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私たち人間にとって必要なことは呼吸です。もし呼吸を10分も止めてしまったら死んでしまいます。すなわち、二酸化炭素を吐き出し、酸素を吸い込みます。 このことによって私たちの命は保たれています。祈りとは、この呼吸に譬えることが出来ます。それは、霊の領域における呼吸です。 人間には、霊・魂(知識・感情・意思)・体という三つの部分に分けることが出来ますが。この霊とは永遠の命であるとバイブルは教えます。 しかし、最初の人アダムとエバは、この永遠の命である神を捨てて、「神なんかいらない。」と言って、神を捨てました。この状態を罪と言います。 罪とは、犯罪等に現れる行為にとどまらず、自分を創造した神から離れた状態を言います。 人は永遠に生きる存在として神に造られましたが、神から離れて霊は死にました。また、魂も空しくなり、体もやがて死ぬようになりました。 しかし、2000年前のクリスマスに、神の一人子ジーザスがこの地上に生まれ、33歳の時に十字架にかけられ、私たちの罪の身代わりに死なれました。 この事実を信じる人は、罪が赦され、神の子供となって、永遠の命を頂けます。そして、霊が復活します。 ここから祈りがはじまります。もちろん、日本人は宗教心が厚く、祈る人が多いのですが、呼吸としての祈りはここからはじまります。 祈ることは、二酸化炭素を吐き出して、酸素を吸い込むように、私たちの中にある悪いものを吐き出して、神の命を吸い込むことです。 今日、ジーザスの救いをまだ知らなかった人は、「ジーザス、私の罪を赦して下さい。アーメン」と祈ってみて下さい。この祈りで救われますし、この地球上に住む20億人の人は救われました。 そして、私たちの苦しみのすべてを神に吐き出して行けたら幸いです。罪を吐き出し、悪魔・悪霊を吐き出し、心と体の病気を吐き出し、問題を吐き出して行きましょう。その吐き出す呼吸をしたら、今度は吸い込む番です。 神から与えられる霊は、罪の赦しであり、聖霊の満たしであり、健康であり、豊かさであり、永遠の命です。 ですから、祈りとはすごいことなのです。祈りによって霊の呼吸をしたら、霊が生き生きし、幸福になりますし、健康になりますし、豊かになりますし、死んだ後に天国に入ることが出来ます。 祈りは、私たちに必要なことなのです。難しいことはありません。自己流で大丈夫です。ジーザスの名前によって、創造の神に祈って行きましょう。 よい一日でありますように。 God bless you!
2006年08月31日
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みなさんは、将来のために綿密に計画を立て、実現しなくてがっかりした経験はないでしょうか? そういう経験をすることは、私を含めて何度もあるだろうと思いますが、そこには、何かが欠けていたのかも知れません。 まず、明確な目標を立てて、それに向かっての計画を立てますが、そこで、『そうなったらないいなー』という願望を持っているだけではなかなかそこから進みません。願望を現実にさせるためには、願望以上のものが必要です。 それは、その実現を信じ続け、祈り続けることが必要です。そして、具体的に行動をして行くことが必要です。 まず、信じるとは選択です。その夢の実現を信じることも信じないことも選択です。どうぞ、信じる方を選んで下さい。 また、その夢の実現が確信(実感)となるまで、繰り返し祈ることが必要です。この祈りには、美辞麗句を用いる必要はありません。桐が一点に力を入れて穴を開けるように、その目標の実現のために繰り返し祈って下さい。 バイブル(聖書)のルカの福音書18章の箇所には、やもめの女が不正な裁判官に、『私の相手をさばいて、私を守って下さい。』といワンフレーズの願いを繰り返しました。来る日も来る日もそれだけを訴えました。不正な裁判官は、あんまりうるさいので、仕方なしにその願いを聞き入れました。ジーザスは、この話をしながら、まして神は、あなたがたの祈りを聞いて下さると結論付けました。繰り返し、あなたの夢の実現を祈ってみて下さい。やがてそれが実感となるはずです。そうなったら、夢の実現も目前です。 その時、神様に信頼しながら、一歩踏み出し、行動に移して下さい。やはり、大胆に行動に踏み出すことが最終的に大切です。夢を実現させるためには、棚から牡丹餅が落ちてくるのを待っていてはダメです。断固として行動に移して下さい。 私には夢があります。そして、この夢のためには命を捨てても惜しくはありません。それは、この日本や世界の人たちが、神の愛を知って、救われ、幸せになって下さることです。 私はこの夢の実現のために、毎日毎日、信じ続け、また、祈り続け、そして、行動をします。この夢が実現するのが難しいと感じる現実にぶつかることも多くありますし、『それは無理だ。』と言う人もいますし、私自身もそう思いそうになります。 しかし、夢は信じ続けなければいけません。また、祈り続けなければいけません。そして、行動し続けなければいけません。そうしることで、確実に夢は現実になって行きます。 夢を信じ、夢の実現を祈り、そして、行動し続けて参りましょう。あなたの夢の実現を祈ります。 God bless you!
2006年08月30日
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「私は私で大丈夫」と心から言える人は幸福な人です。そして、そんな自信に溢れた生き方をしている人には不思議な魅力があります。 そんな自信を持ちたいですが、それはなかなか難しいものです。もちろん、根拠のない自信なら一時的には持てますが、それが崩れた時にはなかなか立ち直れないものです。 若い人は、何も根拠がないのに自信に溢れている場合があります。子供もそうですし、失敗するまでは根拠がないのに「大丈夫」と思っています。しかし、その根拠が崩れた時には、あらゆる問題が起こります。 また、目に見える根拠に自信を置いている人もいます。今恋人がいるから自信に溢れている人もいます。また、今お金がたくさんあるから自信に溢れている人もいます。また、今地位や名誉があるので自信に溢れている人もいます。また、今幸せな家庭があるとか、才能があったり、容姿が優れていること等も、「私は私で大丈夫」と言える根拠にはなります。 しかし、目に見えるすべてのものはいつかなくなりますし、変ってしまうものです。その時どうしたらいいでしょうか? 「その時はその時」かも知れませんが、もしそうであるならば、ここまで家に引きこもってしまったり、精神病にかかったり、自殺をしたり、犯罪に手を染める人はいないはずです。 この目に見えるものに根拠を置いた自信とは、砂地の上に建てた自信のようなものです。通常は何も問題はありませんが、地震や嵐がやって来た時には、その家はいとも簡単に倒れてしまいます。 それと同じように、根拠が崩されるような出来事が起こった時には、私たちは倒れてしまいます。ですから、家は、確かな土台の上に建てなければいけません。 それは、私たちの人生にも言えます。「私は私で大丈夫」と言える確かな根拠が必要です。それはどこにあるでしょうか? それは変らないものであり、確かなものでなければいけません。それは、目に見える世界にはなく、目に見えない世界にあります。 それは、私たちを造り、私たちを愛しておられる天の父なる神です。この方は、私たちのすべてを知り尽くし、その上で、絶対に変らない愛で愛して下さっています。だから「私は私で大丈夫」なのです。だから、夢を持てるし、希望があるし、大丈夫なのです。 今日も一緒に、「私は私で大丈夫」と言って歩んで行きたいですね。今日もいらして下さりありがとうございます。 God bless you!
2006年08月29日
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私たちは、自分が何かのミスをした時に、容易に自分を責めてしまいやすいのではないかと思います。 しかし、自分のミスを責めたり、自分を「バカだ」とののしったり、自分を非難するのはやめましょう。 そのようにすると、自分のすることは何もかも間違っていると感じて、さらにミスを繰り返すことになります。 もし反対に、「大丈夫、大したことはないよ。」と心の中に優しく声をかけてみたらどうでしょう。そうしたら、プレッシャーは軽くなり、ミスも繰りかえさなくなります。 また、自分に優しくすると、自分の間違った決断やミスに対して、客観的に受け止める心のゆとりが出来て、今後同じミスを繰り返さない策を練ることも出来ます。 誰だってミスは犯します。しかし、それはわざとそうした訳ではありません。 私たちを造り、私たちを愛している神は私たちを赦される神です。神が赦された私たち自身です。自分自身にももっと寛大になって行けたら、他人に対しても寛大になることが出来、愛せるようになるはずです。 100%のあなたを許し、受け入れ、寛容に受け止めて、次はどうやったらミスを繰り返さないかを考えることに、責めるエネルギーを使って行きたいですね。祝福を祈ります。 God bless you!
2006年08月28日
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毎日、自分のための時間を確保したいものです。その時間は、自分のためだけに使うのです。 といっても、手の込んだことをしたりお金をかけたりする必要はありません。 好きな食べ物を食べたり、詩を書いたり、読みかけの本の1章を読んだり、ただ何もしないで心を落ち着かせて過ごしたり、どんなことに使ってもしても、それが自分に取って楽しみや満足を与えるものであるならばOKです。 仕事に追われたり、家族や友人の要求に無理に応えているうちに、自分の人生はいとも簡単に犠牲になってしまうものです。 これからは、毎日、自分の必要を満たし、自分を回復するために、一日30分以上を確保しましょう。 私は、自分のためだけの時間に、バイブルを読んだり、祈ったり、本を読んだり、何もしないでぼーっとしたり、散歩をしたり、この日記を書いたりしています。 この自分だけの時間が、短くても、質の高い時間を確保できるなら、あなたの人生は、二倍にも三倍にも充実し、豊かになって行くと思います。そんな時間をお奨めします。 よい一日でありますように。 God bless you!
2006年08月27日
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今日私は教会で、祈祷会を行ないました。それは明日の日曜日の礼拝(集会)のためのお祈りをする会です。 また、みなさんの顔を思い浮かべながら、幸せでありますようにともお祈りしました。 そして最後に、こんな讃美を歌いました。 ♪天の父の 目に映る その姿 美しい 御国には 昔から あなたへの 御心が この世で何より尊い 主の手により造られた あなたを見て主は喜び あなたを愛している あなたを 愛します 主の愛をあなたに ささげます♪ この讃美を歌った時、いつになくうれしくてうれしくてたまらない気持になりました。それは、この歌詞が本当のことだからだと思います。 反対に、人の悪口を言ったり、批判をしたり、馬鹿にしたりする言葉を口にすると、とても気分が悪くなります。それは、本当のことではないからだと思います。 私たちは、お互いに愛し合い、赦し合い、助け合う存在です。過度に相手に期待をしたり、相手の善悪を言ったり、相手を見下すことは本来の姿ではありません。 バイブル(聖書)には、悪魔の存在が書かれています。悪魔は人間の知性・考え・思いに働きます。そして、否定的に考え、相手の欠点が見えて批判したくならせ、相手を敵であるかのように思わせます。 悪魔は、そのようにして、人類みな兄弟なのに争わせています。互いに憎ませて、同仕打ちさせています。戦争もそうです。離婚もそうです。犯罪もそうです。 悪魔は、十字架で勝利したイエス様を信じ、イエス様の名前で悪魔を追い出して行きたいものです。悪魔は私たちを不幸にし、人類と地球を滅亡させようと働いています。しかし、それに負けてはいけません。 私たちは、力を合わせて美しい世界を作って行きましょう。まずは、身近な人を愛し赦し受け入れて、そして、その愛の輪をどんどん広げて行きましょう。この楽天を通して素敵な愛を広げて行きたいですね。 今日もいらして下さり、愛して下さりありがとうございます。イエス様はあなたを愛しています。私もあなたを愛しています。よい週末をお過ごしください。 God bless you!
2006年08月26日
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私たちは、自然界を見てわかることがあります。それは、止まない雨はないということです。 梅雨の季節の雨や数日間雨が降り続くような時には、このままこの雨が止まないのではないかと感じることもあります。しかし、間もなく雨は止み、青空が一面に広がります。 それと同じように、私たちの現実には、つらい出来事や試練がやって来て、このまま苦しい状態が一生続いて解決しないのではないかと感じることもあるだろうと思います。配偶者との離婚や死別、親や親しい人との死別、リストラ、倒産、破産、人間関係のトラブル等々、そのような状況がやって来るかも知れません。しかし、止まない雨がないように、解決しない悲しみや問題や試練はないのです。 もちろん、それがいつになるかはわかりませんが、その苦しみには必ず終わりがあるということです。そして、雨の後には青空が一面に広がるように、解決と喜びの日が必ずやって来るのです。 ゴスペルソングに、♪多くの苦しみ味わったから 同じだけのなぐさめがある♪という曲がありますが、本当だなーと思いますし、大きななぐさめを感じます。長い雨が止んだ後には、最高に気持ちの良い青空が待っているように、今あなたが味わっている長雨のような試練が過ぎ去った後には、最高に素晴らしい青空のような解決となぐさめの日がやって来ます。 こういうことを希望といますが、現代の人の一つの特徴に、絶望ということがあるように思います。顔では笑っていますし、人がうらやましがるような生活をしているかも知れませんが、その心の中にしっかりと絶望があります。 セーレン・キルケゴール(S. Kierkegaard 1813~1855)は、死に至る病は絶望であると言いました。絶望は最も恐ろしい病の一つです。なぜならば、止まない雨はないのに、絶望は、もうダメだと思わせてしまうからです。そして、未来に対する期待や希望を否定して、お先真っ暗な心の状態にさせてしまいます。 人間に絶望があることは真理かも知れません。それは、人間には罪があるからです。しかし、もう一つの真理があります。それは、「わたしは道であり、真理であり、いのちである。」と言われたイエス・キリストが、絶対絶望的な私たちの身代わりに十字架で死んで下さり、三日目によみがえられたからです。 このイエス・キリストにこそ、絶対絶望を絶対希望に変える力があります。そして、このキリストにあってこそ、100%止まない雨はないのです。今日ここにこそ希望があります。今雨の中に身を置いている方がいましたら、神への信仰という傘を広げて歩んで行きませんか。この雨は間もなく止みますし、神があなたの傘になって下さるので、その苦しみにも絶えられるはずです。 God bless you!
2006年08月25日
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涙の数だけ強くなれるよ 私は、1997年に結婚をしました。その結婚披露宴の最後に、♪涙の数だけ強くなれるよ アスファルトに咲く 花のように 見るものすべてに おびえないで 明日は来るよ 君のために♪という曲をかけてもらいましたが、本当にそうだなーと感じます。 私は今までに、人からの裏切りや人の心の冷たさ、無関心さ、意地悪に出会って来たように思います。しかしある人は、そのことが赦せないで、他の人にし返す場合もあります。しかし私はそれをすることが出来なくなりました。 それは、「こういうことをされたら、こんなにつらく悲しんだ。こんなに嫌な思いをするんだ。」と身にしみて感じたからです。そして、「人に優しくなりたい。」「人を喜ばせて、笑顔を見たい。」と思うようになりました。 あなたが今日、つらく悲しい経験をしているならば、それはあなたが優しくなるための貴重な経験であると知って下さい。つらく悲しい思いをするからこそ、苦しみ悲しむ人の気持がわかるようになりますし、共感して、言葉をかけなくてもその人と一緒にいて友となってあげることが出来ます。 そうしたら、悲しみや問題は宝であり、ダイヤモンドのように輝くようになります。私たちは、ダイヤモンドのような存在です。しかし、最初は原石のままです。ところが、つらい涙の経験をすることで、その原石がけずられ、光り輝く宝石となります。 その宝石の輝きは、あなたの強さであり、あなたの優しさであり、悲しむ人と一緒に悲しみ、喜ぶ人と一緒に喜ぶ涙であると思います。 あなたは素敵な人です。そして、強く優しい人です。そんああなたと出会えた私は幸せです。いつもありがとうございます。 God bless you!
2006年08月24日
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コンプレックスのかたまりのような一人の女の子がいました。自分の頭の形、指の形が嫌いで、自分で自分を傷つけていました。 そんな彼女が、自傷行為から解放された後に、絵のついた詩集を作りました。それは、自分をユニークにデザインして下さったデザイナーに対する感謝の詩です。 バカヤロウ。役立たず。 天然パー。 いろいろなこと言われちまった。 私はそんなにダメ人間? どうせ私はダメ人間・・・・・・ と、いじけていた私に 「そのまんまのおまえが好きだよ」って 言ってくれた。 やさしい大好きな天のお父さん。 あなたのその一言で、 私は孤独から 解放されました。 彼女は、それからしばらくして母の日にカードを贈りました。生まれてはじめて、真剣に感謝を込めて「生んでくれてありがとう」と・・・・・・。 人はみな何らかのコンプレックスがある。しかし、それは唯一無二のあなたのユニークさであるのです。嫌いだった自分が好きになる時、あなたはあなたでなければいけない人生を生きはじめ、命輝いて生きるようになるでしょう。 バイブル(聖書)には、「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えなさい。」と語ります。この方は、あなたをデザインし、メイクし、生かしている天のお父さんです。 天のお父さんは、ありのままのあなたを愛し、大好きでいてくれます。地上の親は愛してくれなかったかも知れません。しかし、天のお父さんは違います。私はあなたに、そんな天のお父さんがおられることを伝えたいです。 大切なユニークなあなたへ。 God bless you!
2006年08月23日
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私たち人間のアイデンティティは何でしょうか? それは、今偶然ここに存在しているのか、今必然的に存在しているかのどちらかです。 偶然に存在するという考えは、自然淘汰であり、アメーバーや猿から進化したというところから出て来ます。何かが違ったらあなたは存在しなかったかも知れません。 一人の方のお話を聞いたことがあります。その方の両親は、子どもは三人と家族計画がありました。その方は三男でしたが、その後お父さんは妊娠しないように、パイプカットをしました。しかし、長男が生まれる前に、母親は一人を流産したそうです。それを聞かされたこの方は、もし流産がなければ自分は存在しなかったことになると考え、偶然存在していると信じて、苦しいご幼少の砌を過ごしました。 しかしこの方は後日、聖書を読み、イエス・キリストを信じて救われました。それから知ったことは、私は偶然にこの世に存在するのではなく、神が自分を作品として創造し、必然的に存在させられていることを知ってからは、人生がまるで変ってしまったそうです。 まず、自分のことが好きなり、自尊心を持つようになり、人と自分を比べなくなりました。また、今まで劣等感を感じていた部分も恥じることがなくなりました。そして今、牧師となって神の愛を伝えています。これは私の話ではありませんが、自分がこの世に偶然存在すると信じているのと、自分がこの世に存在するのは必然的だと思うのでは、全く人生観が変ってしまい、人生も変ってしまうということです。 神は、あなたをあなたであるように造られました。ですから、競争原理の中で、人と自分を比べて競争し、勝っていると感じられなければ自分を好きになれないなんていうことを考える必要はありません。あなたはあなたであるからこそ価値があります。あなたは神の作品です。またとない最高傑作です。 今日、学歴のことで劣等感を感じている人がいないでしょうか? また、容姿のことで劣等感を感じている人はいないでしょうか? また、自分には才能がないと劣等感を感じている人はいないでしょうか? 人は何らかの点で劣等感を感じている存在だと思います。しかしあなたは、偶然に存在している訳ではありません。あなたは失敗作ではないのです。人と自分を比べなくても、最高に価値があり、最高に素晴らしい存在です。ダメな存在では絶対にありません。 聖書には、『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』と記されています。神はあなたを造り、あなたを愛しておられ、あなたは必然的に存在させられているのです。どうぞ、自分を好きになって下さい。自分であることを喜び、自信を持って下さい。あなたは素晴らしい人です。 人の本当のアイデンティティーは、神の作品です。神がデザインし、メイクしたのです。車のメイカーが車を作るように、神はあなたを造られました。車が壊れたら、メイカーに持って行って修理を依頼します。今日あなたが壊れていたら、疲れていたら、落ち込んでいたら、自信をなくしていたら、あなたのメイカーである神のもとに行きませんか? 神はあなたを癒し、あなたに自信と喜びと安らぎと愛を与えて下さるでしょう。 一言祈りましょう。『神様、わたしを癒してください。』祝福がありますように。 God bless you!
2006年08月22日
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私は、自分が学びたいことや学んでいることをこのように文章で書くことがあります。その中で最も学びたいことが赦しです。人を赦さないで裁く心がどれ程自分を苦しめるかを思い出すごとに、赦すことで自由になりたいと思います。しかし、赦しとは、ただ一度の事ではなく、現在進行形であり、終わりのないプロセスでもあります。ですから、何度も途中で裁きたくなることもありますし、白状しますと、何度も失敗をすることがあります。ある男性が、休暇を取ってハワイに旅行しました。朝早く、きれいな道をジョギングしていますと、道端にビールの空き缶が何本か捨ててありました。その瞬間、この男性は怒りが込み上げて来たそうです。そして、「こんなに美しい場所に空き缶を捨てるとは何事だ!何て無神経な奴だろう。」と考えているうちにますます怒りが込み上げて来ました。「空き缶を捨てて、天国のように美しい場所をゴミ捨て場にするなんて、とんでもない大ばか者だ!」と考えながら、その空き缶の脇を通り過ぎて行きました。そして、ホテルに戻ろうとする頃には、空き缶を捨てた奴に対する怒りで心が一杯になっていました。そんな時、心の中で「待ちなさい。そんな風にして空き缶を捨てた人の非を裁くよりも、戻って拾ったらどう?」という内なる声が聞こえたそうです。それは、空き缶ごときで一日中人を裁きながらムカムカ過ごすよりも、自分で出来る解決をしたらよいのではないかということです。そこで自問自答しました。空き缶を拾いに戻れば数分かかり、友人との待ち合わせの時間に遅れてしまうかも知れない。そこまでして空き缶を片付ける価値があるだろうか? しかし、その場所に戻って空き缶を拾いました。その瞬間、心の中のムカムカが消えて、安らぎと喜びに満ちた素晴らしい気持になりました。そして、ホテルへの帰り道、若い頃の記憶がドッとよみがえって来て、いつの頃だったか、車の窓からごみをポイ捨てしたこと等を思い出し、自分自身もその空き缶を捨てた人と同じように、無神経なことを行なったことに気付きました。そして、空き缶を捨てた人を裁いていた心の一部は、自分自身への罪責感の投影であったことがわかりました。空き缶を拾ってゴミ箱に捨てる行為は、天国のように美しい島を大切にする以上に、自分を過去から解き放ち、自分を裁く気持から自由になることを学んだと言います。それは、人をいつまでも裁いてイライラしているよりも、戻って空き缶を拾って捨てたらいいことですし、裁きの思いとは、自分自身の裁きの思いですから、空き缶を捨てた人を赦すプロセスを通して、自分自身が過去の行動について引きずっている感情から自由になれるのです。赦しとは、赦せない相手の謝罪を受け入れることで、赦す気がなくても、建前上「わかりました」と言うものであると考える人は多いと思います。また、赦さないとは、自分を傷つけた相手から自分を守るために、恨み続け、憎み続けるという場合も多くあるでしょう。しかし、赦しは、赦さないという地獄の苦しみから自分を救い出し、自由にすることです。赦すことが難しい人は、その憎しみや恐れ、怒りという感情によって、体は極度の緊張状態になり、血液循環を悪くし、免疫力が下がり、心臓や脳やあらゆる器官にストレスを与えます。そこで、お酒や一時の快楽に身を委ねて、赦さない心や裁く心から来る苦痛を和らげようとします。しかし、これは悪循環であり、健康上においても、精神的にもますます深刻な問題になって行きます。しかし今日、私たちが、赦しを決断するならば、自らに癒しをもたらせることが出来ます。そして、お酒等も必要なくなりますし、体を健康に向かわせます。実際、人を赦さない心が癌の原因になっているという実際のデータも出ているくらいです。赦しは癒しをもたらします。どうぞ、赦しを決断し、赦しに向かって行きましょう。これは、自分自身を癒すことであり、自分自身を幸せにします。このことを共に学んで行きましょう。祝福を祈ります。God bless you!
2006年08月21日
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旧ソビエトの反体制作家であり、ノーベル文学賞も受賞したソルジェニーツィン(1918~)は、『楽観主義者とは どこも かしこも ひどい ことだらけだが ここは まだいい わたしたちは 運がよかった と 言う人のことだ 現状に満足し いたずらに 嘆かぬ人のことだ』と言いました。 私たちが住んでいる今の世界は、昔よりももっと悪くなっていますし、昔よりも科学が発達したはずなのに、もっと住みにくくなっています。人々の心は荒み、病み、自己中心になっています。こんな世の中を生き抜くためには、楽観的な人生観を持っていなければとてもじゃないですがやっていけません。 『・・・どこも かしこも ひどい ことだらけだが ここは まだいい わたしたちは 運がよかった と 言う人・・・』こそ楽観的な人生観を持っています。それは、単にノー天気とは違います。現実を直視しつつも、人生の明るい面、人生の良かった面を数えて感謝できる人のことです。こんな人生観を持った人がいるならばとても素敵だと思います。 古いゴスペルソングに、♪数えよ主(神)の恵み 数えよ主(神)の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ主(神)の恵み♪という曲があります。 私たちはともすると、よかったことをすぐに忘れてしまって、嫌なことばかりよく記憶していることはないでしょうか? 今までの人生の中で、あなたに与えられたよいこと、今日一緒に数えてみたら素敵だと思いませんか? きっと、5分も経たないうちにうれしくてたまらなくなるのではないかと思います。 そして、楽観的な人生観は、未来を楽観し、未来はよくなって行くと期待する心を持つことです。私は、友人たちとのビデオ鑑賞会をする一日前に、そのビデオを観てしまったことがあります。それは、ハッピーエンドの映画でしたが、途中とてもつらいシーンが続きました。私は一人、「やがてよくなって行く」と知っていましたから、ドキドキしながらも安心して見ていました。 私たちの人生とは、ハッピーエンドの映画みたいなものです。途中には色々な辛く苦しいこともありますが、最後には、ハッピーエンドで終わりを迎えるのです。聖書(バイブル)は、そのことをあなたに約束しています。聖書には、あなたの人生脚本が記されています。初めて映画を観た人のように、悲観的に人生をとらえることも出来ますが、ストーリーを知っている人のように、人生を前向き肯定的にとらえ、楽観し、期待して歩んで行けたら素敵ですね。 祝福を祈ります。 God bless you!
2006年08月20日
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「レ・ミゼラブル」を書いたフランスの詩人であり、小説家であるユゴー(1802~1885)は、『人生 最上の幸福は 自分自身の いかんにかかわらず 愛されているという 確信である』と言いました。 人が最上の幸福感を感じ時は、愛されているという実感がある時です。私たちは、この愛されているという実感が必要な存在です。 人は、生まれてから3歳くらいまで、通常、親からの無条件の愛を受けるものです。その時、そういう愛が必要だからこそ、赤ちゃんはかわいらしくあるのではないかと思います。私の友人は、自分の赤ちゃんを「食べちゃいたいくらいかわいい」と言いました。 しかし、3歳を過ぎたくらいから、無条件の愛は条件付の愛に移行して行きます。それは教育がはじまります。もちろん、教育は必要です。しかし、この教育が教育となるためには、3歳くらいまで無条件の愛を受けるという土台が必要です。教育とは、「そのままではダメですよ。」というメッセージです。 今、多くの若者が子供の頃から適切な教育を受けなかったことによって、わがままになり、人の話が聞けなくなり、社会に適応できなくてニートになったり、精神病をわずらったり、引きこもりになってしまっています。私はそういう若者の親御さんに会って見ますと、非常に優しい方々なのでびっくりすることがあります。もしかしたら、わがままな姿に対して教育をしないで、「いいよいいよ」と言って、言われるままに物を買って上げたりしたのかも知れません。あるいは、無条件の愛が足りなくて、教育が教育として受け止められなかったのかも知れません。 そうしたら、今からやり直すことは出来ないのでしょうか? まず、無条件の愛はもう不可能です。人は実際、それを求めて恋愛をしたり、結婚をしますが、そこに無条件の愛はありません。お互い、愛されたい人だからです。それを友人に求めたり、物質や名誉に求めても、求める愛は得られません。 しかし、一つだけそんな人たちにも、いや、私たちが無条件の愛を受けられる方法があります。それは、イエス・キリストの十字架を通して与えられる神の愛です。神の愛は、今、この瞬間にも、あなたが信じるなら与えられる愛です。それは、3歳までに受けそこなった無条件の親の愛をはるかに超えるものです。だから神にあっては、人生をどこからでもやり直すことが出来るのです。 私は、18歳の時に神を信じてクリスチャンになりました。それから、紆余曲折はありましたが、一つだけ失わなかったものがあります。それは、神から愛されているという実感です。しかも、図々しいくらいに、神は誰よりもこの私を愛して下さっているとさえ感じています。そうしたら、どんな状況の中にあっても、どんな試練が押し寄せたとしても、最上の幸福を感じることが出来ます。 あなたは、もしかしたら、親の愛をあまり受けて来なかったかも知れません。あるいは、何らかの事情により、親の愛を知らないかも知れません。しかし神は、孤児の父です。また、「たとい親があなたを捨てたとしても、私はあなたを捨てない」と語られます。そして、神は、キリストの十字架を通してあなたを誰よりも愛しておられます。この事実を信じ、受け入れて下さい。この無条件の愛こそ、あなたに絶対不可欠な人生の土台なのです。この愛があなたに注がれ、実感されているならば、どんな教育も素直に受けられますし、どんな逆境をも乗り越えて行くことが出来るはずです。 無条件の愛、それは、あなたの行い、あなたの過去、あなたの現在の生き方に左右されない愛です。どうぞ、そのままの姿で神の前に出て来てください。キリストは、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』とあなたを招いています。どうぞ、この愛を実感して下さい。祝福がありますように。 God bless you!
2006年08月19日
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「あしながおじさん」を書いたアメリカの女流作家ウェブスター(1876~1916)は、『幸福になるほんとうの秘けつ。それは、現在に生きること。いつまでも、過去のことを悔やんだり、未来を思いわずらったりしないで、今、この瞬間から、最大限度の喜びをさがすこと。』と言いました。 これは、私たちがほんとうに幸福になるための秘けつだろうと思います。私たちは、決して過去や未来には生きることは出来ません。いつも現在にしか生きることは出来ません。それなのに、過去のことを悔やんだり、未来を思いわずらったりしていたら、何ともったいないことでしょうか。 過ぎ去った過去を悔やんだところで、取り返しがつくならばいくらでも悔やんだらいいでしょう。しかし、「覆水盆に帰らず」とことわざにもあるように、過去は変えることは出来ません。そうであるならば、そのことをそのまま受け入れたらいいのです。私たちは、過去をいつまでも悔やんでいるよりも、それを直視し、受け入れた方がよっぽど反省にもなりますから、その失敗を繰り返すことがなくなりますし、現在を台無しにしてしまうことはありません。 また、まだやって来ていない未来を思いわずらったからといって、橋は橋のたもとまで来てから渡るものであるのと同じように、未来への思いわずらいが現在を生きる力を奪ってしまったら、生きることがつらくなり、人生に疲れ果て、幸福を感じることが出来なくなります。私たちは、未来に対する備えは必要ですが、まだやって来ていないことを思いわずらうことはやめにしたいものです。 そして、現在にだけ心を集中させて生きて行きたいものです。そうすることで、今、この瞬間を最大限に生きることになり、ほんとうの幸福を見つけることが出来るはずです。3ある力を、過去・現在・未来に1づつ振り分けるより、生きれることが出来る現在に3を投入して生きれたら、それは完全燃焼です。それは、ストレスも溜まらないだろうし、精神的な病もいやされるだろうし、人生が何倍にも効率的になるだろうし、幸福を味わえるようになります。そんな歩みを共にさせて頂きたいですね。祝福がありますように。 God bless you
2006年08月18日
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私の家には、時々「~の無料体験キャンペーン」というチラシが入っています。それを見た私は、「ただなら試しに行ってみよう」と思って出かけて行きます。 しかし、無料というので行ったのに、体験の前後にカウンセラーと称する方と一対一の小部屋に入れられて、10回で数十万円コースに入って下さいと強く薦められます。 私は「試しに体験に来ただけですよ」と言うのですが、「私たちは慈善事業をしているのではないですよ。この世の中にただのものがありますか?」と半分脅されました。気が弱い人ならば、多額なお金を支払って会員にならざろう得ないだろうなーと感じました。 私は、「無料で体験出来ますのでお待ちしてます」とありましたので行きましたが、世の中にはただなものがないのが事実だと思います。 世界的な知恵者が、世界の知恵を凝縮して一言で表現しました。それは、「ただのものはない」ということでした。これが世界の知恵だというのです。 クリスチャンになりますと、救いは無料であり、ただであると認識しています。しかし、それは私たち人間の視点から見たらそうですが、神の側から見たら、一人子イエス・キリストをクリスマスに地上に送り、十字架で命を犠牲にして下さいました。救いの代価はあまりにも高いので、それを私たちに要求しないで、ただ信じるだけで与えられました。しかも、見返りを期待しない無条件な愛なのです。 また、この世にただのものはないのは、職場で仕事をしないで給料をむれる会社はありません。会社は、仕事をした対価として給料を支払ってくれるのです。 また、畑に種を蒔かないで収穫することはありません。耕された畑にお米の種を蒔いたらお米を収穫することが出来ます。私たちの人生も蒔いたものを刈り取ります。否定的・消極的・破壊的なもことを語り、信じ生きるならば、その通りの現実を収穫します。しかし、積極的・肯定的・前向きに語り、信じ生きるならば、その通りの現実が収穫されます。 私たちは、人に親切にし、人を助ける生き方をして行きたいものです。そうしたら、やがて私たちが困った時に、助けの手が差し伸べられるものです。 世の中ただなものはありません。棚から牡丹餅を求めたり、愛されることだけを要求して生きてもそれは叶えられませんのでいらいらするだけです。その求めるものを他人に与えることをして行ったらどうでしょうか。 ある有名な精神科医は、精神的な病にかかっている人に、「2週間、他人の幸せだけを願って暮らして下さい。」という処方箋を出しました。ほとんどの患者さんはそれをばかにしましたが、それを忠実に実行した人は、みんな病気がいやされたと聞きます。 あなたが他人の幸せを願ったら、あなたは幸せになります。しかし、人をねたみ、人の不幸を願ったら、あなたは不幸になるでしょう。この世の中にはただのものはありません。あなたが支払ったものをあなたが手に入れることになります。よいものを支払って行きたいですね。祝福がありますように。 God bless you!
2006年08月17日
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私に取っての人生とは、試練の連続でした。神を知らない時に会う試練は、何とか回避したり、お酒などでごまかすしかありませんでした。そして、「何で俺ばっかりこんな苦しい目に会わなければならないのか。」とつぶやいたものです。 しかし、神を信じた後の試練は、例えば、神をズボンと譬えるとするならば、そのズボンと私をベルトが固定してくれるように、試練とは、神と私を結ぶベルトのようなものになりました。それは、もしベルトがなければ、ゆるゆるのズボンは簡単に脱げてしまうように、人生が平穏無事であり、すべて順風満帆に進むならば、簡単に神を忘れ、神を必要としないだろうと思います。 しかし、私を含めて私たちの人生で試練がないことなんてあり得ないだろうと思います。ある人は、身から出た錆びのゆえに苦しむことがあります。お金や異性や名誉に動かされて不正を行なったことのゆえにその報いを受けることがあります。しかし、人に迷惑をかけないようにと気を使い、正しく誠実に生きていたとしても試練はあり得ます。交通規則を守って安全運転をしていたのに、後ろから追突されて体に障害を負わされた人、貧血で輸血したらエイズに感染してしまった人、田舎で静かに暮らしていたのに、強盗に入られて家族が殺されてしまった人もいます。また、些細な試練であるならば、日常茶飯事だろうと思います。家庭や職場、学校や地域での人間関係や、経済的な問題もあるでしょう。 今日お話ししたいのは、どんな種類の試練であったとしても、試練とは、神様と私たちを結ぶベルトのようなものだと思います。自分の不甲斐なさのゆえの苦しみであったとしても、神は赦しの神ですから、悔い改めをしたら消して外れないベルトで神とあなたは結ばれます。また、予期せぬ大きな試練も、「神がいるのになぜ?」と疑問が湧いて来るかも知れませんが、祈るならば、すぐに神とあなたはベルト結ばれます。小さな日常にある試練も、神とあなたを結ぶベルトなのです。 そう考えて行きますと、試練は悪いもので、忌み嫌うというのが普通の考えですが、もし神抜きに考えたならば、マイナスのほか何もありません。しかし、神を信じる人の会う試練は感謝に変ります。作家の三浦綾子さんは、病を背負いながら夫婦で二人三脚で歩んで来ました。そして、「病は私に取って宝である。」と語りました。星野富弘さんは、神様がもう一度生まれ変わらせて下さって、健康な体を下さるとしても、「私はお断り致します。今のままで十分に幸せです。」と語りました。 試練はあなたを不幸にし、神とあなたを引き裂くものではありません。試練に合って初めて自分の弱さを知り、神が必要であるとわかるので、神に信頼し、神を求めるようになります。そうしたら、神はあなたをご自分とベルトで固く結んでくださり、助けて下さいます。神はあなたを愛しています。 聖書には、『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』と書かれています。神は、試練という名のベルトで今日も私たちをご自身と結びつけて下さり、一緒に歩んで下さいます。よい一日でありますように。 God bless you!
2006年08月16日
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今ゴスペルと言いますと、音楽の一つのジャンルとなっていますが、ゴスペルとは福音という意味です。言葉の語源は、ゴッド(神)+スペル(言葉)=神の言葉、聖書のことです。 ゴスペルを直訳しますと福音です。福音とはよい知らせ、よいニュース、よい訪れ、もっと言えば、うまい話しです。しかし、「うまい話ありまっせ」と商売人に声をかけられますと、だいぶ眉唾ものだと言う感じがします。なぜならば、この世の中にうまいはなしなど存在しませんし、うまい話にはどこかに罠が隠れているものだからです。 しかし、GOSPELがうまい話である理由は、有名な聖書の箇所に、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである、』とありますが、神が私たちを愛し、私たちのために、一人子イエス・キリストをクリスマスに誕生させ、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なせて下さいました。ある宗教の人が、「信じるだけで救われるなんて、そんなうまい話があるはずがない。」と言うのを聴いたことがあります。私もそう思いました。しかし、GOSPEL(福音=うまい話)は、イエス・キリストは人類を愛するゆえに、その命が犠牲になっているのです。これは、神のあなたに対するプレゼントなのです。 プレゼントならば、「ありがとうございます。」と受け取ることしか出来ません。信じるとは、このプレゼントを受け取ることなのです。そうしたら、罪が赦され、聖霊に満たされ、心と体のいやしが与えられ、人生の祝福が与えられ、天国に入れます。この救いは、過去・現在・未来すべての領域を含みます。そして、来世ばかりではなく、現世においての最高の幸せを与えてくれます。 ですから、GOSPELとは、単なる音楽の一ジャンルに留まらず、神が下さったうまい話、神のプレゼントいついての歌詞に曲を付けたものです。 そして、GOSPELと言うと、ブラック・ゴスペルをイメージされる方が多いと思います。日本語では、黒人霊歌とも訳せるだろうと思います。それは、人種差別や奴隷にされて苦しんで来た人たちが、神への叫びとして歌った曲なのです。 ですから、もしあなたが、今苦しみがある人、絶望や孤独の中にある人、問題や病に押し潰されそうな状態にあるならば、あなたこそ、このGOSPELを心の底から歌える人だと思います。どうぞ、教会に行って一緒にGOSPELを歌いませんか? この歌詞は、あなたに取ってうまい話なのです。 繰り返しますが、世の中にはうまい話など存在しません。うまい話のためには誰かが犠牲しなければならないからです。その犠牲は神が行なって下さいました。そしてこれは、ただあなたに与えるだけのプレゼントです。 神はあなたを愛しています。それを知った上でGOSPELというジャンルの音楽を聞いたり、GOSPELクワイヤ(聖歌隊)に入って体を揺らしながら歌うのもいいでしょう。この曲には、あなたの永遠の救いとこの世での幸福が詰っています。 God bless you!
2006年08月15日
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「星の王子様」を書いたフランスの小説家であるサン・テグジュペリ(1900-1944)が残した言葉に、『いかにささやかなものであれ、自分の役割を自覚することが出来たとき、我々ははじめて幸福になれる。』というものがあります。 (他にも、『砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからなんだよ。』何ていう素敵な言葉も残しましたが、すごい人生の悟りだなーと思います。) 自分の役割を、体の各肢体で考えてみたらどうでしょう? 例えば、自分は口であるという役割を自覚したら、口の働きをするならば幸福を感じることが出来ると思います。また、足の裏であると自覚したら、足の裏の働きをすることで幸福感を味わうことが出来ます。これを客観的に見たら、足の裏は重たい体に踏みつけられています。また、足の裏がほめられることなどまずないでしょう。(足裏マッサージ師に「きれいな足の裏ですね」とほめてもらえるかも知れませんが)しかし、足の裏は一言も文句を言わないで歩いてくれます。 聖書では、教会のことを教会堂(教会の建物)であるとは教えません。ギリシャ語で「エクレシア」という言葉ですが、人の集まりの事です。そして、教会はキリストの体であると教えます。体に譬えると、頭がキリストで、信者はそれぞれの各肢体ということになります。これは先ほどお話ししましたが、一人一人が各部分です。 そして、体を考える時に、「どの部分が一番偉いか?」何て考える人はいないだろうと思います。そうです。体の器官には優劣はありません。同じように、ある人はいい大学を出たかも知れませんし、すごい肩書きがあるかも知れません。また、有能な人かもしれませんし、容姿が美しいかも知れません。しかし、だから偉いということを言えるでしょうか? 肌の色が違っても、国籍が違っても、そこにあるのは優劣ではなく違いだけです。同じように、私たちの役割は、違いはあっても、一切の優劣はないのです。 世の中の価値観では、肉体労働よりも知的労働の方が上であると考えられやすいと思います。また、キャリアと呼ばれるような人たちが優れていると考えられます。それぞれの働きには優劣はなく、違いだけがあります。そして役割とは、先ほど体で譬えましたが、いかなる部分であったとしても、自分の役割を自覚し、その役割を生きれたら幸せになると思います。 私が牧師をしないで、政治家や医者になったとしても、名声はあったとしても、それは自分の本当の役割ではありませんので、何か充実感ややりがいがなくて、「いつか辞めたい」という幸せじゃない毎日を過ごしたかも知れません。 牧師の働きとは、否定されることの連続です。世界のクリスチャン人口は20億人いますが、日本では多く見積もっても100万人であると言われています。実に1%弱です。100人にイエス様を伝えても、単純計算で99人が「No!」という計算です。そして、今のような宗教アレルギーがある時代には、牧師が胡散臭い宗教家であると思われることもあるでしょう。しかし、にも関わらず、私の人生は充実していますし、実に幸福です。それは、足の裏が、はた目にはかわいそうに見えても、足の裏にとってはその役割に徹することが幸せなように、私は最高に幸せです。 みなさん、あなたの役割は何であるか知っていますか? 自覚されているでしょうか? もしそれに気付いていないならば、手が自分は足だと思って逆立ちして歩いているようなものかも知れません。それは疲れることですし、自然なことではありません。 どうぞ、自分の役割を発見することが出来るようにとお祈りしています。そして、発見出来たならば、それに生きて下さい。役割の探し方は難しくありません。好きで楽しく出来て、得意なことということの中にヒントが隠されていると思います。役割を自覚し、それに生きれたら間違いなく幸せになります。そんな人生を歩みたいですね。 God bless you!
2006年08月14日
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ベルナノスのいう人は、『他人の喜びに喜びを見出すこと。これが幸福の秘訣である。』と言いました。私もそうだと思います。 しかし私たちは、自分の喜びに喜びを見出すことこそ、幸福の秘訣であると考えやすいと思います。一見して、お金持ちになり、豪邸に住み、高級車に乗り、豊かな生活をしている人が幸せだと考えやすいです。また、権力があり、有名人として生きることが幸せだと考えやすいですが、実際は、成功者ほど孤独であったり、物質的には豊かなのに心がすさんでいる人は多いものです。 それは何も、豊かであることがいけないという話しではなく、その人がどんな状況の中にあっても、他人の喜びに喜びを見出しているか、自分の喜びに喜びを見出そうとしてるかにかかってくるだろうと思います。 私は牧師として、他人が幸せになることをひたすら願っています。そして、神の言葉を語りますが、その人が喜んでいる姿を見て、無上の喜びに浸ることが出来ます。これはどんな人にも言えると思います。他人の喜びに喜びを見出そうとしたら、間違いなく幸せになる事が出来ます。 他人の喜びに喜びを見出さないと、そこに入って来る感情はねたみです。自分の幸せだけを願っても、世の中自分より幸せそうな人はいくらでもあります。そうすると、その途端に不幸を経験し、惨めな思いになります。その時、自分の心の貧しさに原因があると気付く人は望みがありますが、その不幸と惨めさの原因は、そのねたみの対象者だと考えるのです。 世の中で、相手を否定したり、非難したり、いじわるをしたり、何らかの悪意を持ってやって来る人は、ほとんど間違いなくねたみの思いがどこかに潜んでいると思います。その人の持っている自由とか、豊かさとか、賞賛とか、富や栄誉を自分がほしいと思っているからです。これでは、ますます不幸で惨めな状態になってしまいます。 しかし、その相手の喜びに喜びを見出せたとしたらどうでしょう? つまり、「よかったね。」と心から言ってあげることです。そして、一緒に喜ぶことです。そうしたら、絶対に幸福になるし、喜びに溢れることが出来ます。 そして、さらにもう一歩進んで、他人の喜びに仕える事です。そう生きれたら、最上の人生を生きることが出来るはずです。イエス様というお方は、まさに他人の喜びに仕えた人です。他人の喜びのために、他人が持っている不幸を身代わりに背負って十字架について死なれました。それによって、罪を赦し、悪魔を追い出し、心と体の健康を与え、祝福を与えられ、天国に入れて下さいます。それは他人の喜びです。その喜びに仕えるためにイエス様は生きられました。私たちは、誰かの身代わりに死んだり十字架にかかることは出来ませんが、しかし、そういう思いで生きることは出来るだろうと思います。 天国と地獄とは、ただ単に死んでから行く場所ではありません。この世にすでに存在しています。それは、他人の喜びに喜びを見出し、他人の喜びに仕える人の心はすでに天国ですし、自分の喜びに喜びを見出そうとしている人には、ねたみが付きものです。そうなったら、心は地獄のようになるだろうと思います。天国と地獄を分けるのは、他人の喜びに生きるか、自分の喜びに生きるかで二分してしまうように思います。 あなたは愛されています。そして、あなたの喜びを喜んで下さり、あなたの喜びのために仕えて下さっている方がいます。その愛に感動し、その愛を受け止め、今度はあなたも、他の誰かの喜びを喜びとし、喜びに仕えて参りましょう。そんな幸せと喜びの天国のような一日一日をすごして行きましょう。祝福を祈ります。 God bless you!
2006年08月13日
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私は人と待ち合わせをすることが多くあります。ある日のこと、待ち合わせをしていた人から電話が入りました。それは、どうしようもない理由があって遅くなるということで詫びていました。 待ち合わせに遅れるのは何らかの理由があると思います。しかし、いくら非の打ち所のない言い訳が出来たとしても、待たされる人もそうですし、遅れる方の人もいい気分はしません。 また、遅れる人はなぜかいつも遅れるようですし、時間の不足を嘆いています。どんな仕事をするにもそれなりの時間はかかるものです。その中には、予測やコントロールが困難なものもあるだろうと思います。しかし、そういった不測の事態を計算に入れて計画を立てていれば、どんな場合にも必要な時間を確保することは出来るはずです。 みなさんの知り合いにも、もしかしたらよく遅れる人がいるかも知れません。またあるいは、みなさん自身がよく遅刻をする人かも知れません。そこに付き物なのは言い訳です。「どうしてもやらなければならない用事があってね。」「そちらに向かう前に二ヶ所も立ち寄る場所があってね。」「この仕事はとても大変だからね。」 もちろん大変だと思います。そして、「大変じゃない」と言うのでは決してありません。しかし、ほとんどすべてのことは予測できる事態のはずです。そして、どうしてもやらなければいけない用事に何十分かかり、二ヶ所立ち寄るのに何時間かかり、今やっている仕事が何時間くらいで終わるのか、待ち合わせの場所まで何十分くらいかかるのか? 車が渋滞したり、電車の人身事故等が起きた場合等々に何十分かかるのか等は予測できます。 私たちが遅刻のサークルに克つためには謙虚になることが必要です。時間があってももう少し早めに準備をはじめる必要があることを認めること。そして、みなさんがいつも、5分、10分、30分と遅刻をしているなら、その分早く出る努力をすることです。そうしたら、それだけでどれだけストレスが減るでしょうか。 私たちは、やるべき仕事を少しでも早く手をつけ、待ち合わせ時間には少しでも早く出発するようにしましょう。そうしたら、必ず遅刻の悪循環が断ち切られるはずです。これであなたのストレスは間違いなく激減され、心にゆとりが生まれ、平安で幸福な毎日を過ごせることと思います。 豊かな祝福がありますように。 God bless you!
2006年08月12日
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今さっき帰宅しました。 実は、2泊3日那須塩原に出かけていました。 教会の集会です。 とても有意義な時を過ごしました。 明日から、日記は普段通りアップしますのでお待ちしています。 いらして下さりありがとうございました。
2006年08月11日
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戦後、日本的なものはよくないということが盛んに言われて来ました。それは、その一つ一つが軍国主義に繋がったと思われたからです。しかし最近では、日本的なものの素晴らしさが多く語られるようになってきました。 この日本の文化は、善し悪しや優劣ではありません。西洋の文化の方が優れているという根拠は一つもありません。私たちは、善し悪しや優劣を超えて、自分が日本人であることを喜び、誇りに思って行きたいものです。 最近、家族関係が破壊されています。そして、家族の破壊が学校の破壊、職場の破壊、社会の破壊に繋がっていることにお気付きでしょうか? 西洋では、個の確立が重要視されます。日本にもそのような個人主義が盛んに取り入れられました。自分の意見を持つということに価値が置かれました。 しかし、その結果、大切な家族の輪が失われています。連帯感の大切さが失われています。寂しいことです。よく日本人の行動の動機となるものには、「みんながそうしているから。」というものがあると言われます。しかし、こういうものはマイナスであるというような受け止め方がされているように感じます。しかし、「みんながそうしているから私もそうする」というのは、家族や職場、社会の連帯感においては非常に大切です。そして、これこそ日本人の持っている素晴らしい点ではないでしょうか? 私たちは、変えられないものを受け入れ、変えた方がいい変えられるものを変えていきたいものです。日本人であるということは、どうひっくり返っても変えることが出来ません。ですから、どうせならば、仕方なくその事実を受け入れるのではなく、もっと積極的に、「日本人であってよかった。」と誇りに思ってもいいのではないでしょうか? 神様は、確実にこの日本を愛しておられます。キリストは、日本が欧米化してほしいと決して願っておられません。キリスト教とは、多様性を持った宗教です。キリスト教をバター臭く、アメリカの宗教と思っている人がいると思いますが、それは、アメリカの文化と融合したからです。そして、日本にそのままの形で輸入されたからです。本来は、当たり前の日本人が、当たり前の姿で教会に来て、そのままの姿でクリスチャンとして自信が持てて、社会でよい影響を与えることです。 神はあなたのありのままを愛し、この日本を日本として愛しておられます。私たちも、この日本を愛し、日本人であることに感謝して行きましょう。愛国心が軍国主義に繋がるという考え方は本当でしょうか? 2000年の歴史の中で、軍国主義になったのは極一時期だけです。日本には素晴らしい要素がたくさんあります。その良さが経済大国を作り、世界に車や電気製品等を輸出しました。オンリー1の日本を私は大好きです。あなたはどうですか? 祝福がありますように。 God bless you!
2006年08月08日
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完全癖な人が、人生を満足して生きている姿を見たことがありません。それは、完全を求めても、それは切りのない世界であり、らっきょの皮むきと同じようなものだからです。 いつも「まだダメ」「まだダメ」と、現状を否定して理想だけを追求しても、人生は敗北感だけしか与えてくれないものです。いつも欠点をほじくりだして、無理やりなおそうとしても、不満といらいらしか出て来ません。 例えば、散らかった部屋、車の引っかき傷、自分の容姿、仕事の出来等、そして、誰かの欠点、それは、生き様、言動、センスと、悪いところばかり見ていると、人に優しくし、愛すると言う大きな目標を見失ってしまうことになります。しかし、だからといってベストを尽くさない訳ではありません。それは、人生の悪い部分ばかりに捕らわれ過ぎないこと。そして、完全癖にならないことです。 もっと現在を楽しみ、感謝をし、自分の失敗をも笑い飛ばせる心のゆとりを持って、よい部分を伸ばして行ったらどうでしょう。このように生きていたら、人生が楽しいですし、満足ですし、人に対しても寛容になれますし、自分の能力が最大限発揮されますので、完全癖を持ってる人以上に優れた生き方が出来るはずです。 どうぞ、完全癖を捨て去って、ベストを尽くした自分をほめてあげたり、現状に感謝をして、あるがままを受け入れる心を持ってみて下さい。そうしたら、人生が今より100倍楽しく、充実し、輝いてくるはずです。 God bless you!
2006年08月07日
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私たちの回りには、他人を批判しばかりしている人がいます。そして、その批判は非常に的を得ていて、痛烈な場合がほとんどです。それは、自分のことを言って、それを他人に当てはめているからです。 人の欠点や問題点が見えるということは、自分にそういう問題があるか、そういう要素があるからです。しかし、あたかも自分にはそれがないかのように、自分を棚に上げていますが、批判はその批判をする人にそのままお返しすればピッタリなものです。 人を批判する理由は、まず、自分を変えたくないからです。自分の欠点が見えたら、それを見なかったことにするか、何らかの対処をしなくてはいけません。しかし、人を批判しているならば、自分は正義の味方になれますし、自分の欠点から目を背けることが出来ます。ですから、人を批判することは責任転換であり、自己中心な行為です。 聖書には、神という存在がおられると書かれています。それはどういうことかといいますと、「あなたは神ではない」ということです。人間は神に従う存在なのです。しかし、最初に造られたアダムとエバ(イブ)は、悪魔に誘惑されて自分を神としました。他人を批判することは神の仕事です。それが人間の罪の根底にあります。 人間とは批判する存在ではなく、許し、愛し、励まし合い、助け合って行く存在です。そして、自分の欠点を見つけたら、それを自分でも批判するのではなく、そのまま受け入れ、受け止めて愛して行くことが大切です。批判で変る人は一人もいません。変ったとしても、歪んでしまうという変化しかありません。人を変えるのは愛だけです。 他人を批判することは、自分を神とする心から出ています。聖書に書かれている言葉は、世界の法律や憲法の基準になっています。それは、「互いに愛し合いなさいということです。」法律で禁止していることは、それが愛ではないからです。そして、他人を批判することも愛ではありません。愛とは、相手を否定しないというところからはじまります。私たちは否定し合うのではなく、認め合い、尊重しあうところからはじめて行きたいですね。 そんなところから天国がはじまるのではないでしょうか? 祝福がありますように。 God bless you!
2006年08月06日
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私たちは心が疲れてしまう時があります。その原因は様々です。ある女性は、ご主人の死をきっかけに心が疲れて外に出れなくなってしまいました。また、ある男性は、大学受験をきっかけに引きこもりになってしまいました。今多くの人が心が疲れているように思います。 そして、そのことが表面に現れた時に、まわりの人の対応も様々です。 (1)腫れ物に触れるように接する人がいます。その人は、どう扱ったらいいのかわかならいので、おだてたりなだめたりします。 (2)同情する人もいます。「かわいそうだね」「つらいんだね」等の言葉を連発し、相手に同情して、相手を弱い人と扱って対応します。しかし、その人自身はいいことをしていると感じるでしょうが、心が疲れた人を弱者として扱うために、自分で回復する力を削いでしまう場合があります。相手の可能性を信じてあげることも必要です。 (3)励ましたり、無理な指示をする人もいます。「こうすればいいんだよ」とか、「がんばらなくちゃ」と励ましたり、相手が間違っていると決め込んで、そこから抜け出させてあげようと無理な指示をします。そうすると、その人は「私は人に迷惑をかけているのではないか?」「周囲の期待に答えられない私はダメな存在だ。」とますます疲れを増長させてしまいます。ゆっくりと自分自身を見直す時として見守ってあげることが大切だと思います。 そして、ここでしてはいけないのが犯人探しです。「自分のせいではないか?」とか、「あの人のせいではないか?」とか、「その人自身が弱いからいけないのではないか?」と、責任の所在を明らかにし、犯人を探そうとします。しかし、そんなことをしても全然相手の助けにはなりません。 そんな時、しっかりと受け止めてあげること、そして、相手のあるがままを受け入れてあげることが大切です。「あなたはあなたでいいんだよ。」と、相手の行為や目に見える部分ではなく、存在そのものを受け止めてあげることが必要です。そうすることで、その人自身が自分の足で立ち上がって行くことが出来るようになります。 そして、あなた自身の心が疲れてしまった時には、自分に対して前述したように接して行くここと、もう一つの奥の手を紹介したいと思います。それは、2000年前のクリスマスに生まれたイエス様が、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と言われました。みなさん、イエス様のもとこそ、永遠の安らぎといやしがあります。 私は18歳の時に、人生に息詰まって「死んでしまいたい」と本気で思いました。そんな時、私の本棚にあった一冊の聖書に目が留まりました。そして、無我夢中で聖書を読んでみました。その時、この『わたしのところに来なさい。』という言葉に出会いました。自分の居場所を失い、消えてしまいたいと思っていた私に取って、自分の居場所を発見した思いで我を忘れて祈りました。「私を救って下さい。」と。その瞬間、いいようもない安らぎを感じて、涙が止まりませんでした。そして今日、その救われた喜びがあまりにも大きいので、神様に自分の生涯を献身して牧師になりました。 今でもその感動は消えていないどころか、ますます大きくなっています。私たちの心が疲れる時、それは、自分自身の黄色信号が出ている時です。ですから、ゆっくり自分の人生を見つめ直したり、立ち止まって見る時間とされたらどうでしょうか? そして何より、神と出会う時となったら素晴らしいと思います。 今日心が疲れていませんか? それは、最も恵みの時かも知れません。祝福を祈ります。 God bless you!
2006年08月05日
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昔から、「人類みな兄弟」というような言葉が言われてきましたし、最近では、「地球村」というような言葉もよく耳にします。 それは、私たちの本来の姿でありあり方です。ある宇宙飛行士は、「地球は青かった。そして、そこには国境線が引かれていなかった。」と語ってくれましたが、本当にそうだろうなーと思います。 日本のような島国ですと、国境というものの存在はなかなか理解出来ないと思いますが、地続きの国々がある外国に行きますと国境の存在を感じます。特に、朝鮮半島の韓国と北朝鮮の国境付近の緊張感はただならぬものがありました。 実際、人類みな兄弟ですし、地球は1つの村です。もちろん、国の違い、言葉の違い、価値観や文化の違いは尊重し合うことが必要です。しかし、白人・黄色人・黒人の違いは、多少のメラニン色素の違いでしょう。そこに優劣はないはずです。また、文化には違いがあっても、一切の優劣はありません。 しかし、実際に世界の国々はお互いに優劣を付け合っています。例えば、劣等国と思っている国があるとして見下していて、その国が悪いと感じた時には、無条件で戦争をはじめてしまうでしょう。しかも、それが正義であるかのように感じます。正義のために殺し合うなんて悲し過ぎます。 また、身近な人間関係でも、傷つけ合い、憎しみ合い、殺し合っています。家族がバラバラになり、夫婦が離婚をし、利害関係のゆえに裁判沙汰になります。 それは、人類が兄弟であることを忘れ、地球が1つの村であることを知らないのでしょうか? 私は、悪魔に騙され、同士討ちさせられていると感じます。私たちの本当の敵は悪魔です。人間同士は愛し合い、赦し合い、助け合い、支え合って行くべき関係です。 インターネットの世界で誹謗中傷をし合い、争い、傷を負い合うのも悪魔の陰謀に乗せられています。昨日の親友が今日の敵になることもあります。また、断絶や絶交、陰口やうわさ話等をあちらこちらで見聞きします。 私たちは、人類がみな兄弟であることに気付き、もう一度その点に目を向けて行かなくてはならないのではないでしょうか? 聖書を生きるとは、互いに愛し合うという一言で表現できます。それは、少なくても、目の前にいる人を否定しないところからはじめ、相手の祝福を願い、相手の喜びのために仕えて行きたいものです。そうしたら、ねたみは起きっこありませんし、争いも止み、敵対していた人間関係に和解がもたらせられると思います。 この文章を書いた私と、この文章を読んで下さっているあなたとは、兄弟であり家族です。一生涯続くような人間関係を築いて行きたいですし、私に取って最も大切な救い主イエスを伝えたいです。主イエスを信じたら天国に入れます。そうしたら、私とあなたは、永遠に続く関係を持つことになります。 そして、どんな人も敵ではありません。人間に敵はないのです。敵は悪魔です。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、人は弱い存在です。許し、愛して、家族として受け入れ合って、地球村を美しく建てて行きたいですね。みなさんに祝福がありますように。 God bless you!
2006年08月04日
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私たちは、愛を考える時に恋と混同しやすいことがあります。恋と愛の違いは、恋は相手のいい部分だけを見ていたり、相手を過大評価している場合があります。ですから、結婚をした後に理想と現実のギャップを感じたり、性格の不一致等の理由によって離婚をします。 次に、愛と恋の違いはなんでしょうか? 愛とは、相手のすべてを知った上で、なおも愛するということです。最初、あばたもえくぼに見えていても、やがて、あばたはあばたであったと気が付きます。そして終いには、えくぼまでがあばたに見えることもあります。愛は、恋が終わったところからはじまるものです。 人は人の欠点がよくわかりますが、自分の欠点や罪はなかなか見えません。しかし、はっきりわかることは、自分には愛がないということです。そうは言っても、恋する相手はいるでしょう。相性のいい人や好きなタイプの人等。しかし、愛せないタイプ、許せないタイプの人に遭遇するのは時間の問題です。 聖書は、『神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。』と語ります。これははっきりしています。今、インターネット上で出会う人々を心から愛し、祝福を祈れるかどうかで愛があるかはっきりとわかります。あるいは、身近な人を愛し、祝福を願っているかで愛があるかどうかはわかります。 天皇陛下とか、総理大臣、大スターと呼ばれるような人にねたみを感じる人はまずいません。しかし、自分とたいして年も変らず、同じような能力の人が少し成功したり、脚光を浴びたり、賞賛を得たり、豊かな暮らしをしたりしているのを見る時にねたみを感じることはないでしょうか? ねたみというのは、自分が興味のあるジャンルで、しかも自分がこうなったらいいなーと思っているものを得ている人が身近にいたら、それを心から祝福し、「よかったねー」と言えるでしょうか?案外それは難しいだろうと思います。しかし、愛とは、少なくても、あなたの身近な人の幸福や成功を心から喜べる心を持つというところからはじまります。 また、愛とは、あるがままの相手を受け入れる心を持つということです。それは、誹謗中傷をしたり、うわさ話をしたり、拒絶したり、無視したり、嫌がったり、否定しないことです。そういうことをやめることから愛ははじまります。今日から、愛をはじめて見ないでしょうか? 愛に生きることは最高に幸福ですし、人を生かす人です。共にそんな愛に生きていきたいものです。 聖書の言葉の裏を返せば、目に見える兄弟(人々)を愛することが、神を愛することになるということです。パウロは、聖書を一言で要約すると、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」であると語りました。この愛に生きようとしたら、実は、聖書を生きることになるのです。すごいことですよね。そんな歩みをさせて頂きましょう。God bless you!
2006年08月03日
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私たちは、どこに住んでいようと、何の仕事をしてようと、ネガティブな人には必ず遭遇します。中には、ひどい態度を取る人もいるし、皮肉を言ったり、あからさまに意地悪をして来る人もいます。 このようなタイプの人を相手にするには、一種の技術が必要です。それは磨くことも出来ます。そうしないと、やがてそのネガティブな力に引きずられることになります。そして、後ろ向きな姿勢がこちらにまでうつり、気が滅入ってしまったり、落ち込んだりしてしまいます。その技術を身につけていないと、あなたまで皮肉屋になり、後ろ向きになってしまいます。 ネガティブな人を相手にする技術は、私たちの同情心を豊かに働かせることです。まず、ネガティブになっている人は、何らかの不満を持ち、不幸な状態にあることを理解して下さい。そして、ほとんどの場合、わざとそんな態度を取っているのではありません。あなた同様に、喜びと満足に浸っていたいはずですが、その方法がわからないのです。 何かに熱中し、夢中になる姿は、人間として極自然な姿です。自分が選んだ仕事で前向きな心で能力を発揮し、好奇心を持って取り組むのが自然です。もしそうでなければ何かがおかしいです。いつも後ろ向きに考え、態度を取る人は、何かが欠けていますし、くるっています。 私たちが、相手のネガティブな態度に引きずられて落ち込んでしまうのは、それを個人的に受け止め、何かしらの自分の責任を感じているからでしょう。しかし、同情心を持つことが出来るならば、自分は相手の怒りの対象ではないし、自分のせいでも何でもないことに気付くでしょう。 二人の人間がコミュニケーションをする時に、どちらかがどちらかに影響を与え、引きずり込むことになります。それは、より後ろ向きな人が前向きな人を落ち込ませるか、反対に、前向きな人が後ろ向きな人を引き上げるかです。 そして、あなたがネガティブな人に引きずられない秘訣は、自分の仕事に没頭することです。そして、相手がなぜそのような態度を取るのかなどとは考えないことです。あなたが仕事に没頭していたら、必ず、相手に取っていい刺激になるはずです。そして、悪い影響も受けないはずです。 私たちは、相手のネガティブな態度に引きずられてしまうのではなく、共に引き上げて行くような生き方や仕事をして行きたいものです。それは、あなたも幸せですが、あなたの回りをも幸せにしてしまいます。あなたはそんな素敵な生き方が出来る人です。祝福をお祈りします。 God bless you!
2006年08月02日
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スイスの哲学者であり、「幸福論」を書いたヒルティ(1833~1909)は、『寝床につくとき、翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である。』と言いました。 人が生きて行くために必要なものは希望です。しかし、真の希望を持つためには、人間の絶望を知ることが第一です。それは、人類の先祖であるアダムとエバは、悪魔に誘惑されて神様から禁じられた木の実を食べて罪を犯してしまいました。 この罪によって、人間の中に不幸がやって来ました。それは、ねたみと憎しみ、争い、苦しみ、病気、貧しさ、死です。それらを一言で表すならば絶望です。そして人間は、絶対絶望的な存在です。そんな私たちを一体誰が救ってくれるでしょうか? 多くの宗教は、自らの力(善い行いやお布施等)で救いを得るようにと教えます。あるいは、あきらめることを教えます。しかし、イエス・キリストは2000年前のクリスマスの日にこの地上に誕生し、33歳の時には、私たちの罪と不幸を全て背負って十字架で死なれました。そして、三日目に復活しました。 みなさん、ですからこの十字架と復活にこそ希望があります。ここにこそ、絶対絶望を絶対希望に変える力があります。 そして、希望こそが人を生かす力です。どんなに他人がうらやましがるような人生を歩んでいたとしても、本人が希望を持っていないならば生きることがつらいだろうと思います。あなたはどうですか? あなたには希望がありますか? 希望こそ、この時代に生きるために最も重要なものです。そして、希望はイエス・キリストの十字架と復活にあります。 この希望は、罪が赦され聖められます。悪魔から解放され聖霊(神の霊)に満たされます。病気がいやされ健康になります。呪いから解放されアブラハムの祝福が与えられます。死と地獄から解放され、永遠の命と天国に入ることが出来ます。そして、この人生を希望を持って生きるならば幸福になります。 希望がある人の特徴は、夜寝床につくとき、翌朝起きることを楽しみかどうかで希望があるかどうかで計ることが出来るだろうと思います。 どうぞ、希望を持って下さい。希望をあなたにプレゼントしたいです。聖書は約束します。『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。--主の御告げーー それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』 あなたの未来はハッピーエンドです。どうぞ希望を持って将来に向かって歩んで参りましょう。祝福をお祈りします。 God bless you!
2006年08月01日
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