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いつもこの日記を読みに来て下さるみなさんに感謝を致します。これから一週間くらい、忙しくなるため、不定期更新、もしくは、お休みさせて頂きます。ここが更新されていない時は、聖書1章を声を出して朗読して見て下さい。必ず大きな力となると信じます。よい毎日を送って下さい。また、メールにて相談等に応じています。必要があればメールを下さい。祝福がありますように。
2006年10月27日
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私たちは、例外なく「自分は正しい」という自覚を持って生きているだろうと思います。それは、「自分は間違っている」と言って争っている人はいないからです。たとい、一週間であったとしても、夫婦喧嘩もしないし、誰とも争わない人はまずいないだろうと思います。仮に、そういう人がいたとしたら、「よかったですね」と言ってあげたいです。人はそれで、相手を変えようとします。これが、すべての争いの原因なのです。もちろん、それは事実でしょうし、客観的にも正しいかも知れません。しかし、そうやって相手が変わったという経験をどれくらい持っているでしょうか?ギリシャの哲学者、ソクラテス(BC470~399)は非常に聡明な人でした。若い頃、クサンティッペという女性に恋をしました。彼女はとても美しい女性でしたが、ソクラテスはその女性を惹き付ける程は美男子ではありませんでした。しかし、彼の得意技は、相手を説得することでした。そうしてソクラテスは、美しいクサンティッペと結婚することが出来ました。しかし、ハネムーンから帰った新婚夫婦は決して幸福ではありませんでした。二人は、お互いの欠点にばかりが気になりました。そして、お互いに非難し合いました。ソクラテス夫妻は、お互いに自分の正しさを主張し合って、ますます不幸になって行きました。それは、相手の欠点を修正しようとすればする程、相手は小うるさくなり、その欠陥部分は悪くなって行きました。そして、その結婚生活は破綻に向かって行きました。一人の男性が、ある夫婦セミナーに参加しました。そのセミナーは、参加者全員がオリエンテーションの時間に自己紹介と、なぜこのセミナーに参加したのか?を話すことになっていました。彼は、「私の妻のためです。」と話しました。その時、他の参加者はみんな笑いましたが、講師は笑いませんでした。やがて、セミナーが終わる頃に、また、一人一人がセミナーに参加して何が変わったかを話すことになっていました。この男性は、「問題はすべて解決しました。人間関係で誤解が生じた時は、自分から解決をしなければならないことを知りました。自分の中にあった否定的な考え方が原因でした。これからは、自分の問題点を直視し、自分から変わって行きたいと思います。」と言いました。そうしますと、セミナー会場に拍車が湧き上がり、しばらく鳴り止まなかったそうです。そして、この男性は、セミナーで学んだ通りに行なって、みごとに夫婦関係が修復され、他の人間関係も良好に変化して行ったと聞きます。私たちは、自分の正しさを主張することに躍起になっているところから、ちょっと立ち止まって、自分は必ずしも正しいのではないかも知れないと謙遜に考えてみることも大切です。そして、いつでも正しい人などいないのです。そして、正しさの主張からは、争い以外の何ものも生み出さないのです。すべては、自分が変えるところからはじまります。聖書は、聖書を用いて人を裁いたり、人を変えようとしたりすることを教えません。自分自身が悔い改め、変えられることを薦めます。今日、神の前に少し立ち止まって、静かに自分自身の姿をかえりみて、直視し、謙遜に大胆に、自分を変えてみませんか? そこからすべては変わります。そこから、新しい何かがはじまるはずです。素晴らしい一日でありますように。
2006年10月26日
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私たちは、例外なく「自分は正しい」という自覚を持って生きているだろうと思います。それは、「自分は間違っている」と言って争っている人はいないからです。たとい、一週間であったとしても、夫婦喧嘩もしないし、誰とも争わない人はまずいないだろうと思います。仮に、そういう人がいたとしたら、「よかったですね」と言ってあげたいです。人はそれで、相手を変えようとします。これが、すべての争いの原因なのです。もちろん、それは事実でしょうし、客観的にも正しいかも知れません。しかし、そうやって相手が変わったという経験をどれくらい持っているでしょうか?ギリシャの哲学者、ソクラテス(BC470~399)は非常に聡明な人でした。若い頃、クサンティッペという女性に恋をしました。彼女はとても美しい女性でしたが、ソクラテスはその女性を惹き付ける程は美男子ではありませんでした。しかし、彼の得意技は、相手を説得することでした。そうしてソクラテスは、美しいクサンティッペと結婚することが出来ました。しかし、ハネムーンから帰った新婚夫婦は決して幸福ではありませんでした。二人は、お互いの欠点にばかりが気になりました。そして、お互いに非難し合いました。ソクラテス夫妻は、お互いに自分の正しさを主張し合って、ますます不幸になって行きました。それは、相手の欠点を修正しようとすればする程、相手は小うるさくなり、その欠陥部分は悪くなって行きました。そして、その結婚生活は破綻に向かって行きました。一人の男性が、ある夫婦セミナーに参加しました。そのセミナーは、参加者全員がオリエンテーションの時間に自己紹介と、なぜこのセミナーに参加したのか?を話すことになっていました。彼は、「私の妻のためです。」と話しました。その時、他の参加者はみんな笑いましたが、講師は笑いませんでした。やがて、セミナーが終わる頃に、また、一人一人がセミナーに参加して何が変わったかを話すことになっていました。この男性は、「問題はすべて解決しました。人間関係で誤解が生じた時は、自分から解決をしなければならないことを知りました。自分の中にあった否定的な考え方が原因でした。これからは、自分の問題点を直視し、自分から変わって行きたいと思います。」と言いました。そうしますと、セミナー会場に拍車が湧き上がり、しばらく鳴り止まなかったそうです。そして、この男性は、セミナーで学んだ通りに行なって、みごとに夫婦関係が修復され、他の人間関係も良好に変化して行ったと聞きます。私たちは、自分の正しさを主張することに躍起になっているところから、ちょっと立ち止まって、自分は必ずしも正しいのではないかも知れないと謙遜に考えてみることも大切です。そして、いつでも正しい人などいないのです。そして、正しさの主張からは、争い以外の何ものも生み出さないのです。すべては、自分が変えるところからはじまります。聖書は、聖書を用いて人を裁いたり、人を変えようとしたりすることを教えません。自分自身が悔い改め、変えられることを薦めます。今日、神の前に少し立ち止まって、静かに自分自身の姿をかえりみて、直視し、謙遜に大胆に、自分を変えてみませんか? そこからすべては変わります。そこから、新しい何かがはじまるはずです。素晴らしい一日でありますように。
2006年10月26日
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今朝は、衆議院議員会館において持たれる、国会祈祷会に参加して来ました。久しぶりに、朝のラッシュアワーを経験しました。約一時間の祈るための集会ですが、ツルネン参議院議員のあいさつに続いて、牧師でもある土肥衆議院議員からメッセージが取り次がれました。主な内容は、北朝鮮の核問題についてでした。この中で、「ついにこのような事体に陥ったか」と、大きな不安と、跪いて、「主よ、助けたまえ。」と祈るほかにないとのことでした。私も、今こそ、すべての人が心を合わせて祈る必要があると痛感します。第一テモテ2章1節~3節には、『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが、敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。』と書かれています。私たちは、誰でも、自分のためには祈ります。そして、自分だけは嫌な目に合いたくない。自分だけは良い思いをしたいと願うものです。しかし、たとえ自分のための祈りであっても、なかなか時間を割いて祈る人はいません。まして、すべての人のために、安部総理大臣のために、天皇陛下のために、政治家や権力者、指導者のために祈ることはなかなか考えられません。それは、祈りの中でこそ、私たちは本当の姿が現わされるからです。祈りの中で誤魔化せる人はいません。すべての人のための祈りとは、すべての人が救われ、幸福になりますようにという祈りです。つまり、自分に対して祈っている祈りを、そのままあの人にして上げて下さい。あるいは、気になるあいつにもして上げて下さい。宿敵であるあの野郎にもしてやって下さい。もし、こう祈れたとしたら、間違いなくそれは愛です。愛とは、利己的な部分を削り落として、利他的な心を持つことだからです。そんな祈りは、もう働きであり、労働でもあります。しかし、間違いなく一つ言えることは、他人の幸せ、特に、自分に取って受け入れがたい人も含めて、祝福と幸せを本気で祈れたら、心が豊かな人であり、最高に幸せな人です。神様が愛しなさいと教えられるのは、他者や世界の幸せも含まれますが、その人個人の幸せのためなのです。そんな祈りをささげて行きましょう。そして、高い地位にある人に対して、妬みを感じたり、粗探しをしたり、無関心になったりしないで、真心から祈りましょう。牧師や宣教師のためにも祈って下さい。今日、お互いのために祈りましょう。家族のため、友人知人、会うすべての人のために祈る日に致しましょう。あなたも、祈りの働きに参加して下さい。豊かに祝福がありますように。
2006年10月25日
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私たち人間は、聖書によれば、神によってデザインされ、創造されたと記されています。しかし、私たちが学校の教科書で学んだのは、全く違う進化論と言うものです。今日は、ここでどちらが正しいかを論じるのではなく、聖書が私たちに教えていることを一緒に考えてみたいと思います。神が私たち人類を創造された時、神のイメージに沿って、土のちりで人を形造りました。ですから、私たちは、神様に似せられている存在なのです。もうそれだけで自分を好きになる十分な根拠がありますし、ものすごい価値のある存在です。しかし、私たちは、土のちりで造られました。これは、私たちの国のように死んだ人を火葬する国では実感がありませんが、土葬をする国ではそれをはっきり見ることが出来ます。人の死んだ体は、やがて土に帰ります。しかし、私たちは、土で造られただけではありません。その土の中に、神がいのちの息を吹き込んでくださいました。その瞬間、人は生きた存在になりました。私たちは、この地上で一番低い物質によって形作られ、最高の神のいのちである聖霊に満たされて、人間となりました。しかし、最初の人、アダムとエバは、神によって禁じられた木の実を食べてしまいました。その瞬間、私たちのいのちである聖霊が離れて行きました。人は、神から切り離された存在となりました。ですから、永遠に生きれる存在として造られたのに、しばらくして、人は死を迎えるようになりました。しかし聖書は、イエス・キリストの十字架によって、信じる人に、神から切り離されている罪が赦されて、神の子どもとなって、もう一度聖霊に満たされる道を開いて下さいました。ですから、この私たちの体は一度死にますが、キリストと共に復活させられて、永遠のいのちを受け、天国に入ることが出来ます。私たちは今、信じるだけで、神の霊に満たされることが出来ます。それは、神と私が直結されるということです。これは、私たちが今見ているパソコンを考えて下さい。どんなに高価なパソコンであったとしても、もし電源がつながっていなければ機能させることはできません。充電のできるノートパソコンも、時間の問題です。電源とつながれることで、その機能をいかんなく発揮することが出来ます。同じように、私たちは素晴らしい存在ですが、神のいのちが離れていたら、充電がしばらくしたらなくなってしまうように、時間の問題です。しかし、神のいのちである聖霊に満たされたらどうでしょうか? 本来の私たちの能力が発揮され、輝き出し、いのちに溢れるようになります。今日、一緒に、心を開いて、神の霊である聖霊に満たされて行きましょう。一緒に祈って下さい。『愛する神様、私を愛して下さり感謝を致します。私はイエス様を救い主と信じます。私は罪人です。イエス様の十字架によって私の罪を赦して下さい。そして、聖霊で満たして下さい。聖霊に満たしてくださり感謝を致します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。』私たちは今、聖霊に満たされました。神様と共に、聖書の約束を信じ、従い、最高の一日を歩ませて頂きましょう。これこそ、私たち人類のあるべき姿です。あなたは愛されています。祝福がありますように。アーメン。
2006年10月24日
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みなさんの中でpassionという映画を観られた方も多いのではないかと思います。まだ記憶に新しいのではないでしょうか? この映画を観た人の感想を聞いて、楽しかったという意見はまずなかったようです。あの凄惨な鞭打ちや、十字架を背負わされてカルバリーの丘に向かう姿は、苦痛そのものです。 しかしこれは、作り話ではなく、実際に起こったことです。 私はこれを見た時に、三つの思いが心に思い浮かべられました。 1、申し訳ない心2、感謝の心3、十字架の救いの完全さ 1、申し訳ない心とは、これが私の罪と死と、苦しみと病を身代わりに背負って下さった十字架の死だからです。私は涙が何度も流れました。そして、「イエス様ごめんなさい。神様ごめんなさい。どうぞ、私の罪を赦して下さい。」と、心から悔い改めました。 2、次に、感謝の心が湧きあがってきました。罪が赦された喜び、聖霊に満たされた喜び、心と体の病がいやされた喜び、アブラハムの祝福が与えられた喜び、天国に入れる喜びが湧きあがり、感極まってハレルヤ!と叫びたい気持でした。 3、そして、十字架の救いの完全さを思いました。特に、動物の骨や貝殻の付いた鞭を打たれているシーンを見た時に、確かに聖書では何度も読んではいましたが、ここまですごいことだったのかと、目を背けたくなりました。そして、罪の恐ろしさ、悪魔の卑劣さを感じました。しかし同時に、この鞭打ち、この十字架で、赦されない罪は一つもない、いやされない病はない、悪魔やすべての問題から必ず解放される、絶対に天国に入れると、強く確信しました。 私は、時々疲れたり、意気消沈したり、恐れたり、心配したり、落ち込むことがありますが、その時いつも、十字架にかけられたキリストを思い起こします。そして祈ります。そうしたら、しばらく祈っているうちに、疲れは元気に、意気消沈は活力に、恐れは愛に、心配は平安に、落ち込みは希望に変えられます。 昔、イスラエルの民が、神とモーセとに逆らってつぶやいた時に、神は燃える蛇を送られたので、蛇は民に噛み付き、イスラエルの多くの人々が死にました。しかし、民は悔い改めますと、モーセは神に祈りました。 その時、神はモーセに、「燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」。と言われました。 そこで、モーセが青銅の蛇を作り、その旗ざおの上につけました。そして、その青銅の蛇仰ぎ見た人は、いやされ、生きることが出来ました。 この青銅の蛇とは、罪の杯を飲み干し、十字架上でのろいとなられたキリストを象徴しています。私たちが、キリストを思い起こし、ただ見上げるならば、同じことが起こるはずです。 passion 受難のキリストは、私たちの救い主、聖め主、いやし主、来るべき主の主、王の王です。今日も、このキリストから目を離さないで歩んで参りましょう。 祝福がありますように。アーメン。
2006年10月23日
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聖書には、イエス様を十字架につけようと兵士と役人たちが連れ立って来たと書いてあります。その時イエス様は、「誰を探しているのか」と聞いたら、彼らは、「ナザレのイエスを。」と言いました。続けてイエス様は、「それはわたしです。」と語りました。この「それはわたしです。」という言葉はギリシャ語で、「エゴーエイミー」という言葉です。非常に強い言葉です。この言葉を聞いた兵士や役人たちは、後ずさりをし、後ろに倒れたと書かれています。それは、イエス様の存在の前に、圧倒され、腰を抜かし、立っていることも出来ませんでした。私たちは、どんなに強そうに見えても、また、強そうに見せかけることは出来ても、案外弱い存在です。吹けば飛んでしまうような籾殻のような存在です。しかし、イエス様は、「ありてある」お方です。イエス様はこの後、裁判にかけられ、十字架刑が定められますが、何も反論しませんでした。ただ黙って十字架に向かいました。そして鞭打たれ、十字架を負わされて殺されました。弱い姿を見ますが、これは、私たちの罪を背負って十字架にかけられたので降りて来れなかったし、降りてこなかったのです。ここに、本当の強さを見ることが出来ます。本当の強さとは、強そうに見える強さとは違います。お酒の中毒になっている知り合いを数人知っていますが、彼らは強そうに見えますが、すごくもろいです。ちょっとしたことで、ボキッと折れてしまうように倒れてしまいます。本当の強さとは、キリストの十字架の中にあります。私たちは弱いのです。ですから、キリストと共に十字架にかけられ、古い自分に死んで、新しい人になった人こそ本当は強いのです。その人は、自分の弱さを知っていますし、自分の弱さを認めていますし、自分の弱さを誇ることすら出来ます。そして、はたから見たら、弱そうに見えます。しかし、その人は、人を許すことが出来ますし、寛容に人を受け入れることが出来ますし、しなやかに逆境を受け入れることが出来ます。私たちは、堅いけれど、ボキッと折れてしまうような強さではなく、葦のようにしなやかでいて且つ柔軟で強い人にさせていただきたいものです。その強さは、イエス様の十字架の中にあります。それは、教会で得ることが出来ます。日曜日は教会に集まって、イエス様を礼拝致しましょう。よい一日でありますように。
2006年10月22日
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聖書には、『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。』と書かれています。この箇所は、私たちと神との関係を指し示しています。まず、私たちは枝ではないのです。これは、私たちは神ではない。ということを教えています。そして私たちは、その神と繋がっている枝なのです。これを知っただけで、私たちの悩みや心配は半減するはずです。枝に必要な養分は、すべて本体である木から流れてきます。聖書が教える罪とは、枝が木から切り離された状態を指します。ですから、神様と私たちが繋がれ、直結されることが大切なのです。次に、私たちが、木に直結されている枝であるならば、すべての必要が流れて来るということです。これはすごいことです。私たちの霊と魂の祝福、現実的、経済的な祝福、健康の祝福が流れてきます。『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』(第三ヨハネ1章1節)と書かれています。例えば、枝が、何らかの理由で外傷を負ったとします。鳥が突付いたり、熊が引っかいたりして傷を負ったとしたら、本体の木から枝に樹液が流れて来て、その樹液が傷口に流れて来て、気が付けば治ってしまいます。これは自然治癒と言われますが、私たちも神と直結しているならば、神のいやしの油注ぎが流れて来て、いやされ、健康が与えられます。そして、イエス様が天国に入られる時、私たちも枝として繋がれていますから、一緒に天国に入り、永遠に主と共に暮らすことが出来ます。また、この聖書の箇所には、恐ろしいと思えることが書かれています。ヨハネの福音書15章2節『わたしの枝で実を結ばないものは、父がそれを取り除き・・・』とあります。しかし、これは翻訳の間違いであるといわれています。これは、はさみでチョッキンしてしまうのではなく、持ち上げるという言葉です。実を結ばない枝は、太陽が当たらない場所に隠れているのでしょう。神は、その枝を持ち上げて、陽の当たるところに導かれるということです。これを知らないと、恐ろしいメッセージになってしまいます。またもう一つ、2節の後半『実を結ぶものは、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』こちらの刈り込みは、剪定はさみでチョッキンするということです。何をチョッキンするのでしょうか? それは、栄養分を取ってしまう雑草等です。それは、私たちのエゴ、自我、古き罪性です。これをチョッキンして頂く事で、もっと多くの実を結ぶようになるのです。そうしたら、神の剪定はさみとは何でしょうか? それは、試練や問題、迫害や苦難です。これらの経験は、するどい剪定はさみとなって、一発で、スパッと余分なものを切り取ってくださいます。ですから、すべてのことに感謝できるんですよね。よいことはよいので感謝ですし、つらいことも、そのつらさがよいことに変わりますので感謝なのです。感謝な一日でありますように。また、イエス様と直結された一日でありますように、祝福を祈ります。
2006年10月21日
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イエス様は、新しい戒めを私たちに与えられました。それは、『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。』(ヨハネの福音書13章34節~35節)この愛は、人から愛を求めることは一言も教えられていません。ただ、キリストが私を愛された愛で、他者を愛しなさいと教えられました。ともすると、愛の教えを聞きながら不満を抱いたり、愛の教えを学んでいながら誰かに躓くのは、その心の土台に、「私を愛して」という心があるからだと思います。この心は、神だけに向けるように聖書は教えます。なぜならば、人間は罪人であり、その求める愛を持っていないからです。そして、求める相手も同じように、「私を愛して」と心で叫んでいます。夫婦喧嘩の原因はここにあります。お互いに愛を求め合っています。また、人間関係の争いもそうです。互いに自分の権利を主張し合い、自分の義務を果たそうとはしません。愛とは、自分が愛されたい心を置いておいて、他人の権利を認め、自分の義務を果たそうとする心と姿勢です。もしこれが、お互いの中にあったならば、そこは間違いなく愛に溢れるようになります。そしてイエス様は、『もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。』と言われました。私たちの中に、そのような愛がもしあるならば、すべての人が私たちを見て、「この人たちはあのイエス・キリストの弟子たちに間違いない」と認めざろう得ないでしょう。そして、「わたしもそのようになりたい。」「わたしもそんな愛に生きたい。」となるのではないかと思います。カギは、キリストの愛で愛することです。その愛は、キリストの十字架の中に示されました。これがどういう愛であったかを、今日お互いに黙想し、その愛が私に向けられていることを感謝し、その愛を受け入れ、その愛の中で憩い、そして、この愛で、今日出会う誰かを愛して行きましょう。そんな気持を持って歩む一日は、間違いなく幸せになるだろうと思います。今日私が赦され、愛され、受け入れられていることを感謝しつつ、歩ませて頂きたいですね。よい一日でありますように。
2006年10月20日
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聖書の中で最も短い聖句は、『イエスは涙を流された。』(ヨハネの福音書11章35節)です。英語だと、たった2文字です。しかし、その中にイエス様の愛がたっぷりと込められています。この姿を見たユダヤ人たちは、『ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。』(ヨハネの福音書11章36節)と言いました。イエス様の涙の中にどんな気持が込められているのでしょうか?1、それはまず、人間の悲しみ共感をし、共に涙を流されるということです。今日あなたには悲しみや心の痛みがあるでしょうか? イエス様は、あなたの悲しみや痛みを共に感じて、涙を流しておられます。私が好きなゴスペルソングの一つにこんな歌があります。♪神様に もっと近づく 苦しみ中におられる主よ 変わることないその愛 とわに主だけに仕える♪この、苦しみの中におられる主という部分が大好きです。神様は、私たちの苦しみのただ中で、共に苦しんでいて下さいます。それを気付かなかったかも知れません。しかし、その苦しんでおられる主を知った時から、心の傷はいやされ、回復がはじまります。祈りの中で、共に泣き、共に苦しまれる主を見出して下さい。あなたは愛されています。2、次に、イエス様が流された涙は、人間を苦しめるものに対する憤りの涙です。イエス様が涙を流された。と書いてある少し前には、『霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、』と記されています。ここでは、死んだラザロやその姉妹たちに対するものですが、もっと言えば人類や私たちを苦しめる罪に対し、悪魔に対し、病気に対し、呪いに対し、死の力に対して憤り、心の動揺を感じておられます。それは、イエス様がご自分のいのちと引き換えにしてもいい程愛している人間を苦しめるものだからです。人は、自分の宝物を命懸けで守ります。同じようにイエス様は、あなたを命懸けで守ってくださいます。そして、神があなたの味方であると聖書は記します。そして、あなたを苦しめるものに対して、イエス様は今日も憤って涙を流しておられます。どうぞ、悔い改めて、罪を捨て去り、悪魔を追い出し、病気やのろいを委ね、死と地獄が十字架で撤廃されたと信じて下さい。今や、救いと永遠のいのちが私たちを支配しています。あなたは赦された義人です。あなたは聖霊に満たされた新しい被造物(人)です。あなたは健康な人です。あなたはアブラハムの祝福を受けている人です。あなたは天国の人です。イエス様は人格を持っておられます。イエス様は愛です。イエス様はあなたの隣り人です。あなたは愛されています。このイエス様をあなたのすべての領域で認め、歓迎し、迎え入れ、委ねて、共に歩んで参りましょう。祝福が豊かにありますように。アーメン。
2006年10月19日
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聖書には、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、よい牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。』(ヨハネの福音書10章10節~11節)と書いてあります。ここで出て来る盗人は、悪魔と悪霊を指しています。また、羊は、私たち人間を指しています。そして、良い牧者はイエス様のことを指します。悪魔や悪霊は、必ずしもおっかない顔で私たちに近づいては来ません。光の天使のような姿で近づき、あたかも善人ぶって接近してきます。そして、罪がいかに魅力的で、最高のものであるかのように誘惑します。しかし、罪を犯した途端に豹変します。そして、罪責感を持って責めたり、赦しがないことを持って脅かします。そして、その目標は神から人間を引き離すことにあります。人間は、羊のように迷いやすい存在です。羊は、数m先までしか見ることが出来ません。その近視眼的な部分は私たちと似ています。いつも一生涯という長いスパンで見たり、永遠という視野で物事が見れません。過去や現在のちょっとしたことに一喜一憂しやすいです。また羊は臆病です。私たち人間も、恐れや心配で心が支配されやすいです。そして羊は、どんなリーダーに従うかで人生が全く変わってしまいます。つまり、回りの流れに従って行きます。私たち日本人ともよく似ています。イエス様は、よい羊飼いです。悪魔・悪霊は盗み・殺し・滅ぼしますが、イエス様はいのちを与え、それを豊かに満たして下さいます。イエス様はよい羊飼いなのです。このリーダーに従う羊は幸せです。このお方は間違いのない道に導いて下さいます。それは、天国への道です。よい牧者であるイエス様は、私たち人類のために十字架で死んで下さり、罪を赦し、悪魔から解放し、心と体を癒し、問題を解決し、祝福と喜びと平安で満たして下さいます。そして、その道は天国にまで続いています。今日、私たちの考え方を新しくしましょう。それは、神様はよいお方です。よい羊飼いであるイエス様の姿を、あなたの心一杯に描き出し、頭一杯に思い描き、全身全霊で信じて下さい。悪魔・悪霊は、否定的な情報を私たちに聞かせます。そして、神様が私たちを我慢させ、苦労させ、つまらない人生、いかがわしい宗教に押し込めると知性の中に語ります。しかし、それは嘘です。悪魔こそそうなのです。神はよいお方です。神はあなたにいのちを与え、それで豊かに満たし、あなたを守るためにいのちを捨てて下さいます。そして、死んだ後にも永遠のいのちを与えて下さいます。よい神を信じ、この牧者に従って参りましょう。今の時代は、本当にいきにくい時代です。しかし、イエス様に従って行くならば、この世に合っても天国のような毎日になります。互いに愛し合い、互いに赦しあい、互いに受け入れ合い、互いに成長し合って参りましょう。よい一日でありますように。
2006年10月18日
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聖書には、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』(イザヤ書43章4節)と書いてあります。神の瞳に映るあなたは、高価で尊く、愛の対象です。この事実を受け止めた人は、自分のセルフイメージ(自分で自分をどう思っているか)が高くなり、自尊心を持つようになります。少し前の調査では、日本の若い人たち、特に、女性のセルフイメージが低いという結果が出ました。自分を好きになれる、自分には価値がないと感じています。この低いセルフイメージが劣等感となってやる気をなくしてしまいますし、いじめにもつながります。そして、未来に対しての夢や希望も持てなくなってしまいます。しかし、この低いセルフイメージは本当のことではなく、虚像です。実像は、高価で尊く、神に愛されている存在です。私たちは間違った情報に騙されているのです。もちろん、神の目に映る私たちの姿は罪人であり、絶望的な存在です。しかし、そのあなたの身代わりに、イエス・キリストが十字架にかかり死んで下さり、信じる人に完全な救いを与えて下さいました。今日神の前に、自分の罪を認め、悔い改めて行きましょう。神はあなたを愛し、赦し、受け入れようと待っておられます。その時、神の目を通して自分を見れるようになります。そして、健全に自分を愛し、尊重し、最高に自分を生かせるようになります。そして、神の目を通して現実を見て行きましょう。自分の目、自分の感覚、自分の経験で見る現実はある一面の事実です。しかし、全てではありませんし、真理ではありません。神の目で見る現実こそ真理なのです。神の目に映る現実は何でしょうか? それは、祈る時に見ることが出来ます。それを見たならば、感謝が湧いて来ますし、愛と許し、信仰と希望が湧き上がって来ます。神は最高権威者です。全宇宙の最高裁判所の裁判官です。そしてこのお方はよい神様であり、優しい神であり、人を偏り見ない義なる神様です。今日も、この神の目を通してすべてを見て歩んで行きましょう。そこに祝福があります。よい一日でありますように。
2006年10月17日
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イエス・キリストは、罪がない神のひとり子なのに、ユダヤの指導者と民衆は、『この人を除け。十字架だ。十字架につけろ。』と叫びました。そして、39回の鞭を打たれ、頭には茨の冠がかぶされ、両手両足には太い釘で十字架に打ち付けられて殺されました。しかし、この十字架の上でキリストは赦しを祈りました。『父よ。彼らを御赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』と。私たちだったらどうでしょうか? きっと、ちょっと足を踏まれたり、ちょっと皮肉を言われたり、ちょっと人の悪意に触れただけでも、腹を立てやすい存在だと思います。私たちは、このキリストの祈りによって救われ、今が与えられていることを思い起こしてください。あなたは、愛され、赦されているのです。今日、キリストの十字架を思い描き、そして、なおも赦しを祈られるキリストの姿を見上げながら祈ってみてください。きっと、すべての悩みや痛みは癒され、救われるはずです。中国の伝道者ブラザー・ユン師は、並大抵ではない迫害を受けました。彼がイエス・キリストを伝えたことで受けた報いは、拷問と牢屋でした。しかし彼は、「キリストの十字架を思ったら、自分の苦しみなど何でもない。」そして、「ユダのようにキリストを裏切らない。」と自分に言い聞かせて迫害を乗り越えました。このキリストの十字架によって、どんな罪も赦され、キリストの十字架によって、どんな悪魔悪霊も出て行き、キリストの十字架によって、心と体のいやし、のろいからの解放が与えられ、天国の扉が開かれました。そして、私たちも、キリストがそのように愛して下さったように、愛せる人にならせて頂きたいですね。許しと和解を祈って行きましょう。また、私たちの先祖や日本が犯して来た罪も悔い改めて祈りましょう。フィジィーという国は、今100%近くがクリスチャンの国になったそうですが、それは、牧師たちが争っていたことを悔い改め、一致して祈り、また、敵対していた人たちの代表者の前で謝罪をしたそうです。その時から、神様がフィィジィーを訪れて下さり、国全体が救われと報告を聞きました。今、私たちの国である日本にもそのような救いが必要です。人々の心の荒廃、家庭の破壊、経済的な苦しみ、あらゆる犯罪や不正が横行しています。今こそ私たちは、一致して一緒に祈り、壊れた関係に許しと和解を求め、この国を神がかえりみて訪れてくださるようにと祈って行きたいですね。私たちは、赦しを祈ったイエス様に倣って歩んで行きたいですね。イエス様は、道・真理・いのちです。祝福がありますように。
2006年10月16日
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今日は日曜日ですが、世界中のクリスチャンは教会に集まって神を礼拝します。しかし、礼拝する対象は、人格を持たれた神様です。そうしたら、神が望まれている礼拝というものがあるはずです。聖書には、『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』(ヨハネの福音書4章24節)と書かれています。それは、真心からの礼拝ということです。よく、礼拝を守るという言葉を聞くことがありますが、それは、日曜日の礼拝を大切にするという意味ですが、本質的には、礼拝とは守るべきものではなく、ささげるものです。それは、ゴスペル(讃美)をささげ、祈りをささげ、献金をささげます。あと、説教は聞いて応答することが礼拝です。ですから、消極的に守ると表現する場合もありますが、積極的にはささげるものです。そして、それは真心からささげるものです。神様は、世界の創造者であり、私たちの創造者です。ですから、私たちは神のものです。そして、神から離れて生きて来た私たちを、キリストが十字架によって救い出して下さいました。ですから、その意味でも神のものです。礼拝とは、神のものを神にお返しすることです。しかし、そうしたら、神はさらに、何十倍にもして返してくださいます。どうぞ、日曜日は教会に行ってみませんか? そして、神を礼拝してみませんか? それこそ、最高に素晴らしい人間の生き方です。神は、あなたの罪を赦し、聖霊で満たし、心と体をいやし、祝福を与え、天国に入れて下さいます。祝福をお祈りしています。
2006年10月15日
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「死んだ犬を蹴飛ばす人はいない。」と言う言葉を聞いたことがあります。なるほどなーと感じました。どんな犬嫌いでも、死んだ犬までは蹴飛ばしません。この言葉を今朝思い出している時に次の聖書の言葉が思い浮かびました。『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』(ガラテヤ人への手紙2章20節)この言葉は、私はキリストと共に死んでいます。そして、キリストが私のうちで生きています。という内容の言葉です。これはミステリーの世界です。約2000年前にキリストが十字架に付けられて殺されましたが、私もその十字架に一緒に付けられたということです。今十字架といえば、若い人たちのアクセサリーとして人気がありますが、きっと潜在意識の中には、十字架の素晴らしさを感じているのではないかと思います。私たちのくには、毎年自殺者が3万人を超えています。また自殺未遂の人を入れたら考えられないくらいの人数になりますし、自殺をを考えた人や自殺願望を持っている人までを入れたら、もしかしたら、ほとんどの人が含まれるかも知れません。しかし、その究極的な願望は、キリストとともに十字架に付けられ、死んで、そして、キリストとともに生きることだろうと思います。今日、キリストとともにあなたが死んだならば、罪の力から解放されます。悪魔から解放されます。病気の力、のろいの力、死の力からも解放されます。そして、あなたをいじめていた人も、死んだ犬を蹴飛ばす人がいないように、相手にしなくなるでしょう。死ぬ為には、我力を捨て、負けることであり、神の僕(しもべ)となることです。その時に、死んだ人に悩みがないように、悩みからの解放もありますし、死んだ人が争わないように、争いからの解放があり、死んだ人に欲望がないように、貪欲からの解放が与えられ、真の自由人になります。そんなことが起こるのでしょうか? 起こるのです。私は今、そのことを実感しています。もちろん、私は弱いので、すぐに自分が生きてしまいやすいのですが、もう一度、キリストとともに死んだことを信じて立ち返る時に、平安のうちに問題は解決し、素晴らしい祝福が押し寄せて来ます。だからこそ、みなさんにもそんなミステリー、そんな隠された奥義、栄光の望み、祝福があることを伝えたいです。あなたは愛されています。あなたは赦されています。そして、幸福になり、他者を幸福にし、生かすために今存在されているのです。今日も祝福がありますように。
2006年10月14日
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聖書には、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』【ヨハネ3:16】と書いてあります。子を持つ親に取って、自分の子供は最も大切なものです。最近では、我が子を虐待する親も見受けられますが、それは明らかに正常な姿ではありません。もし私たちが、自分の親から虐待を受けながら育ったとしたら、歪んでしまうと思います。しかし、親は、最大限の愛を持って子を育てたいと思っても、親は完璧ではありませんから、私たちは何らかの傷を持っています。その傷を子々孫々、先祖代々受け継いでいます。その根底にあるのが罪です。ある人は、「神がいるなら、なぜこの世界にはこんなに不公平や不幸、戦争や苦しみがあるのですか?」と聞きます。しかし、神は人間をロボットとして造られたのではなく、自由意志を持つ作品として造られました。それは、愛に生きる自由があると同時に、罪を犯す自由も与えられました。そして人間は、罪を犯すことを選びました。罪こそが、私たちのこの世界に苦しみをもたらせています。しかし、罪を解決するには、罪のない人間がしなければなりません。だから、神のひとり子イエス・キリストが、人間の姿になって誕生し、十字架で罪の身代わりとなって死にました。それは、神が私たちを愛しているからです。神の目は、今日、あなたに向けられています。それは、罪を赦す眼差しであり、あなたを愛し、永遠のいのちを与える熱い眼差しです。今日も、この神からのプレゼントを頂いて、あなたの只中にキリストをお迎えし、歩んで下さい。間違いなく、幸せな一日なると信じます。心からお祈りをしています。
2006年10月13日
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毎日訪問して下さっている方がいらっしゃったと思いますが、更新が遅れましたことをまずお詫び致します。先週末から忙しくしていました。しかし、出来るだけ簡単にでも更新は続けて行きたいと思います。いらして下さりありがとうございます。聖書には、『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(第一ヨハネ4:10) と書かれています。ですから、イエス様の愛が今日も豊かに注がれています。 そして、その愛は、私たちに向けられています。 この愛を味わい、命をかけて伝えて行きたいですね。 また、どんな状況にあってもイエス様がいるから大丈夫です。 具体的に救い主イエス様に祈って参りましょう。 よい一日でありますように。 いらしてくださりありがとうございます。
2006年10月12日
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私たち自身を含めて、世の中には、幸せな人と不幸せな人がいます。幸せな人は、何をしても幸せですし、不幸せな人はどんどん不幸せになって行きます。聖書には、『持っている者はますます与えられ、持たない者はますます奪い取られてしまう。』と書かれています。それは、一言で言えば、心の中に神を持っているかどうか?ということです。神様は、決して電気に譬えることは出来ませんが、素晴らしい電気製品を考えて見てください。アフリカから来た一人の男性が、日本に来て、水を入れて洋服と石鹸を入れると自動的に洗ってくれる白い箱を見ました。びっくり仰天して、人に訊ねて見ますと、それは洗濯機であり、秋葉原に行くと安く買えるということでした。早速買って、祖国アフリカに空輸してもらいました。帰国後、その村の人たちはうわさを聞いて見に来ました。洋服を入れ、水を入れ、洗剤を入れ、そこまでは良かったのですが、ボタンを押しますが、うんともすんとも言いません。後でわかったのは、その村にはまだ発電所からの電気が来ていませんでした。どんなに優れた電気製品でも、電気が来なければただの置物です。宝の持ち腐れです。私たち人間も、造り主である神から離れていたら、同じように生きているようだけど、それは動物的な命だけであり、宝の持ち腐れです。だから、その状態を憂えた神が、2006年前のクリスマスに一人子キリストをこと地上に送り、十字架と復活を通して、信じる人が神と直結出来る道を与えて下さいました。それは、電気製品と発電所が直結されるように、神と私が一つにされるということです。少し前に、この東京の新宿は、早朝に停電になりました。原因は、クレーンつきの船が、送電線を切断してしまったからです。実は、私たちも、この停電と同じような事体がやって来ています。それを聖書では罪と言います。罪とは、神から遮断された状態のことです。みなさん、これが、私たち人間の幸不幸を決めてしまうのです。そのために、どうしたらいいでしょうか? クリスチャンであったとしても、全く関心がない人でも同じです。自分が罪人であることを認めることです。そして、その私のところにキリストをお迎えして下さい。その時、神と私は直結されて、幸せとハッピーエンドに向かって進み出します。良かったら心の中で祈って下さい。『神様、私はあなたから離れた罪人です。しかし、私を愛し、キリストをクリスマスに送って下さり、救いの道を開いて下さりありがとうございます。今、この私の罪を赦して下さり、救って下さい。私の心の中にお入り下さい。信じます。天国に行く日まで私を導いて下さい。イエス様のお名前で祈ります。アーメン。』今、この祈りを心の中でされた方は、自覚はなかったとしても、神と直結されました。それは、幸せな人生の第一歩を踏み出したのです。また、神から離れてしまうことも出来ますが、その都度、祈って神と直結して下さい。そして、考え方と言葉を変えて下さい。自分は救われた人、神に愛されている人、神に赦され受け入れられている人、神の目に重要で、無限の可能性を持った人、幸せになれるし、幸せな人、天国に入る人だと信じ、自分に対する考え方を変えて下さい。そして、言葉も変えて下さい。自分に対してけなしたり、自己卑下したり、ダメだとか、言わないで下さい。もちろん、事実として、自分の未熟さや足りなさを認め、謙遜な態度は必要ですが、自分の価値をディスカウントしないで下さい。そして、神と共に、幸せな一日を歩んでいきましょう。あなたは愛されている人です。あなたは偉大なことをする使命が与えられています。素晴らしい人です。May GOD bless you.
2006年10月06日
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私たちの人生の中で大切なことは何でしょうか? これは長年の私のテーマでもありました。男の人は特に、社会的な存在としての自分位地というものを気にします。すなわち、学歴とか、地位とか、業績とか、実績等々です。しかし、これらは重要なことではありますが、決して目標にするべきものではないと感じます。先日、親しい友人との再会を果たしましたが、その友人との会話の中で、自分は病気になってしまって考えさせられていることがあると話してくれました。それは、自分が何をやって来たか、何を残してきたかというものが重要なのではなく、今自分が神の前にどうあるかが大切だと感じているということでした。私は、この話を聞いてすごく感動し、自分の心を探らせられました。自分は、目に見える実績や業績を残すことに心が奪われているのではないだろうか? そう考えた時、そういうプレッシャーから解放されました。今私に取って大切なことも、神の前にどうあるか、どういう心で毎日生きて行くか? 家庭の中で、教会の牧師として、人間関係の中で、地域や社会の中で、これが問われているように感じます。そして、その答えは、純粋な心で愛するということだと思います。私の心の中には、利己的な部分がありますし、愛しても見返りを期待している部分があります。しかし、キリストが十字架で、この私を愛して死んで下さったように、私も愛したい。私は、まだまだやりたいことがたくさんあります。しかし、仮に、そのすべてをやり尽くし、成功したとしても、それだけが目標だったとしたら、とても寂しい人生の結末を迎えるのではないかと思います。ただ、自分に与えられた使命を喜び、感謝しながら、神の前にどうあるかを問いながら、精一杯生きて行けたら素晴らしいと思っています。そして、その結果として、多くのことを成し遂げることが出来たら素晴らしいですし、しかし、成し遂げられなかったとしても、「あー、私の人生これでよかった。」と言える人生であったら、幸せな最高の人生だと思います。今日、自分の創造者であり、自分を愛しておられる神の前でどうあるのか? これをしばし立ち止まって考えながら、この一日を大切に生きさせて頂きましょう。今日もありがとう。
2006年10月05日
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インターネットという限られた空間の中で貴方とお会い出来て本当にうれしいです。ありがとう。しかし、これは偶然ではなく、神様によって巡りあわせて頂いたと信じています。ですから、必然的なものであったと思います。私は、この関係は大切にして行きたいと思っています。もしかしたら、一生オフ会もしないかも知れませんし、声も聞くことがないかも知れません。しかし、ネット上だけであったとしても、ずーっと交流をさせて頂けたらなーと願っています。そして、これは私たちの出会いだけではなく、あなたがこの世に存在するのも偶然ではなく必然です。聖書(バイブル)には、貴方が母の胎内に入る前から神様は貴方を知っている。そして、もっと言えば、この目に見える天地が造られる以前から、貴方の命は神に覚えられていたと書かれています。そして、この地上には60億人以上の人口がいますが、あなたが生まれる確立を生理学的に言えば、一回に射出される精液の量は、1cc~6ccで、1ccの中の精子の数は6千万~1億です。その多くのライバルに勝ち抜いた精子が、卵子と結合して生まれたのがあなたなのです。それを考えただけでもあなたはすごい成功者です。もっと自分の存在の価値を知り、認め、勝利の冠を受け取って下さい。しかし、もっと大きな視点で見るならば、神様が、あなたを2000年前でもなく2000年後ではなく、今この時に生まれさせて下さり、今のような容姿を与え、性格や特徴を与え、環境に誕生させて下さいました。あなたが今ここに存在しているという事実だけであなたは愛されています。大切な存在です。絶対に偶然はありません。あなたがここに存在し、今私と出合ったことは、必然的なことです。だから、私は今ある人間関係を大切にしたいですし、一回だけの人生の限られた時間の中で、心を通わせ、励まし合い、支え合い、助け合って行けたら素晴らしいなーと思います。これからもどうぞ、宜しくお願いします。貴方と出会えて本当に良かったと思います。この出会いをありがとう。神様にありがとう。心からありがとう。
2006年10月04日
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現代は暗いニュースが毎日メディアを騒がせています。先行き不透明どころかお先真っ暗と言った感じがします。 しかし、「一寸先は闇」という言葉がありますが、私は、「一寸先には光がある」と信じています。 その光への道が聖書(バイブル)に書かれています。そして、そこに幸せがあることを毎日実感しています。 それを少しづつ分かち合って行けたらと思っています。 今日伝えたいことは、 私たち人間は、その時その時で変ります。 いい時もあれば悪い時もあります。楽しい時もあれば辛い時もあります。 しかし大切なことは、どんな時にもよい心を持って生きようとすることです。 そのために、自分自身を愛し、信じ、見つめ、励まし、思いやり、見失わないことが大切です。 聖書には、神が私たちのあるがままの姿を愛して下さっていることを教えます。それがキリストの十字架に現わされました。 今アクセサリーの中で人気がある形にこの十字架(クロス)があります。しかしこれは決してアクセサリーにふさわしいものではありません。人類史上、最も残酷な処刑道具です。 ガス室の形、電気椅子、絞首刑の縄、ギロチン等々のアクセサリーが流行したのは未だかつて聞いた事がありません。しかし、この十字架は流行っています。それは、そこに救いがあるからだと思います。 また、キリストが来られて2006年という西暦が一般に使われていますが、それはB.CとA.D、歴史を二分する出来事が起こりました。この年号の中にも、その光が輝いています。 それが、一寸先に光として存在する、クリスマスに生まれたキリストです。この方は馬小屋に生まれました。なぜでしょうか? それは、よくなってきれいになったあなたのところではなく、薄汚れ、汚れ、誰にも見せられない部分を持った私たちのあるがままのところにまで来て下さるということです。 そして、私たちの闇、罪、苦しみを身代わりに背負って十字架で死なれました。そして、三日目によみがえられました。 ですから、自分自身をあるがままで愛し、その無限の信じ、優しく見つめ、励まし、思いやり、見失わないことが出来ます。 おそらく、人間関係はこの地上の中で最も難しいジャンルの一つだろうと思います。しかし、その対人関係の前に自分との関係、対自関係。そして、自分を創造された神との関係、対神関係がしっかりすることが大切です。 それは、信じる心です。 またどうぞ読みに来てください。そして、感じることがありましたらコメントして行って下さい。 ありがとうございます。 God bless you!
2006年10月03日
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私たちに取って一番必要としていることは人から認められること、愛されること、受け入れられることだと思います。 しかし、その求めているものはそう簡単には受けることが出来ません。その時私たちは、人に失望し、不満を感じ、批判をし、争うようになります。 私たちは、「わかってほしい」「見てほしい」「知ってほしい」と叫びながら生きている存在ですが、その前に大切なことは、自分自身を見つめ直すことだと思います。 人にしてほしいとことを人に求める前にそれを自分で行なうことが出来ないでしょうか? 自分で自分をわかってあげること、自分をほめてあげること、自分を理解してあげることです。これをまず行なって見て下さい。 実際のところ、自己受容、自己愛、自尊心というものが豊かな人は、必要以上に人に求める必要はなくなりますし、むしろ人に与えられる人になります。 人は、こちらが愛を求める時に重荷に感じて逃げて行くものです。しかし、それを与えるならば、近づいて来るものです。そして、あなたが求めている愛を、結果として受けることも出来ます。 どうぞ、今日考えてみて下さい。私たちの不満や傷の多くは、他人に期待して失望させられたことから来るものが大部分だと思います。相手にそれを求める前に、自分自身を見つめ直し、求めるものを自分で自分に与えてあげて下さい。 それはどうやったら出来るのでしょうか? それは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、死んで下さって愛を示して下さいました。ですから、神が自分を愛して下さっているように自分自身を愛するのです。そして、神の目で自分を見つめ直して見て下さい。 そのために聖書を読み、お祈りをしてみませんか? 人に求める人生から、人に与える人生は最高です。あなたは愛されています。あなたは素晴らしい人です。素晴らしい人生を歩ませて頂きましょう。 God bless you!
2006年10月02日
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