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先日練馬区立美術館で開かれている「船越保武彫刻展」に行ってきた。我が家からは2駅で歩いても行ける所に有り、ほぼ2カ月ごとに催される企画展はユニークなものが多く、ほとんど毎回出かけている。9月初めまで上の企画展が開けれているが8月下旬まで余りの暑さに足が向かなかった。普段来訪者はほとんど区民で週日はゆったり観賞出来るのが特徴であるが、この日(木)は切符を求める人の列が館への入口から溢れていた。こんな光景を目にするのは初めてである。実は2,3日前にテレビ番組「ぶらぶら美術館」で山田太郎さんが紹介したのでそのせいであろう。明らかに区民以外の来訪者が多い。中に入っても上野や都心の有名美術館の企画展並みである。テレビの影響力の大きさに驚いた。さて船越保武さんは親友佐藤忠良さんとともに戦後日本を代表する彫刻家である。戦前の若き日に池袋・練馬に有った芸術家村に住んでいたらしい。戦前のこの辺りは森や畑の中である、貧乏芸術家たちがアトリエ付きの長屋に集まっていた。「池袋モンパルナス」とも呼ばれたこの芸術家村に住んで仲間達と研讃していた。戦後漫画家達やアニメーションスタジオが集まったこの地域であるが、戦前から芸術家の集う場所であったらしい。そんな御縁で今回の企画展が企画された。練馬時代に船越は偶然池袋の石屋で紅色斑入りの「紅霰石」を見つけて惚れ込み直ぐに購入し、リヤカーでアトリエに運んだ、そして近所の石屋に頼んで石鑿(のみ)を借りて初めて彫ったというのが下の作品で21歳の石彫像処女作である。 隕石船越の言によれば「石はその中にすでに像を持っており、彫刻家はその包みものを除いてやるだけ」なのだという。石を見た瞬間芸術家はその中に三次元の像を見るらしい。一方ブロンズ彫刻は粘土重ねて作り上げた石膏型を鋳型にして鋳造するものである。芸術家の造る三次元の石像イメージの鋳型の中に粘土を埋め込む作業である。彫刻家の作業に削る・埋めると言う逆の過程が有ることに気がついた。次のブロンズ像は壮年期の作品であるが、彼は七五歳の時脳梗塞で右半身の自由を失う。ところがそこで創作活動を諦めることなく左手でデッサンをし、左手で造形作品を作り続ける。 萩原朔太郎一般に彫刻家のデッサンはイメージのメモ的なものが多いと思っていたが船越のデッサンは精緻そのものである。このブログの写真はポスターの写真を転載したもので、晩年の作品の写真が無いが、さすがに滑らかな作品は無いが、一見荒々しく見える塑像は対象物の真の姿をよく表現しているようにも見える。病床ですでに左手でデッサンを始めたと言う気力に圧倒される作品群である。 ANNA 聖マリア・マグダレナ戦後間もなく長男を7カ月で失った時、知人の元へ駆けつけてその庭に咲くすべてのスイセンの花を譲り受け、棺に入れて顔以外をすべて埋めつくしたという、それを描いた絵もあった。長男の死を期に一家で洗礼を受けキリスト教徒となったそしてその後キリスト教を題材にした作品を彫り続ける。よく知られているのは長崎の聖二十六殉教者像である。また代表作に聖ダミアン像があるが、この聖人はハンセン病患者と生活を共にして自分もハンセン病に感染し、自分も仲間になれたと喜んだという。次の何かを柔らかく包む手はハンセン病でごつごつした聖人の手である。長崎の殉教者像を刻んだ時天草の原城を訪れ、天草の乱後の原城をテーマにした作品を多く残している。滅び去った農民兵に思いをはせその姿を彫っている。このブログをものした後、投稿前にWEBに当たると上に記した混雑の理由が分かった。前の週に美智子皇后がわざわざ足を運んでいた。殆ど報道されなかったので気がつかなかったがこの時案内をされたのが船越保武の長女の千枝子さんだったらしい。児童文学の分野での活躍を通してお二人は旧知の間柄であったとのこと。ちなみにこの千枝子さんは保武が初めて生まれた子の名付を高村光太郎に依頼した時光太郎は「私にはチエコの名前しか浮かんでこない、しかし智恵子の様な悲運を背負わせたくはない」と言って『千枝子』の名を提示したとのことである。
2015.08.30
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今年も恒例の夏の家族合宿に行ってきた。次男の家族が静岡県磐田に住んでいるのでこれまでは伊豆・箱根地方で行なってきたが箱根の噴火騒ぎや孫達の希望も有り日光にした。酷暑の一週間余りが過ぎ、お盆期間は涼しいぐずついた空模様であったが家族の顔合わせが主目的なので有意義に過ごすことが出来た。と言った訳で特にブログにかくほどのことも無いが今年の夏の記録として記しておくことにする。初日は新宿発JR東武相互乗り入れの特急で日光に入り、ホテルで家族団らんの時間を過ごした。翌日はあいにくの小雨模様であったがレンタカー2台でいろは坂を登り、日光湯元まで奥日光を訪ねた。華厳の滝の辺りでは雨が激しかったので後回しにして湯滝へ急ぐと、幸い小雨模様の湯滝は水量が多く今までに見た湯滝では最高の勢いであった。湯ノ湖も人影が少なく湖岸で釣りを楽しむ人たちのカラフルな雨具が湖面に映えている。山の湖らしい静かな佇まいであった。赤城山と男体山の争いでムカデと蛇が代理戦争をしたと伝えられる戦場ヶ原、私が訪ね始めた40年前とは随分景観が変わった。かっての湿原は乾燥化が進み森林化が進んで車道からはほとんど見えなくなった。遊歩道に入って行けばいいが車の人は展望台から眺めることになる。戦場ヶ原と中禅寺湖を結ぶ竜頭ノ滝も水量が多くまさしく龍が暴れている感がある。日本語では一気に落下する華厳の滝もザワザワと流れ下る竜頭ノ滝も「滝」だがやはりここはFallとCascadeに区別する英語の表現力が優っている。急峻な地形の多い日本ではカスケードはほとんど無いためであろうか。雨の中では長居もできないのでイロハ坂を下り金谷ホテルでランチとした。今回の旅では静岡の孫たちが華厳の滝と東照宮を見るのが大きな目的だったので食後彼らは東照宮へ、年寄りはホテルに帰って休憩。翌日は天気も良かったので再びいろは坂を登り華厳の滝へ、ここも水量十分で久しぶりに豪快な姿を見ることができた。昨日は中禅寺湖周りの山景色を見れなかったので湖畔をドライブして立木観音へ、ここからは湖の上に雲を頂く白根山、そして男体山の勇姿が望める。38年前、前のアパートを売り払い移転すべきマンションの完成が遅れ日光のキャンプ場で1週間、難民生活をしたことを思い出した。その時小学生だった息子達も今は大・中学生の親として合宿に参加しているので一世代の時間を実感する旅である。今年も夏を家族合宿を無事終えることができた。
2015.08.20
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今日からは8月、今年もまた一年で一番暑い時期が巡って来た。先週の日曜日7月26日、東京の気温は36℃で最高気温を記録した。東京の西北部に属するわが家では都心に比べてかなり高い温度が記録される。高校野球を見ながら頻繁にベランダの温度計をチェックすることにした、風の具合や日照の具合で結構微妙に変化している。下の写真はその瞬間最高気温を示している。直射日光が当たってるわけではもちろんないが、コンクリートの輻射熱を考慮してもこれは相当な高温で、かれこれ20年くらい使っているこの大型温度計の新記録であろう。20分くらい後ではもう38℃台に下がっていたので多分熱い気団が通り過ぎたのであろう。私が高校生の頃、日本の高温記録は山形で40.8℃と知ったが、その時40℃と言う気温が現実に有ることが信じられなかったことを思い出す。南国四国でも30℃以上は耐えられない位の暑さを感じたものである。現在は気象庁の記録を見ると、第一位が高知県江川崎町で41.0℃(2013.8.12)、2位が熊谷市と多治見市40.9℃(2007.8.16)、3位が山形で40.8℃(1933.7.25)、4位甲府40.7℃(2013.8.10)。山形の記録は80年間も破られなかったことになる。江川崎の記録は何年間もつのだろうか。もう一つ7月30日の夕刊によると都市の気温を5メートル間隔で1時間毎に表現できる温度図が出来たそうだ。国土技術政策総合研究所の力作で、その動画が見られる。下図中央部の左上に向かう線が築地から銀座4丁目、有楽町を通る晴海通りである。中央部で直交する銀座(中央)通りと築地通りの銀座4丁目・有楽町駅間が赤く温度が高い。右下部分の海側は緑で温度が低い。築地通りを流れる地上の空気は段々暖められてくるが、上空の冷たい空気が有楽町駅前のマリオンのビルにぶつかって下降し、ビルの直下は涼しいことが分かる。いずれにしても道路は大通りの舗装とビルからの熱気で暖められた暖気を運ぶ運河の役割を果たしている。今日は暑かったとか涼しかったとか言うが同じ地域にいてもそのスポットによって温度まはまちまちである。そして東京湾のどんずまりで集まった浜風が都心のビジネス街で暖められ、新宿のビジネス街でさらに加温し都の西北に流れて我が家のある練馬に至るのであるから我が家の温度計が上るのも当然のことである。
2015.08.01
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