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ヤマアジサイ西洋アジサイは目に見える部分は全て修飾花で、花を手でかき分けて見ると奥の方に花とも言えない中性花があり、ガクアジサイは広い額の周辺に少数の装飾花が付 いているのに対してヤマアジサイはどちらも控えめでアジサイとしては地味である。ヤマアジサイは各地に野生するもので種類も多く私は好きである。園芸家も多くこの種類 に交配種や新種を編み出している。豊島園のアジサイ園はこの「ヤマアジサイ」の蒐集が豊富で楽しいアジサイ園だ。「コンペイトウ」、子供の頃の最高のおやつ金平糖を思い出させる。「花火アジサイ」 東京では「墨田の花火」とも言われる。隅田川と言うよりは線香花火の様である。「白鳥」 こんな小さな花に白鳥とは命名者の意図は?「瀬戸の月」、波打つ急流を瀬戸と言うとすると波間に漂う無数の月影をイメージしたものだろうか。「クレナイ」 紅だろうが?「剣の舞」 徳島の剣山地方の山アジサイ。「胡蝶之舞」 歌舞伎で針金の先につけてひらひらさせる紙の蝶 ?確かに微黄色の顎と白い花弁の重なりが羽の躍動にも見える。「楊貴妃」 んん!こんな人だったのか。楊貴妃は中国史上四大美人の一人で唐代の后妃、息子の王妃だったものを親の玄宗皇帝が奪ってしまった。玄宗皇帝は楊貴妃を寵愛しすぎ国を傾けたと言われる。日本でも鳥羽天皇の妃・藤原璋子(たまこ)を親の白川上皇・法皇が奪い、その子、鳥羽・崇徳天皇を巡り皇位が争われ、平安時代の混乱が生じた。このアジサイ、「璋子」でも良かったのではないだろうか。確かにチャーミングな花だ。
2013.06.22
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種々のアジサイアジサイの学名hydrangeaとは「水の入れ物」を意味する。要するに水を多量に吸い取る性質がこの名を与えている要因である。梅雨時にこれほど相応しい花はないだろう。大別すると西洋アジサイ、ガクアジサイ、ヤマアジサイに大別される。普通アジサイと言われて多くの人が思うのは「西洋アジサイ」で、丸い大きな花房で知られる。下のアメリカ原種のアナベルは花量が多く、このアジサイ園の入口付近の小路はぎっしりこの白花で満たされている。次のエンドレスサマーは春から秋にかけて何度も開花するそうだ。この様な西洋アジサイの多くは日本・中国原産で、プラントハンター達がヨーロッパに持ち帰り、改良されて逆輸入された品種である。「ガクアジサイ」は本来の実を付ける中性花を中心部に周辺部にはピンクの装飾花を付けている。下の写真で少し詳しく見てみると青い中性花には雄蕊・雌蕊が有り、これが本来の花である。一方周辺部のピンク部分は花弁ではなく顎であり、下の写真に見えるように中心部の小さな花弁と蕊が花であるが全体を装飾花と呼び種を付けることはない。「ヤマアジサイ」は一般に中性花・装飾花共にまばらでアジサイの印象が薄い。以下には変わった花を記録しておこう。グラジュエートカラーの装飾花は珍しくないが上品さがずば抜けている。下のものは珍しく花より斑入りの葉っぱが見応えがある。装飾花だけの西洋あじさいであるが萼が開くまで窪んだままのものもある。中性花、装飾花共に緑がかった白で魅力的なもの。「あじさいの宝石箱」と記されたコーナーにはいろいろあったがそれぞれどの宝石に相当するのか見当がつかない。いずれも花形が小さいものばかりである。このコーナー最盛期を過ぎていると見えてとても宝石の輝きを見ることはなかった。最後のものは「大甘茶アジサイ」で、この葉っぱを乾燥して煮出すとあまい。実際この日売店で試飲させてくれたものは甘かった。アジサイでもこの種には毒成分は無いらしい。或いは乾燥・煮出しで毒成分は壊れるのかもしれない。一般にアジサイは毒性植物で昔から多く中毒例が報告されている。テレビの推理ドラマでこれを使った事件も見たことが有るし、数年前つくば市の料理店でアジサイ葉のてんぷらを食べて中毒したことが報じられた。厚生労働省のホームページを覗いて見ると、毒性は有るがその原因物質はまだ不明だそうだ。多くのホームページを見ても季節感を出すため刺身やてんぷらを盛り付けるのに多用されるが食べるものではないと記されている。「昭和天皇の柏餅」という逸話が有るそうだが、桜餅の葉は食べるもので、柏餅の葉は食べないもののようだ。アジサイも食べるものではないらしい。
2013.06.21
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豊島園 (1)梅雨時になるとどうしても恒例の通過儀礼みたいに豊島園を訪れている。ここのアジサイ園を訪れるためだ。何しろ我が家から近く、ベランダから遊園地の森がよく見える。アジサイ見物の前には決まってインドレストランでナンを食べることになっている。焼き立てのナンは美味いし、この店はもう数年間店も人も変わっていないのでつい立ち寄ってしまう。カレーは甘口(mild)、普通(hot)、辛口(very hot)、激辛(super hot)となっている。遊園地入口はひっそりとしていたが、園内は月曜休みの両親に連れられて子供が結構いて、アジサイ園には爺婆ばかりではなく花に包まれた写真を撮るため若いカップルで結構賑わっていた。色んなところで見かける水に浮かんだボールがくるくる回っているやつ、水が激しく吹き出ている訳でもないので水圧で浮かんでいるとは思えない。いや多分実態は石ではなくてふわふわのプラスチックなのだろう。この騙しが好きで何時も見入ってしまう。 あまり知られていないが豊島園の重要な施設としてカル―セル・エルドラドという回転木馬が有る(カル―セルは回転木馬や空港のあの回転荷台で、エルドラドは黄金郷を意味する)。実はこれは機械仕掛けの歴史的なカル―セルで、Wikiの記述では次のようである:カルーセルエルドラドとしまえん(東京都)にあるこのメリーゴーラウンドは、現存する日本最古の遊戯機械である(世界的に見ても最古級のメリーゴーラウンドとされる)。1907年、ドイツでヒューゴ・ハッセが、当時の機械技術と美術工芸技術のすべてを投入して作製。ヨーロッパ各地のカーニバルを巡業した後、1911年にアメリカの遊園地・コニーアイランドに渡る。フランクリン・ルーズベルト大統領をはじめ、多くの人々が楽しんだ。1971年より豊島園で稼動。彫刻・装飾はアールヌーヴォー様式で、現在では貴重な文化財ともいえ、2010年には日本機械学会が定める機械遺産に認定された。これらのアールヌーボー式の細工は全て木製で大きな人魚像や豪華な馬車、木馬の類も全て木彫品である。それだけに馬の表情も皆異なり豪華そのもの。旧式だけに馬も上下しないし、全体に複雑な動きはない。全ての子供達にヨーロッパ、アメリカ、日本と移って来たこの歴史遺産に一度は乗ってもらいたいものである。その先にはミニトレインが運行されており、この時期客席にもアジサイ飾りが施されている。満席の乗客の載せて汽車はアジサイの咲き乱れる森に突入していった。
2013.06.20
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東京駅見学会(6)・ステーションホテル新しく復元された東京駅丸の内駅舎は鉄道駅と思ってしまうが2階3階の殆んどが「ステーションホテル」として使われている。鉄道もホテルもJRという会社の経営と考えれば何の不思議もない。駅舎表側には色々な出入り口が有る。まず南口・中央口・北口乗降口が有り、中央には貴賓室口、南口中央寄りにステーションホテル正面入り口が有る。さらに駅南口にはホテルのレストランへの出入り口、駅北口の近くに宿泊者専用出入り口が有る。最後の出入り口は宿泊カードが無いとドアが開かない。ロビーの感じでは特別な高級感はないが、ドアマン、ポーター、レセプションと高級ホテルの体で、エントランスホールの右はロビーラウンジとなっている。宿泊者数も多くないことから廊下もやや狭く圧迫感があるが駅舎とも思えない静かで落ち着いた感じがする。この日は見学会なのでビビることもないが客室は173m(2)一泊¥808,500から23m(2)¥30,030まで揃っている。今回の見学会では¥346,500のスイートルームを見せてくれた。ツインベッドルームと机・ソファを備えたリビングのセットで高級感は有るがそんなに特別とは思わなかった。いずれにしても私には縁のない部屋なので写真を取る気にもならなかった。その部屋の窓からの光景もこんなもので皇居を望める以外は特に感動することも無いだろう。実はこの日のメインは駅舎中央部のアトリウムでの食事会である。正面から見るとピラミッド型の中央部屋根は今回の修復でも殆んど変っておらず、この部分が東日本大震災の被害地石巻市雄勝のスレート石で葺かれていることはこのシリーズの初期に述べた。丸の内側から見える屋根部分は下の写真で左側の斜面であり、その反対側駅ホーム側はガラスで覆われて、屋根裏部屋全体はアトリウム空間となっている。ここは宿泊者専用の朝食会場とのことである。この日の見学会にはここでの昼食コース料理が付いていた。朝食会場とは言え、古いレンガ壁や重厚なワイン棚、落ち着いたテーブル配置と言い高級レストランの雰囲気を漂わせている。グラス配置とかワインディスプレイなどから察すると一般客は取らないが団体客や貸し切りパーティ―などに使われていると想像できる。何時も外から眺めていたあの駅舎中央部の屋根の下で食事していると言うちょっとむずむずする変な満足感はあった。 (東京駅見学会報告終り)
2013.06.19
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東京駅見学会(5)・駅内部終戦直後の修復では手が届かなかったであろう駅舎裏側も今回は簡易復元されまた駅舎全体が免震構造になっているとのこと。この柱も単なる装飾ではなく 免震・耐震構造のための装置と思われる。丸 の内駅舎と線路・乗降ホームの部はあ今まで一体のものとしか認識していなかったが今回の様に詳しく見てみると明らかに分離されておりその間には上の写真で 見るように灯りとり屋根が懸けられており、床には溝が設けられている。下の写真は駅舎背面の中央部であるが右上部の透明窓から右は線路である。この中央部はこぶのように通路側にはみ出しているここは丁度皇族が利用する貴賓室の裏側に位置している。何の説明もされないが私の勝手な推測ではここは貴賓室と乗降ホームを結ぶ地下秘密回廊の入口であろう。いったん外に出て現在は「会議室」のマークが有る部屋に通された。機品質として中央に皇室だけが使う「松の間」、賓客が使う「竹の間」そして侍従など重臣が使う「梅の間」があり、現在「梅の間」は会議室としてやや使用範囲を広げている。ここまではガイドもされるし写真も自由であった、残念ながらこの日は雨で皇居までは望めなかったが中央口の埴栽が目前と言うことは軍配形の扉の右の部屋である。ついで案内されたのは駅長室、ここは撮影禁止、実際の執務の場かどうかは疑問であるが執務机には資料も広がり、パソコンなども点いてい て今の今まで駅長が座っていた雰囲気は感じた。そしてまさにここが日本の鉄道の原点で駅長は丁度そのスポットで執務していると言うことだ。残念ながら原点 標のようなものは見当たらなかったが事故・災害・事件発生の場合ここがJRの指令点となる。撮影禁止なのも事故予防の観点からだろう。も う一つガイドさんの話で驚いたのは開業当時乗り口は南ドームだけにあり、折口は北ドームだけに会ったと言うことである。通勤客も朝の出口と夕方の乗り口は 三百十メートルも離れていたの云う話。今は申し訳程度の中央口が有るが当時中央口は賓客のみであり、総理大臣と言えども南口から入って乗車したそうだ。そ の証拠に南口には床に下の六角形が刻まれており、大正10(1921)年この場所で当時の総理大臣原敬が暗殺されたと記されている。新幹線中央口の南寄り には浜口雄幸・総理大が昭和5(1930)年暗殺された場所に標石が刻まれている。考えてみれば日本の歴史に大きなうねりと実績を残した二人の大首相が東 京駅で亡くなっている。今でもこの駅のセキュリティー維持は大変なことだろう。
2013.06.18
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東京駅見学会(4)・外装東京駅と言うとどうしても行幸通りを挟んで皇居と向かい合う中央貴賓口が中心となる。ここの車寄せから外国の新任大使が馬車に乗って自国元首からの信任状を携えて行く訳だ。旧駅舎でも東京駅のシンボル的存在ではあったがアーチ状の丸屋根とその上部に丸い時計がはめ込まれていた。それに対して復元後は城門風に変更され、丸窓から時計が外されており、丸窓の上の丸屋根の天辺に何やら飾りが見える。アップしてみると何とも奇妙な造形物、一説によると辰野金伍は相撲が大好きでこの飾りものは横綱の土俵入りをイメージしたものだと言う。そう云えば化粧回しの横で柏手の後の両手を広げた形に見えなくもない。そして正面入り口の扉もなんだか意味ありげだ。通常寺社の勅使門や皇室ゆかりの山門などには菊の紋が刻まれるがこれは何の紋様化だろうか。これも一説によると相撲好きの辰野のデザインで行司の軍配との説有り。2階3階の柱には飾り台座とイオニア式の花崗岩製柱頭飾りがついている。これらは旧駅舎のものをそのまま使い柱部は花崗岩の粉をセメントに混ぜて造り上げた「擬石造り」と言う仕上げ。そして今回の復元で3階部が増設されたため境目のレンガや窓枠は明らかに異なる色調を帯びている。外壁とは別に旧駅舎の構造部材としてのレンガ積みに見える大小の穴ぼこは飾り壁を取付けるためのものであったり工事用足場つくりのための穴である。今回の復元では戦後改装が未完の部分も化粧直しが行われた様である。またその際レンガの目地にも手の込んだ細工が施行され、覆輪(ふくりん)目地と言う断面が半円形になるように盛り上げて仕上げている。さらに、横線と縦線では太さが異なり前者が7.6ミリ後者が9ミリで、その交差部は蛙股(カエルマタ)と呼ばれる形状だとか、言われてみれば蛙の姿に似ている。ところで今回の復元工事には500億円と言う莫大な費用がかかった。多くの一等地に建つビルを再建する場合たいていは新しい容積率一杯のビルを建て増設床を貸し出してその費用を賄う。歴史的に重要な文化財を建て直す時にはお金以上に面倒なのが文化財の景観保護である。下手な設計では文化財保護条例で許可されない。これに先鞭を付けたのは東京駅に隣接する日本工業倶楽部である。その策として下層部に従来の構造をすっかり取り込み、上層部に新しいビルを建てて景観を保つ方法である。その後この方法は普及し、新丸の内ビル、東京銀行倶楽部、中央郵便局、最近の話題では歌舞伎座がこの方法を取った。当然東京駅もこの方策を考えたがスカイラインが変わってしまい景観保護面から問題が有った。知恵者はいるものである。空中権と言う妙なものを考えだした。東京駅は駅ホーム部を合わせると広い敷地を有している。したがって建てようと思えば高いビルを建てる「権利」を有している。この権利を隣の人に売れると言う「空中権」を設定した。この権利を南側に位置する丸ビルに売ったのである。駅にはもう高層ビルを建てる権利はないが丸ビルは自分の権利以上に高いビルを建てることが出来た。この「空中権」道路公団が都心の高速道路改修に使う計画が有ると聞いた。私個人としては大反対である。なぜならこうして都会からますます青空が失われて行くからである。空中権を売った個所だけ高いビルが無くても所詮そんな穴ボコみたいな場所から太陽が拝めるとは思えない。国民みんなが空中権を主張したら空を飛ぶにも通行権を買わなければならなくなったりすると大変だ。もっともこの人間の悪知恵は世界的で今や二酸化炭素排出権が買えると言う。誰が出そうとも確実に温暖化ガスは増加し地球は危機にさらされる。こんなごまかしを近代経済と称するなら原始共産経済の方がよっぽどましである。
2013.06.17
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東京駅見学会(3) 南北ドーム前ブログで東京駅の南北ドームの天井には干支十二支の紋様が刻まれていることを記した。子丑午卯辰巳午未申酉戌亥(ね・うし・とら・う・たつ・みい・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い)の十二支はそれぞれ方位を表すのにも使われる。その場合子(ね、ネズミ)は北を、卯(ウサギ)は東を、午(ウマ)は南をそして酉(トリ)は西をさす。東京駅の南北ドームを結ぶ線は一直線上にあり、方位的には全く同じで、両者とも子・卯・午・酉を欠いた八つの干支を描いている。まず子(ね)を欠いた後、丑(牛)と寅(虎)が描かれており、次に卯(兎)を欠いた後、辰(龍)と巳(蛇)が描かれ、午(馬)を欠いた後、未(羊)と申(猿)が描かれ、最後に酉(鳥)を欠いた後に戌(犬)と亥(猪)が描かれている。つまり東西南北の中間の方角を示す干支が描かれている訳だ。 実際地図で確認するとすぐ分かるが南北ドームを結ぶ東京駅丸の内駅舎の中心線は南北線から少しばかりずれている。そのため東西南北の干支には遠慮してもらった訳である。ドーム三階部は一部を除いてホテル客室窓でドーム側を予約すれば部屋からドーム下を行き交う乗客が観察できる。江戸川乱歩、内田百聞、、川端康成、松本清張らがステーションホテルを舞台に小説を書いた描いたそうであるが、このシチュエーションを使えばなんか推理小説が書けそうな気もする。今回はホテルの見学ツアーでもあるのでホテルマンが3階回廊に面した窓のカーテンを開けてドーム全景を文字通り覗き見させてくれた。干支の彫像について先日の朝日新聞の記事で読んだ後日譚を紹介しよう。東京駅の設計者は日本の近代建築を多く手掛けた辰野金伍である。彼は佐賀県唐津に生まれ武士出身の近代建築家である。作品の堅牢さから「辰野堅固」とあだ名されたとかで日本全国に大正時代のレンガ建築を残している。その中には日本銀行、国技館、奈良ホテル、郷里の武雄温泉楼門などがあり、地方に旅すると彼の作品の多くがその地の重要文化財として紹介されている。辰野は東京駅と殆んど時期を同じく(1914)して武雄温泉の楼門を建てている。そしてこの故郷の温泉の門に子卯午酉の干支紋を残していると言う。2ヶ月ほど前、4月18日の朝日新聞電子版はこの楼門の2階天井の四隅に下のような卯酉午子(東西南北)の干支紋が描かれていると報じている。この発見は「辰野堅固」とも揶揄された実直な辰野の遊び心が現れているのではないかと評判になっている。 武雄温泉楼門の干支
2013.06.16
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東京駅見学会(2)・ドーム天井東京駅の両端に南・北入(出)口があり、米軍の空襲で破壊されたドームが60年余りを経て今回復元された。高い天井の八角ドームの外観はロマネスク様式の教会みたいである。旧東ローマ帝国だった所に多く見られるこの様式はロシア周辺に多く見られる様式。ドーム全体の色調は漆喰の白・黄・緑で、あのハプスブルグ家の女帝マリアテレジアの好んだマリアテレジアンイエローを基調にした正八角形。もう想い出を食べて生きている私にはシェーンブルン宮殿もさることながらウイーンで宿泊したその名もホテル・マリアテレジアの黄色い建物が思い出される。他のホテルでも白・黄のこの内装の部屋に好んで宿泊したことが何度かある。東京駅南北・ドーム天井の八角形の枠の角には白い鷲の塑像が取り付けられている。この像は小さくしか見えないが高さ35メートルの塔の下とて、実サイズは2メートルを超えるもので一階に実物が展示されている。遠くからハトにしか見えないが富国強兵の時代、平和よりも国力誇示である。明かり窓のある回廊の下はローマ建築を思わせるアーチと円柱模様。アーチの上部には日本の左官たちが仕上げた鏝(こて)絵がふんだんに配置されている。まず頭部のデザインは秀吉の兜の後ろ飾りを摸したものだと言う。自分には神の様に後光が差している差していることを示したかったのだろう。ここでも神国日本を表現しているのだろう。アーチ下部の吊るし絵は鳳凰が大きく羽を広げて羽ばたいている。よく見ると鳳凰はリボンで飾られた機関車の車輪に乗っている。日本の国運とともに国有鉄道の洋々たる未来を象徴している図柄と読める。次回ブログで詳説するがアーチ模様の両端に八個の干支が描かれている。このドームが八角形でそれぞれの方向が干支で表現されている。南北の各ドームは八角形で全く同じ造りである。見学当時は全く気が付かなかったが南北ドームの合わせて16面の内、南ドームの龍と巳(蛇)の方向(南東)の面だけに上のような青い線と点が描かれている。多分専門家のガイドは解説したのであろうが写真に夢中だった私は聞き逃したらしい。この疑問を解明したくて色々な資料を当たったが分からず、Web検索でも100ページ以上を調べたが記載が見つからなかった。仕方なく「Yahoo知恵袋」に助けを求めると程なく回答を頂いた。空襲で旧東京駅が壊滅的被害を受け3階部が無くなったが、その時の資材が一部が保存されており、その資材を元の位置(マーカー部)に埋め込んで使ったものだそうだ。
2013.06.14
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東京駅見学会 (1)下の写真は昨年10月1日の朝日新聞である。東京駅の5年がかりの復元工事が終了したことを伝えている。それ以降「JR大人の休日倶楽部」が数次にわたって駅舎・ホテル見学ツアーを催している。何度か申し込んだがいつも抽選漏れであった。さすがにもう旬を過ぎ先着順となったので行ってみたが、結論から言うとこの間雑誌や会報などで詳しく報道され、も早新鮮味に欠けて失望感が大きい。建築専門家ガイドツアーの集合点は北口ドーム、今さら紹介するのも気が引けるがドームは西洋の大寺院を思わせる美しい造りである。ここでは詳しく述べないが見事な漆喰・鈷(こて)画のモチーフは「和」の題材に満ち溢れている。北口から外を見ると正面に(旧)新丸ビルが見えここも7階までは昔の面影を残した設計とか、私にはそのイメージは感じないのだが。(旧)新丸ビルはこんなにガラス面が広くはなかった。そしてその左手は丸ビル、子供の頃ラジオで聞く丸ビルは丸い形と思いこんでいた。さらにその左で東京駅南口前にはつい2ヶ月ほど前に全面オープンした”KITTE”、要するに旧東京中央郵便局。ここも当初すっかりリフォームするつもりだったが当時の担当大臣鳩山邦夫氏が視察して激怒、し設計し直させたと言ういわくつきの旧式スカートをはいたビル。実はこのツアー最初に新丸ビル7階の屋上テラスに案内される筈であった。そこからは東京駅の全体像を視野に納めることが出来るそうだが、雨の中行ってみると下の行幸通りを皇族か大使の信任状授与式があるらしく屋上テラスは閉鎖されていた。したがって今回駅を一望することは出来なかったが300数十メートルの駅舎全体を見渡せる無料の場所はここが良いようである。すぐ下の行幸通りは東京駅の皇族だけが利用する中央貴賓口と皇居を直線で結んでいる。外国の新大使は貴賓口の車寄せからこの行幸通りを宮内庁さし向けの馬車か車で皇居に向かう。下の街灯に挟まれた馬車道はその時だけ一般の通行が禁止される。そのため普段は下の様にカギのかかったフェンスで区切られている。さて雨の中新丸ビルまで出かけたのに残念ながらテラスにはられなかったので行幸通りからの駅舎を記録しよう。北口ドーム・南口ドームは全同じくものらしいが背景は勿論違ってくる。北口の後ろはシャングリラホテルなどが入るグランドトウキョウノースタワーであろう。駅舎の屋根はスレート葺きで石巻・雄勝町のものが使われている。今度の改修に際して出荷準備が整ったところであの東日本大震災にあい、逸散したのを丁寧に拾い集めてのものだそうだ。写真を見て気が付いたが建物の重厚さに比べて道路の手摺りは何とも貧弱で工事用にしか見えない。
2013.06.14
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目黒界隈 (2)目黒不動に参拝して帰ろうとした時「青木昆陽の墓→」の立て札が目に入った。私は江戸の蘭学について調査・研究したことがあり、杉田玄白・前野良沢で最盛期を迎えた蘭学の濫觴があの「甘藷先生」青木昆陽に有ることを知っている。写真では見たことがあるが自分が今その地に立っていると言う発見は望外の喜びであった。昆陽は甘藷の普及を図り江戸の飢饉を救ったと歴史書は伝えるが、将軍吉宗の命で長崎に渡り蘭学を見聞してオランダ語のアルファベットに関する書を書いたが正しく蘭学の始まりである。墓石の後ろのお塔婆が新しく「青木家」の字が読み取れた。ご子孫が東京に暮し、供養し続けていることにホッとした。毎年10月には記念祭も行われているようで、その際のものと思われる大きなお塔婆も認められた。墓は生前に自分で建てたと何かで読んだことがあるが、確かに銘墨とは言い難い素朴な筆跡の墓を見るとそうかも知れない。この時代「先生」の語は自分でも気軽に使ったものかも知れない。甘藷御用掛と言う役職も務めたそうで、実験地のある千葉県幕張には「昆陽神社」まであると言う。ともあれ我が国の近代化(欧州化)に始めて関わった人がこの敷石の下に眠っていると思うと感無量であった。さらに足を延ばして近くの「林試の森公園」を訪ねた、ここは林業試験所の跡地でそれだけに樹相は豊かで時々変わった植物も見ることが出来る。 タイミンチクは昔の「明国」に由来し、九州沖縄地方に生育するもので葉は柔らかく、株立ちの竹。節の間が長く横笛を作るのに用いられる。「マケドニアマツ」は初めて聞く名前であるが樹形がよいのでヨーロッパでよく植えられているそうだ。バルカン半島原産で葉は五葉一束。我が国では五葉の松が盆栽に多用されるがこの様に大木にはならない。「ナナメノキ」も初めて知った木だが関西以南ではよくある木だそうだ。鮮やかな赤紫の花を咲かせ真っ赤な実を付ける。Webでは「ナナミノキ」でしか見当たらずやっと同じものであることが分かった。どうも「七実の木」がその名前で読み方の違いらしい。写真の表示をよく見ると別名ナナミノキとあるではないか。最初「斜めの木」と思ったので分かってしまえば少々がっかりであった。この公園は由来が林業試験所だけに自然林の様相で樹蔭は濃いが人影は薄く、渓流を擁して東屋などもあり大人の時間を過ごすには良いところであった。この日の歩数計は一万歩をはるかに越え、この頃には持病の坐骨神経痛は左足をひどくいじめ始めたので早々に退散した。
2013.06.12
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目黒界隈 (1)目黒雅叙園を見物し昼食も頂いたので付近をブラつくことにした。目黒と言えば「落語・目黒のサンマ」だろうがその舞台・爺々ヶ茶屋や江戸幕府の信任が厚かった目黒不動がある。とりあえずお不動さんを目指したが沿道に蛸の画を壁に描いた「蛸薬師」と書かれた寺が目に入った。この小さな寺は「不老山成就院」で開山の慈覚大使自作の3匹の蛸に担がれた薬師如来像が本尊.あらゆる福を吸いあげてくれ、疫病を吸い取ってくれるそうだ。注意してみると賽銭箱に三つ葉葵の紋どころが付いている。大げさなと思いながら本堂横に回ると石像が並んでいる。これらは「お静地蔵」と呼ばれ、右から3体は観音像、中央に阿弥陀如来、左3体は金剛地蔵である。徳川秀忠の側室お静の方が納めたもので、静の方は三代将軍家光公の名補佐役で高遠、会津藩主の保科正光の母である。これらの像は保科正光の転機に際して母として祈願したり、大願成就の礼として納めたもの。爾来願い事の寺として信仰されており、成就院とはなかなかの命名である。将軍家光が目黒でのタカ狩りの際身分を隠してこの寺で休憩した、その際住職は「将軍様は情が薄い、世間では兄弟は力を合わせるものなのに実の弟を軽んじている」と聞かされ、初めて正光が自分の異母弟と知った。爾来家光は正光を相談役にそして次代将軍家綱の後見人に命じたと言う。そんな母の思いが「お静地蔵」には込められている。江戸の史跡にはこんな人情話に関するものが多く、京都の煌びやかな、そして庶民の日常生活とはかけ離れた貴族や高僧の史跡と異なる点が多い。目黒不動はすぐそこである。湧き水の「水掻け不動」に水をかけ自分の手を清めて石段を登る。浮世絵に見るように江戸時代この地は郊外の名勝地で多くの人にとって信仰よりも娯楽の地だったのだろう。富士見の名所として浮世絵にも好んで描かれている。寺とは思えない神社風の佇まい、神仏混淆の時代観光地の寺社はこの様だったのだろう。
2013.06.11
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目黒雅叙園 (5)この日の文化財・百段階段ガイデッドツアーには昼食が付いている。私らにとって百段階段よりも食事がメインで楽しみであった。10人足らずのツアーだったが他の客は皆洋食コースで和風の「渡風亭」に行ったのは爺婆一組だけ。ここはコーヒーラウンジと言いこの渡風亭と言い、要するにホテルやその庭園も含めて全体がガラス張りのハーフドーム屋根の中にある。これなら梅雨時でもじめじめした感じはしない。渡風亭は本来、部屋を個室として使うためにはルームチャージがかかるがこの日相席の部屋にたまたま客が一組と言う訳だ。色んな部屋があるのだろうが通されたのは凝った造りとはいえ好もしいシンプルな部屋。床間もシンビジウムを生けた静かな造り。白砂の壺庭には松の木が置かれ青松白砂の風景。天井には遠慮がちに草木絵図が描かれている。刺身の入った鉢の蓋はこの日から始めたというアジサイの蓋が、横の先付け台にはユルキャラ縫いぐるみのようなソラマメ君、ゴマの黒い瞳を付けてちょいとアジサイの横まで出張撮影。
2013.06.10
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目黒雅叙園 (4)結婚式・宴会場の屋上には見事な芝生広場が広が屋外りチャペルや円形の式場が広い池に影を落としている。多分この芝生で参会者の記念撮影なども行われるのだろう。水上には大きなは―プと演奏者の椅子がオブジェとして配置されている。その庭の広がる階の廊下から反対側を振り返ると正面にエレベータータワーがあるが和瓦葺きのお城のようなタワーである。そのエレベータータワーの窓から下を見ると1階連絡通路の横に広がるコーヒーラウンジと庭園、左側には宴会場の廊下が伸びている。その宴会場の絨毯敷き廊下の天井は天井画をはめ込んだ格天井様式である。確かに日本一の結婚式場と謳っているのも頷ける。もっとも日本一の基準の置き方は様々であろう。ホテルでは神式でもキリスト教式でも出来るところが多いが仏式やイスラム式などで出来るホテルもあるのだろうか。今更せん無いことだが私ならこんなコテコテの式場は御免蒙りたいところである。
2013.06.09
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目黒雅叙園 (3)雅叙園は今ホテル、結婚式・宴会場、喫茶・レストランを運営しているがホテル棟の低層階が喫茶・レストランで長い回廊を通って結婚式・宴会場と繋がっている。その湾曲した回廊の壁は等身大の人物を配した浮世絵風の彩色漆喰壁画で埋められている。写真では平面的に見えるが人物はそれぞれ立体的に描かれている。日本の伝統的風習・行事をモチーフにしているが手法はあくまでも派手派手で、巨大な浮世絵を見るようである。こう言う作品を「鏝絵(こてえ)」と称する。白い漆喰の塑像は蔵の漆喰装飾などでよく見かけるがこれほど精緻で色鮮やかなのは見たことが無い。鏝絵を左官の手仕事から芸術の域に高めたのが伊豆松崎の入江長八である。松崎にはその作品を集めた「長八美術館」があるが雅叙園の鏝絵も松崎の左官たちの作品である。長尺の絨毯は一枚織と言うことはないと思うがそのようにしか見えない。派手派手の連絡路の先には結婚式場・宴会場が続く。結婚式・宴会場はそれらしき水引きの縁結びを頂いた屋根で始っている。竜宮城の入口みたいな感じ・・まだ私は竜宮を知らないが。寺社での結婚式、宴会場での披露宴を一会場に纏めて済ませる現代式は雅叙園が出雲の神様を勧請して始めたものだとか。ここの装飾は一貫して庶民レベルでの風俗・祭などがテーマで神秘的なもの・教訓的なものなどは一つも無い。細川力蔵が身分の高い層の出身ではなく、東京に出て丁稚奉公から始めて財をなし、徹底的に庶民の楽しみのために造った施設である。(閑話):昨日公園を散歩していたら池で足ひれを付けてゴム袋に乗っかって作業している三人の女性がいた、近くに掲示があり、池の魚を守るため外来魚や亀を捕獲する網を設置しているとある。亀を助けて竜宮城に行ける時代は去ったみたいである。今や亀は生態系破壊の悪者らしい。先日ここで亀を釣り上げて困惑している子供がいた。
2013.06.08
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目黒雅叙園 (2)エントランス左側に百段階段専用のエレベーターがありこれが外扉・天井・壁面と漆にはめ込んだ壁一面の象嵌模様である。テーマは唐獅子牡丹、百獣の王獅子の安住の場が牡丹之花の下なのだそうで、昔から刺青にも多用され男気の象徴とか。小さな箱ものとは違って巨大な象嵌細工である。 エレベーター内部廊下のディスプレイも派手派手、並べられている家具調度品も殆んど螺鈿細工の豪華なもの。雅叙園が造られた昭和初期は世界不況の最中で職人たちには仕事が無かったが雅叙園に行けば仕事にありつけると言われていたそうだ。趣味が悪いと言えば悪いが一般市民を贅で酔わせ、一日竜宮城に来た気分を味わわせるのがその趣旨であった。中でも著名画家を動員して飾られた百段階段は戦災を免れ、文化財の指定を受けており、撮影は出来ないがホームページでその様子がうかがえる。崖の傾斜を99段の階段で結び各所に贅を極めた7部屋が配置されている。各部屋は当時最高の日本画家によって天井・欄間・襖絵などが描かれ、障子も精巧を極めた組み細工模様を施している。これらの様式や豪華絢爛の湯屋百人風呂などは宮崎監督のアニメ「千と千尋」のイメ―ジモデルとなったそうだ。極めつけはトイレ、下の写真中央部を見るとガラスドアに赤いスカートと青いスーツ姿の画が見え、黄色い「清掃中」のマークが見えるが中は美術館の展示室のような大盤の象嵌模様。ガイドの方が盛んに勧めてくれるので利用することにした。 トイレ前室太鼓橋を渡って入場すると個室のドアがあけ放たれて内部がよく見えるようになっていた。その時必ずしも呼ばれてはいなかったが入室することにした。 男子トイレ・左が大、右が小何と個室のドアも総漆塗りで枠には象嵌まで仕込まれている。男性の個室にも各部屋に鏡と化粧台(現在蛇口は使用していない)思い出したが「百段階段」の女子トイレは4畳半くらいの畳の間で中央に便器。昔のご婦人は重装備でその時もお付きが同時に入室して裾を持ちあげていたため広い部屋が必要だったようだ。ベルサイユにはトイレが無く、壺一つ或いは屋外に出ればどこでも用が足せたと言う。ペチコートはそのためのデバイスともきいた。古いヨーロッパのホテルや下宿屋には部屋の隅に壺が置いてあっただけと言う。パリの下水道が発達したのも壺の中身を公道にぶちまけることが多かったためと聞いたことがある。その名残か私も安ホテルで部屋の隅に置かれた壺を見たことがある。勿論私は夜中に階段と廊下を使って用を足したが。ある日本人の先生がアイルランド滞在中この壺で糠浸けを楽しんだと言う実話も聞いたことがある。雅叙園のトイレには化粧台の下には漆塗り・象嵌の曳き戸まで付いており、女性用は知らないが男性用でも広い。細川力蔵のコンセプトは庶民に一日殿様か竜宮城での生活をと言うことで日光東照宮の装飾様式がそのコンセプトだとか。だが、冥土の土産話位には成るとしてはたして快適な一日を送れただろうかちょっと疑問でもある。
2013.06.07
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目黒雅叙園 (1)目黒駅から目黒川に向かって幾つかの坂道がある。現在は目黒通りの権之助坂が主道であるが、かっては左側の行人坂が主で険しい下りである。ここからは目黒川の谷越しに富士山の景色が圧巻で江戸の名所を描く広重の「目黒の富士」「目黒太鼓橋」などで有名である。坂の途中には「八百屋お七」の恋人吉三の出家寺・大円寺もあり、行者が多かったことから行人坂と呼ばれるようになった。近年は目黒川の花見で賑わう場所でもある。その行人坂を下りきった川淵に結婚式場・ホテル・レストランである「雅叙園」があり、国・都の文化財に指定されている「百段階段」がある。昼食付きガイデッドツアーがあると言うので予約しておいた。急な坂道の左側は自然の崖でその斜面に沿って雅叙園がある。創立者細川力蔵は公衆浴場の丁稚奉公から始めて昭和初期この地の肥後熊本・細川藩邸を譲り受け(力蔵と細川藩は無関係)、再生温泉(温泉成分を加えた人工温泉)、料亭などを組み合わせた一大娯楽センター「雅叙園」を開業している。コンセプトは市民のための贅を尽くした豪華絢爛の施設と言うことで、床・天井・壁などあらゆる場所を絵画、彫刻、漆螺鈿などで覆い尽くすものである。ホテルのエントランスとしては異例の寺社造りの屋根、屋根の鴟尾は豪華な鳳凰だろう。昔の看板をそのまま使ったとかで右書き、車寄せから外を見ると街中にありて深山の趣、玄関ホールの裏側は自然崖に沿って茂るモミジと緋毛氈、奥の回廊沿いの庭には滝、池、せせらぎが配され、滝の横にはモミジに埋もれた石段が、そして自然の高い崖を緑で埋めつくした庭は壁一面を占める一枚ガラスのカフェラウンジとなっている。さらに木立に囲まれたところに萱葺き風の建物があり、これは和風レストラン「渡風亭」でこの日の昼食はここで頂いた。
2013.06.04
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(続)中学運動会体育館の2階窓を見ると各学年各組のスコアが張りだされている。撮影時は気が付かなかったが良く見ると屋根の上に1人係がいるではないか、なんか昔の甲子園球場のスコア係みたいである。各組の数字の上にはそれぞれ応援ロゴまで記されている。そして応援席にはその応援ロゴを描いた大きなポスターを用意している。きっと駆けっこの遅い生徒もこういう形で貢献し組の連帯感を養うのであろう。自分の守備位置でその重責を果たすことは良いことである。さすがは漫画世代、なかなかユニークであり、表現力もある。思いもかけず懐かしく楽しい時間を過ごさせてもらった。
2013.06.03
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中学運動会この前の土曜日大きな声がするのでベランダに出てみると近所の中学校の運動会が行われていた。我々の時代、運動会は秋の行事で季語でも有ったが最近は初夏の行事みたいである。やれ文化祭だ受験勉強だと秋に集中するのは困ると言うことだろう。この中学でも例年5月の末か6月の初めに運動会をしていたが私の記憶ではいつも雨中か曇り空の運動会であった。そう云われてみれば近年梅雨入りが早まった気がする。一昨年は5月22日に鹿児島に旅して梅雨入りに会ってしまった。今年も5月27日には近畿まで、28日には中部、関東も29日には梅雨入り宣言。そのことを見越して今年は1週間早めたらしく5月25日(土)は快晴であった。自分の中学以来約60年ぶりに中学校の運動会を覗いて見ることにした。スタートラインを見ると赤、白、黄、青、緑と5組に分かれているようだ。つい最近まで運動会は「赤勝て 白勝て」と紅白で競った気がするが、今は5色でユニフォーム姿である。当然鉢巻きや応援旗も5色が振られている。来賓席や本部席は昔ながらであるが昔のように威張って座っている人はいない。かって田舎の小中学校の運動会は村の行事で村長や議会長、警察署長、他校の校長、PTA会長といったお歴々が並び家族は重箱弁当を持って応援に駆け付けたものだ。好天に誘われて父母や私のような野次馬も混じってなかなかの盛況である。私の隣に立っていたお母さんは「今年1年生の子供がするので今からドキドキしているんです」と言っていた。選手入場、ゼッケン配布、コース整備と3年生は大忙しで運営に携わっている。赤い先生は現場指揮者らしく激しい動きを見せていたがソックス・靴まで赤とはすごい出で立ちである。好天は良いとして埃っぽいグランドには係が水を撒いている。一つのジョーロを両手で持つ子、一遍に2個のジョーロを使う子、こんなところにも子供の性格が出るのだろう。多分の子の性格が出るのだろう。そんな邪推をしながらの天邪鬼野次馬rakuten.2人3脚が始まった、早い組があっという間にゴールする半面途中でスタックしてしまった二人、どうやら最近は鉢巻きで結ぶのではなくマジックテープ付きの紐らしい。何度付け変えても走り出すとすぐ解けてしまう。先生が駆け寄って結ぶも結果は同じ、先生本部に疾走した。新しい紐を持ってくるまで二人は立ちん棒、暫くして新しい紐で無事完走観客からはヤンヤの大拍手(パチパチではない)。
2013.06.02
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ホテル山中湖サロンホテルマウント富士以外にはあまり著名なホテルのない北岸であるが、昨年新しい会員制のホテルが開業した。ここからの富士は左に宝永山の僅かな膨らみと右肩に小御岳の台地を望む絶好のロケーション。湖越しに富士山を望む眺望は極めてよい。各部屋にはバルコニーに丸いエンタシスがあり、部屋からは富士山を部分的に遮るのは残念である。ズームで捉えた富士の登山道は幾何学的なジグザグ模様をえがいている。下の写真は2階が温泉浴場、1階が温水プールでいずれからも窓いっぱいに富士山が広がっている。ロビーやその上のレストランもいずれも円形である、この建築家は円が好きなのだろうか。石を積み上げるローマ建築には円形が多いがコンクリートの近代建築では施工や使い勝手から四角形が多い。しかし浴場やレストランなどでは心をゆったりさせてくれ、私は個人的に好きな形である。屋内の柱も円柱で統一されている。ロビー天井の照明は鹿の角の組み合わせである。初めてのお試し宿泊であったがまずは気持ちいい滞在で今後も楽しみである。道路を隔てた湖岸では白鳥たちが朝の散歩を楽しんでいる。
2013.06.01
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