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ハイチに贈る(98) 最終回帝国主義諸国の植民地として虐げられてきた国々は、長い苦難に耐えて、粘り強く独立のための戦いを続け、第二次世界大戦後にようやく独立を達成しました。1番独立の遅れたアフリカ諸国も、1960年の「アフリカの年」を中心に、次々に政治的独立を達成しました。しかし旧植民地諸国の苦難は、政治的独立によって終ったわけではありませんでした。いずこも同じで、植民地時代に自給可能な農業構造を破壊され、宗主国が求める嗜好品や綿花やジュウト、ゴムのような工業原料の生産に特化させられていたからです。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ(この地は1820年前後にスペインやポルトガルから独立していますが、その後実質的に「アメリカの裏庭」として、米国のコントロール下に置かれてきました)の国々一国一国について、一つか二つの特産品が思い浮かぶ方も多いと思います。そうなんです。それがモノカルチャー態勢の下での、プランテーション経営が齎した、植民地支配の爪あとなんです。ですから、政治的には独立したが、経済的には自立出来ずに、過去の植民地支配については口を拭い、嗜好品や工業原料を安く買い叩くことだけに熱心な、経済先進国に翻弄され続けたのです。そこにあったのは、ハイチと同じ構図でした。経済先進国は親切ぶって、経済援助と称して、食糧や衣料を提供し、道路や電力設備の建設を請け負いました。それは、食糧の自給による経済的自立への歩みを遅らせることに繋がりました。道路や電力設備は、提供国の資本が請け負いますから、利益は援助国の資本が吸い取り、出来た道路や電力などのインフラは、経済先進国の進出企業の利便のためだったのです。借款という名の貸付によって、いつの間にか借金も膨らみ、高い利子の支払いに苦しんだこともハイチと同じでした。転機はオイルショックを演出したアラブ諸国を中心とした石油輸出国の団結、揺らぎのないカルテルによって齎されました。団結が原油価格の高騰を呼び、石油輸出国の経済は大幅に改善に向かいました。しかし、原油以外の原料や嗜好品価格の引き上げは、なかなか実現できませんでした。21世紀に入っての、中国の台頭そして少し遅れてのインドの台頭が、ようやく事態の改善を呼び込みました。人口13億人の中国と11億人を超えるインドの2国だけで、地球人口の3分の1を超えています。この2カ国の工業化の進展は、あらゆる資源や工業原料の全地球規模での争奪戦を招きました。原材料価格を安値に固定することはもはや無理となったのです。そして、農産物価格も、中国やインドの経済成長の結果、確保を巡る争いが各地で起きるようになったのです。G7に代わるG20の台頭が物語るものは、ようやく経済先進国の資本の支配が終わりを告げつつあることです。ここに来てようやく…なのです。しかし、自立への道を歩めるのは、高値で売れる工業原料や、引く手あまたの農産物を生産できる国に限られます。ハイチのように、借金の支払いに、鉱物資源を使い果たし、見るべき輸出商品を持たない、そして食糧の自給もママならない国は、なお自立への可能性を持てずにいるのです。そしてハイチが自立可能となるような、産業の育成は、ヤクザのような難癖をつけて、ハイチの富を搾り続けたフランスと、ハイチを借金漬けにして、高利貸しよろしく骨の髄までむしゃぶり尽したアメリカ合衆国の責任であると、私は考えています。 あのナポレオンの軍隊を打ち破り、独立を達成した栄光のハイチが、いつの日にか甦ることを期待してやみません。 完
2010.04.30
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世界経済の現状(124)S&Pは、ギリシア国債だけでなく、ポルトガル国債の格付けもA+(シングルAプラス)から2段階引き下げ、A-(シングルAマイナス)としました。ギリシアも危機が顕在化するまでは、A格に格付けされていましたから、ポルトガル国債も市場で売り込まれています。スペインやイタリアも含め、ラテン系の国々の国債の買い手は、市場では見つけられなくなっているのですから、これは当然起こりうることでした。しかし、不思議なことがあります。ポルトガルに比べるとはるかに危険度が高く、ギリシアに次ぐ危険度を持つと市場が認識しているイギリスについては、格下げの方向で見直すとしつつも、なおAAA(トリプルA)に格付けしています。これは奇妙です。PIGSと名指されるスペインはAA-(ダブルAマイナス)、イタリアは格下げ前のポルトガルと同じ、A+です。そして日本はというとAA(ダブルA)です。2月27日と3月1日に記したこのシリーズの(110)と(111)に記したことですが、イギリスの対GDP比の赤字は12,6%と、ギリシアの13,6%に次ぐ高い比率で、ポルトガルよりもはるかに高いのです。その上、2009年度の1年だけを見ると、イギリスの対GDP比の国債発行額は、16%とギリシアを抜いてダントツの1位なのです。それにも関わらずS&Pは、IMFやECBが救済案を練っていたギリシアとお仲間のポルとがるを格下げしました、しかるにイギリスについては、選挙戦の最中との理由で格下げを見送りました。ポルトガルよりもはるかに格下げすべきなのにです。選挙戦云々の拝領をするなら、IMFも出馬して救済計画を練っているギリシアこそ。まず配慮してしかるべきでしょう。S&Pの行動には、ある特定の意図が隠されていると、考えないと辻褄があいません。S&Pは、ムーディーズ、フィンチと並ぶ国際的知名度の高い格付け会社ですが、この3社に共通することは、いずれもがアングロサクソンの資本による米英の会社であることに留意してください。ギリシア、ポルトガルの危機を煽ることで、市場の目がユーロに集中すれば、実はギリシア並みに深刻な状態にあるポンドの危機を、しばらく先送りすることが出来る。米国の借金依存体質からの脱却に向けての取り組みの遅れも目立たなくなる。ここに狙いを定めての、今回の格下げ劇だったように思います。国債の格付けは、破綻の危険性を計るためのものとするなら、格付けは正確でなければなりません。おかしな格付けは、困るのですが、次回はなぜ困るかを記したいと思います。 続く
2010.04.30
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クロニクル ワシントン大統領に1789年4月30日イギリスのアメリカ植民地が、イギリスから独立を勝ち取ったのは1783年のパリ条約でした。それなのにアメリカ合衆国初代大統領にジョージ・ワシントンが就任したのは、6年後の今日だったのです。この間共に独立戦争を戦った13の元植民地は、一つの連邦を形成すべきか否かの意見がまとまらず、断続的に連合会議を開いては検討を続けていたのです。憲法草案が承認され、各州の住民投票で、3分の2の州が憲法を批准すれば、アメリカ合衆国として出発することが決まったのです。そして9番目の州が、憲法を批准したのが前年88年の11月だったのです。それから大統領選挙の実施が決まり、米軍の総司令官として、人望の高かったジョージ・ワシントンが、初代大統領につくことになったのです。
2010.04.30
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政治を斬る(82) デフレは悪か?菅大臣に物申す(2) ところで、菅大臣。デフレは悪いことなのですか?貴殿は市民運動出身の政治家ですね。厚生大臣として薬害エイズ関連の役所のウソを暴いて、患者に謝罪した手並みは、実に鮮やかでした。まさに市民派大臣としての、見事な捌きぶりでした。大臣、あの時の市民目線で経済を見てください。家計簿目線と考えてくれて結構ですよ。預金利息はあって無きが如しで、ほとんどゼロです。それどころか1回時間外にATMで預金を引き出せば、10万円の定期預金の利息は吹っ飛びます。カード利用の振込みでも利用すれば、即マイナスです。そして、右肩上がりの経済の時代と違って、賃金は一向に増えません。そんな経済状態であるにも関わらず、日本の消費は、私に言わせれば健闘しています。まさか大臣、輸出企業の手先に堕落したマスコミに惑わされていませんよね。経済統計をしっかり読み込んでください。日本のGDPに占める輸出の割合は、15~16%に過ぎません。ドイツは40%を超えているのですよ。そのドイツの国民は、日本人に比べると、ずっとしまり屋です。世界中のあらゆる商品。あらゆる料理が並ぶ日本、その中下層の人々の消費は、間違いなく世界一の規模なんです。そうなんですよ大臣。国内消費は、世界で一番健闘しているのです。日本経済が、今のレヴェルに踏みとどまっていられるのは、国内消費のおかげなんですよ。給料は増えない。むしろ残業が減っている分、手取り賃金は減少傾向にあります。手に入れば消費に回る高齢者の預金利息も、実質ゼロです(この分は、事実上国債の利払いを低くすることに貢献することで、国民が国庫に寄付していることに繋がっています)。それなのに、消費が健闘しているのです。なぜそれが可能かというと、物価が低めに推移しているからなんです。デフレ傾向だからこそ、消費は健闘しているんです。大臣、大臣の主張のように、いや大臣が官僚に振付けられたように、物価上昇が起きたらどうなります。賃金は増えない。預金利息は事実上ゼロだという状態なんですよ。それで、消費が増えますか? 国民生活の質は維持できますか?市民派大臣の、市民感覚を取り戻しさえすれば、そこは良く見えますよね。物価が上がりだした時こそ、日本経済は沈没の淵に立つことになるのですよ。大臣間違えないでくださいね。 レヴェルの低いエコノミストに、惑わされるのは、大臣の市民感覚が鈍っている証拠ですから、注意してくださいね。 続く
2010.04.29
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ハイチに贈る(97) ハイチに関するブログをお読み下さって有り難うございました。皆さんから戴いたメールやコメントの1部を紹介させて戴きます。「ハイチは独立するのが早すぎましたね。もしハイチの独立が20世紀の半ば以降だったなら、今のような状態にならずに済んだのではないかと、考えてしまいます。民族自決の原則が普及し、奴隷解放も当然のことになり、黒人国家に対する忌避感情も少なくなっていますから…」「ハイチは独立しない方が良かったのでは…。カリブ諸島にいくつか残るフランスの海外県(ザビ注 マルティニークやグァドループがそうです)のように、海外県に留まって各種の経済援助を受けたり、自治領に留まれば、今のような経済困難に陥らずに済んだでしょうに…」ハイチの現状に心痛めての、率直な意見や感想をお寄せ下さり、大変有り難うございました。しかし、1804年1月のハイチの独立から、150年~170年もの間、奴隷状態のまま耐え続ける選択を拒否したハイチの黒人奴隷達の決起を、私は高く評価します。彼ら、彼女らの子孫は、結果において貧困に苦しむことになりましたが、人格までをも否定される奴隷状態からは、解放されていました。彼らにとって、精神の自由は何者にも変えがたかったのです。自由を獲得した黒人たちにとって、計算外であったのは、やがて帝国主義へと向かっていく、資本主義世界システムの、不都合なものは断乎として排除し踏み潰すという一致団結した意志の存在でした。そうなんです。本来市場を奪い合い、植民地の争奪戦を血みどろになって繰り広げながら、列強は自分達にとって不都合なもの(民衆が権力主体になること、富める者の私的財産を尊重しない政府が登場すること、そして植民地の独立)を排除するためには、ためらうことなく一致団結したのです。ハイチは、その厚い壁に翻弄され、力尽きて倒れました。その結果が今のハイチです。しかし、そうしたハイチが存在したが故に、資本主義列強の植民地支配に、それなりの節度が齎されたことを忘れてはなりません。過剰な支配は、第2、第3のハイチを生み出すかもしれない。その恐れが、植民地支配者の過剰な支配を戒めるブレーキになった事実を、見逃してはならない。こう私は考えています。過去の叛乱の苦い記憶は、支配者の暴走のブレーキの役割を果たすことは、歴史の教える所なのですから…… 続く
2010.04.29
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クロニクル 鞍馬天狗銀幕に登場1927(昭和2)年4月29日皆さん『鞍馬天狗』ご存知ですよね。子供の頃、夢中でラジオを聴いていました。映画になれば、勿論せがんで、兄や姉に連れて行ってもらいましたし、小学校高学年では友達同士で出かけたりもしました。そうです。鞍馬天狗は子供の頃の英雄でした。そして我々は誰もが、自分が杉作少年になった気分で、感情移入していました。その鞍馬天狗こそ、嵐寛十郎ことアラカンその人でした。そのアラカンの『鞍馬天狗』シリーズ第1作、『鞍馬天狗余聞 角兵衛獅子』が一般公開されたのが、1927年今から83年前の今日でした。アメリカの人気映画『ターザン』の第1作封切りが1920年でしたから、映画は僅かの間に、日本でも作られるようになったのですね。
2010.04.29
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世界経済の現状(123) 格付け会社のS&Pが、ギリシアの格付けをいきなり3段階も引き下げ、「投資不適格」に格付けたことで、またぞろユーロが揺らいでいます。リーマンショック以後、欧州もアメリカも日本も、それまで投資適格(これは、担保価値を持つかもたないかの基準です)ラインをA格としていた(最低適格ラインはA-、シングルAマイナス)ものを、BBB-(トリプルBマイナス)まで引き下げていました。そうしないと担保にならない債券が売られて、市場が大混乱になると判断されたからです。ギリシア国債は何度かの切り下げで、BBB+(トリプルBプラス)にまで下がっていたのですが、それを今回S&Pは、BBB(トリプルB)とBBB-(トリプルBマイナス)を飛び越えて、いきなりBB+(ダブルBプラス)にまで引き下げたのです。ECBの指針で、BB格は投資不適格です。ということは、ギリシア国債は所有していても、担保価値がなく、いつデフォルトしてもおかしくない債券であると、認定されたことになります。ですから、ギリシア国債を抱えている機関投資家は、このままで行けば、損失覚悟で大量の売りを出すことになります。当然暴落ですね。これを避けるためには、ECBが投資適格ラインをB格(シングルB)まで引き下げる必要が出てきたことになります。しかし、この手は効くでしょうか。この引き下げを実施すれば、ECBに対してギリシア国債を担保にした借り入れ要請が間違いなく殺到します。その結果ECDは、資産価値のないギリシア国債を大量に抱えることになります。その結果ECDの資産は大きく劣化し、ECB自身の屋台骨が揺らぎます。さて、今夜の欧米市場の動きが見ものです。 続く
2010.04.28
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政治を斬る(82) 検察審査会の謎「検察審査会、小沢氏起訴相当と議決」のニュースが出ましたので「菅大臣に物申す」は1日休ませていただいて、「検察審査会」に焦点を当てたいと思います。私は、小沢氏を起訴相当と議決したこと事態は問題としておりません。判断の可能性の一つとして、ありうることだと考えるからです。特に検察審査員は市民から選ばれる普通の人ですから、市民感情としての判断から、小沢氏はクロに見えるから起訴が相当だと、判断するだろうことは十分考えられたからです。検察審査会のメンバーは11人、任期は半年で3ヶ月毎に5人ないし6人が交代します。起訴相当の議決は3分の2以上で判定されますが、この議決に対し、検察が再び不起訴と判断した場合、審査会が再度起訴相当と議決すると、検察の判断を飛び越えて、強制起訴となります。その意味で検察審査会は、専任方法も明らかにされていない11人の審査員に、被疑者に対する強力な権力を与えていることになります。この検察審査会の巨大な権力は、昨年5月の裁判員制度の導入と同時に改正された、改正検察審査会法で導入されたものです。裁判員の場合、公開の法廷で顔を晒します。判決も読み上げられますから、判断を導いた論理やそう考えた手順も、判決の中で公開されます。しかし、検察審査員は完全に覆面で顔を隠し、議論の中味も何も公開されません。権力を持つものが、」ただ結論だけを提示するだけでよいのかといえば、それは独裁の論理であって、民主社会では明らかにノー、許されることではありません。起訴相当という一片の議決書だけで、議事録も開示されず、審議過程も闇の中というのは、その持つ権限の強さからいって、明らかにおかしいと言わざるをえないように思います。まして、民主社会の法治論は、「疑わしきは罰せず」という点にあります。それは、「たとえ10人の犯罪者を証拠不十分で不起訴としても、1人の無罪の人物を冤罪で裁くことを避けることが重要である」とする、考え方を採るからです。検察はその観点に立って、裁判で有罪を立証するに十分な証拠を積み上げられなかったがゆえに、不起訴と(言うならばクロに近い灰色)判断をしたのでしょう。それは最高裁に対し、判決の確定後も、長期の苦労をいとわず冤罪を主張して再審を請求する人たちに対して、裁判所が下す、「冤罪と推定するに足る十分な証拠とは言えない」という、何とも無慈悲な裁定が、何度も下されている事実を考慮すると、簡単に類推しうることです。起訴相当か否かは、高度に法技術的な要素を含みますから、推定無罪の原則に精通していないメンバーを検察審査会委員として、その人たちに判断を委ねることは、極めて危険なように私は考えます。法治国家の要点は、あくまで「疑わしきは罰せず」にあるのですから。この原則を歪める時、法の刃はブーメランの如く、間違いなく我々市井の市民に向かってきます。そのとき公開したとしても、既に時は遅いのです。
2010.04.28
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ハイチに贈る(96) カリブ海域のハイチは、周辺をアメリカ合衆国と中南米とカリブ海域のヨーロッパ諸国の植民地に囲まれています。これらの地域は、揃ってハイチを敵視し、無視し続けました。昨今学校や会社で問題視されている「イジメ」の国家版でしょうか。この場合、ハイチが経済的に自律可能で、シカトを無視して孤立主義を貫けるならば、何も問題はありません。ロシア革命後のソ連は、そうした環境に耐えるのが可能でした。しかし、ハイチを支配したフランスの植民地主義は、ハイチの自給可能性をほぼ完璧に破壊しつくしていました。ハイチに限ったことでも、フランスに限ったことでもないのですが、植民地主義の最大の問題は、この点にあります。フランスは、ハイチのめぼしい耕作可能地域のほとんどを、砂糖やコーヒーなどフランスが必要とする商品作物を生産するプランテーションとしてしまったのです。こうしたモノカルチャ態勢にとされたハイチの人々は、自らが生きるための食料を自ら生産することが出来ない状況におかれていたのです。これでは経済的自立は不可能です。そのために、周辺諸国から孤立させられたハイチは、フランスの難癖をウ受け入れざるをえない立場に追い込まれたのです。ハイチの富を奪い、ハイチの自給可能性を破壊したフランスこそが、ハイチに対して多額の損害賠償をする立場にあるのですが、フランスは無法にもハイチに高額の賠償金を支払わせようとしました。。食料を自給出来ないがゆえに、ハイチはこうしたフランスの法外な要求に屈せざるをえませんでした。さらにハイチは、フランスへの賠償の支払いのために、アメリカ合衆国から高利の借金をするしかなくなります。こうしてハイチは事実上、フランスとアメリカへの債務に絡めとられてしまったのです。欧米中心に日本を加えた、植民地主義はここまで猛威を振っていたのです。 続く
2010.04.28
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クロニクル ドゴール辞任1969(昭和44)年4月28日41年前になります。アルジェリアの独立運動の高まりの中で、強い指導力を持つリーダーの必要から、フランスは1958年に憲法を改正、第五共和制の時代に入りました。この新憲法の下、第五共和制の初代大統領となったのが、シャルル・ドゴールでした。彼は1962年にアルジェリアの独立を認めるなど、それまでの優柔不断な政府と決別した思い切った手を打ちましたが、施政が長引くに連れ、次第にマンネリの弊害に陥りました。ドゴール型の政治に対する異議申し立ては、1968年5月、五月革命として、ソルボンヌの学生たちによって、始められました。時あたかも、東洋の日本では、東大と日大の学生たちによる全共闘運動が高まりを見せつつあり、西洋のパリと極東の東京で、相次いで学生たちの叛乱が、起きたのです。フランスの五月革命は、やがて女性の権利獲得の運動に広がり、自己完結型の日本の全y高等運動とは異なる展開を示し、さらに全国規模の労働者のゼネストにまで拡大を示し、41年前の今日、遂にシャルル・ドゴール大統領に辞任の決断をさせるに至ったのです。開始から1年、学生たちの五月革命は、独裁型の指導者ドゴールを打倒することに成功したのです。
2010.04.28
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政治を斬る(81) デフレは悪か?菅大臣に物申す(1)菅財務大臣がしきりに「インフレ目標」と発言し始めました。そして「インフレ目標を日銀と共有しい」とも。私は、これを大変危険な兆候だと憂慮しています。私は、少々円高に触れると、大変大変だと大騒ぎする輸出企業は勿論、輸出企業にベッタリのマスコミの主張も、全く信用しておりませんし、緩やかな物価上昇が良いことだとは思っていません。円高歓迎、デフレ傾向大歓迎論者です。ギリシアの危機に絡んで、日本の国債発行残の大きさに話題が集まっています。確かに財政規模だとか、対GDP比率だとからみると、日本の国債(国の借金証書でもあります)の発行残の多さは、世界トップをダントツで快走しています。しかし、だから破綻の危機がすぐ目の前にあると考えるのは、単純に過ぎます。考えてください。破綻近し、破綻の危機だと本気で考えているなら、誰も日本国債なんて買わないでしょう。無理に買ってもらおうとするなら、国際比較で最も高い金利をつけることが必要になりますね。ギリシアがまさにそうです。ユーロ圏で最も経済の安定しているドイツ国債に対するギリシア国債のスプレッド(上乗せ金利)は、遂に5%を超えました。それでも、5月に必要な300億ユーロの国債の借り換えは遂に出来ず、ギリシアはIMFとECBに支援を要請しました。もはや、市場で国債を買ってもらえないことがはっきりしたからです。どうですか。日本が財政危機からデフォルトになるかもしれないのなら、円の信用はがた落ちで、円は暴落し、国債の金利も大幅に上がるはずです。 現在の日本国債の利率を考えてみてください。米アメリカ国債の利率の半分を大きく割っています。そしてヨーロッパ最強のドイツ国債の利率の半分弱です。これだけ、低い金利でありながら日本国債は捌けているのです。そして国債の金利支払いが少額で済むからこそ、日本の財政は破綻せずに済んでいるのです。3,1%少々のドイツ金利や、3,5%程度の米国金利レヴェルまで、日本の金利が上がるとすると、歳出に占める国債の利払い費用は、その分大きく膨らみます。財務大臣の菅さん、その利払い費用大丈夫なんですか。デフレ傾向の経済がだからこそ、金利は底値安定を謳歌しているのです。その限り日本国債がデフォルトに陥る可能性は、、限りなくゼロに近いのです。この仕組み、菅大臣は失念していませんか。 続く
2010.04.27
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ハイチに贈る(95) 大地震で揺ら戯、国家の継続すら危ぶまれているハイチの、栄光の歴史を記録しておこうと始めたこのシリーズも、ハイチがその後に味わうこととなった辛酸の記述が長くなりました。現代ハイチに到達したことで、ようやく終わりに近づきました。ハイチはフランス革命に、とりわけ1789年の8月26日に発表された「人権宣言」が掲げた、自由と平等の思想に何処よりも早く共感の意志を表明し、フランスとフランス人の支配を脱することで、独立と奴隷解放の双方を勝ち取った栄光の歴史を持ちます。しかしフランス革命そのものは、自由と平等とを口にしましたが、その内実は大ブルジョワの経済活動の自由獲得を最終目的とする、資本主義経済の樹立を目指す革命に過ぎなかったのです。フランス革命とナポレオン時代を経て、そしてフランスの革命と同時並行的に進んだ、イギリスにおける工場制度の確立によって、ヨーロッパ社会は基本的に資本主義経済が支配的な経済システムに変化したのです。そこには、ハイチの黒人たちが待望したような、底辺民衆の希望が適うような社会システムの大転換は行なわれなかったのです。確かに封建領主の支配は無くなりました。しかし、革命は支配階級の転換を齎したに留まり、社会の下層を構成する多数派民衆の権利が、保護されることはなかったのです。私は、国家や社会がどの程度に民主的であるかのメルクマールは、「社会の最下層を構成する人々の基本的人権が、どの程度認められているか」にあると考えています。フランス革命を主導した大ブルジョワは、自由と平等をスローガンにすることで、民衆階層の支持を得、民衆の革命的情熱を上手に利用することで、封建勢力とその仲間の外国勢との死闘を制して権力を獲得しました。そして、勝利を確信すると共に、それまで共同戦線を組んだ民衆階層を切り捨て、自己の権力を確立しました。自国フランスの民衆の権利すら蹂躙して、新支配層としての自己の権力を確立したブルジョワ階級にとって、黒人奴隷が自由を獲得し、支配層として振舞うハイチを、そのまま承認することなどありえません。彼らにとって、ハイチは限りなく有害な世界に移りました。さらにハイチはフランスのみでなく、各地に植民地を構える西欧各国にとっても、そして国内に奴隷制度を抱えるアメリカ合衆国にとっても、さらに各植民地の支配層を構成する白人入植者にとっても、有害で排除すべき対象だったのです。「ハイチを潰せ、さもなくば無視せよ。」これが当時の世界の合言葉となったのです。ここにハイチの悲劇がありました。
2010.04.27
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クロニクル マンデラ大統領誕生1994(平成6)年4月27日もう16年経つのですね。この日南アフリカ連邦共和国において、初めての全人種参加による国政選挙が行なわれました。その結果ANC(アフリカ民族会議)が勝利し、議長のネルソン・マンデラが大統領に就任しました。マンデラは、早くからANCの活動に加わり,歴史上他に例がないといわれるほどに世界の注目を浴びた、南アフリカの人種隔離政策(=アパルトヘイト)に対し、敢然と戦いを挑みました。こうした抵抗運動の指導者として、南ア政府の注目を浴び、1962年に逮捕され、政治犯として国家反逆罪に問われ、終身刑となり64年ロベン島送りになりました。ロベン島などでの囚人生活は26年に及びましたが、非転向を貫き通して、1990年遂に釈放を勝ち取ると、ただちにANC副議長に復帰し、翌年議長に就任。全人種参加の選挙と国民和解を強調して、国内対立の先鋭化を避けようと腐心しました。94年の選挙はこうして実現し、マンデラが大統領の椅子についたのです。大統領として、マンデラは民族の和解と協調を呼びかけました。彼はまた、アパルトヘイト体制下での白人と黒人の対立意識を捨て去ること、貧富の格差を是正すること、さらには黒人間の対立の解消や経済不況からの回復を目指して、新生南アの礎を築きました。99年に81際で政界を引退、現在はユネスコ親善大使。
2010.04.27
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世界経済の現状(122) 久し振りに世界経済の話題を取り上げます。またまたギリシアです。先週の金曜日23日に、ギリシア政府は、IMFとECBに正式に支援を要請しました。両者とも前向きの返事をしたことで、ギリシアは当面の危機を切り抜けたと、市場の雰囲気は明るいようです。しかし、本当にそう考えて良いのでしょうか。(120)と(121)で記したように、ECBの300億ユーロとIMFの150億ユーロの支援では、当面5月での国債の借り換え資金が確保できたに留まり、その後の資金繰りには何の手当てもなされていないのです。支援は、当面のデフォルトの危機だけを切り抜けるためにだけ有効な策に過ぎないのです。しかもギリシア政府は5%もの利息の支払いをする必要があるのです。払えるのでしょうか。この利息。IMFとECBによる支援が固まった背景には、ドイツやフランスなどの銀行が、かなりの量のギリシア国債を保有していますから、ギリシアがデフォルトになると、両国とも自国の金融危機に直結してしまうという悩みを抱えているのです。それで、国内に強い反対がある中で、渋々支援を了承しました。それだけに支援は小出しにしか行なわれません。今回の合計450億ユーロは、ギリシアへの支援としては少なすぎるのです。支援をケチると効果は半減どころか、ほとんど効かないことになります。1998年の佐々波委員会によるメガバンクへの公的資金注入が、横並びの2千億円(一部3千億円)に留まり、横並びで効果をあげられなかったことを思い出してください。支援はドカーンとでかい額を入れてこそ、効果を発揮するのです。現状のギリシア支援は、単なる先送りに終りそうです。市場はそのことを見透かしていますから、なお不信の眼で様子を見ています。ギリシア国債のスプレッドは益々拡大し、金利はさらに上がり、ギリシアは利息の支払いに喘ぐことになりそうです。安心できる要素なんて、今のところありません。 ザビ
2010.04.26
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『ゲルニカ』を巡ってピカソの代表作の一つ『『ゲルニカ』は、1937年4月26日に行われた、ドイツ軍によるゲルニカ空爆を描いたものです。この空爆は、歴史上初めての「都市の破壊」と「住民の虐殺」をねらった絨毯爆撃でした。当時ピカソは、同年に開催予定のパリ万博に出展するスペイン館の壁画製作を、彼自身も支持する人民戦線政府に依頼され、パリに滞在中でした。その彼の下に、ゲルニカの悲報が伝えられると、ピカソは急遽用意していた画題を変更して、ゲルニカの悲報をテーマにした壁画の作成を思い立ち、僅か1ヵ月余の短期間で『ゲルニカ』を描きあげ、6月4日に完成させたのです。縦3,5メートル、横7,8メートルの巨大壁画を僅か1ヶ月で描きあげることが出来たのは、油絵を避け、工業用の絵の具ペンキを用いたからでした。パリ万博終了後、『ゲルニカ』は戦禍のスペインを避け、しばらくロンドンなどヨーロッパで展示された後、1939年に米国にわたり、ピカソ自身の希望でニューヨーク近代美術館に預けられました。スペイン内戦は、1938年7月末、フランコ派の反革命が勝利し、その後は長期に渡るフランコ独裁が続きます。やがて第二次世界大戦が終ると、フランコは図々しくも『ゲルニカ』のスペイン返還をピカソとニューヨーク近代美術館に申し入れます。しかし、ピカソはこの申し出をきっぱりと拒絶します。「スペインに自由が戻るまで、この絵がスペインに帰る事はない。」これがピカソの返事でした。結局ピカソは、フランコ独裁の終了を見届けることなく、1973年に死去します。そしてフランコもまたその2年後の75年に死去し、スペインはようやく中道左派を中心とした共和政体が息づくようになります。ここにようやくスペイン共和政府とニューヨーク近代美術館との間で、『ゲルニカ』返還交渉が本格化します。交渉は長期化しましたが、1981年になってようやくまとまり。スペインに戻ったのです。製作から44年後に、はじめてピカソの故郷に帰ったのです。以後『ゲルニカ』は、マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されて、今日に至っています。戦後ピカソは、『ゲルニカ』と同じ構図のタピスリーを3つ製作しています。その一つはニューヨークの国際連合本部の国連安全保障理事会の会議場前に展示されています。
2010.04.26
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クロニクル ゲルニカ廃墟と化す1937(昭和37)年4月26日1937年といえば、日本では国民精神総動員法が制定され、7月には盧溝橋事件を起して日中戦争に突入、軍ファシズムによる全面戦争へとまっしぐらに走り出した時期に当たります。同じ頃ドイツとイタリアもまた、大戦争に向けて走り出していた時期でした。ちょうどこの年の1年と少し前、1936年2月にスペインで人民戦線政府が誕生しました。人民戦線とは、反ファシズムと民主主義の擁護を掲げた、中道派と左派の政策協定を伴う連携を指します。この政府に対して、危機感を持った軍幹部、教会(スペインの全耕地の3分の1を所有する大地主でした)、大地主らは、フランコ将軍をトップにクーデタを起して、政権の奪取を目指しました。こうして36年7月、スペインは内戦状態に入りました。このフランコ反乱軍は、当初は圧倒的に不利だったのですが、同じくスペインの人民戦線内閣に危機感を募らせていたイタリアとドイツから、物心両面にわたって強力な支援を受けて、態勢の立て直しに成功します。こうして立ち直ったフランコ軍は、独・伊両軍の戦闘参加を得て、37年に入ると攻勢に出ます。その最初の標的がスペイン北部のバスク地方でした。バスク地方は独立志向が強く、伝統的にカトリック教会との仲が悪かった地方でしたから、人民戦線派の重要な拠点のひとつとなっていたのです。ゲルニカはバスク地方の省都ビルバオに近い、小さな美しい町でした。73年前のこの日、この美しい町に、突如としてドイツ空軍が襲い掛かったのです。それは小さな町を完全に破壊しようという意志を持った、悪魔の攻撃でした。東京大空襲などでお馴染みの絨毯爆撃、そして逃げ迷う住民に対する機銃掃射まで伴う念入りの攻撃でした。こうしてゲルニカの町は廃墟と化したのです。しかしゲルニカの町は、今でも私たちの心に残ります。そうです。スペイン人民戦線を心情的に支持した画家ピカソが描いた「ゲルニカ」を通して…
2010.04.26
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ハイチに贈る(94) さて、アリスティドが米仏の思惑で、国外に連れ去られたハイチでは、これまた米仏の思惑通り、臨時大統領に動かし易いアレクサンドルが任命されました。アレクサンドルは、長く国連事務局で仕事をしていたラチルチュを首相に指名すると、これまた米仏の筋書き通り、国連に対し治安維持部隊の派遣を要請しました。このことを予期していた国連は、ただちに多国籍暫定軍(MIF)の派遣を決定し、早くも3月1日には、主力をなす米軍がハイチに上陸したのです。まさに電光石火の早業でした。4月20日には、安保理の決議も採択され、正式に多国籍軍派遣が決まり、米軍に替わってブラジル軍が主力となる、国連ハイチ安定化ミッションがスタートしました。このミッションは、2年ごとに見直されるのですが、その都度延長されて2010年に入っても、なお活動を継続していた所で、先日のハイチ大地震で大きな被害を受けたのです。ハイチは今もって、国連多国籍軍の介在なしでは、自国の安定を保てないと、対立する両派が共に認めている状態にあるのですね。現在の大統領は、2006年の選挙で辛うじて過半数(得票率51%ジャスト)という、僅差で対立候補を破った、ルネ・ガルシア・プレヴァルですが、特に大地震以後は、政府機能が十分に果たされているとは、言えない状態にあるようです。 続く
2010.04.25
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クロニクル ラ・マルセイエーズの誕生1792(寛政4)年4月25日フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」と、アメリカ合衆国国歌「星条旗よ永遠なれ」の2曲は、歌詞はご存知なくとも、メロディと曲名については、ご存知の方も多いと思います。アメリカ国歌、「星条旗よ永遠なれ」は、1812年~14年にかけての米英戦争の初期の頃に作られた軍歌と呼べるべき曲です。フランス国歌、「ラ・マルセエーズ」は革命歌です。この曲は、元々は「ライン軍団の歌」と言い、1792年の今日、初めて披露されたのです。作曲者はルジェ・ド・リール。仏軍の砲兵大尉だった人物です。5日前の4月20日、フランス革命政府は、オーストリアに宣戦布告し、革命フランスは反革命派から、革命を防衛するための戦争に入りました。そして、ライン方面軍として戦地に向かう兵士たちに捧げる行進曲として、ルジェ・ド・リールがこの日披露したのが、この曲でした。題して「ライン軍団の歌」です。それがどうして「ラ・マルセイエーズ」と呼ばれるようになったのか。この曲は当初は、ライン方面=アルザス地方でのみ歌われていたのですが、国王るい16世と通じる将軍達の裏切りによって、戦局はたちまち不利となり、同年7月11日、革命政府は「祖国は危機にあり」と、非常事態宣言を発して、義勇兵の募集を始めたのです。この檄に答え、マルセイユ方面からの部隊が、ローヌ川を遡り、アルザス方面を経由して、パリに到着したのは8月8日頃のことでした。彼らは、アルザス地方でのみ歌われていた「ライン軍団の歌」が大変気に入り、パリッ子たちの大歓迎を受けながら、パリへ入場した際もそうでした。たちまち勇壮なこの歌は、パリッ子の心を捉えました。そしてパリっ子がつけた名前が、マルセイユの義勇兵の歌を意味する「ラ・マルセイエーズ」だったのです。
2010.04.25
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政治を斬る(80) 民主党内閣の右往左往を追っていましたら、いつの間にか自民党が崩壊しつつあります。それも、何とも歯切れの悪い1人また1人と抜ける形で…積極財政の上げ潮派と、緊縮財政の財政再建派とに真っ二つとか、党内改革派と守旧派に分裂というのであれば、陽性で活気も出ますから、先の見込みはあります。民主党内の小沢・鳩山路線に物足りないグループが、脱党して合流する見込みも出てきて、政治も面白くなります。それが、与謝野、舛添という自民党の総裁候補は、難破する船から逃げ出すように、ポツンと抜けてくるのですから、これは船を止めているボルトが1本また1本と抜けているに等しいです。しかも、夫々が組む相手がいけません。与謝野元財務相は外交的にはハト派ですが、組んだ相手の平沼氏は、元自民党の極右で再軍備大賛成派です。2人は所詮水と油です。そして舛添氏の組んだ改革クラブは、郵政民営化賛成派で改革派の舛添氏に対し、ゴリゴリの守旧派です。何でこんな相手と組んでまで、さえない新党を作って自民党をオン出たのでしょう。それほど、自民党の沈没は近いんでしょうかね?しばらくウォッチすることにします。 続く
2010.04.24
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ハイチに贈る(93)アリスティドは、ジャマイカに向かい、その地で記者会見を開きました。それは、アメリカ政府やフランス政府にとっては、好ましからざる行動でした。しかし、両政府の強引なやり口は、国際世論を敵に回してしまっていました。そのため、アリスティドがジャマイカで記者団に語ることを、妨げることは出来なかったのです。それでも米仏両国は、その持てる力を動員して、巻き返しに出ました。米州機構を動員して、アリスティドの存在がハイチを混乱させるであろうと語らせ、その上で米国の駐ハイチ大使ジェームス・フォーリーを介して、アリスティドに対し、「ハイチから少なくとも150マイル以上離れるように」と警告したのです。(1マイルは約1,6キロメートルですから、150マイルは240キロメートルになります)さらに2005年からの第2期ブッシュ政権で、国務長官に就任したライス補佐官をして、「米国は、アリステイドが西半球に留まることを望まない。」とまで語らせています。こうなると、警告を無視してハイチの近くに留まることは、アリステイドにとって、身を危険に晒すことになります。そのことを察知したアリスティドは、2004年5月31日、南アフリカのヨハネスブルグに向けてジャマイカを去ったのです。南アフリカはアリスティドの一時的な滞在を認め、それがそのまま現在まで続いているのです。ハイチが大地震で大きな打撃を受けたとき、南アに滞在中のアリスティドは、久々に声明を発表しました。「ハイチ地震の復興支援活動に協力するために、帰国する用意あがる。」と…。そのアリスティドの意欲に対し、米仏両国は現在まで、無視する態度を貫いています。 続く
2010.04.24
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クロニクル 「週刊マーガレット」創刊1963(昭和38)年4月24日47年前になりますから、東京オリンピックの前年のことです。この日、集英社から少女向け漫画雑誌「週刊マーガレット」が創刊されました。前年に創刊された、講談社の「少女フレンド」に対抗するためだったようです。「アタックNO,1」、「ヴェルサイユのばら」、「エースをねらえ」などの人気作を連発、少女マンガの全盛期を生み出しましたが、70年代の絶頂期を過ぎると次第に人気が落ち、88年からは、月2回発行に改め、今日に至っています。
2010.04.24
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政治を斬る(79)やはりありましたね。昨日の前原大臣の発言です。夜の報道番組でしっかり聞きました。「現状では見直さないという点で、総理と一致した」でした。この「現状では…」は随分と意味深な言葉です。私は、この「現状では…」という言葉を、「閣議決定した『新高速道路料金割引案』を、そのまま国会に提出する。国会提出以前の段階では見直しません」という意味に受け取りました。皆さんはいかがですか。これで、前原大臣の顔を立てた。しかし、選挙に向けて支持団体である、運送業界などを困らせるわけには行かないから、国会審議の過程で、小沢幹事長の指摘を生かす方向で、原案を修正するにはやぶさかではない。それが「現状では…」という限定つきの言い回しの背景だと、私は考えました。何のことはない、昨日夕刊の各紙の報道が正確さをやや欠いたということのようです。今回は鳩山首相が、前原大臣に比して一枚上手だったようですね。 続く
2010.04.23
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ハイチに贈る(92)アリスティドの中央アフリカ行きは、彼と中央アフリカの接点がないために、識者に疑問視されました。AFP通信は、アリステイド家の召使が、アリスティドや夫人が、「銃口を突きつけられて、誘拐同然に連れ去られた」と証言したと報じました。米国の下院議員のチャールズ・ランゲルは、アリステイドに辞任を強要し、彼と夫人を中央アフリカに連れ去ったのは、空港で私服に着替えた民間の米国人だったと、アリスティド自身に聞いたと語っています。民間の米国人とは、独特の言い回しで、民間の軍事会社の社員(傭兵ですね)を指します。また別の国会議員マクシン・ウォーターズは、アリスティドと家族的友人関係にあるランダル・ロビンスンに聞いた話として、アリステイドが隠し持ったケータイ電話で伝えてきたこととして、「米海兵隊によって、自らの意思に反して辞職を強いられた。その後正体不明の武装軍人によって中央アフリカに連行された。中央アフリカでは、フランス人将兵に監視されている」と、暴露しました。この報に接したフランス国防相は、「アリスティド氏は保護されているのであって、収監されているわけではない。彼が希望するなら、中央アフリカを離れることが出来る。フランス人将兵は、アリスティド氏の行動を妨げることはしない。」と、表明しました。メディアを動員した親アリスティド派の作戦は成功し、アリスティドは、中央アフリカに連行された2月29日の15日後、3月14日にジャマイカに到着し、その地でインタビューを受けています。そこで彼は、辞職の前日2月28日に、米国大使ジェームス・フォーリーと面会したこと。フォーリーは、アリスティドが国営テレビで、国民に静寂を保つように訴えることに同意したこと。面会を終えて官邸に戻った所、官邸は数千人の米国兵に囲まれていたこと。兵士らは国営テレビ局まで護衛すると申し出たこと。そしてそのまま、飛行場へ連れて行かれ、白の無印の飛行機に乗せられたこと。機内に妻が乗せられていたこと。私服に着替えた民間軍事会社の社員19人の監視の下で、辞任を強いられたことなどを、語っています。彼の証言は、パイロットとアリスティドの補佐官という、2人の目撃証言によっても、裏付けられています。どうやら、米国政府筋の発表が虚偽であることは、明らかなように思われます。 続く
2010.04.23
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クロニクル 三国干渉1895(明治28)年4月23日115年前のことになります。清国との日清戦争に勝利した日本は、4月17日に締結した下関講和条約において、遼東半島を獲得しました。この日、ドイツ、フランス、ロシアの三国が、共同で日本に対し、遼東半島の清国への速やかな返還を申し出てきました。世に言う三国干渉です。日本への申し出、勧告という形をとっていますが、勧告に従わなかった場合、実力行使も辞さずという脅しが、しっかり伴っていましたので、日本はやむなく勧告に従う形で、遼東半島を清国に返還しました。この干渉の主導国は、一般にはロシアと考えられていますが、実はドイツ皇帝ウィルヘルム2世の世界政策によるものでした。露仏同盟に挟まれ、孤立状態にあったドイツは、両国、特にロシアとの関係改善を狙って、日本への干渉を考えたのです。この狙いは見事に当たり、西洋におけるドイツの立場は、一時ですが大いに改善されました。
2010.04.23
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政治を斬る(78) 昨日の(77)は、「それなのになんですねぇ…」と慨嘆調で終えました。当然今日は、鳩山首相の指導力に言及するつもりでしたが、またやってくれました。高速道路料金割引制の問題です。朝刊によれば、小沢幹事長にネジを巻かれて、いったん閣議決定した案を見直すと発言しました。各紙共通ですから、これは間違いないでしょう。そして夕刊には、前原担当大臣にネジを巻かれて、閣議決定を尊重し、見直しはしない方向に戻ったという記事が、こちらは前原発言で本人の言ではありませんが、出ています。見事な朝令暮改振りです。この問題については、小沢幹事長の指摘の方が、間違いなく筋が通っています。おそらく流通業界を含め、景気にもプラスでしょうし、何より高速道路料金の割引に使うべき国費を、道路建設に流用するなどというインチキもしないで済みます。前原大臣の主張の方が、国土交通省の道路系役人を喜ばす愚策ですから、鳩山首相には、振り子にならずに欲しいのですが…(苦笑)、今夜の報道番組の報道振りを眺めて見ることにしましょう。そうなんです。普天間問題で鳩山首相は決断するのでしょうか。首相に限りませんが、小なりといえども、様々な組織のトップの最重要の仕事は、決断する事にあります。その決断が出来ないのでは、トップの資格がありません。鳩山由紀夫という人は、確かに決断が遅いですが、全く決断しないわけではありません。かつて菅副総理と共同代表を務める形で、現在の民主党の原型を立ち上げた時のことです。彼はその時、武村正義元蔵相が代表を務めるさきがけに属していたのですが、さきがけが丸ごと新党に移行することを求める武村氏と、まるごと移行に反対する勢力との板ばさみになり、なかなか決断しなかったのですが、いったん武村排除を決断すると、以後はぶれずに決断を貫いたことを、私は鮮明に覚えています。ですから、鳩山首相は自ら決断をすれば、ぶれずに進むことの出来る人なのだという印象を、私は持っているのです。その意味で、今回の普天間移設問題は、鳩山首相の決断力のレヴェルを診断する上で、実に恰好の場だと私には思えるのです。そして、沖縄県外への移設を切望する私は、鳩山首相の最後の決断が下ることに、些かの期待を持っているのです。そして、その決断が、総理辞職の決断にならないことを願っているのです。県外で決断するなら、支持率も回復すると思いますよ、鳩山総理。 続く
2010.04.22
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ハイチに贈る(92)米国の介入によって、米州開発銀行の融資を拒絶されたハイチは、混乱を極めました。反アリスティド派の中心は、ムラートを中心とするハイチの富裕層で構成されていました。 米国は、この反アリスティド派に資金援助を続け、ハイチの混乱を助長し、黒人貧困層、アリスティド支持派が、貧窮の底で暴力に訴えるように、挑発を続けました。こうして、21世紀初頭の数年間、ハイチは混乱の極にありました。不幸なことに、この時期は2001年9月11日の有名な出来事と、それに伴う米国のアフガニスタンとイラクに対する、ほとんど言いがかりに基づく攻撃と混乱に、世界の眼は釘付けとなり、ハイチは世界に忘れられていました。このドサクサの中でも、米国はハイチの反乱軍への支援を怠ることはありませんでした。2004年2月、「革命再建抵抗戦線」を名乗る反乱軍が決起し、まずハイチ第4の都市ゴナイーヴを攻略、次いで第2の都市カパイシャンをも攻略して、ほぼハイチ北部全域を支配下に収めました。ハイチは、政府軍が維持する南部と、反乱軍が占領した北部とに、事実上分裂した状態に陥ったのです。反乱軍はドミニカ共和国経由で、米国製重火器の提供をふんだんに受けていたことが、短期間での北部占領を可能にしたのです。米国製兵器を装備した反乱軍と、政府軍の優劣は明らかでした。2月末、反乱軍は首都のポルトープランスへ向けて、破竹の進撃を開始します。そして2月29日、アリスティド大統領は、米軍機で中央アフリカへと出国したのです。この出国について、ブッシュ政権は、「アリスティド自身が直接米軍に助けを求め、自発的に米軍機に搭乗した」と主張しています。当時のパウエル国務長官も「彼自身が自発的に辞表を作成して署名し、警護員と共に自ら出国した」と語っています。しかし、こういう弁明とも取れる発言を米当局の当事者が語らなければならないということは、その裏にかなりの作為があったことを窺わせます。事実は拉致、誘拐に近い形で、アリスティドは、中央アフリカに連れ去られたのでした。その実際は、明日記します。 続く
2010.04.22
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クロニクル 『サザエさん』の連載始まる1946(昭和21)年4月22日敗戦から8ヵ月後の4月22日、福岡の地方紙『夕刊フクニチ』に長谷川町子さん作画の4コマ漫画「サザエさん」の連載が始まりました。その後、1951(昭和26)年4月16日より、朝日新聞の朝刊に移り、この間、何度かの休載がありましたが、その都度再開され、1974(昭和49)年2月21日まで、6477回という長期に渡って連載されました。
2010.04.22
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政治を斬る(77) 普天間基地の代替候補を巡って、鳩山内閣のドタバタが続いています。私は、鳩山首相の「これ以上沖縄に基地を作らない。基地は沖縄以外に作る」という姿勢を、実は高く評価しています。たとえそれが、日本国内になったとしても、沖縄のどこかに押し付けることになるより、ずっとマシだと思うからです。なぜか。先の大戦で沖縄県民の皆さんは、本土決戦を呼号した日本軍部の方針を墨守して、文字通り徒手空拳で米軍との戦いに挑み、1部は軍部の指示で集団自決を強いられるという苦衷を舐め、人口の3分の1が犠牲となりました。その沖縄の犠牲があったゆえに、九州以南の本土は米軍との決戦を免れたのです。我々「本土」の住民は、沖縄の皆さんの犠牲があったゆえに、本土決戦の悲惨を免れることができたのです。そして我々の先輩達は、65年前の借りを今日まで返そうとせず、未だに大きな借りを負ったままになっているのです。それどころか、59年前にまとまり、58年前に発効したサンフランシスコ講和条約において、我々の先輩達は沖縄の人たちに一言の断りもいれずに、恥も外聞もなく勝手に沖縄を米国に献上して、九州以北の独立を譲り受けたのです。「本土」の人間は、沖縄の犠牲の上に、やや盛りを過ぎたきらいがあるとはいえ、現在の繁栄を謳歌しているのです。この沖縄に対する「本土」の負い目は、アジア・太平洋地域の皆さんに対する戦争責任の問題と共に、どこかできちんと許しを乞う必要があるのです。こう思うがゆえに、私は「普天間代替地は、何が何でも沖縄以外」という、鳩山首相に期待しているのです。それなのになんですね…… 続く
2010.04.21
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ハイチに贈る(91)2000年11月、米国でブッシュジュニアとゴアとが歴史的な大接戦を繰り広げ、フォロリダの開票を巡って、選挙結果がなかなか確定しなかったまさに同じ時期、同年11月に行われたハイチの大統領選で、アリスティドは91,8%もの得票を得て当選しました。しかし彼は解放の神学を奉じる改革者です。米国はハイチの改革の進展、第2のキューバ化を極端に恐れました。米ソ冷戦の時代は終っているのですから、小さな島国の、しかもその3分の1でしかないハイチの改革に、米国が干渉する必要などまるでなかったというのに。今と違い、なお米国の息のかかっていたOAS(米州機構)は、ハイチ選管による投票結果の発表後に、「選挙は票を数える方法論に問題があり、不公平であった」との報告書を発表しました。他方で、国際的な私設のボランティア組織「独立監視団」は、「戦況はスムーズに行なわれ、目だった不正はなかった」と、OASとは全く異なる見解を発表しました。選挙で勝てないと見た反アリスティド派が、選挙ボイコット戦術を取ったことは事実です。しかし、OASの選挙監視団の行動と報告書は、どう贔屓目に見ても、いただけるものではありません。「票を数える方法」という開票方法を問題にするなら、開票の過程で問題を指摘し、是正することが出来たはずです。それもしないで、開票終了と結果の発表があり、全てが済んでからの報告書の中で、「選挙が不適正であった」と発表したことは、この間に何らかの圧力を受けたからだと考える方が自然です。アリスティド派は、「OASの報告書は、大統領の政策に敵意を持つ勢力、特に米国によって企図されたものである」と、強い調子で非難しました。しかし、アメリカとフランスの意を汲んだ欧米諸国の多くは、OAS報告書を唯一の拠り所にして、「ハイチの選挙にはあからさまな不正があった」と、ハイチ政府を非難したのです。この非難を受けて、当時のクリントン政府は、「アリスティド政権は不正によって誕生した政府であり、援助資金が不正に浪費される可能性が高い」と難癖をつけました。そして、EUを巻き込んで、米州開発銀行によるハイチへの5億ドルの貸与契約を実行しないように、働きかけたのです。2001年に大統領に就任した2代目ブッシュは、この働きかけを実行し、米国の拒否権を行使する形で、正式に5億ドルの貸与(これは贈与でなく、あくまでも利子つきに貸付なのです)契約を、反故にしたのです。地上の最貧国の一つハイチが、融資などの様々な援助なしにやっていけないことは、誰が見ても明らかなのです。それなのに、自分達の気に入らない政府だからと支援を断ち、内部崩壊を起させるというのは、欧米諸国が中南米やアフリカなどの旧植民地を、経済的に支配するための常套手段が、21世紀の今日でもなお行なわれていることを、白日の下に晒しました。2001年以後のハイチは、アメリカの思惑通り混乱を極めました。 続く
2010.04.21
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クロニクル 忠犬ハチ公の銅像完成1934(昭和9)年4月21日渋谷駅の道玄坂方面の広場に、ハチ公の銅像があります。今も待ち合わせのメッカです。日中から人待ち顔の若人の活気のある姿が、溢れています。忠犬ハチ公の銅像が完成し、まだ元気だったハチ公自身も、この日行われた除幕式に出席しました。秋田犬のハチ公は、1923年11月の誕生で、翌24年から、現在の東急百貨店本店周辺に住んでいた上野英三郎さんに飼われ、いつの頃からか朝夕出勤する上野さんを渋谷駅まで送迎するようになったと言われます。ご主人の上野さんは、1925年5月21日に急死してしまうのですが、ハチ公はその後も毎日渋谷駅に出かけ、上野さんの帰りを待ち続けました。この事実が東京朝日新聞で報道されて、ハチ公は全国的に有名になり、忠犬ハチ公と呼ばれるようになりました。ハチ公は銅像の出来た翌年1935年3月8日に亡くなっています。遺体は解剖され、心臓と肝臓に大量のフィラリアが寄生しており、それが直接の死因になったことが明らかにされました。なおハチ公は剥製とされ、現在も東京科学博物館に保存されています。
2010.04.21
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ハイチに贈る(90)1986年の2代目デュヴァリエの追放後、ハイチの情勢はまたまた混迷します。翌87年に新憲法が制定され、選挙で大統領が選ばれますが、すぐに軍部反対派のクーデタで政権を追われては、選挙とクーデタを何度か繰り返すという事態が続きました。こうした中で、1991年の選挙で左派に属するジャン・ベルトラン・アリスティドが大統領に選ばれました。彼はサレジオ会の熱心な司祭で、解放の神学の熱心な実践者として、教会左派のリーダーとして、貧困層の支持を受けていました。大統領の彼は、支持母体である貧困層の教育に力を入れましたが、就任7ヵ月後の91年9月30日、反対派の軍事クーデタによって、政権を追われてしまいます。軍部の政治介入と軍事政権への誘惑という、ハイチの悪しき伝統が、なお払拭できずにいることが、ここに明らかになったのです。アリスティドは亡命して再起を期すのですが、軍事政権によるアリスティド派に対する暴力と殺害行為の連続は、国際的な反響を呼び、国連や米国の働きかけや、経済制裁という名の圧力の行使を招くに至りました。ここに軍事政権は譲歩を強いられ、1994年アリスティドは大統領に復帰したのです。しかし、軍事政権によって、ハイチの脆弱な経済は大きなダメージを受けていたため、アリスティドは、経済対策に全力を傾注せざるを得なかったのです。大統領の任期は5年でした。アリスティドは91年秋に職を終われ、94年に大統領に復帰したのですが、職を追われていた期間も大統領を名乗っていましたので、この期間も就任期間に含めることになり、96年初めに任期満了で一度退任しています。96年、95年秋の選挙で88%もの圧倒的支持を得て圧勝した、アリスティドに近いルネ・ガルシア・プレヴァルが、大統領に就任したのです。この選挙は、ハイチ史上で初めてとも言える、平和的で民主的な権力の移行だったといわれます。しかし、こうした平和は、2001年アリスティドが2度目の大統領になると、次第に崩れてしまうのです。 続く
2010.04.20
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政治を斬る(76) 国外からの労働者の受け入れ。日本の若者がきつい仕事を嫌うこと、介護費用を狙う政府の政策もあって、労働内容に比べ賃金水準が非常に低いことなどから、介護職が不足しています。ゼネコンにやさしい政・官・財の癒着で、手厚い補助金がでるため、施設というハコモノは出来ているのですが、介護職が集まらないので、稼動していない施設がかなり出来ている現実があります(たとえば、1階だけ使用して、2階は未使用のままとか、西棟だけ使って東棟は閉鎖しているなど)。そこで、期待されたのが、フィリピンやインドネシア等からの介護職の受け入れでした。現地で資格を持っている介護職の皆さんが、既に300人以上も日本にやってきて、言葉の問題から見習いとして来日、各地の施設で働いています。彼ら、彼女らの所属施設や被介護者の評判は概ね好評です。そして、日常会話には不自由しないようになっています。それなのに、先日厚生労働省が発表した所では、正規の介護職に登用するテストに合格したのは、僅かに3人だったというのです。これはいったいどういうことでしょうか。まさに典型的なお役所仕事の悪い例の見本でした。ペーパーテスト至上主義、形式が整わないと認めない形式主義、これこそ民主党内閣が真っ先に排除すべきことでしょう。それなのに、長妻大臣も鳩山首相も、菅副総理も、そして内閣全体としても何も言いません。欧米経済が90年代以降の日本と同じ、長い下り坂の時代に入ったことは明らかですから、アジアとの関係を様々な面で、強化すべき時代に入っています。その時代に、各国で得た資格を認めようとせず、杓子定規に日本の資格の取得を迫る頭の固さ、これではアジア諸国との関係すら悪化させてしまいます。何より国内で労働力が不足する分野で、働いてくれるという優秀な若者を、迎え入れようとせず、排除の方向に動いてどうするのでしょう。こうした悪しき官僚主義の打破こそが、我々が民主党に託したことなんですが…しっかりしてよ…。 続く
2010.04.20
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クロニクル モナ・リザ公開1974(昭和49)年4月20日36年も前になるのですね。この日、東京は上野公園内の国立博物館で、フランスはルーヴル美術館の至宝、レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ」が特別公開されました。大変な混雑だったのを覚えています。東京国立博物館は、明治5(1872)年に創設された日本で最古の博物館です。
2010.04.20
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政治を斬る(75)仙谷国家戦略相が妙なことを言い出しました。曰く「事務次官を廃止し、事務の副大臣を作る」と。これ、凄く問題のある発言です。副大臣は認証官ですから、形式とはいえ、皇居で天皇から信認される重い役職です。当然事務次官よりランクは上ですから、役人特に次官クラスは大喜びでしょう。民主党は政治家が官僚を統括するから次官はいらないと主張していました。しかし仙谷プランでは、次官は昇格して副大臣になるのです。これって役所のというか役人の焼け太りに外なりません。その上、副大臣は政務三役の政務官よりも地位が上です。政務官は非認証官ですから、格の点でも事務の副大臣即ち官僚が上役になります。民主党は、政が官を統括すると主張していましたが、何をかいわんやですね。こんな頓珍漢な案を出してくれと、我々は民主党政権に期待したわけではありません。しっかりしてよ、仙谷大臣ってところですね。ヤレヤレ。 続く
2010.04.19
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ハイチに贈る(89)ジャン・クロード・デュヴァリエの国民生活を顧みず、一族と側近のみを優遇する政治に、虐げられ続けてきた貧困層も、次第に反政府の蜂起を繰り返すようになります。2代目デュヴァリエの治世6年目に入った1977年頃のことです。当初は略奪を兼ねた暴動でしたが、次第に武装蜂起の様相を強めだします。ジャン・クロードは、これを軍を使って徹底的に弾圧したのですが、その残忍な処刑や民衆を虫けらのように殺戮するやり方が、アメリカやフランスのジャーナリストの手で世界に発信されると、国際的に大きな批判が浴びせられます。批判は直接、間接にハイチに関わってきたアメリカにも向けられます。こうしてアメリカは有形無形の圧力をハイチにかけるようになってゆきます。このアメリカの働きかけは、ハイチの富裕層に対し、ジャン・クロードとの距離を取らせるようになります。次第にハイチは内乱の様相を呈するようになり、遂に85年には全土が反乱状態に陥りました。ジャン・クロードは側近の将軍らの支持で、なお抵抗を続けましたが、国内の富裕層に見放され、アメリカやフランスからも見放されて、抵抗を続けて死を選ぶか、フランスへの亡命を選ぶかの選択を迫られます。ここにいたって彼も屈服し、1986年米軍機でフランスへ亡命したのです。亡命先のフランスは、彼と彼の一族が持ち込んだ動産を没収し、ハイチに返還しています。せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのでしょうか。 続く
2010.04.19
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クロニクル ライシャワー駐日大使着任1961(昭和36)年4月19日前年の安保闘争で傷の入った日米関係の修復を目指したケネディ政権によって、知日派の旗頭だったハーバード大学教授、エドウィン・ライシャワー氏が駐日大使に担ぎ出され、この日着任しました。ライシャワー氏の父は、明治学院の創立に関わり、その関係で氏は日本で生まれ、日本のアメリカンスクールで教育を受けた変り種でした。前妻と死別した後、明治の元勲松方正義の孫にあたるハル夫人と再婚していましたので、夫人が日本人という点も、対日関係の改善にプラスになると、受け止められたようです。大使は在任中、日本全国を巡回する熱意を示し、66年までのマル5年大使として勤めました。しかし、63年秋ごろから、激化するヴェトナム戦争と、日本におけるヴェトナム反戦運動の高まりによって、再び対米感情は悪化し、日米関係の改善は、道半ばに終りました。64年3月、暴漢に太ももを刺されて重傷を負い、3ヶ月の入院生活の後に大使に復帰しましたが、この時の輸血が原因で肝炎を患い、この事実がきっかけとなって、日本における売血の停止と献血制度が整備されることになりました。
2010.04.18
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ハイチに贈る(88)独裁者となったデュヴァリエは、自らに対する個人崇拝を強め、自分を魔術師であるかのように国民に宣伝し、国民の前に姿を現す時は、ブードゥー教の神をイメージした衣装に身を包んで登場するようになりました。まさに神がかり状態を演じて見せたのです。こうして宗教を民衆掌握の道具として、徹底的に利用したのです。彼は1963年には憲法を停止し、64年には終身大統領に就任して、ハイチに君臨しました。彼が支援を取り付けた米国による経済援助も、その大半がデュヴァリエ一族とその取り巻きの懐に消える有様でした。それどころか、国営企業や貿易による利益も、その大部分が彼らの蓄財に化け、ハイチは汚職と収賄の世界と化していたのです。彼の時代、徹底した恐怖政治によって、表面的には国内は安定しているように見えましたが、経済は停滞し、国民は貧困の底に沈んでいたのです。このような状態は、次第に国際社会に知られるようになり、デュヴァリエ独裁を反共の砦として支援していたアメリカも、国際社会の非難を浴びせられて支援を停止、デュヴァリエは71年1月に心臓発作で倒れ、僅か19歳の息子ジャン・クロード・デュヴァリエを後継者に指名しました。19歳で大統領となったジャン・クロードは、アメリカとの経済協力を強めましたが、一族や側近、閣僚たちは私的な蓄財に励み、彼自身も国民生活を顧みることなく、贅沢の限りを尽していたので、国民の生活の窮乏ぶりはひどくなる一方でした。彼は、1977年から「ジャン・クロード主義」と名付けた経済開放政策を展開します。この政策は、アメリカの援助や資本を導入して、ムラートのテクノクラートを登用して工業化と近代化を目指すものでした。しかし、遂に成功を見ることなく。かえって農業や畜産は衰退し、恐怖政治や飢饉を逃れる難民のボートピープルがアメリカに殺到することになったのです。 続く
2010.04.18
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クロニクル 山本五十六海軍大将戦死1943(昭和18)年4月18日67年前になります。この日、連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将は、ニュー・ブリテン島のラバウル東基地より、ショートランド島方面の視察に出発、ブーゲンビル島上空にて米軍機の攻撃を受け、山本長官機は撃墜され、長官は乗組員10名と共に戦死しました。この視察については、4日前に暗号で視察予定の各基地に伝えられたのですが、米軍はこの解読に成功し、ブーゲンビル島上空にて山本長官機らを待ち伏せて攻撃したものでした。日本軍の暗号解読に成功していたからこその戦果でしたが、米軍はその事実を隠し続け、日本側は暗号を解読されていることに気付くのが遅れ、その間被害は拡大を続けました。日本は諜報戦でも負けていました。
2010.04.18
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政治を斬る(74)民主党政権の高速道路料金の上限制が法案化されました。近距離は値上げになるなど、使い勝手に種々問題があるようです。手をつけるなら人気取りではなく、日本経済と国民の気分にプラスに作用する案を考えて欲しい所ですが、そうなっていませんね。それもそうなのですが、より腹立たしいところは、麻生政権の土日祝日一律千円プランでかかる経費の差額1兆4千億円を、そのまま予算査定で削られた高速道路建設にまわすという姑息な法案を用意したことです。公共事業は抑制するとマニフェストに書きましたから、公共事業費は削りました。しかし、そこへ別の費目から1兆4千億円も回そうというのです。実は上限千円の自民党案でかかる経費として、高速道路会社に支払われる予定の3兆円が、民主党案に駆り替わると、1兆4千億円が不要になるというのです。そのお金を国庫に戻さず、道路建設に流用することを認めようという法案を、民主党政府は国会に出してきたのです。こうすれば、道路建設に使われる1兆4千億円は、公共事業費には計上されずに道路予算になるのです。東京外環道などが対象のようです。何のことはない。民主党に新しい道路族が誕生したのでしょうか。ここにあるのは、姑息な手段で、ともかく道路予算を確保しようという、自民党道路族以上に露骨な道路至上主義が顔を出しています。こんな破廉恥な法案は、認めるべきではありません。このままでは益々民主党は、第二の自民党に堕して行くばかりに見えます。 続く
2010.04.17
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ハイチに贈る(87)フランソワ・デュバリエは、農村医療に従事する医師として住民に慕われる傍ら、ブードゥー教に関する著作を著すなど、アフリカ系黒人の伝統を賛美する文化人としても、知られました。1946年のクーデタで誕生したエスティメ政権では、乞われて保健相に就任、次いで労働相として、医療、労働などの困難な問題を手がけました。この時期のデュヴァリエは、進歩的な政策を推進し、黒人進歩派として認められ、貧民層からは「パパ・ドク」と呼ばれて慕われていました。マグロワール政権が倒れた後、黒人とムラートの対立で政局の混乱が続く中、1957年の大統領選挙に立候補したデュヴァリエは、黒人主義の旗を高く掲げて黒人層の支持を固め、当選を果たします。就任直後のデュヴァリエは、それまで抑圧されてきたブードゥー教の正当性を認めたり、国民の福祉を重視するなど、進歩的な政策をとって国内改革を進め、ムラートが独占してきた多くの公職の門戸を、黒人にも開放しています。しかし、徐々に独裁色を強め始め、60年代に入ると、軍の指導者を1人また1人と失脚させて軍を分断し、自分に忠実な部下を送り込んで軍を掌握します。次いでキリスト教会から外国人司祭を追放して、アフリカ色を強めてローマ教皇庁から破門されます。この時国民の多くは、破門されたデュヴァリエを支持しました。この国民の支持を背景にして、後デュヴァリエは教皇庁と和解し、不在の聖職者の任命権を賦与されます。この結果デュヴァリエは、自らの息のかかった聖職者を任命する権利を入手し、教会を勢力下に置くことにの、成功したのです。さらにデュヴァリエは、秘密警察「トントン・マクート」を組織して、社会の隅々にまで監視の網の目を広げたのです。当然野党は全て非合法化して解党に追い込みました。デュヴァリエや政府を批判する人物は、悉く逮捕・処刑され、このため多くの人材が欧米に亡命してしまい、ハイチは人材の枯渇に悩むことになったのです。 続く
2010.04.17
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クロニクル 中国IMFに加盟1980(昭和55)年4月17日ちょうど30年前になるのですね。この日中華人民共和国(略称 中国)がIMF(国際通貨基金)への加盟を認められ、正式メンバーとなりました。その結果、国際貿易の促進等、国内体制の整備も進み、中国の近代化が加速することになりました。当然外資の受け入れも、この時から動き始め、90年代からの急激な経済成長への下準備が進むことになりました。中国の現在に至る近代化、工業大国化への出発点となるメモリアルとして、見落とせない出来事でした。
2010.04.17
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世界経済の現状(121)もう少し、ギリシアについて続けます。ギリシア国内からの資金の流出は、ギリシア政府自身の当事者能力を大きく制約します。発行するギリシア国債を消化する力が、ギリシアの金融市場から失われてしまっているからです。国債はIMFやECBの支援によって得られた資金で、自ら買い取るしかないのです。より深刻なのは、大口の預金が次々に解約され、国外に移されるのですから、国内の企業に融資する原資が、急激に減少してしまっています。ですから、融資を増やすどころか、かなりの勢いで融資を絞らざるを得ない状態に追い込まれています。これでは景気は落ち込む一方です。このままでは景気回復の処方箋も書けないでしょう。10年前の日本で悪名高かった「貸し剥がし」が、ところを変えてギリシアで今まさに本格化しつつあるのです。西欧のバンカーたちは、ギリシア政府とギリシアの銀行の安全性を疑問としているからこそ、対ギリシアの信用供与をストップしています。しかもギリシアの資産家は、今後の推移を見通して、国内に資金を置くことは避けたほうが良いと考えて、諸外国へと資金を移動しているのです。これは、かつてアルゼンチンやロシアなどがデフォルトに陥った時と、全く同じパターンです。ギリシアがユーロに加盟していなければ、通貨の大幅切り下げを断行して、輸入物価を大幅に上げ、輸出物価を大幅に下げ、輸出増をテコにして景気の回復に挑む選択肢が出てくるのですが、そうした決断を出来るかどうかですね。 続く
2010.04.16
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ハイチに贈る(86)1934年の米海兵隊の撤収後のハイチでは、共和制の下でムラート出身の数人の大統領の治世が続きましたが、経済的苦境に対して何ら友好な手立てを講ずることが出来ず、貧困層中心に不満が高まり、第二次大戦終結後の1946年クーデタによって、デュマルセ・エスティメが久方振りの黒人大統領に就任しました。彼は、社会保障政策や労働対策に力を注ぎ、黒人の政治的自由の拡大など、数多くの進歩的改革の実現に踏み込みました。それは人口の多数派である黒人層の熱烈な支持を受けましたが、ハイチ経済を握るムラート層の激しい反対を生み、ハイチは再び黒人とムラートの対立によって、混乱状態に陥ったのです。ハイチの大統領職は、独裁者の登場を防ぐための憲法改正を経て、再任を禁じられていたのですが、エスティメ大統領は志半ばでの退任を嫌い、改革の仕上げのための再選を望んで、憲法の改正を目指しました。1950年のことです。当然エスティメ改革に反対のムラートや黒人エリート層は、これをチャンスと憲法改正は独裁者を産むとして、反対のキャンペーンを張ったのです。ここをチャンスと見た反エスティメ派は、クーデタを敢行して、エスティメ大統領を国外に追放し、政権奪取に成功します。ただし、ムラート中心の政権では、黒人貧困層の反発はとても交わしきれません。そこで彼らは、黒人のエリート軍人であるポール・マグロワール将軍を中心とした軍事政権を樹立したのです。マグロワールは民政移管と共に、軍服を脱いで大統領に納まりますが、彼もまた再選を目指す行動をとって、激しい抗議晒された末、1956年末にクーデタで打倒されました。クーデタで誕生した軍事政権の下でも、民政移管と大統領選挙を巡る混乱は続き、ゼネストやクーデタが繰り返されてた末、1957年9月に行われた大統領選挙に、ムラートの候補に対抗して黒人主義を掲げて立候補し、黒人中心に支持を広げて当選したのが、後に悪名高い独裁者となる、フランソワ・デュヴァリエだったのです。 続く
2010.04.16
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クロニクル 『となりのトトロ』封切り1988(昭和63)年4月16日もう22年前になるのですね。確かに娘が3年保育の幼稚園に通い出した頃でしたから、そうなるのですね。宮崎駿監督の『となりのトトロ』が劇場公開されたのが、今日のことです。その後、TV放映を録画したビデオを、何度見たことか。今でも子ども達には大人気です。
2010.04.16
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世界経済の現状(120)ギリシア危機は峠を過ぎたでしょうか。「IMFとECBが支援を表明したから、当面ギリシア国債の発行が未達になる(売れずに残ってしまう)可能性はなさそうだ」としきりに、アナウンスされています。ところが、ギリシア国債のスプレッド(ギリシアの場合で言うと、ユーロ圏で1番低い利息で国債を発行できるドイツ国債の金利を基準に、それにどの程度利息をプラスすると、国債を発行出来るかを指します)が、1998年のロシアのデフォルト時以来の、4%を超えてきているのです。1998年は前年からのアジアの通貨危機がロシアに飛び火し、ロシア国債がデフォルトになりました。その煽りで米国ではLTCMが倒産するなど、国際的な金融市場が大揺れに揺れた年でした。ギリシア国債のスプレッドは、そのときの水準を超えてきています。しかも、昨年末からと違って、4月に入っての金利の上昇は、どうやら先物ではなく、ギリシア国債の現物が大量に売られての結果らしいのです。危機はかなり深刻になってきています。先週末には、ギリシア国債のスプレッドは4,63%にまで拡大しています。ここにギリシア危機の深刻さが現れています。4月、5月の国債の借り換えが無事に出来れば、メデタシメデタシと言うわけには行かないのです。IMFとECBは、ギリシア政府に対して一層の緊縮財政と、財務の健全性の向上を要求しています。その結果ギリシア政府は、緊縮財政と増税のダブルパンチを国民に求めることになります。北海道夕張で起きたことですね。このとき夕張では移転を選ぶ人もかなり出ましたね。ギリシアの富裕層は、危ない国内銀行を避け、ドイツやスイス、フランスやイギリスの安心できそうな銀行に、身内の預金をせっせと移している。勿論手持ちのギリシア国債はさっさと売り払っているのです。ギリシアに支店を持つ外銀の店舗は、顧客が溢れているという情報もあります。ギリシアの中央銀行自ら、1、2月の2ヶ月で80億ユーロ強の預金が、国外に流出したと発表しています。2ヶ月で1兆円の流出ですから、ギリシアの経済規模からすると大変な痛手のはずです。つまり、緊縮財政を採り、増税を選択すれば、国外に逃避できるだけの資金の持ち主は、資金と共にギリシアを離れ、国内には何処にも逃げ出せない貧困層だけが残ることになりそうなことが、ここから予見できるのです。これで、ギリシアの財政再建は可能なのでしょうか。 続く
2010.04.15
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ハイチに贈る(85) ドイツのハイチへの野心は、米国の警戒心を強めました。南北戦後の再建の時代を経て、80年代から力強さを取り戻した米国は、90年代に入るとフロンティアの消滅を宣言します。ここに建国以来のアメリカ史を特徴付けた、開拓すべき西部は開拓し尽くされて消滅したのです。そうかといって、米国人の心の底に残っている膨張主義的精神は、更なる拡大と成長を求めて止みません。それが太平洋への本格的進出であり、同時に近いがゆえに裏庭と考えたカリブ諸国への進出や介入となって、現実化するのです。ドイツのハイチへの野心に、米国が敏感に反応したのは、この裏庭意識によるものでした。第一次世界大戦が始まり、日本海軍の攻撃に敗れて青島の拠点を追われたドイツの東洋艦隊が、アルゼンチンに近いフォークランド沖の海戦で、全滅したことを知った米国は、素早く行動を起します。といっても、ヨーロッパの戦場に兵を送るのではなく、ヨーロッパに封じ込まれたドイツの留守を狙って、ハイチを軍事占領したのです。1915年のことでした。ハイチに提供した債券の保全、「ハイチ側の債務返済を軌道に乗せるための措置」というのが、米国側の公式声明でした。ハイチ側は、シャルルマーニュ・ペラルト将軍の陣頭指揮の下で、圧倒的に優勢な米国の海兵隊を相手に粘り強く戦いましたが、数的劣勢と圧倒的な火力の前に敗れさり、逃亡できる資力や能力を持つ人たちは、キューバやドミニカに亡命していったのです。ハイチを占領した米国は、その後1934年まで19年間に渡って、ハイチを軍政下に置いたのです。1804年1月の独立以降、貧しく厳しい孤立無援の生活を送りながらも、独立国の矜持を失わなかったハイチが、19年にわたって米国の支配を甘受するしかなくなったのです。これは屈辱でした。米国のハイチ占領は、1934年に終ります。世界恐慌の進展の中で、1933年4月に執心したフランクリン・ローズヴェルト大統領は、外交面では善隣友好の外交政策をとり、ハイチからも撤収する方針を採ったのです。さて、占領下のハイチで米国は何をしたのでしょうか。現在もイラクやアフガンでやっているおせっかいと同じ事を、押し付けたのです。自国の成功体験をモデルとして押し付けるのです。米国を模倣した憲法の導入、分裂を避けるのに良いからと、権力と産業の首都への集中、そして兵士の訓練と教育などです。その結果はどうなったでしょうか。現在に続く地方の疲弊と衰退は、取り返しがつかないほどひどい状態になりました。そして同時に、後に軍事独裁は敷く事になる軍部の強化も、米国支配の下で培われたのです。そして、撤退後も米国は、貸出債権の回収をスムーズに行うためという理屈で、1947年まで、ハイチの対外収支を管理続けたのです。 続く
2010.04.15
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クロニクル ヘレン・ケラー女史初来日1937(昭和12)年4月15日1937年というと、盧溝橋事件の年ですね。73年前になります。この日『奇跡の人』で知られる三重苦のヘレン・ケラー女史が秘書のポリーと共に、はじめて日本を訪問しました。このとき、彼女は秋田犬を所望し、後に2頭の秋田犬を贈られています。またこの日本訪問の際に、彼女は東京盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)と同志社女子大学校を訪問しています。彼女の訪日は、この時を含めて、全3回になります。
2010.04.15
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世界経済の現状(119)本日の日経朝刊7面に「正念場の米住宅市場(下)」という記事が載っています。連銀による(この背後にFRBがいます)MBSの買い入れについて書いているのですが、買い入れた1兆2千5百億ドルが、全て昨年発行されたばかりのMBSだと記されています。すると、過去に発行されたMBSは何処に行ったのでしょう。住宅価格の高かった時代に発行されたMBSが、償還される事はありえません。大きく値下がりして連銀意外に何処にも買い手が存在しないのですから、連銀が買い入れたMBSは、他に誰も引き受け手のないMBSが中心なのです。それに、不人気なMBSを組成して発行したとして、いくら美味しそうなことを並べても、市場が相手にしてくれないことは明らかです。MBSがまともに発行できる環境など、今の米国にはありません。ですから連銀のやったことは、金融機関の持つ不良債権を隔離し、連銀が質の悪い資産を大量に抱えたという点にあります。この状態で国債の金利が上がったらどうなるか。既発の金利の低い国債は、売られて値を下げます(その分金利は上昇)。となればドル暴落の悪夢が現実化するでしょう。日本と同じように米国もまた必死になって低金利を維持すているわけは、ここにあります。米国でも歴史的な低金利が続く背景がここにあります。金利が上がれば、ドルは買われると考えるのが普通ですが、現状ではそうはいえないのです。金利上昇は、ただちに連銀の抱えるMBSの実態価値の暴落を、誰もが連想するからです。金利の上昇に耐えられない質の悪い資産を、連銀が大量に抱えているのです。中央銀行がこの体たらくなのですから、ドルの価値が下落するのは、当然の成り行きになります。そこに、昨年来オバマ大統領の下で、米国政府は1990年代に日本が選択したのと同じ方針を、採り続けています。不良資産を思い切って処理するのでなく、時間をかけてゆっくりと処理しようというのです。将来的にゼロになりかねない時限爆弾を、大量に抱えているのです。そして金融機関はどうしているのでしょうか。 続く
2010.04.14
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ハイチに贈る(85) ジェフラル将軍の下で、ハイチに共和制が復活した1860年代、米国は南北戦争(1861~65年)を経て、ようやく黒人奴隷制度を廃止しました。もはやハイチと付き合っても、黒人奴隷が反乱を起す心配は亡くなりました。しかし、米国の奴隷解放は、解放した奴隷に生活の糧を確保する配慮を欠いた極めて不十分、不徹底なものに過ぎませんでした。それは南北戦争の開始と時を同じくして発令された、ロシアの農奴解放勅令が、有償だったとはいえ解放する農奴たちに、一定の農地を分与したことに比べて、はるかに劣った恥らうべき内容のものに、過ぎませんでした。当時の米国では、なお白人による差別主義は大きな勢力と支持基盤を持っていたのです。それゆえ米国は、黒人の共和国であるハイチを相変わらず忌避し続けたのです。それでも1870年代も終わりに近づいた頃、西欧諸国で独占資本が登場し、帝国主義が猛威を振い始める頃になると、ハイチの経済もコーヒー、タバコなどの輸出が増え、経済に成長の兆しが見え始めます。それでもフランスへの賠償支払いは続きました。そして、19世紀も末になり、急成長期に入ったドイツにウィルヘルム2世が登場すると、ドイツは英・仏・米に独占されていた世界の植民地化の流れに割って入ります。そのドイツが目をつけたのが、小さな共和国ハイチでした。賠償金支払いが続いているとはいえ、フランスはハイチの独立を認めています。それならここをドイツが植民地にしても、文句はないだろう。これがウィルヘルム2世の論理でした。1895年、日清戦争後に、清国から遼東半島を獲得した日本に対し、仏・露を誘って三国干渉を仕掛けて遼東半島を清に返還させ、青島(チンタオ)を含む山東省一帯を租借することに成功するなど、この時期のドイツの植民地獲得熱と膨張主義は際立っていたのです。このドイツのハイチの占領、植民地化の試みを、ハイチの黒人たちは何度となく押し返しました。しかし、その代償は大きかったのです。戦場となった国土は、再び荒廃し、それまで続いた近代化への営々たる努力は、無に帰したのです。 続く
2010.04.14
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クロニクル リンカーン狙撃さる1865(慶応元)年4月14日米国を2分した南北戦争の終了から間もない頃でした。日本では幕末の動乱いよいよ激しく、志士たちの活躍も目立ってきた頃です。大統領2期目に入り、いよいよこれからという時期、ワシントンのフォード劇場に観劇に訪れたリンカーンは、劇場内で狙撃され、重傷を負いました。すぐに病院に運ばれたのですが、翌15日未明に息を引き取りました。もう少し、彼の2期目の施策を見たかったですね。それにしてもアメリカは民主主義国家という割りには、困ったことに暗殺による死者が、多いですね。
2010.04.14
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