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Merry Christmas 2006 & Happy New Year 2007いつも日記を読みに来て下さり感謝を致します。今週は、年一度の一週間の休暇を頂きますので、日記の更新もお休みさせて頂きます。次回は、大晦日か元旦に更新させて頂きます。お休みの間、日記を読めない代わりに、聖書を一章読んで見られたらどうでしょうか?きっと、大きな恵みが心一杯に与えられるはずです。祝福をお祈りします。また来年も宜しくお願いします。
2006年12月25日
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1818年のことでした。いよいよクリスマスというある日の午後、オーストラリアのオーベルドルフという小さな村の教会で、一つのハプニングが起こりました。村の学校の校長先生はグルーバーという人でしたが、この先生は教会のオルガン奏者でした。大事なクリスマスの礼拝のため、練習しておこうと、教会のオルガンの前に座り、ペダルを踏みましたが、さっぱり音が出ません。先生はまっさおになりました。調べてみると、ねずみが空気ぶくろに穴をあけたことがわかりました。すぐに修理など、とてもできる状態ではありません。先生は生きた心地がしませんでした。たいへんなことになりました。そこに、牧師のヨセフ・モーア先生がやってきました。「グルーバー先生。オルガンがだめなら、ギターがあります。これは私がつくった詩ですが、先生、ギターで歌えるように、曲をつけてください。」きよしこの夜 星はひかり救いの御子は まぶねの中にねむりたもう いとやすくきよしこの夜 み告げうけしまきびとたちは 御子の御前にぬかずきぬ かしこみてきよしこの夜 御子の笑みにめぐみのみ代の あしたのひかりかがやけり ほがらかにその詩は、前日、モーア牧師が、赤ちゃんの生まれた山小屋の家族を見舞ったあと、雪明りの中を下山したとき、あまりの静けさと、聖らかな美しさに深く感動して描いたものでした。詩を読んでいくうちに、グルーバー先生の心に、熱いものがこみあげてきました。イエス様がお生まれになった夜は、きっとこの詩のとおりだったにちがいありません・・・。こおりついた雪を踏みしめ、教会に集まった村の人たちは、生まれてはじめて、オルガンなしの礼拝を経験しました。ところが、ギターとともに聖歌隊が歌うこの讃美歌の、シンプルな美しさに深く感動しました。こうして、ジレルタルの谷間に流れた「きよしこの夜」の歌は、歌いつがれて、ついに全世界をつつんでしまったのでした。もしも、オルガンがこわれなかったら、この讃美歌は世に現れなかったでしょう。ですから、現実に起こるどんな問題やハプニングにも負けることなく歩んで行きたいものです。この讃美歌が最高のマイナスの状況の中にあって、最高のプラスの出来事として作られたように、御子イエス・キリストを信じる人生は、すべてのマイナスの出来事が、最高のプラスに変えられるのです。クリスマスのメッセージとは、大逆転のメッセージなのです。
2006年12月24日
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今年の世相を表す言葉として一般公募の中で選ばれたのが「命」です。生まれた命・・・秋篠宮紀子さんが出産。皇室に約40年ぶりの親王「悠仁さん」の誕生。絶たれた命・・・いじめによる子供の自殺が社会問題に。履修漏れの責任をとって校長も自殺をし。奪われた命・・・飲酒運転による交通事故、虐待による殺人が多発。竜巻で命を奪われた人も。命の不安・・・北朝鮮が核実験をし、高齢者の医療費が増大し、臓器移植問題、医師不足ということも言われました。一つ言えることは、命は一つしかないということです。神は、一人の命を、地球一つより遥かに重いものとして創造され、見ておられます。「なぜ人を殺してはいけないのですか?」という子どもの質問に答えられない親や教師が多くいると聞きます。一体なぜ、人を殺してはならないのでしょうか?それは、神様が造られたものであり、神のものであり、神が大切に思っているものであるということを言わなくても、「自分が殺されたら嫌でしょ? だからいけないのよ。」と言えないでしょうか?機械ならば、部品を変えればすみますが、人はそのような訳には行きません。私は10代の頃、バイクに夢中になっていました。そんな時に、「バイクや車には変えのパーツがあるけれど、人の体にはそれがない。一つしかない命を大切にしよう。」ような標語を目にした記憶があります。それは心に染みました。今年は、一つしかない命の重み、大切さを痛感した一年でもありました。どうぞ、お互いに、命を尊重し、大切にして参りましょう。それは、イエス様が、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」と言われたように、隣り人の命を大切にして行きましょう。人を批判したり、中傷したりしたくなったら、ちょっと考えてみましょう。あなたがそれを言われたとしたらうれしいですか?イエス様は、人を殺さなくても、人に対して「ばか者」とか、「能なし」と言うならば、殺人を犯したのであると教えられました。どうぞ、愛とは、高尚なことを考える必要はありません。相手を否定しないところからはじめたらどうでしょうか? 相手の噂話をしない、相手の悪口を言わないということです。神様は、私たちに人間に、口を一つと、耳を二つつけて下さったことには理由があります。それは、聞くに早く、語るに遅くなるということです。少なくても、語ることの二倍は耳を傾けて聞きたいものです。よく、「聞き上手は話上手」と言われますが、そうだなーと思います。しかし、人は話していたいものだなーと感じます。電車に乗って、近くのおばさんたちの話を聞くとはなしに聞いていますと、相手が話していても、それを聞いているのではなく、切れるかな?切れたかな?と思った瞬間に、もう一方がしゃべり出します。話はお互いに一歩通行のような感じがしました。命を大切にすることを考える時に、言葉を慎む、言葉を吟味するところからはじめたらどうでしょうか?人は、人から変えられようとして変われるものではありません。もし、それで変わった人がいるならば、博士号を授与してもいいでしょう。しかし、もちろん、ひねくれるという形で変ることはあるでしょう。しかし、変わってほしいと願った通りに変えられることはまずありません。あなたは、自分の身近な配偶者や友人、知人、兄弟を変えようとして、それに成功したことがありますか? まずいないだろうと思います。それは、失敗者のやることです。コミュニケーションを知らず、人間関係をうまく持てない人のやり方です。そんなやり方は直ちにやめるべきです。そして、命を大切にするとは、相手のいいところを見て、ほめてあげることです。もしかしたら、あなたのほめるただ一つの言葉が、相手に取って一生忘れられない言葉になるかも知れません。人を生かすも殺すも、言葉一つで出来てしまいます。人の命を尊重し、大切にし、愛して参りましょう。それは、あなたの口が発する言葉からです。よい言葉の達人になりますように、祝福をお祈り致します。God bless you!
2006年12月23日
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昨日、路上生活者(ホームレス)の人を襲撃して殺害した人が逮捕されました。これは何と痛ましい事件でしょうか?しかし、警察の調べでわかって来た事は、主犯格の男性は、中学生時代にいじめられた経験があるようです。今多くのいじめがありますが、そのほとんどの人が、かつていじめられた経験があると言われています。両親からの愛を受けられなかったり、甘やかされて育ったり、虐待を受けたり、また、学校において、同級生などからのいじめなどです。ですから、いじめは連鎖するのです。いじめられたいじめられっ子が、今度はいじめっ子になって、他の人をいじめます。それはいつも、弱者が弱者に対していじめます。なぜならば、いじめられた傷は、無抵抗で受け止めてくれる誰かにぶつけることで晴らすことが出来、解消できると考えるからです。しかし、人にぶつけても絶対にその心の傷は癒されませんし、相手は人ですから、今回の事件のように死んでしまう可能性があります。親を暴力で殺してしまう子どもの多くは、学校でいじめに合っている子だとも言われます。しかし、親もその怨念と鬱憤を受け止め切れません。ストップ!また、インターネット上で嫌がらせをしたり、誹謗中傷を繰り返したりする人も、何からのいじめを経験した人だと言われています。そして、職場で部下を冷たく扱ったり、嫌がらせをしたり、嫌味を言う人も、かつては上司からそのようにされた人だと言われます。あるいは、いじめをほとんど経験していないのに、いじめをする人の特徴は、自分で自分をいじめています。自分を否定し、責め、過小評価したり、他の人と自分を比較してみたりして、自分に鞭を打ちます。しかし、ストップ!いじめに終止符を打ちましょう。今日、それらの怨念や鬱憤、たの人を攻撃したり、いじめたい衝動を、イエス・キリストの十字架に向けて下さい。イエス・キリストが鞭打たれ、嘲られ、十字架に両手両足を釘打たれ、茨の冠を被され、わき腹を槍で突き刺され、死なれました。あなたの心の傷、憎しみ、怒り、怨念、鬱憤、やるせない感情もろともぶつけてみて下さい。あなたがそれを自分にぶつけたり、人にぶつけるのは間違いです。イエス・キリストにのみぶつけて下さい。そうしたら、キリストは血を流し、激痛のゆえに叫びを上げられ、ついには息を引き取って死なれます。あなたのすべての痛みを身に受けて墓に葬られ、全ての罪を身代わりに背負ってよみに下ります。しかし、そこで終わりません。三日目に復活して、あなたを癒し、回復させ、修復させ、生かして下さり、幸福にして下さいます。今、この社会の中には、このイエス・キリストの福音がありません。また、ともすると、クリスチャンとなっている人の中にも、キリスト抜きに解決をしようとしています。これは一重に私の責任だと思っています。少なくても、私の教会の地域や、インターネット上でこのようないじめの連鎖が起きているのは、私の祈りが足りないことと、福音宣教が行き届いていないことの原因があります。私の恩師の中野雄一郎師は、友人がハワイに来た時に、お金を引ったくられた時に、「私の伝道が足りないからこのような事件が起こってしまいました。」と言って、そのお金を弁償して上げたと聞きます。それを聞いた時に、これが伝道者の使命感であり、責任感であると心を打たれました。しかし、これは私たち全員の使命でもあります。弱者が弱者をいじめるという、いじめの連鎖を、まず私たちの中からなくして行かなくてはいけません。いじめられた傷は、全てキリストに引き受けて頂きましょう。その時、「キリストの十字架が私のためであった。」ことがわかるはずです。そして、その愛に感動して、その愛に心満たされて、この福音を証しして参りましょう。あなたは、キリストの愛を伝えるために生まれて来た人です。こんな讃美があります。♪感謝します 私の存在価値を 今まで悟れずにいたけれどはじめから今まで 神の愛は いつも私に向けられていたありがとう その愛教えたあなたに 主が下さったあなたにキリストの愛で 私も仕え この地に福音伝えるあなたは愛されるため 主の愛を伝えるため主イエスが選ばれ この地に植えられた もう一つの実を待ち望み♪これが、私たちに与えられた使命です。使命を失った人は、迷った人であり、失われた人です。しかし、今日あなたは神に見出されて救われた人です。受けた恵みを伝えて参りましょう。祝福をお祈り致します。God bless you!
2006年12月22日
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この季節、通常忘年会があちらこちらで行なわれています。忘年会とは、読んで字のごとく、一年の苦労を忘れ、労う会です。これは、一年の節目において大切なことです。聖書には、『後ろのものを忘れなさい。』と書かれています。なぜならば、後ろのもを忘れないと、その記憶が未来への足かせとなってしまって、前進を妨げてしまうからです。過去の失敗をくよくよしないと言っても、完全に忘れてしまって、同じ失敗を繰り返すのはどうかとも思いますが、それをすべて自分の責任として受け止め、痛みを感じる時に、そうそう失敗は繰り返せないものです。失敗を繰り返す人の特徴は、その失敗を人や状況のせいにしてやり過ごしてしまうからではないかと思います。そうしている限り自分は悪くないですし、痛みはありません。しかし、全てのことの責任は自分にあると受け止めつつも、その自分を赦すことが大切です。なぜならば、私たちの罪の身代わりに、神がクリスマスに人となって来られ、十字架にかかって死んで下さったので、私たちの罪が赦されたからです。そして、神に感謝し、後ろのことを忘れるのです。もし、後ろのことを忘れないで、自分を赦さないで、過去の失敗を記憶し続けていたら、段々がんじがらめになって何も出来なくなって行ってしまいます。私たちは、2006年度を過ぎる前に、完全に、自分の責任としてすべてを受け止めつつも、神の赦しを信じ、それを忘れ、自分を赦して行きたいものです。その時、私が推奨したい望年会がはじまります。古いものを忘れない限り、どうしたら新しいことを望むことが出来るでしょうか?古いデータで一杯になったPCに、新しいデータを入れようと思ったら、古いデータをゴミ箱に入れて捨てます。データが一杯になったデジタルカメラで、新しく写真を撮ろうと思ったら、古いデータを抜き出します。ですから、もう年末ですから、今朝、この一年の古いデータを取り出して、新しい年に向かって前進して行きたいですね。最近、望年会という名前を時々聞くようになりましたが、これはとても素晴らしいことだと思います。新しい年に向かって進んで行くということですから、前向き肯定的であり、積極的です。聖書には、『後ろのものを忘れ、』の後には、『前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り続けなさい。』と続きます。人生とは、目標を目指して走り続けるマラソン競技のようなものです。ですから、新しい目標を掲げて、新しい年に向かって走り続けたいですね。しかし、この競争は、他人との競争ではなく、自分との競争です。昨日の自分に勝ち、怠惰な自分に勝ち、自分が一生涯をかけて、命をかけてでも成し遂げたい目標に向かって前進するのです。そのために、今年一年間で何をしたらいいかの目標を定めて行きたいものです。どんな目標を立てたらいいでしょうか? それは、人まねをしたり、人から教えてもらうようなことではありません。自分の心の中で自分と相談し、あなたに対して計画を持っている神に祈って、神と相談することです。そして、その目標を信じ、目標を夢見ながら新しい年を迎えたいですね。忘年会と望年会。どちらも大切だと思います。神は、一日に区切りを与えられ、一週間、一ヶ月、そして、この一年に区切りを与えて下さったのは、忘年会と望年会という区切りを付けて、一旦完全にリセットをするために下さったものです。どうぞ、よいリセットの時となりますように。それは、結論として、神によってのみ可能です。あなたの全ての失敗や過ち、忌まわしい記憶、忘れべき出来事、そして、過去の栄光も含めて、イエス・キリストは十字架で身代わりに背負って死んで下さいました。そして、死んで墓に葬られ、三日目に復活して下さいました。ここにリセットの根拠があります。人生はどこからでもやり直すことが出来ます。どんな過去があっても、今どんな状況であっても、新しい年は、全く新しい可能性を持ってあなたの前に置かれています。私は、新しい年のことを考えると、うきうきわくわくします。あなたはどうですか? あなたの祝福をお祈りしています。God bless you!
2006年12月21日
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聖書の中で、ソロモン王が書いたとされる伝道者の書に、『私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。』と書かれています。私も今同じように感じます。自分の仕事を楽しみ、熱中し、打ち込める人は幸せな人です。私は、世界の平和のためにはこれが一番だと思います。すべての争いや妬み、憎しみ、権力闘争等は、自分の仕事を楽しめないところからはじまっています。自分の仕事が楽しくて仕方がない人は、人を妬んだり、人に対して何かをする時間があったら、大好きな仕事に没頭しているからです。仕事を楽しむためには、いくつかの条件があります。まず何よりも、仕事に熱中することです。中には、自分がやりたくない仕事を、安い給料で行なっている人がいます。これなどは、最も辛い刑罰ではないかと思います。あるいは、たくさんの給料をもらいながら、嫌いな仕事をしている人もいます。これもその次につらい刑罰です。しかし、私のように、生活をして行くのがやっとの状態でも、自分に与えられた仕事である牧師が大好きで、楽しんでいられるならば、これは幸せだと思います。そして、一番幸せなのは、大好きな仕事をしながら、それを楽しみながらたくさんの給料をもらえたら、最高に幸せだろと思います。その人は、お金のためにあくせくしなくてもいいですし、自由に自分の時間を使うことが出来ます。次に、よい人間関係を築くことが必要です。世の中には、どうしても水と油のように合わない人がいます。成功している人と成功していない人は、水と油です。肯定的な考え方をする人と否定的な考え方をする人も同じです。合わない人とは無理に合わせようとしたり、仲良くしようとしなくてもいいだろうと思います。ただ、敵対したり、嫌ったり、蔑んだりだけはしないことです。そして、家族、特に、配偶者と仲良くすることが大切です。私に取っての妻は、人生の最高のパートナーであり、親友であり、恋人であり、妻です。あるいは、独身の人は、両親や極身近な人と仲良くすることがとても重要です。これが、仕事を楽しむことと大きく関わりがあるのです。身近なところで仲違いしていたら、それだけでストレスとなり、仕事にも深刻に影響してしまいます。また、親しい友を持つことです。私には、親しい牧師の親友が10人います。その関係は、お互いに好意を抱き、尊敬し合い、成功を心から願い合っています。これらの友によってどんなに支えられているかを感じます。しかし、私は、これらの友達と同じような付き合いはしていません。それぞれ、自分を小出しにしながら、本音で付き合っています。なぜならば、100%出せたら一番いいですが、それを受け止められないばかりか、そうすることで相手の重荷になりますし、また、私に取ってうれしいことでも、愛手に取ってそれが福音になるとは限らないからです。他にも、親友はいますが、主に、仕事上のことは、この10人に小出しにしながらほとんどすべてを分かち合います。ですから、適切な助言を頂けますし、聞いてもらうことで心の重荷に不安は解消され、仕事を楽しむことに専念できます。ソロモン王は、仕事を楽しむほかに、良いことがないことを見たと言いました。そうです。人が羨むような仕事をし、立場にいて、豊かに暮らしていても、自分の仕事を楽しめない人は幸せからかけ離れています。しかし、人が幸せな人だと見てくれないとしても、関係ないじゃないですか。あなたが、あなたの仕事を楽しみ、熱中し、没頭することが出来たら。そう出来るあなたは、間違いなく幸せな人であり、充実した人生を送っているはずです。私は、そんな人生をみなさんに生きてもらいたいから、毎日日記を書き続けているのだと思います。もしあなたが、本当に嫌いな仕事をしているならば、例えば、犯罪とは言えないまでも、良心に反する内容の仕事であるならば、転職を考えるのも一案ですが、まずは、最大限、仕事を楽しむ努力をして見て下さい。いつも今に満足しながら生きるのです。それは最後に、イエス様があなたを愛し、あなたと共にいて下さることを信じることです。この信仰こそ、あなたを幸せにします。祝福がありますように。God bless you!
2006年12月20日
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昨晩は、消防団の集まりがあり、正式な辞令を頂きました。また、消防団員の手帳を頂きました。それは、この町を愛し、この町に貢献し、この町のために尽力をしたいという思いからです。その集まりから帰ったら、今度は、その足で新宿シャローム教会で行なわれている徹夜祈祷会に参加しました。第一ラウンド、第二ラウンド、第三ラウンドと三部構成になっていますので、第一が終わったらすぐに帰ろうと思っていましたが、行ったらすぐに讃美の奉仕を頼まれ、第二、第三と最後まで参加しました。それは、主催者の先生方や参加者の中にたくさんの知り合いがいるということもありますが、付き合いでいたのではありません。徹夜して祈りたいと思ったからです。徹夜して祈ったり、断食して祈ったりすると、何か特別な感じがするかも知れませんが、そうではありません。私は、自分の仕事や責任を放棄して祈っているだけの人を見て、必ずしもいいとは思いません。神様を第一にしながらも、同時に、与えられた仕事や責任を果たして行くことが重要です。そうしたら、長い時間神様に祈ることは出来ません。そんな時にいいのが徹夜祈祷です。寝る時間を寝ないで神に祈る。これはすごい大きな祝福です。また、断食して祈るのもいいです。私は日曜日の朝は断食していますし、時々断食してお祈りをします。食事というのは、意外とたくさんの時間を費やすものです。買い物をし、調理し、食事し、後片付けをします。しかし、断食をしたら、それらの時間を祈りに費やせます。また、力みがなくなり、雑念が減り、祈りが深くなります。徹夜と断食の祈りは、偉いとか、立派というような類のことではなく、大きな祝福です。みなさんも機会がありましたら行なって見て下さい。特に、問題がある時はそれが一番です。私のように牧師をしていますと、経済的な問題や、あらゆる問題に囲まれて、身動きできなくなることがしばしばあります。ものすごい苦しみと、夜も寝れない程のプレッシャーが起こることがあります。信者ならば、牧師先生のところに行って祈ってもらったり、相談をしますが、自分が牧師になりますと、基本的には、祈って解決をするほかに道はありません。そんな時、徹夜をしたり、断食をして祈りますと、100%問題が解決します。ですから、みなさんにお薦めしたいのです。まず問題があったら、人に相談したり、人に助けを求める前に祈って見て下さい。私は、祈りを通して、すべて問題が解決し、道が開けて来ました。四方八方道が塞がれても、上だけはいつも開かれています。それが祈りです。私たちの人生で起こるマイナスのこと、失敗、試練、問題は、私たちを祈らせるための神の配慮でもあります。私たちが、平穏無事に暮らしていたら、まず、真剣に祈らないと思います。しかし、問題に直面したら、誰でも祈りたい気持になります。今日、あなたは祈るように神様があなたを導いているのではないでしょうか? 少しでも、目をつぶり、神様に心を向けて祈って見てください。そして、一日をスタートして下さい。きっと素晴らしい一日になるはずです。祝福をお祈りしています。God bless you!
2006年12月19日
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私には恩師と呼べる人が何人もいます。しかし、その中でも大好きな野口誠先生という方が、昨日、私の教会の礼拝に参加して下さいました。この先生からは、神学校時代に聖書の原語であるギリシャ語等を学びましたが、その講義はわかりやすく、本当に楽しませてもらいました。神学校卒業後には、私を自分の教会の日曜日の礼拝説教と、チャペルコンサートをして下さいということで招いて下さいました。そして、用事があったとは言え、教え子の教会の礼拝に参加して下さって、「本当に恵まれました。」と言って下さり、それは大きな励ましでした。今年は、重要なデータの入ったハードディスクが破損されてしまいましたので、修理には30~40万円かかるということもあって、年賀状はお休みにしたいと思っています。恩師の中には、年賀状のやり取りのある先生がほとんどですが、そこで最低限繋がっています。しかし、野口先生のような恩師は他にも数名いますが、教え子を愛し、本当に関心を持っていて下さる時に、私の心は大きな支えを得ています。私たちの人生には、そのような人間関係を必要としています。友達も必要ですし、両親も必要です。しかし、自分に影響を与え、指導してくれる人、尊敬できるメンターが必要です。私は、たくさんの恩師の愛の中で育てられて来ました。本当にかわいがってもらいました。また、現在、メンターと呼べる大先輩の牧師先生がいます。毎月、私との交わりに数時間割いて下さっています。その中で、牧会の大切なことを教えられています。私が、最初に入学した神学校である東京聖書学院では、「教えられやすい弟子の心を持ちなさい。」と指導されました。この言葉を忠実に守って来ました。中には、「わかってらー」と斜に構える人もいますし、理屈っぽくてなかなか教えられにくい心の人もいますが、どんなことでも幼子のような心で、また、知っていてもはじめて聞くかのような姿勢で学んで来ました。ある時は、厳しく、ある時は親しく、たくさんの恩師によって指導され、今日の私があると思っています。どうぞ、あなたの人生の恩師を大切にして下さい。また、あなたのメンターを持って下さい。メンターとは、個人的にあなたを指導したり、励ましたり出来る人生の先輩です。そういう出会いが、人生を何倍にも豊かにしてくれますし、もし、道を踏み間違えそうな時にも、率直にそれを指摘してもらえますし、落ち込み、失意のどん底にある時にも、ありのままのすべてを受け止め、励ましてもらえることで、人生の危機を乗り越えることが出来ます。恩師、そして、メンターは私の宝です。あなたにも、きっとそんな人が身近にいるのではないでしょうか?人生の祝福をお祈りします。God bless you!
2006年12月18日
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アメリカのフォード自動車の創立者であるヘンリー・フォードはこのように言いました。『できると考えても、できないと考えても、どちらも正しい。』と。私たちの人生の質、行動、成果等は、すべて自分の心構えで決まると言っても過言ではありません。バイブル(聖書)には、イエス・キリストが、『あなたの信じた通り、あなたになれ。』と言われた言葉があります。しかし、これは、本当に心強い言葉であると同時に、厳しい言葉でもあります。だけど、人生を長く生きれば生きるほど、これが本当のことであると理解できるはずです。サーカスの舞台裏に行ってみますと、素晴らしい光景が見られます。ライオンやトラ、キリンなどのサーカスの動物が間近で見ることができます。しかし、象の前を通ると何かがおかしいと感じます。それは、あんなに大きな動物が、前足にロープが結んであるだけなのです。鎖でつないでるわけでもなければ、檻にも入れられていません。その気になればすぐにでも逃げれるはずなのに、ただずっと突っ立っています。理由は、この象が子供の時には、ロープで前足を結んでおけばそれで十分でした、しかし、大きくなった今でも、その同じロープで結ばれていれば逃げられないと思い込んでいるのです。これは、小さい頃からの習慣なのです。私たち人間も、この像と同じではないでしょうか? 昔失敗しただけで、絶対に出来ないと思い込み、その場でじっとしていないでしょうか? 今ならできるかもしれないのに、尻込みしていないでしょうか? できないという思い込みで、新しいことに挑戦することを避けていないでしょうか? また、他の人の思い込みの言葉によって、できないという気になっていないでしょうか? できると考えれば、できないと考えるよりはるかに大きなことができるはずです。どうぞ、あなたは神によって造られた作品です。できると考えて、まず一歩踏み出してやってみませんか? あなたにはできます。もし、あなたがそう考えることができるなら。
2006年12月17日
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「裁いてはいけません」というのは、イエス様の言葉です。しかし、これは裁判をしてはいけませんということではありません。裁くとは、法廷で使われる言葉です。それは、善悪を決定することです。ある人を罪に定め、また、ある人を無罪にします。しかし、この善悪を決定できる方はただお一人、神様だけです。しかし、法律や憲法は、その神様の言葉である聖書が土台になっています。ですから、勝手に裁判官が裁くのではなく、その法律に乗っ取って裁きがなされます。しかし、裁いてはいけない裁きとは何でしょうか? それはまず、自分の好き嫌いを基準にして裁きを下すことです。世の中の人も、クリスチャンであっても関係なく、人は自分の好き嫌いで善悪を言ってしまうことが多くあります。しかし、表面的には、正しいことのように聞こえたり、大義名分が掲げられているかも知れませんし、もっともらしく見えるかも知れません。ですから、ある人のことをあることで痛烈に批判したとします。しかし、この場合、自分のことを棚に上げて批判する場合があります。そう、自分も同じ要素を持っていたり、同じこととをやって来たり、それを隠しているかも知れません。これなどは、裁いてはいけないとうことに当てはまります。そんな時は、「僕にも、私にも、そんなことがあるけれど、やっぱりいいことではないと思うから、お互いに気をつけて行こうね。」と言えたら、どんなにいいでしょうか。言われた相手も素直に聞けるでしょう。また、痛烈に批判した相手が気にに要らない人であったり、嫌いな人であるという場合があります。そのことを、自分と親しい友人、恋人、親友がしたらどうでしょうか? 「しょうがねーなー」で済んでしまうのではないでしょうか。また、それが家族であったとしたら、もっと甘い基準になってしまうだろうと思います。クリスチャンになりますと、お互いを「~兄弟」とか、「~姉妹」と呼び合います。これはいいことだと思いますが、聖書は、そのように呼び合いなさいとは教えていません。聖書が教えることは、本当の兄弟、姉妹になりなさいということです。つまり、家族になるということです。もし、赤の他人であったり、敵対関係にある人が行なったことならば、すいぶん悪いことに感じたとしても、それが家族だとしたら、「まあまあまあ」で終わってしまうものでしょう。聖書が教える「裁いてはいけません。」という教えは、自分自身に対してもそこまで厳しくはしないのに、否、人に厳しい人ほど、自分には甘いものです。このような人に対してです。また、相手を家族の一員、親友と思った場合、生じて来るとしたらそれはおそらく裁きではないでしょう。みなさんも、誰かから厳しく批判されたり、裁かれた経験があるだろうと思います。私も痛烈に批判された経験があります。しかし、その時感じるのは、その人は私を、家族や親友とは決して思っていないということです。そして、私の問題を本当に解決しようとは思っていないし、まして、私のために死んでくれるほどの愛は持っていません。みなさん、神様は、私たちに対して、親友となって下さり、家族として迎え入れて下さり、本当の問題解決を願って、十字架にかかり死んで下さいました。裁いていい裁きとは、このような裁きです。どうぞ、私たちは、他の人に対して、神の愛を持ったら、100のうち99以上は裁く必要のないことだろうと思います。どうぞ、裁くのではなく愛しましょう。お互いに赦し合い、慰め合い、助け合い、支え合って参りましょう。素晴らしい一日でありますように。God bless you!
2006年12月15日
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私たちの人生に起こるすべてのことは、神様によってすべてがよいものに変えられます。それは、丁度、数学の計算でカッコの中にマイナスがあっても、マイナスとマイナスでプラスに変えられるようなものです。私たちの人生に起こるすべてのマイナスはプラスに変えられます。イエス・キリストの十字架を見て下さい。それはプラスの形をしています。横棒は人間のマイナスです。しかし、縦棒は、2006年前のクリスマスにこの地上に来られたキリストです。ですから、あなたとキリストが接点を持つならば、あなたのマイナスはプラスに変えられます。私たちは、長く生きれば生きるほど多くの罪を犯し、多くの失敗を犯します。それは、人生の汚点でありマイナスです。ある場合は、一生残ってしまう前科であったり、マイナスイメージであるかも知れません。しかし、そのマイナスとキリストが出会うならば、即座にプラスに変わってしまいます。それはなぜでしょうか?それは、イエス・キリストの十字架は、私たちのマイナスを身代わりに背負って死んで下さり、代わりに、ご自分のプラスを与えて下さるからです。聖書には、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』(コリント人への手紙第二8章9節)と書いてあります。今日あなたがイエス・キリストと出会うならば、あなたのすべてがプラスに変えられ、生かされます。どうぞ、あなたのすべての領域にキリストをお迎えし、キリストとの接点を持って下さい。聖書が教える罪とは、神との接点を持っていない状態であると教えます。神という的から外れた矢のようなおのであり、木の本体から切り落とされた枝のようなものです。その罪の結果、力がないから違法な方法で生き延びようとするから犯罪や目に見える罪としての行動が起こるのです。みなさん、あなたにどんな過去があったとしても、今、どんな状態にあったとしても大丈夫です。人生はどこからでもやり直すことが出来ます。あなたのすべての経験、すべての出来事が生かされる時が来たのです。渋柿は渋くて食べられませんが、甘い柿の木に接木するならば、甘い柿に変わってしまいます。同じように、渋柿のようなあなたの人生を、神に接木したら、甘い柿のような人生に変えられるのです。あなたは愛されています。神はあなたの人生を祝福し、豊かにし、健康を与え、喜びと満足、平安を与えたいと願っています。十字架は、神とあなたの接点です。十字架はあなたのためのものです。信じて下さい。このキリスト教が教えるメッセージは、西洋のバター臭い外来のものではありません。全人類に与えられた普遍的なメッセージです。あなたを救うのです。共に祈りましょう。『イエス様、私は罪人です。どこから来てどこへ行くのかわからずにさ迷いながら生きて来ました。しかし、今、私を救うために身代わりとして十字架で死んで下さったイエス様を信じます。受け入れます。今、私とあなたの接点が与えられたことを感謝します。すべてのマイナスがプラスに変えられ、すべてが生かされると信じます。天国に入るその日まで私を導いて下さい。イエス様のお名前で祈ります。アーメン。』あなたのすべては生かされます。God bless you!
2006年12月14日
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美空ひばりさんの歌で有名な「川の流れのように」という曲がありますが、大好きです。川と対比されるものとして、せき止められたダムがあります。ダムは、せき止めた水を一気に流し出して、それを電気等のエネルギーに変えます。これは人間の優れた知恵です。しかし、これを心の問題として考えたらどうでしょう?川の水を人の心にある感情に譬えて見たら、感情は、喜怒哀楽どんなものであったとしても川の流れのように流れさせるのが一番です。水は、流れている限りニュートラルなものですが、流れが止まると腐ってしまいます。同じように、感情は、せき止められることによって変質します。それを自分で押さえ込むことによって、大した事のない不快の感情が大きくなり、ダムの水を流すように、突然切れたり、あるいは、逆切れしてしまいます。ですから、怒りっぽい人、切れやすい人は、実は忍耐深いのです。ダムのように感情をせき止めてしまっています。しかし、これは健康上良くありませんし、何でもないことなにに、それを溜めて、一気に爆発することで、人間関係が壊れてしまうことがあります。どうぞ、あなたの心に耳を傾けて下さい。今、何を感じているでしょうか? その気持を川のように流れさせ、あなたの心で感じて見て下さい。どんな気持でしょうか?うれしい。悲しい。悔しい。妬ましい。楽しい。寂しい。不安。恐れ。心配。面白い。・・・。その感情にどっぷり浸って見て下さい。それを感じて上げるのです。そうしたら、その感情を川のように流れさせ、その感情を誰かに伝えてみて下さい。それが人に対して心を開いている状態です。私の知り合いの中には、よくしゃべるけれど心を開いていないと感じる人がいます。それは、誰々が何を言った、とか、あそこで何があった、等々、その話の中に自分が居ません。もちろん、会議などで必要事項を伝えるだけの場ではそれでいいだろうと思います。しかし、自分の感情を相手に伝えることは、自分への愛なのです。そして、他人への愛でもあるのです。それは、自分に優しく、他人に優しい生き方です。例えば、相手に対して妬ましく感じている場合に、「あなたの~のことに対して羨ましいし、妬ましく感じます。」と伝えることで、ものすごく親しい親友になった人を知っています。男の世界には、妬みというものが存在します。その時、それを素直に、川の流れのように相手に伝えるならば、自分にも相手にも何の害にもなりません。しかし、それを知られることはプライドが許さないので、その感情を偽って、お前何かに興味はないという顔をしながら、正当な大義名分を掲げていじわるをしたり、のけ者にしたり、無き者にしようとする人がいます。男の世界の妬み、嫉妬、ジェラシーは恐ろしいものです。特に、力に対して関心がある人は、その心の中に秘めためらめらした炎が燃えています。それは、自分を殺し、相手を殺します。実際に殺人を犯さなくても、それは殺人に等しい行為を犯すことになります。例えば、それをいじめと呼んでもいいでしょう。今いじめは、小学校や中学校だけではなく、大人の社会の中にもあるのです。いじめる方は、ある感情を心に秘めながら、相手を見下したり、バカにして、相手をいたぶります。そして、いじめられる方も心にある感情を秘めながらそれに耐えています。しかし、感情を川の流れのように流れさせたらどうでしょうか? いじめはなくなりますし、いじめられる方も、それをはっきりと拒否しますから、いじめはやんでいきます。また、感情を相手に伝えることで、短時間に親しくなることが出来ます。そして、親近感を感じ、信頼し合うことが出来ます。どうぞ、あなたの心にあるダムのせき止める装置を今日壊して下さい。そして、感情を川のように流し、それを心で感じ、それを少しづつ人に伝えてみてください。そうしたら、悲しみは半分以下に減少し、喜びは数倍に膨れ上がります。そして、必ずお互いに理解し合う事が出来ますし、ストレスは激減して行きます。感情には善悪はないのです。どれも、あなたの心を知るための温度計の数字みたいなものです。しかし、それをせき止めると、よくないものに変わって腐ってしまいます。どうぞ、あなたの心をあなた自身で感じて下さい。そして、私にもどうぞ伝えて下さい。きっと、心が通い合うはずです。祝福をお祈り致します。God bless you!
2006年12月13日
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「人生は出会いで決まる」という言葉は、マルチン・ブーバーの言葉ですが、確かにそうだなーと思います。まずは、両親との出会い、学校の先生や友人との出会い等は、言うまでもなく人生の方向を決めてしまうような出会いですが、そこは割愛させていただきたいと思います。その辺の出会いを強調してお話ししますと、どうしても不公平感が出て来ます。私はクリスチャンホームに生まれ育ちました。それを聞いただけでいいですねーと言われる方も多くいます。しかし、クリスチャンホームか、そうでない家庭に生まれるかは自分で選ぶことは出来ません。私は、自分で選ぶことが出来る出会いについてお話ししたいと思います。まずは、神との出会いです。もちろん、出会いやすい環境にいる人もいれば、全く無縁な人もいます。しかし、神との出会いはすべての出会いの中で最も大切です。神と出会うならば、真の自分自身とも出会えます。そして、自分が一体何者であり、どこから来て、どこに向かって生きている存在なのかを知り、自分に与えられた使命がわかります。そこから人生は出発するのです。そうしたら、その使命にふさわしい職業に向かいます。そして不思議なことには、その方向が定められますと、それにふさわしい人との出会いが与えられ、運命が切り開かれて行きます。また、自分自身にふさわしい伴侶を求めるようになります。以前は、3高、すなわち、学歴が高く、背が高く、収入が高い人を選んだり、容姿が素晴らしかったり、自分の見栄を満足させる人を選んでいたのが、本当に愛すべき人を見定められるようになり、素敵な伴侶との出会いが与えられます。この結婚相手は、人生を大きく左右します。なぜならば、家庭が平安であり、喜びで満ちていないと人生は不安定であり、何かの貪欲や過ちに陥ってしまうからです。しかし、よい結婚相手と巡り会えれば、人生は安定し、間が差しました何ていうこともなくなります。そして、よい友人との出会いも大切です。しかし、私は、神との出会いと、結婚相手との出会いでほとんどすべてが決まってしまうといっても過言ではないと思います。どうぞ、あなたの創造者との出会いを持って下さい。それは、あなたが求めれば、今この瞬間にも可能です。一緒に祈って下さい。「神様、私は罪人です。どこから来て、何をして歩み、どこに向かっているのか知らずに生きてきました。しかし、今、イエス様を信じ、創造者であるあなたと出会うことが出来ることを信じます。どうぞ、私の罪を赦し、私を受け入れ、救って下さい。イエス様のお名前で祈ります。アーメン。」この神との出会いを持つことが大切です。どうぞ、今日は日曜日です。教会に出かけてみてください。詳しいことはメールを下さればお話しいたします。あとは、結婚相手です。すでに結婚している人は、今の相手がどんなに悪いと感じても、離婚は考えないで下さい。そのままの相手を受け入れ、愛して下さい。人は、その愛によって変わるからです。しかし、これから結婚相手を選ぶ人は、どうぞ、自分にふさわしい人、自分の使命にふさわしい人を選び、祈り、そして、出会いを求めて下さい。この出会いがあなたの人生を大きく変え、祝福します。よい出会いがありますようにお祈りします。God bless you!
2006年12月12日
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マニフェストという言葉は、2003年に行われた統一地方選挙や衆院選挙の辺りから盛んに見聞きするようになりましたが、それは政権公約のことです。現在の問題点を明確にして、期限を設定し、実現可能な目標を明確にして文章化します。しかし、マニフェストは、政治の世界だけのものではなく、私たちの人生の中にも必要なものです。案外、自分の現在の問題点を客観視することを恐れ、それを避けてしまっている向きがあるのではないかと思います。しかし、正直に自分と向き合い、自分を受け入れ、客観視して問題を明確にすることは非常に大切です。それは、人生という徒競走のスタートラインに立つことだからです。そして、スタートする時はいつも今です。そして、過去がどうであったとしても、今どんな状況の中にあったとしても、いつでも、今、スタートをすることが出来るのです。そのようにスタート地点が決まったら、今度は、明確なゴール設定をすることが大切です。クリスチャンである私たちの大きなゴールは、天国に入ることであり、この地上で天国の前味である幸せを経験し、その喜びの救いを伝えることにあります。しかし、それだけではあまりにも漠然としています。例えば、牧師になる、宣教師になる、ビジネスマンになる、芸能人になる、政治家になる、建築家になる、法律家になる、セールスマンになる、格闘家になる、レーサーになる、バスの運転手になる、飛行機のパイロットになる、研究家になる、作家になる、専業主婦になる等々、上げて行ったら切りがありません。また、その職業を通して、どのようなことを成し遂げたいのか? これも具体的に明確にすることがいいだろうと思います。例えば、セールスマンになったとして、一つでも多くの物を売りたいというよりも、今月中に100個の商品を売りたい。というようにです。具体的で明確な目標を掲げ、それが地に足が付いた実現可能なものであることが必要です。なぜならば、ここであまりにも現実とかけ離れた目標を掲げますと、いつまで経ってもその目標に近づけないので、自分はダメなのではないか?とか考えるようになったり、燃え尽きてしまうからです。燃え尽きてしまうくらいならば、ハードルを下げて、確実に実現できる目標にした方が、本人も達成感がありますから楽しいはずです。そして、私たちの人生のマニフェストは、他の誰かに公約として宣言するものではなく、自分自身に向かっての宣言であり、もう一つ大切なことは、神に向かって祈る祈りです。ですから、毎日鏡を見る度に、そのマニフェストを思い出して、それを自分に向かって宣言し、それに向かって行くんだ!それを必ず行なうことが出来るんだ!と口に出してみることです。そして、同時に、膝をかがめて神に祈ることです。なぜならば、自分のマニフェストは、自分の心構えだけで実現できるものではなく、神が働いて、運命と環境を整えて下さり、道を開いて下さるからです。
2006年12月11日
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人の深層は、その人が権力や力を握った時に現れると、ある有名なキリスト教の説教者が言いましたが、本当にそうだなーと思います。神学校を卒業しますと、いちおう「先生」と呼ばれる立場になりますが、ある若い神学生は神学校を卒業しました。この方は、引き続きアメリカに留学をする準備をしていました。卒業して一週間後に、同級生に会った時に、以前の呼び名の「~ちゃん」と呼んだそうです。そうしたら、はっきりと「ムッ」という表情をしたそうです。これは、私自身が牧師であるので、自分の反省も含めて語りますが、牧師の集まりに行きますと、よっぽど親しい関係にない限り、「~先生」と呼び合わないと収まりがつかない現実があります。それは、医者の世界や大学教授の世界、政治家や法律家の世界でも同じようですが、確かに、教職者や教授、上に立つ者に対する礼儀は一般常識以前の問題です。これを周りが認めて、自然に尊敬をすることはいいことですが、自らが、「そうされて当然!」という意識を持つようになりますと、そうしてもらわいと「ムッ」とするようになります。人は、権力や力を握るようになった時に本当の姿が現われます。もちろん、立場が変われば対応は変わって当然ですし、ちゃらちゃらすることは出来なくても、謙遜な心を持ち続けることは大切です。いつでも、偉くなっても、人の上に立っても、権力を握っても、そこで自分の権利を主張するのではなく、自分に与えられた義務を行なえる人でありたいと思います。人が自分の権利を当然のこととして主張する時ほど醜い姿はありません。仮に、自分が100%当然受けられる権利があったとしても、まずは、自分の義務を忠実に行なうことです。夫婦が、お互いに、「俺に従順しろ!」「私を愛して!」と権利を主張しあうのではなく、まずは相手を愛し、従順し、与えられた責任を果たして行くことです。そうしたら、私たちが仮に社長になっても、どんな偉大な人になっても、首相になったとしても、変わらない姿でいれると思います。人の深層の姿は、その人が力を握った時に表面化します。しかし、そんな時にも、謙遜で愛に溢れ、親切な人でいるためには、今から権利の主張を最小限にして、責任を喜んで果たして行く生き方をして参りましょう。祝福を祈ります。God bless you!
2006年12月10日
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私はアメリカのハッピーエンドで終わる映画が大好きです。途中は、どうなってしまうのかと、ハラハラドキドキしますが、最後は最高にハッピーな気持になれます。以前、数人の友人同士で、新しく出たある映画をビデオで一緒に見ようということになりました。私はビデオを借りてくることを担当しました。また、友人たちは、それぞれ、お菓子やジュース、軽食等を準備しました。しかし私は、当日を待つことが出来なくて、一人自宅でこっそりと見てしまいました。途中は、それはそれは心揺さぶられるシーンの連続で、自分のことではないのに自分のことのように喜怒哀楽を感じました。しかし、最後まで来てホッとしました。さて、映画鑑賞会の当日になり、みんなで映画を鑑賞しました。みんなそれぞれが、心揺さぶられ、動揺し、落ち着かないのがわかりますが、私一人だけは、こうなってこうなって、と知っていますから、落ち着いて見ていることが出来ました。みなさん、私たちの人生もこれと似ています。自分の人生の先行きが、もしわからなかったら、不安や恐れ、失望の連続かも知れません。しかし、聖書には、神があなたに将来と希望を与えると約束しています。ですから、明日が見えず、未来に不安を感じる時もありますが、そんな時、自分の人生の結末を忘れていることに気付いてください。あなたの人生の結末は、間違いなくハッピーエンドです。途中は、色々な紆余曲折があるかも知れませんが、大丈夫です。私一人だけは、映画鑑賞会で落ち着いて見ていられたように、あなたも、落ち着いて人生を歩んでみられたらいかがでしょうか? だって、必ず良くなると神様は約束しておられるのですから。そして、事実、人生はハッピーエンドに向けて進んでいるのです。神があなたのために作られた人生脚本はハッピーエンドです。どうぞ、このことを忘れないで、今日も、その一瞬一瞬を楽しみながら、じっくりと味わいながら歩んで行きたいですね。よい一日でありますように。God bless you!
2006年12月09日
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「人生楽ありゃ、苦もあるさ。」これは、水戸黄門の主題歌のワンフレーズですが、非常に深い人間理解だと思います。世の中にある宗教の特徴は、その教えやご本尊に帰依し、信心し、また、その宗教団体にお布施をしたら、「悪いことが起こらないで、良いことだけが起こる。」とか、「今は悪いけれど、これから良くなって行く。」と教えます。それは確かなことでしょうか?聖書には何と書いてあるでしょうか? 聖書には、「神を信じたら悪いことは起こらず、良いことだけが起こる」とは教えません。もちろん、聖書に従って生きたら、無駄な苦労や寄り道、失敗というものは減ります。しかし、結局のところ、全ての人には、楽しみもあるけれど、苦しみもあるのです。でも、これが重要なのだと思います。苦しみを苦しいと感じられるからこそ、楽しみを楽しいと感じることが出来るのです。なぜならば、喜怒哀楽を感じる場所は同じだからです。苦しい時、それは、神様に近づき、神に祈る時です。ですから、これは祟りや裁き、神罰と捉えないで下さい。神様は愛であり、あなたを救うために、一人子イエス・キリストを十字架にかけて死なせて下さり、復活させてくださいました。あなたは愛されています。そして、人生とは、楽しみだけではないし、苦しみだけではないのです。そこに変化があり、そこに気分転換があり、人生を飽きさせない、退屈させない神のご配慮があるのです。音楽には、強弱があります。だからこそ、変化があって楽しいのです。また、音楽の和音のコードには、7thという不協和音があります。ですから、そこでストレスを感じさせ、次のコードに移行させたいという心理が働き、そして、次のコードに移った時にそのストレスから解放されるという変化を通して、音楽に感動を与えます。神様は、私たちの人生に楽も与えられますが、苦も与えられ、退屈させないようにして下さっています。また、「なぜこんなことが起こるのだろう?」ということを通して祈らせ、その問題が感動した時には、大きな感動を味わえるようにして下さっています。そして、トータルでみたら、あなたの人生は素晴らしいのです。決して悲観してください。そして、悩まないで下さい。心配しないで下さい。恐れないで下さい。あなたを愛しておられる神様が今日も一緒ですから。「大丈夫!」です。神はあなたの味方であり、あなたを今日も支えて下さいます。しかし、苦を感じているならば、どうぞ、心を注ぎ出して神に祈ってみて下さい。それは、神があなたを祈りに導いておられるのですから。素晴らしい一日でありますように。God bless you!
2006年12月08日
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人は誰でも、自分の居場所を必要とします。この世の中に自分の居場所を持つことができなければ、きっと生きて行くことが極めて難しいのではないかと思います。人がまず持つ居場所は、家庭です。そこで通常、無条件の愛に包まれ、幼少期を過ごします。しかし、幼少期に何らかの理由で親の愛を受けられなかったり、親と死別してしまったり、親の何らかの理由で育ててもらえなかった子どもは非常に寂しいです。私の神学生時代の友人に、孤児院育ちの人がいますが、「私は人の愛を受けたという記憶がない。だから、神様の愛と言われてもわからないし、頭ではわかっていても実感がない。」という話を聞いたことがあります。それ程、幼少期の自分の居場所というのは大切です。そこで、人格の土台が築かれるからです。心理学的には、基本的信頼という言葉を使いますが、そこで、人の核が作られます。その核があって、次に進むのが保育園や幼稚園です。そこで、遊びながら友達や仲間を作り、自分の居場所を築いて行きます。そして、小学校、中学校・・・と進んでいき、多くの場合、就職をしたり、結婚をして家庭を築きます。その中で自分の居場所を持って、そこに所属して行きます。そのテリトリーの大小はあっても、人はそれを必要とします。私は、いくつかの自分の居場所を持っているので、心に安定感があります。まずは、家庭です。愛する妻と子供たちに囲まれて、本当に大きな支えを頂いています。これは最も大切です。また、社会的な居場所があります。それは私が仕える新宿福興教会です。人は社会的な存在ですから、そのような職場という居場所を必要とします。また、友愛グループという所属の教団がありますし、いくつかの宣教団体との関わりがありますし、また、各種の実行委員会等に所属しています。このことも大きな支えです。それに加えて、子どもの学校のPTAの働きを通して、その中に自分の居場所がありますし、ここ最近には、新宿消防団の入団が決まりました。ですから、自分は公務員だけは絶対にならないだろうと思っていましたが、何と地方公務員になりました。その他、いちいちあげて行ったら切りありませんが、人には、自分の居場所があることによって大きく支えられているかがわかります。なぜそれがわかるかというと、18歳の時に、私は自分の居場所を失って、もう死んでしまいたいと思ったからです。だから、いじめに合う子供たちが、それをきっぱりと拒否できない理由がわかります。それは、いじめるような相手であったとして、その仲間を失ったら学校生活は続けられないと感じるからです。ですから、いじめの苦しみと仲間を失う恐れの二つに板ばさみになった子の傷は計り知れません。ですから、いじめは絶対にいけません。また、「いじり」といういじめもあります。それは、一人の人を、あるキャラクターに仕立て上げ、みんなで寄ってたかってそのキャラクターとして扱います。そうしますと、そのキャラクターに仕立てられた人も、その期待に答えてそれを演じ続けます。そうすることで自分の居場所を確保しています。しかし、それは喜んでしているのではなく、それを喜んでいる仲間を失いたくないのでそれを行ないます。これも、本人はどんなにつらいでしょうか?しかし、その苦しみは周りには伝わっていません。人は、自分の居場所を必要しますから、それを失うことを恐れるますので、いじめやいじりというようなものがなくなりませんし、また、最近でもニュースを騒がす談合問題や政治汚職、詐欺、あらゆる不義や間違いがいつの時代にも存在します。しかし、もし、自分が望んでいないものならば、「そんなもの失っても自分は大丈夫!」という強さがあれば、それを乗り越えることが出来るはずです。私は段々、そう思えるようになって来ています。そのことで、私の心は自由を感じます。なぜそう思えるかと言うと、私には、神様という永遠不朽の自分の居場所を持っているからです。これは私の存在の揺るぎない土台です。この方だけは、仮に、1000人が私を取り囲み、私に敵対して来たとしても恐れません。神が私の味方であるからです。また、仮に、誰が私を捨てたとしても、神だけは絶対に捨てないでいつも共にいて下さいます。それは、地上の親子の関係以上にはるかに強い絆なのです。私は神の子どもであり、天国の国籍を持っています。ですから、私は、この地上の必要のない居場所を失うことに恐れを感じなくなりました。そして同時に、神様との関係の中で、少しづつ自分の居場所が増やされています。今日、あなたには自分の居場所がありますか? もし、仮に、あなたの居場所がインターネットの中にしかなかったとしても、また、いじめっ子の中にしかなくても、また、自分が望んでいない仲間の中にしかなくても、心配しないで下さい。神様があなたの居場所になって下さいます。イエス様は、今日あなたを両手を広げて待っておられます。『すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。』(マタイに福音書11章28節)どうぞ、神をあなたの居場所として下さい。もしあなたがそれを望むならば、一緒にこのお祈りをして下さい。『神様、私はあなたを必要としています。どうぞ、私の罪を赦し、私を受け入れ、私を受け止めて下さい。イエス様の御名でお祈りします。アーメン』そして、あなたが神(イエス)様の中に居場所を見つけるためにお手伝いをします。必要ならばメールを送って下さい。素晴らしい一日でありますように。God bless you!
2006年12月07日
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あなたは、ご自分が特別な存在であることを知っていますか? スペシャル・パーソンです。まず、あなたがこの地上に生まれて来る確立を考えてみましょう。あなたのお父さんとお母さんが結婚する確立はどれくらいあったでしょうか?私の妻は韓国人です。彼女との出会いは、1996年のことですが、新宿アルタ前の路傍伝道の場でした。私は10数人の仲間たちと、毎週土曜日の夜に、その賑やかなところでキリストの愛を歌い、叫んでいました。その場所に、韓国から120名の短期宣教(1週間くらい)チームが来日し、「是非一緒に伝道をさせて下さい。」と言って、仲間に加わってくれました。伝道が終わった後、そのお礼に食事に招待して頂き、その食事の席でたまたま私の前に彼女が座っていたというところからはじまりました。私は、その日、海に行って、真っ黒に日焼けして疲れ切っていたので、その夜の路傍伝道は行こうかどうか迷っていました。もし、その日、行くのをやめたとしたら、おそらく彼女との出会いは一生なかっただろうと思います。そう考えますと、出会いというものの可能性一つとっても、とてもすごいことだと思います。また、その出会った二人がめでたく結婚をしても、一人の子どもが生まれて来る確立は、何兆分の一であると言われます。そう考えますと、この地上に生を受けたというだけで、どれだけあなたは特別な人でしょうか。そして、あなたが生まれて来たのは偶然ではないのです。あなたを造られた神様は、あなたを100年昔ではなく、また、100年後ではなく、今この時代に生まれさせて下さったのです。ということは、この時代に生まれた意義や使命があるのです。このあなただけに与えられた意義や使命を自覚していますか?今、この意義や使命を失っている人が多くいます。毎日のニュースから流れてくるのは、いじめの問題、親を殺したというニュース、政治家の収賄や汚職、詐欺、様々な犯罪等々。一体何をしているのでしょうか!?一番元気で、一番素晴らしい思春期に、引きこもったり、うつ病になったり、二ートになったり、朝から晩までゲームやネット漬けになったり、人と自分を比較して、人の幸せを願い、人の不幸を願い、自分の権利は主張しても、自分の義務を果たそうとしない若者の姿を見て、何を一体やっているんだ!と言いたくなります。特別な人としてこの世に生を受け、たった一回の人生なのにそれを無為に過ごし、無駄にして、もったいなさ過ぎます。一人一人が、自分の意義や使命を発見できないのは、親の責任、学校の責任、社会の責任でもあります。しかし、そのように責任転換だけをしていても前には進みません。どうしたらいいでしょうか? それは、過去がどうであったとしても、今どんな状況の中にいたとしても、自分が特別な人として知ることです。そのために、自分が造り主である神から離れた罪人であることを知り、認め、神に「ごめんなさい」をして立ち返ることです。神から離れた人は、木の本体から切り落とされた枝のようです。枯れてしまって、力もなく、生きる意欲もわかず、希望がなくて当然です。ですから、もう一度神に接木されて、人生を再出発致しましょう。その時、あなた独自の意義や使命を発見されるでしょう。そして、その意義を知り、使命に生きて下さい。これ以上あなたの人生を無駄にしないで下さい。たった一度なのです。今日、あなたは愛されています。かけがえのない特別な存在です。そのことを心に覚えて歩んで下さい。祝福がありますように。God bless you!
2006年12月06日
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私は、高等学校を通信教育で勉強しました。それは、仕事がしたかったからと、当初は、定時制の高校と二つ同時に通っていましたが、不良の仲間が多く、勉強にならなかったので無駄だと感じたからです。しかし、その通信教育の勉強を通して、勉強の楽しさと自発性を学びました。これは強いられてする勉強ではなく、勉強をしなければ、10年かかっても卒業が出来ない人もいました。しかし、この通信生の高校は、二つのフレーズが掲げられていました。一つは、「初心忘れべからず。」そして、「生涯学習」ということです。それから私は、今に至るまで勉強を続けています。それは、この通信教育の高校からその姿勢を学びました。そして、これは生涯続けて行きたいと思っています。私は、現在牧師をしておりますが、牧師の仲間たちの中には、3年もしくは、4年の勉強で終えて、それ以上は勉強を続けない人がいます。私は、その人はすごい天才だなーと思います。しかし、私はそうではないので、いつも勉強をしています。しかし、それは、受験や就職等の何かの目的があってしているのではなく、自分自身の成長のために、楽しみながら行なっています。実に、神学を学び始めてから15年近くが経とうとしています。しかし、好きで続けている勉強ですから、やっと少しづつ学位を取得しはじめ、今、毎日牧会学博士の論文と格闘しています。しかし、やはり博士論文は大変です。学士論文は、ある程度大きなテーマで書けますし、枚数も少ないです。しかし、修士、博士となるにつれて、その字数も増え、内容も特化され、テーマをしぼらなければなりません。例えば、聖書の、創世記から論文を書くとしたら、学士論文なら、「創世記における神の人間との契約」というテーマで書けます。しかし、修士論文になると、「創世記12章におけるアブラハム契約」とし、博士論文になりますと、「創世記12章1~3節における・・・」となります。そんな限られたところから、200枚も300枚も書ける人がいたら、それは天才だとずっと思っていました。しかし、生涯学習をしていますと、やがてそれが自然に書けるようになって来ますから驚きです。私は、最初の神学校の入学試験で、「イエス様の12弟子の名前を書きなさい。」と言われて、ペテロとイスカリオテのユダくらいしかかけなくて、憐れみで入学させて頂いたような者なのに、生涯学習の力には驚かされます。牧会学博士(D.Min)は、プロフェッショナル・ディグリーで、ワンランク下の博士ですが、これならば、やがて、アカデミック・ディグリーである、神学博士(Th.D)や哲学博士(Ph.D)等も取得出来るかも知れません。しかし、もちろん、それは、夢のまた夢ですが。私は、海外に行って、説教の奉仕をする機会が時々ありますが、私のことを詳しく知らない人ですと、「どんなディグリー(学位)を持っていますか?」と聞かれますので、少しづつがんばっているところです。しかし、日本国内では、牧師は100%実力の世界です。「いくら名門校のPh.Dです。」と言っても、それは、単なる紙切れに過ぎません。ですから、生涯学習は、トータルでの勉強だと思っています。そして、自分の専門分野を磨くことが大切だと思います。今日、みなさんにとっての生涯学習は何ですか? あなたがされている仕事、勉強、趣味、副業等の中で、その専門を是非学び続けて行きませんか? すでに学び続けておられると思いますので、それを、生涯継続して行きたいものです。私の知っている主婦の方は、裁縫や料理を学び続けています。この人は、ご主人や子供たちからも喜ばれていますし、ものすごい自信を持って輝いて生きています。また、私の知っているある牧師は、朝のトイレの15分を利用して、数年でPh.Dを取得しました。私は、必ず毎朝聖書を9章読んでいます。それをずっと続けているので、いつも聖書全体からものごとを考えますし、聖書の言葉が私の頭の中を巡っています。私の知り合いには、どう見てもその才能がないのに、勉強し続けて司法試験に合格した人、芸能人になった人、政治家になった人、大学教授になった人、そして、大教会の牧師になった人、多くの成功者を知っていますが、彼らの特徴は、生涯学習をしているということです。私は、この生涯学習を教えて下さった母校を誇りに思っています。そして私は、ここで教えて頂いたように、これからも生涯学習を続けて行きたいと思っています。そしてこれからは、自分の専門分野だけではなく、他の分野にまでその領域を広げて行きたいと思っています。みなさんも、一緒に生涯学習をして参りましょう。私の日記を毎日読みに来て下さるようなあなたは、きっとそういう向上心や勉強をしたいという熱い願いを持たれている方だと思います。類は友を呼びますのでうれしいです。そして、その学んだものを、家族のために、社会のために、世界のために還元し、活用して行けたとしたら、人生は、いつ死んでも本望なのではないでしょうか?たとえ、今晩あなたの死の時が訪れたとしても、「私の人生、これで良かった」と思える、そんな生き方をして行きたいですね。そして、毎日読みにきて下さっているみなさんの感謝をしています。ありがとうございます。ここ最近は、論文を書くことに集中していますので、その影響もあって、勢いがついて文章が長くなる傾向があったり、内容が難しいかも知れませんが、どうぞ、お赦しくださり、継続してまたいらして下さいね。ありがとうございます。God bless you!
2006年12月05日
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アレンジャーとは、アレンジをする人のことですが、先日、ゴスペル・ソングの素晴らしいアレンジに出会いました。先週の火曜日と水曜日には、埼玉県の川口市にある川口リリアの音楽ホールにて、全国祈祷大聖会という(キリスト教の)集会が開かれました。講師の牧師たちは、日本の一流の牧師たちで、その講演の前後の音楽を私が担当させて頂きました。と言いましても、チームでバンドを組んでの演奏ですが。ある時は、ワーシップ・リーダー(メイン・ボーカル)、ある時はピアニスト、ある時はキーボード、ある時はギターリストになりました。何しろ、計8回の集会が持たれたのですから。その中で、私が繰り返し選曲した曲が、「君は愛されるために生まれた」です。こんな曲です。君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている永遠の神の愛は我らの 出会いの中で実を結ぶ君の存在が私には どれ程大きな喜びでしょう君は愛されるため生まれた 今もその愛受けている君は愛されるため生まれた 今もその愛受けているという曲で、もう何百回、もしかしたら何千回歌った曲です。ですから、そのようなステージの上で歌いますと、いつも教会で歌っているのと感じが違いますから多少新鮮ですが、その時、バンドのチームの一人の人が、CDとして出されていますが、「松本優香」さんのアレンジのコード進行でやりましょう、ということを話してくれてやりました。そして共、その楽譜を見て、このブログを書く数分前に一人でピアノで弾き語りをしてみました。そうしたら、あまりにも感動して、気分が良くなり、違うことをブログで書こうと思っていましたが、急きょテーマを変えてこのお話にしました。同じ曲なのに、曲のアレンジ一つで全く雰囲気の違う曲に変身してしまいます。クリスマスに生まれた、人となった神イエス・キリストを信じる人生は、人生という曲のアレンジを受けてて生きる人生です。同じ人生を生きるのに、全く違った感動と幸せを感じながら行きます。「ああー、私の人生は最高に幸せだなー」と心の底から言うことが出来ます。私の人生はまさにこの幸せそのものです。なzならば、最高のアレンジャーである神様ご自身が私の人生を特別にアレンジして下さっているからです。今日あなたの人生はどうですか? 神にアレンジしてもらった人生を生きていますか? 神のアレンジは、あなたが聖書を手にして、その聖書を開き、読んでみる事からスタートします。そして、あなたの言葉で、「神さま、」と祈ってみるところからスタートします。どうですか? 今日あなたの人生のアレンジを神様にお願いして見ませんか? 必ず、自分で最高に満足できる人生にアレンジして頂けますし、人もうらやむような人生に変えられます。しかし、人は変化を極端に嫌がるものです。ですから、自分の人生のシナリオを自分で決めていて、そのシナリオに執着心が強い人には痛みが伴うかも知れません。委ねるならば、最近色々な病院で行なわれる無痛治療のように、気が付けばあなたの人生はグレードアップされます。飛行機の座席で言えば、エコノミークラスからビジネスクラス、いや、ファーストクラスに変えられるようなものです。私は最高にリッチな人生を生きています。それはお金持ちということとは違いますが、私がスーツを着て歩いていると「牧師に見えない」と何度も言われたことがあります。一瞬、ガクッとしましたが、「では何に見えるんですか?」と聞きますと、「会社の社長や政治家のように見えます」と言うことです。私は、自分をVIPだと思っています。なぜならば、聖書にそう書かれているからです。そしてあなたもそうです。誰が何と言おうと、自分で自分をどう考えようと、神の目から見あなたはVIPなのです。そして、VIPにふさわしく、神はあなたの人生をアレンジして下さいます。最近、この日記を読んで下さっている何人かの人から、「最近のパスター菅野は脂が乗っていますね。すごく日記がいいです。」とメールを頂きましたが、勢いが付きすぎて、自分では「短く、わかりやすく」と思っているのですが、つい長くなってしまいます。この長い日記を毎日読みに来て下さるみなさんに心から感謝を致します。よい一日でありますように。
2006年12月04日
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ある人は、カウンセラーの働きを便器のようなもでさると言いました。しかしある人は、カウンセラーの働きはデザイナーであると言いました。あなたがもしカウンセラーであるならば、どちらの表現が好きですか?便器というのは、人々の汚いものを排出させて、それを受け止める存在であるということです。確かに、それはカウンセラーの働きであると思います。しかし、デザイナーはどうでしょうか。それは、人々の心にあるものを傾聴し、受け止め、受容することはしますが、しかし、そこで終わるのではなく、人々の価値観やセルフイメージをデザインし、その人が最高に生きられるようにしてあげる働きでもあります。このことから、どんなことでも、否定的に言おうと思ったら、どこまでも否定的に表現することが出来ると思います。しかし、肯定的に言おうと思ったら、どこまでも肯定的に表現することが出来ます。あなたは否定的にものを考える人ですか?肯定的にものを考える人ですか?否定的にものを考える人の特徴は、慎重で、石橋を叩いて渡るタイプの人だろうと思います。しかし、それだけならいいですが、ともすると、自分が失敗しても傷つきたくないからとか、あるいは、言い訳をするためであったり、変化したくないからというような気持がないでしょうか?確かに、否定的な生き方は、現実主義であるかもしれませんし、失敗は少ないでしょうし、楽な生き方かも知れません。しかし、そこには充実感や満足はないでしょう。肯定的にものを考える人の特徴は、積極的で、可能性を信じ、夢を追い求め、不可能に挑戦して行くタイプの人だろうと思います。しかし、ともすると、現実から遊離して、地に足がついていないように見えたり、現実性や社会性が乏しいと見られることがあるかも知れません。しかし、この世界は、肯定的にものを考える人によって前進し、切り開かれて来ていると思います。否定的にものを考える人は、安定思考で、保守的で、それを維持して来ることに貢献して来ただろうと思います。神様が人に与えられた最高の賜物は自由意志です。ですから、人は自由にものごとを選ぶことが出来ます。カウンセラーを便器と捉えることも自由ですし、デザイナーと捉えることも自由です。ただ私は、肯定的にものごとを考えたいですし、これからもそのように生きていきたいです。あなたはどちらがお好きですか? それは、あなたが決めていいことですし、決めなくてはいけません。そして、その決めた結果は自分で刈り取ることになります。世の中で最も確かなものは原則です。その原則の中でも身近なものは、「まいたものを収穫する。」とう原則です。否定的な考え方や態度、言葉、そして、肯定的な考え方や態度、言葉は、種であり、種まきです。ですから、短期間で収穫できる作物もありますが、時間がかかってやっと収穫できる作物もあるように、その収穫の時期はまちまちですが、必ず収穫する時が来るのです。私たちが今生きている現実は、おそらく、過去にまかれた種の収穫を刈り取っているのだと思います。しかし、今まではどうであったとしてもこれからは、良い種をまいて行きましょう。私たちはやがて、その収穫する未来を生きるのですから。この原則は、お百姓さんに聞くまでもなく確かなことです。共に、素晴らしい未来の収穫に向かって前進して参りましょう。あなたは、未来のデザイナーなのですから。そのために、今日は日曜日です。お近くの教会に足を運んで下さるか、是非、インターネット放送(http://www.geocities.jp/sgr_ch/)でもいいですから、神を一緒に礼拝しませんか?祝福がありますように。God bless you!
2006年12月03日
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家族というのは本当にいいものです。私には、妻と3人の子供たちがいますが、何もしないでそこにいてくれるだけで大きな喜びになりますし、支えられています。しかし、今実際に、私の回りを見渡してみると、家族関係が壊れているのを多く見て心が痛みます。なぜ、そうなってしまうのでしょうか?まず、最小の家族の単位は夫婦関係です。ある若い男女の結婚式の日に、年を召したご婦人がこう言いました。「今が一番幸せですね。」しかし、もし、今が一番幸せだとしたら、これ以上幸せになれないし、これ以上愛が成長することはないということになります。もしそれが真実だとしたら、結婚に希望など持てません。実際、夫婦と言うものは、いい部分も悪い部分もすべて見せ合います。その時に、いい部分は元々知っていただろうと思いますが、悪い部分は、はじめて知ることになります。そこからが愛に向かうのか、惰性に流されるのかの別れ道になります。結婚前は、あばたもえくぼに見えますが、結婚後、あばたはやはり、あばたであったとわかります。しかし、もうしばらく経つと、えくぼまでがあばたに見えるようになります。そんな時、もし惰性に流されている夫婦は、お互いに拒絶反応を示したり、非難したりします。そして、もしその流れのままに進んだら、夫婦関係は衰退の一途をたどります。しかし、もし愛に向かったとしたらどうでしょうか? 聖書には、『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。』と教えます。その愛とは、イエス様の十字架の愛です。罪があるにも関わらず、ありのままで愛し、赦し、受け入れるために、自らが、強いられてではなく喜んで、十字架で死なれました。もし、その愛で、夫婦がお互いに愛したら、ものすごい大恋愛になり、ものすごい幸せな夫婦になります。しかし、ここで一つ注意が必要です。『互いに愛し合いなさい。』と書いてあるから、「まず私を愛してよ。そうしたら、私もあなたを愛します。」というのは違うのです。ここには、「愛されなさい。」という言葉は一切含まれていません。ただ、イエス様に十字架で愛された愛を受けて、その愛で配偶者を愛するのです。そこには、恋愛とは全く違う次元の愛があります。恋愛は生理的にも感情的にも好きという気持がありますが、愛は、そういうものを超えるものです。しかし、その愛が家族の中にあったら、間違いなく家族は幸せになり、そして、必ず、親子関係も良好になるはずです。そこで、本物の家族が出来上がります。そして、今日のテーマは、ここからです。その本物の家族に対することと同じ事を、あなたの隣人にすることです。私たち日本人は、内と外を分ける傾向があります。家族には寛容でも、外部の人には冷たかったり、もしかしたら、その逆もあるかも知れません。しかし、家族に対するように、他の人に、教会の人に、地域の人に、職場の人に、学校の人に、出会う全ての人に接したら、あなたは、聖書のほとんどを実践していると言っても言い過ぎではないと思うのです。つまり、世の中の問題は、家族が崩壊していることと、また、お互いが家族だと見ていないことにあります。もちろん、家族だからこそ、思い切って喧嘩をしたり、言い合ってしまうことがあるかも知れません。しかし、家族とは、絶対に切れない絆で結ばれているからこそそれが出来るのです。それが、日本では、本音と建前を使い分けなければ生きていくことが難しいです。それは、長年続いて来た友人関係や知り合いの関係が、一回のぶつかり合いで壊れてしまうことが多くあるからです。そこには、お互いを家族だと思っていない問題があります。また、夫婦が、なぜそんなに簡単に離婚をしてしまうのでしょうか? もちろん、致し方ない場合も数多いと思います。DVや不倫、アル中、働かない等々の致命的な問題があるかも知れません。しかし、キリストが十字架で与えて下さった愛でどちらか片方であったとして愛しはじめたとしたら、必ず回復に向かえるはずです。離婚寸前のカップルは、最初は些細なことからはじまった喧嘩かもしれませんが、お互いに相手が悪いと言って、非難し合っています。しかし、愛は、あなたも間違っているかも知れないけれど、私も間違っているかも知れないというところからはじまり、相手の過ちや弱さを無条件で赦します。なぜそれが出来ないのでしょうか? それは、キリストの愛を知らないか、頭でしかキリストの愛を理解していないか、いたずらにキリストの愛を受けているかのどれかです。今日、あなたはありのままで愛されています。それを、全身で実感できますように。そして、あなたが独身であったとしても、既婚者であったとしても、身近な人や家族との関係が修復されますように。そして、その関係と同じように、他の人にも接することが出来ますように。みなさん、このことだけで、世界は変わって行くはずです。必ず、日本は救われます。世界は救われます。どうぞ、家族になりましょう。私とあなたは家族です。そして、それは、自分の家族としての権利を要求するのではなく、自分の家族としての義務を果たして参りましょう。素晴らしい一日でありますように。God bless you!
2006年12月02日
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私に取って、かけがえのない宝は友達です。友達は、私に喜びを与え、支え合い、あらゆるものを共有することが出来ます。あなたには、そんな友達がいますか? もの答えがNoであったり、怪しげなYesであったとしても心配はありません。あなたが、友なき人の友となったらいいのです。そうしたら、その相手があなたのかけがえのない友達になります。友達というのは、一方においては、相手から友達になってもらうという要素があります。それは、相互関係にあるからです。しかし、こちから積極的に友達になってあげることによって、相手はどれ程うれしいでしょうか?孤独を感じやすい時代です。友達を作り、友達を大切にして行きたいものです。聖書には、崇高な教えがたくさん出て来ます。キリスト教の倫理観や道徳観は世界一だろうと思います。しかし、その崇高な教えを持っていたとしても、理想の愛を知っていたとしても、もし、目の前にいる困った人を助けないならば、そこに何の意味があるでしょうか?聖書が追い求めるように教えることは愛です。そして、その愛とは、ギリシャ語でアガペーであるとか、愛とは、こうであるということを知ることが無意味だと言いませんが、そこで満足して終わってしまったら、ほとんど意味を持ちませんし、かえって、害になることすらあります。それは、知識は人を誇らせ、愛は人の得を高めるからです。愛とは何でしょうか? 一言で、具体的に言えば、友達になろうとすることです。そして、友達になれば、それですべてが決まると言っても言い過ぎではありません。教会では、兄姉も呼び合います。しかし、それ以上に、友達になろうとしているでしょうか? ともすると、兄姉には、高い基準を設け、お互いに期待し合います。そして、その期待に答えられないと、躓きます。あるいは、裁きます。こういう兄姉の関係は、何かつらいものを感じます。しかし、友達ならどうでしょうか? もちろん、相手に期待する部分はあっても、相手がその期待に答えてくれなかったとしても、「しょうがねーなー」で済むのです。友達ならば、寛容になれるし、愛せるし、受け入れられるのです。そして、友達の陰口などはまず言いません。むしろ、友達の悪口を他の人が言ったら、「俺の、私の友達に何を言うんですか!」と反論するでしょう。そして、友達は、いつでもその友の味方です。そこには、善悪を基準をも超えます。もちろん、間違っていたら。率直に言い合えますが、その善悪の基準で、友達関係が揺らぐことはありません。ですから、友達がいるならば、いつでも自分の側に立って、味方になってくれる人がいるという安心感を持つことができます。また、友達関係は、相手を裏切ることはまずしません。また、義理がたいです。こんな友達の特徴をちょっとあげただけでも、これは、聖書が教える愛に限りなく近いのではないでしょうか?聖書が教えるメッセージは、すべての人と友達になることは絶対に出来ませんが、少なくても、身近にいる数人、気の会う数人、同級生や同僚の中から数人、そして、その中の1~2人を親友として持つことが出来たら、きっとあなたは、聖書を無意識に行なっているのではないかと思います。クリスチャンは、聖書やキリスト教が持つ高い倫理観や道徳観ゆえに、クリスチャンかくあるべきが先立って、それが自分に向けられると、萎縮したり、ぎこちなくなったりしますし、それが相手に向けられますと、厳しい基準を相手に押し付けて、善悪を裁くようになります。しかし、聖書は、あくまでも、祈りつつ向かう目標です。そう出来ない自分を知る鏡です。そこで謙遜になって、寛容になって、弱さを赦し合って、共に生きて行くこと。そして、友達になって行くことです。私たちは、相手から友達になってもらうことばかりを求めていたのではないでしょうか? それも必要でしょう。しかし、こちらから、友なき人、寂しい人、病気の人、ポツンと孤立している人のところに行って、友達になってあげましょう。しかし、その友達があなたを支え、あなたに喜びを与え、あなたのかけがえのない味方、かけがえのない人となってくれるのです。今日、私はあなたと友達になりたいと思っています。そして、願わくは、どちらかが先に天に召される日まで、生涯友であってほしい、生涯友でありたいと願っています。今日も素晴らしい一日でありますように。God bless you!
2006年12月01日
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