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早春の早咲き野草二十四節季では今は土が湿り始め、霞がたちはじめると言う「雨水」に相当する。地中の虫が春を感じて這いだし、桃の花が咲き始め鶯が鳴きはじめると言う「啓蟄」もあと10日足らずとなった。Wikipediaより我が家の屋上花壇にオオイヌノフグリが咲き始めたので小さい春を見つけるべく、昨日の散歩にデジカメ(変な日本語、disital cameraからの派生語?)を持参。早春から初夏まで至る所で咲きまくる「オオイヌノフグリ」 こんな可憐な花名にふさわしくない名である。何とかならないものだろうか。近縁種に「タチイヌノフグリ」と言うのまである。もう一つ春の花の定番に「ホトケノザ」がある。通常仏像は蓮の葉を敷き詰めた仏座に座っているが、丸い葉っぱがこの仏座に類似しているためだろう。それにしても僅か1センチにも満たない小花であるが形はオーキッド蘭にそっくりである。もう一つ春の野草の定番にヒメオドリコソウがある。これもまた花びらの細部を見ると蘭に酷似している。地を這うような小さな雑草であるが”姫”の付かない「踊子草」は4,50センチの茎が立ち上がった別種である。オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウの3種は目立たない存在ながら春の先駆けとして一番早くそしてどこにでも見られる早春の花である。まったく気に懸けていなかったがカメラを地べたに這わせていると他にももっと地味で目に付かない花が咲いている。ナズナ(=ペンペン草)に似た「タネツケバナ」らしい花が有った。茎・葉・花とこれ以上地味な花も少ない。さらに探すとハコベの仲間も気の早いものは花を出そうと思って余りの寒さに首をすくめている様子である。これらはみな北風の当らない南向きの塀の根元で咲いていたもので例外的に早く咲いていたものを探し出して撮影したものであるが、いずれにしてもこれらが咲いたと言うことは文字通り春はもうそこまで来ている (Spring is just around the corner)。そうすぐそこの曲がり角をこちら方向にハンドルを切ってくれるだけでいい。私の啓蟄ももう少しの様である。(とは言っても今朝の寒さはこの冬一番の冷え込みで-2℃、トホホ)
2013.02.25
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東京交響楽団と東儀秀樹さんのコラボ演奏会 面白いコンサートの切符を手に入れた。東京オペラシティー・コンサートホールで開かれる「東儀秀樹 雅楽器とオーケストラの世界」と題するものである。下の写真および青字解説文は徳川美術館のホームページからお借りしたものである。 笙 銘 さなぎ 筑州大善寺明乗作・篳篥 景仁作しょう めい さなぎ ちくしゅうだいじょうじみょうじょうさく・ひちりき けいにんさく 笙は中国起源の楽器で、奈良時代に中国から伝来した。下部の吹口である匏(つぼ)の上に、長短十七本の竹管を立て、ハ-モニカのように吹いたり吸ったりして鳴らす管楽器である。雅楽の中では和音を担当する。 篳篥は表に七つ、裏に二つの穴を空け、管の表面を樺の皮で巻き、漆を塗った管に、葦の茎を削ってつくる舌(した)を差し込み、くわえて吹奏する。雅楽では主旋律を担当する。 笙は「ショウ」と読み、篳篥は「ヒチリキ」と読む。東儀さんの語りによると笙は中国で生まれ日本に渡って来た、一方シルクロードを経てヨーロッパにも伝わりパイプオルガンになったとも言われている。コンサートホール正面のパイプオルガンの前で笙を掲げてよく似てるでしょうと言っていた。確かに恐竜とトカゲの関係にも見えた。また雅楽器としての類推からだろうがその形は羽をすぼめた鳳凰の形をしているのだそうだ。篳篥は約18センチの竹の筒に葦で造ったリードを付けたものとか、両手に収まってしまう大きさの篳篥で数十名のオーケストラと協奏出来る音量に感心した。両楽器とも構造が簡単なだけに音出しや音色には熟練が必要だろう。上の案内文に有るように笙は和音を奏でる、と言うことは同時に二つの音源を鳴らすと言うことだろう。小学生の頃音楽の先生がオルガンの鍵盤を同時に二つ押してこれが和音ですと教えてくれたのを思い出す。篳篥はメロディーを担当するらしい、本質的に横笛やピッコロのような役目なのかなと思う。もっと美化して言えば笙は天から降り注ぐ光(神)の声を、そして篳篥は人間の声を象徴していると解釈されている。 オリンピックで荒川静香さんが優雅に舞った時のあのブッチーニのオペラ・トゥランドットの曲「誰も寝てはならぬ」では篳篥のソロ。荒川さんの”イナバウアー” での反り返ったスケーティングを思い出して大いに楽しめた。 東儀秀樹さんのオリジナル「大河悠久」では地上を、そして太古から未来への時間軸を流れる大河のながれを、そして「光降る音」は彼が描いた同題の絵本の物語に因んでその情景を音にしたと言うことである。そして「幻想のアプサラ」はアンコールワットで何度かコンサートを開いたそうで、あの天女の舞うアプサラダンスを通して語られる仏教の教え・自然との調和・祈り・悠久の歴史を刻む時間の意味などを笙と篳篥と壮大なオーケストラの音に載せたもの。 小さな篳篥からの音がオーケストラの音にかき消されるかと思うとオーケストラを圧倒して高らかに鳴り響いたりする。勿論編曲はされているとしてもオーケストラ楽曲を書きあげる東儀さんの多能ぶりには恐れ入る。彼は実に多趣味で音楽もロックバンドからシンセサイザーまでと雅楽・西洋クラシック・ポップス・ロック音楽と幅広い。絵も絵本を出すほどの腕前、料理や模型いじりなども好きだそうで東響指揮者の飯森範親さんとのトークで盛り上がっていた。またダイビングやカーレースが大好きで海の中での動きを宇宙遊泳になぞらえていたが、宇宙飛行士になる夢はまだ捨てていないそうだ。そこで番外のとして宇宙を漂いながら病んだ地球を見つめる自分を想像して作曲したという「地球よ優しくそこに浮かんでいておくれ」と言う曲でコンサートを締めくくった。 なんだか久しぶりに優しい気持ちになれた冬の一日であった。
2013.02.24
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白隠展(続) 禅宗は中国宋の時代に達磨大師により開かれた仏教で日本には 鎌倉時代宋から渡来した僧によって普及した。竹を割ったような論理で 分かった様な分からないような禅問答を通しての修業は公家政治から 武家政治に移った時代の武家の素養を高める為に取り入れられた。 戦国時代になって武家たちは戦いに忙しく禅どころではなく、衰退して いたが江戸時代中期白隠禅師が斬新な発想で再興をしている。 初期の禅宗は5派であったが我が国で普及したのは主として曹洞宗と 臨済宗の2派である。白隠は特に臨済宗に大きな足跡を残し、かって 静岡地方の言い伝えに「駿河の国に過ぎたるもの二つあり、富士の お山と原(白隠の生まれ故郷)の白隠」と言われていたそうである。 白隠の禅画には殆んど讃文が添えられている、古い時代の画には 余白に画家の知人が賛辞を書きこんでおりこれを”讃”というが、白隠は 殆んどすべて自分で記入している。絵と合わせて禅問答の設問と解答 と言う捉え方をして見ると面白い。 「隻手(せきしゅ)」 隻手とは片手のことで両手をたたけば音がする、 どちらの手から出たのかそれを聞いてこい」と言う設問(臨済宗では 公案と言う)を絵で表現したもの。現代に生きる私が雲水(修行僧)で 有れば「古においては右が正当・正義とされたが現代においては左手 も右手の補完ではない。師の公案は右手なりや、左手なりや 問い 申そう」 と答える。「馬鹿もの 仔細にこだわるでない 本質を見よ おぬし 剣豪ドラマの見過ぎじゃ」 白隠は文字を組み合わせることで絵を描く手法を多用する。下の「鐘馗」の絵は画題、文字列共に老脳からは抜けだしてしまったが顔と剣以外の線は合わせると「4文字禅語」となっていた。讃文を読み解く力もない。「鍾馗鬼味噌」 魔よけの番人鍾馗さんは五月人形の人気者である。この絵では小悪の小鬼どもをすり鉢ですりつぶし”鬼味噌”を作っている。ここでの小鬼とは我々の心中の欲で、全ての欲をすりつぶして辛口の味噌にし、それを舐めて見よ。神も仏も悪魔も全て人間の心中に有り、みなすりつぶして考えて見よ、と言う禅の心そのものを表わしている。「すたすた坊主」 大道芸をしたり乞食をしたり、多忙な商人に代って寺詣りをする現代の代行業のような坊主がいた。人々の幸福を願って代参する貧乏僧を自分になぞらえている。自分の姿を布袋さんになぞらえて描いたもの。他人の幸せを願う心がその人を幸せにし、この様な美しい笑顔にするのであろう。 白隠は禅僧であるから勿論禅宗の開祖達磨を多く描いている。 この展覧会では六角形の大きな部屋がすっぽり達磨画で飾られ 中央の椅子に座ってどちらを向いても色んな形相の達磨さんと対峙 することになる。 達磨さんは誰も知るように座禅に励み足が退化してしまった人なので 半身像または肖像画が多いが何れも巨大で大胆な線で描かれている。 特に達磨を描いた場合一気に仕上げたものが多く下絵の線など 無視しっぱなしの絵が多い。 達磨さんの絵を含めたかったが前ブログ冒頭の「朱達磨」以外には パンフレットに無く、Web上でも殆んど見かけない。 TVからの転載と思われる上の画像があったが出所がよく分からない。 この画像のリンク先を付記してお借りすることにする。
2013.02.23
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白隠展渋谷文化村美術館で白隠展が開かれている。2年ほど前にたまたまNHK「日曜美術館」で「白隠の書」と言うTV番組を見、そして数週間前に山田五郎さんの「ぶらぶら美術館」と言うTV番組を見て心打たれ、見に行きたいと思いつつ気が付いたら今週いっぱいである。最後の週末は芋漕ぎ状態だろうから急いで行ってみた。ウィークデイの午後とて程よい込み具合であった。カタログを購入しようと思ったが大部で値段もそれなりなので会場に備えられているものを見て済ませたがブログを書くとなると殆んど老脳からは消え失せている。さしずめ下の公告パンフレットのようにタバコの煙である。そんな訳でパンフの写真を転載して思い出しながら綴ってみることにする。 パンフ表紙 パンフ裏表紙いやそれは失礼かもしれない。このパンフの絵は買い求めた絵ハガキのように2幅一対の絵で構成され、布袋さんのキセルから立ち上る煙の先には”寿”マークの着物を着たお多福さんが舞って。白隠禅師(1685-1768)は現在沼津市の原に生まれ、幼年期母に連れられて行った寺で地獄の説法を聞き恐ろしくなり15歳で出家し、厳しい修行積みながら諸国行脚して説法した。現在の臨済宗中興の祖といわれる人物である。80余の生涯一貫して民衆の教化に捧げ、その手段として数えきれない数の特異な書画(禅画)を描いている。いわば講義の版書みたいなもので格式にとらわれない独学の画法・書法で禅の教義・考え方を描いている。下の絵は「半身達磨」 朱(あか)達磨とも通称される2メートル近い大作で、達磨像と言うよりは自画像であろうと言われている。思うがままの画法で目玉・睫毛・鼻孔は濃く、胸毛もじゃもじゃデッサンの線が見えるがそんなものは関係なく気に向くままの絵である。背景の黒も墨絵としては珍しい。「白隠の絵」と言えば多くの人がこの絵を思い浮かべる。讃文として 「直指人心 見性成仏」のが有るがこれは禅宗の開祖達磨禅師の標榜する禅の真髄を表わす言葉で「自分の心にこそ仏が宿り、それを自覚することで仏になる」 この思想画白隠禅画の全体を流れるモチーフである。http://translate.google.co.jp/#es|ja| 神仏摺合の時代である。仏教の説法にも民俗信仰の神々は 一体化して登場する。下の「百寿福禄寿」では福禄寿の周りに 100種類の書体で”寿”の字が描かれている。「寿」はイノチナガシ と読むのだそうだ。「蓮池観音」 悟りの白隠でも母への慕情は到底捨てがたく、その思いが多くの観音像を描かせたらしい。この絵は極楽浄土で蓮の池に浮かびリラックスする母を願っての絵とも思われる。私にもあの苦労した母親をワイキキの浜に連れて行きたいと思う気持は深い。(白隠さんにとっても観音様は完全に女性化した菩薩様になっている)一方写真からはみ出してしまったが右側に衝立てが有り、そこには「衆生を救うはずの菩薩が俗世を離れた所にやってきて、骨休めとはいかがなものか」 と言う文句が書かれている。これは自分への戒めだろう。他にも絶景の滝を見上げるっラックスした観音様など穏やかな絵が有る。 (続く)
2013.02.21
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みなとみらい地区今回の小旅行は「みなとみらい」から横浜港を眺めるのが目的なので翌日チェックアウトの時までホテルからは一歩も出ずひたすら全面ガラス張りの部屋の窓から港の光景を眺めていた。翌日チェックアウトして4階建ての商業施設(通り)を経てランドマークタワーに向かった。このランドマークタワーは70階300メートル弱で現在日本では一番高いビルだったと思う。(関東より下は嫌だと言う大阪人魂は間も無くこれを凌ぐものを建てると言うがもう出来ているかもしれない)。スカイツリーが一番と言う人もいるが、ビルと塔を一緒にするのは間違っている。いずれにしても「ビル高きがゆえに尊からず」と言いたい。それでも最上階のホテルに泊って天井から重しを吊り下げてその揺れを観測してみたいものだがそれが不可能なことは百も承知である。ランドマークタワー下の景色としては巨大な観覧車と日本丸が目立つ。かっては海洋訓練船として重責を果たし今は後継船に譲って老後をここで過ごしているが年何回かはホ帆を張りまぐらしてかっての晴れ姿を披露しているみたいである。お正月にニュウグランドに泊った時ランドマークタワー展望台の搭乗券が付いてきたがまだ使ってなかったので最上階の展望室に登ってみた。日本最初の国際港だけあって周囲には所々にレンガ建ての歴史記念館が見える。緑屋根は歴史記念館であろうか。この辺りは三菱系の倉庫や造船所が有ったとかで改装はされているが、まだ屋根や外壁などの古い倉庫景色も残っている。一方馬車道として再開発されている赤レンガ地区はすっかり古いレンガの建物を生かして観光施設に変貌している。その馬車道の向こう側に見えるのが山下埠頭大桟橋で屋上は芝生公園として整備されており、国際港として過去も現在も日本最大級の旅客桟橋である。国際航空路の無かった戦前はここが文字通り日本の表玄関であり、世界中の著名な人物が通過してる。この日そこには飛鳥と共に日本を代表する旅客船の”にっぽん丸”が停泊していた。上に記したように帆船”日本丸”が係留されているのはみなとみらい地区、そして”旅客船・にっぽん丸”が係留されているのは山下埠頭・大御桟橋である。(閑話)大体”日本”と言う字の読み方も分かれているので「日本・にほん・にっぽん・ニッポン」と表記を変えれば混乱してくる。固有名詞として用いる場合は好き勝手である。憲法でも他の法律でも我が国の名は漢字だけが指定されており、読み方は決めていない。”にほん派” は東京の日本橋、日本大学、日本生命など、”にっぽん派”は 大阪の日本橋、日本体育大学、日本電気、日本銀行などである。したがって言葉の起源である”ひのもと” でも良い。どちらかと言うと右寄りの人はニッポンを使いたがり、左よりの人は日本を使いたがる。戦前の軍属がニッポンを重用した名残であろう。変幻自在の日本の姓名では好き勝手である。知人で”天(たかし)”(天は高いので)という名の人がいるがそんなことなら日本が”東(ひがし)””日の出”など何でもありとなる。 展望室にここからの夜景の写真が掲げてある。なかなか綺麗である。 前夜のホテルも国際会議場・展示場、先月巡った京浜工場群の 灯りが美しい。タワーから降りて市内観光地巡りの”赤い靴バス”で市内を巡った。マリンタワーやクラシックな歴史博物館が印象的である。山下通りを歩いている時グランドホテルの隣りに眼を惹く建物があった。よく見ると今は某宗教団体の所有になっているが、旧イギリス7号館で関東大震災以前の商館で唯一現存するもの。
2013.02.18
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ホテルの窓景色30階建てのホテル中層の部屋からは横浜港が一望できる。考えて見ればここは徳川幕府が列強に強いられて開港する際なるだけ不便な地としての寒村横浜村を選んだことから始まった。幕府の期待とは逆に港として適した地形のこの地は1,2年で国際的貿易港としての立場を確立している。今目の前にしている窓越しの光景は寒村とは程遠い光景であるが日本の近代化がこの地から始まったことを想い起すと感慨深いものがある。ホテルが立ち並ぶこの「みなとみらい地区」も最近の再開発までは造船所などわが国の近代化を支えた重工業地区であった。近年横浜のシンボル的存在となったBay Bridgeも大型船の出入を予想してハイゲート構造であるが、現在地中海などで活躍しているクルーズ船は10万トンをはるかに凌駕し、先年私が乗ったイタリア船は15層の高さで高層マンション大である。したがってそう云う船は橋を潜って山下埠頭大桟橋に横付けとはいかないみたいである。まだ日本にそのような大型船が寄港することは稀であるがそんな場合橋を潜らず磯子埠頭に着くと何かで読んだことが有る。港内では白いカッコいい船が巡航していたがこれはレストラン船のRoyal Wingで殆んど絶え間なく動いているところを見るとランチ・アフタヌーンティー・ディナークルーズと忙しなく客を変えて湾内を巡航しているみたいである。その間にも眼下のピアーには湾内水上バスがひっきりなしに出入りしている。目を転じると大黒埠頭を介してBay Bridgeに繋がる翼橋の橋脚と後方の京浜工業地帯のカラフルな煙突やタンクが目に入る。 さらに遠くにズームアップすると小高い丘の上に大きな緑の甍が見えるが、これは曹洞宗本山・鶴見総持寺の大伽藍である。その右には羽田空港に離着陸する機影が見える。眼下に視線を移すと小型のタグボートが勢ぞろいしている。ズームアップして船名を読むとローマ字表記で ”吉野、春日、京都、加賀、天山” などと読める。港のタグボートとこれらの歴史観光地区との相関は何なのだろう。窓の直下には瀟洒な浮桟橋があり天井に"Sea bas"と表記した総ガラス張りの小型フェリーがひっきりなしに接岸している。あたりが暗くなるとこの浮桟橋は空飛ぶ宇宙船そっくりである(まだ見たことも無いのだが)。桟橋は太陽パネルで中央の管理棟が宇宙船の本体に見える。遠くの工場の灯りは宇宙の星々である。隣のピアには宇宙船とは対極にある屋形舟風のディナークルーズ船が客待ちしておりやがて湾内に消え去って行った。
2013.02.17
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今週の想定外事象 !! 今週は先々週のアルジェリアでの悲劇に続いてまたグアム島で 悲劇が発生した。いずれも全く予期しない突然の想定外以外の出来 事である。冥福をお祈りする。 想定外と言えばシベリアに落下したと言う隕石(Youtubeの画像をリンクする) の飛来も驚いた。 普通の流星群が数ミリ大きさだと言うが今回のは17メートルも あったとか。この位では天文観測にはかからないものらしい。 一方大分以前に発見されていた小惑星の方も今朝NASAの宇宙船 よりも地球に近い所を通過したがこちらは直径45メートルとか、 隕石とあまり違わないがそこは小惑星と言われるだけあって太陽の 周りを周回しているので予測できたのだろう。宇宙船に衝突する ことも無く、地球に吸いつけられることも無く無事彼方へと飛んで 行ってくれたらしい。大きな隕石の衝突が恐竜を滅ぼしたと言うが 人類を滅ぼすような天変地異を起こす衝突で無くてよかった。 ドイツやアフリカには大きな隕石の落ちたクレーター地形が有るそう だがアメリカにもクレーター国立公園が有る。地球には大気が有る ために殆んどの隕石は大気中で燃え尽きて粉々になってしまうが、 大気が無かったり薄かったりすると月や多くの惑星に見られるような 無数のクレーターが有るそうだ。と言うことは地球以外の星では隕石の 衝突はそれこそ日常茶飯事の現象なのだろう。つまりそれだけ宇宙 空間には星屑が無数に漂っているのだろう。 今でこそ月や惑星のクレーターは普通に感じるが始めて人工衛星が とらえたレーターに満ちた月の風景写真は衝撃的であった。
2013.02.16
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パシフィコ横浜 今年のお正月は長男・次男一家と横浜New Grand Hotelで合宿した。3人しかいない従兄弟同士である孫達に共同生活をして家族の絆(Family Tie)を結ばせるためである。山下公園に有るグランドホテルの部屋からは馬車道の赤レンガ倉庫の向こう側のパシフィコ横浜地区に、横浜港を意識して帆を張ったデザインのIntercontinental Hotelの姿が美しく、いつか泊ってみたいと思っていた。隣家に朝刊の処理をお願いしなくともいい新聞休刊日前日の一泊旅行をすることが多いが、ちょうど2月11日に宿泊バーゲンセールが有ることを知り早速予約しておいた。実を言うと3月16日から渋谷駅改修で西部池袋線・地下鉄副都心線・東横線・横浜地下鉄線が一気に相互乗り入れ連続運転する。そうなると我が家の地元駅から横浜中華街まで乗り変えなしで一気に行けてしまう。それまでとって置きたかったがバーゲンセールは閑散期の2月しかないので思い切って決行した。 今はまだ渋谷駅で地下5階の地下鉄から地上2階の東横線まで登らなければならない。これが今春数十年来の東横線が地下5階に移り直通運転になる。今でも家から1時間半で中華街に立てると言う信じられないことが出来る。さて地下鉄みらとみらい駅で降りると遅い昼時、ホテルのレストランを覗いて見たが皆高い(階層ではない)ので国際展示場の裏側でウォ―タフロントに洒落たイタリアンレストラン見つけて入った。定食ランチには珍しくデザートが金魚草の花びら、ミント、ブルーベリー、キ―ウイを載せ、薄いパイ皮を揚げた和紙の様な外皮に縁取られたスフレケーキであった。美味しく頂いたが味盲を自認する身とてその味を表現することは出来ないが、その美しさに禁を破ってこっそりパチリした。レストランを出ると小さな円形プロムナードを挟んでIntercontinentalHotelが聳えておりチェックイン開始時間もとっくに過ぎていた。このホテル、私は冒頭に掲げた写真の帆形しか知らなかったが正面から見ると下の3葉のの写真に見られるように二枚貝の形をしている。海側から見る形は貝殻の外側で帆船の帆に見えるわけである。面積効率から言うと不利に見えるが反面余裕の造形とも理解できる。国際会議場や国際展示場に通じるペデストリアンデッキからは風車や京浜工業地帯の発電所の煙突が眩しく輝いている。一階入り口は正面に大きな季節の生け花がどんと構えるだけで殆んど何もなくホールはガラス張りで高い階高で余裕の空間である。二階に上がると水仙の香りに満ちたレセプション・ロビーが広がっており、余裕の空間であるがどこか冷たい感じで心安らぐ空間とは言えない気がした。
2013.02.15
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Happy Valentine今日2月14日はバレンタインデー若い頃はそんな習慣も無かったし気にもしていなかった。そう云えば50年近く前の在米時、ボスの可愛い秘書が"Happy Valentine" と言って小さな包みをくれた。どきどきしたがいわゆる義理チョコであった。50年近くのの時を経て昨年静岡に住む小学生の孫娘から可愛い手製のチョコが届いた。そして今日10時過ぎ玄関チャイムが鳴り 「宅急便です」 今年も孫娘のKちゃんからだ。早速開封すると可愛い包み紙の中からチョコレート色の可愛い箱。蓋を開けると小学生にしてはしっかりした筆跡で手紙が、小さな可愛いシールがいっぱい貼ってある。その下に手製のチョコレートクッキーが詰まっているイチゴのお菓子も添えられている。先日の連休にディズニーランドに行ったのでそのお土産も同封されている。そう云えば一昨年の年末には息子の一家が静岡から上京して我々と一緒にディズニーランドに行ったが爺婆の疲れ方を見て昨年と今年は一家4人で出かけているみたいだ。バレンタイン・チョコ 昨年まではママとの共同作業であったが今年はお友達とのAちゃんとの共同作業みたいである。 製作工程は知る由もないがシロップでの絵描きは容易ではないらしくなかなか形の良いハート型にはならない。これでは"Broken Heart"でボーイフレンドに送るには問題が有るが不整脈のお爺ちゃんには相応しい形である。金銀のビーズで飾られたクッキーの大きさも二口くらいの大きさでこれまた糖尿気味のお爺ちゃんには相応しいサイズである。早速お婆ちゃんと二人でお茶の時間に頂いたが結構なお味だった。商業主義の義理チョコには批判的であったがこう言う形での孫との交流は有ってもいいなあと感じる勝手なジ爺である。
2013.02.14
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大坂弘道展 (終)前回、前々回のブログで主として錫嵌荘、木画(寄木細工)の作品について記録したが、今回はそれ以外の大坂作品について記す。下の写真は「黒柿蘇芳染八角経筒」で黒柿の木相を生かして重厚な感じを表現する一方(貝)螺鈿を施して華やかさも添えている。下の「楓剥短冊箱」は教員時代(35歳)の作で工芸作家に専心する以前のいわばアマテュア時代の作品である。作風も極めて単純な木画「寄木)の線で構成されている。下の作品は「蓮弁唐草透香盤」蓋取っ手の部分や本体内部をを微細に見ると細かい嵌荘や螺鈿が施され本体円周部は透かし彫りが施されている。「黒柿・蘇芳染・草花文・嵌荘・花形香座」 これには蓋が無いので一種の小型盆、ここでは香材や香木を載せるためのもの。合子や香座には器のそこにも決して手を抜いていない。木肌の染め上げに留まらず細かい錫嵌荘が施されている。下の写真では判別出来ないが各点は4つの小円嵌荘文から成っている。後年の作には透かし彫りを主題にしたものが増えており、下は「黄楊木(つげ)宝相華透香盒」 「香雨」と名付けられている。やや黄色を帯びた黄楊(柘植)の柔らかな木肌に魅せられたようだ。それでも円周部に木画(木象眼)を添えることを忘れてはいない。「香盒」とはこの場合香木を載せる台を意味する。「黄楊木剥宝相華文透花形盒子」「天平華」と名付けっれている小容器で宝相華文は唐草文様の一種であるが花の文様に見えるが花ではない。「合子・盒子(ごうす)」は蓋の付いた小さな容器のこと。勿論大坂の作品は実用的なものではなく作品そのものを楽しむもの。「黒柿・蘇芳染・宝相華文・透・花形盒子」これも「天平華」と名付けられており、よく見るとこれら二つのデザインは酷似している。大坂は2003年以降は作品を公表しておらず今回展示の20点は初公開の作品である。それらの多くは彫りものだと先に記した、歳を重ねて簡潔さ・抽象表現が増えたと思ったが下の「黒柿蘇芳染拭漆螺鈿錫嵌荘香箱」 「郷華」は73歳の作で螺鈿と錫嵌荘を組み合わせた装飾で壮年期の作品を凌ぐ作品である。写真には無いが箱内部は細かく区切られ各区画にも螺鈿が施されている。これらの作品は大まかには木工芸品であろうが染め・彫り・錫嵌荘・象嵌・螺鈿と大坂の修得した種々の技法が駆使されており、独特の領域を切り開いている。40年の作家生活でここに展示された作品がほぼ全てだと言う。真の(人間)国宝の姿を見る気がする。実物は素晴らしい漆の光沢で輝いており紋様や木相もはっきりしているが、カタログを無造作にデジカメで撮ったど素人写真はその美しさのかけらも表現できていないのが残念である。
2013.02.03
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大坂弘道展 (続)前ブログでは主として大坂弘道の切り開いた手法・錫嵌荘摸様の作品を中心に紹介したが今回は寄木摸様の作品を紹介する。大坂の作品は勿論大きさにもよるが大体一作に一年は要するそうである。しかもあまりにも細かい作業で神経を研ぎ澄ますため同時並行的に幾つかの作品を手掛けると言うことは出来ない。今回の展覧会では約60作品が展示されたがこれが人間国宝大坂の殆んどすべての作品だと言うことであった。下の写真は「紫檀木画箱」で1985年の作品で正倉院宝物の複製であるが、ここでは細かい色木材を使った寄木細工(木画)を使って幾何学紋様を作っている。宮内庁委託のこの作品は大坂を中学校の教員生活に別れを告げ正倉院御物の作法研究を経て製作されており、大坂を工芸作家に専心させるきっかけを作った作品である。方形模様はさらに細かい寄木を張り合わせてち密な模様を描いている。ただし寄木細工の制約上紋様は直線的で嵌荘摸様に見られる曲線模様は無い。下は「黒柿蘇芳染木画箱」で正倉院の作品に先行して製作されている。正倉院の品が紫檀の木相をそのまま生かしているのに対してこれは全面他の木相木から製作した薄板を貼り複雑にしている。技法的に見ると正倉院御物よりはかなり手が込んでいるもので、これを作った大坂にしてみれば宮内庁の複製依頼は難しいものではなかっただろう。もっとも奈良時代と現代では道具・材量ともに大きな違いがある。は「神代杉八稜之箱」 対角線上に同じ木目の材を配している。神代杉とは古代から地下に埋もれていたスギの木で、建築材や工芸・装飾品によく用いられるそうだ。よく理解できないが地下に有って木質が大分変化したものであろう。さらに何億年も経れば木質は岩質に変化して炭化木や珪化木となるのであろう。「朴(ホウ)木菱形木画箱」 ホウの木の樹相を生かした箱物。「神代杉木箱」 これはもう箱根の寄木細工に近い 大坂の前記の作品。「木画」とは寄せ木細工のことで「木象嵌」とも呼ばれ異なる色彩の木質を貼り合わせて幾何学的模様を表現する。「菱形木画箱」 教員生活を辞して工芸に専心する直前の作品、この後正倉院宝物の制作のための調査研究に取り掛かる。「黒柿蘇芳染木画箱」 これもほぼ同じ時期の作品である。下の2作品は「木象嵌」ではないが大坂の多用する黒柿の木目を蘇芳染で染め上げ重厚さを表現している。「蘇芳染」とは東南アジア原産のマメ科植物をその煮汁を赤色染料とするもので木工の場合は材の下色と共働して独特の色を出す。
2013.02.02
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大坂弘道展-正倉院から甦った珠玉の木工芸相棒が練馬区の区報を見て近くの区立美術館で大坂弘道と言う人の工芸展をやっているのでよく分からないが入場無料だし散歩を兼ねて見に行こうと言いだした。大坂弘道と言う人を調べて見ると区内在住の人間国宝で、かって区内の公立中学に美術教師として勤務している時宮内庁から正倉院宝物の複製を依頼されて本格的に工芸の道に専心するようになったという。工芸部門での人間国宝は代々工芸家に生まれ生まれながらの工芸師でいわばその宗家の人が殆んどであるが、大坂は一般家庭に生まれ学芸大学を出て中学教員をし、さらに伝統工芸とは言っても前例のない手法を開拓して独自の領域を切り開いた人物である。 例によって学芸員の方に質問して詳しく解説して頂いた。下のトレイは長さ30センチの筆置であるが、1)黒柿材を彫って作った皿形器の表面から厚さ2-3ミリの木薄板を 円型に削ぐ、2)削ぎ取った薄い円形版に薄い和紙を貼り、和紙に紋様を描く、3)和紙の紋様を円形版に写しとる、4)特殊な刃物で薄い板を彫り文様を溝に変換する、5)溝に0.14mmの特殊な錫リボンを埋め込んで行く、6)二カワで円盤を正確に木目や材相を元の位置に貼りつける7)天然染料で染めつける、8)漆塗り・研磨を繰り返して表面仕上げをする。この様にして極細の錫で描いた文様が描かれ、錫の輝きも漆で保護され磨きたての銀のような光沢を閉じ込めている。厚さ4-5ミリの器側面にも細かな錫象嵌が施されており、径2ミリ位の円が寸分のゆがみも無く埋め込まれている。実物大に拡大してみると円の中にはっきりと材の紋が分かる。の写真は唐草文・嵌荘・筆箱(長さ30cm 嵌荘は錫を用いた装飾技法)その拡大紋様、目にもとまらないような大きさの円がひずみの無いことに驚く。黒柿・蘇芳染・宝相華文・嵌荘・花形香座とその拡大紋様花柄の美しさと共に目盛りの正確さや器側面の脇絵や底面にもにも手を抜かない律義さに感心する。作品名は分かり易くするために「・」で区切ってみた、材質・染色法・紋様・技法・用途(用途と言っても実用ではなくその名を借りた芸術品である)を表わしている。繊細な紋様を嵌荘で表現しながら材の持つ年輪や相はそっくり生かしている。の作品「黒柿・蘇芳染・宝相文・嵌荘・花形会子」(23cm) 「会子」とは蓋のついた小さな容器のことを言う。嵌荘飾りの面積が広く紋様も複雑で師の代表作とも思えるが学芸員の方が興味ある裏話をしてくれた。この作品は大英博物館の蒐集品として送られたが返送されてきたとのこと。理由は上の蓋の左右に見える5ミリ大の白い点、これが象牙だったためワシントン条約に違反するとて輸出入が禁止されているためだそうだ。やはり芸術と政治は相容れぬものらしい。
2013.02.01
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