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新・職人論の提案 ここで、主として身体や肉体を動かして「高級な知能や学問」などからは程遠い、「低級な生業(なりわい、生活のもとでを得るための職業。家業)」である職人を、キャリアという側面から新しい光を当て、新時代を切り開き、時代の最先端を開拓する 新しい職業の分野 として大いに推奨してみようと考えます。 職人と言えば、我が日本国は世界に冠たる一大・職人宝庫と呼ぶに足る、素晴らしいお国柄であります。古来からのこの良き伝統は今日に至るまで、脈々と受け継がれて、現代の経済的大国としての地位を支えている、まさに重要な原動力と評価されなければならないでしょう。そして古来伝統の所謂 手仕事 を中心とした職人さんの外にも、農業や漁業に従事するお百姓さんや、漁師さんなども含めて、これまでは「職人」とは呼ばなかった職業人をも、この「新職人論」では新しい時代の職人として、敢て見直しを迫ってみたいと思います。たとえば、大学教授を頭脳の専門分野における 知的職人 という風に規定してみる。その目的は「大学教授」の地位を不当に貶める事にはありません。「職人」の立場を時代の要請に適合するように正当に、また適正に定義し直す方に、重点があるのです。大学教授の中にも飛び切り素晴らしい頭脳と人格とを持ち合わせているお方もいれば、そうでは無い肩書きだけに頼り切った権威主義の権化のような人もいることでしょう。それは周囲の厳しい再評価の洗礼を改めて受けることで、自らの地位を自ずから高める契機としていただければ、ご本人にとっても社会にとっても非常な利益を齎すことに繋がる筈であります。 人類の歴史を概観してみますと、古代にはSacred King(人間の力を超えた絶対的な神の力を後ろ盾にした支配者)が統治し、中世にはWar King(人間の実力によって現世を支配する者)が実権を握り、そして現代は私見によればPop King(popはpopularの略語で、人気という大衆の支持を受けて今日の社会を牛耳っている者)の時代であり、次なる時代には、これも大胆な予見に基づく私見ではArt King(この場合のartは狭い意味のアートだけではなくartisan・職人の意味も含むアートで、人知・技巧の限りを極めつくした達人の意味合い)が現世を実効支配する時代が到来すると考えます。ですから来るべき新時代の中枢には、私の提案する新しいコンセプトによる「新しい職人」が当然の如くに据えられるべきものなのであります。 専業主婦の再評価 最近の女性の社会進出にはまことに目覚しいものがあり、そのこと自体は本当にすばらしい事だと諸手を挙げて賛同するに吝かではありません。ただ、専業主婦の立場がその煽りを受けて影が薄くなり過ぎているのが実に気がかりでならないのです。現代社会の様々な病的症状の大部分が、専業主婦の表舞台からの後退と共に発生してきていると、思われる節が多々ある。これは思い過ごしかもしれませんが、専業主婦の地位が不当に過少評価され過ぎていると、懸念するのは何も私一人ではないようですね。これも私・草加の爺の持論ですが、我が日本国は神代の昔から、女性の力によって支えられ、繁栄を築いて来た歴史的事実があるのですよ。天照大御神・太陽神はご存知の通りに女性神ですし、卑弥呼も勿論女性。平安時代の藤原氏全盛時代を裏から支配したのは女性の力でありましたよ。そして武家社会も男を陰で支え、その掌の上で上手に踊らせたのも、賢い女性の力ですね。庶民の生活にも「甲斐性なし亭主に、カカア天下」は今日にまで生きている日本社会の実相であります。実に、日本社会は今も昔も、賢明で働き者の女性たちによって、シッカリとその屋台骨を支えられ続けてきているのです、実際。 その中でも、一昔前の家庭の主婦は実に素晴らしい役割を果たし続けてきた。八面六臂という表現がありますが、一人で何役も演じ分け、大活躍していた。その蔭には大変な苦労が隠れていたのですが、その苦労の中に生甲斐や、幸せを見つけ出す賢明さを、余す事無く発揮してもいた。 しかしながら、キャリア論に職業の一つではない「主婦」という家庭内での女性の役割を持ち出すのは、場違いなのではないか?そんな疑問が投げかけられるかも知れませんね。しかし、私は昔の主婦の座をそのまま復活させることを意図しているのではありません。第一に、私たちの社会のあり方から意識のあり様まで、まるで様変わりしている昨今ですから、昔のままの主婦像を復活させる事など、そもそも不可能な目論見である事は、誰の目にも明らかでありましょう。女性の生き方が色々とある中で、専業主婦という役割に軸足を置いた一つの生き方が、選択肢の一つとして再認識される価値が大いにあるのではないか。そんな風に、新しい提案として女性たちの関心に訴えたいと思うのです。それは取りも直さず、家庭という私的な場所を、人生とかキャリアと言った立場から再検討する事に、直結する非常に大切な問題である筈だからなのですよ。そしてそれは女性自身にとってだけでなく、パートナーである男性にとっても大切な、重要な問題に直結することなのですね。ワーク・ライフバランスなどという言葉もありますが、まさに公的な仕事と私的な個人としての生活との兼ね合いを、どのように上手く折り合いをつけていくか。非常に大切な問題を孕んだ分野なのであります。
2015年06月30日
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精神・心と肉体・物質は互いが互いを支えあっている、相互に大切な相互補完の関係の中にある。裏と表であり、同時に表であり、裏でもある存在。どちらか一方だけでは無意味に近いあり方に堕しかねない、そういった微妙にして密接な仲。そもそも便宜的に二分したのであって、元々はセット・対になって始めて十全な意味が生ずるもの。不可分の、有機的関係の中に意味や意義を見出さなければならないものなのでした。 だからこそ、肉体労働の持つ「神聖にして尊貴な性質」を十二分に自覚して、無意味な差別観念を廃し、正当かつ完全な価値を認める立場に立とうではありませんか。同時に、支配と被支配の従属観念からも自由になろうではありませんか。支配は「支配させて遣っている」のであって、支配を受ける被支配とは、実は逆支配なのでありますから。またもや引き合いに出しますが、『奇跡の人類』と称される古代ギリシア人たちは、その辺の機微を実に良く理解していた。ポリスに奉仕する「公務」と自分自身の私的な生活とを等分に考えて行動していた。政治・経済・軍事などあらゆる分野でアマチュアである市民自身が中心となって事を考え、任務を遂行していたし、裁判なども素人の集団が審議し判決を下していた。それを少しも変なことだとは考えなかった。ポリスを支配するのは、ポリスに支配される事だと、ごく素直に考えて憚らなかった。非常に健全で、人間的な思考であり、行動様式であると、私・草加の爺などは感服いたしておりますよ。 新・職人論の提案 ここで、主として身体や肉体を動かして「高級な知能や学問」などからは程遠い、「低級な生業(なりわい、生活のもとでを得るための職業。家業)」である職人を、キャリアという側面から新しい光を当て、新時代を切り開き、時代の最先端を開拓する 新しい職業の分野 として大いに推奨してみようと考えます。 職人と言えば、我が日本国は世界に冠たる一大・職人宝庫と呼ぶに足る、素晴らしいお国柄であります。古来からのこの良き伝統は今日に至るまで、脈々と受け継がれて、現代の経済的大国としての地位を支えている、まさに重要な原動力と評価されなければならないでしょう。そして古来伝統の所謂 手仕事 を中心とした職人さんの外にも、農業や漁業に従事するお百姓さんや、漁師さんなども含めて、これまでは「職人」とは呼ばなかった職業人をも、この「新職人論」では新しい時代の職人として、敢て見直しを迫ってみたいと思います。たとえば、大学教授を頭脳の専門分野における 知的職人 という風に規定してみる。その目的は「大学教授」の地位を不当に貶める事にはありません。「職人」の立場を時代の要請に適合するように正当に、また適正に定義し直す方に、重点があるのです。大学教授の中にも飛び切り素晴らしい頭脳と人格とを持ち合わせているお方もいれば、そうでは無い肩書きだけに頼り切った権威主義の権化のような人もいることでしょう。それは周囲の厳しい再評価の洗礼を改めて受けることで、自らの地位を自ずから高める契機としていただければ、ご本人にとっても社会にとっても非常な利益を齎すことに繋がる筈であります。
2015年06月24日
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民主主義の典型的なモデルは、正当な選挙によって選出された代表者による間接的な統治でありますが、統治される一般民衆と統治者との関係は相互に補完的でなくてはいけません。つまり、民衆は一方的に支配されるのではなく、上手に統治者を制御して自分たちに好都合な支配をさせるように「逆支配出来る」巧みな政治能力を保持していなければいけないし、そのための社会的なシステムの構築にも意を注がなければならないわけです。 地球規模の戦国乱世 この様な表現を使うと、人によっては何てオウバーな、そして又如何にも古臭く旧時代な表現だと感じられるかも知れませんが、「地球村」は現実のものとして私たちの身近に迫っていますし、事実ウエブ上では国境の無いボーダレスな現実が出現して日々の生活に様々な影響を与えつつあります。また中国古代に適用された「戦国時代」「乱世」などの表現は、現代にこそもっともピッタリと来る表現であることは毎日の出来事のほんの一部を耳にしただけで首肯できること。まさに激動と動乱を絵に描いたような有様でありますね。 一個人、または一国を静止状態にして、社会全体、グローバルな人類の営みだけを対比した場合を例にとって考えて見ましょう。図式的にピンで留めた一点から螺旋状に激しく変化する全体を眺めた場合を想像してみて下さい。また、反対に急速に変化する社会の側を静止させたと仮定すると、「何もせずにいる個人や社会」は奇妙に、特別ユニークな行動をとるが如く、見えることでしょう。つまり、戦国乱世では旧態依然たる在り方こそ、実は「大変に個性的なあり方」になっている。つまりは、相対的に俯瞰して眺めてみればということですが…。俄かには信じがたいようなことかもしれませんが、この辺の事をよくよく胸に収めて、沈思黙考する必要があるでしょうね。 脱「奴隷根性」論 これは肉体労働に対する不当にして、過剰な侮蔑意識の払拭を意味します。私達現代人は皆、知らず知らずの内に「頭脳労働への盲従的な信仰」に捉われている「囚人」の様な存在なのですが、私の様な「変人」以外には殊の外 野暮な この事を、問題視しようなどとはしません。しかしながら、社会にとっては非常に有害な事柄ですので、私などは野暮を承知で、折り有る毎に、何度でも繰り返し口にしないではいられないのでありますよ。 何故そうなったのでしょうか?思うに、人類の歴史を概観してみる時に、戦争と殺戮の繰り返し-だという見方が成り立たないわけではありません。征服した民は、被征服者を奴隷として使役し、又売買したりした。牛馬の如くと言う表現がありますが、奴隷としての立場に立たされた者たちは過酷な肉体労働を強いられた。それが何世代にもわたり代々受け継がれて行くうちに、過重な肉体労働は奴隷がするものと言う通念が、社会全体に定着してしまう。我も人も、「高級な知能」を持って命令するご主人様と、「低級な肉体労働」に従事する奴隷の立場とを峻別する習慣が固定化する。そしてその社会的な通念が無意識の内に代々受け継がれて今日に至っている。 とにかく、肉体に対して精神の優位ということは、古代ギリシアのプラトン以来現代に及んでいる謂わば「常識」でありまして、この抜きがたい固定観念は私たちの生き方のあらゆる分野に及んでいる。又私たちの行動を根本のところで強く律している。この「偏見」を取り去る事は不可能であると思われる程に、難事業であること、を先ずしっかりと自覚しようではありませんか。 何故、お前はそんなにまで強固にその事に拘泥するのか?と言った質問が何処かから飛んで来そうになりました。他ならない 人類の幸福の増進 のためにと取り敢えずここではお答え致しておきましょう。有難くも物質なのであり、肉体なのであります。精神も、心も、魂もみな、前提条件である物質・肉体なくしては活動するわけには行かない。そもそも存在する事すら出来ない。
2015年06月19日
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早くも地球を一つの生命体、有機体として捉える考え方が重要である一つの具体的な例が出てまいりました。地球を全体として捉えた時に、人類・人間はその部分にしか過ぎないでしょう。それは明らかな事実でありますから。従って、論理的に言って人類は自分たちの「正義」を無理に押し出して、地球と言う大きな生命体を傷つけ、ひいては破壊しては断じてならないのです。それは結局、人類自身のためにならないことだから。自己否定を強く意味しているから。先の赤穂事件でも、忠臣たちは切腹して果てています。自己否定を前提としての、武士の一分を貫き通す「自己主張」の行動こそが主君の無念を晴らす仇討行動だった。 中庸ということ 儒教で非常に大切な概念として時に特筆される中庸ですが、これ程誤解されている言葉、乃至、理解の難しい概念もまた外に無いかも知れません。「大体において中くらい」などといえば、当らずと言えども遠からず―と評価すべきかもしれませんが、その意味する奥深さを覆い隠してしまうので、却って害を及ぼすかも分からない。両極端を排する、などの表現も同様に有害無益かも知れない。その程度の皮相で、浅薄な考え方では全くありません。孔子は面白い表現を使っています。山の中で、一羽の大きな野鳥が突然の物音に驚いて、止まっていた木の枝から飛び立ったが、すぐさまもとの枝に帰って来て静かに止まった。この鳥の動作が実に「中庸を得ている」というのです。猟師の鉄砲の音かもしれない物音に反応して、止まっていた木の枝から飛び立つ野鳥の行動は、危険が溢れている自然界に生息する生物としては絶対に必要なこと。しかし、すぐさまそれが危険な物音で無いことを悟った鳥は悠然と最短距離を飛翔し、元の安全な場所に戻る。間然するところの微塵もないこの一連の動作が実に見事であると、孔子様は言われた。これが日本の国技・相撲の「押さば引け、引かば押せ」の極意に通じる、中庸精神の真髄を示すもの。必要にして、最小限度の行動。緊張感を最高度に発揮して瞬時も油断しない。高い能力を最高度に秘めているが、徒に己の力を行使しない。周囲の状況に的確に合わせて、絶妙に反応・行動することの出来る集中力と、潜在する能力の素晴らしさ。これら全体の生命体のあり方を指し示して、中庸と言う表現を使うのでありますね。 したがって、中庸は人生のあらゆる局面で発揮されるべき最重要な行動様式であり、誰もがその極意を会得しておく必要のある事柄なのです。その前提の必要条件として、最大級の能力の開発と持続・維持が求められます。いつ、如何なる場合でも、必要に応じて必要な能力を発揮するための心構えと、同時にそれに向けてのたゆまぬ努力・自己啓発が要請されている。ですから、これは誰にでも容易に可能なことではありません。しかしながら、自己の幸せを追求しようと志す人には必須な条件となるのです。たゆまぬ、不断の努力こそ、幸福への鍵であり、如何しても避けては通れない道なのでありますから、その過程での「忍苦」は幸せ・幸福の母であり、父なのであります。――このように書いて参りますと、そんなに大変なことをしなければ生きて幸せを掴む事が出来ないなら、私は、自分は、幸福など手にしなくても構わない。幸せなどいらない。そんな風に自棄(やけ)を起してしまう御仁がきっと一人や二人は、現われるに違いないのです。しかし、短気は損気。慌てずに、もう少しお付き合いをお願いいたします。自分に「可能な範囲」で、という但し書きが付きますから。他人との比較はこの際禁物です。飽くまでも自分に出来る限界内で、倦まず、弛まず、一時休憩もOKですから、前向きに亀の歩みの様に前進する。それでよいのです、それで構わないのです。なぜなら、誰の為にでもない、他ならないご自分のためにすることなのですからね。自分流、自己流、大いに歓迎です、勿論。 社会全体と個人を結ぶもの、それが職業 世の中には実に様々な仕事についての議論や、職業論があるようですが、その多くは個人の側に軸足を置いたもの。個人は自分の趣味嗜好や、性格・能力などに応じて、勝手気儘に仕事を選べるし、又そうするのが正しいのだとする考え方ですが、実はこれは非常に偏った思考方法です。職業というものが個人にとってとても大切であることは勿論なのですが、それは同時に社会全体にとってこそ重要な問題であり、揺るがせには出来ない、いわば生命線を意味していることだからであります。既存の、既に出来上がっているシステムとしての社会のあり方にとって、構成員の職業的な分布図は蔑ろにできない最重要課題でありますから。政治や行政がこの問題に必然的に介入せざるを得ないのは、むしろ当然過ぎるくらいに当然の事なのです。個人の自由とか職業選択の自由とか言う以前に、社会の健全、且、適切なあり方を問題にする場合には、ここでも部分より全体を優先するのがよりまっとうな選択になるのです。 ここで少し脇道に逸れる感じになるのですが、個人と社会のあり方を考察しておきたいと思います。勿論、個人と社会は二極に対立する概念ではなく、特に現代では「社会化された個人」が一般市民の基本概念ですので、両者は無理なく融合し、対立したり矛盾したりするものではないのです。もしそこに甚だしい矛盾や分裂が生じるとしたら、その社会全体のあり方自体に大きな問題があるのだということになりましょう。
2015年06月15日
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全人類の師・ソクラテス 古代ギリシアの哲人ソクラテスをここでは「愛国心」という側面から捉えてみたいと考えます。ご存知のようにソクラテスは、「神々を尊崇せず、青少年の精神を堕落させたとして死刑を宣告され、国外逃亡を勧める友人達の忠告を振り切り、従容として自ら毒杯を仰ぎ死についた」人物であります。自分が愛するポリスが私に死ぬ事を望むのであれば、私は喜んでその決定に従おうではないか―、ソクラテスを心から敬愛して止まない青年・プラトンが描出する偉大なる哲人・ソクラテスのこの言葉は、「真の愛国心」とはどのようなものかを考える者にとって、衝撃的な一言であります。今時の政治家が、子供達に愛国心を教えねばならない、などと口々に唱えるのを耳にする時、私などは本当に複雑な気持ちにさせられますよ。 本当の意味で「国を愛する」とは一体どの様なことなのか?それについて教育しなければならないのは、子供や若者達ではなく、大人たちなのではないか……。素朴に、そんな風に思うのですから…。 それはともかくとして、普通は「都市国家」と訳されるポリスとは、大きな村とか、町、精々が小さな地方の市ぐらいのスケールで、住民の相互が容易に顔を合わせる事が可能な程度の人々の集団だったようです。ですから愛国心といった場合でも、今日の感覚から申せば「郷土愛」または「故郷に対する愛着」と呼んだ方がよりピッタリするのではないでしょうか。好意や愛情が最高度に表現される時に、全世界の中で「一番に大切な自己の命」さえも犠牲にして顧みない。そう言った誠に麗しい自己犠牲精神の発揮という所にまで行き着いてしまう。本当に驚くべきことでありますね。しかし考えてみるまでもなく、これは何も人間だけに限られた現象ではなく、野生の動物などにもしばしば観察されていること。幼い雛鳥を守る為に親鳥が自分の命の危険を冒してまで、囮行動を取る事があるなどの事例です。 何が正義なのか? 正義とは一体何か?色々な考え方があると思うのですが、ここでは有機体の代表であり、私たちにとってごく身近にある例を取り上げて、考えてみようと思います。あのおぞましい癌の細胞ですが、永生を願う人類の願望が権化と化したかのように振舞うこの恐ろしい細胞は、ひたすら自己増殖だけを目指して、永久に増殖をし続ける。結果はどうなるか?癌を含む固体の死を将来して、結局は癌そのものも死滅する運命にある。誠に象徴的でありますよ。全体とのバランスを欠いた一部分の暴発は、結局、その部分だけではなく、全体の死滅をも必然的に招き寄せてしまう。物理的に申せば、全体の為に個・部分は犠牲にならなければならない。部分が飽くまでも自分の「正義」を貫き通すときに、有機体は維持・存続出来ずに解体し、消滅する定めにある。
2015年06月11日
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時代により、また国によって人々が拠り所とし、それに準拠して行動すべき法・規範・掟などは様々に変化しているように、一見すると見られがちですが、実はそうではありません。非常に簡略化して申しますと、それはたった一つだとも言い得るのです。では、それは何か?他人が信じられる事―、自分もその一人である人間が、真に信じるに値する生き物であると確信できること。この一事に帰着すると、私は考えるのです。 中国の儒教の教えの根本にも、忠信という徳目が重要視されています。忠とは何、信とは何か。簡単に、分かり易く表現すれば「忠実で、二心がないこと」であります。矛盾するように聞こえるかもしれませんが、世界の歴史を概観してみますと、人間は人間を裏切り、欺き、出し抜き、仲間や、異民族などを戦争によって大量に虐殺し続けております。親兄弟は勿論の事、昨日の友は今日の敵。まさに弱肉強食の生物界の掟が、我々人間世界においてこそ、もっとも顕著に、そして頻繁に継起している。そういう現世であり、世の中にあって実に「忠臣蔵」のお話は稀に見るような美談であり、信じがたい快挙のストーリーなのでありました。やっぱり人間は、信ずるに足る素晴らしい存在なのだ。そう言って江戸の庶民達は忠臣たちの「野蛮な行為」を褒め称えたのでした。日頃の鬱憤を晴らすように、腹の底からの快哉を叫んだのであります。人間、口では立派な御託を並べ立てているが、実際にはからきしだらしがない、唾棄すべき御仁ばかりだ。そんな風に、半分以上諦めかけていた人間性への儚い信頼が、ものの見事に実証されたのですから。― このように書いてきますと、したり顔で「あの赤穂事件は全容が解明されておらず、従って史実ではない。史実でない事柄を前提にして論を立てるのは間違いである」と言った横槍を入れてくる物識りが必ず一人や二人は出て来て、非常に迷惑な思いをさせられるのですが、注意深く読んでくだされば解る通りに、忠臣蔵のストーリーが史実であるか、それともフィクションであるかを問題にしているのではありません。人々がこの事件をどのように受け取ったのかをテーマにしているのです。私などは昭和の時代に生まれて、芝居や講談、浪曲、映画などを通じて、そして成人してからはテレビドラマのプロデューサーを生業としましたので、お世話になったフジテレビの大作ドラマを観て、素朴な庶民のひとりとして素直に感動し、涙さえ流しているくらいのもの。誠に良く出来た「お話」であり「ストーリー」なのであります。人間として生まれたからには、出来れば自分もこのように生き、行動したいもの。そう思わせる実に「ウェルメイド」の完成した物語なのであります。敢て言えば、赤穂浪士と一般大衆とが共同で作り上げた、完璧な美談なのですね。君、君たらずとも、臣たるべし(主君が立派な殿様でなかったとしても、家来たる者は、臣としての誠、忠義を尽くさなければならない)とする、儒教の教えを忠実に実践したもの。 ここで、所謂「忠臣蔵」の内容を全く知らないお若い方々などに、ごく掻い摘んで粗筋をご紹介しておきましょうか。元禄14年(西暦1701年)3月、江戸城松の廊下において播州赤穂城主・浅野長矩が高家吉良義央を傷付け、改易切腹を命じられる。そして、翌元禄15年12月に浅野内匠守の遺臣・大石良雄ら四十七名が本所松坂町の吉良邸に押し入り、吉良上野介を襲撃して復仇。翌年、大石たちは切腹を命じられた。 念のために申し添えますが、私は人間として「主君の敵討ちをする」のが最高に素晴らしい行為だ、などと主張しようとしているのではありません。時代により、国や土地柄によって、又置かれた立場によって具体的な生き方の在り様は様々でありましょう。しかし、人間として立派であり、理想的な生き方と誰もが無条件に認める例は稀でありますが、その典型の一つとして赤穂事件を取り上げてみたわけであります。
2015年06月04日
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