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特に後半、ちょっと本が読めなかった感ありましたが、それはそれとして・・・・・津村記久子さん「君は永遠にそいつらより若い」川上未映子さん「ヘヴン」レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」来年は、もうちょっと頑張ろっと。でわでわ、よいお年を!
2015年12月31日
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「今、我が家に・・・・・うちの家にいる娘は、患者でしょうか。それとも死体なのでしょうか」進藤は言葉に詰まったように苦しげな表情を見せた。せわしなく黒目を動かした後、意を決したように和昌にいった。「それは、私が決めることではないと思います」「では誰が決めるのでしょう」(東野圭吾さん「人魚の眠る家」P293)というわけで、東野圭吾さんの「人魚の眠る家」を読みました。とにかく、この本のことを考えると、プールの底で排水溝に指を吸い込まれて身動きがとれなくなった少女の姿が映像として鮮明にイメージされ、息苦しくなります。ストーリーとしては、いささかベタで、文章では、特に会話の部分で、「なんで?」と思うような無駄(?)がけっこう見られ、興をそがれる感があります。でも、母親(父親もですけどね)が子どもの死を「受け入れる」ということはどういうことなのか、深く考えさせられる作品になっていると思いました。引き続き、「容疑者Xの献身」を読んでみようと思います。
2015年12月30日
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ミランダ・ジュライ「あなたを選んでくれるもの」を買書つんどく。角田光代さんが、「わたしのベスト3」に選ばれておられなければ、たぶん興味を抱かなかった本です。「映画の脚本執筆に行き詰まった著者は、フリーペーパーに売買広告を出す人々を訪ね、話を聞いてみることにした。革ジャン。オタマジャクシ。手製のアート作品。見知らぬ人の家族写真。それぞれの「もの」が、ひとりひとりの生活が、訴えかけてきたこととはー。アメリカの片隅で同じ時代を生きる、ひとりひとりの、忘れがたい輝き。胸を打つインタビュー集。」(「BOOK」データベースより)
2015年12月29日
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「一部の機能が残っているなら脳死とはいえないんじゃないですか」進藤は小さく肩をすくめてみせた。「やはりあなたも誤解しておられるようだ。しかしまあ、無理もありません。脳死という言葉には、多くの謎と矛盾が含まれていますから」「どういうことです」「脳死の定義は、脳の全機能停止です。判定基準は、それを確認するものとされています。しかしそれは建前にすぎません。なぜなら脳について我々はすべてを知っているわけではないからです。どこにどんな機能が潜んでいるのか、まだ完全にはわかっていません。それなのにどうやって全機能停止など確認できるでしょうか」たしかに、と和昌は呟いた。「ご存知かもしれませんが、脳死という言葉は臓器移植のために作られたようなものです。」(中略)「臓器移植には脳死が人の死かどうかは関係なかったとでも?」「まさに、そうです」我が意を得たりとばかりに進藤は大きく首を縦に動かした。「何をもって人の死とするか。そんな哲学的な問題を持ち込むべきではなかった。どういう条件を満たせば臓器を提供できるか、そこにポイントを絞るべきだったのです。しかし生きている人間から臓器を摘出することを法律で認めるのは、やはり困難だった。まずは、『その人はもう死んでいる』ことにする必要があったのです」(東野圭吾さん「人魚の眠る家」P290)
2015年12月28日
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新章さん、と門脇は呼びかけた。「もしかするとあなたは、臓器移植について何か提言したくて、我々の活動に加わることにしたのですか。もしそうなら正直にいってくれませんか。たとえどんなに素晴らしいものだったとしても、政治的な思想は極力排除するというのが、『救う会』の方針なので」新章房子は、政治的な思想、と口の中で繰り返した後、首を横に振った。「違います。そんなんじゃありません。私はただ、お二人の意見を聞きたかっただけです。だって変だと思いませんか。子供の死を受け入れたくなくて、親が臓器提供を躊躇う気持ちは理解できます。でもほかの国では、脳死と判明した時点で延命措置は打ち切られるのです。そこで親たちは、子供の魂を別の形で生かすという方向に考えを改めます。どこかで苦しんでいる子供たち、健康な臓器を待ち望んでいる子供たちのために、自分たちの子供の身体を役立てようとするのです。そのようにしてようやく、貴重な臓器提供者が生まれます。ところがそんな移植臓器を、日本からやってきた患者が大金を払って奪っていく。それによって日本人の子供一人の命は救われるかもしれません。でもその代わりに、現地の子供が救われる機会が一つ失われるのです。外国から非難されて当然です。日本も・・・・・日本人の親たちも、考えを改めるべきだとは思いませんか。現在の基準で脳死と判定された患者が意識を取り戻すまでに回復した例は、世界でひとつもありません。長期脳死などはナンセンスです。ものすごいお金と手間をかけて、ただ生かしておくだけなんて・・・・・。親の、そして日本人のエゴです。皆がこのことに気づけば、たとえば雪乃ちゃんのような気の毒なケースも減っていくはずなんです」(東野圭吾さん「人魚の眠る家」P236)
2015年12月27日
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相談できる人間は一人しかいなかった。馬鹿げた話だと一笑に付されるかもしれないと覚悟しつつ、思いきって和昌に話してみた。すると彼は妻の話に真剣に耳を傾けてくれた。そして意外なことを語り始めた。「病院で進藤先生から、瑞穂は脳死している可能性が高いと聞かされた時、君が俺にいった言葉を覚えているか。君はこういった。あなたの会社では脳と機械を繋ぐ研究をしてるんでしょ。だったら、こういうことにも詳しいんじゃないかって。それに対して俺は、うちの研究は脳が生きていることが大前提で脳死についてなんて考えたこともない、と答えた。でもその時、ふと何かが浮かんだような気がしたんだ。それが何なのか、自分でもわからなかった。今の君の話を聞いていて、ようやくわかった。残念ながら瑞穂は脳に重大な障害を負った。多くの機能が失われたようだ。だったら、それを補ってやればいいんだ。脳から運動する指令が出ないなら、代わりに出してやればいい」(東野圭吾さん「人魚の眠る家」P140)
2015年12月26日
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マリオ・バルガス・リョサ「つつましい英雄」を買書つんどく。「ノーベル賞受賞後、初めて書かれた最新作!マフィアの脅しに屈せず、正面から立ち向かった実在の人物をモデルに、サスペンス・タッチで描かれる波瀾に満ちた物語。」(「BOOK」データベースより)
2015年12月25日
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やがて、なぜ自分たちがこれほどまでに悩まなければならないのか、という理由もはっきりしてきた。臓器移植法の改正が、その根源にある。かつては、患者自身が臓器提供の意思を表明していた場合にかぎり、脳死を人の死とすることが認められていた。それが、本人の意思が不明の場合は家族の承諾があればよい、と変更されたのだ。これにより、瑞穂のような、臓器移植についての知識がなく、また当然考えたこともない小さな子供に対しても適用が可能となった。実際、改正によって年齢制限も取り除かれている。脳死についての議論はあるだろうが、本人が臓器提供の意思を示していたのなら、家族としては納得しやすい。遺志を尊重した、という考え方もできる。だがそうでない場合、判断を家族に押しつけるのはどうなのか。(東野圭吾さん「人魚の眠る家」P55)
2015年12月24日
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薫子は納得できない様子で首を捻った。「脳死しているかどうかって、どうやってわかるんですか。そもそも、どうして今すぐに判定しないんですか」だから、と和昌がいった。「臓器提供を承諾しない場合は脳死判定もしない。そういうルールなんだ」「どうして?」「だから・・・・・そういうふうに法律で決まってるんだ」「法律でって・・・・・意味がわからない」「非常にわかりにくいルールではあります」進藤がいった。「世界でも特殊な法律です。他の多くの国では、脳死を人の死だと認めています。したがって脳死していると確認された段階で、たとえ心臓が動いていたとしても、すべての治療は打ち切られます。延命措置が施されるのは、臓器提供を表明した場合のみです。ところが我が国の場合、まだそこまで国民の理解が得られていないということもあり、臓器提供に承諾しない場合は、心臓死をもって死とするとされているのです。極端な言い方をすれば、二つの死を選べるということになります。最初に権利という言葉を使いましたが、お嬢さんをどのような形で送り出すか、心臓死か脳死か、それを選ぶ権利があるということです」(東野圭吾さん「人魚の眠る家」P42)
2015年12月23日
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米澤穂信さんの「王とサーカス」を買書つんどく。「二〇〇一年、新聞社を辞めたばかりの太刀洗万智は、知人の雑誌編集者から海外旅行特集の仕事を受け、事前取材のためネパールに向かった。現地で知り合った少年にガイドを頼み、穏やかな時間を過ごそうとしていた矢先、王宮で国王をはじめとする王族殺害事件が勃発する。太刀洗はジャーナリストとして早速取材を開始したが、そんな彼女を嘲笑うかのように、彼女の前にはひとつの死体が転がり…。「この男は、わたしのために殺されたのか?あるいはー」疑問と苦悩の果てに、太刀洗が辿り着いた痛切な真実とは?『さよなら妖精』の出来事から十年の時を経て、太刀洗万智は異邦でふたたび、自らの人生をも左右するような大事件に遭遇する。二〇〇一年に実際に起きた王宮事件を取り込んで描いた壮大なフィクションにして、米澤ミステリの記念碑的傑作!」(「BOOK」データベースより)
2015年12月22日
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暖冬のモスクワに来て、わたしはいやおうなく『カラマーゾフの兄弟』に描かれた「大審問官」の意味を考えざるをえなくなった。「大審問官」の主題は、ごく大雑把にまとめるなら、精神の限りない自由、つまり天上のパンと、人間が物理的に生きていくための地上のパンのどちらが、人間にとって大事かという、二者択一の問題に尽きている。思えば、この問いは、農奴解放の混沌とした時代に生きる作家自身の心の揺れそのものを表していた。(亀山郁夫さん「偏愛記」P181)や、「大審問官」って、そんな話やったっけ。「制限なき自由意志」と「主導者への精神的従属」の二者択一の話やなかったっけ?少なくとも35年前の僕は、そう理解した記憶があります。そもそも、「天上のパン」と「地上のパン」の二者択一やったら、選択でけへんのではないですか。それが、「天上の生」か「地上の生」の二者択一やったら、信仰として、わからんでもないけど・・・・・。まあ、いっか、というわけで、亀山郁夫さんの「偏愛記」を読みました。で、この本は、亀山さんの感傷的な精神のストリップであり、そして、創作の意欲への萌芽でもあると思います。その感傷に共感できるかどうかはともかく、きっと、『新カラマーゾフの兄弟』は、ここからつながって生まれてきたのでしょう。
2015年12月21日
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畠山丑雄さんの「地の底の記憶」を買書つんどく。「ある日、小学生の同級生・井内と晴男は、迷い込んだ森の中で青田という謎の男に出会う。その「妻」が身につけたラピス・ラズリの輝きに導かれるように、町の歴史に埋もれた物語は静かに繙かれる。ロシア商人ウォロンツォーフと日本人妻の悲恋、青年アレクサンドルと人形の倒錯した愛、あやうい男女の友情をめぐる青田の過去、そして現在。電波塔に見守られる架空の土地を舞台に、一〇〇年を超える時間と愛の狂気を描く、壮大な物語。第52回文藝賞受賞作。驚愕の新人登場!」(「BOOK」データベースより)
2015年12月20日
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『罪と罰』のフィナーレで、作家は、シベリアの大地に立ちつくす主人公の一挙一動を、さながら庭師のような手さばきで描写している。彼がひとりの人間として甦ってくれることへの期待が行間からひしひしと感じとれる。その理由について答えるには、ドストエフスキーが愛したヨハネの黙示録の一句を引用するのが、いちばん手っ取り早いかもしれない。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかどちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」ごく単純な理解において、死者が、生ぬるい、ということはありえない。死者が「なまぬるい」なら、それは「生きた屍」の意味である。ラスコーリニコフに命が与えられた理由は、彼が冷たく、そして熱い存在だったからだとわたしは信じている。だが、命が与えられたからにはそれに応えて生きていかなくてはならない。彼に下された八年の刑は、神ではなく、ドストエフスキーがみずから下した「生きよ」のサインなのだ。(亀山郁夫さん「偏愛記」P287)
2015年12月19日
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予定の開演時刻より三十分近く遅れて指揮者のゲルギエフが姿を現し、カラマーゾフ家の悲劇を暗示するものものしいティンパニーの連打で幕は上がった。序曲が終わり、やがてステージに浮かびあがる修道院の場面を見守るうち、わたしのなかに小さな予感が生まれた。このオペラは、けっして「カラマーゾフ、万歳!」の喜ばしい少年合唱では終わらない、と。予感は当たった。(中略)フィナーレを飾ったのは、予感した通り、少年合唱による「万歳!」のシュプレヒコールではなく、「大審問官」の最後の場面だった。牢獄から解放されたイエスは、カラマーゾフ家の裏庭ともつかぬ孤独な空間にうずくまる。これが『カラマーゾフの兄弟』によって照らし出された現代ロシア人の心なのか。いちじるしい経済復興をとげるロシアで、これほどペシミスティックな幕切れがなぜ必要なのか、わたしにはわからなかった。(亀山郁夫さん「偏愛記」P277)
2015年12月18日
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東野圭吾さんの「人魚の眠る家」を買書つんどく。「娘の小学校受験が終わったら離婚する。そう約束した仮面夫婦の二人。彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前だった。娘がプールで溺れた――。病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。過酷な運命に苦悩する母親。その愛と狂気は成就するのか――。」(「BOOK」データベースより)
2015年12月17日
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思い返せば、前年七月、すでに廃航となったペテルブルグ行き直行便の機内で、ひと言では尽くせない幸せな出会いに遭遇した。村上春樹の『海辺のカフカ』――。空港ビルで友人への土産がわりに買いこんだつもりが、誘惑に負けた。読みはじめてすぐ、高価な出会いには犠牲がつきものと割り切った。帰国から一週間、まるで魔法にかけられたような不思議な感覚に支配されていた。その時犠牲になったのは、マリインスキー劇場で観たオペラ『カラマーゾフの兄弟』の印象である。しかしそのことを少しも残念に思わなかった。小説に描かれる物語のシュールの織り目に、一本のロジックがすっくと立ちあがるのを見て、わたしは深い驚きに打たれた。(中略)では、父殺し犯カフカは、今後どのようにして罪を引き受けていくのか。わたしが、二十一世紀のオイディプスに見るのは、その模範的とも思える健康的で明るい少年の仮面にひそむ不気味な「虚無」の影・・・・・。(亀山郁夫さん「偏愛記」P261)
2015年12月16日
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わたしのバーゼル行の目的は、一枚の絵にあった。十六世紀ドイツの画家ハンス・ホルバインが描いた『墓の中の死せるキリスト』――。中庭正面に見えるガラス張りの豪華なエントランスをカメラに収めたわたしは、狩人のような猛々しい目を左右に走らせながら、美術館内を渉猟しはじめた。ホルバインの名を刻んだ直径五メートルほどの円形ホールが見え、やがていきなりわたしの目線と同じ高さにその絵が現われた。ああ、どれほどこの瞬間を夢見てきたことか。長距離ランナーのように筋張ったイエスの死体は、硬直と脱力の凄まじい戦いを物語り、シーツの端にかけられた中指の先が、死の恐怖の一瞬をかぎりなく繊細に記録する。「こんな死体を眼の前にしながら、どうしてこの受難者が復活するなどと、信じることができたろうか?」この絵のレプリカを見てこう告白したのが、『白痴』に登場する結核病みの少年イッポリートだが、まさにこれはドストエフスキー自身の感慨でもあった。(亀山郁夫さん「偏愛記」P207)『墓の中の死せるキリスト』
2015年12月15日
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2015年12月14日
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ドレスデン美術館でのわたしのお目当ては、クロード・ロランの『アシスとガラテアのいる風景』だった。作家が、『悪霊』の主人公に託し、驚くほど感傷的なタッチで人類の黄金時代になぞらえてみせたキャンバスである。(中略)だが、期待していた「アウラ」も、作家とのシンクロもうまれなかった。縦横ともに一メートルほどの原画の印象はどこか冷たく、むしろ当時、度重なる癲癇の発作に苦しめられていた彼の特異な心理状態が偲ばれるようだった。館内をめぐり歩くうち、ゲーテが「永遠の泉」と呼んだこの美術館にとって、ロランは、たんなる脇役にすぎないことがわかった。主役はだれを措いても、ラファエロ。代表作『サン・シストの聖母』には、両脇に開かれた緑色のカーテンの向こうから、幼児イエスを胸に、素足のまま雲を踏んで近づいて来る聖母マリアが描かれている。冨岡道子という研究者のよると、作家はとりわけこの絵に強い働きかけを受け、『白痴』の執筆にも大きな影響が現われたという。(亀山郁夫さん「偏愛記」P199)『アシスとガラテアのいる風景』『サン・シストの聖母』
2015年12月13日
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正直のところ、大学時代に読んだ作品は数えるほどしかない。代表作の一つ「ヴィヨンの妻」の記憶さえあやふやだった。当時、ドストエフスキー『白痴』に刺激され、主人公ムイシキンのような「完全に美しい人」に憧れるわたしにとって、「人間失格」は、けっして近づいてはならないタブーの世界だった。太宰にどこまでもつきまとう死の影に感染することを極度に恐れていたこともある。あれから四十年が経ち、ようやく余裕をもって太宰と向きあえる年になった。すると驚いたことに、けなげにロシア文学を志してきた自分の中に、何か微妙に太宰的なものが息づいているのに気づかされた。彼が自嘲的にいう「汚い骨」と裏腹な、むきだしの純な魂。それがどこかドストエフスキーに似ているように思った。二人にとって小説は、文字通り文学に生命をこすり合わせる作業だったのだ。和解ロマンティスト、太宰が経験した最初の挫折が、内縁の妻の姦通事件にあったことはよく知られている。奪うことはできても、奪われることに慣れていない「貴族」太宰は、そこで決定的に傷を負った。身勝手にも「家庭の幸福」が約束すると信じた性愛の絶対性は崩れ去った。思えば、シベリア時代のドストエフスキーにもそれに近い体験があった。しかし、一度、死刑宣告を潜り抜けた彼には、「奪われる」という現実を乗り越える、したたかな生命力が常に息づいていた。それこそは、太宰にはないマゾヒズムの力だった。わたしが思うに、太宰がマゾヒストだったことは一度もなかった。(亀山郁夫さん「偏愛記」P190)
2015年12月12日
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「田中英光傑作選 オリンポスの果実/さようなら他」を買書つんどく。「ぼくはあのひとが好きでたまらない。ロサンゼルス五輪に参加する選手団を乗せた客船で、坂本は高跳び選手の熊本秋子に一目惚れした。しかし、2人の仲を同僚に揶揄され、ついには選手間の男女接触禁止令が出てしまう。オリンピックに参加した自身の体験を描いた「オリンポスの果実」、晩年作の「さようなら」など、珠玉の6篇を厳選。太宰治の墓前で散った無類派私小説家・田中英光。その文学に傾倒する西村賢太が編集、解題。」(「BOOK」データベースより)
2015年12月11日
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ウリヤノフスクでの事件から五年後、わたしは『甦えるフレーブニコフ』という評伝を書きあげ、この未来派詩人の研究にけりをつけた。まもなく関心はスターリン時代へとうつり、独裁下に生きた詩人や芸術家たちの作品における「二枚舌」の研究にとりかかった。わたしの選択はある意味で必然の道のりだったし、それなりに自信もあった。恐怖と傷の共有から生まれた自信とでもいうのだろうか――。面白いことに、わたしが熱中した詩人や芸術家たちは、その卓越した名声とはうらはらに、ある屈折したスターリン崇拝の一時期を過ごしていた。その屈折のありように、「二枚舌」という言葉を当てはめることを考えたのは、はるか時が経ってからのことである。ここでいう「二枚舌」は、むろん、権力者に対して嘘をつくといった一義的な意味ではない。なぜなら、独裁者を称える営みなしにこの時代を生き延びることは不可能だったし、優れた芸術家であればあるほど、賛美のレトリックは研ぎ澄まされて、独裁者との一体性は一面でより強固なものになったからだ。少なくとも彼らの芸術に接する市民の目にはそう映った。厳しい検閲システムが存在するなかで、アイロニーの毒でもって相手を称えるなどという高度な芸を駆使することは不可能だった。なによりも独裁者みずからが、芸術家以上にアイロニカルだったからである。(亀山郁夫さん「偏愛記」P142)
2015年12月10日
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思えば、『仮面の告白』の冒頭に『カラマーゾフの兄弟』を引用した三島は、すでにドストエフスキーの美学を見通していたといえるかもしれない。つまり、もろもろの矛盾や倒錯を包みこむ美が存在するということ、ソドムの「悪行」すらも許容する美は深くマゾヒスティックであるということ、そして美と国家に対するマゾヒスティックな献身こそが、「大義」を裏うちする最大の根拠たりえること。では、献身すべき相手が、俗悪な日常性に覆われてしまったらどうなるのか。たしかに、「情念」も「強靭なリアリズム」も「詩の深化」も顧みられず、伝統美や文化が失われようとする戦後の日本に、三島が呼吸できる空気はなかった。そういう認識に立った彼に残されていたのは、美への殉死という観念だった。なぜなら、国家によって裏切られた美ほど、狂おしく、純粋に美と呼べるものはほかになかったからである。(亀山郁夫さん「偏愛記」P110)
2015年12月09日
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強制労働八年の判決を受け、シベリアの流刑地に立った『罪と罰』の主人公は心の中でこう叫ぶ――。「せめて運命が後悔をもたらしてくれたなら――心臓をうちくだき、夜の夢をはらう、じりじりと焼けるような後悔を・・・・・」二人の女性を殺害してから、すでに一年半が経過していた。時が経てばその分、犯した罪のリアリティは失われていく。主人公のこの「叫び」は、「八年」の量刑に託された構成の期待をみごとに裏切るものだ。『罪と罰』のラストが示しているのは、かりに法が罪を裁くことができるにしても、それはあくまで外形のみであり、内面まで裁くことはできないという真実である。ともあれ、犯罪と量刑との間に横たわる不条理という思いは、『罪と罰』を執筆中の作家の脳裏から一時も離れることがなかった。理由の一つは、「叩き割られたもの」を意味する主人公ラスコーリニコフの名前に暗示されている。つまり、主人公自身のなかで、叩き割られた二つの人格が激しくせめぎ合っていたのだ。一方に、人を寄せつけない「悪魔的」ともいえる自尊心がある。他方に、貧しき人々への痛切な憐みの心がある。思えばこの分裂こそが、『罪と罰』を「意志の書」と「運命の書」の二つに叩き割った正体なのだといってもよい。そして一つの判決が、この二つに「叩き割られた」主人公を同時に裁くことは不可能だった。(亀山郁夫さん「偏愛記」P86)
2015年12月08日
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ピエール・ルメートル「天国でまた会おう」を買書つんどく。「1918年11月、休戦が近いと噂される西部戦線。上官プラデルの悪事に気づいたアルベールは、戦場に生き埋めにされてしまう!そのとき彼を助けに現われたのは、年下の青年エドゥアールだった。しかし、アルベールを救った代償はあまりに大きかった。何もかも失った若者たちを戦後のパリで待つものとはー?『その女アレックス』の著者が書き上げた、サスペンスあふれる傑作長篇。フランス最高の文学賞ゴンクール賞受賞。」「第一次世界大戦直後のパリでのしあがる実業家プラデルは、戦没者追悼墓地の建設で儲けをたくわえていく。一方、アルベールは生活のため身を粉にして働いていた。そんな彼にエドゥアールが提案したのは、ある途方もない詐欺の計画だった。国をゆるがす前代未聞のたくらみは、はたしてどこにたどりつくのか?日本のミステリ・ランキング一位を独占した人気作家が放つ、スリルと興奮に満ちた群像劇。一気読み必至の話題作。」(「BOOK」データベースより)
2015年12月07日
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ミハイル・ブルガーコフ「犬の心臓・運命の卵」を買書つんどく。「ヒトの脳下垂体と睾丸を移植された犬が名前を欲し、女性を欲し、人権を求めて労働者階級と共鳴し、ブルジョワを震撼させる(「犬の心臓」)。繁殖力を高める生命光線を浴びて、大量発生したアナコンダが人々を食い荒らす(「運命の卵」)。奇想天外な空想科学的世界にソヴィエト体制への痛烈な批判を込めて発禁処分となった、20世紀ロシア語文学の傑作二編を新訳で収録。」(「BOOK」データベースより)
2015年12月06日
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事実を明かすなら、『罪と罰』を翻訳中、この小説をめぐる印象は、それこそ一時間ごとに振り込みたいに揺れつづけた。そしてついに、この小説には何かしら究極の答えと呼べるものはないという結論に辿りついた。あるいは、究極が、すなわち答えは二つあると言いかえてもよい。さらに言うなら、『罪と罰』という小説そのものが、ある時点で真っ二つに断ち割られているという印象すら受けた。「意志の書」と「運命の書」の二つに。前者の視点から見れば、主人公の青年は、救いようもなく有罪である。しかし、後者の視点から見ると、彼は、人間としての「甦り」を約束されている。(亀山郁夫さん「偏愛記」P83)
2015年12月05日
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アン・レッキー「叛逆航路」を買書つんどく。「二千年にわたり宇宙戦艦のAIだったブレクは、自らの人格を四千人の人体に転写した生体兵器〈属躰〉を操り、諸惑星の侵略に携わってきた。だが最後の任務中、陰謀により艦も大切な人も失う。ただ一人の属躰となって生き延びたブレクは復讐を誓い、極寒の辺境惑星に降り立つ・・・・・。『ニューロマンサー』を超えるヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞などデビュー長編7冠、本格宇宙SFのニュー・スタンダード登場!」(東京創元社の紹介)
2015年12月04日
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両義的である、という態度が、文学の原点である。正義と悪、愛と憎しみ、右と左、黒と白、思えば、文学はつねに曖昧さを愛してきた。わたしがドストエフスキーに強く惹かれたのも、空が常に曖昧さと境界線に立って苦しむ人間を相手にしていたからだと思う。『地下室の手記』の一節「二二が四は死のはじまり」や、ゲーテ『ファウスト』の言葉「わつぃは永遠に悪を欲し、永遠に善をなすあの力の一部なのだ」がことのほか好きだったのも理由がある。では、両義的であろうとする態度は、はたして一個の「思想」として自立できるものなのだろうか?自立できると言いきる自信がわたしにはある。四十代のわたしが向いあったスターリン時代の芸術家たちは、一様に「ユダ」を意識し、それを武器として独裁権力と闘いつづけた。彼らが、裏切ろうとした相手は、「全民族の父」スターリンだが、その「父」の恐ろしい罪業が暴かれるのははるか後のことだ。(亀山郁夫さん「偏愛記」P72)
2015年12月03日
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円城塔さんの「プロローグ」、「エピローグ」を買書つんどく。「プロローグ」「小説の書き手である「わたし」は、物語を始めるにあたり、日本語の表記の範囲を定め、登場人物となる13氏族を制定し、世界を作り出す。けれどもそこに、プログラムのバグともいうべき異常事態が次々と起こり、作者は物語の進行を見守りつつ自作を構成する日本語の統計を取りつつ再考察を試みる・・・・・。プログラミング、人口知能、自動筆記・・・・・あらゆる科学的アプローチを試みながら「物語」生成の源流へ遡っていく一方で、書き手の「わたし」は執筆のために喫茶店をハシゴし、京都や札幌へ出張して道に迷い、ついにはアメリカのユタ州で、登場人物たちと再会する・・・・・。情報技術は言語の秘密に迫り得るか? 日本語の解析を目論む、知的で壮大なたくらみに満ちた著者初の「私小説」であり、SFと文学の可能性に挑んだ意欲作。」(文藝春秋社の紹介) 「エピローグ」「オーバー・チューリング・クリーチャ(OTC)が現実宇宙の解像度を上げ始め、人類がこちら側へと退転してからしばらくー。特化採掘大隊の朝戸連と相棒の支援ロボット・アラクネは、OTCの構成物質(スマート・マテリアル)を入手すべく、現実宇宙へ向かう。いっぽう、ふたつの宇宙で起こった一見関連性のない連続殺人事件の謎に直面した刑事クラビトは、その背景に実存そのものを商品とする多宇宙間企業イグジステンス社の影を見る・・・・・。宇宙と物語に、いったい何が起こっているのか?」(「BOOK」データベースより)
2015年12月02日
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その時、わたしはふと何かしら特権的ともいうべき場所に立っている自分を意識した。「父殺し」の現場に立って、「父死す」の知らせの呆然とする青年ドストエフスキーを想像する、という・・・・・。青年が、そのときペテルブルグで経験したヒステリーの発作は、やがて「癲癇」として意味づけられ、土地の管理を引き継いだ親戚からの仕送りを、ひと晩で使い果たしてしまうというといった狂気の日々がはじまる。ドストエフスキーのそうした「狂気」に、みずからの「オイディプス・コンプレックス」理論を重ね、かつて父の死を願望した自分に対する自罰行為ととらえたのが、精神分析学者フロイトだった。(中略)『カラマーゾフの兄弟』とは、まさに彼が十八の時に経験した父の死から四十年間にわたる魂の遍歴の記録でもあった。(亀山郁夫さん「偏愛記」P32)
2015年12月01日
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