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少し前の話になりますが畏友である茶会スタイリスト・岡田和弘氏の『茶道美人』を読了。素直な言葉に溢れた一冊は、茶道の本というよりもむしろ、茶道を愛し嗜む著者が、茶道との関係の中で気付いた「日常をていねいに生きる知恵」を取り上げたもの。筆者と茶道の、運命的とも言える深い「えにし」が見えてくるし、「筆者そのもの」とでもいうべきか、語りかけるような内容の“純度”の高さに好感が持てました。一冊との出会いに感謝。(了)【送料無料】茶道美人価格:1,260円(税込、送料別)
2012/02/06
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見出し:名機は永遠に不滅である。100%ムックシリーズ『家電名機カタログ―古今東西の傑作家電を完全網羅 』(晋遊舎) 家電。もちろん今でも使われる言葉だが、なぜか懐かしい響きがある。どこか、日常がいきなりまばゆくなるような、未来への希望を喚起する、明るくて郷愁ある不思議な言葉。家電に特別の関心があるわけではなかったが、家電を通じて時代の変遷を追いかけていく本書の企画は面白く、立ち読みしてすぐにレジに走ってしまった。 と同時に、名機として選出されている家電の数々は、ヴィジュアル面でも懐かしくインパクトがあり、そしてやはり、それぞれのアイテムに自分の人生を重ねてしまうのである。ファミコン、ウォークマン、ゲームボーイ、iPod…。挙げていけばキリがない。あるモノは、少年だった私が、大人が持っているのを憧れのまなざしで眺め、あるモノは友達と一緒になって熱狂し、あるモノには新しい家電のあり方を感じたりした。私自身の成長の節目に、私の感性や生活に飛び込んできた家電の数々は、様々な記憶-抽象的な記憶だけでなく、それらを使った身体的記憶まで-を呼び起こしてくれるのである。家電から自分史を眺めるのもまた、興がある。 ピックアップされた家電のラインナップには、おそらく誰も異論はないだろう。きちんとした硬質な編集・企画方針の下に挙げられた名機の数々は、読者を頷かせてくれる。また、“隠れた名機”、“知る人ぞ知る名機”も多数取り上げられ、過去との新鮮な遭遇も味わえる。大手家電メーカーの盛衰および傾向変化の分析も、若干の偏りは見られるものの、論調は概ね公平で、クロニクル的な資料としての価値もある。 改めて、登場当時に名機だったものは、価値としては、いまだに現役で名機なのだ、と感心させられた一冊であった。(了)家電名機カタログ■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2009/05/21
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見出し:シカクシメンには非ず。ハル・フォスター編、榑沼範久訳『視覚論』(平凡社ライブラリー) どちらかといえば、論集に近い本書は、専門性も少々高く、私も含めて、まず共通言語がない読者には今ひとつ面白さが伝わらないだろう。本書を手にするにあたって期待したインスピレーションは、ついぞ得られなかったのである。 というのも、本書に採り上げられた議論は、今現在ではすでに古びているのかも知れないが、しかし私が―或いは期待とともに本書を手にした読者―が求める議論よりは先に行き過ぎている感がある。つまり、より原始的な分析が本書で展開される論題にいたるまでの、スリリングな部分はすべて前提として抜け落ちた形になっているからである。 ただし、トップ・バッターであるマーティン・ジェイによる眼差しとエロティシズムの関係についての文章は非常に興味深かった。眼差しが交差したとき(文字通り交わったとき)、はじめてそこにエロスの要素が生まれるという。まなざしを鑑賞者に合わせようとしない、すげない裸婦像は、予めエロティシズムがシャットアウトされているのだ。そうか、一目惚れ、love at first sightともいうではないか。 まなざしの交差、ないしは接触こそが、なにがしかの肉体的/情動的な感情のダイナミズムを生む。なるほど、ただし、本書でも指摘されているように、一方でまなざしは、人をゴルゴンの一睨みのごとく硬直させ、政治的・システマティックに監視・管理する。 まなざしが交差し合い、交わり合うことが、エモーショナルな揺れ動きを生みながら、それはまた監視や拘束、つまり“静止への強制力”ともなり得るのは、視覚(ヴィジョン)および視覚性(ヴィジュアリティ)の、きわめて個性的かつ強力な性質のゆえの皮肉である。 訳者も述べるように、クライマックスとなるはずの全体議論では、論点が相互に噛み合ない面もあるが、縦横な意見交換とでも言うべき様はまさに、四角四面には非ず、なのである。(了)視覚論■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2009/05/20
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見出し:利休を訪ねよ!!山本兼一著『利休にたずねよ』(PHP研究所) 第140回直木賞受賞作である。大賞に絡む作品をタイムリーにチェックする癖がない(というよりも、そういう読書の仕方をして来なかった)私としては、このように敏感に直木賞受賞作を手に取ることは稀である。 そもそも、私は豊臣秀吉という人物が嫌いだ。むしろ、私には関係のない人、と表現した方が適切だろう。生理的に合わない。きっと、歩み寄るチャンスが互いにあっても、絶対に長続きしない―その理由が、利休と同じかどうかは措くとして―だろう。ウマが合わないと確信するのだ。 無論私は秀吉とは面識がないが、史実もとにしたフィクションを信じるならば、あのどうにも趣味の悪いサクセスストーリーが、後世あまたの勘違いを生んだように思えてならない。その張本人に、嫌悪感を抱きこそすれ、理解を示すという感情など起こりえようがない。 「わしが額ずくのは、美しいものだけだ」。そう嘯くのは利休だが、しかし一方で、秀吉に、世にいうほど美的センスがなかったのか、といえば、秀吉嫌いの私にしてもそうとは思えないのである。 なにせ美とは主観の究極であるから、主観を基準とする概念を普遍にしようとする利休の生き様は、いささか傲慢に過ぎる気もする。主観から普遍を生み出し、それを絶対とする。ならば、利休と秀吉の、諸事に美を見出すセンスに何ほどの違いがあるというのか。 本の話に戻ろう。本作は、多分一般的な歴史小説ではない、と思う。“利休の死=茶の湯の完成”への足取りを追う断片的なエピソードの並べ方で勝負は決まったと言えるだろうこの作品は、読者の心理を汲み取った、まさに作者の“もてなし”の表現だ。 エピソードの並べ方にさらに拘れば、読み進むうちに、本作品は、天正15年の北野大茶会が一つのベースおよび分岐点として設定されていることを知るだろう。 北野の大茶会を、秀吉と利休の蜜月のピークとする。そうして、これを境に、過去とその後を時間軸通りに並べて読み直してみると、人間の心の機微やその推量合戦の妙を練り込んだミステリアスな面白さはなくなってしまうのだが、もう一つの面白さが味わえる。利休と秀吉のもつれた関係のすべてが、すっきり整理されて理解できるのである。 あえて断片的なエピソードにフォーカスして描き、それらを作家自身の美意識によって巧みに散らした(並び替えた)ところに、本作で描かれる人物や情愛、美しさや時間の「移ろいの演出」があることに気付かされるだろう。 描写といえば、作者の細部の描き込みもまた、この手垢の付きすぎたテーマに、新たな光を投げかけている。秀吉の髷が細くなった、など、放っておけばそのままでよいが、あえて突き詰めれば、はっとするほどその人物の心理状態や状況、疲労や老いまでもが手に取るように知覚できる、このディティールへの目配りに、利休直系だろうか、並々ならぬ描写の力を感じてしまう。 つまらぬ寄り道もしてみる。ふたたび本作は、多分一般的な歴史小説ではない、と思う。そのゆえに、おそらく作者の意図に反すると知りながらではあるが、司馬遼太郎『風神の門』を引き合いに出してみる。「狂人かもしれませぬ。ただしく申せば、風狂の者でござりましょう。あの者、才幹もあり、志も大きゅうござるが、そのこころざしの方向が決まっておりませぬ。自然、世に身を置く場所がなく、場所がないままに、世を空いてに自在に遊び呆けようというのではござりますまいか。男には、まれに、左様な型の者がござりまする。その才は惜しゅうござるが、かような者は、利をくらわしても動ぜず、おどしてもおびえず、他人のたづなで御する方法がござりませぬ」(司馬遼太郎『風神の門』佐助の評) 要は、志の方向が決まった利休と、決まらなかった才蔵の違いを惟うのは、馬鹿げた結び付けだが面白くないこともない。 ところで、『利休にたずねよ』では、利休の茶の湯、美の真理の追究の源は、叩き壊されてしまった繊細な恋にある、とされている。色恋の沙汰など、誰しも死ぬまで秘すものが一つくらいはあるだろう。それらをひけらかし、晒し、無防備にし、無造作に扱う神経に、執念も美の極致も立ち現れてこないのだろう。秘めた凄絶な恋心に侘びることの何たるかがあるのか。あの侘び茶の境地が、生涯をかけた現実逃避の結晶と思うと寂しいが、その実結構納得できたりもする。主体的逃避ではないにせよ、仙境への誘いは、茶の湯の演出的逃避の側面だからである。 ともあれ、成就せなんだ恋の想い人に、どこか似た人を重ねて想うことほど野暮なことはない。むしろ、一度の恋に相反する愛に身命を投げ、捧げて、美しい想い出との通い路を閉ざしてなお生きながらえる愚かさにこそ美あり。数多描かれた利休であるが、これほどにセンシュアルで生々しいのははじめてかもしれない。 利休にたずねよ。美について茶の湯について、あるいは政(まつりごと)について。様々な人物が手に負えぬ難題に突き当たった時、そう口にしたに違いない。だが、おそらく全幅の信頼と愛情を込めて、一番多く口にしたのは秀吉その人ではなかったか。「利休にたずねよ」。自分でもそう口にしてみたとき、敬愛の念を込めた時と、嫉妬や憎悪が混じった時とでは、きっとトーンが変わるであろうことを確信する。そうして、関白からの寵愛が、激しい嫌悪感に転じたとき、決して折り合わぬ二人の運命を思って、物悲しさが一層引き立つのだ。人間の業には、古今ほとんど進歩がない、いや変わらないものだ。(了)利休にたずねよ■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2009/05/04
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見出し:胡座をかいた認識を揺さぶる不敵な反復。アラン ロブ=グリエ著、平岡 篤頼訳『反復』(白水社) 刺激を求めていない時に、挑発的な本を読むべきではないのかもしれない。ヌーヴォー・ロマン(アンチ・ロマン)の代表的作家、アラン・ロブ=グリエ『迷路のなかで』を読んだとき、そうつくづく思ったものだった。文学的実験につき合わされるような、読んでいて読み進まない、いつまでも出口の見えぬ迷路に放置されたようなあの後味が忘れられない(ロブ=グリエの迷路は、初心な読者である私を見事にハメたのだ!!)。なに、私は文学にもフランス文学にも明るいわけではないから、はっきり言おう。面白さが解らなかった。いや、退屈だったのだ。そう告白して、別に恥ずかしいことなど私にはない。 が、ロブ=グリエが読める、などと賢しげな顔をして平気で言えれば、ちょっと格好いいだろう。失礼承知で、その程度の一冊だったのだ。だが、晦渋なものを欲しくなるとき、必ずしもそうとも言えない。本作『反復』は、作者20年ぶりの新作だそうで、特別ファンでもなかった私は待望していたわけでもなく、ましてもう新刊で世に出てから5年も経っているのだが、ふと、後味の悪そうな本が読みたくなって、気まぐれに手に取ったのだ。 果たして、幾分は速度を感じる時間軸と展開を備える本作は、推理小説的な要素が強いせいか“ロブ=グリエなのに読み進む”という不思議で新鮮な感覚を得つつも、やはりどこか、コラージュを突きつけられる凸凹な読み応えは変わらない。事実と連続しながら、断片的記憶=証拠が反復するうちに、虚実が曖昧で不確かになってゆく様は、胡座をかいた認識が揺すぶられてスリリングであり、どこかシュルレアリスムへ共犯を持ちかける歩み寄りを思わずにいられない。ただし、シュルレアリスム文学が多分に思想に端を発しているのに対し、こちらはむしろ、シュルレアリスムを文学的な技巧として逆手に取って二次利用することで、唯一無二を創り出そうという大胆さとニヒルさをスタンスとしている。フロイト心理学、とりわけオイディプス神話をみえみえにモチーフにするベタ感に、あざといまでの不敵さをも垣間見る思いである。 あらゆる文学上のフォーマットを、自身の手法で料理しようとする執念と手腕には脱帽するしかないにしても、それが、ある種の美へと結実しているのかそれは、またも主観的にロブ=グリエを読む私には今回も解らずじまいだった。 しかし、『迷路のなかで』よりはお手柔らか(ふたたびそれは、本作が、実験的側面よりも、“偽装されたエンタテインメント”色の打ち出しに軸足を置いているからであろうけれど)なせいか、逆に“ロブ=グリエの面白さ”が、少しだけ解ってしまうという、皮肉なオマケを賜ることになった。そんな仕掛けまでもが、作者の神経質な遊び心による必然ではないかと疑うことも出来なくはないが、ここは素直に受け入れたい。(了)迷路のなかで反復■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2009/04/27
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見出し:理ある復讐劇。リアルな復讐劇。 ジュール・ヴェルヌ著、金子博訳『アドリア海の復讐』(上・下)(集英社文庫) 私は復讐譚が好きだ。世の中には、私と同じような復讐譚(vendettaもの)が好きな向きも多いかと確信している。過日、ジュール・ヴェルヌの作品群を読み直した件について、まとめて書評を書いたが、この作品については別項目で扱おうと、前の評からは除外していた。すでに知られているように、本作はジュール・ヴェルヌの主要作品の中でも異色の物語であり、大デュマの『モンテ・クリスト伯』を下敷きにした、いわばオマージュ的作品である。事実、書簡にて、小デュマより、「文学的にいえば、彼(大デュマ)の息子はわたしよりもむしろあなたなのです」とさえ評されている点、ヴェルヌの試みは成功裏に終わったということであろう。 19世紀オーストリア。その支配から逃れんとするハンガリー独立を画策する愛国の志士三人が、嫌らしい密告により革命前夜に頓挫。首謀者は逮捕されるが、それが裏切りによる失敗と知るや、一度は覚悟した正義の前の従容たる死を固辞し、脱獄して復讐することを誓う。途上仲間は次々と官憲の手に落ち非業の死を遂げるが、リーダー格であったマーチャーシュ・サンドルフ伯爵は辛くも追っ手を退け、どす黒い海に消える。 15年の歳月が流れる。ふたたび物語に現れたのは、怒りの焔を胸に、高名なる謎の医師・アンテキルト博士の名を借りて復讐の刃を研ぐマーチャーシュ・サンドルフそのひと、世間では死人とみなされてきたあの伯爵であった。 これだけのあらすじを読まれても、おそらくこの手の物語が好きな読者なら食指をそそられること町がない。事実、この長編には、冒険譚が備えるべき要素が余すことなく盛り込まれている。お決まりの、海を舞台として諸世界を股にかける冒険は、オリエンタリズム、異国情緒溢れる筆力に支えられた描写によって、主人公たちとの旅を共にするような感覚を得るだろう。 あるいは、ハンガリーの独立への思いやそこに至る歴史的経緯など知らなくても、またそれほど史実に忠実でなくとも、そうと思い込ませ、信じ込ませてこの作品世界に引きずり込む説得性のある設定を、ヴェルヌは周到に用意している。このあたりの丁寧さは、同じく少々ヴェルヌ作品としては異例な異国風奇譚『カルパチアの城』の幼稚さからは程遠い。 とはいえ、この訳本の解説にもあるように、作品全体のクオリティに比して、そのディティールの乱暴な点がないわけではない。その粗さは、特に下巻、つまり復讐の徒として再登場したアンテキルト博士ことマーチャーシュ・サンドルフが、己が運命を狂わせた破廉恥漢を徐々に追い詰めるまでのプロセス、とりわけ方法論について、時に安直であったり、素直に読み下せない偶然を支配下に置くような展開を多用しすぎている点に散見されるものだ。上巻、つまりマーチャーシュ・サンドルフ伯爵が独立運動に挫折し、目の前の死から逃れんとすべてを賭して逃亡する物語においては、クラシカルで重厚、息詰まるほどに隙のないストーリー・テリングを見せてくれたヴェルヌも、下巻では、不可能なことが非合理的な要素で簡単に可能となってしまう。成就までの過程に障害があるほど、復讐の美しさはいや増すというものなのだが、その点少々物足りない。 時代性と、持ち前の科学知識や科学的可能性を宛てにしすぎた、といえば酷だろうか。心理学とオカルティズムが混在し同居していた当時だからこそ、磁気催眠術などという、今にしてみれば荒唐無稽な科学が、大手を振って物語の重要ポイントで過剰に機能してしまったりするのは、なんとも惜しいことだ。ただし、復讐に決着をもたらす海戦の件は、船好きのヴェルヌが、まさに頭の中でシミュレートしてみたかった場面であることをうかがわせる迫力ある山場となっていいる。 こうした、作品全体を俯瞰してみたときに感じられるムラは、ヴェルヌ作品は脇役(「とんがりぺスカード」や「大山マティフー」の名コンビぶり、気骨ある漁師親子や悪役のキャラクターの立ちっぷりも見事だ)に味あり、との期待に見事に応える悲喜劇役者たち、義侠の士たちの胸のすく活躍ぶりでうまく相殺されているのは流石である。そう、本作は、ヴェルヌ作品の中でも特に、キャラクター造形と登場人物同士の立場や心情の綾が、絶妙なバランスで配置されている点、注目すべきであろう。 特に、シーケンスの面から言えば、マーチャーシュ・サンドルフ伯爵の運命に巻き添えを食い、それぞれ復讐に駆り立てられることとなった登場人物同士の奇縁の成り立ち(この復讐劇が、親子の二代にまたがって成し遂げられる点も記憶しておきたい)に、決して互いの 復讐心の利害や目的がぶつからないよう、うまく配慮調整されている。なにしろ、復讐の円卓の杯は、完全に一つに向かう復讐心で充たされていなくてはならぬ。そうでなければ、復讐行為そのものが持つエネルギー自体が低下してしまう。さらには、「理ある復讐=リアルな復讐」が、読者への説得力を持って成立しなくなり、吝嗇な私怨の小爆発の集積に堕してしまうからである。復讐というものが持つ力や重さ、温度までを、徹底的に品質管理した点。そこにこそこの作品におけるヴェルヌの才気が最高度に注ぎ込まれているのだ。 15年の歳月を要した復讐に、しかし一体何が残るだろう?もちろん、この物語には至極めでたい大団円が用意されている。復讐のために充填されたエネルギーは、別のベクトルへ向かって一気に爆発する。はけ口がない復讐譚は、後味が重たくなるだけだ。我々の人生において、復讐は何も残さない。目的は達成されても、それが新たな価値を創造することは考えにくい。仮にそれがあっても、復讐に要するエネルギーの採算は取れないだろう。おそらく、激しい消耗と空虚な心身が、復讐成就とともに残されるに過ぎない。 してみれば、爽快感ある復讐が許されるのは物語の世界の中だけ。だからこそ、私たちは復讐譚を愛して止まない―それに己の復讐心を重ね合わせるかは別として―のだ。(了)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2009/04/09
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大人になって読み返さない方が良い作品、というものがある。ということは、その対象はほとんど児童文学にも採り上げられている作品、ということになろう。時は2005年、折しも私はフランスはパリにいた。市内の博物館では、ジュル・ヴェルヌ没後100年の記念展が催されていた。そのポスターに描かれた“ノーチラス号”のレトロ・フューチャーなイラストに触発され、いつか時間が出来たら、ジュール・ヴェルヌをもう一度読み直してみようと決意した。 今回、ようやくその気になって、ジュール・ヴェルヌ作品との驚嘆すべき旅に出かけた。『八十日間世界一周』から手を付けたのも、この旅をなにか特別なものにしたかったからだ。 ところで、同じような気紛れで読み直したモーリス・ルブランのアルセーヌ・リュパンシリーズに比べて、ヴェルヌの作品は、どれを読み進めても、何か、期待したようなわくわく感をくすぐられないまま、ページは進むのである。この違いは何であろう?リュパン・シリーズの面白さは、子供心にも決して、推理小説的な展開に惹かれるようなミス・リードはしなかったように思う。明らかに、あの快男児、天下の大泥棒の男気、茶目っ気、溢れるバイタリティと、縦横無尽な知力に対する、抗い難い憧れが、この心を鷲掴みにしたのである。少年の日の私は、ルブランの作品世界でなく、アルセーヌ・リュパンその人に惚れてしまったのである(ルブランの懊悩、いかばかりか…)。つまり、登場人物のパーソナリティ、主人公のキャラクターというものに魅力を感じた私がやがて成長し、児童文学版でないリュパンに出会った時、子供の頃には分からなかった、人間の心の機微や、複雑な、あるいは単純な人間心理というもの、人物造形の妙というものが洞察できるようになって、ルブランの作品への関心は、かえって増進したのである。いささかは衰えたであろう想像力のかわりに得た「何か」によって、作品群の面白さを自身の中でぶらすことなく、もう一度楽しめたのである。 しかし、ヴェウヌの場合はどうだろう。彼の作品にかじりついていた少年時代の私は、作品を通じて旅することや、未知なるものや未踏の異世界との出会い、そして、それを可能にする奇天烈な科学技術に、ただただため息を吐くばかりであったのだろう。そうだ。絶対に不可能に思われる旅も、ヴェルヌの作品の中では、絶対に可能な説得力を持って迫って来た。だからこそ、漂流したらなら自分はどうしたらいいだろう、地底に行くならこんな準備を抜かってはいけない、などと、少年の頭の中は、愉快に読み違えたリアル(のはず)な妄想や計画で無限に膨張していったのだ。おそらく私は、ヴェルヌの作品について言えば、作品世界の設定やシチュエーションに魅力を感じていたに違いない。人物か、シチュエーションか。そこが、ルブラン対ヴェルヌの構図における、一つの分岐点だったのだ。 今ならば、ジュール・ヴェルヌの作品は、単に大衆文学の枠を超えたSF小説の先駆、あるいは、来る科学技術の未来を予測した慧眼、圧倒的な知識の正確さに裏打ちされた空想科学技術小説、などなど、賢い評価はいくらでもつけることができる。だが、もっと原初的な観点からヴェルヌの作品を、今読み返した私は、やはり「大人になって読み返すべきでなかった」という感想を述べざるを得ない。これは、あくまで私の、感傷混じりの主観でしかないが、そういう思いを抱きながら、読み進んだのは事実だ。『海底二万里』に感じた“落差”は説明のしようがない(嗚呼、驚嘆をもって読者に説明される海底の神秘の案内が、退屈な標本紹介にしか受け取れないとは!!)。 ヴェルヌの作品に登場する、あの魅惑的な旅先の数々は、すでに現実世界で踏破された場所である。主人公たちが駆使した技術や科学のほとんどは、そのまま現実化したか、あるいは事欠かない発見の数々の中で修正を加えられて実現した。哀しいかな、進歩し過ぎた科学技術によって、ヴェルヌの空想実験のいくつかは、あり得ない事と証明されたりもしただろう。しかし、数々の評者や学者が言うように、ヴェルヌはもう通用しないー今だからこそ読み直そう、とまで言うべきかは措くとしてー、というのは誤りだ。ヴェルヌの作品は科学論文ではない。だからそれでも、やっぱり本来面白い。それらが色褪せ、もはや魅力を失ったのではなく、それらに驚きを感じる暇を与えてはくれないこの科学技術万能主義の社会に身を置いている我々の、喪失と思えば哀しむべきは我が身なのではないだろうか。ヴェルヌ後期の作品は精彩を欠くとい言われる。確かに、底抜けな明るさはなく、ダークな色合いが強いが、これもまた、要は初期作品より後期の出版された時代の方が、読者や社会の体質として科学技術に醒めてしまった、というだけではないだろうか。 ところで、『カルパチアの城』『動く人工島』『悪魔の発明』など、子供の頃には読まなかった作品を読むきっかけにはなったが、これらとてそれほどの魅力を惹起しなかった。不思議な事だが、このたびの再読で、質は多少異なれど、やはり面白いと思えた作品は『八十日間世界一周』と『地底旅行』の二作品であった。この両作品は、ヴェルヌの作品においても、主人公の個性が際立っている点(フィリアス・フォッグ氏とリデンブロック教授)、さらにストーリー展開はスピーディーだが仕掛けはシンプル、という共通点を有しているように思えるが、その点。アルセーヌ・リュパンシリーズと相通ずるものがあるように思えるのは、もちろん偶然の類似ではないだろう。(了)世界のコレクショントランプの販売トランプで7つの海を冒険だ!ジュール・ヴェルヌ 『80日間世界一周』八十日間世界一周地底旅行■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2009/03/24
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見出し:即興のいのちの奥義を求めて地球を吹く、“ジャズ山伏”の旅路。近藤等則著『いのちは即興だ』(地湧社) 近藤等則氏に思いを馳せるとき、否応なく中学生時代の記憶に戻らざるを得ない。あの頃の私といえば、耳に飛び込んで来る音楽のどれもこれもが新鮮で、同時に、音楽の良し悪しではなく「好き嫌い」の基準を育んでいた最初の時期だったような気がする。文章を仕事とするきっかけになったR&Bに出会い傾倒したのもこの時期であるし、それと同じくらいの関心を持っていたのがジャズだった(結局、あの頃ジャズにのめり込めず、その反動でR&Bにどんどん傾いていったのではあったが)。音楽といえば、洋楽。そんな思い込みはあった。だからこそ、「日本人離れ」したセンスや実力を持つ日本人のミュージシャンには、過剰な贔屓でもって応援したものだった(「国際舞台で活躍する」というスマートな枕言葉で意味が通じる今の時代、「日本人離れ」などという言葉はもはや死語だ。しかし、それはたった20年前にはまだ生きていたし、おそらく、「日本人離れ」という言葉を真の意味で使用していたのは私たちが最後の世代だったに違いない)。近藤氏ももちろん、そんな「日本人離れ」したアーティストの一人であり、世界で通用するジャズ・トランペッターで、ブリリアントでワイルドな日野皓正氏の対極にあって、どこか垢抜けた、モダンというよりアーバンな感じ。少し前衛芸術のニヒルなインテリジェンスを持ちながら、それを簡単にうかがわせないような、確信犯的なポップ感があって、格好よかった。 そんな、“垢抜けジャズ”のイメージのまま、いつしか縁遠くなっていた近藤氏が本を出した。表紙の写真の迫力にまず驚かされるのである。DCブランドのカチッとしたクールなスーツで身を固め、ポマードで光った80年代の都会的なヘアスタイルでトランペットを吹くあの甘いルックスからは程遠い、どこかの山伏のような風貌。そう、ルックスではなく風貌、なのだ。しかしそこには、すすんで荒行に臨んだ、不敵だが澄み渡った力のようなものも感じる。いったい、何が起こったんだ!? 本書では、近藤氏が体現していたアーバンなイメージとその実情、やがて当時の近藤氏自身が感じた「気持ちよくないヴァイブ」からの建設的逃避が導いたその後の音楽的旅路も詳らかに語られる。本書は、近藤等則氏の、必然に導かれた変容の記録でもある。 近藤氏が、それこそ商業主義的な音楽ビジネスの世界を早々に脱し、自らの、あるいは存在の彼方からの声に導かれて独自の音楽活動に没入し、その一部が『地球を吹く』という活動に結実していたことを、実は私は知らなかった。それほどまでに、私と近藤氏は縁遠くなっていたのだろう。しかし、こうしてまた出逢った。 今回本書を読んで感じたのは、実は、私にも共著があるが、そこで考えていたことと、近藤氏が辿られた道のり、そして私よりははるかに先にあるだろうとは言え、感覚として向かっている方向には似通っているような気がした。それは、逆説的にいえば、立ち居地、基準としているポジションや、対象とのスタンスの取り方、というのが似通っている、ということなのかもしれない。 感覚的な部分だけでなく、おそらくは論理的な部分でも一致していると思われる点が事実ある。それは、たとえば、本書でももちろん語られ、拙著でもテーマとなった、スピリチュアリティや「いのち」というものへの距離感である。先に結論を言えば、これらメタな世界に身をゆだねつつ、感覚のみに溺れてしまうことは理知的に避けようという心構えが先にある、という点である。 スピリチュアリティに言及しながら、オカルティズムの罠を回避する。これは、実はスピリチュアリティや、いのちの即興性などという、メタな話を考える上では、相当に重要ではないかと私は考えている。特殊な体験は、スピリチュアルであっても、普遍には至らず、特別な体験、異体験で終わってしまう。エンタテイメントとしては結構だが、それが真意でない場合は、その誤解を軌道修正するのは楽ではない。だから、スピリチュアリティの海原に飛び込むには、さまざまな合理的・非合理的な要素をよく咀嚼したり、それらにぶつかりながら得た、自分なりの理解を携えておかねばならない。 とはいえ、確かに霊的スピリチュアリティは特殊に傾くが、生物=生命由来のスピリチュアリティは、本来的には十分普遍になりうるのだということに改めて注目しておきたいし、本書を通じてさらに確信を深めたことを述べておきたい。そも、すべて人は生物だから、体験に根ざし、命に根ざし、生きることの中に顕れるスピリチュアリティは、すでに意識的・無意識的にかかわらず普遍なのだ。スピリチュアリティが、特殊でなく普通であること。いや、特殊の中に種を拾おうと無駄な努力をしなくとも、日々の生命の中に、この“普通のスピリチュアリティ”は宿っているのだ。普通とは、普遍を流通させるスタンスであり知恵に等しい。 本書の中で、次第に「心地よいヴァイブ」との距離を詰めていく近藤氏は、時に壮大なる地球という(あるいは宇宙をも含めた)楽器の一パーツとなっているようだったり、あるいは、銀河のセッションに参加する人類代表のトランペッターであったり、はたまたあるいは本人が、全人的意味において楽器そのもの(人間の体が楽器であること。リードやマウスピースと同じ、響きあう媒体であることを改めて思い出させてくれる)であったり、あるいそのいずれでもなく、生命そのものが音楽を奏でているのであって、人も地球も宇宙すらも、マクロなオーケストレーションの一部に過ぎないのだと諭すようであったり…。 はたして、“いのちの即興性”とは何であろう。私は、拙著の中でそれを「しなやかさ」と捉えた。これを、柔軟性と呼ぶ人もあろうし、行き当たりばったりと解する人もあるだろう。脱マニュアルの生き方、という表現が、それ自体マニュアル化している。 いつか聞いた、仏師の話。木片に耳を傾け、その声に従って彫刻刀を握ると、現れるべくして現れる仏像の姿。仏師の仕事とは、仏の声を聞いて木屑を払うだけに過ぎないのだと。仏は、すでにしてそこにおられるのだと。 根源的なウ゛ァイブに身を置くと否応なく、自然とそう生きてしまう生き方。生きるべくして生きざるを得ない生き方。それこそ“即興のいのち”。木片に隠れた仏と同じく、神代から存在して来た、いのちの本来のあり方なのだろうか。そうして、様々な音の探り合いの中で、「今欲しかったの、まさにその音!!」とぴしゃりと出会う、必然的なパズルのピースとの邂逅を連続してゆくことこそ、いのちが即興であることの面白さ、いのちの無限性を旅する道標を見出すことなのかも知れない。(了)いのちは即興だ■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2009/03/15
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見出し:気合の入ったバブル女編集長の気だるいビンタにシビレろ!!URA EVO著 『女番編集長レナ』(文藝春秋) 女性誌CREAからの企画本である。しかし、なんという企画本なのだ。ネコ好きによるネコ好きのための一冊。“なめねこ”世代には、この「やらせ感」がムズかゆい。内輪ネタ、内輪盛り上がりで一冊。でも、モチーフが「人気者のネコ」だから許されてしまうのだ。いや、もう極論を言えば「ネコだから許されてしまう」。それほどに、ネコ派は強し、なのである。そのネコ派がターゲットなら、これほど垂涎モノの本もあるまい。女番の編集長(ネコ)レナの、愛くるしい、気合の入った、ふて腐れた、カットの洪水!!無論、ネコ派である私は、この贅沢なまでの写真に惹かれて購入したわけである。 内輪ネタ、内輪盛り上がりと言いながら、時代の激変に対する諧謔精神や、作り手たちがレナを慕い(?)、愛し、楽しんでいるムードも伝わってくる。悪ノリすら和やかだ。そんなユルい内容ながら、随所に挿し込まれるレナ編集長様のありがた~い「一言ビンタ」は、思いのほか核心を突いていて胸がすく。(了)女番(スケバン)編集長レナ■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/10/22
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見出し:団塊世代の勇気が、果敢に闇鍋をつつく。尾朝徹『団塊鍋』(文芸社) なんとも胸のすく一冊だ。選り抜かれた言葉の串が、ハンペン化した日本(というよりも、著者自身がともに歩んできた日本のハンペン化への道のり、というべきだろうか)を容赦なくつつく。荒ぶるあげた箸は、なぜか社会的風潮として自嘲的になりがち・強いられがちな団塊世代の、根っこに流れる勇気で以って、何が混入しているか分からない、混沌と混迷の“闇鍋”へと振り下ろされるが、それに投げられる視線は、実は理性的で温かい。憂うのではなく、懐かしむ。怒るだけでなく、発破をかける。昔はいただろう、近所のカミナリ親父の佇まいすら感じさせるのは、全頁に一貫して展開される、講談師顔負けの名調子のゆえだろう。 そうだ。名調子、というのが昔はあった。少なくとも、昔の日本語には。いやなに、今だって、やっぱり語呂は、悪いよりはイイほうがいい。文章は音楽的でもあるはずだ。当たり障りのない、歯の浮くようなコピーを並べてヒューマニズムを語っても、名調子なんかできゃしない。節でもつけて音読したら、そのまんま団塊カミナリ親父のボヤキや小言が“再生”できそうな本書。この自動演奏オルガンの記録テープには、戦前世代への感謝と戦中世代へのエールと、戦後世代への警鐘が込められた、団塊世代からの肉声の贈り物である。 ああ男三十、親父の背中を見ています。(了)団塊鍋■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/10/07
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見出し:世界を埋め尽くし縁取る、輝ける緑の触手への誘い。鶴岡真弓著『ケルト 装飾的思考』(ちくま学芸文庫) ケルト文化が、主に音楽をきっかけに、もう長いこと現代で注目され続けて来たことを知っている。しかし、この西欧世界の隔絶した深き森、最果ての異境の神秘に触れる時が私の中で熟さない時間が長過ぎた。 果たして、本書は、およそケルト文化を知る上で、現状入手できる最も詳細で、最も信憑性高く、かつ広範なテーマが網羅・分析されており、ケルトの世界に分け入るにあたって、何より最初に手にするべき一冊である。 ケルト文化に触れるタイミングを待っていたのだから、本書を手にした時点で、少なくとも現時点で私が知り得ていて、なおかつ散らかってしまっている西欧世界の文化や思考のモードへの理解や認識、歴史やそれの成り立ち、それらを形成する事実についての知識が、ケルトというクリップでもってしっかり束ねられるだろうという予測と期待はあった。そしてそれは、当面私が求めていたレベルでは実現された。 ケルト文化というクリップで束ねるまでもなく、ケルト文化は、あたかも蔓のように、すでに私が親しんできた世界にしっかりと有機的に絡み、静謐に、しかし激しく主張していたのだ。ケルト文化を、あるいはその影響や模倣を見出せない西欧文明や西洋美術は皆無なのだ。それらは、やはりまた有機的文様のように、スパイラルを描きながらリバイバルしていく。アール・ヌーボーは、動物たちの目が生き生きと輝くケルトの森の、ディスカバー&エクスパンションだったのだ。都会を、摩天楼を、文明を、森の緑が覆ったのである。この森林浴のなんと刺激的な、なんと官能的なことか。 渦巻いて、そこかしこにはびこるリバイバル。なるほど、私にとってケルト的思考、いや『ダロウの書』的オブセッションの原風景は、エッシャーの円環、あの視界=世界を埋め尽くすことが目的化された装飾の迷宮だったのだ。 聖コルンバーヌスの尚学の精神は、スクリプトリウムのスクリベ(写字僧)の黙々とした、しかし密かに挑戦的な作業を経て、いわゆるケルト写本を生み出していく。あの独特のイニシャルをはじめとする装飾性は、イラストレーション(挿絵)ではなく、聖書の純粋性を際立たせ光り輝かせるイリュミネーションだとする著者の指摘は興味深く刺激的だ。 かように、本書は点を結ぶ線(つなぐ蔦)としての価値高く、記述された事実それ自体が私にとっては目から鱗の落ちるようなものばかりなのだが、同時に、悩ましいことにも、濃厚であるがゆえに、やはりハードルは高かった。何より、読みこなすのにそれなりのエネルギーがいる。このハードルの高さゆえに、ケルトを理解する上で早々に古典的一冊となりながら相変わらずその王位を守り続けているといえるかも知れない。少なくとも、これまで非ケルト・反ケルト的思考に寄った視点から、西欧史や西欧文化を眺め、考察して来た私にとって、視点を180度変えて知識を追いかけ直すことは、想像以上に高いハードルに挑む作業となった。私は、今後もたびたび、驚きと興奮を伴いつつ本書を手繰らねばならないだろう。(了)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/08/26
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見出し:“塩野流・平家物語”は無常の香り。塩野七生著『ロードス島攻防記』(新潮文庫) 中世ヨーロッパ、名だたる騎士団にあって、そのホスピタリティで生き残った聖ヨハネ騎士団が、みずからの存在理由の象徴であるロードス島を、トルコの破竹の勢い持つ黄金時代から死守すべく繰り広げた攻防戦を綴る、塩野七生の短篇である。 他の作品とは語り口を異にするこの作品は、いつものようにフィクションを通じて事実を味わうのではなく、逆に事実を補う為の装置として物語が機能している。ここに綴られる激戦からは、当時の戦術、航海術、操船術、築城法、建築技術がよく伝わってくる。これら無機的な描写が、ロマンチシズムと距離を取ったリアリズムを醸し出すのに奏功しているが、その中で展開する、退けば掛かり、掛かれば退く、互いに譲らぬ五ヶ月にわたる戦闘の様子は、あたかもチェスや将棋の模擬戦のように、著者の“神の目線”によって、息もつかせぬ戦術合戦として読者に披瀝される。 加えて、技術革新(兵器の開発)および戦法の変化はまた、騎士道精神の終焉を峻厳に告げているが、その淡々とした軍記作者の如き筆致は、波の満ち引きを観察する者の報告に似て実にドライで、騎士団が殉じた理想、騎士道精神、あるいは「青い血」に代わって迫り来る新しき者たちに、慄きつつ抗おうとする名誉への執念など、抽象的なメンタリティといったような要素は感じ取ることが出来ない(皮肉なことだが、騎士団の敵であるスルタン・スレイマン一世が、華麗にして優雅な騎士道精神を、いささか浪花節的に見せて男を上げる描写は物語後半に用意されている)。そうしたウェットな記述を排することで、むしろかえって、散り行く一つの時代精神への残酷な運命を際立たせているのだとしても、いささかの寂しさが残る。この醒めた質感、平家物語を語る琵琶法師の無常の境地のそれを、実験的に体現してみせたかのようである。(了)ロードス島攻防記■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/08/04
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見出し:アーサー王伝説を解く、“アヴァロンへの渡し舟”。 デイヴィッド・デイ著、山本史郎訳『図説 アーサー王伝説物語』(原書房) 二世紀・ローマのアルトゥリウスという一指揮官が、王となり、キリスト教国の三偉人の一人となり、やがてイギリス王室の正当性の根拠とされ、何より、無限の世界観を持つ伝説中の人へと、いかにして変容して行ったかを解き明かすのが本書である。本書の原題を直訳すると、まさにアーサー王伝説への探求(いざない)ということになり、この壮大な伝説への手引書・入門書となっている。 しかし実際には、軽く表現すれば“イコール、ネタ本”でもあるから、イマジネーションの世界に漂っていたい読者は、逆に入門書としてではなく、一通り幻想世界を堪能した後に手に取った方が、順序としては適切かもしれない。 それほどまでに、細かく丁寧に、伝説と伝説その人、および彼を取り巻く多彩な登場人物の生成の過程を、歴史や伝説から辿っている。 本書の構成は、物語を形成するテーマを複数選び出し、それらの記述を柱に全体を作り上げる形となっており、テーマの選定、それらのボリュームおよび配置も、よく練られかつ手際よくまとめられている。そして図説というタイトルどおり、ヴィジュアル・イメージがふんだんに使用され、絢爛で、どこかファンタジックな彩りを本書に与えている。 ただ一点だけ、一指揮官が、さまざまな民話や伝説を吸収しつつ西洋世界のファンタジーの理想的人物、アーキタイプへと育ちながら(=脚色されながら)拡散―拡大してきたのとは逆に、著者は、この物語のエッセンスを限られたエレメントへと集約していこうというベクトルで本書を牽引していく。シンプリファイすることで、物語のルーツへと正確に回帰していこうという試みに違いないのだが、もしこの物語を事実からではなく、やはりファンタジーの世界から眺めていたいという向きにとって、このアーサー王伝説を芳醇なものとしているのは、王と王を囲む円卓の騎士たちの存在である。英雄たちの群像。それが物語の精髄であるという点で、これをピカレスクへと転換した場合に於ける『水滸伝』のそれと同じ感覚があるのではないだろうか。 出番が多い人物も、少ない人物も、それぞれにかけがえのない役割が公平にあり、それがまるで糸のように織られて巨大なタピストリーを作り上げる。本書には、あまりに英雄が不在なのだ。その点、不足や喰い足りなさが残るのが実に惜しい。絞り込まれ、選び残されたテーマである人物たち、特にマーリンについての考察は濃い。(了)図説アーサー王伝説物語■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/07/30
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見出し:ダーク王子、登場。ローズマリ・サトクリフ著、山本史郎訳『アーサー王最後の戦い―サトクリフ・オリジナル〈3〉』(原書房) 三巻シリーズものも、二巻まで読んだら最後まで読まずにはいられないからか。それとも、やはり作品の魅力のゆえか。ローズマリ・サトクリフによるアーサー王物語シリーズ最終巻を読み終えた。 今回は、まさに宴の終焉、栄華の衰退、おとぎ話、そして夢のような時代の閉幕を綴った、文字通りサー・トマス・マロリー『アーサー王の死』をなぞるような内容である。 アーサー王若かりし日に、その栄光と輝かしい円卓の騎士たちの集結の約束とともに、やがてアーサー王その人の罪科のゆえに、そのすべてを失うと予言したマーリン。いわば、その残酷な予言の成就をこの物語で追っていくことになる。 そして、その悪夢の牽引者として、ダークナイト、モルドレッドが登場する。モルドレッドこそ、黒い妖術にかけられてしまったアーサーその人の実姉モルゴースとの不義の子である。 悲しいかな、いや、むしろ悲しい運命の子であるがゆえに、このモルドレッドの描写が美しいのが、サトクリフ版の特徴である。本当に、怜悧で徹底した邪悪さはかくも美しいのだと感じ入った。それは、ミルトンにおけるルシファーの描写に近い感覚がある。 対して、栄光はすっかり過去のものとなった騎士たちや、偉大なるアーサー王は、この“皆既日食の遣い”と較べて、あまりに弱く、惨めで見苦しい。成功体験にしがみついて離れられないアーサー王その人が、招くべくして招いた破局に、ロマンティックな憐憫は抱いても同情は出来ない。私をしてそこまで思わせるほどに、それほどしつこい描写や登場があるわけでもないにかかわらず、モルドレッドの、無垢な残虐さが際立ってしまうから、著者のストーリーテリングの素晴らしさには脱帽である。 この比較が妥当かは別として、しかし、やはりアーサー王が戦った“最後の戦い”そのものいついては、やはりマロリー版の迫力、リアリズムには到底及ばず、むしろあっさりと編集されてしまったような感がある(サトクリフ版の素晴らしさは、ポエティックな描写やテンポのいい映像を見せられるようなドラマティックな展開の作り方とは別に、まさに、壮大な物語のカット&ペースト、つまり編集の巧みさにも魅力があるのだが)。 あえて言うならば、サトクリフ版は、アーサー王の葛藤、“内面における最後の戦い”に重きを置いたような形ではないだろうか。 これは悲話なのだ。地上の名誉を一身に浴びた者が、やがて絶えて滅する話なのだ。そうは分かっていても、円卓の騎士たちの目線に立って考えると、こんなに口惜しい物語もあるまい。おねだり女王と裸の王様。傾国、と言えば聞こえはいいのだろうか?吟遊詩人のように、それを激しい純愛と素直に耳を傾けるべきなのだろうか?いずれにせよ、グィネヴィアのしたたかさやあつかましさは、モルゴースらの妖姫ぶりとさして変わらない。最高の騎士にしてはガードの甘い(!)ランスロット卿が、巻き込まれたようで、逆に憐れに思えてしまった。 そう、訳者も同じことをあとがきに書いているが、サトクリフ版のアーサー王物語で読者が追いかけ、その人間的な弱さに共感したり、華やかさに嘆息したり、成長したり懺悔したりする。その対象は、アーサー王ではなくむしろ、世に最高の騎士と呼ばれた男「湖のランスロット卿」その人なのかもしれない。 騎士道精神とキリスト者としての信仰、そして等身大の男性、というそれぞれの立場と、それが作り出すパーソナリティに挟まれ、あるいは三つ巴の葛藤を、時に剛毅に、時に感傷的に立ち向かうランスロット卿の目を通じて、我々はこの類稀なる王と騎士たち、そして時代を眺めていることに気付かされるのである。(了)アーサー王最後の戦い■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/07/09
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見出し:選ばれし騎士よ、その手で聖杯を返却せよ。ローズマリ・サトクリフ著、山本史郎訳『アーサー王と聖杯の物語―サトクリフ・オリジナル〈2〉』(原書房) ものごとにはすべて器、というものがある。その器が据わるにふさわしい場所がある。そして、器にはふさわしい中身がある。 器は、それに釣り合わぬ中身を拒絶するし、似つかわしくない場所ではその役割を果たそうとしない。 聖杯という特別な器と、それにふさわしい中身であるガラハッド卿(それに、パーシヴァル卿とボールス卿)が、これを然るべき“場(物理的にも、象徴的にも)”へと返却する冒険、それが数あるアーサー王伝説の中でも、ブライトサイドとしてのピークであり、栄華の終焉への折り返し地点となっている、この聖杯探求のエピソードである。 アーサー王の物語は、確かにキリスト教における神の騎士たちの物語として語られてはいるが、この聖杯探求ほど信仰を意識した物語はほかにはない。もし、アーサー王が、キリスト教国の偉大な王の一人であるならば、聖杯探求の冒険に、愛する騎士たちを駆り立てたというのは当然の成り行きであり、また逆に言えば、この聖杯探求の物語から遡って、キリスト教国の偉大なる王・アーサーという像が後の世において造形されていったと言えるかも知れない。 というのも、ここで探求される聖杯とは、聖書にいう最後の晩餐の際にイエス・キリストが使徒たちと血であるワインを分かち合った杯であり、またイエスが磔刑によって全人類の罪を背負って贖った際、ロンギヌスの槍によって突かれたわき腹より流れ出た血を、アリマテヤのヨセフが受けた杯といわれている。このアリマテヤのヨセフが、聖遺物である聖杯をブリテン島(アヴァロン)に持って迫害から落ち延びた…というもので、聖杯を求める後世の冒険の数々についてはここで触れるまでもないものと思う。 訳者も指摘しているように、確かに17世紀イギリスの作家ジョン・バニヤン『天路歴程』にあるキリスト者としての信仰を試す試練との遭遇の物語を底に敷いてはいるが、ローズマリ・サトクリフによる聖杯探求の物語は、さらに、ケルト神話や伝説の母型である“探求の物語”のテイストを多分に盛り込んでいる。つまり、信仰を通じて神を知る探求だけではなく、一種の“儀式的な自分探し”(つまり、前者の神に対して後者はパーソナルな世界だ)を組み合わせることで、アーサー王伝説におけるハイライトを魅力的な物語、身近な物語へと巧みに昇華しているのである。 先に私はサー・トマス・マロリー『アーサー王の死』のリアリズムへの評価を強調するばかりに、マロリー版で聖杯探求のエピソードが割愛されたことを好意的に取ったが、ローズマリ・サトクリフ自身によれば、サー・トマス・マロリーの聖杯探求の物語は魅力的だという。先達に対しての謙遜ではないか。そう思わせるほどに、本書は、サトクリフ・オリジナルと銘打つだけあって、斬新で神秘的な語り口でもって聖杯探求の騎士たちを活写している。 やはり、ロマンティックな器、いや逸話は、それにふさわしい語り手で読むべきなのかもしれない。(了)アーサー王と聖杯の物語■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/07/04
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見出し:無頼騎士による、リアリズムを究めた“騎士道の聖典”。 サー・トマス・マロリー著、ウィリアム・キャクストン編、厨川圭子訳『アーサー王の死』(筑摩書房) 西洋世界各地、古今に散らばるアーサー王伝説を、一つの物語としてまとめたものが、サー・トマス・マロリーによる『アーサー王の死』であり、本書はその抄訳にあたる。時は15世紀、およそ騎士道とは無縁な放蕩無頼の騎士・トマス・マロリーは、数々の罪を犯し、逃亡して捕らえられ、獄中で本書を書いたとも言われているが、実際この一世一代の大仕事を成し遂げた人物の正確な情報は伝わっていない。 本書は、壮大な、そして大陸横断的な広がりを持つこの5世紀・ブリテンの偉人を取り巻く伝説と物語を、巧みに編集したキャクストン版の抄訳であるが、本書のトーンや趣旨に従っているため、一般的にロマンティシズムの観点から有名なエピソードの幾つかが大胆に省略されており、その点については不満を抱かれる読者も少なくないだろう。 たとえば、聖杯探索の物語や、トリスタン卿の悲恋などは丸ごと割愛されているが、そもそも、本書にそのようなエピソードは適さないかもしれない(重ねて言うように、リアリズムこそがトマス版の素晴らしさなのだ)。議事録のように進むドライな文体の向こうに、刃が鋼の鎧を打ち、火花の飛び散る様が目に浮かぶようである。 しかし、この無粋な騎士が記述したこの物語、生々しさこそ真髄なれば、お伽の中に、強烈なリアリズムを醸し出すのに成功している。そのトマスの筆致を壊すことなく、淡々として簡潔な名訳が作者の思惑をうまくなぞっている。本書には―もしそのような物騒なものがあるとすれば、だが―ある種の戦記に見られるロマンが漂っている。 そして我々にはローズマリ・サトクリフがいる。胸躍る冒険ロマンで描かれる方がよい箇所(つまりは、本書でカットされている箇所の幾つか)は、サトクリフ版三部作で補えば十分ではないだろうか。あたかも、それが正しい読み方であるかのように、こうした相補関係を起動することはあながち間違っていないと確信している。 歴史的な目線で見れば、当時の騎士道とはどのようなものだったのか、さらには、当時の騎士たちがどのような戦い方をしていたか(これを知れば、後にそれがどのような変化を遂げて、やがて槍や剣を銃器に持ち替えるにいたったか、を想像で埋め合わせることが可能だ。そしてその想像は相当精度が高いはずだ)。 それにしても、いつも不当な扱いを受けてきた“沼のエクトル卿”の息子にしてアーサー王その人の乳兄弟、国務長官ケイ卿は、言うなれば聖書に言うイエス・キリストの先触れたる洗礼者ヨハネの役回りであるし、またある意味では後の中世貴族社会における騎士道のメンタリティ、つまりはモードやマナーとしての騎士道、ヒロイズムと無縁の、文化的精神としての騎士道をただひとり先取りして体現していたことは指摘して評価しておくべきではないか。前時代的な騎士道精神の中で、ひとり先駆的にクールでヒップだったのは、実はケイ卿ではなかったろうか。 ところでアーサー王の物語というのは結局、突き詰めれば、マッチョ(父権的・男性中心主義的)な王と迷惑な間男(これが最高の騎士の姿だとは!!)、不貞な王妃による三文オペラなのか、と侘しい気持ちにもなってしまった。高度なリアリズムは、時に残酷である。(了)アーサー王の死■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/07/02
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見出し:怪傑ゾロ誕生までを描いた、オフィシャル「成長小説」。 イサベル・アジェンデ著、中川紀子訳『ゾロ:伝説の始まり』(上・下)(扶桑社) ドン・ディエゴがいかにして黒いマスクを着けるにいたったか?愛馬・トルネードに跨り、片手に鞭、片手に名剣・フスティシアを携え、颯爽と荒野を駆ける“カピストラノの疫病神”怪傑ゾロ誕生のいきさつは?あの黒装束の伝説のヒーローの「ビギンズ」と来れば、これを読みたくない人が果たしているだろうか。 本書は、中南米文学では必ず名の挙がる、ペルーはリマ出身、『精霊たちの家』で知られる名手・イサベル・アジェンデによるオールドファッションな冒険小説へのオマージュ的一作である。しかも、『怪傑ゾロ』原作者ジョンストン・マッカレーの版権に意見できる筋から、正式にオーソライズされたオファーによって書き上げられた作品なのである。 滅法面白い。ゾロ誕生までの道のりを目の当たりにした謎の伝記作者が、思い出を語っていくという仕掛けも、このあまりに有名な伝説的英雄の誕生秘話を客観的にする点で奏功している。「マスク・オブ・ゾロ・ビギンズ」なんて、誰だって飛びつきたくなるはずだ。 とはいえ実はこれ、作者の目線から(そしておそらく読者による、なにか「ビギンズ」のようでそうでないような、微かな違和感から)すれば「ビギンズ」ではない。一応、ビルドゥングスロマン、つまり成長物語という位置づけになっている。昨今「ビギンズもの」が流行だが、ビルドゥングスロマンとなると、これは話が違う。いかにしてドン・ディエゴがゾロになりし哉、という筋書きに相違ないが、厳密には「ビギンズもの」と「成長物語」では両者は違うからだ。なるほど、これは「ゾロ版青春グラフィティ」か、はたまた「ゾロ版青春白書」か。 内容としては、やや荒唐無稽の感もあり、説明的に過ぎる部分も散見され、あまりにたくさんのアイディアを背負わされた(および、原作との整合性を意識させられすぎた)作品、という印象は否めない。しかし、怪傑ゾロのサイドストーリー、あるいは一種のスピンオフとしては相当に読ませる正統派冒険小説だ。 また、この作品が「ビギンズもの」でなく「青春グラフィティ」だと分かれば、ディエゴ少年がヨーロッパでサーカスをしたり、ジプシーと恋したり、秘密結社に入ったり、などといった武勇伝があったら確かに面白いには違いない、と理解できる。だが、この武勇伝には楽しい話ばかりが出てくるわけではない。そこに着目すると、今度は、本作で描かれるドン・ディエゴが、後の怪傑とは結びつかない。どんなに事実の裏付けが語られても、これだけの悲喜交々を経験した男が、あれほどからりとした快男児にはならないのではないか、という疑念が湧いてしまう。実際人格とはそういうもので、それはフィクションにおいても同じことだ。パーソナリティ造形という意味では、このジェットコースター小説と原作との接点には首を傾げざるを得ない。 加えて、ディエゴ少年がやがて青年となり、ドン・ディエゴ=ゾロとなるまでの成長物語でありながら、実は作中、ディエゴ自身が一番退屈な人物である。逆に、その脇を固める人物達が、大物からちょっと出のカメオ級まで、非常にいきいきと豊かに描かれているのが特徴的である。 なにしろかの名高きゾロだ。だから、大作家の力量をもってしても、十分に描くことは躊躇われたのか、という勘ぐりとともに、「そうか。この個性的で素晴らしい人たちが、のちのゾロを生んだのか」というさわやかな納得も抱いてしまうのである。いずれにしても、ヒーローの種明かしは、畢竟、伝説をミステリアスでなくしてしまうということだろうか。 怪傑ゾロ誕生の物語。読者諸氏はどのように読まれるであろう。(了)ゾロ(上)ゾロ(下)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/06/27
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見出し:西欧世界のキング・オブ・ネタ帳。ローズマリ・サトクリフ著、山本史郎訳『アーサー王と円卓の騎士―サトクリフ・オリジナル (サトクリフ・オリジナル)』(原書房) 正直言って、アーサー王伝説について、それも物語を読むということは、私にとってはダンテの『神曲』を読むようなもので、できればいつまでも手を付けず、この世のあらゆる愉しみがなくなった頃に手繰りたいテーマであった。そして、アーサー王伝説については、意外にも必然的な“読むべき時”が早く訪れてしまったというわけだ。 そういうことで、実は私は、活劇的な意味でしかアーサー王と円卓の騎士たちの物語について何も知らなかったし、これに踏み込めば、また大きな森に彷徨うことになるという重圧感があって遠ざけていたので、サー・トマス・マロリー『アーサー王の死』に行く前に、この壮大にして複雑な物語の糸玉に手がかりを見出したいとの思いから本書を手に取った。 しかしまぁ、サトクリフ・オリジナルと冠するのだからすごい。ツクダオリジナル並みにすごい。それだけこの著者によるシリーズが、本テーマを扱ってステイタスと読者を獲得しているということだろう。 事実、サトクリフ・オリジナルには、古き良き英雄をテーマにした物語が日本でも7巻出ていて、どれもこの分野における名著として長く親しまれているようだ。 まずは、かの名高き円卓の騎士について、ざっと読みたい。そういう私のニーズにも応えてくれるからこのシリーズは素晴らしい。何重にも折り重なったアーサー王とその騎士たちの物語の中で、ハイライトとなる物語やテーマをうまく整理し、短編集的に編集しながら記述して一巻の物語としたところがこのシリーズの特徴なのだ。 文章は読みやすく、ちょっと児童書のような印象もありながら、しっかり大人の読者をも満足させてくれる(それなりに読書好きな子供たちにとっても、比較的読みやすいのではないだろうか)。 しかし改めて、アーサー王伝説というテーマは、特に西欧世界の、あらゆるジャンル、あらゆる文化にとって、時代を超越したネタの宝庫なのだと痛感。 アーサー王と円卓の騎士たちの名誉を証す旅は、形を変え、メディアを変え、今も、明日も、続いているのだ。(了)アーサー王と円卓の騎士■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/06/22
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見出し:書けない乱歩と、妖しい四日間を極上のホテルで。久世光彦『一九三四年冬―乱歩』(新潮文庫) 嫌い嫌いと言いながら、やっぱり読んでおきたかった本書。読後、「うーん、すごい」。それしか出てこない。タイトル通り、1934年、一月の寒風が旋毛巻く東京、江戸川乱歩四日間の物語である。 何がすごいって、その文学的意味(たとえば小説言語など)については、解説で井上ひさし氏が述べている。単純に、こんな、何もない、平凡な四日間を、ここまでの作品に仕上げたな、ということ。まず、この作品、江戸川乱歩の伝記になってしまってはいけない。飽くまで江戸川乱歩を主人公とした小説なのである。 そこで久世は、スランプに陥った乱歩―巷間知られるあの大探偵作家、怪奇の帝王の看板から逃げ出す為に、文字通り世の中からコソコソと逃げ隠れて来た乱歩―を登場させるのである。 世の喧噪と好奇の目(もう、乱歩は書けない…のか!?)から逃れるために偽名で飛び込んだ洋館のホテルで、書けない乱歩が、過剰な怯懦と過敏なデリカシー、過度な煩悩で独り相撲を取る中、虚実綯い交ぜになった、怪しの話が展開していく。そして(久世が描く)乱歩が、崇高なことから卑俗なことまで、気まぐれに摘まみ上げては、それについていちいちボヤき、自問自答し、懊悩し、いけない妄想を先走らせるとのと並行して、この異様な、隔絶した、孤立した、奇妙な四日間で『梔子姫(くちなしひめ)』という作品を書き上げていく。書けない乱歩が、書くのである。 無論、この『梔子姫』は、久世流の粋な仕掛けであって、つまり作中作、“久世による乱歩”の贋作なのであるが、乱歩は久世の操り糸を借りて、ともかく『梔子姫』を書き上げるが、要するにこれは一種のカタストロフィーであり、書くことで模糊とした自身を乱歩は整理したのである。整理したから、『梔子姫』は世に出ない。つまり、幻の作品ということになる。こんなオチも洒脱である。もっとも、『梔子姫』、どう考えても久世光彦の作品で、乱歩はこうは書かないだろう、などという指摘は野暮だろうか。 とまぁ、実に筋はシンプルだ、作中作を書かせることで、世間から隠れた乱歩が四日間でスランプに一応の結着をつける。それだけの話し。ミステリらしい要素は何もないのに、妖しく、かつ面白いのは、数々の仕掛けや選ばれた言葉の一つ一つの相乗効果もさることながら、やっぱり久世による乱歩像の徹底的かつ精密な作り込みが素晴らしいからだ。文字通り、手抜かりがない。窮屈な拘束儀のように、息苦しいほど周到なのだ。 だから実在した大作家を狂言回しにしても、荒唐無稽にならない。誰よりも乱歩を知っている風に、この人は書く。だ から、我々も、乱歩を身近な、昔からよく知っている近所の風変わりな物書きのおじさん(失礼)のように感じてしまう(蛇足ながら、この究極に練り上げられた久世の乱歩像に触れて、久世のユーモラスな一面を垣間見ることが出来たのは何よりで、私の“久世恐怖症”が少々緩和されたのである)。 先に、「虚実綯い交ぜ」と書いたが、一歩間違えば正統・乱歩伝としても通用しそうなほど、江戸川乱歩についてはてっぺんからつま先まで、徹底的にディティールが描き尽くされ、もし当の乱歩自身が「私はこんな人物ではない」と言い張ったとしても、小説の中の乱歩の方が真実のような気さえして来る。加えて、乱歩周辺―文壇や文化、あるいは社会、 交遊-の差し込み方も秀逸である(これは、半分は乱歩自身の、半分は久世の思い入れや意見が、乱歩を通じて述べられているのだとしても)。読者諸氏においては、このおどおどした、小心で几帳面、臆病で見栄っ張りな大作家とともに、美青年の笑顔が迎えるホテルで、極上に耽美な四日間を満喫していただきたいのである。(了)一九三四年冬ー乱歩 ■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/06/11
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見出し:乳房は誰のものか?マリリン・ヤーロム著、平石律子訳『乳房論』(ちくま学芸文庫) 現在のところ、日本語で読める乳房論の最も信頼できる一冊ではないだろうか。テーマは一貫して、「乳房は一体誰のものか?」「乳房は本来誰のものか?」そして「乳房を取戻せ」と、はっきりしている。 古来、豊穣のシンボルであった神代の時代から、女性の女性らしさが、いかに男性中心主義・ファロセントリックな制度や装置の中に取り込まれ、欲望と消費、暴力と束縛の拷問ペンチに挟まれ、そしてコルセットの中に押し込まれて来たか、米国、ヨーロッパ諸国の各風土や文化、宗教観それぞれについても取りこぼすことなく、逐一検討考察を重ねて、乳房奪還への道のりを丁寧に論じていく(欲を言えば、東洋的価値観の下における乳房の考察が、表面的に、あるいは図版扱いのようにしか登場しないのは残念だが、これはまた同時に日本においてこの種の議論が盛んでない、あるいは成熟していないことも示している)。 ふたたび本書は、先に述べたよう、テーマが一貫しているため、この硬派な縦糸が存分に暴れ回り、その鋭い矛先(本書では、乳房は攻撃的たるべしと述べられているから)は、神話、宗教、セクシュアリティ、衛生学や階級論、教育論、道徳や倫理、さらには心理学、文学、芸術、医学までをも貫いていく。乳房および乳房の記号的な意味や役割(それが、女性にとって不都合な、押し付けられた制度の結果であっても)を通して、様々な分野に分け入り、疑問符を投げかけてみるというのは実にスリリングであり、また男性として教えられることが多々あった。 もともと、私自身が社会学の世界に身を置いていたこともあり、また差異の問題、さらには身体の問題(まさに「黒い、白い、黄色い肌は誰のものか?」であるとか「アティテュードはステレオティピカルなボディラインを超越するか」などなど)も多少テーマに組み入れていた手前、実は本書で語られる、きわめて社会学的な発想や問題提起の道筋や論調そのものには、それほどの驚きを感じたわけでもなく、むしろ当たり前―つまりは、どの権利闘争や異議申し立ても必ず通る闘争史―として読め、また受け取れてしまった。と同時に、いやだからこそ、竹を割ったような著者の記述に対して、「乳房が、その本来の所有者に戻ったとして、今度は、肉体を所有することと解放されるということは一致するのか?人間/人格は自らの肉体の所有者なのか?所有する主体は、どこに(例えば、心脳問題でもいいが)存在するのか?」などと、つい素直になれない癖も出てしまう。 結局、私は社会学者が宿命的に背負う「闘う」というスタンスに、どうも馴染めない性質なのだ、ということに改めて直面させられてしまう。これはもう、向き不向きの問題、適正の有無の問題なのだが。 本書で特に着目すべき箇所は、個人的には中世絵画における聖母子の描かれ方の分析、ファッション史、乳房とその政治的役割を論じた箇所、さらに後半、一種の運動としてアート化された武器としての乳房たちの影響力、そして個人を離れたところでは、乳ガンについて、特別に入念かつ真摯にページを割いて、この人類の脅威との闘い、そして共存への積極的可能性を、使命感を込めて論じた箇所であろう。発表が1997年、と10年以上も前でありながら、一部の箇所を除いてきわめてリアリティに富んでいるのは、それだけ社会が、人類の知性に成長(進歩とは言うまい)が見られなかったからだと反省すべきかも知れない。(了)乳房論 ■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/06/10
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見出し:インディが最後の冒険で手に入れた宝物。ジェイムズ・ローリンズ著、漆原 敦子訳『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』(ハヤカワ文庫) 本書は、劇場公開を間近に控えるインディ・ジョーンズ待望の最新作のノベライズ版である。個人的にも待望している身としては、自覚的にネタバレに身を投じる、というのはおろかなことだと知りつつ、いちはやく手に取った次第であるが、こうした後に回すべきお楽しみ、それも、圧倒的に映像文化の申し子に違いないインディの活躍を、あえて映像を見る前に、しかも活字で予習してしまうにもそれなりのワケがある。 ここのところ、劇場公開されたインディ・ジョーンズのエピソードのノベライズ版三作を文庫で一気に読んだ。その感想はすでに記事公開したが、それは必ずしも文庫版に好意的な内容ではなかった。しかし、一つ分かったことは、いかに画面の中でしか暴れられないインディではあっても、それは同時に映画というフォーマットに縛られることを意味している。 具体的に言えば、劇場公開用作品として捉えた場合、あきらかに不必要であったり、説明的であったり、求められるテンポを乱すような細かい設定やシーケンスは、映画では省略あるいは編集されてしまう。映画と文庫を切り離せばどうということはないが、包括的に作品世界に触れたいという場合、このカットや編集は痛い。それを痛切に感じたのが、実は先に記事に挙げた『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』のノベライズ版を読み終えたときだった。映画に登場しない背景や心理描写が、文庫にたくさん置き去りにされていたのである。 かくて、インディ最後の冒険となるであろう最新作は、映画を観る前に、おそらくは語られることがないであろう細かい設定まで知っておきたいという思い抑えがたく、「先読み」する運びとなったのである。そして、読み終えてみて、やはりこの最新作には、文庫でしか拾えない“インディの老い”、“人生という名の冒険の総括”が克明に刻み込まれているという確信がした。 そう、今度の作品は、インディ・ジョーンズというタフガイの“老い”が最大のテーマだ(実はある事柄の和解、恢復もテーマだが、それはここでは書かない)。この“老い”の扱い方は、前作で和解した父・ヘンリーが魅せてくれた“老い”とは違い、よりリアルで切実なはずだ。したがって、我々はインディ・ジョーンズ・シリーズに“老い”という要素が入ってきても、作品の若々しさがいや増すだけだということを予習しているが、それは予習にはならないのである。 これだけ世界が待ち望んだ最新作において、インディに何を探索させるかについては、ルーカスとスピルバーグの間で、かつてのそれとは比較にならない、本質的な意見の食い違いがあったと聞いているが、展開そのものは、まさにインディ節。少しアナクロニズムではないかと思うほどに、スリルまたスリル、お約束のカーチェイス、どんでん返し。これも長年のファンへのサービスだろう。そう、この『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』は、インディ・ジョーンズ・シリーズそのものへのセルフ・オマージュなのである。そうして、最終的にインディが探し出し、手にするものは、“老いとの共生”であり、“老いの受容”であり、欲しながら一番手が届かなかった“絆”なのではないだろうか。(了)インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国【予約】超特大、最安値!!SideshowToy社1/4 スケール・プレミアム・フィギュア/インディ・ジョーンズ レイダース/2009年1月)【送料無料】【10%OFF】ARTFX インディ・ジョーンズ/「レイダース 失われたアーク」【送料無料】【10%OFF】ARTFX ヘンリー・ジョーンズ/「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」インディージョーンズ 鞭プロップレプリカインディージョーンズ なたプロップレプリカインディージョーンズ レプリカ帽子 レギュラーエディション Mサイズ■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/05/30
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見出し:型破りインディ、ページを抜け出し東奔西走。a:キャンベル・ブラック著、秦 新二訳『インディ・ジョーンズ レイダース 失われた聖櫃』(ハヤカワ文庫)b:ジェイムズ・カーン著、山田 順子訳『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』(ハヤカワ文庫)c:ロブ・マグレガー著、大森 望訳『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』(ハヤカワ文庫) 訳が悪いわけではない。ましてや原文が。そうではなく、この作品、世界観、そしてすでに感覚してしまったイメージが、活字というメディアと合わないのだ。あのお家芸とさえ呼べるスピード感やスリリングな様、それらをさりげなく予感させ助長する間。これらは、映像においては、役者の演技、身振り一つや表情一つ、実に数コマで表現されるが、文字で追うとなると冗漫で、きわめて説明的なのだ。 読んでいてどれも、それこそトロッコが、急ブレーキでガタガタと音を立てて軋り、小石に躓くように、まるで一向に話が展開しないような気がしてしまう。 さてこのインディ・ジョーンズシリーズもまた、スター・ウォーズと同じく、映画化されない関連エピソードが多数文庫化されている。しかし、これまたスター・ウォーズと同じく、同作品は私にとって映画ありきなので、それらを網羅することはしないが、改めて、映画化されたエピソードを原作で読み直して、冒険活“劇”の力を思い知った。本で読んでも面白かった、怪傑ゾロ』や『スカラムーシュ』、飛躍して『アルセーヌ・リュパン』シリーズと同じ系譜と勝手に大きく括っていたが、この型破りの冒険学者は、きわめてユニーク、まさに唯一無二の“オレ流キャラクター”と再認識したのである。 映画でしか、いや映画でこそ、インディアナ・ジョーンズは躍動し、滾る情熱と漲る生命を得ることができない。ゾロやリュパンとは異なり、映像文化世代の申し子らしいヒーローぶりである。 と言いつつ、一応劇場最新作『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』の原作もこれから読むつもりである。また著者・訳者の名誉のために付記しておくが、 『インディ・ジョーンズ レイダース 失われた聖櫃』と『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』(特に前者)は、映画と切り離したとしてもなかなか面白かった。『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』をやけに退屈と感じたのは、初めて映画館で観てひどく興奮したインディ映画が、この『魔宮の伝説』だったから、というハンデがあるのかも知れない。(了)インディ・ジョーンズ レイダース失われた《聖櫃》 インディ・ジョーンズ魔宮の伝説インディ・ジョーンズ最後の聖戦【予約】超特大、最安値!!SideshowToy社1/4 スケール・プレミアム・フィギュア/インディ・ジョーンズ レイダース/2009年1月)【送料無料】【10%OFF】ARTFX インディ・ジョーンズ/「レイダース 失われたアーク」【送料無料】【10%OFF】ARTFX ヘンリー・ジョーンズ/「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」インディージョーンズ 鞭プロップレプリカインディージョーンズ なたプロップレプリカインディージョーンズ レプリカ帽子 レギュラーエディション Mサイズ■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/05/23
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見出し:若さの残酷に共感できない、という凄惨さ。レイモン・ラディゲ著、新庄嘉章訳『肉体の悪魔』(新潮文庫) 若くないつもりでも、瑞々しさを失ったつもりもない。だが、文学にはよむべきタイミングという意味で、“読者の旬”というものがあり得るのだということを久しぶりに味わった。ラディゲの『肉体の悪魔』を開くのは、15年ぶりくらいかも知れない。久世作品にあてられて、これまた恐いもの見たさのような感覚で久しぶりに手に取ったのだが、やはり、そこに映ったのは、共感はしないまでもどきどきしながら巧みな真理描写を追いつつページを繰ったかつてのあの高揚感を、いまやすっかり失ってしまった私の姿だった。 月並みな言い方がだが、誰にも訪れるあの不安定な時期だからこそ読めた『肉体の悪魔』。己の内に飼う肉体の悪魔と闘ったいたから、主人公の、マルトの魔性が心で理解できた。作品の中に、曲がりなりにも身を置くことが出来た。それが、今はもうできない。ラディゲ、わずか20年の生涯の中で、その晩年(なんとグロテスクな表現だろう)でありながら同時に、突けば果汁の滴り落ちんばかりに充ちた“悪魔の年頃”であった16歳から18歳にかけて書かれた本作は、読者を選ぶ作品だったのに違いない。 失いつつ得たものもある。かつてはメインディッシュの添え物としてほとんど記憶にも残っていなかった戯曲『ペリカン家の人々』の、きりりと締まったボリュームの中に詰められた、スリリングでスピーディな展開。そこに、嘲るような怜悧なエスプリが利いて素晴らしい。これは、もしかしたらこの年齢だからこそ珠玉として味わえるようになったのかも知れない。もっとも、これまたラディゲは私の年齢に遠く及ばない若き日にこの作品を遺したのであるから、本人がいかにそうした風評を嫌がろうと、早熟と呼ばずには溜飲が下がらぬというものだ。(了)肉体の悪魔改版■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/05/19
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見出し:だから、怖いもの見たさはやめておくべきだった!! 久世光彦著『怖い絵』(文春文庫) だからやめておくべきだったのだ。やっぱり怖かったのだ。そう、私は久世光彦が苦手なのだ。私自身もたくさん読んだわけではないが、久世光彦の文章は、根底の部分で私を慄然とさせる、ある意味不快感があるから生理的に受け付けない(それは、 つまりは久世光彦の世界観が、強烈に洗練されユニークであるがゆえなのだが)し、その美学には、私とは対極にある匂いがし、彼を読むときいつも、なんともいいがたい息苦しさを伴ってしまう。もう読むまい。そう、いつも思うのだ。 単純に「怖い」という意味では、中野京子著『怖い絵』よりもはるかに怖い絵の話が登場する。というよりも、結局、この絵のここが怖い、あれが怖くなかった、ということではなく、久世光彦が怖いのだから、、もうこの一冊まるごとが怖くて怖くて仕方がないのである(ところどころに意図的に配される、読者の無意識を騒がせる布石やシークエンスが、じわじわと大きな演出につながる仕掛けなどには脱帽してしまう)。 そうして私はつい久世光彦を避けてしまうのだが、今回はただ、中野京子版『怖い絵』を読んだから読んだ、そんな軽い動機だったのに、やっぱり、それこそ久世風に言えば、粘っこい陰鬱な雨のように重苦しい話が、儚く情けない蝋涙のような私の臆病にのたくってまとわりつき、冗談のように無垢な頁から久世の文章が、印刷された文字の一字一字が、まるで何もかもお見通しとばかりに何千、何万もの目となって私の怯懦を、稚い性欲を伴って窃視しているかのようなのだ(我ながら大袈裟だが…)。 振り返って、軽い動機があったにせよ、結局なぜ久世光彦の『怖い絵』を読んだか。怖くて仕方がない久世光彦の侵入を、恐いもの見たさの衝動が抑えることができなかったのである。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/05/14
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見出し:絶対に、これは独り言だ、と思った。鹿島茂著『乳房とサルトル 関係者以外立ち読み禁止』(光文社知恵の森文庫) 鹿島茂による、所謂薀蓄本である。この人にかかると、卑近なテーマも、ごく日常的な話題も、素通りは許されない。乳房もハンバーガーも、サルトルの『嘔吐』も、映画『シェーン』もラーメンも、同じ地平で語られる。 私は常々、「知」ないしインテリジェンスというものは、点としての雑学の多少ではなく、線の張り巡らせ方の柔軟さと、それが描く美しさだと考え、また言い続けてきたが、この一見軽薄そうな(失礼!!)本には、まさにそれがあるのだ。一本の線があれば、点たる雑学や知識(つまり、単体では薀蓄としてしか成立しない事柄)が、意外な広がりへとつながっていく。それを読者として鳥瞰すると、そこにはテーマの身近さを忘れさせる豊穣なタピストリーが織り上げられていることに気付く。 かといって、難しい本では断じてない。楽しい読み物なのだ。ふたたび、テーマはどれも「たかが」であるが、「されど」な奥行きを宿していることに気付かされる。なるほど、「たかが」な点を、「されど」と線に結ぶ一つのドライブは、「なるほど」で済ますことなく、その先に執拗な「なぜ」を投げかけることであったかと初心に返らせてくれる、一冊であった。 ところで、私は本書をパラパラとめくりながら、これは絶対に独り言の産物だ、と思った。どんな小さなことや、取るに足らないことにも、「なんでかなぁ」とつい首を突っ込みたくなる人間の、あのぼやき。誰に聞かれるでもなく、ましてや誰かに聞かれていることを意識などしない、独り言。私自身が、まさに独り言が服を着て歩いているような人間なのだから、この直感は間違いないと思っていたら、やはり本文の中で筆者によるそのような言及があった。 ここで膝を打ちたかったのだが、そうはいかなかった。本書の最後に南伸坊氏による本書の解説が掲載されているが、何のことはない、いまこうして書評として書いてきたことも、あるいは私が「したり!!」と膝を打とうと得心したことも、なんとすべてこの解説に書いてあるのだ。 一言一句もらすことなく、まるで私が書こうとしていたことを言い当てられたかのように、すべてが先に解説されていた。重ねて言うが、一言一句違わないのだ。かつてこれほどまでに、ぴたりと書きたいことを誰かに代弁してもらった、という経験はない。そういう意味で、解説もまた衝撃的な一冊であった。変な話だが、この本について私が書きたかったことに興味がある向きは、実際に本書を手にとって、まず最初に解説を読まれることをお奨めする。(了)乳房とサルトル■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/05/14
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見出し:「ね?この絵、怖いでしょ?」中野京子著『怖い絵』『怖い絵2』(朝日出版社) こう書くと営業妨害になるだろうか(まさか!!)。本書、タイトルがピリリと利いているとはいえ、実際には、言うほど怖い絵が出てくる訳ではない。ここに陳列されるのは、基本的には著者自身の作品(およびそのほかの事象)に対する怖がり方のプロセスだけである。実は、著者自身が何に恐怖するか、あるいは何を怖いと解釈するか、を披瀝しているというのが正体だ。それらは、信憑性ある図像学的解釈に徹するというよりも、作品にまつわるエピソードや作品に描かれたディティールの、あくまで解釈においての怖さなのであるが、ついつい 「ね、怖いでしょ?」と念を押されてしまう。 人間が何に恐怖するかには、実は基準がない。恐怖というのはきわめて主観的な感情でもある。 したがって、解釈の着眼点と巧みな説得力があれば、どのような作品を前にしても、いかようにも怖い絵に出来るし、逆に同じく基準がない、あるいは主観的な感覚で作品解釈すればいろいろな本も作れるのだ。たとえば、甘い絵、臭い絵、痒い絵…というように。 だが確かに、著者が意図するように、それぞれの作品が描かれた時代背景や文脈を、多くの場合鑑賞者は十分に知らないから、「ほほぅ」と鑑賞できるのだが、実際には絵画には芸術作品以上の意味がある。それらはジャーナリズムとしての役割だったり、スペクタクルだったりカタストロフィであったり。こうした絵画の多面的な機能や役割を知ると、作品を鑑賞する上で新たなパースペクティヴを得ることが出来る。そうした豊穣な可能性を「恐怖」という感情・感覚で気付かせてくれるところに、本書の面白さ、愉快さ、そして恐ろしさがある(一番怖いのは、どんな絵も「怖い絵」にしてしまう、著者の逞しくダイナミックな解釈回路かも知れない)。 余談だが、レオナルドの天才の前に筆を折った、“超一流を知る一流画家・ヴェロッキオ”の大器振りには思うところが少なからずあった。私にとっては、人間の器量の小ささを見抜いてしまう瞬間こそが何より恐ろしい。(了)怖い絵怖い絵(2)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/05/09
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見出し:覚醒した“匂いの帝王”、“天才香料化学者”になる。ルカ・トゥリン著、 山下 篤子訳『香りの愉しみ、匂いの秘密』(河出書房新社) そうか、私の生まれ年のワインは何が当たったか知らぬが、少なくともサンダルウッドという香りが発見された年であるらしい。ともあれ本書からは、ドキュメンタリー・スタイルだったルカ・トゥリン関連本『匂いの帝王』とは打って変わって、自身による書き下ろし、“匂いの帝王”から“天才香料化学者”になったルカの近影が垣間見える。 化学や物理の素養があればたちどころに、偉大な先人たちの“鼻”が築いた功績のアウトラインが判るのだろうと思うと、不適格者の私は些か悔しい。 加えて客観的・俯瞰的に、研究を取り巻く概要の今昔が語られる後半部分では、夢見がちだったルカの成長を見ると同時に覚醒したトーンがやけに目立ち、気の利いた文体(なるほど、分子に「スピリチュアル」という言葉を使うのは嫌なのか…)が唯一の救いとなる。あの荒削りなロマンティストの片鱗は、語り口にしか見られない。 また、重ねて俯瞰的であるがゆえに、思わせぶりなタイトルほどに、香りの謎が詳らかになった、あるいはされているのでもない。かの芳醇で豊かな文章と併せて、これはサイエンス系読み物なのだ、と受け止めるのが正解だろう。 ただし、あらゆる研究分野において、匂いや嗅覚に関する専門的研究や分析があまり注目されて来なかったこと、この可能性を秘めたセンスが開拓不十分である点についてのルカなりの反骨精神や不満が書かせた本書には、科学・化学のみのらず、人間そのものを考える数々の視点が仄かに薫っている。世界中が注目する生物物理学者、ルカ・トゥリンの芳しい道行に今後も目が離せない。(了)*蛇足を承知で私の「香りの道行き」はコチラとコチラで。香りの愉しみ、匂いの秘密■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/30
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見出し:「過去未来」を閉じ込めたタイムカプセルは超現実への隧道鹿島茂著、鹿島直写真『パリのパサージュ―過ぎ去った夢の痕跡』(平凡社) エッフェル塔、シャンゼリゼ大通り、凱旋門…。こうしたモニュメンタルなランドマークとは別に、おそらく多くの人がパリ(いや、ヨーロッパ全域)に対して抱く、“それらしい”光景や景色を思い浮かべるとすれば、それはきっとパサージュではないだろうか。パサージュを覆うガラス屋根から射す弱々しい自然光の中でもセピア色に染まり、古ぼけた書店や老舗の文具店、アンティーク・ショップ(お店自体がアンティークなのに!!)らが軒を連ね、そこを通過するだけで、タイムスリップしたような感覚、あるいは、ドラマティックな、映画のセットの中にでも迷い込んだかのような感覚を抱く場所。 この古色蒼然たるパリ名物を軸にして、都の来し方と現在を巧みに、実に映像的に描いたリオナード・ピット(Leonard Pitt)による『Walks Through Lost Paris: A Journey into the Heart of Historic Paris 』(Shoemaker & Hoard )は、私もカルチェ・ラタンの書店で求めて読んだが実に面白く、改めてパサージュの持つ特殊な魅力に関心を抱いた。実際には、リヴォリ通りとカスティグリオーネ通りの交わる周辺、そのときは何も分からずにこんなものかと彷徨い歩いたパサージュだが、『パリのパサージュ―過ぎ去った夢の痕跡』には、リオナード・ピットに勝るとも劣らぬ“パサージュ愛”に満ち満ちた一冊となっており、着火して間もない私の興味に油を注いでくれた。 パサージュ、正式にはパサージュ・クヴェール(ガラス屋根で覆われたパサージュ)。筆者の定義によれば、1:道と道を結ぶ、自動車の入り込まない、一般歩行者用の通り抜けで、居住者専用の私有地ではない。2:屋根で覆われていること。3:その屋根の一部ないしは全部がガラスないしはプラスチックなど透明な素材で覆われており、空が見えること。この定義に従って、2007年11月時点で現存する19のパサージュについて紹介している。 パサージュは、現実の中に佇みながらも異界へと通じる、すなわち文字通りシュルレエルへの路なのであり、筆者は「(パサージュとは)ひとつの時代が語っていた夢の過去未来的表現」と、難しい文法用語を用いてパサージュを形容しているが、まさに言いえて妙、然りと膝を打つ次第。ニュアンスをよく伝える箇所を本文から少々引用させていただくと、 “未来形が予言した「時の点」を、現実の時間がとうの昔に通りこしてしまい、われわれがそのありえたかもしれない「時の点」を遠い過去として振り返らざるを得ない…(中略)…過去未来”“もはや過ぎ去ってしまった未来の明るさに対する哀切の感情” と、実にパサージュのタイムカプセル的な不可思議な甘酸っぱさ、あの開けて嬉しく恥ずかしく、どこか喪失感を禁じ得ない複雑な感情を巧みに表している。 また、もちろんベンヤミンに依って「黄泉の国」としながら、この未来の詰まったカプセルの化石には半覚醒で望まねば、この世に戻って来れなくなる吸引力を持っていると、並々ならぬ愛惜の念を込めて結んでいる。 確かに、パサージュはパリにしかない。そして筆者も念を押すように、パサージュは日本にもある商店街やショッピングモールとは違う。しかし、かつての日本―そう、街中にもまだ神秘があった時代の日本―にも、その先へ足を踏み入れれば、「神隠し」のように戻って凝れなくなるのではないかと思わせる辻や小路や曲がり角があった。そう振り返るとき、パサージュの記号的意味に、「日常に神秘が残存していることの証拠」を加えたくなるのだ。(了)パリのパサージュ■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/28
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見出し:恥ずかしい日記で英雄になった男。臼田 昭著『ピープス氏の秘められた日記―17世紀イギリス紳士の生活 』 (岩波新書) 17世紀イギリス紳士のリアルな日常を知りたいと思ったら、何を手に取るべきであろう。本?論文?映像や資料の数々?博物館を訪ねる?いずれでも目的は果たされない。手段は二つ。タイムマシンの完成を待つか、ピープス氏の日記を読むことだ。 本書は、当時を生きた、サミュエル・ピープス氏の日記を紹介した本である。そもサミュエル・ピープス氏とは何者なのか。17世紀イギリス、階級制度や門閥意識の高い当時にあって、地盤・看板・カバンもなく、平々凡々たる経歴しか持ち合わせぬ一市民が、細心な観察眼と、なにより、飛びぬけた小心さで以って、海軍大臣まで出世した人物である。 さて、ピープス氏が生きた時代を知るのに、彼の日記に頼らざるを得ないには理由があり、その理由のゆえに、ピープス氏の日記は、他に追随を許さぬリアルな日記文学として、その立身出世以上に歴史に名を残したのである。 本書の著者が指摘するように、そも日記文学というのは、本来的な意味では存在しない。永井荷風の『断腸亭日乗』を引き合いに出して、著者は「」忠実な記録を心がけた荷風にも、己を超俗の風流人に擬装とするたくみな取捨選択や隠蔽の偏向が見られるはずだ」というようなことを書いている。つまり、それは単に日記ではなく、「永井荷風の日記」になってしまうということである。読者を意識したにっきに、リアリティを望むことは難しい。 そこいくと、ピープス氏は徹底している。というのも、彼の日記には、絶対に誰かに読まれたくない話しか書かれていないからだ。もし読まれれば、後の海軍大臣の沽券にかかわる。同僚の悪口、体制批判はまだしも、浮気、女遊び(時には教会で礼拝中に!!)、懺悔、守られない道楽禁止の誓い、賄賂と口利き、そしてうんざりするほどの家計簿。それらがいずれも圧倒的な悪意でなされ、その結果を綴ったものなら一種のピカレスクな趣を感じるものだが、ピープス氏の場合は真逆。牧歌的で、あっけらかんとしていながら、同時に恐妻家ぶり(平凡にして小心なれど、学問は能くしたピープス氏は、ラテン語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ギリシャ語までを修めたが、それらを出世ではなく、情事の顛末を言葉を解しない妻に見破られないために縦横無尽に駆使した!!)を発揮したり、おどおどしたり、貯金している貨幣の一枚二枚の増減のことで眠れなかったりする。小市民の動揺の一つ一つが、詳らかに記されているのである。 さて、ひょんなことから、本人の思惑と異なり世に出てしまった日記。生前発見されなくて、ピープス氏は天国で胸を撫で下ろしていることであろううが、なに、後世この奇書を見出した我々は、死者に鞭打つような真似はしない。いや、むしろかえって、この真の意味においてリアルな日記が見つかったからこそ、後の世の人は17世紀イギリス事情を克明に知ることができるのであって、むしろピープス氏が披瀝を望まなかった日記は、尊敬と歓迎をもって世界に受け入れられたのである。小市民の小心な恥ずかしい日記帳が、ピープス氏を歴史上の英雄にした。まこと、運命とは味なものである。 実に、萎えてしまいそうになるほどの「せこい」日記の抜粋を、粋に読ませてくれるのは著者の洒脱な文章と、巧みなキャプションのおかげであることを付け加えておきたい。(了)ピープス氏の秘められた日記■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/18
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見出し:台詞一つが宝石なり、“三島版・黒蜥蜴”。三島由紀夫著『黒蜥蜴』(学研M文庫) 江戸川乱歩唯一の「女賊もの」、『黒蜥蜴』。乱歩自身による黒蜥蜴その人の人物造形は、したがって貴重なものであり、かつ作品のポッピズムに反して乱歩流美意識が凝縮された形になったが、これを幼少時に読んだ三島由紀夫が、はじめバレエ用に、それが頓挫して舞台のために、切望して翻案した戯曲である。 三島本人が語っているように、筋はそのままに、しかし自由にアレンジしたということで、原作でほのめかされた女盗賊と探偵の恋が、三島版ではより前面に打ち出されている。とはいえ、そこは三島、単純に相対する立場にあるものが互いに相克し合って恋情を募らせるごときロマンスに終始することは徹底的に避け、むしろ黒蜥蜴と明智小五郎、それぞれの哲学と美意識を相思相愛にしながら、僅かの間に、肉体も精神も天文学的時間交わりあい、相手を網羅しつくして刹那に散る、そんな儚い、静かな、しかし滾るような大恋愛を軸として打ち立てている。 その荒業を成し遂げたのは、単に三島ブランドのゆえにではなくやはり、乱歩のミューズ・黒蜥蜴が、当時すでに高度に研磨されていた三島の審美眼をもって入念かつ精緻に改めて肉付けされる―血肉化、受肉―ことで到達しえた、ファンタジーの中のリアリズムの追求の賜物であり、また黒蜥蜴に、三島自身の美意識が濃厚に投影されていたからであろう。この戯曲では、黒蜥蜴とは三島由紀夫その人であり、同時に、さまざまな要件から決して黒蜥蜴にはなり得ない三島による、架空の人物および架空の自己自身への思慕の念が、つむぎだされる台詞の一行一行に、切ないまでに込められている。この迫力が、乱歩のオリジナルとはまた異なる、もう一人の黒蜥蜴を生み出したエネルギーではないだろうか。 無縁というにはやや近い奇縁ある三島由紀夫を、私が若い頃には両親が禁書とした理由がなんとなく透けて見える一冊。三島由紀夫の自決の本当の理由は、本書で三島が黒蜥蜴を通じて語らせる“ダイアモンド解釈”にあるだろうし、ラストに黒蜥蜴に毒を仰らせた、その理由からもまた逆照射できることであろう。 文庫では、乱歩を囲んでの舞台関係者(三島由紀夫や、杉村春子、芥川比呂志ら)の座談会や、三島による関連エッセイ、三輪明宏氏による寄稿文や公演履歴など、資料も充実している。(了)黒蜥蜴■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/14
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見出し:危うし探偵明智!!黒蜥蜴の甘き罠。江戸川乱歩『黒蜥蜴』(東京創元社) 丸山(三輪)明宏氏や三島由紀夫氏ら、コラボレーション黎明期の代名詞の原作としてあまりに有名な『黒蜥蜴』。グロテスク趣味な設定に、奇奇怪怪な登場人物の情念や欲望が蠢くのが乱歩のダークサイドだとすれば、本作は謂わば乱歩のブライトサイドにある作品と言える。そこに描かれるのは、息つく間もなく展開するトリックと知能の応酬である。 方や、奇妙な刺青を持つ狡知に長けた女賊、黒衣の婦人こと黒蜥蜴。中性的な台詞まわし、子供だましのようなトリックを堂々とやってのける胆力を持ち、神がかり的に周囲を魅了する(ギュスターヴ・モローの、あるいはワイルドのサロメか!!その艶めく乱歩の描写よ)かと思えば、平然と冷酷なことを考えている。方や、明智小五郎。天下に聞こえた名探偵。冴え渡る頭脳と不屈の精神とを持ち、毒をもって毒を制すとばかりに、余人の思いもつかぬトリックを張り巡らせて蜥蜴退治に八面六臂の大活躍。 とにかくスピーディな展開、冒険心をくすぐる絶妙な設定、そして何より、読者を世紀の対決の目撃者へと誘う乱歩節に、自然とページを繰る手が加速していく。この感覚。子供の頃、怪人二十面相シリーズに読みふけった純粋に探偵ロマンを多能していた時分の甘酸っぱい高揚感が蘇る。ディレッタントである黒蜥蜴ご自慢の地底美術館や博物館へ早苗さんを通じて招待される件の、あの怖いもの見たさの心境よ…。 本書には、乱歩によって、変幻自在の魔術師・黒蜥蜴をアルセーヌ・リュパンに比す一文があるが、むしろこの作品はモーリス・ルブラン『カリオストロ伯爵夫人』の世界であろう。無論、カリオストロ伯爵夫人に黒蜥蜴、アルセーヌ・リュパンに明智小五郎。騙し騙され、出し抜き合っているうちに、互いの才を認め、やがて二人の間に恋慕のようななつかしい心情が芽生える展開もまたよく似ている。左様、この作品には、乱歩が己の世界観の中に、モーリス・ルブランの軽妙さを咀嚼して採り入れたような、独特の明るさがある。 林唯一画伯による挿絵は、この作品には不可欠であろう。画伯の挿絵なくしてこの世界観は成立し得ない。そう断言できるほどに、タッチから構図まで、モダンで、粋で、臨場感溢れるカットが多数採録されている。各章のタイトル挿絵に付された書体も洒脱だ。巻末に、乱歩自身による、校訂作業へのこだわり―仮名遣いや漢字の充て方一つまで、やはり作者自身でタッチするにしくはない、というようなことを書いている―や、三島由紀夫氏による舞台化や映画化についての感想も述べられていて、これまた興味深い。(了)黒蜥蜴■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/11
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見出し:ご冗談でしょう、コーンウェルさん。パトリシア・コーンウェル著、相原真理子訳『切り裂きジャック 』(講談社) 「検視官」シリーズのパトリシア・コーンウェルが、7億円の巨費と現代科学を駆使して迷宮入りの難事件を解明する!!と書くとそれらしいが、実は私はこの作家の作品を本書以外に読んだことがない。さらに言えば、本書は小説でもない。19世紀末、ビクトリア朝末ロンドンの下町を慄然とさせ、まんまと歴史の狭間に逃げおおせた“切り裂きジャック”の正体を突き止め、現代の科学的分析方法や調査方法に基づいて立証していこうという、時代を超越した壮大な試みが綴られている。もともと本書を手に取ったのは、折しもデータベース化を始めた蔵書の“切り裂きジャック”関連本の一冊としてあったもので、かつ未読であって、たまたま今、心情的には19世紀のロンドンの猥雑な町並みを活写した本を読みたいと思ったからであった。 パトリシア・コーンウェルが、所謂大ベストセラー作家であることは知っている。しかし、気になるのはこの全編に漂う目線の高さ。これはいったい何なのだろう。さらに言えば、好意に、あるいはコンセプト通りに解釈すれば、か弱きものを無惨に殺生し、あざ笑うかのように官憲の目をくぐりおおせた“切り裂きジャック”に対して、不正を憎む正義の心が本書のそこに流れていると言うことになるのだが、どうにも純粋な正義感とかけ離れているような感がぬぐえない。一つには、どこかピューリタニズムというか、いささかヒステリックな厳罰主義のようなトーンを感じるし、もう一つには、そうしてゆえなく殺された弱者を、どこか晒しものにしているようなニュアンスが漂っていると思うのは穿ちすぎだろうか。あまりに詳細な死体の描写は、作品を刺激的にするだろう。片方で、売春婦を蔑みながら、「売春婦だからといって殺されてよいという理由はない」というような矛盾した正義を平気で振り回す。好かない。あるいは、口にするのもはばかれるような言葉を、いたって平然に多用してみせる様は、進歩主義を気取る誰かさんのような尖ったセルフイメージをクールの保つ仕掛けのように見えて仕方がない。 なに、全編にわたってクールなら問題はないのだ。ところが、時に意識的にか無意識にか、収拾のつかないような感情的な視点を覗かせたりもするから、私はなんだか、一人の女性の妄想や独り相撲につき合わされているような重たい気持ちになってしまった。そう、著者は、論を進めるうち、自分自身が神がかり的にフィクションの中の女主人公になり切ってしまうのだ。その虚実がないまぜになった行き過ぎる展開に、読む者は理性から、この語り手の判然としないもどかしさから「パトリシア、あなたご本人が“切り裂きジャック”の正体を追うなんてご冗談でしょう?」とたしなめたくなってしまうのだ。 ホイッスラーの弟子でイギリス印象派の画家、ウォルター・リチャード・シッカートが犯人かどうか。その推理が当たっているか否かを評するのはナンセンスだ。しかし、過去の迷宮入りの殺人事件を現代的手法で捜査したならば…という設定は面白いし、そうすることで現代の科学的捜査・分析法と、19世紀のそれおよび、治安に対する姿勢や市民・警察の意識、ならびにシステムの脆弱さがよく炙り出されて面白かった。私の目的であった19世紀ロンドン下町の風俗もよく伝わってきた(残念ながら、それは殺人事件を通してであったが)し、もしかしたら、この比較こそが、話題性やショッキングな内容を巧みに目引きにしたパトリシアの目的だったのかもしれないとさえ思えた。 余談だが、古典的な犯人説に案を採った映画『フロム・ヘル』のボーナスディスクとの比較も面白いだろう。(了)切り裂きジャックフロム・ヘル(DVD) ◆20%OFF!■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/10
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見出し:情報の渦から、奇想天外な夢を紡ぎ出した万能人。ジョスリン・ゴドウィン著、川島昭夫訳『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる 普遍の夢』(工作舎) たとえば、道元とカントの共通点を探ると言うことは、比較分析・比較研究としては意義があり興味深いが、それらはあくまで“奇しくも”の一致の世界であり、必然的一致ではない。アタナシウス・キルヒャーの仕事を見ていると、ふとそんなことを考える。普遍性。類似性の発見段階は被造物があまねく普遍的であることの確認へと一歩近づく感があり胸躍るが、恣意的な、あるいは選考的な発見や結びつけは、やがて普遍主義の限界への重たい足音となる。 まさに生ける博物館・キルヒャーは、典型的かつ究極的な万能人、マニエリスム後期のルネサンス的人物であったが、それらの該博な知識や発想を、すべて神と聖書の枠の中でしか醸成できなかったところに、イエズス会士という枠だけは逸脱できなかったキルヒャーの仕事の荒唐無稽さがある。それらの知の統合は、やはり“奇しくも”であるべきで、キルヒャー自身が頑なに信じていたような神の摂理の必然、神の普遍的恩寵のゆえではなかったのである(なお、本書は、キルヒャーの摩訶不思議な世界を覗くとともに、そこにはイエズス会およびイエズス会士が17世紀当時に果たした情報機関としての姿も立ち上がってくるが、神を通して、キリスト教から見て正統でない、あるいは周縁的なものを見たキルヒャーのことである。そのキリスト教的仮想博物館の充実ぶりは、同時にイエズス会の活発な宣教活動の特徴を物語って余りある)。 しかし、キルヒャーを笑うことは簡単だが、著者もたびたび記すように、それは適切ではない。確かにキルヒャーは、徹頭徹尾聖書の記述に準拠して、古代ギリシャからローマ、エジプト、中国(この時代にあって、あたかも現代の如く世界中の情報が収集されるところもまたイエズス会ならではであるし、またキルヒャーが、情報の価値や鮮度を落とすことなく活用できる人物として一目置かれていたからこそ、彼のもとには膨大な情報が自然と集まったのだ)、と、ある種バベルの塔崩壊以後の散り散りにされた世界に普遍という名の神の存在を打ち立て証明・統合(世界の果ての植物に、キルヒャーの目から見た神の恩寵が見られれば、それは神が普遍化していることの証明になるだろう)しようとしたのであり、汎神論的に、あらゆる事物、あらゆる自称、あらゆる発見に神を当てはめようとしたその試みは、複眼的関心に根ざしながらはからずも単眼的に収束してしまったことで、近代への歩みとは足跡を異にしてしまったが、冒頭で考えたように、カントと道元を比較してみせるのと同じような、知的でクリエイティヴな、そして近代的理性や科学的発想からは決して生まれ得ぬような、とびきりユニークな思考実験を遺したと言えるのではないか。キルヒャーとは、生きた時代も、万能人として遺した仕事も違うが、同じく典型的ルネサンス人にして、狷介たるセルフ・プロデュースの達人であった凸の人、ジェローラ・モカルダーノとのあまりの本質の違いに着目するのも面白い。 キルヒャーは実に、知識と情報と、何より類い稀なる構成力によって、きわめて説得力のある、あるいは事実であるかのように心地よく騙される“夢”を紡ぐ人であった。はからずも、実用性とは無縁(実用性は明らかに疑わしいのに、キルヒャー自身はいたって真面目なのである)なところに、キルヒャーの放縦なイマジネーション、頭の中に建造した大博物館の価値があるように思う。バベルの塔研究、ノアの方舟分析から、エジプトのオイディプス再発見、ここから派生してオベリスクとエジプト語、神聖文字解読、コプト語再現に進み、地下世界の存在への憧憬、中国エジプト文明起源説、やがてすぐに反駁される自然発生説に没頭し、音楽研究から拡声器、幻灯器や自動楽器、作曲器、盗聴器の発明、それがさらに原始的コンピューターの構想に発展し、片方では聖エウスタキオに触れていくマニアックな視点。本書に巻かれたオビの「ルネサンス最大の綺想科学者の全貌」というコピーは大げさではないである。 本道ではなく、学問的には脇道であるが本道よりはるかに魅惑的な世界を旅したキルヒャーにふさわしい澁澤龍彦氏のコラムを筆頭に、中国春画の牧歌的粋ならびに図像学的特色を覗かせてくれた中野美代子氏が、今度は景教(ネストリウス派キリスト教)と絡めて、キルヒャー的シナ考への旅(空を飛ぶ亀の楽しさよ!!)に誘い、荒俣宏氏が、滾る胸の内をあえて控えめにして、キルヒャーを次いだ者たちを追いかける、この三者によるアタナシウス・キルヒャー頌だけでも本書に十分な価値がある。 加えて図版が素晴らしく、その数100点に上る。多岐にわたり過ぎるキルヒャーの頭の中を覗くことにはいささか準備不足でもあった私にとっては、ほぼ半画集とも呼べる貴重な図版の数々が大変興味深かった。と書きながら思うに、最近「図版が素晴らしい」という一文が、私の書評に散見されることに気付かされる。逆に考えれば、所謂贅沢な造りの本が少なくなったご時世に、芳醇な一冊との出会いにいかに自分自身が飢えているかとい うことだろう。(了)キルヒャーの世界図鑑■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/08
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見出し:影絵で遊ぶ。後藤圭著『手で遊ぶおもしろ影絵ブック』(PHP研究社) 洞窟の影に一言申すなどといえば、プラトンでも飛び出してきそうだが、これは影絵の話。影絵で遊ぶ、などということは随分と昔の記憶まで遡らねばならないが、暗闇の中で、天井だけがぼうと明るく、そこに現れた犬や鳩の姿は、時に大きくなったり、小さくなったり、吠えたりはばたいたり…と、こちら側で手を動かしているだけに過ぎないという単純さを忘れさせるだけのイマジネーションを書き立てるマジカルな魅力があった(本書に収められているレパートリーには、私の子供の頃にはなかったような複雑なものや大掛かりなものもある。恐竜!?)。 光と影。地球誕生以来、もっとも原始的な仕掛けであるこの二つの現象を用いて遊ぶ。幻燈のルーツであり、テレビや映画の元祖ともいえる影絵。一番手近にあって、簡単に出来るアニメーションともいえるだろう。 飾らない、語らない。だからこそ、このモノクロの動画には、見る者、影絵を作る者が、自由に、そして豊かにそれぞれの物語をつむぎだすことが出来るのではないか。久しぶりに、郷愁溢れる影絵を壁に映じて、幼き日の好奇心を思い出してみようか。果たして、影絵を作る手は大きくなったが、眺める眼(まなこ)にはまだ往時のイノセンスが残っているだろうか。(了)手で遊ぶおもしろ影絵ブック■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/02
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見出し:女王の寵愛を冒険した男。櫻井正一郎著『サー・ウォルター・ローリー―植民と黄金』(龍谷叢書) 映画『エリザベス:ゴールデン・エイジ』で、前作女王以前のエリザベスが愛したジョセフ・ファインズ演じたレスター伯ダドリーに代わって、女王となったエリザベスの疑似恋愛のお相手となったのがクライヴ・オーウェン演じる、まさに本書の主人公、サー・ウォルター・ローリーである。 本国では非常に人気が高い毀誉褒貶の人、歴史家、詩人、探検家、哲学者、海戦記作者、宮廷人、政治家、兵士、軍将、海賊、船主、交易商、愛国者、化学者、植民企画者、議員、総督、行政官、文人のパトロン、不可知論者、策士にして殉教者として、数々の研究所や関連文献が存在するにも関わらず、日本で入手できる資料は非常に少ない。 映画の中では、様々な肩書きのどれよりも、この帝国の港の先に広がる未知の世界の風と自由の気風を象徴し体現する好漢として人物造形がされたウォルター・ローリーを契機に、16世紀末~17世紀イギリスの政治や宮廷の様子、そして階級制度と植民政策初期の様子が、貴重にして豊富な図版や写真とともに記述される。それは同時に、ウォルター・ローリーの人物伝としては物足りない(本書の主旨には合致しない)ことを意味しており、かの劇中のヒーローの人となりを知るには別のソースを俟たねばならない。 どちらかといえば、歴史の潮流を通じてローリーをあぶり出す本書は、それ故に、生々しく現実的な検証が目立ち、好漢というよりは、当時のイギリスにおいて、宮廷に入り込むこと、あるいは土地を所有するということ、ジェントリー階級から国家の要人として功成り名を遂げることの難しさに、時には敢然と立ち向かい、時には彷徨う脆い一人の男性像が浮かび上がって来る。 一族の存亡が、ローリーのように、あるいは他の先達のように、女王陛下のご機嫌次第となれば、これはまた相当に不安定なものだが、寵愛を一身に受けている頃のローリーの得意が、この不確定要素の影響力の甚大さを物語って余りある。 副題にもある通り、本書はまた、世界が植民地政策に乗り出し始めた頃の様子をよく伝えており、ローリーが歴史の中で演じた先駆者としての功罪を丁寧に追いかけている。植民の指導者・牽引者となる。これは、まさに虎口に入るに等しい。義理人情とはまったく無縁の、ただ黄金郷での一攫千金や略奪を夢見る強欲の輩に、ほとんど保証も確証もないままに「かの地へ参れば、黄金がある」と夢見させて、孤独な航海を続け、また味方のいない土地に導いていくのだから、もしそれが果たされなかったことを想像すれば、並みの勇気でこれをなすこと能わず、である。ローリーの場合、アイルランドおよび南米ギアナの植民に携わったが、特に黄金伝説に関連したギアナ行の場合、金が出なかったことは、植民に同意・賛同した出資者や同行者のみならず、王の期待を裏切ったことで、二重の悲惨があった。 女王の近衛隊長就任や爵位授受など数々の輝かしいハイライトから、寵愛の喪失、新王からの不信、ロンドン塔幽閉、断首という最期、と海の男の浮き沈み人生は、「女王の気分」という不穏な海に立ち向かった冒険家のそれとぴったり重なる。 惜しむらくは、下手な翻訳と見紛うばかりの文章(訳本でないか、何度も確認してしまったほどである)で、これは非常に読みづらい。(了)サー・ウォルター・ローリー■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/03/23
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見出し:名訳、というより翻訳という名の翻案を味わう。東 雅夫編、エドガー・アラン・ポオ、ホレス・ウォルポール、小泉八雲、ドモンド・ドウニイ著『ゴシック名訳集成西洋伝奇物語―伝奇ノ匣〈7〉』(学研M文庫) 本書を手に取ったのは、唯一つホレス・ウォルポール「おとらんと城奇譚」を読みたかったからであるが、この作品を読める文献を探していて、他の収録作品もまた興味をそそった(というよりも、何やら一貫した、強固なコンセプトが編者に感じられた)ので、この一冊を手に取った。 しかし、ページを繰って唖然。何しろ、“名訳”にこだわった一冊にて、イギリス源流ゴシック怪奇小説を、その紹介時の薫り高い訳で読ませると言うのだから、これは手強い。古文なのである。したがって、通読するだけで、通常の文献の三倍近くの時間を要してしまった(「開港驚奇 龍動鬼談」!?)。 訳者に挙がっているのは、学匠詩人・日夏耿之介から平井呈一、黒岩涙香らまで。もはや、それらは単に訳文ではなく、訳者が原作を完全に自分の“節”に置き換えた、独立した作品になってしまっている。しかし、テクスト理解ということになれば、訳本を読むことはすでに原典と別のテクストを読むことに他ならず、その意味では、この天下に名の聞こえた大翻訳家達が、“忠実ではあるが、やはり原典とイコールにはならない翻訳”を捨て、最初から創作と意訳の間を取った、それぞれにユニークな翻訳を試み、火花を散らしているところにこの選集の面白さがある。 きわめて古典的な展開を持ちながら、どこか寓話めいた教訓を宿していたり、唐突で荒削りな、しかしそれだけに意外性のある物語力を持つ「おとらんと城奇譚」は、文字通りゴシック小説の王道。期待通りに楽しめた。 個人的に特筆すべきはもう一篇、エドモンド・ドウニ「怪の物」で、これは黒岩涙香による訳だが、まさに涙香節全開の名調子は、他の収録作品とは少々趣きを異にする(SF小説黎明期への匂いと、所謂ゴシック小説の粋が絶妙な、しかしギリギリのところでバランスを取っているのだ)同作品を、ミステリアスでいて、同時にホラーテイストを持った、極上の奇譚に仕上げている。 ギュスターヴ・ドレの版画による挿絵とともにポオの「大鴉」を扉に配する辺りは、編者の思い入れの強さを伺わせるが、少々芝居がかかっていて、わざとらしくもあり、美しくはあるがやり過ぎにも思え、少し陳腐な印象を与えている。 とはいえ、これだけ趣味性が強く、また個性を前面に打ち出したアンソロジーがシリーズ化されるあたり、こうした取り組みには心からエールと賞賛を送りたい。 なお余談だが、古文というのは不思議なもので、500ページ程度の小説集を一冊読んでいると、意外に最後の方は違和感なく読めてしまうのもので、訳者それぞれに表記が不統一でも、あるいは特有の言い回しがされていても、普通に追いかけられるようになる。そして、普段まったく使わないこの忘却された言葉を、日常でも少しなら使用できるようになってしまうから、まこともって今や古文は外国語に近いものだ、という一抹の寂しさとともに、言葉の美しさや楽しさは、その理解の可否や難易という障壁を超えさせてしまうものだと再認識した次第である。(了)ゴシック名訳集成西洋伝奇物語■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/03/23
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見出し:奇譚で世界をひとめぐり。G・カブレラ=インファンテ・、レイモン・クノー、ナギーブ・マフフーズほか、 若島正編『 エソルド座の怪人 アンソロジー/世界篇 [異色作家短篇集] (異色作家短篇集 20 アンソロジー 世界篇)』(早川書房) 過去の書評でも書いているとおり、私はミステリ小説をあまり読まない。特定の作品を単体として読むことがあっても、ジャンルとして網羅していくような嗜好はない。今回本書を手にしたのは、普段あまり接することがない国の文学作品を読んでみたい、という目的と、純然たるミステリというよりは、奇譚を集めた短編集というコンセプトに食指を動かされたからである。また、レイモン・クノーの実験的作品が採録されている点も決め手となった。本書では、順にエジプト、チェコ、カナダ、ウルグアイ、フランス、ポーランド、イタリア、台湾、ベルギー、スコットランド、キューバ各国の作家が筆比べを繰り広げるわけだが、個人的には南米圏作家には、この本をきっかけに注目したい。 作品からいえば、ロバートソン・デイヴィス「トリニティ・カレッジに逃げた猫」(カ)、アイザック・バシェヴィス・シンガー(ポ)「死んだバイオリン弾き」あたりの怪奇譚、“これぞ大衆短編小説”的痛快さを味わえるジャン・レイ(ベ)「金歯」、壮大で歴史ロマン的要素もあるヨゼフ・シュクヴォレツキー(チ)「奇妙な考古学」、少なくとも私の知る範囲では、きわめて南米文学的なオラシオ・キローガ(ウ)「オレンジ・ブランデーをつくる男たち」あたりがお気に入りだ。 心理描写を軸にした象徴主義的作品であるリー・アン(台)「セクシードール」は、土俗的・呪術的な神秘感と、洗練された透明度の高い官能美で驚かせてくれる。レイモン・クノー(フ)の「トロイの馬」は、まさに不条理な実験小説。アンソロジーとしては唐突な感も。同じ理湯で、タイトルにもなっているG・カブレラ=インファンテ(キ)「エソルド座の怪人」は、スラップスティックな印象が強すぎて、元ネタとなる作品に私の思い入れが強い分だけ、ちょっと悪ノリが過ぎる感じがして、違和感を覚えてしまった。 が同時に、「エソルド座の怪人」などの扱いを見るにつけても、そこには選者の一貫したコンセプトが存在しているのであり、げにアンソロジーというものは、目利きのなせる業にて、余人の考えの及ばぬ別個の目線を必要不可欠とするものなのだと再認識したのである。(了)エソルド座の怪人■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/03/11
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見出し:爽やかなり軍師。欲と野心のために生きる者どもこそ哀れなり。笹沢 左保著『軍師 竹中半兵衛』(角川文庫) 木枯らし紋次郎シリーズで知られる著者による歴史小説である。そも、なぜ著者が竹中半兵衛重治を扱ったのか。あとがきによれば、笹沢は別の視点から、やはり戦国時代に、一つの頑な選択から滅亡の道を歩んだ近江の浅井長政を扱った敗残の美学を描いた作品を書いているという。浅井長政と言えば、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長の妹・市を娶り、信長の天下取りにおいても片腕として将来を嘱望された若い有能な大名である。長政が、時代を読み違え、立てるべきでない方の義理を選んだがゆえに、輝かしく若々しい未来は、文字通り跡形もなくこの世から殲滅させられてしまった。これはこれで、立派に歴史小説として柱になる話である。 しかし、吾が竹中半兵衛はそうではない。これは、合戦にあって、一番槍を馳走するでもなく、綺羅星のごとき武将を率いて敵軍に突撃するのでもなく、戦の趨勢を頭の中で組み立て、武将たちが勝利、あるいは最小限のダメージでの敗戦できるよう策を献じる軍師の物語である。時には外交や人心掌握のためにその智謀を使うこともあるが、武士(もののふ)であっても武将ではない、そういう役割を徹底的に生きた男の物語なのである。蜀に諸葛孔明あればこそ、軍師は古来よりステイタスを得ているが、三顧の礼をもって迎えられる存在であり、また得がたき一将とされながらも、合戦を華とする時代にあっては地味な存在であったようだ。だからこそ、その策のもとに、スタープレーヤーたちが縦横無尽に駆け巡り、獅子奮迅の激闘を繰り広げ、己の頭脳の中で築き上げた図柄通りにことが運ぶことをもって軍師の生きがいと呼ぶのだ。ゆえに同時に、誰かに手柄を立てさせるために、軍師がいるのである。個人的な野心や野望など、望むべくもないのだ。軍師は、軍略のアーティストであり、加えて竹中半兵衛は武士としてスタイリストだった。真のアーティストやスタイリストに、即物的な褒美が必要なはずがない。 そんな、アートやスタイルに準じた男の物語を、野望に準じた大名の物語に対置して描くことで、戦乱の世の男道(おとこどう=江戸期の武士道のこと)を、著者なりに把握しておきたい、しっかり分析しておきたいという想いが、竹中半兵衛の人生を作品のテーマに選ばせたのかもしれない。 歴史の表舞台に立つことのない世捨人。本作での半兵衛は、そうキャラクター造形がされている。実際には、歴史という舞台の埒外に自らを置いた人物と呼ぶべきだろう。いずれにしても、早々に城を弟に譲ってからは、自身の城も家臣も持たず、身分の保証も求めず、一つの理想の実現のみにこだわった生き様は、ある意味で生まれる時代を誤った男の、せめてもの現実世界との繋がりの確保へ挑戦だったのかもしれない。重ねて、無私無欲の人、と半兵衛は描かれる。これはもしかしたら著者が、この奇妙な人物に肩入れし過ぎたがゆえのミスリードのゆえかもしれない。正確に言えば、誤解である。同じ誤解を、作中、その持てるすべてを半兵衛が捧げた羽柴秀吉がする。この不可思議な現象を解き明かすと次のようなことだろう。 つまり、確かに竹中半兵衛は無私無欲だったかもしれない。野心も野望もなかった。しかし、彼には理想があった。決して揺るがない、燕雀に計り知れぬ高邁な理想があった。この理想を、秀吉は野心ではないかと疑い、作者は半兵衛による秀吉への弁明を表現しなかった。作者は、半兵衛を徹底的に無私無欲の人として描くことで、俗世で繰り広げられる骨肉の争いから無縁の人の達観した美しさを立たせようとしたに違いない。だが、理想は甘い空想ではない。理想は、ときに野心や野望を凌駕する。それも、圧倒的な美しさと説得力、そして迫力を持って。そして理想は、本質的には徹底的に理想者のためのものだ。竹中半兵衛というスタイリストが、その最高度に洗練された理想を、野心や欲と疑われる件には、己が身を重ねて痛切この上ないものを感じた。理想の対価は、決して物質的な利益ではない。それを超えた価値があるから、理想者は理想を抱く。 理想の「理」とは「ことわり」である。理想という余人には理解できない宝を抱く古今東西の半兵衛が、理路整然としてものの道理を説くとき、人は、恐怖を抱いてそれを力で組み伏せようとする。理想の対価と、野望や野心の対価とを区別する審美眼のない者は、理想を追う者に対して疑心暗鬼に駆られ、器量の狭さを露呈する。馬脚を現すとはこのことである。作品に戻れば、歴史小説にも時代小説的な呼吸やリズムを巧みに配し、かつ綿密な調査や事実の考証を下敷きに、歴史的ダイナミズムと人物描写をしっかりと絡ませていて読み応えがある。また、間を取るように時折挿入される解説的シーケンスが小気味よく、戦国風の語彙の説明は、簡潔なだけに作品の要所をピン留めするような効果にもなっており、これぞ“笹沢節”と呼べる個性的でいてニヒルな、男くさい世界が堪能できる。 享年三十六歳。歴史を俯瞰する境界人の目線に在りながら、その痩躯に軍略のみを携えて強力な時代の渦に抗いながら生きた生涯一軍師の物語。早すぎた死は、懺悔した秀吉さえ悲しませたというが、半兵衛、そなたの理想は、アートは十分にこの世で完成させることができたのだろうか。「だが半兵衛重治。そのほうには、欲も野心もなかった。」「欲と野心のために苦難の道を歩み、今後も生き続けていこうとする者どもこそ、哀れと思うがよい。」(本文より)(了)軍師竹中半兵衛竹中半兵衛 蒔絵シール「蒔絵紋」■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/03/03
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見出し:“さわさわ”して、愛ある野生を取り戻せ。ふじわらかずえ著『どうぶつさわさわさわり隊』(ブルーム・ブックス) 人はいつから動物を檻の向うで「観る」ようになったのだろう。原始時代に遡れば、動物と人間に垣根はなく、弱肉強食と棲み分けの連鎖の中で、ある種は滅び、ある種は生き延びて来た。少なくとも、そこに「観る」「観られる」という関係はなく、ただ互いが生存を賭けて精一杯、同じ目線で生命を謳歌していたに違いない。これが野生である。しかし野生にはまた、動物との関係において、現代人が失ってしまった愛や情があったはずだ。 しかし、動物の中で、個体としては最も弱い人間が、集団を作り、道具を通じて自然を組み伏せようとする試みが始まった頃から、文明の側の人間に対置されるように、動物は自然という名の柵の向うに追い立てられ、いつしか、それらは陳列されるモノ化してしまった。古くにも、洋の東西を問わず、王侯への貢ぎ物に珍獣が献じられたことは最高の贈り物として殊勝とされたし、またその系譜に個々人の消費欲求が挿し込まれた近代には、エキゾチズムの対象として、想像の中のステレオタイプ的ジオラマとしての動物園が誕生して来る。 それらは、「珍しい宝物」から始まり「市民の見せ物」へと変遷していくが、そのプロセスにおいて、人間と動物の距離が遠ざかることはあっても近づくことはなかった。ヒトは、いつしか人になり、高見の見物席を得た代わりに野生を失った。 と大真面目なことをアレコレ捏ねる前に、まずは本書を読むことだ。コンセプトはいたってシンプル。動物を“さわさわ”したい、動物達に埋もれてみたい、触れ合いたい。じゃ、それができるところに行きましょう!!というきわめて野性的な発想。始点がシンプルだからこそ、高い目線から動物を消費するかのような嫌らしさがない。このヒト達…本当に、“さわさわ”したいだけなんだ…。 全編を彩るふじこ(=ふじわらかずえ)氏の漫画は、同じ想いを抱く仲間“さわり隊”とともに訪れた日本全国11カ所の動物園や公園で体験できる、動物達とのリアルな触れ合いへのリアクションが中心となっているが、その一見何でもなさそうな驚きや感動、“さわさわしたい”という欲求への飽くなきこだわりが、動物に、支配関係のない純粋な愛情を持って接することがいかに愉しい発見と、自己洞察のきっかけに溢れているかを教えてくれる。コマの隅などに小さく書かれたコメントやミニ蘊蓄、ツッコミなどが、小ネタ的で笑えてしまう(妙にに頷けるツボだったりするのだ)。 本書を通じて驚くことが二つ。一つは、日本に、これほど動物と触れ合い、時にムリなく共同作業(?)のできるスポットがあったのか、ということ。それらは、珍しい動物から大型動物、肉食動物に鳥類、小動物とバラエティに富み不足なし、まさに灯台下暗しの感である。今ひとつは、規模の大小はあれ、各スポットがそれぞれに工夫を凝らし、動物への愛情と理解を来園者や来場者に伝えようという努力がなされていることが、本書からよく伝わってくること。その意気やよし、これなら、動物を“さわさわ”しないでは勿体ない!! 短いながら、要所で挿入される編集者によるコラムに影響されたわけではないが、確かに、動物との心的/物理的距離感や、接触、それも愛玩動物でない動物との接触という身体的行為に直面した時、動物達を通じて私の、誰かのパーソナリティが赤裸々に浮き彫りにされるというのは、本書を通読することで分かるような気がして来る。 個人的には、ハードルは少々高いが北海道で犬ぞりを体験し、犬たちと信頼関係を確かめあいつつエゾシカ・シチューをテントで食べてみたいが、寒さに弱い私は、当面南国仕様のケープペンギンと戯るあたりから始めようか。(了)どうぶつさわさわさわり隊■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/03/01
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見出し:茶碗なんて、ただの土塊じゃねぇか。谷松屋一玄庵戸田 鍾之助、戸田 博著『美を見抜く 眼の力 夢の美術館』(小学館) 贅沢な、実に贅沢な本である。これだけ栄養価の高い本を目にすると、眼球がメタボリック・シンドロームになりそうである。 本書は、私はこれまで読んだことがなかったが、雑誌『和樂』で2年間にわたって連載された記事を単行本化した『美を見抜く 眼の力』の「廉価版」である。 江戸時代から続く関西屈指の道具商、谷松屋戸田商店・11代目戸田鍾之助氏と博氏父子が対談形式で、茶道具の魅力を語った『美を見抜く 眼の力』は、どちらかといえば玄人向けのスノビッシュでディレッタントな本だった。出版社説明によれば、「著者が日本有数の目利きであること、本書が全国に3000はある骨董店にとってのバイブル的な存在になったことなどから、税込8190円と高価ながら売れ行き好調です。 ただ、やや高価なため、骨董や茶道関係者以外の人には、若干敷居が高い書籍でした」。 この「廉価版」は、『美を見抜く 眼の力』に新たな1章を加え、また戸田鍾之助氏が選ぶ「26の名茶器」などのコンセプトを一本通して、オールカラーで再編集したものである。重ねてコンセプトが一貫して素晴らしく、畳に置いた茶道具の写真の見せ方もまた秀逸で、本作りの丁寧さそのものもまた贅沢なのである。 戸田鍾之助・ 博父子が茶道具の名品を手にしながら、まるでオモチャを手にした子供のように語る対談形式も微笑ましい。感受性豊かでやんちゃな父に、クールでいて開明派の息子、といった感があるが、博氏が、鍾之助氏を、父としてのみならず、当代随一の目利きとして、個別に尊敬し、またそこから学ぼうとしている姿勢もまたまばゆい。くだけた、ざっくばらんな中に、美しい一線がある。 知識でなく、感覚のレベルで、あまりにすごいものを見ると人間逃げ出したくなる。本書は、頭でなく、眼で味わうもの。この“眼”には、高度な知識は当然、洗練された知性や感性が含まれている。それを信じて、その時点の自分で眺め味わう。目の前の名品が解らなければ、また自己研鑽して、縁があれば虚心坦懐相対峙すればいい。自己研鑽が偽りなく本物なら、成長した分、目の前の名物たちは新しい地平を見せてくれるだろう。 谷松屋戸田商店・11代目戸田鍾之助一代記も痛快。古今の、垂涎ものの茶道具の数々に触れ、近代の数奇者たちとの交流は、華やかに過ぎて目もくらむばかりだ。誰かををうらやむ、とは、ひねこびたことだ。たとえ筆を持たない一日はあっても、誰かをうらやむ刹那は断固ない私であるが、やはり、世の中には天に愛されている人がいるものだと、氏の生き様には驚嘆の念を禁じえないが、そこは本全体から滲み出る氏の豪放磊落さと、何より道具に対する並々ならぬ命がけの恋心とがじわりと出汁になって、嫌味がない。 あえて最後に付す。茶碗なんて、ただの土塊じゃないか。然り。棗も香合も茶杓も、同じようなものだ。だからこそ、能書きは要らない。今は、だまって眼に力を養い、最高級の肥やしを与えたい。「ただの土塊」と啖呵を切った私の真意が、本書を手に取らざるは一生の悔いであることを意味したアジテーションであることに、一人でも多くの人が気付いてくれることを祈るものだ。(了)眼の力夢の美術館眼の力■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/02/25
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見出し:茶道は、万能人による“日本のルネサンス”なり。桑田忠親著『茶道の歴史』(講談社学術文庫) 茶の湯を理解するのに、歴史的な知識が必ずしも必要だろうか。そこそこ極めるつもりなら必要だろうし、趣味として接するならば必要はないかも知れない。あるいは、本当の数奇者の彼方へと踏み込むならば、この程度の座学ではなく、実践の中で、あらゆる歴史や謂れに、人生全てをかけて知悉していなければならないだろう。しかし、一番大切なのは、やはりそこに「茶があるか=心と真髄が正しく在るか」であることには変わりはない。 ところで、かつて或る目標を持って数年間お茶の稽古をしたことがある。この時の目標は、まず茶の湯の世界に触れてみること。そして、限られた数年の中で、この世界に何が込められているか、凝縮されているのか、あるいは茶の湯にまつわる作法から点前、茶器にいたるまで、その機能美について自分なりの解答を得ることであった。果たして、それはかなったと思うが、茶の湯の世界に身を置く前提での稽古ではなかった。あくまで、別の上位目標があってのことだったのだ。 そこへきて最近、かつてのスタンスとは別に、茶の湯の世界にもう少しエッセンスを頂戴しに行きたくなった。個人的な美意識の面でのことに過ぎないが、前回とは別の角度から茶の湯に触れてみたいという思いがここ数年高まっていた。 冒頭の問いに戻るが、果たして今回私が茶の湯と接するスタンスというのは、実は知識の側面からなのである。それは、茶人として、あるいは数奇屋者や趣味人の感覚ではなく、純粋に茶の湯の世界をもう一度、一つの思索の対象分野として掘り下げたいという前提があるのだ。したがって、私はあえて、知識を茶の湯に求めなければならない。 本書ほど教科書的に、いや、講義風に、ストレートでいて、かつシンプルに茶道の歴史を振り返ることのできる文献も少ない。もともと少しスノビズムを伴う歴史を持つ茶の湯を、著者自身のいう“四民平等の茶の湯”のあり方への橋渡しとしてまとめらているのは、本書刊行当時の時代背景を考えればさもあろうというものだ。 基本的には、能阿弥~村田珠光、武野紹鴎~千利休、古田織部~小堀遠州、千宗旦~片桐石州、松平不昧~川上不白、そして明治維新から戦後へ、という具合に、茶道の黎明期から、それぞれ一時代を築いた大茶人の仕事(先駆者からの継承と破壊的創造、あるいは先人・師匠との比較)を区分し、それぞれの茶人がうまく時代と歴史をバトンタッチしていく、分かりやすいまとめ方がされている。また各茶人の茶歴、スタイル、好みなどもしっかり整理されている。時々挿入される時代ごとの社会的背景や、茶道具に関する逸話、あるいは茶人の人となりを偲ばせるエピソードなどは、著者ならではの語りの巧さによるものだが、同時に、若干漫談めいたトーンが、時に場違いな印象を与え、その意味では牧歌的な時代や条件の中で作られた本だな、という感は拭えない。 さて、茶人というものは「万能人」でなければならなかったことが本書からも良く知れる。茶の湯の興隆の歴史は、時代的にも、ヨーロッパのルネサンスと重なってくる部分もある。「ルネサンスそのものが育てた万能人」を通じてルネサンスの再生したことが、人文主義や自然主義哲学、人間礼賛だと仮に大雑把に括るなら、日本におけるルネサンスたる茶道(ちゃどう)の歩みは何を再生したのか。日本的感性であり、日本人らしさである“和の心”、和をもって尊しとなす精神。そう答えることは、あまりに安直と叱られるだろうか。(了)茶道の歴史■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/02/25
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見出し:高山右近、もう一つの武士道。加賀乙彦著『高山右近』(講談社文庫) 戦国末期のキリシタン武将、高山右近を採った歴史小説である。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三時代にまたがり、一人の武将としてのみならず、築城の名手、利休の愛弟子である高名な茶人、そして禁教の時代にあって異国の文化を進んで取り入れ理解を示し、何より信仰に忠実に生きた、流浪の人である。 その武将としての槍働きは勿論、文化人・教養人としての名声を欲しいままにし、望めば日の本に名高い名将の栄光を享受できる経歴を持ちながら、唯ゼス・キリシトのみを究めて、迫害と放浪に身を委ねて節を屈しないジュスト高山右近長房の生き様は、やがて戦なき時代―武士を必要としない、官僚制度と統治のシステムが高度に浸透していくーを迎えるもののふの最後の灯として、文字通り「もう一つの武士道」そのものと言えるだろう。 所謂葉隠的武士道が、観念的で、極度に美意識化し、思弁のうちにたゆたう哲学、それも武士の時代の終焉ののちに醸成されたものであるのに比して、高山右近の生き様は、やがては見向きもされなくなるであろう、黄昏れゆく武士の誇りを自らの内に仕舞う生き方であった。キリスト者として生きたが、その人生は立派な、正当な士道に相違ない。 本書がまた味わい深いところは、高山右近が刀を片手に戦場を駆け巡った若き日までを網羅した伝記に終始しているのではなく、むしろ戦場での役目を失い、また自ら放棄した老境に差し掛かってからの受難の日々を描いている点である。武器を棄てての回心は、まさに聖イグナチオ・デ・ロヨラと重なるし、騎士から聖人になった聖ガルガーノの伝説を思わせる。事実、そうした下敷きが、作品の中の右近の言葉や思いから滲み出て来る。 作中、右近は度重なる困難に臨んで、「私はあの方のようにあれるか」という自問自答を繰り返す。常に、主イエスを希望の松明として掲げながら、その炎に胸の裡を照らされて、逡巡することもある。信仰の人が、時折見せる弱気にこそ、真実があるように思えてならない。 高山右近の生き方を、希有にして崇高なものたらしめているのは、はたしてそのリアルな武士道のゆえなのか。あるいは、この実直なる男の人柄ゆえなのか。はたまた、信仰を持つ者ゆえなのか。 おそらく、どれも正解であろう。この三位一体こそが、高山右近を武士道の鑑たらしめているのだ(それが、邪教徒として追放された無念の人であっても、である)。「天にまします我等が御親、御名をとうとまれたまえ。御代きたりたまえ。天において御オンタアデのままなるごとく、地においてもあらせたまえ。我等が日々の御養いを今日あたえたびたまえ。我等より負いたる人に赦し申すごとく、我等を負い奉ることを赦したまえ。我等をテンタサンに放したもうことなかれ。我等を凶悪よりのがしたまえ。アメン。」 高山右近。前々から彼について読みたいと思ってきた。今は、その不器用なまでに貫き通した己の意地が点てる、神に仕えし男の茶を一服、所望してみたくなった。呂宋は、武士道は遠くなりにけり、である。(了)高山右近ラク■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/02/11
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見出し:高山、大痙攣。ラビュリントスから無事帰還せよ。高山宏『終末のオルガノン』(作品社) “高山的知の回路”が、まさに螺旋を描くように終結し、ある高みの一点へと上り詰めて行く、終末的緊張感溢れる一冊である。ただし、注意書きが必要であろう。 本書はまず、専門的学術書に近いものである。つい軽妙な“高山節”につられてしまうが、1994年、21世紀を迎えるに10年を切った刊行当時の、文学研究を中心とした他の近接領域の学問分野とのシナプス構築への八面六臂の孤軍奮闘ぶりが随所に顔を出すが、然り、文学研究、哲学研究、社会学研究、の素地がないと、楽しく通読するのには少々厄介である。 またそのゆえに、著者が、学術界の目まぐるしい地勢変化に敏感で迅速なレスポンスを本書中で取るため、あれから14年も経ったいま、学術書として読むには少々時代錯誤的なズレを覚えずにはいられない(問いかけそのものの価値に変わりはないはないとしても)。果たして、これは、その筋の人間が、当然リアルタイムに読むべき本だったと推察するのである。 とはいえ、個人的な問題意識や関心から言えば、テーブルが、関係に権威や制度を持ち込む、つまり「構造」するという分析、レンズと屈折の視線が中世西欧の世界観を大きく拡げたという件、レンズ磨きをしていたスピノザがその“新・世界観”の影響を瑞々しく感じ取っていたのでないかという指摘は、同じく十年以上前からそんな感覚があった私としては共感を禁じ得なかった。ただ、スピノザが屋根裏でレンズを磨いていたということがあろうか? さらには「目の思想」。あるいは「バベルの塔」を俎に載せた、高さへの強迫観念や高さへ投影される人間の矛盾する自尊心を扱った章、迷宮譚ともいうべき考察らは実に味わい深い。 ふたたび、このはからずも普遍主義的かつ博物館的な、奥深く広大無辺な高山的躍動、いや大痙攣は、それなりに主体的に読まなければ、それこそラビュリントスに彷徨い永遠に幽閉されてしまうことになりかねない。あとがきを読んで、この落ち着きのなさが、著者自身の溢れ出しこぼれ落ちる膨大な仕事を一旦集約するための一冊であったことを知って合点が行った。考えまくった著者へのご褒美、著者本位の一冊があってもいいではないか。“そのつもり”でないと、ふたたび、楽しめないと重ねておかねばならない。相変わらず、図版は貴重でどれも贅沢で素晴らしい。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/02/03
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見出し:熟した柿は、万有引力によって落ちる。中西輝政『なぜ国家は衰亡するのか』(PHP新書) 亡国論、憂国論なら、ちょっと敬遠したいところだ。その手の議論や問 題提起をするだけの本なら、数知れずあるし、結局時代性に即した指摘が目新しいだけで、その都度建設的な解決方法を提示しているものは少ないからだ。その点、本書はこうした肩透かしを喰らわせるようなことはない。 本書のタイトルは刺激的で、「あぁ、またか」と思わせてしまうが、このタイトルこそが他の文献と一線を画している所以でもある。つまり、なぜ日本は?ではなく、なぜ国家は衰亡するのか?なのである。 この際、色眼鏡をはずして内容を吟味すれば、まさに、古代ローマ、ギリシャの例を丹念に引きながら、国家といえども、有機物の如く、一定のライフサイクルを免れ得ないことを説いてみせる。国家の衰亡は、やはり必然であり、歴史の論理的法則に違いない。時に、出版当時にはリアルタイムだった、ポスト・バブル崩壊の苦肉のカンフル剤的“改革オンパレード”政権下への懸念がパラレルで記述される点も、今読むと面白い。 では、熟した柿が地に落ちた後、あるいは落ち切る前に、どうするか。そのまま地に落ちるを無力に眺め腐るのを座して待つのか、もぎって齧るのか。 必ず訪れる国家の危機に、他の国はどうだったのか、近代イギリスを追いかけた件は実に興味深いし、グローバリズムにおけるポジショニングの論理を“腕力”だけで作ってしまったアメリカと、中華思想のお膝元・中国の特性に類似点を見つけ、比較して展望するあたりも私には新しかった。 「経済一本槍」への批判、甘えたリベラリズムではない「自由」の解釈、改革と身体感覚の距離など、考え方の近いものも、点的にはあった。 しかし、この衰亡(あえて我が国の、という必要があろうか)に歯止めをかけるのが、やはり武士道的な観念論を越えないところはいかにも惜しい。 ただ、一時の“田沼意次主義の見直し”の風潮には共感できない部分が多かった私としては、松平定信を再評価する本書で、武士道的な理想的知性の復権に期待を寄せて締める点には片目を瞑らねばならないだろう。(了)なぜ国家は衰亡するのか■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/01/30
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見出し:『ザ・シークレット』の秘密。1: ロンダ・バーン著、山川紘矢・山川亜希子・佐野美代子訳『ザ・シークレット』(角川書店)2:カレン・ケリー著、早野依子訳『ザ・シークレットの真実』(PHP研究所) 『ザ・シークレット』(以下1)。世界的ベストセラーだそうである。この休みに書店で手にとったのは、訳者のファンだからである。既に、あらゆるメディアにおいて毀誉褒貶の渦中にある本書に、仮にも目を通すのであれば、その反証本たる『ザ・シークレットの真実』(以下2)も併読せねば公平さを欠く。事実、“ザ・シークレット=秘密”は、この二冊をもって一つのメッセージを発信しており、そのいずれのスタンスを選ぶかは読者の主体性に委ねられているというべきかも知れない。 1に関して厳密に言えば、まずこれは所謂スピリチュアル本ではない。スピリットではなくマインドに訴えかけるモチベーショナルな内容で、大抵の読者なら、私と同じように、2を読むまでもなく、それほど新しいことが書いてあることではないことに気づくだろう。確かに、深く読めば思考や考察の幅は広がりそうだが、サラリと読ませるように書かれた本であり、だからまた、スヒリチュアルについて感覚するだけの情報も見当たらない。暗示的に読み進むうちに“その気”にさせるシンプルな仕掛けだ。思い切って、もっとオカルトに寄れば、それはまたそれで、新しさがあったはずだが、無論そういうつもりは著者にはないし、畑違いでもある。本書を貫くのはただ一つ、「念ずれば、かなう」(「引き寄せの法則」と呼ばれている)ということである。この昔から言い古されてきた根性論を、巧みなマーケティング戦略(個人的には、造本の巧みさや、それこそ『ダ・ヴィンチ・コード』の聖杯の謎解きでもしでかしそうな装丁といった、出版マーケティングの妙に唸らされた)とメディアミックスの魔法で、ちょっとした“秘密”、それも、誰にでも開かれているが、基本的にはそれを求める人へのダイレクトに響くメッセージ(そう、あたかもVIP会員向けの案内状のようだ)のように仕立てているところに、“秘密の秘密”たる所以があるのだ。 2に盛り込まれる批判が本質的なのは、1で述べられたポジティヴィティが、現実世界では激しく矛盾すること、また1が暗に引用する諸宗教の教義に反して、利己的なモチベーション開発を促進していること、そしてさらには、1で、古今の成功者・偉人たちがあたかもみなこの“秘密”を秘かに使ってきたかのようなイメージを打ち出しているが、これらはまったく根拠のない援用、言葉尻を捉まえての独断的解釈であり、捏造であることを比較的丁寧(この種の本にしては、であるが)に証明して見せている点である。ふたたびどちらのスタンスを採るかは読者次第であるが、両著者に私も加えた三者の意見の共通するところは、「ポジティブに考えることは、悪いことではない」ということ(2の著者と私は、「ただし、ポジティブなだけでは健全ではない」という意見を共有するに違いない)。 さて、スピリチュアルという言葉は、そろそろ一括りではなく、さらに分化して理解されてゆく時代にすでに突入している、と個人的には感じている。大衆社会論や歴史的に見ると、洋の東西を問わず、スピリチュアリズムが十把ひとからげにされて手放しで称揚される時代というのは、社会不安の強い時期であり、しかもその直後には、必ずスピリチュアル批判がヒステリックに展開され、やがてさらなる物質至上主義社会がやってきて、社会が殺伐とする。精神主義への強力な反発、反動である。 ちなみに、私が共著『何のために生き、死ぬの?―意味を探る旅』(地湧社)で述べたスピリチュアリズムとは、より包括的で、かつ人間を構成する要素の一つとして考えられたものであった。つまりは、学力や、知識、経験だけではないインテリジェンス、つまりは知性であり、少し前に流行った言い方をすれば、品格にあたるようなものであった。これは、スピリチュアリティが神秘主義にいたる前段階のスピリチュアリティと呼ぶべきものかもしれない。私は、一気に神秘主義へと飛躍してしまうのは、2の著者と同じように、“神秘的なるものからの大きな裏切りへの逆恨み”を人々の心身に刻み付けることになるのではないかと危惧している。そうでなくとも、神秘主義が、閉じこもりと逃避のシェルターへと安易に手段化されてしまう危険性もある。さらに、人間という弱い存在は、メッセージを己の都合よく曲解してしまうものだ。スピリチュリティが利己的な自己実現のツールとして喝采を浴びるとき、そこに潜む危険信号を看過してはならないだろう(その意味で1は、スピリチュアリティの理解を、世界的には数年遅らせてしまう本かもしれない)。 インテリジェントなスピリチュアリズムを経て、さらに神秘的な世界を求めるものには、よりクリアな精神世界へのチャンネルが開かれるのではないだろうか。(了)ザ・シークレットの真実ザ・シークレットの真実何のために生き、死ぬの?
2008/01/15
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見出し:綿密な調査があぶり出す原題の標準家庭。岩村暢子著『普通の家族がいちばん怖い!-徹底調査!破滅する日本の食卓』(新潮社) クリスマスの過ごし方と、お正月の過ごし方を対象に、著者(の属する企業の調査室)の豊富な経験と、徹底的な科学的調査手法にこだわったデータおよび分析結果の労作である。 そこに浮かび上がってきたのは、「子供のため」と称して、「私」の「ノリ」のコントロールの下、「私が楽しむ」ためクリスマスというイベントに労を惜しまない「私たち」と、あたかも「客」のように実家に遊びに行き、日本古来の伝統は守りたいとしながらあくまで作業には参加せず、「親」や旧世代に属する「親戚」の御節料理を座して食し、あるいは自宅ではばらばらな時間帯に起き出して、お屠蘇代わりのコーラで乾杯する「私たち」の姿。あまつさえ、お正月には「私たち」が盛り上がれるツールが不足している、手がかかって「私たち」が楽しめないお正月は、実家任せでのんびり休養するバケーションと割り切る。この主語、「私たち」とは、本書で調査対象になった日本の、主に30代~50代の主婦である。 もって、食卓不在を指摘し、普通の家族の意識が一連の社会問題の原因となるのではないか、と結んでいる。 まず、私はこの本を読んで、「どこに普通の家族が出てくるのだろう」という疑問が絶えなかった。もちろん、意図する結果を誘引するために調査対象を操作することはないと断られているし、事実そうだろう。しかし、少なくとも、ここに挙げられた「私たち」は普通じゃない。さらに言えば、こうした「普通とはいえない普通の家庭」が、社会問題に直結すると最後に簡単に結ばれるところは、やや安直な印象を拭えないし、冒頭では本書を憂国論でも社会不安を煽るものでもないと断っているのに、おかしなことである。強いて言えば、コマーシャルな書名とストイックな内容がマッチせず、それがこの労作への懐疑を掻き立てるのかもしれない。 「私たち」は、ヴィジュアルなイベント(=クリスマス)には積極的、で、ヴィジュアルでもなければ盛り上がれもしないイベント(=お正月)は、「他の家庭ではやったのに、ウチではやらなかった、というのではかわいそうだから」渋々、手を煩わせずに形だけ執り行う、という指摘は本質的だが、これまたよく考えれば、エクスポーズする対象が、ここに登場する「普通でない普通の家庭」であるなら(つまり、こうした破滅した家庭が普通でスタンダードならば)、そこまで反応を意識する必要もないのだから、同じ穴で狢が堂々巡りしあっているようなもので、指摘そのものの意義も慎重に見直さなくてはならないだろう。 また、調査とは本来野暮なものである。だからそれを否定することはできないが、人間社会には、データ分析だけでは読み落としてしまう、風流の要素がある。「私たち」の具現化した想いはお粗末かもしれないが、そこには“彼女たちなり”、ではあるにせよ、わが子や伝統への愛情が垣間見えないわけではない。その点にも注目しておくのがよいだろう。 怖いのは家庭だけではない。つまりは、なし崩し的に起こる変化そのものが怖いのである。そして、万物は変化を避けられない。そして、変化しながらも、世界は廻っている。不易流行。私とて、すべての変化を受け入れるものではないが、行為の主体が人間であるならば、主観的・主体的(そう、本書の「私たち」は、自分たちの都合のために主体性を遺憾なく発揮する。ライフスタイルのカスタマイズの御伽噺に囚われているのかもしれない)操作を前提にした変化の力を建設的なベクトルに逃がしてやる方法を提案する姿勢も必要なのではないだろうか。(了)普通の家族がいちばん怖い■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/01/10
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昨年末、弟に薦められてちょっとハマっていた『戦国無双2 猛将伝』。ときどき、10代の頃に、キャラクターも少ない『信長の野望』や『三国志』で遊んでいた頃、そしてゲームも私たち兄弟も随分と成長してしまったなぁ、と感慨に耽ったり。 ところで、ゲームもさることながら、このソフト、キャラクターの衣装のデザインがすごく奇抜で面白いんです。正統派戦国武将風であるのに、必ず突飛なアクセントがうまくまぶされているんです。そんなことを考えながら、昨年末フラリと実家近くの書店に足を運んだら、あるんですね、キャラクターの『戦国無双2 公式設定資料集』というヤツが。 要するに、キャラクターデザイン集なんですが、イメージラフからデザイナーのコメント、さらにはキャラクターの体格や特徴などが、美麗図版で取り上げられています。残念ながら、猛将伝のキャラクターは完全網羅はされていないのですが、十分に楽しめます。 特に、各キャラクターの武器のデザイン画も収録されていて、これがまたすごいアレンジではあるのですが、随所に歴史的考証が散見され、ちょっとした刀剣カタログのような趣もあって、なかなかに粋なのです。 聞けば、ファンたちはこうした設定集などを使って、コスプレ用の衣装を作ったりするそうですが、確かにこれだけ資料がしっかりしていれば、結構再現性は高くなるのでしょうね。(了)戦国無双2 公式設定資料集【PS2】戦国無双2 TREASURE BOX 日本版■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/01/09
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見出し:2007年の知の鉱脈を束ねた一冊。原研二著『グロテスクの部屋―人工洞窟と書斎のアナロギア』(作品社) スペクタクルとしての人工洞窟やストゥディオーロ(書斎)という名の洞窟は、しばしば、いやほとんど常にコンセプチュアルであり、発案者や所有者の知性や趣味、センスをお披露目する劇場兼博物館であった。そこに収められるのは、普遍主義に根ざすコレクションであり、これらはディティールまでとどめおいてこそ賞賛に値する。それも、可能なら実物で、無理なら最高の技術を用いて。あるいは騙し絵を用いても。 雑多なようでいて、こと本選びに関しては私は自身のアンテナを強く信じている。昨年末を締めくくる一冊に本書を選んだのはまさに大正解であったのである。 書評に取り上げた知の鉱脈を構成する一冊一冊を挙げることはしないが、それらはすべて、闇、薄暗がり、バロックでシュールで、秘密めいたもの。それらの開示の手法(マニエラ)や欲求。血流、歯車、人体、機械。愛、旅、死、幻想。感覚的なことを理知的に探り、奇なるもの=怪物的なるものを愛撫してきた。振り返れば、これらはすべて、洞窟に隠しておきたいものであり、そして洞窟の暗がりでひっそりと検められればこそ、絢爛たる光の下で華やぎを放つ。 私的な内的世界と呼応する洞窟は、公的世界でかぶる仮面=ペルソナを造型する秘密の工房であり、錬金術の実験室である。 本書に登場する洞窟(その多くは人工洞窟であるが)は、こうした内的世界と外的世界、マクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間)の秘密を思弁し、感覚し、展示する子宮なのである。ストゥディオーロもまた、洞窟であり、フラスコでありランビキなのであった。 2007年に私が辿った興味関心の旅は、ひとまずこの一冊という目的地を得て、幕を閉じた。実に、我が意を得たりの心境である。(了) 追)人文主義文学の巨人ペトラルカが、書斎に座す知識人のピンナップとなっていたと指摘する件は興味深い。追)スター・ウォーズにおける、ダース・ベイダーのメディテーション・チェンバーは、まさにペルソナを調える小洞窟であった。グロテスクの部屋■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/01/07
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見出し:「世紀の友情」の“真偽”を疑う。新関公子著『セザンヌとゾラ―その芸術と友情』(ブリュッケ) セザンヌとゾラ。その友情は幼き日の教室に遡って無垢。その袂別は、ゾラの『作品』という小説にあるとされてきた。美術史家ジョン・リウォルドの圧倒的な権威のもと、あらゆる場面に登場するこの二人の巨人ー文学の巨人と美術の巨人ーの友情とドラマティックな絶交を、疑いものなくゾラによるモデル小説の主人公・画家クロードの悲劇的人生をゾラのデリカシーの欠如としてセザンヌが撥ね付けたことが原因ということに慣れ過ぎてしまっている。 それにしてもなんとも面白くない本だ。無論褒め言葉であるが、本書は、ゾラとセザンヌの友情と袂別が、「芸術家の苦悩のゆえ然」としたあの通説でないことを、血脈をあげて解き明かそうとし、ほとんどそれに成功している。 膨大な資料の中から、この二人の“業績”の中の、きわめて私的なことについて焦点を絞り、それが私的でありながら対局への影響浅からぬ転機へと収斂させてゆく、淡々としてはいるが立体的な手法には説得力がある。 ところが、である。印象派の成り立ちや勃興に、文学が援護射撃した経緯はつぶさに語られる(なにしろ、学生時代には、絵画の才能はセザンヌを越えていたゾラであるし、文章の才能はゾラ以上だったセザンヌである。共闘はさぞ強力だったことであろう)一方、肝心な絶交の原因についてはあまりにもあっけなく綴られてしまう。我々が信じていた、あの“武者小路実篤的な絶交”は、原因こそ違えど、やはり“武者小路実篤的な絶交”には違いなかった。いや、むしろもってますます“武者小路実篤的”であり、それがかえって小説より陳腐な事実を見せられた思いなのである。 さて、このほとんど正解と言っても良い分析、それも大家の作り上げた通説を覆す分析を信じるべきか否か。難しい選択である。私は、それがリウォルドの定説源流の観光ガイド的ロマンチシズムと知りつつ、あえて今は『作品』のゆえの断絶と思いたいものだ。 どちらにしても、前提とは恐ろしいものである。そして同時に都合の良いものであって、さらには、できるならしがみつきたい類いのもののようである。前提は、時に幻想を与えて甘やかしてしまうものだ。 ともあれ、真相を確かめるため、あえて頑なに避けて来たオルセー美術館にも足を運ばねばなるまい。(了)セザンヌとゾラ■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/21
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見出し:いと呑気なる中国春画の世界。中野 美代子著『肉麻(ろうまあ)図譜―中国春画論序説』(作品社) 回鍋肉の肉(ろう)と、麻婆豆腐の(まあ)である。肉麻、ようは酒池肉林の肉林のことであろうか。 エクゾティスムとは何かについて、サイードを離れたところで再び考えているこの途上で、本書を手に取ったのは、まさにエグゾティスムのゆえである。それも、『ピエール・ロティの館』『江戸の身体を開く』の連続性の中での本書への接触であった。エクゾティスムに触れる。おそらくは聖書のエクソダス=脱出のエクス、さらには外部を表す接頭語のエクスを冠するエクゾティスムは、中心以外=外周、周縁への憧憬なので、そも中華思想がなければ存在し得ない。中華思想の外に、エクゾティスムの対象は存在するからである。ならば、この興味は中華の本場へと向かわねばならない。 さて、私が春画を高く評価するのは、批判精神、諧謔性、美術的技巧、風俗文化の資料としての貴重さ、世話物見的愉しみのゆえのみならず、これがきわめてカタログ的であり、まさに切開された“営為の解剖図”だからである。 中国の春画の面白さは、どの男女も、きわめて中性的で年齢不詳の容貌を持っていることであり、それが春画から体温を剥奪している点だ。一見、これが性的行為を描いたものとは到底信じられないほどのあっけらかんとした呑気さと、開放感がある(そのほかには、空間/室内外というフレームを引用した作品については、図像学的な面白さもある)。この閉ざされた場で行われた開放/解放の行為の図版の数々は、まさに中華的性風俗のカタログなのである。 西欧はもちろん、中国の春画、あるいはインドのカーマスートラの挿画などに比べ、なぜか日本の春画は、男性器だけは、江戸期からすでに、精密すぎるほどのリアルな描写がなされているのは実に不思議である。男性器崇拝の名残か、春画作者らのコンプレックスの裏返しか、少なくとも日本が歩んだファロセントリズム(男根中心主義)は、一般に信じられているのに反して、キリスト教的人間観(近代日本の欧化主義)とは無縁なのかも知れない。 エクゾティスムは若さの特権だ。だからまた我々はピエール・ロティの異国趣味を非難することはできない。なぜなら若き日に抱いた憧れは政治性とは無縁に無垢だからである しかし一体、旅(身体内部への旅、中国の性風俗への旅)とは日常からの脱出であり、誰しも物見遊山的な期待と憧れをそれに抱いている。そもエグゾティスムなき旅は成立しうるのか。異世界への無邪気な憧れなくば旅情など生まれえない。すべて旅人はエグゾチストであり、我々は誰かの異国趣味を嗤うことはできないし、嗤わせたりなどするものか。むしろ、あたかも異世界を日常のように旅するポーズは、とりすました欺瞞であり、エクゾティスムの政治性への批判に無条件で同調する浅薄な進歩主義でしかない。 真面目に読んで興味深く、知的好奇心のままに娯楽的に読んで構わないのがこの叢書の格段に贅沢で耽美主義的なところである。 本書はまた別の文脈で手に取ることになろうが、最後に著者自身による図版に付けられたキャプションが、痛快かつ非常に示唆的であって、図版に劣らぬ驚きをもたらしてくれる。(了)肉麻(ろうまあ)図譜■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/21
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