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オバマ政権の危機(8)ルイジアナ沖の深海油田の事故による原油流出は、現代の技術でなお打つ手がない状況にあります。対策に窮したオバマ政権は、小型の核兵器を用いて、深海で核爆発を起し、爆風によって、原油の流出口を塞ぐという、一種のバクチまで検討したと言われています。この話は一時期、日本のマスコミでも流れましたね。これを知った時、私は現時点で原油の流出を止める技術的に可能な方法がなく、打つべき手がなくなっていることに気付きました。効果の程も分からないのに、ある程度の放射能汚染が確実な方法を選択することなど、普通ではありえないからです。というわけで、6月末日の今日もまた、日量2万バーレルの原油が流出を続けているのです。8月には流出量が減るだろうというのは、その時期には噴出量が少なくなるであろうという、希望的観測に立った見方で、具体的な根拠のある主張ではないのです。この稿を閉じる前に、英系メジャーであるBPの事故に対する、世論の動向を見ておこうと思います。 続く
2010.06.30
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19世紀のアメリカ(56) 第2章 明白なる天命…17 ジャクソンは、ミシシッピー以東の地から、全てのインディアンを追放しようとしていたのです。ジャクソンはインディアンに対し、口では「私は諸君を欺くつもりはない。私は諸君の福祉を心から願っている」と語りながら、有無を言わさず、ミシシッピー以西の地へと、彼らを追い立てようとしたのです。「白人と一緒では、先住民は文明化できない。だから白人の住んでいない地で、インディアンの文明化を進める」というのが、ジャクソンの論理でした。しかし、この論理は間違っていました。ジャクソンの論理が、どれだけ不公正で間違ったものだったかは、チェロキー族の運命を見ると、実に良く分かります。チェロキー族は、ジョージア州ばかりか、ノースカロライナ州やテネシー州のかけての、幅ひろい地域に住んでいました。そしてジョージア州に住むチェロキー族は、白人と同じく定住農業を営むようになっていたのです。元々チェロキー族は狩猟で生活を立てていたのですが、白人の暮らしに同化する道を選び、苦心の末に定住農業で生活できるだけの、農業技術を自らのものにしていたのです。さらにチェロキー族は、英語のアルファベットを参考にして自らの文字を作り、学校や教会、印刷所を置くなど、白人の言う文明をまで持ち、1827年には、合衆国憲法に習った独自の憲法を制定して、主権国家であることを宣言するまでになっていたのです。証拠の品というわけではないのですが、下に掲げたのが、チェロキー族のアルファベットです。チェロキー族は、内部をまとめて、自らの慣れ親しんだ生活を改め、西洋文明や米国の体制に順応するという、苦渋の選択を実行して、苦心の末に文明化を果たしていたのです。ここに「野蛮」を追放して「文明」を普及させるためには、白人が居住地を広げる必要があるという、ジャクソンの主張は、少なくともチェロキー族には通用しなかったのです。それでもジャクソンは、こうした現実を無視して、1830年強引に「インディアン強制移住法」を可決成立させたのです。議会の主流もまた、ジャクソンに習って、「インディアンは文明社会と接触して生活できたり、繁栄したり出来る存在ではない」との考えを捨てなかったのです。もっと単純に、「土地はインディアンが耕すためにあるのではない。土地を耕す権利は白人だけに許されているのだ」と主張して恥じない人々も多かったのです。 続く
2010.06.30
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クロニクル 村山内閣発足1994(平成6)年6月30日16年前ですか。この日自民・社会・さきがけ3党による連立内閣として、村山富一内閣が発足しました。戦後の混乱期だった1947(昭和22)年の片山内閣以来、実に47年振りの社会党首班内閣の誕生でした。村山内閣は、河野洋平自民党総裁を副総理兼外相に、武村正義さきがけ代表を蔵相に配する内閣でしたが、95年年末に、住専処理に6千億円強の税金を注ぎ込む決定を下したことで、世論の批判を浴び、村山内閣は1996年1月総辞職するに至りました。閑話休題日本代表惜しかったですね。勝つチャンスは、延長後のPK戦しかないだろうと見ていたのですが、さすが南米のチーム、1本も外さなかったですね。前後半合わせて30分の延長も含め、120分以上を0封し、疲れきった川嶋キーパーに、相手PKを止めるカンは、さすがに残っていなかったですね。でも、良く頑張りました。拍手を送ります。
2010.06.30
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オバマ政権の危機(7) 指摘した通り、ルイジアナ沖のBPの深海油田の原油流出は、現在のところ対応策は全て失敗に終わり、事実上垂れ流しの状態にあります。その結果が1日2万バーレルに及ぶ大流出です。この流出を止める方法はあるのでしょうか、ブログ仲間のkopandaさんにお尋ねしたところ、彼は大略以下のようなお返事をくださいました。「BPの事故は、情報を十分に得ていません。 分かるのは初期のトップキルという埋め立てによる流出防止が失敗したこと。1600mの深海で噴出するガスや油を止めようとするのですから当然無理に思えますが、トップキルはほぼ唯一の方法であったこと。」「トップキルが失敗すると次の手はなく、吸出しによる方法に切り替えたものの、噴出で管が破れていて、わずかしか吸い上げられないこと。管の亀裂をふさぐにも、深海ではままならないことなどが原因と思われます。要するに、止める手はなく、噴出が弱まる8月ごろまでは続きそうです。」「事故の原因には事前のガスの調査が不十分だったことがあると聞いています。」「事故の原因は人災、その後の対策が遅れている原因は、海底油断開発自体が事故に対してなすすべのない、技術的に未完成なものだったことがあるかと思います。」ブログの文章から、慎重で誠実なお人柄と拝察するkopandaさんらしい表現に籠められた、無謀な開発による、自然破壊や人的被害に対して、何も出来ないもどかしさが、十分に伝わってきます。ネットで検索してもいずれも対策はなく、流出は最短でも8月までは続くだろうと言う点で、一致しています。こうした専門家の発言を追っていると、事故が起きた際に、実施可能な対策がないかもしれないことは、十分にわかっていたことは、疑う余地がありません。それにもかかわらず、利益に目がくらんだBPは、開発許可の取得に走り、オバマ政権もまた、開発の危険性を十分に時間をかけて吟味することなく、開発にゴーサインを出していたことが読み取れます。BPは勿論、オバマ政権もまた、この事故の責任は取らなければならない立場にあるように思います。
2010.06.29
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三豊百貨店の倒壊クロニクルに記した「三豊百貨店の倒壊」は、手抜き工事などという生易しい言い方では、正確な表現にならないほどの、いい加減な工事に原因がありました。1995年の当時、94年10月の聖水大橋崩落事故(ソウル市内)や95年4月の大邱市の地下鉄工事現場ガス爆発事故など、大型の建築災害が続いており、一時は「北朝鮮」による破壊工作との噂が、まことしやかに囁かれもしたのですが、いずれも施工業者や施主による手抜きに原因があることが分かり、事故翌月の95年7月には、「災難管理法」が成立することになりました。ところで三豊百貨店の工事は、当初は地上4階地下4階のオフィスビルとする予定で、宇成建設が三豊百貨店の親会社から受注したものです。ところが基礎工事の段階で、施主側が4階建てのオフィスビルから、5階建てのデパートへの設計変更を要求し、柱の強度からして5階部分の荷重に耐えられないとして変更に反対する宇成建設と揉め、基礎工事終了の時点で、宇成建設との契約を解除したのです。その後工事を請け負ったのは、三豊百貨店の親会社に当たる三豊建設でした。こうなれば、グループ創業者の意のままに、工事は進みます。先ずは火災予防の観点から、売り場に防火シャッターを設置するため、ビル中央部の柱を4分の1分取り除きました。また店の中央部分に、エスカレーターを設置するため、吹き抜け構造を作り、その部分の柱をここでも25%程度削っていたのです。 そこへ、計画になかった5階部分の継ぎ足しが行なわれます、この部分に使用されたコンクリートだけで3千トンに達していたことが、明らかにされています。その上、屋上に80トンの給水タンクが設置されています。総重量87トンの大型冷房装置も、屋上に取り付けられました。明らかに重量オーバーです。良くぞ5年以上も持ちこたえたというべきでしょうか。事故の前日6月28日に、5階の従業員が天井のひび割れに気付き、翌朝にはひび割れが大きくなっていたために、上司に報告しています。報告を受けた経営陣は、緊急会議を開きますが、この間も臨時休業を選択する意志は見せませんでした。社長に呼ばれた三豊建設の建築士は、閉店後の補強工事で大丈夫と楽観的な見通しを報告しました。以上がおよその事故までの流れです。明らかな人災でした。この結果、施行にあたった三豊建設だけでなく、三豊百貨店の経営陣も業務上過失致死傷害罪で逮捕され、懲役の判決を受けました。最高責任者の会長は、懲役7年8ヵ月、全財産没収の判決を受け、2003年に獄中で死亡しています。またソウル市長が、三豊側から賄賂を受け取り、建築申請を厳しく審査しなかったとして、これまた逮捕されています。事故による補償総額は約4000億ウォン(日本円で約550億円)に及びました。
2010.06.29
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クロニクル ソウルの百貨店倒壊す1995(平成7)年6月29日15年前のことです。この日の午後5時55分頃のことでした(ちなみに、日本時間と韓国時間には、時差はありません)。6年前の1989年に開業したばかりの、韓国の新興デパート三豊百貨店で、大惨事が起きたのです。特に地震があったわけでもありません。それなのに、ソウルの中心街にある5階たての三豊百貨店の半分が、轟音を発して崩れ落ちたのです。死者502人・負傷者937名・行方不明者5名という世界的にも珍しい大惨事でした。その後現場はしばらく空き地のままでしたが、現在は高級マンションとなっています。
2010.06.29
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オバマ政権の危機(6) さらにBP社は、掘削時に油井に溜まった泥を、循環させる作業も適切に実施しなかったことまで、暴露されました。当然油井の底に泥が残りますから、ガスや堆積物を吸収して、油井の土台部分のセメントの強度が、さらに弱くなりました。『ワシントン・ポスト』は、油井の全ての泥を循環させるには、6~12時間を要するのに、BPはこの作業を、4月19日(事故の前日です)に僅か30分行なっただけだったと、報じています。こうした手抜きや短縮の背景として、指定されているのは、工期が1日伸びることによって、BPには日に100万ドルの経費が発生することが指摘されています。この経費は、リグのリース料や請負会社への支払いに当たるものです。事故によって発生した損害や、対策経費を考えれば、1日100万ドル程度の出費は微々たるものです。それを惜しんだツケはあまりにも大きかったと、言うべきでしょうか。未知の深海にメスを入れるにしては、BPはあまりにも慎重さを欠き、自然を甘く見すぎたと言わざるを得ないようです。 続く
2010.06.28
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19世紀のアメリカ(55) 第2章 明白なる天命…16 良心的な白人は、インディアンの土地所有権を認め、彼らは米国内に副次的国家を現に構成しているし、構成する権利も持っていると考え、そのように主張しました。しかし、彼らは少数派でした。白人の多くは、インディアンには国家を構成し、かつ運営する力はないし、彼らの教化は、どこか遠くで、白人と隔離して行なうことが適当だと考えていたのです。1823年のことですが、ジョン・マーシャル最高裁長官は、インディアン諸部族の組織を、「米国内の従属国家」であると認め、彼らの土地所有権を正当なものであると、認めたのです。しかし、この最高裁の決定を、政府は尊重しなかったのです。当然各州政府も最高裁の判決を尊重せず、インディアンの権利を無視して、彼らの土地を奪い続けたのです。1825年のジョージア州には、なおクリーク族とチェロキー族のの2部族が住み着いていました。州政府は、まずクリーク族に圧力を加え、1827年には、クリーク族に土地の放棄を認めさせたのです。次いで、チェロキー族に対しても、新しい州法に従うことを要求したのです。この州法は、1830年6月1日以降、州内のインディアンの主権国家形成を認めない。土地所有権も認めないとするものでした。ジョージアに続いて、ミシシッピーとアラバマの2州が同じ内容の州法を制定しました。インディアンは、耕作地を放棄して、ミシsッピー川以西の地に、移住することを迫られたのです。そして、1928年の大統領選挙に勝利したジャクソン大統領は、これら3州の州法を妥当なものと認めたのです。そして連邦議会は、1830年3月10日、悪名高い「インディアン強制移住法」を可決成立させたのです。 続く
2010.06.28
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クロニクル サラエヴォ事件1914(大正3)年6月28日96年前のことになります。この日、ボスニアの首都サラエヴォで、オーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と妃のゾフィーが、ボスニア独立を支援するセルビアの秘密結社に属する青年の凶弾に倒れました。奇しくもこの日は、大公夫妻の14回目の結婚記念日に当たっていました。これは不幸な事件でした。しかし、この日の時点で、この事件が4年数ヶ月に及ぶ、ヨーロッパの大戦争、未曾有の長期戦、そして総力戦の原因となるとは、誰も気づいてはいませんでした。
2010.06.28
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皆さん、今晩は。夏の行事の打ち合わせや、参院選の事務担当者と10月1日の国勢調査の調査員の選任など、いくつかの会合をこなしている間に、30万ヒットを報せる楽天からのメールが届いておりました。2006年の10月2日に、「今日は何の日シリーズ」として、いつまで続くかと思いながらはじめたこのブログも、常連になってくださった皆様に支えられながら、いつの間にか3年と9ヶ月になろうとしています。内容の固いブログですから、こんなに多くの方に訪れていただけるとは、思いもしませんでしたので、有り難いことと皆様に感謝しております。どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。ところで、、ブログを開いてみましたら、有り難いことに300043にとなっておりましたので、履歴を確認しましたところ、以下のようになっていました。3000032010-06-27 16:40:25摂チャンさん 3000022010-06-27 16:36:36***.yahoo.net 3000012010-06-27 16:33:0761.127.*.* 3000002010-06-27 16:28:26*.ocn.ne.jp 2999992010-06-27 16:23:46ポンちゃん50さん 2999982010-06-27 16:23:4261.127.*.* 2999972010-06-27 16:23:25*.dti.ne.jp ピタリの方はいらっしゃらなかったのですが、常連のポンちゃんがニアピン賞、同じく常連の摂さんが、近いデ賞に輝かれました。お2人とも、昨年末のイ「ラクの小児ガンの子ども達に愛の手を…」のチョコ募金に協力してくださった方です。近くお2人に、お好きそうなお菓子でもお届けしようと考えています。気長にお待ち下さい。有り難うございました。
2010.06.27
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オバマ政権の危機(5)BP社が掘削中の深海の油田掘削施設は、「ディープウォーター・ホライズン」と呼ばれていました。この施設の事故はなぜ起きたのでしょうか。事故の発生は防がなかったのでしょうか。そして、事故の封じ込めはなぜ出来なかったのでしょうか。答えのある問も、ない問も織り交ぜると、こんな疑問が湧いてきます。そうした問題に入る以前に、深海油田の掘削を担当したBP社の危機管理が万全であったか否かが問題になります。アメリカでは、企業が起した事故に対して、米政府や州政府の定める基準に従って行動した結果の事故に対しては、損害賠償を請求できる上限が、定められています。そこから先の損害については、政府や州の規制の手落ちとして国や自治体が負担するのです。今回の事故はどうでしょうか。BP社の内部から、特に技術系の社員から、経営幹部の責任を問う内部告発が、ほぼ連日のように寄せられているのです。連日1面トップを、事故の記事が占めていると指摘しましたが、昨今は内部告発合戦の様相すら呈しています。ここにTV局やラジオ局、さらには地方紙まで加わっての報道合戦が続いているのです。議会もこうした記事を集め、関係者から事情も聞いている模様です。以下に、代表的な告発を2,3記します。下院のエネルギー・商業委員会が6月14日に発表したニュースは衝撃的でした。爆発事故の6日前、4月14日にBP社のエンジニアが、社内の友人に宛てた電子メールで、「この油田は悪夢だ。近く大きな事故が起きても、何の不思議もない」と記していたことを、公表したのです。このメールが明らかにしたことは、経費削減の目的で、安全性を犠牲にする決定が、いくつも行なわれていたという事実です。昨年のことです。BP社のエンジニア、ブリアン・モレル氏は、万一の事故を憂慮して、経営幹部に対して、「ガスがパイプから吹き上がり、場合によっては爆発する事態を防ぐために、油井の周囲に「ライナー」と呼ばれる、被覆をするよう求める提案をしました。4月上旬に、モレル氏が指摘したようなガスの噴出があり、掘削施設での作業が一時的に中止される事態が起きました。それでもBP社の経営陣は、ライナーの設置に必要な7百万ドル~1千万ドルの追加経費の支出を惜しんで、ライナーを設置しない選択をしていました。他方、油井縦坑のセメント工事を担当していたハリバートン社(米国の会社です)は、油井の中央に通す鋼管の位置を決めるための「センタリング装置」を、21機使う必要があると、BP社に提案していました。鋼管の位置が中央からずれると、セメントの硬化速度が場所によって異なり、隙間や溝が出来るために、構造が脆くなって、失敗する可能性が高くなるからです。しかし、BP社は、ハリバートン社の提案を無視し、センタリング装置は6機しか使わなかったのです。掘削施設に対する、4月中旬の報告書には、「セメント工事が成功したとは考え難い」と記されています。しかし、ここでもBP社の経営幹部は、なお工期の短縮を強行しました。あろうことか、セメントが確実に固まっているかどうかを、1日かけて評価する「セメントボンド検層」の実施を拒否したのです。検査と評価のために「ディープウォーター・ホライズン」に派遣された作業員は、作業することなく追い返されたのです。内部告発は、なお続きます。 続く
2010.06.27
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クロニクル 世界最初のATM設置1967(昭和42)年6月27日残念ながら日本での出来事ではありません。43年前の今日、ロンドンのバークレー銀行が、世界ではじめて、ATMを店頭に設置したのです。その後の普及振り、凄いものですね。
2010.06.27
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19世紀のアメリカ(54) 第2章 明白なる天命...15 ジャクソンは、西部開拓の推進こそが、連邦としての合衆国を維持する最良の手段であると考え、そのための環境整備を進めたのです。白人の進出していない平地は、形式的に合衆国の公有地であるとしても、実質的には先住民インディアンの土地でした。ですから、白人が進出するための環境整備とは、インディアンの土地からインディアンを追いたて。奪い取ることにほかなりませんでした。ジャクソンの時代は、確かに白人の民主主義は大いに進みました。初等教育の進展に果たした彼の役割も、確かに大きいです。しかし、ジャクソンはインディアンの権利は無視し、蹂躙することに関しては、何の躊躇もしませんでした。アメリカの「建国の父」たちとその世代は、建前としては、インディアンの各部族を「ネーション(国家)」として認めていました。それゆえ、土地利用については、互いの合意の基づいて、条約を結んでいました。領土の拡大も条約を通じて行なうのが望ましいと考えていました。しかし、1819年の武力によるフロリダの獲得に態度の硬化した南部のインディアンは、今後白人には土地を売らないと、宣言したのです。困った白人の対応は、ここから二つに割れたのです。 続く
2010.06.26
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オバマ政権の危機(4)昨年、2009年に、BP社は1590万ドル以上の費用を、アメリカ議会に対するロビー活動に支出していると、ニューヨークタイムズをはじめとする米紙が報じています。米国では、こうした金額は公表されていますから、この数字に間違いはありません。14億円以上の費用が、米議会への工作費として使われているのです。しかもその大部分は、BP社と民主党との特別な関係からして、民主党議員に流れているとの推測が、容易に成り立ちます。共和党に強い米系石油メジャーのロビー活動を含め、海底油田の開発規制を、次々に骨抜きにしてきたのは、まさに、こうした活動があったからです。そして、BP社は、今回ほどではないのですが、過去に何度か大きな事故を起しています。2005年のテキサス製油所爆発事故は、15人が死亡、180人が負傷、43000人が避難する大惨事となりました。事態を重く見た環境保護局(EPA)は、BP社の担当者と幹部の刑事責任を追求したのですが、議会の反発に押し切られて、僅かに5千万ドルの罰金で、事はうやむやにされました。2006年に2度起した、アラスカのパイプライン事故でも同じ事が起きました。EPAは、BP社のパイプラインの腐食が原因として、BP社の環境責任を問題としたのですが、やはり議会の猛反発に遭い、これまた僅かに2千万ドルの罰金で済まされたのです。ちなみにBP社は100億ドルを大きく超える利益を上げているのです。多額の献金で多くの議員に働きかけ、企業としての自己利益を実現する。まさに政商とも言うべき姿が、そこにはあります。オバマ政権もまた、今回の事故の広がりを正確に認識するまでは、このBP社の術中に嵌まっていたといえましょう。 続く
2010.06.26
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クロニクル 第13回参院選行なわれる1983(昭和58)年6月26日 27年前のこの日、第13回参議院議員選挙が投票日を迎えました。この日の投票から、全国区がなくなり、替わって拘束名簿式の比例代表ドント式による投票が」実施されました。
2010.06.26
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オバマ政権の危機(3)そして、4月20日に深海の掘削現場で爆発事故が起きた時も。なおBP社への盲目的信頼を持ち続けていたオバマ大統領は、事故はたいした事はない、すぐに収まるというBP社の言い分を信じて、同社の発表をそのまま鵜呑みにして政府見解とするという、初歩的なミスを犯しているのです。オバマ大統領は、当初「原油の流出量は1日1千バーレル程度」と発表し、「爆発事故による死亡者はなく、行方不明者を捜索中である」とコメントしています。しかし、実際には、BP社が行方不明者とした人たちは、爆発事故で即死に近い状態で死亡した死者であることが、間もなく明らかになります。しかも、原油の流出量も、4月末には、その7倍の7千バーレルに訂正されたのです。大統領の当初の発表が、BP社の発表を鵜呑みにしただけの、何の根拠もない希望的観測に過ぎなかったことが、明らかになってしまったのです。そして現在、1日当りの原油流出量は、2万バーレルに迫っているのです。この数字は、アメリカ環境局が調査結果に基ずいて、5月31日に発表した19,950バーレルを指しています。さて、BP社です。当初はノンビリ構えて、事故を軽視していたのですが、さすがにここに来て、ことの重大性に気付き始めたようです。同社のCEOは、当初「原油の流出など対したことではない。広い海が、すぐに原油を攪拌してしまうであろう」と、まるで人事のような、ノータンキなコメントを残していたのです。かつて、2005年に起したテキサスの製油所爆発事故、そして2006年に起した2度にわたるアラスカでのパイプライン事故と同じように、鼻薬をタップリと効かした議員たちが、今回も上手く事を処理してくれると期待したのでしょう。しかし、今度ばかりは、そうな問屋がおろさなかったのです。明日は、BP社と民主党の関係に、もう少し立ち入ってみたいと思います。 続く
2010.06.25
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クロニクル 最初の馬車鉄道開業1882(明治15)年6月25日128年前の今日のことです。日本最初の馬車鉄道、東京馬車鉄道が、この日新橋~日本橋間で開業しました。1872(明治5)年に開業した新橋~横浜間の蒸気鉄道に遅れること10年でした。馬車鉄道は、馬が線路の上を走る客車を引く鉄道です。普通の馬車に比べて乗り心地がよく輸送力も大きいことから、ヨーロッパでも都市内の輸送機関として、広く普及していました。このため日本でも、東京馬車鉄道の成功を見て、沖縄から北海道まで全国に広まってい行きました。都市内の軌道は、比較的安価な費用で引くことが出来たことも追風になりました。しかし、電気が普及して電車が登場するようになると、糞尿や餌の問題がない事もあって、急速に取って代わられ、馬車鉄道は衰退の道を辿りました。東京馬車鉄道も1903(明治36)年には電化され、東京電車鉄道となりました。さて、この馬車鉄道、現在でも下記の2ヶ所で、観光用に運行されています。一つめは北海道にある野幌森林公園にある「北海道開拓の村」です。ここでは馬車鉄道が夏季限定という形で運行されています。二つ目は、岩手県の小岩井農場内にある「まきば園」で、同様に観光客向けに、馬車鉄道が運行されています。
2010.06.25
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19世紀のアメリカ(53) 第2章 明白なる天命…14 第二合衆国銀行は、州法銀行券に正貨との交換を義務付けました。その結果第二合衆国銀行は、全国規模で、通貨の流通量を規制する権限を入手したのです。しかし、強力な権能を有する中央銀行の存在は、州の自治権を至高のもの捕える人々にとって、これは連邦政府権限の肥大化を意味しました。他方で、連邦政府の強化派は、通貨の規制を州政府に任せた場合、「州法銀行は、正貨と交換できない多様な紙幣(=銀行券)を発行する危険が生じる。通貨に対する管理規制権限は、あくまで連邦政府の管掌事項である」と主張しました。こうした対立のなかで、ジャクソン大統領は、1936年に20年間の免許期間が過ぎ、免許の更新が必要となった時に、免許の更新を議会に要請しないと言い出したのです。ジャクソンは連邦権限の拡大に歯止めをかけ、これ以上連邦の権限拡大を臨まないことを明らかにするために、懸案である第二国立銀行の免許更新問題を持ち出し、その更新を求めないことを明確にしたのです。通貨価値を維持することは、各国中央銀行の最重要のテーマです。そしてその中央銀行の仕事に裏で協力することが、中央政府の任務になります。アメリカ合衆国は、ともすれば分裂に傾きがちな連邦政府を維持するために、この通貨価値の維持という最重要の仕事を、州政府に委ねる決定をしたのです。ジャクソンは連邦権限の強化を自制し、本来連邦の権限に委ねられるべき業務さえ、州に分与する決断を下して、連邦の維持を保とうとしたのです。そのジャクソンが連邦制の維持のために、譲れぬ一線としたのが、ミシシッピー川以東における先住民の土地を没収し、白人の土地とするという、インディアンの土地を力で奪取することでした。 続く
2010.06.24
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オバマ政権の危機(2) ルイジアナ州の沖合いに当たる、メキシコ湾内の深海の石油掘削施設の爆発が報じられたのは、、4月20日のことでした。水深1500mを超える深海油田が起した事故ですから、即座に応急修理を施して、原油の流出を止めることは、到底出来ません。文系人間の私は、事態を飲み込むのに少々時間を要してしまったのですが、ブログ仲間のkopandaさんに教えを仰いだり、その道にお詳しい方の書かれたものを拝見したりして、どうやら、恐れていた事態が現実になったと、表現することが正しいようだと、やっと気付いたところです。この油田の開発を担当したのは、今や日本の新聞でも名前を知られた、英系メジャーのBP社です。まず、ここに注目してください。石油メジャーといえば、何も英系のBPを持ってこなくても、米系メジャーがいくつもあります。それなのに、オバマ大統領は就任後間もなくBP社に開発許可を出したのです。皆さんもご存知の通り、米系メジャーはブッシュのイラク戦争を諸手を挙げて支持しました。イラクの油田を思い通りに開発して、ボロ儲けをしようとブッシュの戦争に加担したのです。そうなんです。米系メジャーは、いずれもブッシュ共和党への多額献金で知られるオバマの政敵ともいえる存在だったのです。それに対してBPは違っていました。石油メジャーでただ1社、熱心なオバマ支持者であり、民主党支持の常連だったのです。2008年の大統領選挙でオバマ陣営の集めた政治献金については、ネットを通じて応募した小口献金が、マスコミで話題となり、大口献金のニュースはかき消されてしまったのですが、実はこのBP社こそ、オバマ陣営への最大の献金者だったのです。そこから見えてくる事実もあります。ルイジアナ沖の1500mを超える深海の油田が見つかったのは、実は昨年2009年のことです。発見されたばかりなのに、就任したばかりのオバマ大統領は、時間をかけて慎重に技術的安全性を検討したり、環境影響調査を行なうこともせず、半ばBP社の主張を丸呑みする形で、海底油田掘削を許可したのです。BP社は、これほどの深海ではありませんが、2005年にテキサスで爆発事故を、2006年にはアラスカでパイプライン事故を起こしているのですが、その反省を生かして最新の安全設備を導入したので、原油漏れによる海中汚染の確率は、「原子力発電所の事故よりもはるかにリスクが低い」と、世界各地で宣伝これ努めていたのです。民間の一企業の私的な調査結果と研究結果を、第三者の公平な判断を待たずに、オバマは一方的に信頼したのです。ここに自身の政治活動に対する最大の支援者に対する盲目的な信頼感が働かなかったと言い切れるでしょうか。今、アメリカでは、オバマとBP社の特別な関係についての報道もいくつも出てきています。オバマ大統領にとっては、難題が続いているのですが、この問題にはなお続きがあります。 続く
2010.06.24
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クロニクル IOCオリンピックの開催を4年に1回と決定1894(明治27)年6月24日116年前の今日ですね。この年、近代オリンピックの開催を提唱し、オリンピックによって世界の平和を実現しようというクーベルタン男爵の熱心な訴えによって、オリンピック実施の大元の組織として、IOC(国際オリンピック委員会)が創設されました。第1回大会を、2年後の1896年にギリシアのアテネで開くことは、早くに決まったのですが、この日の会合で、その後のオリンピックの開催間隔を4年とし、1900年に第2回大会を開くこと、以後も1904年、08年、12年と4年に1回の大会とすることが、決められました。
2010.06.24
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オバマ政権の危機(1)9時過ぎに、この標題の一文を、アップしようとしたところ、PCの調子か、送信されずに行方不明となりましたので、ケチのついた一文は削除して、先ずは別の角度から…日本での報道は、欧米に比べ大きく遅れをとりましたが、4月20日に発生したルイジアナ沖の1500メートル超の深海の油田掘削事故が、次第にオバマ政権にとって大きな重荷になってきています。そして今日の朝刊に、、アフガニスタン駐留米軍のマクリスタル司令官が、激しくオバマ政権を攻撃して、召還されることになった旨が、報じられていました。日本でお馴染みのトルーマン大統領による、マッカーサー将軍の解任を始め、米国では軍人による政権批判や不服従は、ただちに解任に繋がるのが普通です。マクリスタルの政権批判は、「ここまで言うか?」という激しさでしたから、本国召還、大統領面談後の解任は、動かしがたい所でしょう。これで、オバマ政権誕生後のアフガニスタン駐留米軍司令官の解任は2人目になります。これは、オバマ政権によるアフガン介入強化策が、3万人の増派にも関わらず、必ずしもうまく行っていないことを、明らかに示したように見えました。司令官の発言は、解任を覚悟してのものと思える激しいものですから、帰国後米メディアに何を語るかによっては、アフガン戦争に対する国民の不満が、一挙に火を噴くことになるかもしれません。ルイジアナの深海油田の掘削中の事故、及び政権の対応についても、様々な問題が指摘されています。果たしてオバマ政権は立ち直ることが出来るのか? 大きな岐路に立たされているように思えてなりません。オバマ政権、秋の中間選挙に向けての反転攻勢に出るどころか、政権にとっての大きな危機を迎えたようです、 続く
2010.06.23
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19世紀のアメリカ(52) 第2章 明白なる天命…13 現在の日本では、グリーンスパンやバーナンキの名前と共に、アメリカで中央銀行の役割を果たしているFRB(連邦準備制度理事会)の存在も、かなり知られてきています。日本銀行やイングランド銀行などのように…ところで、このFRBですが、設立は何とウィルソン大統領時代の1913年、何と第一次世界大戦勃発の前年のことでした。そのイキサツはこうです。1907年のことです。当時不況に陥っていたアメリカ経済の先行きを危ぶんだイギリスの銀行が、米国の銀行が発行した手形の割引を拒否する事件が起きました。即ち当時中央銀行を持たない米国の通貨の安定性に、疑問符が突きつけられたのです。この危機的状態を打開するには、中央銀行の機能を持つ銀行を創出することが欠かせません。これだけ事情がはっきりしながら、なお、FRBの創設には1913年までの7年を要したのです。アメリカという国では、いかに州の権限が強かったかが良くわかるエピソードなのです。FRBの構成など、語りだすと興味深い話はいくらでもあるのですが、それはまたの機会ということにします。実はFRB以前に、アメリカに中央銀行がなかったのかというとそうではないのです。2度、出来ているのですが、2度とも存続期間20年で消滅の憂き目を見ているのです。昨日予告した第二合衆国銀行は、その2回目の試みだったのです。アメリカ合衆国建国の当初、財務長官ハミルトンの献身的な努力で、1791年に第一合衆国銀行が誕生しました。しかし、州の銀行の貨幣発行権が制約されることを恐れた反対派との妥協で、この銀行の免許期間は20年に制限されたのです。その後は再度議会で審議するという条件で…そして、1911年の免許期間の更新時、議会はその更新を拒否したのです。その結果、アメリカは中央銀行を持たない国に逆戻りしたのです。中央銀行反対派はしてやったりの気分だったでしょうね。しかし、その喜びは長く続きませんでした。第1章に記した米英戦争の勃発によって、大量の戦費の捻出が課題となったのです。開戦の興奮の中で戦債の発行はスムーズに進んだのですが、戦後の償還が難題でした。当然各州で濫発された紙幣のダブツキで、猛烈な勢いでインフレが進み、中央政府や州政府の財政は破綻状態に陥ってしまいます。背に腹は変えられない状態のなかで、1816年マディソン大統領の提案した第二合衆国銀行の設立が認められたのです。やはり免許は20年間でした。1817年1月に業務を開始した第二合衆国銀行は、資本金2500万ドル、その20%500万ドルを連邦政府が出資しました。銀行は、この資本金を基礎に紙幣の発行権を持ち、連邦政府の歳入を預金として受け入れ、全国に25の支店網を持つ、中央銀行としてスタートしたのです。また第二合衆国銀行は、州法によって認可された州法銀行に対し、州の発行した銀行券(州法銀行券と呼びます。日本流に言うと、まるで藩札です)を預金として引き受ける場合、正貨との交換を求める権限を持っていました。州政府の設置許可で開業した州法銀行は、正貨交換を義務付けられたことで、通貨の気まぐれな発行に、枠をはめられてしまったのです。こうして1817年1月にスタートした第二合衆国銀行は、インフレ退治という使命を担った分、第一合衆国銀行に比べて、かなり広範な権限をもって、スタートしたのです。 続く
2010.06.23
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クロニクル 昭和新山誕生1944(昭和19)年6月23日66年前になるのですね。この日、北海道有珠郡壮瞥町の有珠山の東麓にあたる畑地が噴火、溶岩が堆積して標高398mの昭和新山が誕生しました。7年後の1951年には、国指定の特別天然記念物に指定されましたが、温度の低下や侵食などになどによって、年々高さが縮んでいるいることが、気にされ始めています。
2010.06.23
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政治を斬る(112) 菅内閣は、財政再建路線の1歩舵をきったように見えますが、増税と景気刺激の両面作戦をひこうというのでしょうか、大きな政府路線は下ろそうとしていません。大きな政府路線と、財政再建を同時に進めようというのは、大変困難な作戦のように思います。景気刺激策で経済を刺激に、まず税収増を図る。増税は、タバコ税や酒税の引き上げ、贅沢税の導入、そして、消費税導入時に実施した金持ち優遇の累進税率の緩和の再検討。これらを先ず、実施してみてはどうなのでしょうか。一定額までの住宅を除く高額商品の消費税率を、例えば10万円以上の商品に限って、10%アップするなどです。累進税率の緩和で、所得税の最高税率は大きく下がっているのですが、下げるべきは、低所得者向けの税率であって、火事場泥棒的に自民党政府が下げてしまった高額所得者向けの税率緩和は、そおまま維持する必要がないように思います。そうした、やるべき対策をやりつくした上で、最後に消費増税という手を打つべきではないのでしょうか。手順を間違えると、景気刺激は出来ず、足腰の弱っている日本経済は、12年前の橋本内閣の政策と同じような、大きな経済失政として、自分の内閣を吹っ飛ばすことになりかねないように、思うのです。橋本内閣の躓きの当時、菅首相は民主党代表として対峙していました。その失敗の記憶は、首相の記憶の中に、鮮明に残っているものと思います。「金融危機を政局にしない」と言って、政権獲得のチャンスを逃した時の前後ですから、よもやお忘れではないでしょう。政策実行の順番を間違えないことを期待しています。 ザビ
2010.06.22
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19世紀のアメリカ(51) 第2章 明白なる天命…12奴隷制を巡って、南北の対立が顕在化する中、1828年の大統領選挙に勝利したのは、米英戦争とその後の第一次セミノール戦争を戦い、名声を獲得した軍人出身のアンドルー・ジャクソンでした。ジャクソンは、1929年~37年まで2期8年間大統領を務め、ジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれる一時期を築いた大統領です。彼の時代に、大統領予備選の導入と党大会による大統領候補の選出が制度化され、また男子普通選挙制が導入されていなかった州への、普通選挙制の導入などが、推進されました。一方でジャクソンは、西部開拓の進展による連邦の拡大という現実の中で、建国当初には顕著に存在した連邦制への結集力が、次第に弱まっていくという現実に直面していました。戦後も60年以上が経過した現代日本で、あれだけ強固だった反戦・平和の意思表示も、若い世代を中心にいつの間にか弱まってしまっている現実と、重ね合わせていただくと、よく理解できるように思います。そして、北部を中心とした工業化の進展も、社会的利害の多様化を齎していました。こうした地域利害の対立は、この時期セクショナリズムと表現され、政治の多元化が推し進められたのです。奴隷制度を巡る南北の緊張関係とは別に、開拓の進む西部地域にも、大きな不満がありました。それは西部諸州の公有地売却から生まれる連邦財源の多くが、公有地は関わりのない独立13州の振り分けられ、西部諸州の事業には、ごく僅かしか振り向けられない現実があったからです。このシステムが続く限り、西部諸州は独立13州と対等に扱われず、一段低い地位に留まり続けなければならないではないか。これが西部諸州の不満でした。ジャクソンは、こうした南北対立や東西対立を、連邦体制を分裂に導く危険を孕む問題と捉え、いかに分裂を回避し、連邦制度への求心力を回復するかを、大きな政治課題としたのです。彼にとって、独立13州に存在した様々な制度や決まりは、守るべき対象でした。その点で、南部の奴隷制度も守るべき対象だったのです。彼は、「連邦政府の行政権の及ぶ範囲を明確化すると同時に、その行政権の限界を示して、連邦の行政権の及ばない範囲を明確にする」と、約束したのです。ジャクソンは、連邦権限の拡大を目指さず、連邦権限を自制することで、連邦への求心力を維持しようとする、困難な道を選んだのです。こうしたジャクソンの政治姿勢を明確に示したのが、「第二合衆国銀行」を巡る問題でした。 続く
2010.06.22
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クロニクル 独ソ開戦1941(昭和16)年6月22日この日、ヒトラーのドイツ軍は、バルバロッサ作戦を開始、かねての計画通り、独ソ国境を越えて、ソ連軍への攻撃を開始しました。ソ連軍もこれに応戦、39年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻によって、始まった第二次世界大戦は、ここに独ソ開戦という新しい段階に入りました。しかし、ドイツ軍部は、ヒトラーのソ連侵攻計画には反対でした。西部戦線と東部戦線という2つの戦線を持つことを不安視したからでした。当時ドイツ軍はフランスを制圧、イギリスを空爆しつつ、イギリスを降伏させることに集中していたのですが、アメリカの支援を受けるイギリスは屈服しなかったのです。ヒトラーは、こう話して軍部を説得したのです。「地図の上からソ連を消してしまえば、それは極東における日本の力を増大させる。そうするとアメリカは、日本との戦いに忙殺され、イギリスへの支援など出来なくなるであろう。孤立したイギリスは、我がドイツに独力で抗戦するしかなく、その抵抗は長くは続けられないであろう」と。緒戦こそ、思惑通りの勝利を収めましたが、やがてソ連軍の反撃態勢が整い始めると、ドイツ軍は次第に防戦一方に追い込まれてゆくことになってゆきます。
2010.06.22
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政治を斬る(111)今週の木曜日、24日に参院選がスタートします。さて選挙の結果はどうなるのでしょうか。鳩山内閣の評判を悪くした政策の一つに、実質的な郵政再国有化政策がありました。これは、連立相手の国民新党に引きづられてのことに見えましたが、民主党内部にも旧社会党系を中心に、事実上の亀井応援団が色濃く存在していたようです。自治労と並んで官公労の中核を担ってきた旧全逓は、今でも連合の重要な一部をなしており、ここを基盤に当選してきた民主党議員が何人もいるからです。そして、この旧社会党系、旧民社党系の信頼が厚いのが、小沢前幹事長でした。菅首相が、本当に小沢離れを考えているのなら、参院選後に国民新党との連立を解消し、悪法中の悪法である、事実上の「郵政再国有化法案」を完全にお蔵入りにし、事情が変わったからとして、国民新党との約束を反故にする度量をもってもらいたいと、私は考えています。そして、細川内閣の国民福祉税8%構想の黒幕として、小沢前幹事長との太いパイプが公然と語られている、斉藤次郎日本郵政社長のクビを切ることです。彼こそは、究極の天下り人事で、復活した人物なのですから…。郵貯や簡保の資金を、政治が恣意的に使える体制は、なくさなければなりません。半官半民の経営が上手くいかないのは、日本航空のケースで十分分かるはずです。その郵政の貯金限度額を増やし、官製金融を残すことは、まだぞろ無駄な赤字を増やすだけです。国民新党との約束を破棄し、郵政の再国有化を阻止する決断を、私は菅内閣に期待したいと考えています。
2010.06.21
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19世紀のアメリカ(50) 第2章 明白なる天命…11 19世紀の最初の100数年間まで、合衆国の連邦政治のレヴェルに、奴隷制の問題が登場することはありませんでした。奴隷制度は南部に限定された制度として容認されていたのです。その問題が大きく浮上するきっかけになったのは、奴隷制度の西方への拡大という新しい事態が広がったからです。1819年ミズーリの開拓地を州に昇格させ、連邦に加えるという問題が、連邦議会に上程されました。その年まで、奴隷州(州憲法上、奴隷制度を認めている州)と自由州(奴隷制度を認めない州)は、同数で推移してきました。この時点では、双方11州の22州でした。奴隷制度が存在するミズーリを、そのまま州に昇格させた場合、奴隷州が12州となり、上院の票決では圧倒的に有利になります。この勢力配置を気にした議員の提案が、大きな波紋を呼んだのです。ニューヨーク州選出の上院議員が、ミズーリへの奴隷の移住を禁止し、奴隷制を最終的に廃止する旨を州憲法に明記しない限り、ミズーリの州昇格を認めないという、提案をしたのです。当然南部出身の上院議員は猛烈に反発しました。連邦議会がミズーリの奴隷制を阻止できるとするなら、今後自州の奴隷制度の維持すら危なくなる。彼らはこう考えました。激しい議論を展開しながら、対立する双方は、1820年ミズーリ協定と呼ばれる妥協に到達しました。そこで、決まったことは、ミズーリが奴隷州として連邦に参加することを認める代わりに、マサチューセッツ州の一部をメイン州として独立させ、双方バランスを12:12として保つことが1点。もう1点が、ミシシッピー川以西のミズーリを除くルイジアナ地域について、ミズーリ州の南の州境にあたる、北緯36度30分の線以北には、今後奴隷制を認めないという点でした。連邦議会は、1808年に奴隷貿易を禁じる法を制定した以外には、奴隷制に触れることを慎重に避けてきたのですが、西部開拓の進展がそうした対応の限界を露呈させたのです。ミズーリ協定の結果、確かにその後しばらくの間は、奴隷制度を巡る新たな問題の発生を防ぐことが出来ました。それは、良く出来た政治的妥協と言えました。しかし、ミズーリ協定は、明確に北緯36度30分以北に出来る、新たな開拓地については、奴隷制の存在を認めないとしていました。これは、合衆国憲法成立以後、連邦議会が奴隷制度を禁止することが出来るとした、最初の法的規制でした。北部と妥協したとはいえ、南部各地は、以後奴隷制度の防衛に、大変神経質になっていった原因は、ここにありました。 続く
2010.06.21
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クロニクル 本能寺の変1582年6月21日(天正10年6月2日)428年前の話ですが、大変有名な話です。この日、京都は本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣の明智光秀の謀反に遭い、自刃して49歳の生涯を閉じました。信長は時代を超える天才というべきか、時代の旧弊を次々に打破して新基軸を打ち出しており、今しばし長生きをして、改革を続けて欲しかったと、私は彼の死を惜しんでいます。光秀の行動については、諸説あり、未だに通説はありません。ただ、信長を討って、クーデタを成功させた後の光秀の行動を見ると、信長に比べていかにも凡庸というしかなく、主君と自分の器の違いも、しっかりとはかることも出来なかったのかと、あきれるばかりです。
2010.06.21
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政治を斬る(110) やみくもに法人税を下げるのではなく、最も効果的なポイントを下げるなり、無税にするなり、メリハリをつけることで、最大の効果を生み出すことが求められています。例えば、アジアの国々に比べ、利用航空会社に負担させている着陸料や空港使用料は、突出して高くなっています。それが日本の空港の利用減に繋がっています。赤字の空港を次々に作った行政のミスのツケが、こういう形で回ってきています。その結果、競争力を失うという悪循環に陥っています。港湾使用料や荷役についても、同じことが言えます。こうした割高な着陸料や使用料を是正するだけで、需要は伸びます。同じことは、投資減税の強化についてもいえます。外資が日本に進出する場合、例えば、今後10年間利益の半分には課税しないなどの、優遇税制をこうじると、外資の進出は増えます。国内産業は競争に不利になりますから、その業種については、特別措置をとって減税することで、不利益を防ぐことが可能です。「みんなの党」の山内議員が提案していましたが、沖縄を特区にしてシンガポール化する案も、大いに検討に値します。なすべきこと、出来ることは多いように思います。 続く
2010.06.20
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19世紀のアメリカ(49)第2章 明白なる天命…10ところで、米国の連邦法は、1808年の立法で、奴隷貿易の禁止を定めました。しかし、この法は、南部のプランターたちによって、無視されるケースが多く、密貿易が半ば公然と行なわれていました。それでも、西へと拡大するプランテーションの増加はやまず、奴隷人口は絶対的に不足する事態となったのです。ここに、背に腹は変えられない白人プランターは、奴隷の結婚を奨励し、奴隷の家族形成を認めて、奴隷不足に対応するようになりました。この事実は1820年以降、未成年奴隷の増加という事実が顕著になったことで、明らかとなりました。実際の奴隷人口を調べてみますと、1800年の奴隷総数約89万人は、1860年には15の奴隷州全体で、395万人へと急造したのです。このうち男性奴隷は198万人、女性奴隷は197万人と、ほぼ同数になっていたのです。一方で、1860年段階での南部の白人家族のうち、奴隷所有家族はおよそ40万家族と指摘されています。南部全体の白人家族の推計は、およそ160万家族とされていますから、奴隷所有世帯数は、およそ25%程度ということになります。さて、この奴隷所有世帯の間にも、大きな格差が存在していました。約400万人の奴隷を、40万世帯の奴隷所有世帯が均等に所有していたとすると、1世帯僅かに10人になってしまいます。こんなことはありえません。統計上、大規模奴隷所有者は、50人以上の奴隷所有者を指します。彼らは推計でおよそ1万世帯とされており、奴隷所有家族の2,5%程度を占めていたのです。当然、なかには500人を超える大量の黒人奴隷を抱える、巨大プランターもこの中に含まれるのです。それゆえ、こうした大プランターの対極には、所有奴隷5人以下といった、零細な奴隷所有者群が、広く存在していたことになります。この事実は、数人の奴隷を抱えるだけでも、奴隷労働を基軸とする綿花プランテーション経営が、ギリギリのところで成り立っていたことを示します。一般にプランターと呼ばれ、南部社会でそれなりの尊敬を集めたのは、少なくとも10人を超える奴隷を所有する農園主でした。それゆえ、その域に達しない奴隷所有者が多数存在したのですが、彼らは、いつの日かプランターと呼ばれる地位にのし上がることを夢見て、プランテーション社会の基底部を支えていたのです。これが当時の南部社会だったのです。 続く
2010.06.20
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クロニクル 富士通の誕生1935(昭和10)年6月20日ちょうど75年前ですね。富士通信機製造株式会社が、この日産声をあげました。同社は、富士電機製造株式会社(現富士電機ホールディングス)の電話部の業務を分離して誕生しました。3年後の1938(昭和13)年に、専用の新工場を建設して独立し、1965(昭和40)年には、資本関係も解消して完全に独立、1967(昭和42)年に、社名を現在の富士通に改め、今日に至っています。
2010.06.20
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政治を斬る(109) 菅内閣は、景気刺激策として、法人税の減税を掲げています。その理屈は、諸外国に比べ法人税率が高い、とりわけシンガポールなどに比べて高いので、企業の本社機構が、海外に流出して、日本で徴収できる法人税が減っていることをあげています。確かに数年前に話題となった「村上ファンド」は、本拠をシンガポールに移していましたね。その後どうしているのか知りませんが…。 しかし、この菅内閣の方針は正しいでしょうか。企業の利益が投資に周り、その投資が雇用を生み出し、賃金総額が増加して、消費も堅調に推移するなら、法人減税は確かに景気を刺激し、税収を押し上げる効果を発揮したと、言うことが出来ます。しかし、菅内閣の法人減税は、投資減税ではなく、一般的に税率を下げるだけです。下げた税金分が投資に回る保証などありません。中小企業が助かるはずだという議論もあるようですが、現実の中小企業の多くは、赤字を抱えながら、ようやく操業を維持している状況ですから、元々税金を払っていません。それゆえ、減税の恩恵は中小企業の多くとは無関係なのです。民主党政権も自民党同様、財界に媚を売り出したのでしょうか。内需系の大企業は海外に本社を移してよいことはありません。むしろ海外で稼いだ収益を日本へ移転する場合に、税金を免除する等の方法の方が、景気刺激にはプラスとなるように思うのです。 続く
2010.06.19
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19世紀のアメリカ(48) 第2章 明白なる天命…9ところで、近代社会における奴隷制度において、奴隷は決して従順に奴隷主の命令に従う存在ではありませんでした。フランス革命期のハイチの黒人革命については、先般連載した通りです。ハイチの黒人革命は、カリブ海周辺の奴隷制度を大きく揺るがしました。それは米国南部地域にも確実に飛び火し、1800年にはヴァージニアで、奴隷の大規模な暴動が起き、州兵が出動してようやく鎮圧する騒ぎが起きました。また、1822年にはサウスカロライナのチャールストンで、奴隷の叛乱が起きました。そして、1831年に再びヴァージニアで起きた奴隷反乱は、南部の白人社会を大きく揺るがす事件となったのです。ナット・ターナーと呼ばれた黒人奴隷を首謀者としたこの叛乱は、30名を超える白人を惨殺して、プランター層のみでなく、黒人奴隷を蔑視することに、自らの存立基盤を見出していた白人層全体に、大きな不安を呼び覚ましたのです。黒人は叛乱予備軍であること、黒人奴隷は必ずしも従順な存在ではないこと、この2点を強く意識した南部の白人支配層は、強制的で暴力的な黒人支配システムを、南部社会に広く流布させていったのです。時代と共により精緻になっていく、奴隷法と呼ばれる州法の体系がそれでした。その一例として、ここでは」1824年制定の、ルイジアナ州の法を見てみましょう。1、奴隷は契約を結ぶことは出来ない。 2、奴隷自身が所有者の財産であるので、奴隷が財産を所有することはありえない。 3、奴隷は法廷でいかなる意味の権利も主張できない。また証言に立つことも出来ない。 4、奴隷は、民事上の訴訟を起すことは出来ない。 5、奴隷は、奴隷主の同意を得ることなく、結婚することは出来ない。奴隷主とその家族は、このような形で、黒人奴隷を全人格的に、かつ肉体的に従わせて所有した時、彼らは日々の立ち居振る舞いまで黒人を蔑視し、支配することを、彼らの基本中の基本の規律として、生きることになります。そこでは、黒人は支配し、従わせる存在としてしか、意識されないのです。そればかりか、黒人奴隷を蔑視し、従わせることは、自分達ばかりでなく、奴隷を所有しないその他大勢の白人達にも、守るべき原理として提示されていたのです。南部の奴隷制度は、このように極めて非人間的な、忌むべき制度であったのですが、そうした制度を抱えた南部社会が、19世紀の前半期に、西へ西へと大きく膨張を続けていたことは、否定できない現実でした。 次の表をご覧下さい。この表は、南部15州の1810年と60年の奴隷人口(単位千人)と、全人口に占める比率を表示したものです。1810年の人口が「不明」とされたいるアラバマ、フロリダ、テキサス、アーカンソーは、まだ未開拓だったことを示しています。奴隷の人口比率が高い諸州は深南部とか高南部と呼ばれ、今日なお、黒人のみに留まらない、非白人に対する差別意識が、非常に強い地域となっています。そしてジョージアからサウスカロライナ、アラバマ、ミシシッピー、ルイジアナへ続き、やがてテキサスに至る一帯は、黒人奴隷を使役した綿花プランテーションの中心地域として、爆発的な勢いで開拓されていったのです。 続く
2010.06.19
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クロニクル 関釜フェリー運航開始1970(昭和45)年6月19日今日でちょうど40年ですか。戦前1905年から下関と釜山を結ぶ航路が開設されていましたが、太平洋戦争が激化し、日本が日本海の制海権を確保できなくなって、運行中止に追いこまれ、そのまま途絶えていました。それが1965年の日韓基本条約の調印によって、国交が回復したのに伴い、次第にこの航路を回復しようという気運が高まり、69年に事前に運輸支局で当該車両の登録証書などを用意株式会社(日本)が設立され、この日の運行開始となりました。当初は、1台だけの運行で、夜日本を出立して翌朝釜山到着、その晩釜山を立って、翌朝下関着と、2日で1便の運行でしたが、13年後の1983年にいたって、韓国側の受け入れ業務を担当していた釜関フェリー株式会社も船舶を所有するにいたり、両者の共同運航という形で、毎日運行が可能となり、今日に至っています。フェリーですから、運転者が国際運転免許をもってさえいれば、事前に運輸支局で当該車両の登録証書を用意すれば、90日間以内の条件で、国際ナンバーを用意することなく、日本の自家用車やバイクを韓国に持ち込むことが可能となっています。
2010.06.19
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政治を斬る(108) 菅首相と菅内閣の財政再建案、ちょっと待って欲しいですね。増税で景気刺激というのですが、どうもあやふやです。景気を冷やさない財政再建策として、年金の引き下げ(具体的には支給年齢の引き上げ)や公務員給与の引き下げがあげられます。一方で景気の悪い時期の公共事業費の切り詰めは、更なる景気の悪化を招くので、ご法度です。増税に関しては、個人所得税の引き上げは最悪で、消費税(ただし低所得者に配慮しや食料品の軽減税率適用などが必要)や法人税の増税は、景気を悪化させない傾向にあることが、世界的に確認されています。菅内閣、議員定数や歳費のカット、公務員給与の引き下げには言及していませんね。今のところ、この点をj強く主張しているのは、「みんなの党」だけのようです。ユーロがふらついているユーロ圏では、財政再建に取り組んでいる国のほとんどが、年金と公務員給与の引き下げを実施に移そうとしています。その上での消費増税を打ち出しています。ところが菅内閣は公務員給与のカットに言及していません。旧社会党系の議員を抱え、自治労を支持母体とするがゆえに、公務員に甘い体質が残っているのでしょうか。国民に増税を飲んでもらうなら、その前に自分や身内に厳しく措置するのは当然の務めです。まず、議員定数削減の努力、そして中央・地方を含む公務員給与の思い切った引き下げ、これは欠かせないところです。そしてもう一つが法人税の問題です。。 続く
2010.06.18
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19世紀のアメリカ(47) 第2章 明白なる天命…8米国南部のプランテーションは、19世紀に入ると共に、次々に生産品をタバコから綿花に切り替えてゆきました。それでもイギリスからの需要に追いつかない状態が続いたのです。そのため、南部地域の富裕層の家庭の若者や、野心と意欲のある若者達が、アパラチア山脈を越えた西側の地域へと、綿花栽培と奴隷制を拡大して行ったのです。北東部に比べ、やや遅れた1810年代のことでした。独立戦争後のアメリカ社会は、長子相続の伝統を捨て去り、相続財産は均等相続が当然のこととされたため、相続財産は限られるのが普通でした。そのため、若い世代の野心家達は、相続財産を基礎に徹底して経営の効率化をはかると共に、西方への進出と所有する農園の拡大を目指すのが常でした。そして南部地域における西への拡大は、綿花プランテーションの拡大を中心として進められ、そのプランテーションの労働力としての、黒人奴隷制の拡大を必然的に伴う形で、行われたのです。こうして、中小農民の進出を中心とする北西部や中西部の開拓と区別される形で、南西部のフロンティアもまた、西へ西へと進められたのです。プランターは、農園の拡大と共に、土地環境の整備に取り組むことで、収穫量の拡大に関心を持ち、同時に綿花の市場価格にも注意を払う、経営感覚の持ち主でもあったのです。しかし、プランターの所有する農園は、黒人の奴隷労働なしには存続できないものでした。それゆえ、プランターがいかに優れた経営感覚の持ち主であったとしても、彼らの社会意識は、北部や北西部の商工業者や農民とは、全く異なるものでした。奴隷を所有することは、常に労働力が不足する、南部及び南西部の農園経営において、労働力の調達を可能とする唯一の方法でした。しかも、亜熱帯地方に属する合衆国南部地域での、灼熱の太陽の下での労働は、熱帯アフリカ出身の黒人こそが、最も似合いの存在でもあったのです。プランターはまた、プランテーションの管理人を通じて、黒人奴隷達にいくばくかの耕地を与えることで、彼らの肉体を維持するための食料は自ら生産させる方法を編み出し、奴隷労働の維持費を最小にする方法をも、編み出していたのです。こうした奴隷労働の徹底した搾取の上に、プランテーション経営の高い収益性が維持されていたのです。 続く
2010.06.18
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19世紀のアメリカ(46) 第2章 明白なる天命…7昨日までの所に関係する地図、図表、写真を上げておきます。上から1790年、1810年、40年、60年です。1790年におよそ450万人程度だった人口は、1860年には3千万人を越えています。そして左側の赤っぽい色の部分が建国時の13州の人口を、右側の若草色の部分が、アパラチア以西の開拓地の人口です。1860年には、東部13州とそれ以外の地の人口が、ほぼ等しくなっているのが分かります。即ち、西部へ西部へと、未開の辺境は常に西へと移動していったのですが、19世紀半ばまでは、建国13州(東部13州)の優位は、揺るがなかったことも見えてきますね。次は1850年頃までに整備された運河網を示す地図です。(地図が見にくかったので、入れ替えました) 国道はカーバーランド国道1本のままですが、ハドソン川とエリー湖(バッファロー)を結ぶ、エリー運河に続いて、次々と運河が建設され、舟運中心に西部への道が整備された行ったことが読み取れます。最後の2枚の写真は、いずれもニューヨーク市の中心街、ブロードウェイを描いた絵です。上は1820年当時、下はその14年後の1834年のニューヨークです。この時期のニューヨークの発展振りが読み取れますね。
2010.06.18
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クロニクル リクルート事件明るみに1988(昭和63)年6月18日22年前のことです。この日の朝刊で朝日新聞が、リクルート社が、不動産関連の子会社リクルート・コスモス社の未公開株を川崎市の助役に譲渡し、およそ1億円に上る利益を上げさせていたことを、暴露いたしました。子会社を使っての、川崎駅前再開発事業に便宜を図ってもらうのが、狙いでした。朝日が報道したこの事件をきっかけに、リクルート事件は、中央政界に飛び火し、当時の政界有力者を軒並みに巻き込んだ、一大スキャンダルに発展したのでした。竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎、渡辺美智雄、」そして中曽根康弘前首相と、総裁候補の全員を網羅した汚職事件に、総辞職を余儀なくされた竹下首相の後継候補選びに、難儀する異常事態が出来したのでした。
2010.06.18
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政治を斬る(107) さて、7月11日投票の今回の選挙ですが、このところの参院選に比べて、どうにも盛り上がりに欠けているように思えてなりません。このところの参院選では、衆院選で大勝ちした政党に、お灸を据えるような結果になることが多かったですね。野党もそれなりに元気で、政権与党の国会運営の横暴を国民に訴え、与党に襟を正させるような投票を強く国民に訴えていました。ですから、小泉人気で自民党が圧勝した2001年の参院選を例外として、衆院選では勝利した自民党は、04年、07年と勢力を減じてきていました。そして昨年の衆院選での民主党の圧勝を受け、昨秋以降の国会運営を見ると、明らかに民主党の暴挙が目立っています。民主政治とは何か、とりわけ議会政治とは何かと、考えて見ますと、以前に指摘した通り、一つには徹底して審議を尽すことで、そしてもう一つには少数意見を無闇に切り捨てず、できる限り尊重する姿勢を持つことの、2点に尽きるように思うのです。野党時代の民主党は、この点を大いに主張して、自民党を批判してきました。しかし、与党になった途端に、自民党以上に強行採決を連発するという、とんでもない国会運営を常態としてきました。まさに数の暴力の濫発です。ですから今度の選挙では民主党がお灸を据えられておかしくないのですが、どうも様子がおかしいですね。民主党の失策がこれだけ目立つというのに、野党第1党の自民党に元気がないですね。野党が与党を突き上げ、場合によると野党に転落するかもしれないという緊張感を持たせるところに、政党間の切磋琢磨が生じて、互いが政策を競い合うことで、寄りよい、それだけ国民のためになる政治が実現する素地が生まれます。ところが野党第1党に元気がない場合、そうした緊張感は生まれません。今回の参院選は、残念ながらそうした雰囲気の下で行なわれそうです。賞味期限の切れた自民党に、政権奪回を目指す気概が見られず、民主党もそれを見込んでいるのか、政権に対する最初の国民の審判を受けるというのに、そうした緊張感を持っているようには、見えないようです。正直、私はこんなに空気の抜けている選挙は、初めてです。困りましたねぇ…
2010.06.17
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政治を斬る(106) 昨16日で、民主党政権下で最初の通常国会が終了しました。期待されて出発した鳩山政権が、目も当てられないほど失速し、無残な討ち死にを遂げるシーンもありましたが、民主党創立以来の2枚看板の1人、菅直人氏のカムバックで、参院選に臨む体制を築きました。1週間後の6月24日公示、7月11日の投票で、22回目の参院選挙が行なわれることになりました。東京の5人を筆頭に、都道府県を単位とする選挙区で73人、全国を1選挙区とする比例区で48人、計121人を選ぶ選挙です。戦後、昭和憲法の制定によって、貴族院に替わる民選の第二院として設置された参議院は、1947年に250人の議員が一挙に選ばれてスタートしました。この時の議員は、都道府県単位の地方区で150人、全国区で100人が選ばれ、夫々上位の半数が6年議員、下位半数が3年議員となり、以後は3年ごとに半数が改選となって今日に来ています。47年から、確かに63年が経過していますので、今回が第22回の参院選となります。沖縄の本土復帰後、沖縄県に地方区で2名が割り当てられ、定数は252人となりました。また、全国区は大変すぎるということで、こちらは拘束名簿式比例代表制(当初)に改められ、その後さらに、被拘束名簿式へ比例代表制に改められ、個人名を書いても政党名を書いても良いシステムになりました。そのため、知名度の高いタレント候補が多用されることになり、政治の堕落を進める』悪い面が目立っていることは否定できません。252人にまで膨らんだ議員数は、現在242人と選挙区で6人、比例区で4人と10人を減じていますが、もっと絞り込むことも可能ですね。衆議院との違いを際立たせるなら、アメリカ上院のように、各都道府県一律に2人として、地方の声を平等に反映させる方法がありますね。日本の25倍もの面積を持つアメリカの上院議員が僅か100人なのですから、日本で242人もいるのですかね。都道府県2人の94人で十分なように思います。公務員制度改革を考えるのなら、先ずは議員が率先して、議員数の削減を図るべきでしょう。わが身を削れるかどうか。そうした公約をマニフェストに掲げる政党が出てくるかどうかに注目したいですね。 続く
2010.06.17
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19世紀のアメリカ(45) 第2章 明白なる天命…6西部開拓の加速は、アパラチア山脈の西に出来た新しい州の誕生を振り返ると、より明確になります。1792年のケンタッキー、96年のテネシー。1803年のオハイオに続いて、1810年代に入ると、次々に新しい州が合衆国に加わっています。1812年ルイジアナ、16年インディアナ、17年ミシシッピー、18年イリノイ、19年アラバマと10年代だけで5州が誕生しています。この5州を見ると、南部地域に属する州も多いことが分かります。実は、この時期のアメリカ合衆国においては、南部と北部とは、大きく異なる経済体制をとっていました。黒人奴隷制度とプランテーション制の問題です。そうです。この時期の南部は、黒人奴隷制を基盤とした綿花プランテーションという、特異な農業形態を、極限まで拡大しながら、成長を続けていたのです。それはイギリスの産業革命によって、成長軌道に乗った綿紡績工業に対する、工業原料を提供するという役割を受け持ったが故のことでした。南部独特の湿った暑さが、綿花栽培に最適な環境を提供してくれたのです。少し遡りますが、ここで、合衆国と奴隷制の関係に触れたいと思います。1776年に独立宣言を採択、発表した当時の13植民地では、驚かれると思いますが、実は全ての植民地で奴隷制が存在していたのです。ところが、独立宣言から合衆国建国に至る、およそ12年ほどの間に、北部から中部に至る地域では、次々と奴隷制を廃止する行動がとられたのです。奴隷制廃止の最初の栄誉を担ったのは、1780年のペンシルヴェニアでした。これに北部や中部の各植民地が続き、1787年制定の北西部条例では、オハイオ川の北に位置する開拓地では、奴隷制を禁じる旨が、明記されたのです。合衆国は、夫々に独立した憲法を持っている、statesの集合体です。中央政府は、各州の自治権には介入しあせんどのような経済体制を持つかは、各州に任されていたのです。こうして南部と北部とは、互いに大きく異なる経済体制を持ちながら、相互干渉を避けて、相互に独自の道を歩んでいたのです。 続く
2010.06.17
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クロニクル 首都高速道路公団発足1959(昭和34)年6月17日51年前のこの日、首都高速道路公団が発足しました。同公団は、首都高速道路公団法によって、この日設立されたのです。同公団は、首都高速道路を建設し、その後は管理を担当してきました。そのご、日本道路公団の民営化に伴い、公団は解散し、業務は日本高速道路保有・債務返済機構ならびに首都高速道路株式会社に引き継がれました。
2010.06.17
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政治を斬る(105) 民事再生法による企業再生を申請中のSFCG(旧商工ローン)の前会長が、悪質な資産隠しの罪で逮捕されました。破産させる会社に資産を残しておいても仕方がないから、飛ばせるだけ飛ばせと、幹部クラスに檄を飛ばしていたようですね。そのSFCGに高利で(ということは出資法違反です)金を貸していたのが日本振興銀行です。こちらは、金融庁の監査に対し、SFCGとの取引の資料を、全て消去したというのですから、こちらの悪質さも大変なものです。こうした、社会悪をなす金融機関を民事再生させて良いのかが、問題ですね。会社更生法と異なり、民事再生の場合は、経営者は退陣せず居残ることが前提なのですから…。僅かでも詐欺行為ないしは詐欺行為まがいの行為が明らかになった場合、民事再生資格は取り消すくらいの厳しい対応が必要なように思います。そして、日本振興銀行の前会長の木村剛は、明らかに反社会的な行為を働き、実質50%もの金利をとっていたSFCGとの取引を、どうやら主導していたように見えます。この人物も、相当の食わせ物ですね。金融庁と警視庁、久々に頑張ったように思います。 続く
2010.06.16
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19世紀のアメリカ(44) 第2章 明白なる天命…5しかし、1800年~1810年代にかけての西部開拓は、開拓地への交通手段が限られていたために、大変ゆっくりとしか進みませんでした。西部開拓が本格化するには、道路や運河の建設が欠かせませんでした。鉄道がまだ発明されていない時代においては、荷馬車が走行可能な基幹道路(=有料国道)の整備が不可欠でした。アメリカの最初の国道、カンバーランド国道が、メリーランド州のカンバーランドから、オハイオ河畔のホイーリンクまで完成したのは、1818年のことでした。この国道は、その後も延長工事を続け、1840年代には、イリノイ州にまで延長されました。馬車の通れる道が整備されたことで、人の移動は活発になりました。しかし、馬車で運べる荷物は限られます。大量の荷物を運ぶには、西洋と同じく舟運の整備が欠かせません。こうして、米国でも運河建設への期待が高まったのです。1817年にニューヨーク州の北部で開始された、エリー運河の建設は、オルバニーとバッファローを結ぼうという野心的なものでした。この成功が、その後の運河建設ブームのきっかけとなったのです。1825年に完成したエリー運河の効用は、圧倒的でした。ターンバイクと呼ばれた有料の国道を馬車で運ぶには、数10頭の馬を必要とした重い荷物も、運河の側道で船を引っ張る1頭の馬で、運ぶことが出来たからです(蒸気船以前は、人力だけでは難しかったのです)。エリー運河の完成は、東においては、ハドソン川に漕ぎ出してニューヨーク港に通じ、西においては、バッファローからエリー湖に通じて、オハイオ、インディアナへと、運河と河川、そして湖の交通を組み合わせることで、米国北部地域を東西に横断する、交通幹線が出来上がったことを意味したのです。この交通幹線の起点ニューヨークは、米国北部の交通動脈を握り、輸出入の窓口となることで、今日に至る大ニューヨークの基礎を築いたのです。
2010.06.16
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クロニクル フォード自動車の誕生1903(明治36)年6月16日107年前のことになります。この日、ヘンリー・フォードは、11人の投資家の支援を受けて、2万8千ドルの資金を元手に、フォード・モーター・カンパニーを創設しました。カール・ベンツが自動車の生みの親と言われますが、ヘンリー・フォードは、自動車の育ての親と言われています。創立5年目の1908年に、彼が世に問うたT型フォードが発売され、最盛期には米国の自動車の半数以上を占めるという、大ヒット商品になりました。
2010.06.16
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政治を斬る(104) 7年間の飛行で、小惑星「いとかわ」から帰還した、純国産人工衛星「はやぶさ」の評判が、国際的にも上々のようです。「はやぶさ」は、オーストラリア南部の砂漠地帯に着陸しました。他国の飛行物体の強行着陸ですから、日豪関係が極めて良好な関係にあることが、証明されたことにもなります。オーストラリア軍が、着陸予定地点附近を、徹底的に警備し、無事回収が完了したと報じられていました。「はやぶさ」は、月以外の天体に上陸して、その星の岩石や塵を蒐集し、地上に持ち帰った、世界最初の人工衛星になりました。世界で一番であるからこそ、これだけ国際的な注目を浴びることになったことは、否定しがたい事実です。世界一の快挙だからこそ、注目され、日本の衛星技術や打ち上げロケット技術に注目が集まっているのです。仕分け作業での、「二番じゃダメなのですか」発言が注目され、菅内閣の大臣の椅子を射止めた蓮舫議員の発言は、科学技術立国を目指す上では、いかに間違った発言であったかを、「はやぶさ」はその偉業という事実をもって、明らかにしました。早速民主党政権は、科学技術予算の増額を検討すると言い出していますが、果たしてどの程度が実現するものなのか、こんなドタバタでは心もとないですね。早くも関係者の間では、「はやぶさ」の後継機の開発は、断念するしかないのではないかという、残念としか言いようのない空気が支配的だとも聞きます。アメリカでは、グリーン・ニューディールを掲げたオバマ政権の登場後、新技術とりわけクリーンエネルギー関連の研究開発予算は、大幅に増額されたという話も聞こえているだけに、折角の比較優位を、政治の対応遅れで、また失うのかと、些か悲観的な気分を味わっているこの頃です。菅内閣が「はやぶさ」の快挙の火を消さない政権であることが、臨まれるのですが、さてどうなのでしょうね。 続く
2010.06.15
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19世紀のアメリカ(43) 第2章 明白なる天命…4公有地は、どのように売却されたのかを見ましょう。開拓が推進される地域は、およそ縦横6マイルの正方形を一つの単位として、タウンシップと呼ばれた村を構成します。この6平方マイルの正方形の土地は、各1平方マイルの区画、36区画に分割されます。1平方マイルですから、640エーカーあります。1エーカーは0,4ヘクタールにあたりますから、640エーカーは256ヘクタール。日本流に表現すると、256町歩になります。明治・大正期の最大規模の地主たちが、100町地主と呼ばれたのですから、その2,5倍の規模です。このうちの一つか二つの区画が公共用地として取り除かれ、残りの区画が競売に付されたのです。競売の最低価格は、1エーカー当たり2ドルでしたから、最低価格で競り落とすことが出来たとしても、1280ドルが必要になります。これでは、中小農民が、土地を手に入れることが出来る可能性は、ほとんどゼロでした。ですから1820年頃までの、西漸運動の初期段階では、北西部地方では、不在地主や土地の転売を狙う投機業者が跋扈していたのです。この状況に対する農民たちの抗議や、連邦政府自身の反省に立って、土地の競売単位は、1820年には160エーカー(=64ヘクタール)に縮小され、エーカー単位の最低価格も1,25ドルまで引き下げられました。19世紀初頭の欧米の農業技術では、10~15ヘクタールの農地があれば、不作の年でも自営農民としての生活の維持は可能でしたから、160エーカーはなお広すぎる土地でした。そのため北西部の土地は、まず森を開いて、その上で値上がりを待って土地を売る人、その土地を購入して農業経営を始める人、さらには、農地となった土地を、改めて購入する人などが、交じり合って、次第により小規模な、適正規模の小農場になっていったのです。こうして、1830年頃には、大地主はほとんど目立たなくなり、自営の小農民が中心となる社会が構成されたのです。そこには、農民たちによる、様々な政治的努力も働いていました。彼らは、公有地の売却面積を小さくすることと、最低競売価格を引き下げることを、連邦政府に何度も何度も陳情し続けたのです。こうした成果で、1833年、売却面積は40エーカー(=16ヘクタール)まで引き下げられたのです。さらに、土地の公売に先立ち、未測量或いは測量だけされた土地に、勝手に入りこんで、開墾や耕作をはじめる人々もおりました。彼らは、当然ながら苦労して開墾した実績を強調して、公示日に先立って、開墾した土地を優先的に購入出来る権利の取得を、主張したのです。こうして開墾者の土地先買権を承認する一連の法律が1830年~41年にかけて、連邦議会をで可決成立していったのです。 続く
2010.06.15
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クロニクル 特急列車の誕生1912(明治45)年6月15日この日、日本で始めて、特別急行列車と命名された列車が、新橋=下関間で運行を開始しました。この列車は1等車と2等車ばかりで構成され、3等車は連結されていない、富裕層対象の編成でした。当時は列車に愛称はつけず、1,2列車と呼ばれていました。1914(大正3)年12月に東京駅が完成すると、新橋発は、東京発に改められました。1923(大正12)年に、同じ区間に3,4列車が投入されましたが、こちらは全て3等車のみの編成の、大衆向け列車でした。列車に愛称がつけられるようになったのは、昭和時代となってすぐの頃で、前者に「富士」、後者に「櫻」の名が付けられました。戦前の特急は、この2本の外に、いずれも東京=神戸間を走る「燕」と「鴎」の2本のみで、合計4本でした。東海道・山陽本線以外の線区は、急行列車は走っても、特急列車は運行されていなかったのです。太平洋戦争が激しくなるにつれて、特急の運行は1本また1本と減らされ、1944(昭和19)年4月運行停止の「富士」を最後に、特急の運行はしばらく中止とされ、戦後を迎えることとなりました。
2010.06.15
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政治を斬る(103)菅内閣は、どうやら財政再建に舵を切ろうとしています。米・欧に歩調を合わせてです。結果として、政府支出の切り詰めと増税がセットで実施されようとしています。そして、次の衆院選後に消費税率をアップする旨を、今回の参院選のマニフェストに明記するという話になってきています。菅首相にいたっては、攻めの増税を唱え、増税の増収分を景気刺激策に使い、雇用を増やして景気を良くして見せると、バラ色の未来を描いてもいます。これで大丈夫なのでしょうか。大変乱暴な話だけに、ちょっと待ってよといいたくなります。まず増税で税収は本当に増えるのでしょうか。特に大衆課税である消費税は、賃金収入が右肩上がりの好況時ならともかく、不況時の実施では、確実に消費を減らしますから、期待した増税効果は得られず、かえって景気を悪化させる悪循環に陥る可能性が高く、税収は伸び悩む可能性が高いのです。ですから、一般に不景気の時には、増税は避け、財政再建は棚上げして、景気刺激策をとるのが、一般的なのです。それを財政再建のための緊縮予算と増税というのですから、これは大変です。しばらく、日本経済の回復は望まないほうが良いのかもしれませんが、大変心配になる、発想を菅内閣の閣僚や、党幹部はお持ちのように思います。 続く
2010.06.14
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