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尖閣問題を考える…(17)日米安全保障条約(通称アンポ)は、極東の範囲における相互支援を定めた軍事条約です。そしてその定めの範囲内で、日本は米軍に基地を提供してきました。極東の範囲は何処からどこまでを指すかは、当時の元気だった国会で盛んに議論され、少なくとも台湾以南は含まれないとの共通理解が出来ていました。然るに、普天間基地の海兵隊が2000年以降、より具体的には9,11以降に出動したのは何処でしょうか。タリバーンの掃討を目指して、結果としてアフガニスタンの時計の針を、ソ連の侵攻当時に戻して、再び内戦の渦巻く時代に戻してしまった、あのアフガン戦争です。沖縄の海兵隊は、インド洋からペルシャ湾、さらにはアラビア海にまで睨みを利かし、東よりも南を見ているのです。アメリカは、東アジアで中国と事を構える意志など持っていないのです。少なくとも朝鮮戦争当時のように、地上部隊を派遣する気は全くないのです。そして海兵隊は上陸舞台であり、陸軍にも海軍にも属さない地上部隊です。「北朝鮮」をどうするかは、ブッシュ当時からすべて中国任せなのです。そして中国は、「北朝鮮」に迂闊に圧力をかけて、現行システムを潰してしまうと、大混乱に陥った「北朝鮮」で、大量の難民が出ることを知っています。それは中国にとって悪夢です。ですから、東アジアの平和と安定を望むと繰り返すだけで、中国もまた「北朝鮮」の政治体制に大きな変化を迫るような行動には出られないのです。今回の砲撃後の中国の動向は、その困惑振りを、実に良く物語っています。あの「北朝鮮」の政治体制が、替わらずに持ちこたえていられる理由はここにあります。うっかり突けば、脆くも倒壊してしまう危険は非常に高い。しかし、それは中国にとっても韓国にとっても、さらには日本にとっても、悪夢でしかありません。難民が押しかける可能性は、この三国が際立って高いからです。沖縄の海兵隊は、このように東アジアに展開することは、想定されていないのです。その海兵隊を頼って、アンポ体制の下での米軍駐留が、尖閣問題を考えると、ぜひとも必要だと考える方向に誘導されたのでは、米国と米国のお先棒を担ぐことに熱心なマスコミ、そしてそれを願っている自民や民主に混在する一部議員たちの思う壺なのです。 続く
2010.11.30
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クロニクル 「老いらくの恋」話題に1948(昭和23)年11月30日何のことかとお思いでしょうね。62年前のことです。戦後の悪性インフレが進み、食糧の調達が厳しかった時代の話です。この日、1882年1月生まれの歌人の川田順(66歳)が、京都大学教授の夫人で、自身の弟子であった同じ歌人の鈴鹿俊子と、道ならぬ恋に落ちて共に家出しました。家には川田の読んだ歌が残されており、その一節にあった「老いらくの恋」が、流行語になりました。2人は翌年自殺未遂騒ぎを起こしますが、俊子の離婚が成立して無事結婚に漕ぎ着け、川田は1966(昭和41)年に84歳の天寿を全うするまで、歌会始の選者を長く務めるなど、歌人として活躍しました。
2010.11.30
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尖閣問題を考える…(16)沖縄には、日本国内に存在する米軍基地の実に70%が存在しています。一方で、基地が全く存在しない府県もかなりの数にのぼります。そして沖縄は、「太平洋戦争」で唯一住民をも巻き込んで、米軍との激しい地上戦が行われた県でもありました。そのため戦後も、27年もの長きに渡って、米軍の占領下に置かれてきました。そして代々の日本政府は、口を開けば沖縄の負担軽減を語ってきたのですが、その内実はいくばくかの金銭的支援を行なうことでしかなく、基地問題は放置し続けてきました。98年の橋本内閣当時の、少女暴行事件と、それに続く基地幼稚の借地期限切れと、地主並びに県知事による再借地契約拒否から、問題は多きく動き、普天間基地の移設問題がようやく動き出し、沖縄基地の縮小に向けた動きが、ようやく始まったのです。しかし、この程度では、沖縄の人々が満足するものでないことは明らかです。沖縄県民以外の日本人は、私も含めてですが、日米安保体制の堅持、米軍の日本駐留支持の態度をとるのであれば、沖縄基地の一部を地元の都道府県で引き受ける覚悟がなければならない。私はこう考えます。皆さん、その覚悟がおありですか。今回の延坪島 ( ヨンピョンド )事件に際しての、在日米軍の動きを見ていても、米軍基地は沖縄になければならない理由は、見当たらないように思います。第1に、延坪島 ( ヨンピョンド )事件を機に、黄海上で行われる米韓合同軍事演習に参加する米軍部隊は、原子力空母ジョージ・ワシントンを筆頭に、巡洋艦から駆逐艦まで、全て私の在所である神奈川県横須賀基地を母港とする軍艦ばかりです。在沖米軍の参加はありません。これは、アジア大陸を睨む米海軍の主力は、今や横須賀にあることを示しています。第2に、延坪島 ( ヨンピョンド )事件が起きた時、オバマ大統領は、強い言葉で「北」朝鮮を非難しましたが、在日米軍、とりわけ在沖米軍に、特別の指示は出しませんでした。米国にとって同盟国であり、縮小計画が進行中だったとはいえ、米軍がなお駐留する韓国が、隣国の理不尽な攻撃に晒されていたのです。少なくとも、有事の海兵隊の駐留の必要を声高に叫ぶのであれば、普天間の海兵隊に、出撃準備指令ぐらいは出してしかるべきだったと思います。しかし、それは出されなかったのです。友好国の危機の第一段階では、海兵隊を派遣する気がない。このことは今回はっきりしました。そして第3に、尖閣諸島を巡る危機では、海兵隊は無用の長物です。最初に適地に上陸しようにも、尖閣諸島では、そもそも地上戦は想定されないからです。そして、海軍は横須賀から出撃してくるのです。第4に、延坪島 ( ヨンピョンド )事件のように、「北朝鮮」を睨むのであれば、長崎や福岡、さらには山陰から若狭、北陸から上越といった日本海沿いの海港の方が、遥かに近距離で適しています。こう考えると、沖縄基地に拘る米軍の意図は、中国や朝鮮半島以外の場所にあるのではないかという疑いが浮かんできます。そもそも米国には、中国と事を構える気など、さらさらないようにみえます。 ザビ
2010.11.29
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クロニクル イラクで日本人外交官2名が射殺2003(平成15)年11月29日7年前ですね。イラクは既に、米国が国連を無視して強行した「イラク戦争」の最中でした。米国は、国連の同意を得られないままに、イラク攻撃をはじめ、イギリスや日本などは、相した米国に協力して、イラクに兵を派遣していました。いかに後方任務と言っても、イラクの人たちにとってみれば、自国を攻撃している米国の仲間であることに替りはありません。そんな状況下のこの日、2名に日本人外交官が、イラク北部のティクリートを車で走行中、後方から迫ってきた車に銃撃され、運転手を含めて射殺されました。当時の小泉内閣は、「テロの可能性が高い」との判断を示し、当時のイラク暫定政府(アメリカの傀儡政府)は、フセイン残党の所業と発表しましたが、珍しいことに実行犯の声明がなかったことから、未だ真相は藪の中のままです。
2010.11.29
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尖閣問題を考える…(15)今回の尖閣問題で、日中両国は共に大きなマイナスを背負いました。その両国のマイナスを横目で見ながら、してやったりとほくそ笑んでいるのは、言うまでもなくアメリカ合衆国です。米国は、菅内閣に対し、鳩山内閣時代に悪化した日米関係を修復するための具体的な証を求めました。日米関係と日中関係を等距離に置けるように、次第に米国との距離を広げる一方で、次第に中国との距離を縮めていこうとする鳩山外交との決別の証として、日米関係が日本外交の基軸であることを、具体的に見せてくれというわけです。菅内閣はその要請に応えました。それが尖閣諸島での中国漁船の拿捕と船長の逮捕でした。そして実質的にその指揮を執った前原大臣の外相起用でした。相手の出方を読まない独りよがりの強硬路線は、途中で見事にずっこけたのですが、初期の盲目的な強硬路線は、ナショナリズムを刺激して、国民の間に嫌中意識を強めることには、見事に成功したのです。菅内閣がピエロ化することで、国民の嫌中意識は、これまでにないほどの高まりを見せたのです。どうでしょう。もし仮に菅内閣が中国に対する強硬姿勢を崩さず、船長の起訴から裁判にまで至ったとすると、良くやったと溜飲を下げた国民の嫌中意識は、ここまで高まったでしょうか。私にはそうは思えません。実に頼りない菅内閣の行動が、米国にとっては、日中関係に楔を打ち込む上で、大成功を齎したのです。これは皮肉な結果でした。そしてもう1点、日本のマスコミは、尖閣諸島に最も近い最前線が、与那国島であること、八重山群島などの南西諸島が日中対立の最前線であることも、連日書き立てました。結果として、日米安保体制に基づく米軍の駐留、とりわけ日中対立の最前線である南西諸島の存在を考慮する時、米軍の沖縄駐留は、最低限現状維持、出来るなら拡大が相応しいというコンセンサスを、日本国民の間に作りつつあるのです。皆さんのなかにも、そんな風に得心しつつある方が、相当数いらっしゃるのではないでしょうか。本当にそうなのでしょうか。こうした状況に降って沸いた延坪島 ( ヨンピョンド )事件は、尖閣問題を霞ませつつあります。とりあえず、事件当日とその後数日の在沖米軍の行動を追ってみることで、この問題を考えてみることにしましょう。 続く
2010.11.28
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クロニクル プロ野球の黒い霧事件1969(昭和44)年11月29日もう41年も前の話になります。今年は、野球賭博に多くの関取や大相撲関係者が関わっていたとして、大きな話題となりましたが、41年前の事件は、野球賭博に絡んで、胴元などから金を受け取り、八百長に荷担したプロ野球選手の存在が、明るみにでたという事件です。きっかけは、報知新聞の記者が西鉄ライオンズの選手から、チームメイトにわざと失策する選手がいると、聞いたことでした。調査を始めた記者は、八百長の疑惑を抱き、読売新聞にも協力を頼んで調査を続け、永易将之投手の疑惑を突き止めたのです。当時の西鉄球団は、永易投手をシーズンオフをもって解雇する方針を決めたのですが、事態を重く見たコミッショナー委員会は、41年前の今日、永易投手に対し、野球界からの永久追放処分を科したのです。これは、日本の野球界始まって以来、初めての処分でした。コミッショナーはその後も調査を続け、その後西鉄ライオンズの池永正明投手、与田投手、益田投手、中日ドラゴンズの元エースの小川健太郎投手、そして東映フラーヤーズのエース森安敏明投手の5名を永久追放処分としたのです。このうち、ライオンズの池永投手は、直接八百長に荷担した証拠は出なかったのですが、組関係者から渡された100万円を返済していなかったことから、重い処分を科されたのでした。それゆえ、その後かつての仲間から何度も処分軽減の請願が出され、1995年にようやく、球界への復帰が認められました。こうした処分の結果、西鉄や東映の戦力は大きくダウン、やがて両球団の身売りに繋がって行きました。
2010.11.28
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クロニクル 平成天皇夫妻の婚約発表1958(昭和33)年11月27日52年前になりますね。この日、宮内庁は、当時の皇太子明仁親王と正田美智子さんのか婚約が整ったことを発表しました。天皇家にとって、初めての民間女性との婚約ということで、大きな話題となりました。マスコミは、お2人が夏の避暑先の軽井沢のテニスコートで知り合い、交際を深めたことなどを報じ、中流層を中心に、テニスブームと軽井沢ブームが起きたのですが、それ以上に美智子さんブーム、通称ミッチーブームが、日本中で沸き起こりました。お2人の結婚は翌年の4月10日、慶祝ムードで日本中が臨時のお休み、多くの人がテレビ放映された式後のお2人の馬車パレードを、昼下がりにテレビ桟敷で見物したものでした。私もその1人でした。この放映をテレビで見るために、テレビを購入した家庭も数多くありました。
2010.11.27
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続・延坪島 ( ヨンピョンド )事件延坪島 ( ヨンピョンド )事件の続報が連日大量にマスコミから流れています。当初ピンとこなかったのですが、黄海上での米韓軍事演習の位置が報じられ、それを見ると北方境界線(NLL)と付近という、非常に「北朝鮮」の神経を逆なでする地域で行なわれていたことがはっきりしました。だから、「北」を擁護するという気は私はありません。民間人の住む島を予告もなく攻撃し、住まいを焼き、犠牲者まで出した責任は、断乎として糾弾すべきです。23日当日、菅首相の第一声は、情報収集に務めたことに終始しました。なぜ、断乎たる態度で「北朝鮮」を非難しないのか、世界に先駆けて暴力行為を非難することこそが、平和愛国国である日本の首相に課せられた使命であることに、彼は思い至らなかったのでしょう。情けないヤツだと、歯噛みしたものです。ではなぜ北方境界線(NLL)付近での米韓軍事演習に、こだわるかのか。この地の軍事演習に、「北朝鮮」が危機感を抱き、報復行為に出たということは、今後も米韓が同じ場所で軍事演習を続ける限り、「北」の報復的軍事行動は続くことを意味するからです。事態は沈静化し、これで収まるだろうという、甘い見通しが世界各地で語られていますが、たとえばロシアは、「積極的に事態を沈静化させる方向で動く」という意志を、政府系のマスコミを通じて流しています。私は、この事実を、ロシア通の佐藤優氏のブログ{眼光紙背」で知ったのですが、ロシアがこういう姿勢を表明したということは、ロシア政府が事態を重く見ていることの現われです。下手をすると、「北朝鮮」は再度の攻撃に出るかもしれない。そうロシアは考えていると受け止める必要がありそうです。今のところ、中国政府の抑えも効いていないように見えます。それだけ「北朝鮮」が米韓の、北方境界線(NLL)附近での軍事演習に、脅威を感じているということでしょう。現時点では、再度の軍事衝突があるかもしれない。そう思っていたほうが良さそうな気がします。
2010.11.26
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クロニクル はやぶさ「イトカワ」に着地2005(平成17)年11月26日今日はホットな話題です。実は5年前の今日は、日本の小惑星探査機「はやぶさ」が、話題の「イトカワ」に着地、岩石の微粒子を採取した日に当たります。「イトカワ」は地球近傍の太陽系小惑星で、1998(平成10)年にMITのリンカーン研究所のプロジェクトチームにより発見されました。日本がこの星の探査を担当することが決まった時、担当の宇宙科学研究所が、日本のロケット開発のパイオニアである糸川英夫博士の名を冠して欲しいと、リンカーン研究所に依頼したところ、快諾が得られ、同研究所の申請を国債天文学会も認めて、2003年に「イトカワ」と正式に命名されました。小惑星に日本名がついているいきさつには、こういう背景があったのですね。こうなると、プロジェクトが失敗したのでは、宇宙研のメンツが立ちません。離陸後4年8ヶ月の苦闘を経て、今年6月13日に、地球に帰還したこと、今月に入って採取した岩石の微粒子1500ヶほどが、すべて「イトカワ」由来であることが明らかになったことは、記憶に新しいですね。そして、はやぶさの名は、地球からの機体として、最小の天体に着陸した栄誉を、獲得したのでした。
2010.11.26
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尖閣問題を考える…(14)リーマンショック後、米欧日の経済力の後退と、それに代わる中国、インド、ブラジルにサウジアラビアなどの経済的存在感の伸びが顕著です。とりわけ中国の成長が目立ち、蓄えた外貨を用いての敬愛外交を展開して、アフリカ大陸などに影響力を強めています。元々大陸系華僑という、ユダヤ資本を追う勢力と緊密ですから、蓄えた外貨の使い方は、日本などより遥かに老巧です。そして、工業的技術力も急速に高め、結果として軍事的プレゼンスも強めてきました。しかし、短期間の急成長は、人間で言うと、往々にして身体の成長に心の成長が追いつかないアンバランスを生じます。今の中国がまさにそれで、大正から昭和にかけての日本がそうであったように、周辺諸国を力で抑え込もうとする愚行に走っているように見えます。日本との尖閣諸島を巡る争いでも、力の誇示が目に付くようになりましたが、こちらはまだ序の口です。南沙諸島を巡るヴェトナムや東南アジアの国々に対する対応は、尖閣対応よりも遥かに露骨です。尖閣問題を考える…(13)ですから、尖閣問題を巡っての日本の対中強硬姿勢は、東南アジア諸国にとっては、渡りに船とばかりに、日本支持の姿勢が目立っていたのです。ところが、9月24日、菅内閣は突如船長を釈放し、しかもそれを海上保安庁の判断であるかのごとき、言い逃れようとしたのです。これは二重の失態でした。まず、一貫していてこそ意味のある外交姿勢が、途中でぐらつき腰砕けに終ったこと。続いて、重要な外交姿勢の変化を内閣の責任としてではなく、一出先機関の判断であると語ったことです。外交権は政府にしかありません。間首相の答弁は、その大切な外交権を、出先機関それも国土交通省の管轄下にある出先機関に委ねたと、言わんばかりでした。これこそまさに、問責に値する答弁でした。余談ですが、ここを突かない野党も情けないですね。期待を込めて日本を密かに応援していた、東南アジアの国々はガッカリしたでしょうね。日本は頼りがいのない国だということになりました。中国もまた、日本政府は強硬姿勢に弱いのだと学習しました。これは日本に大きなマイナスでした。では、尖閣問題で中国は得点を稼いだのでしょうか。実はこれもノーです。中国もまた大きなマイナスを背負ったのです。軍事力を背景に、周辺諸国を力で抑え込もうとしている、膨張主義に傾いていることが、世界中にあからさまになってしまったからです。その結果、中国は世界から不信の眼で見られ、その信用は大きく損なわれてしまったのです。日本のマイナスが10とすれば、中国もまた7~8ぐらいにはなったのです。では、今回、得点を稼いだのは何処でしょうか。 続く
2010.11.25
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クロニクル ドバイ・ショック2009(平成21)年11月25日私事で恐縮ですが、本日で退院1ヶ月。おかげ様で恢復は順調です。術後かすれ気味だった声も、ようやく元に戻りつつあります。今は早く食事制限が戻らないかと、特にコーヒー解禁を首を長くして待つ日々となっています。さて、今日は昨年の今日の話です。アラブ首長国連邦(UAE)が、6つの首長国が集まった連邦であることを、世界が学習した日になりましたね。連邦を構成するドバイ首長国が、資金難に陥り、政府系持ち株会社「ドバイ・ワールド」の債務返済が行き詰まり、ドバイ政府が債務の返済繰り延べを要請す事態となったのです。ドバイ政府が要請した繰り延べ額は、ドバイ・ワールドの全債務590億ドル(約4兆8千億円)の債務返済を、半年間繰り延べて欲しいということでした。同社は、事実上の国営企業で、傘下に大規模不動産建設会社(ナキール)など、建築、不動産関係の会社を傘下に抱え、リーマンショック後の金融収縮の中で、不動産の売り上げ減と価格の急落の直撃を受け、急激に経営が悪化、資金繰りにも行き詰まったのでした。同社は。事実上ドバイ政府と政府要人が、ほとんどの株式を保有するなど、国営企業そのものでしたから、世界の金融界は、事実上ドバイ政府のデフォルトだと受け止め、連邦を構成するドバイを助けられない、アブダビ首長国など、UAEを構成する石油収入で潤っている諸国への風当たりが強まりました。結局アブダビ政府が、ドバイ政府に資金を融資することで、危機を一時的に先送りすることは出来たのですが、最近アイルランドの再度の危機が顕在化し、ポルトガルも国債金利の急上昇に晒されるなど、欧州の危機が再び膨らんでいます。ドバイ問題も、根本的解決には、ほど遠い状態にあるため、いつまた顕在化するか、分らない状態にあります。
2010.11.25
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尖閣問題を考える…(13)9月17日に成立した、菅改造内閣(=第二次菅内閣)で、菅首相は米国の覚えめでたい前原を外相に起用することで、米国との関係改善をより確実にしようと考えたのでしょう。前原外相を知って、私は愕然としたことを覚えています。彼は親米派ですが、それ以上に対中強硬派として、反中国の発言が目立っていましたから、対中関係が目詰まりを起こすだろうことが、はっきりと予測できたからです。果たせるかな、先の展望を十分に検討することなく、思い込みで突っ走った前原路線は、中国の強硬姿勢の前に、あえなく立ち往生をしてしまいます。外交政策の司令塔を持たず、指南役も持たない菅内閣の腰も座っていませんでした。実を言うと、多少でも中国の情勢に通じているなら、中国の強硬姿勢を予測することは、決して難しいことではなかったのです。私にすら十分予測可能だったのですから…。 日中関係の本格的改善を妨げている「歴史問題」のトゲの認識が、菅内閣にないからです。歴史を捏造して、日本の戦争責任を否定しようという戦力、戦争行為や植民地支配を美化しようとする勢力の存在が、どれだけ日中関係の改善を妨げているかを、菅内閣は十分に認識していなかったようです。最近の裁判で、被害者家族のナマの声を知る機会が、我々にも増えましたが、加害の記憶よりも、被害の記憶の方がより長く、そしてより強く残ることが、そこからも理解できます。戦後の日本は、1億総懺悔という支配層の甘言に乗せられて戦争責任の問題を曖昧にしたまま、過ごしてきました。そこでは、軍国日本に対する恐怖感が中国と南北朝鮮を中心に、アジアの国々になお根強くのこっていることが、忘れられていました。それでも、日本の自衛力がなお弱く、自衛隊の海外派兵がなく、憲法9条への日本国民の支持が強い間は、まだ良かったのです。戦争責任についての日本人の自覚の不十分さを、9条への国民の支持が補ってくれたからです。これなら日本の再侵略はなさそうだと…本当に強い犬は吠えない。負け犬ほど良く吠えることは、ご存知だと思います。湾岸戦争後、自衛隊の海外派兵が目立つようになりました。日本人の9条への忠誠は揺らいで映ります。となると、日本軍の跳梁への悪夢がなお消えないアジアの国々は、日本人への恐怖感を、再び思い浮かべます。アジアの国々が、しつこく歴史問題を言い立て、とりわけ日本に対して頑なな態度をとり、強硬姿勢をとる背景はここにあります。対日恐怖感の裏返しの表現が、中国や南北朝鮮などの強硬姿勢の背景にあります。漁船拿捕、船長逮捕の報を受けた中国民衆の反日姿勢は、この文脈で考える必要があります。そして、その背景には中国共産党指導部内での、権力闘争がありました。船長解放まで引くわけに行かない強硬姿勢の意味は、こう読み解くことが出来ます。平和になれ、自衛隊は軍隊ではないと思っている人も少なくない日本では、アジアで日本がどう思われているか、自衛隊の装備がアジアではダントツのナンバー1であることなどが、まったくと言っていいほど、意識されていないのです。果たせるかな、前原外相も、菅内閣も立ち往生を余儀なくされました。そして中国政府も党内批判派と世論の手前、自ら収拾に動くことは出来ずにいたのです。 続く
2010.11.24
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クロニクル ダーウィン『種の起源』出版1859年11月24日1859年というと、幕末の日本では、大老井伊直弼による安政の大獄の最中にありました。まさに近代日本の誕生前の、産みの苦しみの時期にあたっています。そんな159年前の今日、イギリス人、チャールズ・ダーウィンの著作『種の起源』が出版されました。ご存知「進化論」の誕生です。19世紀半ばのイギリスは、産業革命に伴う工場制度が普及し、資本主義経済の花が開き、19世紀前半には貧しく惨めな生活を強いられていた、労働者階級の生活改善も徐々に進み始めていた時期でした。 イギリス史上、最も安定していた時代と言われる、ヴィクトリア女王の全盛期でした。そんな時期でしたから、生物の進化を説く、ダーウインの進化論は広く受け入れられ、人類の歴史もまた進歩の歴史であるとする考え方が、広く受け入れられていったのです。しかし、ダーウィンの進化論を頑として受け入れない勢力があったことも、指摘しないわけには行きません。キリスト教会です。教会は、あらゆるものは神の創造物とする、天地創造説を墨守していましたから、神によらない万物の進化を説く、ダーウィンの説を異端として排斥したのです。それゆえ、教会が経営するミッションスクールの中には、長く進化論を教えることは禁忌とし、この方針に反した理科教師を学校から追放することも辞さなかったのです。特にアメリカ合衆国南部では、20世紀の終わり近くに、合衆国最高裁で、「学校で、科学的にその正しさが立証されている進化論を否定する授業を行なったり、進化論を教えないことは憲法に違反する」という有名な判決が下るまで、堂々と進化論を否定する授業を行なっている学校が多かったのです。日本では信じがたいことですが、米国民の中で、人類は1万年ほど前に、神が創造なさったと信じる人が48%ほど存在し、人類もまた生物進化の法則に則って誕生したと考える人の40%を凌駕しているのです。
2010.11.24
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延坪島 ( ヨンピョンド )事件7時のニュースを見て、驚きました。「北朝鮮」の瀬戸際政策がまたエスカレートしたようです。そこで、本日は、尖閣問題を休載して、こちらを考えることにします。まず、現時点で知りうる事件の概要です。朝鮮半島と日本との間には、時差がありませんので、現地時間と日本時間は同一です。本日午後2時34分頃から、「北朝鮮軍」がいきなり、南北の国境線近くにある、延坪島 ( ヨンピョンド ) を砲撃してきたというのです。延坪島 ( ヨンピョンド ) は、大小2つの島からなり、両島には合計1689人の住民が住んでいます。このうち大延坪島に1300人ほどが、小延坪島 に350人ほどが住んでいるといいます。この2島を含む一帯については、「北朝鮮」も領有権を主張しており、周辺の海域では90年代以降、数度の小競り合いが行なわれています。しかし、住民の生活する島内への砲撃は、南北の軍事境界線一帯を覗けば、ここ数十年にわたってありませんでした。それが突然の砲撃です。「北朝鮮軍」の砲撃は、全部で200発近くと報じられており(韓国側発表ですから、全て事実かどうかは、今のところ検証できません)、このうち大延坪島に着弾した砲弾は約50発(この限り、砲撃の正確性には問題ありですね)程度、同島の守備隊と住民に、数10人の死傷者(午後7時現在、死者は兵士2人とされています)が出、島内の住宅が砲撃により出火、山火事の映像も公開されています。韓国軍も、自走砲(K9 155mm自走榴弾砲)で応戦、「北朝鮮」軍の発射地点に向けて約80発を打ち込んだ旨が発表されました。その後、現在は小休止が続いている模様です。この事態をどう見るかです。韓国軍のこの地域での軍事演習への反発とされていますが、それだけでしょうか。そうだとすると、同じ朝鮮民衆の暮らす住民居住区への砲撃というのは、従来の「北朝鮮」の対応からして、ありえないように思います。私は、ここに金正日から、3男の金正恩への権力継承問題が絡んでいるように思います。なぜ、金正日はまだ20代の若輩である金正恩へ、権力を継承しようと思ったのでしょうか。世襲に問題のあることは事実ですが、そのことはここでは論じません。年齢的には油の乗ってくる世代の長男や次男ではなく、何故20代の3男なのか。私は、これは金正日の意志ではなく、長男と次男は権力の継承を拒否したのではないかと見ています。つまり「北朝鮮」の将来に見切りをつけ、近い将来の住民叛乱の発生とか、軍部の蜂起とか、経済混乱による自壊に巻き込まれることを予測して、野に下る道を選んだと見ています。それゆえ金正日は、なお頼りない金正恩を後継指名するしかなかった。その金正恩に対する軍部の忠誠を確保するために、対韓強硬派の軍部を満足させる必要があり、核兵器製造の強行と並んで、「韓国」に対する直接砲撃という、イチかバチかの手を打ってきたのだろうと、私は見ています。将来の展望など何もない中で、暴走の気配が色濃くなってきているだけに、今後の北の動向は、要注意ですね。アジアでの戦争の気配を嗅ぎ取った為替市場は、有事のドル買いが発生して、ユーロや円に対してドル高が進んでいます。しかし、これは危険な徴候です。欧米日の低金利と米国の過剰流動性確保政策で、多額のドルがダブついた米国は、しかし、そのドルを自国で使うことが出来ず(企業は国内で投資しようとせず、銀行は国内融資に消極的だからです)、もっぱら成長の可能性が世界で最も高い、日本を除くアジアに貸し付けていました。そのアジアがきな臭くなってきたのです。有事のドル買いは、アジアに投資された資金のドルへの還流の可能性を高めます。アジア経済が世界経済を支えているのが、現在の情勢ですが、その構図が覆る可能性がでてきましたね。明日以降の為替の動向も、要注意です。
2010.11.23
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クロニクル たまごっち発売1996(平成8)年11月23日たまごっち、覚えていらっしゃいますね。お子さんに頼まれて、世話に追われた経験をお持ちの方もいらっしゃるのでは…。あのたまごっち、14年前の今日、製作会社のバンダイから発売されました。画面に登場するキャラクターの面倒を見ること(えさやり、汚物掃除、ご機嫌取り)で、キャラクターを育てる内容が、女子中高生を中心に大受けして、発売翌年の97年には、たまごっち現象として、社会現象化する大ヒットとなりました。その結果、ブームは小学生にまで及んだのです。面倒を見ないと、死んでしまうこともあったり、性格がねじれたりと、不都合が起こるため、学校の間は、保護者が面倒を見る破目になるなど、子供のおねだりで飼う事になったワンちゃんの世話を、結局両親や祖父母が見ることになることを連想させるようなことも、あちこちで見られました。バンダイの販売戦略で、当初は品薄気味で推移したことから、以上人気となり、一時はインターネットオークションで高値を呼ぶなどしましたし、お孫さんにねだられた宮沢元首相が、避暑に頼んでも買えずに困った話なども伝えられました。その後、強気になりすぎたバンダイが、大増産をかけたところが、ブールの終了で、大量の在庫品を抱えて、儲けを吐き出す苦渋も味わったことも、話題となりました。たなごっちブームは、その後も断続的に沸騰したり、沈静化したりしつつ、今日に至っています。
2010.11.23
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尖閣問題を考える…(12)自民党政府は、中国名「白樺」鉱区の試掘井の掘削を指し止めようとせず、共同開発を働きかけるだけでした。中国側は、共同開発を受け入れながら、それは、今後中国側が自国領と主張する範囲外で、実行しようと提案し、「白樺」の試掘は予定通り継続し、現在では本格的な原油の汲み上げに入っているようです。今回の尖閣諸島を巡る問題は、こうした延長戦の上に登場しました。ことの発端は、民主党の改造内閣の出発以前、ですから総理大臣と官房長官は、現在と同じ菅、仙谷コンビでしたが、海上保安庁を抱える国土交通相は、前原現外相だった時です。事件が起きた時、前原国土交通相は、しきりに法に則り適性に法を執行した結果であること、漁船の公務執行妨害、即ち巡視船への体当たりにについては、ビデオで確認済みで、証拠が十分であることを、自信満々にアピールしていました。そう発声しながら、肝腎のビデオは公開しないという、外交戦としては理解し難い態度をとったものですから、そこに疑問が残りました。これは本当に腰が座っているとは言えないのではないかという、疑問が残ったからです。そこへ、菅改造内閣での前原外相の登場です。なるほど、これは米国が仕組んだやらせだったのか、そこが腑に落ちたからです。鳩山政権下での日米関係は、ご存知の通り大変ぎこちないものになっていました。それを普天間問題のせいだとするのは、マスコミの作為によるものだと私は考えていますが、日本は米国との距離を広げ、日米同盟重視の姿勢から、日中、日米の等距離外交に転換しようとしたこと、そしてそのことに米国が強い不信感と不快感を持ったことは、間違いのないところでした。こうした米国の意向もあって、鳩山首相に代わった菅総理は、対米重視を打ち出し、日中間の距離について、米国を満足させる方針を取らざるを得なくなったのです。そこに、出番を感じ取ったのが、目立ちたがりには定評のある前原国土交通相でした。幸い海上保安庁は彼の傘下にあります。日中関係をギクシャクさせるには、密漁船の取り締まり強化は、具体的に目に見える恰好のケースでした。国土交通相が彼でなかった場合、果たして海上保安庁は逮捕の許諾を政府に上げたり、実際の逮捕に踏み切ったでしょうか。或いは大臣から逮捕の許可が出たでしょうか。私は結論は違っていただろうと見ています。自民党政権の場合は、なおのことです。こうして、逮捕に踏み切った数日後、前原大臣は外相に出世しました。前原外相は、民主党内随一の対米べったり派で、自民党右派以上に反中国派です。彼を外相に起用すれば対中関係がこじれることは、誰にでも分ります。靖国参拝で対中関係をこじれにこじれさせた小泉首相でさえ、外相に反中国派を持ってくることは慎重に避け、それなりに対中関係に配慮していました。それなのに、政治姿勢としては、右派的な政治家とは大きく肌合いの異なる菅・仙谷政権が、どうして前原外相を任命したのでしょうか。この人事は、米国の圧力を抜きにしては、考えられないように思えます。鳩山内閣の外交姿勢を転換し、対米関係重視に舵を切ることを約束するというのなら、米国の満足する人物を外相に据え、中国との距離を広げてみよ。こういう圧力が、強力にかけられたことは、まず間違いがないでしょう。 続く
2010.11.22
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クロニクル 最初の日本シリーズ開幕1950(昭和25)年11月22日日本のプロ野球が、セリーグとパリーグの2リーグ制に移行したのが、この年1950年でしたから、当然といえば当然なのが、この年が日本シリーズの始まった年でした。昨日の日曜日、ロッテ・オリオンズの優勝パレードが行なわれていましたが、最初の年は、シリーズの開幕が随分と遅かったのですね。60年前の今日、パリーグの覇者毎日オリオンズ(オリオンズでお分かりでしょうが、現在のロッテオリオンズの前身のチームです)と、セリーグの覇者松竹ロビンス(このチームは1年で消滅し、現在は存在しません)との間で、第1回日本シリーズが始まりました。湯治の日本には、ナイター設備のある野球場など、どこにもなかったので、試合は全てデーゲームでした。そしてもう一つ、各球団ごとのフランチャイズ制も制度化されていなかったので、この年6試合行われたシリーズは、1試合ごとに球場を変えて行なわれました。このため、奇数試合はセリーグが後攻め、偶数試合はパリーグが後攻めという形が取られました。使用された球場は、試合順に、神宮、後楽園、甲子園、西宮、中日、大阪難波の順でした。結果は、毎日オリオンズが、4勝2敗で制し、初代のチャンピオンになりました。松竹はシーズン39勝をあげたエースの真田投手が、肩の故障で不調だったこと、シーズン51本塁打で本塁打王に輝いた小鶴選手が不振だったことが響いたのですね。私は当時小学校の2年生、小鶴選手のファンだった兄が、何度もそう解説してくれたことの、受け売りをここでさせていただきました。
2010.11.22
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尖閣問題を考える…(11) 1996年の尖閣危機は、中国側の自制で、やがて落ち着いてゆきます。ただその過程で、日中、日米、米中の3国間の関係が、かなりもつれたことも事実でした。日本でも良く知られる三国誌のような、微妙な外交関係がそこに派生したことは間違いのないところでした。それは、冷戦終了後の対アジアの関係を、なお冷戦の枠組みを残す朝鮮半島情勢をも含めて、どのように構想するかという、米国のアジア政策の揺れと密接に関係していました。クリントン政権は、日本と中国を天秤にかけて、どちらとの関係をより重視するかで、間違いなく揺れていました。尖閣問題は、まさに、その揺れに翻弄されることになったのです。そして、問題が終息に向かう過程で、おそらく米国の斡旋もあったのでしょう。日中は知恵を出し合い、日本が領海と主張する海域で操業する中国漁船を、日本の巡視船が追い払うことは認める。その代わり日本側は、逃げる中国漁船を拿捕、連行することはしないという、秘密協定を結んだのでしょう。その後の双方のやり取りを見ると、そうであろう事を推測することは、そう難しいことではありません。状況は21世紀に入って変化しました。経済的な離陸期、高度成長期に入った中国経済は、13億人を超える人口を養うための、恒常的な資源不足に悩むことになったのです。とりわけ、生産財の大量供給のための、石油、石炭、鉄鉱石などの確保は焦眉の急でした。尖閣諸島に連なる大陸棚での原油掘削を、一方的に始めたのもその1つでした。いわゆる「白樺」鉱区です。イラクとクウェートの紛争の原因もそうでしたが、国境地帯の油層は、国境を跨いで地下で繋がっていることが往々にしてあります。こうした場合、双方が同時に油井を建て、地下の油層の広がる割合によって、採掘すれば良いのですが(北海油田は、これがうまくいっているケースです)、この時、自民党政府は、対抗上、日本の領海での試掘を始めることをせず、中国側は着々と、既成事実を摘みあげていきました。日本の外交のミスはここにもありました。 続く
2010.11.21
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クロニクル 歌舞伎座開場1889(明治22)年11月21日今から、121年前の明治22年は、2月に明治憲法(大日本帝国憲法)が発布された年でもあり、フランス革命100周年の年でもありました。その明治22年の今日、現在改築中の歌舞伎座が完成、開場しました。明治の演劇改良運動に参加していたジャーナリストの福地源一郎と金融業者の千葉勝五郎の共同経営という形でスタートしました。以後歌舞伎の殿堂としての地歩を固めていったのですが、1921(大正10)年に漏電により全焼、ようやく再建工事が完了するかという間際に、関東大震災に遭って、再び全焼する悲運に遭いました。この苦難を乗り越えて、新築の大劇場として再開に漕ぎ着けたのは、1925(大正14)年の1月のことでした。以後、太平洋戦争が激化するまで、大いなる賑わいを見せたのですが、1945(昭和20)年3月の東京大空襲でまたも全焼、戦後の再開は、1951(昭和26)年1月3日のことでした。建物の落成は、前年の12月で、この建物が今年4月末まで使われていた建物です。
2010.11.21
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尖閣問題を考える…(10)海上保安庁は、1948(昭和23)年に創設されました。その時の任務は、海軍解散後の沿海警備、とりわけ密輸船、密入国、海賊行為の取締りが主な任務でした。この海上警備には洗面的な知識と技能が必要でしたから、GHQは1万人を限度として、旧海軍の軍人を採用することを、特例として認めたのです。米軍が戦争中に無数にばら撒いた機雷についても、別に定められた掃海隊と共に除去に当たりました。そして、掃海隊もやがて海上保安庁の隊員に採用されました。やがて朝鮮戦争が始まると、米国の対日占領方針は大きく変更され、日本の歳軍備容認に舵を切りました。マッカーサーは警察予備隊の創設を指示し、同時に海上保安庁職員の大幅な増員を命じたのです。警察予備隊は、後に陸上自衛隊の母胎となりましたし、海上保安庁の増員分は、後の海上自衛隊の創設に繋がりました。1950年秋、米海軍は海上保安庁に、朝鮮半島周辺の機雷除去を依頼してきました。吉田首相はこれを認め、10月海上保安庁は、20艘もの掃海艦を朝鮮半島沖に派遣しました。この事実は長く国内には、伏せられたままでした。その後、1954年の自衛隊創設と共に、海上自衛隊が分離したことに伴い、掃海業務は自衛隊に移管され、海上保安庁は民生面に特化することになったのです。ですあら、海上保安庁は、確かに軍隊ではありません。しかし、世界各国の沿岸警備隊と比較すると、大変珍しいことに、沿岸警備のみでなく、外洋展開能力を持ち、「北朝鮮」の不審船を撃沈しうるような武力も装備しているのです。海上自衛隊の船舶が出動するまで、マラッカ海峡からインド洋にまで展開して、アデン湾での海賊の跳梁に対する、日本船舶の護衛に当たることも出来たのです。軍隊ではないのですが、準軍事的機能も持っている組織なのです。それゆえ、巡視船に体当たりしてきた船舶を抑え、船長を逮捕し、船員を拘束したのは、巡視船の乗組員にとって、まさに1つの任務を遂行したことになります。その船長を中途半端に釈放した政府の行為は、彼らにとってどう映ったでしょう。相当な不満が渦巻いたであろうことは、想像に難くありません。ビデオの流出は、この文脈で起きたように思えます。 続く
2010.11.20
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クロニクル 川治プリンスホテルの火災事故1980(昭和55)年11月20日30年前になりますか。川治温泉は、栃木県の鬼怒川温泉を、さらに車で20分ほど遡ったところにある、鄙びた温泉街です。数軒、立ち並んでいる温泉宿は、いずれも増築に次ぐ増築を重ねたつぎはぎの蛸足建築になっています。その一郭にある、川治プリンスホテルで起きた火災事故です。事故発生は、午後の3時頃だったのですが、45名という大勢の死者を出したことで、今に記憶されています。午後3時といえば、早出の宿泊客などがそろそろ到着する時刻。旅館のお客さんは、そう多くはない時間です。それなにに…川治温泉は湯治客が多く、連泊で滞在する年配の客が多い宿だったため、滞在中の年配の客が、数多く犠牲となったのです。従業員が、火災報知器が作動したときに、事情を詳しく調べず、テストと勘違いして、「テストなので安心してください」という放送を流して、避難誘導を怠ったことも被害を大きくした原因でした。また、好天が続いた渇水期で、鬼怒川の水位が下がっており、川水の取水が出来ず、消火作業に手間取ったことも、被害を大きくしたようです。火災と最初に気付いたのが、ちょうど団体客を乗せてきた観光バスの運転士というのも、ホテル側の怠慢でした。45名の犠牲者には、自分が案内した団体客を助けようと、火の中に飛び込んで殉職した、東都観光バスのガイド嬢と、旅行会社の若い添乗員の2名が含まれています。30年前の日本には、今の政治家より、ずっと責任感の強い若者がいたことも、記憶しておきたいですね。事件後、女将には実刑判決が下され、ホテルは取り壊されました。個人的な話になりますが、この川治プリンスホテル。父の友人が1975年までマネージャーをしており、その関係で、大学時代の合宿やら、なにやら何度も低料金でお世話になったことがあるため、火災事故の報には、大いに驚きましたし、未だに鮮明に記憶に残っているのです。
2010.11.20
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尖閣問題を考える…(9)1996年当時の尖閣問題と、今回との大きな違いは、中国政府の対応にありました。96年における中国政府の対応は、今回と違い大変抑制の効いたものでした。中国政府は、大陸における反日デモの発生は、100%抑え込みました。中国がしたことは、2艘の海洋調査船を尖閣諸島周辺に派遣しただけでした。この行動は、尖閣諸島の主権を日本に対して主張してみせると共に、国内の強硬派をなだめるためでした。この行動に日本は、海上保安庁の2艘の巡視船を派遣して、中国の2艘の船を監視させています。より熱くなっていたのは、日本の政界でした。右翼が「灯台」を建てた7月には、香港や台湾の行動派が、尖閣諸島にやってきた時は、逮捕はせずに領海外に追い払うことが行動指針でした。それが、国会での質疑のなかで、与野党共に対中強硬派の声が通り、10月に入ると、「逮捕、拿捕も辞さず」という方針に、変化したのです。では、誰が逮捕したり、拿捕したりするのか? 自衛隊を動かすのかという議論になりました。海上自衛隊の艦船を動員するのか否か。ここに至って、あまりにも中国を刺激しすぎるのはどうかという議論が生まれ、艦船の派遣は、あまりにも刺激的過ぎるだろうと避けられ、領海警備は海上保安庁が受け持つことになったのです。一方、不審船を追いかけるためには、空の監視体制を強めたほうが良いという違憲は通り、海上自衛隊の対潜哨戒機と、航空自衛隊の早期警戒機が、日に何度か、尖閣諸島の上空をパトロールする態勢が取られたのです。今回の事件で脚光を浴びた海上保安庁とは、どのような存在なのか、見ておきたいと思います。 続く
2010.11.19
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クロニクル 佐藤内閣赤字国債の発行を決意1965(昭和40)年11月19日今の日本では、財政再建が声高に叫ばれています。累積した国債の発行額が半端じゃないからです。何でこんなに溜まったの?とお感じになりませんか。歴代の自民党内閣のせいですね。戦後の悪性インフレで、戦前「お国のために」と国民がせっせとなけなしの預金を果たして、政府に協力した国債は、事実上紙屑になりました。そんな経験を持つ、45年前の大人たちは、子供たちに対しても、国債だけは買ってはいけないと、自身の経験を踏まえて教え、諭したものでした。私も両親や親族、友人の親たち、そして大学の先生たちから、同じ話を何度も聞かされました。戦後しばらくの内閣は、吉田、鳩山、…岸、池田までの内閣は、赤字国債の発行を是認せずにやってきたのですが、1964年11月、健康不安から退陣した池田内閣の後を継いだ佐藤内閣は、オリンピック後の不況を打破する手段として、公共事業の大幅積み増しを実行するために、遂に赤字国債の発行に踏み切ったのです。45年前の今日、佐藤内閣は赤字国債の発行を閣議決定したのです。それから、14年後の1979年には、大平内閣が財政再建のための付加価値税の導入を提唱し、これが10年後の1989年の消費税の導入に繋がっていくのです。そして9年後の1998年には、橋本内閣の手で、消費税は5%に引き上げられました。でもおかしいですよね。消費税が導入されたにも関わらず、財政再建が進むどころか、財政は悪化の1歩を辿っています。これ10%にしたら、再建できますかね。政治家や官僚が、良いように勝手に使って、ちっとも財政再建なんて進まないのが、いままでの日本でした。増税なんて認めずに、破産しないように四苦八苦しながら何とかしろよ…と、出来の悪い政治家連中を突き放しておいたほうが良いだろうと、私は考えています。引き上げを認めれば、どうせ無駄に浪費してしまう連中なんですから…
2010.11.19
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柳田法相は罷免せよ菅内閣に、とんでもないのがいましたね。柳田法相です。彼の講演会での発言、国会軽視だと問題にされ、官房長官も発言が不適切だと、厳重注意したということですが、国会の質問者も官房長官も(ということは、首相もということでしょう)、何が最も根本的に許しがたいことなのか、分っていないようですね。私は自民党を褒める気はないのですが、かつての自民党内閣は、代々法相を重視し、党の重鎮を当ててきました。法治国家の根幹を支える法務行政の担い手として、検察や警察を監督し、法の公正に力を尽す、尊敬すべき大尽を輩出してきました。ロッキード事件を攻勢に指揮して、田中シンパに一歩も譲らなかった稲葉修法相、導師のゆな風格のあった坂田道太法相、そして悩みつつも死刑執行を命じた後藤田正晴法相、いずれも立派な業績を残しました。落選して話題となった千葉景子法相も、まだまだ男の職場である法曹界に女性の進出を促す上(女性の社会進出が活発化している今、法曹界への女性の進出は焦眉の急であると、私は考えています)で、重要な役割を果たしました。それなのに、柳田という出来の悪い法相の暴言は、こうした歴代法相の業績を消し去り、法相のしごとは、あってもなくても良い程度のものなのかと、社会に誤解させる暴言でした。歴代法相の業績に傷をつけ、その顔に泥を塗った上に、法治国家の看板まで、ぶち壊す行為を、何故菅首相も、仙谷官房長官も、そして国会で攻撃する野党も、問題にしないのでしょうか。まともな首相、まともな内閣なら、発言の詳細を把握した時点で、即刻柳田法相は罷免しているでしょう。辞任で済む問題ではありません。政治権力を握り、行使するものの節度と品位について、菅首相と閣僚達、そして民主党議員には、改めてしっかりと噛み締めてもらいたいところです。
2010.11.18
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尖閣問題を考える…(8) 1996年10月3日のことです。記者会見で「日米安保条約は、尖閣諸島を適用範囲としており、米国はこの地で紛争が起きた時は、日本を共同防衛する義務があるとする、議会報告書が出ているが、コメントは…」という質問を受けた、バーンズ国務相報道官は、次のように答えたのです。「日米安保条約が、尖閣諸島に適用されるかどうかですか? 残念ながら、今私の手元に安保条約の条文がありません。ですからお答えできません。ないので引用も出来ないし…」と、平然と答えたのです。彼はこうも答えています。「日米安保が適用されるかどうかは、仮定の問題なので答えられない。島の領有権の問題については、関係当事者が平和的に解決するよう、米国はこれまでも促してきたし、それを期待している。」と。これはもう語るに落ちています。国務省のスポークスマンが、尖閣諸島を巡る領有権問題については、歴代政府の方針を正確に引用しながら、同じコンテクストの中で語られてきた施政権と日米安保に対する解釈については、知らぬ存ぜずで通そうとする態度は、明らかに整合性がありません。クリントン政権は、米日関係よりも米中関係を重視する姿勢を採り始めていたのです。バーンズの上官にあたるロード国務次官補もまた、「尖閣に日米安保が適用されるか否か、仮定の質問には答えられない・」と答弁し、尖閣問題から距離を置く姿勢を採り続けたのです。親日家と呼ばれたモンデール駐日米大使もまた、「米軍は、尖閣諸島を巡る紛争に介入することを、日米安保条約によって、強制されるものではない。」と、述べているのです。繰り返しになりますが、沖縄占領時代の米国は、一貫して「尖閣諸島の領土権(=主権)は日本にある」という立場を取っていました。その延長線上で。尖閣諸島を沖縄駐留米軍の射爆場として使ってきました。それにも関わらず、沖縄返還協定の批准を米議会に求めた際には、日中台の間に沸き起こった尖閣諸島の領有を巡る争いには、中立の立場を取ったのです。ニクソン政権は、米中国交正常化を最優先とし、尖閣諸島を巡る領土紛争で日本寄りと見られる姿勢をとることを、意図的に避けたのです。このときは、それでも施政権は日本にあること、その限り日米安保条約における共同防衛地域であることは、はっきりと承認していたのです。2期目のクリントン政権は、この姿勢すら覆すことをためらわなかったのです。 続く
2010.11.18
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クロニクル Suicaの販売と使用始まる2001(平成13)年11月18日9年前のことなんですね。なんだかもう少し経っているような気がしていました。この日、JR東日本がSuicaの販売と使用サーヴィスを開始しました。Suicaは、非接触型のICカードシステムを利用した乗車カードとして販売されましたが、その後電子マネー機能を加えたり、自動入金システムを加えるなどの改良を施し、今年の9月末現在では、3,123万枚が発行され、利用されています。これに、私鉄各社が共同で開発、提供したPasmoなどが加わり、Suicaとの相互利用も進み、切符なしで、乗り継げる電車区間は、次第に長距離になってきています。本当に、まだ9年なんですね。
2010.11.18
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尖閣問題を考える…(7)1996年の夏以降、尖閣問題を巡って、日中関係はまたもギクシャクしていました。事の発端は、直情携行型の日本の右翼でした。この手の単細胞人間は、世界どの国にも存在し、外交関係の機微を理解できないままに、英雄気取りで問題行動を取る困り者です。96年夏、日本の右翼団体の1つが尖閣諸島の魚釣島に密かに上陸し、ここに「灯台」を設置して、海上保安庁に認可を申請したのです。当時の橋本内閣は、困惑しましたが、「この建造物を撤去する法的根拠がない」として、そのまま放置したのです。中国政府は、撤去しないのは、日本政府が右翼団体を唆して、実行させたのではないかと疑い、建造物の撤去を強く求めました。当然、中国のマスコミも騒ぎ出します。するとどうなるか。同じように単細胞で、すぐ頭に血が上るタイプの人間は、中国にも同じように存在します。ご承知のように中国の人口は、日本の10倍ですから、単細胞人間も1比率が同じ程度だとすると10倍はいるわけです。先ずは、中国への返還を翌年に控えた香港と台湾で、対日抗議運動が起きます。9月26日、香港の活動家を乗せた貨物船が、島から12カイリ地点に入り、海上保安庁の巡視船に阻止されます。この時慌てて海に飛び込んで逃げようとした5人のうちの1人(4人は巡視船が救助)が水死したのです。死者が出た事で、香港の対日感情は急速に悪化しました。中国政府は、日本政府に抗議しながらも、中国国内での反日運動は抑制していました。しかし、香港と台湾には、施政権が及びません。対日講義で一致した香港と台湾の活動家は、急速に接近して、共同行動を採るようになりました。10月7日の早朝でした。密かに魚釣島に接近した台湾と香港双方の活動家一行は、41艘もの漁船に分譲して島に接近、うち1艘が島の西側の岩礁に接岸して上陸、中国と台湾の国旗を立てたのです。このうち中国旗(五星紅旗)は波にさらわれて流されたのですが、台湾旗(青天白日旗)はしっかり残っていたため、海上保安官が上陸して撤去したのです。2期目のクリントン政権が発足して半年、尖閣諸島を巡って、日中関係は再び騒然としていたのです。この時にあたって、米国政府は、尖閣問題に関知しないといわんばかりの態度を表明したのです。大事な所ですので、当時の米政府高官の発言のいくつかを、明日のこの項で辿ってみることに致します。もう少しお付き合い下さい。 続く
2010.11.17
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クロニクル エリザベス1世即位1558年11月17日日本では戦国時代ですね。有名な桶狭間の戦いの3年前です。現在からですと452年前。当時のイングランドの話です。この時期スコットランドは別の国でしたから、まだイギリスとは言えない、ブリテン島の南部を支配するに過ぎない小国の話です。この日、エリザベスの姉で女王だったメアリー1世が死去し、ただちに妹のエリザベスが、エリザベス1世として即位しました。このエリザベス1世と、19世紀の半ばから後半にかけて在位したヴィクトリアの2人が、イングランド並びにイギリス史上に残る名君として知られていますね。この国には、男性の名君は存在しないようです。何故なのかは分りませんが、これも面白い話題です。エリザベス1世は、父ヘンリー8世の時代に始まり、姉の時代まで続いたイングランドの宗教的混乱を克服し、アングリカン・チャーチ(イギリス国教会)の信仰を確立したことが知られますが、赤字財政を嫌った節約主義で、財政均衡を実現したことも評価する必要があります。ただし、非常に小心だったことから、あちこちの大国の国王や王子からの求婚を全て断り、生涯独身を通すという愚を冒しました。小国イングランドが大国に飲み込まれるのではないかと、過度に恐れたからです。その結果、世継を残すという国王に欠かせない大事な仕事を果たすことが出来なかったのです。その結果、1603年の彼女の死と共に、テューダー朝は途絶えてしまいました。
2010.11.17
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尖閣問題を考える…(6)「施政権は日本にあるし、安保条約の適用範囲であるが、領有権については、日中で話し合いで解決しろ。」これが米国のスタンスでした。中国は、実質的に安保条約を歓迎していました。今もそうですが、安保条約の存在が、日本の軍事大国化を阻む上で、極めて有効であると考えているからです。それゆえ、領有権は声高に主張しましたが、実際行動に出ることは控えました。事情は日本も同じでした。憲法9条で、「武力による威嚇、または武力の行使は、国際紛争解決の手段としては、永久にこれを放棄…」していたからです。そうである以上、話し合い解決に頼るしかありません。領土問題を国際司法裁判所に持ち込んだケースもありません。そうである以上、懸案は懸案として、相互対立が激化しないよう、尖閣問題は、未解決の問題として、互いに触れないで置く。こうするしか知恵がなかったのです。80年代。中国は改革開放を巡って揺れていました。さらに80年の第二次オイルショック以後、北海油田やアラスカ沖油田の開発で、原油需給は緩み、油田問題も大きな争点にならなくなっていました。ですから、この時期、尖閣問題は小休止の状態にありました。この問題が、再び争点に浮上したのは、90年代の半ば、第2期クリントン政権が滑り出した時期でした。 続く
2010.11.16
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クロニクル ドストエフスキーに死刑判決1849年11月16日幕末ペリー来航の4年前のことです。161年前のことになります。ドストエフスキーはご存知ロシアの文豪です。彼は1846年に処女作『貧しき人々』で文壇にデビュー。ゴーゴリの再来と激賞されました。しかし、当時のロシアはツァーリ(皇帝を指します)専制の警察国家です。貧しき人々に心を寄せるドストエフスキーは、秘密警察の要観察者です。49年空想的社会主義者のサークルに入ったドストエフスキーは、ただちに逮捕され、裁判の結果、この日死刑判決を受けたのです。しかし、ここにも裏があり、銃殺刑の執行直前にツァーリが介入して、特赦を発表、彼はシベリアへの流刑に減刑されたのです。シベリア流刑は54年までの5年間続きました。この間のことは、後に『死の家の記録』として発表されました。その後、兵士として軍務につき、1858年に首都ペテルブルグに帰還しています。『罪と罰』、『悪霊』、『白痴』、『カラマズフの兄弟』などの代表作は、このペテルブルグ帰還後に執筆、発表されました。
2010.11.16
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尖閣問題を考える…(5)このシリーズの第2回の冒頭で、日清戦争の開始を1794(明治27)年と誤記していました。本日ルシファーさんに指摘されて、西暦数字の打ち間違いに気付きました。当然1894年の間違いです。訂正はしておきましたが、ご迷惑をかけましたこと、お詫びします。さて、戦後尖閣諸島は、米軍の管理下に入りました。中国(当時は中華民国)は戦勝国でしたから、尖閣諸島を自国の領土と認識していたのなら、日本の降伏後に、台湾並びに澎湖諸島を接収した歳に、尖閣諸島をも接収することが出来たのです。しかし、当時の中国はそうしませんでした。尖閣諸島を自国領とする認識はなかったのです。その点は、中華人民共和国が成立した後も変わりませんでした。状況の変化は1970年代のはじめに起きました。1968年の海底調査の結果、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘されました。その可能性は69年と70年の国連の調査に確認され、尖閣諸島周辺に1,100億バーレル近い大量の油層が存在する可能性が報告されたのです。ここに至って、1971年6月に台湾政府が、12月には中国政府が、夫々尖閣諸島への領有権を主張するに至ったのです。しかし、この時期尖閣諸島は、サンフランシスコ講和条約に基づき、米国の施政下にありました。即ち沖縄の一部とみなされていたのです。事実尖閣諸島の一部では、米軍の軍事訓練が行なわれ、米軍の高等弁務官(沖縄の最高命令権者)が、尖閣諸島の利用の許諾を判断していたのです。ですから、1972年6月に、米国が沖縄の施政権を日本に返還した時、台湾と中国の主張を明確に退け、尖閣諸島は八重山群島の一部であり、日本の主権の及ぶ領土であると、沖縄返還協定に明記していれば、その後の問題は何も起きなかったのです。しかし、米国はそうはしませんでした。1971年7月15日、当時のニクソン大統領は、翌年1月の訪中を発表しました。その訪中によって、米中関係は大幅に改善し、ニクソン・キッシンジャーラインは、ヴェトナムからの撤退に道筋をつけたのでした。この時、ニクソンは中国に配慮し、尖閣諸島を日本領土と明言しないことを約束したのだろうと思われます、沖縄返還協定には、尖閣諸島に日本の施政権が及ぶこと、そのため当然にその地が安保条約の適用地域であることは、明記されました。しかし、施政権と主権とは違います。尖閣諸島の主権については、関係諸国の話し合いで解決することを期待すると、ニクソン政府は狡猾にも逃げてしまったのです。尖閣問題がこじれる原因が、ここに作られたのです。要するに、日本は米国の好い加減さに振り回されたのですね。 続く
2010.11.15
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クロニクル レンテンマルク紙幣発行1923(大正12)年11月15日第一次世界大戦に敗れたドイツは、戦後猛烈なインフレに教われました。戦争開始当時、マルクとドルとの交換レートは、1ドル=4,2マルクだったのですが、23年1月には、7,525マルクにまで急騰しています。この状況に対応するため、ドイツ政府と中央銀行は、次々に高額紙幣を発行、してゆきます。そのためドイツ紙幣の信用は失墜し、物価上昇の速度は、さらにスピードを上げました。労働組合は、週間払いの賃金支払い取り決めを、即日払いに改めることを真面目に要求するこのになりました。日々の物価上昇がバカに出来なかったからです。この要求はさらにエスカレートし、9月には、賃金は半日払いに変更となります。昼と夜では、もう商品の値段が違っていたからです。これだけの物凄い、物価暴騰(=大インフレ)の結果、11月には、対に1米ドルの交換レートは、対に4兆2千億マルクに達したのです。1兆倍というわけです。この状況に対し、当時のシュトレーゼマン首相は、銀行家シャハトの協力を得て、87年前の今日、国内の土地を担保として、不換紙幣としてレンテンマルク紙幣を発行したのです。レンテンマルク紙幣の発行母体として、ドイツ・レンテン銀行を設立。旧マルクとレンテンマルクの交換比率は1兆マルク=1レンテンマルクとすること。レンテンマルクの発行量は32億レンテンマルクに制限され、国債発行量も上限12億レンテンマルクに制限されたのです。土地の担保が設定されており、通貨発行量が土地に見合う形で制限されたこと、国債(=国の借金)発行量も厳しく制限されたことから、不換紙幣であるにも関わらず、ドイツ国民は、幅広くレンテンマルク紙幣を受け入れ、ドイツのインフレは収束に向かったのです。この事実は、世界史上「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれているのですが、その奇跡の幕は、87年前の今日、上がったのです。翌年1924年の8月30日に、新しい法定通貨であるライヒスマルクが発行され、レンテンマルクとは、1:1の交換レートで交換されることになり、やがてライヒスマルクとの交換を通じて、レンテンマルクは、やがて消えてゆきます。
2010.11.15
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尖閣問題を考える…(4)尖閣諸島が注目を集めたきっかけは、尖閣諸島の近海に大規模な海底油田の存在が明らかとされた1968年以降です。それ以前は、中国も台湾も、尖閣諸島に何らの関心も示していません。ご承知の通り、台湾は日清戦争の結果、清国から日本に割譲され、1945年8月の日本の敗戦まで、日本の植民地となっていました。少し古いのですが、その時の歴史的文書である1895年の下関条約を見てみましょう。下関条約は、正式には日清講和条約というのですが、その第2条第1項では遼東半島の、第2項では台湾の、そして第3項では澎湖諸島の日本への割譲を明記しています。このうち旧満州に属する遼東半島については、直後の独・仏・露の三国干渉によって、清国に返還されるのですが、この日本への領土割譲を明記した第2条のどこにも、尖閣諸島に触れた文言は見当たりません。それどころか、この条約の全文を通じて、どこにも出てこないのです。この事実は、清国が尖閣諸島を自国領として認識していなかったことを示しています。その後、1897年、日本政府は尖閣諸島の魚釣島に対して、煙草専売法の適用を宣言し、実行に移しています。あまり細かい説明はやめましょう。さて、1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して、米国・中国を含む連合国に降伏しました。ポツダム宣言には、台湾並びに澎湖諸島の中国への返還が明記されていました。この時、沖縄は米軍の占領下にあり、沖縄を除く日本は連合国の占領かに置かれました。この時尖閣諸島は中国に返還されず、八重山諸島の一部という位置づけで、米軍の占領下に置かれたのです。ご存知の通り、米国が沖縄の施政権を日本に返還したのは、1972年の6月でした。尖閣問題がこじれる原因は、この時の米国の曖昧な姿勢にありました。尖閣問題がこじれる種は、実は米国が領土問題に対して好い加減な姿勢をとったことに発しているのです。この点は明日記すことにします。 続く
2010.11.14
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クロニクル 石油化学コンビナートの建設へゴーサイン1961(昭和36)年11月14日1961年というのは、戦後日本最大の反政府運動だった、安保反対闘争(60年安保)が敗北に終った翌年のことですね。私が大学1年の時のことです。49年前のこの日、通商産業省は、岡山県水島と山口県徳山に、石油化学コンビナートの建設を許可する旨を発表しました。この2箇所のコンビナート、その後、続々と各地に建設される石油化学コンビナートの第1号でした。60年夏に、岸内閣に代わって登場した池田内閣の、所得倍増政策のかけ声に乗って本格化した高度経済成長の波に乗って、いよいよ日本でも石炭から石油への、燃料革命が本格化したことを、告げる出来事でした。そういえば、家庭の暖房器具に、今までのひばちにプラスして、石油ストーブが使われるようになり、次第に普及するようになったのも、この頃でした。
2010.11.14
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尖閣問題を考える…(3)さて、問題のビデオを見て、私が「あれっ、こりゃ何故だ」と疑問に思ったことがあります。問題の漁船が、海上保安庁の巡視船2隻に、意図的に体当たりしていることは、船長逮捕の時点からアナウンスされていましたから、別に何の違和感もなかったのですが、大きな巡視船に傷がつくほどの勢いで体当たりしながら、小さな漁船が傷1つ負っていない事実には、大きな違和感がありました。この衝突は仕組まれている。直感的にそう思いました。調べてみますと、漁船は民間の漁業関係者の持ち物とありましたから、ピンときました。これは、誰かしかるべき筋が資金を提供して、漁船の舳先など、巡視船にぶつける部分をチタン等の超硬度の物質で補強した、突撃船として準備された船だったと、考えざるを得ないという事実です。それで腑に落ちたことがあります。中国政府の対日姿勢のブレです。日本では、中国は国家の言論統制の結果、世論は一枚岩であるかのように思いがちですが、決してそんなことはありません。中国政府や共産党指導部の中でも、様々な見解の違いや政策対立、そして権力闘争が渦巻いていることに変わりはありません。まして、13億人もの人が溢れていれば、考え方も様々です。少し中国を歩けばこの事実はすぐに分かります。対日感情や日本のイメージも様々です。人口は日本の10倍ですから、地方の大都市での1千人や2千人のデモは、日本で言えば100人から200人のデモに過ぎないのです。この程度のデモの話、日本でマスコミが取り上げることは先ずありません。それをワザワザ、「反日デモ 地方でも」と大きく取り上げるマスコミの神経、いったいどうなっているのですかね。意図的に日中の離間を図っているとしか、私には思えません。さて、漁船に資金を出して、体当たりしても壊れない装備を施し、日本の巡視船を挑発して、逮捕に踏み切らせた陰の勢力の狙いはなんだったのでしょう。胡錦濤国家主席や温家宝首相ら、対日関係重視派を苦々しく思う対日強硬派が、反日世論を沸騰させることで、形勢挽回を目指した策だったと、私は受け止めました。菅総理と温家宝首相との会談が二転三転したのは、こうした中国指導部内での権力闘争の視点を加えて眺めると、実に良く分かります。こうした中国指導部内の権力闘争や、勢力分布の分析を、日本政府や外務官僚はきちんとやっていなかったのではないか。そのために日中関係の混乱を大きくしてしまったのではないか。私にはこう思えてなりません。 続く
2010.11.13
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クロニクル 岡田嘉子34年振りに帰国1972(昭和47)年11月13日戦前の大女優、岡田嘉子さんが、この日亡命から35年振りに日本に帰国しました。彼女は何度もの恋愛遍歴の後、1936(昭和11)年から、共産主義者で演出家の杉本良吉と出会い、相思相愛の仲になります。当時杉本は、プロレタリア運動にかかわって、執行猶予中だったこともあり、軍国主義の雰囲気が強まる中で、再度の逮捕を恐れ、2人は社会主義の国ソ連への亡命を決意します。当時の世界では、スターリンの血の粛清は、知られておらず、社会主義者の間では、ソ連を平等社会として賛美する声が強かったのです。2人は、1937年12月27日に上野を出発、翌38年の1月3日に樺太国境を越えて、ソ連に越境したのです。その後、戦争の激化と言論の弾圧、敗戦と戦後の混乱の中で、ソ連亡命後の2人の消息は完全に途絶え、その存在も忘れられていました。岡田さんの消息が、日本に伝えられたのは、1952(昭和27)年のことです。訪ソした参議院議員の高良とみさんが、現地で岡田さんの生存を確認、その報が日本に伝えられて、亡命した大女優岡田嘉子に、国内の関心が集まったのです。その岡田さんの姿が、マスコミに登場したのは、それから16年後の1968(昭和43)年のことでした。民放のTV番組での赤の広場からの中継に、彼女が登場したのです。その後の取材で、恋人の杉本良吉は、スパイと疑われて亡命1年後に銃殺刑に処せられたこと。彼女も約10年間にわたって獄中生活を送ったこと。その後モスクワ放送局の日本語アナウンサーとなり、同僚だった滝口新太郎と結婚、ようやく安寧を得たものの、その滝口にも先立たれたことなどが、次第に明らかになります。こうして、彼女の情報が日本に伝えられる中で、彼女のファンだったことを広言する東京都知事美濃部亮吉を先頭に、各界の人たちが彼女の帰国を促す運動を展開します。こうした運動が実って、38年前のこの日、遂に彼女の帰国となったのです。この日、岡田さんは、故人となった夫の滝口氏の遺骨を抱いて、羽田空港に降り立ったのでした。あの時の涙の記者会見、印象的でしたね。
2010.11.13
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尖閣問題を考える…(2)高陞号事件は、1894(明治37)年の7月25日に起きています。この事件の数時間前に清進両国の最初の軍事衝突である、豊島沖海戦が起きています。両国の戦端はここに開かれたのでした。高陞号は、イギリスの民間会社が所有する商船ですが、この船を乗組員共々清国政府が借り上げ、日本との戦闘開始に備え、日本軍を攻撃するために、自国兵士の朝鮮への輸送用に利用していたのです。闘争する清国の軍艦を追っていた、巡洋艦「浪速」は、やがて清国兵を満載して、イギリス国旗を掲げた「高陞号」を発見します。こうして、昨日記したように、「浪速」は「高陞号」を撃沈したのです。「浪速」の浣腸は、日露戦争史に名高い日本海海戦を指揮した東郷平八郎元帥(当時は大佐)、その人でした。高陞号を撃沈した東郷は、イギリス人乗組員の救助を命じ、船長ら3名の救助に成功しましたが、残り4名のイギリス人船員は救助できなかったのです。この事件を巡って、イギリス政府と国民は、日本政府と海軍に対し、轟々たる非難を浴びせ、損害賠償を要求してきました。欧米列強との対決並びにその干渉を招かない形での、清国との戦い、並びに朝鮮半島の実質的な獲得を目指していた日本政府は、このイギリスの抗議に激しく動揺します。その中で、海上を航海し、諸外国の港にも出入りすることで、外国事情に明るい海軍は、「浪速」の取った行動を、積極的に開示することに務め、日本側に非がないことを明らかにして行ったのです。1つ、高陞号は清国兵を満載し、朝鮮半島の仁川に輸送する途中であったこと。来れは明らかに戦闘行為であり、商船の行動とはみなしえなかったこと。2つ、浪速は高陞号に停船を命じ、士官を派遣して日清両国が戦闘状態に入ったことを説明して、速やかに船を捨てて下船すること(具体的には、浪速に身体の保護を求めること)を勧めたが、船長らイギリス人船員は、武装して興奮状態にある清国兵に脅され、船の航行を「続けざるを得なかったこと。3つ。浪速はさらに2時間30分ほど説得を続け、それでも聞き入れられなかったため、国際法に従って、砲撃する旨の予告信号を出した上で、砲撃したこと。即ち、東郷艦長の行動には、国際法上何らの瑕疵もないことを明らかにしたのです。この積極的な情報開示が功を奏した上に、浪速に救助された高陞号のイギリス人船長が、国際的な海事審判に出廷して、清国兵に脅されて、浪速の停船命令を無視するしかなかったことを証言ことが加わり、イギリス政府もイギリス世論も、日本海軍の紳士的な行動を認めざるをえなくなったのです。高陞号事件に学ぶべきことは、積極的な情報開示こそが味方を増やし、困難な状況をも切り開く力となることです。その後を見てみましょう。欧州諸国の中でもイギリスは、日清戦争中の日本の行動を精密に観察し、陸海軍を含めた日本の軍事力と、国際法遵守の姿勢を高く評価し、他に先駆けて、日本との不平等条約の快晴に動きました。その上、1902年には日英同盟を締結して、日露戦争を資金的に援助するなど、日本と親密な関係を築きました。情報は開示し、自己の正当性を積極的に主張すること。これこそが外交戦争を有利に導く上で、何者にも勝る留意点なのです。 この事実、菅内閣は知らなかったのでしょうか。コメントに司馬遼太郎の『坂の上の雲』をあげてくれた方が、何人かありました。ちゃんと出てきますよね。 続く
2010.11.12
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クロニクル ソンミ虐殺事件明るみに1969(昭和44)年11月12日年配の方なら当時の南ヴェトナムのソンミ村の名は、覚えておられると思います。あの虐殺事件の舞台として、ヴェトナム反戦運動に関心を寄せた世界中の人々の心に刻まれた村の名です。事件は前年68年の3月16日に起きました。ソンミ村は人口507人の小さな村でした。この小さな村をアメリカ軍の部隊が襲い、無抵抗の村人を機関銃の一斉射撃で虐殺した事件です。犠牲者は、男性149人、妊婦を含む女性183人、乳幼児を含む子ども173人の計504人、奇跡的に命を取り留めた村人は僅かに3人だけでした。当初米軍は、事実を隠し、南ヴェトナム解放民族戦線(当時米国はヴェトコンと言っていました)のゲリラとの戦いだと、虚偽の発表をしていたのですが、生き残った村民らの証言から、米軍の発表への疑問点が湧き出し、遂に41年前のこの日、生き残った村民への取材も行なったシーモア・ハーシュ記者が、『ザ・ニューヨーカー』誌上に真相を発表、米軍による大虐殺事件が明るみに出たのです。ここに、ヴェトナム戦争に対する米国内の空気も一変し、ヴェトナム戦争は不正義の戦争とのレッテルを貼られることになったのです。米軍は、情報を操作しようとして、墓穴を掘ったのですが、この事情は今現在の日本政府が陥っている状況と、似通っているように見えますね。
2010.11.12
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尖閣問題を考える…(1)入院以来中断している連載の再開は、来月までお待ち下さい。ゆっくり、ゆっくりですが、たっぷり取っている睡眠も効いているのか、確実に恢復に向かっていることが、少しづつ実感できるようになってきました。1昨日の外来健診で、「もうインフルエンザの予防接種を受けても良いですよ」と許可を戴き、本日午前中にホームドクターのところで、受けて来ました。接種後もいつも通りですから、まず順調と言えるようです。そこで、入院中に考えていたことなどを、いくつか時評的に取り上げてみたいと思います。まずトップバッターは、ビデオの流出で話題沸騰の尖閣問題から…。菅内閣は、何故問題発生時に、ビデオを公開しなかったのですかね。これが第1の謝りでした。外交の失敗した姿が戦争です。ですから外交交渉は、ある意味言葉での戦いです。外交官を含めて、政府と官僚にその覚悟はあったのですかね。この点が甚だ疑問です。漁船の船長を逮捕する許可を海上保安庁に出した時、政府と外務省は、予測しうる中国側の反応を、どの程度予測したのでしょう。囲碁や将棋の世界でも、プロの勝負となれば、相手の打つ手を30手、40手先まで読むのが普通と言われます。ですから、中国側の反応を一般的なケース、最も楽観的なケース、そしてその逆の最悪のケースと、あらゆる角度からシュミレーションして、なお外交的に耐えうるとなって、初めてゴーサイン、行動開始となるのが通例だと私は考えます。そうである以上、船長逮捕という日本側の行動の正当性を、国内は勿論、世界各国の政府と世論に訴え、さらには相手国である中国政府や中国国民に対しても、アピールする必要があります。菅内閣も外務官僚も、その努力を全くしなかったですね。これでは外交の常識を知らなかったのでは、と受け止められて仕方ないですね。しかし、外務官僚は外交のプロのはずですから、これもおかしいですね。数日前の毎日新聞にも指摘がありましたが、歴史を100年少々遡った、1894年の日清戦争の開戦期に、日本海軍が清国兵を乗せた英国の商船を撃沈した事件が起きています。当時の英国は、現在の米国以上と言えるほどの圧倒的海軍力を持った覇権国家でした。その商船を撃沈したのですから、これは大変です。この時、日本は速やかに持てる情報の全てを開示して、国際世論の支持を得ることに成功し、かくしてイギリスの怒りを解くことにも成功しているのです。世に高陞号事件として伝えられる出来事です。明日、もう少しこの点を敷衍させて戴きます。 続く
2010.11.11
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クロニクル 京都・山崎に日本初のウイスキー蒸留所竣工1924(大正13)年11月11日秋に35日の入院生活を送ったせいでしょうか。今年は例年以上に月日が巡るのが速いようです。今日は11月11日、年末まで残り丁度50日です。さて、今日は、大正13年、関東大震災から1年少々経った時期の話です。86年前の話ですね。昨日でしたか、サントリーのウィスキー「山崎」が、イギリスのスコッチウィスキー業界の審査で、最高賞を受賞したと出ていましたね。日本のウィスキーもここまで来たかと、元ノンベエの私は、大変嬉しく思ったものでした。肝臓が無事なら、友人を呼び出して、それこそ「山崎」の水割りで、カンパイしたことでしょう。その点、少々残念でもありました。そうです。86年前、当時の洋酒の寿屋(現サントリー)が、京都の山崎に、山崎蒸留所と名付けた、日本初のウィスキーの蒸留工場を完成させたのでした。ここに、国産ウィスキー製造の歩みが始まったのです。その日から戦時下の洋酒の受難時代をはさんで、苦節ウン十年、対に本家を凌ぐウィスキーの完成に至ったのですから、日本人の匠の技は、まざまざ健在なのですね。問題は、その伝承の難しさにあるのでしょうか。
2010.11.11
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クロニクル 中央自動車道全線開通1982(昭和57)年11月10日28年前になりますね。甲州街道と中仙道に沿う形で建設された、中央自動車道がこのひ、全線開通しました。中央自動車道は、河口湖へ入る富士吉田線、東名、名神と結んで西宮に至る西宮線、長野から上信越方面に至る長野線と、3路線を持つ珍しい高速道路です。このうち、東京の高井戸ICから、愛知県の小牧JCTに至る路線が本線と呼ばれます。雪の多い地域や、山間部も走行するため、冬季の利用には、十分な準備が必要とされています。また、沿線に観光地も多く、平日と土日の交通量に大きな開きがあることでも、知られていますね。
2010.11.10
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クロニクル ドイツ皇帝オランダに亡命1918(大正7)年11月9日92年前になりますね。第一次世界大戦が終わりを告げる時の混乱の一齣です。4年数ヶ月に及んだ大戦も、ドイツの敗色が濃くなってからは、急速に連合軍の勝利に傾いて行き、ドイツはキール軍港の水兵叛乱から、国内はまさに革命情勢に蔽い尽されるような状況になって行きました。この期に及んでなお、カイザー、ヴィルヘルム2世とその幕僚達は、決断の先延ばしを続けるありさまでした。しかし、首都ベルリンで、社会民主党中心に革命政府の樹立が宣言されるに及んで、この日、オランダへ亡命したのです。亡命後も帝位の維持を目指しましたが、衆寡敵せず、遂に11月28日に退位宣言に署名しました。なお、ヴィルヘルム2世は、その後も1941年の死去まで、終生オランダに留まり、ドイツ皇帝として復位することに執念を燃やし続けたと、言われています。悲しき執念とでも、言うべきなのでしょうね。
2010.11.09
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クロニクル 岡本綾子LPGA(全米女子プロゴルフ協会)ツアー賞金女王に1987(昭和62)年11月8日23年前のことになります。この年、日本の岡本綾子選手が、米国人以外では初めて、全米女子プロツアーの賞金女王を獲得し、大きな話題を提供しました。全米女子プログルフ協会(LPGA=Ladies Professional Golf Association)は1950年創立の、米国最古の女性のためのプロスポーツ組織で、2月~11月までのツアー選手権まで、総額5千万ドルを超える賞金ツアーを組織、管理する、女子ゴルフ界の世界最高峰の団体です。岡本選手は、その団体の賞金女王の座を、米国籍以外の選手で初めて獲得したのですから、まさに快挙でした。この頃は韓国籍の選手の活躍が目立っていますが、日本の若手女子も伸びてきていますね。
2010.11.08
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クロニクル 国会議事堂落成1936(昭和11)年11月7日74年前のことになります。この年2月には、2,26事件が世間を騒がせ、世相は日中全面戦争に突き進んでいる時期、言論の自由、学問の自由が次々と侵され、国体明徴運動の名の下に、思想弾圧が激しさを増している時期でした。そんなこの日、明治中期以来の懸案だった、帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)が完成、この日落成式が行われたのです。何度かの仮議事堂の建設や、火災での焼失を繰り返し、遅れに遅れた正規の議事堂が、この日ようやくかんせいを見たのでした。それが、日本の議会政治が機能麻痺に陥り、独裁権を握った軍部が幅を利かす時期だったというのは、なんとも皮肉ですね。
2010.11.07
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クロニクル 日本政府の財閥解体案をGHQが承認1945(昭和20)年11月6日敗戦の年のうちでした。65年前ですね。この日、2日前の4日に、日本政府が提出した三井、三菱(岩崎)、住友、安田の四大財閥の解体案を、条件付でGHQが承認しました。ここに財閥解体計画は、本格的に走り出しました。GHQの条件とは、「(解体計画の)実施に際しての監督・検閲権をGHQが留保する」という1点だけでしたので、この日以降、財閥解体計画は、順調なスタートを見ました。当初日本政府は財閥解体を渋っていたのですが、戦争に負けたことを重く見た財閥側が、辞退を深刻に受け止め、三井財閥や安田財閥が自ら財閥本社の解体と、株式公開に踏み切る姿勢を見せたため、政府もまた産業界に押される形で、持ち株会社の解体に踏み切る決意を固めたのでした。実際の解体と解散は、財閥各社の取引の終了(決済用手形の決済の終了)を待って実施されたため、三井、三菱、安田の各社は1947年末に、林業部門を抱えた住友は、48年末になりました。
2010.11.06
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クロニクル フランクリン・ローズヴェルト大統領三選1940(昭和15)年11月5日70年前になります。日本軍の真珠湾攻撃には、まだ1年1ヵ月少々の間がありますが、前年1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵入を契機に始まった第二次世界大戦は、この年、欧州の地図を大きく変えました。即ち、英仏連合軍がドイツ軍に惨敗して敗走、フランスはドイツに降伏して、国土の3分の2をドイツに奪われ、島国イギリスがドイツ軍の空爆に耐えながら、ドイツ海軍力の弱体ゆえに、辛うじてその命脈を保っている、こんな状態でした。イギリスの頼みの綱は、アメリカ合衆国による武器援助しかなく、より強力なアメリカの支援が望まれていたのですが、アメリカ国内では、第一次世界大戦後の英仏の米国無視の態度への反発も強く、なお孤立主義の傾向が際立っていたのです。そんな国内情勢のゆえに、大統領は2期8年を務めたら、3期目を望まずに勇退するという、ジョージ・ワシントン以来の不文律(ただし、法的拘束力や規定はなし」)を藪って、高い国民的人気と強力なリーダーシップを持つフランクリン・ローズヴェルト大統領の、3選を期待する声が強まったのでした。こうして、この年1940年の大統領選では、民主党は史上初めて3選を目指すフランクリン・ローズヴェルトを候補として推薦し、共和党の指名を得たウェルキー候補との一騎打ちに、挑んだのでした。ウェルキー候補は、ローズヴェルトの多選を批判する戦術に出たのですが、この日の選挙は、ローズヴェルトの圧勝に終わり、彼の3選が確定したのです。その後、ローズヴェルトは1944年選挙で4選を果たしますが、その半年後に急死し、副大統領だったトルーマンが残りの任期を引き次ぎました。トルーマン時代の1947年に、大統領の任期は2期8年に限るとした憲法修正第22条が可決成立し、以後は法的に3選大統領の登場は、ありえないことになりました。
2010.11.05
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クロニクル 奈良県再設置1887(明治20)年11月4日記事を書く前に、ブロ友のレオママさんの、娘さんとの奈良紀行と、同じくブロ友で奈良県在住のkopandaさんの、「平城京遷都1300年祭」を記念した秘仏・秘宝や非公開史跡の特別公開の紹介記事や見聞記を、読ませていただいたものですから、紹介したい記事も多い日なのですが、今日は、この記事にさせて戴きました。奈良県は、1868(明治元)年の5月19日に1度設置されています。しかし、翌1869年の版籍奉還や、さらに2年後の廃藩置県(1871年)に伴う府県統合の結果、1876(明治9)年の4月18日に、今はない堺県に統合されていったん消滅してしまいます。その後堺県が、1881(明治14)年の2月7日に大阪府に併合されたため、現在の奈良県の領域は、大阪府の大和地域と称されるなど、変遷を辿りました。京都と並ぶ、由緒ある古都なのですが、794年の平安遷都以後、長期に渡って天皇の宮廷の在所となった京都と比べ、奈良の存在感は薄かったのですね。こうした不遇の日があったのですが、ようやく123年前の今日、奈良県として大阪府から分離独立することが、認められました。府県の制定と、その後の統合や分離は、かなりの年月を要した大事業だったのです。
2010.11.04
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クロニクル 『東京物語』劇場公開1953(昭和28)年11月3日小津安二郎監督作品『東京物語』は、日本よりも世界各地での評価が高く、世界各国で選定される世界映画ベストテンなどで、常に上位にランクされる作品の一つです。ローポジションを多用し、カメラを固定したままフィルムを長回しして、人物を撮ることの多かった、小津作品の特色が良く現れた作品とも、言われますね。尾道在住の老夫婦が、一大決心をして、東京で生活する子ども達を訪ねる姿と、親子のすれ違いを描いたこの作品は、核家族化と高齢化の進行した現代社会を先取りした作品と、見ることも出来そうです。この『東京物語』は、57年前の今日、芸術祭参加作品として、松竹から公開されました。下は、そのときのポスターです。主演の老夫婦は、笠智衆と東山千栄子。戦死した次男の未亡人に原節子、老夫婦と共に暮らす、小学校教諭の次女に香川京子、東京で暮らす長男に山村聡、長女に杉村春子と、キャストにも名優がそろっていましたね。私も、最近になって、こうした映画の良さが、分る年齢になったようです。
2010.11.03
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クロニクル 世界最初のラジオ局開設1920(大正9)年11月2日ちょうど今年で90年になるのですね。90年前のこの日の午後6時、アメリカ合衆国ペンシルベニア州のビッツバークで、世界初の民間のラジオ局KDKAが産声をあげました。現地時間午後6時、ちょうど4年に一度の大統領選の開票が進められており、アナウンサーの第一声は、共和党のハーディング候補の当選を告げる放送でした。以後、ラジオ放送は、ニュースの外にジャズを中心とした音楽放送、野球やボクシングと言ったスポーツ中継を中心に、瞬く間に全米にそして欧州や日本にも、広まっていきました。
2010.11.02
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クロニクル 万世橋竣工1873(明治6)年11月1日今日からすると137年前になりますね。私の居住する町内の明治生まれは、明治44(1911)年生まれ、99歳のお2人だけとなりました。今年は平成元(1989)年の早生まれの若者が、現役で合格していれば、大学を卒業する年でもあります。昭和すら遠くなりつつあるのですから、「明治は遠くなりにけり」は当然なのかもしれませんね。万世橋は、秋葉原から神田方向に向かったところを流れる、神田川にかかる石橋です。中学生の頃、王子駅の近くに住んでいた私は、王子と日本橋を結んでいた都電に乗って、良く須田町の交通博物館(今は移設されました)に出かけていましたので、良く万世橋を通ったものでした。かぐや姫の名曲「神田川」に歌われたあの神田川は、どの辺なのでしょうね。「窓の下には神田川…」の歌詞からすると、もっと上流の早稲田周辺から、さらに上流に遡った中野区の上高田周辺でしょうか。源流の井之頭公園近くということはないと思うのですが、皆さんはどうお考えですか。さて、この万世橋、完成した石橋としては、日本最古のものとされています。残念ながらこの石橋は、現在の万世橋とは少し離れたところにあったのですが、明治39(1906)年に、現在の位置に新万世橋が建設されたのに伴い、撤去されています。新万世橋も、1923(大正12)年の関東大震災で被災し、しばらく木製の仮橋を利用したのですが、1930(昭和5)年に、現在のアーチ橋が完成し、今に至っています。東京大空襲を生き延びた石とコンクリートが混在する橋が、現在の万世橋です。
2010.11.01
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