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第 五 回 目 従って、山川・草木、つまりは、この世に存在することごとく全ての物は、例外なく己の本来具備している無限の可能性を、十全に発揮しさえすれば、完璧にして理想的な存在への道が、まっしぐらに開かれている。であるからして、人間もまた、一人の例外もなく、倖せで尊厳に満ち満ちた 理想的な幸福 を実現する条件を、無条件で与えられているのだ。皆さん、喜び勇んで、ご自分の輝かしい生を、生命力をフルに発揮しようではありませんか。否、そうと知らされたら、嬉々として自己の人生を、前向きに、積極的に、構築する努力を怠るわけにはいきませんでしょう、云々、…。 この大層ポジィティブな考え方の延長線上で、野辺地町の地域おこし、町の振興策問題を捉えて見るときに、根本の所では、要するに住民・町民自身の意識の在り方の如何が、俎上に上げられなければならないことが、理解できるのでありますね。つまり、人々が思いを一つにして、目標に向かって火のような情熱を傾注できるか、どうかの問題に帰着するわけなのでありますから、手段は二の次、大雑把に言ってしまえば、どうでも宜しい。即ち、持続的に、継続して努力出来る対象であれば、どの様な事柄でも大差ない。しかも、ただ一つだけではなく、手段が複数あっても構わないのですよ。ただし、野辺地町に固有の、特徴的なローカリティ・土地柄を百パーセント掘り起こせるものがベストなのであります、当然ながら。 また、少し先回りして釈明致したいと思うのですが、上北郡の野辺地町だけが発展し、繁栄すればそれで良いのだ、などというケチな根性はこれっぽっちも持ち合わせては居りませんので、念の為に申し添えて置きたい。東北のちっぽけな、近い将来に消滅するかもしれない候補地に、リストアップされている場所が、その積極果敢な行動によって注目を集め、世界的な有名スポットに成り得るとすれば― 私・草加の爺めは、そうなることをこの目で見届けたい、少なくとも大繁栄の礎だけでも地元の方々とご一緒に築きあげたいと本気で、真剣に考えておりますが、その暁には、地球上のどの様な場所でも同様な、素晴らしく建設的な事業が可能なのだということの確かな証明に、その希望の記念碑を打ち立てることを意味する筈。仇や疎かには出来ないではありませんか、本当に。 ついでに申し添えますと、例えば映画やテレビ、ライブでのスターだけが 輝いて、美しい のではなく、誰もが輝けるし、チャーミングになり得る大いなる可能性を秘めている。普通に ブス だと評価されている女性でも、ダサいと自他共に認めている 醜女(しこめ)・醜男(ぶおとこ) でも、内面から光り輝くように努力さえすれば、誰もが一様に スターのように素晴らしい存在 になり得るのであります、現実に。現在、美人とか、イケメンとか呼ばれているのは、単なる流行の顔なのであり、容姿なのであるに過ぎません。本当の自信と、それに伴う内面からの「光り輝き」さえ発揮すれば、容易に 美人・美男 になることが可能なのであります、実際は。殆どの人が、醜悪な 人真似・猿真似 ばかりしているので、可能性として潜在的に 存在している無限大の魅力 を引き出せないでいる。磨けば宝玉となる原石をその儘で放置して、その真の美質を引き出すことを放棄した状態のままでいる。本当に、実に、残念至極な事態でありますね。 ところで、日本の古代人は、「罪・汚れ」を「御祓いや禊(みそぎ)」で拭い去り、元の 清らかで健全な 状態に戻すことを願い、実行した。それは神話によれば、黄泉の国に亡くなった妻のイザナミの命を訪ねて行った後で、イザナギの命が海岸で身を清めた 御身(みみ)の禊(みそぎ) に始まるとされます。 キリスト教では 原罪 という観念があり、一般に「アダムとイヴから受け継がれた罪で、全人類に染み渡っている」とされています。つまり、人間は生まれながらに 罪人 であるとする考え方でありますね。キリスト教では、生まれながらに原罪を持っている人間を救済するために、イエスキリストが救世主として神から遣わされたとしています。そしてイエスキリストは、人類すべての罪を自らが背負って、十字架上で亡くなり、三日後に復活を遂げたとされる。そのキリストを信じることで、人間の原罪は贖(あがな)われる、神に許されるとするのが、キリスト教の救済論でありますよ。
2015年08月31日
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第 四 回 目 そして、古代人がその有難い 神様方 に、私ども人間の感謝と尊崇の誠を捧げるのに、どのような手段を以てしたのか。その手掛りを 祝詞・寿詞(のりと、よごと)の言辞から探ってみたいと思います。「祈年 としごひ の祭」の祝詞には、立派に実ったお米と、その米を醸して製造したお酒、海の幸、山野の幸、更には様々な着衣を作る立派な織物や白い色をした珍しい動物などを、神々に対するプレゼントとしてお供えした事が記されています。奥(おき)つ御年(遅く実る穀物、稲)が穀物類の代表として特筆されているのが印象的でありますよ。また、神々の代表格としては むすび(産み出す力の神霊、万物が出現する原動力の神) の神様が挙げられていて、神魂・かみむすび、高御魂・たかみむすび、生く魂・いくむすび、足る魂・たるむすび、玉留魂・たまつめむすび、などの名前が例示されています。 要するに、古代人がその当時の、時点での 最高に価値ある物 と考えた品物を、最上級に慎ましく、恭しい、畏敬の念を込めて、神々の御前に献げる。その全体の行為が神々によって嘉せられる、喜んで受け入れていただけると解釈した。人間には神々の奥深く、神秘のベールに包まれた 御心 を推し量り、忖度することは不可能であるから、人間の側として出来得る最高度のサービスとホスピタリティとで接する。そのこと自体が非常に大切な事と、当時の善良なる人々は解釈していたのでありましょう。 私はこの様な、日本古来の 神道 に見られる精神のあり方を、大変に素晴らしいと考えますし、誇らしくさえ思っております。今、仮に「神道」と古代人が嫌った 道 などという表現を敢えて使いましたが、仏教やキリスト教、イスラム教などと呼び習わしている通常の常識に、便宜的に従ってのことにしか過ぎません。皆様方もよくご承知の如く、我国に固有の 神ながらの道 は「道無きが道」なのでありますから。私は古代日本人の底抜けに楽天的で、手放しで現世を肯定する心根が大好きであります、実際に。豊かな緑の森と、清らかで波静かな四海に囲まれた日本列島は、正にこの地上での楽園、極楽浄土そのものであったでしょうからね。 そこで、青森県上北郡の野辺地町の問題に戻りましょうか。人為的で、小賢しい、小手先だけの 町おこし・地域振興 の策などで「悪あがき」をしてみたところで、なるようになる、のであって、所詮は 焼け石に水 でしかない。その様に、意地悪く、突き放した見方も当然の如くに存在するでありましょう。しかし、私は、今の私は断然その見方を拒否するのであります、徹底して。 即身成仏、山川草木悉皆成仏―、仏教の方で非常に有名な文言でありますね。私は次のようにこの言葉の内容を理解して、その徹底した人生肯定の思想に両手を上げて賛成する者であります、はい。 先ず、即身成仏でありますが、この世に生を享けた人間は、誰でもが例外なく、理想的な生活、最高の生き方が出来る様に「大日如来」によって保証されている。あとはただ、銘々が、それぞれの仕方でその限りなく素晴らしい人生を、実現させる道を一筋に、精一杯に辿ればよろしい…。
2015年08月26日
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第 三 回 目 それはさて置き、実際の「運命峠」とは原作の柴田錬三郎によれば、東京の渋谷辺にあった、一寸した坂のような場所なのだそうであります。劇的な名称から考えるときに、ちょっと意外な気がしたのですが、私たちの人生を例に挙げた場合でも、案外に 運命 というような形容詞を附けたくなるような、一種ドラマチックな瞬間や時期などというものは、当事者には通常の日常とそれ程変わりのない、平凡、平坦な印象しか与えないものなのかもしれませんね。それが、或るとき突然に、過去を俯瞰して振り返った際に、俄かに強烈な色調を伴って、目に映じ、驚くような意味合いを現ずるのでありましょうか…。 この物語を書いている今も、私自身が 不思議さ の感情を抑えることが出来ないでいるのであります、実際のところ。何者かによって、書かされている。書くように唆されている―、そんな風に感じているのですから…。しかしながら、私はこの文章を 主体的に 書き進むことに変わりありませんで、私の人生が、延いては人間一人一人の実人生がそうであるように、この物語もまた、絶対者との 共同作業 として紡がれ、次第に全体像を表して行くことになるのでありましょう。 万葉集、巻の第十一「正・ただに 心緒・おもひ を述ぶ」からの抜粋、 たらちねの 母が手離れ 斯くばかり 爲方(すべ)なき事は いまだ爲(せ)なくに(― この世で誰よりも深く私のことを可愛がってくれた母親の許を離れて、一人立ちしてから、これほどまでにどうしたら良いのかに、困ったことは経験したことがありません。お願い、誰か助けて下さいな…) 人の寝(ぬ)る 味眠(うまい)は寝ずて 愛(は)しきやし 君が目すらを 欲(ほ)りて嘆くも(― 世の中の他の人たちは熟睡している頃だというのに、私は今、愛しい、最愛の人のことを思って、目を瞑ることさえできずにいます、恋しくて、切なくて、一目だけでもあなたのお顔が見たくて、死にたいほどに恋いこがれている、わたし…) 心には 千遍(ちたび)思へど 人にいはぬ わが戀妻を 見むよしもがも(― 心の中では、千回も、かず限りもなく思っている私の、愛しく、可愛い、心の妻…、でも、決してその事を他人には言わないでいる。ああ、会いたい、恋しくて、切なくて、この胸が張り裂けそうだ、会いたい、この胸に恋する妻を抱きしめたい。願いは、ただそのことだけ) 何時(いつ)はしも 戀ひぬ時とは あらねども 夕(ゆふ)かたまけて 戀は爲方(すべ)無し(― 一日中自分は愛する妻、恋するお前のことを想い続けているのだが、妻問う時刻、夜の闇が辺りに近づいて来るとき、切なさが胸に溢れてきて、何も手につかない…、恋とは始末に負えないもの、もう、お手上げだよ、全く) わが後に 生れむ人は わが如く 戀する道に 會ひこすなゆめ(― 未来に生まれてくる人々に、今の私は心の底から忠告したい、決して恋などというものに陥ってはならない、と。こんなに死ぬよりも遥かに辛い、悲しい思いをしないで済むからね) 何せむに 命継ぎけむ 吾妹子(わぎもこ)に 戀ひざる前(さき)に 死なましものを(― なんだって命を継いで今日まで生き長らえてきたのであろうか、こんなにも苦しく、切ない思いを経験するなんて…。これ程までに耐え難い、胸が張り裂けそうになる思いを味わうくらいなら、いっそ、吾妹子 最愛の妻 と出会う前に死んでしまっていたら、どんなにか楽であったか知れないのに…) 愛(は)しきやし 誰(た)が障(さ)ふれかも 玉鉾(たまほこ)の 道見忘れて 君が來まさぬ(― ああ、愛しくも、恋しいあなた、あなたのおいでを、今か今かと恋焦がれている私が、か弱い女の私が本当に可哀想でなりません。私の夫がお見えにならないのは、どこのどなたが邪魔をしているのでしょうか…。通い慣れた二人の仲を結ぶ大切な道を、夫が忘れる筈は金輪際ありませんからね) 君が目を 見まく欲(ほ)りして この二夜(ふたよ) 千歳(ちとせ)の如く 吾(わ)は戀ふるかも(― 恋しい、恋しい、心の底から恋い慕っている最愛の旦那様、貴方様にお会いしたい思いに駆られ続けて、この二晩が丸で千年もの長い年月のように感じられました。本当ですよ、どうか、解ってくださいね、こんなにも貴方のことを切なく、恋している私のことを) うち日さす 宮道(みやぢ)を人は 満(み)ち行けど わが思ふ君は ただ一人のみ(― 天下をお治さめになられる天皇様の宮殿に続く大通り。その大きく、立派な宮道を大勢の立派な方々がお通いになられていらっしゃいますが、私が心底恋しいとお慕い申し上げている御方は、たったお一人で御座いますよ。ただ、おひと方のみ) たまゆらに 昨日の夕(ゆうべ) 見しものを 今日の朝(あした)に 戀ふべきものか(― ほんの僅かな出会いでしかなかった、昨日、世にも麗しい乙女との邂逅は…、がしかし、この私の胸の中で、火のように激しく、急激に燃え広がる戀の炎は、なんとしたことであろうか。今朝はもう、手がつけられない程に燃える上がり、身を焦がしているとは…) なかなかに 見ざりしよりは 相見ては 戀しき心 まして思ほゆ(― ほんの束の間の逢瀬でしたね、でも、あなた様を知った今は、遠くから憧れていた時よりも、尚一層、あなた様を恋い慕う胸の火が、野火のように燃え広がって、私の、乙女の心を焼き尽くしてしまいそうですの、どうか後生です、助けてくださいませ) このように取り上げてまいりますと、切りがありませんので、今はこの程度で止めておきますが、人が人を愛し、恋すると言うことは、本当に素晴らしい、有難いことであります、実に。そして千年以上前も現在も、真実に恋愛する者の心情は少しも変わらない、ある種、普遍的な特色を備えている様に思われてなりません。また、この様な男女を造り出して下さった 神様 に心の底から感謝しないではいられませんね。
2015年08月22日
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第 二 回 目 余談ですが、私は悦子の「顔」に惚れ込んだわけでは、決してありません。結婚後、九歳近く年の離れた二人の結婚がよほど不自然に感じたのでしょう、殆ど、全員が「美人の悦子に、ぞっこん惚れ込んだ私が、猛烈にアタックした」と思い込んでいたような節が、どうも見受けられました。しかし、それはとんだ誤解でして、真相は、「摩訶、不思議!」、全く逆だったのですから。では、何故、悦子は「良くも知らない」私ごときに、「急激にチャーム」されたのか…? それは、恐らく悦子自身にも解らない、神のみぞ知る、事柄だったのではありますまいか、多分…。 It was many and many a year ago In a kingdom by the sea, That a maiden there lived whom you may know By the name of Annabel Lee; And this maiden she lived with no other thought Than to love and be loved by me. I was a child and she was a child, In this kingdom by the sea: But we loved with a love that was more than love- I and my Annabel Lee; With a love that the winged seraphs of heaven Coveted her and me. エドガー・アラン・ポーの有名な「アナベル・リー」と言う美しい詩の出だしの部分です。拙い訳ですが、参考のために日本語に翻訳して見ましょうか。 昔、昔の、その昔 海のほとりに ひとつの王国が あったとさ、 あったとさ。 そこには一人の乙女が住んでいて、ひょっして、アナベル・リーと言う名前をご存知かも知れませんが、乙女は、私を愛し、私から愛されること以外、何も考えもせずに、生活していたので ありました。 私はほんの子供でしたし、乙女もまた、子供でありました、この海辺の王国にあっては…。しかし、二人は恋愛以上の純粋な愛情で結ばれていたのでした。それが理由でした、私と、アナベル・リーにとって―天上に住む、翼を持った天使達が、私たち二人に、その愛以上の愛で結ばれた私と、アナベル・リーに激しく嫉妬の炎(ほむら)を燃やしたのは…。 飽くまでも、心情的な意味合いでですが、悦子と克征の新婚生活のページには、このポーの「アナベル・リー」を栞として挟んで置きたいと思うのです。ついでながら申し添えておきますと、あの名画「ローマの休日」で有名なオードリー・ヘップパーンの顔写真を見るたびごとに、悦子の顔を連想していた、つまり悦子に生き写しだ、と感じていた当時の私でしたよ。さらに、付け加えれば、日活の美人女優の梶 芽衣子にそっくりだと形容する人々が大勢いたのでした、嘘ではありません。 いのちふたつの なかに生きたる 桜かな(芭蕉) 山路来て 何やらゆかし すみれ草(芭蕉) 寂しさに たへたる人の またもあれな 庵並べむ 冬の山里(西行) 俳聖の名句を拝借して、私どもの仲を表現すると、上の如きものになるのであります。これまでの人生行路は決して平坦でも、無風でもなかった。互が、互いに「すみれ草」の爽やかな安らぎを、一服の清涼剤を見出していた。西行法師の絶唱に言う「寂しさに、耐えてきた」同士の、稀に見る、不思議な邂逅…。 「 運 命 峠 」 遠く望めば 萌え立つ 緑 たたなわる山 峰 また 峰 ここは 峠 風は 今日も 明日を語り 過去たちは 尽きせぬ 青春の 光の中に 踊る… Live with me, forever; And be my love, forever. 男の 運命(さだめ)を 賭ける 時 一途に 真実(まこと) 傾けて たぎる血潮と 熱情に いのち 揺さぶり 生きるのみ 見ぬ 父を 恋い 母親 慕う 友と 別れて 涙と 会う 運命の 峠 月は やがて 西に 沈み 星たちは 静かに 惜別の 宴のために 光る… Bye my love, so long; And see you again, see you. 女の魂(こころ)を 火と 燃やせ 優しさ 献げ 尽くしては いのちの 泉 汲み上げて 大輪(たいりん)の夢 花 咲かす これは私が1993年(平成5年)にプロデュースしたフジテレビの三時間特別番組『運命峠』の 幻の主題歌 の歌詞なのですが、作詞も勿論わたし・古屋が物したもの。主演の松平 健さんに歌って戴く予定でしたが、事情でレーコードの吹き込み直前で中断した、残念な思い出があります。残念といえば、この特番が本放送の途中で皇室の特番が急遽入ったために、中断された。フジテレビの大プロデューサーの能村庸一氏が 断腸の思い と形容されて、その番組担当責任者としての無念さを表明された、思い出なども蘇って参りますね。
2015年08月18日
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第 一 回 目 これは、タイトルにも示す通りに「青森県 上北郡 野辺地町」を地球上のあらゆる人々に 知らしめ、そしてこの土地の特色と、そこに生活する人々の魅力を宣伝することが、第一義的な目的であります。そしてそれは神聖なる神様の 思召し によって行われる、非常にユニークな活動なのであります、はい。 著者の 葉月 二十八とはそも、何者であるか?その著者が、なぜこの様な文章を書くようになったのか?何故、今 平成27年でなければならないのか?その他、諸々の疑問が、次から、次へと浮かんでまいりますが、それはこの「ものがたり」をお読み戴く過程で、次第に読者の皆様方にご理解、ご納得いただけるのではないかと、愚考いたしておりますが、取り敢えず、一つの宣言をご披露させていただきたいと、存じます。 これは又、日本古来からの伝統的な 神 のご託宣に基づいて行われる、非常に厳粛な、また未曾有な程に 破天荒な行為と称さなければならない性質のものなのであります。 なんと 大胆な! そしてまた、何と非常識な 言挙げであることか…、著者自身が、書く前からこの様に思うし、ある種の躊躇さえ感じながらの 行動 であるわけなのですが、それもこれも「神様の思召し」とあらば、まあ、仕方がないか! ? えいっ、いっそ、この様な 釈明 めいたことなど、一切省いてしまって、「神様の、言う通り!」と、偉大なる演出家を信じて、著者は出来るだけ 面白い 文章を専心に、記述することを心がければ良いのだ―― 、と、自分自身に言い聞かせている次第であります。 そもそもの、きっかけは「かっちゃん」と「えっちゃん」との不可思議な出会い、と言わないわけには行きませんよ、どうしても。 二人のそも馴初めは,昭和46、7年頃、場所は東京の新宿。そして、克征(かついく)が30歳、悦子は21歳、殆ど、出会い頭の結婚でした。つまり、両者共に相手のことを、あまり良く知らない状態で、気がついたら一緒に生活を始めていた。一応、友人知人達が会費制で結婚披露宴を開催してくれた。場所は銀座に近い中央会館。仲人はフジテレビのプロデューサーの能村庸一・雅子ご夫妻。主賓には東京放送映画部の橋本洋二氏、俳優の篠田三郎その他…、と書いてまいりますと何か華やかな、豪華な、その種の結婚式と勘違いされるかも知れませんが、至って質素で、慎ましい、そしてハートウォーミングなそれでありましたね。 こんなエピソードがあります。克征は結婚した当時、TBS(東京放送)の月曜日放送の「若い!先生」のプロデューサーとして活躍していましたが、そのメインの監督が元大映の枝川 弘氏でした。世田谷の砧の撮影所で撮影中に、近々結婚しようと思っている女性がいること。そして、その彼女は新宿の駅近くの居酒屋を経営していること、などをお話ししたところ、突然に、「その女性を私に会わせなさい」と仰ったのでした。ベテランの映画監督は若手プロデューサーとして売り出し中の私を非常に可愛がって下さいまして、世間知らずの「お坊ちゃん」が飲み屋のママに「騙される」ことを、過剰に心配されたのでしょう。撮影が終わったあと、タクシーで枝川監督とご一緒して、新宿の繁華街にあるその店に行きました。ノープロブレムでした。監督の誤解は直ちに氷解していました。若い頃には画家を志望されていた監督は、悦子の顔を眺めながら、「なかなかの美人ですよ」などと呟やいて鉛筆でデッサンを始めていたのですから。 余談ですが、私は悦子の「顔」に惚れ込んだわけでは、決してありません。結婚後、九歳近く年の離れた二人の結婚がよほど不自然に感じたのでしょう、殆ど、全員が「美人の悦子に、ぞっこん惚れ込んだ私が、猛烈にアタックした」と思い込んでいたような節が、どうも見受けられました。しかし、それはとんだ誤解でして、真相は、「摩訶、不思議!」、全く逆だったのですから。では、何故、悦子は「良くも知らない」私ごときに、「急激にチャーム」されたのか…? それは、恐らく悦子自身にも解らない、神のみぞ知る、事柄だったのではありますまいか、多分…。
2015年08月18日
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前回まで、小難しい 理屈を、辛抱強くお読み頂いた、大勢の熱心な読者の方々に、まずは厚く御礼申し上げます、衷心より。そして更に、奥深い「実践編」へと移りますに先立ち、一応の締めくくりをしておきたいと考えます。私の提唱する 新キャリア論 は詳しく述べだしたらきりがないほどの人生に対する本質論であり、非常に奥深いものであります。 しかし、お読みいただいてお分かりいただけた様に、現在の私には差し迫った 使命 がありまして、もうすぐ72歳の誕生日を迎える老人にとりましては、時間があまりにも不足して感じられます。何も、焦っているわけではありませんで、現在ただ今の私に可能な ベスト を力の限り尽くそうと単純に考えて居るばかりなのでありますが、数年前から取り掛かっている仕事の完成を目指してまっしぐらに突き進もうと、覚悟のほぞを固めている次第でありまして、次回からは「新 キャリア論」のいわば 実践編 を書き連ねて参る所存でありますので、今後とも宜しくご愛読のほどお願い申し上げます。 さて、どの様に立派な理論でも、それが単なる理論だけに終わってしまったのでは所謂 画餅 ― 文字通りに絵に描いた餅で、お腹の足しにはならない。つまり実用として通用しない。それでは、単なる 屁理屈 と選ぶところが無くなってしまうでしょう。 そこでお手本を、と言ったような 小生意気 な所業ではなく、「世のため他人のためになる」 事柄を、真実、世間のお役に立つ 仕事 らしい仕事を実地に完成させてみようと、実に、本心で、真面目に考えての行動であります。これには心強い、本当に頼りになる「お方様」が後押しをしていて下さいますので、大丈夫間違いなく 成功 致すのですが、一人でも多くの方々の「善意の結集」が何よりも大切と考えますゆえに、この拙いブログの貴重な読者のご協力をえまして、堂々と、立派にパフォーマンスを遂行致して行く所存です。どうかこれまで以上にご指導、ご鞭撻の程、衷心よりお願い申し上げます、どうぞ! 私の「新 キャリア論」の眼目は、地球村視点のパラダイムを各個人が新たに持とうではありませんか、という呼びかけと、利益という金銭価値至上主義を離れて、隣人への思い遣りや優しさに基づいた働きかけを、それぞれの立場から発想し、可能なところから直ちに行動に移そうではないか、という提案でありますね、はい。 そして、次回からの続編のタイトルは「神慮による 野辺地ものがたり」と題しました。どうぞご愛読賜り、周囲の皆様方にも精精、ご吹聴下さいまして、このプロジェクトが弥が上にも盛り上がりを見せますように、念願いたしまして、次回への橋渡しと致しますよ。
2015年08月11日
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しかし、ご承知のように、現実の様相は決してそのようにはなっていない。理論や理屈の上での真実が、現実界の実相としては姿を現してはいない、少なくとも、これまでのところは…。更に、身も蓋もないことを言ってしまえば、今後も、永遠に 理想的な在り方 は実現しないでありましょう、十中八九は。しかし、それはそれで仕方のないことで、だからと言って、私たち一人ひとりが理想に向かって懸命に努力を続けることが 無意味だ ということにはなりません。大いに意味のあることであり、それ以外に私たちの最高の幸福を齎すものは見出し得ないでありましょう、人間が人間であることをやめない限りは―。これは蛇足の様にして聞こえるかもしれませんが、人間の機械化、ロボット・サイボーグ(人造人間)化現象は加速の一途を辿るでありましょうし、その行き着く先は人間そのものの全否定であります、必然的に。人間の弱点はそのままで、人間の最大の美質・長所なのでありますから、実に。生病老死は、取りも直さず人間性の最大の特徴であり、最高の精華なのでありますよ、実際、全く。皮肉、矛盾、不合理…、…。いえ、いえ、そうではありませんよ。唯、無心に、無邪気に、純真に、初心に帰って、余分なものを全てかなぐり捨ててしまえば良いのです、邪気を払って。これは決して、自然や原始への回帰の勧めを意味してはいませんで、人類が誇っている文明や文化に一定の距離を置いて接する態度への、注意の喚起であるに過ぎません、ただ、それだけにしか過ぎない。 一切唯心造 吾唯足知 一切はただ、心がつくるのみ―、と読んで良いのですが、「イッサイユイシンゾウ」と禅家の方では読み習わしているようであります。また、われはただに、足るを知るのみ―、これも禪の達人の言葉として、普通には「不平不満を戒める言葉」と解釈されているのですが、のみならず、この宇宙は豊かで、奥深いのであるから、そこに生かされて在る自分は、もうすでに十分満足している、と極めて積極的に解釈することも可能でありますね。地獄も極楽も無い。苦しみも、楽しみもない。貧者も富者もまた無い。自分に関わりのあるただ一つの大切なものは、自己の心というものだけである。そう喝破すれば、たちまちに我は安心立命の境地に立っている。どこにでも行けるし、何処にも行かないでもよい、わけでありますよ。美しい 水の惑星の上で 私たちは何と恵まれた生を享受していることでしょうか…、只、ただ、感謝あるのみ。如何でしょう? ご納得いただけたでしょうかしら。 海は お母さん… 人は 生まれて 生きて 死んでいくの どうして そんなに 悲しい顔をするの… ラ メール ラ メール ラ メール ラ メール これは私が若かりし頃に携わった、テレビドラマの挿入歌の一節ですが、取り分け私たち日本人は美しく、豊かな海に囲まれた実に豊饒な日本列島に、麗しく、滋味掬すべき生活を送ることを長い間にわたって許されて来ています。これは、実に人類史上でも稀有な、奇跡的な事実でありますね。
2015年08月06日
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個人の死 その積極的な意味 ここまで書いてまいりますと、どうしても触れておかなくてはならない 命題 があることに気づきます、どうしても。それはこの「新 キャリア論」が単なる就職方法論や職業分類や、その他労働や仕事に関する様々な考察・研究などにとどまるものではなく、広く、乃至は、深く人間の生き方を探求する 人生論 であることに由来します。人はどのように生きたらば良いのか?この人類が人類としての自覚を持ち、その積極的な生き方を模索し始めた太古の昔から、今日に至るまでの長い時間の中で真剣に、そして執拗に答えを、正答を探求し続けて来た、まさにその伝統を受け継ぐもの、その末席に連なる真摯なる 研究・試み の一つであるからにほかなりません。そしてその際に、いの一番に問題となるのが、生病老死に伴う種々の苦痛であり、恐れ、不安などでありますね。中でも一番手強いのは「死」の問題でありましょう。生ある者には必ず死あり、人間は死という暗く悲しい宿命を免がれ得ない存在である―。これは永遠に変わらない私たちの在り方・生存の実相であり、その意味では絶対的な真実と呼んでも差し支えないもの。 しかし、事実は変えることが不可能であっても、その認識において、或いは、意味において変化があれば、その様相は一変するかもしれませんね。「暗く、悲しい」が例えば「輝く未来を引き寄せる」という形容に変わるかもしれませんし、「宿命」は「希望や安らぎ」という表現に置き換えられる可能性が出てくるやも…。 そんなマジックのような芸当が容易に実現可能なのでありましょうか、実際のところ。答えはイエスであり、同時にノーでもありますよ、はい。何故にイエスなのかは、これから少し丁寧にご説明いたしたいと存じますが、ノーのケースもあり得るのは、それが飽くまでも個人の努力や心懸け次第でなのであり、考えたよりは「容易」ではないかも知れないからに過ぎません。ですから断定的にイエスと言い切ってしまっても一向に差支えはありません、事実上は。 もしかしたら、私の物言いが何か持って回った、奥歯に物が挟まった様な言い方に聞こえるかも知れません。しかし、考えてみてください。私は世間の強固なる一大常識と化して、ビクともしない壁、或いは、磐石な崖を相手にして、単身、しかも徒手空拳にして巨大な風穴を穿つといった、謂わば 離れ業 を演じようと公言しているようなもの。傍から見たら、笑止千万、狂気の沙汰としか形容できない 難事業 なのでありますから、それを自覚している私・草加の爺としては、飽くまでも用心深く、可能な限り説得力のある説明を開陳しなければ、収まりがつかなくなってしまうことは、まあ、火を見るよりも明らかでありましょう。実際、私が臆面もなく主張しようとしている事柄を結論めいて申し上げれば、次のようになりますよ。 個人の死は、輝く未来を引き寄せる、希望となり、安らぎともなる、この上もなく素晴らしい、又、願ってもない好ましい事柄である、と。ですから、人はその様な死を実現するために、自己の人生を、一日一日の時間において、可能な限り 完全燃焼 させなくてはならない。さらに言えば、その様な生き方を目指して、自らの生を完結させ必要がある。それが理想的な死というものの在り方というもの。従って、理想的な人生を全うすることが、直ちに完全な死を実現させることに直結している。そういう事を意味していますね、つまりは…。 個人は全体のために…、全体は… 空 即 是 色、色即是空 = 空なるものが我々の住む世界であり、我々の住む世界には関係性、だけがあって、本質(イデア、永遠に変化しないもの)というものは存在しない。仏教ではこのように喝破しておりますので、各人が全体との関係において最も重要な役割を果たし、また、全体は無数にに存在するそれぞれの個人を活かすべく、設定されている。否、個人を最大限に機能させるために存在している、理由(わけ)ですから、部分と全体とに密接で有意義な関係性が有り、両者が相互に響き合って最高度のハーモニーを奏でるのは、当然といえば、これほど当然のこともないのですね、本来は。
2015年08月03日
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しかし、既に民間療法的な方法として、アートセラピー、アロマセラピー、アニマルセラピー、その他様々な試みが実行され、それぞれに一定程度の効果を挙げているようであります。それ以上に、差し迫った緊急性が求められる理由を、私は特別に強調せずにはいられないのであります。当然、ある程度のストレスや違和感などは、対処の仕方次第では積極的な、決してネガティブでない効果を引き出すことが可能でありましょう。が、もっともっと本質的な「負のエネルギー」対策を根本的に考えておかないと、私たちの全ての生産的でポジィティブな活動力、根源的な生命力そのものを根底から弱体化させ、枯渇させてしまう危険がつい目の前まで迫ってきている。否、私たちの殆どが既に津波に飲み込まれてアップ、アップしているような緊急事態に直面しているのだと、私・草加の爺は大いなる警鐘を鳴らしたいと思うのですよ。俗に「百八つの煩悩」と称するように、人間にはこの世に生を享けた瞬間から様々な欲望や苦痛の種が押し寄せてきては、生涯を終える瞬間まで苦しみを与え続ける。煩悩に悩まされ、いたぶられ、翻弄される。意識すると、しないとに拘らず、であります、実にたった一人の例外なしに。これは本当に恐ろしい、震撼すべき事態。拱手傍観していることなど到底許されないのですから。 この様な状況に対して、どのような対策が考えられるでしょうか?私見では、セリフ劇による劇場での治療という、古代ギリシア人が考案した傑出した手法があるのですが、現状では直ちにその理想を実現するのは不可能に近い。しからば、どうするか?ごく手近なところから、一歩を踏み出すこと ― 朗読(大きな声を出して読み上げること)から始めること。朗読の内容は各自の好みによって、詩、小説、和歌、戯曲など色々と考えられるでしょう。兎に角、行動を開始すること。落語に「堪忍袋」という演題がありますが、大きな声に出してパートナーへの不平不満をぶつけることが、非常なストレス解消になるという小噺ですが、効果という点からは大変に参考になる内容ですね。 「もてなし術」の涵養 「もてなし」とは、相手の状態をそのまま大切に保ちながら、それに対して意図的に働きかけて、処置することを意味するのが原義でありますよ。ですから、「もてなす」為にはその対象となる相手の現状に対する深く、念入りな「理解」が前提であり、不可欠の条件となります、当然…。今、当然と念を押しましたが、これは考えてみると、一見するほどには容易な事柄ではありません。もてなしの極意は、見ず知らずの 珍客 に対してこそ十全に発揮されて然るべき筈だからでありますね。従って、これは真面目に考えれば考えるほど容易い行為ではありません。それどころか、完璧を期そうとすればするほど至難な技だと、得心できるのであります、実際は…。又、もてなしも附き合いの一種であることを考慮に入れる時、よく持て成す為には、よく持て成される心得を会得している必要があるでしょう。つまりは、自己と相手との 阿吽の呼吸 がとても大切だという事が理解できるでしょうし、これは日本人が昔から得意とする伝統文化である反面で、自己主張を専ら先に立てる欧米人の不得意とする分野ではないかと想像されますよ。「和を以て貴しとなす」と喝破された厩戸皇子・聖徳太子はまさに偉大なる指導者でありましたし、今後益々その教えの大切さが「地球村の住人」のひとりひとりに深く、何時までも認識され続けるでありましょう、実際。和とは和合であり、調和、平和などを意味する本当に素晴らしい言葉でありますから。 そしてまた、持て成しの真髄は「痒い所に手が届く」、心憎い迄の相手に対する優しい気遣いであり、「痛くもない腹を探る」様な愚は決して犯さない、真実に情のこもった細やかな愛情の発露なのでありますね。そして又、お互いがお互いに対して十分に「持て成しの心」を発揮する前提条件として、相互理解ということが必須であります、是非とも。地球村の構成員が互いに理解を深め合うこと。これも言うべくして、実行はなかなかに困難な仕事であります。何故ならば、歴史が違っています、宗教、文化、習慣、風俗が異なっていますし、言語も風土も、食べ物の種類などあらゆるものが相違している。相互理解が如何に難事業であるかは、人類の長い歴史が如実に私たちに教えてくれているところ。がしかし、それが如何に難しい仕事であっても、私たちは辛抱強く、そして根気よく、その困難に耐えなければならない、石に齧りついても、何が何でも。それ以外に人類全体の繁栄は無く、人間の本当の意味の幸福は実現できないからであります、ええ。ですから、ここで言う「持て成し」とは特別な立場にある、特殊な人が発揮する それ では無くて、ごく普通の人が、日常生活で当たり前に普段から誰に対しても見せる、また見せなくてはいけないものなのであり、もてなしとは本来そうあるべき普段着の行動なのでありますね、実に。更に言うならば、そうあってこそ初めて世界平和の実現が、現実のものとなるでありましょう、はい。
2015年08月01日
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