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無駄な努力はやめなさいと運命がささやく。 水耕栽培の砂地で干からびかけている小さなリーフレタスの根はなおも水分を求めて根を伸ばそうとする。 水耕栽培でリーフレタスを育てることにすっかり飽きて、水をやるのも面倒くさくなって、やがてそんなことをしていたことすら忘れている。水耕栽培を始めたばかりのときには、嬉々として2リットルの入るペットボトルを加工して水耕栽培のための仕組みを四セットも作ったのだが。 要は砂地の上部と液体肥料を希釈した溶液を入れた下部を細長い布で繋いだわけだ。溶液はその布を伝って砂地に吸い込まれていく。植物の根にも酸素が必要で、直接、液体肥料の入った溶液に根を漬けてしまうと根が腐ってしまうらしい。 砂地にリーフレタスの種を蒔いて、しばらくの間は順調に芽が出て葉を伸ばしていったのだが、そのうち、砂地の表面をカビのようなものが覆いはじめ、下の溶液が腐りはじめたのか、異臭がしはじめた。水耕栽培は清潔で、養分が絶えず供給されるから植物の成育も早いといいことずくめと考えていたものが、大きく離れていく。 生命は尊いのにちがいないけれども、リーフレタスのひとつや二つが枯れたとしても誰も気にはしない。蚊を叩き潰したり、ゴキブリを粘着シートで捕獲して飢え死にさせるほどにも気を止めはしない。生き延びるということは、些細な生命を気にしないということなのだろう。 こうしている間にも、砂地のわずかな水分をリーフレタスの根は探し続けている。 しかし、それは生に対する執着とか、再生する志といった美化するべきものではない。単なる化学反応だ。その化学反応に従って、ある条件下ではリーフレタスは根を伸ばすし、別の条件ではリーフレタスは枯れていくわけだ。だから、それを見て心を痛めたり、涙を流す必要はない。 ましてや、枯れかかったリーフレタスに同情し、今更、液体肥料や水を与える必要もない。しかも、こうしてわたしは冷たい床に倒れたままで生命を脅かされ、それこそ体内で進行しつつある化学反応にわたしが従わざるを得ないときに。 わたしは意志の力を信じない。生き延びるという強い意欲がわたしを助けてくれるとは思わない。誰かがわたしが倒れていることに気づいてくれるまで、わたしという化学反応がこの条件下で続いてくれるか、それだけの話だ。 もっとも、わたしが冷たくなっていく過程においても、わたしのもっと根元的なところで生き延びようと必死にもがいている何かがあることを信じたい気がしているのは確かだ。
Feb 27, 2011
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冬だというのに日射の強い昼間に、こんな歳だというのに初めてのデートに臨むときのような不安と期待で、ぼくはベランダに置かれたポリバケツで育てられた大根を抜いたわけだ。その大根は、近くの畑に植わっているものよりもぐっと細くて、しかし、その分下方向に長く伸びて、おそらくポリバケツの底に到達して、それでもさらに成長してきゅっと曲がってポリバケツの底を這っているのではないかと思っていたわけだ。 実際は人参のような形と大きさの大根で、軽い失望とともあれ収穫できたという喜びにぼくは浸った。 大根を引き抜いた跡が直径5センチくらいの穴になった。穴の周囲に土が少し盛り上がった。水分のない土は黄土色に固まり、穴が崩れるのを防いでいる。 そのぽっかり開いた穴を覗いて見ると、そこには小さいながらも完全な闇がある。完全な闇だ。その物理的な大きさは大根と同じはずだが、闇は無限だ。光がその中に吸い込まれていく。光が逃げられない。ぼくが現在いる世界とは違う世界への通路のようにも見えた。 ぼくはその穴の中に指を入れられない、怖くて。大根を抜いたばかりだし、マンションの5階のベランダだというのにぼくはその穴の底に蛇が潜んでいるような気がしてならない。その完全な闇にふさわしい蛇がとぐろを巻いているのにちがいないのだ。 それは真っ黒な蛇で、闇と同化している。ためらいの感情を決して持たない冷徹な蛇で、ただひたすら僕が指を入れるのを待っている。それもこれから何年も何年も。 でも、ぼくは少し安心している。その蛇は完全な闇から出てくることはないと確信しているからだ。僕がその中に指を入れない限りぼくは安全なのだ。 しかし、逆に、ひとたびその中に指を入れれば、間違いなく僕の指が喰いちぎられてしまうという不安が募ってくる。不安が積み重なれば恐怖になる。そういうわけで、この穴が絶えず僕の心の片隅にあった。 晴れた日曜日のこと。ポリバケツには、大根を抜いたときのままで穴があり、こんなに太陽が照らしているというのに完全な闇がある。この闇の中に潜む蛇は獲物を待っている。この今も獲物を待っていると思うと、その中に指を入れる勇気はないけれども、何かをしてやりたくなる。 ふと、明日からまた会社という憂鬱をあげようと思った。 ぼくは嘔吐した。ぼくのその暗い感情を吐いた。それはぼわっと僕の口から出ると見事にその穴に流れ込んだ。それは闇の中で待ち構えていた蛇に洪水のように押し寄せたにちがいない。それでも、その蛇はかっと大きな顎を開いて、ぼくの憂鬱をぱくりと飲み込んだような気がした。 それ以来だ。人間関係に悩まされて会社を辞めたいと考えていたぼくに少しずつ変化が出てきたのは。苦しさが和らいできたような気がする。毎週、週末になるとその週の不愉快だった感情をこの穴の中に吐くのだ。すると闇の中で蛇はそれを丸呑みにする。 その度に蛇を少しずつ大きくなっていく。そのうち、その穴のあるポリバケツより蛇が大きくなるかもしれない。しかし、その穴の中には無限の闇があり、巨大となった蛇すらもその大きさには到底及ばないはずだ。
Feb 20, 2011
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「てふてふが 一匹韃靼海峡を渡って行った。」 日本の少し昔の詩人がこの1行詩を発表した時、蝶の学校ではちょっとした騒ぎになった。生徒の蝶の一部は、自分も韃靼海峡を飛ばなければいけないのかと泣き出すので、いや、あれは希望者だけやればいいんだと先生の蝶が説明してその場を取り繕ったのである。 校長の蝶も朝礼で、この詩を引き合いにだして、次のように述べている。普通の蝶がそんなことをしたら、雨や風に晒されて力尽きてしまうし、万が一どこかの島に辿り着いたとしても弱りきっているところを捕虫網で捕まってしまうだけだ。 おかげで真面目にその話を聞いていた蝶は今でも海峡を飛んで行こうとはしない。 ところで、今日の問題は「韃靼」という字が読める蝶が極めて少なくなったことであろう。#194
Feb 13, 2011
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ふと眼が覚めると、満天の星である。 わたしは流木の中にいた。正確には流木にわたしという意識が宿った。これは夢であると思った。怖がる必要はない。夜見たテレビ番組の影響だと信じた。 6000万年ぐらい前にキツネザルの1種がアフリカ大陸からマダガスカル島に渡り、その地で繁栄し80種類にまで増えたのだそうだ。台風のような強い風雨で大木が倒され、大海に出て行く。木のうろの中で長期間に渡って休眠する習性のあるキツネザルがふと気づくとマダガスカル島という新天地に着いていたらしい。 わたしは、新天地に無事たどり着いたキツネザルよりも、休眠のために体に蓄えた栄養を使いきり、空腹で眼を覚ましたキツネザルに思いを寄せた。飢えている。無理に飲んだ海水がさらに苦しめる。時に苦し紛れに海に飛び込むキツネザルもいたのだろうか。 確かにわたしは流木になっている。波に揺られて上下動ばかり感じているが、実際はどこかに向けてゆっくりと移動しているにちがいない。どこに向かっているのか、わたしにはまったくわからない。 波の急激な変化なのか、わたしは大きく揺れた。そして、流木としてのわたしは、その体の中に小さな動物を宿していることを知った。リスのなのか、猿なのか、わたしは識別できないけれども、毛皮に包まれた小動物が、わたしという流木にウロがあって、そこでごろんと体が回転してどすんとウロの壁にぶつけたらしい。そんな感触をわたしは得た。 わたしはどこに行くのだろう。そしてわたしの中にいるこの小動物はどうなるのだろう。もう既に食べ物もなく息が絶えようとしているのかもしれない。逆に、生き抜くという意志に支えられて、体を細らせながらもまだ目をらんらんと輝かせているかもしれない。 その最後を見届けたいとわたしは思った。しかし、わたしはこの小動物を助けることはできない。せめて静かにこの小動物を眠らせてあげたいと願っても、それすらわたしにはどうすることもできない。 見届けることに何の意味もないけれども、その生命に強い意志があれば未来を切り開いていけるということを信じたかった。わたしは自分が夢からさめないことを願った。
Feb 6, 2011
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