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「小説を書くということは、日本橋のまんなかで素っ裸で仰向けに寝るようなもんだ。」と太宰治が言ったとか。今では、さしずめ六本木ヒルズのまん前で、なんて感じだろうか。日記で、別に小説なんていう大それたものを書いている訳ではないが、タコ社長、まだまだメルボルン郊外でフンドシでうつ伏せに寝ているような程度で、イマイチ自分が出し切れない。他人の脛も借りたいほどに脛に傷が多くある人生だから三の足くらいまで踏んでいる。墓場まで持っていきたい話も、裏庭に山ができるほどある。しかし、この日記が終わる頃までには、それらを出し切って三途の川を渡りたい。何でも初めての時というのは、本当に体は硬調、頬は紅潮、潮は高潮、親父は副校長みたいで忘れられないことが多い。初めて女性に音が出るほどほっぺたを叩かれたときなんぞは、思わず秋田出身の母親に言いつけたいくらいだった。因みに原因はなんだったか覚えていない。「タコさん、Yさんが言ってたよ。タコは女の腐ったようなヤツだって。」私は、女が腐ったらどうなるのだろうか、などと真剣に悩んだ訳ではないが、これは女性差別ではないか、と腹が立って本題からしっかりと外れて憤慨していた。サラリーマン時代に、額に入れてさらには神棚に飾っておきたいくらいの発言を、後に社長にな、った当時の部長から言われたことがあった。その部長の声は、9階のフロアー中に響き渡ったと後で同期の人が教えてくれた。「君なんかクビだ!」だった。幸いクビになることはなく、辞職脱サラではあったが。「あの部長、メがない人には何も言わないから、タコ君、君は将来性があるんだよ。」同じ課のK先輩が慰めてくれたが全く用を成していなかった。ここまで書いて、私はマゾかと思えてきたし、こんな話はきりがないので閑話休題。1979年の12月、やや仕事に嫌気がさしてニュージーランドで正月を過ごすことになる。その年の8月に日本で知り合ったニュージーランド人を頼って、なんと往復64万円で行くことになった。エコノミークラスのシーズン価格で年末で割引なし。それにしても25年くらい前の価格で結構なものだった。迎えに来てくれた友人とその日はオークランドのその友人の知り合いの家に泊まることになった。その家にはでかい樽のような泡風呂ジャグジが外にあった。夕食の前に男女6人で入ることになる。私は、てっきり海パンで入るのだと思ったが、これがなんと素っ裸。今の私なら躊躇無く真っ先に飛び込むところだろうが、当時のタコ青年は恥も外聞も、そして探せば臆面もある20代。とうとう自分だけ入らず部屋から覗いたりしていて皆をがっかりさせた。初めて日本に来た外人と銭湯にでも行ったと思えば良かったのでろうか。あの頃の自分に戻りたいなどと思っている訳ではないが、あの場面だけには戻りたいと思ったりしている。後にも先にもあんな経験はあの時だけで、それから何度も過度の期待を裏切られたりして、白人社会を不可解にさせてくれる出来事ではあった。人気blogランキングへ遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。
2005年06月30日
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「ウサギ追いしかの山」と歌ったとき、ウサギが美味しいときこえたものだ。日本ではウサギを食べたことはないが、オランダ系の連れ合いの家にいくと、母親がウサギの煮込みを出してくれることがある。イギリス系などは食べないだろう。これが結構いける。羊の脳みそをパン粉で揚げて食パンにのせて潰して食べる。これなんかもオランダ、ドイツあたりの食べ方なのだろう。食べ物にかんしては、決してNOといわないタコ社長、毎年特別の日に出される脳みそを食べている。頭が良くなった感覚はいまのところない。オランダ人、ゲルマン人はえてしてゲテモノも食う。日本ではイナゴがちょっと不得意だったことくらいで、あとはだいたい私は何でも食べる。ものによってはちょっとすごいのもある。しかし、決して連れ合いに言えない話しがある。人肉評論家など言われている例のSさん。昔、パリで惚れていたオランダ人の女性を食べてしまったあの人だ。ところが、先日このSさんこちらのTVの取材に答えて堂々と出ているではないか。そして、もう一度食べてみたいとか言っている。日本人はみなそうだ、なんて思うわけはないだろうが、鯨が大問題となっているこの国だ。タコ社長、発言には十分気をつけて臨みたい。人気blogランキングへ遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。
2005年06月30日
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今日の写真 元相撲取り、ちょっと無理がある丸めているのだ。鼻くそとかではない、私が今渡した名刺を丸めているのだ。京都の一流大学に通う学生さんだった。確かに、社長と言ってもタコ社長、名刺くらいはなんてことはないのだろうが、それにしても私自身が丸められているように感じた。因みに、先日あった東京の私大に通う大学生は、私との面談中ずっと鼻をほじくっていて、こういう人間が日本から発生してきているのだと思い知らされた。この学生は、あまりに素行が不穏なので出入り禁止とさせていただいたが。「俺の名刺はそんなに安いのか!」誰よりも怖かった会社の部長からそういわれたことがあった。部長の名代でお得意様を回ったときに、預かった部長の名刺をぞんざいに扱ってしまったときに言われた。この部長、後に2万人を擁する会社の頂点に立った人だったが、名刺の重さを思い知らされた。日本人の名刺好き、名刺文化はよく知られている。今朝、出勤の途中ラジオのトークショーでもこれが話題になっていた。両手で貰わねばならないとか、じゃ、同時に交換するときはどうする、などと言っていた。日本人は、電話口でもお辞儀をしないとならない、などとも言っていて失笑ものだったが、商談の前に酒漬けにするのは、商売の相手をまず知ろうとする日本のビジネス文化だと言っていたときには、インド人の偉いさんを連れて赤坂六本木辺りを徘徊していたことを思い出した。タコ社長、カラオケ18番は、スタッフも呆れるフランク永井の「君恋し」。自慢じゃないがドュエットなら「新宿そだち」だ。最近、この歌を一緒に歌ってくれるスタッフがいなくなっていて淋しい気もするが。この歌では、バーの女給さんが「あなたの名刺を胸に抱く」と歌う。まっ、私の名刺をそこまでして欲しいなんて思っているわけではないが、せめて丸めたりはしないで欲しいと思う。少なくとも、見ている目の前では。忘れた頃にジムに行っている。ここのサウナは男女が入り乱れて6人くらいは入れるが、その狭さから、お互いに挨拶したり、何か話さないと異様な雰囲気に包まれる。「私は、こういうビジネスをしています。」と小さな袋からラミネイトされた名刺を私にくれた人がいた。何も、こんなに汗かいてハーハーいうような中までもと思わないでもなかったが、そこはそれタコ社長、満面笑みで貰うことにした。因みに、相手は日本人ではなかった。以前、オーストラリアでは、自分の名刺をテーブルの上に投げて寄越した社長もいた。「私の生まれたイスラエルでは、、、、」そうか、ユダヤ人だったのか。世界広しといえども、名刺文化を大切にするのは、イザヤ・ペンダサンもビックリ日本とユダヤくらいなのかも知れない。いつまでも話が続いて、相手は男性だったがサウナの中で上気してしまった。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月30日
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今日の写真 割とらくに食べられる、Box Hillのカレーラクサ「俺は部長に梯子はずされたんだよ、君が助けてくれないで誰が助けてくれるんだよ。俺は君の直属の上司だぞ。」インドのデカン高原にあるバンガロールのアショカホテル中庭のビアガーデンでH課長が私に向かって叫んだ。バンガロールは今、世界的にも注目を集めているインドのシリコンバリーと言われるほどITの街と化しているが、昔から高原で気候がよく水もきれいで更には高度の技術を擁する技術者がインド中から集まる工業都市であった。1983年、私にとっては2度目のインド出張であった。H課長は、私が当時勤めていた会社の海外営業課長。インドとの技術提携の話で3週間ほどインド側と厳しいネゴを重ねていた。私が、このプロジェクトの東京本社の担当でH課長は私の直属の課長だった。だが、この時私はこのプロジェクトと全く関係なく、姉妹会社の社長のカバン持ちでバンガロール入りしたのだった。ホテルの中庭は3月の夜で快い風が吹いていたが、私はH課長にガーンと殴られたような衝撃を受けた。「こんな時にチャラチャラかばん持ちなんかで来やがって。」そう言ってH課長は席を立ってどこかに行ってしまった。目の前のビールには全く手がつけられていなかった。「実はね、H課長最近ノイローゼ気味でホテルの部屋でも本当に心配で一人にしておけないんです。」赤いターバンを巻いたシンさんが、流暢な日本語のダミ声で青い顔をして話してくれた。当時、大商社の常務が会社は永遠ですと言って汚職の責任をとって自殺した事件がまだ記憶に新しかった。私とH課長はもう4年も一緒にインドの仕事をしていてインドチームの核をなしていた。でも、課長がインドにいるときは私は部長の言うことを直接聞く立場にあって部長に逆らえない。きついテレックスを打てと言われればそうせざるを得ない。H課長が、インド側に,ある意味では勝手に提出した価格や条件を部長がサポートしなかったのだ。H課長はインドで完全に孤立してしまっていた。私は、何だか急に体全体の力が抜けて不覚にも泣いてしまった。周りにいた日本人の技術者もそしてインド人のスタッフも心配してくれた。姉妹会社の社長のお供はタイからインドへと続いており、その気負いや疲れもありそれが一気に崩れたのだろうか。何十億円にもなる商談の重みを抱えたH課長の切羽詰った心境を、十分には理解しきれず何もできなかった自分がやるせなかった。だが、それよりももっと強く感じてしまったのは、たかが仕事でどうして、生きるの死ぬのというところまで自分達を追い込んでしまわなければならないのか、ということの方だった。最終的には、この商談はうまくいきH課長も元気になり東京で仕事を続けていた。恐らく、会社ではこんなことは日常茶飯事なのだろうし、課長も部長も何もなかったように又飲み歩いていてバカ言い合っている。だが、私の中ではこの時から、いつか私は会社を辞めるだろうなという考えが動き始めたようだ。どこか体の一箇所でサラリーマン生活に冷めてしまったのだろう。このバンガロールの一件から一年半後に、私は9年勤めた会社を退職した。退職金は、退職の理由が自己理由だったので実に34万円。それこそ泣きたいくらいだった。私はこの時、これからの将来は自分で決めてやっていこうと決心した。そして、オーストラリアで日本語学校を開くという夢を持って、あまりに早すぎる第二の人生をスタートした。32歳になったばかりだった。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月29日
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ちょっと前の話しになるが、タコ社長、ちょっとした統計をとってみたことがある。メルボルンの朝日新聞「The Age 」紙に平凡な統計がでていた。女性の8割はブラジャーをつけるとき、まず前でフックをかけてから腰の回りを回すとのこと。10人のうち8人といわれても、そんな場面に遭遇することはまれなので何ともいえないが、機会があったら確認しておきたい。更には、ブラジャーの一人当たりの平均保有数は6つで。それぞれ1つの平均寿命は1年だそうだ。6つが多いのか少ないのかはよく分からない。ところで、先日朝早く出勤中に車のラジオから「風呂からあがってタオルで拭くときの動作及びその順番は、人それぞれ固有で正にDNAだ。」と言っている人があった。う~ん、と唸ってしまった。なかなか目の付け所がいい。まずどこから拭くか。いろいろ、想像できて楽しい。しかし、これとてもそのウラを取ることはた易くない。もっとも、ジムの男子更衣室では可能かもしれないが、これもやや憚れるし、ましてや女性は高嶺の花。この新聞の統計は間違っている、と20代の日本人女性から回答があった。「私の友人は、すなわち30前後の女性はほぼ100%まずは前かがみになって胸と脇をしっかり固め、最後にホックですよ。」この表現では絵が浮かんでこないので、問い合わせると、「ホックは後ろです。まずは前かがみになって前をしっかり固めていれるものをいれて固定させて、姿勢を直立体勢に戻してから最後にホックです。男性のブリーフもまずは要所を。。。。。なのでは?」と丁寧な回答を送ってこられた。少し絵が見えてきたがまだオボロ。さらには、ちょっと年がいった日本の友人から回答がきた。「ブラのとめ方は体型にもよるんだと思います。若いお嬢さんや細い人は後ろでとめる人が多いですよ。私のような体型のおばさん連中は統計のとおりです。でも私はブラ120枚持ってます。海外で買う事が多いので買いだめしちゃうんだよね-。ちなみに(聞かれてもいないのに)パンツも100枚以上あります。」結論からいうと、外国人と日本人の体型が若いときは違いがあって、作業が逆になるのだが、年を取ってくると同じになってくる、というものであった。皆さんはいかがなものだろうか。因みに、日本の本家の「朝日新聞」もこのような統計をやったりすれば、いろんなところで叩かれなくてもいいのでは、などと思ってしまった。
2005年06月28日
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今日の写真 見られる喜び、見る悦び不倫で別れたという。世界的にクリケットの名選手として名高オーストラリアの選手だ。もっともクリケットが流行っていない日本などでは、全く無名だろうが。不倫が、次から次へと発覚して止まらない。結局、別居となった。そこで、あるTV局が不倫調査の新聞広告を出したとの事。「結婚していますが、遊び相手を探しています。」というもので、男女それぞれのを出したたとのこと。するとどうだろう、人妻目掛けてかけてきた男の電話件数が1,500件で、逆は7件だったという。その7人と話してみたい、などと血迷ったわけではないが、この国でも男の不倫は文化なのだろうか。しかし、バレたら離婚間違いのない国だ。この国の離婚率は50%と厳しい。男の不倫の文化度は、どこかの国と違ってまだまだ低いようだ。怪しいかどうかを測るバロメーターは、携帯電話とパソコンとのこと。いつまでも一人でパソコンを使っていた場合は怪しいと思った方がいい、などととんでもない発言がされていた。タコ社長、それでなくても篭る癖がある。少しは、オランダ系の連れ合いと国際関係改善につとめないとならないようだ。そんなことを考えていたら、初めてナンパしたときのことが思い出された。「今、何時ですか。」英語のクラスじゃないんだから、もう少し気のきいたことを聞けなかったのかと思う。タコ青年、初ナンパの出だし。場所は、池袋の丸物デパート(今のパルコ)、高校一年の私は学生服に見を包みならが平静を装いそう聞いた。丸顔、おかっぱでお人形さんのような顔をして、緑色のセーターが体に必要以上にフィットしたおとなしそうな人だった。彼女は、階段の踊り場の椅子に腰掛けて休んでいた。時間を聞いただけでは終わらなかった。住所と電話番号も聞けた。人生、何だか急にバラ色に思えた瞬間だった。その後、何度かデートした。私より2つ年上のKさんは、栃木の中学を卒業して東京の洋裁学校に通う、少々北関東ナマリのある人だった。「私、知らない人と話したの、初めてなの。貴方、学生服着ていたし、真面目そうだったからなの。誤解しないでね。」誤解はタコ家の家系だが、私は学生服って案外役に立つものだと思って感心したりして、Kさんが何を言いたかったのかまで気が回らなかった。Kさんは、真面目さを代表して栃木から上京しているような人で、いつまでたっても出会ったときのような関係が続いた。結局、この初ナンパ事件、私の気持ちと期待が先行し過ぎて、そのぎこちなさを大いに突かれ最後となった。Kさんからの最後の手紙に、「肉を食べると体にも悪いしどう猛になりますよ。あなたは、菜食主義者になった方がいいと思います。」とあった。じゃ、坊主はどう猛じゃないのか、などと怒ってみても始まらない。Kさんは、当時信奉していたある菜食主義者の先生が書いた本の名前と出版社を教えてくれた。私は、今つくづく思う。あの時菜食主義者になっていたら、人生だいぶ変わっていただろし、もしかしたら、今オーストラリアくんだりまで来ていないで、日本の農村あたりで静かに豚でも追いかけながら暮らしていたかもしれないと。「タコ社長の農村日記」とか書いていて。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月28日
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タコ社長、「マタが好き」と写真に書いたら、中学時代に悪友K島氏から回文がとどいた。昔、「女性自身」に関わっていた人です。 ワシの又のタマの皺その内、このサイトに女性がまったく寄り付かなくなりそうですね。
2005年06月27日
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今日の写真 身も蓋もない子供の時、大工なんかが住んでいたら怒られそうな東京は練馬の警察官住宅に住んでいた。父は、私が拾って熟読したあとゴミ箱に捨てたエロ写真集を捜索して発見し、私を小声で咎めた後、丁寧に一枚一枚風呂焚きで燃したりする律儀な人だった。周りはみんな警察官で、それ以外の父を持つ人の話しはあまり入ってこない環境にあって、その後のタコ社長の人生の行動範囲をある程度規定している。「うちの親父が言ってたんだけど。」高校1年のときにSが割りと大きな声で我々劣等生仲間に話し始めた。東京の三多摩の進学校に通っていた。「満員電車でな、掌をこうして自分の方に向けているうちは問題ないんだけど、いったんこうして180度方向を変えたら痴漢になるから、お前も気をつけろよって言うんだよ。」世の中っていうものは万事がそうだから、自分の身は自分で守るように言われたとのこと。Sは、これを懇切丁寧に実演つきで披露してくれた。私は、この世にはいろんな父親がいるもんだな、と感心した。このSには、美人の誉れ高いお母さんがあった。ある日Sがこの母親のことで言い出した。「うちのお袋、イボ痔でな、若いときから随分と苦しんでいるんだけど、この間ある方法で治療したらよくなってな。お前らも痔だったら試したらどうだ。」誰も訊かないのに唐突な話しが飛び出した。Sが私たちに話してくれた方法とは、まず七輪に火をお越しその上に網をかけ、その網の上にニンニクの皮を剥いたものを切って乗せる。そして、何と患部をできるだけそのニンニクに接近させてイボ痔をいぶり殺すというとんでもない方法だった。考えるだけでお尻が燃えてくる。Sのお母さんが、あられもない姿で七輪をまたいでいる姿を嫌でも想像して胸が詰まる思いがした。しかも、お父さんもSも協力して家族が一丸となってイボ痔いぶり殺しに手を貸しているとの涙ぐましい話ではあった。嘘か本当かは知らないが、Sの話しに拠ると何度かやっている内に、ポロっとイボが落ちたとのことだ。私はSの話しに半信半疑だったが、直接お母さんに確認する訳にもいかず信じるしか術を知らなかった。このSの話しには更にその続きがあって、何でも、お母さんはあまり熱心にやり過ぎて火傷を負ったとのことだった。どこを火傷したかは知らないが、お尻からふって湧いたような燃えるような話しではある。警察官の家庭に育った私は、この話しは一般サラリーマンのほのぼのとした家庭愛を垣間見る思いがして、いつまでも咀嚼している話の一つになっている。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月27日
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今日の写真 上の人、タマが好き。タコ社長、マタが好き。最後に座高を測ったのはいつだったのだろうか、と思ったら眠れなくなった。会う人毎に、「座高はおいくつですか?」と聞きたい。世界広しといえども、「はい、何センチです。」などと即答えられるのは日本国民だけだろう。「胸囲」を測るのも問題になったことがあると記憶している。給食当番のように、「胸囲計測当番」などあったら真っ先に、などと血迷っている訳ではないが、間違いなく立候補はしていただろう。学校関係者の方がいたら教えて欲しい。今でも日本では小中学校で座高を測っているのだろうか。そして、更に日本以外で学校で座高を測っている国があるのだろうか。97センチだった。タコ中学生の座高だ。「座高一」と呼ばれたかった。他に自慢するものがなかったので自慢したかったが、なにか思い切って言える勢いがなかった。英語では、何というのだろう。こんなことは、聞くことさえできない。品質管理よろしく、座高測定器を生産していた会社はどうなるのだろう。世界一の測定器を求めて日夜努力してきて、家庭も顧みず企業戦士として没頭して、あわやプロジェクトXもと思っていたときに、学校ではもう座高は測定しなくなりました、という事態になったら、自分の人生をどう評価できのだろうか。座高を思って、いろいろな疑問がわいてきた。日本人の足の短さを思い知らせるために始まった諸外国の陰謀か。一体、何のために座高は測られていたのだろう。これを解明しないで黄泉には臨めない。いつになく、平和な日曜日だ。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月26日
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今日の写真 みなさんと、わになって街のカジノタワーホテルというところに泊まった。オランダ系の連れ合いが、何かポイントが貯まったというので、もちろん只。30人くらいが泊まれる部屋だ。こんな所からも日記を発信していて、自分でも感心している。連れ合いは、こういうときにPCを使うと怒るのでなかなか難しい環境だ。オーストラリアに来てからも、そして来る前も、失敗や大恥でジイサンが柴刈りする山ができるほど豊かな人生だ。因みに、柴刈りをするジイサンとは、一体何歳くらいの人を言っていたのだろうと、思ったら昼寝もおちおちできなくなった。人生50年の頃のジイサンは、間違いなく40代も入るだろう。テレビもラジオもない時代だから、40代で十分孫ができる艶っぽいライフスタイル。してみると、当時のジイサンといわれていた人は今だったら不倫の現役、当時だったら夜這い幕の内三役くらいなものだろう。じゃ、タコ社長なんてヒイジイサンといわれてもさほど不似合いとも思われない年代になっている。これからは、ヒイジイサンは山に柴刈りに、ヒイバアサンは川に洗濯と入れ歯の手入れに、なんて言わないと桃太郎も納得してくれない時代になっている。柴刈りの話しから、随分と横道にそれてしまって、一体何を話そうとしていたのか忘れてしまったところで今日の話しは終わり。十分ヒイジイサンだ。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月25日
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今日の写真 最近、ちと疲れ気味タコ社長「Mr Tako.」と言われたかどうか覚えていないが、インドでビールをしつこく勧められた。タコサラリーマン時代にインドへ3度行った。元相撲取りとしては挑戦してみたかったが、背負っていくわけにはいかないブルドーザーの行商に出向いたのだ。1983年のことだ。1台1億円もするようなものもあったので、なんだか自分がえらいことをしているような錯覚をぶら下げて商売をしていた。今もそうだろうか、インドでは禁酒の州が多かった。そんな州ではレストランに行く前に家で飲んでからいくのだ。インドの偉い方の家だったので、サービスに底上げがない。次から次へとビールを勧められ断るのもなんだから、はいはいと言って飲み続けていた。六本木の馴染みの、今はなきクラブマキシムかなんかで飲んでいるのとはわけが違い、いかめしい顔をしたインド紳士達とただ黙々とビールを飲んでいたので、食事をしに行く前に悪酔いしてしまってさんざんな夜となった。もう、20年以上前のはなしだが、基本的にはTVなんかで見ているかぎり、インドは余りあの当時と変わっていないように思える。金持ちは大金持ち、貧乏人は小金もない。デリー辺りのホテルで見かけるアーリア系の美人は、何度振り返っても惜しくないような超がつく美人だった。その人たちの着飾った様子は半端ではなく、ホテルを一歩出ると蟻のように集まってくる子供の物乞いたちの衣服との違いに唖然とするしかなかった。日本企業戦士として仕事に出向いていたので、全くインドの一部の階級の人たちとしか接していなかったのだろう。今は唯のタコ。自由人としてインドを訪れたいと思うが、オランダ系の連れ合いは興味がないようだ。アメリカを初め、一人でもう一度行きたい国が多くある。しかし、インドでは前科者もどき、駐在員に頼まれて持ち込もうとしたロマンポルノビデオ発覚であわや牢屋へ。入管で引っかかるかもしれないからもう少し先の話しにしておこう。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月24日
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今日の写真 タコ社長の口癖、お茶しませんか?日本では、2007年問題がクローズアップされている。小学校のとき憧れだったあのお姉さん達は学年でいうと二学年から四学年上だった人たち。所謂、その後いわれるようになった団塊の世代の人たちだ。もう小さなスカートが似合ったあのお姉さん達は、もう55歳から57歳になっている。中高年の男女に旅行の統計を日本でとったという。「旅行に行くときに誰と行きたいですか?」男性の70%が妻と、と答えたとのこと。これは、日ごろの不義理の償い%かとも思えないでもない。そして、女性の70%が夫以外、と答えたという。これは、日ごろの義理からの開放%か。リタイヤ後の離婚が心配だ。団塊の離婚予備軍も2007年問題に大突入するのだろうか。もし、同じ統計をオーストラリアでとったらどうだろうか。間違いなく言えることは、夫が妻を、妻が夫を選ぶ%が限りなく近いということだ、なんて自信をもって言ってもいいものかとは思うが、当たらずとも遠からずだろう。こんな国に住んで20年になる。オランダ系の連れ合いに、あなた以外の人と旅行に行きたいなんて言われないように日ごろから家事などに精進せんと。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月23日
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今日の写真 身も心も燃やして欲しい9歳くらいまででその人の一生の味覚の嗜好が決まってしまうという。それまでに、毎日マクドナルドのハンバーガーを食べていたら、私が、今死ぬほど納豆が食べたくなることがあるように、そういう人は後の人生で、むしょうにハンバーガーが食べたくなることがあるようになるのだろう。「日本人は鯨を食べるんでしょう。」こちらの人に聞かれた。「昔は、缶詰の鯨を食べていたけど、美味しかったよ。」とちょっと冗談めかして言ったら嫌な顔をされた。あの頃は、鯨の缶詰が安かった。我々貧乏人が鯨を食べた。あの、缶詰を開けたときの油が固まったようなところを温かいご飯にのせると、これがまた格別だった。小学校では、鯨の竜田揚げもなかなかだったが、一緒に出るほうれん草の胡麻和えの独特の味付けが好みだった。しかしいくら、この鯨の味が忘れられないといっても、時代は変わりそれ以来全く食してはいない。因みに、オーストラリアでは、馬とか犬とかを食べるなんていったら村八分間違いない。こちらでは、ニュージーランドとオーストラリアが共同で提出した、反捕鯨の決議案のニュースがトップニュースだった。日本では、ヨン様が入院したことがトップニュースなのだろうか。玉ちゃんとかいって、一頭のアザラシがあれだけもてはやされる日本なのに、どうして捕鯨の反対が盛り上がらないのだろう、なんて訝しがっているわけではないが、反捕鯨の先頭を切っているこの国から見ていると、この差の大きさは埋まりそうにないなと思えてくる。いつになく硬い話しになってしまったが、私だって生きた子ダコを生で食べる韓国なんぞにはヨン様に誘われても行く気はしない。タコ社長の終の棲家はオーストラリアのようだ。それにしてもあの缶詰、なんてことはゆめゆめ言わないことにしよう。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月22日
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今日の写真 たい焼き料理はたいしたもんだった私は名前の割には「毛」が多い。そのけも多いとの噂もあるが。だから、禿げではないがハゲがある。5つの時に1円玉を取ろうとして台に乗ってひっくり返り、火箸に当たって頭を切り、2針縫った。兄は、それから私を「1円ハゲ」と呼ぶようになった。私は子供ながらに激怒したが、額が1円なのでなんとなく気後れした。せめて10円くらいの大きさだったら、と後悔したことしきり。近所のよっちゃんという一つ年下の遊び友達にもハゲがあり、この子はその形から「三日月ハゲ」とあだ名されていた。因みに、この「三日月ハゲ」のよっちゃは、いま東京のある警察署の署長をしている。昔、私とよっちゃんは喧嘩をすると、お互いに「1円ハゲ」「三日月ハゲ」と言い合いが止らない。最後には、よっちゃんが「なんだよ、1円ハゲのくせに。」と言う。この「くせに」という言葉への屈辱感には抗しがたいものがあった。ハゲがすごく安いのだ。そして、喧嘩が終わる。だから、私は早く大人になって毛を伸ばしたかった。練馬区健康優良児の表彰式があった。私は、予選落ちしているが入選者の式に出ることになっていた。前の日に母親に、「床屋に行っておいで、人の表彰でも表彰式なんだから。」と言われ刈り上げられた。1円ハゲが目立つのだ。私は、どうしよう、と悩んだあげく兄に相談した。「じゃ、明日行く前に俺がマジックインキでハゲを分からなくしてやる。」解決方法は案外身近にあった。当日、「塗りつぶしちゃだめだよ、かえって目立つから。」「じゃ、ぽつぽつとやってやる。」兄も日頃、「1円ハゲ」といじめている手前、真剣になってやってくれていた。私は、鏡を手に兄弟愛の大きさにハゲまされていた。だが、会場に入って私の期待に反して席は前の方で、生きた心地がしなかった。後ろの人たちの全てが私のハゲに注目しているような鋭い視線を感じ続けた。唯のハゲならこれほどではなかったろう。マジックインキが恨めしい。兄を責める気ははかったが、もっと堂々と「私はハゲがあります。」と言える6年生に成れなくて後悔した。日本に帰って、1円玉を使う度にこのマジックインキまみれの屈辱を思い出す。タコ社長、いつまで「毛」がふさふさであることを願っている。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月21日
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今日の写真 タコ家にも欲しい観音開きブリスベン事務所のスタッフと、人生について語り合っているときに、寝るときに裸で寝ているのはタコ社長だけだと知った。オーストラリに来てから、私の数限られた回りの方々はみなそうであったので、豪ではないが郷に従ったまでのこと。しかし、何もつけないでいると、何かの拍子に不安になるのではないかと耳栓だけはして寝ることにはしている。Sleeping Tako. ではなくSleeping Doctorなのだそうだ。こちらは年中寝ている私と違って、睡眠のことを研究しているお医者さんのことだという。ちなみに、お医者さんと医者、先生と教師、お巡りさんと警察官などの呼称と職業名の違いも面白い。職業名の前には、「おい」などをつけないと勢いがつかないが、幸いにもタコ社長、いまだご厄介になったことはない。さしずめ、私の場合はタコ社長とタコ、だろうか。「おい、タコ!」とか言われるようになったらこの名前は返上せんとならない。メルボルンのIT界ではその名を知られているNさんは、いわゆる無呼吸症候群とのことで、先日Sleeping Doctor に診てもらったとのこと。一晩とまってモニターで検査を受けられた。その結果、なんと一晩に200回以上呼吸が止まってまして,平均1時間あたり35回。そして,1回平均20秒呼吸が止まっていたとのこと。Nさん曰く、「つまり,2分弱に一度の割で20秒停まっているわけで,睡眠中の1/6は呼吸してないということです。6時間寝たら,1時間は呼吸してない!これは驚異でした。その晩はもちろん,病院なので,お酒も飲まずに寝ているので,酒を飲んだときなどは,おそらく一晩に半分ぐらいしか呼吸していないのではないかと思います。」都合だろうが何だろうが、海女さんもびっくり1時間も呼吸をしていないということは俄かには信じられないが、私が一緒に寝てチェックするわけにもいかず、そのまま聞いておくことにした。鼻に微弱力をかける特別なマスクをして寝ることになるそうだ。Nさんいは、マスクだけで寝るのですかと聞いてみたいところだが、お医者さんもすぐ慣れると言われているようで、これで都合1時間もの無呼吸が治まるならどんなマスクでも苦にはならないことだろう。聞いてみないと、寝るときになにをつけて寝ているのか想像もつかないものだ。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月20日
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今日の写真 自転車もヘルメットで本日、ブリスベンからメルボルンに戻った。飛行機で2時間だから、ちょっとした距離だ。もう少し近かったら車を飛ばしていくのだが、なんせまる二日はかかるのでどうしても飛行機になってしまう。前にも書いたが、5年前に車で一人で運転して行ったときは、自慢じゃないが2度も居眠り運転をしてしまい、このまま逝ってしまったら私にどうしてもなつかない我家の老猫ルーシーでさえ、大好きな鮭缶が喉を通らないだろうし、そんなことを思うとどうしても車は止めたほうがいいと思った。家に帰り、さっぱりした晩御飯を済ますと日本では今日は「父の日」であったことを、カラオケで彼の「紫陽花のうた」に挑戦して大失敗したことのある浜田省吾さんのブログを読んでいて知らされた。オーストラリアでは、「母の日」に近過ぎるからかどうか知らないが「父の日」は9月である。「もしもし」日本に父の日の電話をして母と話した。「電話の向こうでありがとうって言ってるよ。」と母から間接的に言われた。父は、晩酌を終えてもういつもの手枕姿で横になってテレビでも見ているのだろう。父は、大正時代にでも電話しているように長電話厳禁主義で、いつも出たとしても一つのセンテンスで終わる人。今日も、元警察官の父らしいと思った。あの父から、どうして私のような子が生まれたのかいつか解明したいとさえ思う。「会社、辞めるよ。」一応、名の通った大手建設機械会社の海外営業部でインドとパプアニューギニアという珍しい組み合わせの担当をしていたタコサラリーマンがそう両親に打ち明けた。1984年の6月のことだった。両親は、一言も反対しなかった。ニューギニア駐在にでもなったら、鼻に骨でもさしている花嫁で連れてくるのではと危惧したのかも知れない。しかし、ひと悶着は覚悟していた私は、本当に嬉しくて無言で両親に感謝した。言いたいことは山ほどあったに違いないが。「秋田からモチ米が届いたんでね、今赤飯炊いてお祝いしたところだよ。美味しかったよ。」電話くらいしかできない私だが、二人で仲良くお祝いしたと聞いて安心して電話を静かに切った。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月19日
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今日の写真 週末は気分一新「あっ、タコ社長!」見知らぬうら若き女性に言われた。「えっ、どうして分るんですか?」頬が高潮、体は硬直。「私、2年前からタコ社長の日記を読んでいるんです。」あれだけ自分の写真をアップしているのだから、こういうことはルーマニアあたりでも、はたまた馴染みの南アフリカあたりでも起こってもおかしくはないが。また、このての巨顔はすぐ見分けがつくようだ。巨顔といっても、先々代の相撲取り朝潮親方と路上ですれ違ったとき、自分が小顔に見えたから何事にも上はいるもんだと恐れ入ったこともあった。ある統計によると、人と話したり、またはスピーチを聞いたりした後、もっとも覚えていること、印象に残ったことは、その話の内容ではなくその人の身なり、体型、(顔の大きさは入っていたか定かではないが、私の場合は入れておく)なのだそうだ。なんと57%がそうだったという。ということは、人に残る印象の半分以上は見てくれなのだ。それこそ、どうぞ見てくれ、ということだそうだ。タコ社長、中身のなさを足の数とか肌のぬめりとかでごまかしているとかもっぱらの噂だが、人間の印象なんてその程度のもの、なんて安心していたら益々図に乗って中身の空洞化に拍車がかかって度し難い。こんなことを危惧しているうちに、飲み暮れていたブリスベン出張も終わりになった。家に電話をすると、我が家の老猫ルーシー130歳が、ベットの私サイドを占領しているという。ベットでは、そのケはあっても猫の毛だけは勘弁して欲しい、と常々言っているのだがオランダ系の連れ合いは、「大丈夫、大丈夫。」と言って聞く耳を持たない。そんな訳で、タコ家は、家では二対一の勢力図が確立されていて安定期に入ってきている。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月18日
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今日の写真 高床式クインズランダーの家、それにしても敷地が広い私は、あの浪越徳次郎さんに指圧の手ほどきを受けた指圧師だったことは書いた。しかし、その手ほどきは10分くらいだったので、指圧師もどきで終わった。いつもはお弟子さんから訓練を受けた。メルボルンで日本語情報センターを運営しているが、4年ほど前そのセンターの空いている部屋を利用して日本人の、こちらは本物の女性指圧氏Mさんが指圧センターをオープンした。宣伝は、ジャパニーズマッサージとして新聞などの三行広告で行った。ある日、痩せた中国人の男性がキョロキョロしながら入ってきた。情報センター内には掲示板の仕事広告などを見に若い女性が結構きていた。この男性、挙動がやや不信だったので私は覚えていた。「ねえ、この間来た中国人には笑っちゃったわよ。」Mさんがあの男のことを話し始めた。「入るなりね、『このセンターには若い日本人の女が多いな。』なんていやらしそうにニタニタしているの。そして、一通り指圧が終わってそう言ったら、『えっ、こだだけか?』って言うのよ。あれは完全に間違って来たな。」ジャパニーズマッサージとは、あっちの方のマッサージと勘違いしたようだ。結構、間違ってきて料金払うとき損したような顔をして帰るクライアントがいるそうだ。そういえば、もうずっと前に私も指圧の新聞広告を出したら1日に90件の問い合わせがあって、全部男性からのものだったことがある。私は、もとより岩のような男性を汗かいて指圧するよな夢は全く持ってなく丁重にお断りした。あの問い合わせのあった90人がほとんど女性だったら、今頃「オーストラリア指圧センター」などを建てて、「押せば命の泉わく」などと高笑いして左団扇の経営者になっていたかもしれない。幸いにして私のニックネームとは裏腹に、私の指は柔らかくしならなく指圧には向いていないというので、指圧師の道は絶たたれタコ社長になる道を歩み始めた。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月17日
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今日の写真 やっぱりビールはVBだ「じゃ、行ってくる。」20年前の今日、両親に見送られて私は成田空港を後にした。なんせ、東村山という田んぼでもありそうな響きのある所から成田まで車で行ったのだが、心配性の父親の意見で随分と早く家を出て、とんでもない時間に成田に着いてしまった。出発時間の4時間半前だった。当時はいまより10キロは痩せていて、銀座辺りを歩いていると800人くらいの女性のうち一人くらいは振り向いてくれるくらいの器量良し。今は見るかげもない。早起きして母が作ったオニギリなんぞを食してみても到底埋まる時間ではなく、3人で御のぼりさんよろしく空港内を歩き回った。あの時、両親は4,5年して日本に帰ってくるものだと思っていたらしい。朝から、生卵や焼き海苔でご飯、なんていう生活ではなかったが、それでも結局は日本がいい、と思って帰って来る、くらいに思っていたという。ブルドーザーの営業員を9年近くやってその会社を辞め、日本語教師になる勉強をした。特技が必要だろうと、一糸まとわぬマリリンモンローを心ゆくまで指圧したという、個人的には許せない行為に及んだあの浪越徳次郎氏の家庭指圧教室に通い、オーストラリアで路頭に迷ったら、偏った趣味と実益を兼ねて指圧で食い繋ごうなどと思い指圧を学んだ。内心は、永住権が取れるまでは絶対に帰国しないと心に決めていた。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月16日
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今日の写真 いつもの風景やっぱり私はなんといってもバージンがいい。昔は、目の玉が飛び出るほど高くて二の足を踏んでしまったが、今は私も遠慮がない。あのにこやかな対応がたまらなく、またしつこく乗りたい気持ちを起こさせるバージンだ。メルボルンとブリスベンの飛行は、15,6年前には往復400ドルを超えていた。ところが、カンタス航空の競合会社アンセットのよもやの倒産があった後にでてきたバージン格安フライトのおかげで国内線が大幅に値下げされている。「ヌサあたりのモーテルを買って経営したいと思って、メルボルンから移り住むんです。」飛行機の隣り合わせたシェインというオージー男性と話した。飛行機や長距離電車などでは隣り合わせた人と会って5分以内に話さないとまったく一生話さないで終わるという。この法則を知ってから、私は女性に関しては積極的に、男性に対しては選り好みしてこちらから5分以内に話しかけるようにしている。2000キロ北のブリスベンから更に1時間半くらい北に行った所にあるリゾート地ヌサ。サンシャインコースとはこのヌサから南にくだる海岸線一体をさした名称だが、タコ社長が密かに狙っている場所でもある。ただ、何を狙っているのかは定かではない。「長年住み慣れたメルボルンを去って、新たなチャレンジだよ。」機内で購入したサンドイッチを2パックも食べながらシェインが言っていた。二人でうるさいほど笑いながら会話を進めた。2時間の飛行中、このようにほとんど話し詰めだった。知らない男性とこれだけ話すのも珍しい。お陰で、飛行時間が本当に短く感じられた。生まれ故郷のメルボルンを去って、これから新たに新天地での活躍を夢見るシェインは40代後半だろうか。でも、目は輝いていた。そういう私も昨年、このブリスベンに新しい事務所を開いた。タコ社長、夢は夜も昼も開いているよう思える日々だ。これじゃ、なかなか引退はできない。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月15日
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今日の写真 クイーンズランドは常夏気分本日、メルボルンから約2000キロ北にあるブリスベンに到着。こちらで金曜日まで仕事だ。自慢にもならないが、ここまで車で往復したことも2回ある。でも、前回の5年前には1日10時間の運転で、2度もしっかり居眠りしてしまい、もう2度と車はごめんだと思った。吐く息が白くなったメルボルンの今朝。午後ブリスベンに着くと、汗だくタコに変身だ。これじゃ体によくないが、ついた当日はスタッフが必ず律儀に歓迎会を開いてくれるので参加しないわけにもいかず。もっとも、一番行きたがっているのはタコ社長とも言われてはいるが、、、、。今夜は、定番韓国キムチナイトということで、節制してのぞまないと。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月14日
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今日の写真 見るだけにしておこうタコ社長、今日が誕生日、53歳になった。昨日はオランダ系の連れ合いの家族や友達たちが集まってくれた。ぐだぐた言わずに素直に喜ぶことにした。日本では、子供の誕生日と年寄りの誕生日に人気があるように思えるが、こちらでは毎年賑やかだ。そして、今日はエリザベス女王の誕生日でもある。本当の誕生日は別な日らしいが、わざわざ私の誕生日に合わせてくれたようにこの日にお祝いしてもらえる。本国では祝日ではないのに、オーストラリアでは国民の祝日だ。悪い気はしない。連れ合いと「誰も知らない」というあの映画を見にいくことになっている。日本語で見られるのが嬉しい。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月13日
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今日の写真 骨っぽいラム肉「早く支度して、アウディーに行くんだから。」週末にオランダ系の連れ合いがいう。民族的にしまり屋の家系に生まれた彼女で、律儀にその血統を受け継いできた連れ合いが変わったのだろうか。「私が稼いであなたが使う。」一週間に一度は言われている常套句。「人生は短いんだ。私だって生きてせいぜいあと50年。お金は使うときに使わないと。」という私。連れ合いが、高級車アウディーを購入する気なったようだ。近くにショッピングセンターにできたというアウディーに向かった。それにしてもこの変わりようは、どうしたのだろうか。日本で大ヒットしたあの「マルサの女」がこちらでも上映されたことがあってTVでも放映された。題名は「Taxing Woman」だった。その中で、主人公の守銭奴が言った言葉が思い出される。「金持ちはどうして金持ちになったかわかるかい?お金っていうのは、ちょうどこのコップに溜まった水みたいなもんで、貧乏人はいっぱいになる前に飲んでしまう。だからいつまでたっても貧乏人だ。金持ちはね、これが一杯になっても飲まない。あふれるまで待つ。そして、あふれたのも飲んじゃだめだ。舐めるんだ。ただ舐めるだけだ。」そんなようなことを言っていた。ショッピングセンターに着いてすべてが分った。アウディーとは車の会社ではなく、新しくできた「格安スーパーマーケット」のことだった。売り場の棚がなく、箱が無造作に積んである。従業員が少なく、セルフサービスみないで買いに来ている人も、言っちゃ悪いが寝起きにパジャマで来たような人が多い。レジがこれまたすごい。レジの人が少ないからまるで戦争状態だ。「これなんかセーフウェーで売ってる半分の値段よ。」私自身はセーフウェーでいくらで売っているのかまったく知らないし関心もないのでただ頷いているだけだった。オランダ系の連れ合いの両親は、父親が52歳でリタイヤして仕事をしていない悠々自適の生活をおくっている。しかし、私の連れ合いはこの両親にこアウディーを勧められたとのこと。「マルサの女」じゃないが、いつか本当の本物の社長になれることを夢見ているタコ社長、連れ合いといっしょなら、私生活でもいつか「お金持ち」になれるのかも知れない。頼もしい家族とともにやっていくことにしよう。それにしても、あのアウディーのスタッフのあまりにオーストラリア的なサービスには圧倒された。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月12日
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今日の写真 こちらの公衆男子トイレは開放的だ。しかし、みな異様に隠す仕草が面白い「高校時代に岡山に留学していましたが、本当に100軒くらいしか家のない、田舎にいました。」メルボルンの州政府貿易部のDさんと話す機会があった。ドイツ生まれ、オーストラリア育ち、そして日本留学の経験がある人だ。Dさんは、本当に日本の生活を楽しんだとめを輝かせた。毎日1時間かけて高校に通ったそうだ。金太郎で有名といいかけた私は、桃太郎と訂正させられた。「でも、どうしても馴染めないことが一つありました。」「なんだったんですか?」「汲み取りのトイレでした。」なるほどと思った。トイレには人一倍興味と関心のあるタコ社長、詳しく聞こうと思ったが、お茶とお菓子をいただいているときだったのでやめにした。日本に帰ったとき、止むに止まれぬ事情で駅のあまりきれいでなかった日本式のトイレに入って、終わって出ようとしてひどい立ちくらみをおぼえたことがある。こんな所で終わりたくないという思いも過ぎった。昔は本当に難なくこなしていたスタイルだったが、体型も変わり足への加重が異常に増えたことも原因だったのだろう。勿論、東京の駅だから汲み取り式ではない水洗ではあったが、もう二度と使いたくないと思ってしまった。極端な話し、小錦のような人で想像してみると、これはもう論外だろう。Dさん、そうとう苦労されたことだろうが、ニコニコ笑いながら話したくれた。戻ってメルボルンの大学を卒業、そしてまた日本の、今度は東京の国立にある一橋大学で学んだという。国立は私の高校の母校がある町で、桜並木で有名なところだ。オランダ系の連れ合いが唯一東京に住むなら国立ね、などととんでもないことを言う町でもある。「じゃこんど一緒に昼でも食べましょう。」ビジネスを離れてご一緒させてもらい人だ。なんせ、時々途中から日本語になっても違和感がないのがいい。「日本語が話せるオーストラリア人がふえていますよ。しかも、会計士とか弁護士とか。そういう人を日本に紹介するビジネスはどうですか?」別れ際にDさんがそういった。日本では、北海道のニセコに豪州の会社が進出している時代だ。面白いかもしれない。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月11日
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今日の写真 思わず声をかけたくなる高校一年の時だった。どうしても英語が上手くなりたかった。リンガフォンの英語学習キットがどうしても欲しい。50課を勉強すれば英語が話せるようになると自分に信じ込ませて父親に言った。「最後までしっかり勉強するから、リンガフォンのレコードを買ってほしいんだけど。」その前の年に、私たち一家は14年住んだ練馬の警察官住宅から、東村山市に移り住んだ。警察官の安月給で大借金をして家を建てた両親には、本当にお金の余裕がないことはわかっていた。私と違って、竹を鋼鉄で割ったような性格の父親は、賭け事など道楽にまったく関係のない生活だったから家も建てることができたのだろう。途中でやめるようなことにはならない、という条件で買ってもらうことになった。昭和43年のことで、セットで1万7千円だった。熱し易く冷め易い、惚れっぽくて捨てられ易い性格は一筋縄では御せない。結局、このときもその性格が影響して、半分もこなさないうちにそのレコードは押入れの奥にしまわれるハメになった。こんなことだから英語では、いまだに苦労が続いている。しかし、あの時アメリカ英語を50課まで徹底して終えていたらオーストラリアにはいなかったかもしれないと思う。とすると今のタコ社長もないのだからやっぱり中途半端でよかったなんて屁理屈いっているものだから、親の心未だ子知らず。最近では英語はおろか日本語さえもおぼつかないことさえでてきて、さすが聞き上手のタコ社長とか言われてへらへらしている場合ではない。オランダ系の連れ合いは英語教師なのだから、どうどうと胸を借りて練習すればいいのだろうが、胸の借り方に違いがあってなんともさまにならない。ああ、それにしても、最初にあのレコードを聴いたときの本場の英語に震えるような違和感を感じてしまったのはどうしてだろうか。私は、教室の日本語英語が好きだったのかもしれない。第一、発音が分り易かった。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月10日
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今日の写真 週末のカフェでの朝食なんかはいつもこんな感じで嬉しい「こんなにいいものだったら、もっと早く入れるんだったよ。」今回の帰国で母がいった。夫婦二人の生活だからオーストラリアなんかのサイズに比べると可也こぶりだが、本当に料理が趣味で、明るい内はいつも何か作っていては近所に分けてあげたりしている母だから、洗物も山ほどある。「手間が省けることもそうだけどね、本当にピカピカになるんだよ、ほらね。」秋田の農家の出身で、今は東京の東村山4丁目に住んでいる母は、この食器洗い機が最高だと何度も言っていてその洗い上がりなんかを楽しそうに見せてくれていた。「うちにもあるけど、年に1,2度しか使わないね。」私は、そう答えた。どういうわけかオランダ系の連れ合いは、食器洗い機に恨みにもでもあるのだろうか、本当に使わない。二人きりでそんなに料理もしないので必要ないといえばそうではあるが、今回も本当にきれいになるんだよ、といっても馬の耳に念仏状態で聞く耳をもたない。どうやら水を使いすぎると思い込んでいることがそうさせているようだ。今のタイプは垂れ流しより水の節約になる、といってもダメである。汚れたものは即きれいにしないと気がすまないゲルマン民族の末裔には勝てないところがある。それに、こちらの人は洗剤で洗ったあと水洗いもしないから水の節約と私が言ってももイマイチ説得力もない。こうなったら、連れ合いにもっと料理をしてもらって食器を山のように溜めて説得するしかないか。しかし、共稼ぎではこれも期待薄。という訳で、我が家の食器洗い機は、豚に真珠、猫に小判型になっている。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月09日
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今日の写真 ロトルアのタコ青年 今より15キロは軽い「裸で入っちゃダメみたい。」それもそうだろう。温泉といっても、ここは日本の岐阜の山奥とかじゃなく、ニュージーランドのロトルアだ。露天っぽい雰囲気はあるが、子供のときから裸で風呂にはいるような習慣がないこの国では、一応水着をつけて温泉に入る。一緒に回っていたIさんという日本人の女性がそう言った。それで思い出したが、日本でのサラリーマン時代、インドの技術者を大阪工場に研修に迎え入れたとき、日本人と同じ寮に泊まってもらうことになった。私は東京の海外営業にいたが、大阪の業務部の担当者から、寮の銭湯でインド人がパンツを履いたまま風呂に入るので、ダメだといってもどうしても聞いてくれないとこぼしてきた。多くのインド人に聞いたわけではないし、個人的に調べたわけでもないが、やはりインド人も人前で裸になることはためらう。日本の共同風呂の風習というのが世界の中では少数派なのだろうが、なかなかいい風習だとは思う。バスでロトルアに降りたったとき、Iさんが声をかけてきた。「日本人ですか、どうやら同じユースのようですね。」私の小豆色のバックパックには5センチ四方の日の丸が縫いこんであったし、どこからみても顔の大きな元相撲取りみたいな図体だから、50メートル先からでも日本人と分る。Iさんは、OLを辞めて一人でニュージーランドを旅しているという。1985年の12月のことだった。Iさんと水着でこの温泉に入り、羊の毛狩りのショーなどを楽しんだ。旅は道連れという。特に、一人旅の日本人がそんなにいなかった頃の話だ。だいたい、バックパーカーは、同じユースに泊まることが多く、その後Iさんには何度も遭遇した。二人とも、永住権を求めているのが分ったが、その時は、二人とも全くその足がかりもないころで、恋などが芽生える精神的な余裕もなかった。私は、33歳になっていた。こんな所で温泉になんか浸かってていいのだろうか。自分の人生にあるのは裏打ちのない夢だけだった。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月08日
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今日の写真 わら半紙にくるまれて出てくる「君はどうも料理人には向いていないようだから、明日からはフロアーに出てくれ。」オーストラリアに来たてのころ、バイトをしていた日本レストランのオーナーから言われた。もっとも日本でサラリーマンをしていて、いきなり寿司を握れるわけもなく、カラッと揚がらない天ぷらにも客からクレームがついてしまっては仕方ない。いくらオーストラリア人でも自分の腕ではごまかせない。一応はフロアーマネージャーになったが、その実ウエーターに毛の生えたようなものだった。「あら、フロアーになったの。」ウエートレスのKさんがいった。彼女は、レストランのあった、メルボルンの青山と言われるサウスヤラという所に住んでいて、店がはけてから何度も送っていったこともあった。私より6つ年下だったが、妙に色気のある女性で、甲高い笑い方がかわいらしくもあった。紺の着物の作業着でKはいつも明るく仕事をしていて、店でも客の評判だった。ある日、寿司シェフのSさんが私に言った。「タコさんね、Kさんに気があるでしょう。」女性なら顔さえあれば、なんていう盛りのつき放しの時期ではあったが、そのなかでもKさんには確かに思いを寄せてはいた。「ダメだよあの娘は。ワーホリだけど実は日本から好きな人を追っかけてきているんだよ。でもその人は結婚してるだ。不倫だな。その人が海外出張になったんで、会社を辞めて追っかけてきたんだって。その相手はね、タコさんもよく知っているあの商社のMさんなんだって。」私は、少なからず驚いた。Kさんがそんな思い切ったことをする人にはみえなかったからだろうか。商社のMさんは奥さんと子供とメルボルンで生活していて、実のところKさんの入り込む隙はなかったようだ。時よりKさんが見せる、切なそうな横顔にそんな訳があったのかと思えた。こんな南の果てまで追いかけてくるなって。Kさんはワーホリのビザが切れる直前に日本に帰っていった。私も、ビザの関係などでその店をやめることになったが、商社のMさんはそれから2年ほどして他の任地に向かったと後できいた。その時、もしかしたらKさんは、その新しいMさんの任地にも出向いたのだろうか、などと余計なことを考えた。このレストランでは、私も30代前半で出会う人たちも恋の現役が多く、自分の出番はそれほどなかったが、他の人たちのいろいろな場面に出会った。でも、そのほとんどは切ない結末になったしまったようだった。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月07日
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今日の写真 乗ってみたいものの一つオランダ系の連れ合いはオーストラリアのメルボルンの生まれだ。1956に両親がオランダから移民してきたあとに、メルボルンの郊外で生を受けた。熊本で一年、岐阜で一年、日本で合計二年英語を教えた経験がある。肥後弁なんかもたまに出る。英語を教えることに関しては辛抱強い。日本から帰って、当時(1990年)タコ社長が開いていた日本語教室に迷い込んで来てくれた。きれいな日本語を話すおとなしいイメージの人だった。外人が日本語を話すとほとんどの人がおとなしく見えるのは不思議な気がする。ヨーロッパの中でもオランダ人は背が高いといわれている。連れ合いも結構上背がある。ミスユニバースのTV番組を見ながら、昔は私もあんなだったわ、などといいながら自分で笑っていた。「ドイツ人は二十歳くらいまでは妖精のように可愛いが、それを過ぎると遠慮なく太り始める。どうもジャガイモのの食い過ぎのようだ。」中学校のときの保健体育の時間に先生が言っていたことが、その後のジャーマン系の民族を見る目の原点になっていてありがたい。しかし、アメリカに住む日系人がアメリカ人の体質になっていくように、オーストラリアに住むオランダ系もオージー体質になってくるのだろう。細かいコメントはこの際避けるとして、菜食主義者も多いオーストラリア、小錦のような体型の人を見かけることは極稀だ。週末は、できるだけ一緒にジムに行ったり近くを歩いたりしている。それでも会話が少ないといつも言われ続けて14年になる。小さいときからこちらの人のように、5分で話せることを30分にして話すような訓練は受けていないので、「うん」とか「はい」とかで会話が終わることが多く連れ合いはいつも不満げだが、50過ぎていきなりおしゃべりになる人もそういないと思うので我慢してもらうしかない。子供の時、あの東京は練馬のアメリカ軍のグラントハイツでの初恋が、こうして南半球であだ花として変種の実を結んでいるのかと思うと、マッカーサーさんも一つはいいことをしてくれたと思えてくる。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月06日
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今日の写真 タコとタコ「明日は、6時半にはレストランに座ってないとならないから早く帰って来てね。」オランダ系の連れ合いが言う。連れ合いの母親の誕生日にレストランの予約をしるという。給料日は忘れても、忘れちゃいけない家族の誕生日。社長だろうが、課長だろうが、失業者だろうが言われた通りに参加するのがこちらの誕生日。おまけに、連れ合いは少子化の日本が羨むほどの大家族。親類縁者を加えると140人にもなる。いつもは会社にいる時間だから、早く帰らないとならない。これじゃいつまでたってもタコ社長を返上できない。だが、考えてみなくても日本の池袋辺りで仕事をしているわけではないく、オーストラリアにいて生活しているのだから、いつも連れ合いの領域で生活できて守られていることには感謝してやってはいる。しかし、いちど連れ合いと一緒に日本で生活して、実家の東村山辺りのしきたりにどっぷり浸かって生活してみたいと思わないこともないが。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。
2005年06月05日
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今日の写真 形もいい東京の練馬区で育った。子供が行っても「としまえん」から歩いて10分くらいの所にすんでいた。戦争から帰ってそのまま警察官になった父だったが、ここにあった警察官住宅に家族四人で昭和28年の初めから住み始めた。小学校3年のとき、ここから自転車で20分くらいの所にあったアメリカ軍の住宅地「グラントハイツ」という所に遊びに行き始めた。この芝生に囲まれた一大区画は、何もかもが自分の毎日の生活とはかけ離れていた。色が違い、においが違い、そして空気まで違うように感じた。思わず触れたくなるような金髪の産毛が輝くラビンという女の子のむき出しの腕。本当に白人とはよく言ったものだと感心したわけではないが、秋田出身の餅肌、白肌の母親を連れてきて比べて見たいほどだった。ラビンは7歳だったが、私は一言も口をきけなかった。なんせ、まったく英語ができない。Haroo、とか言うのが精一杯。一緒に行っていた中学一年のSさんから必要事項は確認していたが、中学一年の英語力もたいしたことはなかったように感じた。大粒の歯を一杯に見せながらラビンのお母さんがアイスキャンデーをくれた。貧しい日本の子供にアメリカの味を、っといった感じだったのかもしれないが、私はその垂れ落ちる真っ赤なアイスキャンデーの味よりも、その甘ったるいにおいの方に惹かれた。それは、もしかしたらあのラビンのお母さんの化粧のにおいも混ざっていたのかもしれない。化粧のにおいといえば、「桃の花」とかを愛用していた当時の母のにおいとも十分に違っていた。また、納豆とかも食べてはいなかったのだろうし、そういった食物からくる人のにおい、家のにおい、そして町のにおいなんかも別物だった。外国というものを、感覚で学び始めた頃だった。入ってはいけないことになっているこのグラントハイツから日本の領域にもどると、もうそこは誇りっぽい練馬大根に代表される畑だらけの練馬になり、土のにおいが漂ってくる。小学校の低学年のころから、どういうわけか未知の外国人(どちらかというと女性が多かったように思われるが)に人一倍好奇心があった。その当時の好奇心はいろいろな形にかわって今につながっている。タコ社長、今月でオーストラリア20年になる。
2005年06月03日
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今日の写真 メルボルンの元中央郵便局「医者にもっと食べて太るように言われたよ。」こちらに移住してきて10年近くなる友人のHさんが言う。なんと、この10年で15キロ痩せたそうだ。ちなみに私は、こんなことを言ってもなんの慰めにもならないが、中学時代から身長は全く変らないが、体重は20キロ増えている。慶應ボーイのHさんは、私と同じ歳だが私を3倍半くらい色男にした感じで、東京では日本を代表するホテルのホテルマンだった。大分いろいろあったのだろうが、アデレード出身のオーストラリア人の奥さんと3人の子供さんと共に、木に囲まれた高級住宅地で冬にはうどんでも食べたくなるようなドンベールというところに住んでいる。なんでも、命には別状ないのだが、世界でも100例ほどしかない病気にかかっているらしい。「まるで宝くじにでも当たったようなもんだ。」などと声高に話しながら昼をともにした。「そうか、じゃ買ってみようかね。」とHさん乗り気になっていた。世界で100人ってすごい数字だと思う。前立腺の医者などにもっと痩せるように言われているタコ社長と、もっと太るように言われているHさん。私が、ピザ一枚、Hさんが野菜サラダ、という言われたとおりの律儀な食事を終えて分かれた。お互いに健康でやっていきましょう、とニコッと笑ってHさんは帰っていった。
2005年06月02日
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