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自然歩道と富士浅間神社「花の都公園」を出て帰りのバスにはまだ時間があるのでバスで「富士駅」に向かいタクシーで富士浅間神社を訪ねようと思った。(富士急電鉄は昨年から富士吉田駅を富士駅に改名している。まだ多くの観光案内やパンフレットの類は吉田駅と記されており、実に紛らわしい)。我々しか乗っていない山中湖循環バス「ふじっ湖号」の車掌さんに聞くと途中で降りて遊歩道を歩けば浅間神社に行けると教えてくれた。降り立った道は下のような昔よくあった懐かしい田舎の風景。これは富士の湧水を引いた農業用水路である。そしてこの川渕の歩道は東京高尾の明治の森と大阪蓑生市の明治の森を結ぶ「東海自然歩道」の一部だと言う。随分昔明治100年を記念して開かれたこの歩道を歩くことが流行った。我が家の次男が大学を卒業する時、テントを背負って記念に歩くといって出て行った。私は重荷を負ってのアスファルト道は膝に来るので電車で出かけて自然歩道だけを歩け、と進言したが彼は自分の家から歩くと言い張り、途中で膝が痛み動けなくなってキャンプ場で数日を過ごし電車で帰宅した。携帯電話などなかった時代の話である。歩道は時に森を時に畑を、時に民家や社を縫って進んでいる。神社に近くなると驚いたことにこんな高地に水田があった。狭い土地とて曲がった手植えの苗の列である。人間はともかく神社に祀るのは地元の水田の米なのだろう。道端に一本三つ葉つつじが咲いている。「野中の薔薇」ではないが歌に詠んで様になると思う、残念ながら詩心が欠如している。イタドリガ群生している。かってはスカンポと称し、塩をつけてかじったこともある。シュウ酸一杯のこれを今食べると腎臓結石(シュウ酸カルシウム)の素を食べることになる。あれは生きた心地がしないくらい痛むことを私は経験済みである。遠々と伸びる杉並木の参道の向うは富士浅間神社・北口本宮である。富士山山開きや重要文化財・富士の火祭りはここのお祭りで富士山吉田口登山道はこの境内から始まる。山開きに備えてか大鳥居は修理中のため横手からの入場参拝となる。拝殿の後ろに位置する本殿はガラスかプラスチックの透明壁で保護されていてよくは見えない。本殿横の赤い幟の右手、下の写真で中央奥の鳥居が富士登山吉田口の入口となっている。境内には何本かの巨杉があり、いずれも立派な注連縄がかけられている。中でも2本の杉が一体化した夫婦杉は御神木としての信仰が厚い。こういった自然や自然のなした偉業に対して霊・神を宿らせ、それを神体として崇め信仰する。キリスト教世界の一神教に対して八百万の神を崇める日本の風土はこよなく愛おしいものである。しかしこれがまた外国との価値観の違いを生む発端となり、国際摩擦の一因となっていることも事実である。
2013.05.31
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花の都公園・多肉植物「花の都公園」の温室には多肉植物が豊富にディスプレイされている。一般に多肉植物は色が冴えないが砂漠では青々(緑々)として光合成に適した葉っぱよりもいかにして日光を吸収せず水分を失わない組織が重要なのであろう。緑が気持ちいいなどと言うのは人間の身勝手である。触らなければ石ころと見分けがつかないが「絶対触るな」の掲示がある。「コノフィツム」の表示がある下の植物良く見ると中央部に小さな花があり、実もなるようである。サボテンの実で思い出したが何年か前十字軍の島マルタ島に行った時、街のグローサリーでサボテンの実を売っていた。買い求め、イチジクかザクロに見えたので右手にナイフを持ち左手に実を持った。それからが大変で味も覚えていない位の難儀をした。よく見ると実には無数の目に見えない位の棘が生えており、簡単に掌に突き刺さって何かに触るとひどく傷む。セロテープではがしたり、あらゆる努力をしたが2,3日は思わぬ時にチクリと傷んだ記憶がよみがえる。虫や鳥たちは良く知っていて口にしないのだろう。土地の人は昔はよく食べたが今は食べないよ、と言っていた。それでも街で売っていると言うことは今でもファンがいるのだろう.魅力の無い多肉植物もディスプレイの仕方によってはローマ皇帝の月桂樹の冠に見えなくもない。魅力の無い多肉埴物の葉っぱも細工次第では見ごたえがある。下の三種はベンケイソウの一種でいずれも葉端にフリルがあり全体が教会のバラ窓のようなロゼットようになりなんとなく品格が漂う。 ウエディングドレス いずれも極めれば底が深いようである。
2013.05.30
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花の都公園温室の花「花の都公園」の有料ゾーンに入ったのにクマガイソウだけでは時間もお金ももったいないので温室を見ることにした。入口にあって派手派手なのはクジャクサボテンで大きくて華やかだが自宅栽培では葉っぱが惨めになりこの様な美しい姿にはならない。次はマンゴーの花だそうだ、私はマンゴーとパパイヤの見分けがつかない熱帯フルーツ無知である。でも幹から噴き出て咲くマンゴーの花は美しい。大きすぎて可愛さはないが大きい花はオーストラリア原産のキングプロティア マディバ。小さな白い花はクリスマスエリカ(スズランエリカ)。よく見るエリカ(ヒース・ヘザー)は紫であるが、これは白花でスズランのような形。温室で栽培する意味が理解できないが。次のものはヘリオトロープ、「香水草」フランスでは「恋の花」とも呼ばれるそうで昔から香水原料。ヘリオトロープはギリシャ語では「太陽を向く」だそうだ。昨年から我が家にも有る時計草、日本では雌蕊を時針、分針、秒針に見立てるが、英語ではpassion flower でキリストの受難を象徴する花と見立てる。この場合は緑の雄蕊が頭、手、足を表わす。実は近縁種にパッションフルーツがあり、ここの温室にもあったがまだ花が無かった。沖縄に行った時生ジュースを飲んだことがある。私が子供の頃実家に巨大なソテツの木があった。幹は自分では支えきれず、二股の支えで生きているニ百年以上の古木であったが何年かに一度下と同じ花を咲かせ、堅い実をならせた。蘇鉄と言う位で鉄くずを肥料にしていたが太平洋戦争中、鉄不足の時代に鉄を埋めるのに躊躇した父が大木を枯らしてしまったのは惜しいことをした。たいして青くも無いのに植物園ではよく「青いバラ」と表示される花。ここでもやっていた。「青いケシを求めて」 と言うテレビの長編ドキュメンタリー番組を見たことがあるが、テレビで見たヒマラヤ高地のは確かに青かった気がする。だが昨年五龍高山植物園で見たのも ”青??”であった。ここのも”お前もか!”である。バラやテューリップと同じく遺伝子組み換えなのかもしれない。青いレーザー光を探して世界中の技術者が血眼になり、日本人の中村さんが発明して一挙に広がり、以後クリスマスの電飾まで青が流行ったがそれとは意味が違う気がする。発光素子の青はRGB(赤・緑・青)フルカラ―発色のために渇望されていたわけである。
2013.05.29
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クマガイソウ群落 富士吉田にある「花の都公園」に入場したのは今を盛りのクマガイソウを見学する園内ツアーがあると聞いたからだ。個人ではそのゾーンには立ち入れないとあってナチュラリストのガイドで見物した。クマガイソウはいつもアツモリソウと対で語られる。歌舞伎・謡曲で語られる「敦盛」はこうだ。平家一門の平敦盛は17歳で源平一の谷の合戦に出陣するも平氏は大敗。船に逃れようとした時、熊谷直実に「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止められ取って返す。直実は敦盛を馬から組み落とし顔を見ると我が子と同じ年頃の若者。直実はとっさに助けようと名を問うが、「名乗らなくとも人に聞け、早く首を取れ」、直実は涙ながらに若者を討つ。屋島に逃れた敦盛の父経盛に直実から書状と敦盛の笛が送り届けられ、、経盛は返礼の書を認める。後に直実は出家して生涯かけて敦盛を弔ったと言う物語。武士は戦場に出る戦装束として背中に「母衣(ほろ)」というものを着した。背中に背負う嚢状のもので馬上で駆けると膨らんで風船のようになり、それで背面からの流れ矢を防いだと言うが、効果は??だ。そしてアツモリソウとクマガイソウはそれぞれ敦盛と熊谷直実の母衣に似ているところからの命名とか。花の色はアツモリソウがやや濃い紫のほかは同形である。しかしその葉っぱは前者は細長く、後者は丸い。アツモリソウクマガイソウ一般の園地とは別に深い林に覆われた一角に導かれた、そこには見事なクマガイソウの群落があった。一般にはたち入り禁止で森全体にナイロンロープが張られていてそのロープには電線が捩じこまれていて夜間はシカなどから野草の群落を守っているとのことである。ともあれ見事な群落である。実を言うと私は一度中国でアツモリソウを見たことがあるが、クマガイソウを見るのは初めてである。下にその蕾からガクが弾けて母衣に似た花びらが現れるところと戦場で馬を駆り膨らんだ母衣のような、或いは飾り提灯のような形の花は丸い葉っぱは羽を広げて求愛行動の鳥の姿に見えた。面白いのは開花する時は思い思いの方角に向いているのに群れて開花したものは皆同じ方向を向いている。現場で気がつけば確かめたが今となってはどちらを向いているのか分からない。前記したようにこの森は動物から守られているので一種の野草天国でクマガイソウの他にも珍しいものが目に付いた。良い写真が無くて残念だが下の写真のようなマムシ草が沢山咲いていた。実際のマムシよりはかなり大型でむしろコブラの様であった。小さな白花はユキザサ(雪笹)で小さな白い花が雪の結晶に見えるとか。きっととてつもなく大きくなるのだろうがオシダの赤ちゃんはまだ今のところ可愛い盛りである。下の写真ははっきりしないがハナイカダ(花筏で)葉っぱの中央部にある小さなものは花で実もここになる。葉中花はナギイカダもそうであるが「なぎ筏」の葉や白花は小さくて硬く葉先には鋭い刺がある。これらの「イカダ」という言葉は花を「筏乗り」の人間に見立てたのであろう。
2013.05.28
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富士山の溶岩「花の都公園」には富士山の溶岩に関する資料館がある。富士山周辺には気をつけてみれば噴火の痕跡が多く見られる。誰でもすぐ気がつくのは最も新しい噴火口の宝永山であろう、しかしその他にもお椀を伏せたような地形が随所に見られる。一言で富士の噴火というけれどおよそ7千年前の小御岳噴火、1千年前の古富士噴火、そして約1万年前の新富士噴火が大きな山を作る噴火であった。Wikipediaの図をお借りすると下のようになる。古富士の山容は新富士の山容に隠れて見えないが、小御岳山は下の写真で手前にある山でその頂上には小御岳神社がある。ここは富士スバルラインの終点で実際にそこに立つと富士山に居ながらちょっと広い台地が広がっており賑やかな場所で富士山からちょっと突き出した尾根の感じである。(白いマークはガラスの反射)下の写真は三ツ峠からの富士であるが左肩の小突起が宝永山、右の小突起が小御岳である。下の写真は御殿場方向からの写真であろう、中央右寄りの窪みは宝永火口、その右の峰は宝永山である。この写真は丁度東京の我が家の反対方向からのものである。我が家からはその峰の後ろ側が見えるだけである。江戸時代中期の噴火であるからごく最近のものと言え、富士山が活火山であることを如実に示している。資料館には富士山の噴火で生成した溶岩の標品が多く展示されている。溶岩に取り込まれて炭化した木質からは色々な形状の溶岩石がある。 木目形溶岩樹形 木目形溶岩樹形 虫状溶岩また溶岩の固まり方によっても色々な表面模様が出現する。気泡を含んだまま固化したものや、大きな樹木を包む形で固化した溶岩から木質が無くなり洞穴状になった物も見事である。赤い溶岩と黒い溶岩の違いによって木材の残り方に違いがあるようであるが溶岩の成分なのか温度なのか、溶岩流なのか火砕流なのかなどによって違いが出るのだろう。資料館の外にも溶岩はごろごろしていて下の溶岩石など人によってライオンにも見え、プードルにも見えるだろう。
2013.05.27
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東京ホタル隅田川で東京ホタルと言う催しがあることを都の広報誌で知った。最も身近な人から切符を手配して同道しろとの下命である。人込みは得意としないrakutenも今までお世話になって来た以上拒否する権利はない。切符はインターネットで販売すると言う。公告されて間もないのに座席付きでホタル(?)放流券付きの切符は無く、隅田公園の土手から河川敷に降りてホタル灯を放流する権利付きチケットをゲットした。インターネットで予約し、予約バーコードを印刷して近くのコンビニで納金してチケットを印刷して貰うと言う若い人にはごく日常的な方式であるが実を言うと私には初体験であった。切符にはしっかりセブンイレブンのマークが付いている。入場の列は延々と続き約一時間を要して入場できた。見るだけならこんな苦労をしなくても一段上の公園からで充分であった。それなら同じ光景をすぐ見ることが出来た。今朝の新聞によると何と2時間余りのショウに27万人以上の人が来場したと言う。そして何と10万個の青いLED球が隅田川に浮かんだ。観客が放流したのも多いが大部分は主催者側が船から放流したもので川幅いっぱいに文字通り無数のホタルが浮かんだようである。しかし始めて見る夜間のスカイツリーは川面に映って綺麗に見えた。あの世の土産話に一度登ってみたいと念じているが並ぶのが嫌なrakutenにその機会が訪れるだろうか。たくさんの屋形船が出ている。 吾妻橋からのスカイツリーホタル灯の放流は浅草駅裏の吾妻橋から言問橋を経て桜橋(X橋)の間で行われる。この夜は言問橋も明るく電飾されていて、在原業平が生きていたら何と詠むだろうか。 言問橋それにしても無数のホタル灯りの揺れる中、屋形舟で一献は乙なこと。この夜はスカイツリーもホタル色。さてやっとあり付いたホタル正体はこれ、直径約十センチの白いボール。裏には黒い太陽電池パネルが付いているがスイッチが無い。私を含めてどうやって点灯するのか分からない人が多く係から何の説明も無い。どうやらこれもインターネットで指示があるらしい。若いカップルに聞くと底を濡らすと言うのだ、なるほど掌にティッシュペーパーを敷き御茶を垂らしてボールを乗っけるとこの通り明るく光る、離すと消えるが隅田川に投げ込むと底面が重く必ず発光部が上になるように設計されている。上のケースのようにしまう時底部を上にしておけば自然に充電されると言うものでこれはなかなかすぐれものである。盛んに持ち帰らないでくださいとアナウンスされていたが、それはそうだろう多分この夏からは全国の川で使われるのだろう。いやいやなかなかのハイテック製品。掌の上の載せると無数の星雲の中を行くお月様みたいである。ちょっとタワーが傾いているがあえて無修正が良い。向こう側のタワーの立つ惑星が自転しているみたいである。などと1人悦に入る。手首のケミカルライトは有料入場者にのみ配布される。ショウタイムの終り頃になるとタワーの照明が消え、ホタル色から御休み色に衣替え、LED照明でいろいろ変化できるのがこの塔の売りものの一つとか。ショウタイムのフィナーレとして下流の方から秋田の竿灯の様なものを載せた船がやって来た。暫くしてして横向きになるとそれは2020の文字船。そして2020は東京でオリンピックを!!とスピーカーの声、どうも猪瀬知事は人気の無い東京オリンピックの機運を盛り上げるための一つの手段にしたみたいだ。私的には一つの都市がアジア・ヨーロッパに跨るイスタンブールで開くことこそオリンピック精神に叶うと思っているので複雑な心境である。猪瀬さんはイスラム圏は喧嘩ばかりしていると言うが、だからこそ仲直りのきっかけを与えるべきと思う。100年以上にわたる日本とトルコの飛びきりの友好関係から言ってもぜひそうしてあげたい。そしてこの10万個のホタル灯を貸し出してボスポラス海峡やマルマラ海を飾れれば素晴らしいと思う。十万個のホタル灯がアジアとヨーロッパを行ったり来たりしながら流れて行く景色は壮大なものだろう。
2013.05.26
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花の都公園富士の裾野にある山中湖村は火山灰台地にありながらも湧水のお陰で水は豊富である。そうは言ってもすかすかの溶岩台地は低温の雪解け水と合わせて稲作には向かないだろう。切り花栽培が盛んな様である。そんな一帯に「花の都公園」と称する御花畑に囲まれた公園がある。チューリップが終わったばかりで寂しい時期ではあるがこの時期しか見られない花もあると言うことで有料ゾーンに入った。遅い新緑に囲まれた園内は人影も少なく気持ちの良い空間であった。傾斜地を流れる渓流には3連式水車が廻っていたり、手動の水遊び機があって運河の水門実験が出来たり水鉄砲が有ったり、混んでる時には子供達のもので、とても昔の子供まで回ってこないが今回は遊び放題であった。 水車の上流には大規模な人工滝があり、水源は滝の上の人工溶岩流 下を流れているらしく目には見えないがびっしり生えた苔がそこには 常に水が流れていることを示している。 突如その溶岩流の上に白波をたてて大量の水が流れてきた。すると滝の水量が段々増し、見事な瀑布が出現した。富士山の伏流水瀑布としては富士宮の白糸の滝が有名で、勿論天然の瀑布には風情があるがここのそれは人工物だけに整然としている。滝と一言で言って那智の滝・華厳の滝と日光の龍頭の瀧、ナイアガラの滝では全く様相が違う。一気に落下する滝(Water Fall)、何十段にも落ちる滝或いは急流(Cascade)、白い布を広げた様な瀑布とあるがここのは小規模な瀑布と言えるだろう。部分部分の岩と水のぶつかる模様が見る人の心を落ち着かせてくれる。それにしても那智の滝も「滝」で、龍頭の滝も「滝」と言うのは日本語は自然の表現法が豊かであると自慢してしている人達はどう言い訳するのであろうか。要するに生活に直結する事象には多様な表現が必要なだけで特に日本語が優れているとは言い切れない気がする。よく日本語は気象や緑色の表現が豊かと言うが食用肉の表現には外来語をそのまま受け入れているにすぎない。タンポポにも多くの種類があるが私は「タンポポ」と「西洋タンポポ」しか知らないし、その区別も怪しいものである。この公園の花畑の農道は今が盛りや綿帽子のタンポポが群生している。手にとっては息を吹きかけて種を飛ばして喜んだのははるか昔のことだが、ここのタンポポも春風が吹くたびに白い羽毛を飛ばして丸裸の花徑を製造していた。
2013.05.25
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山中湖風景山中湖へは新宿から山中湖旭ケ丘行きの高速バスが頻発しており、電車で行くよりもはるかに便利である。しかし今回は忍野八海へ寄り道する数少ないバスを掴まえた。前日電話予約しておいたが正解で当日は満員であった。丁度今フジザクラ祭と言うのが行われていたことを知った。正式にはマメサクラと言うそうであるが春の終わりを告げる桜だとか。山中湖に近ずくと山の頂上に白亜の城に見える「ホテルマウント富士」がどこからでも望める。自分で運転していた頃何度かランチに訪れたことがあるが山中湖を真下にして富士山と対峙する景色は抜群。「冬期雪の日以外富士山が見えなければ新たに宿泊券を差し上げます」とのキャッチフレーズで有名になったホテルであるが。今も生きているとのことである。数年前に行った時には休業していたが今は会員制リゾートホテルを併設して再開しているようである。今回泊まったホテルはホテルマウント富士のほぼ真下の湖岸に昨年開業した会員制ホテルである。ここも正面に聳える富士山の眺めが売り物である。春霞で見通しの悪い日であったがさすがにここまで近ずくと秀麗なコニーデ形の山容の全景が見事だ。湖上にはほとんど動かない遊覧船が浮かんでいる。客もいないところを見るとディナークルーズ用の船だろう。白鳥が何羽かいて一生懸命に景色を演出している。対岸のホテル(?)は湖上に綺麗なグラデーション模様を描いている。千メートルを超す高地とあって5月中旬木々はまだ新緑真っ盛り。富士山の中腹では柔らかい雲が生まれては散り、生まれては散り富士の風上で生まれた雲は丁度雪の途絶える高度で山をお掃除し山を過ぎると霧散しまう。考えてみると雲の上に聳える山の景色は千メートル以上の山を見たことも無い少年の頃の憧れの光景であった。80歳で不整脈持ちの三浦さんが8千9百のエベレストに登ったと言う。彼一人を昇らせるために少なくともカメラマンを含めて5人以上が同行している。酸素ボンベ位は自分で担いだのだろうか、そんなことを考えるとあまり誇大に報道するのもどうかと思うが、頂きに立つた事実は 偉大である。何時も彼に前後して登頂する一つ年上で今年81歳の地元のネパール人にも声援を送りたい。今回も着々と準備中とか。 バスで千メートルに来て少し歩くだけの自分とは比較のしようが無い。
2013.05.24
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忍野八海五月初めに富士山が世界遺産に登録されるとの報道があった。日ごろ富士山の扱われ方に疑問を抱き、多くの観光客の態度から文化遺産としての扱いを受けていいのだろうかと思っていた矢先であった。文化遺産を訪れる人は訪問者であって行楽客では無い気がするともあれ行楽客を受け入れる観光業者にとっては向い風だろう。”富士は眺める山であって近ずいて汚してはならない” などと昔の人は言っていた。これは多分に富士講に参加できぬ人の怨み言葉かもしれないが、今でもゴミの落ちた登山道よりは麓から見上げる秀麗な姿が良い気がする。5月の連休富士の裾野の御殿場で家族合宿をしたがいつも雲に隠れその全容を見ることは殆んど無かった。そこで10日後今度は富士吉田側から富士山を眺めようと山中湖に出かけてみた。途中富士の万年雪が地下水流となり湧き出る所として有名な忍野八海を見物した。最初の湧水池はかなり人の手が加わった様相であるが観光施設に囲まれた清水の湧水で抜群の透明度と茂る藻や魚の姿が美しい。見上げると春霞でぼやっとしているが確かに富士の峰は近い。今は勿論観光施設であるが萱ぶき屋根・水藻の水車と懐かしいトウモロコシの吊し干しは清流によくマッチしている。湧水を集めた流れはさすがに清流で河畔の散歩は気持ちが良い。清流には何種類かの魚が群れをなして流れに逆らい全く動かないように見える。ほぼ同じ大きさの魚が群れをなしているのは種が違うのであろう。この地方では大きな飾り雛の様な富士山型の魔除けを飾る習慣があるらしい。実は今までにこの地を何度か訪れたことがあるが、外国人を案内してドライブで立ち寄っただけである。したがって駐車場近くの湧水池の澄んだ水を見てさすが富士の湧水と感心し、他の湧水池も皆この様な清水がこんこんとわいていると考えていた。今回幾つかの池を巡ってがっかりしたのは、確かに自然と言えば自然なのだが雑草が生い茂り、落ち葉が浮んでいてあまり清水の池には見えないことである。ボランティアなり観光業者なり市当局が池の掃除をして何時も綺麗に見えるようにすべきだと感じた。はっきり言って私の従来の印象は崩れて少なからずがっかりした。
2013.05.23
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時の栖・噴水ショウ時の栖の「よろこび山」では毎夜30分おきに噴水ショウが催されている。まず色々プログラムされたコンピューター制御の噴水がカクテル光線で照明され躍動する。次に噴水でスクリーンを作りそこにレーザー光線を投影して仮想映像を躍動させる。折り紙の鶴が空高く羽ばたいて飛出したり、動物や人間が宇宙空間に飛び出してゆく。銀河系を表わすような渦巻から他の銀河に向かって飛び出すコスモロマンの演出は楽しいい。次はスクリーンなしの三次元空間に描くレーザーショウである。スクリーン映像と違って3次元で楽しませてくれる。最後は一段高い噴水を挙げ一度に赤・黄・紅・緑・青・藍・紫の7色の照明をを一度に当てて噴水と照明を変化させ華やかな空間を演出している。そしてフィナーレは巨大な水瀑塔を作りその下での饗宴を思わせる映像で締めくくった。ショウが終わった瞬間場内照明を兼ねた星の王子様の像が浮かび上がる。
2013.05.19
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時の栖・埴輪神社連休野家族合宿をした御殿場「時の栖」には幾つか丘があってそれぞれ「XX山」と名ずけられそれらしきものが置かれている。その一つ「おもしろ山」には二つの登り道があって、その一つにはここで焼かれた埴輪が配置されている。頂上には園内の陶芸教室で造られたものが無数に置かれている。沿道に配列されて物は立派な出来でプロの作品だろう。幾つかを下に記録しておく。山の上にある等身大の埴輪は弥生人には無理な作品だろうが「おもしろ山」には相応しい置きものである。下りはもう一つの道を辿ったがことらはびっしりと「ガ-ゴイル」が展示されている。ガ-ゴイル(gargoyle)とは元々ゴシック式教会の屋根などにある怪獣の形をした雨水の落とし口で日本の鬼瓦や鯱鉾の様な飾りであるが、広く「奇怪な形の彫像」も意味する。有名なのはパリ・ノ―トルダム寺院のそれである。ここでは余り奇怪なものではなく、どちらかと言えばメルヘンな画像を記録しておくとする。
2013.05.18
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時の栖とJFA福島静岡はサッカ―王国である。特に高校生を中心とする少年・ユース層が厚い。そしてリゾート施設・時の栖は青少年サッカー育成の場でもある。サッカー用グランドが人工芝・天然芝と何面もあり、東日本震災後は”Japan Football Association (JFA)・アカデミー福島” の避難先になっている。そう云えばロッジのレセプションの天井にはJ1チームのフラッグが掲げられており、ここがサッカーと縁が深いことが伺われた。JFAアカデミーについては何の知識も無かったが日本サッカー協会が運営する全寮制のサッカースクールで、東電原発近くにあったJビレッジを拠点にして地元中学、高校に協力を依頼してサッカーを軸にした全寮制教育を行う中高一貫校なのだそうだ。JFAは福島以外にも熊本と大阪に有るそうだが、特に福島は日本サッカー協会の活動拠点としてのJビレッジがあり、侍ジャパンやナデシコジャパンもかってはここで研鑽を積んでいたようである。どうもスポンサーは東電だったようで震災後は復興活動拠点として用いられ、立ち入り規制地区とあって勿論アカデミーの基地にはなり得ず、静岡県と時の栖の協力を得て時の栖の宿泊・運動施設を使ってその活動を維持している様である。すなわちここでは将来の日本のサッカー界を担うエリート教育が中学生レベルから行われている。サッカーとは何のゆかりも無い我一家であるが毎春ここで「春の連休家族合宿」を行っている。園内を歩いていると中学生くらいの子が手にプラカードも持って叫びながら走っていた。よく見るとU-18プレミアリーグの公式戦が間もなく始まり観戦無料とふれ歩いている。JFAはJ1リーグを頂点とするピラミッド型の下部リーグが幾つかのレベルであり、U-18 プレミアリーグもその一つ。私はまだサッカーの生の試合をグランドで見たことが無い。丁度昼食時だったのでサンドウィッチを買ってスタンドに入った。この日の対戦は(JFA福島)vs (清水グランパス・ユース)のU-18(18歳以下)の組み合わせ、JFA福島の高校生チームとJ1清水の下部組織であるU-18と言うレベルの高い試合である。オレンジが清水ユース、ブルーがJFA福島U-18.スタンドには結構な観客数、ちょうど他のグランドでは東海地区の高校選手権が行われており、彼らも観戦しているみたいである。試合は前半2-0で清水優勢、と思いきや後半は0-3でJFAの勝利。それにしてもその技術の高さに驚いた。どんなロングパスでもワンタッチでボールはピタリと止まる。そしてパスの先には必ず味方がいる。テレビで見るJ1と殆んど同じレベルのテクニックだ。調べてみるとオリンピック予選などに出場するU-18日本代表も何人かいるみたいである。今日プレイした何人かは将来J1や侍ジャパンに入る子がいるのだろう。結局終わってみればどちらかが勝ち、どちらかが負ける。試合後の挨拶の様子で勝者と敗者はすぐ分かる。どちらも将来への糧にしてほしい。
2013.05.17
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御殿場・時の栖子供や孫に残すべき資産は殆んど無い。それならばせいぜい爺婆との楽しい思い出を脳裏に刷り込んでおきたいと言うことで春秋の連休はもう10年以上家族合宿をしている。ここ2,3年春は御殿場の「時の栖」に出かけて何をするでもなく共通の時間を持っている。富士山のすそ野に位置する場所で今年は富士山が世界遺産に登録決定とアベノミクスとかで混雑するかと思ったが以外にも例年より静かな感じであった。もう少し高級な場所へと移動したのかもしれない。肝心の富士山であるが「こんな汚れた姿で世界遺産なんて恥ずかしいよ」と言ってるに違いなく足掛け3日全容を表わすことは無かった。この山は独立峰で常に周りの大気は上昇気流をおこし常に新しい雲が生まれて山を包む。あたかも雲の製造工場の様に白雲を生じ風下へと送り出している。時々見かける「ハンカチの木」白い葉っぱに見えるのは花の 萼であるが形も大きさも葉っぱと同じなのでハンカチを吊るしたように見える。我々の泊っていた「スローハウスビラ」と称する丸い小屋群。白い壁にスレート屋根イタリアのアルベロベッロの街に見えなくも無く、またモンゴルのパオに見えなくもない。去年我が家の大人達が乗っていたセグウエイが今年は台数も増え施設内の各所で見られた。私達の棟のそばに出発点があり常にインストラクションが行われていた。かって小泉元首相がブッシュ大統領と一緒に乗っていたのを思い出す。ここの各棟はゾーンによって色々な童話の画が描かれている。ここにはペットホテルもパオ風であるが外装は人間の棟より立派である。ある一瞬富士山が頂上を表わしたがこの時は下半身がすっぽり雲のスカートを付けていた。今年も孫達は元気に付き合ってくれたと言うよりも爺婆守をしてくれた。彼らの人生の一コマとして将来想い出の一つになってくれたことを期待してまた核家族は東西に散った。
2013.05.16
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早稲田大学昔の校舎群私が早稲田のクリニックで健康診断・治療をし始めてからもう20年以上の月日が経つ。その間大学の建物も大半が建て替えられたりリフォームされたりですっかりキャンパスの様子が変わったしまった。現在も建て替えが進行しておりある一角が塀で囲われている。昔と違って最近の工事現場は塀に絵が描かれていることが多い。ここでも「早稲田を描く」と題して素晴らしい絵がズラリと塀に描かれている。日本芸術院会員で理工学部教授の薮野健さんが描いた明治・大正期の大学の建物である。各画には説明文が付いているのでその部分を拡大解読して下に記録しておく。まずは早稲田の象徴大隈講堂、なんでも大隈侯は125歳寿命説を唱え、自分もそれまで活動する気でいたらし。そこでこの時計塔の高さが125尺なのだそうだ。もっとも大隈は暴徒の凶弾に倒れはるかに短い人生を終えている。大学は125周年記念としてすぐ隣に新大隈タワーを建てその高さを倍の250尺にしたそうだ。現在もその姿を変えないのは下の坪内逍遥記念演劇博物館。明治末期の正門と大講堂理工学部機械科、工場の様な構造、わが国最古の私立大学理工学部だが当時のイメージとしては工場と同じくレンガ建て建築となるのだろう。因みに早稲田は明治時代から”工学は理学の基礎の下に” の趣旨で官立大学の様に縄張りにこだわらない”理工学部”を通している。現在多くの大学の理工学部は理学部と工学部を独立させる財力不足から単に二つの学部を合わせたものが多い。そこで縄張り根性の強い国立大学では”理工学部”が少なく理学部と工学部に分かれて運営されることが多い。その意味で早稲田の”理工学部”はちょっとその理念を異にしている。同じ理念からだろう”政経学部”もこの大学に特徴的な学部である。国立では法学部が全てを支配していた”政治学”を経済学と融合して教授すると言うのは官学や政府にとっては目の上のタンコブだった。下は左から商学部、赤レンガの恩賜館、緑の理工科、赤い図書館明治37年設立の商学部校舎。天皇家からの下賜金で建てた恩賜館。慶応大学の図書館と同じ設計者が対の建築として設計した。明治時代の図書館明治36年 高等予科、商科、早稲田実業校舎の3棟東伏見ラグビーグランド前に移転されていたグリーンハウス今は軽井沢のセミナーハウスに復元されている。キャンパス絵地図現存すればそれぞれ文化財であろうが、あるものは取り壊され、或るものは戦災で壊れ、或るものは再開発でと、今は殆んどその姿が無いのは残念なことである。大体レンガ建築は当然ながら赤、木造建築は青系統に統一されていたようだそれにしても此の塀は工事が終わると取り除かれるのだろう。勿体ない気がしないでもない。
2013.05.15
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会津八一記念博物館実はこの日早稲田のキャンパスを訪ねた主目的は二つの特別展示を見る為でもあった。最初のものは早稲田大学・会津八一記念博物館で開かれていた長崎版画展である。幕末の長崎版画はその形式も様々あり、墨摺絵、漆絵、藍絵、錦絵などに分類される。シーボルトの博物絵によく出てくる画家・川原慶賀の名は良く知られているが他の絵師の名は殆んど知られていない。残念ながら撮影は禁止でカタログも無いため写真を記録することは出来ないが色々なレヴェルの版画が造られ長崎の観光土産として人気があった。特に西洋の帆船や蒸気船の画は各藩の大名が蒐集したと思われる。さらにオランダ人の風俗画や、実際には見ることの無かったオランダ婦人の風俗を描いたものなど想像の域を出なかった西洋人像をオランダ商人が持参した画や彫刻から書きうつして版画にしたものも長崎土産として人気があったみたいである。当時オランダ人が上陸できるのはあの小さな出島だけで文化的な生活は船上だったのだろう。実際女性は出島への上陸が許されず船上で生活して帰った人もいるみたいである。また面白いのはオランダ人は紅毛人と呼ばれ赤髪・髭で描かれ、イギリス人は金髪で描かれるなど一定のルールが存在したようである。貴重な絵が展示され素晴らしいものであったが1時間近くいた館内に人影は無く私と学芸員一人が足音だけを響かせていた。会津博物館は何度も訪れているがここは旧中央図書館で入口正面の階段上には有名な壁画「明暗」が架かっている。これは図書館の開館に際して上野の美術学校日本画科第一回卒業生の横山大観と下村観山の合作である。日本を代表する日本画家であった二人の合作がこれ以外に存在するかどうかは知らないが直径4.5mの大作で文化遺産の一つであることは間違いないだろう。ズームアップしてみると二人の落款も修復の結果はっきりと読みとれる。入り口ホールには「船を曳く人」の素晴らしい肉体美を見ることが出来る。さらにその横には旧大隈邸にあったものが30年くらい前に偶然大学の倉庫で発見されたと言う金剛神立像(岡崎雪馨作)と星陽(園鍔勝三作)が並び立っている。もう一つの展示は中央図書館の展示室でも要されていた「面影をたずねて」という館所蔵の人物画の展示である。下の写真で左の二枚は「蘭学事始」 「解体新書」の杉田玄白特に二枚目は作品としては幼稚であるが杉田90歳の自画像で賛文も滑稽風で「狸にだまされたようないい気分で素晴らしい人生であった」と言いたげなことが書かれている。右の2枚は松尾芭蕉、左の画は芭蕉と親しかった小川破笠のもの芭蕉の肖像画は世に多く存在するが生前の様子をよく知る人の筆になるものとして貴重な絵である。下のものは小川清親による上から紫式部、清少納言、仏御前でそれぞれに和歌を書いた短冊が書き添えられている。下の三葉は平賀源内、青木昆陽、前野良沢の肖像画。源内の肖像はキセルを手にしたものが有名だが下のものは後年中丸清十郎が描いたもので洋画の手法を用いている。次は「戯作六家撰」から江戸の戯作家像、上左から式亭三馬、三東京傳、下左から葛飾北斎、十返舎一九である。妻の友人に三馬の子孫がいたり、北斎がシナリオも書いたことを知りちょっと興味が湧いた。
2013.05.14
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大学/ホテル/クリニック写真正面の建物はリ-ガロイヤルホテル東京である。撮影場所は早稲田大学大隈庭園。そしてホテルに付随して右下に見えるのがクリニックである。以前勤務していた職場の健保組合がこのクリニックで定期健診をしていた。退職後も75歳まで組合員だったのでずっとここで検診を続けてきた。そんな御縁で今も時々検査をしてもらっている。この日は久しぶりの予約日であったが少し早く着いてしまったので公開中の大隈庭園に入ってホテル側を眺めたのが上の写真。その後まだしばらく時間があったのでホテルのロビーで待たせてもらった。このホテルはバブル期にロイヤルホテルグループがインテリアをイタリアから購入したヨーロッパ式時高級ホテルと言われていた。クリニックを併設しているため検診のたびにホテルのエントランスを利用することになり、ドアマンに迎えられるので変な気がする。5階のクリニックからは眼下に大隈庭園がよく見える。実はこのホテル大学の敷地内に建っている。バブル当時流行ったが不動産信託と言うやつ、大学が土地をホテルに貸し地代を大学に納めると言うものである。したがってここでは大学の庭園がホテルの庭の役割をもっている。大隈庭園は早稲田大学の創立者大隈重信の私邸跡の庭園である。クリニック待合室からは大隈講堂が正面にそびえてみえる。芝生広場では学生たちが春の日を浴びて思い思いに過ごしていた。診療後好天と診療結果が予期以上に良かったことにつられて大学内を見学して回ることにした。まず下の小さな建物は大隈邸の馬丁(馬曳き)小屋で大隈侯が外出する時は馬丁がここで馬車を整えて行った訳だ。確か大隈が暗殺されたのも馬車の上ですぐ隣にある大学資料室にはその時の血が着いたコートが展示されている。キャンパス風景の定番写真がこの大隈の後ろ姿と大隈講堂。やがてお昼時間になると静かだったキャンパスが人で溢れ新緑の下で喧騒の世界が繰り広げられる。大学はまだ新学期の雰囲気がありサークルの勧誘ポスターやビラが配られている。最近の学生はまじめで良く授業に出ると言われているが、あの自由闊達だった早稲田もお前もかとつい思ってしまった。門や扉が無かったこの大学は常に外部の人で溢れこの日も市民や見学の地方高校生が多く訪れていた。大学も修学旅行生には学生ボランティアを説明役としてキャンパスガイドしているようである。中央図書館の入口にはラテン語で”QUAE SIT SAPIENTIA DISCE LEGENDO(知恵の何たるかを読むことによって学べ)”というローマの政治家の言葉がラテン語で綴られているらしい。圧倒的な人口密度のキャンパスであるがそれでも外国人学生の姿が目立った。中国や韓国からの留学生は目立たないが西洋人の多さが目に付く。久しぶりに訪れたキャンパスは確実に国際化していることが見て取れた。日本人学生と弁当を食べながらごく自然な姿で融け込んでいる。通りがてら耳にした言葉はその多くが英語で会話していた。我々の時代とは隔世の感があり、日本も確実に国際化している。我々の時代ならこの二人の服装は完全に逆転していた。もう一つ我々の時代には男女とも皮鞄を持っていた筈である。久しぶりのキャンパス訪問で色々なことが感じられて面白かった。
2013.05.13
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鋸山・日本寺空中に飛び出した岩の上の「地獄のぞき」から遠景を眺めると地獄どころか静かで平和な光景が広がっている。房総半島も平地の多い下総(千葉)から安房(館山)方面になると海に山が突き出した地形となる。地理学上関東平野に火山性の島がくっついて房総半島が出来た様子が分かる。同じ千葉県人でも下総と安房では気質が違うと言われるが仕方が無いことだろう。安房(アワ)は阿波に通じ四国や紀伊半島と黒潮の道で繋がっている。紀伊半島と房総半島に勝浦、白浜など共通の地名が多いのも黒潮に乗って流れてきた関西人が住み着いたと考えれば納得がいくし、安房人の気質が下総人のそれと異なることも理解できる。山越しに東京湾を挟んで武蔵側を望む下の景色、そして南の安房川を望む下の景色が違って見えるのも当たり前である。「地獄覗き」の突出岩を過ぎて振り返ると先ほど亀のように見えた岩が今度は猫に見えてきた。日本人は石や岩を常に動物に擬える癖がある。ここは山全体が日本寺の境内であることは前述したが山全体至るところに無数の石仏がおかれている。最初の部分では西国観音と称せられる四国八十八か所や西国八十八カ所から寄贈されたらしい仏像が岩の窪みに安置されている。以後無数の房州石で刻まれた観音像や羅漢像が安置されているが房州石は柔らかい凝灰岩で石塀などの建築材に向いている。このことは風化し易いことを意味し、多くの像の彫りが風化で崩れていたり首が落ちていた。カンボジアなどでは宗教抗争の結果首が刎ねられた仏像をよく見かけたが、大乗仏教の日本では仏教は抗争を好まず人工的に仏像の首を落とすことは無い。ここの寺の多くの首なし像は風化か地震によるものだろう。ここには千五百羅漢があり、これは四国八十八カ所にある五百羅漢、中国にある八百羅漢を凌ぐもので、名工・大野甚五郎とその弟子によって21年年間にわたって彫られた千五百五十三体の羅漢像が岩窟に安置されている。残念ながら明治維新の廃仏毀釈以来放置されてきたが現在喜捨を募って「羅漢様お首つなぎ」が実行されている。鋸山への異常に高い入山料の意味が理解出来た。それにしても一般に五百羅漢像は五百の表情を持つと言われている。千五百羅漢像を仕上げるのは大変なことであっただろう。さらに山を下ると山肌を切り取って刻まれた日本一の大きさの石像大仏が有る。江戸時代末期に風化で崩壊されていたものを1969年復元したたもの。正しくは薬師瑠璃光如来像で、宇宙全体が蓮華浄土であることを表わし、世界平和・永遠の太平を願い象徴するものだそうだ。
2013.05.12
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房総・鋸山 (1)4月下旬思い立って房総半島の金谷にある鋸山に行って来た。海際にあるたった320mあまりの低山であるが東京湾・三浦半島が眼前に開け歴史的には石切り場として知られ、加工しやすい房州石の産地でも有る名山である。石段続きの登山・巡礼道は険しいことでも知られている。足に問題が有るrakutenとしては大げさにいえば生涯最後のチャンスと思われる。都内から千葉までのアクセスは全く問題が無いがそこからは交通の便が極端に悪く、100キロあまりの行程に4時間を費やしてしまった。ロープウエイの車中から見ると東京湾の入口で一番狭い所がこの辺り横浜港や東京港に出入りする船は皆ここを通らなければならず巨大貨物船の行き交う姿がひっきりなしに見えている。対岸の久里浜との間にはフェリー便が有り30分余りで行ける。東京からは横須賀線とフェリーを使うのががもっとも便利なようだ。車なら東京湾をまたぐウミホタルを経由すれば難なく行ける。鋸山の名の由来であるがWebで調べると、稜線の形がごつごつしていて鋸の歯みたいだからというのと、採石後の岩肌がジグザグだからという分かりにくい説明、しかも出典は同じらしく一様に同じ表現をしている。最初の説は分りやすいが山稜自体は鋸のようにシャープではない、また山を真上から見ると採石後は鋭角的な角もあるが鋸とは言い難い。私の解釈はこうである。平面的に採石してゆくと幾つかの垂直面が出来る、その石壁最上部のエッジは谷と尾根をよぎりその境界線を辿ると確かに鋸の歯に見えるのだろう。したがって採石が終わって100年も経つ今となっては樹木が茂りはっきりと鋸歯形を見るのは難しい。そう考えて自分自身を納得させた。物事を素直に見ることが出来ない天邪鬼(アマノジャク)の悲しさよ。頂上駅のすぐ横に垂直な採石場跡がある。駅の見晴らし台から変わった地形を発見した。中央に小さな墳丘の様な盛り上がりと廻りの円形崖である。おそらく火山の噴火口であろう。地理を調べると房総半島はかって島だったそうで伊豆半島と同様太平洋プレートに押されて本島にくっついたそうだ。火山の噴火物も多いそうだ、それならこの推理も一理がある。ロープウエイ駅の屋上がもう山の頂上である。歩を進めると日本寺事務所が有り、ここで入山料を取られる。お山全体が寺の境内なのだそうだ。そこには昔の楔と槌による採石の模様がクッキリと刻まれている。それにしてもこの垂直な岩壁をよじ登った蔦の生命力に頭が下がる。何事もなさねばならぬと思えば出来るものなのだろう。心せねば!この切り通しを抜けると石壁に囲まれた小さな広場が有り、そこには巌窟に刻まれた大きな百尺観音像がある。バ―ミアンに行ったみたいだ(行ったことも無いのに言い過ぎ?)。観音様の左横を見ると空に向かって岩の突起が見える。ズームアップすると巨大な亀の頭に人が乗っているではないか。さらにズームすると写真を撮っている。大変な石段を登り丁度観音様の真上に位置する展望台に来てみると先の岩の様子が分かる、ここは「地獄ののぞき」と言う所らしい。確かに岩の下は「地獄」だ
2013.05.11
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練馬ツツジ苑4月下旬のある日練馬ツツジ苑を通りかかった。この日を逃がすと花期は終りなので一寸覗いて見ることにした。毎年一度は眺めているので一種の御挨拶みたいなものである。駅から直接ツツジ苑に通じる2階デッキにこんなものがある。もう30年も前になるだろうか、パリのルーブル美術館に大きなガラスのピラミッドが現れた時、世間は悪評に満ちていた。エッフェル塔、ポンピドウセンター、ルーブルと悪評にも知らんふりして10年もするとそれを街の顔にしてしまうのはやはりこの町の実力なのだろう。この小さなガラスの構造物をの向こうにツツジ園がある。日ごろアぐりーと思っていた円柱鉢台も満開の花に囲まれてみるとなかなか様になっている。デザイナーの意図がやっと理解出来た気がする。まあイタリア庭園の模倣には違いないと思うのだが。バラ門と円柱台を配した花園は華やかだ。この日はビジターも少なく数組の老人と赤ちゃんの散歩だけでいい雰囲気であった。久留米ツツジの「今猩々」、猩々とは狸だがこのツツジ能か歌舞伎で登場するのかもしれない。各下部にはそれぞれ名札が付けられているが毎年見ているのに殆んど脳裏に残らないので名前の記録は諦めた。不本意ではあるがただ画像を羅列するだけに留める。一言付け加えるとここの園は花形の比較的小さな久留米ツツジを中心にした埴栽で私的には好みの品種ぞろいである。そんな訳で毎年一度はご挨拶に伺っている次第だ。 ツツジ園の外周に申し訳なさそうにバラとシャクナゲが咲いて いたがそれはそれでなかなかのものであった。
2013.05.10
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昭和記念公園の何でもない春昭和記念公園のテューリップを見に行った時ウィークデイにもかかわらず老々男女出満ち溢れていた。しばしの静寂を求めて別のゾーンに行ったらもうまるで別世界殆んど人もいなく、植物も手入れしてない野立ち状態。グエル公園と私が勝手に呼んでいる地域では子供向けの造りが全てガウディ―っぽいのです。ごろごろしている石も良く見るとアザラシに見えたり蛙に見えたり、そうかと思うとメキシコの太陽の影が龍になるピラミッドみたいな丘がある。そしてその頂上にはクレーターが点在する木星みたいな星がいた。色んなゾーンが有るが各ゾーンは森で仕切られているため木立を抜けると景色ががらりと変わる。森は今新緑が美しい、私はなによりもこのみずみずしい若葉の緑が好きである。中央の大広場では春たけなわ春の遠足シーズンでこの原っぱの真ん中の大木の下はピクニックをする子供達で一杯。隣のテューリップ広場とこの芝生広場の客の平均年齢の差は半世紀に及ぶだろう。声の波長もかなり多く隔たっている。そしてその芝生広場とせせらぎのテューリップ広場を隔てる森林の前はアイスランドポピーの満開畑。痛い首をかしげてもう一度空を見上げると鋭くとがった若葉の梢が雲ひとつない青い空に突き刺さっていた。何はともあれこの日も私の残り人生の一日が盗まれたと言うよりは穏やかに過ぎて行った。
2013.05.09
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昭和記念公園・春の日本庭園 桜の園も今は葉桜を通り過ぎて新緑の美しさである。ホッテントット(現在この呼称は良くないみたいだが)の女性みたいな楠が有った。見返り美人のお尻には柔衣に包んだ赤子を載せている。森を抜けて日本庭園に向かう。春は杉檜だけでなく全ての木々から花粉が飛んでいるのだろう、地味な花が咲いている。モミジは秋の紅葉しか注目されないが目立たない花を咲かせている。ちょっとだけ失礼して写真に撮ると結構立派な花である。夏ごろまでにプロペラの様な羽根を付けた種を成熟させて風に乗せて子孫を残そうと頑張っているのだ。日本庭園にやって来た主目的は大きな池の両端にある東屋から池畔の景色を眺めて休むことである。日本庭園の一角に盆栽園が有る。何時も絵画鑑賞の気分で立ちことにしている。箱根地方で良く見かかるヒメシャラの寄せ植えは幹が美しい。昨年大宮野盆栽美術館で知ったがこの槙の木の白い木肌は幹を引き裂いて造るかなり残酷な処方結果である。その他にも何でもない普通の草花や木を上手く小鉢の盆栽に仕立て上げているのに感心した。最初の東屋とは池の反対側にあるもう一つの東屋からの光景であるが新緑が美しい。私の腕では表現されていないが一本一本の若葉の色がみな違がっている。東屋の横には手こぎ船がその舟屋に納められている、この前まで古色蒼然としていたが朽ち果てたのか船も屋根も新造されていた。やはり船の後ろには松の木が必要なみたいである。
2013.05.08
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昭和記念公園のテューリップ (続)誠に能の無い話だが今回もほぼ単なるテューリップの写真アルバムである。全てのテューリップには名札が添えられているがあまりの多さに記録する気も起らない。 チューリップの植生には必ずムスカリが添えられている、赤系統の多いテューリップに対して紫がその引き立て役となるのだろう。赤と紫は人間の目が認識できる光の両端の波長である。それより長い波長の光も短い波長の光も人間の目には何も感じさせてくれない紫外線と赤外線である。 最近青いとか黒いとか云われるテューリップの新種であるがとても青とか 黒には見えない。どうして濃紫テュ-リップではいけないのだろう。 性懲りも無くテューリップの花々、工夫の跡が全く見られれず単なる記録画像に終わった。
2013.05.07
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昭和記念公園のテューリップ (春の連休も今日が最後恒例の家族合宿から昨日帰り書き置いたブログ発信)4月18日またまたお花見のお伴を仰せつかった。過ぎ去ってしまわない内に昭和記念公園のテューリップです。わんちゃん達も同じくお伴を仰せつかったようです。最初オランダのキューケンホッフ公園からアドバイザーを招きデザインを指導されたものだそうです。ここのテューリップはそのディスプレイに見ごたえがあり、私はキューケンホッフに行ったことが無いのですが昭和記念公園も劣らず傑作だと思います。近年はテューリップも命名に忙しい位新種が多く花屋の店頭にあるのはテューリップとは程遠い花形のものも多い。しかしここのは一見してテューリップと知れりものばかりなのが嬉しい。 カンバスも実物同様派手派手。渓流と新緑が植え込みの形と花の色をさらに美しく見せている。 単なる写真アルバムの様なブログになってしまった。
2013.05.06
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松本―長野の車中風景我々の年代にとって信越線と言えば(上野)-高崎ー軽井沢ー長野―直江津ー新潟と記憶している。この間、群馬・長野県境は碓氷峠で急峻な坂を昇るため、かってはわが国唯一のアプト式機関車でこれを昇った。調べてみると1963年までアプト式が使われたと言うから私も何度か乗っている筈であるが当時は興味が無く記憶に残っていない。現在軽井沢駅には資料館が有ってアプト式機関車も保存されている。その信越線であるが長野新幹線の開通に伴い、高崎ー横川篠の井ー(長野・直江津)-新潟碓井峠で分断されてしまった。JR本線が分断されている珍しい例である。さてその篠の井へは松本から篠の井線で昇って行く、途中に姥捨て伝説や芭蕉が読んだ田毎の月の棚田が広場る「姥捨駅」があり、スイッチバックのため必ず停車するホームはそれ自体が善光寺平の展望台となっており、駅舎や汽車にそっぽを向いた展望椅子、さらにはホームから飛び出した展望台まである。棚田は下の方から田植え準備がされていた。今は貸し棚田で全国に借主がいるようである。長野駅からはまた信越線に乗って越後高田を目指すことになる。列車は「普通列車・妙高号」確かに各駅停車の汽車であった。特急・急行・快速以外で愛称を持つ列車を私は他に知らない。唯最後尾一両だけ座席指定者で悠々と空気を運んでいた。それともう一つ特記すべきは車両が一昔前の懐かしい特急列車のそれで、リクライニングロマンスシートであった。豊野で飯山線と分かれると千曲川の平野を離れどん山間に入って行く、山間の駅、古間(?)、は委託駅らしく集札普段着のお姉さん(?)、料理の手を休めてコートを羽織り駅に出勤だろう。この辺りから飯綱高原、黒姫高原、妙高高原と続き、わが国でも代表的スキーエリアとなる。妙高の山容も西側はなだらかである。赤鬼C.W.二コルさんの住む黒姫山はなだらかな優しい山。赤倉・妙高の北面は火山の大爆裂噴火口と思われる独特の姿である。二つの山に見えるが元はもっと高い一つの山だったのではないだろうか。高度が上がると山には線路わきにまだまだ残雪がしっかり残っている。と思っていると街中の駅ホームの横にもまだ厚い残雪が。山間部を抜け平野部に近ずくと広大で緩やかな傾斜の石組の段々畑(田)が広がったいる。高田の街からも望める近郊の南葉山は1911年オ―ストリア・ハンガリー帝国のレルヒ少佐から初めてスキーが陸軍に伝授されたところ。陸軍はあの八甲田行軍の悲惨な遭難を避けるためスキーの訓練を取り入れた。これが我が国のスキーの発祥である。高田の町に近く千メートルにも満たない山であるが、まだ深い雪に包まれている。聞くところによると数日前の寒気で積雪が有ったと聞いた。ところがどうしたことだろう4月21日(日)また長野市内でも降雪が有った。雪の降りしきる中埼玉の市民ランナー川内さんがマラソン優勝したシーンが思い出される。
2013.05.03
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甲府―松本車中風景4月15日天気は良いが春霞で視界は極めて悪い。急いでもこの日の目的地高田への汽車は1時間に一本のみ、のんびりと甲府から松本まで各駅列車に乗り込む。沿線に広がる南アルプスや八ヶ岳の風景を愛でるには鈍行列車に限る。春とはいえ日本を代表するこれらの山々はまだまだ真っ白な雪の冠、山がもっとも美しく見える季節だ。北アルプスの主峰北岳は3193mで富士山に次いで日本第2の高峰である。北岳から谷を隔てて右側には鳳凰三山の雄姿が望める筈である。残念ながら動く列車から全ての峰を同定するほど私の知識は深くない。鳳凰三山の次に見えるのは甲斐駒ケ岳であるがこれは雲で山頂がはっきりしない。南アルプス最後の山は甲斐駒ケ岳でこの山は中央線から一番はっきり見えると山と思われる.駒ケ岳で左側の南アルプスを見終えると休む間もなく右側に八ヶ岳の雄姿が目に入る。この方向からだと山脈の縦方向からなので山が重なり合って八ヶ岳の本当の雄姿は拝み難い。3千メートルの山には及ばないが八ヶ岳は冬山の厳しさにおいては南北アルプスに匹敵する厳しい山稜である。これだけ小さな山塊でどうしてあんなに高く聳えていられるのか不思議である(富士山は例外)。列車が松本に近ずくといよいよ北アルプスの最も松本よりの常念岳から大天井岳への山脈が目に入るようになる。松本駅に降りるのは久しぶりである。上高地・島々へ向かう松本電鉄駅もすっかりきれいになってJR との間に高架の通路が出来ているが、これが何と総ガラス張りなのだ。そこから北アルプスの南端がよく見え、案内板まで完備されている。テレビ塔や超高層ビルの展望台などにあるのと同じでJRとしては破格のサービスである。 左の独立峰に見えるのが常念岳、その右の山が大天井岳である。
2013.05.02
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あんずの里と両陛下の私的旅 森将軍塚の上に立つと歌の名所姥捨て山、謙信・信玄の戦いの場 川中島などを含む善光寺平を一望することが出来る。この辺りには多くの 古墳が有るが森のそれは一段と大きくその位置から考えてもかなり優力な 支配者の墳墓と考えるべきである。 遠くの千曲川の川岸にはこの時期(4/16)まだ満開の桜が見えた。 将軍塚見物のあとは長野に出て新幹線に乗るだけなので屋代駅には 歩いて降りることにした。道中まだ満開の桜を愛でたり線路わきに咲く タンポポ群の美しさに感心しながらの田舎歩きである。 信濃鉄道で長野駅にで新幹線口に回って乗り換えのためコンコースに上がると写真の様な人だかりが有った。旅行者の添乗員風の人(実は私服警官?)が何人かいたので 「何が有るのでしょう」と尋ねると、「いま天皇・皇后両陛下がそこの駅長室で休んでおられます。程なく出てこられるので時間が有ればお見送りしてください」 と全く予期しない言葉。時間は十分あるので端っこのエレベータに近い所で立っているとドアが開いて両陛下が出てこられ、立ち止まって手を振っている。ややあって私達の居るエレベータの方へ移動、人の群れはその年齢層も有り芸能人の追っかけの様に奔ったりはしない。私達から数メートルの処のエレベータまで来るとすぐに乗り込むと思いきやまたそこで立ち止まり振り返って暫く手を振った後エレベーターに乗車した。私は以前或る機会に説明役として両陛下を御案内したこともあるが公式行事なので警護の仕方は尋常ではなかったことを思い出した。今回の報道記者もテレビカメラも居ないこの光景は信じ難いものである。今回の旅行はいわゆる行幸(天皇)や行敬(皇后)ではなく初めての私的旅行とのこと、なんでも毎年あんずの里からあんずジャムが献上されており、公務を全く伴わない旅として皇后さんが”日本の原風景を訪ねる旅”を所望されて今回の旅となったようだ。天皇陛下もツイードのジャケット、紺のズボンで幾らかリラックスした出で立ちである。この日一日遅れで将軍塚古墳を訪れた私達であるが前日は両陛下も古墳を訪れたことを聞かされた。前記したように今年のあんず花はもうとっくに散っていた。わざわざあんずの里を見に来られたのにもう時期遅れ、当事者は何本かの枝を大きな冷蔵庫に入れて保ち、何とかお見せしたそうである。新幹線の列車に乗り込むと隣のホームに「貸切臨時」の列車が止まっており、全ての窓にはブラインドが下ろされていた。列車は我々の列車に先んじて何の前触れも無く静かにホームを離れて行った。 私達は2,3日の旅行をすれば2,3日外出は控える、と言うより疲れて出かけられない。ところが両陛下は翌々日にはもう春の園遊会で多くの人に合っている。皇后さまは肩の炎症で公式行事は以後欠席されている。手を上げられないと聞く、長野でも痛さを我慢して手を振っていたのだろう。習慣になってしまっているのだろうがあそこまでサービスしなくてもいいのではと思ってしまう。
2013.05.01
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