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【女王の教室】をどうぞごらんになってください。 DVDも発売しているとのことですし、レンタルビデオ店にも並ぶと思います。 大人がかっこわるいから子供がグレる。かっこいいとはブランド物をもった見た目でもなにかの実績でもない。そういったことを意識しすぎているうちはわからないことかもしれない。 観て、「そういう考えもあるね」といってまたコタツの中で尻をボリボリかいているのがよく見える。
2005年12月31日
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この本はかなり前からTUTAYAや各古本屋で探していた一冊だったから中里の本屋で並んでいたところをあっさりみつけると嬉しさよりあっけなさを感じた。でも、しばらくほうっておいた。 読んだのは最近で、結果三日で読み終わった。読むのがのろい私でも一気にのめりこんで読めた。だれもが読んで面白いと思うのではないかもしれないが私としてはコインロッカーズベイベー恋にノックアウトよりもあっさりとのみこめた。 以外にあっさりしている味噌汁だったのかも。ただし、ダシはよくきいていた。村上流のダシが。 つっても村上龍の本はこれで二冊目。今は【共生虫】を読んでいる。
2005年12月30日
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マヤの教育方針には共感する部分が多々あった。 この番組をごらんになった人は大勢いると思うが、その中に、つまり自分がこのドラマの中にいるとしたらどのキャラクターだろうか?それを考えて赤面してみたり嫌悪感にかられてみたりしてみるのもいいかもしれない。 文章やアイディアはそのときの気分によっても変わってくると思う。私はこのドラマを見ながらかなり暗い気持ちになって沈んだ。マヤのセリフが言う前にわかりすぎたからだ。私には感情というものがないのか?と自問自答もした。けれども、その気持ちは潮の満ち引きだったようで考えれば考えるほど立ち直っていった。マヤが百パーセント正しいとは思わなかったが、脇役一人一人に染み付いたもの(とくに大人)に比べたら、とてもまっさらな人間に思えたからだ。 チリ一つない冷たいタイルの部屋を心に持ったようでいて、実はいつでもお湯が出てくる暖かい温もりのある浴室みたいなものなのかな?マヤって人間は、と思った。
2005年12月30日
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まさか、これが私の感想だ。 品川庄司がマイクの前に立ったときはグッときた。もともと品川庄司は好きではない。ただ、十年目という区切りが私の頑張れ!という気持ちを起こしていた。いつだったかハリガネロックが惨敗したときを思い出した。たしか中川家がゴッサ面白くて圧勝したときだったろうか。 そのときの中川家よりおもしろいと思ったのは一昨年の笑い飯で、去年の最終決戦に残れなかったのが悔やまれたことを思い出す。 ブラックマヨネーズは優勝候補不在の混戦と呼ばれた今大会をレベルアップさせたわけではなく、バラエティ番組うんぬんをぬいてDVDの売り上げとライブだけでそうとうやっていってもらえば私は買いたいし、笑い飯はレンタルに並ぶのを待ちたい。 いいものは「好み」を超えるというが『ブラックマヨネーズ』はいかにもそれをこえてだれもが面白い、直木賞よりもとっつきやすいおもしろさと、霊的にのっけから引き込まれる。 これからの生き方に私は生かしたい。彼らの基本を。 あと、弁護士と双子のちょうど角にいたあの女の人は誰でしょう?山田優の何か?
2005年12月25日
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有馬記念だけではない。 M-1 K-1 プライド 極みが無い限りこういうことがある。 プライドを捨ててまで勝ちたいという、そのプライド。
2005年12月25日
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一日遅れでビデオでみたものは私にとって横綱の引退式だった。橋の上で見せたあの表情はまぎれも無い代表者の顔だった。 私は梅ちゃんのファンだが、今日でもっとすごいと思えた。「強がり!……一番励まされなきゃならない人がみんなを励まして」 私が思う横綱は、勝ち続けることよりも負けたときにの姿が負けを感じさせない人物、だ。 本能が人をえらぶ。それに対して答えるのも本能だ。 だけど理性がそれを隠すときがあって、理性だと思っていたものが実はそうではなかったりする。 本能でむかったら、それはそれに対し本能で返ってくるような気がする。 悩んだ今までの失敗も今日の日の成功なのだと思う。 覚悟かぁ~。
2005年12月21日
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人の力というのは、りんごを山ほど入れた袋の底がぬけて道路に撒き散らしたときに手伝ってくれる人間の行動だけではなく、人の想いを知ったときには今言ったような手助けよりも力になってくれるときがある。 人は発展途上中にその段階を認めてほしくてしかたがない。私もそうだ。ただ、自分はここまでやった。だから褒めてほしい。その気持ちもわかる。でもそれは行動のことで、本来こちらが求めているものではない場合が多い。それはこちら側の願望が本当に浸透しているのかどうか、という疑問が残っている場合だ。嫉妬心や言動の良し悪しへのこだわりというものが邪魔をして物事の本質を捉えることができないで体と見た目の技術が成長してしまえばなおのこと、人の言った真意をモノにしていくのは困難を極める。 本質というのは例えば大根。畑で見るのは食料。アスファルトの隙間でみるのは娯楽。決めつけてしまえばこうだが、マスコミを通して得る情報を自分が持った知識を使って理解しようとすればこのように考える。この考えは人間の目から見た大根への本質の予想でしかない気がする。大根の楽しみとはなんだろう。大雑把にアクロバッティックにいうと「おしん」の人生に思える。大根が一人で歩き出せばそれだけでウルトラCだ。 本質の大事なことは変わらないということだ。どれだけの進化をしたとしても、成長を遂げたとしても『本質』というのはそのままだ。本質というのは予想で考えるものではなく法則を決める上での原点だと私は思う。 映画『羊たちの沈黙』でハンニバル・レクター博士がクラリス捜査官に言った「ものの本質を見抜くことが大事」というのを私は感情や欲望を持つ以前に存在していることだと考えた。 欲や感情は元素を否定してまで押し通せるものではない。元素もなにもかもを飲み込んで宇宙を見下ろす手段はただ一つ創造だ。 音より早いのは光。では光よりも遅いものは何か?太陽が山の陰や太平洋の向こうから現れたその瞬間に自分の額は明るく、そして一瞬遅れて眩しさを感じ目を背ける。どんなに頑張っても光線が向かってくる瞬間を目で捉えることは不可能だ。それほど光は速いが、光が存在することは条件というものもある反射だ。そういった条件がある。しかも留めることもできない。全部発散されている。創造というのは条件を一切必要としない。脳にイメージが飛んできた瞬間に音も光さえも侵入することは許されない。様々なものごとがスライドしあいひと時も一定ではない。しかし、行動を起こし形にしてしまうことによって芸術にもなりうるのが創造。そこには光の反射なくしてはなしえないことかもしれない。それでもだ。もっと先に創造があるから光は生物を生み出し生物の思考によって光は自身のスピードを超えられる。 ものごとの本質を知る。私は本質には段階があるように思う。その段階的本質は積み上げていき、踏みしめて知っていくことは行動として大事だが。もっとだいじなのは常に完成したものを求める気持ちが大事だ。根本的な本質。根本も本質も同じように捉えがちだがそうではない。根本は概容で本質は精神。そういうふうに私は考える。 人間の本質を変えるのは難しい。不可能かもしれない。DNAを変えるに等しいことかもしれない。 くさいものには蓋をしろ、のことわざだか、皮肉だかの言葉通りでは間違ったものの変革は極めて難しい。そういうときは根本的な部分、毛細血管の先端の部分まで戻って自分がいる世界、もしくは家族、団体の考えを知っていくことが大事だと思う。そこまでもどれば本質を知ることができると私は信じる。 ただ、問題なのはそこで目を背けないことだ。これまで自分が進んできた道と違うからと言って本質に何かを埋め立てて自分の居心地だけをよくしようとしては絶対にならない。 自分の納得できる法形というのは、それを求めているだけで、求め続けるかぎり一生創造で衰えていても気持ちが真っ直ぐであればそれは進化である。私はあのターザンの一行に創造進化の一品をみた。
2005年12月18日
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高速道路、有料道路を使用するときはETC搭載車以外は窓をあける。そのとき、お巡りさんが切符のでる機械の横にいる場合がある。そのときに、もしくは通り過ぎてからホッとすることが多々ある。 1 シートベルトをしていてよかった。 2 携帯メールを打ち終えたあとでよかった。 3 大声で歌っていなくてよかった。
2005年12月18日
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雑誌【ターザン】に『躰道』の記事が四ページフルカラーで載っています。 【ターザン】の表紙にはヨガの話題が大きく取り上げられていて躰道の記事は104ページから始まります。
2005年12月16日
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青森、宮城からスタッフが集まり、岩手の地でみなさんが温かく迎えてくれた。真夜中の色の夕方に息を白くして駐車場で待機し誘導を行ってくれた学生には感謝いたします。ロビーに入ると私たちを心配して待ってくださっていた岩手県躰道協会の理事長、事務局長、学生の躰士が笑顔で挨拶をくださいました。 私は志摩先生と一緒に岩手についた。斉藤先生はチーさん共にまいれました。まもなくして、ホテルの一室をかりて会議が行われた。総会ということでしたが、会長の斉藤先生と副会長の志摩先生の話が夢に満ちていて終始笑顔の総会だった。最後に志摩先生の講話の時間があって、『武道の三大公理』と『教師のありかた』についてだった。 『教師のありかた』をちょっと書いてみたい。 1.平凡な教師の場合 ただ、しゃべるだけ。 2.優れた教師の場合 より理解させようと工夫して話す。 3.よりよい教師の場合 手本をやってみせる。 4.最もよい、つまり最高の教師の場合 その生徒の心に火を着けることができる。 このような話を先生がされたということは、あの場にあつまった人間全員を指導者として判断し講話をしてくださったのだと私は思う。 4.の生徒の心に躍動感を湧かせて動かずにはいられない、これは探究心が一人歩きしその想いを肉体が追いかけるがごとくなんらかの種を植えつけることできるか。ということだ。風林火山の「火」は『その侵略するは火の如し』とあるが、指導者がちょっとしたきっかけを与えてやればどんどんどんどん希望が大きくなっていくということだと思う。 一時間半の話し合いを終えて居酒屋へ移動。ここでもみんなの話は熱くて互いにどれだけの時間があっても語りつくせないという感じであった。 ホテルに戻ってmキンガーzさんと話をして、なんと高道先生とも話をした。そのときかなり酔っていたから話の内容はほとんど覚えていない。けれども、なんとその内容をメモに残しており、「これから貴様がすることは!」ということがミミズの組体操のような文字で残っていた。文字はミミズだったが、内容はそれを餌とする錦鯉の如き内容だった。偶然にもこちらで集っていれば向こうでもそういう場ができている。『バキ』の言葉をかりればシンクロニシティとでもいうものか、砂鉄のように天の上の磁気がひきつけ合わせるのだろうか。創造と創造でつながっている。 そのあと記憶の薄れる、その記憶もなく私は夢をみていた。起きていても夢を見ている、大きい夢をみている私が瞼を閉じてみるものなどたかが知れている。ただ、そのときは気持ちがいいものだった。私は夢を見ながら夢を見ていることを自覚しているので脳はいくらか起きていたのだろう。夢の中に板に鬼拳を打ちつける音が進入してきた。夢に頭上のスタンドの明かりが侵食してきて私は目を覚ました。ふいにノックだと気づく。水玉パンツでドアへ走る。そのとき思考能力はゼロに近かった。ドアを開けた瞬間に脳に血がめぐってハロウィンや秋田のナマハゲを思い出した。躰道用語で言う『夜襲』だった。学生三名、理事長と事務局長だった。すでに私の脳には活性化した血液と酸素が供給されていたので喜んで彼ら彼女らへ「どうぞ、どうぞ」と言っていた。夜這いでなくてよかった。 話は私一人がベラベラしゃべり、理事長は緑の枕を抱いて、シーモーネ-ターで始まった夜襲暴露話。だんだんと話の方向がまじめなものになってきて周囲の目も真剣になっている、何度か「かたくるしくてゴメン」といいながら外の雪のように私はしんしんと話しつづけた。気がついたら5時!退散となったとき学生の男の子が一人残って、さらに話し込む。真剣に部と武のことを考えて、こんな私に質問をくださったことには感謝しています。その話も終わるころには針に先が六時を回っていた。 説明は不必要かもしれないが翌朝のバイキングに遅刻した私はソーセージ三本梅干三個のおかずでご飯を一杯食べて味噌汁をすすった。オウレンジジュースを氷まで消化しアメリカンのコーヒーを二杯飲んだ。 ホテル前で岩手のメンバーが手を振って送ってくれた。 大変に楽しいひと時をありがとうございました。協力できることがありましたらどんどん私を使ってください。次に夜襲を行うのは私ですから男も女もいざ覚悟。 往復の不安定な道路を志摩先生の運転で私はゆったりしてしまっていました。いつもいつも先生にはお世話なりっぱなしですみません。光より早い想像であやまります。 各先生、体調悪化も押して参加された先生もいましたが、それでも一つになれた素晴らしい集いであったことは間違いありません。今回のこの行動に感動はあっても不安や後悔は一切ない。若い学生の無垢な姿をみたことに最高の喜びを感じた。 最後に、『教師のありかた』もさることながら、最高の生徒のあり方を見させていただいたことに深く感謝いたします。 主催のみなさま、本当にありがとうございました。これからも頑張っていきましょう。
2005年12月11日
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武道経験の無い方がこの文を読んで理解できるかどうか自信がないが、たとえ一人だけでも理解してくれるのであれば嬉しいと思うので書く。 私はラピュタが大好きで、そ~れでしんしょーつーぶした。あーもっともだー。もっともだー。 私はラピュタが大好きで、昨日の学院での稽古はアニメ映画『天空の城ラピュタ』で物語の核となる物体を例にとりあげて行ってみた。 ラピュタは宙に浮いていて、天空の名をほしいままにした。べつに威張ったわけではないのだが、問題はなぜにういているのかが問題だ。考えられる例として月から屈強なロープをたらして吊っているとか、パズーの父さんが書いた絵のようにプロペラがその役割をしているか、ただそのプロペラを回すエネルギーが石油だったらちょいとばかし夢がないところだ。ただ、ラピュタ好きには理解していだだけると思って書くが城は龍の巣の中にある。「ブリッジ!!!城はあの雲の中にある!父さんは帰ってきたよ!」のセリフのもとに。で、プロペラであればその動力が落雷を拾って発電していたのならば多少は夢ものこされよう。 でも、事実は今の話のどれにも該当しない。(格闘するものに○) 木と枝の間に蜘蛛が存在するように、天空の城を大気中の点としているものは飛行石でしかない。正確には飛行石の結晶だ。(トムじいさんはパズーの話を聞いてこう言っただろう「その話をやめてくれんかー、年寄りのの耳にはきつすぎる」。) かなり、まえおきが長くなってしまったが、言いたいことはこうだ。正座をした瞬間に丹田に気を集中する。とたん自然にからだが浮いている錯覚になることが大事だ。初めはへその下あたりに意識をもっていく。それを正座のたびに行っていれば知らぬ間に気が練り上げられていくきっかけができていく。気発を丹田から行うことによりえ字になる前の余計な力は不必要となる。それはすでに浮いていて、正座の最中、気にかけていること、それは実に構えを行う逆の構えを抑えるという磁力ともいえる筋肉の伸縮だ。 丹田を飛行石と考えれば常に宙を求めるその石(意思)はモーションをおこしたくてしかたがない。つい考えてしまいがちな早くソエテを差し出して、とか妙な意識は必要なくなる。筋肉を動かして正座から高度を求めるのではなく、浮力を抑えることによる反発が速度を高める。 ロープを人の力を使って投げるよりも、ゴムを伸ばして手を離すほうが早いのは、今の正座からの動き、構えからの動きに結びついた考えと思う。 宮崎アニメで飛行艇のことを『船』と呼んでいるが、そこは実におもしろい。浮いているからだ。空も水も。逆立ちして考えれば差はない。宇宙の神秘も水も神秘も同等だ。規模が気がうだけ。宇宙人は何をもとめて地球にくるか?それは水を求めてだ。宇宙の中の希少価値は水。だから浮くってことは飛ぶとは違う。浮力とは何にも逆らっていない。人間が重力に逆らっている気持ちがあるうちは『船』と呼ぶ気持ちも何もわからないだろう。大気に逆らわずに浮くことができれば、その浮きを押さえ込み、一気に開放し、爆発させる。そのときは光速のえ字になるであろう。
2005年12月09日
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武芸と一言にいって「強くて美しいもの」となるのかもしれない。躰道は武芸と呼ばれるが、武と芸を一緒に考えていいものか、一つなのか私はよく分からないでいる。解らないでいる。判らないとかかないのは答えが二つに一つではない気がするからだ。 全国大会で審判員が並ぶ姿をみて私は芸術を感じる。それは過ぎ去ったその瞬間、次の瞬間というものが芸術であると思ったからだ。審判員の方々でその方の試合を見た記憶はたいして多くない。静岡のK先生が私にとっては一番昔の記憶だ。そういった先生方が並ぶ脇を行進しつつ思うことは有名画が並ぶ美術館のゆったりとした通りを歩いているような感じだなぁ、だ。ていうか、今考えた。いや、さっき風呂に入りながら考えた。 武道家として生きて猛々しい姿も美しいかもしれない。 けれども武芸のもとに、人間にもう一人が加わって、という具合に団体になることで人と人の愛の表現に芸術の一つの喜び方があるのではないかと思う。男女の人間関係だけではなく、男同士、女同士、上下関係、応援する側とされる側、どういった関係にもその間に愛があれば美しくなり、それが芸術になるのだと思う。ヨーロッパの彫刻や絵画は宗教画が多く、それは書き手が宗教と自分の間に愛を持っていたからうみだせた結果だと私は思う。誰もがその絵をみて評価できる。それは好みをこえた本当にいいものだからだと思うのだ。 本当にいいものは好みを超える、は最近聞いた言葉だがまさにそうだ。正直いって躰道の選手もK-1もボクシングもプライドも、芸能界も同じだと思う。あるある探検隊が嫌いな人もいれば笑い飯が好きな人もいる。その辺は好みだ。だけど、ビートたけしや所ジョージはどうだろうか?嫌いな人もいるだろう。だけれど、彼らが真剣にモノを語ったときには誰もチャンネルを変えることはできない。歌も同じだ。好き好み、時代の流れで耳を射止めるミュージシャンも一様ではない。ダパンプや北島三郎、スキマスイッチなど、年齢層で聞きたくなかったりする。ところが、山口ももえ、美空ひばりだったらどうだろうか?顔の良し悪しではない、存在そのものが芸術であることが人をひきつけるのだと思う。 500年も昔のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、なんで彼らは今でも美術館にいてその亡き存在を求められるのか。それが芸術だからだ。 ということは、志村けんの「ダッフンダ」や「アイ―ン」も同じく芸術だと私は思う。 絵を見て、ギャグを聞いて、スポーツ、格闘技を見て、なんで芸術か、それは生きていくうえで必要がないことなのに、そのことに命をかけられることだからだと思う。あくまで私の勝手な思い込みと考えだが、観て聴いて、だからどうなのだ。そんなもの。興味のない人にとってはそうだ。しかし、興味がなかろうがどうだろうが、その存在を知ってしまった瞬間から、そのものを無視できなくなる。これは大事なことだと思う。そう思われたら、本当にいいものになった時で、一つの芸術だと思う。 日本には「人間国宝」という言葉がある。指定されるには誰もが知っている風土に関わった人間でなければならないのだろうか。私にはよくわからないが、選ばれたその人は少なくとも芸術と思えるし、そこまでものごとを貫いたという意味では闘わなくとも武芸家となれるような気がする。 本当にいいものは、好みで左右されない。
2005年12月05日
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瀬尾まいこ 著 『優しい音楽』 瀬尾まいこの本は三冊読んでいますが、この本は一番すらすら読めた。だからといって小学校の読書感想文向きのものではない?と思います。中学生くらいになると理解できるないようかも。そのへんは個人差があると思います。 三つの話があって、そのどれもが、春雨と薄く切ったパプリカが入っただけのあっさりしたスープのような受け入れやすさがあります。 内容をここで書くことはしません。ただ、本を読んでみたいけど十ページも進まないでテレビのリモコンを握ってしまいたくなっちゃう人にお勧めです。つまり飽きっぽい人にお勧めです。おもしろいです。 で、これを読んで、もっと読みたい@とか思ったら、同じ著者の『図書館の神様』がお勧め。
2005年12月05日
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