迎える喜びがあり、それが宗教行事と密接に関わっているんだなぁという感じが伝わった。神に感謝するという態度の平和な信仰は、いずれの宗教のものでも安心して見られる。過酷な現状に対し「どうか救いたまえ」というものも、頼る神すらないというものも、どちらも見ていてしんどい。特定個人との関係なり、所属する社会の制度なり、人間の作用が絡むと、理不尽な苦痛だけになる。そんなオトナの作り出した世界で、子どもが翻弄されるというのは、お涙ちょうだいになってしまう。テーマが絞られたもの、・アクション…疲れる・SF・ホラー…設定の段階で入れない・恋愛…興味がとぼしいとなると、フィクション全般を楽しめる機会が減る。面白いと思うことはあるが、ストーリーだけじゃもたず、背景なり小物なりカメラワークなり、センスや技術面に工夫があるものは見ていて楽しめる。似たような問題だが、先日、芥川龍之介を読みたいというのがいるのだが、どんな作品をすすめたらいいか、どういう点でよい作家なのかときかれた。対象者の読解レベルにあわせ、わかりやすいストーリーである「蜘蛛の糸」、故郷を遠く離れているという点で「杜子春」がよかろうといっておいた。作家としてどういいかという点については、正統派近代ブンガクを読まなくなって久しいので、記憶をたどってみると、「視覚・嗅覚を刺激する描写の豊かさ」が最も優れた点であるように思ったので、そう答えた。もっとまともな観点で答えるべきなのだろうが、当時から、そんな読み方をしているので仕方がない。ところでどなたか存じませんが、つい先ほど、キリバン2000を踏んでくださってありがとうございます。「*.titech.ac.jp 」ということは、東工大の方がお昼休みにランダムでいらしたのかしら。
2004年12月07日
げっげっげのつく月曜日~日記がたまる。「更新せぇ」というメールが届くんで、義務感で過去日記をうめる。干草のベッド片足をトンとつくお辞儀でっかいソーセージ「ロッタちゃん」のDVDに宣伝してある映画を借りてきた。北欧の長い夏、美しい自然、田舎の子どもたちの世界が展開される。映画は事件らしい事件がたいしてないので、途中、何回も寝てしまいそうになった。心がささくれていても、体力があるときにおすすめといったところか。子どもっちゅうものは万国共通の文化があるんだな、と思ったが、これもまた時代のせいもあるわなぁ~というシロモノ。実際、現実の社会では、世界中から、いわゆる「田舎」や「下町」というものが、急速に減っているようだ。「昔は知らない人と話せましたが、今はできなくなりました」という台北の人のことばに、ウランバートル、ソウル、北京などの20代たちがうなづく。「日本では失われた風景が、東アジアの他国には生きているのだ」なんて発見を求めて行くなら、都市部に行ってはダメだ。北欧だって、きっとそんなもんなんじゃないか。
2004年12月06日
白菜がまだちょっと高いので、今年は漬けられないでいる。4分の1で100円もするんじゃあなぁ。下がってるとこで78円。いいけど、でも。もうひといき。市販のもので、旨いと思ったものは、だいたいまもなくよく売れ出すのだが、そうなるとことごとく改悪されてしまうので、なかなかいいものにめぐり合えない。いまは、きゅうりのキューちゃんの「東海漬物」が出しているのが一番よい。辛味は足りないけど、味に奥行きがある。手で唐辛子をかきまわしていると、額に汗がにじむくらいからだがあたたまるので、その行程は薄着でやるのだ。靴下に鷹の爪っていうのは、やったことがないが、たぶん本当に効くのだろうと思った。
2004年12月05日
引き出しの中にあるもの「しおり」買ったもので読みかけなら伏せちゃう。借りたものなら一気に読む。調べ物なら付箋を貼る。いつのまにかいくつもあるんだけど、たまに眺めるだけ。「MDウォークマン」そのまま聞けるものがない。編集する機械がない。もらったものを時々聞いたり、録音したりするのに使うだけ。インクが残っている書きにくいボールペン少しかすれるサインペン先の割れた筆ペンもともと半端に薄い色のカラーペン削りにくい鉛筆消しにくい消しゴム握りにくいホチキス切れ味の悪いはさみ貼ると紙がぼこぼこになる液体のり万年筆・ペーパーナイフ・ペーパーウェイトなどおしゃれ系文房具きれいな絵のついたメモ用紙整理しようと思いつつ、寿命まではと思いとどまり、場所をふさぐ。
2004年12月04日
5歳児のいう「むかしこれ食べたことがある」とか、高校生のいう「むかしはテツ&トモも、もっとよかったよ」とか、おいおい、それって「むかし」という設定はありえんだろうと思ってしまう時間感覚を聞いて驚くことがあるんだけど、はっきりと「一昨年」「○年程前」というような絶対時間を設定せず、「むかし」と相対時間でいう場合、その位置は年代によって違う。不確かな手法であるうえ、統計的にあきらかに有意ではない量なので、あまり意味がないのだが、こうしたことの周囲にいる各世代の人々の発言を観察していると、 むかし >(実年齢-物心ついたとき)÷3というあたりにあるようだ。5歳 半年以上前(4歳)は昔。15歳 3年前(12歳より前)は昔。30歳 9年前(20代の初め頃より前)は昔。40歳 12年前(20代後半頃より前)は昔。60歳 19年前(40代前半より前)は昔。80歳 25年前(定年前後より前)は昔。なかなか妥当なところだと思わないか、この数字。30代にもなれば、ほんの3年前のことは、昔だなんていわないし、80代は20年前のできごとでも、昔とは思わない。トシをとればとるほど、「むかし」は絶対的に遠い時間になる。同じ相対的な過去の表現で、このあいだは、「ほら、ちょっと前まで、ベストテンって番組、ございましたでしょう。あの黒柳さんとニュースステーションの久米さんが司会をなさっていた…」と、意外な「ちょっと前」を使われてしまった。これも高齢なほど「ちょっと前」の幅が広くなる傾向があると思うのだが、世代的にどうということは、よくわからない。対象への興味関心のある・なしによって、かなりかわる。強く関心を寄せているものは、趨勢が気になるので、時間幅を感じさせる変化を察知した時点で、変化する直前のことが「ちょっと前」ということになる。一方、興味のないものは、かなり古いものでも「ちょっと前」だと感じてしまい、興味のある人にとって「ちょっと前」と言っているようなものでも「最近」になってしまうんじゃないかと思う。
2004年12月03日
10分以内に説明せよ。「行きたかったら行け」と「行きたければ行け」などでの「ば」と「たら」の違いは何か。接続の形は動詞 未然形(ます形)+たら 仮定形(条件形)+ば形容詞(イ形容詞) かったら ければ形容動詞(ナ形容詞)・名詞 だったら ならばまず、反復する行為。ok雨が降ったら、本を読んだok雨が降れば、本を読んだ前件<雨が降る> 後件<本を読んだ>「いつもそうした」という意味で前件と後件は連続する行為。まだしていないことでも、「いつもそうなる」という前件・後件の因果関係がある場合ok手術をしたら、治りますok手術をすれば、治ります前件<原因> 後件<期待できる結果>連続する1回だけの行為が、すでに済んでしまったことの場合。ok手術をしたら、元気になりました×手術をすれば、元気になりました前件<原因となる1回だけの行為> 後件<その結果>は「たら」のみok。手術を何度も繰り返す場合には、「ば」もok。連続する行為を説明する場合。ok麺をほぐしたら、具をいれます×麺をほぐせば、具をいれます前件<最初の行為> 後件<すぐ次に続く手順>前件から予想できる後件を考える(1)山道で鹿に会ったら・・・(2)山道で鹿に会えば・・・ (1)写真をとりたい/エサをやってくれ/一発でしとめろ/どうしよう(1)(2)驚く/いつもエサをやった/野生の鹿のニオイがわかるだろう「たら」は前件が成立するかどうかわからないときも使える。(仮定条件も可)「ば」は前件は成立したものとしたときしか使えない。(確定条件のみ可)前件が仮定条件の場合、後件は<命令・依頼・希望>が可能。それと関連していつもそうすることでも、後件が「ましょう」の場合、「たら」のみ使える。ok帰宅したら、手を洗いましょう×帰宅すれば、手を洗いましょうok信号が青になったら、渡りましょう×信号が青になれば、渡りましょうつまり「たら」のほうが、使える範囲が広い。逆に「たら」がダメで「ば」じゃないと使えないというのは少ないが、恒常的な事をさしたい場合、微妙なニュアンスの違いがある。(3)海にサンマが集まれば、マグロもやって来た(4)海にサンマが集まったら、マグロもやって来た(5)子供を生めば、親のありがたさがわかる(6)子供を生んだら、親のありがたさがわかる(7)夏が来れば、尾瀬を思い出す(8)夏が来たら、尾瀬を思い出す「たら」は、前件が完全にそろった条件としている場合にのみ、後件が成立することを強調しているような感じ。つまり前件以外の条件では、後件はありえないという雰囲気。「たら」の場合、サンマが集まらなくちゃ、子供を生まなくちゃ、夏にならなくちゃ、後件は成立しない。一方「ば」は、いつのまにか前件があって、後件は付随的にやってきてしまう結果という感じになる。「ば」の場合、実際は、サンマだけでなくイワシが集まっても、マグロは来るかもしれない。子供を生まなくても、親のありがたさはわかるかもしれない。夏じゃなくても、尾瀬を思い出すかもしれない。それでも、個人的にとりわけ因果関係を強く感じてしまうのは、サンマであり、子供を生んだことであり、夏という季節だったりするということだ。・・・だと思う。
2004年12月02日
「いわゆる食パンというのは、ありゃ餅だな」と言っていた同級生がいたが、これはうまいたとえだと思う。外国のパン―あるいはそれを模したパン―は、パサパサしているか油分・バター分が過多なものが多い。形状が食パンであっても、味は外国のパンである。「いわゆる食パン」というのを、ヤマザキやシキシマなどの市販されているものだとすると、たしかにもちもちしているし、比較的あっさりしている。そのまま食べてもいいし、焼いて食べればなお美味い。(煮るのは無理だが)塩分や糖分や油分など、好みにあわせて味付けできるところも似ている。ごはんと違って、軽く量食べられてしまうのだが、カロリーだけはきっちりたくさんあるところも、パンと餅に共通する。「おうちで手作り」のパンは、実際おいしいし、何より安全なのだろう。でも作るのは時間と体力があるときだけになる。それに、市販の食パンというのも、しばらく食べないでいると妙に食べたくなってしまうものである。学校給食や、幼少期の食生活の問題なんだろうか。あの食感は、家で作るパンでは出せない。たぶんショートニングのほか、ホエイパウダーと乳化剤と増粘剤のグァーガムをいれないからだろう、とパスコの食パンの袋を見ているんだが。(ショートニングはいれたことがあり、確かにやわらかくはなったが微妙に違った)添加物の危険性がどの程度なのかはよくわからん。シキシマパンはPascoという名前でうまく差別化をはかったなぁと思う。よく考えると、敷島ってのはどんな時代にできた会社かわかりやすい名前だ。
2004年12月01日
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