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「象は鼻が長い」、鼻が短かったら象じゃないのかとか、タコ社長は鼻の下が長い、とかいう話ではない。日本語教師になる勉強をしていたときに、この文章に出会ったのだ。英語に訳してみよう。一体、どうなるのか。む~ん、と唸ってしまった。「私は、リンゴが好きです。」なんだ、中学一年の英語ABCじゃないか、と思って英語と日本語の文法を比べてみた。む~ん、と唸ってしまった。I like apples.この英語と日本語訳はすっきりと合致しない。む~ん、と唸っているだけじゃ日本語教師にはなれない。日本語での主語はなんなのだ。英語の主語と日本語の主語は一緒なのか。日本語では、「好き」は形容動詞といわれている。一体、形容動詞って何だ?like は動詞じゃないか。それまで考えたこともないこと、思ったこともないことに出くわして熱くなった。む~ん、日本語とは、なんと面白い言語なのだろうか。その時、そう思った。というよりも、比較言語の面白さなのだろうか。「よし、ブルドーザーのセールスマンを辞めて、日本語教師になろう。オーストラリアに行って日本語教師になろう。」そう決めた。サラリーマンをしながら、土曜日に目白にあった日本語学校に通っていた。会社の人は誰もしらなかった。1984年の5月のことだった。その年の9月に会社を辞め、本格的な日本語の勉強をし始めた。タコ社長、一生懸命探せばどこかに産毛でも残っていそうな32歳の青年の時だった。↑ ↑ ↑ ↑「なるほど」、と思えた時だけ、この緑の箱をぶっ叩いてください。
2005年08月30日
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一月前の話しになるが、8月の1日はオランダ系の連れ合いの友達の誕生日だった。連れ合いと二人で、その前の日の日曜日に出かけることにした。テンプルストーという新興の住宅地で、中国系の移住者が多く住んでいる。樹木を伐採して住宅地にした所で、急な坂道も多い。行った家は木々に囲まれた半エーカーもある家だった。出掛けに連れ合いが、「今日のプレゼントはニンジンよ。」と言い出す。節約好きの連れ合い、とうとう行き着くところまで行ってしまったのか、などとは思わなかったがちょっと背筋が凍る思いがした。なんと、8月1日は南半球のすべての馬の誕生日だというのだ。長く住んでいても知らないことが多い。人生、馬乗りになられたことは思い出しても何度かあるが、50年以上も生きているのに、馬に乗ったのは一度しかない。しかも、30年前のアメリカだった。そういえば、味はどうだったか、などと冗談はいうつもりはないが、馬を食べたのも一度だけ。好きとか嫌いとかの問題ではなく、そういう機会がなかったということだ。場所は、神田の馬喰町で、馬を食べずに帰りでもしたらムチでも打たれそうな所だった。こちらのパーティーでは馬やタコなんかは出ないので、牛をいただき昼間から赤ワインを流し込みながらお祝いの会になった。ところで、北半球の馬の誕生日はいつなのだろうか。↑ ↑ ↑ ↑「なるほど」、と思えた時だけ、この緑の箱をぶっ叩いてください。
2005年08月30日
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何でも初めてというものはいいものだ。初めて女性に平手打ちをくった日とかは、絶対に忘れられない。初めてミニスカートを見たときの衝撃もすごかった。立川駅の歩道橋の上から遠くを早足で歩く女性を、体に反して目がずっと追ってしまった。今は、ヘソだしルック。寒いときは、余計なお世話だろうが下痢は大丈夫かと心配になる。そして、尻出しだ。次はいったい何を出せばいいのだろうか、といった感じだ。オスの本能があまりに刺激される社会では、いろいろと良からぬ事件も増えてくる。喜ぶ気持ちとは裏腹に、もうすこし保守的にと思わないでもない。「この靴、なんていうか知ってる?」友人にエバンジが言う。オランダ系の連れ合いもいた。「CFMシューズっていうの。」当然、私には分からない。しかし、知ってびっくり仰天、怒髪もの。あるセンテンスの頭文字だ。海外在中の方なら割と意味を知るのが簡単かもしれない。週末は、哲学書でも取り出してじっくりと読み込んでみたいと願っている。
2005年08月28日
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会社のビルの3階に、中国人のジェームスという男がいる。この男、人の顔を見ると全くどうでもいい話を次から次へとして止まらない。今は、私も不得意な冗談でやり返してはいる。「タコ、ブリスベンはどうだった。」どういうわけか、どこで何をしているのか知っている由。「インドのカレーがいいそうだよ。」冬にはカレーとか言い出したのかと思ったら、カレーは前立腺の病の防止に効くという。狭くて薄暗い古いエレベーターの中で言う事か!回りには、うら若き女性もいる。ビルの外へ出てから私も応酬した。「そうか、でもやっぱりトマトだよ。」タコ社長も最近の独学の成果を放つ。「そして、週に5回以上のシャセイだよ!」ところが、この発言にも全くひるむ様子もないジェームス、大声で、「タコは週じゃなくて日に5回だろう!」などととんでもないことを言う。私は、そんなジェームスを放って足早に去った。ところで、「骨盤の筋肉」なのだそうだ。昨日の朝、出勤途中のラジオのトークショーで言っていた。妊婦時の運動や、子供を生んでから女性が積極的にやっている「骨盤の筋肉」筋トレを、今オーストラリアの男性がやり始めているのだそうだ。気がつかなかった。何にいいかって、ご存知ジェームスに言われるまでもないタコ社長の今の最大関心事「前立腺」の病防止、そして昔の関心事「ボッキ」の増強にもいいのだそうだ。医者がラジオで、こうしろああしろと伝授している。当然、運転中で「TVなんかもっての外」状態だったが、逆にいろいろ想像したりして運転に力んでしまった。これからは、見た目にはまったく知らん振りを装ってもできるこの骨盤の筋肉とレーニンングに私も励んでみたいとおもう。今度ジェームスにエレベーターのなかなどで出くわしたら勧めてやろう。「骨盤の筋肉」を英語でしっかりと発音できるようにしておこう。さもないと、大声で説明しないとならんハメにもなりかねない。
2005年08月25日
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「私も墓までお供しますよ。」会社の女子社員がそういってくれる。ジ~んときた。タコ社長の会社がやっていけているのは、こういう社員がいてくれるからだろう。会社のスタッフは皆こういう思いでやってくれている。ある者は、都合により「寺まで」ということもあるだろう。墓といっても、南アフリカとかカムチャッカなんて場合もあるだろう。また、寺はあるのに墓がないことで有名な、東京は江戸川区の小岩に住んだりするようになる社員は、やはり「寺まで」になってしまうだろう。将来日本でスタッフ、元スタッフとの飲み会を企画するのは、どこかお寺の坊主さんに許可を受け、お寺の木魚の横辺りでなんてこともありうるかも知れない。そういえばタコ社長、今度の日本帰国日は9月11日というやや物騒な日になっているがいろいろ楽しいこともありそうだ。
2005年08月25日
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ラビンの写真は、旺文社の付録に付いていた2センチ四方の小さな写真入れの中に今も入れられている。白黒写真が小さく納まっている。東京は練馬の二間の警察官住宅に住んでいた。そこに住んでいた友達の熊谷君のお母さんが、戦争中はここで空襲に遭ったと話していたことがある。私は、家の板塀が黒く薄汚れているのはそのためだったのだと妙に納得してしまったの覚えている。すぐ近くに小高い丘があって子供達のいい遊び場だった。遊び疲れて腰を下ろすと私達が決まってやる事は、下の道路を通る米軍の自家用車に手を振る事だった。何台も通る訳ではないので、汚れた半ズボンを気にしながら、可也の時間じっと待っていた。時間は限りなくあった。テレビで今の天皇の結婚式を見た頃だ。世の中に自分と違った人達がいるのが不思議でならなかった。そして、周りでは絶対に見ないような馬鹿でかいアメ車を見て興奮した。「あっ、来たよ。」かっちゃんが言った。眩しく光る緑色の外車が見えてきた。二人は立ち上がって、一生懸命大きく手を振る。何度も何度も手を振り続ける。すると、その車から太くて白い腕が出て、その手がゆっくり2、3度振られた。遠くて顔はよく見えなかったが、長く待ったことを忘れて、その日1日がなぜか暖かくなった。あの緑色のアメ車が向かったのは、グラントハイツという米軍の家族の住宅地だったのだろう。何年かして、私はそこによく遊びに行くことになった。多くの人がここをグランドハイツと言っていたが、小学校の教頭先生が「あれは、アメリカ南北戦争当時の北軍のグラント将軍に因んでつけられた名前だ。」と言われてから意識的にグラントハイツと言ってきた。周りのウサギ小屋と違い、大きい家が広い敷地の中にポツンポツンと建っている。野球ができるくらいに広がる芝生は、初夏の風に誘われて鼻をくすぐるように陽炎を立てる。二間の長屋から滑り出てきた私には、その「隣の芝生」はあまりに青く見え過ぎた。小学校3年の時、私はそこで恋をした。相手はラビンという名前だった。少なくとも私にはそう聞こえた。言葉は通じない。二つ年下だと一緒に行った中学生のSが教えてくれた。私達はそのラビンの弟ポールとよくキャッチボールをした。ある夏の日、ポールの母親が家の中に入るように言ってくれた。外国人の家の中に入るのは生まれた初めてだった。今までに、嗅いだことのないような上品な甘い匂いがする。びっくりしたのは、外からはガラス越しにも中が全く見えないのに、家の中から映画の画面を見るように外がはっきりと見えることだ。自分が住んでいた家は外から中が丸見えだった。アメリカの家はすごいと目が覚えてしまった。お母さんがアイスキャンディーを出してくれた。英語が書いてあるアメリカの派手な色紙に包まれている。紙を破ると溶けかけたアイスキャンディーが濃い赤い糸を引いて垂れた。ラビンが自分の写真を持ってきて見せてくれた。正装していて思いっきり笑顔の同じ写真が何枚もある。いつも窓越しにしか見ることのなかったラビンが目の前にいて写真を広げている。しかも何か話しかけている。英語だ。でも恥かしそうに首を傾けて話すその言葉が全然分からない。お父さんが帰ってきた。太い声が台所の方からする。もう帰らねば。傾いたラビンの首が横から前に倒れて目が隠れた。しかし、お父さんは最後まで姿を現さなかった。砂埃の中を自転車で急いで帰った。私の胸のポケットには、ラビンが微笑みながら私にくれた一枚の写真が入っていた。グラントハイツは今は、光ヶ丘団地という団地に変わっていて、米軍住宅地だった跡形もなくなっている。そして、私が育った六畳と四畳半二間の警察官住宅の家は、今は砂利がひかれた小さな駐車場になっている。あの丘は崩され道路になって、こうしてすべてが変わってしまっている。しかし、タコ社長の金髪歴には筋金が入っていて、これだけはしぶとく変わっていないように思われる。
2005年08月24日
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「子供のとき、お前は肌荒れがひどくてね。夏はいつも面倒くさいのでオムツさせないで尻出したままにしておいたんだよ。サルのお尻みたいに真っ赤かだった。」と母が言う。何かというと出して見せたがる、そういう癖は潜在的に残るんだなと感心している場合ではない。しかし、50を超えた今でも、肌だけは繊細だ。物心ついてからの夏はいつもランニングシャツと、半ズボンのような大き目の白いパンツだった。共にぶかぶかしている。女の子のように可愛い兄とは対照的に、坊ちゃん刈りで目が細くデカイ顔をして、全くもてそうにないのがタコ社長の幼少の頃ではあった。夏だから、洟はたらしていなかったとおもうが、そんなかっこうをしてアイスキャンディー売りのオジサンから、割り箸にしっかりと固まった丸く細長いアイスキャンディーを買ったりしていた。オジサンが箱を開けると、ふわーと冷気が湯気状になって湧き上がる。オジサンは季節によって、オデン屋さんになったりしていて人気があった。「本当にクソ暑くてね。」まだ母に会ったことのない友人からは、上品に「お母様」なんて呼ばれている秋田出身の母が声を荒げる。まだまだ暑さが続いていて、年寄りには酷な日々だという。「たくさん水を飲んで、干からびて死んだりしないようにしてね。」私は、電話でそういうくらいしかなかった。なにしろ、メルボルンは今真冬だから、申し訳ないけどその暑さの感覚が伝わってこない。「何年か前に、フランスの屋根裏に住んでいた老人たちが、あまりの暑さで何百人も死んだんだから。」私の発言はちっとも慰めになってない。「分かった。水でもお茶でもたくさん飲むよ。」母はそう言って電話を切った。地球が壊れかけているのだろうか。今年の日本の暑さは異常だ。メルボルンの冷気を年老いた両親に送ってあげたい。
2005年08月23日
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日本の社長の平均年収は3200万円だという。今日のニュースでいっていた。タコ社長、ハードルが高すぎて、ハードルにアンパンでもくくりつけアンパン喰い競争でもして食べるしかない。しかし、案外これが美味しくて、やみつきになるやも知れぬ。ハードルが高ければ、くぐるだけ。さ~て今夜も飲むか!
2005年08月22日
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昔、石川県の小松で新入社員教育を受けていたとき、彼の地では「弁当忘れても傘忘れるな」という表現があるのを知った。天候の崩れる日が多いということだろう。こちらでは、「弁当忘れても誕生日は忘れるな」なんていいたいくらい誕生日への参加が望まれている。もっとも、私は弁当は最近作らないので忘れることもないが。子供からヒイジイサンまで誕生日を忘れては大変になる国なのだ。昨夜は、そんなわけでオランダ系の連れ合いのイトコの40歳の誕生日パーティーに出かけた。連れ合いの家族、その親戚、更には友達を含めると、嬉しいことに毎月、一度か二度は誕生パーティーが必ずある。どうやって出るのを止めようか、なんて考えている暇もないくらいの速さで当日になっている。もっとも、根っからの酒好き、パーティー好き、金髪好きのタコ社長、行くのを止めようかなどと思うのは、自分の誕生日くらいのものではあるが。こちらでは、出不精、ヒキコモリ、引っ込み思案なんかの人間は相手にされなくなる勢いがあり、家で煎餅にお茶なんて言っている場合ではない。ところで最近、日本で売っている「ブレスケア」なるものの愛用が日常化してしまい、どんなに飲んでも検問ではOK、なんて言いまくっていて赤ワインの歯止めが利かなくなっている。日本に行く度に、ローソンなどで購入し、最高のお土産になっている。昨夜も、この「ブレスケア」を赤ワインで流し込み無事生還することができた。「弁当忘れても、誕生日忘れても、ブレスケアは忘れるな」になってきている。そろそろ在庫が底を尽きそうだ。9月の日本行きが待たれる。
2005年08月21日
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メルボルンの朝日新聞 The Age 紙に載ったホリエモン。その形容が、ITの起業家ピンナップボーイ、とあった。pin-up boy. 思わず画鋲を打ち込みたくなった。
2005年08月20日
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「この券、使わないと今月で切れちゃうの。」Best Westernという世界的なモーテルの加盟店の只券を、オランダ系の連れあいが見せてくれた。連れ合いのバックのなかには、いろいろな只券が入っているが、モーテルの只券は結構いい部類に属している。しかし、どうやってこういう只券を手に入れているのか不思議に思うことがある。FlyBuys カード、というのがあってお店でいろいろな物を購入すると、ポイントが加算される。このポイントを貯めて、何かに換算する。クレジットカードのポイントも貯まる。タコ社長は、貯めるものはただ貯めているだけで使わない、アホの見本のような人生。連れ合いは、しっかりと使っている。その差のようだ。前に書いて写真まで載せた「エンターテイメントブック」だが、普通使うところは、コーヒー一杯飲むともう一杯が只とか、そのコーヒーにドーナツがついてくる、なんてものが多い。一泊、200ドル前後のいい部屋が只となれば、最近、只に親近感を覚えられるようになったわたしも喜んで週末旅行に賛成した。行ったのは、我が家から車で40分程度でいけるMornington. 海岸沿いの小さな田舎町だ。昼は、なじみのフィッシュアンドチップス。勿論、一人前頼むともう一人前が只という券を使う。食べたいと寄ってくるカモメたちに申し訳なかったが、あんなにチップスを食べたのは久しぶりだった。夜は、有名なシーフードのレストラン。メインコース一つ頼むともう一つは只。これは結構なお得感があった。こうしてみると、いつもなんにでも満額払って生きてきている人生ががバカらしくなってくるというもの。しかし、これも2人だからできること。一人で行って、メインコースを二つ頼んで一つ分の金額で大食いしようとしてもできない。してみると、いつまでも元気に2人でいることが一番得のようだ。この週末は久しぶりにジムにでも行ってみようか。
2005年08月20日
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「右も左も、前も後ろも、みんな埼玉。」と歌って一世風靡したサイタ・マンゾーの曲を思い出した。「右も左も、前も後ろも、みんなギリシャ人。」のオークレイに久しぶりに行ってきた。オランダ系の連れ合いは、安売りの店が多くあることもあって、私と同じくここが大好きで、土曜の買出しにはよく来ていたが、最近ご無沙汰していた。まずは、ギリシャカフェでラテを飲んで、名前の分からないほうれん草を中に入れて薄く揚げたものを朝食代わりに食べる。あたりは、異様な雰囲気だ。まるで、アテネでほうれん草を食っているような気になる。ちょっと信じがたいが、メルボルンはアテネの次にギリシャ人が多い街だ。ギリシャ人の特徴として、足の人差し指が長いことが上げられる、もしかしたら、秋田出身の母はギリシャ人と付き合っていたのかもしれない、などと思うわけはないがふと鏡を見ることがある。母親に手を繋がれて5歳くらいの小さな女の子がカフェに入ってきた。私をじっと見つめている。母親の手を引っ張って、何か言っている。母親は私の方を見てややうろたえて子供をしかっていた。「お母さん、顔の大きな中国人がいる。」とでも言っていたのだろう。私は、母親にも分かるように大きな声で「ハロー」と、その子に挨拶した。その子供は、ニコッと笑った。母親は、相変わらずややうろたえながらカフェの奥に消えていった。私は、子供には罪ははいなと思った。どこにいても、顔以上にデカイ態度をとっていけば快適な生活ができる。更には、オランダを代表しているような連れ合いがいるから鬼に金棒だ。
2005年08月18日
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ブリスベン、焼肉の宴一日メールが来ないとどうしたのかなと思い、二日来ないと病気、三日来ないと罵倒、絶交というのがメールの世界だという。なんせ、ポチも驚くドックイヤーと言われる時代だ。おちおち、「お手」なんかしている場合ではない。ブログのネットワークは、ホームページのそれと比較できないほどの広くて速く拡大する。でも、ご飯に醤油かけて食べていた我々の世代には、チト早すぎるし目まぐるしい気もしないでもない。タコも急激に茹ると赤く固くなり過ぎて喰えない。ゆっくりとスローに、豆炭アンカのように低音火傷風に茹でていただくと、忘れられない味になるのではと思う。ブログも、自分のペースで楽しんでいけるように思えてきた。
2005年08月17日
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今日は、先の戦争の話しです。恥ずかしいことだが、私は20年前にこの国オーストラリアに来るまで、先の大戦がどれだけこの国オーストラリアに深い傷を残していたのか知らなかった。北端の町ダーウィンは、私も20年前に訪れた。その時、戦争記念館で全くそれまでに聞いたこともないことを知らされた。その帰りに若くて豊満なトップレスの女性と立ち話した思いでは前に書いたと思う。1942年の2月、日本軍がここを空爆して街は壊滅状態になったという。人口4000人の町で243人が死亡、300人以上が負傷したというのだ。こんな事実を、一体日本にいるどれだけの人が知っているのだろうか。そして、翌年まで60回を超える空爆を受け続けたのがこの街なのだ。更に、狂気の沙汰としか思えないが、小型特殊潜航艇がシドニー湾にまで侵入して21人が死亡している。有史以来この国を攻撃したのは、世界広しといえどもわが国日本だけなのだ。どれだけ、オーストラリアの国民が日本に対し脅威を持っていたことだろう。だから、この国は日本に対して特殊な感情を持っていてもおかしくない。そして、オーストラリアの4万人を超える犠牲者のほとんどが、ビルマやマレーシアで捕虜になり虐待で死んでいる。重労働と飢え、そして病気で次々と死んでいったという。来た頃からずっと気になっていることがある。この国は戦勝国であるにも拘わらず、まるで敗戦国のような被害者意識の強い国だと思えることだ。最初はその理由がよく分からなかった。というより知らなかった。日本ではあまり知られていない深い傷の事実を知るようになって、初めてこの国の国民の日本人に対する意識の深いところにある恐れ、怒りに触れたようにおもえるようになった。あるニュージーランドの方とメル友になる機会があった。しかし、私が日本人だとわかると、「私の母は、インドネシアで日本人の捕虜になり虐待された。そんな国の人とは関わりたくない。」と強い調子でメールが来た。今年のことだ。ここにも、オーストラリア、ニュージーランド女性の日本軍慰安婦の問題がある。今、オーストラリアは、日本人が行ってみたい、住んでみたいという国のトップの一つの国になっているほどの人気だ。しかし、述べてきたような大変な被害の経験をしている国なのだ。そんな国に私は移住している。そんな国が寛容に私たちを受け入れてくれている。戦争の話しは、今ではもう風化しそうなほど古い話にはなってきていて、若い人の意識は大分変わってはきているが、決して忘れてはいない。なにしろ、90年前の第一次大戦のトルコのガリポリでの無常な敗戦を悼み、今年ハワード首相を初め多くのオーストラリア人が記念行事に彼の地に向かった国なのだ。与えた傷は忘れても、受けた傷は忘れない。日本人の観光客も、定番のシドニー、ゴールドコースト、ケアンズの一つを外して、これにダーウィンを加えたらいいのではないだろうか。自分もそうだったように、知らないことは責められない。だから、私たち移住者がもっと日本に向けて過去の歴史の事実を発信し続けないとならない。ダーウィンは、オーストラリア人にとって「真珠湾」と呼べるのかもしれない。
2005年08月17日
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オランダ系の連れ合いが、私の高校時代の写真をウエブサイトで見た、と大はしゃぎしている。「すごい、サイトがあるの。これをクリックしてみて。世界中の人の学生時代の写真が探せるの。」以前、連れ合いを私の高校の母校のある国立に連れて行ったとき、日本でもここなら住んでもいい、などとタマゲタことを言ったことがあった。そんなわけで、連れ合いは私の高校の名前を知っている。中学の名前も知っている。実にすごいサイトだ。私も、だまされたと思ってやってみた。ビックリだ。どうやってこんな写真がアップされていたのだろう。便利な時代になったものだけど、あまりに昔の写真でちょっと気恥ずかしい気にもなる。皆さんも是非試してみてはどうだろうか。ビックリすることまちがいなしだ。英語だけど、挑戦してみてください。http://www.worldschoolphotographs.com
2005年08月16日
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これが、14日の日記の主役、「エンターテイメントブック」実物。毎日10軒のレストランに行っても1年で使い切れない。見ているだけで、満腹になるような本だ。オランダ系の連れ合いのお陰で、私も行ったことのない、聞いたこともないレストランに行くことができて嬉しい。よし○かさん、これくらい短い日記だと読みやすいですかね?これからは、一気に読める長さに心します。
2005年08月16日
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随分前の月刊誌「文芸春秋」に次のようなことが書かれていた。癌にならないための六か条1. 働きすぎをやめ十分な睡眠をとる2. 心の悩みを抱えない3. 腸の働きを高める4. 血行をよくする5. 薬漬けから逃れる6. 癌診断は受けないタコ社長、どれをとっても全く問題がなく、これで癌にでも罹ったら癌に申し訳ないような人生だ。ところで、オーストラリアのTVで、ジョン・アンダーソン副首相が「前立腺の病」で副首相のポジションを退いたことを報じていた。癌ではなかったようだが、全国放映のTV番組でこの病名を公にしたことが話題になっている。オーストラリア国内では、乳癌防止の政府のキャンペーンの派手さに比べ、前立腺癌に対するそれが、非常に遅れているのが問題になっていた。しかし、やっと今月からTVなどで、血液検査の呼びかけを行うキャンペ-ンが始まるという。前にも書いたが前立腺の病には、トマトが効くと一般的に言われている。イタリアでは前立腺癌が他の国の成人男子に比べ少ないそうだ。更には、週五回以上のシャセイが効果抜群だとか。どちらも、民間療法だろうが、どこでも場所を選ばず手軽にできるのが嬉しいが、私にしてみれば基本的には両方とも不得意課目に属していると言えよう。東京は東村山に住む秋田出身の母は今79歳だが、ある日「女は死ぬまで女」なんてことを言い出して、食卓が急に賑わったことがあった。してみると、その息子である私は、「男は死ぬまで男」とか言い出して元気にやっていかないとバチが当たりそうだ。明日は、トマトペーストたっぷりのピザなどがいいのだろうか。
2005年08月15日
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本日、ブリスベン出張から戻った。なかなかネットへのアクセスもままならず書き込みもできなかった。僅か一週間の出張だったが、飛行場にはオランダ系の連れ合いと両親が迎えに来てくれていた。びっくりするほどの寒さだ。そのまま、ボヘミアンの空気漂うフィツロイのブランズウィックストリートのレストランへ。日本の皆様が来られたら是非この通りにお連れしたい。何十件も立ち並ぶカフェは、どこも決してモダンな感じはなく、恐らく1960年代、70年代ん造りだ。中には、わざとそう造っているカフェもある。ここのジュエリーショップや骨董品屋は見ているだけで別世界に連れていってくれるノスタルジー風。ところで、こちらには「エンターテイメントブック」という辞書のような厚さのクーポン本があって、連れ合いはよく使っている。普通は、行きたい店のクーポンを切り取って持って行くのだが、ちょっと品のいい店にはクーポンではなく、その本に付いているカードを使わないとならない。そのカードがあると、メインコースが1品只になる。隣の家のバリーさんもこのカードを持っていて、このカードの貸し借りをよくしている。今日は、バリーさんのカードと合わせてメインコース2品、4人で約50ドルが只になった。これでオランダ系の両親も大満足。このカードは二人で一枚使うことができる。同じ店は一度しか使えないようになっているので、いろいろな店で使える。なかなかお勧めの本ではある。メルボルン、寒さで身も引き締まるし、オランダ系の家族の中で財布の紐も締まってきて安全で穏やかな日々に戻った。
2005年08月14日
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「あなたほど素敵な日本人男性に会ったことないわ。」オランダ系の連れ合いの言葉ではない。1985年のクリスマスに、ニュージーランドをバックパッカーした時に訪れたクイーンズタウンのパブで出会ったカナダ人のタラに言われた言葉だった。こんな言葉を受けるのは、離婚が珍しくなくなった今でも、一生に三度四度あるかないかだろう。しかし、その時、この金髪女性は今まで一体どんな日本人に会ってきたのだろうかと訝ってしまったことも事実だったが。それに、彼女はろれつが回らない程酔ってもいた。視界も悪かったのだろう。180センチ近いガタイのタラは、もう少し痩せたらキャットウォークさせたくなるような容姿。当時は、「熱いトタン屋根の種馬」とか言われていたタコ社長だった。今は、唯の「馬並」になってきているが、こんな言葉を聞いて後ろ足跳ね上げ状態になってしまって始末に悪い。これ以来、私の人生は狂いっ放しで、この言葉は生涯忘れ得ない誤解250の一つになっている。
2005年08月13日
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13度だった。ブリスベンの最高気温だ。記録的な寒さだという。メルボルンから来た者にとってはなんでもない寒さだが、こちらの人はビックリ仰天の低気温。せっかく、ど寒いメルボルンからきていて、メルボルンと同じ気温だと知るとなんだか損をしたように思える。こちらのパブは、日本の縄のれんに近いかもしれない。食べ物は食べないで、唯ビールを飲み続ける所だが。こっちの人を知るにはパブに行くにかぎる。ある夜、こちらのパブで飲んでいたら、ブレザーにネクタイの正装の初老の老人が話しかけてきた。「韓国人かい?」10人に4人くらいは、私を韓国人と間違える。思わず、「アニヨンハセヨ」とか言い出したくなる。そういえば、サラリーマン時代行った韓国バーでは、言葉を発するまではいつも韓国語で挨拶されたものだ。「ちょっと前だけど、息子を連れた日本に行ってきたよ。」その老人は、頼みもしないのに途切れることなく日本の話しをする。「日本人は最高だ。戦争の過ちは、それは認めてもらわないと困る。しかし、日本の技術は素晴らしく、日本は世界のリーダーにならないといけない。オーストラリア人はもっともっと日本のことを知らないとならない。」いやはや、どこまで本気かどこまで酔いの勢いで言っているのかわからない。あまりに一方的に良いことばかり言われると、腹の中を探りたくなるのがタコ社長。問題は、この老人前歯が可也無く、発言するごとに私に顔に唾がかかることだ。かといって顔を背けるわけにもいかない。欧米社会では発言者の目を見て話さないと失礼になる。それにしても、もういい加減にして欲しいと思えてくるところまできた。その内、それを察したのか、その初老の老人は話しながら去っていった。後でトイレで会って、話したそうな顔をしていたが、遠慮させていただいた。まさか元敵国日本人の末裔タコ社長の顔に、わざと唾をかけていたのではないのだろうが、それにしても前歯はしっかりと補充してほしいものだと思った。さて、慌しかった一週間のブリスベン出張を終えて、明日皆の待つメルボルンにもどる。次回のブリスベンは10月になってしまいそうだ。また狂乱のカラオケ大会ができそうだ。
2005年08月13日
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Mikilaさんの、タコの日記は長すぎない、というご発言を受けて、一発かまします。一気に読んでいただけたら助かりますって、誰がいったいこんなの読むんだ、って程ですが。「イボ痔?」 沖縄出身で豊満に波打つ体を青いビキニに包み切れない金城さんが、カウター越しに少し大き目の声で聞いた。「イボ痔じゃないの。異邦人よ。」私と早苗はカミューの本が映画化され、マルチェロ・マストロヤンニが主演している「異邦人」の話をしていたのだ。「今日、ママンが死んだ。」で始まるこの作品には少なからず影響されていた。一浪して大学にかろうじてひっかかり、予備校生活から開放され大学の入学式を翌日に控えて浮かれた気持ちで池袋界隈をさまよっていた。狭い路地裏を歩く。夜はネオンで隠せるが、今は隅々までが遠慮なく薄く褪せて白っぽく浮かんでいる。20メートル位歩くと左側に、足早に歩いたら見過ごしてしまいそうな小さな看板で「水着喫茶」とある。何だろうなどとは思わない。男の直感が働く。もう‘ただいま浪人中’じゃない、大人だ。大きく躊躇しながらも階段を下りていた。壁は黒くてよく先が見えない。「いらっしゃいませ。」太めの声でちょっと間延びしたような女性の声がした。これが金城さんだった。長髪を奇麗に分けた背の高いボーイさんもいる。ホタテマン安岡力也がいたシャープフォークスから抜け出たような男で、私はこの手の男には絶対に勝てないという思いが先行してしまう。生暖かいすえた空気が、下水の鼻を突く臭いに混ざって顔を撫でていく。入った所が二階になっていて、更に下に客席がある。二階の一番奥に壁を背にして座って一杯500円のコーヒーを注文した。探せば60円コーヒーの店も大塚辺りにはまだあった頃だ。下の階から、ちょっと甲高い女性の声と初老の男性と思われるの枯れて下品な笑い声が、背にした壁を伝わって私の所に届いてきた。女性は二人しかいないようだ。ヒールの高いサンダルにオレンジ色のビキニのもう一人の女性が、けだるく音をたてながら階段を上がって来る。カウンターの女性とは正反対の清楚な感じの人で、その場違いな女性を見つめてしまった。何かを期待して入って来た訳だが、期待して来る方が馬鹿だという思いの方が勝っていたのも事実だ。その女性は、注文した真っ黒いコーヒーを持って来て私の反対側に座った。「ここ、お客さんの隣に座る場所じゃないの。本当はぜんぜん座らなくてもいいの。」「はい。」薄暗く、場末の臭いが漂うこの喫茶店の中に5人の人間しかいない世界がある。外はまだ明るい。「学生さん?」「そう。」「私、早稲田の教育学部。貴方は?」「言うような学校じゃないよ。明日が入学式だから正確にはまだ学生じゃない。」なぜか彼女は‘早稲田’を強めて言った。本当はこんな所で働く人間じゃないと言いたかったのだろうか。彼女は早苗といった。 4時半に入ったその喫茶店に6時間もいた。ほとんどは早苗との会話だった。その間、彼女は何回か下の階の他のお客に話しに行った。マメな人だ。そんな時は金城さんと話した。春だったが、水着姿でちょっと寒いという金城さんに自分の紺のカーデガンを貸してあげた。私のカーデガンがほとんど素肌の上に羽織られて喜んでいるように見えた。金城さんは、太いちょっと低い声で下品に笑ったりしていたが、ねは優しいお姉さんのような感じがした。下の階の男性の、歯を鳴らす音とスースー息を吸う音が気になる。早苗が戻ってきた。「私、大学の講師と親密になってしまって、今休学しているの。親が心配して見合いをさせられてね、今はその人と婚約中なの。」19の春の私にはとても及びもつかない話が巡る。「でも、その人とのこと実は悩んでいるの。」聞きもしない、聞いてはいけないような話しが続いて出る。気だるい雰囲気の中で、二人の会話は途切れずに妙に弾んだ。こわい程気が合う。大学に受かり、同時に彼女までできそうだ。「貴方は19だから、私はあなたにとって金の草鞋よ。大切にしてよね。」初めて会った私にこういうことをいう女性を信じるほど初心ではないが、まるで舞台設定のようなその薄暗い店のなかでは、言葉が勝手に独り歩きしても咎めるものもない。間近に迫った沖縄返還の話しの時は、沖縄出身の金城さんも席に来た。暇な喫茶店だ。でもそのお陰で私はこんなに楽しんでいられるのも確かだが。「あさって暇? 新宿御苑行こうか。」私はできるだけ平静を装おうとしていたが、心はまったく自制できない。「あさってね、、、。うん、いいよ。」 翌日の4月14日は入学式。初めて着た茶系のジャケットの袖が短いような気がして終日落着かない。でも本当は、早苗のことが気になっていて落着かない。オレンジ色のビキニ、そしてあの鼻の奥をくすぐるような香水と下水の臭い。オリエンテーションの教授の口だけがパクパクと動いて音が伝わって来ない。「俺は大丈夫だろうか。」しっぺ返しが恐かった。 翌日、改修中の仮設池袋駅二階で早苗と会う約束をしていた。待ち合わせ場所から離れた所を歩いて行く早苗を見つけた。スカイブルーのカーデガンにジーンズで余計細く見える。軽やかな足取り。私はどうしてか声をかけられずに見送った。今、私に会うためにあんなに可愛い女性が歩いて行く。これは現実じゃないのではないか。予備校生活のいじけた感覚が骨にまで染み付いていた。早苗との付き合いが一ヶ月を過ぎた。大学生活も落ち着き始めてきていた。5月15日は沖縄返還の日だった。いつも通り店に寄った。金城さんはいつになく明るかった。「タコ君も、パスポートなしで沖縄に行けるのよ。」私は、1ヶ月で店の常連になっていた。高いから店で会わない方がいいとも言われたが、払わなくてもいい日も多かった。店を仕切っている金城さんがそうしてくれた。「私って、貴方が思っているような人間じゃないの。」早苗はこの1っヶ月の間に何度かそう呟いた。私は、その度に聞こえないふりをしていた。その時のオクターブ低い声が耳から離れない。「私の誕生日は10月25日。タコは?」「7月1日。」「じゃその日に一生の思い出を作ろうか。」私は息が止まるような衝撃をおぼえた。こういうことは、もう少しロマンチックな設定で言って欲しかった。「恐いの?大丈夫、心配しないで。」今じゃ、信じられないくらいの自分だった。怖かった。 早苗は、約束の7月1日の調度1週間前に忽然と姿を消した。その更に1週間前から急に彼女が別れを口ずさむようになった。訳が分からない。理由は言わない。会う度に別れ話が出るので会いたくなくなった。一体、私が何をしたのか。この恋は彼女の都合で始まり、そして彼女の都合で終わらせられようとしているのか。これが大人の恋なのか。何故か私は毎日のように「エーゲ海の真珠」を聴いて早苗を想った。出だしを聴いただけでもう両膝を抱えていた。早苗がいなくなった翌日早苗の兄という人から電話があり、西武池袋線東久留米の喫茶店で会った。お兄さんは、ちょっとやくざっぽい感じがしたが物腰は柔らかく丁寧だった。唯、声が低く威嚇するように響く。僅か二ヶ月の付き合いで、二人以外には金城さんしか私たちのことを知らない。誰も証しをしてくれない恋だったが、突然親類縁者が現れた。「昨日から行方がわからなくて。机を探したらタコ君の電話番号が書いてあったものだから、迷惑だったろうけど。」「いいえ。」借りてきた猫以上にネコが似合っているように下を向いて答えた。どんな展開になるのか不安でしかたなかった。短刀でも出てくるのかとさえ思えた。しかし実際には、お兄さんの役に立つようことは何も言えなかった。実のところ、私は彼女のことを何一つ知らなかったのだ。早苗が働いていた店の名前を言った時、お兄さんは知っていてちょっと憤慨したように見えた。「タコ君は、7月1日生まれだそうですね。早苗のノートに大きく誕生日と書いて赤丸がしてあったもんで。」私はもうそれ以上そこにいたたまれず、お兄さんより先にコーヒー代も払わずに一礼して店を出た。胸が苦しくしばらく電車に乗れなかった。 それから1度だけお兄さんを見かけた。池袋のあの店の路地の反対側で。二人共、もしかしてと思い歩いていたのだと思う。私の重い「5月病」は当分癒えそうになかった。身も心も病んでしまった。8月16日、家族で夕食を採っていた時に早苗から電話があった。「元気でやっているから心配しないで。本当にごめんね。もう一生会えないと思う。元気でね。」私も二言、三言話した。どうでもいいことを言ったと思う。すべてが歯がゆくまったく自分の言葉が早苗に届かない。大学生活はけだるく進んでいっていた。体育の授業にダンスがあり、私は運動量も少ないからいいと思い取った。その年の12月8日の開戦記念日は金曜日でダンスのクラスが最終科目だった。笑顔がいい。明るくて楽しい学生とペアでダンスをした。ジョークが切れない。クラスが終わってこの可笑しな女の子と一緒に帰ることになった。「まだ名前聞いていなかったね。僕、タコ。」「私、高橋。フランス科、名前は早苗。」もう一つの終わりの始まりだった。さなえちゃん♪ 大学ノートの裏表紙に さなえちゃんを描いたの一日中かかって 一生懸命描いたのでも鉛筆で書いたから いつのまにか消えたの大学ノートの裏表紙の さなえちゃんが消えたのもう会えないの もう会えないの 二度と会えないの♪古井戸の、こんな歌が流行っていた。だから私は今でも、オレンジ色のビキニに弱く、思わず手が出てしまいそうになる。
2005年08月12日
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今日は、悲しい日だ。1999年から一緒に働いてくれていた、道産子幹部社員の最終日だ。日記で、日本食の弁当が食べたいと書くと、翌日には作って持ってきてくれる思いやりのある社員だった。また、「陰の社長」とさえ言われており、タコ社長を支え、一番理解してくれているスタッフでもあった。途中入社のナニワの伊達男幹部社員と昨年ご法度の社内結婚、その規定に基づき円満退社となった。来年事業を興して10年になる。昔の写真を見てみた。ブリスベンに移ったナニワのベテラン幹部社員を除けば、これで昔の社員全員がいなくなることになった。もとより、人の国に住んでいるのでビザの関係で去った者もいるが、タコ社長をしていて感慨深いものがある。会社も、学校のように通過組織なのだろうか。こういう私も、サラリーマンを9年弱で辞めて、オーストラリアに移住した。この地で自分を試してみたい、自分の可能性に賭けてみたいとおもいやってきたが、家庭を大事に、自分の生活を大事にするこの国の良さも欲しかった。なんの因果か会社を興して、今度は雇う側に回ってしまった。よくスタッフに「タコ社長、淋しいとか言い出さないでくださいよ。」と諌められるが、感情が出てしまうのは仕方がない。雇う側と雇われる側、といった冷めた労使関係の中でやっていく術を学ばないといけないのだろう。この年になってそう変えていくのもシンドイ気がする。「そしてみんないなくなった。」という状態になったら、オランダ系の連れ合いと、連れ合いの両親からキャラバンを譲り受け、1年くらいかけてオーストラリアを回ることにしよう。これはこれで、非常に楽しみではあるが、、、。
2005年08月12日
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昨日、54年ぶりにメルボルンの郊外で雪が降ったそうだ。そうだというのは、いま出張でブリスベンにいるのでそういわざるを得ない。メルボルンで一生に一度あるかないかの歴史的場面に出くわすことができなかった、なんてことはちっとも後悔していない。なんせ、同じ日に23度のブリスベン。この国は日本の20倍の面積を誇る大陸国だ。北端のダーウィンでは真冬でも30度を超える。メルボルンでは、「金玉火鉢」を納屋から出して使っている御仁もいるやも知れぬ。同じ国でもブリスベンでそんなもの使った日にゃ茹で上がってしまう。最近、タコ社長の日記が長過ぎて読む気も起こらない、という励ましが西はルーマニアから東はユカタン半島あたりからも届く。以前はメルボルン、ブリスベンのスタッフは全員タコ社長のホームページを読むのが社是になっていた、会社牧歌的時代があったが、今やこれを読んでいるのは自分だけではないかと思える毎日。こんなこと書いているから長くなる。それでは、今日はタコ社長を囲む赤ワイン一気飲み会があるようなのでこれまで。
2005年08月11日
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「私は、日本に2年住んでいたけど、そんなこと聞いたことないわ。」とイボンヌが言った。すると、イボンヌの左斜め後ろに座っていたジョアンも、「私も、聞いたことないわ!」とぬかす。半年しか日本にいなくて、しかも旅行だけのお前に言われたくないよ、と腹ではカチッときたが、顔は笑いをキープしていた。タコ社長、こう見えても元日本語教師。こちらの大学の付属のコースで社会人に夜日本語を教えていた。日本語を教えることは天職と思ってやっていたし、辞めた今でも私は日本語教師だと思ってはいる。結局、転職してしまったが。語学はその国の文化を表す道具でもあるが、クラスでは習慣やしきたりなどの実際の文化面も教えた。「日本人は、人に物をあげるときに、『これ、つまらないものですが。』といってあげます。」こういったときに冒頭のイボンヌの発言があったのだ。この学生、学期の初めからどうもいちいち私にさからう。いつも笑顔がなく、ブスッとしている。容姿はまあまあで、これで笑顔で素直だったらと思わないでもなかったが、全くその逆で本当に憎たらしい学生だったが、この時はさすがの私も切れそうになってしまった。こんな嫁さんを持った日本人のダンナを思うと、代われるものなら代わってやりたいなどとは絶対に思ったわけではないが、同情に絶えなかった。ところでこの、「これ、つまらないおのですが。」は英語にしたらとんでもない表現になる。以前、タコのブログのコメントで猫オンナさんも言われてたいが、「つまらないものをどうして私に寄こすの?」というのが欧米の考え方。そういわれてみればそうだ。「これ、とっても美味しくできたの。どうぞ食べてみて!」と渡すのが欧米式。「これ、あんまりおいしくないけど、どうぞ食べてみて。」とわたすのが日本式。どうして日本人はそう言うのか、日本人なら誰でもちょっと考えてみればわかることだが、この二つの文化の衝突の中で全く問題なく生きていける日本人などない。そこに救いになるのが、両方の国で生活してみることだ。例外はこのイボンヌのように中途半端に経験して、それを信奉してしまう失敗作。日本かぶれとはちと違う、浅薄な思い込みによるメッキ付け焼刃軽佻浮薄野郎だ。10年以上も前の話しだから、タコ社長、あの時の怒りは大分収まってはきているようだ。そして、これは逆に欧米に長く住むタコ社長のような人間が、同じように嵌ってしまう陥穽だ。日本に帰って、欧米ではそうだからなどといって、「これ美味しくできたから、是非食べてみてください。」などといったら、将来のゲートボール仲間入りの道は閉ざされる。
2005年08月10日
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「今度の土曜日はキャロラインの婚約パーティーだからね。」と有無を言わさずに宣告され、そのパーティーに行った。ちょっと前の話しだが。キャロラインはオランダ系の連れ合いの同僚で25歳。私は、会ったことはあるが話したことは殆どない人。日本だったら、「あんた一人で行って。わしゃ、そういうの苦手で。」とひとこと言えばそれで済むし、連れ合いさん達もダンナを連れて行くほどのものでもない、と割り切れる。でも、ここは飛騨の高山あたりではなくメルボルンで、そんな訳にはいかない。ほとんど20代の若い人たちに囲まれビールをがぶ飲みしていて頻繁にトイレに立っていた。そうして用を足していて、貼られているポスターを読んでいた。まだ、前立腺肥大は始まっていないのだろうが、年をとってくると全てがゆっくりとなるので英語でも、時間をかけて読めるので助かる。それは、ある保険会社の広告文だった。「イギリス人の女性にギリシャはホリデーで最も人気のある国。そのイギリス人の女性がギリシャの目的地に着いてから、男性としけこむ平均時間は30分。」とあった。いったい、誰がどこでどうやって計っているのだろう、などと詮索する気は毛頭ないが、私は、わが目を疑った。幸い、用はゆったりとまだ続いていたのでもう一度しっかりと読んだ。間違いない。しかし、平均30分とはすごい数字だ。5分くらいの人もいるやも知れぬ。あとでイギリス人女性に確認したところでは、それは正しい情報なのだそうだ。彼女達にとってのホリデーとはそういうものらしい。イギリス人女性がホリデーに行く場所を調べてみたくなる。少し前に、連れ合いの妹のダンナが、ニタニタしながら言っていた。「この間、バリに行ったんだが、そこでよく日本人に会ったよ。でも、みんな女性ばっかりだった。どうしてなんだろう。ちょっと話し掛けたらすごくフレンドリーだったよ。」私は、男は仕事ばっかりしていて休暇がなかなかとれないんでしょう、と言ってみたりした。今度、どこかのトイレで日本人女性の同種の広告なんかに出くわしたりしたら、それこそ前立腺肥大になってしまうかも知れない。しかし、我が日本国の女性に限ってイギリス人女性のようなことはないだろうから、これは杞憂に終わるだろうが。いずれにしても、トイレはもっと健全に安心できる所にしてもらいたいものだ。因みに、この広告主の保険会社の意図がなんであったのかは覚えていないし、イギリス男性が旅行に出たら、という設定が欠けているのには不満が残った。
2005年08月10日
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「京都ベラミ」には社内接待で行った。父親が神戸の、ある大学の経済学部の教授だというKさんと、奥さんが全日空のスチュアーデスのMさんと、母親が秋田の百姓出身の私の3人だった。入り口でスーツ姿じゃない人は、スーツを貸してくれる。我々3人は、ずらっと並んだスーツから体に合った物を選び中に入った。さすが、カラーコンビネーションまでは儘ならず、一見田舎者集団風だった。Kさんは、ほぼ丸坊主に近い髪型に太目のメガネをかけていて、声がだみ声でよく響く。Mさんはちょっと品のあるお抱え弁護士然とした感じを出していた。20代の私は、使い走りだ。当時私は、建設機械メーカーの海外営業マンでインドを担当していたサラリーマンだった。だからKさんも、大工とかじゃなく同じ会社の先輩サラリーマンではあった。テーブルについた3人の女性のうちの一人にダンスに誘われた。ダンスといっても、今のようにロックンロールを踊れるわけでもなく、ただくっついているだけのダンスではあたが。踊った女性は肉付きのいい、艶っぽい人だった。「ねえ、あんた。ちょっと頼み聞いて欲しいんだけど。」こういうところで頼みごとをきいたことがないので、私は、金の無心とかじゃないかと思って身構えた。「ちょっとね、ある人をやって欲しいの。」初めて会った者に頼むことだろうか。私は、せっかく踊っていて張ってきた体が萎えていくのがわかった。「あのメガネの人、これでしょう?」と言いながら彼女は人差し指で頬を上から下になぞった。なんと、この女性はKさんをあっち系の方と思ったようで、そのKさんに殺人を依頼しているのだ。この女性、どんなにそうじゃないと言っても信用してもらえなかった。前の年に、山口組の田岡組長が狙撃された「京都ベラミ」のダンスフロアーでの出来事だった。そう思って、周りをみたらどの人もあっち系の人に見えてきてしまった。席について、彼女がトイレで外しているときに、Kさんにこの話を伝えると、ものすごい声を出して大笑いした。「タコ君もウブだね。そうだって言って騙せばよかったじゃないか。」Kさんはそう言って、尚も笑い続けたが、まるっきり冗談とも思えなかった。体だけはデカイ駆け出しサラリーマンタコだったころの話だが、ドロドロとした世界の洗礼はまだ受けておらず、物事を実直にしか捉えられない不器用さを引きずって一生懸命人真似しようとあがいていた。
2005年08月09日
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サラリーマン時代、東京で接待に使ったのは赤坂にあった「ニュー・ラテン・クォーター」で、京都では三条大橋にあった「京都ベラミ」だった。そして、自分達だけの社内接待に頻繁に行ったのが、六本木にあって男女のトイレが一緒だった「クラブマキシム」だった。1978年の8月から1984年の9月まで、あるメーカーの海外営業部に籍を置いていた。その前の別の部署での2年半を加えると9年弱のサラリーマン生活だった。当時、赤坂には、「コパカバーナ」「花馬車」「ゴールデン月世界」「ミカド」そして、「ニュー・ラテン・クォーター」という大型ナイトクラブ、またはグランドキャバレーがあって、接待の場所には事欠かなかった。大型ナイトクラブ、キャバレーの全盛期が続いていた。その中でも、「ニュー・ラテン・クォーター」は、結構頻繁にお邪魔していた。英語の分るホステルも多く、外国人の接待にはもってこいだった。そしてあの、誰もが一度は乗ってみたかった「はとバス」夜の東京観光の中に「ミカド」が入っていた。中国人のクライアントを「ミカド」で接待している時に、二階席にどやどやと「はとバス」の一行が入ってきてビックリしたことがあった。「ニュー・ラテン・クォーター」は何しろ店に入るときに下りる真っ赤な絨毯の階段が豪華にできていて、上品さは天下一品だった。トイレに専用のお世話の方がいて、用を足すごとに100円のチップを払っていて、オシッコなどと言ってはもったいない雰囲気さえあった。「タコさん、いいんだよ、すべて諸岡さんに任せておけば。」ここの主のようなマネージャーがいて、すべては彼に話せばことがスムースに進んだ。どんな女性をテーブルに呼ぶとかは、担当の女性がいてその女性が仕切った。ここは、昭和38年に力道山が刺された所だった。力道山は、その一週間後になくなっている。あの時、39歳だったと知って若かったんだなと驚く。当時は雲の上の人だった。幼稚園の頃、歩いて10分くらいの所にあったタバコ屋さんで、生まれて初めて多くの人と一緒にプロレスを見た時、怖くて怖くて震えて歯が鳴った。白黒テレビで小さな画面だったが、黒いタイツ姿の力道山が大きく見えた。「おい、この子震えてるよ。」っとどこかのオジサンに笑われて警察官の子供らしくない振る舞いを恥じた。「ニュー・ラテン・クォーター」のトイレに入るたびに、力道山のことが過ぎった。子供の時のヒーローだったからだろう。小用の振るえと、子供の時の震えが入り混じる。力道山が使った便器かと思うと拝みたい気にもなったものだ。ところが、このナイトクラブが大変な災難に巻き込まれることになってしまった。昭和57年2月8日、午前3時30分頃、会社乗っ取りの異名で有名な、横井英樹社長経営のホテル・ニュージャパン(東京都千代田区永田町)の9階から出火。異常乾燥注意報発令中の都心を真っ赤に染めた。この日の宿泊客は442人。うち9階と10階に宿泊していたのは103人で、この多くは台湾や韓国からの「札幌雪祭りツアー(61人)」の宿泊者だった。灼熱と煙に巻き込まれ部屋や廊下で死亡した者や猛煙に耐え切れなかった宿泊客が9階、10階から飛び降りるなど33人が死亡、24人が重軽傷を負った。http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage105.htmこの火災に会社の同僚が巻き込まれ命を落としている。蝶ネクタイの横井社長がTVに出るたびに虫唾が走った。このナイトクラブは、ホテルの地下に広がっていたのだ。ロサンゼルスから来いて「ニュー・ラテン・クォーター」で踊っていたストリッパージョイを浅草に連れて行ったときは、180センチはあろうかというジョイの美貌と体型に俄然視線が集中してうるさいくらいだった。そして、どんな男が連れているのかと私を見る視線が「何だこの程度の男か!」的なものが圧倒的で、マゾ度100%の一日となった。私はどうも昔からストリッパーと縁があるようだ。「京都ベラミ」。その一年前に、広島で戦後生まれた有名人二人のうちの一人、かの山口組三代目田岡組長が狙撃されたクラブだった。因みに、もう一人の有名人とはあのダイエーの創始者中内功氏だ。中内さんも、どちらかというとヤクザっぽい方だと思われるが、広島とはそういう方々が育つ土壌がある所なのだろうか。 私は、田岡組長がピストルで撃たれたその一年後に「京都ベラミ」を訪れて、面白い思いをさせていただいた。 つづく
2005年08月08日
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ブリスベン2日目。これが真冬のブリスベン。ゴム草履のお嬢さんもいる。タコ社長、ついて行きたくなってしまう、ぽかぽか日和。身を引き締めて業務に励もう。
2005年08月08日
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手術は無事終わった。1984年の10月のことだった。そして、待ちに待った術後5日目のお風呂の日がきた。まず頭を洗った。痒くて痒くて仕方なかった。指を頭に立てて揉むようにゆっくりと押し洗う。そして、お風呂だ。快感とは,この日のためにあったのかと思えるほどの極上の時。患部を初めとして体中の血の巡りが絵を見るように感じられる。このままお湯と一緒に流されていってもいいような、そんな許されたたった5分の至福のときだった。上気したまま病室に戻り、その気分に酔っていると母が見舞いに来てくれた。「どっか知らないけど外国から手紙だよ。」そういって母が渡してくれたのはニュージーランドからの手紙だった。私の手術のことが国際的に知れ渡ったのだろうか。差出人を見ると全く覚えがない。「初めてお手紙いたします。」「私の最愛の一人娘が先日亡くなりました。」これは、なにかのいたずらか、不幸の手紙か。「死因は喘息でした。前から患っていたのですが、最近悪化してとうとう帰らぬ身となりました。タコさんは、一体誰のことを言っているのかとお思いでしょう。実は、娘はタコさんと一度だけでしたが、お会いしているのです。」突然、私の知らない所に私の分身でもできていて、その責任を取れとかいった手紙なのかと、お風呂で上気していたからだから血が引いた。「私は、娘が3年前に勤めていた会社の日本研修旅行に行った際、その会社関係でタコさんとお会いしたジュリーの母でございます。」「たった、10日間の研修旅行でしたが、タコさんには大変よくしていただき。帰国してからも思い出しては話しをしていました。」3年前の研修旅行でお世話した、20人のニュージーランドの方々のうちの一人のジュリーさんのお母さんからの手紙だった。「ジュリーの短い人生の中で最も楽しかった思い出の一つとして、きっと天国に持っていったと信じています。死ぬ少し前まで、もう一度日本に是非行って見たいと申しておりました。」ジュリーとは帰る前の日に朝から晩まで買い物に付き合った仲だった。秋葉原、新宿などを見せて歩いた。田舎の純朴なジュリーの喜ぶ顔を見るのが嬉しかった。ただ、本当にそれだけのことだった。感謝されるようなことは何もないと思ていった。ニュージーランドに帰ったジュリーからお礼の手紙をもらってはいた。しかし、それ以後はまったく忘れていた人だったのだ。「死は、誰も予期していなかった時に突然襲ってまいりました。こんなに短い人生で、哀れでなりません。23歳ですよ。そんなわけで、まだお会いしたこともないタコさんに、最初で最後のお礼のお手紙をお出ししました。いつか、ニュージーランドに来られることがあったら、是非お知らせください。タコさん、本当にありがとうございました。」知らないところで、忘れていた些細なことに感謝していてくれる人がいる。天井の染みを見つめながら暫く動けなかった。それから一週間して、私はこの、「死に至らない病」の人たちの病棟を後にした。
2005年08月08日
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仕事が途切れないまま、今ブリスベン入りした。少々、目が回っている。早速、会社に出ると日曜なのに皆休日出勤。真冬のブリスベン22度、素晴らしい天気で汗をかく。メルボルンがヒーター必要な雨だったので、この違いが大きな刺激となって目も覚める。「水曜日まで、みんな忙しいので、飲み会は木曜以降になってます。」ナニワのベテラン幹部社員がメールを寄越していた。じゃ、なんのためのブリスベン出張?なんて思っているわけではないが、タコ社長、居場所がない。タコは頭がデカイくて重いので、いつも垂れているのは謙遜からではないのだが、スタッフの姿勢にあらためて感謝だ。タコ社長、木曜以降が楽しみでしかたない。
2005年08月07日
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千客万来、PCの前に座ることができないでバタバタだ。ブログは「たまごっち」みたいなもんだと最近思うようになってきている。しっかり、飼っていかないと逃げられる。ブリスベンから来られている方と会食した。アメリカはミルウォーキーの大学で勉強されたという、20代後半の輝いているキャリアウーマンKさんだ。商売上、若い女性からエネルギーをいただけるのが特権のタコ社長だ。4人での会食ではあったが3人しか飲まない赤ワインを調子に乗って2本空け、高速道路をそれこそ高速で帰宅。こうして、大丈夫、大丈夫と深酒して、運転するときにいつも後悔している。もう少し、いけたかなっと。Kさんとアメリカ人とのデートの話しになった。アメリカ人のデートに対する考え方は、日本人のそれとだいぶ違うというのだ。タコ社長、このお話でアメリカ旅行の22歳の夏が、ワインの後押しも手伝って蘇ってきた。「もしもし、マーラをお願いします。」大学3年の時アメリカのシアトルで2ヶ月過ごした。お世話になったピターソンさんの姪のマーラに、お世話になたお返しに、などと思ったわけではないが、デートを申し込もうとして、1時間くらい受話器のそばを行ったりきたり。思い切って掛けた。お母さんが出た。こういう時に本人以外が電話に出る確率は、掛ける側の下心の度合いと正比例して高くなる。お母さんがマーラを呼んでいる。彼女が受話器にゆっくり近づいてくる足音まで聞こえてきた。どうやらこうやら、彼女が夏休み中にバイトをしているファーストフードの店がはけてから会う約束ができた。私は、22歳でマーラは18歳だった。「店長が、いやらしい人で、話すときに肩や腰に手を回してきたりするの。」私は、基本的にはこういう店長みたいな方々はあまり好ましいとは思わない。しかし、当時はそんな悠長な気持ちでは収まらなく、とんでもない男だと激昂してしまった。「でもね、時給は安いけどチップがいいから我慢してやってるの。」やさしい英語でゆっくりとマーラ話してくれた。私は、輝くばかりの笑顔を時々見せながら、腰まで素直に伸びた金髪の長い髪を揺らすマーラに魅せられて、思わず手を伸ばそうとして店長の話しを思い出し躊躇した。「日本じゃどうか知らないけど、アメリカでは最初のデートはたいした意味がないの。だって、好きかどうかなんて、付き合ってみないと分かんないじゃない?だからデートするのよ。」デートしただけで、文金高島田なんかがストレートに想像されてしまうような当時の私には、いかにも新鮮な考え方で感動さえおぼえた。と同時に、今会っていることの意味は、彼女の側からするとそんなにないんだとやや興ざめした。そうだったんだ。じゃあんなに緊張して電話しなくてもよかったんだ。アメリカ人とは、なんと合理的な考え方をする人種なんだろうと思った。タコ社長、何も考えずにやたらめったら異性をデートに誘う習慣の原点は、どうやら前の大戦で敗れたこのアメリカにあったようだ。次回のデートは、マーラの通っている高校のキャンパスツアーだった。「タコ、私ね、高校のチアーリーダーやってるのよ。見てみたい?」何かのスポーツ競技会で見せてくれるのだろう、私は間髪を入れずに素直に「はい。」ところがどうだ、マーラはブルーマとかいった格好ではなかったが、普段着でいきなり芝生の上で踊りだしたのだ。あっけに取られながらも,笑顔で見ていた私だが、それがいつまでたっても終わらないのだ。その内、自分の顔がこわばってくるのがわかった。笑顔じゃなくなってきている。マーラ一人をそこに置いて、立ち去りたくなった。マーラとのデートはこれ以降はなかったが、異文化交流の勉強にはなったと思うし、変な度胸も少しはついたとは思う。アメリカ人というのは、本当に臆面がない方々総体的名称なのだということは肝に銘じさせてもらえた。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月06日
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「過去に幸せはない」年に3回くらいは思い出している言葉だ。世の中には、「太る中年男とやせる女性」という構図があるそうだ。あまり体重のことを話題にすることがないブログで、不公平にならないためにも週末は体重を思ってみた。男女とも、自分は太っているという意識はあるのだが、男は過去の自分とくらべてだが、女は他の女と比べてそう思うというのだ。中学2年のときの身体検査でA先生に、「タコ、いい体しているな!」と部屋中に響く声で言われた。上背が180センチを超えていて体重が73キロだった。今より20キロは軽い。こういう発言はいつまでたっても忘れないもの。女性の方々もこんなこと言われたら忘れようもないだろうけど、学校の身体検査で男性教諭などからは言われることはまれだろうが。先日、オランダ系の連れ合いが友達4人でマッサージに出かけた。サウナもあったりで、半日過ごして軽やかにかえってきた。「エリースだけどね、水着になっらビックリしたわ。お腹のあたりがね、、、、」連れ合いが、友達の体型を聞きもしないのに説明してくれた。こと、私の体重に関しては「過去にしか幸せはない」といえそうだが、この冒頭の男性と女性の比較、皆様はどう思われますか。週末だ。なんか運動せんと。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月06日
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「恋愛は刮目、結婚は盲目。」友人がメールを寄越した。人生を豊かに生きる知恵だそうだ。「もうタコ社長、無茶が通る時代は過ぎましたよ。」という優しいお言葉なのかもしれない。盲目になるほど悟りの心境にはなれないときもあるが、しっかり老眼にはなっている。だんだんと世の中が美しく見えてくる。昔は隣の芝生は青々としていて匂うように誘いかけていて芝刈り機の買い替えも,なんていうくらい派手に芝が生えていたが、最近は目も悪くなりよく見えなくなってきている。年をとってくると、自分のお腹のように人間も丸くなってくるのだろうか。何事も、静かに「川の流れのように」やっていくのがいいのだろう。そういえば来週はブリスベンへ出張だ。毎晩でもカラオケスタンバイのスタッフ達が待っていてくれている。タコ社長の持ち歌302番、「川の流れのように」、歌ってみようか。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月05日
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長年英語圏で生活しているので、たまには英語の勉強の話しでもしないと示しがつかない。昨日の朝出勤途にラジオトークショーを聞いていたら、ある視聴者がボーリングの玉を間違って後ろに投げて、それがある男性の股間に当たってしまったという話しをしていた。これは外の芝生でやるローンボーリングでの出来事。こういう話を、朝の7時前にしてくれるのも嬉しいが、運転中にはやや困る。縮み上がってしまった。痛めたもの、その物ずばりを英語でなんというかは実体験で知っていたが、じゃ、そういう日本語をブログなんかで使っていいものかと広辞苑を開いた訳だ。因みに、実体験とは何かの玉を当てられた、とかの話ではないので念のため。そうやって調べていたら、「金玉火鉢」なんてすごい言葉に出会って思わず日記に書いてしまった。あれいらいアクセスが減っている。ところで、辞書の編纂って、社史編纂室の仕事の次くらいに面白くない仕事と思っていたが、どうやらそうでもなさそうだと思えるようになった。こんな言葉を真顔で編纂しているなんて、想像しただけで座っていられなくなる。英語で、本当に気を遣いながら使う言葉がいくつかある。その中の筆頭が、ball と balls の違いだ。これは、天と地の違いほど違う。似て非なるもの。この違いを、中学の教科書The Junior CROWNなどでは教えてもらっていたら、英語に対する興味が格段に上がっていたのではないだろうか。あるとき、アメリカ人のゴルファーの奥さんが、ダンナが開発に携わった新ボールの話しをしていて、本当にダンナのボールは素晴らしい、と複数形で言ってしまった後、公の場で収拾がつかなくなるほど沸いてしまったという話しを聞いたことがある。しかし、比較言語学の立場から言わせてもらえるなら、複数にしただけという味もそっけもない英語に比べ、火鉢まで付けてしまう日本語のこの表現の深みには感嘆せざるを得ない。日本語、畏るべし。二日も続けて書いたので、しばらくはこの話題は置いておくことにしよう。玉にキズ、なんて言われる程度に留めておくべきだろう。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月04日
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「死ぬか、引退するか、倒産するまで、中小企業の社長が社長を辞めることはない。」なんだ私には3つも選択肢があったんだ、なんて心が緩む発言だ。「ものの本」を読んでいたらそう書いてあった。だから、「ものの本」はたまには読んだほうがいい。もしかしたら、「夜逃げ」なんていうこともでてくるやもしれぬから、もっと選択肢は増えてくるだろう。会社のことが四六時中頭を巡り巡って、おちおち昼寝もできない。大会社では、イヤな上司は変わる可能性が十分ある。しかし、中小企業では、イヤな社長でも、仕事をしない社長でも変えようがない。時々、皆に申し訳ないと思うこともある。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月04日
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「金玉火鉢」。広辞苑を見ていて出会った新しいボキャブラリーだ。どこかに書き留めておかないと忘れてしまいそうだ。寒い時、火鉢を股の間に入れて温まること。また、そのための小形の火鉢。股火鉢。とあった。なぜ、こんな言葉を見ていたかは、明日の日記に譲ろう。なんせ、毎日5時半に起きているのにもう12時半。日記の魔力だが、「金玉火鉢」なんていう元気のいい語彙に出会ってしまったら目も覚めようってもんだ。さすが、「金玉火箸」なんていう危ないことばはまだできてないようだ。メルボルンは真冬で、明日当たりは「金玉火鉢」が活躍してもいいのかもしれないが、前のほうはあっても、肝心の火鉢がないので想像しても勢いを削がれる。しかし、こんな語彙があったのを知っていましたか?世の中、まだまだ知らないことが多すぎます。これじゃおちおち三途の川も渡れない。それにしても、なんども繰り返していいたくなる力のある言葉だ。早く寝ないと。とんでもない夢だけは見たくない。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月03日
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最近は相撲もしなくなって久しい。趣味のことを考えた。どんなに忙しくても、水曜日の夜はオランダ系の連れ合いとロックンロールを踊っている。80人くらいの人が来ている。どうしても7時には間に合わないが遅いときは11時くらいまで踊っている。日本には、「踊る阿呆に、もっと踊る阿呆」という言葉があるくらいで、踊っているときは何もかも忘れられる。時々、連れ合いのことさえ忘れる。とんでもなく汗かきなタコ社長、もうびっしょりだ。会社が楽園のようなら、社長のわたしでさえお金を払って仕事をさせてもらわないとならない。毎日、会社ではいろいろ考えなくてならないことが、パチンコの玉のように次から次へと出てくる。今、ロックンロールダンスから帰ってきて、日記を書いている。夜の11時半。みなさんの書き込みも読ませていただく。ところで、日記を書くことは私の最高の趣味だ。日記をかいているときにはトイレさえ忘れる。世の中、いろいろカクものはあるが、日記はその筆頭だろう。赤ワインの一気飲み、これなんかもいつやっても厭きない趣味の一つだろう。連れ合いには、私はお酒の飲み方を知らないと呆れられている。いつも、聞かれると無趣味です、なんてこたえているが、ロックンロール、タコ日記、赤ワインの一気飲み、など数えてみると結構あるようだ。因みに、金髪好みの趣味は、連れ合いに出会ってから青息吐息で、それはそれで全く文句も問題もない。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月03日
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オーストラリア生活の第一歩は、シドニー舞伎町と言われるキングスクロスから始まった。ここの目抜き通りはそんなに長くはないが、当時から表に椅子とテーブルを出しているカフェがあった。今でこそ珍しくないし当たり前の光景だが、20年前は珍しかった。今はまた、店内禁煙になっているので更に外での飲み食いが自然にもなっているが。将来の見通しは全く見えない毎日だったが、とりあえず一日二十四時間自由に使える日々が与えられた。サラリーマンも辞め、日本語教師になる勉強も終え、日本から離れて形だけは全くの自由。シャワー、トイレ共同の簡易ホテルに投宿して、朝7時に起きる。そして、シドニーで一番人気のある新聞Sydney Morning Herald を買い、宿から2分も歩かないところにあカフェでおもむろに新聞を見る。読むのではなく見る。そして、カプチーノとトーストの上に目玉焼きがのっている簡単な朝食をとる。因みに、トーストに目玉焼きをのせて、ナイフとフォークで食べるという食べ方は、アメリカのマナーに比して本当に新鮮に思えた。6月の冬のシドニーだが日が出ると結構暖かい。サラリーマン時代に、こんな余裕を感じことがあっただろうか。誰にも何も言われない時間がゆっくりと流れていく。そして、誰とも話さない日も静かに過ぎていく。へたすると、2日くらい誰とも話さない日もあった。本当にこの国は自分が思っている、恋している国なのだろうか。こんな自分を受け入れてくれる国なのだろうか。そんなことを確かめる第一歩を、シドニーで踏み出した。日本で知り合ったオーストラリア人達にも会ってみたい。一番大切なのは、この国、ここの人たちとの相性だ。こうして、毎日ゆっくりと朝食をとりながら、シドニーでの生活を肌身で感じたかった。あいその良くないウエートレスにも慣れないといけない。英語が通じなくて、何度も同じことを言ったり聞いたりして嫌な顔もされる。「お客様は神様」の国から来た者にとっては、本当に生意気な店の人が目立った。それにしても毎日、街をよく歩いた。何時間も歩いた。心が躍って仕方がない時が多い。探さなくても外人ばかりだ。カネもなく知り合いも少ないが、希望と夢と、そして物事に対するしつこさだけは十分持っていた。毎日、入金のない一方通行の出費だけの家計簿をつけた。一応、日本では安定したサラリーマン生活をおくっていた自分だが、今は10セントも気になる。二週間のシドニーの滞在を終え、いよいよ、次の目的地メルボルンに旅立つことにした。どこかに定住しないと友達もできない。メルボルンにはバスの夜行で行くことにした。飛行機なんて使う余裕はなかった。メルボルンは指圧の先生に紹介されたお弟子さんがいて助けてくれるかも知れないと期待している所だった。しかし、メルボルンに対する知識は皆無に近かった。どんな所なんだろう。約12時間のバスの旅を始めようと、シドニーのバスターミナルで、メルボルン行きの夜行バスを待っていた。不思議と、まったく不安はなかった。33歳にはなっていたが、一人だったこともあるだろう。1985年6月の終わりのことだった。あの頃は、メルボルンに20年も住み続けるなどとは夢にも思っていなかった。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月03日
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「自分で読むのも疲れるほど、日記書くことないでしょう!」って言われたので、今日は赤ワイン首ったけの写真。よしおかさん、済みません、隣は他人です。そして、これ2年前の写真でした、ゴメンナサイ!↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月02日
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真冬のメルボルン、いよいよ8月だ。暖かい日も出てくる。月初にふさわしいテーマにしたい。前にも書いたが、「トイレットペーパーを使って用を足しているのは、世界中の人々の3分の1に過ぎない。」というのだ。いったい、3分の2の人はしてないのだろうか、などとは思わないが、いろいろと思いが巡る。タコ社長の会社、場所はメルボルンのど真ん中で非常にいいのだが、家賃を滞納しているせいだろうか、ちょくちょくトイレットペーパーが切れている。オーナーは、中国系の方で、3分の2に属しておられるのだろうか、などと穿った考えもでてきてしまいがち。中学のときに木造校舎、木造非水洗トイレでトイレットペーパーがなくて死ぬ思いをしたことがよぎる。今となってはほのかな思い出ではあるが。インドに行ったときに、プールで用を足しているのかと思えたときもあった。香港では、もう25年も前の話しだが、どっちを向いてしたらいいのか、5分くらい試行錯誤で悶絶したものだった。私たちが子供の時のことを思うと、今は隔世の感がある。新聞紙なんか読むだけではなくいろいろな用途もあった。言い出したら、フン切りがつかなくなる。世界各国の皆さんのご経験も拝聴したいもの。さっ、今月も爽やかにスタートができそうだ。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。今日は特に、 フン張って お願いいたします。
2005年08月02日
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ちょっと前に、「タコ社長のお仕事って、日記を書くことですか?」と真顔で聞かれたことがあって思わず、「はい」と言ってしまいそうになった。これでも一応、会社のタコ社長、日記はあくまで呆け防止のためにスタッフが作ってくれたホームページがその起源。それからやみつきになってしまい、いまでは歯止めのきかないブログになってしまった。本職は、メルボルンとブリスベンに開いている「留学センター」の唯いるだけの長老。最近は、いったいいつ仕事をしているのかと、会社のスタッフも訝るセミリタイヤオヤジである。しかし、基本的にはどんなパイも大きい方がいい、と日夜パイを大きくしようと努力するビジネスマインドでやってはいる。タコだから、肩もないのに凝り性で、日記なんか書いていて、紀元前くらいのことまで書きかねなく、毎日のことを綴るのが日記だとするならば、とんでもなく逸脱、破滅型。以前、「タコさんは文筆の達人ですね。」なんて言われて、調子に乗って有頂天で喜んでいたら、どうやらその方は、「分泌の立つ人」と宣わった由。さもありなん、と地団駄踏んでも後の夏祭り縁日水飴垂れ流し。しかし、本来はスローライフをモットーにしているタコ社長、おだてに弱い性格を克服し、仕事も呆け防止も自分のペースでやるものと悟ってきてはいる。さて、明日の日記は何を書こうか?↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月01日
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1974年に初めて海外旅行をした。アメリカだった。ロサンゼルスからシカゴに入って、シカゴからロードアイランド州まで車だった。それからデトロイト、シアトル。シアトルが一番長かった。といっても全工程で3ヶ月弱だった。ロサンゼルスに着いたとき、日本でお世話になった方に挨拶にでかけた。本当に久しぶりで、嬉しい気持ちが先走っていた。「あ~タコさん」「本当に、久しぶり。」感激の対面だった。そして、その方は次に日本語でこう言われた、「うれしいだろう!」なんとも、ナメクジに塩といった感じで、嬉しさが半減してしまった。私に会うことができてうれしいだろう、という風に聞こえてしまった。日本を離れてから随分になり、その方も日本では日本語を流暢に話されたいたが、錆付いてきていたのだろう。なんの、悪気もないのは百も承知だが、言葉の力に押し返されて、ドアから外に出そうになった。↑↑↑遠慮と躊躇のないクリックをお願いします。これがないと、タコ干上がります。
2005年08月01日
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