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しかし、コルタサルは、こうした悪夢にからめとられるような作品を書くだけでは満足できなくなり、より深い宗教的探究を行うようになりました。中でも、《絶対的なもの》を求める主人公の苦悩と彷徨を描き、彼の代表作となったのが、長編小説『石蹴り』なのです。石蹴りという子供の遊びは、ロジェ・カイヨワによれば宗教儀式のイニシエーション(加入礼)を行う最初の迷宮だとのことです。また、これは仏教の曼荼羅とも深い関係のある言葉で、しかも作者のコルタサルは当初この小説に『曼荼羅』というタイトルをつけようと考えていたそうですから、作品の背後に宗教的な探究の意味がこめられていることは言うまでもありません。また、そのタイトルどおり作品の構成も実に変わっています。本を開くと、冒頭に《指定表》というのが出てきて、読者はきっと面喰うことでしょう。そこには、この本は何冊もの本からなっているが、作者の薦める読み方はこれこれだと書かれています。そして、その下に章の番号が乱数表のように並んでいます。(木村榮一さん「フリオ・コルタサル『石蹴り』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P78)この読みが作者の言う二冊目なのですが、作品を読みはじめると、ストーリーの流れの中に雑多な内容の第三部の章がはさまれてくるので、まるで石蹴り遊びをしている時に、石を蹴りそこねて目指しているのとは違う升目に入ってしまったような気持ちになりますし、そこから見える風景も違ってくるのでびっくりされるに違いありません。(木村榮一さん「フリオ・コルタサル『石蹴り』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P81)
2015年08月31日
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ぼくたちはふつう理性と感情、現実と幻想、あるいは夢を対立するものと見なしています。つまり、この両者はともに存在してはいるのですが、同じ平面上に並ぶことはない。いわば、紙の裏表のようなもので、同じ一枚の紙でありながらけっして出会うことはないと考えています。本を読むという行為もそれに似たところがあります。つまり、本を読んでいる人が紙の表の世界にいるとすれば、本の中で語られていることはその裏側に当たります。つまり、ぼくたちは本を読む行為を通して紙の裏側へ入っていくわけですが、その世界がこちら側、つまり紙の表側の世界に侵入してくることはないと安心し切っています。だからこそぼくたちはポーやカフカの作品を読んでも、壁の中に閉じこめられたり、眼が覚めた時に毒虫に変身していることはないだろうと高をくくっているのです。けれども、コルタサルは読者と本とのこうした関係を突き崩してしまいます。(中略)一枚の紙の帯を一ひねりしてつなぎ合わせ、エンピツで表からたどってゆくといつの間にか紙の裏側に出ていて、表裏の差がなくなっていることに気がつきます。これはメビウスの輪と呼ばれていますが、コルタサルの短編はまさにメビウスの輪のような構造を備えていて、読み進むうちに日常的な世界が崩れてゆき、知らぬうちに悪夢、幻想の世界に引き込まれています。(木村榮一さん「フリオ・コルタサル『石蹴り』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P76)
2015年08月30日
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そこを読んでふと、福原麟太郎がヴィジョンとイマジネーションについて書いた文章を思い出しました。福原によると、ヴィジョンというのは「目に見えるもの」、客観的に存在するものでなく、この世に存在していなくて目に見えるもののことだそうです。そこから夢想、空想、幻、幻影といった訳語が生まれてきたのでしょう。よく、二十年後、三十年後のヴィジョンという言い方をしますが、われわれと違って欧米の人たちにはそういった今ここにないものが、どうやらリアリティを備えたものとしてありありと見えるようです。つまり、視覚的、映像的な喚起力がすぐれているということであり、これは夢とも深くかかわっています。たとえば、フロイトの『夢判断』やメダルト・ボスの『夢』などを読むと、そこに紹介されている夢が、きわめて明瞭な映像として紹介されているのに驚かされます。(木村榮一さん「フリオ・コルタサル『石蹴り』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P69)
2015年08月29日
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永井晋さんの「源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏」を買書つんどく。「以仁王の平氏追討の挙兵に加わり、内乱の端緒を開いた摂津源氏の源頼政。以仁王の遺児を奉じて、平氏を西へ追い落とし、入京に成功した木曽義仲。悲劇的な最期を遂げる二人は、時代の転換点となる治承・寿永の乱(源平合戦)の幕開きを象徴する人物である。保元・平治の乱、宇治合戦、倶利伽羅峠の戦い、そして都落ちと敗死・・・・・。皇位継承をめぐる政治的背景も織り交ぜつつ、二人の実像と動乱の時代を描きだす。」(中央公論新社の紹介)
2015年08月28日
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秘密警察と国内に張りめぐらせたスパイ網を使って巧妙な恐怖政治を行う独裁者の姿をこれほど見事に描き出した作品はそう多くはありません。しかも、この独裁者はほとんど表に現れることなく最後まで《闇の帝王》として君臨し続けますが、それだけにいっそう存在感が強調されることになります。もう一つの特徴はその特異な文体と語り口です。手法的には数多くの人物たち、つまり娼婦、物乞い、学生、酒場の女将、警官、弁護士などさまざまな階層の人物たちの会話や回想、独白、あるいは悪夢を取り入れ、その一方で、詩的、魔術的なイメージを点綴した独自の文体で物語を展開させています。彼の文章は、どこか呪文を思わせる音楽的な響きを備えているのですが、残念ながらこれは原文でないと感じ取れません。声に出して読むだけで一種異様な呪術的な世界に引き込まれてゆくような感じがしますが、これは彼が幼いころに親しんだマヤの神話的な世界の名残と言っていいでしょう。(木村榮一さん「ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『大統領閣下』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P64)この本は、当時(35年ほど前)、なかなか手に入らなかったので、「買書つんどく」屋の僕としては珍しく、図書館で借りて、主婦の友社から出ている「ノーベル賞全集」で読みました。
2015年08月27日
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ラテンアメリカはかつて「独裁者の牧場」と呼ばれたほど数多くの独裁者を生みだしたことで知られています。そもそもの原因は独立後の社会的、政治的混乱に根があると言われています。先に述べたように、ラテンアメリカ諸国は約三00年間植民地支配を受けたあと独立するのですが、その際に社会や制度の抜本的な改革が行われませんでした。そのために、地方の大土地所有者や軍人がその後の混乱期に力をつけてきます。政治的、社会的混乱が半世紀以上続き、民衆は強力な指導者が現れて、混乱を鎮めてくれることを願うようになりますが、その時期に登場してきたのが地方や軍部で大きな力を持っているカウディーリョと呼ばれる指導的な人物、つまりボスでした。独裁制と革命が交互に起こるようになったのは、このカウディーリョたちの権力闘争のせいなのです。二0世紀のパナマの政治家トリホス将軍はあるところで、ラテンアメリカではカウディーリョによる支配というのは歴史的伝統であると言っていますが、この言葉はそのことをはっきりと物語っていて、しかもその精神的風土は今もそれほど変わっていないように思われます。(木村榮一さん「ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『大統領閣下』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P62)
2015年08月26日
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しかし、ラテンアメリカの文学について言われる《魔術的リアリズム》はこれとは異なったもので、より言葉通りの「魔術」に近いものです。本書の「序」で紹介したアストゥリアスの言葉を思い返してみると、魔術的な想像力が備わっているインディオにとっては、雲や岩が人間、あるいは巨人に姿を変えるのはべつに不思議なことではありませんし、泉へ水を汲みにいった女性が深い淵に落ちたとすれば、それは淵が女性を蛇、あるいは泉に変える必要があったからであり、男が落馬した場合は、酒を飲み過ぎたからではなく、その際石に頭をぶつけたのなら、石が彼を呼んだのであり、溺れ死んだのなら、川、あるいは小川が呼び寄せたということなのです。つまり、アストゥリアスの言う《魔術的リアリズム》はインディオ特有の心性や魔術的な想像力と深く結びついているのであって、ドイツの《魔術的リアリズム》とは異質なものです。ただのちに、ラテンアメリカでは現実そのものが魔術的であり、そのことが文学に投影されていることについて、ある研究者がこの名称を用いたのがきっかけになって、新大陸の文学の特徴を表す言葉のひとつとして広まったのです。(木村榮一さん「ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『大統領閣下』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P56)
2015年08月25日
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2015年08月24日
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朝井リョウさんの「何者」を買書つんどく。「就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたからー。瑞月の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて・・・・・。直木賞受賞作。」(「BOOK」データベースより)
2015年08月24日
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(カルペンティエル)は一九四七年に、友人たちと一緒にオリノコ川の源流地帯を旅行し、その時に原始的な生活を送っている原住民のもとで一カ月間暮らします。(中略)この時の体験がもとになって生まれてきたのが小説『失われた足跡』です。川をさかのぼることがそのまま時間の遡行につながるという特異な発想で書かれたこの小説は読むものを目くるめく時間の旅へといざないます。しかも、それが空想から生み出された作品ではなく、実体験にもとづいているというのですから驚きです。この中で主人公は、長く苦しい旅の途中で時間が目くるめく勢いでどんどん後退して、紀元ゼロ年に至り、さらに過去へと時間をさかのぼってゆくように感じるのですが、その時のことを次のように語っています。日付がふたたび後退し、紀元ゼロ年を――二桁、三桁、五桁と――越えてゆき、ついには人間が地上をさまよい歩くのに疲れ、農業を考え出して川岸に最初の村を作る時代にまで戻った。もっと多くの音楽が必要になり、リズムを取る棒から火で焼いて模様をつけた木製の円筒形の太鼓へと進化し、中空の葦を吹いて鳴らすオルガンが生まれ、泥で作った両杜ってつきの壺を鳴らして死者を悼むようになった。つまり、われわれは今旧石器時代にいるのだ。(木村榮一さん「アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P50)や、順番どうなってんのかな。でも、これは、僕の大好きな小説ですね。
2015年08月23日
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一九三九年、カルペンティエルは十一年ぶりに祖国のキューバの土を踏み(中略)、一九四三年に妻や友人と一緒にハイチを訪れますが、この時の体験がもとになって生まれてきたのが小説『この世の王国』(一九四九)です。かつてアンリ・クリストフが支配していた王国を訪れ、サン=スーシ宮の廃墟やラフェリエール城砦を見たカルペンティエルは大きな感銘を受けます。さらにハイチ各地で行われている魔術や中央高原に通じる街道で聞いた魔術的な忠告、「あるいはペトロ太鼓やラダー太鼓の音、そうしたものを見聞きしてこれこそが驚異的な現実だと思った」とこの小説の中で語っています。つまりカルペンティエルはハイチで現実が驚異に満ちていることに気づいたのですが、ここに言う《maravilloso=驚異的な》という形容詞は、じつはシュルレアリストたちが何とかして人工的に作り出そうとしたフランス語のmerveillc(驚異)から来ていることを忘れてはなりません。彼は、当時のヨーロッパ文学が探し求め、人工的に創造しようとしていた驚異的なものがラテンアメリカでは現実のものとして存在していることに気づいたのです。(木村榮一さん「アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P44)
2015年08月22日
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その後、ジャングルの中の開けた土地にある遺跡を巡り歩いたのですが、その時も奇妙な経験をしました。というのも、高度な数学と建築技術を駆使して石の神殿群を作ったマヤ族の人たちは、コロンブスによる《発見》前の十三世紀はじめに突然土地を捨てて、ジャングルに散らばり、その中に溶け込んでしまったのです。宗教儀式を行う神官はもちろん、住民も姿を消して打ち捨てられたままになっている遺跡の中を歩き回りながら、ここでは神殿が放棄された頃のまま時間が停止し、その一方で現在のマヤ族の人たちはジャングルで原始的な生活を営んでいる、そう考えたとたんに、周りで時間が激しい勢いでぐるぐる回りはじめたように感じられました。(木村榮一さん「アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P42)これは面白い話やなあ。
2015年08月21日
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リチャード・パワーズ「オルフェオ」を買書つんどく。「微生物の遺伝子に音楽を組み込もうと試みる現代芸術家のもとに、捜査官がやってくる。容疑はバイオテロ?逃避行の途上、かつての家族や盟友と再会した彼の中に、今こそ発表すべき新しい作品の形が見えてくるー。一人の音楽家の半生の物語は、マーラーからメシアンを経てケージ、ライヒに至る音楽の歩みと重なり合いながら、テロに翻弄される現代社会の姿をも浮き彫りにしていく。危険で美しい音楽小説。」(「BOOK」データベースより)
2015年08月20日
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人は書物を通してとほうもなく長い時間を生き、その間にさまざまな人生を経験することになります。かくして、その人はさまざまな人、誰でもない人になるでしょう。(中略)以上に述べてきたのは、ボルヘス・ワールドのほんの一端でしかありません。ボルヘスはたとえてみれば、途方もない記憶力という船に乗って時間の海を航海し、そこに浮かぶ書物という驚異に満ちた島々を発見してぼく達に紹介してくれているのです。その彼の乗る船に乗って未知の海へと旅立つのは、読者にとってはこの上ない新しい発見の旅になることでしょう。(木村榮一さん「ホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P37)
2015年08月19日
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そんなある日ダネリから電話があり、近々家を取り壊されることになった、実は自分の家の地下には《エル・アレフ》、つまり「地上のすべての場所、それもあらゆる角度から見た場所が混乱することなく存在している」小さな光輝く球体があるのだが、家が取り壊されればそれもなくなってしまうと打ち明けられます。私はあわてて彼の家に駆けつけ、《エル・アレフ》を見せてもらうのですが、それは直径二、三センチメートルの球体で、「その中に宇宙空間(世界)がそのままの大きさですっぽり収まって」いたのです。私はそれを見て衝撃を受けますが、建物が取り壊されると《エル・アレフ》も消滅してしまいます。(木村榮一さん「ホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P32)
2015年08月18日
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フネス本人は、《世界が誕生して以来人類が持ち続けてきた記憶、それよりも大きな記憶を私一人で持っています》と語っています。あまりにも膨大な記憶の重圧に耐えきれなくなったフネスは、若くして病を得て死んでしまうのですが、このストーリーには、ボルヘス自身の人並みすぐれた記憶力に恵まれた自分自身を葬り去りたいという気持ちが込められているように思えます。記憶力が異常なまでによすぎると、人はとても生きていけないといったストーリーを考えつくのは、ボルヘス以外にまず考えられないでしょう。(木村榮一さん「ホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』」(「ラテンアメリカ十大小説」)P23)
2015年08月17日
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河合祥一郎さん新訳、シェイクスピア「から騒ぎ」を買書つんどく。「イタリア・メッシーナに、戦に勝ったアラゴン大公ドン・ペドロ一行が凱旋、迎えるレオナート知事は大歓待だ。ドン・ペドロは友人クローディオが知事の娘ヒアローに恋したと知り、策を練って二人を婚約させるのに成功。続けて独身至上主義の友人ベネディックと知事の姪ビアトリスもくっつけようとするが、思わぬ横やりが入ってしまう。思いこみの連続から繰り広げられるシェイクスピアの恋愛喜劇が、読みやすい新訳で登場!」(「BOOK」データベースより)
2015年08月16日
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つまり、幻想文学もまた、抽象画と同じで、あくまで現実に基づきながら、そこから一見「現実ばなれ」した描写を生みだしているのではないかと思いあたったのです。読者にとってどれほど幻想的に思える作品でも、作者は何らかの現実に基づいて作品を書いているのです。例えば、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの難解な作品もそういう観点から眺めて、あちこちに挿入されている人名や地名、書名、あるいは理解に苦しむような文章を抽象画の中に描かれている線描のように考えて読めば、解釈の幅が大きく広がるはずですし、一人ひとりの読者が自分なりのボルヘス像を作り出してゆくことができるに違いありません。そういえば、幻想的な作品をいくつか書いているガブリエル・ガルシア=マルケスも、自分の書くものには現実に基づかないものは一つもない、という意味のことを言っています。(木村榮一さん「ラテンアメリカ十大小説」P5)加えて、そこに暮らす人たちも実に多様で、大都会にはわれわれと変わることのない生活を営んでいる人たちがいる一方で、地方都市の中にはヨーロッパ中世そのままの雰囲気を今も残している町があり、さらにアンデスの山間部に行けばコロンブスによる《新大陸発見》前とほとんど変わらない暮らしをしているインディオがいます。また、熱帯雨林には石器時代を思わせる原始的な生活を営んでいる原住民もいますし、民族的にもスペイン人をはじめ、インディオヨーロッパの国々からの移民、かつて奴隷として連れてこられた黒人を先祖とする人々といったように驚くほど多様な人々の住む世界が広がっています。現代社会に生きているぼくたちは、地表のどこでも歴史的時間が均一に流れているように思いがちですが、必ずしもそうとは言い切れません。(木村榮一さん「ラテンアメリカ十大小説」P6)
2015年08月15日
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2015年08月14日
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「たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集」を買書つんどく。「与謝野晶子や泉鏡花、芥川龍之介に谷崎潤一郎、稲垣足穂まで、作家が親交を結んだ先達、僚友、門人たちが作中に妖しく見え隠れしてー。近代日本の怪奇幻想文学史を彩る文豪たちが神出鬼没、朦朧として不安定、虚実ないまぜの物語が続々と展開される。大正から昭和期の探偵小説や幻想文学、怪談文芸を先導した文壇の巨人・佐藤春夫。本書は、その知られざる本領を初めて集大成した画期的アンソロジーである。話題騒然の文豪小品シリーズ、第四弾。」(「BOOK」データベースより)
2015年08月14日
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彼らが話しているのは現実のひかりではない、とはっきり思うのに、それでも、そのひかりの方がまぎれもなくひかりだった。あの子を産み、迷い、葛藤しながら、それでも、泣いて泣いて、この二人にあの子を託したひかり。あれが私だ、と思う。“彼女”がこの家で生き続けていることを、奇跡のように感じる。(辻村深月さん「朝が来る」P337)というわけで、辻村深月さんの「朝が来る」を読みました。辻村さんは、「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」からここへ来たか、と思いました。ベタで、また、「ひかり」のパートがちょっと薄っぺらい感はありましたが、こころがあたたかくなるお話です。「ひかり」のパートを読みながら、しきりに、宮部みゆきさんの「火車」を思っていました。あれはすごい小説やったな。
2015年08月13日
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その頃、母たちは、ひかりの後ろに、別のひかりを見ていた。それは、「失敗しなかった」ひかりだ。中学時代に、妊娠と出産がなければこうあったであろう、という「失敗しない」ひかり。男の子と付き合うこともなく、両親の望むとおりにすくすくと育ち、高校では今度こそ尾野矢に入ったに違いない、彼らの望むひかりは、存在しないにも関わらず、両親の中で生きていた。失われた可能性であるからこそ、そのひかりは、彼らの中では、何の期待も裏切らないいい子だ。死んだ子の年を数えるような具合に、彼らは現実のひかりを通り越して、その可能性に夢中だった。(辻村深月さん「朝が来る」P258)その場でかけさせられた電話の向こうでは、ひかりの母は何も言わない。ただ、泣くような声が聞こえた。この人はまた、「失敗した」、「間違った」と思っているのだろう。自分の娘のことを。息継ぎのような声がして、とうとう何かを言われると身構えた。しかし、母がこう言った。「元気に、してるの」声が、泣いて、かすれていた。その声を聞いたら、条件反射のように鼻の奥がつん、と痛んだ。胸が一気につぶされるような思いがする。「元気」それだけ答えて、電話を切った。(辻村深月さん「朝が来る」P278)
2015年08月12日
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羽田圭介さんの「スクラップ・アンド・ビルド」を買書つんどく。「「早う死にたか」毎日のようにぼやく祖父の願いをかなえてあげようと、ともに暮らす孫の健斗は、ある計画を思いつく。日々の筋トレ、転職活動。肉体も生活も再構築中の青年の心は、衰えゆく生の隣で次第に変化して・・・・・。閉塞感の中に可笑しみ漂う、新しい家族小説の誕生!第153回芥川賞受賞作」
2015年08月11日
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なんてことだろうと思う。この子は確かにひかりの子なのに、こうやって抱かれていると、もうこの二人が、紛れもなく、この子のお父さんとお母さんに見える。夫婦が赤ちゃんを浅見に任せ、二人して自分に頭を下げた。「ありがとう、ございます」大人から、面と向かってこんなに丁寧に挨拶された経験はなかった。(中略)思い切って、夫婦のお母さんの方に手を伸ばす。その手を握る。乾燥してすべすべした手は、うちの母の手と似ている。これはお母さんの手だ。その手を精一杯掴まなければ、とても言葉が出て来なかった。「ごめんなさい。ありがとうございます。この子をよろしくお願いします」もっとたくさん言いたいことがあるのに、これしか言葉が出て来ない。本当は聞いてほしかった。この子と自分が、どうやってここまで来たか。(辻村深月さん「朝が来る」P233)
2015年08月10日
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佐都子は呆然としながら、尋ね返した。それを知りたいのは、こちらの方だ。「確かに、この人は、うちに訪ねてきました。一カ月近く前です。でも・・・・・」写真を見たまま、視線が固まる。「教えてください。この人は一体、誰なんですか」刑事に示された写真の中の彼女は、一カ月前に会った時よりは幾分口元をにこやかにして、顔つきも、まだしも明るい。履歴書などに貼る証明写真の拡大版といった様子だった。刑事が答えた。「片倉ひかりという女性です」と。驚きに、声を失う。(中略)しかし、そんな気持ちの裏側で、その時、佐都子の胸を貫いていたのは、まったく別の感情だった。それを思うと、泣き出したくなってくる。なんてことを、と佐都子は思っていた。私たちは、なんてことを。(辻村深月さん「朝が来る」P145)
2015年08月09日
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誉田哲也さんの「武士道シリーズ」、最新刊(だそうな)のご紹介。「武士道エイティーン」から2年後の設定のようです。全部文庫本で読んできたので、文庫、待ちます。「「よく観ておけ、……これが、あたしの武士道だ」あれから、六年。「勝負がすべて」の剣道エリート・磯山香織と、「お気楽不動心」で剣道を楽しむ早苗の名コンビが、帰ってきました。剣道少女の青春を描く「武士道」サーガ最新刊です。物語は、なんと早苗の結婚式からお話が始まります。そして、香織は桐谷道場で師範代として後進の指導に当たりますが、師の玄明先生が倒れ、道場閉鎖の危機が迫ります。大人になった二人は、それぞれの方法で道場を守ろうと奮闘。はたして、この勝負、如何に――。」(文藝春秋社の紹介)
2015年08月08日
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中脇初枝さんの「魚のように」を買書つんどく。「ある日、高校生の姉が家を出た。僕は出来の悪い弟でいつも姉に魅かれていた。バラバラになった家族を捨てて僕も、水際を歩きながら考える。姉と君子さんの危うい友情と、彼女が選んだ人生について…。危うさと痛みに満ちた青春を17歳ならではの感性でまぶしく描く坊っちゃん文学賞受賞作(「魚のように」)。ほか、家庭に居場所のないふたりの少女の孤独に迫る短編「花盗人」を収録。」(「BOOK」データベースより)
2015年08月08日
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「抱っこしてみますか」手が震えた。横で棒立ちになった清和の、目の表面が赤くなって、緊張したように瞬きをやめている、その気配を感じる。佐都子の胸に、驚くほど軽くて柔らかい赤ん坊が、抱かれる。髪が、ふわふわしている。眉が薄い。色のない唇が何かを追いかけるように微かに動いた。おっぱいを探しているのかもしれない。清和の手がその頬に触れる。「かわいいなぁ」と彼が言った。その瞬間、思った。恋に落ちるように、と聞いた、あの表現とは少し違う。けれど、佐都子ははっきりと思った。朝が来た、と。終わりがない、長く暗い夜の底を歩いているような、光のないトンネルを抜けて。永遠に明けないと思っていた夜が、今、明けた。この子はうちに、朝を運んできた。(辻村深月さん「朝が来る」P133)
2015年08月07日
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番組の後半、『ベビーバトン』の代表の女性が話していた言葉が印象的だった。「特別養子縁組制度は、親のために行うものではありません。子どもが欲しい親が子どもを探すためのものではなく、子どもが親を探すためのものです。すべては子どもの福祉のため、その子に必要な環境を提供するために行っています」彼女はそう断言した。「第一に考えているのは、子どもの命を守るということです。生まれた子どもの心身の成長を願って、私たちはこの活動をしています」番組はそこから、子どもの命を巡る現代の状況を報じていた。(中略)テレビを観た衝撃は、それからしばらくして、じわじわと効いてきた。特別養子縁組を自分のこととして考えたというよりは、子どもを受け入れたあの夫婦の在り方自体に、佐都子は価値観を揺るがされ、一言で言えば、感動していた。世の中には、佐都子の思いもしなかったような家族が、ああいう形で存在している。(辻村深月さん「朝が来る」P101)
2015年08月06日
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脅迫されているのだ、とようやく気づいた。瞬きした自分の瞼が、痙攣するように震えて動く。初めて聞く種類の声だった。幽霊のように生気のない、と思った最初の印象がぶれないまま、この人は、だけどその印象とは真逆な、もっとも生々しいお金の話をしている。朝斗とお金というかけ離れた存在は、佐都子のなかではひとつにつながらない。「――わかりました」と佐都子は言った。金を用意するのを了承する、という意味ではなかった。「会ってお話ししましょう」と、佐都子は申し出た。(辻村深月さん「朝が来る」P46)
2015年08月05日
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「でも僕たちは世間を完全に無視することは出来ないんです。世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです」(又吉直樹さん「火花」P142)というわけで、又吉直樹さんの「火花」を読みました。これは、決して読みやすい、分かりやすい話ではありませんね。すごく売れてるようですが、面白いと感じられない人も多かったのではないでしょうか。漫才師として「生まれてきてしまった」ことを、なんの理もなく、宿命のように受け入れている「神谷さん」。そんな「神谷さん」を、師として仰ぎながらも、そのような「宿命」以外の何物も受け付けない生きざまに、畏怖と同時に違和感を感じながら伴走している、語り手である「徳永」。又吉さんは、特異な存在である、「神谷さん」を描きながらも、同時に、埋もれて沈んでいかざるを得なかった無数の漫才師の鎮魂の歌を歌っています。最後のびっくりエピソードは無くても作品として成立していたのではないか、と芥川賞選者の山田のポンちゃんがおっしゃってましたが、僕としては、「神谷さん」が「何を」勘違いしたのかはさておき、笑えないけど救いみたいのものも感じられるエピソードと思いました。ただ、芥川賞というのは、もっと冒険(?)みたいなところがあるほうがいいかも、とも思いましたが・・・・・。
2015年08月04日
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鵜飼哲夫さんの「芥川賞の謎を解く」を買書つんどく。「芥川賞80年、知られざる選考会の裏側。全選評を読破した文芸記者が、その舞台裏、謎に包まれた選考会に迫る!第1章 太宰治が激高した選評(太宰、落選する/川端を「刺す」と逆恨み/泣き落とし作戦 ほか)/第2章 戦争と選評(二・二六事件当日の選考会/「暢気眼鏡」と日中開戦/伍長の受賞と小林秀雄 ほか)/第3章 純粋文学か、社会派か(安部公房の出現/「第三の新人」の受難/芥川賞作家・松本清張 ほか)/第4章 女性作家たちの時代/(現実の女というものは/「曾野綾子は掘り出しおのではないか」/「いただきそこねねているの、恨みなんです」 ほか)第5章 該当作なし!(記者もむなしい「なし」の回/川端康成の爆発/「こんな新人なら一人も居なくてもいい」 ほか)/第6章 顰蹙者と芥川賞(大江健三郎の田中康夫「なんクリ」評/石原慎太郎に○をつけた人/×をつけた人 ほか)」(「BOOK」データベースより)
2015年08月03日
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必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦することは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。(又吉直樹さん「火花」P130)
2015年08月02日
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神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界は孤独かもしれないけれども、その寂寥は自分を鼓舞もしてくれるだろう。僕は、結局、世間というものを剥がせなかった。本当の地獄というのは、孤独の中ではなく、世間の中にこそある。神谷さんは、それを知らないのだ。僕の眼に世間が映る限り、そこから逃げるわけにはいかない。自分の理想を崩さず、世間の観念とも闘う。「いないいないばあ」を知った僕は、「いないいないばあ」を全力でやるしかない。それすらも問答無用で否定する神谷さんは尊い。でも、悔しくて悔しくて、憎くて憎くて仕方がない。神谷さんは、道なんて踏み外すためにあるのだと言った。僕の前を歩く神谷さんの道こそが、僕が踏み外すべき道なのだと今、わかった。(又吉直樹さん「火花」P114)
2015年08月01日
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