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どちらの養殖だが、味はよし。香りは少ないが触感がたまらない平茸(ひらたけ)はお吸い物がうまい。春にも食べれるハタケシメジもお吸い物にグーよ。
2005年10月26日
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昨夜NHKのBSハイビジョンで「棋士、藤沢秀行」の特集を見た。私が習う躰道で先生、先輩から教わることと似た内容をその番組で聞けた。「碁は人間が打つものなんだから人間を高めなければダメなんだ。ただ勝ちゃぁいい、なんて考えなんて」この「」のセリフは自分の先生から聞いたことがあるし、自分の通う道場の子供にも常々言っている。 藤沢秀行は棋士を育てる。その育てた弟子にタイトルを奪われる。そのことに苦を感じていない。中国、韓国の棋士も育ててきた。大陸にすむ彼ら彼女らに日本人棋士はやられっぱなしだそうだ。【敵に塩を送った】という解釈とはまた違う。「抜かれたら抜き返せばいいじゃないか」というただ、それだけの考えの藤沢秀行だ。私もまったく同じ考えであり、実行している。ただ、実行する前に自分自身が先輩、先生にされたからだ。結果として試合でその先輩に勝つこともできた。だったら自分も同じようにしようと思った。自然に身についていた。結果として道場全体の底上げにもつながり、目標とされる道場になれば私たちが正義を示すだけで周囲も浄化されてくるに違いないと思っている。自分より弱いやつをチョイスして対戦するのではなく、負けなくなった自分がもしそこにいたのなら、そこで勝負は終わりじゃない。登山家がすべての山を制覇したらもう登山家ではなくなるのではない事と同じで、その山の良さや厳しさを伝える喜びを持つのも一つのものを極めんとする考えに結びつくのではなかろうかと思う。制覇の仕方で達成感はまるで違う。登る山がなくなれば作ればいい。いったん海底におりて、水を空気として考え手探りで地下の山を登っていけばいい。 対戦相手も同じである。「碁は一つの作品だ」 私は碁のルールを知らないが、作品になる、という意味はわかる。その一手をみた者達の歓声であったり相手の動きを読んだ、つまり「流れ」が見えたとき筆を使わずに自分が置く石の影響によって相手の石は水のように行く手を阻まれ、そして海に出た後まで、あのときのあの石の存在を残す。あの石があったからこそ生まれる命もあったのだ、と考えることができる。「芸ではまけない」 勝負の最中、芸では負けないという心持で向き合っていた藤沢秀行。長島監督とも似た雰囲気のある言葉だ。躰道は武道だが、武芸でもある。そうすると上の「碁は一つの作品だ」という一行もつながりを感じるというもの。「戦闘力をつけなきゃだめ」 野球と同じで打つことが楽しい、そのあとに守備の練習をようやくし始める。攻めないことは後からでもできる。いつでもやれることは後にまわしてもよろしい。戦闘力、自然を愛しつつも立ち向かわなければならないときもある。「本当の輝きを持った打ち手と、ただ強いのとはちがう」 これは、ある先輩が私に言っていることと同じ内容だ。プロの野球選手もそう。ボクシングも同じ。躰道でもそうだ。ただ、目先の小さなことしか見えないのでは大きなものは見えてこない。大きなものを見えるからこそ小さな美しさも目に入るというもの。この「」の意味はこの文の最初に戻る。というよりサイクルする。 【藤沢秀行】を検索していただいて、ぜひ読んでもらいたい。躰道の教えと似ている部分が多様にある。藤沢に興味を抱けるということは躰道にも同じく考えられ、日々の生活が大波津波の面白いものになる。そして、だからこそ凪た日にじっくり考えられることもある。
2005年10月18日
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「彼氏ができた」が、題名の発言。なかなかタイミングのずらしかたがうまかった。その彼の歳をだいたい当ててやり、注意事項を数点あげた。そうしたら「占い師と同じことをいっている」だと。 私は思う。だったらそいつは二流だ。だって、当然のことを言ったまでだから。だれにでも当てはまる注意点だったからだ。私のいうことが当たったのではなく、その女性自身の自信がないだけだ。だから、不安要素を言われると「なるへそ!」となっとくする。ぼろ儲けである。占い師も、される側も。両者ともに幸せになるのだから問題はない。「ガードレールのない山道を走る」ということを占い師に質問したら、「ゆっくり走って崖を気にするよりも前をよく見て運転しなさい」といった答えが返ってきたと思う。当たり前である。崖からはぶつかってこない。崖を意識したその人間の視野が狭くなるから正面からきた車にぶつかりそうになり急ハンドルをきって崖にまっさかさまになるのだ。彼氏、彼女も同じである。自分の進むべき道がどこにあるのか、今の感情というものは数十年も維持できるのか、勢いで作る子供は粘土細工になるやもしれない。自分に話を合わせる人と、相手の方向性、間違って身についた習慣をしてきしてあげるのも愛ではないだろうか。 男女の関係だけではない。仕事の世界でも趣味の世界でもこのことは共通する。一つの方針に向かう事実があるのならば通る道というものが必ずある。険しい道だからこそ、相手の本性や優しさが見えてくるというもの。楽な道を選べば、どんな言葉でもベラベラと並べることは容易である。 人を試すのはよくないにしろ、本質を見抜こうとするならば、先に我が本質を見せつけ【逃げ出される】も必然【惚れ直される】のも必然だ。クソガキが誕生してからみる本質はけっして良いものとは断言できない。 まずは自分の【隠し味】【とっておき】を見せてみることが大事だ。今回のアメリカとイラクの戦いのように「疑い」こそが最大の敵で、さらにそれが自分であるからだ。
2005年10月12日
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本日、東京綾瀬のホテルにむけて出発。 で、翌朝、全国学生大会を観戦。 おっと、準備をせねばっ……。
2005年10月07日
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ただ帯の色が変わればいいんじゃぁない。 例えば三級になったら、今日から三級だ。なのではなくて、これから三級の意味や責任感を学んでいくのだ。本当の三級になれるときは二級に合格したときだ。 この上の言葉は本日練習終了後に先輩が話してくれたことだ。 現在級、段ですべきこと修練しなければならないことを会得し、次へ進む。つまり志摩先生が常々言うことで「段階的に」がある。これは、車の運転で50キロをだしたから次は60キロを目指す、いや、そうではない。アクセルを踏む。次はブレーキ。アクセルを踏んだらまっすぐに走れるか。今度は停まるべきところで静止することができるか。というふうに裏と表。走る止まるも同じ、陰と陽が必要で。このことを理解していくことが必要と思う。盾と槍、つまり矛盾をいつかは気にならないものにしなければ人の心は大きくならないものだし、一見して自然とは矛盾しているもののようだが、人間も動物も植物も命をうけたときから自然に左右されて生きている。 自然のなかの言葉、「四季」も一気に夏から冬には変わらない。じょじょに段階的に進み慣らされていく。つまり自然に調和されていることを自分の中で、自然に勝った気でいる。 温暖化。どーでもいいが、人が蚊に刺されるだけで気になるように、地球も刺されれば堪忍袋の尾がいつか切れる可能性もありと思う。 最近の地震はそうであろうし、テロリストも、もしかしたら自然の命をうけてガスを嗅がされ仕向けられているのかもしれない。 テロリストも準備は段階的に。 はじめからビッグバンのように上り詰めてしまうと餓死しちゃうよん。 苦しみがわからないからぁー。いいよいいよだけではねー。 段階的、最後にもうちょっと振り返ると、「進む」を覚えたら「壁にあたる」も覚えさせる。「苦しみ」を味あわせたら「楽しみ」も味あわせる。 かたよって「楽チン、甘チンばかりさせると心の糖尿病患者」なってしまう。 血糖値が低くなりすぎてもいけないが。 そのことに気がつかないと本当の病で、わかってしまえば味噌汁の中の菜っ葉についた虫と同じで取り除けばよい。その虫が入っていた味噌汁をそのまま気にしないで飲めるかどうか、切羽詰れば飲む。そうでなければ飲まぬ。自分が親だったら、取り除いたとはいえさっきまで虫が入っていた味噌汁を飲むか、それとも、虫がはいっているくらい野菜が新鮮なんだと言い聞かせるか、どっちだべ?私は子をもったことがないから分からないが、バブルがはじけてからしばらくたつ。どんな時代がくるかもわからぬ。ぬくぬくしたこの時期にどう過ごすかが、あと何年後を楽も織り交ぜてすごせる鍵ではなかろうか。 苦しむ段階を経験していない人は不満は不満、経験者は我慢に我慢。 ものごとは段階的に進まなくてはならない。 と、同時に食べ物も人も好き嫌いをしてはならない、というのが大事だと思う。それを無視しちゃうといつのまにか……。 自分がどの時期に育ったのか、その時の家庭の経済状態、自分が甘ちゃんで育ってきたのかどうなのか、そういう人がどの面下げて物事を判断し行動しているのか、誰にも聞かないでそれは正解なのだろうか。段階的に進まない自分の精神も知る必要があるなと自分も感じたし周囲にも感じる。 そういえば、渡波躰道に戻ってきてすぐに、公民館主催の「意見発表会」というのがあった。私が読むことになってその題名は「なぜお母さんはみえをはりたいのか」だった。読んだ後にある父兄さんから「自分のことをいわれているようだ」といわれた。そのときは、そうじゃーないよ。なんっつっていたが、実は当たり。いや、半分当たり。全員に向かって読んでいた。でなきゃただのイヤミ人間だ。一人に言うために作文を読むなんて。最低最悪だ。分からない人には分かってほしいから読んだんだ。今度いつか、その作文をこのブログにのせてみよう。 おっと、もう、こんな時間寝よう。
2005年10月03日
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自分にも立場というのができてくることに関して、私個人としてそれが喜びにはならない。 立場、肩書きを異常に欲する人もいるかもしれないが、私のなかでは自分でしかない。いくらかは成長したかもしれない。人格が変われば人生も変わるの言葉のもとに、つきあう人も少なからず変わっているな、と思っている今日この頃。 知らないことは知らない。知っていることは知っている。当たり前だ。何度、正月を経験しても、その事実に変化はゆるされない。時のたつことを止められない。 二度目になる正統館の道場。廊下を歩くと白い看板に「躰道教室」の文字がある。その白い板の前で足を止め右に着眼をすると下が黒で上に白い装束を着た人々が回転したり飛んだり伏せたりをしている。オリンピック競技の柔道が行われるのと同じ畳が敷かれてある床でそのことは繰り広げられている。 看板を角に曲がり道場に入る手前に更衣室があって、そこで着替えをし帯をグッと締める。同じく道場へ向かうが、着替える前の自分といささか変わっている気がする。正座をし、正面に礼をする。と、思っていても数名の指導者と目が合い先に先生たちへの礼にかわってしまう。 さて、稽古が始まって目に付いたのは学生だ。東大生の動きに目がいった。体が大きい部員がめだっていて運足の流れがよどみない。 自分のことはというと、以前この道場におじゃましたときもそうだったが「かまえ」の鍛錬に終始集中していた。私の志摩先生と同じ八段の高道先生に構えの着眼についてご指導をいただいた。私にとって前回の続きともいえる稽古に私の中で嬉しく思った。一年たってわずかに進歩していた、ということである。逆をいえば、一年たってそれだけ?ということだが。 照れ屋の私稽古で自分の姿を見ない。Mキンガーzさんに言わせれば「ダメだよ。見なきゃー」だが、みると、なるほど納得。「背流し」の稽古があって、普段、私は伏敵(ふくてき)の一種と捉えていたが、やってみると奥が深い。ストリートでとっさにかわすのに適しているかもしれぬ。そのまま逃げやすいから。(文章だけを読んでは意味不明だろう) 実戦の稽古。先に言ったように東大生の動きがよかった。素晴らしく高い飛燕突きに反応ができなかった私には全日本大会にむけてのヒントをいただいたようなきがする。 あっ、飯食おう。
2005年10月03日
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