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KがSの扇状蹴りの軸足に狙いを定めて『念体足がらみ』の技を極めに入った瞬間の画像。 Kの捻技がすばらしいのは確かにそうだが、私が感動したというか、裏切られたというか、そういう気持ちが大きかったので、少し大袈裟に写真を貼り付けた。 Sは動きが早く、技の威力も大きい。普通、こういった選手の懐に飛び込むことは、なかなかできない。勝利することよりも、恐怖が先に立ち、頭で考えていてはなかなか、このKのような動きはできないと思う。 普段の鍛錬の成果もあるだろう。しかし、私が見て感じたのはそうではない。この実戦の前に審査規定にある「法形」を行う。その際、Kは肩を脱臼した。日々の稽古中にも脱臼を繰り返しているとのことだ。実際に合宿稽古中に脱臼した現場を目撃していた。 そんなことがあっても、実戦をすることを熱望し、終始押されていた内容を残り時間三十秒でひっくり返した。 あまり大袈裟に書いているように思うかもしれないが、そうではない。K本人は苦痛をのり越え、私などでは到底見ることのできない域に立った瞬間と言っても過言ではないほどの捻技であった。そう言いたい。 私が尊敬する人というのは三人いて、その一人は元渡波道場のY先輩。同級生のN君。後輩のT君。だ。 常に大きな声を出し、場を盛り上げるその姿。そして、私の目標となったKを気づいたら尊敬していた。 彼は私の脅威である。今度の県大会の実戦ではうちの松Uと、このAをどのようにして倒すかで、決勝戦へ行けるかどうか決まると考えるが、このところ何度勝負しても勝てない。この日、審査をするAの相手をしたのだが完全に動きが読まれている。うーむ、どうしたものか……。
2005年03月30日
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連日降り続いた厚い雪を、学生たちのやる気が溶かし、審査当日は気温も上昇。滑りやすい畳で足をとられる者はいなかった。宿から数分歩いて体育館まで行くのだが、道中は踏み固められた雪でその表面がおおわれている。その道中を歩いたおかげで、畳が滑りやすいことなど気にすることなくいい動きができたのかもしれない。 条件の整った場所、いわゆる良い環境で稽古をするのではなく、一つの例外の中で自分を乗り越えたのは大きい成果だと思う。
2005年03月30日
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茶道の心得はないが、茶道の一風景を頭に描いてみました。 急須も器も茶さえ目にする前に足がしびれて感覚がない。なのにお尻がムズムズしてきて、今にも茶室の空気をにごしそう。 私とその両隣に二人、三名の女が作法に則って正座している。足がしびれてるのは生徒である三人共一緒である。先生がくるのが今日はやたらと遅い。着物の中では妙な汗が噴いてきている。 スーッと急にふすまが開いたと思ったら、つむじ風のように中に入って正座をしている先生の姿が部屋の中にあった。ふすまが柱にあたって、廊下の風は遮断された。 驚く暇もなくて、肛門をゆるめる暇さえなかった。 もちろん急須はでてこなかった。 お腹のほうがふくれてきたような気がしてきた。挨拶をした後の、先生の話が頭に入らなくなるほどの痛みがふくれあがってきた。 茶の香りはするが、集中がそちらに向かない。 目の前に器が置かれていた。先生の一言によってその器の存在に気がついた。 あっ。と思ったとき、同時にまずい、とも思った。しかし、幸運にもガスは引っ込んでいった。 心の中で安堵のため息をついて、ようやく顔を上げて、その日初めて先生の顔を見た気がした。 手順を思い出して器を手にとった。黒いその茶碗に一とき目を奪われ、緑の匂いが消えた。 それでも体は自然に作法をしてくれていた。茶の味はまるでなかった。 器に名残を惜しむ気持ちを抑えてそれを畳の上に置いた。一通り、終えて先生の顔を見上げたとたんに口の中にお茶の味が広がってきた。 茶の強みを感じずにその余韻だけを味わった。 感じた。というふうな茶は初めてだった。器の雰囲気を味わって茶をすする。しかし、味覚が何かに負けて、ちょうど骨折した痛みがそのときはなかったけれども後からじわじわと感じてくるときのように、または鐘をついた後のあれのように、しっとりと口の中でゆっくり香ってきた。 香りが消えて、器を見るが、さっきほどの感動はない。またお腹がはってきたのだ。
2005年03月21日
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ピラミットへレベル9のときに『にげる』を選択しまくって、黄金の爪をゲットしにいったことがあった。二度三度全滅したものの、なん度めかには近くの町にたどり着いた。少年のころの私はレベルが若くても装備だけを強力にして次の町、次のイベントを目指したものである。 ドラクエ3の職業に戦士、武闘家、僧侶、魔法使い、賢者、商人、遊び人、まだあったろうか?戦士なら漫画『ハンターハンター』でいう強化系の人間だろう。魔法使いの相場はじいちゃんで、遊び人だったら何だろう。ピエロの格好をしておどけているのなら、サーカス団ひとりとでも言うべき存在だろう。もしくは遊び人といわれてもう一つあるのはジャパニーズマフィアだ。さらにもしくは、いざと言うとき刀を握る金さん。 いざ、パーティーを組むと、昔なら男ばかりのチームになったろうが今ならこうだろう。主人公、戦士(男)商人(女)僧侶(尼)。 記憶を頼りに説明書の絵を思い出すと、主人公以外はみんな大人だった気がする。で、宿屋で戦士が発情したときに僧侶と商人のどちらかを選ぶことになる。僧侶を選べば、夜な夜な説教を講じられること間違いない。そして、商人を選ぶとそれは商い上手だけあって、娼婦になってしまい、みんなのお金を使い込みすることになってしまう。 このように、今と昔ではものごとに対する考え方が正直なところ変わっているのが実状である。 そういえば、冒険が始まると主人公の職業は勇者になっている。タウンページを開いても、そうそう見つからないと思う。あったとして「スナック勇者」あたりがいいところだろう。 しかし、事実、勇者なので、それでプレーする他はない。 ステータスだけを見れば、なんでも平均以上にこなすのが勇者の特徴のように思う。いちおう、主人公としてゲームを進める上で、物事を判断し選択して進めていくリーダーでもあるから、勇者といわれてもポリポリと後頭部辺りをかくことでもない。 だからといって主人公だけが勇者なのだろうか。堀井雄二さんには失礼だが、強化系も、尼さんも、ジャパニーズマフィアもルイーダという人材派遣センターからでて魔物と向かい合った時点で勇者ではないだろうか。 当時、勇者という響きはなんとも言えないものがあった。井上康生やイチローの顔を今なら思い浮かぶ。それはバランス。当時はバランスが良いとされるものが勇者に見えたに違いない。 だから、アニメ&漫画『キン肉マン』の登場人物、主人公のキン肉マンは、はたして勇者と認めれるだろうか? こっちのほうがしっくりくるのではないだろうか。 ロビンマスク。 キン肉マンとドラクエをごっちゃにしてしまったが、私なりのパーティーはこうだ。 勇者(ロビンマスク)武闘家(ラーメンマン)僧侶(ミート)遊び人(キン肉マン) ルイーダの酒場(控え)。戦士(テリーマン)特徴がいまいち無いが優しさは好き。武闘家(ウォーズマン)僧侶(ドクターボンベ)賢者(悪魔将軍) アシュラマンは勇者系かな。 スニゲーター、アトランティスは序盤中盤での魔物。パルテノンはゾーマを倒す階あたりでうようよしてそう。 マドハンドがあらわれた。 マドハンドは仲間をよんだ。 パルテノンがあらわれた。 いや、手違いでタイルマンがあらわれた。えらいザコキャラだ。 マドハンドは一斉に逃げ出した。 取り残されたタイルマンは後ろからきたザ・フィッシャーズに吹っ飛ばされた。 3でバシルーラはないのだ。
2005年03月18日
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会社のために。と、自分が良く思われることは違う。 普段、お人好しのようでいて、いざというとき会社の利益よりも自分がまわりに悪く思われないほうを選択してしまう。 そういう人は主演にハマル人じゃないし、人にはもてない。 顔と表情、物としては同じだが、輝きはどうだろう。 一つの組織の中で、こっちにもいい顔、あっちにもいい顔をしていると徐々に無理がかかって輝きをうしなう。誰も必要としなくなる。それはこういうことと同じだと思う。太陽が沈まない。だ。 天気がいくらよいといっても、毎日そうでは日照りになってしまうというもの。夜もこない。とってもバランスが悪くなってしまう。しかし、こんなことはありえない。けれども人間はそれをしている。八方美人と一言でいうより、いいわけ人間とでもいいたくなる。 裏と表、陰と陽。健康食品ばかり食べると栄養がかたよってしまう。健康と臆病は紙一重かもしれないが、健康になることと、臆病を克服することは『思い込み』が大切だ。 勘違いをしたくらいで人はちょうどいい。数学のテストのようにばっちりビタミン、ミネラルを摂取する必要はない。嘘といいわけをしなければ健康でいること間違いない。 なにかあっても正直者のそばには正直者がついている。 いいわけ人間のわきには嘘つきが寄ってくる。 そういう集団は表情がぜんぜんちがうよね。
2005年03月15日
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『ライライライ』という映画があって、原作は亡くなった中島らも氏。そのパクリで上の題名にした。 ライライライは、原作『永遠(とわ)も半ばを過ぎて』を映画化したものらしい。断言はできない。その内容は睡眠薬を飲んだ男が寝てる間に小説を書き出すというもの。そして、それを売り出そう。というもの。作家でもない男が、霊が宿って知らぬ間に書いたのだということをウリに……。 ということで、レイを三つほど並べてみた。辞書を引くともっと面白いレイがある、例えば『嶺』山の頂。も一つ、『澪』船の通る道すじ(みお、と読む)。~角川国語辞典より。例もレイだ。 霊は礼と似ている。残留思念という言葉があるが、ある漫画ではこの言葉を霊(幽霊)だと言っている。その場に死んだ人間の強い思いが残ってしまうことによって霊感の強い人には見えるらしい。しかし、私は見たこともかすったこともない。けれども、そういった類のビデオや写真を見るのは臆病者ながら好きでよく見る。霊能力者の解説では、必ずといっていいほど『思い』が良し悪しどちらかのものが、そこにいる。とい言う。 すると、礼も同じではないか。相手を感謝して心からお礼をする。なんらかの思いが言葉として現れる。思いとしては同じだが、違うことが一つある。それは消化であると考えた。お腹の中で未消化のものがゴロゴロしていると健康によくない。そして、そのことを誰にも言えず思い悩んでいると心身ともによくない。消化不良がその原因で、先に言ったように感謝はしているが、しかし、お礼を言うタイミングがなくて、心がやきもきしてしまう。人に感謝をしていても気分が悪くなるときがこういうときだ。つまりのところ心の消化不良とでも言うものだろう。 学生時代、廊下の向こうから好きな子が歩いてきて、何も言えないけど、すれ違ったときになんとも言えない想いが思いとしてその場に残る。 霊感などなくても、なんとなく気づくことってよくあると思う。 表情。これは言っても書いてもいないのに、一番表現が相手に伝わるし、なにしろ正直だ。「あのときのあいつのあの顔は忘れられない」頭の中にそのときの思いが残る。 ありがとう。お願いします。そう言って思いを告げて、次の思いを作っては消化し、その繰り返しをしていければストレスもたまらない。そのつど礼によって消化していけば霊にはならないように私は考えるが、試したわけではないのでこの内容に自信はないが、なぜか思いつくまま書く自分の文章に「なるほど」とは思う。 怨みや感謝、嫉妬、それらが霊の実態と言われるが、そう考えればなるほどそうだ。怨み憎しみを消化できないで死んでしまえば走馬灯のように死を直前にしていやな思い出が頭をめぐるのだろう。その重いが霊になるのと考えると、良い霊と言われる奴もそうではないか。誰かに義理を感じていたり、死ぬほど好きな人が心の中にある人間はそれらのことを死を目の前にして思い出し、その場に残す。 最後の最後のメッセージではないか。 人間の欲に性欲というものがあるがそれは、誰かに対する表現があってこそ達成される。 人は死んで食も物も何も欲が切れると最後に表現したい欲をだす。 ゼロ戦。零戦。思いを乗せて飛ぶ片道飛行機。どんな表現をしたか想像がつかない。
2005年03月14日
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展開競技、実戦競技を『遊楽館』のオープニングイベントで私は演武をします。 展開競技は演武にはもってこいの競技で、とても盛り上がる。しかし、六人一組で行うために練習でメンバーがそろうかどうかが問題である。 仕事、家庭があってなかなか都合がつきにくい。それでもあいた時間に集まって創作していく展開競技は一昔前の番組『天才たけしの元気が出るテレビ』で一世を風靡した「ダンス甲子園」のようなものだ。 新しいもの好きなのは生まれたときから変わらない。初めて目にするものに興味を抱く。だから赤ん坊はそれによっていく。それは大人になっても基本的に同じで、新しいものには過敏に反応してしまっている。躰道は常に新しいものを創造していくのである。 しかし、赤ん坊が母親を愛するように、これだけは変わりようがない。というものもある。大人になっても変わらないし、躰道を学ぶ上で、伝統や、創始者の真意のように変わることがないこともある。 そういったことを難しく考えずに食事を例にする。 ご飯は伝統。おかずは創造。しかし、正月、クリスマスのようなイベントには決まった料理が定番のものとしてテーブルに並ぶ。 躰道も同じである。礼儀や構え、運足といったものは大小はあっても基本形が必ずある。技の進化では料理と同じで応用や発想の転換が重要になってくるのだと私は考える。それは、日本料理と海外の料理がゴッチャになっていくようにヒントと、アイディアを組み合わせて新しい味(技)をあみだしていく。 仮にそれが認められれば、どこでも多用されていく。例えば、ソイソース(しょうゆ)ナンプラーなど、その国独特のものがあるように技でも同じだ。体操競技でよく耳にする「トカチェフ」トカレフは鉄砲。「モリスエ」広末は、亮子……そっちは柔道。のように。 創って、造っていこう。
2005年03月12日
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『M-1グランプリ2003』のDVDをTUTAYAで借りてきたのは一昨日。昨日は一緒に借りてきた『サイコパス』を見た。女版ハンニバルレクターというパッケージにあった言葉にだまされてだ。 ただのパクリやん。博士の。という気持ちになった。なってしまった、と書くと同情したふりになってしまうので言いきる。親には、「人に同情するのは人として一番最悪なことだ」そう言われ、ここまで生きてきて、私も「たしかにそうだ」と私ら親子の考えが珍しく一致するにいたった。けれども、もっと最悪なことがある。『同情したふりをする』だ。それはイコール正直ではない。と、なるからだ。 M-1のほうは、面白かった。けれども、中学二年のころに見た『ガハハキング』は、もっと笑えた。当時は『海砂利水魚』『爆笑問題(何週か勝ち抜いて賞金をゲットしたはず』『フォークダンスでなるこ坂(こちらも爆笑と同じく賞金ゲット。ただ、漢字を忘れた)』『ますだおかだ』『ナイトシフト(スマイリー菊池とだれかのコンビ)』などなどがいて。 笑えたのと、面白いのは違う。映画『交渉人』『ダイハード3』『天空の城ラピュタ』は面白いが笑えない。ドーラ一家が笑えるくらいだ。「うん?どーだ?マクレーン」 私は海育ちであまり目はよくないが、『お笑い』に対する自分の率直な意見は正直に言える。『笑い飯』、また見たい。である。本日が笑い飯を見た初めての日ではあるが、まずもってなんというか好きになってしまった。 キャラクターが好きでないことには見る気も失せるのであって、万が一おもしろいことをする芸人がいても、気にくわない奴(ら)だとチャンネルをしこたまかえてしまうので。しかし、プロレスのように人気キャラがそれらを退治してくれるのならば見てしまうかもしれないが。 というように、お笑いや武道などの趣味(見るほう)というのは、あれば見るし、なければ見なくてもいい。あっても、いまいちなのだったら見たくもない。そんな感情で動くのだと思う。 ところが世の中に合わせて生きるため、というより、最低限必要なのが『お笑いと武道』なのではないだろうかと思う。それは世界に日本の文化が浸透しつつあるなかで日本国が外来文化を支持してやまないからだ。 日本ではまったくウケない芸人がアメリカでは絶大な支持を得たなんてこともあるからだ。 武道でも同じ。日本では武道名を言っても誰もわからないが、ヨーロッパの街角アンケート「あなたの好きな武道のベスト3」に入っていることだってあるかもしれない。 事実、フィンランドでは密かにか実しやかにかは分からないが、国技にしようじゃないかという日本の武道がある。それが『躰道』だ。 日本では売れないお笑いコンビが海外で売れたとする。通訳されたDVDがバカ売れというふうに。そして、その芸人がたまたま英語を熟知していて、海外版を見てみると表現方法やネタの一部が変えられて本当に面白くなっていた。それを聞いたプロデューサーがその海外版を翻訳し、逆輸入という形で日本に上陸。もちろん大ヒット。けれどもライブではガラガラ。そのコンビは解散。翻訳した人間が有名になって、売れない漫才をアレンジする形で売り出しをはじめる。そして若者育成に燃えて新しいお笑いのエンターテイメントを生み出していく。 そのように日本の武道をヨーロッパで国技とし、逆に日本人がそちらのかたがたの指導を仰ぐ。情けない考えかもしれない。けれども、日本人に同情するのは家訓にも反するし、そちらの方が情けない。 行動をおこしている事実を認め、そして人ひとりを認めたい。 ブラジリアン柔術が、これほど大きくなったのは柔道の逆輸入によってだ。 私が愛する躰道の本質を世に知っていただくためには手段を選ぶ選ばないということよりも、武道や、お笑い、ガーデニングといった観賞の趣味を自分の手で脳で感じることを選ぶ人間がふえなければならぬ。 まず、自分が誰かに影響を与える側に立つことが大事と思う。
2005年03月11日
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メモリーカードを挿しこむアダプタを買ってきて保存して……。覚えてしまえば簡単だがそれまでが時間がかかるところ。 DVDマルチドライブも、やはりキャプチャだかなんだかを買わなくてはならない。うーむ、今日、DVDレコーダーを買い逃したのは大きい。楽して編集ができる方法はないものだろうか。 デジタルビデオからUSBでパソコン(HDD)におとして、そこからDVDに録画(っていうのかな?)するよりも、ダイレクトにDVDにもっていきたい。 けど、パソコンでは画像がいまいちだよなー。大会の画像を編集するのにはやはりレコーダーを買うべきなのかなぁ?うーむ。デジカメもほしい。 カシオのEX-Z55にするべきか、キャノンのIKYDIGITAL50にするべきか。悩む。パナソニックのFX7とかも画面が大きくていいかんじ。 チラシにつられて買い物に出かけたのだけれども、セイコーの電子辞書はうりきれだったし──。むむむ。毎月毎週と新製品がでるものだから、なおさら店内では迷ってしまう。
2005年03月10日
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『月間フルコンタクト空手』に私の知り合いでもある中野館長が載っております。先月号には今月号以上に多いページ数だったのです。 ぜひ、立ち読みでもいいから読んでみてください。
2005年03月09日
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タカノリがプラカードを持って、渡波の足並みが一つのものになった。と、思いきや、いきなりのズッコケをみせたのは先頭のプラカード持ちであるタカノリだ。しかし、それを誰も叱ることもなく全員がにこやかな笑顔で入場行進した。試合にのぞむ前に一番大切なリラックスが皆にもたらされた。とても、いい雰囲気である。 タクミが風邪のために欠場になってはしまったが、メンバー全員がタクミの心を鉢巻にして頑張ってくれた。試合後に、こっそりと志摩範士にお褒めの言葉もいただいた。 エリの優しさが、よく表にでていた。武道で一番大切な柔らかさを持っているように思う。今後は走りこみで下半身の強化が求められそう。 タカノリは逆にスピードと足腰の安定が決め手となった優勝に思う。これからは日々の訓練の中で、ジャンプしたあとの着地に膝を柔らかくクッションさせるような柔軟さも兼ねてのびていってほしい。 アリサの線に対して正確な演技。顔面カバーがキッチリとなされており、優勝者として申し分の無い基本技だった。予選でミツルをやぶっての決勝進出だったが、ミツルの力強さには男らしさが見られ今後の期待は大である。 初階の部で予選敗退だったが、ケンタは腰の回転と安定さが目立った。本来、技の後の構えを得意とするケンタは次回の法形競技では実力を存分に発揮すると断言できる。 キコの動きは遠くからだったが、実際に見ていた。前後突きの回数を人一倍演技してみせた。そして、途中には笑顔も見られた。本番でゆとりを持って演技できる者ほどいざというとき頼りになるものはいない。彼女のような選手は一般になって、団体実戦のメンバーにでもなったときは中堅か、大将といった責任のあるポジションで活躍ができる。ケンタとキコは練習不足が大きい敗因だが、共に大きいスケールがうかがえる。 本来、ガッツポーズは武道家として、どうだろうか?などいわれるが、相手の強さ表したものだとみれば自然なものとも思える。実際にカズヤの扇状蹴り(せんじょうけり)はかなりの脅威であった。しかし、大きく早い運足をもってして競技したコウスケの前後のフットワークから放たれた連技が接戦で勝利をものにした。互いにますます高めあっていただきたい。 ミカの対戦相手は石巻のミホで、練習で何度か対戦している二人だった。予選では見られなかったミホの突進力にミカが防戦一方!どうなるのやら!?と思って見ていると、場外に押し出されて注意を宣告される。が、しかし、それからミカはまさに蝶のように舞って蜂のように刺す動きで、結果は旋体蹴りで優勝をつかんだ。 写真は『ゲンカク』という躰道独自のルールで、転技(バク転、バク宙)の能力を高めるためのもの。転技を使うとポイントが与えられる。ここでバク転を使ったシュンスケが『有効』をとって合わせての一本勝ちをおさめる瞬間だ。 シュンスケは昨年の雪辱を晴らす実戦優勝。しかし、法形競技で石巻のヒロキに敗れて準優勝に終わった。実戦のほうは上階離れした動きで他を圧倒。次回は日本代表の中村シュンスケのように華麗なボールさばきのような新技を披露していただきたい。 そして、選手と選手の間に副審の私の姿があります。 主役ミカ、一番キョウマ、二番サヤカ、三番ミツル、四番サードカズヤ、五番コウスケ。このメンバー。腕を骨折したアクシデントでメンバーから外れたカナコは大きな声で応援していたはず。 展開競技の内容については県大会まで、とっておくことにする。 渡波の子供達は私達指導者そして、父兄に大きなプレゼント送ってくれた。総合第二位という、輝かしいものだ。正直いって、できすぎの感はあったが、事実、やってくれたのでこの喜びを練習中にしばらく表したい。次の稽古からは大会のことなど忘れて一から始めろ──。などと、よく言われるが「それは無理というもの」と言いたい。だって、嬉しいものは嬉しいんだもん。 子供心を忘れた人間は一生、大人になれない。それは小さいころにいただいた感謝を忘れて、今の自分の能力が全て自分のものと勘違いしているから。 初心を忘れたら、アルバムを開いてそのへんのガキと、写真の自分との違いを考えよ。
2005年03月08日
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一人ひとりの頑張りがあってこそ手にしたものが総合で二位でした。 個人戦で成績をあげた選手も何人もいて、全員のことを書きたい気持ちがものすごく大きいのですけれども、渡波道場の選手が行った全員躰道に対し大きく喜んでいます。 私の正直な気持ちとしては総合第三位を狙えないだろうか、というふうに考えていました。ところが──。といった驚くべき結果になったことに敬意を表したいと思います。 写真などは後日、編集した後掲載したいと思います。 ただ一つ言いたいことがあります。それは大会後に雄勝町躰道協会のみなさまが私達に労いと感謝の気持ちをくださった反省会兼祝勝会でのことです。われらが副理事長の言葉でした。「技の完成度が多少低かろうが気合(かけごえ)を大きく出すことによって、技というものは素晴らしいものになるのだ。そう、気合は技の一部だ」『気合は技の一部だ』という言葉に心を打たれ、審判として参加したこの大会を私の中で新鮮に、そして素直な気持ちで締めくくることができました。 そのとき「心に染みてきたもの」はタトゥーのように一生のものになるのではないでしょうか。 そういった言葉を持っている人のそばにいることに幸せを感じます。 後日、大会結果等の内容を書き込みたいと思います。
2005年03月06日
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躰道学院というのは人の話を聴く、簡単にはこれだけである。 躰道の話ではなくても、躰道学院の中で、あの方に講話をしていただきましょう。となれば、躰道学院になる。 催し物だけが『躰道学院』なのではなくて、自分が「今日はいい話を聞いた」となれば、それも躰道学院になる。 今日、私が躰道学院を聴いた気分になったのは志摩範士と話しをしたときにであった。 その中で「七静八動九極」についての話をしていただいた。 これは「七」「八」「九」の三つの数字を最高十までのゲージや、メーターの調整というふうに私は書く。 まず、「七静」は何か。自分の動きを止めている状態(躰道では構えている状態)のときには七でそれを行い、残りの三はゆとりとして、見た目の静とは逆に心の中では絶えず動いている。「八動」とは、十ある力のうち二を残した動きで相手の動きに対応するというものである。静とは逆で、「八動」の場合では二の力を静にしておく。ということは、体が動いていても、心の中は冷静であって周囲を見るゆとりすらある。ということ。 制する。実際に相手を倒す瞬間、つまり相手に技をくりだすとき、「九極」九の力で相手を制する、残りの一は「八動」と同じで、静のゆとりを持っていなければならないというもの。例えばボクシングだったら、完全に決まったと確信して右ストレートを打ったとしても、相手は狙ってか、無意識かカウンターを併せてきた。そうした場合に十の力でくりだしたパンチを支える重心は後戻りや変化をすることは難しい。逆に一の力でも残しておいた場合にはなんらかの反応はできるのである。 言うのは簡単、やるのは難しい。たしかにそうではあるが、世の中には成功者や手本がごろごろしている。真似ない手はない。 現状でトップが見えているのだから目標に悩むことはない。 リストラされ、職もない。そりゃそうだ。けれども忙しくてどうにもならない人もいっぱいいる。五人分も百人分も仕事をしている人が。機械が。 それらに挑戦をせず、今ある事実を見ないと、どんどんおいて行かれるように思う。 事実を素直に受け入れなければ、天気を否定し、自然をも否定することになると思う。 思う思うって、思うのは自由で、動かないのも自由。 たとえ片足が無い人でも、不便と思わなければ、不自由ではない。自由だ。思うのは自由。
2005年03月05日
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本日、仕事中に若手お笑い芸人の話になった。私の好きなのは『ドランクドラゴン』。 先輩方々は『アンタッチャブル』だとか、『陣内智則』が好きという。あー、あと、『アンジャッシュ』『品川庄司』つぎつぎとでてくる。 私も追加で男二人の顔が浮かんでくる。アンジャッシュ……じゃなくて、スピードワゴンでもなく……。思い出せない。──ツッコミがポッチャリ系で、ボケのほうがやせていて女の役をしたりする。 作業終了時間になっても思い出せない。「教室コントとか、取調室コントをする二人組みってだれでしたっけ?」帰り支度で車に向かいながら先輩に聞いてみた。「おまえ、まだ考えていたの?……まてよ、取調室?見たことある。けっこうインパクトあるコントだったよな」「えっ?インパクト!?あー、インパルスだ」 これも実話であるが、躰道をやっていて、同じことがある。「おまえも何か習っていたよな。たしか、合気道だっけ?」である。本日、私ののどから『インパルス』がなかなか出てこなかったように、よその人の口からは躰道という言葉がでてこない。ここまでは同じかもしれない。 しかし、違いはある。『インパルス』のことは名前が出てこなかっただけで、頭の中で、映像は見えている。 躰道のことはどうだろう。「空手みたいなもの?」や、やっぱり「合気道?」と聞かれてしまって、以前、説明していても全くと言っていいほどイメージが湧かないらしい。 かもしれない。らしい。と、実に曖昧な言葉を並べているが、そうなのだろう。イメージが湧かないし、もちろん見たことがないから興味もさほどないからと思うが。 今回B&G大会ではコントさながらの展開競技を子供達に挑戦してもらうことになる。芸人はネタを考えて日々テレビに出演している。今回、ネタ(展開の順番)は私が半分くらい考えたものだが、若手躰士にも勢いだけではなく、個人の特性を存分に発揮できる実技を実践していただきたい。 自分達で周囲をあっといわせる展開競技を考えていってほしい。誰でも考えつく展開をではなく、独自のものを。たとえ、審判が点数をつけれなくてもいいと思う。そのときの勝ちよりも躰道の未来のために新しい展開競技を実技していってほしい。 創造進化の武道として、展開のルールに付け足してはどうだろうか、という考えが私にはある。それは極め技、または脇役が最後にだす技の中で、30秒中に最低一つ新しい技を使わねばならない。というもの。 このようなルールがあれば次回の展開競技の持ち技が全国的に多くなる。それが繰り返されることによって誰も見たことのない実技が発生するのでないかと思う。 武道という方向性を確認しつつ、現代のありかたという事実を素直に直視したうえで、展開競技制作を若手から名人までが一緒になって思想とアイディアをぶつけ合う。昔と今、時間を越えても事実はかわらない。そこに思い、つまり個人の思想を表現しあう。 いいネタを持っていても表現するのは恥ずかしい。体を動かすのは得意だが考えるのはどうも……。と思っている人が実に多いが、そんなことは嘘である。 言いたいことを言わない人は、陰で喋るか、内に溜めるだけで、ただ単に自分勝手なだけと思う。恥ずかしいから言いたくない。恥ずかしいを抜くと「言いたくない」だ。恋人同士の喧嘩みたいなセリフになる。言わないと何もわからない。裏で「私だって──思っていたのに」。 互いが表現しあうことは上下関係を通すことでは大変必要なことと思う。それは、上のものは自分の弟子が成長していることに喜びを持ち、その考えに師匠の考えが色濃く写っていれば、なおさらだからだ。 稽古の中で笑いがあることはどう思われるか分からないが、少なくとも切り替えの能力をつけるのには役立っているはずだ。 感情の表現を素直に行えないことには感情を制することは不可能と思う。けして我慢とは違うものだ。 本当の非常識を知るには本当の常識を知っていることがその条件であるからだ。 裏がどちらかを知らないと、もちろん表がどちらかも解らない。
2005年03月03日
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沖縄スタイルオンラインで検索するとでると思うのですが、『移住者のお話』(右端のほう)をクリックすると見れるはず。石巻出身……とか、書いてあるやつ。
2005年03月02日
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『うっちゃれ五所瓦』なかいま強 小学館から。 この五所瓦は、タイトルどおり相撲の漫画で、高校が舞台になっている。 一人しかいない部員の夢は県大会を団体戦で優勝すること。ところが団体戦は五人一組で出場するもの。 部員をかき集めなければならない。まずは団体の出場を目標に学校内を走り回る。 団体戦は三人が勝たなければならない。よって、中途半端なメンバーではどうにもならない。 五所瓦の体を張った臨時部員の勧誘から始まって──。 主人公、五所瓦の相撲を愛する気持ちが私達読者を吊り上げる。 物体のないものを愛する。 そこに相撲取りがいても、相撲というものではない。 そこに躰士がいても、躰道ではない。 バレリーナがいても、バレエではない。 ギターがあるだけでは、音楽にはならない。 動いてはじめて、そのものになる。 ないところに、ものを持ってくる。その人間の脳内には無いものを芽生えさせ、もってくる。『うっちゃれ五所瓦』何度読んでも涙は止まらない。仲間が恋しいとき、ぜひ読んで欲しい。 読んだ後には仲間の優しさ。一人でもできること。人に影響されてばかりいる人が、どういうふうに影響されていて、現実があるか知ることができると思う。
2005年03月02日
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新郎Hさん新婦AさんのWEDDING PARTYで行ったライブのもよう。 彼らのバンドは『ケトラック』!ロカビリのバンドだということ。正直に言って、私は音楽に深い関心はないのだが、音楽は好きだ。音痴だけど、歌うのも好きだし、聞くのも好き。 何年か前に行った天童よしみのコンサートもよかったが、『ケトラック』のとても「軽トラック」から由来がきているとは思えないほどの迫力は演奏直前からはとても想像ができなくて意表をつかれた気分でとてもよかった。。 ただ音量が大きくて、音が胸や体に響くのと、音が思いとして心に伝わってくるのは全く別のものだと感じた。 躰道の法形競技で「この子うまいなぁ」なんて言って見るときがある。上手か下手か。その判断をするのは実は躰道を知らない素人でも可能なのである。簡単に言えば、何の楽器をにぎったこともない素人がピアノの演奏を聴いて、見て、「うまい」なぁ。と感心するものである。なぜ、「うまい」だとか「プロや……」などというのか。 それは、自分(見て、聞いて「うまい」とか言った人)ができそうもない事をやっているからだと思う。逆に、へたくそな演奏や演武を見たとき聴いたときだったら「あれくらいなら自分でもできる、いやあれだったら私のほうが──」となるに決まっているからだ。 しかし、「うまい!上手!!」っていうのと、心を打つものとでは全く違う。法形競技だってそうだ。心を打ちつけてくるものと、そうではないものがある。 『ケトラック』の演奏と大興君のボーカルにはハートビートモータースで胸部を強く蹴りつけられた気分だ。蹴られたといっても、自分が認めたあるいは目標にしている相手に見事、蹴り上げられたのだったら悔しいけれど気持ちいいものでもある。 一つ上の先輩達がここまで魅せつけてくれた。自分が演武をして、はたしてこれほどまでに人を惹きつけることができるだろうか。少々自身がない。けれども、ここで新しい目標ができたと思えば、音楽で感動させられて、なお新たな光を射し込んできたことに気づかせてくれた先輩達に感謝をしたい。「ありがとうございました」 彼は豆腐屋さんとして昼間は働いていて、週に一回私の自宅まで商品を届けにきてくれる。(しそ豆腐は絶品である) ボーカル、ギター、ハーモニカ。全身を使って表現するその様は、まさしく躰道の動きである。いや、それはかってな私の思い込みだが、躰道を昔やっていた者の動きにはちがいなかった。 私の実戦スタイルは非常に殺伐としていて、とても穏やかではない。 彼の音楽スタイルは非常に淡々としている感じが最初はした。が、その思いはすぐに消えた。私はすぐに表に思いを出すタイプなのだが、彼は内に秘めている思い(音楽)を目を閉じるようにした歌い方で、目を通して相手に感じさせるのではなく、耳を通して胸を打ちにくるのだ。 これは一つ勉強になったことだ。実戦の際、いろいろな方法で相手を誘導し制すだけではなく、相手の好きなペースに入って誘導していく。だ。 悪いいいかたをすれば、万人が好物なものに毒を多く盛れば大量殺人ができる。 それと同じようにロカビリという音楽の中で、万人がノレるものがあった。それは激しい音楽の中でも、変に歌い手や、ベーシスト、ドラマー個人がキャラクターを変えないところにあると感じた。 啓司君も曲の合間に静かにセリフを入れていたが、そのセリフで無理に盛り上げようとせず、音楽のみで盛り上げてくれた。 とうの本人達は「盛り上げよう」とは考えていないのかもしれないが。ただ、啓司君が時折見せたニヤケじみたものには、少しの満足や向上心が見て取れた。 ニヤケた。などとは先輩に対してとても失礼な発言ではあるが、でも、私が見て悔しく思うほどにいい仲間と好きなことをやっているな。と思ったから、何度でも言わせていただきます。ニヤケ、ニヤケ、ニヤケ……。 ドラマーの寛さんの表情の変化は躰道で言う連動技のように変化していましたが、啓司君の場合はほとんどそれを変えず、私が好きなベーシストBOOWYの松井常松を思い出させてくれました。 小学生のころ、大会などではよく会話をしていた覚えがある啓司君とは、これまた失礼ですが想像がつかないほどビッとしていました。 ドラムラインという映画を最近見て、胸を打たれたシーンが何度もあったが、この日聴いた何曲かの間で私は、悔しい思いが後味として残った。それは、自分が躰道を目一杯やっているつもりであったが、まだまだ、仲間と共に一つになっていないな。ということにだ。 本当に信頼して、その人を好きで、もちろん愛されて、この人たちはやっているな。と感じて大きく嫉妬していた。 お祝いの場で、また一つ大きなことに気づかされました。『ケトラック』のみんな、ありがとう!! ライブがあるときは連絡くださいね。 本当の仲間と道を歩く。その手ににぎるものは、楽器だったり、拳(こぶし)だったり愛だったり。 そばに立つ byジョジョの奇妙な冒険
2005年03月01日
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