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第 十二 回 目 仁斎は言う。道とは、天の理、人の道である。聖人の道は、君臣・父子・夫婦・昆弟(兄弟と同じ意味)・朋友の間に在って、徳は仁・義・忠・信の外に出でず。 道の四目(又は、四徳)は人性の善であり、万物に異なる所以(ゆえん)たるものとし、「仁」の端(根本)は惻隠の心、「義」の端は羞悪の心、「禮」の端は恭敬(辞譲=謙遜)の心、「智」の端は是非(正を是とし、不正を非とする)の心であると主張した。 もう少し、儒教から引用しましょうか。学問の綱領(こうりょう、おおもと を言う)には、「性」と「道」と「教」の三つがある。『論語』は専ら教えを言う。道その中に在り。『孟子』は専ら道を言い、教はその中に在り。つまり、論孟の二書は、一幅の布、表裏有って、精粗無きがごとし。平たく申せば、論語で孔子が教えている中身も、それを解説した孟子の説く所も、全く同一である。それは恰も、一枚の最上等の絹布の裏と表の様なものであり、どちらも素晴らしいのである、という事でありますね。 「性は相近し。習えば、相遠し」(論語・陽貨篇)、「天の命ずる、之を 性 と言う」(中庸・首章)、「教え有って、類無し(=人は教育によって善とも、悪ともなるので、最初から人の種類に差別があるのではない)」(論語・衛霊公篇) ―― 我が意を得たりと言いますか、全く同感せざると得ませんね、心の底から。 更に続けます。「道とは、何ぞ?(=道とは具体的にはどの様な事を意味するのか)」、その基本的な人間関係についての発現(はつげん、実際に現れ出る事)を言うならば、父子にあっては、之を 親(しん) と謂い、君臣には、之を 義 と謂い、夫婦には、之を 別(べつ) と謂い、昆弟には、之を 序(じょ、=敍)と謂い、朋友には、之を 信 と謂う。 夫婦の別を言う時、夫と妻を同列に扱ってはいけない。男と女とはそもそも最初から相違しているものなのだから、と言うのは比較的理解しやすいのですが、昆弟、つまり兄弟の間には「序、または、敍(じょ、順番の意味)」が有るという考え方には、今の人には少しく抵抗があるかも知れませんね。これについてはもう少し先に行ってから、再度考えを深めてみたいと思いますが、もうしばらくご辛抱願いましょうか。 さて、続けて次のような言辞がありますよ。つまり、「仁の實(じつ)は、親に事(つか)ふること是なり。義の實は、兄に従ふこと是れなり。智の實は、斯の二者を知って去らざること是なり。禮の實は、斯の二者を節分(節・せつ、物事を程よくする事。分・ぶん、物事に あや があるようにする事)する是なり」という主張になると、付いて行けなくなる人が大部分でしょう。かく申す私・草加の爺め もそうでありました。親や兄に、奉仕したり、敬意を表したりすることがそれ程に重大事であるとは、即座には理解しがたいものがありました、確かに。 近江聖人と称えられる中江藤樹には「学問するとは、即ち、母親を養う事だ」とする他人には伝え難い発明があったと小林秀雄は「本居宣長」の中で断定していますよ。藤樹は独立独歩の学問上の「天下人」であるとも形容して居りますね、実に。ですから、藤樹は彼独自の独創としてその様な考え方に到達したのであって、中国の儒者達や、日本の先輩学者から教えられたものではなかったのです。
2015年09月27日
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第 十一 回 目 仁者(じんしゃ)は難(かた)きを先にして、獲(う)ることを後(のち)にす ― 仁者は困難な仕事があれば、何はさておき、これを己の身に実行し、それによって得られるべき利益名誉などは、二の次にして眼中に置かない、と教えています。 「仁」とはそもそも何を指して言うのでしょうか? 人皆忍びざる所有り。之を其の忍ぶ所に達するは、仁なり(伊藤 仁斎) ― 人には皆、気の毒で見ていられないという 惻隠の心(切実に深く憐れみ、痛ましく思う、又は人の災いを見て、痛ましく思う心のことを言う) があるものだ。この心を広く、今まで気の毒にも思わなかった所にまで及ぼして行くのが 仁 だ、と『童子問』に書かれています。 これに従えば、私は少なくとも 仁者 でありたいと念願する一人であります、はい。義を見てせざるは勇なきなり ― とも言いますが、この場合の「義」とは羞悪(しゅうお)の心(己の不善を羞じ憎む心)だとします。「人皆爲ざる所有り。之を其の爲る所に達するは、義なり」=人には皆、することを欲しない羞悪の心があるものだ。この心を広く、今まで平気でしていた所まで推し及ぼして行くのが義である、とも説いていますよ。「義」は文字通りですと、事物自然の宜しきに叶った道理で、その時々の宜しき行いをする事。ですから、己の正義を掲げて「敵」を抹殺する暴力は、ナンセンスであり、言葉の正しい意味での 正義 又は 義 とは何の関係もない行為・行動でありますね、実際の所は。言葉ほど 便利な道具 もありませんが、言葉ほど 自分勝手に誤用されている 危険で使い勝手の良いツールもありませんね、現実には。差し詰め、テレビの国会中継などを見ていると、この言葉の誤用の 見本市 を見物するような錯覚に陥りますよ。当人たちが「真剣そのもの」だけに、傍観する者の眼には単なる茶番としか映らない、実に嘆かわしい、と言うよりは、一種のエンターテインメントにしては面白過ぎる嫌いがありますので、正視するに堪えない…、ああ、神よ!我らに真の救いを与え給え。 学問の要、「唯、己れに反求(はんきゅう)するに在り」。反求と忠恕(ちゅうじょ、忠実で同情心に富むこと)に関しては、「忠恕は、是れ己が為にする心を以て人の為にするナリ。反求は、是れ人を責むるの心を以て己を責むるナリ。能く己に反求するときは、則ち必ず能く人に忠恕す。能く人に忠恕するときは、則ち必ず能く己に反求す。異なること有るに非ず」と古人は説明しています。 人間というものは、兎角、他人を批判する場合には厳しくなり、自分自身には過度に甘くなってしまうものだが、学問をする際の急所を言えば、この逆を行く方法、つまり他人には大いに甘く、自己には峻厳さを保持して臨むのが良い。だから、反求も忠恕もその根底に於いては異なるところが無いのだと言える。大体、その様な意味合いですね。人間誰もが持つ弱点に注目した、蓋し、名言であろうと思われます、正しく。 序でに私の若い頃の勉強ノートから 儒教 についての抜粋を引用して置きたいと思います。 「 孔子や孟子は人間の正しい生き方を説いた。 誠(通常、誠とは自己を偽らず、自己の最善を他人に盡くす精神を言う)は天が人間に与えた道である。この誠は、仁・義・礼・智の四徳(とく、至善の心がけ)であり、天はこれを賦与して人を生み出すから、人性は善である。人性は 誠 であり、四徳の端(たん、芽生え・萌芽、根本)であり、善である。そして、学問とは、「放心を求める」という事、即ち、人の 本心 である仁義(礼智)を、常に放失しないように求め存して、自身に取り戻す事である。従って、人間本性の全的な操守(そうしゅ、心に堅く守り持する所、正道を履んで変わらぬこと)存養(そんよう、本心を失わず善性を養う)が孟子の学問であった。同時に、中国古来の 学問 の本質であり、特色である。 『中庸』(ちゅうよう、儒学史上で極めて重要な文献)は「誠」に関する聖典である。誠の説の基本は、先ず人間を主として言えば、自己の行為を厳しく反省するとともに、天道を達観(たっかん、眼前の成り行き・つまずきにとらわれず、全体の情勢を広い視野に立って見渡すこと)して、自己の生き方そのものとして、その真実であり、最善であると信ずる精神を、発揮する事を主張する。であるから、誠は道の実質である。更には、誠の発揮が道を振るい起し、世界の発展に寄与する。
2015年09月23日
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第 十 回 目 かく申す講師、乃至は、教師としての私の 先生 は一体誰なのでしょうか?私は古代ギリシャの哲人・ソクラテスに「押しかけ弟子」として勝手に入門し、師事してはおりますが、これは飽くまでも精神的な意味合いであり、私の謂わば心の中の問題でありますね。ですから、実際問題として、或いは、技術的な面では何処のどなたから教えを受けたのでしょうか? 直接的には、生徒たちから 教えられた。また、今も、教えられ続けている― とお答えするのが本当であり、正しい回答になるでありましょう、恐らく。意外でしょうか…。 そこで私の思考は人生全般の事柄に飛躍します、つまり、世の中には「善い・良い・好い ひと」がいて、反対に「悪い・不良な・嫌いな ひと」がいるとして、私は後者の あまり感じの良くない人々 からより多くの事を教えられ、学んで来ていることに、後になって往時を振り返った時に気づかされました。もしかしたら、悪人や悪党からさえも、より多くの恩恵を被っているのかも知れません。虫唾が走るような嫌な奴、唾棄すべき下衆野郎、尊大無礼な破廉恥漢などなど、いちいち数え上げていたら切りがない程いた、いけ好かない御仁たち。冷静に考えてみると、この人たちから何と多くを学び、敢えて言えば、多大な恩恵を与えられていたことか! 人生万事塞翁が馬とか、禍福は糾える縄の如し、楽は苦の種、苦は楽の種、とか色々に言われておりますが、原因と結果が複雑多岐に絡み合って、一筋縄では行かない所が私たちの生きている人生の妙味なのでありましょう。 さて、学びという事をもう少し追求してみましょうか。学びて、時にこれを習う、また喜ばしからずや― と孔子は言っていますね。学びは「真似る」ことに始まります。先人の立派な行いや、考えを忠実に真似する「学び」を繰り返し行なっていると、理想的な行動や、立派な思考法が身についてくる ― 相手に化せられる現象が起こる。が、そのままではまだいけません。今度は、お手本を離れて、自分自身の自発的な、そして主体的な動作・思考として練習し、繰り返して復習してみる。すると、やがて学習の成果が確実に自分の身についたことが確かめられる。それは無条件に嬉しいこと、愉快なことではないか…。そうです、学習とは本来文句なく楽しい、喜ばしいこと。正しく 学習 することで、人生が輝きを増し、いやが上にも好ましさが強化される。 「習」 とは、親鳥が翼を広げて宙を飛ぶ様子を、幼い雛鳥が見よう見真似で まねる ことであるますから、生きて行く上で最も基本的で、有益な行動パターンだと言える。 私などは終生、学習することを止められない。一種の「癖」・中毒になってしまっている程。謂わば、生活習慣病とでも称するしか手がない、生き癖でありますよ。ですから、指導者として誠に頼りない存在なのですが、学習者としては一流、どころか、名人クラスだと己惚れておりますね、実際。だから、お母さんなど親から臀を押されて「嫌々ながらに」勉強せざるを得ない子供たちの、生徒たちの心理が手に取るようによく解る。 後はその様な生徒に、真正面から向き合い、正対する様に誠心誠意努めさえすればよろしい。彼等、子供たちは「自分にどの様にして教えるのが最適なのか」を 静かに語り 始める、無言の裡に、黙したままで。正確に、そして実に巧みな手法を以てして。全ては、教える側、指導に当たる大人の姿勢に懸かっているのでありました。この辺のツボを心得てしまえば、どの様な生徒であっても 痒い所に手の届く 懇切丁寧な、そして実のある指導が立ちどころに可能となる。そうしたものであります、指導する者の急所・ポイントの在り処(か)は。
2015年09月18日
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第 九 回 目 下村湖人の作に「次郎物語」がありますが、小学生の私が主体的に読書して、魅了された児童向け作品であります。周囲の主として大人たちから誤解されている、少なくとも自分の 善意 が全く伝わっていない― そんな風に感じ続けていた幼少時の私でしたので、この本の主人公・次郎に大変に共感する所があった。私にも二歳上の兄がいて、次男でしたから、まるで自分自身の物語ででもあるように、熱中して読み耽った覚えがありますよ。そして、中学生になった次郎はとても理解のある先生と出会う。これがまた、我が事のように嬉しかった、それで、将来は この先生のように生徒に理解の深い、優しい教師に、もし可能であるならば、なりたいものと希望したものです。話は脇道にそれますが、六十歳を過ぎてから教師の真似事のようなことをして、子供たちから「熱烈な支持」を受けていると、幸いながら、密かに思えるのもこの読書体験のお陰かもしれません。ついでと申しては誠に恐縮ですが、私が 受けている のは生徒達ばかりではありませんで、その証として次の様な文章を御披露させて頂きます。 古屋先生へ 4年間、大変お世話になりました! 私がTKGで働き始めてから、今日までの間に、古屋さんには生徒との接し方だけでなく、人と人との接し方を学ぶことが出来ました。古屋さんは、私達のような大学生の意見や提案には、決して「NO!」とは言わずに、静かに見守ってくれており、何かお願いをした際も神様のような笑顔で助けてくれました。古屋さんほど「感じ」の良い人は見たことがありません。そんな古屋さんの事を私は本当に尊敬しています。また、忘年会などの飲み会の際は、毎回参加して下さり、私達を楽しませてくれてありがとうございました。幹事としても、古屋さんの存在は非常に心強い存在でした。古屋さんに「史上最高の幹事だ!」と言われるのがすごく嬉しかったです!スキー選手の葛西選手がレジェンドと呼ばれていますが、古屋さんこそが本当のレジェンドだと思います!私も古屋さんのような「感じ」の良い人間になれるよう頑張りたいと思います。古屋さんに出逢えて本当に良かったです。ありがとうございました。 大泉 拳 (原文のまま) 彼は一年後にお土産を携えて塾を訪れ、次のようなメッセージを残してくれています。「古屋さんへ 沢山お世話になったにも関わらず、直接ご挨拶できなくて、すいません。私にとって古屋さんと働いた4年間は宝物のような想い出です。機会があれば食事に行きましょう!」 つでにもう一つ、自慢をさせて下さい。高校生の女生徒で、古文を始め国語総合を担当した優秀な女性がいます。大学生になった後で当時の教室長が、講師の中で誰が一番印象に残っているかを質問したそうです。「それはもう、古屋先生です。尊敬できる講師と言うだけではなく、古屋先生は人生の師匠であり、生きたバイブルのような方です」と答えたと言います。この二人はほんの一例にしか過ぎません。また、この二人の思いもかけなかった 過褒な褒め言葉 は神から下された褒美のように、心に沁みて嬉しかったし、励みにもなっていますよ。 かく申す講師、乃至は、教師としての私の 先生 は一体誰なのでしょうか?私は古代ギリシャの哲人・ソクラテスに「押しかけ弟子」として勝手に入門し、師事してはおりますが、これは飽くまでも精神的な意味合いであり、私の謂わば心の中の問題でありますね。ですから、実際問題として、或いは、技術的な面では何処のどなたから教えを受けたのでしょうか? 直接的には、生徒たちから 教えられた。また、今も、教えられ続けている― とお答えするのが本当であり、正しい回答になるでありましょう、恐らく。意外でしょうか…。
2015年09月13日
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第 八 回 目 所で、浄土真宗に悪人正機(あくにんしょうき)の説があります。「悪人」こそが阿弥陀仏の救済の対象の中心なのだとするもの。悪人とは、衆生(=末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫)の謂であり、正機とは、仏の教えや救いを受ける資質を持つ人々を指す言葉。自力で「善い行いを積んで」仏になる道を行く者に対して、お釈迦様の有難い教えの功徳が効果を及ぼさなくなる、悪ばかりが蔓延り、腐敗堕落した末の世、つまり現代に生きる私たちは皆が「悪人」であり、有難い阿弥陀如来の 他力 によって救われる他に、救いへの道は無いとする思想でありますね。ですから私などはさしずめ 悪人中の悪人 なのでありまして、生まれながらにして様々な「悪事」に手を染め続けなければ、生きていけない存在なのですよ、実際。 が、悪とは何か? そして、善とは何か?辞書によれば悪は、「善の対 道に外れ、法に背く事、また、人に害を与えるような強さ、醜さにも言う」とあります。ですから、「悪人正機の説」に言う悪人とは、普通に言う「極悪非道の悪人」とは根本的に違っている。心が軟弱であり、欠点が多くある者、乃至は、誘惑に負けやすい、怠惰に陥りやすい傾向が強い者、といった意味合いに解釈して良いのではないでしょうか。煩悩、仏教修行・精神安静の邪魔となる、一切の欲望・執着や、怒り・妬みなどの悪しき情念で、具足、心の中が何時も一杯になっている、凡夫、欲望・迷いを捨てきれない一般の人、こそ他ならない我々、通常人なのですから。 『 哀しい哉 哀しい哉 復 哀しい哉 悲しい哉 悲しい哉 重ねて 悲しい哉 』 ― 空海のことばでありますが、これはその儘で大日如来の 慈悲心 大悲 の御心を人間の言葉に翻訳したもの、と私には聞こえます、確かに。この「かなしい かな」は未来永劫に全宇宙に静かに、厳かに、響き渡っている…。 聖女・マザーテレサは、「愛の反対は、憎しみではない。愛の反対は、無関心でいること」というような意味のことを言っていますが、最大限の関心を私たちに向けて居られる 絶対者 の声無き声を、強いて言語化すれば、それは 広大無辺なる愛情 であり、 慈悲の御心とその現れ とでありましょうか…。 中国古代の偉人・孔子も「仁」ということを聖人の教えの中心に据えて居られる。宜(むべ)なるかな、宜なるかな、でありますね。 遊びをせんとや 生まれけむ、戯(たわむ)れせんとや 生まれけん、遊ぶ子供の 声きけば、我が身さえこそ 動(ゆる)がるれ ―― 梁塵秘抄の人口に膾炙した有名な歌でありますよ。伝によれば、遊び女(め)と呼ばれた籠の鳥の境涯にある遊女が、外から聞こえて来る子供たちの如何にも楽しそうな声を耳にして、謂わば 全身全霊 を込めて共感・共鳴している様を、文字通り 身を震わせるように大きな感動 に包まれて、不思議な感銘を受けている様子が、まざまざとリアルに描写された傑作。毎日のように子供達と接していると、少年・少女たちの若々しい、元気一杯な活力やパワーフルで直線的な生命力が、私のような年輩者には無条件で「心地よいもの」 として感じられますね。生命の歓喜を最大限に感じ取り、人生を否応なく全肯定させずにおかない素晴らしいエネルギーが、どの子供からも、その存在そのものから大人の側に伝わって来ているよう。躾にしても、教育にしても、子供たちが自然から与えられている美質を減殺したり、否定するような接し方だけは、厳に慎まなくてはいけない。大人の一員として、心底、そう願わずにはいられません。
2015年09月11日
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第 七 回 目 私はプロデューサーとして忙しく仕事をしていた或る時に、長崎県の福江島に行った折に、家族に是非とも見せてあげたいものと心底願った風景があり、今でも忘れられません。人っ子一人姿が見えない海岸の景色でありますが、砂は飽くまでも白く、海の水はどこまでも透明そのもの。まるでお伽噺の世界にでも紛れ込んだ様な、不思議な錯覚に陥りました。そして、大昔には日本全国、到たる所の海辺で見ることのできた原風景なのだと、即座に思ったのでした。と同時に、仕事中は全く念頭に無かった子供達や、家内の事を頭に思い浮かべていたのでした。いつの日にか、この場所に家族ぐるみでやって来たい。その願いが叶うならもう何もいらない―、そんな風にも考えていました。しかし、考えてみるまでもなく、大昔の日本人はあのような美しい海に囲まれて、夢のような楽しい、平和な生活を送っていたのだ。ごく当たり前の事として、誰もが…。極楽浄土、黄金の楽土・ジパングは伝説などではなく、現実に存在可能だった!有無を言わさぬ強烈な説得力で、あの一幅の絵のような海岸風景が、突如、天からの福音の如くに眼前に出現したのであります、正に。 思えば、この様な天来の 啓示 は私の人生の色々なシーンに、何の前触れもなく度々降されていた。そうハッキリと自覚されるのです、明瞭な形で。 四五歳頃のことでしょうか、草むらに虫やバッタなどが蠢いていた野原が、突然の驟雨で忽ちのうちに一面の湖の様に変化して、小魚や水中小動物が泳ぎ回る別世界に早変わり―。私は自分が 神様か魔法使い にでもなった気分に襲われて、しばし恍惚となる。自分のいるこの世界は、斯も不思議と驚きに満ち満ちたワンダーランドなのだ!しかも、この素晴らしい楽園の中心に、この自分が居る、なんて素晴らしい、なんて喜びに溢れていることか…。 この頃に続く、何故か強く印象に残っているシーンがあります― 近所の庭の中でのこと、小父さんが一人で出刃包丁を手にして、大きな鯉のウロコを削いでいる。ガリガリと、一心に鯉のウロコを削ぎ落としている。幼児の私は門の外側に立って、たまたま近くを通りかかって、この場面を目撃することになった。「痛い!痛い、痛い…」鯉が悲鳴を上げている、声は聞こえないのだけれど、あたかも私自身がその鯉であるかの如くに、パクパクと口を開けて断末魔の 叫び を発しているのが、手に取るように解る。だから、私はその場に釘付けになって立ち竦んでいるほかは無い。―― これ、大人になってから反省する度に思うのですが、ちょっとばかり可笑しい。理屈に合わずに変だ、と考える。何故って当時の私は毎日のようにカエルを殺していた。しかも、地面に叩きつける方法で、とても残酷な仕方で、虐殺し続けていた。同じ生き物に対して、幼児とは言え、こうも反応が違うというのは理屈に合わない…、でも、事実私自身が体験したことだから仕方がない。それに関連してショッキングなシーンが目に焼きついている―、これは自宅の庭での出来事。蛇がカエルを丸呑みにしている場面、私が気づいた時にはカエルは脚の方から半分以上蛇に飲み込まれていた。カエルは両眼を閉じて、恐らく気絶してしまっているのであろう、ただ、蛇が更にカエルの体を喉の奥に飲み込もうとする度に、微かに「ゲエ」と声にならない音を発するように想像された。この強烈な思い出も忘れられずにいる。
2015年09月06日
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第 六 回 目 イザナギの みそぎ とキリストの贖罪を一緒に扱うことは許されませんが、不可抗力な原因で身に負ってしまった「罪や汚れ」を綺麗さっぱりと払拭したいという願いは、極めて人間的であり、素直に共感共鳴できる感情であります。個人としての人間ほど か弱く、また、頼りない 存在もありませんね、実際。そこに、自分とは対極にある 絶対者 からの許しや、信認が渇望され、懇望される、根本的な理由がありますし、その人間による本質的な強い願望は、その信仰の対象を現実のものとしないでは、いられないでしょう。 慈悲、大悲は如来の根源的にして、広大なる御心。それに対して、旧約聖書などに見られる天上の父なる神は「荒々しく、怒り」を露わにする。日本古来の神々も、唯ひたすらに恐ろしく、その前に畏まりひれ伏す畏怖の対象としての印象が、前面には出て来てはおりますが、私は偉大なる父(=大地に擬えられる偉大なる母も同意)の極めて特徴的な表現であり、結局は「限りなく広大なる、慈しみのこころ」に帰せられると考えますので、内容的には同じであると解釈して間違いないだろうと思います。 「キリストは神の子供なのですよね?」 「そうだ。神そのものと言っても良い」 「それなら、何故、カエサルの物はカエサルに、などと言って、地上の王であることを拒否したのか?」 「目的がちがうからだ」 「目的が違う?それはどういう意味なのか、分かりやすく説明してくれないか…」 「神の御心は、人間と覇を争うことには無かった。人間をお造りになられた神は、ご自分と同じくらい地上の人間たちを慈しみ、愛されておられた。だから…」 「だから?だから、どうだというのか」 「出来る限りは、人間の自由意思を尊重したかった…、可能な限りは」 「人間の自由意思?一体、人間に自由意思などというものが、あるのか?また、それが許されていると言うのか、そもそも…」 「許している、許している。許し過ぎているくらいに」 「許し過ぎているだと、バカバカしい。許し過ぎている!ハッ、誰がそんな見当違いを、信じるものか?」 「……(悲しみの表情)」 「人間ほど、不自由で、力弱く、頼りない存在が他にあるだろうか、一体全体」 「不自由で、力弱い…」 「そうだ、人間は不完全過ぎる存在だ、余りにも!」 「しかし、それは人間だけの問題だろうか…」 「人間だけか、そうでないかなど、今は問題ではない。どうして人間は、余りにも弱く、不完全でしかないのかが問題なのだから」 「……」 神の沈黙―、という言葉が私の印象に残っていますが、例えば、キリスト教作家の遠藤周作に「沈黙」と言う作品があります。弱者の神、同伴者イエスという考えは遠藤の到達した結論であったようでありますが、此処では遠藤の思想に深入りしませんので、興味のある方は「おバカさん」などから彼の作品に入門されたら宜しいのではないかと、考えます。 さて、神と沈黙の問題ですが、拙い対話として絶対者と善男善女のやり取りを会話で表現しようと、深い考えもなく取り掛かってはみたものの、あまりにも奥深く、軽々しくこのテーマに近づくのは 危険 であると直ぐに気づきましたので、中断いたしました、はい、やむなく…。 一口に善男善女と申しましても、人それぞれ、興味の対象や、理解度の深浅が多岐に渡りますので、一つの質問に対して単純な回答で済ますことは、不可能なのであります。従って、「……」即ち「沈黙」ということに必然的になってしまう、ならざるを得ないのでした。 「弱いは、強い。強いは、弱い」なのであります、実に、実際、全く。沙翁(シェークスピア)の「オセロ」の冒頭で魔女達が言う「綺麗は穢(きたな)い、穢いは綺麗」ではありませんが、真実に「弱いもの」は実は「強い」のであり、本当に「強い性質」は「弱い」と同義なのでありますよ。 ですから、其の伝からすればイエスの「弱さ」は、最大限の、人間離れした「強さ」を暗示しているように、今の私には思われてならないのですよ。そして、大黒様とイナバの白兎のお話の 大国主の命・みこと によって表現されている「軟弱さ」と愚直な優しさと、天真爛漫な素直さ、等によって表徴されている 神性 は、イエスのそれに通底していると言うか、お互いに非常に似通った 何か を感じさせるように思えてなりません。 数々の奇跡を起こす超人の部分と、それとは極端に矛盾する「弱い」、そして人間の中でも「超人的に見える程に、弱さの極限」に迄行って見せる要素と、謎の如くに鋭く矛盾・葛藤・対立する姿自体が、紛れもなくこの地上の者でない露(あらわ)な神聖性を指し示している、イエス。 大国主の命もまた、八十神達の残虐非道な行為の犠牲に再三再四なり、悲惨な死をも蒙るのですが、女性の神たちの手で二度の再生を遂げ、古代の国土の偉大なる支配者におさまる。が、結局、カエサルの物はカエサルにではありませんが、大和朝廷に権力を譲り渡すのでありましたね。 如来蔵思想を考えてみましょうか。如来蔵の原語・サンスクリットは「如来を胎児として宿すもの」であり、全ての衆生は如来を胎児として蔵(やど)しているという主張。如来とは元々は「修行完成者、その様に行きし者、あの様に立派な行いをした人」の義。代表的な如来には、釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来の四如来がある。 ですからごく平たく言えば、如来蔵思想とは、人は誰でも完全なる悟りの境地に達する事の出来る存在である、という非常に積極的にして肯定的な思想でありますね。一般に、憂き世とか、八苦の娑婆などという言葉が巷に氾濫している仏教的な雰囲気からすると、とても意外な気さえしますよ、何か。
2015年09月02日
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