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第 十九 回 目 いよいよ、道元禅師の根本思想を述べた「正法眼蔵」の核心に迫りたいと思いますが、その前に、私・草加の爺が殊更に大切だと感じている事柄について、是非とも解説してみたい、ともかくも。実は、上手く行くかどうかあまり自信がないのでありますよ。しかし、可能な限りの力を尽くしてみたい、是が非でも。 前置きはこの程度にして、本論に入ります。小学校の国語の文法で「指示語」と呼ばれている、「あれ」とか「それ」とか言う、あれ・それ に代表される言葉。これについて、もう少し突っ込んだ分析を試みてみようと思いつきましたよ。「あれ」は目の前にある一本の木であることもあれば、文章の前の部分に出て来た著者の 過去の想い出 の場合もある。「これ」と言って一冊の本を提示すれば、言われた方は容易に理解できますね。 しかし、「それ」が抽象的な夢に関するものであったり、哲学的な「イデア」だったりすると、俄かに難しくなりますよ。そして、蓬莱の島とか西方浄土とかの理解となると、人によってイメージする内容はまちまちでありましょう。がそれでも、曲がりなりにも 分かる ような気持には到達できるでしょう、何となくは…。 ところが、自分が見たことも、聞いたこともない、例えて申せば 井の中の蛙 にとっての 大海 はどうでしょう、蛙は海を「認識」可能でありましょうか?仮に、この私が「井の中の蛙」だとして、「誰か非常な学者」がいて、巧みな論法と博識を以て、かつかつながらに、朧ろげな「大海」の意味するところを 私 に分からせたとしましょうか。ここまではギリギリでセーフといたしましょう。 がしかし、であります。現代の宇宙物理学の最先端の理論、ビッグバンに始まる宇宙の大膨張をコンピューターでシュミレーションすると、どうしても、「無」から「有」が生じたという、一見 馬鹿げた 結論に到達せざるを得ない、と言いますから驚きです。そればかりではありませんで、われわれが存在するような 無限の大宇宙 の如きは、次から次へと「ブクブクと涌き出す泡」の様に 無数に発生しているに相違ない、と言う。賢明なる あなた は「宜なるかな」と直ちに頷かれるかもしれません。しかし、蛙である私には理解不能ですね、全く、実際、残念ながら。 まだ有ります、理解不能な事柄が。それも、五万とあるのですから面倒至極。 極めて卑近な例を挙げますね。私は四十歳を過ぎてから、花粉症を発症し、今日迄殆ど一年中花粉症の症状に苦しめられて居ります。家内が以前に半分冗談交じりに、「あなたは変わり者だから、その様な症状に取り付かれるのですよ」と、小馬鹿にしたような発言をして、内心で強い憤りを起こさせるような目に遇わせていました。ところが、その家内が或るとき突然に 花粉症 を発症し、「御免なさい、あなたはこんなに苦しい思いをずっとしていたのですね」と非常に素直に謝ったのです。溜飲が下がる想いと同時に、無経験という事はこの様な「罪な」誤解を招来するのかと、妙に納得したものでありました。 もう一つ私自身の体験から、分かり易い例をご披露致したい。若い時分、文学かぶれの一人として、手当たり次第に乱読をした。日本に近代批評を確立した小林秀雄の評論なども目を通してみた。所がどっこい、よく理解できない。恥ずかしいので、よく分からになどとは噯気(おくび)にも出さないでいた。しかしながら内心では忸怩たるものが胸中に蟠っていた。で、何回も時を置いて、繰り返し読んだ。やはり、四十歳を過ぎてからでしょうか、胸の痞(つか)えが下りた様に良く解るようになったのは。要するに、私の知識不足が災いしていたのであります、唯それだけのこと。
2015年10月28日
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第 十八 回 目 「メタフォーア(隠喩、一つの観念を表現するのにそれと共通する性質を持つ他の観念を表す語を用いること)とは、言語の意味体系の成長発展に、初動をあたえたもの。言語は、物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい 意味 を生み出していく 働き である。物の名も、物に附した単なる 記号 ではない。物の姿を、心に映し出す 力 である。」 この様な深い言葉に対する理解から、宣長の言語観の基礎にある考えに関して、こう書いている。 「言葉の生まれ出る母体は、私達が生きてゆく必要上、われ知らず取る 或る全的な態度 なり 体制 である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって生まれ出たものではない。 「礼」とは、実情ヲ導ク その シカタ だ。これは言葉なき歌とも言える。 歴史も言語も、上手に解かねばならぬ問題の形で、宣長に現れた事はなかった。それは 古言を得る という具体的な仕事のうちで、経験されている手応えのある 物 なのだ。正直な心で正視すれば、本質的に難解な表情が見えてくる相手であった。 歌 とは、意識が出会う、最初の 物 だ。シタガッテ、人に聞(キカ)する所(言語に本来備わる表現力の意味であり)、もっとも歌の本義にして(ソノ完成ヲ、目指ストコロニ歌の本義があるの意)、歌は人の聞きて感(アハレ)とおもう所が緊要也。 詠歌の第一義は、心をしずめて妄念をやむるにあり。 歴史を知るとは、己を知る事だ ―― 総じて、生きられた過去を知るとは、現在の己の生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味うことが出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だ。 物のあわれにたえぬところよりほころび出て、おのずから文(アヤ)ある辞 ― と歌を定義する 宣長の歌学 は、表現活動を主題とする 言語心理学 でもあった。 宣長が着目したのは、言ってみれば、私達を捕らえて離さぬ環境の事実性に、言語の表現性を提げて立ち向かうという事が、私達にとっては、どんなに奥深い、基本的な経験であるかという事である。 言葉とならない 心情(ココロ) を感ずる事は、誰にも出来はしないし、感ずる事の出来ない心情(ココロ)など、人生に在り得る筈もない ―― とする宣長の確固たる思想。 宣長の有名な「物の哀」論の核心は、言わば、それが、「物の哀」とは何かという感情論ではなく、「物の哀を知る」とは何かという 認識論 であるところにある。と。 つまり、宣長の思想は「詠歌は万人に必須な基本的な教養である」と「歴史を知るとは、結局、己自身を知ることだ」と結論附けております。 いよいよ、道元禅師の根本思想を述べた「正法眼蔵」の核心に迫りたいと思いますが、その前に、私・草加の爺が殊更に大切だと感じている事柄について、是非とも解説してみたい、ともかくも。実は、上手く行くかどうかあまり自信がないのでありますよ。しかし、可能な限りの力を尽くしてみたい、是が非でも。
2015年10月23日
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第 十七 回 目 卑近な話ですが、私は時々、浅草の観音様にお参りを致します。最近では具体的なお願いをせずに、「何時も有難う御座います。これからも宜しくご指導のほどお願い申し上げます。有難う御座います」と手を合わせながら、心の中で唱える習慣になっています。この浅草寺には観光客を始め、実に大勢の善男善女が参詣に訪れていますが、おみくじを引いたり、「受験に合格できますように」、「誰々の病気が治りますように」、「家族が健康で、長生きできますように」などと、具体的な望みが叶うように祈願する人々も大勢いらっしゃることでしょう。この様な神社仏閣で神仏に祈る場合は兎に角として、日常の色々様々な場面で各人が、種々雑多な、自分勝手な希望や願望、心の底から悲痛な叫び声として自ずから発せられる 願い に、神仏が「気前よく」全部良い返事をなされると仮定したら、どうでしょうか?中には、憎むべき敵がいて、その不幸や滅亡などを望み、願い、また呪う。 人類を歴史的に概観した場合に、人々の自分勝手な、それ故に自分都合の無数の願望や祈念を神・全能者は、様々な「回路」を通じて、聞き届けて来ているわけですよ、実際。その中には互いに対立したり、矛盾したり、従って両立は不可能なものが数え切れないほどに多くあったに相違無い。しかし、それらの対立や矛盾は人間界におけるそれであって、神の側のものでは決してありません。 人間の苦悩・悲しみ・恐れ・涙などの煩悩を、人類全体の救済という形で解決する。そして地上・此岸・憂き世での葛藤・矛盾を天界・彼岸・天国・天上での平安・涅槃・浄土極楽として全面解決した。不可能を可能とした。そればかりではありませんで、苦しむ者・悲しむ者・助けを必要としている人々の側に立って、それも重大な関心を抱き続けて受け入れる。つまり、苦しみを共に苦しみ、悲しみを共に悲しむ。考えてみれば、何と有り難く、勿体無い事ではありませんか。煩悩具足の身にとっては、果報が過ぎると形容して良い「待遇」ではありませんか、如何でしょう…。 ここで、唐突ですが、道元の「正法眼蔵」の 触り の部分をご一緒に味読致したいと存じます。と申しますのも、私のウェブ上の記事の極めて熱心な読者がいらっしゃいまして、この様なリクエストが最近ありましたので、思い切ってこの場を借りてトライしてみようと思った次第であります。 そして、その前提として「言葉」の性質に就てほんの少し、整理しておきたいと考えます。小林秀雄は「本居宣長」の中でこう言っています。 「メタフォーア(隠喩、一つの観念を表現するのにそれと共通する性質を持つ他の観念を表す語を用いること)とは、言語の意味体系の成長発展に、初動をあたえたもの。言語は、物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい 意味 を生み出していく 働き である。物の名も、物に附した単なる 記号 ではない。物の姿を、心に映し出す 力 である。」 この様な深い言葉に対する理解から、宣長の言語観の基礎にある考えに関して、こう書いている。 「言葉の生まれ出る母体は、私達が生きてゆく必要上、われ知らず取る 或る全的な態度 なり 体制 である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって生まれ出たものではない。
2015年10月18日
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第 十六 回 目 作者・ドストエフスキーが作中人物のイヴァンに言わせているのですが、作者自身にも同様の「神に向けての疑惑、乃至は抗議」が或いは胸中に去来していたのかもしれませんし、これは万人が様々な局面で抱懐する「神への強いプロテスト」であるようにも思われますので、私・草加の爺の管見を披瀝して皆様方のご参考に供したいと考えます。 とは申せ、神・絶対者の問題は人類に課せられた「永遠の課題」でありますので、私のこれまでの人生遍歴の中で知り得た、また考え得た限りでの 一つの回答でありますので、どうかその御積りで受け止めてください。 さて、今私は泉鏡花の作品の魅力にハマリ込んで居りますが、例えば「辰巳巷談(たつみこうだん)」を題材に取り上げてみましょう。辰巳(方角の東南の意味で、俗に江戸深川の遊郭を指す)名所の洲崎(現在の江東区東陽町、元の深川洲崎弁天島)遊廓(今では単なる住宅街に変わってしまっているが、かつては吉原と肩を並べるとまで言われた赤線地帯で、多くの遊女屋で賑わっていた)の胡蝶・お君と、宇津木 鼎(かなえ)の純情を縦糸に、お君に執着する船頭・宗平の煩悩の哀れさや、お君の情人・鼎の生みの母・沖津の苦衷などが活写されています。先ずヒロインのお君が哀れでありますね。十六歳で苦界と言われた遊郭に売られ、遊女の世話を焼く「新造(しんぞ)」のお重(じゅう)の親切ごかしの口車に乗せられて、花魁(おいらん、遊女のこと)たちの憧れであった 足抜け(もとの素人の、自由の身になること) が出来たのが十九歳。互いに好きあった恋人の鼎に会うことだけを楽しみに生きているのだが…。第一にお君が哀れである。お君のような境涯に身を置いた女性は、恐らく大勢いたことでしょう。しかし、哀れであることに変わりがありませんよ。私が「全知全能」の神の如き存在であったならば、このお君の不幸や苦しみを救ってあげたい。そうしようと思うだけで、それは可能なのです。造作もないことな筈。また、鼎の生みの親、もと花魁で、今は小間物の行商をして生計を立てている沖津も気の毒でたまりません。最後に、お君を思いきれずにカッとなって出刃で刺す宗平も哀れでなりませんね。要するに、登場人物の皆が、それぞれに娑婆での苦労辛酸をとことん味わい、死ぬほど辛い思いをしている。「ああ、神様!お願いで御座います。どうぞ、お助けを、後生一生のお願いで御座います」と、血を吐くような思いで胸の中で叫ぶ、彼らの声に、神はなに故にお答えくださらないのでしょう。「神の沈黙」、が、またまた、何ゆえの「すげない」沈黙なので有りましょうか…。謎、人間にとって、恐らく永遠に解けない「謎」なのではありますまいか。 しかし、翻って冷静に考えて見るときに、沈黙は神・全能者が「儚く、か弱い」無知・蒙昧なる者に与えることが可能な、ただ一つの回答であり、返事なのであります、多分。
2015年10月13日
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第 十五 回 目 智と無智 = ソクラテスの言う「無智」とは、何も知らない、全くの 無の知 というようなものではなくて、かえって、何でもないものを、何かであると思い、大切な事を、何でもないと考える、一種の 思い違い であり、間違った信念の如きものである。だから、智を愛し求めるとは、漫然たる知識欲のことではなく、自他における、この様な無智との戦いであり、その間から、正しい評価を回復しようとする努力である。 智を神にのみ認めたソクラテスは、人間にはただ 愛智 のみを許した。 愛智としての哲学は、ソクラテスに課せられた 神聖な義務 であると共に、そこに開かれた途は、人間一般にとっての、最高の喜びを与えるものなのである。 智は徳の核心をなすもの …… ソクラテスの求める智は、人生百般の事柄を処理すべき大切なものであり、殆ど、治国とか政治とかの智慧と重なり合うものである。 よく生きるとは、正しく生きること。人生はそれだけでは、全く無意味なのであって、我々はそれに 何かよきもの を付け加えなければならない! ソクラテスは全生涯を、「正義」の問題に捧げて来た。ソクラテスこそ「正義」の証人だった。 この様に見て来ますと、洋の東西を問わず、人間は「より良く生きる」生き方を理想とし掲げ、その目的に向かって努力を惜しまなかったし、今もなお営々と努力を継続している。そして、これからも変わらない事でありましょう。これこそが 最も人間的な 最良のものに間違い無いと思われます。が、一方では、現実は一向によくなってはいない、様にも見えますね、確かに。それどころか、事態は益々 悪化 しているかの如くに感じられもする。 一時に、全てがよくなる事は出来ない。少しずつ、徐々に向上して行く。向上するように努力する、個人として、或いは、社会全体として…。 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、次男のイヴァンが三男のアレクセイに「神」など存在しないのだ、と語る件がありますね。農奴の少年を余りにも残虐非道な振る舞いで惨殺する地主の話ですが、全知全能の神が何故この様な人非人の行動を黙って許すのか?その様な筈がないではないか…。つまり、この世には神などいないのだ。だからその様な蛮行が罷り通ってしまうのだ、というのが無神論者・イヴァンの主張でありました。これは一見、非常に説得力のある主張なのでありますが、私は 稚拙で幼い 神に対する理解だと思います、はい。第一に、神・絶対者を余りにも「人間化」し過ぎていて、純粋な、余りにも純粋過ぎる青年が陥りやすい思考の陥穽に嵌ってしまっている、と言わざるを得ませんよ。 虎の威ならぬ、ソクラテスの権威を笠に着て物申せば、人間には「愛智」しか許されていないのですから、そして、中国古代の偉人の教えに従うならば、人は基本的には「謙遜」を宗(むね)とすべきであり、ましてや「天(つまり、神)」に対しては最上級の敬意を表すべきでありますから、このどちらから言っても、軽々に「神のはからい(=御こころ)」を論じたり、断定したりすることは禁物でありますね、厳禁、もってのほか!
2015年10月10日
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第 十四 回 目 「国家論」そのもの、「イデア論」、及び、それと盾の両面をなす関係にある「魂の不死の思想」の三つに大別できる。そして、ソクラテスが配慮の集中を説いた 魂の在り方 は、人間の「内なる〈国制〉」として捉えられ、この「内なる国制」と「外なる国制」との一致に於いてこそ、優れた人間の、優れた生き方と、真の幸福がはじめて達成される、と考える。― 以上、プラトン的なるものの中心思想。 「不知の知」、「無知の自覚」を言うソクラテスの立場 = ひとがどんな議論・論議をする場合でも、そこから良き成果をあげようとするなら、論議に取り上げている当の 事柄の本質 が何であるかを、知っておかなければならない。それをしないと、完全に失敗することになるのは必定。ところが、人々は、問題にしている事柄の本質を、自分たちが「知っていない」という事実に、全然気がつかないでいる。考察を始める時に、それを知っているものと決め込んでいるので、先に進んでから、自分自身とも、また、お互いに相手の者とも、言うことが一致しないという、当然の 報い を受けることになる。ただし、『お互いの同意に基づいた定義』は 真理 とは異なっていることに注意しよう。 田中美知太郎著『ソクラテス』からの引用。 ソクラテスの考えの重点 = 精神(プシュケー)なり、自己自身なりを、“ 出来るだけ優れたもの ”にする事、即ち、徳を成就することにある。従って、ソクラテス哲学の中心となるものは、「徳」である。徳とは、ギリシア人の意味では、「よき人」の「よさ」を指す。一般に、ものの優秀性、卓越性、有能性を示す言葉。 ソクラテスが神命と解した仕事 = 自他をよく調べ、智を愛し求めながら生きること。その結果、「ただ金銭を出来るだけ多く自分の物にしたいというような事にのみ気を使っていて、精神を出来るだけ優れたものにする事に、気も使わず、心配もしていない」と言う、アテナイ人への批判が生まれた。 智と無智 = ソクラテスの言う「無智」とは、何も知らない、全くの 無の知 というようなものではなくて、かえって、何でもないものを、何かであると思い、大切な事を、何でもないと考える、一種の 思い違い であり、間違った信念の如きものである。だから、智を愛し求めるとは、漫然たる知識欲のことではなく、自他における、この様な無智との戦いであり、その間から、正しい評価を回復しようとする努力である。 智を神にのみ認めたソクラテスは、人間にはただ 愛智 のみを許した。 愛智としての哲学は、ソクラテスに課せられた 神聖な義務 であると共に、そこに開かれた途は、人間一般にとっての、最高の喜びを与えるものなのである。 智は徳の核心をなすもの …… ソクラテスの求める智は、人生百般の事柄を処理すべき大切なものであり、殆ど、治国とか政治とかの智慧と重なり合うものである。 よく生きるとは、正しく生きること。人生はそれだけでは、全く無意味なのであって、我々はそれに 何かよきもの を付け加えなければならない! ソクラテスは全生涯を、「正義」の問題に捧げて来た。ソクラテスこそ「正義」の証人だった。
2015年10月06日
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第十三回目 近江聖人と称えられる中江藤樹には「学問するとは、即ち、母親を養う事だ」とする他人には伝え難い発明があったと小林秀雄は「本居宣長」の中で断定していますよ。藤樹は独立独歩の学問上の「天下人」であるとも形容して居りますね、実に。ですから、藤樹は彼独自の独創としてその様な考え方に到達したのであって、中国の儒者達や、日本の先輩学者から教えられたものではなかったのです。私・草加の爺も、90歳を過ぎた老母を介護する過程の中で、独自に体得したのが「学問するとは、親孝行と覚えたり」の実感でありました。ですから、親に仕えたり、兄に従ったりが、儒学の「實(じつ、まこと の事)」なのだとする考え方を、無理に周囲に押し付けるつもりは、ありませんし、又その必要もないと思っています。 但し、こういう事は言えると思います。牽強付会や、こじつけでは無いと自分では思っておりますので、参考の為に付け加えて置きましょうか。つまり、親や兄という存在は、謂わば先祖やその先々に連なる人々の最先端に位置し、自分にとっては一番身近な人を意味します。先に、「義」の根本は「己の不善を羞(は)じ憎む羞悪(しゅうお)の心」だと定義されていたことをご紹介しましたが、それを念頭に置いて下さい。血縁の関係にあり、自分よりも時間的に少しであっても、「先の時代に生まれている近親者」に敬意と尊崇の心を持って接し、自己をより低く保つという態度は、やはり大切なのではありますまいか、人としての在り方からして。 ここでプラトンの哲学、つまりプラトンがソクラテスから学んだ最も大切な基本的教え、主導的な思想に簡単に触れておきたいと思います。 ソクラテスは「 正義 とは何であるか?」を執拗に追求し続ける。勇気・節制・敬虔など、ひとつひとつの徳目に就いて、それが 何 であるかを問う。そして同時に、その問が、単純に「何であるか」を規定する為の形式的なものではなく、必ず善(よいこと)や幸福の問題との結びつきのもとに、人生を如何に生きるべきかという問の意識の中から、問われる。 その「善」や「幸福」の可能性を、人間ひとりひとりの 〈魂〉 の在り方と深く関連させて、人間の幸福は 魂の卓越性・徳 としての 〈知〉 に全面的に依存するが故に、知を愛し求め、魂を優れたものにするための配慮、もしくは「世話」としての哲学こそ、人間にとって必然的な営為であり、唯一の 生きるに値する 生き方である、とする考え。 「国家論」そのもの、「イデア論」、及び、それと盾の両面をなす関係にある「魂の不死の思想」の三つに大別できる。そして、ソクラテスが配慮の集中を説いた 魂の在り方 は、人間の「内なる〈国制〉」として捉えられ、この「内なる国制」と「外なる国制」との一致に於いてこそ、優れた人間の、優れた生き方と、真の幸福がはじめて達成される、と考える。― 以上、プラトン的なるものの中心思想。
2015年10月01日
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