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2008年03月19日
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ギャートルズ

大人になってから見ると、とーちゃんがカッコイイのだ!!

太り過ぎではないかと悩むかーちゃん。
シーソーに乗って、ドテチンに石を積んでもらって体重を計ると、石2個分増えていた。
大笑いするドテチンに、
「とーちゃんやゴンに言うんじゃないよ!」
と口止めして、ダイエットをはじめる。

とーちゃんもゴンも、溜息をついて、あまり食べないかーちゃんを不思議がる。
「なんだ、何か心配事でもあるのか?」

「食べ物ののことだったら、心配するな。俺がいくらでもとってきてやるから」

すげー、かっこいい!!!
先代のスネ夫で、キテレツ大百科の勉三さんの、若いころの声、力強い。

原始時代から今から50年以上前までの間、この言葉がいえる男はめちゃくちゃかっこいー。
これが
「金のことだったら心配するな。俺がいくらでも稼いできてやるから」
だったら、そりゃ心強いけど、いまいちだわな。
食糧の場合、いくらでもとってくるというのは、「おなかいっぱい食べられる量」という限界があるけど、お金の不足を感じるのは際限無いからかなぁ。


で、話の続きは、ドテチンが理由を知ってそうだと気付いたゴンととーちゃんがドテチンを問い詰める。文字通り崖っぷちまで追い詰められたドテチンはとうとう白状する。
ドテチンは、何をしゃべっているかわからんのだが、先代のジャイアンの声である。

相変わらず小食のかーちゃんに
「太ったことくらい気にするな」

ドテチン、あんたしゃべったね?とかーちゃんは怒りだすのだが、
「くだらん、実にくだらん。おれは太っている女のほうが好きだ」
と酒をかっくらってとーちゃんは言う。

いまどきそんなことを言うのは、マニアのデブ専か、75歳過ぎの後期高齢者しかいないだろう。

かーちゃんは今着ている一番いいサーベルタイガーの毛皮が着られなくなったら困るからだというのだが、牙のでかいサーベルタイガーは狩がむちゃくちゃ困難なので、とーちゃんがひるむ。


ここでいちいち
「サーベルタイガー?そりゃ無理だ。あきらめて他のを着ろ」
「あたしのためなら、なんでもとってきてくれるんじゃなかったの?」
「食料の動物ならともかく危険すぎる。俺が死んでもいいのか」
「じゃあ、やっぱりあたしが痩せるしかないんじゃない」
とか、そういう会話はない。
黙って察する。そこがいいねぇ。

翌日からかーちゃん、痩せるために運動をしまくる。
タヌキを含めた赤ん坊たちをとーちゃんに押し付け、狩にでかける。
近所の男たちの目の前で、素手で鹿をしとめて帰ってくるのだが、あとで獲物をとられてしまった男たちはとーちゃんに冷やかしに行く。
女房が働いておまえはのんびりできていいなぁ、おまえんとこの女房ほんとにすげーよ、とかそんな感じのことを言われ、とーちゃんはあまりおもしろくない。

石斧で木を切り倒していると、ゴンがマンモスに追いかけられて悲鳴をあげている。
かーちゃんすっとんでいって、ゴンを助ける。

とか、すげーパワフルなかーちゃんなのだ。

ここまで見たところで、家人が帰ってきたせいで、とびとびの画面しか見られなかったのだが、結局、かーちゃんは原始時代の美容教室に通うことになった。
木につり下がったり、無意味な苦行にみえるようなことを、そんなに太っているわけでもない原始時代の女性たちがこぞって試している・・・というオチ。


この話は「男は仕事、女は家庭」という当時の常識の中で描かれているのだが、その伝え方が同時代の戦隊モノとは違う。
戦隊モノの場合、そのまま進めていれば無事終わりそうなところを、紅一点の女子が能力もないのにしゃしゃりでて、わざわざ騒ぎを大きくし、それを男たちが救ってやるのだが、そのせいで窮地に追い込まれ、結局ウルトラマンみたいなものに助けてもらうのだ。
仕事の現場に女が出てきたら、ろくなことがない。

他に、足手まといになるのは、戦隊外の好奇心旺盛な少年だったりする。
少年にはたいてい「ありがとう」と言わせるのだが、邪魔なものとして「女・こども」がひとくくりにされていながら、しかも女のほうがタチがわるく描かれている。

女は、助けてもらっても相変わらず不機嫌な顔のままで、お礼を言うことはなくて、たまに謝罪することがあり、いつもと違ってしおらしいなぁと隊員にからかわれたら「失礼だわ」と怒る…という終わり方になるのだが、学習することも成長することもなく、次の回でまた同じ失敗をする。

少年の場合、たまたまそこにいただけであり、毎度毎度ということはない。
なんでこんなのを戦隊にいれておくのか。
「彼女のためなら頑張れる」とかいう目標でもなく、「彼女のせいで仕事が増えた」というようなのは、職場の「花」としてもダメだ。


ギャートルズの世界では、女が能力的に低いわけでないのだが、役割として家にいて、洗濯や食事の準備をしたりしている、というものだ。
夫婦も親子も、お互いがお互いを尊重しあっている。
自分の役割を、自分で理解している。

そして、家族外の人とは違う単位になっている。
そのうち帰るお客さんとか、時々協力しあう必要がある隣人とか、付き合い方としては濃いのだけど、きちんと線引きがしてあるところが感じられる。

現代と違うのだが、どうして違っているのか、うまく表現できないんだけど、ほんの50年前までは、本人が自分の位置を考えるだけで世の中が完結しやすかったのだろう。
食べることとか、お酒とか、お祭りとか、楽しみ方も単純だった。
今は、世の中には、自分の暮らす範囲外に、より良いものがあるということが信じられているせいで、変わってしまったのだと思う。
物も情報も入れ替え可能な人間関係も、「もっと、もっと」と追及していくと、「足りない、足りない」ということばかり気になってしまって、なんだか不満が増えているのかなぁ。

と、いつもの単純な感想にたどりついてしまった。





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Last updated  2008年03月19日 10時33分24秒


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