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世界経済の現状(142) 日本時間の土曜日早朝、S&Pやムーディーズに並ぶ大手格付け機関のフィッチが、スペイン国債を格下げしました。事のきっかけは、スペイン中央銀行によるカハスールの固有化にありました。カハスールなどスペイン国内業務に特化したローカル銀行は、悪いことにスペインにおける不動産融資のほとんどを賄っていました。カハスールの国有化は、預金の引き出しに耐えられなくなったカハスールの面倒を国が見ることで、他のローカル銀行に連鎖的に預金の引き出しが殺到するのを避けることが一つ。そしてもう一点は、こうしたローカル銀行にEUの監査が及ぶのを避けることにあるようです。おそらく、ろーかる銀行の不動産融資の実態は、日本の住専による融資と同様に、ほとんど無審査に近い、ひどいものなのでしょう。住専の実態を垣間見た日本人には、たやすく想像できることですが、この実態が監査で公にされると、スペイン売りは、おそらくギリシアの比ではない、凄まじいものになると思われます。それを自覚するゆえに、スペイン政府は必死になって、実態隠しに動いたというのが、真相のように思えます。スペインローカル銀行全体の、不動産融資の残高は、4千億ユーロを超えているだろうと言われています。事実とすれば、その額はスペインのGDPのおよそ半分に達します。こんなに積み上げて、いったいどう回収するつもりなのでしょうか。不動産融資にのめりこんだローカル銀行は、遅かれ早かれ日本の住専と同じように処理されざるを得ないことは明らかです。しかし、スペインは日本ではありませんから、その処理費用を負担する力を持ちません。ユーロ圏は、これをいったいどう処理するのでしょうね。 続く
2010.05.31
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19世紀のアメリカ(29) 第1章 米英戦争…419世紀のはじめまでに、ケンタッキー、テネシー、オハイオが州に昇格し、合衆国に加わりました。この時点で、西部開拓地が一定の条件を満たせば、合衆国への加盟を願い出ることが出来るようになりました。その条件とは、自由人の成人男性が5千人を超えると、準州として合衆国上院に2名のオブザーヴァーを派遣できることと、そして自由人の成人男性が合わせて6万人を超えると、州として合衆国への加盟を申請できるということでした。この時代の自由人とは、言うまでもなく白人を指しました。ですから、19世紀のアメリカ民主主義というのは、なかなか英語に馴染もうとしないドイツ系移民を含めて、白人による白人のための民主主義にほかならなかったのです。さて、第3代ジェファーソン大統領の時代のヨーロッパは、フランス革命の末期に登場したナポレオン旋風に振り回された時期でした。このヨーロッパの戦乱に、ジェファーソン政権はひたすら中立を守りました。しかし、イギリス侵攻を諦めたナポレオンが、イギリスを経済的に屈服させようとしてとった大陸封鎖に対するイギリスの対抗策は、逆に海からフランスの港を封鎖して、中立国アメリカの船舶といえども、フランスの港への接近を禁ずるものだったのです。報復としてアメリカは、対英貿易の禁止措置をとり、商船の出港を禁じて、イギリスへの報復措置としたのです。しかし、この措置は、アメリカ側への負担も大きく、輸出が80%、輸入が60%減少するという、大きな負担となったのです。特に海運業が主要な産業だったニューイングランドの負担が大きく、政権交代による政策の転換が期待されたのです。ここに1808年の大統領選挙では、反ジェファーソン派のマディソンが当選し、政策転換が模索されることとなったのです。 続く
2010.05.31
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クロニクル 日韓ワールド杯開幕2002(平成14)年5月31日8年前のこの日、FIFAワールドカップ日韓大会が開幕、韓国のソウルでフランス(前回優勝国)対セネガルの試合がオープニング・ゲームとして行なわれました。大会は6月30日、横浜スタジアムでのブラジル対ドイツの優勝決定戦で幕を閉じました。
2010.05.31
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世界経済の現状(141)7月に大量の国債の満期を迎えるスペインの危機が喧伝されています。よってたかって何とか借り換え資金を貸し付けたとしても、本質はギリシアと同じく問題の先送りに過ぎません。何度も指摘してきましたが、先送りは返済総額を大きくするだけですから、先に送れば送るほど傷を大きくするだけです。そして、問題の解決には、破綻の危機に瀕している国家の通貨を実力相応の所まで切り下げることが欠かせません。アルゼンチンがそうであったように。ギリシアやスペインの場合、通貨がユーロであることが、問題を複雑にしています。ユーロ全体を切り下げることが、何処まで肯ずることが出来るのか。今現在は、ドイツはユーロ圏外への輸出に有利とすまし顔のようですが、通貨は国家の実力を示すものですから、おのずとユーロ安にも限界があります。為替リスクの高い通貨など、誰も持ってはくれなくなるからです。そのため、どこかの時点でギリシアなどをユーロ圏から切り離すか、ドイツ自身がユーロを離れて強いマルクを復活させるかのどちらかを選ぶしか、打つ手はなくなるでしょう。現実的に考えれば、ドイツの離脱したユーロ圏というのは考え難く、その場合はユーロは空中分解するしかなくなります。それゆえ、ドイツのユーロ圏離脱は、ドイツにとっては有力な選択肢になりえるのですが、フランスやベネルックス諸国には到底認めがたい案になりますので、可能性としてはギリシア、スペインなどの離脱に留める公算が高いように思います。しかし、この場合に大きな問題となるのが、ギリシア国債がユーロ建てで発行されていることです。ユーロを離脱したギリシアドラクマは、大きく切り下げられるのですが、例えば700億ユーロのギリシアの債務を、いくらのドラクマと査定するかにかかります。どう査定しても、ユーロ建てのギリシア国債は、ドラクマに置き換えない限りギリシアに支払い能力は生まれません。嫌がるギリシア国債所有者をウンといわせるためには、それなりの強制力のある非常手段をとる必要があります。1998年のロシア、2001~2002ねんにかけてのアルゼンチンのように、ギリシアがデフォルトを宣言し、その上でユーロを離脱することが先決なのです。こうして、はじめてドラクマ建て国債をユーロの借金の替わりに引き渡すのです。こうして、通貨フロートによって、ドラクマが切り下がるほど、外国からの観光客は増え続けます。国内はインフレで苦しくなりますが、輸出も伸びます。97~98年のアジア金融危機からのアジア諸国の回復は、この通貨安を大いに利用して可能になったものでした。インフレが進めば進むほど、借金返済は楽になります。南欧の債務返済には、この手しか使えないように、私は考えています。それも実行は早ければ早いほど良いとおもうのですが… 続く
2010.05.30
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19世紀のアメリカ(28) 第1章 米英戦争…3 アメリカ史を特徴づける事柄として、アメリカ的民主主義の存在、家柄や伝統が意味を持たない実力主義の世界、徹底した個人主義、外交的な孤立主義を可能とする豊かな国内市場の存在、そして先住民の弾圧と黒人奴隷制度の展開が上げられます。こうした特徴の全てが、未開の辺境を常に西へ西へと広げていく、西部開拓の存在と密接に関係しています。歴史に「たら」と「れば」は禁物なのですが、もし、アメリカ合衆国に開拓すべき西部がなかったとすれば、こうしたアメリカ的特徴のほとんどは存在し得なかったでしょう。詳細は後述しますが、入植者を募集している西部の公有地は、大変安い値段で購入が可能でしたし、リンカーン時代の1862年に成立したホーム・ステッド法は、5年間定住する白人家族には160エーカー(=64ヘクタール=192000坪)の土地を無償で提供することにしました。と東京ドームにして13個分の土地が、ただで提供されるのです。その地を開墾して、農地と牧場として、貯めた資金で耕地を拡大することも出来るのですから、まさに努力すれば報われ、成功者になることが可能な世界がそこにありました。しかも貧しき開拓民にして、大きなドーム13個分もの土地を持つのです。何かの時に隣人の助けを求めることも簡単ではありません。一義的にはすべてのことを家族だけで解決しなければならないのですから、どうしても個人主義の気風が育ちます。西部開拓が進めば、広い市場が西部に開けます。東部の工業製品、南部の工業原料、そして西部の農産物、こうして国内市場の広さの恩恵を十分に生かして、輸出入にさほど依存しない資本主義の発達も可能となりました。実力主義、個人主義、そして資本主義の発達が揃う時、アメリカ民主主義もまた、順調に成長できたのです。しかし、それはまた、先住民の都合を無視し、彼らの居場所を奪い続けることで可能となったという負の面を合わせ持ちました。さらに、南部の大農園の所有者にとっては、白人の農業労働力の安定的確保を不可能にするという面も持ったのです。農業労働にも一定の鳴れと熟練を必要とします。そこからプランター(農園主)たちは、暑さに強い黒人の奴隷労働を利用することを思いつきました。先住民迫害や黒人奴隷の存在もまた、西部の開拓地の存在と密接に絡んでいたのです。 続く
2010.05.30
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クロニクル 2チャンネル誕生1999(平成11)年5月30日誕生から11年ですか。この日、日本屈指のアクセス数を誇る、巨大電子掲示板サイト「2チャンネル」が誕生しました。「2ちゃんねる」は、いくつもの電子掲示板の集合体で、利用者数は1千万人を大きく超える、世界でも有数のサイトに育っています。
2010.05.30
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19世紀のアメリカ(27) 第1章 米英戦争…2先ずは、下の地図をご覧下さい。大き目の地図とさせて戴きました。19世紀のアメリカを概観する時、そこには常に2つの課題がありました。第1の点は、序章に記したようないきさつで、夫々が内政に関する主権を持つ州の連合体という形で出発した連邦政府が、どの時期にどのような形で自らの権限を強化して、現在のような合衆国中央政府となったのか。この点です。僅かな権限しか持たなかった中央政府権限の、強化の歩みです。およそを先に語っておくと、この点では1861~65年の南北戦争と、20世紀になってのことになりますが、1933年からのフランクリン・ローズヴェルト政権下のニュー・ディール政策が、大きな役割を果たしました。そして第2の点が、昨日記したナポレオンから、ほとんどただ同然の値段で購入したフランス領ルイジアナを含む、西部開拓地の問題です。ルイジアナ(地図の若草色の部分)の購入と編入によって、合衆国の国土は、建国当時のほぼ2倍に増えました。この1803年に、パリ条約でイギリスから貰い受けたアパラチア山脈の西方では、3つの州が誕生し合衆国に加わっていました。1992年にケンタッキーが、96年にテネシーが、そして1803年にオハイオが州昇格を認められて、合衆国に加わったのです。しかし、まだ人口も僅かで、州となった地域でも、盛んに入植と開拓が続けられていたのです。未開の西方との境がフロンティアと呼ばれる開拓最前線なのですが、それはなお、ミシシッピー川に及ばず、はるか手前にあったのですが、この未開の辺境フロンティアの最前線を、西へ西へと移動させてゆく西漸運動は、1890年代にフロンティアの消滅が宣言されるまで、ずっとアメリカ史を特徴付けてきたのです。地図に戻りましょう。スペイン領だったフロリダは、スペイン本国の混乱に乗じて、1819年に首尾よく購入しています。その1年前には、イギリスとの間で、カナダの一部とルイジアナの1部をほぼ等面積で交換しています。1845年には、テキサスをメキシコから奪い取っています。オレゴンは、1846年に勝手に米国領とし、カリフォルニアは1848年に、ニューメキシコは1853年に、共にメキシコから僅かな金銭で譲り受けています。こうして、西へ西への開拓運動は、遂に太平洋にぶつかるまで、留まることを知らなかったのです。こうして、開拓すべき西部の存在と、西部の開拓地をどうするかという問題が、代々の米国政府にとって、大きな課題となったのです。 続く
2010.05.29
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政治を斬る(94)普天間移設問題。「結局大山鳴動ネズミ1匹も出ず」で決着ですか。情けない話ですね。せめて鳩山首相には、この間に明らかになった問題点を整理して、次にバトンタッチするくらいの、潔さを見せて欲しいですね。問題点その1、日本の安全保障をどう考えるか。特に巷間声高に叫ばれている「抑止力」とは何かを。水戸黄門の印籠のように振り回すことをやめて、冷静に分析するすること。この点が曖昧だと、鳩山さんのように腰砕けになりますから。問題点その2、1の続きですが、国際情勢の大きな変化に合わせた日米安保体制の見直し。普天間の米海兵隊は、アフガンやイラクにまで出動しています。これは東アジア、東南アジアの安全とは、かなりの距離がありますね。問題点その3、米軍基地などが、日本に存続し続けるとした場合、その負担は全国の都道府県で、どのように負担しあうのか。沖縄にだけ過度の負担を強いてきた現実の徹底した見直し。こうした問題を提起した上で、鳩山首相は責任をとって、辞任すべきだろうと私は考えます。 続く
2010.05.29
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クロニクル 東ローマ帝国滅亡1453年(ユリウス暦)5月29日「古いヤツだと思われでしょうが…」と鶴田浩二の『傷だらけの人生』ばりのセリフで始めるとすれば、差し詰め「古い話で恐縮ですが…」と言ったところでしょう。まして、ここは遠くボスフォラス海峡に面した、トルコ共和国最大の都市、イスタンブールも話ですから、なおさらです。557年前の今日、ここ東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルは、オスマン帝国軍の大砲を数問使った砲撃に、遂に三重にめぐらした城壁を破られ、陥落したのです。ここに西ローマ帝国のの滅亡から、1千年弱の時を経て、東ローマ帝国も遂に滅亡することになりました。この時、難を避けた帝国の学者や文化人は、陸路ヴェネツィア経由で、イタリア各都市に亡命します。そうした人々を迎えたイタリアは、ここにルネサンス文化の絶頂を迎えることになります。ルネサンスの隆盛の翳に、東ローマ帝国の滅亡があったことは、あまり指摘されませんが、大変重要な事実です。この年は、西ヨーロッパでは英仏100年戦争が、フランス側の勝利で終了した年でもありました。
2010.05.29
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世界経済の現状(140)ユーロを導入したことで、ギリシアは、自国の信用によって、半ば自動的に制限されていた資金調達力が、ユーロの調達に限って、事実上無制限になったのです。何しろ自国の通貨ユーロは、ドイツでもフランスでもオランダでも使えるのですから…そしてユーロには、これはギリシアユーロで、こっちはドイツユーロ、君のもっている5ユーロ紙幣はオランダユーロなどと、ドルと違って書いてあるわけではありませんから。カナダドル、オーストラリアドル、米ドルなどの区別はないのです。ギリシアはこうして手に入ったユーロを使って、ユーロ圏諸国特にドイツから、商品を買い捲りました。ユーロをドルや円に交換する手間も省くことが出来、為替リスクを追う必要もない取引が好まれるのは、むしろ当然でした。しかし、国家の信用力という歯止めを失った、実力以上の借金を可能にした共通通貨ユーロの魔術も、どこかでその正体は明るみに出ます。返済能力を超えた借金は、いつの日か返済の遅れに繋がり、やがて返済不能に陥ります。現在がまさにこの状態にあります。そして、どうすればこの状況から抜け出すことが出来るのか。選択肢はおのずと限られてきますし、時間もそう残されていないように思うのです。 続く
2010.05.28
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19世紀のアメリカ(26)第1章 米英戦争…1建国直後のアメリカは、ワシントン時代の8年、アダムズ時代の4年の12年間のほとんどを通じて、外交努力のほぼ全精力を、フランス革命との対応に費やすこととなりました。革命の初期には、自ら義勇兵を指揮して来援してくれたラ・ファイエットが革命派の中心に陣取っていたため、革命を支持する姿勢をとっていました。しかし、1792年4月のオーストリア・プロイセンとの開戦を経て、革命派の姿勢が次第に過激化し、93年1月に国王の処刑が実行されるに及んで、米政府の姿勢にも変化が訪れます。イギリスもまた当初の静観の姿勢を捨て、スペインやオランダを誘って対仏大同盟を結成、反フランス革命の姿勢を明確にしました。そこにはイギリス独特の打算が働いており、大陸ヨーロッパという大事な市場を、フランスだけに独占させてなるかという、功利的な動機が隠されていたのですが…。それでもアメリカは、用心深く中立の姿勢を崩しませんでした。大統領のワシントンも、国務長官のジェファソンも、いずれフランスの内紛も収まることを期待して、待ちに徹したのです。そして、1800年の大統領選挙では、ジェファソンが大差で勝って、翌1801年に第3代の大統領に当選したのです。それは、フランス革命そ終結と、革命の成果の社会的定着を掲げたナポレオン支配の進行と、見事に重なったのでした。ハイチを論じた中で触れたことですが、ジェファソン政権は、1803年ナポレオン政権との交渉によって、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナ(その中心都市が、ジャズの発祥の地となるニューオーリンズ<新しいオルレアン>でした)を、僅か1500万ドルで購入することに成功します。面積実に5億3千万エーカーと言いますから、これでアメリカ合衆国の国土面積は、一挙に2倍に膨れ上がりました。1エーカー当たり、僅かに3セントです。日本流に表記すると、1エーカーとは1200坪にあたります。100坪の邸宅が12軒も建つ土地が、3セントというのですから、これはほとんどただのようなものです。1783年のパリ講和条約で、イギリスから獲得したアパラチア山脈以西の土地も、まだ未開の開拓地として残っている段階で、さらに広い開拓地を確保したのです。これは、大変な僥倖でした。そのわけをこれから記したいと思います。 続く
2010.05.28
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クロニクル 船場吉兆廃業2008(平成20)年5月28日吉兆の創業者、湯木貞一は、子ども達に暖簾分けを行った時、三女の佐和子と夫で婿養子の正徳に船場吉兆を与えました。ほかには、本吉兆、京都吉兆、神戸吉兆、東京吉兆があります。この船場吉兆は、過度の多店舗展開と経費節減を進めたため、2007年に賞味期限切れ食品の販売や産地偽装が発覚して、全店舗で営業自粛処分を受けて経営不振に陥りました。こうして2008年1月民事再生法の適用を申請、経営陣を刷新として、営業を再開したのですが、今度は客の食べ残しの使い回しが発覚、客足がさらに遠のき、有料顧客を失ってしまい、2年前の今日、看板を下ろして廃業の憂き目を見たのです。自業自得と言ってしまえばそれまでですが、顧客を粗略にして、利益優先に走った末の老舗料亭の哀れな末路でした。
2010.05.28
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世界経済の現状(139) イタリアはEUの前進、欧州経済共同体(EEC)の創設メンバー6ヶ国の一員(西ドイツ、フランス、ベネルックス3国そしてイタリア)でした。ですから、ユーロ入りを拒むわけには行かなかったと思います。しかし、ギリシア、ポルトガル、スペインをなぜ入れたのでしょう。誰が得をしたかというと、やはりドイツでしょう。ことここに至るまでは、南欧諸国が大いに得をしたと喜んでいたようですが、そこにはとんでもない危機が待っていた。危機を軽視したツケは、あまりに大きかったと言えましょう。ここではギリシアを例にとります。ユーロ導入以前、ギリシアは自国通貨ドラクマでは、輸入代金を受け取ってもらえません。ですから、ドルとかマルクとかを調達して支払うしかありません。当然ギリシアの輸入は、ギリシアの外貨調達力に規定され、それ以上の輸入は不可能でした。輸入が出来ず、物不足に陥ることがあっても、国が過大な借金を負わないという点では、ある意味健全でした。この点は昭和20年代から30年代半ばにかけての日本も同じでした。日本は工業原料の輸入国です。ですから、景気が上昇して原料輸入が増えすぎると外貨不足の黄信号が点灯します。それを合図に金融引き締めが行なわれて、輸入量を落すのです。こうして2年周期の景気循環が続きました。ギリシアに戻ります。この時期のギリシアは、国の信用力で調達する通貨は、ドルでもマルクでも、フランでもポンドでも、輸入代金の支払いに当てられる通貨であれば、何でも良かったのです。ですから輸入相手は世界の何処でも良かったのです。それがギリシアはユーロに加盟でき、ユーロの一員になりました。ユーロはギリシアの自国通貨デモありますから、ユーロ加盟国が対象であれば、自国通貨ユーロで支払えます。外貨に転換する必要などなく、外貨不足を気に病む必要もありません。となれば、必然的にユーロ圏のドイツやオランダとの取引が増えます。ドイツやオランダもにとっても、支払いはユーロなのですから、安心して受け取れます。そして、工業力では、ドイツはユーロ圏で1頭地を抜けた存在です。そこでは、日中などと競合することもなく、完全なお山の大将です。こうして、ドイツの対ギリシア輸出(同じく、スペインやポルトガルへの輸出も)は急造しました。そしてドイツ等の金融機関にとっても、ギリシアは良いお得意先になりました。ギリシアに金を貸しても同じユーロですから為替リスクはありません。しかも金利3%の自国と違い、ギリシアには6%と+3%で貸せるのです。余分の金利が稼げるとなれば、ギリシアに貸そうという金融機関が次々と出てきます。こうしてギリシアは、ユーロ圏諸国からの借金が、ほぼ無制限で出来るようになったのです。ドラクマ時代は、ギリシア自身の信用力がはっきりしていましたから、借金は自動的に安全装置が働いて、一定額以上は出来なかったのですが、ユーロになった結果、上限が撤廃されてしまったのです。そして、ドイツは貸した金で自国製品を買ってもらうことで、二重の儲けを手にしたのです。東ドイツを飲み込んだことで、その経済支援に苦しみ長い不振に陥っていたドイツ経済が、ユーロ導入によって息を吹き返した事情がここにあります。ドイツの輸出はユーロ加盟国中心に急造し、遂にGDPの40%を超えたのです。輸出立国とされる日本でも輸出は15%程度ですから、ここには大きな違いがあります。 続く
2010.05.27
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19世紀のアメリカ(25) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…25 上院議長を兼ねる副大統領には、マサチューセッツのジョン・アダムズが選出されました。現在の大統領選挙では、大統領と副大統領はセットで選出されますが、そうなったのは、1820年代のことで、当初は大統領は大統領で、副大統領は副大統領で、別々に選挙で選ばれていました。ですから2人の政治的立場が異なり、政策的に行き詰まることも少なくなかったのです。ワシントンとアダムズも、かなり異なった立場を持ちましたが、誕生したばかりの連邦政府の権威をどう確立するか、その点に強い情熱を傾けた点では、一致していました。特に合衆国憲法が、僅差で承認された州も半分近くありましたから、連邦政府の定着には、アンティ・フェデラリストとの融和が欠かせませんでした。ワシントンの意を受け、下院議長に就任したマディソンは、この問題に精力的に取り組み、憲法に基本的人権に関する条文を追加的に盛り込むことを提議したのです。マディソンは、各州が憲法を批准する際に付けられた付帯決議に、基本的人権に関する項目(英国流に「権利の章典」と呼んでいました)の欠如を懸念する意見が多かったことに着目して、早くも89年の6月に、憲法修正条項の追加を提案したのです。こうして、言論の自由、信仰の自由、出版や結社の自由、市民の武装の自由(余談ですが、この条項が現在の銃規制に反対の世論の拠り所になっているのですね)など、市民の権利を積極的に擁護する条項が、憲法修正第1条から第10条までの、アメリカ版「権利の章典」として誕生しました。この議論は議会は勿論、各州の批准手続きも大変スムーズに進みました。しかもこの批准作業の過程で、合衆国への参加を見合わせていたノースカロライナとロードアイランドでも、連邦への参加の意志が高まり、夫々89年11月と90年5月に、合衆国への参加を決めたのです。 ここに、共に独立戦争を戦った13の植民地の全てが合衆国に参加することになったのです。一方で財政問題を巡っては、全州にまたがる中央銀行を創設するか否かを巡って、意見が対立し、簡単に結論を得ることが出来ませんでした。連合レヴェルの銀行の創設を巡っては、既に連合会議の時期から懸案になっていたのですが、それが過度に連邦政府の権限を強化することにならないかという反端論もまた根強かったのです。合衆国通貨のドルの発行をどうするか。どうコントロールするかは、連邦レヴェルで考えるしかありません。となると発券銀行は全州に支店を持ち、州経済の状況を把握している必要があります。しかし、それでは中央銀行の力が強くなりすぎる。そのため、各州にも中央銀行を置き、各州中央銀行の総裁が、「合衆国銀行」の理事を務め、通貨政策を協議するというスタイルが出来上がったのです。1796年、大統領を2期務めたワシントンは、3期目の就任を辞退して、政界を引退します。副大統領としてワシントンを支えたジョン・アダムズが2代目の大統領となりましたが、副大統領には、政治的立場を大きく異にするジェファソンが大差で当選しました。こうした状況の中で、誕生したアメリカ合衆国は、19世紀を迎えることになるのです。 序章 完 続く
2010.05.27
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クロニクル 「酒鬼薔薇聖斗」事件1997(平成9)年5月27日酒鬼薔薇聖斗、このおぞましい名前、ご記憶のことと存じます。13年前のこの日、神戸の連続児童殺傷事件の犯人が、酒鬼薔薇聖斗名の犯行声明文を付して、被害少年の生首を、中学校の正門前に置いた事件が発生しました。後に逮捕された犯人が、この中学校に通う14歳の少年だったことが明らかになり、2度目のショックを受けたのも、それから間もなくでした。この少年犯罪の被害者は、いずれも神戸市須磨区に住む、小学生の女児4人と男児1人の5人で、2人が死亡、3人が重軽傷を負っています。犯行少年が、酒鬼薔薇聖斗を名乗った最後の事件は、被害少年を殺害したのは24日午後、殺害現場の通称タンク山のCATVアンテナ施設に隠した遺体から、首を切り離したのが25日の日中。犯行声明を付して、生首を中学校正門に置いたのが、27日未明だったとされています。
2010.05.27
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政治を斬る(93)イギリスの連立政権スタートしましたね。政策協定に、任期の5年間は解散しないと、強固な連立を謳う等、なかなかキャメロン、クレッグの若い両党首やりますね。何より感心したのが、政策協定に財政再建を掲げ、まずその第一に増税ではなく、緊縮財政を謳ったことです。えっ、それなら日本の民主党政権と同じじゃないかですって。ところが大違いなんです。彼らは、事業仕分けなんて言いませんが、名古屋の河村市長よろしく、最初に自分達の身を切る案を、しっかり提示したのです。議員歳費の削減、、議員定数の見直しを、財政削減の第一に挙げたのです。事業仕分けは見栄えは良いです。官の無駄も1部暴き出しもしました。しかし、大所の米軍への思いやり予算。外務省経費、防衛費などは、いずれも聖域扱いです。そして、最大の聖域が議員歳費であり、議員定数です。企業がリストラをするとき、社員のクビを切り、給与を減額するのに、社長以下重役陣の給与が手付かずでは、社員がソッポを向いて、リストラはうまくいきません。みずほ銀行が好例でしたね。ようやくダメ会長3人、渋々退任しましたが…。あの銀行、まだまだ浮かびそうにありませんね。経営陣があの状態では…日本の民主党政府は、クチを拭って知らん顔の議員定数と議員歳費を、まず最初に槍玉にあげた。イギリスの連立政府の姿勢を私は大いに評価します。しばらくイギリス政治に注目です。
2010.05.26
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19世紀のアメリカ(24) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…24 1788年6月、ヴァージニア、ニューヨーク、ニューハンプシャーの3州で批准のための会議が開かれました。ここで、カナダに近いニューハンプシャーが、カナダ経由でのイギリスの侵略の可能性を指摘する意見を受け入れ、連邦に参加する意志を表明して9番目の州となったのです。中部のニューヨークと中部に隣接しながらも南部に属するヴァージニアは、ニューハンプシャーの決断を知らぬままに議論を続け、連邦反対のアンティ・フェデラリストが、強く連邦の形成に反対し続けました。そうした中で、ヴァージニアでは、憲法批准の問題は、今や州同士の連帯か分裂かという問題に変質しているという指摘が強まり、反対派の1部がこの指摘を受け入れて、批准賛成に回りったことで、僅差で批准が実現しました。これで一挙に10州が批准を受け入れたことになりました。ヴァージニアの批准でニューヨークの反対派も追い詰められました。ここで後にワシントン政権の財務長官として、辣腕を振うことになるハミルトンが、「もし、合衆国憲法案が批准されないならば、ニューヨーク市はニューヨーク州を離脱するだろう」と演説して、反対派に強力な揺さぶりをかけたのです。この恫喝ともいえそうなゆさぶりが功を奏し、7月26日にニューヨーク州もまた、僅差で憲法案を批准したのです。こうして難産の末に、アメリカ合衆国は誕生しました。選挙を経て、第1回連邦議会が、ニューヨーク市のウォールストリートにある、ニューヨーク市庁舎で開かれたのは、1789年3月のことでした。この時点では、ノースカロライナとロードアイランドの2州が未参加のままでした。90%を超える得票でジョージ・ワシントンが初代大統領に当選したのは、4月6日のことでした。独立戦争の終結後、大陸軍最高司令官の地位に拘ることなく、あっさりと辞任し、財政難を知って司令官の報酬も1銭も受け取らずに、自らの農園に戻ったワシントンは、広く米国民の尊敬を集め、まさに超党派的に支持を集めたのです。4月30日、57歳で大統領に就任したワシントンは、国務長官にジェファソン、財務長官にハミルトンを任命します。急造の行政機構もまだ未整備で、最大規模の財務省でも、本省職員39人に徴税人と税関職員約1000人という陣容に過ぎなかったのです。陸軍省は5人の職員と3000人の軍隊があるだけでした。外交関係を司る国務省に至っては、4人の職員と1人の通訳がいるだけだったのですから、さすがのジェファソンも、しばし途方にくれたでしょうね。中央政府としての連邦政府は、極めて権限が弱くかつ規模も小さい政府として出発したのです。
2010.05.26
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クロニクル フォルクスワーゲン1号車誕生1938(昭和13)年5月26日フォルクスワーゲンは、ドイツの国民車を生産することを目的に、ヒトラーの肝いりで1937年に設立されました。ヒトラーは政権を獲得した翌年の1934(昭和9)年に、ベルリンのモーターショーで、国民車の製造計画をぶち上げ、フェルディナント・ポルシェに設計を依頼し、ポルシェの開発した車を製造する、国民者製造会社として、フォルクスワーゲンを設立しました。そして、72年前のこの日、フォルクスワーゲン・タイプ1の1号車がこの日完成したとされています。しかし、国民車のその後の歩みは、決して順調には進みませんでした。迫り来る戦争の足音の中で、フォルクスワーゲンの工場も、軍需工場に転換されたからです。現在のフォルクスワーゲン社は、第二次世界大戦後の1945年秋に、イギリス軍の管理下で再建され、新しいスタートを切ったことから、戦後のスタートと自ら称しているようです。
2010.05.26
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キャパの1枚先ずは写真を…1965年か66年でしょうか、『パリは燃えているか』という、第二次世界大戦のクライマックスの一つ、ノルマンディに上陸した米軍を中心としたパリ解放のドキュメンタリー作品を映画化した、映画がありました。その原作に使われた写真の1枚なので、この写真もパリ解放の一齣と伝える向きもありますが、この写真は、パリ解放に趣く連合軍が、パリへの進撃の中で解放した、中都市シャルトルで、キャパが撮影したものです。1944年8月の上旬のことです。シャルトル解放に喜ぶ市民が、ドイツ軍将校の愛人となり、子までなした女性をリンチにかけ、髪の毛を刈り取って丸坊主にして、街中を歩かせて溜飲を下げているところです。丸坊主頭の赤児を抱いた女性に向ける女たちの侮蔑的な視線が何とも気になります。興奮の最中には、こうした行き過ぎも多かったでしょうね。
2010.05.26
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19世紀のアメリカ(23) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…23各州での憲法草案の審議では、アンティ・フェデラリストと呼ばれた批准反対派が、連邦政府権力の肥大化の危険を強調し、さらに憲法に基本的人権の記述が欠けていることを指摘して、強硬に批准に反対しました。これに対してフェデラリストと呼ばれた批准賛成派も逐一反論して、激しい論戦が交わされました。一般に商業が発達している地域ほど、広域商業圏の成熟を期待して、賛成派が多く、農業地域は是々非々の態度に傾いていました。また、人口の少ない小さな州ほど、連邦への期待が高く、早い時期に批准が進みました。それは、上院の議席で大州と対等の2議席を認められたことで、大州並びに連邦政府に対する警戒感を解いたことと、連邦の形成によって外からの攻撃に対する防衛力の向上が図れることへの、期待が強かったことにありました。実際に13州の中で、最も早く合衆国憲法草案を批准したのは、中部のデラウェアでした、2番目こそ同じ中部の大州であるペンシルヴェニアでしたが、3番目のニュージャージー、4番目のジョージアは、共に満場一致での批准となったのです。5番目はニューイングランド地方のコネティカットでしたが、ここもまた大差での批准となりました。ここまでは比較的順調でしたが、年が改まった1788年に入ると、1月末に批准会議が開かれたニューハンプシャーとマサチューセッツでは、審議は難航を重ねました。ニューハンプシャーでは、否決を恐れて審議を延期したのですが、マサチューセッツを審議を続け、ボストンの商人や手工業者が、批准を強力に推進して、指導層を動かし、2月6日に僅差でしたが批准賛成派が勝利したのです。4月に入ると、7番目のメアリランドが批准し、南部のサウスカロライナがこれに続きました。こうして、合衆国憲法の発効に必要なのは、残り1州となったのです。残る5州はヴァージニア、ニューヨーク、ノースカロライナ、ニューハンプシャー、ロードアイランドです。このうち1州の批准に、手間取ったのです。 続く
2010.05.25
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世界経済の現状(138)スペイン中央銀行が、経営不振に陥っていたスペインの有力地銀カハスールを、公的管理の下に置いたというニュースが飛び込んできました。カハスールは日本で言えば、地銀トップの横浜銀行に当たる銀行です。囁かれていたスペインの住宅バブル崩壊の咎めが、いよいよ表面化し始めたようです。現在のスペインは日本のバブル崩壊後の局面に例えると、住専処理の泥沼化した95年~96年の状況から、金融メルトダウンの状況に陥る97~98年に至る過程のように思えます。スペインショックは、ギリシアショックとはわけが違います。手元の資料で、ユーロ圏諸国のGDPを比べると、ドイツが3兆6500億ユーロ、フランスが2兆8530億ユーロ、イタリアが2兆2930億ユーロ、スペイン1兆6040億ユーロと続きます。ギリシアはドイツの10分の1の規模の3570億ユーロ、ポルトガルはギリシアよりさらに小さく2430億ユーロに過ぎません。いよいよドイツの45%近い経済規模を持つスペインに、火の粉が飛んできたことになります。既にしてIMFやECBの金庫は空であることを昨日記しました。ヨーロッパの激震が近づいてきたように思われます。 続く
2010.05.25
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クロニクル ロバート・キャパ殉職1954(昭和29)年5月24日56年前の今日、インドシナ戦争取材中にの写真家ロバート・キャパが、地雷に触れて爆死しました。キャパは、スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、第一次中東戦争、および第一次インドシナ戦争の5つの戦争を取材した、20世紀を代表する、高名な戦場カメラマン、報道写真家として知られています。
2010.05.25
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世界経済の現状(137)IMFは欧州の為替安定化基金に2500億ユーロを提供することで合意しました。しかし、各種報道を総合しますと、どうやらIMFの支援額は、215億ユーロに留まるようです。なぜか、実はIMFの懐具合によるわけです。IMFには加盟国が拠出したお金をプールしている部分(一般引き出し権)と、それとは別の特別勘定(特別引き出し権)があります。今回は、この特別勘定を使って支援を実行するのですが、この特別勘定の貸し出し可能額が、5月現在215億ユーロしかなかったのです。250億ユーロ提供すると約束はしたけれども、財布の中には、それだけのお金がなかったというのが、真相だったのです。IMFの特別引き出し権は、加盟国が合意すると、IMFに対する出資金の割合で、加盟各国に比例配分して、資金をIMFに振り込んでもらう仕組みになっています。ですから、合意さえ出来れば、いくらでも増やすことが出来る仕組みです。しかし、ない袖は振れないけれどもIMFへの発言権は確保しておきたいと考える国があれば、その合意を得るのは至難の業となります。今回はまさにこれにあたります。ですから、特別勘定は、当分増やせない状況にあるのです。そして困ったことに、ギリシアに続く、破綻予備軍は南欧中心にいくつもの国がひしめき合っています。次なる要支援国が出てくれば、IMFはお手上げにならざるを得ない。こんな構図が見えてきます。勿論IMF以上にECBは危機的です。この状況が国際金融筋には、しっかり見えています。危機が去ることは、当分ありえないと考えたほうが良さそうです。 続く
2010.05.24
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19世紀のアメリカ(22) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…22合意された憲法草案は、連邦制の下での中央政府の権限を、憲法草案に明記された範囲に限定する、厳重な縛りを持っていました。連邦政府は、州政府の立法権を否定できず、州法を拒否する権限を持ちませんでした。外交、外交に伴う軍事の両権は確保しましたが、他は州際に関する調停権と、関税を主とした限られた徴税権しか持たなかったのです。輸入関税に限定された徴税権のみで不足する連邦政府の経費は、議会の決定に基づいて課税権を持つ各州が人口比で分担することになりました。上院議員は、各州の人口に関係なく各州2名となりましたが、人口比で決まる下院議員の割り振りは、割り当てられる分担税とも絡んで、各州の利害が対立したのですが、結局基準となる人口の算出について、黒人奴隷についても、自由人の60%扱いで、人口に含めることで合意が成立したのです。課税割当を減らすためなら、奴隷を計算に入れないほうが有利ですが、下院議員を数多く獲得するためには、奴隷も人口に数える方が有利です。ここから黒人奴隷を多数抱える南部諸州は、奴隷を自由人の60%(5人の奴隷で、自由人3人分)とする案を受け入れたのです。議員の選出について、もう一つ問題となったのは、参政権の範囲を何処まで認めるかでした。デモクラシーの行き過ぎを警戒するグループは、選挙権を自由な土地所有者に限ること、上院議員の被選挙権を一定以上の財産所有者に限ることなどを提案しました。これに対し進歩派は、各州の州議会の選挙権や被選挙権が、州毎に違っていることをあげて反対し、遂に下院議員の選挙権を、男性の自由人全体とし、一切の制限を設けない直接選挙とする案を定めたのです。上院議員の被選挙権を制限する案も阻止され、ここに連邦政府の公職は、財産や宗教による差別を一切受けずに、誰もがその椅子を目指せることになったのです。こうして制定された憲法草案は、各州が夫々に人民投票を実施して、賛否を定めるものとされ、連合会議の手で、9月28日に、各州に送付されました。各州は、驚きをもって憲法草案を受け取り、すったもんだの議論を繰り返しながら、草案を承認するか否かの人民投票を準備した緒です。それは、EU憲法の草案を承認するか否かに、思い迷った数年前までの欧州諸国の姿に、近いものだったかも知れません。 続く
2010.05.24
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クロニクル 日本初のゴルフ場開業1903(明治36)年5月24日107年前のこの日、日本初のゴルフ場、神戸ゴルフ倶楽部が開業しました。倶楽部を建設したのは、イギリス人貿易商A.H.グルームでした。神戸市の六甲山上に造られた日本最古の名門ゴルフ場です。倶楽部は、海抜850mにあり、11月中旬から4月中旬は雪のためクローズとなります。開場当時、六甲山には外国人の別荘が建ち並んでいました。彼らのレジャーと社交の場としての利用が造成の目的でした。開場当初は4ホールでしたが、その後造成し18ホールに。ただパーは61です。
2010.05.24
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世界経済の現状(136) ギリシアに始まるユーロの混乱、中国の金融引き締め、アメリカの金融規制などの影響で、世界の株式市場などで、投機資金の引き上げが続き、世界同時株安が起きています。そしてリーマンショックの時と全く同じように、日本の株式市場の下落率が特に大きくなっています。これはなぜでしょうか。日本の経済回復が特に弱いからでもありません。日本国債にデフォルトの可能性が高いわけでもありません。特に円は、世界で最も安全資産として、大きく買われているからこそ、ユーロのみでなくドルや豪州ドルに対しても、大きく買われて、円高になっています。円は買われるのに、日本株は売られているのです。これは日本の株式市場での、最大の買い手が国内勢ではなく、海外勢だからです。兜町用語で外人と言いますが、この外人の売買シェアが、60%に達しているのです。そのため、外人がリスクを取ることをやめ、資金を安全資産に移そうとすると、日本株は何処よりも大きく値を下げるのです。その現象が今回も起きたのですね。そう考えると、当分株式市場はパットしない動きが続きそうなことが、見えてきますね。 続く
2010.05.23
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19世紀のアメリカ(21) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…21 さて、87年の連合会議では、開拓の進む西部の土地をどう扱うかを考える中で、13の邦とは別に中央政府を作るべきか否かについて、真剣な討議がなされました。その結果、いくつかの邦の代表から、持ち帰って議論するにしても、何もたたき台がないのでは、雲をつかむような話で、議論自体が進まないだろうからと。中央政府を設ける場合の具体案の提示が、求められたのです。中央政府の積極推進派にとって、これは渡りに船でした。しかし、強力な中央政府を志向して、州の独自性を否定するようでは、まとまるものもまとまらなくなってしまいます。ここからが、穏健派の出番でした。彼らは、1、中央政府の権限を最小限に絞った緩やかな連邦制とすること2、中央政府の権限を強めない保障として、三権分立の徹底を図ること3、人民主権を確認することの3点を約束して、憲法草案を作成することを提起したのです。これは大方の賛同を得、とりあえず憲法草案が作成されることになりました。緩やかな連邦制の内実として、中央政府が握るのは、外交権とそれに付随する宣戦と講和に関する権、貨幣の鋳造権、僅かな徴税権の3点だけだったのです。この徴税権は、外交官等、中央政府機関の役人の給料を賄うための、ごく僅かなものでした。その他の事項は、各州が独自に決定する権限を確保したのです。州独自の憲法を持ち、独自の徴税権、教育制度を定める権限があったのです。後に話題になる黒人奴隷制度も、自由州となるか奴隷州となるかは、まさに州独自の権限の一つだったのです。そして三権分立です。これはフランスの啓蒙思想家の1人モンテスキューが、国王の専制権力を制限する手段として、権力の実態を分析して、立法権、行政権、司法権の3部門を抽出したことによって生まれた考え方でした。立法権は議会が、行政権は国王が、司法権は裁判所が分け持つことによって、独裁が登場することを防グという仕掛けです。アメリカの場合、国王に替わって任期4年の大統領が行政権を握りますが、立法権は独立した議会が、司法権はこれまた独立した裁判所が握り、相互に牽制し合う制度が作られたのです。最後に、人民主権を強調することで、中央政府権限の肥大化をここでも牽制できることを示したのです。これ以上はないと言って良いほど、緩やかで弱い中央政府の存在が除いています。各邦の代表は、これなら出身邦の賛同を得られるかもしれないと考え、持ち帰って検討することを約束し、同時に13邦のうち、3分の2以上の邦(つまり9邦)が、人民投票で賛成を表明した場合、アメリカ合衆国憲法は成立したとみなし、合衆国がスタートすることを合意したのです。フィラデルフィアで開かれたこの会議は、1787年5月から延々9月までの長丁場で、ようやくここまでの結論を得たのです。人口の多い州と少ない州の対立の妥協点として、上院議員は各州2名の均等とし、下院については人口比とする妥協も、ちゃんと成立していたのです。下の絵をご覧下さい。フィラデルフィア会議を描いたものです。中央の議長席に座るワシントン、その前のテーブルでノート風のものを広げているのが、書記のマディソン。彼がこの会議の詳しい記録を残してくれました。また左側の前列2人目が、81歳の老骨に鞭打って、会議の分裂を避けるために献身した老フランクリンです。こうしてボールは、各邦(州)に戻されたのです。 続く
2010.05.23
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クロニクル 日本で最初のキスシーン登場1946(昭和21)年5月23日8/15からまだ1年も経たない時でしたが、戦争中抑圧されていた歌謡界、演劇界、映画界、そして学界や文壇などは、解き放たれた自由の息吹に、百花繚乱の賑わいを見せ始めていました。並木路子の『リンゴの歌』が、街頭に向けたラジオから明るい歌声を響かせ始めた頃でしょうか。この日、佐々木康監督作品『はたちの青春』が、』映画館で封切られました。そうなんです。この作品で大阪志郎、幾野道子のお2人によって、日本映画で初めてのキスシーンが銀幕に登場したのです。時間にして僅か5秒ほど、現在から見れば、頬をよせてそうみせかけているだけのようにも見える微妙なシーンなのですが、当時としてはちょっとしたセンセーショナルを呼び、各地で上映館は大入り満員の盛況となったのでした。キスシーンと言えば、私はいつも、平尾正晃の『星は何でも知っている』の甘くせつない歌声を思い出してしまいます。
2010.05.23
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世界経済の現状(135) さて、南欧諸国の財政と経済を再建するには、どうすれば良いのでしょうか。ユーロ加盟したままの状態で、再建は可能でしょうか。ユーロに加盟している限り、ギリシアやスペインなどの南欧諸国が、1国だけ為替レートを切り下げることは出来ません。共通通貨ユーロですから…。通貨価値の切り下げは、ユーロを離脱して、ギリシアドラクマとか、イタリアリラ、スペインペセタと言った、独自通貨に戻らない限り、出来ない相談です。しかし、一方で、価値が劣化してしまった通貨を救済するためには、かつてのドルショックのように、交換レートを切り下げるしか手がないのです。この点では、アルゼンチンの通貨危機の収拾に失敗し、その信用を失墜したIMFの反省がヒントになります。97年のアジア通貨危機、並びに2001年のアルゼンチンの通貨危機の収拾に際し、IMFはかなりの不手際を犯し、国際的に厳しい批判に晒されました。そこからが、さすがIMFでした。失敗の原因を分析した報告書をまとめ、今後の指針とすることを躊躇わなかったのです。そこに記された、アルゼンチンでの失敗の最大の原因を、IMFは、価値を失いつつあったアルゼンチンペソの価値を、救済資金を投入して何とかして守ろうとして、傷を大きくしてしまったことだと、はっきり指摘したのです。確かにアルゼンチンの通貨危機は、思い切った通貨価値の切り下げまで終ることはなかったのです。とすれば、今回のユーロ危機もまた、弱い国々の通貨を切り下げるまで、収拾の糸口がつかめないことに変わりはないことになります。かといって、ドイツやフランスを含むユーロの全体を切り下げることが妥当かというと、それは出来るはずがありませんし、国際的にも大きな混乱を招きます。そうなると、残された手段は、財政基盤が弱く、このままでは救済不可能なギリシアやポルトガルなど南欧諸国を、一つ一つユーロから切り離し、通貨価値を大幅にディスカウントして、輸出主導で経済を再建する以外に、これら諸国の経済を再建する道は、ありえない。私はこう考えています。
2010.05.22
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19世紀のアメリカ(20) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…20ここから憲法の制定と合衆国の誕生に至るのですが、その前に現在の米国の姿からすると、容易には信じられないような米国の軍隊のことを記しておきたいと思います。本日だけの寄り道です。独立戦争を戦った、ワシントンを総司令官とする大陸軍はどうなったのでしょう。パリ講和条約の結ばれる少し前、休戦協定下で和平交渉が行なわれていた1782年12月のことです。和平近しで、13の邦の多くが軍隊の維持経費の支払いに不満を表明し、兵士への給料の支給が遅れていたのです。こうなると兵士の連想は悪い方へ悪い方へと流れます。噂は噂を呼び、将来に約束された年金の支払いも反故にされるのではないかと、真剣に懸念されたのです。そこで、約1万人の将兵が駐屯していたニューヨックのハドソン河畔の駐屯地の全員が、年金を一時金に変更して支給して欲しいと、連判状を作成して、連合会議に代表を派遣したのです。ところが財政事情のままならない連合会議は、将校や兵士を納得させるような回答を、用意することが出来ませんでした。不満の募った将兵は、平和条約が発効しても武装解除せず、大陸会議に圧力をかけることを考えました。軍が政に反旗を翻す可能性が高まったのです。事態を察知したワシントンは、懸命に将兵をなだめます。それは必死の説得でした。ことの重大性を悟った大陸会議も、ワシントンの要請を入れ、3月中に年金の一部を一時金に変更する措置をとって、事態の収拾を図りました。こうして事態は解決に向かったのですが、軍という武装機関は、不満があれば武装蜂起という手段で、政治を脅かす可能性のあることが、強く大陸会議のメンバー、即ち草創期のアメリカの政治指導者たちに、認識されたのです。ここから、平時における常備軍は、その最小部分しか保持せず、有事に限って緊急召集する制度が考案されたのです。パリ条約締結後、大陸軍がただちに解散となりました。兵士は戦争の勃発と共に召集し、戦争が終れば召集を解除する、軽武装国家の伝統が、この時から築かれていったのです。ですから、意外なことに米国の常備軍は、第二次世界大戦までの時期を見ると、国家の規模からして、極めて小さなものに過ぎなかったのです。1945年以前の米国には、軍事大国の姿は露ほどになかったのです。 続く
2010.05.22
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クロニクル 東京ゴミ戦争勃発1973(昭和48)年5月22日37年前のことになります。区内にゴミの最終処分場、夢の島を持つ江東区が、区内の高井戸地区への清掃工場建設に反対して、建設計画の実行を妨害している杉並区を、を地域エゴと断定して、杉並区からのごみの搬入を拒否してピケを張り、杉並区のゴミ収集車の処分場への入場を阻止して、実力で追い返す事件が起きました。その第1日目が今日だったのです。「東京ゴミ戦争」とは、当時の美濃部知事の名言でした。基地問題でも、地域エゴは問題になりますね。沖縄県民と共に、「日本に米軍の基地は要らない」とか、少なくとも「大きく減らせ」という運動は、一緒にやる必要がありそうですね。同時に予算厳しき折柄、「思いやり予算全廃」の運動も…。
2010.05.22
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世界経済の現状(134)ドイツが何ともまずい手を打ちました。ドイツ市場で、ドイツ並びにユーロ圏諸国の国債や銀行の株や社債について、空売りを禁止するというのです。実際に株券や債券を持っていないと売りたてしてはいけないというのです。その上、国債のCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)の空売りも禁じるというのですから、念が入っています。先物の売買や、日常取引における空売りは、リスクヘッジのための大切な手段です。特に先物売買は、日本の大阪の米会所が世界で最初に導入した、リスクヘッジ手段として、世界に普及したシステムです。これを禁じるとどうなるか。リスクヘッジが封じられて出来なくなってしまった資産を、誰が入手するのでしょう。世界の投資家にとって、最も大切なことは、市場規模が大きく、売りたい時にすぐに売ることが出来、同時におよそ売値が予測できる環境が、準備されているかどうかです。先物取引や空売りの機能は、そのための大切なツールの一つでした。その手段をドイツ政府は奪ってしまったのです。となると、ドイツ国債やユーロ諸国の国債は、リスクヘッジの出来ないことから、安全資産とは見なし難いということになります。連日のように繰り返される売り注文の多さに、耐えかねての措置だったのでしょうが、全く馬鹿げた措置をとったものです。果たせるから、逆にドイツやユーロ圏の国債に見切りをつけ、保有資産を売りに出す大口投資家が後を断ちません。ドイツは身から出た錆ですが、日米中印などを含む、世界の投資家はいい迷惑ですね。私自身は、ドイツの金融当局の思考レヴェルは、この程度だったのかと、些か呆れながら、ガッカリしています。当分世界経済は低迷しそうです。 続く
2010.05.21
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19世紀のアメリカ(19) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…19独立した13の邦の中には、統一国家推進派と邦の独自性を重視する国家連合派とが、混在していました。植民地時代から、夫々の植民地は一定の自治権を確保し、夫々に植民地議会を持っていたのですが、そうした指導者クラスの人々の間でも、意見は多様でした。その上、統一推進派の中でも、強力な中央集権国家を目指すグループと、緩やかな中央政府を目指すグループとは、また大きく違っていました。独自性重視派もまた同様でした。尊王派と佐幕派、攘夷派と開国派が複雑に入り混じった幕末日本と同じような、混沌とした状況が、当時のアメリカにあったとお考えいただくと、分かり易いように思います。それでも、独立したアメリカが、13の国家に分かれずに済んだのは、いつかイギリスが心変わりして、北に隣接するイギリス領カナダや、カリブ海の植民地を拠点に攻め込んでくるかもしれないという、警戒心をとくことが出来なかったからです。そうこうするうちに、パリ条約でイギリスから譲り受けたアパラチア山脈西側の地域(この地域は13邦全体の公有地となっていました)のうち、現在のケンタッキー州やテネシー州にあたる一帯の植民が進み、新たな開発地をどう扱うかという難問が、連合会議にのしかかってきたのです。もはや、独立アメリカの国家形態の問題は先送りできません。しかし、どのグループも単独で多数を制する勢いはありません。となると現実的な判断は、「一つのアメリカを実現するが、強力な中央集権は目指さない」という、穏健な中央政府派と、「13の小国家体制とするが、連合会議は残そう」という、小国家連合模索派との妥協工作ということになります。ポイントになったのは、米国内で独立戦争の戦争債券を持つ人たちに対する、債券の償還資金をどう確保するかでした。償還には財源が必要です。しかも、支払い責任は連合会議にありますから、連合会議に独自な財源の確保を認めることが必要でした。こうして、国家主権の重要な要素である独自の徴税権を、連合会議に賦与する必要が生じたのです。それが、条件付ながら連合会議に、関税徴収権を賦与する決定となって、実現していたのです。緩やかな統一国家を模索するグループにとって、これは大切な手がかりでした。 続く
2010.05.21
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クロニクル 裁判員制度スタート2009(平成21)年5月21日1年前の今日、裁判員制度がスタートしました。この日以降に発生した事件が裁判員裁判の対象とされたのです。こうして準備を整え、8月3日に初めて裁判員を加えた裁判が実施されました。 皆さんには、まだ裁判員のご指名は届きませんか。
2010.05.21
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世界経済の現状(133)7500億ユーロ(約85兆円)の為替安定化基金の創設が謳われ、金額の大きさが市場予想を大きく上回ったため、一時的に市場の落ち着きが見られましたが、詳細に眺めますと、大きな問題点が浮かんできます。先ず、7500億ユーロの内訳を見ますと、4500億ユーロは、ユーロ圏諸国全てが参加する政府間の相互信用保証、相互与信です。2400億ユーロはIMFの融資、そして600億ユーロが為替等の介入資金となっています。これは、ユーロの加盟国間で、国同士が信用を与え合って、為替介入をしようというものです。正直に言うとこれは茶番です。ギリシアの危機が波及して、ユーロ自体が大変困難な事態におかれているときに、ユーロを貸し借りすることに、何の意味があるのでしょう。通貨が国別であれば、強いマルクを借りて、ドラクマだペセタだリラだを、買い支えることは出来るかもしれません。しかし、ドイツも同じユーロなのです、ですから、10日月曜日の日本市場が開く前に、ドイツ銀行は日銀に駆け込んで、必要なだけの円資金を融通してもらう約束を取り付け、事なきを得たのです。ギリシアもそうですが、ポルトガル、スペイン、イタリアらがドイツと資金を融通しあう協定を結んで(これをスワップラインの設定と言います)、それでどれだけユーロを買い支えられるというのでしょうか。ユーロを支えるには、ユーロ以外の通貨が必要です。円、ドル、元などです。市場の信頼を失ったユーロ同士でスワップラインを結んでも、それは何の役にも立ちません。効果があるのは、日銀やFRB、そして中国人民銀行と無制限な(つまり必要とするだけの全額)スワップラインを結ぶことだけです。これは可能でしょうか。FRBや日銀が円資金やドル資金をスワップするとして、スペインやイタリアの国債が裏づけでは、話になりません。相手がドイツだからこそ、10日の話はまとまりました。結局、この為替安定化基金の出し手は、一部にフランスやベネルックス諸国が加わるとしても、主要部分はドイツが担わざるを得ないのです。結局全てはドイツの肩にかかってくる。ドイツはこれを警戒しています。共倒れを畏れるからです。あちこちの行儀の悪い、放漫財政の国を救済することは、それだけドイツにマイナスに働きます。救済の結果として、不良債権を大量に抱えるのですから、それは当然です。それはドイツ自身の与信能力の低下を招きます。まさに1997~2003年にかけて、日本のメガバンクが陥っていた引き当て不測による与信能力の喪失と、同じ事態にドイツ自身が陥る確率が高いのです。つまり、今回のユーロとユーロ圏の防衛策は、いわば絵に描いた餅と同じで、実効を伴うものになっていないのです。ユーロの危機はまだまだ続くでしょう。 続く
2010.05.20
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19世紀のアメリカ(18) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…18 パリ条約で独立を達成したアメリカは、独立戦争を戦った13植民地とほぼ同規模の国土を、イギリスから貰い受けました。13植民地の西の境界は、アパラチア山脈に接していたのですが、その山脈の西方に広がるミシシッピー川(紫の線です)までの領域が、ポンとアメリカに譲られたのです(ピンクの線の西{左}側、五大湖の南{下}側)。下の地図の何色とも表現し難いような、不思議な色の部分です(摂さん、お手数ですが、この色の表現、よろしくお願いします)。ニューファンドランド島周辺の漁業権も確保しました。アメリカ側がイギリスに約束したことは、戦争中にイギリスに味方した1部の人々を処罰も差別もしないことと、対イギリスの債務の返済を実行することの、2点だけでした。イギリスはまた、スペインによるフロリダ領有も認めたのです。こうして、1783年9月、アメリカは晴れて独立国となったのです。しかし、ここからが問題でした。ずっと伏線として書いてきたのですが、独立戦争は13植民地の集合体と、イギリスとの戦争でした。その植民地柄の指導機関が連合会議であり、その軍事部門が大陸軍でした。そして、イギリスとの和平交渉に臨んだのも、連合会議の代表でした。ですから、イギリスは勿論、アメリカを支援した大陸ヨーロッパの国々も、連合会議代表を一つのアメリカの「代表として認識し、アメリカは1国として西欧諸国に承認されたのです。しかし、連合会議は13の地域代表というか、邦(=小国家)の代表の集合体です。イギリスへの怒りの感情ゆえに、小異を捨てて団結した13の邦やその代表は、独立を達成したことで、目的を達成してしまったのです。それゆえ、独立後のアメリカは、13邦が夫々に主権を持ち、緩やかな繋がりを持つ、今のEUのような組織体にすべきであるという議論が、主力となったのです。ただ、そこにも問題がありました。イギリスが気前良く分けてくれたアパラチアの西の地域(これこそが、19世紀20年頃までの西部開拓地です)をどうするかです。そしてまた対英債務だけでなく、戦争中にフランスやオランダから借り入れた戦時債務の返済をどうするかが問題になりますし、国内で調達した借金の返済もしなければなりません。こうした一つのアメリカであることをやめてしまうと、次々に難問が降りかかってくるがゆえに、この時期のアメリカは、まさに首の皮一枚で、13の小国へ分解しないで済んでいたのです。 続く
2010.05.20
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クロニクル 味の素発売1909(明治42)年5月20日昨年の今日、味の素は発売100年を迎えました。101年前の今日が、記念すべき「味の素」の発売日だったのです。100年間、変わらぬ味というものがあったのですね。味の素は、食品会社として知られますが、現在は化粧品ブランド「Jino」の製造販売、アミノ酸生産技術を活用したケミカル事業や医薬事業も行っています。1991年には、カルピスを傘下に収め、2007年10月には、完全子会社としています。今でも元気イッパイの様子です。なんだか嬉しいですね。身近に明治が残っていました。
2010.05.20
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世界経済の現状(132)ユーロ圏の国々とIMFによるギリシア支援(=国債借り換え資金の融資)の実行によって、当面ギリシアのデフォルトは回避されました。しかし、それでもユーロの信用は回復しておりません。それは、ギリシアは既にして、その経済的実力からすると、分不相応なまでに借金を膨らませている現実があるからです(実はこの点が日本との決定的な違いになります。)。ユーロ圏にイギリスを加えた国々は、現在でも多額の与信(つまり貸し付け)をギリシアに対して与えているからです。ですからこの上さらにギリシアに貸し込むことは、破綻した長銀がそうであったように、そごうやダイエーなどに追い貸しを続けて延命させたのと、同じことになるからです。ギリシアへの支援として、貸付を増やすことは、ユーロが全体として脆弱性を高めることに繋がるのです。まさに、「日本の失敗の経験に学べ」なのです。ギリシアへの直接支援の1100億ユーロとは別に、IMFの協力も得て、3ヵ年を期限とする7500億ユーロの為替安定化基金を、設立するプランも打ち出されました。しかし、このプランは、今のところ華々しく打ち上げられたアドヴァルンに留まっており、具体案は発表されておりません。ただの打ち上げ花火に終ることも、十分考えられるのです。市場は、数日を経て、そのあたりの問題点を突き始めているように思われます。 続く
2010.05.19
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19世紀のアメリカ(17) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…17 サラトガの敗戦を経験したイギリスは、指揮官の交代を決断し、ヘンリー・クリントンが新最高司令官に就任します。彼は、戦線を南部に移動させ、イギリス産業と関係の深い、南部のプランテーション地帯の確保を優先したのですが、大陸諸国の支援を受けた大陸軍が、次第に優勢となっていきます。1781年3月には、ノースカロライナのギルフォードで、コーンウォリス将軍が指揮するイギリス軍の主力部隊が、大陸軍に大敗します。敗れたコーンウォリスは、ヴァージニアのヨークタウンに部隊を移し、この地での決戦に備える戦術を取りました。これに対し、ワシントンは、フランス海軍の西インド艦隊に支援を要請して、共同作戦を立てて、砲撃によってイギリス海軍に打撃を与えると、敵を追うことなく引き返して、チェザビーク湾を封鎖する作戦に出ました。補給路を断たれたコーンウォリス指揮下のフランス軍は、大陸軍とフランス軍に完全に包囲されて、万策尽きたのです。同年10月19日、コーンウォリス軍は降伏します。この敗北の結果、ようやくイギリス本国は、フランスに仲介を依頼して、和平交渉に入ることを決断したのです。この和平交渉は、82年7月になって、ようやく本格化します。変わり身の早いイギリスは、アメリカ側の要求の大半を認める代わりに、アメリカとの友好関係を維持し、輸出入を含む貿易関係から得られる利益を、全面的に維持することに狙いを絞りました。この結果、交渉は順調に進み、1783年の9月3日、パリ講和条約が調印の運びとなったのです。 続く
2010.05.19
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クロニクル 東京六大学野球リーグ戦再開1946(昭和21)年5月19日敗戦翌年のことですから、64年前のことになります。この日、1943(昭和18)年から中断されていた、六大学リーグ戦が再開されました。といっても2勝で勝ち点の方式ではなく、先ずは1回戦制での再開でした。前半は上井草球場、後半は後楽園球場を使いました。神宮球場の利用は、秋季のリーグ戦から1部可能となりました。 勝ち点制になるのは、1948年のリーグ戦からでした。
2010.05.19
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世界経済の現状(131) ECBとIMFによる、ギリシアへの1100億ユーロの貸付は、ギリシア国債の借り換えのための融資です。一方でギリシアの債務の削減には手がつけられれていませんから、これは、単なる借金先の変更に留まってしまいます。しかも貸付利子は、市場金利に準じて付けられるのですから、実際は、金を返すために、サラ金から金を借りた多重債務者のような境遇に、ギリシアは陥ったことになります。ギリシアは、現行の金利すら払えない状況にあり、だからこそ、国際的な支援を受けざるを得なくなったのです。そして、ギリシアは高利の利息を払い続けることが出来るのか?ということになります。 当然支払いは、不可能でしょうから、ギリシアはどこかでデフォルトせざるをえない。こういうことになるのではないかと、市場が予測しているからこそ、ユーロは売られ、ユーロの信認は揺らいでいる。こうなっているように思えます。そして、支援の実施のために、ギリシアは緊縮財政プランの実行を迫られており、皺寄せを受ける市民が反発して、その実行が疑問視されているのです。緊縮財政でGDPが減少し、所得税収や法人税収が落ち込めば、財政再建の実現も怪しくなります。こうした袋小路に、現在のユーロ圏は入り込んでいるのです。 続く
2010.05.18
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>マクドナルド1号店開店< リンダ夫人のコメント紹介15日に記した「マクドナルド1号店」の記事に、カリフォルニア州オレンジ郡にお住まいのリンダ夫人が、同社の成功物語を大変分かり易く、しかもかいつまんで紹介した、素晴らしい文章を、コメント欄に寄せてくださいました。私1人で独占しては、もったいないので、以下に紹介させて戴きました。私自身、クロック夫妻に関する記事を拝読しながら、昨年秋に連載したデパートの誕生で取り上げた、プシコー夫妻とりわけ、プシコー夫人のことを思い出しておりました。マダム、有り難うございました。> 最初はマクドナルド兄弟が始めた店だったのです。すごく繁盛している店があるという 噂を聞きつけたのが、飲み物の機械のセールスマンだったレイ・クロックという人物でし た。 <> フレンチ・フライ(ポテトの揚げたもの) とハンバーガーの組み合わせが絶妙だと気ずいたクロックは、交渉を重ねて、店の買収に成功。 クロックが発案した(フランチャイズ方式)により、あっと云う間に全米に広がりました。今や全世界で知らぬ人のないアメリカを代表する産業になりました。 <> クロックの目には全てが見えていたのですね。 クロックのお陰でミリオネヤーになった人が大勢います。 <> ある会合で運命的な出会いをした女性と、お互いに伴侶を捨てて一緒になったクロックですが、2人目の夫人が傑物だったそうです。 <> クロック亡き後は夫人が会社を引き継ぎましたが、彼女は大変な慈善家で、重病の子供を持つ親が病院の近くに安く泊まれる「マクドナルド・ハウス」を始め、ホスピスなど多くの慈善事業に取り組みました・晩年はサン・ディエゴに住んでいました。 <> ハイウエイの脇にひときわ目立つマックのサインに引かれて、ドライブ中は便利しました。 <> マクドナルド兄弟とレイ・クロックの出会いがミラクルを産んだのですね。 <
2010.05.18
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19世紀のアメリカ(16) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…16ワシントンは、数的にも物量的にも不利な状況を理解して、主力決戦を回避してゲリラ戦で、イギリス軍の弱みを突く戦術に徹しました。兵力を温存して、地の利を生かし、イギリス軍の弱みを突く作戦に徹したのです。その成果の一つが、76年のクリスマスに、ニュージャージー植民地のトレントンで、お祭り気分のドイツ人傭兵部隊(イギリス軍は、海軍力に比べ陸軍力は格段に落ちるため、屈強なドイツ人傭兵部隊を、植民地の戦場に投入していました)を奇襲し、これを降伏させています。参戦の機会を探っていたフランスなど、大陸ヨーロッパの国々は、北米植民地からの借款の申し出に快く応じながら、なお、慎重に形成の推移を見守りました。大陸諸国の参戦を引き出すには、もう一段の戦勝が必要でした。その参戦を決定付けたのが、77年10月のサラトガの勝利でした。このときイギリス軍は、ニューイングランドを包囲、孤立させる作戦を描き、カナダのモントリオールに集結させた部隊を、南下させたのです。情報をキャッチした大陸軍は、迎撃態勢を敷くと共に、地の利に明るいニューイングランドの民兵隊が、イギリス軍の行軍の過程にある長い森林地帯での一斉狙撃を行なって、大きな痛手を負わせました。その後もゲリラ戦に悩まされて、心身ともに疲労困憊したイギリス軍は、遂にサラトガ附近で包囲されてしまい、降伏に追い込まれたのです。この勝利の報を受けたフランスは、駐仏大使フランクリンを通じて、北米植民地をアメリカとして承認する旨を伝達し、78年2月には、仏米同盟条約と通商条約を結ぶに至ったのです。フランスに続いてスペインも参戦し、さらに80年に入ると、イギリスと険悪な関係にあるオランダも、アメリカを支援するようになったのです。ここに形勢は逆転しました。大陸ヨーロッパの国々が続々とアメリカ軍の支援に立ち上がり、孤立してしまっては、イギリスといえども多勢に無勢です。北米植民地の独立への流れは、ここに定まったのです。後はイギリスの決断の問題でした。 続く
2010.05.18
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クロニクル アークヒルズ誕生1986(昭和61)5月18日アークヒルズは、赤坂1丁目と六本木1丁目にまたがって建設された複合施設です。赤坂と六本木をつなぐという意味で、ARK(アーク)ヒルズと名付けられました。開発主体は森ビルで、1967年から周辺の土地取得に入り、20年を費やして、ようやく第一期工事が竣工を見たのが、86年4月末のことでした。そしてこの日、完成披露パーティが開かれました。完成したオフィスビルは、折からのIT化の進展の中で、衛生通信の送受信機能と、ひかりファイヴァー網を全オフィスに完備し、国際金融も拠点タルに相応しい設備を整えていました。そのため、世界の金融市場を相手に24時間態勢で仕事をするトレード部門を持つ金融機関に重宝され、入居希望が殺到する事態となりました。以後新規高層ビル計画が、目白押しとなるなど、バブルの全盛期に向けての、全力疾走の嚆矢となったのです。
2010.05.18
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19世紀のアメリカ(15) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…15ヨーロッパ大陸の国々は、北米植民地の「独立宣言」の発表を歓迎しました。これで、イギリスの内戦は、アメリカの独立戦争だとみなすことが出来るようになったからです。とすれば、その気になればいつでも軍隊を派遣して、この戦争に介入することが出来るからです。なぜか。スペインも、オランダも、フランスも、海外植民地や海外貿易を巡って、いずれもイギリスに煮え湯を飲まされていたからです。スペインはカリブ海植民地や、アフリカ沖の植民地や港をいくつも奪われていましたし、オランダもまた、イギリスに海上の覇権を奪われ、切歯扼腕していました。そしてフランスは、北米並びにインドを巡る覇権争いに敗れ、インドからも北米からも撤退知る仕儀となっていました。いずれの国も、イギリスへの復讐の執念に燃え、そのチャンスの到来を待ち望んでいたのです。北米植民地での内戦が独立戦争となった今は、願ってもないチャンスが到来したように見えます。各国は欣喜雀躍しながら、効果的な介入のチャンスを待ったのです。それは、喜びすぎてすぐに介入したとして、十分に勝算が立つのかどうかを、しっかり瀬踏みする必要があるからです。植民地軍の力量がいったいどのくらいのものなのか。しっかり見定めないと、またもやイギリスにしてやられるかも知れないからです。こうした先ずは、政府が正面に立たず、ひそかに武器援助や資金援助を行い、民間の義勇軍の派遣に、密かに便宜を図る程度に留めたのです。この点でも、独立宣言が啓蒙思想の精神に学んでいることはプラスに働きました。若き侯爵、後にフランス革命の初期に大活躍するラ・ファイエットは、自ら義勇軍を組織してアメリカにわたり、ワシントンと親交を結んで、活躍しています。ポーランド軍の大尉だったコシューシコは、ベテランの工兵士官として、陣地戦に置ける堅牢な陣地の構築術を、植民地軍に惜し気もなく伝授しました。またプロイセンの陸軍大尉シュトイベンは、兵士訓練の腕をワシントンに見込まれ、遂には78年に大陸軍の教育総監を引き受け、大陸軍の勝利に貢献しています。シュトイベンの訓練方法は、ワシントンにとっても目からウロコでした。彼は、将校の威信を重視する旧来の貴族的やり方を無視して、兵士の訓練を下士官任せにせず、将校自らが率先して見本を示し、兵士の尊敬と好感を獲得して、連帯の一体感を強め、士気を高めることを狙ったものだったのです。それは、民兵の多い、大陸軍にとって、実に適切な方法でした。 続く
2010.05.17
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クロニクル プッシュホン発売1969(昭和44)年5月17日41年前ですね。この日、日本でも押しボタン式電話機が発売されました。当然発売は電電公社でした。プッシュホンと命名されたのは、翌1970年のことになります。当初の基本料金は、ダイヤル式より高かったので、発売初期には、あまり売り上げは伸びなかったのですが、やがて料金が同一になると、急激に売り上げも伸びました。ところで、この押しボタン式電話機を、最初に発売したのは、アメリカのAT&T社で、1964年のことでした。
2010.05.17
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世界経済の現状(130)IMFとEU、それに米国と日本も加わって、とりあえずユーロの炎上を抑え込むことに、成功したようですね。しかし、問題は解決したわけではありません。ECBは、ギリシアやポルトガル、スペイン、イタリアなどが発行した国債を、金融機関などの求めに応じてある程度買い取る決定をしました。これらの国の国際が暴落したり、デフォルトに陥れば、ECBの資産が劣化することになります。市場で捌ききれない国債を、たらふく所持しているFRBも資産劣化の危険と隣り合わせていることが、ずっと指摘されていますが、米国債の暴落よりも、PIGSの国債の暴落の危険性は、はるかに高いですから、ECBも困っているでしょうね。とりあえずギリシアは1100億ユーロの支援を受けられることになりました。しかし、この支援はギリシア政府へのECB並びにIMFの貸付ですから、しっかり金利もかかります。しかもドイツ国債金利に何%かを上乗せした金利なのですから、ギリシア政府とギリシア国民の窮状は変わりません。そして、南欧諸国などの財政危機に備えて、IMFとEUで総額7500億ユーロの支援をすると、謳いましたが、それは今のところ口約束に留まっており、どのようにその資金を調達するかは、何も決まっていません。言わば見せ金です。市場が予想したよりも、大きな金額を口にすることで、市場をアッと言わせて、安心感を誘い、目先の危機を切り抜けるための、大風呂敷だったとも取れます。次第に実態に気付いた市場は、また次第にユーロに対する不信感を示しつつあるようにも見えます。今週もユーロの様子には、目が離せません。 続く
2010.05.16
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19世紀のアメリカ(14) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…14 大陸軍総司令官のワシントンは、軍人出身らしく、軍隊の規律を重視しました。その上、民兵隊を召集しておける期限は、1775年12月末まででしたから、彼は民兵に頼らずに、任期が限られていない兵士で構成される、正規軍中心に大陸軍を再編成する方針を、大陸会議に提案しました。この方針は大陸会議で、すぐに承認されました。しかし、ニューイングランドの民兵達は、軍隊の階級性や規律の厳しさに反発して、正規兵の募集には応じませんでした。このためワシントンは、予定の半分以下の正規兵しか集めることが出来ず、不足する兵士は、各植民地の民兵で、補うことになりました。こんな感じでしたから、旺盛な士気と地の利を生かした戦闘で、善戦はしましたが、勝利の展望を開くことは、なかなか出来なかったのです。こうした局面を大きく転換したのが、1776年7月4日に発表された「独立宣言」でした。ジェファーソンの筆になる独立宣言案は、イギリスのジョン・ロックが提唱した、「国王の支配は、被支配層との契約に拠る。その契約は、人民は王に統治権を委ねる替わりに、国王から人民の持つ自然権(=これが今日では、人としての基本権とされます)を承認し、それを侵さないという、約束を取り付けている。もし国王がその約束を破るならば、人民はその国王を追放し、取り替えることが出来る」という考え方を踏襲し、さらに、フランスの啓蒙思想の影響も、ふんだんに受けたものでした。そのため、13植民地が賛成し、発表された独立宣言は、イギリスでもフランスでも、教養市民層から強い共感と支持を得ることが出来たのです。そして、この「独立宣言」の発表は、大陸ヨーロッパの国々にも、ある変化を齎したのです。「独立宣言」発表以前、イギリス領北米植民地の騒乱は、あくまでイギリスの内戦だったのです。そのため他国は公然と介入するわけに行かない出来事でした。ところが「独立宣言」が出たのですから、フランスやオランダが、この宣言を承認すれば、北米植民地は独立国となります。それゆえ、イギリスの内戦は、国際戦争に転化するのです。即ち、ヨーロッパ諸国は、この戦争に介入する手がかりを得たことになったのです。 続く
2010.05.16
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クロニクル 女性登山隊エベレスト初登頂1975(昭和50)年5月16日35年前の今日、日本の女性登山家田部井淳子さんら、女性登山家のグループが、エベレスト初登頂に成功しました。
2010.05.16
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19世紀のアメリカ(13) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…13 大陸軍総司令官ジョージ・ワシントンは、この時43歳、ヴァージニアでも現在のワシント・DCに近い、ポトマック河畔に、マウント・ヴァーノンと名付けられた広大なプランテーションを所有する、大プランターでした。現在のアメリカ合衆国は、50の州からなっています。このアメリカの国土面積はおよそ日本の25倍あります。大小がありますから、大変大雑把な比較になりますが、米国の1州は、およそ日本の半分の面積を持つことになります。そして現在のイギリスは、スコットランドと北アイルランドを合わせて、およそ日本の3分の2の国土面積です。ですから、イングランドに限るとすれば、およそ米国の1州よりも小さめだということになります。さて、ヴァージニアでは、およそ100人ほどの大プランターが、植民地議会の議員などを独占して政治を切り回していました。大プランターとされる条件は、最低でも1万エーカー以上の農園を所有していることでした。2,5エーカーがおよそ1ヘクタール(=1町歩)ですから、およそ3333ヘクタールということになります。東京ドームにして、およそ676個分です。ところで、ワシントンは、最低でも5千エーカーを超えるプランテーションを6箇所相続していますから、彼の所有するプランテーションは、3万エーカーを超えていることになります。これは東京の文京区とか、豊島区とかを。まるまる所有している規模なのだと、考えてください。要するに、米国の土地所有感覚は、日本は勿論、ヨーロッパの感覚とも全く異質なものなのです。所有の規模がまるで違っているのです。いうなれば、ワシントンはまさに殿様のような存在だったのです。さて、そのワシントンは、ヴァージニアの民兵隊に属し、若い日にフレンチ・アンド・インディアン戦争に参加し、ペンシルヴェニア西部の荒野で、フランスと先住民の攻撃を受け、壊滅寸前の状況に陥っていたイギリス軍を救出して、大いに名を轟かし、1758年には旅団長に昇進しています。北米植民地出身の軍人としては、最高位に上りつめたのです。その後除隊し、16年振りに軍務に復帰したのでした。 続く
2010.05.15
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