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義母も、うつ病と判断されていますが、 うつ病は多いようです。 僕は、専門家ではないので、なんともアドヴァイスができないのですが、 僕の哲学では、うつ病を治すには、 誰か 他のうつ病の人を治すことということになる。 治す事によって、治される。 結局、自分が 自分が というように、自分のところに意識が向いているので意識を開放するには、 他者と向き合って、鏡とするほかない。 うつ では無い人と向き合ってもいいのでしょうが、 居心地が悪いのではないでしょうか。 鏡にならない 状態になってしまう可能性があります。 お互いに、曇ったかんじで見てしまうようです。 ですから、うつ病の人を治すように、たとえば 声をかけてあげる。 治す者は、治される。 というより、治すことで 治る。 自分のために 誰か治ってもらいたいと願う。 勉強でも、先生は教えることによって、学んでいるわけで、 相手を好きになるから、好きになってもらえるわけでしょ 風邪だって ウツせばなおるという、噂もあるくらいで、 僕の考えでは、こういうことになる。
2010.04.30
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自我の本質は、比較ですから、悩み苦しむのは当然です。 勝つまでしなければならない。 努力しなければならない。 頑張って成功しないといけない。 努力しない人間は、成長しない。 負け犬になりたくない。 まあ、こういう風に思っていれば当然に 悩み苦しむ。 そんなことは、明らかななのに、頑張ればなんとかなるとおもって、さらに頑張る。 何度も書いているけれども、頑張ってなんとかなるなら、 すでに、問題は解決しているはず。 問題は、解決しようとするから苦しい~津留晃一。 そうなんですよ、問題を見つけるのが自我であって、それを解決しようとして苦しむのも自我。 問題なんて 10年前も悩んでいたことがあったのに、いまではそんなことは 忘れている。 解決しようとしない限り、苦しいことはない。 今日言いたいのは、解決しようとしている限り、まだまだ自我の抵抗はあるということ。 何とかなると思うから、自我は悩む。 もっと、もっと 悩みますよ。 だって、解決の道がないのですから、悩むほかない。 絶望しないといけない。 望みを絶つまでは、どうにもならないと 思うまで、悩むほかない。 なんとも ならないんですよ、あなたの悩みは、解決しない。 そして、絶望して、どうにもならないと なったら、自我は活動を停止して、 このままでいいと わかる。 いまのままでいいと 納得できる。 ただ、この辺は死ぬほど苦しい状況で、ロープに手がかかっているようなもので、一線を越えないとも限らない。 でも、しょうがないですね、これより下はないと思えるところまで、おりる。 もうどうにも 変えられなければ、開き直るほかない。 あとは、死ぬだけと思えば、死ぬ気になれる。 僕が思ったのは、「前世では、ここで朽ちてしまったから、今の世ではもう少しやってみようと」 まあ、そこまで思わなくても、気がつけば楽になれる。 何に気づくかというと、世界は鏡なんですが、 他者の鏡(他者の価値観)を基準として生きているのか、 自分の鏡を見つめているのかということ。 自分の鏡だと知れば、自分の想いが映っているだけですから、自分の想いを見つめるだけで生きることが楽になる。 もう 他人の鏡で生きることはない。 エヴァンゲリオンの最終章を見てみましょう。 碇シンジの気づきによって、割れたのは、他者の鏡ですよ。
2010.04.30
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今日、チラッと見た本に感情は意味づけから生まれる。 そして、幸せ感・幸せの気持ちは感情であるとも書いてあった。 そうなんだろうと、合点しました。 幸せ感というのは、一つの感情であって それは、ずっと続くものではなく、 出来たり、消えたりする。 確かに、幸せというのも いつまでも、続くものではないだろう。 まあ、あるがままにいるときには、幸せ感もないですが・・ 何かにたいする 意味づけが、感情を引き起こすというのは、その通りだろう。 そして、一番多いのが、比較。 誰かや、何かと比較しないと 安定できない自我。 その意味付けに 自我は忙しい。 私が 不幸な理由を 数えて、安心する自我。 私が ダメで 相手にされないことを、見つける自我。 まあ、たいてい自我は 上と比較する。 だから、必ず下にいる。 比べなければ、苦しむことは ないのに 比べたがるのが、自我の本質。 自我は 他我との比較によって、「私」が生まれた。 一つだったのが、二つに分かれたのが自我。 鏡としての世界を創ったのが自我。 だから、鏡をわらないと いけない。 他者の鏡~他者の価値観を見ているから、苦しい。 そして、その苦しさがいまの現実を創っている。 現実は中立であり、それに意味をつけているのだ。 そして、その意味が感情を生み。世界に投影される。 こういうことは、誰も教えてくれない、困難にあったとき、困難にあるときに気がつくことです。 困難がなければ、今の世界が「鏡」だなんて気づくことも無い。 あなたは、苦しんでいるから、苦しみを世界に反映させているだけです。 世界は 中立です、あなたはそれに 意味をつけているだけ、色をつけているだけ。 同じできごとでも、あなたと同じようにおもうかどうかはわかりえない。 他人の心の内側だけは 覗けないのです。 あなたの 想いが世界を創っている。 逆ではないのですよ。 世界に対する、あなたの意味づけが、あなたを苦しめているのだったら、その意味付けを変えるだけでいい。 まず、手始めは、「いまのままでいい」ということ。 いまが、どんな状況であろうと、 デブでブスで貧乏で鈍感な 中年の独身で、病気もちであっても、 それを、認めてあげる。 自我が、比較しているのは、あなたに認めてもらおうと努力をしているから、比較して、上に行けばあなたに認めてもらえると思っているから、日々がんばっている。 ハリポターのドビィのようなもの。 あなたは 自我を通して世界をみているから、自我の色が意味をつけてしまう。 この世界のすべての価値というのは、あなたが決めているのであって そうでしょう、あなたの幸せってこれだよっていわれても、誰もあなたの心のなかはわからないのだから、納得できないでしょう。 考える自我~感じる私 は、別なんですよ。 記憶に反応する自我と それを見つめる私も違う。 大切なのは、想いが先ですから、想いが鏡ですから こうありたくないと思うことに 意識を向ける~考えるとそれに 同調してしまいます。 ガンの専門の医者は、ガンになりやすいといいます、 黄熱病の野口英世も 黄熱病で亡くなったといいます。 警官の暴力団係は、暴力団と同じように威圧感があります。 浮浪者に意識を向け続けると、浮浪者に近くなる可能性もあります。 そうではなく、なりたいものに意識を向けたほうが楽しいわけで 浜崎あゆみでも、イチローでも、すばらしい人と思える誰かを思う・意識を向けることで、世界が変わる。 私はダメだと思うことが、ダメにしているということに気づいてみる。 まあ、そういうことなんでしょうね。
2010.04.29
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想いが現実を創るとは、 りんごを 想っていれば、りんごが空中からでてくるわけではなく、 現前にあるりんごに対する 想いこそが現実であって、 りんご自体に現実があるわけではないということ。 犬や猿の前にあるりんごと 我々の前にあるりんごの意味が違うように 我々一人一人もりんごに違う意味を、与えている。 美味しそう、古い、高そう、赤い、やわらかい、腐っている等々 想いが現実を創るとは、 一人一人価値観が違うので、同じ世界を違う世界としてみているということ。 固有の世界を 個々が持つ。 世界を変えたいのであれば、 その想いを変えればいいということであり、 想いによって、何かを出現させるというものではない。 想いが変わることで、その瞬間に世界は変わる。 想い=世界 嫌いだったりんごが 好きになるだけで 世界は変わる。 りんごを 親友人兄弟上司に 置き換えてみる。 嫌いな人を好きになるだけで変わる。 想い=世界ということは、 世界は意識の鏡ということなんですね。
2010.04.29
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この番組だけは、はずせないのに 来週最終回だ。 蝉は7日しか生きないという、その蝉が8日生きたらどうなるのだろう?というのが、タイトルの由来だそうだが、 なんで、こう 心をひきつけられるのだろう。 当然 壇れいさんの、清楚な美しさはあるけれども、 いろいろな 母親の群像がある。 ありきたりな 言葉になるが、無条件の愛、無限の愛 母の子を思う 想いが、感じられる。 誰にでも母はいるわけです。そして、口にはいえないけれど、感謝の気持ちでいっぱい。 そういえば、いままで 母の日にプレゼントを買ったことなかったなあ。 僕も 誕生日のプレゼントをもらった記憶もない。 自営で商売やっていましたから、そんな余裕はなかったのでしょう。 買ってあげたい気持ちはあるが・・・
2010.04.27
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嫌われる私がいるわけではなく、嫌っている私がいる。 愛されない私がいるわけではなく、愛していない私がいる。 どうして課長は私のことだけ、意地悪するのだろう? どうして課長は私を嫌いなんだろう? 他の人には 笑顔で接しているのに、私に向かってはいつも怒ってばかり。 もちろん、課長はあなたの表情を写しているだけですが、 課長があなたのことを嫌っているかどうかは、わかりません。 他人の心は読めませんし、心は変わるからです。 しかし、あなたが 嫌われていると思っているのは、 あなたが 課長を嫌いだからです。 もし、今日課長を心のなかで 許す(愛す)ことができれば 明日は、課長が笑って声をかけてくるでしょう。 課長を変えようとしても無理です。 それは、課長が変わらないということではなく、 課長は、あなたの意識の鏡だからです。
2010.04.27
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現前にあるのは りんごである。 りんごであるけれども、例えば 犬の目に写るりんごと我々の感じるりんごは違うだろう。 あるのは、りんごというより、りんごに対する想い 価値観 視線であって絶対的なりんごそのもの(物自体)というものは、わかりえない。 あなたにとっての りんご はあるけれども、そのりんごは あなた固有のもの。 それを、逆に考えてしまう。 りんごがあって、それを見ている私がいると思う。 そのとき、私とりんごをみている その場所ってどこでしょう? まあ、私とりんごを見ている視線はあるけれど、その視線を我々の自我の視線では見ることは出来ない。 見えていないもんを、見ている。 半田さんは、シリウス革命のなかで 主観線と客観線という表現を使っている。 現前のりんごとコーラの間には 客観線という距離がある。 しかし、私とりんごの間には距離はない。 難しいと思います。???でしょう。 私とりんごの距離は30センチぐらいはあるとか思うでしょうが、 私の位置を 知りはしない。 私は この世界のどこにいますか?あたまのなかですか 頭の中のどこにいますか、その位置がわからなければ、りんごまでの距離はわからない。 私の手から りんごまでの距離は測れる。 私の額からの距離も 測れるだろう。 しかし、私の位置は額ではないでしょう。 多分、私の本体というのは この3次元ではない。 4次元からでないと この世界を3次元に見ることは出来ない。 例えば、いま 朝起きてからいままでの行為を振り返ってみるとする。 ベットでおきて、トイレに行って 歯を磨いて、・・・ すると、どうでしょう。その時の視線は、私を斜め後ろから見ている視線でみている。 夢の視線の位置。
2010.04.26
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あるがまま、いまのままといっても、実際どういう状態かをわからない方も多い。 手っ取りばやいのは、みんなと酒を飲むこと。 ビールを飲みながら、話をしているとあっという間に時間が経つ。 アルコールが自我を麻痺させるのでしょうね。 子供の頃は、だれでも友達になって 遊べたのに、いつの間にか、大人になり 新しい友人はできなくなってしまう。 そういうときに、酒を飲むと自我が麻痺して、子供にもどれるから結構 初めて会う人でも話せたりする。 気づかないけれど、結構飲むと視覚も変化しているはず。 平面的になっている。 で、よく転んだりする。 酔っ払っている状態といえば、そうなんですけれど、それは 酒の力で一時的に自我が麻痺しているだけ。 あとは 瞑想とか座禅とか、おとなしくしていればいい。 自我は おとなしくしていることが出来ない。 自我の芽生えた子供も おとなしくしてはいられない。じっとしていると 寝てしまう。 寝るときも じっとしていると自我が、休む。 酒を飲むと 眠くなるのは、自我が麻痺してしまうせいかもしれない。 現実には、スポーツでも趣味でも 没頭しているときが、あるがままの状態ですね。 一体となっている。 自己と他の区別がない。 時間も空間も感じることがない。 ある意味 面白いも楽しいもない。 それが 終わったときに 面白かったとか、楽しかったとかいう感情が後から生まれる。
2010.04.25
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世界を変えるには、想いを変える外無い。 しかし、自分の想いは 出ては消える。 一番のおすすめは、毎日日記を書くこと。いまは、こういったブログがあるので、それに いまの想いを書いてみる。 したばかりのウンコは臭わないが、一旦 トイレからでて入ると結構くさいものです。 日記も同じで、書いたばかりはそうでもないですが、少し経つと客観的に見れる。 自分の想いを 観察してみる。 考えるのは自我、感じるのは私。 考えているときは、言葉の虚構の世界にいる。 感じているというのは、いまの五感で味わう世界。 夢中になっているときの世界、言葉で表すことの出来ない世界。 実際、言葉にしてしまえば そのままの感情とはいえないかもしれませんがしょうがないですね、言葉でこの世界はできているわけですから。 生き難いと感じているときというのは、たいたい 自分を否定している。 過去の自分を、振り返って、あのときああしていればこんな人生を送らないで住んだと思う。 過去が原因で今の世界があるわけじゃない。 過去に対する 自己否定が今の世界に反映される。 そして、幸せになりたいと思って 探し回れば回るほど、幸せから遠くなる。 成功しよう成功しようと 考えれば考えるほど、変われない。 幸せの青い鳥は家にいたというのは、物語の話ではなく いまの世界。 外の世界に探しに行ってもいない。 変わろうとしても 変われないのは、いままでそうだったわけで、それでも 変わろうとしている。 よくいわれるように いま にいることです。 神との対話にかいてあったけれど Nowhereではなく Now Here いまにいるということは、考えることではなく、感じること。 その想いが反映される。 ですから、どうぞ 自分の想いを見つめてください。
2010.04.25
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強く念じれば、それが実現するとか言う本が売れている。 トイレを掃除すれば、お金ガはいるという本も売れている。 ついているという言葉を念じれば、ついてくるという。 まあ、そういうことも あるかもしれませんね。 しかし、100人が100人 お金持ちになったり、幸せになったりしないのであれば、それは信仰でしかない。 それを 法則といってはいけない。 でも、お金持ちになる法則は 実はある。 幸せになる法則もある。もちろん、100人が100人 それもいますぐに お金持ちになり、幸せになることができる。 それも、努力もがんばりも お金もかからない。 たいてい、現前の世界を変えようとするわけです。 1000万円あればとか、課長になればとか、彼氏ができればとか しかし、いくら変われと思っても、現実を変えることはできない。 それは、無理。 ですから、鏡の世界ではなく それを投影している想いを変えればいい。 1000万円なくても、いまある一万円に幸せを感じればいい。 その一万円に対して お金があると想えばいい。 現実を変えることは、できないが、それに対する想いを変えることはできる。 な~んだ、と思うでしょうが、 世界は想いの反映です。 まず 幸せでお金持ちになった気持ちになれば、それに見合った世界が映し出される。 その感情が、うれしい 幸せな感情が世界に投影される。 笑う門に 福が来る理由であり、 そういえば、今週ロト6とトトビックが当たりました。 そんなことはどうでもよく、 まず最初に 幸せでお金持ちであるという想いがあればいい。 其処で大切なのは、思うようにしようということではなく、 ああ 幸せだ~ 僕はお金持ちだ~という、裏表がない気持ち。 鏡は真実の想いしか写さない。 まあ、何が起きるかはわからないけれども、その感情に見合った現実が生じるのは間違いない。 ですから、まず 幸せな気持ちになることです。 逆に考えているんですよ、何かがあったら幸せになれるという人には、何も来ない。先に幸せになること こそが、幸せになる秘密。 世界は想いの表象で、世界が変わらないのであれば、思いを変えればいい。 それだけです。 世界を変えようとしているのは、鏡を先に笑わせようとしているにすぎないのに、どうして 笑わないのかその方法を考えても無駄。 まず、笑うこと、まず 幸せな気持ちでいること。 想いが 世界に反映するわけで 逆じゃないのです。
2010.04.25
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誰でも、成功したい お金持ちになりたい 幸せになりたいと思う。 そして、書店に行けば「こうすれば、成功する」「こうすれば 幸せになれる」という本であふれている。 そして、そういう方法を実行して、これもまたうまくいかない。 まず、その前に どうして 成功したいのか?どうしてお金持ちになりたいのか・?どうして 幸せ出ないと感じてしまうのかを問うことはない。 そんなことは どうだっていい お金があれば、成功できればいいと 思うかもしれないが、 この どうして、成功したいのかに 秘密があるとは思わないのでしょうか? つまり、お金持ちになりたいという 問いに対して、 海外旅行に行きたい、家がほしい、洋服が欲しい 等々あるだろう。 何故海外旅行に行きたいのか?なぜ家がほしいのか? 楽しいから、うれしいからと 答えるかもしれない。 海外旅行に行かなくても 楽しいことはあるのかないのか? 家を持てないことで なにか問題があるのか? この お金がほしいという 本当の元になっているものは なんなのか? と、問い続けていくと、ないんです。 わけもなく ただ お金持ちになりたいという思いが生じているだけ。 成功したいという思いが生じているだけ。 そして、そうではないいまを 変えようとして頑張り努力し日々を過ごす。 しかし、努力して 頑張って成功するなら、もうすでに変わってもいいはずではないですか。 もう少しすれば 何とかなると思っても、いままでダメだったのにこれから変わる可能性はかなり低いを思えないんだ。 まあ 無理でしょう。根本的に 無理。 満たされない欲望を 満たすことはできない。 昨日の続きになるけれども、自我の本質は比較です。「ママ まま こういうことできるよ」と子供のよく言う言葉。 自我の目覚めとともに、比較が生じる~二元論的世界・言語の世界・虚構の世界~ 考えるといまにいないのですが、それは別にして 欲望は他者の欲望である~ジャックラカン~ テレビで宣伝しているビールを見て 初めて ああそういえばビールを飲みたかったんだと思う。 隣の芝生である。他者の鏡といってもいい。 比較をするために 欲望する。 唯それが理由だから、お金がほしい理由なんてないのだ。 自我が、誰かと比べたくて 欲望しているだけですが、 それを 「私」の欲望と同一化していしまう。 私は 自我を観察するものです。 たいてい 自我と「私」を同一化してしまうけれども、 ある出来事に 反応ずる自我と 「私」は別です。 自分の感情を観察していくと わかるようになります。 欲望する自我、観察する私。 二元的な自我、一元的な私。 比較する自我、中立な私。 鏡に写るのは 自我です。この世界は、自我の作った幻・虚構のようなもの。 幾何学が私 色が自我。 あるのは 幾何学的図形(神聖幾何学)でありそれに 個人の価値により色眼鏡で見ているだけ。 まあ、それはともかく 欲望するのが 比較するのが自我の本質ですが、それと私を同一化しないで欲望する自我を観察する。 その一つの方法が なぜ なぜと 自己問答すること。 自我は、答えることができない。 比較することが 本質なので、何故比較したいのかを答えることができない。 その 方法を考えるだけで、そして、当然 うまくいかないのです。 つまり いまを変えようとするどんな方法も いまを変える事はできない。 変えようとする 思いがうつるだけだからです。 書店にいって 「成功本」を手にとって こんどはこれを実行すれば成功できるという思いにこそ、あなたがいつまでも成功できないわけがある。 実際、これまでも成功していないし これからもできない。 それは、成功も幸せも 心の想いにあるわけで、外の世界にはないからです。 100万円が欲しくても、100万円手に入ってももっとほしくなる。 努力の結果は、新たな努力があるだけです。 努力ではなくチャレンジであれば、辛いことはなく、楽しいので、なにかにチャレンジすることはいいけれど、 毎日の同じ仕事の努力は、それを頑張っても、報われない。 いままで なにかうまくいったことがあるとして、それは 努力の結果と想っているかもしれないですが うまくいったとしたら それは チャレンジ 新しいことへのチャレンジであって したくないことを頑張って努力したわけではないでしょう。 すべては 想いにある。なぜなら 世界は想いの鏡だからです。
2010.04.25
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現実の世界が 意識の反映であるなら、 どうして 私の想い通りにならないのでしょう?というもっともな疑問がある。 もちろん、 お金持ちになりたい というのは、なりたいという現実をいまこの瞬間にあなたは創り上げている。 しかし、そういう想いがなくとも、面白く無い事や 嫌な人と出会うことがあって、辛いことがあって、もちろん 仕事もなくて、金も無い こんな現実を 望むわけが無いと 思うかもしれない。 しかし、世界は想いの鏡ですから、あなたの想い以外を写せない。 じゃあ、どうしてこのような 望んでも居ない現実があるんだろうか。 想っているからです。そういう現実を引き起こす 過去の記憶を持っているからです。 過去にあった いやな事に対する 後悔や怒り・恐れを繰り返し思い出すことがあるはず。 その記憶が想いとなって いまの現実世界に投影されているに過ぎない。 だから、上司が嫌で会社を替わっても 同じような上司は必ずいるし 同じような 扱いを、いろいろなところでされる。 どうして わたしだけ、こういう目にあうの? 何度も 何度も? それは、過去にある記憶が映像として今の世界に投影されているからです。 どうしてかというと 世界は想いの鏡ですから、想いをただ写しているだけです。 想っていないものは 写りません。 いまの現実が嫌であれば、過去にあった出来事に対する想いを浄化する必要があります。 浄化とは、その想いを 許すこと、結局自分自信を責めているだけなんですけれど、その自分を自分が許す。 許せない限り、その想いは現実の世界に映写される。 それを変えることは誰にもできない、できるのはあなただけです。 いま 困難な人は、過去の困難な出来事に執着している。 いま 幸せな人は、過去も幸せ、~ハッピーエンドの映画を見ればそれまでの苦難は 幸せに変わる。 こういうことは、信じる必要もないことです。自分が 現実の世界でやってみて試してみる以外に方法はない。 世界が 鏡かどうか どうぞ お試しください。
2010.04.24
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別の角度から、鏡であることを検証してみよう。 我々の記憶は、いったいいつくらいからあるだろうか? たいてい、幼稚園くらいだと思う。 生まれてすぐに、自我はなく 記憶とともに、言葉を覚えるとともに後天的に成長したと考えられる。 しかし、園児の絵を見てもわかるように、園児の絵は顔の大きいお母さんの絵であり、平面的である。 そして、園児の頃は 自己と他者の区別があいまいであって、自分のことを 私とはよべず 「さっちゃんて 呼ぶんだ、おかしいね さっちゃん」 自我の萌芽とともに、自己と他者を区別できるようになり、世界から分離される。 幼子の 智恵付きて 神から遠くなる いと哀しき それと同時に、世界に奥行きを生じさせる。 これは、フラクタル的に歴史からも読み取れる。 遠近法の発見、デカルトの二元論、大航海時代 これらが、歴史上の 自我の誕生。 ルネッサンス期までは、自然と社会は一体であった。 ところが、自我が出来て、世界は平面的なものから立体的なものになり 平面と思われた海岸線の果てに 向かって旅立つことができるようになった。 エジプトの壁画、写楽の絵、園児の絵 これらは、平面的。 自我の誕生とともに、世界に奥行きが生じた。 それは、他者の視線を相対して想像することにより、影をつくったのだろう。 本来、世界は我々を包むものではなく、我々が世界を包んでいる。 閉じた宇宙。風船の中をのぞいているのが、われわれの世界なのだ。 閉じてないと 鏡にならない。 あとは、 見ているものは、目に入った光を通して脳で判断しているという一般的な説を採用するとしよう。 単純に 見ている世界と 脳で見ている・感じているものは同一です。 それらは、常に一対一の対応をしている。 りんごがあるから、りんごが見えるということですね。 それなら、X=Y Y=Xですから、取り替えても同じ。 見ている世界は 脳で見ている世界ということです。 つまり 自分の頭のなかを現実に見ているということになる。 いいたいのは、我々が物理的な地表にいるちっぽけな存在ではなく逆に 我々が感じている世界は 我々の内部。 心象風景を見ていることです。 ですから、世界に存在する他者は あなたの心のなかにいる住人なわけであなたの分身。 そういう意味でも、鏡なのです。 その心に存在する世界を 変えようとしても、それは あなたの内部の世界ですから、変えられない。 想いが 投影した世界。
2010.04.24
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世界が鏡かどうかは、証明のしようがないこと。 しかし、鏡であると仮定することによって、損をすることもないのだ。 よく言われるのが、他人のふり見て わがふり治せ、とか 嫌いな人の嫌いなところは、自分の嫌いなところだ、とか 相手は治らないから、自分を変えればいいんだとか、経験的に言われている。 しかし、もっと単純に 自分が笑えば 相手は笑うかどうか 自分が殴れば 相手は殴ってくるかどうか テレビを見ていてよく泣くときと言うのは、テレビの中で誰かがないていませんか? お笑いタレントは、いつも 笑っていませんか? ~笑わせるには、笑う必要がある~ 挨拶すると 相手は挨拶しますか? おじいさんと 話をするとき、声が大きくなりませんか? 赤ちゃんと話すときは、赤ちゃんの言葉になりませんか? 友人と話すとき、親と話すとき 上司と話すとき、いつも同じように話していますか? 子供と話すときは 親の顔、親と話すときは 子供の顔、友人と話すときは友人の顔になりませんか? 欠伸は写りませんか? 世界が鏡と仮定してみませんか? 世界が鏡だとして それがどういう 利点があるんだと思うかもしれません。 まず、鏡ですから 与えたものが与えられるという法則があります。 年賀状が欲しい人は、年賀状を書いたらいい。 愛が 欲しい人は 愛すればいい。 友人が欲しい人は、友人になればいい。 お金が欲しいひとは 寄付をすればいい。 ずっとこういうことを書いているのですが、きまって 「私は、寄付をしているけれども、返ってこない」という。 第二の法則 鏡は 真実をそのまま映し出す。 寄付をして 返ってこないという 現実をそのまま映し出す。 がんばれば、努力すれば なんとかなると思っていれば その がんばる状況を 作り出す。 お金が欲しいという 思いは、お金が欲しいというそのままを映し出す。 そこで、第三原則 すでになること。 お金が欲しい人は、すでにお金持ちになるしかない。 つまり、お金持ちのイメージをふくらませて いまの自分もその範疇にいると考える。 すでに、お金持ちになってしまえば、お金持ちになりたいとは思えない。 すでに お金持ちなんですから。 だけど、そうかんがえるのもばかばかしく思えて、そのお金が欲しいという思いが消えていく。 すると、すでに 欲しいという思いが浄化される。 すると、欲しいと思っていた現実とは、違う現実が現れ、その表れをみて初めてこれが欲しかった現実だったとおもう世界に生きられる。 努力しても 幸せになれません。 幸せになるには、幸せと思うこと。 ですから、まず 幸せだと思うことが大切です。 いまは刻々過去になり 未来は刻々今になります。 時間は 未来から 過去に向かって流れている。 ということは、いまは 未来の結果なのです。 未来において 幸せに人は 必ずいま 幸せでないとなれない。 いま思っている お金持ちや幸せの基準を いまの生活水準に合わせてみるだけで、すでに お金持ちであり 幸せ。 変わらなければ成長しないとおもっているのは、自我の性質です。 変わらなくて いいんです。いまのまま でいいんです。 いまが、どんなに 病気であっても 困難であっても 貧乏していてもいまに 感謝できること(結果を先に創る)で、救われる。 変わろうと思うから、変われない。 何故なら、世界は 鏡 なんだってことです。
2010.04.23
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最初このタイトルを見たとき 八月の蝉だと思った。 八日目の蝉である。 現在、火曜日の10時~NHKで放送中 ハイビジョンで再放送 なかなか 面白い。 ヒロインの壇れいさんが、清楚な美人~宝塚出身美人だな~ハート達(複数ハート) 主題歌もいい。 ストーリーも、展開が速く どきどきする。 愛する男の子供をおろして、本妻の子供をさらって逃亡する女性の物語といえば、簡単ですが 途中で、エンジェルさんとかいう わけの わからない 宗教施設みないなものに入って、 集団生活をしたり、そこからまた 逃亡して、 小豆島のラブホテルで働いたり、 なんか 意外な展開が 面白い。 前回、ラブホテルで朝の掃除しているときに、地元のにやけた親父が 長靴で誘ってくるのが、非常にリアルであった。 このドラマは、本妻の赤ちゃんを 好きになるということが、ストーリーの柱になっている。 現実のニュースで、同じような事件があったのを思い出す。 上司か同僚の子供をおろし、その復讐のため、その家に火をつけて相手の子供を殺したという事件。多分、この事件に触発されて書いたのだろう。 ただ、相手の子供を殺すのではなく、逆に愛してしまうという点にこの物語の やさしさと哀しさがある。 失った自分の子供を、相手の子供に置き換えているのでしょうが、男にはわかりかねる 女の性が見え隠れするのだ。 最近は、虐待の話題が多いけれども、 このテレビには、母性を感じさせられる。 彼女が、この子供に見ているのは 愛した男なのか、 彼女の 失った子供なのか、 それとも 彼女自身なのか・・・。 やがて、その子供も大人になり 不倫をし、その子供を身ごもる。 両親が 離婚をすると、その子供も離婚をすることが多いと聞く。 親に 虐待された子供は、子供を持つと 子供を虐待するようになるという。 子は 親の鏡であるが 親は 子の鑑なんでしょうね
2010.04.23
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ヴァシャールを読んでいると、ピアノの演奏家になりたい人の質問があった。 コメントとしては、大きな会場を借りて、ピアノの演奏をする。 お金を払ってとかではなく、そのピアノの演奏家のイメージをつけるということ。 同じようなことが、苫米地さんの本にもある。 社長室のいすに 座るというようなことだ。 多分、効果があると想う。 なぜかというと、 世界は、鏡だからです。 ないものは、写さないが、あるものはそのまま写る。 幸せになりたいと想ってもなれないが、 すでに 幸せと気づけば、その一瞬で幸せになれる。 これが、100人が100人幸せになれる法則。例外はありません。 つまり、なにかになるには、すでにそれになる必要がある。 ピアノの先生でも歌手でもなりたいものには、子供が仮面ライダーに変身するようになればいい。 肩書きとか、収入とか、経歴なしに、子供はウルトラマンになれるように、なれる。 その歌手のイメージを 大きくすればいい。 それは、固定観念を打ち破ることでもあって、有益です。 歌手とはこういうものだという固定観念がなくなれば、自分が歌手でかまわない。 ついでに言えば、僕はすでに作家になったつもりで、書いている。 だからでもないが、結構えらそうなことをも書く。 すでになることが 世界に反映する。 他人の価値観をうえつけられ あんたが なれるわけない という思いを持ってしまう。 本来は、すでになるということは、いわないほうがいい。 他人の干渉 を受けてしまうからです。 すでに そうであるようにする~これは、黄金率。
2010.04.20
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持てる者はさらに持て、持たざるものは 持っているものまで取り上げられるだろう というような文章がある。 モテル者は さらにモテ、モテナイ者は持っている物まで失うというげっそり デブで不細工な男の悲哀を言っているわけではなく、 それは 幸せ感とか、満足感とか そういったことなんでしょうね。 それが、そのまま写りだす。 すでに 与えられたとおもい、祈りなさい という言葉もある。 そういう意味で、感謝なんです。 先に 感謝をしてしまう。 先に ありがとうといってしまう。 この次元では、時間は未来から過去へ流れているので、結果を先にいうことで原因を創る。 笑う門に福、泣きっ面に蜂、 時の鏡といってもいい。 これは、前回の日記のすでに 起きていることということと同じ。 何かになろうと思って 努力してがんばるのではなく するのは 挑戦であり チャレンジ。 毎日繰り返ししたくない努力ではなく、 例えば ワールドカップに出る為に練習するのは、チャレンジだろう。 歌手になる人は、歌手になれるだろうかと悩まない。 悩んでいないで 歌っているだろう。 幸せな人も 幸せになれるかどうかは 悩まない。 すでに 幸せである。 どうしても、それを感じられなければ、フリをすることでもいい。 やさしいふり をする。 なりたい自分のふりをする。 ふりをしているだけだから、思いと行動は一緒。 または、その 幸せの概念を広くする、お金持ちのレベルをいまのレベルまで引き下げる。 現状に満足しましょうといっているわけですが、現状を変えるには 逆説的ですが、現状に満足する以外にない。 この辺が、言葉にするのが難しいけれど、鏡ですから という他無いんですね。
2010.04.20
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持てる者はさらに持て、持たざるものは 持っているものまで取り上げられるだろう というような文章がある。 モテル者は さらにモテ、モテナイ者は持っている物まで失うというげっそり デブで不細工な男の悲哀を言っているわけではなく、 それは 幸せ感とか、満足感とか そういったことなんでしょうね。 それが、そのまま写りだす。 すでに 与えられたとおもい、祈りなさい という言葉もある。 そういう意味で、感謝なんです。 先に 感謝をしてしまう。 先に ありがとうといってしまう。 この次元では、時間は未来から過去へ流れているので、結果を先にいうことで原因を創る。 笑う門に福、泣きっ面に蜂、 時の鏡といってもいい。 これは、前回の日記のすでに 起きていることということと同じ。 何かになろうと思って 努力してがんばるのではなく するのは 挑戦であり チャレンジ。 毎日繰り返ししたくない努力ではなく、 例えば ワールドカップに出る為に練習するのは、チャレンジだろう。 歌手になる人は、歌手になれるだろうかと悩まない。 悩んでいないで 歌っているだろう。 幸せな人も 幸せになれるかどうかは 悩まない。 すでに 幸せである。 どうしても、それを感じられなければ、フリをすることでもいい。 やさしいふり をする。 なりたい自分のふりをする。 ふりをしているだけだから、思いと行動は一緒。 または、その 幸せの概念を広くする、お金持ちのレベルをいまのレベルまで引き下げる。 現状に満足しましょうといっているわけですが、現状を変えるには 逆説的ですが、現状に満足する以外にない。 この辺が、言葉にするのが難しいけれど、鏡ですから という他無いんですね。
2010.04.20
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世界が鏡であれば 日々出会う他者も自分の鏡ですね。 しかし、その出てくる言葉は 異なる。 鏡のなかの 他者である私の口から でる言葉も私の言葉。 無限の私の中の一人。 ですから とんな自分を見たいか ということです。 こうなりたい自分を みるほうが楽しい。 どういう他者を見ても、あなたをみることができる。 それは、浮浪者のなかにも それは、歌手や俳優にも それは、経営者や政治家でも 見るものはすべて、あなたを写す鏡。 しかし、どのような自分を見るかの選択はできる。 わざわざ見たいくない自分を見ることはない。 それは、その部分に同調してエネルギーが大きくなるからです。 この世界の鏡は、ただ あなたを写すだけではなく あなたを同調・増幅させる。 類は友を呼ぶのか、朱に交われば赤くなるのか、わかりませんが 見ているものに同調する。 不思議なのは ペットの犬が飼い主に似ること 似たもの夫婦 まあ もちろん 現実をどうとらえるかにもよりますが、 波動のようなものがあって、共鳴を起こすようです。 他人の口から出る意見は、自分の口から出たものと同じように 気をつけたほうがいいでしょうが、 それがすべてではなく、自分の中の一人の意見でしかない。 100人に話せば100通りの返事があるわけで、そのすべてが自分の口といえますが、 平均になっているのではないわけで、それを選択したらいいのでしょうね。
2010.04.17
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まあ結構刺激的なタイトルなわりには、たいしたことをいいたいわけではない。 現前の他者が、殴られる、怪我をしているときに たいてい、痛みを感じる。 特に、自分の子が苦しんでいると、苦悶の表情になる。 ということを、疑わなくて当たり前と思うけれども 何故でしょうか? 物理的には、なにも 伝わることはないのに、 実際に 痛みを感じる。 これが、鏡 なんです。 これが、感情が移るということなんです。 痛みは、わかりやすいですが 他の感情もそう 幸せとか、うれしいとか 移るんです。 また、現前の他者はあなたの鏡であると同時に あなたの心のなかに存在する あなたの分身。 だから、痛いと感じる。 いいたいのは、誰もが見ているのに 見ていないということ。 気づくとは、隠れているものに気づくことではなく 見ているのに 見えていないものに気づく。 それが 反転である。 ルビンのつぼであり、ポジとネガである。
2010.04.15
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しなければならないことを するのは辛いですね。 これは、不思議ではないです。 しかし、 しなくてもいいことを すると楽しい~津留晃一 これは、聞いたときは、少し驚きました。 そうだよなあ。 趣味でもなんでも ジョギングでも 写真でも それをしなければならない と想うと辛い。 しかし、しなくてもいいことを していると思うと こんなことしていいのかなとは思っても、辛くはない。 仕事も、しなければならないと思うと辛い。 仕事なんてしなくていいと 思えれば、辛くない。 しなくてもいいけれど、まあ暇だしやってみるかという感じでやる。 やはり、しなくてはならないというと しがみつくというか執着するから、辛いのでしょうかね。 しかし、しなければならないことと しなくてもいいことってのは 心の中にあることですから、 どうせ 同じことをするなら、しなくてもいいことを、していると思ったほうが楽かもしれないですね。
2010.04.14
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世界鏡と知ると、与えるものが返ってくると学ぶ。 ということは、回りのみんなが 幸せになれば、それは僕が幸せになるということだから、みんなが 幸せになることを考えればいい。 ということで、 周りの人のために つくすようになる。 みんなが、幸せにあんることが、自分の幸せなんだと・・。 みんなが、幸せになるためには、 僕は、少しくらい 無理もできるし がんばれるし 努力もできる・・・ しかし なんか 変だ? あまり 幸せに感じないがく~(落胆した顔) 世界が鏡なのに、何故幸せに感じないのだろう? 周りの人が、幸せになることが、私の幸せじゃないの? 逆なんですね。 やはり、鏡を先に 笑わせようとしてしまう。 大切なのは、世界があなたの鏡であって、先に意識・」想念・感情があってそれが世界に反映される。 どうしたって、自分が楽しいことがないと、その感情が反映せず写らない。 ですから、最初にくるのが ヴァシャールのいうワクワク感であり、したいこと、楽しいこと・好きなことなのでしょう。 好きこそ もの の 上手なれ。 この ものはね、物でもあるし ものの哀れのもの=心でもある。 ゆめゆめ 過去への執着と未来への不安に 意識を向けないように。
2010.04.11
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一言で言えば、顔が大きく平面的ということでしょう。 多分、我々もこの世界を、園児の描くお母さんの絵のように見ている。 関心のあるものは、大きく見ていて、関心のないものはあっても 見えない(見えていても 記憶にとどめていない) ですから、その人の価値尺度によって 世界のありようは変わる。 公園の 浮浪者と遊んでいる子供、ひなたぼっこしている老人は、同じ公園にいても、違う世界を見ている。 会社でも 立場によって、見方が違えば 実際に見ている世界も異なる。 これが、世界が意識により創造されるということ。 いまの意識が 見たいものを見て、見たくないものは見ない。 ですから、意識を変えれば世界は変わる。 もちろん、その意識・感情が問題であって、たいていは ミニ自我(偏見)をもっていて、ゆがんで世界をみている。 あるがままに 見ること自体なかなかできるものではない。 ただ、あなたの見ている世界が あなたのいまの状況を映し出していると考えることはできる。 世界を観察して、自分の思いを見ることができる。 それが いやな上司であり、したくない仕事であり、しなければならないことでもあるのでしょう。 世界を観察すること=心象風景をみること 自分の想いを観察することは、結構難しい。すぐに変わるし、忘れる。 ある意味、日記は想念観察には最適。 自分が今何に関心があるのかということを 見るには、日記等で書き留めておくことは、必要かもしれないですね。 多分、関心のないものは 世界に存在しない。見えもしないし、感じもしない。 まあ 彼氏や彼女ではなく その他大勢の人ということなんでしょう。その他大勢の人の顔は、記憶に残ることはない。
2010.04.09
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ということで、将来において幸せであるには、いまこの瞬間が幸せであればいいということがわかった。 が、それが そう思えないから 問題ともいえる まあ、自分が満たされていないと気づいていないということなんでしょうね。 この世は、二極の世界ですから、いいと悪いに分けて 私は比較してだめだと思っている。 しかし、その比較においても あなたより もし お金のない人があなたより、必ず不幸せな貧乏な暮らしをしているかというと違うだろう。 この世界には あなたの 想いが反映している。 だから、その想いを変えるほかない(外側を変えたければ 内側を変える) 例えば、二極の線を消そうとするのが、多分 差取り(悟り)なんですよ。 だけど、まあ そういう線を消さなくとも、その線を ひっぱったり 伸ばしたりして、遊んでみればいい。 二極にいるということで、塞翁が馬~どちらがいいのか わからない。 ということであり、また あなたは 自分にないものにしか目を向けない。 無いという 想いにエネルギーを与えないで、あるものに 心を向けてもいいでしょう。 貧乏だけど 健康だとか、太っていても 元気だとか、 まあ いいかと すべてこのままでいいと受け入れる。 そして 変わらなくても いいんじゃないかと 思えるようにしてみる。いまでも 結構幸せだったんだ、気がつかなかっただけなんだと 気づく。 変わろうとしているから、いつまでたってもおなじことを繰り返しているのです。円柱の中の ハツカネズミのように。努力して変われるのなら、とっくに変わってきてもおかしくないでしょう。 いまの 自分を否定しない~これが 大切。 というか、あなたの世界が変わるには、この思考方法を使う以外に考えつかない。 そして、頑張らない、適当に お気楽に。
2010.04.08
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過去の出来事がミニ自我を形成すると書いた。 そして、そのミニ自我を浄化すればいいとも。 しかし、過去は変えられないという 考え方も一般にはある。 過去は変えられないが、未来は変えられる、だからいまこの 瞬間を頑張ろう、努力すれば解決する・・・・ まあ、多くの方はいまでもこういう考え方をしているのでしょう。 解決しようと するから苦しい・・・津留晃一 過去が変えられないなら、いまも 未来も変える事はできない。 過去も未来も いま の鏡。 それはともかく、例えば ロマンス映画があって、愛し合う二人は幾多の難関を乗り越えて、一緒になったとしよう。 まあ、それが幸せになるかどうかは 大いに疑問がつくとして 二人が結ばれたということで、過去に起きた出来事は、すべていまこの瞬間のための道筋となる。 あのときの 苦労も 苦しい思いも いまとなっては、 笑い話にしかならない。 かえって、それを乗り越えたということで、二人を結び付けるかもしれない。 しかし、その途中での過去は、苦しい思いだけだったはず。 だから、過去は どんどん変わる。 過去を決めるのは、いまこの瞬間。 同様に、未来を今決めている。 これは、苫米地さんの時間論で、時間は未来から過去へ流れているというのがわかりやすい。 いまは 刻々 過去になり、未来は刻々 現在となる。 だから、時間は未来から過去へ向かう。 ということは、いまに影響を与えるのは 未来。 つまり いまは 未来の結果である。 未来において幸せな人は、その過去である現在も幸せなはず。 最初の映画のストーリーでは、 いまが どんな状態であっても 結果からみれば幸せなんだということ。 そして、いまが 幸せな人は 必ず過去を幸せと感じる。 それを、意識が過去の辛い経験に向いていれば、 いまも 過去も未来も不幸となる。 そういう 流れの中にあるのですが、 我々には いま しかない。 やがて来る未来に 幸せであるのには、いま どのような感情であればいいか? 笑う門には 福を、泣きっ面には 蜂を、 いまの状態が 反映される。 いま 子供のライター遊びで火事になることがあるらしい。 子供は、親をまさに 鏡としているから、真似 をして、まずは 親の 鏡として、自我を形成するのでしょう。 もちろん、人間以外の動物も 初めてみるものをまねして 成長する。 しぐさ、行動 言葉を真似て、この世界を形作る。 そのことが、この世界をまずは他人の鏡 他人の価値観で創るということなんでしょうね。 真似を しない 子供はいない。
2010.04.08
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世界は私そのものなんだけど、私とは別個の物理的存在のように 感じるのが自我の性質なんだろう。 自我は、我々がこの世界に産み落とされてしばらくして誕生した。 たいてい、幼稚園時代だろう。 言葉を覚え、記憶が芽生えた。 どうして、そういえるのかというと、単に僕が幼稚園以前の記憶を持たないことなんだけど、言葉なしに記憶はないといえる。 当時を振り返るに、自他の区別があまりなかった。 殴った子供が、殴られた子供と一緒に 殴られたといってないてしまったり、 自分のことを 太郎花子とよび 僕・私と呼べない。 そして、書く絵が 平面的。 この時期に、自然から自我が分離してきた。 自我は、ある意味二極なんだけれど、ただ 二つに分けているだけ。 それが 言葉=記憶=時間・空間 となりこの世界の構成要素となるけれども、 子供は、あれが欲しい これがほしいといっても 執着しない。 問題は、欲望にあるのではなく、それを執着することにある。 過去という ミニ自我を体にくっつけて生きるようになる。 また、未来への不安が ミニ自我として まとわりつく。 自然に生きてきたのに、だんだん 生きにくくなる。 それは、したいことをして生きていたのに、 しなければならないことを するようになるからです。 大人になるとは、しなくてはないらないことをすることというように教育される。調和、和を乱さない、みんなと一緒。それが 安心。 まさに レッテル貼りであり ビンのなかに押し込められたようなもの。 しかし、誰も本当はあなたを縛っていない。 その 価値観を他者の価値観を自分の鏡と、勘違いしているに過ぎない。 それも、ミニ自我なんだろう。 そして、そのミニ自我の想いの反映としてそれぞれの世界が構成される。 ですから、過去の執着・後悔、未来の不安、他者の価値観を いまの世界に映し出しているから、 この世界が、想いの反映とは感じられない。 こんな世界を 一つも望んでいないと思う。 だけど、世界は想いでできている。 目の前のりんごを どのように感じるかは、個々人の価値観による。 すべてが、自らの想いなんですが、その 想い自体が、ある一定の方向にいっている。 これが、教育・親・マスコミの刷り込み。 他者の 欲望を欲望しているだけだから、満たされることはない。 だって、そもそも 完全で満たされている。 見ている世界そのものすべては、あなた なんですから。 満たされていないはずがない。 それを ない と想わされている。 すべてが あなたの世界の出来事 だから、どのように想ってもかまわない。 ですから、いまの想いがいまの世界に反映されるように、 過去や未来の執着である ミニ自我を解放させることで、楽になる。 それを 握り締めているのは、自分自身。 思考の前提です。 それが、幸せになりたい お金持ちになりたいと誰もが当たり前の前提としていること。 いまを 否定してしまうことに 気づかない。
2010.04.08
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過去の出来事がミニ自我を形成すると書いた。 そして、そのミニ自我を浄化すればいいとも。 しかし、過去は変えられないという 考え方も一般にはある。 過去は変えられないが、未来は変えられる、だからいまこの 瞬間を頑張ろう、努力すれば解決する・・・・ まあ、多くの方はいまでもこういう考え方をしているのでしょう。 解決しようと するから苦しい・・・津留晃一 過去が変えられないなら、いまも 未来も変える事はできない。 過去も未来も いま の鏡。 それはともかく、例えば ロマンス映画があって、愛し合う二人は幾多の難関を乗り越えて、一緒になったとしよう。 まあ、それが幸せになるかどうかは 大いに疑問がつくとして 二人が結ばれたということで、過去に起きた出来事は、すべていまこの瞬間のための道筋となる。 あのときの 苦労も 苦しい思いも いまとなっては、 笑い話にしかならない。 かえって、それを乗り越えたということで、二人を結び付けるかもしれない。 しかし、その途中での過去は、苦しい思いだけだったはず。 だから、過去は どんどん変わる。 過去を決めるのは、いまこの瞬間。 同様に、未来を今決めている。 これは、苫米地さんの時間論で、時間は未来から過去へ流れているというのがわかりやすい。 いまは 刻々 過去になり、未来は刻々 現在となる。 だから、時間は未来から過去へ向かう。 ということは、いまに影響を与えるのは 未来。 つまり いまは 未来の結果である。 未来において幸せな人は、その過去である現在も幸せなはず。 最初の映画のストーリーでは、 いまが どんな状態であっても 結果からみれば幸せなんだということ。 そして、いまが 幸せな人は 必ず過去を幸せと感じる。 それを、意識が過去の辛い経験に向いていれば、 いまも 過去も未来も不幸となる。 そういう 流れの中にあるのですが、 我々には いま しかない。 やがて来る未来に 幸せであるのには、いま どのような感情であればいいか? 笑う門には 福を、泣きっ面には 蜂を、 いまの状態が 反映される。
2010.04.08
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世界は意識の表象ですから(ショーペンハウアー)、 あなたのカガミなんですが、 意識の鏡、想念の鏡、真実の鏡、感情の鏡 なんです。 ストレートに想いが映し出される。 そして 映るのは感情 思い 「勉強しなさい」とたんにいっても、子供は勉強しない 「勉強しなさいといったでしょ」といっても、言っただけでは伝わることはない。 伝わるのは 想い・感情という波動なのだ。 冷たい 暖かい 熱い これらは、心をあらわす形容詞ですが、だれでも感情に温度を感じる。 そして、この温度が熱が伝わるように 相手に伝わる。 ですから、単に作り笑いをしても お世辞をいっても、それは鏡に写らない。 真実でもないし 温度もない。 本当であれば ことばなし に伝わるのでしょうが、この次元では 言葉とともに 感情を伝えている。 物質の鏡 ではなく 想念の鏡。 想いが大切、想念が大切 といわれるゆえんです。 想いが 世界に反映される。 言葉になるまえの 想い。 イマジン だなあ。
2010.04.06
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変わりたい、幸せになりたい、お金持ちになりたい というのは、 いまを 否定しているのでしょうね。 否定しているとは、いまにいないこと。 意識が 未来に向いているので、当然 いまにいない。 ミニ自我が 過去の記憶を写しているのに対し 願望は いまを 否定する。 たいてい この二つをもって、 生きにくい 世の中を生きている。 意識が 過去に 向かって後悔し 未来に向かって いまを否定し続けるのでは、思うように生きることはできない。 というより 何で私ばかりこんな目に あうの? こんなに 頑張っているのに 空回り。 鎖の中にいる。自業自得ならぬ、自業自縛。自業自損。 否定からは 何も生まれない津留晃一 とりあえず、こういう仕組みを理解してみる。 あなたの苦しみの原因は 欲にあるという仏教の教えに近いです。 煩悩。 欲が悪いわけではなく、欲っすることにより、それを失っている状態を作り上げる。 100万円あれば・・と思っても 100万円あったら 満足できるかというと あと 100万円あったほうが と思う。 いつまでたっても きりがないというか、満足できない。 そうではなく さきに 満足してしまえばいい。 いまの 状態で 小欲満足。 この世界が 意識の反映ということを、気づくことなのかな。 鏡だと思って 世界を観察する。 私が 怒ることで 相手は 怒るかどうか 私が 挨拶したら 相手は 挨拶するかどうか 私が 洋服をほめたら 相手は 私の服にけちをつけるかどうか 私が 笑えば 相手は 泣くかどうか お笑いタレントは よく笑うかどうか? あくびは 写るかどうか? 相手に好意を 持つと どうなるか? そして 世界に対して 与えたものが 返って来るかどうかを試してみる。 納得するには、自分で試すほかない。 本を読んでも、頭で理解するだけで、腑に落ちることはないでしょう。自分の経験に 取り入れて、こういうことは、鏡として説明できると 発見してみることでしょうね。
2010.04.06
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変わりたいとは今の状態を、幸せと感じられないから、こういう想いになるのでしょう。 だって、貧乏だし、彼氏彼女いないし独身だし、太っているいるし、性格悪いし、友達いないし、仕事もない、病気もある、等々 こんなんで、幸せと思えるわけがないとか思う。 今の状態を なぜ幸せと思えないかというと 単純に 上と比べているからに過ぎない。 貧乏にしても 世界一の貧乏でも、日本一の貧乏でもないだしょうし、 彼氏彼女いない人のほうが 多いわけだし、 太っているといっても、一番デブにはなかなかなれないわけで、 二極とは 相対思考なんです。 そして、上と比べるから、必ず下で 下と比べれば必ず上なんですが、どうしても 上と比べることしかできない。 何故、なんでしょうねえ。 それが、教育・刷り込み・他者の価値観の鏡なんでしょうけれど 比較して 「ママ みてみて 僕こんなことできるよ」という 自我の本質でもあります。 幸せは 自分の心が決めるということは 同意されるのに 不幸せは 自分の心が決めるとは思わないで 不幸せは 世界の状況(貧乏・病気)が決めている。 どちらも 自分の想いが創り出した概念・マトリックスに過ぎない。 だけど、こうかいても 多分納得できない。 そういうことは、頭で理解できても、幸せな気持ちになれない。 だから、幸せになりたい・・と思う。 しかし、誰も あなたを幸せにすることはできない。 幸せは 自ら 幸せになるものを 幸せにする(天は自ら助けるものを助けるの幸せバージョン) まあ 一人一人、今の状態が幸せでないから 変わりたいという思いが違うのでしょうから 変わりたいという思いが 変われないいまを 創る。 これが 原則だと思うのですがね。 なぜかというと 世界は意識の鏡だから。 何故鏡かというと 外にあるのは 自分の内側だからです。 その 外側を内側にひっくり返すことは、気づくしかない。 どうして 変わりたいのかを問うてみる 幸せになりたい どうして どうすればではなく 何故? 当たり前じゃない とか、最初の質問でつまってしまう。 お金がほしい 何故 欲しいから とか、理由なしに 変わりたいと思う。 世界が 鏡~自分の内側であるのか どうなのか、 それを 実感できるのか どうか 自分で 実感するほかない、それは 伝えることは できないのです。
2010.04.06
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この世界が、意識の鏡だとしても どうも こういう世界を望んでいるとは 思えないはず。 それは、 別に、いまの想いだけを写しているわけではないからです。 想いが 現実なんですから、 いま自分の中にあるのは、願いだけではなく 過去にあった 嫌な人や嫌な体験にたいする想いも写している。 ですから、 うわさをすれば 影ではないけれども 嫌な人を 思うと、実際に出会うことはよくあること。 そうでなくても その追体験をするわけです。 つまり 嫌な思いを 追体験する。 そういうことを 期待していようが いまいが ときどき 思い出す 過去にあった記憶が 現実の鏡に 映し出される。 ですから、そういう体験をしたくなければ、その思いを手放す必要があります。 過去にあったことに 執着するのは結構だけれど、その想いがいまの現実を創っているとしたら その 辛い体験を 何度も何度も、その過去を思い出すたびに してしまう。 実際は、同じ出来事ではなく、同じ感情を受け取ることだろう。 つまり 違う体験で 同じようないやな感情を 持つことになる。 そういう 経験がだんだん増えていき、大きな自我となっているのだ。 ミニ自我は 感情的に反応するだけなんですが、それが 自分と区別できなくなる。 そういう自我が、現実にその想いを移しているから なにもしていなくても 嫌なことが、増えたりする。 それも 同じような嫌な感情を 繰り返す。 なんで あたしばっかりといっても 自分で その現実を創っているのですから、誰にも壊せない。 過去の嫌な思いが 浮かんできたときは、 その自分を許してあげるとか、浄化のテクで その記憶にまつわる 執着を消すといい。 つまり、自分の鏡にいっぱい汚れがついているので 世界が鏡だとしても うまく写っていないということでしょうね。 (
2010.04.03
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この嫌な思いというのが、 津留さんのいうミニ自我なんです。 そのミニ自我が、現実の出来事に たいして反射的に怒ったり、感情的になったりする。 嫌いな人ばかりというのは、自分自身が嫌いなんですが 愛が恐れに裏返っている。 一つ一つの体験や経験が、記憶としてたまによみがえって あのときは 嫌な経験をしたなあと 思い出すことがあるでしょう。 しかし、 その 思いこそが いまの嫌な現実の原因だとは思えないわけです。 思い出したときが、 その思いに対する執着を消すチャンスなんです。 不必要に 思い出すはずも無く、消されるために その思いがわく。 だって、思い出さないと その思いに対する執着は消えない。 過去は、あなたの記憶にしかないのですが、 その記憶に いろいろな感情を植えつけると、ミニ自我として 現実の出来事に反応してしまいます。(秋刀魚の頭) そして、現実の出来事と 過去に対する執着が 同じこととは想わない。 世界は 意識の反映ですから、 思ってもいないものが 生じることはない。 だから、過去にあった出来事も 現実の世界に投影される。 しかし、それは 今の意識にないから、 どうして こういう現実を経験しているかが わからない。 こういう現実を 作り出すはずがないと思う。 それを 津留さんは 浄化しましょうといっている。 個人的には、浄化の作業は形式なので、 必ずする必要は無いと思うけれども、 わからなければ、やってみれば 効果がある。 自分の過去を 赦すという作業を、浄化の作業はしていると想う。 自分の想いを だして しまうという一連の流れの中で、自分の思いを 受け止めている。 自分を赦す=愛する ことができたということ。 ですから、いまの現実世界が思い通りでないと思うのであれば 過去に対する思いを 浄化してみるのは 価値がある。 あなたの身体に まとわりついている ミニ自我という過去の亡霊が、いまの現実の世界に あなたの意思にかかわりなく 反射的に 過去の想いを世界に投影してしまっている。 だから、こういう世界を 望んでいないと思う。 しかし、それが ミニ自我を発見することにもなるわけで、 熱が悪いわけではないというのと 同じこと。 多かれ少なかれ、誰でもそのミニ自我はあるわけで、 そして 毎日ついているともいえる。 まあ ミニ自我が大きくなって、過去の執着に自我が征服されてしまうと、とんでもないことになるので、 嫌な記憶を 思い起こしたときは、浄化の作業をしたほうがいいかもしれないですね。
2010.04.03
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見るつもりも無く、たまに つけたテレビで すばらしい映画に出会うことがある。 シンデレラマン この主人公どっかでみたことあるなあと思って、 調べてみたら、ラッセルクロウ「ビューテフルマインド」の主人公だった。 あのナッシュ均衡のナッシュの役をしていたが、すばらしい演技でした。 このシンデレラマンというのは、 まさに 配給暮らしの ボクサーが ロッキーのように チャンピオンになっていくという実話ですが、 家族の愛情に溢れていて、感情移入ができます。 まさに ミラーニューロンで 彼が打たれるときは 胸や腹が痛くなるようです。 ボクシングのシーンはリアルでした。
2010.04.01
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光がポイントだとすると 我々は、太陽の見ている夢なのかもしれない。 我々が見ているものが 私たちの世界であり、 それこそが、本質。 そして、それは 光の反射を見ている。 この地球次元を 太陽が作り出す。 よく 我々は本来ひとつだという言い方をするが、 どうしても 観念的で わかったようで わからない。 しかし、 その 一つというのが 物理的な太陽を表すとしたら なんとなく わかる。 我々が 光の戯れであり、光の中にいるのであれば 太陽の一部であるともいえる。 宇宙次元でいえば 太陽が 地球という自我を作り出し 地球が 人類という自我を作り出したような感覚だ。 半田さんは、宇宙は太陽系しかないと オコツトにいわれたという。 太陽が この我々の世界の本質であり 太陽が 太陽を見るために 光を分裂させて 物となっているのかもしれない。 我々は、光の存在であれば、それは 太陽と同値。 だから、太陽だけは直接見れないのでしょう。 (
2010.04.01
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