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本気で優勝する気でいましたが、根本的に必要な部分がかけていることに気がつきました。全てに気がついたわけではありません。ある女性の先輩の言葉が大きく私を変えてくれました。世界で一つだけの花、と同じように私だって例外ではないということに気がつきました。具体的にはよくわかりませんが、具体的に何をすべきかは考えています。法形競技をきっちりおこなって構えから極め技、ゲンタイまでを一からやり直す。 これまでの躰道人生で最高の大会がサクラ大会に始まって、県大会、魚大会、社会人大会、といろいろな意味でありました。その中にUSA大会もありました。一年で最優秀選手賞を二度もらったこと、初めてがその年に二度目になるとはおもいませんでしたが、いただいた事実はあります。そしてこの全日本大会で、団体実戦の成績は二回戦まで、個人は去年と同じベスト8まででした。しかし、己錬館の館長との約束を果たすことができた。もう一つの、一方的な約束というか夢があって黒いネコ科の木の上で獲物を待つ動物と全日本の決勝を戦うことです。それは次に持ち越しです。しかし、こんなことを言ってもあとの祭り。 何が最高だったかというと、シュンスケの実戦二位と雄勝の二人が入賞したこと、片方は実戦と法形の二種目制覇。もう一人の子は一年前までは躰道五条訓の唱和も恥ずかしがっていた子でした。周囲で休んでいても必ずなにか練習をしていたのが結果に結びついていた。その心が伝わったのだと思いました。腰を落とせ!など言われなかったのは本当に勝つ気持ち、一生懸命やりとげる気持ちが大きかったのだと思いました。シュンスケは受験生で稽古にはめったにこなかったけど、きたときの集中力がものをいったように思います。試合以外にもさまざまな行事に参加し、我々や父兄の方々と一緒に苦労してきた一人だから人の気持ちがわかる男になってきた。これは勝ちより大きかった。情けない話で、私自身、彼の二位に満足していた。よくやった。よくやった。と。入賞はできなかったものの、小学生三人がでました。試合はよくがんばりました。けれども、練習中の基本技のときの構えに腰を上げたりと、精神面にある弱さが敗因ではないかと思いました。法形競技、実戦競技においても、そのときの上手さも必要ですが、重要とは思いません。やはり重要なのは普段の稽古から腰をしっかりおとす。ぶったおれるまで落とす。突き蹴りは下っ腹(丹田)に気を入れて空気が泣くほど本気で行う。それをしていかないとやはり本当の勝ちにはつながらないです。逆に言えば、今言ったことを人の目を気にせず習慣の如くやっていけば、必ず勝ちます。必ず。ただし、周囲にそれ以上やっているものがいれば、そのまた上をいかなければならないが。これは私たちにもいえる大事なことです。 なんといっても女子の団体法形の優勝は格別でした。これまで自分が手にした優勝よりもうれしかった。自分以外のことでここまで素直に喜べたのは初めてで、死ぬまで忘れないことでしょう。二年前からバクテンに苦しんだ子、仕事、子育て、進学で稽古に通えない毎日、ギリギリまで手技など注意点の改善に苦しむ子、本当に少ない稽古日数でよくやってくれました。内容をしっているだけにドラマは大きくて、周囲の応援、メンバー中に姉妹を持つ兄が応援をしていて実技中の長い呼吸の際に大きくホッと胸をなでおろしたときがあった。私はそれをみて涙があふれてきた。彼女たちを支え応援している、信じているみんなは私なんかよりもっと胸を熱くしているにちがいない。いろいろな意味のある私の思いだった。最年長の選手は私の先輩で、過去に団法を組んだこともある。あのときは三位だった。その一人があの中にいて頑張ったということも喜びが大きい。 あと一つ、目に見える実力アップに感動した。それは一緒に練士の称号を取得した選手だ。女子団法のメンバーの一人でもある。まるで相手が見えていた。コートの中で相手の選手を操っていたようにもみえた。私よりも練習量が少なかっただろうと思う。それでも、あの実戦。まだ、選手として活躍してほしいと思う。これからもっともっと強くなるし、大きくなる気がするので。 全日本の優勝はできなかったが、さかな大会の優勝はできた今年。先生への恩返しは自分ひとりでやってやろうと考えていた自分が恥ずかしい。そして情けない。目指すは総合優勝だ。宮城の底上げなくして、各々の優勝はない。たしかに、あの方のいうとおり自分の道場からしっかりしていこうと思う。 応援してくださったみなさま、ありがとうございました。来年初戦はサクラ祭り大会。まだまだがんばりますからもっともっと応援してください。子供たちはB&G大会。審判としても公平に心に刀を持って望みたいと思います。まだまだやりまっせー。
2005年11月29日
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道着と帯とプロテクター。ビデオキャメラに三脚。これだけもって行けばとりあえずなんとかなる。 花見の時期ならば、だれもが満開を期待する。 おいしい魚が食べたいのであれば旬の時期に合わせて食材を選択する。 好きなミュージシャンがいるのであればライブで心を一つにしたい。 このとき我々は欲するほうであって、欲せさせるほうではない。人に躍動を与え心を躍らせる。ときには凍りつかせる。そんな瞬間を期待して人は歩く。形のない印象や雰囲気だけで試合終了後には畳が撤去される。それでもなお人の心には映像が残され、刺激だったり後悔だったりが流れる。 躰道の象徴をいくつかあげよ、といったとき自分は何だ。この時期に蝶や虻は舞ってこないかもしれない。それでもどこかにきていて、そこから彫りの深い目の玉がみている。こっちを見てもらわないことには何も始まらない。最後まで見ると決め付けさせることができれば幸福だし、一歩前に行ける気がする。 優勝するぞ。
2005年11月25日
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音楽を聴いて、歌を歌って、テレビのチャンネルを変えて。コタツに足をつっこんで。それでも人生は流れて、時には不安に駆られ、ダイエットにはしったり病院へ駆け込んだり。「やせたい」には理由があるのだろうか。近頃、鏡の前に立つと私の頬がこけてきて、それに髭と静電気に引っ張られた長髪があればうさんくさい霊媒師さながらである。お菓子は食うし、スポーツドリンクは飲む。ぐびぐびと。でファミマのフライドチキンにミニストップのフライドポテト。食っても変わらなくコケている。 原因は食い物、過剰な運動などではない気がする。 顔の変化は人生の飛躍や下落の兆候とみる。何らかの変化がみれると、それはバナナの皮をもったいぶっておろすように時間が事実を表すのだと思う。 さきほど、自分の恩師が管理をするページ、「仙台の行政書士澤田」を(同じ楽天のブログ)見て、考えることがあった。 先生の一言だから勝手に使わせてもらう。『大人には時に子供に戻る権利』 この『』の一行は私のモットーの一つ。 初心を忘れないこと、発想を発酵させる能力よりも素直な第一印象を大事にできる心。よけいな意識のない遊び心。 躰道の稽古中も無意識に行ってしまっている自分と、子供に教えてもらって反省する部分とがある。悲しくも思うが、『』内の『時に』という一言で救われた気分になった。 そして、『戻る』。戻るは「力」を表していると判断すると、「意識してあのころに戻る」でもいいだ。イマワノ清志朗が詩に残した(まだ生きている。はず)曲がある、題は忘れたが、ドラマ【やっぱり猫が好き】の主題歌だ。 「おもいだっせばぁー」て曲。
2005年11月23日
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武道の基本技(きほんぎ)を料理界の刃物の手入れだとすると、料理を作り続ける限り必要不可欠の作業だといえる。だれも錆びた包丁でこしらえた刺身の盛り合わせを注文したりはしない。 一般のお客や、会場に足を運んでくれた選手の親類や友人は義理で錆びた包丁で造りだされたまずい料理を食うほど苦痛なものはない。手入れをする気持ちがあってこそ他人においしいものを食べさせたいという気持ちが湧いてくるというものだ。 うまい、まずいを意識する前に道具と腕の磨きを意識する必要がある。「あのときのあの味」をだそうと頑張るよりも、「もっと」と砥石(といし)に向かうべきと思う。 義務的に行わされている基本技の退屈さを、想像し創造を手がける楽しさが常に頭の中で越してさえいれば誰の暴言も甘い言葉も、大自然の中の屁である。まるで気にならない。(比喩に説明をいれるとはなんたることか)
2005年11月19日
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武道の基本技(きほんぎ)を料理界の刃物の手入れだとすると、料理を作り続ける限り必要不可欠の作業だといえる。だれも錆びた包丁でこしらえた刺身の盛り合わせを注文したりはしない。 一般のお客や、会場に足を運んでくれた選手の親類や友人は義理で錆びた包丁で造りだされたまずい料理を食うほど苦痛なものはない。手入れをする気持ちがあってこそ他人においしいものを食べさせたいという気持ちが湧いてくるというものだ。 うまい、まずいを意識する前に道具と腕の磨きを意識する必要がある。「あのときのあの味」をだそうと頑張るよりも、「もっと」と砥石(といし)に向かうべきと思う。 義務的に行わされている基本技の退屈さを、想像し創造を手がける楽しさが常に頭の中で越してさえいれば誰の暴言も甘い言葉も、大自然の中の屁である。まるで気にならない。(比喩に説明をいれるとはなんたることか)
2005年11月19日
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【磁気】 砂鉄の運命というか力というか。その辺の砂や土の中には一粒が能力を持って潜んでいる。 ちょっとした広場の片隅で磁石を持った少年がかがみこみ、地面をなぞっている。磁石を持ったその手は、突風が吹けばホコリにかわる土の上スレスレでだ。磁石の先には砂鉄があごひげのうっとおしい様子でへばりついていた。重力に逆らっている。 【選択】 寿司を食う、と一言でいっても選択肢は二つになる。回転寿司か非回転寿司屋かだ。子供がうるさくて、や資金の面でという場合は回転寿司になり、くつろいで上物の脂を味わいたいときはそれなりの雰囲気を求めて店を選ぶ。どちら選ぶにしろタバコの銘柄と同じく慣れてしまったほうにいくようになる。 上の【磁気】【選択】には共通点がある。【磁気】では一つの地面であってもただただ重力にまかせて居座る物質と、磁力を持つ砂鉄とがある。一見して地面としてしか捉えないでしまいがちだが人間界にも同じようなことがある。それは同じ人間として集合したときにわかる。一つの物事を成し遂げると考えたとき、そのためには生き方はこうである、あらねばならぬ。というふうに考える。すると、どんな物を目指した集団であっても共通して分けられるものは妥協する側としない側である。わずかなりとも磁力を含んだ鉱石であっても重力に勝てないものはどれだけの電磁石を用意したとしても引きつけることは不可能だ。だからといってその鉱石を責めても仕方のないことだ。この仕方のないは妥協ではなく事実だ。そのものの存在が磁石とは関われないほど他所に性質をもっているからだ。ところが人間のように「私は磁石さんのことが好き」と鉱石が磁石を求めるならば鉱石は砕かれ、いや、砕いていただいて、砂鉄となり、ここでようやく磁石に受け入れられるのである。鉱石くんは自分の性質を変えて磁石と接触することができた。人間でもこれは同じで、求めたほうは求められた側に妥協を求めてはならない。いや、それで成立するならばどうぞその程度でがんばってほしい。妥協というものをしない人は何かに目標を置いているから、まずは自分自身の人間形成をすることを主として考え行動する。その中でも人は寄ってくる。よってきてもその目標にたどり着くまでは旅と同じであるから余計な荷物は必要ない。しかし、同じ道を歩き目指す仲間なら歓迎し、それ以上に頼りになるものはない。 まず、人との接触を望む場合はその人間を知らねばならぬ。その人の本性、本質を知らねばならぬ。登山や海外旅行と同じでその山の高さ気候、それと本質を把握しないと行く気にはなれない。ガイドさんでもいれば別だが。ただし、人が人を求めるときや、何かの集合体への進入を望む場合は破壊を目的とした場合以外では、そちらの都合にものごとを合わせなくてはならない。大自然はこれまでそうしてきたのだし、これからもそうだと断言できる。 ただし、ある世界に潜むイルミナティのようにその団体の一員になりすまし、実はその中の一角で団体の本質に逆らうといったような別の思想を抱いている場合は断言していても崩される恐れはある。それを破壊という。知らぬ間に破壊の方向に進んでいる場合も少なくはない。それでも、「知らぬま」を打開し気づく方法はある。「この人のいうことは妥協だ。嘘つきだ。」それを自分のいいようにだけ解釈しないで本質の部分をみることだ。見るだけで、その中での居場所を気にしてしまっていたら後から言い訳がでるだけだ。「~思ってはいたんだけど」って。 【選択】はどういうことか、寿司屋のどちらかが良くてもう一方が悪いと言いたいのではない。それは、自分のわがままで金もないのに高級寿司を食えば借金を余儀なくされるか、口の中のシャリをもごもごさせながら街中の暗闇をもとめて走ることになるだけだ。うるさい子供をつれて静かな雰囲気をぶち壊しても注意一つしない笑ってミニカーを手渡すのはいかがなものか、となる。味がどうこうというより、磁力と同じく引きつけあいもしていないのにその場所を求めるほうが無理やりテープや接着剤を用いてよっていってもその磁石を汚すだけだ。姫路城に全部サッシとエアコンを完備させたらどうだろう。 自分のことが認められない場合は自分が妥協家か嘘つきか身勝手か……、言い出したらきりがないが、自分がもう一人いたらそいつと団体行動をとれるかと考えてほしい。妥協家の場合は丸く収まるだろう。ただし、その影では悪口は絶えない。俗にいう陰口が。 根本的に自分の考え方より彼の彼女の考えのほうがより目標に向かっていると気づいても、そこまでする必要はないだろう。と思ってしまう人がいるとする。だけど、自分もいちおう近づきたい、とも思っている。 いちおう、や、その程度の人がその世界で得ることはなにもない。ただし考え方が変わればすぐにでも人に認められるようになる。本質が変わらない限り、本質が違う限り、根本的なものが変わらないかぎりは。 大根の種をまいて、人参を求める。そんなことをしてはだめだ。「人参がほしい!」と頑張るのではなく、そのためには種を手に入れなくてはならないのだな。と考えを変える。ところが、自分が借りた畑の土は大根を植えるのは適しているが人参には適さない。そこで、勝手に土を入れ替えるわけにはいかない。だってほかの人のもの場所なんだもの。そこに合うものを選択せねばならない。どーしても人参っ!と頑張るのであれば、場所を変える以外に方法はない。
2005年11月16日
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宗教と科学は水と油とされ融合はないとされたが、セルンの科学者はそれをくつがえした。そんなところから始まる物語、「天使と悪魔」ダン・ブラウン著。 躰道の魅力の一つ。それは21世紀の武道であること。弁護士がお巡りさんよりも先に現れて、法律の隙間をうまく使う工夫がなされ、ゴキブリやねずみを退治しきれないのと同じく倍々に増えていく。すると、安全な弁護士と詐欺師まがいの弁護士というふうに種類がでてくるわけである。こうなると誰を信用していいのかわからなくなってくる。昔の仲間だから信用できる、というのもある。仲間からの紹介。すると、紹介したほうにも責任が大きくなる。信頼を売ることや、紹介することは、逆に疑うことができないと信用には至らない。躰道でいう裏と表、陰と陽。 ところが表裏一体という言葉もある。つまり、表も裏も人間個人の考え方、育ってきた環境によって裏のものが表にも見えてしまう。明るいと暗いではどちらが裏で表はどちらだろうか?普通は明るいが表に見えてしまうのではないだろうか。ところが詐欺師はどうだろう。表の部分を明るく良く装って近づいてくるのではなかろうか。逆にその人間の奥深くに本当のものが見えることも少なくはない。 長くつきあって、初めてわかることもある。いや、それは違う。その人の本質をそれまで見抜けなかっただけだ。 その人の表は隠しておいて、裏を表のように見せている場合が多い。二十一世紀からだけではなくその昔からもそうなのだが、津波のように押し寄せる文化と宗教、それにめまぐるしい科学の発展は押さえつけることができない。その波に乗るのが躰道である。 顔の中のしみのように存在意義がわからないものが人として生活するものがいる。自分の居場所の確保だけを考え本来の武道、躰道の精神が甘い生活に溶けている人間もいる。多い。 極め技。 北極、南極の武器、はなんだ。その冷気による限りない純粋。それが融けはじめている事実を認めなければならない。しかし、その昔、あの場にあの温度があったからこそ生まれた技、業、術があったことを忘れてはならない。だからこそ沖縄が産んだ春の模範が美しく感じれる。 最高師範が目指した境地を忘れ、ただ楽しく。かわいそうな者をかわいそうと同情し、自分を優しい人と勘違いする。それでは一手目を指すことすらできない。 特別な間合いは特別な人が身につけるものではない。感覚をただ純粋にすれば気づいたときには身にまとっている。するとブッダのようにモナリザのように神がかりの懐になる。技を目指しているうちが華だ。
2005年11月09日
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