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「そうだこうばあ(あ)いやよ」とは何でしょうか? それは、聖書の一番最初に出て来る創世記を説くカギです。 まず「そう」は、創造です。聖書を開いてまず一番最初に出て来る言葉は、『初めに、神が天と地を創造した。』です。同志社大学を創立した新島譲師は、この聖書の言葉に触れた時に、神を信じたと言われています。これは、あまりにも単純なことなので逆に信じることが難しいかも知れませんが、聖書は、神が創造者であると言う言葉ではじまります。 次に「だ」は、堕落です。神は、人を最高の作品として造られましたが、人間は悪魔の誘惑に負けて、堕落してしまいました。ここに、人間の問題を解くカギが書かれています。人間に不幸と死をもたらしたのは罪が原因です。 そして「こう」は、洪水です。人間の悪は天にまで届く程にまでなりました。神は、ノアの家族に、山のてっぺんに箱舟を造るようにと言われました。この箱舟のサイズは、実に、今の大型タンカーとほぼ同じサイズであることには驚かされます。海を航海するにはこの割り合いで船を作れば一番いいという法則が発見されたのつい最近です。しかし、その数千年も昔に、その理想のサイズで箱舟が作られていたことには驚きを隠せません。このノアの箱舟は有名な話しですから、トヨタ自動車がノアという名前をこの聖書か付けたくらいです。みなさんも聞かれたことがあるのではないでしょうか? 次に「ば」は、バベルの塔です。ノアの時代に、ノアの家族と一つがいの動物を除いて、洪水で滅ぼされました。ノアには、セム・ハム・ヤペテの三人の息子がいました。この三人がおそらく、白人、黄色人、黒人の祖先であろうと思われます。この人類が神に届こうと、高いバベルの塔を建てようとしました。神様はそれを失敗させるために、当時はみんな同じ言葉を話していたのに、言葉を乱されました。そして、塔を作ることは失敗し、それぞれの言葉を話す者同士で移り住み、そこから文明が発展して行きました。 そして「あいやよ」は、「あ」がアブラハムで、「い」がイサク、「や」がヤコブ、「よ」がヨセフです。この4人が創世記のカギとなる人物です。信仰の父アブラハム、従順なイサク、我が強いヤコブ(後に砕かれて、イスラエルと改名される)、夢の人、そして、後のエジプトの総理大臣ヨセフです。 この、「そうだこうばあ(あ)いやよ」によって聖書の一番最初に出て来る創世記を解明することが出来ます。日本でも、ダビンチコードの小説や映画が話題になりましたが、そのダビンチの絵に隠された暗号を解明することも興味深いことでしょうけども、そのはるかに昔に書かれた聖書、神の言葉を解明することははるかに素晴らしいことではないかと思います。 創世記にこそ、人間や罪の起源が詳しく書かれています。そして聖書は、約2000年前のクリスマスの日に、全地類を救うためにイエス・キリストが誕生したことを記しています。そして、「神はあなたを愛している」と語ります。 そうしたら、聖書は、実に、神のラブレターなのです。ラブレターはうれしいものです。あなたはラブレターをもらったことはないですか? 私はもらったことがあります。それはそれはうれしくて、何度も何度も読み返した記憶があります。どうぞ、神のラブレターを読んでみませんか? すばらしいですよ。 読んで下さってありがとうございます。God bless you!
2006年07月31日
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世界中の人々に知られ、愛されているゴールデン・ルール(黄金律)は聖書の中にあります。それは、『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』(マタイの福音書7章2節)です。 これが人生を成功させ、幸せにする秘訣です。多くの人は、自分の利益を追求する利己主義こそ成功と幸福の法則だと考えます。しかし、それは一時的にはうまく行くかも知れませんが、それは長続きしません。長続きする成功と幸福の法則はゴールデン・ルールの中にあります。 試しに、あなたの願っていることを満たそうとしてくれる人と、あなたの願いに無関心で自分の願いだけを満たそうとする人と、どちらの人を好きになるでしょうか? もちろん、完璧な人はいませんが、少なくてもあなたの必要としていることをしようとしてくれる人を好きになるだろうと思います。そして、そういう人には、何か恩返しをしたくなるだろうと思います。 ですから、ゴールデン・ルールに生きようとする人は好かれるし、恩返しを受けますし、成功出来るのです。そして、自分でしてもらってうれしいことを他の人にするので、自分でも幸福を感じられます。 このゴールデン・ルールに生きるためには、一つの大きな分岐点があります。それは大分水嶺(異なる海域に注がれる水系の境界)に似ているかも知れません。一方は太平洋側に流れ込み、もう一方は日本海側に流れ込みます。たった一度の分岐点が行き先を変えてしまいます。それは、自分がしてもらってうれしいことを自分にするのか?他人にするのか?の分岐点です。 自分にしてほしいことを他人にして生きて行くならば、自分に自分でしなくても、他者から帰って来るものです。もちろん、見返りを期待してやるのが見え見えだとそれも帰って来ない場合もありますが、少なくても、自分ジブンじぶんと生きている人よりは、好かれ愛され、何かお返しをしてあげたくなるものでしょう。 とにかく、ゴールデン・ルールに生きる世界中の人は、間違いなく成功し、幸せに生きています。私たちも、自分の人生観や価値観の中にそれを取り入れて生きて行きたいものです。そんなあなたを世界と神が祝福して下さるはずです。God bless you!
2006年07月30日
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童話のうさぎとかめという話は、二つの人生観を現していると思います。一つは「ナンバー1指向」で、もう一つは「オンリー1指向」です。 まず「ナンバー1指向」を持って生きているのがうさぎです。うさぎの目標は、とにかく「ナンバー1」になることにありました。この場合は、かめに勝つということです。ですから、自分が勝つことを確信したうさぎは、途中で昼寝をしてしまいました。 ところが、「オンリー1指向」を持って生きているのがかめです。かめの目標は、理性的に考えたらうさぎに勝てっこありません。しかし、「オンリー1」であることを目指しました。とにかく自分の力のベストを尽くしました。 この勝負は、「オンリー1」を目指したかめに軍配が上がりました。私たちの人生も、二つの人生観があると思いますが、とにかく負けず嫌いの「ナンバー1指向」は悪くはありませんし、必要ではありますが、そこだけに目標を持つならば、うさぎのような結果を招くようになるでしょう。 私たちは、他の誰かと勝負して勝つことも重要な場合もあります。しかし、同時に持たなくてはいけないのが、自分との勝負をして、自分のベストを尽くすことです。つまり、「オンリー1指向」です。 かめにとっては、陸上は自分のテリトリーではありませんでした。これが反対に、水中ということになったら、うさぎのテリトリーではありません。しかし、そこで『自分が得意とする場所ではないのでやる気はない』とは言わないで、自分のベストを尽くしました。 今の時代、このかめのような生き方、「オンリー1指向」が必要とされていると思います。しかし同時に、「ナンバー1指向」は持たないでいいということはありません。スケートの荒川選手の金メダルはやはり素晴らしいです。しかし、それが自分のベストを尽くした結果であったということなので、何倍にも素晴らしいと思います。 私たちも、「ナンバー1」であることを意識しつつも、大切なことは、いつでも自分のベストを尽くして行くことです。いつでも自分を磨き、向上しようとする心を持つことです。その結果として、それがナンバー2であったとしても、それは、自分のベストを尽くしたのですから、ナンバー1なのです。 必ずしも、「ナンバー1 イズ ナンバー1」ではなく、「オンリー1 イズ ナンバー1」と言えるだろうと思います。うさぎとかめのかめからそんな生き方を学んで行きたいものです。よい一日でありますように。God bless you!
2006年07月29日
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聖書の中で、たった2節だけ登場する人物にヤベツという人がいます。この人の祈りは、本音で実に素晴らしいのでみなさんにご紹介します。 まず、ヤベツという意味は「悲しみ」です。名は体を現すと言いますが、この人は運命的に悲しみを背負って生きていくような人です。 しかしヤベツは、「だから仕方ない」とあきらめたり、人生を呪ったりもしませんでした。むしろ神に次のような祈りをささげました。 「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私と共にあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。 1、私を大いに祝福して下さい。 普通の祝福ではありません。めちゃくちゃ祝福して下さいという祈りです。あなたもこんな祈りをささげてみませんか? 2、私の地境を広げて下さい。 私の地境が広がるということは、所有する土地が広くなるということです。これは、単に土地だけのことではなく、自分のテリトリー、自分の影響を与えられる領域を拡大してほしいという祈りでもあります。あなたはどういう地境を広げてほしいですか? 3、御手が共にありますように。 御手とは、神の手のことです。神の手が共にあるということは、神が一緒にいて下さるということです。この神は裁く神ではなく救いの神です。愛の方であり、優しく、親友のようであり、恋人のようでもあり、天のお父さんです。こんな神と一緒に歩んだら、人生は天国に違いありません。 4、わざわいから遠ざけて私が苦しまないようにして下さい。 私たちは、未来においてわざわいが私から遠ざかるように祈りましょう。しかし、同時に言えることは、現在あるわざわいに対しては、感謝して受け止めてることです。それは、神の許しがあって起こっていることですから。でも、未来にはそういうわざわいを私から遠ざけて下さいという祈りが大切です。 5、神はその祈りに答えられます。 最後の一行では、「そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」しめくくられています。ですから、祈りとは、漠然とした存在に祈るのではなく、天地を創造し、私たちを造り、唯一であり、全知全能の神に対してささげられるものです。ですから、祈りは答えられるのです。 神は目には見えません。しかし、確かに存在します。私たちは、この神の中に生き、動き、存在しているのです。それは、魚が水の中に存在するようにです。おそらく魚は、水がどいうものであるかを認識出来ないだろうと思います。私たちも、神の全容は把握出来なくても、その神を信じ、祈ることは出来ます。 そして、実は、聖書にはっきりと書かれています。聖書は、人間のありのままの弱さを赤裸々に綴っています。責任転換、ねたみ、殺人、強姦、姦淫、偽り、強盗、犯罪、不正等。現在と少しも変りません。それはなぜでしょうか? 聖書とは、 1、宣教文書ではないからです。ありのままの事実が書かれています。 2、ありのままの人間の姿が書かれています。それは、神は、人間の全てを知り尽くした上でなおも、愛しておられるということを伝えます。 3、そして、起こった出来事のありのままが書かれています。ヤベツという「悲しみ」という名前が付けられた人が祈ったら、神は、その運命を大きく変えて、願ったことをかなえられました。それは、私たちの本音の祈りも答えられることを教えます。 どうぞ、本音で、ありのままの心からの祈りを神にささげましょう。神は、その祈りに答えて下さいます。祝福を祈ります。God bless you!
2006年07月28日
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ドイツの宗教改革者であるマルチン・ルター(1483~1546)は、「罪人は、美しいから愛されるのではない。愛されているから、美しいのだ。」という言葉を残しました。 人は罪を持って生まれて来るので、小さな子どもでさえ罪深い自己中心な性質を持っています。それは、人類の祖先であるアダムとエバが、神に反逆するという罪を犯したからです。 譬えば、畑にりんごの種をまけばりんごの木が生えて来ます。決して、みかんやいちじくの木が生えてくることはありません。同じように、罪の種を持ったアダムとエバの子孫は、その子々孫々罪人としてこの世に誕生して来ます。 しかし、神様は、その罪人であっても、いや、罪人であるにも関わらず、この私たち人類をあるがままで愛して下さっています。だから、2000年前のクリスマスにひとり子イエス・キリストをこの地上に与え、私たちの救いのために十字架にかけて下さいました。 神は、ひとり子のいのちを犠牲にしてまでもあなたを救おうとされています。ここに神の愛が現されました。 この愛を受けた人は普通の人ではありません。赦された罪人です。人は愛によってのみ変ることが出来ます。そして、美しく変化して行くのです。 神様の愛とは、私たちがこの愛を受け入れるならば、100満点(信仰義認)を与えて下さいます。実力は0点であってもです。 ここで、「お前は0点だから少しは反省しろ!がんばりなさい!」と言われても、おそらく鉄棒のけんすいで上に登ろうとするようなものだったり、自分の髪の毛を引っ張って身長を伸ばすようなものでしょう。 神は、「イエス・キリストのゆえにあなたは100点満点です。」と言って下さっています。100点を付けられた人は、その評価に喜び、感謝して、それに応えたいと思うようになって成長するのです。 今日、ちょっと胸に手を当てて考えて見て下さい。「お前はダメな奴だ!」と言われるのと、「あなたを愛している!」と言われるのはどちらがうれしいでしょうか? 私たちは、「認められたい」、「受け入れられたい」という基本的な欲求があると思います。その答えこそ、神の愛です。 私たち罪人は、おせいじにも美しいから愛されているのではありません。しかし、神に愛されているから美しいし、もっと美しくなって行けるのです。 ある人は、「なぜ神がいるのなら、世界にこんな多くの不幸があるのでしょうか?」と疑問を持ちます。しかし、神が不幸をもたらせるのではありません。人間の罪がこの世の不幸を作り出しています。 ですから、この罪が赦され、罪が解決されなければ真の幸福はやって来ません。クリスチャンでも罪深い生き方をする人もいます。しかし、その人が神の愛を知らなかったら、もっと罪深く、絶望的な人生を生きていたことでしょう。 だから、どんな状況の中にあっても、どんな過去があったとしても、あなたも神の愛を受けることが出来ます。すでにその愛はあなたに向けられています。神の愛とは、それを求めるのではなく、その愛に気づき、信じ、受け入れることです。 イエス・キリストはあなたを愛しています。あなたは神に愛されています。だから美しい人なのです。 ♪君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている 君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている♪ 祝福をお祈りします。God bless you!
2006年07月27日
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発明王と言われたトーマス・アルバ・エジソン(1847~1931)は、「失敗は単なる学習のための経験に過ぎない。ひるむことはない。もう一度やればいい。失敗を失敗とするのは、自分でそう思うからだ。」と語りましたが、それはまさに、エジソンの人生そのものでした。 エジソンは、成功王であると同時に失敗王とも言うことが出来るでしょう。それ程、失敗に失敗を重ねました。普通の人ならば、とっくに失望させられるに十分な条件は整っていました。しかし、一万回の失敗を乗り越えて白熱灯を発明させました。 エジソンに取っての失敗は、自分がそれを失敗と認めない限り失敗ではないと堅く信じていました。失敗とは成功の母であるかのように、その数限りない失敗から成功を生み出しました。 私たちの日本では、一度失敗をすると二度目のチャンスがないのではないかと思っている人が多いのではないかと思います。もちろん、たった一回の失敗で窓際族にされたり、クビにされてしまう会社もあるかも知れません。しかし、たとえそうであったとしても、それで人生が終わってしまった訳ではありません。 アメリカには、多くの起業家がいますが、その中の多くの人が一度以上の失敗を経験しています。しかし、その時、「失敗はいい経験になった。いい勉強になった。今度は、その経験を通して成功しよう。」と考えると言います。 アメリカのフォード自動車の創設者であるヘンリー・フォード(1863~1947)は、数々の困難と失敗を乗り越えて、世界初の車の大量生産システムを完成させました。 このような偉業を成し遂げた人と私たちの違いはどこにあるのでしょうか? 能力の差があるのでしょうか? 全く違う人間なのでしょうか? そんなことはありません。その違いはただ一つです。失敗を恐れないで生きたということです。 なぜ私たちは失敗を恐れるのでしょうか? 人の顔色や人の批判を恐れているからではないでしょうか? しかし、残念ながら人の顔色や批判を恐れて挑戦をしないであきらめてしまっている人が何と多いことでしょうか? あなたはどうでしょうか? 失敗を恐れて、あきらめてしまったことはないでしょうか? 今日このコラムを読んで、もう一度挑戦してみませんか? 失敗を恐れないで生きて行きませんか? 聖書には、365回「恐れるな」と書かれています。それは、毎日一度私たちに語られているのです。それ程恐れやすい私たちですが、神が共におられます。ですから、神と一緒に失敗を恐れないで生きて参りましょう。 使徒パウロという人は、「私を強くして下さるキリストによって、何事でもすることが出来る。」と言って歩みました。どうぞ、この私という部分にあなたの名前を入れて、「○○○を強くして下さるキリストによって、何事でもすることが出来る。」毎日宣言してみてはどうでしょうか? 失敗を恐れないならば、あのエジソンやフォードと同じかそれ以上の可能性を私たちは持っているのです。その可能性を開花させるか、しぼめてしまうかは、この失敗を恐れるか恐れないかの心が決めてしまいます。祝福を祈ります。God bless you!
2006年07月26日
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東大の名誉教授であった竹内均さん(1920~2004)は、「好きなことをして、おまんまが食べられ、社会から認められたら、男冥利につきる。」と言いました。 本当だなーと思います。私は、自称・道楽牧師ですが、面白いことに、クリスチャンじゃない人からは、「かっこいい」とか、「すごい」と言われますが、クリスチャンの人からは、「牧師を道楽でやるなんてとんでもない」というような意見を頂いたことがあります。 しかし、この道楽とは、実は聖書的であり、信仰的でもあります。まず、この道とは、イエス・キリストのことです。イエス様自らが、『私は道である。』と言われました。その道を楽しみながら生きているのです。ですから、そんな私は、最高に幸せです。 しかし、もしこれが仕事となってしまったとしたら、きっと、ストレスに押しつぶされ、辛い毎日を送ることになると思います。そして、悲壮感を漂わせて、「私はやりたくないですが、神がやれというからやっています。」と言うかも知れません。そうしたら、「かわいそう」とか、「立派である」というような同情は買うかも知れませんが、私自身は苦痛のほか何ものもないだろうと思います。 私たちは、最高に幸せに生きていいのです。そしてその秘訣は、自分の仕事を道楽とすることです。林学博士であり、資産家と成功した本多静六さん(1866~1952)は、「仕事を道楽とせよ」語り、そのように生きました。この短い一言には非常に含蓄があります。 もし、あなたが仕事をどうしても好きになれなければ、転職も一つの手段です。あるいは、その仕事を好きになる努力をしてみることです。人生の大部分をただお金のためだけに我慢して働くの辛いことですから。 そして、道楽で仕事をすることが出来るならば、一番成長や上達も早いはずです。伊万里焼の窯元のロクロの傍には、「器用な人にはかなわない。しかし器用な人も、好きでやっている人にはかなわない。だけど、好きでやっている人も、楽しんでやっている人にはかなわない。これすなわち、ロクロの心得なり。」と書かれているそうです。これはどんな仕事の心得にもなるだろうと思います。 仕事を道楽とすることをお奨めします。もちろん、これを不謹慎と考える人もいると思いますし、あなたの会社ではそんな話は通じないかも知れません。しかし、あなたが心の中で、あなた自身の仕事を楽しみながらやることを留めることが出来る人はいないはずです。そうしたら、あなたは幸せな時間を過ごすことになり、仕事の効率は何倍にもなり、あなたの仕事の能力も成長するだろうと思います。 どうぞ、今日からはじめて見ませんか? よい一日となりますように。God bless you!
2006年07月25日
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忙しいという漢字は、「心を亡ぼす」と書きますが、忙しさは心を亡ぼしてしまうのだと思います。それは、目標を定めないで、がむしゃらに動き回っている姿だと思います。 私たちの人生には、プロゴルファーは、あの小さなカップを目指してボールを打つように、明確な目標を定めて、それに向かって集中して働くことが必要だと思います。 また、余分なことを悩んだり、心配したりしないことです。ある調査によりますと、人間が悩んだり、心配したりしていることで、実際に起こることは10%を切るそうです。そして、80%以上は、実際に起こらないことだといいます。しかし、そういうことを悩んだり、心配したりしても、それはエネルギーの無駄使いということが言えるでしょう。 また、聖書が語ることであり、心理学者たちも語ることに、私たちが、信じ、恐れていることは、実際に起こる確立が極めて高いです。病気、貧乏、失恋、失敗、不幸等々。それらは、そのことが起こることを目標にして、人生を生きていることになります。 聖書には、『信仰は、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。』と書かれています。私たちは一体、何を望んでいるでしょうか? それは、生きることであり、幸せになることではないでしょうか? 罪が赦され、聖霊に満たされ、心と体の病がいやされ、祝福され、天国に入ることを願わないでしょうか? どうぞ、あなたが本当に願うことをまず、紙に書き出して、それを目標に定めてください。これが人生の第一歩です。 私は、20回以上外国に行ったことがありますが、どれも飛行機で行きました。その時、目的地を決めないで行ったことは一度もありません。同じように、私たちは、目的地を決めてからスタートしなければいけません。そうしなで、出たとこ勝負みたいな感じですと、忙しくなり、心を亡ぼしてしまうことになります。 どうぞ、目標を紙に書いたら、それを次に信じて下さい。信じる、信仰とは、選択することです。その実現を信じないことも一つの決断です。しかし、それは、その目標の実現を自ら閉ざしてしまうことになります。ですから、信じる方を決断して下さい。 そして、その実現した姿を心に思い描いて下さい。心に夢やビジョン(青写真)を持つことは、目標に向かって進む上で必要なことです。 私はバイクに乗りますが、バイクの運転で必要なことは、自分がこれから行く方向を見ることです。そして、体の力を抜いて、バイクと一体になれば、自然にその方向に進んでいきます。私たちの人生も、目標を見つめることで、その方向に自然に進んでいくことを知って下さい。 そして、確信が来るまで祈ることです。繰り返し、その目標が実現するようにと神に祈って下さい。その時、美辞麗句を用い、長文の祈りのフレーズは必要ありません。「神様、~を行なって下さい。」この短い祈りを繰り返したらいいのです。そうしたらやがて、それが確信となります。 絶対にそうなる!そう感じられることはとても大切です。格闘家は、この段階で勝負が決まってしまうそうです。まず、「負けそうだけどがんばろう!」これは必ず負けてしまいます。次に、「絶対に勝ちたい!」lこれは五分五分でしょう。しかし、「勝った!」と思って勝負をはじめることで勝利をものにするといいます。 ですから、あなたの夢が実現したと感じられることは必要です。これを確信と言います。この確信が心に来た時点で、行動に移ってください。そうした時に、それは忙しい生き方ではありません。忙しく見えるかも知れませんが、無駄なことにエネルギーは使っていませんし、桐で穴を開けるように、一点集中で行なっていますから、効率的ですし、楽しいですし、素晴らしい成果を得ることが出来ますし、疲れませんので、心を亡ぼすことなく生きていくことになります。 どうぞ、忙しさではなく、全力投球で生きて参りましょう。あなたが野球のピッチャ―であるならば、あれこれ心悩まないで、精神統一して、目標を定め、その姿を描き、確信を持って全力で投げたら、一番いいボールが投げられるはずです。 全力投球で参りましょう。必ず、あなたの人生は幸福になりますし、成功しますし、充実した人生を送れるはずです。そして、人生の最後に、「私の人生はこれでよかった」と言い切れる人生を生きられるはずです。祝福をお祈りします。God bless you!
2006年07月24日
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私たちに取って難しいことの中で最も難しいことの一つが、自分を知ることではないかと思います。自分のことは知っているつもりではいても、実は知らないものであると思います。 私たちが、人の善悪を評価したり、誹謗中傷を簡単にすることが出来るのは、実は、自分を知らないからです。自分を知ったとしたら、とてもとても、人様のことは言えなくなるものです。 ある人が、砂漠の中で迷い込んでしまいました。ちゃんとした地図もありますし、磁石も持っています。しかし、今自分がどこにいるのかがわからないので途方に暮れてしまいました。せっかくの地図も磁石も、宝の持ち腐れになりました。 私たちも、自分の現在地を見失っているのではないでしょうか? 私たちは、誰であって、どこから来て、どこへ行くのでしょうか? 神は、あなたを愛する対象として、最高に素晴らしく創造されました。あなたは、神の元から来て、やがて神の元に帰って行く存在です。 そして、現在地はどこでしょうか? 神から離れた罪人であると聖書は語ります。その罪は、愛がないということで知ることが出来ます。 具体的には、カチンと来た時が自分を知るチャンスとなります。人を見て、ムカッとしたり、イライラした時は、相手の人に問題があるとは思わないで、自分の心の中にある、何かこだわりが引き出されたと知り、それを見つけ出して下さい。 学校のPTA主催の茶話会に参加した一人のお母さんが、「隣りのお母さんがとてもいやしい目をしてお菓子を食べていました。」と話されました。しかし、その時、この方の心の中に何かのこだわりがあったのではないかと感じましたので聞いてみますと、「実は、自分が先に食べたいと思っていたお菓子を、その方が先に召し上がってしまったので・・・。」とおっしゃいました。 みなさん、どうぞ、あなたが人を見て、ムカッとしたり、イライラしたら、自分の中にある何かが引き出されたと知り、自分自身を知るチャンスとして心得て下さい。そうしたら、あなたは自分自身を知ることが出来ます。 そして、その自分自身がダメなのではなく、神は、一人子イエス・キリストによって、あなたのあるがままを受け止め、愛して下さいます。 ダメな自分が愛され、赦され、受け入れられていると知ったら、人を見ても寛容になれるはずです。カチンしたら、今までは、相手が悪いと考え、善悪を言ったり非難したりしたかも知れませんが。今度からは、自分を知り、その自分が愛されていることを知って下さい。 あなたは、愛されるために生まれた人です。God bless you!
2006年07月23日
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わたしはこれまでに、いろいろな人に出会いました。その多くの人たちは、無条件で変ることのない神の愛を心から信じられないでいるのです。 その人は自分が重要で価値がある存在だと考えられずに、かえって否定的な考え方をし、自分はダメな人間だ、自分のことを神が関心を持っているはずなどないと思っています。 あなたはどうでしょうか? 神の変ることのない愛を信じておられますか? あなたがどんな状況にあっても、あなたにどんな過去があっても、あなたに対する神の愛は変わらないのです。そんな神の愛を体験する3つの入り口があります。 第一に『孤独』、第二に『傷や病気』、第三に『心の重荷』です。しかし、これらの3つのうちひとつでもあると、人は生き生きと過ごせません。そのためにはどうしたらよいのでしょうか。解決はあるのでしょうか。 1.孤独 聖書では、『わたしはあなたと共にいる』(出エジプト3:12)と言っています。ここに孤独の答えがあります。 2. 傷、病気 聖書には、『わたしは主であって、あなたをいやす者です』(出エジプト15:26)とあります。この『主』とはあなたを造った神です。その神のひとり子イエス。キリストはクリスマスに肉体をとって地上に来られ、十字架で死にました。この十字架で、イエス・キリストはあなたの心の傷も病気も全部引き受けて死んで下さったのです。ですから、キリストの十字架はあなたのためのものです。 3. 心の重荷 キリストは、『すべて重荷を負って苦労している人は、わたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう』(マタイ11:28)と言われました。キリストはあなたの重荷も十字架の上で負って死んで下さいました。しかし、三日後に墓の中からよみがえって、今も生きています。ですから、今あなたを助けることが出来る救い主です。信じて下さい。そして祈って下さい。 『神さま、わたしの孤独と共にいて下さり、心の傷、病気をいやして下さり、心の重荷を負って下さって感謝します。今まであなたから離れていたので気付きませんでした。(聖書では神から離れていることを『罪』と言います)わたしはあなたを離れていた罪人です。わたしの罪を赦して下さい。わたしを救って下さい。今わたしの心の中に来て下さい。今救われました。信じます。わたしは幸せです。天国に行く日までこのわたしを導いて下さい。イエス様のお名前により祈ります。アーメン。』 今、この祈りに心を合わせて下さった方々は、今、神の子となりました。そして、どうぞ、教会に一度行ってみませんか? 祝福をお祈りします。God bless you!
2006年07月22日
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ねたみという感情は、誰でも共通して持っている感情です。しかしこれは、心の貧しさの象徴でもあります。 聖書の中に最初に出て来る罪の現れはねたみです。アダムとエバの二人の子供は、ねたみのゆえに、兄が弟を殺害しました。 まず、ねたみとして考えられるのは、男女の関係におけるねたみ、嫉妬、ジャラシ―です。しかしこれは、かわいらしいものです。 一番恐いねたみは、男の組織の中でのねたみです。男社会の中にあるねたみは、その相手を抹殺し、相手を無き者にするまで続けられます。 今芸能界におけるスキャンダルを報じる3流週刊誌は、ねたみを象徴するものです。また、堀エモンをはじめ、一人勝ちをしている人に対して向けられる攻撃や、政治家に対するバッシング等は、人のねたみゆえに起こります。 その原因は、自分がほしいと思う賞賛や栄誉、特権を受けているからです。本当は、素直に羨ましいし、そうなれたらいいなーという憧れの感情なのですが、それが自分には無理だとわかるとねたみに変ります。 私は、ねたみの感情を向けられることがありますが、そんな時、自分に対する最大の賛辞であると受け取ることにしています。その人は、誰よりも私の能力や立場等を評価してくれている人だからです。ほめられたらうれしいように、ひねくれた表現方法ではありますが喜ぶことにしています。 しかし、ねたみとは罪の現れであり、心の貧しさの現れなのです。ですから、そのままねたみを現すことは愚かですから、相手を攻撃する時は、最もらしい大義名分を掲げます。そして、それがあたかも正当であるかのように見せかけ、ねたみという動機は完全に隠されています。だから、本人も正しいことをしていると感じますし、周りにもそのように映りますが、ねたみは確実にその人を不幸にし、苦しみを経験させます。 しかし一体、どうしたらねたみを感じないいることが出来るでしょうか? それには2つの方法があります。一つ目は、自分の本当のアイデンティティーを知ることです。自分の素晴らしさを知るならば、他者をねたむ必要がなくなるからです。ねたみは、自分の劣等感から来ていることを知って下さい。 また、二つ目には、相手の幸せを願う心を持ったり、祈ることです。ある有名な精神科医は、うつをはじめ、多くの精神病が、この心を持つだけでほとんどが治ってしまうと言われました。人の幸福を願う人にねたみは寄り付きませんし、関係ありません。また、相手がうまく行ったとしても、それは、その人の幸福を祈った結果です。 この二つの心が、私たちをねたみから解き放つことが出来、幸福にすることが出来ます。男の世界のねたみは凄まじいものがありますが、これは、男女間の中にもありますし、女性同士の中にもあります。そして、どこの組織の中にもありますし、子供の世界の中にもあります。 私たちが誰かに対してねたみを感じる時、それは素直に「うらやましい」という気持を伝えられたらいいですね。そして、第一に、自分の素晴らしさ、自分に与えられている能力や特徴、よいものを知ったならば、隣りの芝生は青いなどと感じる必要はなくなるのです。神は、モーセの十戒の第十番目で、人をねたむことを禁止しています。それは、人と自分を比較してねたむことは、自分をみじめにし、不幸にするからです。神はあなたを、誰とも比べる必要がないほど祝福しています。 また次に、自分の幸せや利益だけを求める貧しい心から、他者の幸せや利益を求められる豊かな心を持たせて頂きましょう。他人の喜びや成功を自分のことのように喜べる人は、その人を愛しています。しかし、共に喜べないなら、それは愛していません。一度の人生、誰かを愛せる心を持ちたいです。そうしたら、ねたみから解放され、確実に幸福な人生を送れます。 あなたは愛されています。あなたは最高の存在です。人をうらやむ必要もないのです。自分の価値に気付いて下さい。また、人の幸せを共に祈りながら生活して行きましょう。今日もよい一日でありますように。God bless you!
2006年07月21日
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私たちには、弱さがあります。しかし、それを恥じる必要はありませんし、隠す必要もありません。弱さは、私たちの本来の姿です。 神様は、人間を土で形造られました。そこに、命の息である聖霊を吹き込まれました。ですから、人間とは、一番低い素材を使って形造られましたが、神の息という最高の命が与えられました。 しかし、人間が罪を犯した時に、命の息である聖霊が離れて行きました。元々、永遠に生きる存在として生まれてきましたが、木から切り落とされた枝のような存在となりました。命も時間の問題です。それで人は、死ぬのです。 しかし元々人間は、永遠に生きる存在ですから、永遠に生きたいという願望があると思います。しかし、その解決がイエス・キリストにあります。 聖書には、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』書かれています。この神の御子こそイエス・キリストです。 イエス様を信じる人には、永遠のいのちが与えられます。罪を犯した時に離れたいのちの息がもう一度与えられます。アダムとエバは、罪を犯した時に、自分たちから何かが取り去られたと感じました。そこで、いちじくの葉っぱで体を覆いました。しかし、聖霊に代わるものはこの地上にはありません。 ある人は、富み、名誉、名声、肩書き、能力、自己実現等を持って、自分の弱さを覆ういちじくの葉っぱを捜し求めます。しかし、これらは吹けば飛んでしまうようなものです。 私たちが、自分の弱さを感じる時に、それを恥じたり、隠したりするのではなく、それは、私たちが神の被造物であり、神のいのちの息が必要な存在であることに目を向けて下さい。神は、あなたの弱さをすべて知っておられ、聖霊をあなたに与えようとしておられます。 聖霊に満たされるとは、電気製品がのコードをコンセントに差し込むように、あなたといういう神の作品と神が直結されることです。いくらいい製品でも、電気が来なければ役に立たないように、私たちも神と直結されなければ弱いままであり、能力を発揮することが出来ません。 弱さは、私たちが神を必要とする存在であることを教えてくれます。ですから、弱さは宝なのです。弱さを通して神と出会い、一番大切なことを教えて下さいます。だから、弱さを恥じることも、隠さないで、むしろ誇りとして下さい。 弱さこそ、人間らしい姿であり、あなたらしい姿です。そして、お互いに弱さを見せ合い、そして、弱さを許し合い、受け容れあって行きたいですね。そうしたら、人生を生きるのが楽だし、楽しいし、充実してくるはずです。 弱さを楽しみ、弱い部分と神と直結させ力を頂いて下さい。よい一日でありますように。God bless you!
2006年07月20日
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夢は明日をつくるものです。これは確かなことです。これはまず神様が行なわれたことです。 神がはじめ、全宇宙の夢を持たれました。そして、その通りに造られました。そして、人間の姿を夢に描いて、アダムとエバというはじめの人を造られました。 しかし、悪魔は、その人間が罪を犯すという夢を持ちました。やがてアダムとエバは、悪魔の誘惑に負けて、その夢の通りに罪を犯しました。 しかし神は、その人類を救う夢を持ちました。それは、一人子イエス・キリストをこの地上に送ることです。そして、キリストを十字架に付けて殺し、復活させて、そのことによって、人類の罪を赦し、悪魔から解放し、病気をいやし、苦しみから解放し、地獄から救い出して天国に入る夢です。 この夢は、地球上の20億人の上に実現しました。そして、これからもそれに向かって進んで行きます。みなさん、夢が未来を造ります。 神様は、夢のお方です。そして、神に似せられて造られたあなたも、夢を見る人です。あなたの将来に対して、あなたの救いに対して、幸福に対して、夢を描いて下さい。 あなたの罪が赦され、聖霊に満たされ、健康になり、祝福され繁栄し、幸せに生きて天国に入る夢を持って下さい。 そしてあなたが幸せな結婚をし、よい仕事を行い成功し、豊かで幸せになるという夢を描いて下さい。夢は、それを描き、それを見つめた通りに実現していきます。それは、悪い夢もそうです。 もしあなたが、悪い未来が来てほしければ悪い夢を描いたらいいのですが、もし、悪い未来が来てほしくなければ、一切の悪い想像を脳裏から消し去って下さい。これは重要なことです。 今日あなたは、どんな夢を描き、何を描いて、見続けておられるでしょうか? 神様は、あなたが見たものをあなたに与えて下さいます。素晴らしい未来を共に描いて行きましょう。 今あなたが見ている夢が、あなたの未来となります。よい一日でありますように。God bless you!
2006年07月19日
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体操の塚原直也選手は、ある時、スランプに落ち込みました。 イメージトレーニングを入念にし、得意な技を練習しますが、本番では、ことごとく失敗を繰り返しました。 そして、自分がしてきたことに疑問を持ち、わけがわからなくなっていました。その時、同じ体操の選手だったお父さんが、見るに見かねて一言喝を入れました。それは、「基本をやれ!」ということでした。 体操の基本は倒立です。塚原選手は、それを百も承知でしたが、言われる通りに倒立をやってみました。ただそれを繰り返しました。そうしたらどうでしょう。一気にスランプから抜け出ることが出来ました。基本とは非常に大切なものです。 そして基本は、どんな世界でも同じように重要です。あなたに取っての基本は何ですか? それを忠実に行うことが、あなたの成功の鍵です。 私にとっての基本は、祈りと聖書です。馬鹿の一つ覚えのようですが、以前、神学校で学んでいる頃、学問の面白さに目覚めた頃がありました。そして、生意気に、自分の牧師に議論をしかけたこともありました。今思うと、何もわかっていなかったのに恥ずかしくなります。 また、有名な牧師にあこがれて、よいものをどんどん取り入れたり、真似をしたこともあります。しかし、一時的にはいいのですが、それは自分のものではなく、借り物ですから、すぐに続かなくなりました。 ある時は、説教の準備が全く出来なくなってしまうこともありました。その都度私は、基本に立ち返りました。祈りと聖書を読むことで、また立ち上がることが出来、続けることが出来ています。 私たちは、基本に忠実でありたいものです。その基本をやっている時に、応用も利くようになりますし、成長し、発展していくものだと思います。 もしあなたが、今日、行き詰まったり、スランプに陥ったり、問題にぶつかっていたとしたら、もしかしたら、基本をおろそかにしてはいないでしょうか? 今日もう一度、基本に忠実になられてみてはいかがでしょうか? よい一日でありますように。God bless you!
2006年07月18日
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7月15日~17日まで、神戸で8000人規模の集会が開かれました。 私は、それに参加するために、東京からはるばる神戸に来ました。一昨日は、その一日目で、昨日が二日目で、今日で終わりますが、とても有意義なひと時でした。 その中で強調して語られたのが、神のいやしでした。そして、集会中に、耳の聴覚がなかった人が聞こえるようになったり、車椅子に乗ったり、杖をついて来た人が、いやされて、自分の足で歩けるようになったり、色々な病気や心がいやされた人もたくさんいました。 聖書には、『イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも、同じです。』と書かれていますが、2000年前のクリスマスにこの世に誕生したキリストは、目には見えませんが、今も生きておられ、当時、罪人の罪を赦し、悪魔につかれた者を解放し、病人をいやし、死人をよみがえらせ、必要なものを与え、人々を愛されました。 ある宗教では、不思議なことや奇蹟を、見せつけて、その宗教や教祖に力があることを誇示しますが、キリストは、人々を「あーっ」と驚かせるためではなく、人々を愛されているので、奇蹟も行います。 キリストの救いは、人々の興味や関心を超えて、本当に必要なものを与えられます。罪の赦しと聖霊の満たし、病のいやし、人生の祝福、天国に入れて下さいます。そして、幸福な人生を生きられるようにして下さっています。 キリストは宗教ではなく、神の一人子であり、神との架け橋です。信じるだけで救いを与え、必要なことを愛の心で行って下さいます。 今回、家族でこの集会に参加しましたが、このキリストを、改めてみなさんに紹介したいと思っています。もし興味がなかったら、興味がある部分だけ読んで下さい。私は押し付ける気は全く無いからです。紹介したいと思っています。 毎日、色々なテーマで日記を書いていますので、またどうぞ、読みにいらして下さい。みなさんに神の祝福がありますように。God bless you all!
2006年07月17日
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世界中にあるキリスト教会では、日曜日を重んじています。それは、イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、死んで墓に葬られ、黄泉に下って、三日目の日曜日に復活されたからです。 そして聖書には、『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」』と書かれてあります。 クリスチャンは、毎週日曜日、キリストの復活を記念して、教会に集まって礼拝します。そして、一週間をリセットして、キリストから一週間をスタートします。 キリスト教国のアメリカでは、多くの人が教会に集まって神を礼拝しますが、毎週日曜日に教会に集まって神を礼拝するクリスチャンと、そうじゃない人の平均寿命を調べたそうです。そうしたら、結果、毎週礼拝する人が、平均10年は長生きするという結果が出たそうです。 日本人は、一週間休み無く働く人もたくさんいます。馬車馬のように必死に働いている日本のお父さんは偉いと思います。しかし、神は、人間を造られたお方です。そして、神の言葉である聖書は、人間の取り扱い説明書です。ここには、週一度は安息するようにと命じられています。 これが非常に重要です。携帯電話の充電が切れたら、充電器にセットしますが、私たちは、ただ週一度、あるいは二日、休んだり、趣味をしたり、家族と過ごすだけでは十分ではありません。力の根源である神と直結して、神から力を頂いて一週間をすることが理想です。 どうでしょうか? 日曜日は教会に行ってみませんか? あるいは、聖書を読んだり、神に祈ってみられたらいかがでしょうか? 必ず、リセットされることにないますから、ストレス解消を行うことになり、心の安らぎを得て、元気いっぱいに一週間をスタートすることができるのではないでしょうか? 私は宗教が大の苦手ですし、嫌いです。ある人から見たら、宗教の話をしているように感じるかも知れません。しかし、あなたの創造者である神と、あなたの救い主でありキリストの話以外はしていません。 宗教は、御利益と因果応報が伴います。御利益はありますが、そのためには、罪滅ぼしのために何らかの業やお布施が必要です。しかし、キリストは、信じるだけで救って下さるのです。そして、天国に入れて下さいます。それは、あなたが教会に通わなくても、今、キリストを信じるなら、今晩死んでも天国に入れます。こえを福音、ゴスペル、グッドニュース、もっと言えば、うま過ぎる話です。しかし、そこには、キリストの十字架と言う大きな犠牲があったからこそです。 日曜日は、何か、自分を超えた神について考える日とされてみてはいかがでしょうか? よい一日でありますように。God bless you!
2006年07月16日
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神戸は神の扉と書きますが、私は、そんな気がしてなりません。 阪神大震災が起こった直後、私は復興支援活動をするために、友人たちと神戸に来ました。 その時の姿が忘れられません。民家は焼く崩れ、ビルは倒壊し、高速道路は横倒しになり、本当に心が痛みました。 神は、大きな痛みのある神戸と共に苦しんで来られたと思いますし、いやし続けておられると思います。 今一見して、神戸の町は完全に建て直されていますが、心の深いところでは傷が残っているはずです。 聖書には、『主は心の打ち砕かれた者をいやし、彼らの傷を包む。』とあります。 神戸を神の扉として、神がこの地を訪れて下さり、この地をいやし、そして、日本全土をいやして下さるように願いします。 今の時代、いやし系というものがもてはやされますが、それは、みんな心にも体にもいやしを求めているからだと思います。 こんな歌があります。 ♪主の愛が今 あなたを包む 打たれた傷も いやされる 主の愛が今 あなたを包む 嘆き悲しみ 逃げ去る 傷ついた主の 愛の手が動き あなたの上に とどまる 全能の主の 愛の手が包み あなたの心を いやされる♪ 神こそ、いやし系のお方です。そして、あなたの心と体をいやして下さいます。 もし、いやしを求めるならば、自己流でいいですから祈ってみませんか、 「イエス様、私の神様、私をいやして下さい。」と。 祝福を祈ります。God bless you!
2006年07月15日
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星野富弘さんのお話は今日で終わりにしたいと思います。 星野さんは、高校の体育の教師になりましたが、実際に教えたのは二ヶ月位でした。この新任の体育教師は、宙返りの模範演技に失敗して首を折ってしまい、その日以来首から下が動かなくなりました。ですから、教師を退職しなくてはいけなくなりました。 しかし、実際に学校で教えることが出来なくなりましたが、今は、教科書に詩画が載せられていますので、教科書を通して子どもたちを教えることが出来ますし、きっとこれから、特別講義等もする機会があるだろうと思います。 みなさん、星野さんのの人生は、何倍にもなりました。しかしもし、人生をのろい、不平不満を言い続けたとしたら、きっと、そこで人生が終わってしまったと思います。しかし、そこで終わらなかったのは、イエス・キリストとの出会いがあったからです。その出会いが人生を変えました。 私たちは、誰も星野さんにはなれませんが、星野さんを通して学ぶことが出来るのは、どんな状況の中にあっても、どんな過去があったとしても、キリストと出会うならば人生が変えられることです。そして、過去が宝になり、すべてが輝き出します。 どうぞ、キリストに出会ってみたいと思いませんか? キリストはあなたを待っておられます。『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。』と両手を広げて迎えて下さいます。 良かったら、一緒に祈って見ませんか? 『神様、私を愛して下さりありがとうございます。イエス様が、私の罪のために十字架にかかり、死んで復活して下さったことを感謝します。イエス様を信じ、心の中に受け入れます。私を救って下さり、天国まで導いて下さい。アーメン。』 祝福をお祈りします。 みなさんの中で、ここまで読んで下さって、星野富弘さんのことを知りたかったら、サイトをいくつか紹介しますので、ご覧になって下さい。 http://www.yoshino.ne.jp/hoshino/index.htm 星野富弘さん花の詩画展 http://www.tomihiro.jp/ 富弘美術館 また、今日は星野さんのシリーズ最後なので、たくさんの詩を紹介します。 ありがとうございました。 「ひなげし」 花が上を向いて 咲いている 私は上を向いて ねている あたりまえのことだけれど 神様の深い愛を感じる 「やぶかんぞう」 いつか草が 風に揺れるのを見て 弱さを思った 今日 草が風に揺れるのを見て 強さを知った 「まむしぐさ」 ひとたたきで折れてしまう かよわい茎だから 神様はそこに 毒蛇の模様をえがき 花をかまくびに似せて 折りに来る者の手より 護っている やがて秋には 見かけの悪いこの草も 真紅の実を結ぶだろう すべて 神さまのなさること わたしも この身を よろこんでいよう 「しおん」 ほんとうのことなら 多くの言葉は いらない 野の草が 風にゆれるように 小さなしぐさにも 輝きがある 「れんぎょう」 わたしは傷を持っている でも その傷のところから あなたのやさしさがしみてくる 「がくあじさい」 結婚ゆび輪はいらないといった 朝 顔を洗うとき 私の顔をきずつけないように 体を持ち上げるとき 私が痛くないように 結婚ゆび輪はいらないといった 今、レースのカーテンをつきぬけてくる 朝陽の中で 私の許に来たあなたが 洗面器から冷たい水をすくっている その十本の指先から 金よりも 銀よりも 美しい雫が落ちている 「きく」 よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近いような気がする 強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする しあわせが集まったよりも ふしあわせが集まった方が 愛に近いような気がする 「どくだみ」 おまえを大切に 摘んでいくひとがいた 臭いといわれ きらわれ者のおまえだったけれど 道の隅で 歩く人の足許を見上げ ひっそりと生きていた いつかおまえを必要とする人が 現れるのを待っていたかのように おまえの花 白い十字架に似ていた よい一日でありますように。 God bless you!
2006年07月14日
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星野富弘さんは、自分の醜さと向き合う人でした。そして、一人の罪人でした。 イエス・キリストは、『健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。』と言われました。 ある人は、「私は罪人ではないので医者(イエス様)は必要ない。」と言いました。 しかし聖書は、この世の中に、罪人と罪のない人がいるとは教えませんでした。『義人はいない。一人もいない。』『すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることが出来ない。』と言われました。 ですから、この世の中には、罪を自覚した罪人と、罪を自覚していない罪人がいるのです。もし自覚症状がなければ、誰も病院に行きません。同じように、罪の自覚がなければ、誰も救いを求めようとはしません。 しかしみなさん、考えてみて下さい。私たちにはなぜ、苦しみや問題があるのでしょうか? また、世界には、戦争やあらゆる悪に満ちているのでしょうか? その答えは、人の罪のゆえです。 しかし、キリストだけが、この罪の問題を解決してくれました。キリストが十字架にかけられたのは、全人類と私とあなたの罪の身代わりです。そして、全人類と私とあなたを愛しているので、喜んで十字架で死んで下さいました。ここに救いがあります。 私たちが罪を知り、罪を自覚できたら、あとは救いを受けるだけです。そして、自分の醜さを直視することが出来、成長に向かえるはずです。星野さんは、そのようにして、キリストの愛によって罪が赦され、成長に向かって進んでいます。今日紹介する詩は、自分の醜さを嘆き、愛に生きたいと苦しみもだえる星野さんの心境が現れています。 黒い土に根を張り どぶ水を吸って なぜ、きれいに咲けるのだろう 私は大勢の人の愛の中にいて なぜみにくいことばかり 考えるのだろう 私たちも考えたいですよね。 よい一日でありますように。 God bless you!
2006年07月13日
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星野富弘さんの精神はとても健全だと思います。自分のあるがままを感謝して受け入れ、そして、決して、自己憐憫や自己卑下をしていません。 私たちは、もっと健全な精神を持たせてもらいたいものです。それは、星野さんに比べて自分は五体満足で幸せだということではなく、自分と人の比較をやめて、自分に感謝し、自分を生き抜く。そんな強い人にさせてもらいたいですね。その秘訣は、キリストの愛にあります。私たちもそんな愛を頂いて行きたいですね。イエス様はあなたを愛しています。 私の首のように 茎が簡単に折れてしまった。 しかし 菜の花は そこから芽を出し、 花を咲かせた。 私もこの花と同じ水を飲んでいる。 同じ光を受けている。 強い茎になろう。 よい一日でありますように。God bless you!
2006年07月12日
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昨日に引き続き、星野富弘さんの詩を紹介したいと思います。 星野富弘さんは、イエス・キリストの救いを受けてから、あらゆることに感謝する人になりました。第一には、イエスさまにですが、第一と負けず劣らないのが、お母さんに対してです。付きっきりで看病してくれたお母さん。何度も、自分のやるせなさをぶつけたけどそれを受け止めてくれたお母さん。いつもそばにいて支えてくれたお母さん。そんなお母さんに対する感謝が次の詩に込められているように思います。 神様がたった一度だけ この腕を動かして下さるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう。 風に揺れる ペンペン草の実を見ていたら そんな日が、 本当に来るような気がした。 私たちは、ともすると、感謝を忘れてしまうことがあります。当たり前の事と思って、無感覚になっていることがあるかも知れません。しかし、この詩を通して、感謝すべきこと、感謝すべき人を思い起こして、その気持を伝えたいですね。 よい一日でありますように。God bless you!
2006年07月11日
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みなさんは、星野富弘さんをご存知ですか? 教科書やJAFの表紙を飾っている絵と詩を見られたことがあるでしょうか? この詩画を見た時に、元・高校の体育の教師であり、学生への模範演技の宙返りに失敗して、首の骨を折り、首から下は全く動かない人が、口に筆をくわえて描かれたのを知らなくても、なんと暖かく、慰めに満ち、ユーモアがあり、優しさを感じられるだろうと思います。 星野富弘さんは、事故当時、人生に失望し、絶望し、いつも怒っている人でした。そんな星野さんの元に、一人の牧師が訪問し、聖書の話をしました。それを聞いた星野さんは、キリストを信じ、その人生が変えられてしまいました。そして、いつの日からか、感謝と喜びを口にするようになり、その感謝と喜びを詩と絵に表現するようになりました。 口に筆をくわえて描く詩と絵には、星野さんを救ったキリストの愛が満ちています。それは本物の救いです。 有名になった星野さんに、あるインタビューアーが質問しました。「星野さん、もし生まれ変わったとしたら、神さまに健康な体を与えてもらいたいと思われるでしょうね。」星野さんはすぐに、「お断り致します。今のままで十分に幸せです。」言われました。それは、本物の救いが星野さんに与えられていることを現していると思います。 星野さんの詩を通して、神に愛されている喜びを共に味わえたら幸いです。一つの詩を紹介します。 木は、 自分で動きまわることができない 神さまに与えられたその場所で 精一杯枝を張り 許された高さまで 一生懸命 伸びようとしている そんな木を 私は友達のように思っている 祝福がありますように。God bless you!
2006年07月10日
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あなたは物事がうまく行かないような時に、自分に不平不満を言う癖はないでしょうか?そして、もしこのような癖が少しでもあるならば、それが自分に取ってプラスになったと感じたことがあるでしょうか? 自分に不平不満を言うのは、それなりの理由があると思います。しかし、この癖は事態をますます悪くさせるだけです。そんな時は、ありのままの状態を受け止めて、事態を好転させることに力を入れたらいいのですが、不平不満を言うならば、みじめな気分になり、被害者意識が出てきますし、その通りになってしまいます。 不平不満を言う理由は、人生の暗い部分、陰を見ているからなのです。陰の180度反対側には何があるでしょうか? 光があります。 ひまわりの花は、太陽に向かって向きを変えながら咲きます。私たちも、あのひまわりのように明るい方向に向かって向きを変えながら生きていきたいものです。 聖書に書かれている悔い改めとは、心の向きを変えることです。闇から光に向かって、悪魔から神に向かって、病気から健康に向かって、問題から祝福に向かって向きを変えることです。 私たちの口から不平不満が出て来る原因は、人生の光の部分を見ていないからです。暗い部分を見て、そして、そのまま口にしているのです。しかし、言葉で発することは、そのまま感情に直結してみじめで、暗く、被害者であるという気持ちになります。また、それにふさわしい行動を取ってしまいます。 イエス様は、「悔い改めなさい。天国が近づいたから。」と言いました。それは、わかりやすく言えば、手を伸ばせば届く所に天国があるから、あなたの心の向きを変えなさい。ということです。 どうぞ、一緒に今日、心の向きを変えましょう。そこには、罪の赦しがあり、神の霊(聖霊)の満たしがあります。また、心と体の健康があり、人生の祝福があります。そして、天国の鍵があります。それを手に取って下さい。それはあなたのものです。 イエス・キリストは、あなたのために十字架でそれを与えて下さいました。そうしたら、もう不平不満を言う必要がなくなるのです。 今日から、不平不満を言う癖を終わりにしましょう。代わりに、感謝と喜びとありがとうを口にしたいですね。そうしたら、あなたの気分は幸せになり、事態は好転し、最高の人生がはじまります。祝福を祈ります。God bless you!
2006年07月09日
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世の中の人たちは、クリスチャンのイメージを勝手に作ってきました。それは、タバコやお酒を飲まず、まじめで、柔和で、堅い、暗い、つまらないというものです。本当にそれがクリスチャンなのでしょうか? 例えば、ある人のことがうわさになったとします。「あの人クリスチャンなんだってよ。」「やっぱりなー、真面目だもんなー。」これがクリスチャンの証になっていると考えられてきました。 私は今、教団・教派、宗派を超えた交流をさせてもらっているので、これがすべてでないことを知っています。日本に宣教に来て下さったアメリカの宣教師は、ピューリタン学派の人々でした。それがたまたま、真面目さを売りにする流れの人たちでしたので、(そこにも、神様のご計画があったと信じます。)当時の日本人は、そのクリスチャンを見て、自分なりにクリスチャンのイメージを作り上げて行ったのだろうと思います。 イエス様はどういう人だったでしょうか? 「大食いで、大酒のみである」と言われ、罪人どもと一緒に食事をし、弟子たちも気荒な者が多く、病人がたくさん集まりました。そして、足元には、遊女がいました。しかし、そこには、大地のような包容力とキャパシティーを持った、愛そのものとして存在しておりました。そして、過去や未来だけではなく、今抱えている問題に答え、救いを与えられました。 クリスチャンとは、小さなキリスト(リトル・クライスト)となって、堅い、まじめなのが悪いと言ってるのではなく、そういう狭さ、そういう堅さ、そういう排他性ではなく、もっと明るく、伸び伸びと、広い心で他者を愛し、許し、受け入れ、その豊かな人格を見る人が、「あの人クリスチャンらしいらしいよ。」「そうなんだ、クリスチャンっていいよねー。私達もクリスチャンになりたねー、今度私たちも教会に行ってみようかしら。」そう言って、日本の人々が救われるのではないでしょうか。 そのために、人は交流し(交わり)、触れるものに似ます。夫婦が、年を重ねるごとに、似たもの夫婦だと言われるように。私たちも、イエス様といつも交わり、イエス様に触れ続けるならば、力んだり、気張ったりしなくても、自然にイエス様に似た者となり、イエス様の香りを放つようになります。 明日は日曜日です。イエス様を礼拝し、イエス様と交わるために、教会に行きましょう。イエス様は、あなたと交わりたいと願い、あなたを待っておられます。
2006年07月08日
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誕生日をお祝いしてもらったら、通常うれしいものだと思います。昨日は、みなさんからのたくさんのメ―ルと、コメントをありがとうございました。本当にうれしかったです。 誕生を祝ってもらってうれしいのは、それが無条件の愛だからだと思います。それは、「生まれて来たことをお祝いします。うれしく思います。」そして、もっといえば、「生まれて来てくれてありがとう。」というメッセージを伝えることであり、そのメッセージを受け取りました。 私たちの心の中には、「こうあるべきである!」「こうであってはいけない!」そして、「存在してはいけない!」「お前であるな!」「近寄るな!」「属するな!」「成長するな!」「子供であるな!」というような禁止令を誰でも持っていると思います。しかし、それらは条件付の愛です。「その条件に合えば愛するけど、そうじゃなければ愛さないよ」ということです。 しかし神は、私たちの中にある禁止令に対して、それを打ち消す許可令を与えて下さいます。「本来はこうあるべきであり、こうあってはいけないにも関わらず、そのままで愛しているよ。」ですから、神はあなたに対して、「存在してほしい。存在しなさい。」「お前であってほしい。自分を作る必要はない。」「近寄っていい。おいで。」「属していい。大丈夫。」「成長しなさい。あなたには無限の可能性があるから。」「子供であっていい。ありのままでいいよ。」と。このような許可令が、私たちの居場所を与え、喜びを与え、心の底から安心して生きれるようにしてくれます。 誕生日のお祝いのメッセージは、これに近い無条件の愛を伝えるものです。私たちは、これを伝え合って行きたいものです。これを、伝えることでお互いに幸せになりますし、まわりが幸せになります。これは、言葉を変えるならば、「あなたを愛してます」と伝えることになるからです。 しかし、敵対している人や嫌っている人には、誕生日のお祝いを伝えたいとは思いませんし、おそらく伝えてくれないだろうと思います。しかし、私たちは、そのように思う相手であったとしても、誕生日がわかったら、お祝いしてあげて下さいネ。また、お祝いのカードを贈ったり、プレゼントを手渡したり、言葉で「おめでとう」を伝えましょう。 これは、繰り返し言いますが間違いなく愛ですから、愛することで、お互いの気分が良くなりますし、幸せになります。強調するべきことは、それをしてもらった人以上に、それをした人が幸せになります。 もちろん、昨日私は、最高に幸せでしたし、「愛されている」と感じることが出来ました。そして、それを伝えて下さったみなさんも、最高に幸せだったでしょう? 短い、たった一度の人生です。一言「おめでとう」を言ったからといって、何かが減る訳でもありませんし、損をする訳でもありません。思い切って勇気を持って、お誕生日のお祝いを伝えて参りましょう。 そのために、大切な人の誕生日をスケジュール帖に書き込み、前もって準備をするくらいがいいと思います。そんな少しの「おめでとう」で、お互いによい気分になれるならば最高じゃないですか。 みなさんに心から感謝をします。これからもよろしくお願いします。God bless you!
2006年07月07日
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早いもので35歳を迎えました。考えてみれば、人生の約半分をもう生きてしまったんだという重みを感じています。 みなさんからの、たくさんのお祝いメールをありがとうございました。誕生日をお祝いしてもらえるのは、いくつになってもうれしいものです。本当にうれしかったです。 また今日は、結婚9周年記念の日でもあります。結婚したての26歳の私は、まだまだ若かったなーと思います。今では、3人の子供の父親であり、一つの教会の主任牧師であり、様々な責任が与えられています。 26歳の時、私は、キリスト教の伝道師の資格を受けました。あの頃を思い出しますと、まだまだ若かったし、青二才でした。そして、26歳のあの日、希望に胸を膨らませて、アメリカに留学しました。 26歳のあの日、私はとてつもなく大きな夢を描いていました。そのある部分は実現しましたが、あとは、これからの10年に期待したいと思っています。 色々なことを思い巡らしていますが、私の35年間の人生を振り返る時に、私を変えた大きな出会いを思い起こします。 まずは、私を生んで育ててくれた両親。本当に心から感謝をしています。 次に、何と言っても、私を救って下さったイエス・キリスト様です。これ以上の出会いはありませんし、私の人生を180度変え、最高に素晴らしい人生へと導いて下さいました。 そして、妻や子供たちとの出会いは、私の人生を何倍にも幸福にしてくれています。本当に感謝です。 それから忘れてはいけないのが、みなさんとの出会いです。私は、みなさんと出会えたことは決して偶然とは思っていません。神様が意図し、導き、出会わせて下さったと信じています。ですから、この関係を、一生大切にして行きたいと思っています。どうぞ、これからもよろしくお願いします。 みなさんがいつもいらして下さり、私の文章を読んで下さり、コメントをして下さるので、このインターネットでの働きを続けることが出来ます。本当に言葉にならない程の感謝をしています。ありがとうございます。 みなさんとの交流を大切にしながら、これからの35年間を大切に生きていきたいなーと思います。 毎日の目まぐるしい忙しさの中で、立ち止まって人生を考えることもしていなかった私ですが、この誕生日を機会に、じっくり人生を考えて行きたいなーと思っています。 人生は、あっという間に過ぎ去ってしまうものです。その一瞬一瞬を感謝し、楽しみ、じっくり味わいながら歩めたらいいなーと思います。 みなさんに心から感謝を致します。 よい一日でありますように。 God bless you!
2006年07月06日
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バウンダリーズという言葉を聞いたことがあるでしょうか? これは、カウンセリングの中で度々使われる重要な言葉です。日本語に直訳しますと、境界線という意味になりますが、私たちの健康を守り、自分の才能を発揮するために重要なことです。 それは、私たちの人間関係の中で、明確なバウンダリーズを設定して、『イエス』と『ノー』をはっきりとさせることが自分自身を守ることになります。それは、私たちは日常生活の中で、周りの人々から様々な要求を受けるからです。 人間関係に悩む人の多くは、自分に自信がなかったり、相手の反応を恐れたりして、『ノー』を言えません。「クリスチャンであるから何を頼まれても受け入れる愛の人でなければいけない。」とか、相手の要求を断ることはいけないことであったり、嫌われることであるように勘違いをしているかも知れません。 しかし、その結果として、肉体的、精神的な疲労困憊を招くことがあります。この状態では、自分の才能を発揮することも出来ませんし、正常に生きることも出来なくなってしまいます。 ですから、私たちは、自分の才能や自分のキャパシティー、神からどんな使命やビジョンが与えられているかを知って、それに合わせてバウンダリーズ(境界線)を引くことが大切です。そして、それに従って、『イエス』と『ノー』をはっきり言うことです。これがあなたとあなたの健康を守り、あなたの才能が最大限に発揮され、あなたらしく生きることが出来るはずです。 ここ最近、日本の企業の経営者たちの間で広まってる概念に、選択して集中することがあります。バブルの時代は、やることなすことが成功し、うまく行きましたが、今の時代は、激しい競争と不況の嵐の中にあります。そんな中では、本当に利益が出るものを選び、エネルギーを集中させなければ生存競争に生き残ることは出来ません。 今は、あれもこれもの時代ではなく、自分の本業、自分の才能、自分の分野を一つに絞り込んで、そこに集中して行くことが大切です。もう一度、あなたのバウンダリーズを引き直して見ませんか? イエス様は聖書で、『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。』と言われました。 あなたの優先順位を整理して、健全なバウンダリーズを設定し、それに従って『イエス』と『ノー』をはっきりさせて行きましょう。それがあなたを守ります。祝福をお祈りします。God bless you!
2006年07月05日
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愛は惜しみなく奪うものであるという言葉を聞いた事がありますが、なるほどなーと思わされましたが、少し背筋が寒くなりました。 聖書は、『愛しなさい。』という一言で要約できます。しかしイエス様は、『私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。』と言われました。 この言葉を聞いたある人は、「聖書にこう書いてあるのだから、私をもっと愛してよー。」と反応しました。しかし、確かに互いにという言葉が付いていますが、これは、それぞれの人に対して、「ただ愛しなさい。」と語られたのです。 しかしながら、この『愛しなさい。』は愛せるということが前提ではなく、愛せないということが前提で書かれています。イエス様は、『あなたの敵を愛しなさい。』と言われました。敵を愛せる人がいるでしょうか? 敵を愛したら、その人はもう敵ではないのです。 『愛しなさい。』と言われても、出来ないということが前提ですが、だからと言って、『私を愛して。』と愛を要求したら、その要求が強い分だけ不幸になります。それは、まず願う愛を満たしてくれる人はいないからです。 この『愛しなさい。』とは、三つのことを教えます。第一には、私たちは、愛のない罪人であるということ。第二には、愛は神にしかないこと。第三には、神によってのみ愛せるようになるということです。それは、祈りということです。自分の中に愛がないと思うからこそ、「愛を下さい」と祈るようになるものです。そして、愛せるようになったら、その人の人生は必ず幸せになります。人を愛して不幸だという人を見たことがあるでしょうか? まず、あなたがクリスチャンであるならば、毎週教会に行って礼拝をささげますが、礼拝の中での愛の実践は、牧師の説教を聞いて、笑顔でほほえみ、うなずきながら聞いて下さい。それが愛の実践です。 また、この文章を読んで下さったみなさんに取っての愛の実践は、それに対して笑顔で肯定的なコメントをや言葉を残して下さい。そうしたら、書いてもらった私もうれしいですが、誰よりも書いたあなたがうれしくなるはずです。愛したら、その人が幸せになれるからです。 そして、出会うすべての人に、自分に取って一番大切な人であるように接して下さい。愛とありがとうを表現して見て下さい。そうしたら、あなたは必ず幸せな気分になれるはずです。 聖書が『愛しなさい。』と語るのは、神がみなさん一人一人に幸せになってもらいたからなのです。 試しに、誹謗中傷やうわさ話をして見て下さい。すぐに気分が悪くなるはずです。しかし、愛は、そのようなことをやめることです。そして、相手のいい面を見てほめることであり、相手のマイナスな面を見て許すことであり、相手のすべてを受け止めることです。 しかし、繰り返しますが、私たちには愛はありません。ですから、愛を祈り求め、神から愛を頂いて、その愛で愛をはじめて下さい。イエス様はあなたを愛しています。ただ愛して参りましょう。祝福を祈ります。God bless you!
2006年07月04日
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マザー・テレサという一人のクリスチャンは、ある時「私たちはこの世では大きいことはできません。小さなことを大きな愛をもってするだけです」と言いました。 私たちは、大きなことをしようと雄大な計画を立てたり、夢を描くことがあると思いますが、そればかりに気を取られていますと、たった今、小さなことをするチャンスが失われてしまうことがあります。 ある一人の知り合いは、「私はもっと色々なことをして、人の役に立ちたい。しかし、残念だけど今は何もできない。いつか自分が成功して、お金があり、与えるものがたくさんあるようになったら是非したい。」そして繰り返し、「今の自分には何もできない」と話していました。 しかしその間に、多くの助けを必要としている人がいます。ひとことの優しい言葉をかけられたい寂しい人たちに、優しく声をかけ、目が不自由で、恐る恐る歩いている人の手を握ってあげたり、道にごみが無造作に捨ててあるのを、拾ってごみ箱に捨てたり、また、家族の中に、あなたの助けを必要としている人がいるのではないでしょうか? マザー・テレサは、世界を変えることが出来なくても、自分の身の回りの人に手をさし伸ばし、少し暮らしやすくしたり、その町を少し明るくすることを実践していました。それは小さな親切の積み重ねでしたが、結果としては、世界に影響を与えました。しかし、これは結果に過ぎません。 ある偉大な伝道者が、若き日に世界を変えるという夢を描いていました。しかし、年が経つにつれて、「それは難しい。せめて自分の国だけでも。」と思うようになり、今度は、「せめて、自分の住んでる地域だけでも。」と思うようになり、もう少し年を重ねて、「せめて、自分の家族だけでも。」と思いましたが、晩年には、それも難しく、「せめて、自分だけ変えることができたら。」と思うようになりました。しかし、自分が変わったら、家族が変わり、家族が変わったら、地域が変わり、それがやがて国を変え、国々に影響を与えるのだと気づきました。そして、「このことにもっと早く気づいていればなー。」と深く溜息をついたそうです。もちろん、人生の晩年であっても遅すぎることはありません。 大切なのは、自分を変えることではないでしょうか? 今できる小さな親切を無価値なものと思ったり、損得勘定で計算したり、めんどくさがったり、正当な言い訳を考え出して何もしていなかった自分を変えて、小さなことをする。しかし、それに、大きな愛を込めて。しかし、そのことを喜ぶ人がいるし、一生忘れない人もいるかも知れません。少しだけかも知れませんが、その場所を明るくできるかも知れません。あるいは、世界に影響を及ぼすことができるかも知れません。どうぞ、小さな親切をはじめてみて下さい。
2006年07月03日
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今の世の中には、結婚が出来てもしない人、結婚がしたくても出来ない人に満ちています。 30代になって結婚出来ない独身女性を「負け組」という呼び方をするそうですが、しかしもしかしたら、結婚をして、家庭や子育てにしばられている女性よりも、独身で仕事をし、伸び伸びと生活をしている女性の方が幸せかも知れません。幸せかどうかは、その人自身が決めることであり、感じることだと思います。 しかし願わくは、結婚をし、幸せな家庭を築くことが出来たら素晴らしいと思います。 まず、幸せな結婚のためには、やはりお互いが健康であることは大切ですが、障害を持った人同士の麗しい家族を知っています。 また、年齢の問題があったりもしますが、アメリカなどでは、90歳近くになって再婚をする人もあります。ですから、年齢も究極的にはあまり関係ありません。 また、誠実であるとか、親離れし、精神的に自立していることも重要な要素です。 しかし、幸せな結婚のためには、まず、自分のことよりも相手を思いやれる人であることが大切です。相手のあるがままを包み、許し、受け止められることです。 夫婦は、生まれた環境も育った環境も違います。また、男と女の違いがあります。ですから、価値観が違って当然なのです。結婚をしたことがない人は、自分は大丈夫だと思うものだろうと思いますが、これはとてもやりがいのあることです。 しかし、相手を自分のことのように考え、思いやることが出来るためには、ここに一つの薬があります。それは、自分自身をそのままで受け入れることです。それは、自分自身を好きになり、高いセルフイメージを持つことです。 それが備わっている人は、どんな人でも受け入れることが出来ます。つまり、自分を受け入れてる分量と他者を受け入れられる分量はイコールで結ばれるのです。 ですから、人を受け入れることが難しい人は、自分を受け入れていないという事実にまず気づくことが必要です。また、両親や片親をありのままで受け入れられない人は、間違いなく自分を受け入れられていません。 そこには、心の中に禁止令が存在するかも知れません。「こうあるべき!」「こうであってはいけない!」というようにあなたのあり方を禁止する命令です。「存在してはいけない!」「お前であるな!」「近寄るな!」「属するな!」「成長するな!」「子供であるな!」こういったものを両親や養育者から聞かされ続けたら、自分を受け入れることは難しいです。 しかし、自分を受け入れるためにはどうしたらいいでしょうか? その鍵は、神を受け入れることです。神はあなたの中にある禁止令に対して、許可令を与えて下さいます。「存在しなさい。」「お前であってほしい。」「近寄っていい。」「属していい。」「成長しなさい。」「子供であっていい。」と神は語って下さいます。 神は愛であると聖書は語ります。愛とは、自分のすべてを見せても、なおも変らず愛し受け入れて下さることです。 人にはこの愛はありません。会社に行けば、仕事がよく出来て、失敗が少なく、一生懸命な人が好かれます。そこには条件があります。また、学校では、成績のよい人や素直な人が好かれます。ここにも条件があります。また、家に帰っても、親のいうことをよく聞き、成績がよい子がかわいがられます。どうじても、人間の中には条件付の愛しかないのです。 しかし、神の愛は無条件です。すべての過去を見せても、そのまましっかりと受け止めて下さいますし、愛して下さいます。この神の愛に出会った人だけが、あるがままの自分自身を受け入れ、他者を受け入れることが出来るのです。 そのようにして、幸せな結婚生活を送る事が出来るのです。しかし、今日の文章は、幸せな結婚という枠に限らず、これはどんな人間関係にも当てはめることが出来るはずです。 幸せな結婚というテーマにしたのは、独身の人には、よい結婚をしてもらいたいですし、既婚者には、より幸せな家庭を築き上げて行ってほしいからです。そのためには、相手のあるがままを許し、受け入れることですが、それは出来るようで難しいとです。その秘訣は、自分を受け入れることであり、そして、その自分を受け入れる秘訣は、自分のありなままを愛して下さる神を受け入れることです。 この神の愛が、幸せな結婚、幸せな人間関係を築いてくれるはずです。どうぞ、この神の愛に出会って下さい。そのために、一言一緒に祈って下さい。「神さま、私は今まで、どこから来て、どこへ行くのか知らずに、さまよって生きてきました。しかし、神の愛があることを知り、今、心の中心にイエス様を信じ受け入れます。私のあるがままを愛して下さり感謝します。その愛を感じれるようにして下さり、私を導いて下さい。アーメン。」 あなたは愛されるために生まれた人です。そして、愛するために生まれた人です。幸せな結婚と人生をお祈りします。God bless you!
2006年07月02日
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私たちは、世間の評価を気にするあまり、他人からのマイナスの評価をまともに受け止める傾向があります。私たちは、自分の人格や行動、正確やあり方を他人が正確に評価していると錯覚しているのではないでしょうか? しかし、他人が私たちをどれくらい正確に評価しているかは極めて疑問です。人は、自分を基準にして他人を判断します。だから、自分に対する他人の評価は間違っていることの方が多いものです。 あなたが今のあなたになったのがどうしてなのかを、あなたの生まれや育ち、人生経験をほとんど知らない赤の他人がどうして理解出来るでしょうか? あなたに対する他人の評価は、その大部分が不正確ば可能性があるということを念頭に置いておいた方がいいです。 しかし大切なのは、あなたを造り、あなたを愛し、あなたのすべてを知り尽くしている神の評価を知り、受け入れることです。これこそ大切なことであり、私たちのアイデンティティを確かにします。 あなたは神の目には、高価で尊い存在であり、愛されています。罪がキリストの十字架のゆえに赦され、聖霊に満たされ、心と体の病が癒され、人生のすべての領域が祝福され、天国に入る人です。誰が何と言ったとしても、あなたのすべてを知り尽くした神の評価が絶対なのです。 これを信じて生きる人をクリスチャンと言いますが、これは特別なことではないのです。世界の60億の人口のうち20億人はこれをすでに受け入れていますし、今この瞬間にもそれを信じることも出来ます。 そのための祈りを良かったら一緒にしてみませんか? 『愛する神様、私は罪人です。私の罪のために一人子イエス・キリストが十字架にかかり、三日目に復活して下さったことを信じます。今、イエス様を、私の心の中にお迎えします。私を救って下さり。天国に行く日まで導いて下さい。アーメン。』 この祈りを真心からささげられたならば、今からあなたもクリスチャンであり、神の子であり、確実に天国に入れます。 神の評価こそ真実な評価であり、自尊心を高く持つことが出来、自分を信じ、自分を健全に愛し、また、同じように、他者にも愛と尊敬を持つことが出来ます。そんな生き方をしてみませんか? これがあなたの悩みや、あなたの苦しみや、あなたの問題を解決し、精神的な病も癒します。そんな生き方をお奨めします。 これは、キリスト教を薦めているのではなく、あなたを愛している神を信じて生きることをお奨めしたいです。よい一日でありますように。God bless you!
2006年07月01日
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