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霧ヶ峰・チャペルの花園ホテルの端に結婚式用のチャぺルがあり、周りは記念撮影用に花壇庭園が備わっている。辺りにはラベンダーやバラの香りに満ちている。 美しい形の植木鉢に野バラやクレマチスが今を盛りと咲いていた。花の種類としては多くはないがそのディスプレイは凝っており、此処に白いドレスとブーケのの花嫁を配すると良い絵になること間違いなしである。花園の中の小さなチャペルから祝福されながら出てくる姿もほのぼのとして良い、やはり室内より青空の花園がよく似合う。残念ながら孫娘の結婚式までは生きて居られそうもない。忘れていたが今はもうクレマチス(鉄仙、風車)の季節だ。そう云えば三島の「クレマチスの丘」美術館へ行ったのは昨年だか一昨年だったかその場で感動してもっすぐ忘れてしまう。年をとると記憶容量は減る一方なので古い記憶は捨てなければ新しい記憶の入り込む余地はないのだが、古いものは居座って去らない、心せねば。街のスーパーや八百屋ではすっかり季節外れのイチゴもここではまだ見事に仕立て上げられてどっこいと自己主張である。
2013.07.29
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霧ヶ峰高原・車山霧ヶ峰高原ホームページの写真によると私の滞在時、車山のニッコウキスゲの開花状況は大体下の写真のようで最盛期とのことである。「ニッコウキスゲ」の名を持つが日光霧降高原の群生からこの様に呼ばれるだけで日光の固有種と言う訳ではない。関東近辺で云えば日光霧降高原、尾瀬ヶ原、会津駒止湿原、霧ケ峰高原などが有名であるがその他各地に群生地が有る。キスゲ(黄菅?)とカンゾウ(菅草)は区別しにくく、Wikiによると前者は花が横向きに咲き後者は上向きでやや赤味がかっているそうだ。花期も前者が梅雨時の花に対して後者は1ケ月ほど遅く咲く。後者の一種、飛島菅草は日本海側の海岸線に多く私は佐渡島まで見に行った、またその亜種「蝦夷カンゾウ」は礼文島に群生していた。菅草の葉から「菅笠」を作るとすると菅の方がやや大きいのだろう。今思い出してみるとキスゲは膝丈、カンゾウは胸丈だったような気がする。「菅」はスゲともカンとも読むので境界も怪しいのだろう。もう一つ漢方薬の原料のカンゾウ(甘草)もあるのでややこしい。例によって話がそれてしまったがキスゲが咲き誇っている霧ヶ峰・車山(1925)を訪れるのが今回の旅のほぼ唯一の目的であった。しかし前々回のブログに記した様に発熱のため私はホテルで静養、相棒が一人で出かけてほぼ満開だったことを教えてくれた。ホテルから望むと滑らかな山肌の実に女性的な山でこれが2000m近い高嶺とは思えない。ズームアップしてみると山頂の右にスキーリフトの駅、左側に丸いレーダー基地が見える。現地から帰った相棒によるとこのふくらみは真の山頂ではなく、レーダードームの右隣にある小さな盛り上がりが1925mの山頂だそうだ。ホテルからズームで望見する山頂へのリフトはキスゲの咲き乱れる黄海を泳ぐようにして難なく人を運んでいる。2000m近い山が樹林でも無く、低木帯でもなく、岩肌でも無く、文字通り菅や茅、クマザサなどで覆われた滑らかな山肌を呈している。キスゲや菅草は元々湿気の多い湿地帯を好むものらしいそれがなぜこんな山頂に咲くのだろうか。群生地に「駒止湿原」「霧降高原」「霧ヶ峰」「尾瀬ヶ原」と皆標高や地形に関係なく湿っぽそうな地名ではないか。さて前々回のブログで私の初山旅が蓼科山で、ガス(霧)に巻かれて動けず蓼科牧場で一泊したことを記した。夜行列車で帰京し翌日は大学に戻っている予定だったが折角の機会なので白樺湖に行ってみた。そこには目の前に霧ヶ峰高原が横たわっている。しかし予定外の行動で地図も案内書も弁当も何も無く、逡巡している時、女子大生と思われる5人のパーティーが通りかかった。聞くと車山まで霧ケ峰高原を歩くと言う、事情を話して邪魔にならないようほどほどの距離で付いて行って良いかと問うと一緒にどうぞと誘ってくれた。話してみるとお茶の水女子大の学生で私の知人と彼女らの一人が高校の同級生だったりして、楽しい語らいをしながらアルプスや八ヶ岳の景色を愛で、広い霧ヶ峰高原を6人だけで占有し楽しいハイキングを楽しんだ。バスで諏訪の駅に出て分かれたが彼女たちとの遭遇は58年後の今も鮮明な旅の思い出の一つである。
2013.07.28
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霧ヶ峰・ホテル周辺の花ほぼ一日中部屋にいたので夕食前まだ日の残るホテル建物の周りを歩いてみた。Skypark Hotel、日本語に直せば「天空の園ホテル」となり、壮大な名である。ヨーロッパの山城には山の尾根の端に建つのがよくあるが、そう云う所は三方を谷や川で囲まれ防御だけでなく見晴らしも良い。(パンフより)日本ですぐ思い出されるのは竹田城、津和野城、まだ訪れたことのない安土城などがあるが、このホテルもヨーロッパの古城を思わせる佇まいである。7月下旬標高1500mの地ではまだバラが最盛期で他にも色々な高山性園芸種の花が咲き乱れていた。道端には野生のシモツケのピンクが満ち溢れ、幾種類もの野バラの類が今を盛りと咲いていた。チャペル前の庭園にはラベンダーの香りが漂い、我が家ではもう終焉したベルベット草がチャぺルの入口をエレガントに演出していた。
2013.07.27
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蓼科山「JR大人の休日」クラブのパック旅行で霧ヶ峰に行ってきた。12時に新宿発、ホテルのチェックイン時間に合わせて送迎バス連絡、2泊して帰りの日もチェックアウト後にすぐ連絡バスが有り、昼の特急に乗って帰ると言うスロウな旅。要するに空気の代わりに爺婆を載せ、収入の足しにするJR の作戦。翌日は今キスゲが満開の霧ヶ峰を散策して帰ろうと言う計画であったが出発前から曳いていた風邪で発熱のためこの日は一人ホテルの部屋で過ごしてしまった。 部屋の真正面には蓼科山が聳えており、時間と雲の動きで変化する景色は退屈を紛らわすには十分であった。ホテルは尾根の端に位置し前後は谷間で目の前に”八子ヶ峰(1833)”そしてその向こう側には美しいコニーデ状の蓼科山(2530)が見える。蓼科山は文字通り蓼科高原の盟主であるがその右側の山は縞状の植生で有名な縞枯山・横岳などの北八ヶ岳だ。さらにその右に繋がるのは有名な八ヶ岳であるが私の部屋からは目前の白樺の木に遮られて主峰の赤岳や天狗岳がよく見えなかった。この日、風はこれら八ヶ岳連山の東側から山を駈け上って来ているらしく、雲は山の向こう側から湧きあがっていた。よく見ると蓼科山の上には笠雲がかかっている。上空が明るくなった時蓼科山の頂上をズームで覗くと頂上付近は植生が無く岩山であることがよく分かる。さらにズームアップしてみると巨岩ではなく小さな岩群であることが分かる。そして山の天気は移ろいやすく蓼科山の頂上はあっという間に雲の中。これがまた私の58年前の初登山の経験を思い起こさせる。私は四国育ちの田舎者で”岳”の付く山を知らず、”高原”と呼べる場所も知らず、千メートルを超す山を知らなかった。また”池”以外に”沼” ”湖”の付く水溜りを知らなかった。大学に入って上京し初めての秋の試験休みに一人で蓼科高原に旅して茅野(ちの)駅前で初めて目にした幹の白い樺の木に感動した。高原の温泉宿・湖、それらは全て小説や映画の世界であった。翌日標高2530mの蓼科山を目指した、頂上は大きな岩がごろごろした広い山頂からは遠くに富士山、南アルプス、中央アルプス、その反対側には夢に見た槍・穂高、そして目前には鋭い岩峰の八ヶ岳。感動に震えながら悦楽の時間を過ごし長居をしている間にたちまち午後の高山特有のガスに巻かれてしまった。正しく下の写真の状況である、上記した様に蓼科山の頂上は大きな岩の広がりで、登山道は赤いペンキで岩に描いた矢印だけである。辺りはガスで何も見えない。ガスが去るのを我慢強く待って下山し、麓の蓼科牧場にたどり着いた。今はこの辺りも「白樺高原」と呼ばれて一大観光地であるがその時は夏の間だけ下の農家から牛を預かって放牧で育てる番小屋に夫婦が居るだけのさびれた場所で あった。遅くなってしまいバスはもうない、牧場の番人に一夜の宿を乞うた。快く泊めてくれた夫婦の面影は今も時々思い出す。囲炉裏で炊いたキノコ汁に一升瓶 から注いだ湯呑みの日本酒は空腹に沁み渡った。私にとって”一人旅”、”山行き”、”岳”、”湖”、”高原”、”白樺”、”アルプス”など全てが初体験であった。私のそれからの人生を豊かにしてくれた多くの経験を一挙に経験させてくれた蓼科山であった。こんなことを思い出しながら一人ホテルの部屋で過ごした一日は退屈など全くしないで済んだ。窓の下を見ると無数の黄マダラ蝶が高山植物に群がっていたり、木立からは季節外れの鶯の鳴き声なども聞こえる。弱身ゆえ旅先での静養は常に経験している。そんな時思い出の地であればまったく退屈しないで済むのは有難い。
2013.07.26
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下北への旅(最終章)・おまけの蛍宿温泉今回の旅の主目的である大間崎訪問と仏ヶ浦見物を奇跡的な好天下で済ませ、最後の日は盛岡まで引き返して近郊の蛍宿温泉で休んで帰る計画であった。「大人の休日」のモデルコースでは初日に恐山観光や薬研温泉宿泊となっているが何しろ旅先でも早起きが出来ず体力のない我々とて、これらを省略して初日に大間崎近くの下風呂温泉まで進むと言うイージーコースを辿った。それにもかかわらず最後の日は温泉での休日と相成る次第。盛岡からの宿のシャトルバスで午後早々にホテルに着いた。よくは承知していなかったが着いてみると「ホテル森の風」は温泉街から離れた山の中腹に位置し、外は雨だし二人とも体調がよくないのでたっぷりと昼寝を決め込んだ。この辺りはもう宮沢賢治一色である、ホテル前庭のオブジェも「風の又三郎」、驚いたことにこのガラス―銅の塑像の合作像の作家の一人はrakutenの高校の同級生である。テレビの教育番組などにも時々く出演したまには同窓生数名で一杯やる仲間だが、まさかこんな所で作品に合うとは思っていなかった。ホテルは張りぼての近代建築で賢治色を出そうとしたり、東北の祭の出し物や縁日を毎晩催していたり、まさに日本の田舎と西洋式空想の世界を演出しようとしているみたいである。ホールやロビーは円柱やローマの水道橋を思わせる建築に見立てるかと思えば、円柱の廊下を抜けると、堀炬燵に板戸の和式レストラン、さらに大太鼓を備えた舞台の周には屋台が並び毎晩大人の縁日が催されている。何はともあれ国籍も知れない良く分からない温泉ホテルである。種種雑多な団体客が中心なのであろう、すぐ横には賢治ワールド称するものが有ったので宮沢賢治のテーマ館かと期待した実は屋内プールで夏だけのオープンである。一日たっぷり昼寝と温泉を楽しんで翌日は盛岡市内で北上川の川淵を散歩して「北上旅情」を感じて帰ろうと考えていたが、この日もかなりな雨模様である。盛岡はもう数回訪れているのであっさりと帰京することにした。珍しく随分早めにホームに上がると折り返しの新幹線が停車していた東北線の「はやて」は随分鼻が長いと以前から思っていたが真横に立ってみるとこれはもう動物の鼻などではな魚雷かロケットにしか見えない。やがて我々のホームにもそのロケットが突入してきて銀河鉄道よろし空に向かう気分でロケット列車に乗り込んだ。
2013.07.14
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下北への旅(9)・斗南藩士上陸の地下北半島は別名斗南半島とも言う。今NHKで「八重の桜」と言うドラマが放送されているが、戊辰戦争に敗れて廃藩となった会津藩は明治2年に藩の再興が許され、藩士達は下北半島に入植して斗南藩として再出発した。ホテルの近くの海岸に「斗南藩士上陸地の碑」が有ると言うので足を伸ばした。途中民家で路を訊ねると「分かりにくいのでご案内しましょう」と言って自転車を押して案内に立ってくれた。確かに分かりにくく、御好意が無ければ途中で引き返していたことだろう。港の小路を入るとハマナスで満ちた一画が有り、東屋と一本の赤松が目に入った。ハマナスはむつ市の花、そしてアカマツは会津若松の市の木、その場所に意味ありげな石が敷かれ説明版が有った。その横には会津・鶴ヶ城にも用いられていたと言う慶山石の柱を載せた記念碑が有り、「斗南藩士上陸の地」の碑文が有った。藩主松平容保のかたくなな意志の下、伏見・上野の戦いに敗れ東北列藩同盟が崩れて行く中、徹底抗戦の会津藩は完敗し、少年白虎隊・飯盛山の悲劇を生む。敗残の藩士は越後や江戸に蟄居の身となるが明治2年新政府は会津藩再興を許し藩士達は下北の地に移住して新しい「斗南藩」を興す。石碑背面の説明版には藩士の家族2600戸17300人は新政府が用意したヤンシ―号に乗船して新潟から日本海周りで明治3年6月10日ここに上陸した。「斗南藩」と号して新しい藩を築こうと期待した藩士たちであるが厳しい気象条件に阻まれて挫折し、廃藩置県令で藩が無くなると彼らの殆んどは各地に散ってしまったという。一般に明治新政府はあくまで抵抗した会津藩に厳しい仕打ちをして寒冷の地・下北に追いやったと理解されているが、事実は新政府が会津を寛大に扱ったことが伺える。あれだけの戦をしながら藩主・藩士の処遇を蟄居で済ませている。さらに藩再興に際して領地として会津の隣地・猪苗代と下北のどちらかを提示しており、下北を選んだのは会津側である。そして下北への移住に際しても上記のように便宜を図っている。新天地を開こうと言う気持ちとそれまでの京都守護職の費用などで厳しい税を課してきた領民感情は必ずしも良くなかった。隣地猪苗代では色々不都合が有ると判断したのだろう。藩上層部でも命がけの激論が交わされ、結局まだ2歳の松平容大を藩主に擁して下北を選んでしまった、要するに素直で真面目すぎ、政略に乏しく、徳川家への忠誠心の厚さがこうした失政を続け無駄な戦で藩士・藩費を失いひいては藩を潰す結果となった。藩主松平容保の重なる失政が会津の悲劇を招いてしまった。ホテルから行き帰りの道には海岸砂地の植物・ハマヒルガオやハマナスの花が咲き乱れていた。若くして散った白虎隊の魂にも見え、彼らにたむけられたような美しい花が散見された。
2013.07.13
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下北への旅(8)・大湊JR大湊駅は本州最北の鉄道終着駅である。終着駅という言葉には独特の哀愁の響きが有る。今はもう少し手前に大掛かりな線路止めが有るが土地はたっぷりあるのでその先に昔の線路止めが残されていた。向こう側にむつ湾を望み人気のないプラットホームは終着駅の雰囲気そのものである。駅舎にはツバメの巣があり、普通巣の周りのツバメは忙しく動くものだがここのツバメはのんびりと時間を楽しんでいる。終着駅には似合わず、建て替えられた駅舎はモダンで正面には釜臥山展望台からの景色をパネルにした雪除け板が美しい。そして駅舎の並びには町では飛び抜けてモダンなJR経営のホテル・フォルクロールがあり、我々はここで一泊した。後ろには釜臥山が聳え、その頂には津軽海峡を守る巨大なレーダー施設が見える。大湊には昔から海軍・海上自衛隊の重要基地があり、街は今も昔も隊員でもっている。駅前に散歩に出ると札所巡りの案内があり行ってみるとそこは大平神明宮と言う神社であった。その神社の正面左側に下の掲示があり、第十六番札所・太平神明宮とある。すぐ後ろに寺らしきものが有ったそこには札所の気配が無いので観音巡礼寺ではない。「観音巡礼」と神明宮の関係は神仏習合時代の名残を見るようで嬉しかった。「三十三観音」を観光パンフレットで探すと他の番寺には立派な木彫本尊の仏像写真が有るのに「十六番」だけは小さな崩れかけた石碑の写真が出ている。よく探せばこの神社の境内のどこかに石像があるのだろう。神明宮神社は全国の開拓集落でよく祀られており、伊勢神宮から勧請したものだとか。次のブログに記すが大湊は戊辰戦争に敗れた会津が斗南藩として再出発を期した開拓地である。多分開拓民の信仰がこの様な観音様を祀る神社を作り、明治の廃仏毀釈令にもかかわらずこの様な形で現代に生きているのであろう。上にも記したように大湊は昔から海軍・海上自衛隊でもっている町である。駅周辺には商店街といったものも無いに等しいが、居酒屋や小さなバーが軒を連ねる歓楽街画が沢山ある。こう言った場所は昼間は無人でドアを閉ざしており、さしずめ映画「真昼の決闘」が起こる前の”High Noon"の広場の雰囲気である。
2013.07.12
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下北への旅(7)・佐井から大湊へ佐井港の遊覧船発着場には海洋ミュージアムと食事処がある、3階の展望室に上がると広い港内が一望でき、ぐるりと築かれた防波堤には美術系の学生に描かせたと言う壁画が延々と続いていた。2階のミュージアムには辺境の地とも思えない豪華な祭山車が展示され、この地出身の三上剛太郎の記念品が展示されている。三上は医師で日露戦争に従軍時し、二枚の三角巾を縫って四角形の白布を作り赤い毛布を裂いて赤十字旗を作りこれを掲げて敵兵を含む負傷兵を治療した。1963年国際赤十字100周年記念会でジュネ‐ブ条約の証拠品として「手縫いの赤十字旗」として展示されたそうだ。売店横には当地の特産品の「裂き織」の販売・展示が行われていた。織機に縦糸を張り、布を引き裂いて横糸として厚い生地を織りあげる。こうして出来るやや厚手の生地は手芸品として商品化されている。元々はぼろ布の再利用であろうがなかなか見事な出来上がりである。JRの観光路線バスは佐井から綴ら折れの山道を辿り、川内川に沿って進み、大滝公園に着いた。小規模ながら美しい滝が眺められる。川内川のほとりにはかって大きな鉱山が有り、大きな集落には常設芝居小屋もあったとか、数十年前までの鉱山が有った頃は木一本生えない死の世界であったが今はもう草木に覆われたジャングルの様である。証としてはかってのレンガ造りの煙突の先がわずかに見えているだけである。アンコールワットがそうであったように熱帯のジャングルに隠れた古代遺跡もかくやと思われた。
2013.07.11
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下北への旅(6)・仏ヶ浦の生き物仏ヶ浦では白い岩が崩れた海もまた白い岩か白い砂で満ちている。地中海の磯を思わせる白さと海水のエメラルドグリーンの調和が美しい。小舟が一艘もやっている、多分ウニや海藻手入れに使うのだろう。知ろう海底にウニが無数にくっついている。海藻の間に海牛を発見した。海牛は鮮やかな色彩の写真が多いが皮膚の色を変幻自在に変える能力を有し常に周りに合わせた擬態をとる、ここでは周りの海藻にまぎれて地味な色である。虹色の鮮やかな姿を拝見したいものである。浜昼顔が一面に咲いている。小さな花は浜ダイコンだろう。ナデシコに似ているので多分浜ナデシコ。葉の形からマメ科の植物だろうが真っ白な砂地に生えた黄花と青花は印象的であった。多分黄花はニシキミヤコグサ、青花はハマエンドウではないかと思われるが、いずれも??である。いずれにしても梅雨時ノ好天に恵まれ楽しい磯歩きであった。
2013.07.10
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下北への旅(5)・仏ヶ浦仏ヶ浦は海水による浸食が進行していて元々山肌に着いていた岩が崖から離され独立した岩群になり、下部が平らな床になっている。観光客はその海水にぬれた床を歩いて見物できる。もともとこの地は宇陀と呼ばれていたそうで、明治の文豪で十和田湖を愛した大町桂月がここを訪れ、人智を超えた仏の造物として歌を読み以後宇陀の仏に由来して「仏ヶ浦」と呼ばれるそうだ。小さな観光船で来る以外にないので観光客で溢れることなない。実は十数年前にここを訪ねたことが有り、どうしてももう一度訪ねておきたいと思いたったのが今回の旅である。梅雨のこの時期には珍しく晴天の下エメラルドグリーンの海に寄り添った白亜の岩壁・岩隗を愛でられたのはラッキーである。映画にでも出てきそうな岩の割れ目を通って向こう側に出てみると、巨大な一塊の岩群が見える。屏風岩とも呼ばれ、丁度カッパドキアの茸の傘の様に上部が浸食から逃れて木の生える小さな植え込みを作っている。屏風岩そして岩の形が色々な動物に似ている。天然岩を動物に例えるのは日本人に普遍的な習慣である。上左には親鳥に餌を乞うヒナ鳥を思わせ、後ろの岩は吠える虎の頭に見えないだろうか。フクロウ岩鶏岩上右は頭をもたげた亀。如来岩には如来仏の目、鼻、口、福耳、螺髪などが読み取れる。寺の木彫像で見るよりはやや憂いに満ちた御顔である。海に向かって真冬の吹きすさぶ吹雪や烈風に耐えている御姿そのものである。
2013.07.09
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下北への旅(4)・仏ヶ浦下北観光で最大の呼び物は佐井村の仏ヶ浦である。アクセスの面でも一番不便で半島を反時計回りに回って大間崎を経て佐井港に行き、そこから片道30分の観光船に乗ることである。いずれにしても船で近ずく以外にない。港を出て20分くらいすると岩肌をむき出しにしたリアス式海岸が続き、地層をあらわにした凝灰岩の浸食崖が続く。この地形は火山の噴出物がゆっくり海底で堆積・隆起したものがさらに海水で浸食されて出来た物であろう。はっきり地層が見えるのは堆積がゆっくり進行したことを示している。でも火山とはどこの火山だろうか、むつ湾や津軽海峡は海底火山だったのかも知れないなどと勝手に想像を駆り立ててみた。船が仏ヶ浦に近ずくに連れ岩肌はだんだん白く変わり、海蝕による縦縞が現れてくる。そして縦縞の彫りは深くなり、やがて山肌から離れて塔の様に独立した岩峰を形造る。 そして仏ヶ浦の港(と言っても小さな観光船専用)に着くと辺りはまっ白無岩肌となる。中には下の写真の様に浸食が進む途中に大きな地震が有ったのであろう斜めに大きな断層割れ目が走っている。
2013.07.09
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下北への旅(3)・大間崎本州最北端の地・大間崎はわずか17.5Kmで北海道と対峙している。岬のちょっと先には白黒の大間崎灯台が建つ美しい弁天島が横たわる。そして大間と言えば大間マグロで知られ、マグロ一本釣りの本場。モニュメントもマグロとそれを釣り上げる漁師の逞しい腕を彫ったもの。「大間」のブランドは世界一で大間の漁師は家や土地を抵当に入れても自分の船を建造し海峡で大間マグロを狙うと言う。何と今年の初競りで一匹1億5千5百40万円のマグロを釣り上げた人がいる。実ははこの人の父親も同じ船で12年前に当時の記録2千20万円のマグロを釣り上げている。親子は最近下の看板を掲げた食堂を開いて営業している。マグロのシーズンは秋から冬にかけてらしいので夏場は食堂を開いているのだろう。そして岬のモニュメントの様に腕力を鍛えているのだろう。自宅出入り口ではブランドマグロにありつくべくカモメが三代目マグロ王に挨拶に来ていた。カモメかウミネコの三代目もあやかろうとしているみたいである。この時期はマグロよりも地道なタコ漁が盛んなのだろうか、茹でダコが吊り下げられていた。蛸にもブランドが有るのだろうか、写真の蛸は2-3千円で産地にしては高い気がする。バスガイドが面白いことを言っていた。どこで取れようと大間港に水揚げされたものが「大間マグロ」で、例え大間崎でとれても隣の大畑港で水揚げされたものは唯の「マグロ」だそうだ。大間マグロは皆東京の店に流れ地元の人とは縁が無く、自分は「大畑マグロ」しか食べたことが無いが、味は同じだと信じていますとのことだった。それにしても大間マグロのアラを毎日食べているこれらのカモメたちはさしずめ毎日銀座のXX寿司で食事しているようなものであろう。たまにサンマでも食べたら美味しく感じるのではないだろうか。大間港に隣接して大間原発が殆んど完成している。本来なら既に操業していたが大幅に遅れ、創業のめどは立っていないようである、それでも建設は着々と進んでいる。マグロと原発以外に大きな産業も無い町にとって死活問題である。大間は豊かで町村合併にも後ろ向きの様であるが、原発の影響は決して町内に留まることはないのでその視点からの配慮が必要である。大間は海を隔てているとはいえ函館により近く事故の被害は北海道がより深刻であり、反対運動も北海道で盛り上がったことを思い出す。大間の住民には青森放送よりも北海道放送がより身近な存在だとか、電波の有効域は放射能汚染の被害域と考えて良いだろう。関連府県・地元自治体への交付金でなだめてきた原発政策も見直さなくてはならないだろう。
2013.07.07
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下北への旅(2)・下風呂温泉下北駅で半島を殆んど一周する佐井行きのバスに乗り換えて下風呂温泉に向かった。途中2001年まで運行していた鉄道・佐井駅で小休憩。朽ちかけた木柱に「本州最北の駅・大畑」の文字がかすかに読み取れる。バス停は有るが今は汽車の来ない駅舎は綺麗に外装されており、今にも汽車が着きそうな風情でたくしーも何台か待機している。廃線になった事実を認めようとしていないようでいじらしい。下風呂温泉に着くバス一台がやっと通れるくらいのメインストリート、海岸側にバイパスが有り殆んどの車はそちらに回る。停留所の印も目に入らなかったが目の前に数軒の温泉ホテルが並んでいる。目の前の赤いポストが停留所らしく、この赤いポストは長い間、いろいろな役目を果たしてきたみたいである。バスは下北駅から太平洋側を辿るが、海岸線は濃いガスで見通しが利かない。この季節殆んど毎日寒い「やませ」が海上からガスを吹き付け視界が無いようだ。ホテル(旅館)の裏側はすぐ漁港になっているが窓の景色はすぐ前の電柱に留まるカモメだけである。この日泊った三浦屋ホテルの玄関に下の比較的新しい歌碑が置いてある。「愛の終着駅」というドラマがここで撮影されたとかでその主題歌らしい。下風呂温泉はまた井上靖の小説「海峡」の舞台で、井上も逗留してその一部を執筆したらしい。そんな訳で濃霧の中近くの公園にその記念碑を見に行った。海から直接引き込んだ池庭の周りに東屋や二見岩などを配し、小さな社なども備えた公園であるが、霧にかすみ人影も無い公園ではゆっくりする気にもなれずそそくさと引き上げた。残念だったのはこの公園の一角に同志社大学総長の揮毫になる「新島襄上陸記念碑」が有ったのを見逃してしまったことである。今NHKで放映中の「八重の桜」の主人公八重の夫で同志社大学の創始者・新島襄は幕末の動乱期に函館からアメリカの船に乗って密航している。同じ時期に吉田松陰が密航に失敗しているのと好対照で、吉田が取り締まりの厳しい下田から密航しようとしたのに対して、新島は函館からのルートを選んだのが良かったのだろう。水戸天狗党事件、伏見池田屋事件、禁門(蛤御門)の変などがあった動乱の元治元年、新島は函館に向かう途中2日間下風呂温泉に寄港しここの温泉について親に便りを出している。そんな縁で今でも同志社大学の関係者がよく訪れ、昨年も総長が三浦屋に泊って行ったと宿の主人の言である。下風呂温泉の宿は皆津軽海峡をはさんで北海道とは指呼の距離で天気が良ければ部屋から北海道が望め、また夜はイカ釣りの漁火が海上を照らして素晴らしい景色が展開すると言うがこの途方特有の「やませ」に運ばれてくる無限の濃霧刃全てを視界から遠ざけていた。
2013.07.06
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下北への旅 (1)・JR大湊線沿線先日から「JR大人の休日」切符で下北を旅してきた。本州の北端は下北半島と津軽半島である。北海道への鉄道は津軽半島の竜飛岬を経て伸びている。先年竜飛海底で降りて竜飛岬を訪ねたことが有り、下北半島も大分前にレンタカーで回ったことがあるがその時最北端の大間岬には行けなかった。下の航空写真を見ると下北半島は正しく斧の形をしている。ここは原子力施設が集中している地域で、六ヶ所村核燃料処理施設、東通原発、大間原発もほぼ完成している。原発廃止が叫ばれる中、地元住民としてはそれを生計の基礎にしている人も多く意見は二分し、多くの人は声高に語るのも憚れる雰囲気とか。私も原発反対ではあるがこの過疎の村にじゃぶじゃぶお金を落とされ生活の基盤が変わってしまった住民の気持ちを思うとちょっと複雑な気がする。さて八戸で新幹線を降り「青い森鉄道」の乗客となる。新幹線の開でかっての東北本線は岩手県内の「いわて銀河鉄道」、青森県内の「青い森鉄道」、そして野辺地からはJR大湊線となる。斧の柄の部分は狭い所では10キロあまりと狭いがその東西では雪の降り方は異なり太平洋側は比較的小雪なのに対してむつ湾側は豪雪地帯である。明治時代青森まで開通した東北本線であるが冬は豪雪に阻まれる。そこで我が国で初めて線路の周りを林で囲う防雪林がここに造られた。駅は見事な美林で囲まれている。斧の柄の部分には鉄道と道路以外に人工物は見当たらず、地形的には両サイドを海に囲まれた帯状地帯にもかかわらず車窓北海道の原野を思わせる光景が続く。雪の少ない地点ではブッシュに覆われた平原に延びる真っすぐな鉄路。吹雪く地点では見事な高木の防雪林に囲まれて真っすぐに延びる鉄路。地図で見るとむつ湾の海岸に沿って伸びているのに下の写真のような海を望む景色は時々瞥見するだけである。二両編成の列車が斧の刃の根元にかかる頃になると村落が見え始め牧場らしい光景が見えてくる。丸くロールされた干し草が多くなり、フランスの田舎を走っているような錯覚にとらわれる、控え目に言ってもこれは北海道の景色だ。そうこうしている内に”ようこそ下北へ”の木柱が建つ下北駅に着いた。数年前まではここからさらに大畑まで鉄路は延びていたがいまは下北駅と隣の終点大湊駅のどちらかが本州最北の駅である。今手元に20年位前と2006年発行の鉄道路線図が有るが前者には線路が描かれ後者にはバス路線のみが描かれている。昨年の6月には九州最南の西大山駅にも行き、数年前に竜飛海底駅と北海道の稚内駅にも行ったので感慨深いものが有る。見通しの悪い日であったが下北の屋根と言われる釜臥山が間近に見える。ここには巨大なレーダーが設置され、時として外国の潜水艦がかすめたりする北の海や津軽海峡を見はっている。一つ先の終点大湊には古くから日本海軍の要塞基地が有り今も海上自衛隊の重要な基地がここで重要な任務についている。
2013.07.05
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