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移送されつつある囚人は、できるだけつらそうな顔をし、付き添いの心やさしい番人が足に鎖で繋がれた重い鉄球をはずしてくれることを願った。 長期間に渡る囚人の演技が功を奏して、鉄球が足からはずされたのである。囚人の顔に生気が蘇り、手錠をかけられている両手に渾身の力を込め、その心やさしい番人を叩きつけた。一撃で彼は倒れ、囚人は逃走していく。 囚人は現場から遠くはなれ、一息つくとつぶやいた、「やさしさは、時に精神の未熟さである。」と。 頭を強打されて、心やさしい番人は既に息絶えている。#229
Dec 11, 2011
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(ホテルのこの部屋である。)白い天井、白い壁、白いベッド、白い机、白い椅子、白いタオルが冷血動物の胃袋のように待ち構えていた。(あの時、ドアを開けると街の女がこっそりとこの部屋に忍び込んできた。)わたしは孤独をその部屋に白く塗り込めたが、その白さはあまりに悲しかった。
Dec 4, 2011
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10分ほど前に、蚊は生まれて始めて水辺から飛び立った。本能は身を守るために警告した、満腹は命がけであると。本能は正しくて膨れた腹が破けがりがりになった体が足を宙に向けて今、ひんやりした畳の上に転がった、手のひらに僕の血を残して。#227
Nov 27, 2011
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確かに、この部屋には空中を泳ぐ金魚がいて、時々、ポチョンという金魚が水の中に飛び込むような音がする。金魚はわたしに見つからないようにいつもわたしからは見えない空間を泳いでいる。わたしが突然後ろをふり返ってもすばやい動きで、金魚は決して姿をみせない。最近、わたしは心配している。金魚が部屋から抜け出しわたしの後を密かに泳いでついてきているのではないかと。#226
Nov 20, 2011
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疲れた若者は日記に記した、女たちが信じられないと。深夜、添い寝する見知らぬ女の眼がぎろっと輝き蛙のように軟体化しとろんと液状化しその男の口から体内に入って行った。女は思った、弱い者にとどめをさしてあげようと。#225
Nov 13, 2011
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あの若い水泳の先生は恐らく溺れているのだろう。自分の実力をみせつけたかったのに違いない。流れの速い川に飛び込んでいって、もうずいぶんと長い間浮かび上がってこない。でも恐らくは大丈夫だろう。そのうち、ぷかりと浮かび上がってきて、周りの人々が気づいて陸に引き上げ、人工呼吸を行い、彼の鍛えられた肉体、特に呼吸器官のおかげで彼は助かるという筋書きだ。テレビドラマを10や20集めても一人の人生を覆い尽くせないのか、それとも、人生はしょせんテレビドラマの集まりなのか。テレビドラマならば、おそらく、あの水泳の先生は助かる。昔の私ならば、結末を知らないと気が済まなかった。しかし、年を取ると他人の結末などどうでもいいことだし、自分の結末など、誰も注目していないとわかるようになってきたので、多少の心の起伏があるとしても結末を知ることの重要性は低くなってきている。明日の新聞を私はおそらく読まないと思う。水泳の先生の結末を知りたくないからだ。でも、人生というのは、やはり予測のつかないものだ。私がもうひきあげようと、土手の方を見上げるとあの水泳の先生が悠然と歩いているではないか。テレビドラマよりつまらない日常に、私は軽く失望した。#223
Nov 6, 2011
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雨が降っているし、もう深夜だ。駅から家までの道が馬鹿に静かで、誰一人として歩いていない。家まであと数分というところで、道を曲がるとなだらかな下り坂がある。道の真中に傘が広げて置いてある。傘が闇の中にころんと。その道にある電灯のおかげで、その傘が緑色で、黒のチェックがはいっているということがわかる。その色が、雨だというのに、乾いて見える。深夜の雨に、路上の傘が調和する。傘の脇をすり抜けるとき、私は少しどきどきした。この傘は、物体のような生命かもしれない。生命になるかもしれない、もしくは、生命になるほんの少し手前の有機物かもしれない。傘の脇をすり抜けるとき、ちらっと傘の裏側に私の視線が伸びる。それに応ずるように、私を見つめ返すものが傘に宿っている。この傘の下に子供は絶対に隠れていない。子犬は絶対に雨宿りしていない。でも、無垢で素直で、子供のような、子犬のようなものがいる。冷たい雨が静かに降りつづける。そのなだらかな坂が終わると、私は振り返って、今通ってきた道にまだ傘があることを確認した。私は左に曲がらなければ家にたどりつかない。そこを曲がって、新たな道。自分が歩いている道の真ん中あたりを見極めると、そこに私も自分の黒い傘を置いた。私は、たくさん傘がほしくなった。赤とか青とか、黄色とか、白色の傘もほしい。道という道に、ぽつんぽつんと傘を置いていきたい。深夜の雨がしとしとと降る中で。#221
Oct 30, 2011
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人生の終わりのようだ。 駅の近くの線路沿いに自転車屋を構えているという地の利があっても、一日数人の客がくればいいところだ。それも、自転車を買ってくれるわけではなく、パンクの修理やタイヤの空気入れというようなもので、実入りは少ない。線路沿いの道に違法駐輪されている沢山の自転車は、スーパーや量販店で売られているものばかりだ。彼らの価格に勝てない。 大量に違法駐輪している自転車のタイヤがすべて突然パンクしてくれないか。鍵が突然壊れて開かなくなってくれないか。そうすれば、これだけの近さだ、彼らの大半はわたしの店にくる。パンクの修理用材料を、自転車の鍵を大量に購入しておいた方がよいかもしれない。 もしくは、パンクさせなくてもタイヤの空気注入口の根元のねじがゆるむだけでよい。駐輪している間に空気が漏れて、わたしの店にきて「空気を入れさせてくれ。」と言って来るだろう。「自転車を当店で購入してくれたお客さんには無料でいいのですが。」と返答してやろう。空気を入れて、ねじをしめるだけなら簡単で、一回150円ぐらいでいいかもしれない。 違法駐輪とわかっていて、駐輪した自転車をきちんと並べて違法駐輪できるスペースを作っている一団の年寄りたちは、駅前のスーパーに雇われているようだが、なぜ、もくもくと来る日も来る日も意味のないことを、終わりのないことをやり続けているのだろう。 あの年寄りたちなら、自転車に触っていてもだれもあやしまない。緑色の帽子をかぶった彼らが、自転車のタイヤの空気を抜いてくれないだろうか、白い軍手をはめた手で。 こうしてやることもなく、テレビを見て、一日売れない自転車屋の店番をする日常を、あの年寄りたちは変えることができるのに、それどころか、彼ら自身の退屈な毎日を変えることをできるのに。なぜ彼らは気づかないのだろう。 今日も一日が何事もなく、いつものようにほとんど客もなく、終わるだろう。あの年寄りはなぜ行動しないのだ。好奇心を、冒険心を彼らは持ち合わせていないのか。狂気に突き動かされて、自転車を壊そうという老人はいないのか。このままでは、人生が収縮していくことに、彼らは気づかないか。破壊せよ、自転車を。#219
Oct 23, 2011
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夏という季節が悪かったのかもしれない。透明人間がわたしにべたべたとまとわりつくからわたしは「今すぐやめないと、ひどい目にあわせるぞ。」と威嚇したわけだ。それでも相変わらず彼はべとべとと張り付いてくるからわたしは暑苦しくて我慢できなくなった。透明人間との激しい格闘は続き、二人はもみ合って自宅のそばの橋の上から河の中に落ちて行った。透明人間は浮き上がるとくらげのようにぷかぷか浮いていたのだが、やがて川下に流れて行った。空気の重い、深夜のような昼間。わたしは確かに戦ったのである。「あの人が、突然、気が狂ったかのように体を揺すりながら橋から飛び降りました。」得意そうに警察官に説明する一人の見物者。遠くに救急車のサイレン。#218
Oct 16, 2011
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頭脳空間の中にぽつんと不安が生まれて次の不安が、またぽつんとその次のがまた、どう見ても、消えて行く不安よりも生まれる不安の方が多い。かと言って、私が不安で潰れてしまうかと言うとそうでもなくて、不安が生まれると、私の頭脳空間のある一室に押し込まれて行くようなのである。不安の上に不安、不安の横に不安。不安ばかりでその一室が満たされてくると不安同士が押し合って結果として、圧縮されて不安は塊になってしまう。すると、私はくしゃみがしたくなって、くしゅんとひとつすると不安の塊が私の体から飛び出して行く。ある日、その不安の塊を眺めて見るとロダンの考える人に似ているではないか。不安は成長すると、芸術になるのかもしれない。そういうわけで、私の不安はいつ芸術になるのだろうと楽しみに待っている。#217
Oct 10, 2011
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子供は働き続ける冷蔵庫をかわいそうに思った。購入されて、スイッチを入れられたら最後、冷蔵庫は壊れるまで働き続けなければいけない。子供は冷蔵庫を休ませてあげようと思って、スイッチを切った。そんな心優しい子供もどこで魔がさしたのか、何人もの人をあやめた犯罪者になり下がったのである。彼はいよいよ逃げ場を失い、業務用の巨大な冷蔵庫の中に隠れている。誰もこんなところに長時間潜んでいるとは思わない。どうしたことだろう。冷蔵食品がたくさん積み重ねられ、とても寒いはずなのに、彼には寒いどころか、とても心地よくなってきたのである。そして、子供の頃、冷蔵庫のスイッチを切ったことを思い出したのである。何ヶ月も経って、彼が発見されたとき凍えて息絶えた彼の顔には微笑があったと言う。#216
Oct 2, 2011
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一匹の若いピラニアが、水底に沈む木から突き出ている小枝に運悪く体を擦りつけてしまった。うろこが数枚はがれ、その下の肉がそがれ、水中に血が流れ出した。「痛い。痛い。」と助けを求めてはいけないと思った。何気ない風をして泳ぎ去ろうと思った。しかし、ミスを見逃さないし、許さない。かつての家族や仲間の目つきが変わり、他人になり食欲に満ちて(単純な生体反応を恨んではいけない!)そして、実行したわけだ。最後に、とてもきれいな白い骨が水中を漂っている。#215
Sep 25, 2011
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ポッドウエル嬢は才媛である。有名大学を出ていて、いかにも才媛という感じがするから、彼女は才媛であるのにちがいない。 営業としてがむしゃらにがんばるポッドウエル嬢は、彼女の華奢な体に不具合なほど大きなアメ車を運転する。ポッドウエル嬢は営業だから客を乗せて走らなければいけない。ポッドウエル嬢の車の運転は運動神経に比例してそれほどうまくなく、というよりは、かなり危険で、ぼこぼこと事故に会って、最初は素直に皆に事実を話していたのだが、そのうち恥ずかしくなって、なんとかそれを隠そうとし始めている。 ポッドウエル嬢は、ある日、得意先とのミーティングで突然ばたんと倒れて、床の上に猫のように横たわる。張りめぐらした神経がぷつんと切れ、意識を失う。購買部のフランクリンはポッドウエル嬢に近づき、手に触れ、彼女の顔をしげしげと眺めて、「ケオエツオオウト症候群ですよ。お嬢さん。」 ポッドウエル嬢は何か話そうとするのだが、どうもうまく話せないでいる。目が宙をさまよっている。 「無理してはいけませんよ。無理しては。生命には別段問題がありませんが、なにしろケオエツオオウト症ですから・・・・。」注)ケオエツオオウト症 一昨年の3月に学会で公式に発表された。長時間緊張を強いられ、その鬱屈感を解放できなくて、脳の一部の毛細血管の収縮が起きて身体機能が部分的に低下し、突然居眠りをし始める。肉体的にはまったく異常がなく、通常の検診では見つけられない。具体的な治療方法は確立されておらず、精神的に安静にしていること、発症し居眠りを始めても無理には起こさない方がよいとされている。イセエビの生き作りを大量に食べると有効とも言われている。 なお、ケオエツオオウトとは、この症状を発見した医療グループに参加していた研究者8名の名前の最初の一字をとって付けられた。低年齢層にも急激に広がっているため、近く政府の医療研究機関が対策プロジェクトを発足させる。 フランクリンは「空を飛ぶ魚、もしくは、犬を食べる猫」という協奏曲を口ずさみながら、にやにやとポッドウエル嬢の平らな胸を見ている。ドアの鍵をしめた会議室。フランクリンの幸福な時。眼を閉じて動かない女性をいつまでも眺めていられるという喜びにフランクリンは浸っている。眺めているだけで、フランクリンには十分なのである。#214
Sep 18, 2011
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炎天下で汗をだらだら流しているというのに、わたしは草むしりをしているときは無心になれた。 畑の中の通路に生えている雑草を抜こうとしたときに、そいつはわたしの二の腕を掴んできたのである。わたしは恐怖感に囚われ、そいつに地の底に引き釣りこまれるのかと思った。そいつは思いのほか非力で、わたしはそいつを白日の下に引きづり出すことができたのである。 そいつは飢えた子供のように骨ががりがりしていて、今までに地中に潜んでいたことを証明するかのように全身に泥が付着している。わたしの前に呆然と立ちすくんでいて、そこには周囲を威圧するほどの覇気はなく、ばつが悪そうに今どうすればいいのか悩んでいるように見える。 熱射がやはり体に堪えるのだろう。再び土の中に戻りたいのか、わたしの存在に気づかぬように腰をかがめて素手で土をほじくりだす。いくら体が細いからといって、体全体がそんな早く地中にはいっていくとは思えないのだが、確かにやつは土の中に帰っていったのである。 わたしは再び草を抜き始める。 そうすることが自分の心の平和を保つ唯一の手段であるかのように、草むしりに集中する。わたしは再発したことを医師から宣告された。一瞬とは言え、それを忘れさせてくれる土に感謝した。
Sep 11, 2011
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わたしの降りた駅を見放すかのように、最終電車がプラットフォームから離れていく。ほとんど人がいない車内が異様に黄色く輝き、この時間にあまりにそぐわない。 駅がこんなざわめいて、明るいというのに無言で人々が散っていく。 こうしてわたしは一人ぼっちになって家路を急ぐ途中で闇に溶けていく。体が溶けてわたしはなくなるのかと思っていたら、意識は闇の中で漂っている。 わたしの意識だけではない。誰かの意識も近くにあって、お互いに呼びかけることもなく漂っている。
Sep 4, 2011
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シュロッサー家の娘が自分のアパートに戻るために通りを歩いていたとき、古い毛布のように道に張り付いている猫の死体を見つけた。そのだらりと伸びた手足。ぶよんとたるんだ腹部。彼女の想像力は、猫の死体を見ているというのに、彼氏の方に向かっていく。深夜、あの巨体のジムもこんな風になって眠りについているのだろうか。その夜、隣にジムのいないベッドで、シュロッサー家の娘は眠りの中に落ちていき、意識を失うその瞬間に、またその猫を思い出したのだった。次の日は、ジムが来ると約束した日である。#212
Aug 28, 2011
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ガラス細工の田と畑と機械仕掛けのカラス、この固体のような風景を溶融する風。空が薄緑色に発光し時の刻みが不安定になり、自分の背骨がゆっくりと柔らかくなって、液体になり、一筋の小さな小さな川に。#212
Aug 14, 2011
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どこまでも、どこまでも線路はゆるやかに下っている。坂を下っていくだけの列車なのだそうだ。動くためには重力以外何もいらない。電気系統で動く部品が何もない。だから、お金を払わないで乗車してもいいのだそうだ。乗りこんでみると、最初はおそろしくゆっくりと列車が動き出し、少しづつ速度が上がる。列車は緩やかな傾斜を下っていく。キキキキキーッと音が突然し始めて、停まる。最初の駅だ。ぱらぱらと人が降りる。そこで降りればよかったのかもしれない。駅の構内放送が遥か遠くから聞こえてきたような気がする。あれはどこの国の言葉だったのだろう。列車はおそろしくゆっくりと走りだし、それからずっと止まらない。本当に坂を転げ落ちていくように、スピードはどんどん上がっていく。不安がもっと強ければ、事態は変わったのだろうか。列車の細かい振動に誘引されてか、眠りに落ちる。経験からすると降りるべき駅の少し前で眼がさめるはずなのだ。眼が覚める。あわてて窓の外を見る。風景が高速で流れ、形と色が意味をなさない。眼が覚めたのは、降りる駅が近づいたからだと信じようとする。しかし、スピードが遅くなる気配はない。本当にこの列車は次の駅に向かって走っているのだろうか。列車はすごいスピードで走り続けている。#211
Aug 7, 2011
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すっかり地球人になりきってしまったけれど、私はウルトラマンだ。地球に怪獣なんぞというものは一匹も現われやしないから、まったく出番がない。用もないのに、変身するわけにもいかないから、地球に赴任して20年、一度も変身したことがなくて、最近では、万が一、本当に巨大な怪獣が現れたときに本当に戦えるか心配になっている。 特に、空を飛ぶことだ。ウルトラマンは羽はないし、ジェット噴射装置もついていないのに、本当に飛べるだろうか、我ながら不安でたまらない。怪獣なんぞが現れないのを祈るしかない。やはり、平和が一番だ。#210
Jul 31, 2011
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とても悪い子供のファンデルは急行列車が大好きだ。急行列車は失礼な電車で、後から駅を出たというのに先に出た電車に挨拶することもなく、追い抜いていく。駅で停車している電車にまったく気づかないように、ただ迷惑なゴーッという騒音を投げ捨てるように、プラットフォームで立ちながら待っている大人や子供を突風で吹き飛ばすように走り去っていく。 そんな急行列車がファンデルは大好きで、ファンデルは外で走りだすと自分が急行列車になった気分になってしまう。雨が降って、水溜りのそばを人が歩いていると、ファンデルは急行列車になったつもりで、水溜りの中を走り抜けて水しぶきをその人にかけるのだった。怒鳴られても、聞こえないふりをして逃げていった。 急行列車よりも早い特急列車があることがわかると、ファンデルは特急列車になった。近くに人がいようといまいと水溜りの中に突っ込んで行く。 ある時、特急列車のファンデルは水溜りの中で転んで、頭から水の中に突っ込んだ。そしたら、ファンデルの泣くこと、泣くこと。水溜りの中でうずくまり泣いている。日頃のいたずら小僧が泣いているというので、近所の人々がさすがに心配して集まってきた。10人、20人とどんどん集まってくる。 するとファンデルは突然起き上がり、また水溜りの中を、それこそ力を込めて、走り始めるじゃないか、集まった人々にたくさん水を浴びせながら。
Jul 24, 2011
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フランケン嬢は、傷口の縫い目がいつまで経っても直らないのことにいらいらしていたわけではない。実際、彼女は、命と向き合うよりも傷口の再生を信じていた方が、心が安まった。日本の裕福な家庭に育ち、アメリカ人と知り合い、結婚して、シリコンバレーに来て、一瞬、ミリオネヤーの仲間入りしたというのに、そのアメリカ人がエンジニアとして優秀すぎたためか、もしくは、まったく逆にエンジニアとして2流だったためなのか、結果としてシリコンバレーでのビジネスは失敗した。といっても、フランケン嬢がちっぽけな日系企業に働いていたのは、生活に困っているからというよりは、日頃、家にいてもやることがないからだった。生活には困らないほどの資産は蓄えてあったし、家も自分のもので、フランケン嬢と彼女の夫だけでの支出はたいしたことはなかった。フランケン嬢は、自分の体はガラスのようにもろく、腕と足はやせ細り鳥の足のように見えるというのに、背中や腹部には確かにそこに肉があり、切開され、縫合されたという証拠の傷が残っていることに、不思議な満足感を覚えていた。傷がそうして残っていることが、死なない証拠とすら、信じていた。そう、確かにフランケン嬢は2,3年はこのオフィスで生き延びることができた。日常が彼女をきちんと支えてきた。朝、ジムが巨体を現し、その日は赤いミニスカートをはいていたフランケン嬢に、彼女は50歳は越しているのが確実であったのだが、「おい、いい男でも見つけたのか。」と挨拶をした。フランケン嬢は鶏のように口を尖らして「あんたの知ったことではないでしょう。」本気で言い返した。こんな日常がフランケン嬢にとっては、平穏な日々であった。今に思えば、彼女がその日を予見できなかったのは幸せだった。彼女は平穏な日々の中でその日を迎えることができたのだ#208
Jul 17, 2011
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一瞬の心のゆらぎが感動を引き起こしたり、美を捉えていたりする。しかし、その一瞬は、まさに一瞬のうちに錆びていく。その一瞬のために生きてきたかもしれないのに、一瞬が次の一瞬に呑み込まれていく。そして、秒と分と時間という砂塵の蓄積に埋もれていく。やがて風が吹いてくる。ぼろぼろとわたしが崩れ、飛び散る。
Jul 10, 2011
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若かったからだろう、シュロッサー家の娘はとどめをささないと気が済まなかった。それが魚であったか、カラスであったか、ナウマン像であったか、日によって異なるが、ある生命体がバラのとげのようなシュロッサー家の娘に毎夜殺害された。シュロッサー家の娘は日記をつけていて、そこには、今日もひとつ、明日もひとつ命が奪われるだろうと書いている。さらに、死骸は透明であると、彼女は述べている。殺害されたものが人間の時は、彼女はその死体を水の中に放り込んでいる。透明といえども、水とは屈折率が異なるので、その輪郭が浮きあがる。それがゆっくりと流れていく、終焉の海を目指して。ベッドに横たわるとシュロッサー家の娘はよくそんな夢想をした。それから落ち着いて眠りにはいっていくのが習慣だった。今日は隣に彼氏のジミーがいる、シュロッサー家の娘に背を向けて。寝ているのかもしれないし、寝ている振りをしているだけかもしれない。シュロッサー家の娘は深夜の暗闇の中で眼を開けていた。眼を閉じると川を流れてくる透明な人影が誰であるか、彼女は既に知っていた。
Jul 3, 2011
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トルストイが自著の中で述べているように、直接的な労働をしない者が一番が偉い。とすると、わたしはどうなる?ウルトラマンは悩んだ。怪獣と戦って、蹴る、投げる、走る、飛ぶと肉体労働ばかり、もっとも直接的な労働しかしていない。小さい時から、親の真似をして、何の疑問を持つことなく肉体ばかりを鍛えてきた。年を取ってきたせいなのか、自分の今までの行き方に疑問を感じるようになったのである。ろくに本を読んだり、計算をしたことがない。自分の給料の明細を見ても、どうもその算出方法が理解できない。一時は、その優れた身体能力がもてはやされたが、結局、ろくに昇進もできず、いつまで経っても単身赴任の地球勤務だ。もっとも、特別手当が出るし、大体、時たま3分間だけ戦えばいいから、楽といえば楽なのだが。しかし、老後を考えるともっときちんと勉強をしておけばよかったという思いはある。子供にはしっかりと教育を受けさせようと彼は思った。さて、また、出動か。とりあえずは、今日をうまくしのぐことだ。将来のことをくよくよ考えてもし方がない。(頭を切り替えて、ウルトラマンが飛んで行く!)#204
Jun 27, 2011
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戦いが終わった後、びゅっと飛んでいくけれども、ほかの人に気づかれないようにするためにいつも自宅から相当離れた田舎に着陸するから、帰るのが大変だし、大体、正義の戦いと言ったって、要は、ぼこぼこと蹴ったりなぐったりするだけだ。相手をやつけて地球の平和を守ったとしても、誰もわたしの生活費を出してくれるわけではない。 怪我でもしようものなら健康保険に加入していないから、高額の医療費を請求される。こんなことでは老後が心配だ。 おとうさんは自分の道は自分で決めなさいと言っていたから、きっと許してくれるにちがいない。もう昔と違うんだ。テレビだって放映してくれない。 やはりこういうことは、警察や自衛隊に任せておいた方がいい。地球に住みついたウルトラマンのひ孫はそう思った。明日からきちんとした定職を探して、お金を貯めて親孝行のひとつもしてやろうと、彼は星空に誓った。#203
Jun 19, 2011
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彼はもはや存在していないらしい。複写機のコピー台に顔を押し付け青白い光のスキャンにも眼を開けたままにして自分の顔をコピーしていた彼がその特徴的なくるくるした眼ともどもいつのまにか、逝ってしまっていたらしい。大学を出て25年特に親しかったわけででもない同級生の噂がびくっと私の心を震えさせる。#201
Jun 12, 2011
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叫びたいと人々が外に出て行きもう何千人、何万人と行方不明になったというのに誰も捜索に行こうとしない。とても冷たい透明な雪が彼らを濡らし、冷凍されたまぐろのようにかちかちになって若者や老人が転がっている場所があるかもしれないというのに。雪が降った後は、空気が透き通る。こんなときこそ、通りに出てきてぎらぎらの太陽もしくは満天の星に向けて思念を送るべきなのだ。なのに、もう誰もささやきもしない静かな街!#199
Jun 5, 2011
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今、大学時代の同級生と一緒にすすっているラーメンという炭水化物の分子鎖の先っぽにぶら下がっているのは、(そのラーメンがとてもおいしいので)希望であるのにちがいない。(僕の力はみなぎってきた!)こんなささいなことから生まれた希望に後押しされて、僕たち老人は、コップの中の泡の消えたビールを一気にあけると「人類の最先端を引っ張っているのは、老人の柔らかい意思である。」とラーメン屋で高らかに叫んだのである。#198
May 29, 2011
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都心の病院だというのに蛾がいた。 わたしは胸の手術が終わり、医者がなるべく体を動かしなさいというから、地下1階から自分の病室のある7階まで歩いていたときのことだ。 灰色のコンクリートの階段の隅に潜んでいたが、その薄く緑がかった白色の羽に眼を奪われた。それに加えてその小さな頭に付いてる白い毛の房のような大きな触角が異次元の生物を想起させた。 周囲の空気が冷たく張り詰め、わたしは威圧された。昼間の蝶のような感覚的な軽さはなかった。 同時に病的でもあった。その姿と色感は美しいと言っていいものであるのにちがいないのに、恐ろしい毒を内部に秘めていて近寄るものを速やかに、そしてまことに静かに倒してしまうような陰鬱な凶器を感じさせた。 この昆虫に触れてはいけないと思った。だからと言ってこのままこの蛾を無視して、今までと同じペースで階段を上り詰めていくことはもはやできなかった。 わたしは足を恐る恐る伸ばし、この驚異的な生物の心臓が鼓動していないことを願った。この冷たい存在感の理由を死に繋げたかった。 わたしのサンダルの先がそれに触れるか触れないかという極めて小さな接触があったとき、蛾はわずかに羽ばたき、いかにも本来の動きができないという風に再び地に這った。 階段の蛍光灯の光にこの蛾が封じ込められていることをわたしは知った。そして今なら逃げられると思った。わたしは急いで駆け上がり、一階の外来の出口から太陽の光の下に出た。万が一この蛾がわたしの後をついてきたとしても、初夏の強い日差しには勝てないと思った。そして、同時にわたしに取り付いた憂鬱も焼き焦がしてほしいと願った。 太陽の光はわたしを異様に高揚させた。病院を出ると、わたしは細い自動車道路を挟んで病院とは反対側にある堀の土手を歩きたくなった。土手の上に立ち並ぶ葉桜を圧倒するような強い日差しがわたしを誘導しているような気がした。 その土手を少し歩いただけであるはずなのに、病院に戻る道は思いのほか遠く、背中に汗をかいてそれがわたしの体を異様に冷やしていく。しばらく外を歩いていなかったからかもしれない。わたしの太陽に晒されている皮膚はじりじりと焼きつくのに、それはあくまでも表面的でわたしの内部は背中の汗で冷やされていく。このアンバラスな感覚からか、わたしは気持ちが悪くなった。 わたしは病室に戻るとベッドに体を横たえた。汗に濡れた下着を替える気力も失い、気持ち悪さをこらえて眼をつぶった。 消灯時間までまだ何時間もあった。昼光の下でまぶたを閉じて得られた柔らかい闇の中で、わたしはいつものように深夜眼を覚ますと思った。 深夜、病室の外側の窓が白く輝いていることに気づく。白いカーテンの引かれた窓の向こう側に何がいるか、わたしは既に知っている。あの淡く緑色がかった白い蛾が、何百、何千と集まり窓ガラスに張り付いている。 羽音のひとつも立てることなくわたしをじっと見張っている。 わたしの手術した胸の傷口に、呼吸器外科の医師が取りきれなったわずかな腫瘍にまとわりつく憂鬱に産卵しようと蛾が待ち構えている。
May 22, 2011
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いつものようにひっそりと家に帰って車を点検してみたわけだ。すると、炎の燃え尽きた跡。小さな女の子が人形のように笑いながら車のライトの中に倒れこんできたからああ、おとぎ話の始まりなんだなと本当に思っていたらそれで、その女の子の炎が吹き消されていたわけだ。深夜、水道から水滴が垂れる音がぽたんと響く。水がくしゃっとつぶれた感覚のためか、自分の内臓を吐き出したく。もはや耐えられないから、あの女の子はとても可愛いかったと明日、誰かに言おうと思っている。#197
May 15, 2011
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4月の中頃の朝9時半を少し過ぎたぐらいなのだが、空は晴れ渡り太陽を遮るものがなく、どうもこの季節にそぐわない。 桜の花はとっくに散っているのだけれども、褐変化した花びらがまだ路上の吹き溜まりにある。 男はそのビルにあるスポーツクラブで半時間ほども泳いでいて、ほてった体にはその日差しは強すぎた。自転車を置いたビルの脇の駐輪場に行くと、駐輪場の入り口には自転車を止めないでくださいという張り紙があったので、彼は自転車を少し奥に置いたのだが、そんなことはおかまいなしに入り口付近に自転車がいくつも置かれている。 自転車の鍵の入った財布を取り出そうとして、ポケットに手を入れたときに小さな紙があることに気がついた。感熱紙に104番と書かれている。スポーツクラブで自分が使用した、貴重品を入れる小さなロッカーの番号だ。暗証番号を設定し貴重品を入れてロッカーを閉じると、自動的に今物品を入れたロッカーの番号を示した感熱紙が出てくる。 皆が似たような位置のロッカーを使うためなのか、いつも男が使用する番号のロッカーは故障したらしく使用禁止になっていた。いつもと異なるロッカーを使用したので、ロッカーの番号を忘れてはいけないとその紙を取ってポケットに入れたことを男は思い出した。 男はもはや無用となった104番と書かれた紙を、自分の隣にあった自転車の買い物籠の中に入れた。その紙の大きさは、買い物かごの網目よりも遥かに大きくて、網目をすり抜けることはありえなかった。ひらひらと空中を少し漂い、買い物籠の隅の方にたどり着いた。ちょうどそのときである、わたしという意識がその紙に宿ったのは。 わたしは今日の天気であれば、こうしてこの自転車の籠の中にずっといてもいいかなと思った。しかし、そんなうまい話はないだろう。 あとしばらくすると、この自転車の持ち主が現われ、その籠の中の紙に気がつき、おそらくはくしゃくしゃに丸められて地面に捨てられることが容易に推測された。しかし、それで104番という紙であるわたしが終わるわけではない。丸められたわたしは、自転車置き場に敷かれている丸い小さな石の上に留まるかもしれないし、細い舗装された通路に沿って風で流されていくかもしれないが、ともあれ存在するわけだ。 わたしは存在に感謝した。わたしは永遠を手に入れたと思った。 この自転車の持ち主は、籠に白い紙の1枚ぐらいが入っていても、それほど腹を立てはしなかった。 彼はビルの隙間の駐輪場で、誰も見ていないだろうという開放感に浸った。彼は、わたしという紙を二つに折ってさらに二つに折って、それから、わたしを縦に横に引き裂いてしまい、わたしはいくつもの小さな紙片にばらばらにされてしまった。わたしが十分に小さくなると、それを空に向けて放り投げた。 「紙吹雪だ。」 さすがに彼は大きな声を出しはしなかったが、童心に一瞬返った。 柔らかい風が流れ、わたしは散った。 小さくなったわたしは風に乗り、吹き上げられた。 わたしは確かにここに存在しているけれども、他の切り刻まれた紙片にもわたしは存在しているのだろうか。この紙片にだけわたしがいて、他の紙片にはいないのではないかという気がした。同時に、そんな風に考えて自分だけが存在していると思っているわたしが、切り刻まれて生じた紙片の数だけいるような気もした。 あるわたしは風に舞い上げられ、ほとんど垂直に上昇し、このビルの裏側の道を挟んで反対側に流れる川にまで到達し、桜の花びらのように水に浮かんで海までいくかもしれなかった。 しかし、このわたしは、残念ながら風にうまく乗れず、2,3回くるくると回るとすぐに落下して、この駐輪場の舗装された通路に落ちた。自転車を置きにきた人々に踏みつけられる運命が待っているかもしれないが、わたしはともあれ存在していることに満足した。
May 8, 2011
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わたしという意識は何のために産まれてきたのだろうか、この茶色の薄いフェルトの布地として。わたしがわたしを感じたのは、座っていた男があわてて地下鉄の列車から降りようとしたときに、男のひざからするりと落ちたときだ。 男は駅に降りて、自分が乗り越したことを後悔し、反対側のホームに向けて歩き始めたときに、初めて通勤かばんと膝の間に敷いていたマフラーがないことに気づいた。先ほど乗っていた地下鉄がその終着駅に行けば、駅員が回収してくれると思った。他人が使用していたマフラーを誰も自分で使おうとは思わないだろう。それほど高価なものでもない。 ただ、列車の床に落ちているマフラーは通勤客に無頓着に踏みつけられてしまうような気がした。同時にもしかすると心ある人が拾いあげて網棚にでも置いてくれるかもしれないと淡い希望も抱いた。 そのとき、マフラーを落とした男にとって重要なことはマフラーではなく、急いでオフィスに行くことだった。誰からも何時までに来いとは言われていなかった。しかし、朝早くいくことが彼にとっては重要なことと信じていた。彼はそんなサラリーマンだった。 わたしという意識はこのマフラーがちょうど男の膝から落ちた瞬間に芽生え、同時にわたしはすぐに消えてしまうという予感があった。おそらく、マフラーがその列車の床にぺしゃんと落ちてしまうまでのおそらく1秒にも満たない時間にわたしは産まれて消えていくのだろう。 マフラーの一端が少しでも列車の床に触れてしまえば、わたしという意識は、ちょうど帯電した静電気が大地でアースされて消失してしまうように、地面に引き釣りこまれて、無限の空間に飲み込まれて霧散しまうのにちがいない。 しかし、それは幸福なことかもしれない。わたしというマフラーが心無い通勤客にぐじゃぐじゃに踏みつけられる惨めなありさまをわたしは感じなくて済むからだ。 マフラーを落とした男は、膝のひどい冷感に苦しんでいた。通勤かばんを膝の上に置いていると、そのかばんが冷たくて仕方なかった。このかばんが膝から男の体熱を急激に奪っているように感じられた。だから、膝の上にマフラーを敷いてその上に通勤かばんを置いて、居眠りをしていたわけだ。 眼を開けるといつも降りる駅に着いていることがわかって、膝の上のかばんを手に持って駅のホームに飛び出した。かばんと膝の間にあったマフラーにまでは注意が回らなくて、落としたことに気づかなかったというわけだ。 脳からの命令に従って、急いで列車から降りようと手足が全力で動いている瞬間、その男の意識は働いていなかった。それは男の体から振り落とされて、たまたま、落下直前のマフラーに取り付いたのかもしれない。 ともあれ、わたしと言う意識は男の膝からずり落ちるや茶色のフェルトの布地に宿り、その物理的な形状を知って、未来を認識したのである。わたしの存在はわずかな自然落下の時間だけであることも理解したのである。 意識は時間に従属しない。30年間のサラリーマンの生活を一瞬の内に想起することもできるだろう。しかし、過去を振りかえって苦痛を繰り返したくなかった。これがさらに延長されていくのも辛かった。 未来が途切れていることにわたしは安堵した。過去にも未来にも煩わされない瞬間を喜んだ。
Apr 24, 2011
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わたしが覚醒すると、赤い人々の集団の中にいた。 靴や帽子も含めて、服装は自由だ。ただ、必ず赤いマスクをしていた。多くの赤い人々はもともと赤色が好きだったのにちがいない。胸のあたりに小さな赤いリボンをつけている女性が多かった。わたしは細い赤い筋の入った黒っぽい背広を着ていた。胸ポケットには、真っ赤なハンカチーフが飾られていた。 駅前のロータリーに赤い人々がぞくぞくと集まってきた。いよいよロータリーのスペースがほとんどなくなってきたときに、誰かが指示を出したようには感じられなかったが、ロータリーから線路に沿って伸びる舗装された道を2列になって赤い人々が歩きだした。健康に良いと言われる、背筋を伸ばして両手を大きく振る歩き方を皆がきちんと守って歩いていく。 気楽に歩いているわけでもない。わたしもあんな風に歩けるか、不安になったけれども、わたしが歩きだす番になると、スキー場でリフトに乗るときのように隣の人と一緒にそれなりに歩きはじめたのである。 赤い人々は決して声をださない。 ざっ、ざっという靴の音だけが周囲に響く。ただ、軍隊のように足並みを揃えているわけではないことが、かろうじて緊張が張り詰めることを防いでいる。 2列の行進でわたしの真横を歩き続けている若い女性に、わたしはわたしの方から話しかけなければいけないような気になってくる。しかし、彼女は正しい歩き方とはこういうものですということを示すためかのように、視線はまっすぐに前に伸び、わたしが横にいることを意識していないように見える。 彼らは本当の人間ではない。 わたしは気づいている。彼らがどこから来た生物なのかわたしには見当もつかないけれども、彼らには口がない。赤いマスクをしているのはそのためだ。わたしに気づかれないようにしている。口が開かないのではなく、おそらく口そのものがない。 赤い人々はもしかすると高度な知的生命体かもしれないけれども、まさか赤い人ではないわたしがこの集団の中にいるとは思っていないだろう。わたしは彼らの正体を突き止めてやろうと思っている。 いつの頃からだろう。街に赤いマスクをしている人がちらほらしていると思ったら、あっという間に全員が赤いマスクをするようになってしまった。そのときにわたしはぴんと来た。本当の人間はいなくなったなと、わたしを除けば。 わたしも健康に良いという歩き方をいつの間に身につけたのか、その姿勢を保ってもくもくと前の人の後についていく。ときどき隣の女性の手とわたしの手が触れるときがある。二人とも大きく手を振っているから、二人の手が擦れるとしゅっという擦れた音がする。 わたしはその瞬間に隣の若い女性を強く意識する。すみませんと謝った方が良いのだろうが、わたしが声を出すと、わたしが赤い人ではないことが見破られてしまう。その意識が強く働いて、わたしは決して一言も声を出さなかった。わたしも赤いマスクをしているから多少の声や音は遮断されるのかもしれないが、咳のひとつもしないように気をつけていたのだ。 線路に沿って歩いていくと、なだらかな下り勾配があって、それから急激な下りがあってT字路に当たる。ともあれ赤い人々は前の人の後をついていく。T字路を左折するときに、わたしの後についてくる赤い人の行列を眺めた。おそろしく長くて、未だに駅のロータリーから人々が続々と吐き出され、行列が続いている。相変わらずわたしの横には彼女がいて、まっすぐ前を見て歩き続けている。 今度は右手は自動車専用道路で、少し前進すると電車の線路の高架をくぐりぬける。さらにもう少し進むと右手に信号機のある交差点があって、この赤い人々の列はそこで自動車専用道路を横断し、隣の駅の方向に向かって伸びているように見える。 自動車専用道路の交差点でも列が途切れることはない。信号機は赤の点滅信号になっていて、赤い人々は立ち止まることはなく、横断歩道を渡っていく。その横断歩道の縞模様と平行になって寝そべるように人が倒れている。それは白い人だ。白い髪の毛、白い服、白い手袋、白いズボン、白い靴下、白い靴。そして、顔には白いお面を被っている。白い人はうつ伏せになっていて、顔の正面は見えないけれども、お面の側面が少し見えて白いお面であることがわかる。 そこを渡るすべての赤い人々は気づいているはずであるが、それはあたかも単なる石ころのような障害物として扱われている。わざわざ踏みつけることも、踏まないようにすることもしない。そのまま歩いていって、倒れている白い人の体のどこかに靴底が着地するならそのまま踏んでいく。 わたしは彼の肩のあたりを踏みつけた。ごりっとした感覚があって、薄い肉の下の間接の丸い骨を靴底が感じた。隣を歩いていた女性は彼の背中の上を踏みつけた。靴のヒールの部分が背中にめり込んだように見えた。 わたしが赤い人ではないということが気づかれることなく、この横たわる障害物を通り過ぎて、わたしはほっとした。 だが、それが何かの儀式であったのか、何事もなかったように進んでいく赤い人の列についていくうちにわたしはこの列から離れることはできなくなった。 歩くことをやめることができないのだ。足がわたしから独立して歩き続ける。前の人の足を追って歩き続ける。 わたしは思った。隣の小さな駅まで歩き、その駅の高架をくぐり、再び最初にいた駅の方に向かっていくのだろう。行きよりも遥かに多くの白い人を踏みつけながら。 わたしが今歩いている舗装された自動車道をもう少し行くと、道が白色になっている。わたしは知っている。それは沢山の白い人々が静かに、2度と声を発することなく横たわっているところだ。 本当はわたしはもう何度も何度もこの道を歩いているような気がしてきた。 白いお面を被った顔をしっかりと地面につけて白い人々はうつ伏せになっている。わたしの隣の若い女性は大きく手を振り、遠く前を見据えて、白い人々の上を歩いていく。時々、白い人々の胴体と胴体の間に靴が挟まれ、滑らかな歩行が妨げられることもあるが、隣の女は歩き続けている。 この女も必死で歩き続けている。白い人の背中で足を滑らせて彼女が転倒し、「あっ。」と声を上げた。起き上がろうともがく彼女の視線をわたしは捕らえた。恐怖で怯えている。わたしを恐れている。 わたしは彼女の声にまったく気づかなかったように、正面を、遠くを眺めているふりをする。白い人の肉体を踏みつけるときに体がぐらつかないように気を配りながら、わたしは歩き続ける。
Apr 17, 2011
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周りを見渡すと白い人達だった。 しかし、それは白人という意味ではない。白い上着、白いワイシャツ、白い手袋、白いズボン、白い靴下で身を固め、その上白い仮面をかぶっている。お面の眼の部分には小さな穴が開いているが、口の部分は絵の具で書かれているだけだ。 その上、髪の毛すらも真っ白だ。彼らの骨格から男と女が混じっているのはわかるけれども、そんなことは無頓着な様子で、彼らは密集し、互いに押し合い、結果としてほとんど動けない状態になっている。 わずかに首筋からその人々の素肌が見えて、白人もいるのかもしれないが、彼らの多くが白人ではないことがわかる。体同士がぶつかり合い、ときに相互の力のバランスが崩れてどどっと群衆の一部が動き、悲鳴やら単発的な言葉が飛び出す以外に彼らの多くは声を出していない。しかし、無数の白い人々の息使いや物理的な触れ合いから生じているのかもしれないが、群集としてのさざ波のような音の塊がある。 その白い人々の群集の雰囲気の中にいるということは決して不愉快ではなかった。他の人々と同じように、わたしは個として群集の中で無視されている。物理的には動きが制限されているが、時に自分の体の重みを他人に預け、時に他人の重みを支えて、それがいつ果てるのかわたしにはわからなかったけれども、群集の中にいるという安心感があった。群集はやさしかった。 どうもこの雰囲気では、わたしの周囲には何千人、もしかすると何万人、何十万人が押し寄せているのだ。コミュニケーションをいちいち取ろうとしなくても、わたしは孤立しないし、孤独にも感じない。なにしろわたしの周りには群集がいる。 この最適ではないとしても、この悪くはない環境に身を任せていようとわたしは警戒心を解いて佇んでいたときである。一瞬、光が走った。 わたしの反応は遅れた。それでもこの重厚な群集に対して何らの影響も及ぼさないと思った。群集は大きなうねりだった。小さな、小さな変化はそのうねりの中で無視されるはずだった。 わたしから2,3人離れたところにいた白い人が突然、くたんとした。糸が切れた操り人形のように体の全体重をすぐ隣の人に投げかけた。その人が重みに耐えかねたのか、押し返した。その白い人は反対側のまた別の人にもたれかかった。今度は白いお面が上を向いた。白いお面の二つの眼だけではなく、額に穴があった。直径が1センチにも満たない丸くて黒い穴だった。それがやがて赤く染まる。 その赤く染まった穴をよく見ようとして、わたしもお面を被っていることに気づいた。 さらに、わたしは自分の愚鈍さに驚いた。わたしは白い人ではない。 わたしのお面に取り付けてある二つの眼の穴は小さくて、真正面を見るにはそれほどさしつかないが、本来の視覚の広い範囲を見るにはとても不便だ。それでわたしは今まで気づかなかったのかもしれない。 わたしは赤い人だ。上着もワイシャツも手袋も、ズボン、靴下、靴、何もかもが真っ赤に染められている。この様子ではわたしの髪の毛も真っ赤であるのにちがいない。 またもや、光のようなものが走った。わたしから少し離れた白い人の頭がかくんと揺れたかと思うと、斜め前に血が噴きあげた。周りの白い人の白い服に赤い染みが付いた。 白い人々がわたしから離れようとしているのがわかった。しかし、周囲にいる無数の人々のためにわたしから遠ざかることができない。 わたしが標的なのだ。 光のようなものが、今度は連続してわたしの視界を2発流れた。その度に白い人が一瞬硬直したかのように静止し、それから力を無くして周囲の白い人々に倒れ込んでいく。 白一色のなかに、赤い人であるわたしがいる。 よほどの遠距離からわたしを狙っているにちがいない。照準器にわたしは既に捕らえられている。わたしの体が群集に押されてふらふらとしていること、もしくは、空気の流れのためなのか、それとも、狙撃手がへただけなのか、わたしではなく他の白い人々が犠牲になっていく。 自分だけは助かりたいと思った。自分を目立たなくするには、しゃがみこむしかなかった。しばらくの間は周囲の足に抗していたが、どんと押されて手をつくとその手の上を足が踏みつける。わたしの低くなった体勢の上に白い人々がのしかかってきた。 両手で頭を守るようにして胴体と足を丸め地に這った。その上を白い人々の足が踏みつけた。しかし、銃で狙い撃ちされるよりはましだと思った。 わたしが地面に張り付いていると、立っている白い人々からはそこに空いたスペースがあるように見えるのだろう。互いに押し合っているから、少しでも隙間があればそこに行こうとする。するとわたしの体に足を取られてわたしの上に倒れ込む。大人の二人もわたしの体にのしかかれば、わたしの呼吸を止めるのに十分だ。 誰かの足がわたしの後頭部を直撃した。わたしの被らされていたお面が地に押し付けられた。頬骨と額にお面が食い込んだような痛さだった。ただ、お面のおかげわたしの顔が守られているのかもしれなかった。 立ち上がって銃の標的になった方がましかもしれないと思った。狙撃手の技術が未熟でわたしには銃弾が当たらないかもしれないと思った。しかし、いつまでこの状態が続くのだろう。白い人々が無数にいるようにこの状況が無限に続くような気がした。すると、いつかわたしは銃弾の餌食になるとも思えた。 しかし、もう立ち上がりたくても立てあがれない。何人もの白い人がわたしに倒れ込んできた。息ができない。 わたしは圧死するかもしれないと思った。この群集のやさしさはどこにいったのだろう。 到底、跳ね返すことはできないと思ったが、それでもわたしは体を起こすために足に、手に力を込めた。そうすれば、白い集団の中に赤い標的が少しでも見えて、狙撃手がこのあたりに撃ち込むことを願った。白い人々に向けて乱射すればよいと思った。
Apr 10, 2011
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醜悪な群の中にいた。油虫が身を寄せ合っている。それこそ植物の葉や茎の表面がまったく見えないぐらいに群がっている。 自分とまったく同じ形をした子を産む。大きな体の油虫のすぐ脇に少し小さな油虫がいて、虫と虫の間隙を埋めるようにさらに小さな油虫が張り付いている。大小様々な、それでいてまったく形の同じ虫が体を密着させている。 ほとんど動かない。口針を植物の茎に突き刺して師管液を飲む。そして体が大きくなって子供を産む。ただただ、増えていく。そのためだけに生きていく。 指でぐちゃっと簡単に潰せる。簡単に潰せるということを試してくださいというかのように無防備に体をさらしている。潰されて出てきた体液を全身に浴びても逃げもしない、動きもしない。 ぶよぶよとした弱々しさが無限に再生されていくことが気持ちが悪くてたまらない。 醜悪な群の中で、わたしはおそらく一匹の油虫なのだ。 茎の中を流れている、この少しとろみがある透明な液体を一日中少しずつ飲み続けていけば、わたしのからだはぶよぶよと大きくなっていく。 そのうち、わたしの中にわたしを見出し、その瞬間にはおやっと感情の起伏を持つのかもしれない。わたしの中のわたしは、実はさらにわたしを内在していて、わたしの中にいくつものわたしがいる。そういった無限の連鎖を考えるのに耐えられなくて、一番外側のわたし以外の残りのわたしを体外に押し出すわけだ。 ふと気づくとわたしの隣にわたしがいるのだが、わたしの外のわたしにはもう関心を払う必要がないと、ともあれ、とろみのある透明な液体を飲み続ける。ぶよぶよの体がさらにぶよぶよになって、わたしの中にまたわたしがいることにやがて気づくだろう。 夢や希望、喜びや笑いがないけれども、失意や絶望、悲しみや泣くこともない。とろみのある透明な液体のせいだろうか。何も考えることができなくなっている。今しかない時間が限りなく続いていく。 ぶよぶよした体の中のどろりとした体液が弾けた。外側から強く押されて、ぶよぶよとした体が潰れたのかもしれない。それでも痛くも痒くもない。隣のわたしも同じ運命なのかもしれない。しかし、わたしはいつもと同じように茎の中を流れるとろみのある透明な液体を少しずつ飲んでいれば良い。ゆっくりと飲んでいればよい。それだけだ。
Apr 3, 2011
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悲劇しか産まないであろう。わたしの意識は金属光沢に紛れて銃弾に宿った。 悲劇の幕が開くのに、後1秒もない。もっとも、瞬間を生きているから銃弾に時間は意味を持たない。 飛翔する直前の緊張は歓喜に近く、力が凝縮されてわたしを満たした。極度に高いエネルギーがわたしをつき抜け頭がくらくらした。それは禁じられたことが、例えば、人を殺めることとかが、しばしば人々を魅了するときの感覚に近い。 わたしという銃弾は宙を前進する以外にないのだが、数メートルでも数センチでもより遠くにいく可能性に賭けたいと思った。 空気を切り裂いた先にあるもの。その行く手は大地かもしれないし、大海かもしれない。 大地ならば、巨岩に食い込み、傷つけ、周囲に石の細かい破片を吹き飛ばすだろう。大海ならば、空気を巻き込んで白い航跡を残しながら水中を突き進み、やがては金属の重みに身を任せて何千メーターも下の海底の砂に埋もれる。 しかし、未来を夢見て大根の葉の柔らかい部分を食していた蛾の幼虫のぶよぶよした胴体にわたしは到達し、幼虫がまったく気づかないうちにその幼虫の将来を潰してしまう。もしくは、海水に突入するや、その際に生じた細かい空気の泡が消える間もなく銀色に輝く魚体の鱗とその裏側の心臓を貫通してしまう。 それは必然である。待ち受けるのは破壊と殺戮だけである。わたしを気楽にさせるのは、そこには後悔というものがないことである。 物理現象に従えばよい。わたしもずたずたに傷つき、終焉は静止である。だからこそ、そこに至るまでの暴力的な瞬間をわたしはあこがれる。 ただ、わたしを誤解してはいけない。わたしが望んでいるのは、わたしの外側の環境が破壊されること、殺戮されることではなく、わたし自体が消滅することだ。瞬間に生きて、絶えることだ。 あまりに銃弾の金属光沢がまぶしい。
Mar 27, 2011
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起死回生の一打として、赤字が続いている米国の航空会社が人に麻酔をかけて輸送する方式を研究しているようである。 全身麻酔をかけてから、航空機内に設置した寝台に横たえて運び、到着したら麻酔を醒ますのである。航空機の格納スペースいっぱいにたくさんの寝台を組み上げるので、試算では通常の3倍から4倍は人を運べることになる。 運賃を半額にしても、需要を増やせば、利益を出すことができる。飛行中は運ばれる人々は寝ているだけなので、人件費の高い客室乗務員は不要となる。乗る側の人々にしても、長い飛行時間を持て余すという感覚はなくなるし、現地に着いたらすぐに働かなければいけないのに時差の関係で寝れなくて困るという苦痛も解消される。 近い将来、成田空港の待合室にいたのに、ふと気づくとニューヨークの空港の待合室にいるという旅行が可能になるかもしれない。(航空医学の夢 1997)
Mar 20, 2011
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砂浜の海岸に、それも波打ち際に沢山の人々が横たわっている。手足をぱたんと砂地に置いたままで、笑顔で何かを話し合っている。 「そのうちに満ち潮になりますよ。」わたしの忠告は聞こえなかったのか、わたしに耳を傾ける人はいない。 もう一度わたしは、今度は先ほどよりは少し大きな声で話しかけた。それはさすがに何人かの人々に伝わったようだ。ざわめきが起きたが、よく聞くとそれは笑い声のようであった。 でもそれはわたしへの儀礼的なものだったようだ。彼らの話題はすぐに戻っていく。 「指にできたイボをナイフで切り落としたことがあるんだ。何回切ってもまた生えてくる。」 ああ、「再生」について話しあっているのか。わたしには少し意外な感がした。 潮は引いていく。でも安心してはいけない。必ず潮は満ちてくる。わたしはその海岸に累々とあたかも海洋生物のように横たわる人々を見て涙した。手や足を何かで押さえつけられているように見えた。 ざわめきのような笑い声がまた聞こえてきた。人々が口をゆがめるようにして笑っている。わたしはその場にいたたまれなくなって立ち去るしかないと思った。海を見て、無数の横たわる人々を見て、陸地の方に視線を移して、歩きはじめようと思った。 しかし、足が重くて持ち上がらない。一歩も前に動けない。しばらくすると、足だけではない。手もだるくなり、重くなる。頭すらも重くなってきて、それを支えるのもつらくなる。だから人々は横になっていたのだと気づいたときには、わたしも既に横になっていた。 ぐっと腹がくびれてわたしは嘔吐した。米のとぎ汁のような白い液を吐いた。 口だけが自分の意思で動くようだった。吐いた液の一部が口の中に残り気持ちが悪かったが、わたしは必死になってうめくように笑った。周囲の人々が、何かの貴重な情報を得たかのようにどよめいた。 わたしはこれで彼らと一緒になったと思った。
Mar 13, 2011
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棺おけのふたが開いていたからと言って見ることが許されていたわけではなかったが。私は予感した、急がないと彼が眼を開きにやりと笑うと。そうでなければつじつまがあわないぐらいに彼はその箱の中で存在していた。私は彼のようなものにささやいた、存在を願ってはいけないと。もはや彼ではないのだから。#195
Mar 6, 2011
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無駄な努力はやめなさいと運命がささやく。 水耕栽培の砂地で干からびかけている小さなリーフレタスの根はなおも水分を求めて根を伸ばそうとする。 水耕栽培でリーフレタスを育てることにすっかり飽きて、水をやるのも面倒くさくなって、やがてそんなことをしていたことすら忘れている。水耕栽培を始めたばかりのときには、嬉々として2リットルの入るペットボトルを加工して水耕栽培のための仕組みを四セットも作ったのだが。 要は砂地の上部と液体肥料を希釈した溶液を入れた下部を細長い布で繋いだわけだ。溶液はその布を伝って砂地に吸い込まれていく。植物の根にも酸素が必要で、直接、液体肥料の入った溶液に根を漬けてしまうと根が腐ってしまうらしい。 砂地にリーフレタスの種を蒔いて、しばらくの間は順調に芽が出て葉を伸ばしていったのだが、そのうち、砂地の表面をカビのようなものが覆いはじめ、下の溶液が腐りはじめたのか、異臭がしはじめた。水耕栽培は清潔で、養分が絶えず供給されるから植物の成育も早いといいことずくめと考えていたものが、大きく離れていく。 生命は尊いのにちがいないけれども、リーフレタスのひとつや二つが枯れたとしても誰も気にはしない。蚊を叩き潰したり、ゴキブリを粘着シートで捕獲して飢え死にさせるほどにも気を止めはしない。生き延びるということは、些細な生命を気にしないということなのだろう。 こうしている間にも、砂地のわずかな水分をリーフレタスの根は探し続けている。 しかし、それは生に対する執着とか、再生する志といった美化するべきものではない。単なる化学反応だ。その化学反応に従って、ある条件下ではリーフレタスは根を伸ばすし、別の条件ではリーフレタスは枯れていくわけだ。だから、それを見て心を痛めたり、涙を流す必要はない。 ましてや、枯れかかったリーフレタスに同情し、今更、液体肥料や水を与える必要もない。しかも、こうしてわたしは冷たい床に倒れたままで生命を脅かされ、それこそ体内で進行しつつある化学反応にわたしが従わざるを得ないときに。 わたしは意志の力を信じない。生き延びるという強い意欲がわたしを助けてくれるとは思わない。誰かがわたしが倒れていることに気づいてくれるまで、わたしという化学反応がこの条件下で続いてくれるか、それだけの話だ。 もっとも、わたしが冷たくなっていく過程においても、わたしのもっと根元的なところで生き延びようと必死にもがいている何かがあることを信じたい気がしているのは確かだ。
Feb 27, 2011
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冬だというのに日射の強い昼間に、こんな歳だというのに初めてのデートに臨むときのような不安と期待で、ぼくはベランダに置かれたポリバケツで育てられた大根を抜いたわけだ。その大根は、近くの畑に植わっているものよりもぐっと細くて、しかし、その分下方向に長く伸びて、おそらくポリバケツの底に到達して、それでもさらに成長してきゅっと曲がってポリバケツの底を這っているのではないかと思っていたわけだ。 実際は人参のような形と大きさの大根で、軽い失望とともあれ収穫できたという喜びにぼくは浸った。 大根を引き抜いた跡が直径5センチくらいの穴になった。穴の周囲に土が少し盛り上がった。水分のない土は黄土色に固まり、穴が崩れるのを防いでいる。 そのぽっかり開いた穴を覗いて見ると、そこには小さいながらも完全な闇がある。完全な闇だ。その物理的な大きさは大根と同じはずだが、闇は無限だ。光がその中に吸い込まれていく。光が逃げられない。ぼくが現在いる世界とは違う世界への通路のようにも見えた。 ぼくはその穴の中に指を入れられない、怖くて。大根を抜いたばかりだし、マンションの5階のベランダだというのにぼくはその穴の底に蛇が潜んでいるような気がしてならない。その完全な闇にふさわしい蛇がとぐろを巻いているのにちがいないのだ。 それは真っ黒な蛇で、闇と同化している。ためらいの感情を決して持たない冷徹な蛇で、ただひたすら僕が指を入れるのを待っている。それもこれから何年も何年も。 でも、ぼくは少し安心している。その蛇は完全な闇から出てくることはないと確信しているからだ。僕がその中に指を入れない限りぼくは安全なのだ。 しかし、逆に、ひとたびその中に指を入れれば、間違いなく僕の指が喰いちぎられてしまうという不安が募ってくる。不安が積み重なれば恐怖になる。そういうわけで、この穴が絶えず僕の心の片隅にあった。 晴れた日曜日のこと。ポリバケツには、大根を抜いたときのままで穴があり、こんなに太陽が照らしているというのに完全な闇がある。この闇の中に潜む蛇は獲物を待っている。この今も獲物を待っていると思うと、その中に指を入れる勇気はないけれども、何かをしてやりたくなる。 ふと、明日からまた会社という憂鬱をあげようと思った。 ぼくは嘔吐した。ぼくのその暗い感情を吐いた。それはぼわっと僕の口から出ると見事にその穴に流れ込んだ。それは闇の中で待ち構えていた蛇に洪水のように押し寄せたにちがいない。それでも、その蛇はかっと大きな顎を開いて、ぼくの憂鬱をぱくりと飲み込んだような気がした。 それ以来だ。人間関係に悩まされて会社を辞めたいと考えていたぼくに少しずつ変化が出てきたのは。苦しさが和らいできたような気がする。毎週、週末になるとその週の不愉快だった感情をこの穴の中に吐くのだ。すると闇の中で蛇はそれを丸呑みにする。 その度に蛇を少しずつ大きくなっていく。そのうち、その穴のあるポリバケツより蛇が大きくなるかもしれない。しかし、その穴の中には無限の闇があり、巨大となった蛇すらもその大きさには到底及ばないはずだ。
Feb 20, 2011
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「てふてふが 一匹韃靼海峡を渡って行った。」 日本の少し昔の詩人がこの1行詩を発表した時、蝶の学校ではちょっとした騒ぎになった。生徒の蝶の一部は、自分も韃靼海峡を飛ばなければいけないのかと泣き出すので、いや、あれは希望者だけやればいいんだと先生の蝶が説明してその場を取り繕ったのである。 校長の蝶も朝礼で、この詩を引き合いにだして、次のように述べている。普通の蝶がそんなことをしたら、雨や風に晒されて力尽きてしまうし、万が一どこかの島に辿り着いたとしても弱りきっているところを捕虫網で捕まってしまうだけだ。 おかげで真面目にその話を聞いていた蝶は今でも海峡を飛んで行こうとはしない。 ところで、今日の問題は「韃靼」という字が読める蝶が極めて少なくなったことであろう。#194
Feb 13, 2011
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ふと眼が覚めると、満天の星である。 わたしは流木の中にいた。正確には流木にわたしという意識が宿った。これは夢であると思った。怖がる必要はない。夜見たテレビ番組の影響だと信じた。 6000万年ぐらい前にキツネザルの1種がアフリカ大陸からマダガスカル島に渡り、その地で繁栄し80種類にまで増えたのだそうだ。台風のような強い風雨で大木が倒され、大海に出て行く。木のうろの中で長期間に渡って休眠する習性のあるキツネザルがふと気づくとマダガスカル島という新天地に着いていたらしい。 わたしは、新天地に無事たどり着いたキツネザルよりも、休眠のために体に蓄えた栄養を使いきり、空腹で眼を覚ましたキツネザルに思いを寄せた。飢えている。無理に飲んだ海水がさらに苦しめる。時に苦し紛れに海に飛び込むキツネザルもいたのだろうか。 確かにわたしは流木になっている。波に揺られて上下動ばかり感じているが、実際はどこかに向けてゆっくりと移動しているにちがいない。どこに向かっているのか、わたしにはまったくわからない。 波の急激な変化なのか、わたしは大きく揺れた。そして、流木としてのわたしは、その体の中に小さな動物を宿していることを知った。リスのなのか、猿なのか、わたしは識別できないけれども、毛皮に包まれた小動物が、わたしという流木にウロがあって、そこでごろんと体が回転してどすんとウロの壁にぶつけたらしい。そんな感触をわたしは得た。 わたしはどこに行くのだろう。そしてわたしの中にいるこの小動物はどうなるのだろう。もう既に食べ物もなく息が絶えようとしているのかもしれない。逆に、生き抜くという意志に支えられて、体を細らせながらもまだ目をらんらんと輝かせているかもしれない。 その最後を見届けたいとわたしは思った。しかし、わたしはこの小動物を助けることはできない。せめて静かにこの小動物を眠らせてあげたいと願っても、それすらわたしにはどうすることもできない。 見届けることに何の意味もないけれども、その生命に強い意志があれば未来を切り開いていけるということを信じたかった。わたしは自分が夢からさめないことを願った。
Feb 6, 2011
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歩道橋の上で売っていた踊る人形を彼は思い出した。 とても細いゴムのような足が厚紙で作られた胴体についている。その人形がぴょんぴょんと飛び跳ねて踊る。売っている人が飛べと言えば飛びあがるし、寝ろと言えばばたんと倒れてしまう。 フランクリンには、これは間違っても売っている人が超能力を使っているわけではないし、理論物理学の分野では有名な例のハオエリ・ドゴホエ効果ではないだろうと思った。おそらく簡単なトリックで動いているのにちがいのだが、いくら見ていてもそのトリックがわからない。 あまりにもその人形の動きが不思議で、見れば見るほどほしくなる。まあ、1000円ならいいかとフランクリンは思うのだが、この値段では大した仕掛けがあるはずがない。どうもその仕掛けがおそろしく単純で、なんでこんな馬鹿なものを買ったのだろうと後悔するような気もして、思いきって買うこともできない。 そうこうしている内に、それを売っている若い男は店じまいをはじめ、買うチャンスを逃してしまった。 その男は人ごみの中に消えたようにも見えたが、人ごみの中に消えたようにみせかけて本当に消えたようにもフランクリンには思えた。 もしかすると、あの男はハオエリ・ドゴホエ効果の利用方法を知っている天才的科学者だったのかもしれない。世間では超能力者と呼んでいるかもしれないが、実際は、本能的にハオエリ・ドゴホエ効果を使用している人が超能力者で、原理を理解してその効果を利用している人が科学者と言った方が適切であろう。フランクリンはそんなことを思った。注)ハオエリ・ドゴホエ効果 磁場強度とトルーメコラ定数を掛け合わせたものは、光速の逆数の整数倍に等しいという物理現象、簡単にいうと物体周辺の磁場と電場の最適な制御によって、その物体を移動させることができる。 この現象は、約30年前にソ連の理論物理学者ハオエリによって提唱され、1978年ナイジェリアの科学者ドゴホエによって実証された。実用化に向けて各国が研究を加速させている。一部の手品師が使用しているとされるが、真実は定かではない。なお、トルーメコラ定数については、専門書を参照されたい。(科学的知識の脅威 1977)
Jan 30, 2011
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マンションのベランダで、バケツに土を入れて彼は大根を育てた。青虫も成長していた。青虫の1匹目は、抜く前の大根の葉で暖かい日差しを浴びていた。青虫の2匹目は、抜いた大根を洗った洗面台の底にCの字になっていた。青虫の3匹目は、大根に残した葉におとなしくしていた。青虫の4匹目は、大根を抜いた跡のそばにあった石の上に寝そべっていた。 4匹とも柔らかい腹をピンセットで挟まれた瞬間は悪いことをしていたのが見つかったように体をびくっとさせて、彼自体もびくっとして、それでも気持ち悪いのを我慢してマンションの5階から青虫を放り出していった。空中でくるくると回転して、一階の植え込みの葉に当たってどこかに跳ね飛ばされていった。 ベランダに土がかなりこぼれていたから箒で掃除をしていると、蛾が一匹現れた。こいつが親なのだろうと思った。ただ、かれこれ青虫をもう10匹以上はピンセットで放り出している。この一匹がすべて産み付けたのだろうか。 昼間で蛾も動揺していたのにちがいない。羽を激しく動かしているのに、同じところをうろうろと飛び回っている。ベランダのコンクリートに叩きつけるように箒でその蛾を打った。姿がなくなり、間違いなく箒が当たったと思った。 ゆっくり箒を持ち上げると、同時に蛾が飛び上がった。もう一度、箒で叩いた。それから、同じようにゆっくりと箒を持ち上げた。またもや、蛾が飛び上がった。 箒の穂先に弾力性があるためだろうと、前よりも力を込めて蛾を叩いた。今度は蛾はひっくりかえってコンクリートの上に横たわった。ただ、よく見るとまだ、足をばたばたさせている。毛むくじゃらの頭が気味が悪かった。彼はもう一度叩いた。 小さな子供のときに昆虫や魚を捕まえること、そして結局は殺してしまう、そんな経験が必要だという。そんな経験がないと大きくなってから生命の大切さが理解できないらしい。 彼が子供のときは、昆虫を捕まえることは残酷だと思った。小川を泳ぐ魚をようやく捕まえても、かわいそうだと思って、必ず逃がしてあげた。 そんな心やさしい少年が成長し、人生の残りも少なくなった。 ベランダにもたれ、眼下の灰色のコンクリートに向かって、「青虫を放り投げるように日常の不愉快な人々を排除できない」と、「蛾に対してのように彼らの頭に何かを叩きつけることができない」と、なんとか正常な道徳感を、倫理観を失わないように彼は青ざめて念仏を唱えるようにつぶやいている。
Jan 23, 2011
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奥さんの方がどんと大きくて、腰痛持ちで、糖尿病で、彼女は月曜日から金曜日までスポーツクラブに通っていて、本人は78歳だというのに、土曜日も働きに出て。子供は男が3人で、長男は既に40代で、次男はまだ家に転がっていて、アパート住まいで、次男が家庭内暴力で暴れたときは、まわりにその音が漏れて、それが、いやで、いやで。彼は夢を見て、豪邸に住んでいて、次男が暴れて自分の部屋の窓ガラスを割っていて、でも、彼の書斎にはその音が届かなくて。彼は最後にそんな夢を見て。#190
Jan 16, 2011
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女たちがその肉を食べると言う。そういう時代がやってきたのだ。筋肉をつけるためというよりは、戦うために肉を食べるのだそうだ。ほんの一口でも、それを口に含むこと。しっかりとかみ締めること。その意思が女を変えると人がいう。 きれいに化粧をした女たちがぐるりと丸いテーブルに座わる。箸で上品にその肉をつまみ、静かに小さな口に入れる仕草と、その後の口をきちんと閉じて噛む動作に、周囲を意識していることが知れる。周囲を意識することが女を美しくする。こうして、生の肉を食して美しい女がさらに自分を磨いていく。凛として明日に臨む。 時にさびしい女がいる。気の合わない夫と、互いに行くところがないという理由だけで、同じ屋根の下に何十年と住む。 しかし、この薄幸な女にも幸運が舞い込んできた。別室で寝ていた夫の呼吸が止まった。苦しんだ様子はない。老衰というほどに老いていたわけではない。肉の状態としてはかなり良い条件であるにちがいない。 ダイニングルームの食卓の真上の電灯だけは少し暗い感じがするのだが、生の男の肉の照明にはふさわしいのかもしれない。人と接することの少なかった女が料理の本に従って、まだ生暖かい男の肉をほんの少しだけ切り出していく。 テーブルの上の白い皿の上にその赤い肉が一切れのせられる。どんなに量が少なくとも、フォークとナイフを出して味わうのが男の肉に対する礼儀だと料理の本に書いてあった。 少し生臭くて、最後まで夫とは合わないとさびしい女は思った。でも、明日肉を引き取りにくる精肉業者に「とてもおいしかった。」と涙しながら言えると女は微笑んだ。
Jan 9, 2011
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自宅から駅に向かう途中にY川が流れているので、橋のあるところまでぐるりと遠回りしないと駅の近くのスーパーに行かれない。自宅を出たときから、わたしは少し変な気分だった。 橋を渡りきってからすぐに左に曲がると土手があって、そこには等間隔に桜の木が植えられている。桜の木はまだ小さいのだけれども、春になると土手は桜の花吹雪で覆われる。ただ、冬の夕方、見る見るうちに闇が広がっている中では、それらの桜の木々は体格の良い男が腕を組んでいるかのように立ち尽くしている。 自転車のスタンドを倒す音がして、川辺から自転車が土手に繋がる草の中の道を上がってくる。それを見て、わたしも川の流れが見たいと思った。 先日の大雨のためか、Y川に小さな川が流れ込むあたりの流れが大きく変わった。Y川に沿ってコンクリートの堤防が設置されていて、小さな川が合流するあたりまで延びていたが、この堤防がほぼ水没した。水が堤防を乗り越え、以前の合流地点よりももっと手前でY川の水が小さな川に流れ込んでいる。だから、小さな川の水量はたいしたことがないが、Y川の水が加えられて、そのあたりだけは水の流れが急になっている。 闇が深まっていたけれども、川の流れをわたしは、音だけではなく、まだ視覚を通しても感じることができた。そのとき、まさかと思ったが、見直して見ても、川の中に男がいた。水が堤防を越えたところは浅瀬で、そこに男がまっすぐに立っている。顔は見えないけれども、黒い影からすると男であるにちがいない。当然、足は水に浸かっている。 その男がわたしに軽く会釈したような気がした。それでわたしは気がついた。彼がここ数年わたしが外出するとわたしの後をついてきた人だと思った。もしかすると、彼はわたしが産まれて以来ずっとわたしの後をついてきたのかもしれない。わたしが気がつかなかっただけのような気がした。 どうして、今日の今になってわたしの正面に現れたのだろう。いや、むしろわたしはなぜこの男がわたしの後をついてくるのか、そこを考えるべきなのかも知れない。 わたしがあわててここを立ち去ったら、この男はどうするんだろう。この川を渡ってやはりわたしの後をついてくるのだろうか。今すぐにでもここから全速力で走り出したい衝動に駆られたけれども、どうやっても逃げられないんだとわたしを諭す内なる声を聞いてわたしはすぐには動けなかった。 しばらくすると眼をこらしてあの男を見ようとしても、闇があたりを支配し、そこにまだ男がいるようにも、どこかに立ち去ったようにも感じられた。 わたしはゆっくりと土手に向かって歩を進め、土手の上に到達してもそのままの速度で駅の方向に歩き続けた。例の男がやはりわたしの後をついてきていると感じた。ただ、今はそれよりも、人のように見える土手の桜の黒い影が、わたしが通り過ぎるのを監視し、もう振り返ってはいけないと警告しているように思えて気が重くなった。
Jan 2, 2011
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わたしは激しく嘔吐した。 わたしがそれまでに抱いていた不愉快な感情や他人への妬みをすべて吐いた。それは結核の末期の患者が吐血するのに似ているかもしれない。わたしは毎日傷つけられていた。わたしは見えない血を流し続けていた。 わたしは小さな穴に暗い感情を吐いた。 冬のある日、ベランダでポリバケツを使って育てていた貧弱な大根を抜いた。すぽんと大根は抜けて、跡が直径5センチくらいの穴になった。 そのぽっかり開いた穴を覗いて見ると、そこには小さいながらも完全な闇がある。その物理的な大きさは大根と同じはずだが、闇が内部で無限に広がっている。光がその中に吸い込まれて行き、逃げられない。 穴の周囲に表面の乾いた土が少し盛り上がった。偶然なのだが、その盛り上がった土の凹凸のために、穴の入り口は円ではなく、デフォルメされた十字架のように見えた。 だからこそ、わたしはそこにどろどろとした感情を嘔吐したのだ。わたしは救われるかもしれないと思った。 やがて春が来て、ベランダのこのポリバケツにも花が咲くことを願った。絶望を肥料にして希望が生まれると思った。
Dec 26, 2010
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成長してはいけないとわたしは涙を流しながら説得したわけだ。 しかし、レタスたちはわたしの意見に耳を貸すどころか、窓辺の日光を嬉しそうに受けながら、未来を信じて確実に大きくなっていく。12月ももう半ばで、夜はガラス窓の内側といえども外の寒気がレタスたちを襲う。それでもレタスたちは少しひょろひょろしてはいるが、伸びていく。 レタスたちがわたしの意見を素直にきかなかったのがいけないのだと、はさみもしくは指でレタスたちの大きくなった葉を摘み取っていく。 こんな非道な行為をするならばと、レタスが反撃に出たのである。 こうしてわたしが醤油味のドレッシングをかけて、摘み取ったレタスを食べようとしたときに、逆にわたしは噛みつかれてしまった。 日中の昼間は南側の部屋がとても暖かいので、冬だというのにガラス戸を少し空けておいたし、その日は水耕栽培のレタスたちに養分の入った水溶液を補充するはずだったので、今頃、レタスたちは後悔しているにちがいない。 レタスの反乱から3日後、水不足とこの冬一番の寒波でレタスたちの大部分は枯れてしまったのである。こうしてわたしのマンションに平穏な日常が再び蘇ったのである。 レタスにとって幸いなことにこのマンションの一室は内側から鍵がかけられ、まだ誰もレタスが反乱を起こしたことを知らない。そういうわけで、もはや動けず血だらけのわたしを助けに来る人はいない。
Dec 18, 2010
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