全187件 (187件中 1-50件目)
今日の夕日です。柔らかな感じのする夕焼けです。まさに海も空もオレンジ一色。空に広がる黄金を海が映し返しているんですね。さて、講演会の告知です。今月30日、ヒカルランドの宇宙寺子屋で「パン大陸をめぐる16方位線と巨石文明」というタイトルで私が講演いたします。詳しくはこちらのページをご覧ください。
2013.01.05
コメント(3)
「新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編)」のシリーズは昨日終了しました。これで6年にわたる地方での記者生活時代が終わり、いよいよ本社経済部記者時代へと突入するわけですが、次の次の作品(次回作品は『留学生のための英語論文・ペーパー作成術』になる予定)の取材に専念したいため、ブログの更新を不定期にさせていただきます。ご了承ください。次の次の作品では、再び皆さんが驚愕するようなノンフィクションの世界へと誘いたいと思っております。ご期待ください。
2006.11.18
コメント(6)
▼ホピの予言2緊急集会の目的は、ホピの予言を外部に公開するかどうかであった。とういうのも、石板には、二つの世界大戦と広島、長崎への原爆投下とみられるシンボルが刻まれていたからである。原爆はホピの言葉で「灰のびっしり詰まったクッション」と表現されていた。このままでは地球が破壊されてしまうことを人類に警告すべきではないか――。精神的指導者「キクモングイ」たちの意見は一致した。三人のメッセンジャーがその会議で選ばれ、ホピの予言に込められた教えと警告を世界に伝えていくことになった。宮田さんが1978年に出会ったのは、その三人のうちの一人バンヤッケであった(三人の中で最後まで残っていたバンヤッケも1999年に90歳で死去した)。ホピの聖地は当時から、莫大な量の石炭や石油、それに地球最大級のウラニウム産地として開発が急激に進んでいた。ホピの聖地から採掘されたウラン鉱石が核兵器など核開発に使われていたのである。日本の原発に使われるウラン鉱の一部も、ホピの聖地で採掘されたものであるという。しかも聖地は、核廃棄物の巨大処理場に変貌してしまった。ずさんな核廃棄物処理のせいで、ホピやナバホの人たちの中からは「被爆」するものも現われた。聖地は開発の名の下に破壊され、ホピは汚染に苦しむことになった。それは人類が直面している危機そのものであった。宮田さんはバンヤッケによって語られるホピの予言を通じて、ホピの聖地が現在どのような危機に直面しているかを映画の中で訴えた。「文明が母なる地球を被爆させ、その呼吸を困難にさせているのだ」と、宮田さんは言う。「ホピの生き方こそが、この地球の病を治す唯一の道である」宮田さんはその後、89年から6年かけて日本とアメリカを頻繁に行き来し、第二部の制作に取り組んでいたが、95年3月編集作業に入る直前、米国滞在中に脳内出血で倒れてしまった。一命はとりとめたが、重度の後遺症が残り、現在療養生活を続けているという。
2006.11.17
コメント(0)
▼ホピの予言1当時埼玉県に住んでいた映画監督宮田雪さんに会うまでは、ネイティブ・アメリカンのホピのことはほとんど知らなかった。何のきっかけで宮田さんと出会ったかはよく覚えていないが、宮田さんがちょうど『ホピの予言』というドキュメンタリー映画を完成させて、自主上映を始めた1987年の7月ごろ取材、予言の話を8月の広島原爆の日に併せて出稿した。『ホピの予言』は、核兵器を開発し、地球の環境を破壊し続ける人類に対するホピからの警告のメッセージを伝えるドキュメントであった。宮田さんがこの映画を作るきっかけとなったのは、1970年代にインドで仏教僧から「大地と生命を敬い、創造主への信仰のもとに生きてきたネイティブ・ アメリカンの精神文明こそが近代物質文明を変えるだろう」という言葉を聞いたことであった。宮田さんはその後、1978年に訪米。ネイティブ・アメリカンによる権利回復運動「ロンゲストウォーク」に参加した際、「ホピの予言」のメッセンジャーであったトーマス・バンヤッカと出会い、映画の製作を決意した。ホピ族はアメリカ南西部、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラドの4つの州が一つに交差する「フォー・コーナーズ」周辺、コロラド高原とグランド・キャニオンなどの巨大渓谷に囲まれた地に住むネイティブ・アメリカンである。多くのネイティブ・インディアンたちがヨーロッパからの侵略者によって祖先伝来の聖なる地を追われていく中、ホピ族は少なくとも二000年以上、マーサウという偉大なる精霊(グレートスピリッツ)から与えられた土地を守ってきた。そして、多くの差別と迫害に耐えて、その伝統的な生き方と、偉大なる精霊から与えられたという予言の石板を死守してきたのだという。 バンヤッカによると、もともと予言の石板は門外不出の古くからホピ族に伝わるメッセージで、宇宙の計画としてホピに与えられたものであった。「第三の世界」と呼ばれるこの世界の始まりから、浄化の日を経て、「第四の世界」と呼ばれる新しい世界が始まっていくまでのことが印されているのだという。ホピは常に、ホピ族自身に起こる変化とこの地球上で起こる変化を、その石板と照らし合わせながら見つめてきた。転機は1948年にやってきた。ションゴパビ村の地中の集会所「キバ」に、ホピの8つの村の精神的指導者「キクモングイ」が集まり、緊急会議を開いたのだ。(続く)
2006.11.16
コメント(4)
▼浦和支局の三年間結局、私が埼玉県政を担当している間は一度も国政選挙がなかった。取材して原稿にしたのは統一地方選と浦和市長選だけである。1988年秋の埼玉県知事選も、その年の春に本社経済部に異動になったので担当しなかった。畑和に対抗する自民党の候補が自治省出身の官僚に決まったことを、はるばる埼玉から東京・平河町の自民党本部まで出向いて原稿にしたぐらいであった。その後本社勤務では、平河町の自民党本部には足繁く通うようになるのだが、それは経済部編のシリーズで詳述することにする。埼玉県政は、成田―大宮リニア構想以外に全国ネタになるような動きもなく、極めて平穏であった。それでもヒマネタは書かなければならないので、埼玉大学と理化学研究所が提携する話などを独自ネタで原稿にしたこともある。変わったところでは、埼玉県北本市に住む自営業の男性が「幽霊探知機」を製作したという情報を得て、取材を試みたが、本人が試作機に自信がもてないということでボツになった思い出もある。映画『ゴーストバスターズ』が流行っていた時代でもあり、原稿にしたら大きな反響を呼んだのではないかと思うが、残念であった。岐阜県で恐竜の化石が見つかったというので、管轄外ではあったが休みを取って日帰りで岐阜県高山市まで取材に行ったこともあった。行く前には古生物の専門家に恐竜の化石の見分け方を簡単に教わったが、現場で見たものは残念ながら素人の私にも恐竜の化石ではないとわかるものであった。このようにして、殺人事件や日航機墜落事故といった社会部的大ニュースの“洗礼”を受けて始まった浦和支局での三年間が過ぎ去っていった。明日は「ホピの予言」について書いた原稿の話を紹介して、それで浦和支局編のシリーズを終えようと思う。
2006.11.15
コメント(4)
▼埼玉の政治家(浜田卓二郎とマキ子夫妻)政治屋だか、ヤクザだか、お笑いタレントだかよくわからない千葉県選出の元代議士にハマコーというのがいるが、埼玉県にはハマタクという代議士がいた。浜田卓二郎である。同じ浜田でも、ハマタクはサラブレッドというかエリート街道を進んだ政治家であった。1941年、鹿児島県で警察官の息子として生まれた。その後神奈川県横須賀市に移り住み、東大法学部を卒業。在学中に国家公務員上級試験と司法試験に合格するという秀才ぶりであった。結局、大蔵省に入省し、35歳まで勤めた。退官後は地縁、血縁のまったくない旧埼玉一区から自民党公認で衆議院選挙に出馬。79年は次点に終わったが、翌80年の衆議院選挙で初当選。90年まで四期連続当選し、自民党副幹事長や外務政務次官を歴任した。しかし、そのハマタクよりも注目を浴びていたのは、浜田の妻マキ子であった。マキ子も浜田と同時期に東大で学んでいた。しかも東大入学一年前は日本航空のスチュワーデスを10ヶ月勤めるという異色の経歴をもっていた。マキ子は1965年に東大卒業と同時に、参議院議員だった叔父の植竹春彦の秘書となった。同年3月15日、大蔵官僚だった浜田卓二郎と結婚した。1973年には和洋のマナーや英仏会話、料理、華道などを教える「芝アカデミー」を設立、学長に就任。テレビ出演や著書出版などタレントとしても活動した。ハマタクはその後、1993年に落選の憂き目に遭う。浪人中の94年に自民党を離党、新生党に移籍し新進党結党にも参加した。ところが96年の総選挙でも落選。無所属となった98年の参議院議員選挙でようやく当選し、5年ぶりに国政に復帰した。2003年の埼玉県知事選にも出たが、敗北。2004年、自民党に復党し参院選・比例代表で出馬したが惨敗した。事実上政界を退き、現在は東京弁護士会の所属する弁護士として活動している。一方、マキ子も1993年の衆議院議員選挙に自民党公認で出馬してメディアに注目されるが、夫婦そろって落選して、これも話題となった。マキ子はその後も衆議院議員選挙や東京都知事選に立候補したが、いずれも落選した。私が浦和支局にいたときは、「流行の夫婦」として記者の前に顔を出したこともあったが、やはり流行は廃れるものなのかもしれない。政治家の人生の盛衰を見るようで感慨深い。
2006.11.14
コメント(4)
▼埼玉の政治家(五十嵐文彦)1987年のある日、私が埼玉県政記者クラブにいると、埼玉県庁広報課員が一人の人物を連れてきた。その人は各新聞社を回って挨拶を始めた。共同通信の机のところに来ると、その人物は名刺を私に渡して自己紹介した。「五十嵐文彦です」それが後に埼玉県選出の衆議院議員となる五十嵐との最初の出会いであった。五十嵐は1948年生まれ。東京大学文学部を卒業後、時事通信社に入り、政治部の記者として活躍した。ところが、どういうわけか15年間勤めた時事通信を辞めてフリーになったのだという。そのときどのような会話を交わしたか詳しくは覚えていないが、私は五十嵐に対して「フリーになるとは随分思い切りましたね。政界へ進出されるのですか?」というようなことを聞いたと思う。私の記憶では五十嵐は「いろいろな可能性を探っているので、まだ決めていない」と答えた。五十嵐はその後、1990年に衆議院議員選挙に無所属で旧東京7区から出馬するが落選。1993年の衆議院選挙では、旧埼玉2区から日本新党公認で出馬して初当選する。1994年に離党後、新党さきがけに入党し、党政調会長代理を三年間務めた。1996年には民主党結党に参加、直後の総選挙では落選するものの、2000年の衆議院選挙で返り咲いた。2003年の総選挙でも再選されるが、2005年には自民党候補に大差で落選した。五十嵐との最初の出会いから6年経って、私は経済部の記者として国会周辺で五十嵐に再会した。五十嵐は私のことを覚えていなかったが、埼玉県政記者クラブで会ったことを告げると、その後も取材ではいろいろ便宜を図ってくれた。とくに新党さきがけで党政調会長代理を務めていたときは、連立与党が進める経済政策のことを詳しく教えてくれたので非常に助かった。五十嵐は現在、選挙の地元狭山市で、月一回政策研究会を開きながら、再起を期しているという。
2006.11.13
コメント(2)
▼埼玉の政治家(山口敏夫)埼玉県政を担当している間に取材した政治家の中で、なんとも憎めないキャラクターをもった代議士がいた。珍念と呼ばれていた山口敏夫である(なぜ珍念と呼ばれていたかは不明)。小柄だが、ひとたび口を開くと弁舌は明快で歯切れがいい。畑和知事から県政を奪還する自民党の集会が大宮市の大正製薬工場そばで開かれたとき、それまで二,三回しか会ったことがなかったのに、気さくに向こうから「元気?」と話しかけてきたこともあった。あれだけ人当たりがいいからこそ、選挙にも強かったのだろう。衆議院選挙で連続一〇回当選を果たしている。山口は埼玉県東松山市出身で、1940年に生まれた。父山口六郎次も衆議院議員だったが、山口が明治大学在学中に死去した。大学卒業後一時労働省に勤め、政治家秘書に転進。1967年自民党から立候補して初当選。26歳という最年少の当選として注目された。党内では、河野洋平、西岡武夫ら同年代の若手と結託して党内左派の勉強会「政治工学研究所」を結成、党内右派の「青嵐会」に対抗した。1976年には河野、西岡らと自民党を離党、第二の保守政党を目指して新自由クラブを立ち上げた。新自由クラブはその後浮沈を繰り返すが、やがて退潮が決定的になると、1983年には自民党・新自由クラブの連立内閣樹立に成功。山口は第二次中曽根内閣で労働大臣として入閣した。だが新自由クラブは1986年の選挙で惨敗すると解党し、自民党に復党した。その間山口は根回しに奔走、そのヒラリヒラリと派閥などのあちこちを飛び回る様から「政界の牛若丸」との異名を取るようになった。後に知ったが、山口に関しては「くればうるさい こなきゃさみしい記者と珍念」という戯れ歌があったのだという。まさに言いえて妙である。しかし山口も、1992年の埼玉県知事選ごろから政治力に陰りが見えはじめる。93年の宮沢内閣不信任案では不信任票を投じ、再度自民党を離党して無所属に。94年に新進党結党に参加したが、翌95年に東京協和・安全の2信用組合による乱脈融資事件に関与していたことが発覚、背任の共犯容疑で逮捕された。その際、新進党は離党したが、議員は辞職せず居座ったため、それまでの人気も急落。翌96年の総選挙には出馬せず、政界を引退した。背任罪や業務上横領罪で起訴された山口は一審、二審で実刑判決を受け、最高裁に上告した。
2006.11.11
コメント(4)
▼埼玉の政治家(土屋義彦と大正製薬)談合疑惑で出馬を断念した畑和に代わって埼玉県知事に選ばれたのが、自民党出身で参議院議長まで務めた土屋義彦であった。土屋のバックには大正製薬があった。土屋は大正製薬のオーナー社長として同社を大企業に育て上げた上原正吉の甥にあたる。上原正吉は埼玉県北葛飾郡杉戸町出身。1915年に前身の「大正製薬所」に入社。その後順調に出世し、戦後の1946年に社長に就任した。このころから大正製薬では、上原家が事実上のオーナーとして君臨するようになる。無借金経営を貫き、問屋を通さない直販体制を作り上げ、栄養ドリンク「リポビタンD」を売りまくった。巨万の富を築いた正吉は、自ら政治を動かすべく1950年には参議院議員埼玉選挙区から日本自由党公認で立候補し初当選。以後連続五回当選を果たした。第一次佐藤内閣で科学技術庁長官として入閣。自民党両院議員会長も務めた。正吉には子供がいなかったので、養子にしたおいの昭二(土屋義彦の実兄)を会長に就ける。1973年には社長を昭二に譲り会長に退いた。また、大平正芳の息子を婿養子に迎え同社の副社長にすえるなど政界への影響力を強め、大平首相誕生への資金面の原動力になったとされている。とにかく正吉は高額納税者番付の常連で、1964年~1979年の間に計6回もトップを占めた。正吉は1983年に亡くなったが、上原家には莫大な財産が残されていた。土屋義彦は上原家の資金力をバックに「土屋天皇」と称されながら、政界に君臨した。参議院議長になったのも、豊富な資金源をもつ「天皇」としての力が認められたからだ。このように土屋のような自民党の政治家は大企業と結託し、その潤沢な資金を背景に日本の政界を動かしていくのである。埼玉県知事を三期務めた土屋は、権力者の常と言うべきか、ほどなく県政の私物化に精を出すようになる。土屋の長女桃子は企業や団体からの献金を自由に使い、そうした企業や団体が有利になるように県政に介入していた疑いがある。建設業界が土屋に媚びるために、合角ダムの人造湖に土屋の長女桃子の名前からとって西秩父桃湖と名づけさせたのは有名な話。一族ぐるみで県政を推し進めた象徴的な出来事であった。しかし2003年に、桃子が知事の資金管理団体の資金約1億1000万円を隠し、流用した政治資金規正法違反事件で逮捕されると、土屋は知事を辞職する。まさに政治を私物化していた土屋一族らしい最後であった。もっとも次女土屋品子は、自民党所属の二世議員(衆議院議員)として、現在は安倍内閣にあって環境副大臣を務めており、土屋一族の政治の血はちゃんと受け継がれているのである。
2006.11.10
コメント(2)
▼埼玉の政治家(糸山英太郎)その県で選ばれる政治家を見れば民度がわかるというが、革新系知事を生み出した埼玉県であっても、その民度はあまり高そうではなかった。当時埼玉では、金権選挙で悪名を馳せた糸山英太郎が三区選出の代議士として幅を利かせていた。糸山は実業家の佐々木真太郎と糸山道子との間に生まれた。輸入車のセールスマンを経て、新日本観光に入社、ゴルフ場の運営で頭角を現した。その後笹川良一の姪と結婚して、資金の後ろ盾を得て、政界に信進出した。当初は中曽根康弘の秘書をしていたが、1974年に自民党から参議院全国区に出馬、32歳で初当選した。しかしこの選挙では、糸山が経営する会社や笹川が支配するギャンブル業界関係者らによる大規模な選挙違反が発覚、142人が逮捕されるという戦後最大の選挙違反事件に発展した。カネに物を言わせてなりふり構わず当選する糸山の金権政治は、笹川や闇の世界との関連性から物議をかもした。糸山に対しては選挙違反の責任を取って辞任しろとの声が上がったが、糸山が大枚をはたいてせっかく手に入れた参議院議員の職を手放すはずもなく、6年間国会に居座った。糸山に言わせると、綺麗な選挙などこの世に存在しないのである。カネで票をまとめてないが悪いということであろうか。糸山は1983年に衆議院議員に転身、一度落選を経験したが計三回当選し1996年に辞職した。総資産4200億円、世界で154番目(日本で5番目)の大富豪(米経済誌フォーブス)とされる糸山の周辺には、常に暴力団の影がちらついていた。カネが絡むところには、その臭いをかぎつけて集まる種類の人間がいるわけだ。糸山の裏には、糸山の依頼を処理する暴力団関係者がいたとされている。有名なのは、2004年に週刊誌などで報じられた「児童買春事件」である。糸山は、東京都港区にある自社ビル「ザ・イトヤマタワー」18階の自宅で、元暴力団関係者から紹介された16歳の少女を買春した。しかし、買春相手が18歳未満だとは知らなかったとして、児童福祉法違反に問われることはなかったのである。このとき、糸山と親しい暴力団組長が事件のもみ消しに暗躍したといわれている。カネで票を買う政治家にもあきれるが、カネで票を売る有権者もどうかと思う。糸山は最後まで札束を枕に、札束の夢でも見ながら死を迎えるのであろうか。そうだとしたら、実に哀れな姿である。
2006.11.09
コメント(4)
▼革新系知事・畑和の夢結局、畑和のリニア構想は実現することはなく、畑は六選を目指した92年の知事選前に談合疑惑が発覚、政界を引退した。国が推進するリニア構想としては、大宮―成田空港間ではなく、自民党の金丸信が推進していた、金丸の地元山梨を通るリニア中央新幹線に事実上軍配が上がったのだ。一方北陸新幹線は、整備新幹線として着実に前進している。1997年には東京駅から長野駅まで開業、北陸まであと一歩のところまできている。中沖は知事を退いたが、悲願の北陸新幹線全面開通への道を切り開いたことになる。自治体の首長が描く夢が実現できるかどうかは、多分に中央との力関係によることは明白である。地元も自分たちの目先の利益を考えると、「寄らば大樹」で時の政権に擦り寄るのである。こうして巨大な利権の塊が生じ、保守王国の地盤を磐石なものとしていった。その中にあって、革新系知事畑和の評価は今でも高い。県立高校を増設したり、時間割を生徒自身で決定し組み立てることができる、全国で初めての総合選択性の普通高校・県立伊奈学園総合高校を創設したりするなど独自の教育政策を積極的に推進、さらには当時「ダサいたま」と呼ばれた埼玉のイメージを払拭すべく、さいたま新都心構想を打ち出した。人口の急増に対応して、警察予算や人員を増やすことにも躊躇しなかったので、革新系知事なのに、珍しく警察の受けもよかった。このように畑は現実的な路線を突き進んだこともあり、保守層にも食い込み、圧倒的な人気を維持することができたのである。五選といえば、生まれた子供も成人式を迎える長期政権だ。多選の弊害もあっただろう。現に私が浦和支局にいたときも、畑知事に関する疑惑がいくつか浮上しては消えていた。それでも畑の人気は絶大であった。退任の際は県庁前に職員約700人が集結して、盛大な見送り式が行われたという。畑は1996年1月26日、85歳で死去した。
2006.11.07
コメント(0)
▼県政:畑和と中沖豊1987年の春、私は県政担当となった。当時の浦和支局記者の担当は大きく分けて、三つしかなかった。警察、県政、遊軍(大宮市担当)である。既に私は警察と遊軍をやっていた。県政を担当することにより、無事“三冠”を達成することができたわけだ。県政担当にとって大きな取材となるのは、自治体の首長選挙や国政選挙である。私は富山支局時代にも半年間だけ県政担当をしており、そのときは富山県知事選を取材した。当時の知事は自民党出身の保守・中沖豊知事で、1984年11月に行われた知事選で再選を果たした。対立候補は共産党候補だけで、圧勝であった。いくら保守王国とはいえ、その後まさか20年間も富山県政に君臨するとは、当時は考えもしなかった。中沖は6期24年知事の座にとどまり、その座を2004年11月まで譲ることはなかったのである。1987年の埼玉県政でも、多選の問題が浮上していた。全国でも珍しい革新系知事である畑和の長期政権である。畑は日本社会党の代議士だったが、1972年の埼玉県知事選で初当選。84年には革新知事として四選を果たし、88年の知事選で五選を目指していた。政治家とは面白いもので、口を開けばいつも同じことを繰り返す性質がある。中沖はいつも「北陸新幹線、北陸新幹線」と熱病に冒されたように、北陸新幹線の敷設に血道を上げていた。畑はリニアモーターカーを成田空港―大宮間に敷設することを夢に掲げていた。記者がその質問をしようものなら、記者会見では「リニア構想」を延々と語り続けた。どちらも自らの政治生命をかけた闘いではあったのだろう。だが、北陸新幹線が地元への利益誘導の色彩が強かったのに対して、リニア構想は単なる地元への利益誘導ではない、政治家としてのダイナミックな夢があったように感じた。
2006.11.06
コメント(2)
▼目的「ETとの交信は可能か」にも書いたが、UFOの出現や宇宙人との交信は地球レベルで進行している破壊と無関係ではないようであった。1980年代の地球人の多くは、地球レベルで環境が破壊されていることに気付かないでいた(ブッシュと彼を支持する連中は、今でも気づいていないか、わざと無視している)。宇宙からのメッセージには、その環境破壊に気付かせ、このままだと地球では生物が生存できなくなることを警告する目的があったようだ。私が当時注目していたのは、オゾン層の破壊であった。なぜなら地球の科学者がオゾン層の破壊が起きているのではないかと大々的に発表する前に、私は宇宙からのメッセージの中にその警告があることを知っていたからだ(一部の科学者は気付いており、既に1970年代に学会で発表していたが、大きく取り上げられることはなかった)。オゾン層破壊の原因は、冷蔵庫やスプレーに使用しているフロンガスらしいことはわかっていた。しかし地球の科学者による発表にもかかわらず、政府は「まだ因果関係が証明されたわけではない」として、対策に消極的であった。オゾン層の破壊はとくに南極で顕著であった。1970年代中ごろから、南極上空のオゾン層が減少、ポッカリと穴があくようになった。オゾンホールである。全米科学財団がようやく重い腰を上げ、研究班を現地に送り大型気球を使った観測を始めたのは1986年の8月であった。ただしその観測でも、フロンガスが原因であると断定することはできなかった。それでもフロンガスを含む何らかの化学物質による反応がオゾン層を破壊しているとの認識が生まれ、翌87年「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」が採択、5種類の特定フロンと3種類の特定ハロンの生産量を削減することを合意した。最初の警告から10年以上が経って、ようやく曲がりなりにも対策が取られたのである。この件に関して浦和支局にいる私には、やれることは限られていた。私は86年7月ごろからオゾンホールに関係する動きや情報を本社科学部に上げて、科学部に原稿を書くように要望した。科学部のほうでも興味を示し、全米科学財団に取材して原稿にしていた。およそ地球レベルの危機に対して、地球人は国益ばかりを優先するので対応が極めて遅くなる。私には気が狂っているとしか思えないが、自国の経済を第一に考えるから、自分の国さえ繁栄すれば地球がどうなろうと構わないのである。素晴らしい愛国心!おそらく温暖化防止策についても、そのような議論が繰り返されるのであろう。なぜ自国の経済を停滞させるような条約に批准しなければならないのか、ようやく獲得した生活の利便性をなぜ諦めなければならないのか、といった議論だ。国益と国益、国のエゴとエゴがぶつかれば、早晩共倒れするのが関の山であろう。
2006.11.02
コメント(2)
▼コンタクティーたち2秋山氏以外に当時私が取材したコンタクティーたちは、次のような人たちであった。北川恵子さん、岡美行さん、海後人五郎さん、作詞家のAさん母娘、梅本利恵子さん、安食天恵さん、政木和三さん。アカデミズム関係者では、関英夫、佐々木茂美、大谷宗司各教授や西丸震哉さん。こうして次々と取材していくうちに取材ノートもドンドン膨れていった。取材により多くの情報が集まると、新聞記者の性で自然に筆が進んでしまう。そうして出来上がったのが「ETとの交信は可能か」という原稿であった。ただ残念ながら、「良識ある共同通信社」で、ETとの交信をしていると主張している人たちを真面目に取り上げることはできなかった。結局その原稿は、秋山氏が当時編集長を務めていた『ボストンクラブ』というムックのような書籍に掲載された。続いて第二段も掲載され、第三弾、第四弾と続くはずが、その前に『ボストンクラブ』が廃刊になってしまい、日の目を見ずに終わってしまった。この四部作が完成したのは、それから18年経った昨年出版された『不思議な世界の歩き方』の中である。「テレパシー交信」「金星人とのコンタクト」「アトランティスの記憶」「惑星間の転生」の四部作は、それぞれ拙著の4,6,5,8に対応している。それにしても、『不思議な世界の歩き方』でも紹介した清田益章氏が大麻取締法違反容疑で逮捕されたのは残念である。新たな活動を展開する矢先の出来事。そのうち本人の釈明が彼のホームページに載るそうなので、注目したい。
2006.11.01
コメント(6)
▼コンタクティーたちUFO関連取材を始めて驚いたのは、実に多くの人がUFOを目撃し、そのうちの何人かは宇宙人と交信・交流していると主張していることであった。そうした情報は、日本サイ科学会や日本GAPの機関紙などで入手できた。日本サイ科学会とは超能力などの超常現象を科学的に解明し、その知識と普及と活用を図る目的として1976年に関英男氏が設立した学会。毎月一回会報を発行したり、超能力者や超常現象の研究家による講演・実演会を開いたりして活動している。日本GAPは、UFO研究家の久保田八郎氏がアダムスキー型UFOの写真撮影などで有名なジョージ・アダムスキーと提携して1961年に創立した、当時日本最大のUFOと宇宙哲学の研究会であった。その中でとくに私が注目したのは、秋山眞人氏であった。秋山氏は当時、一般的にはあまり知られていなかったが、日本サイ科学会では実名で、日本GAPでは仮名で「私は別の惑星に行ってきた」という衝撃の体験を語っていたのだ。現代版浦島太郎ではないか!私は秋山氏を訪ねて、その驚異の体験について取材した。秋山氏はその体験が事実であると認めたものの、一般紙レベルでそれを公表することはやめてほしいと注文をつけた。自分の体験が大々的にマスコミに報じられれば、必ずマスコミにつぶされると思ったからである。確かに一般的には、別の惑星に行ったなどということを認めれば、頭のおかしい人の妄言であると一笑に付されるだろう。おそらく「秋山は大嘘つき」という活字がそのうち躍るようになるだろう。それは既にジョージ・アダムスキー自身にも起きており、実証済みであった。そのような体験を明らかにすることは、時期尚早であると秋山氏は考えていたようだ。私は秋山氏の希望を聞き入れた。その代わり、秋山氏からは多くのほかのコンタクティー(ETと交信・交流している人たち)を紹介してもらった。私は時間を見つけては、そうしたコンタクティーを取材して歩いた。断っておくが、こうした取材はとても共同通信社として認めることはできないだろうから、すべて勤務外でやっていた。たとえば、泊まり勤務のときは午後5時に支局に出社すればいいので昼間はあく。また、早出の時は午後5時までなので、夜会えるようにアポイントを取って取材した。そもそも私は浦和支局員である。秋山氏のように特異な体験をした人たちは東京を中心とする埼玉県外に住んでおり、私の“管轄外”でもあった。(続く)
2006.10.31
コメント(0)
▼シンクロニシティー私は時々、より大きな意志によって将棋の駒のように動かされているのだなと思うことがある。だれかが大きな流れができるようにデザインをする。そのデザインに従って、私のような駒があちこちでほぼ同時に動きだすのだ。1984年に日本にピラミッドがあったというサンデー毎日の取材と私の「尖山はピラミッドだった!?」の取材がシンクロしたのも、おそらくそのようなデザイン・設計がされていたのであろう。浦和支局にいる私のところへ、UFO関連の情報が続々と飛び込むようになっていたときにも、一種のシンクロニシティーが起きた。暮れも押し迫った1986年12月29日、共同通信社アンカレッジ通信部が日航ジャンボジェット機の機長がアラスカ上空で巨大UFOと遭遇したと報じたのだ。これは既に述べたように、UFO目撃史上の大事件であった。目撃者が日航の機長であるということ、レーダーにも映っていたこと、副操縦士ら他の乗員二人も目撃していること、などからかなり信憑性の高い目撃であったからだ。私はこの目撃が、機長の寺内謙寿氏をターゲットにして意図的にデザインされた可能性が強いとみている。というのも、他の二人の乗組員の目撃に比べて寺内機長の目撃は実に明確で、物体の形もはっきりと確認しているからだ。だからその飛行物体の動きを詳細に説明できた。一方、為藤隆憲副操縦士が「(UFOの)ライトは確かに見たし、機内のレーダーにも現われていたから何らかの物体が存在したことは確実だが、物体の形は確認できなかった」と述べているように、見え方に個人差があることがわかっている。つまり、もしUFO側に見せたいという意志があるとき、ある特定の個人によりはっきりと見せるという現象が起こりうるのだ。寺内機長は日航機の操縦室内が明るく照らし出されたと証言しているが、同乗していた佃喜雄航空機関士は「不思議な光が見えたのは30分ぐらいの間だ。この間、操縦室内が明るく照らし出されるようなことはなかったと思う」と共同通信に語っている。この世界にはより大きな意志が存在し、ある意図をもってシンクロを起こしているのだろうか。このニュースがより大きなきっかけとなって、私は突き動かされるように翌1987年からUFO関連取材に突入するのであった。(続く)
2006.10.30
コメント(0)
これは一昨日ブログで紹介した「ハレー彗星の記事」の大分合同新聞の切り抜きです。このほか信濃毎日新聞やサンケイ新聞が大きく取り上げてくれました。さて、今日は日本サイ科学会の月例会に行ってきます。今日のテーマはオーブとは何か。オーブについては、何度かこのブログでも紹介しましたね。私は「霊界因子」と呼んでいますが、果たして正体は? 今日のシンポジウムでは、最新の研究状況が発表されるはずです。私はシンポジウム後に佐々木茂美会長を取材する予定です。その結果も近日中に紹介します。
2006.10.28
コメント(0)
▼続々集まるUFO目撃談遊軍になったころ、実は私のところに続々と不思議な情報が入ってくるようになった。警察担当を事実上はずれたおかげで暇になり、私自身興味をもっていたことも、そうした情報が集まってくる要因となった。富山支局時代に富山大学の山口博教授に登場してもらい、「尖山はピラミッド!? UFO基地説も」という原稿を書いたことは既に述べた。その原稿のためにその後たびたび、山口教授や支局に「実は私もUFOを見た」「宇宙人に遭遇した」という電話が飛び込むようになったのだ。山口教授の専門は万葉集であり、UFOは専門外だ。そのため、そういった電話があると浦和支局の私を紹介することが多かった。そのとき感じたのは、そのような不思議な体験をしたことがある人は、理解してくれる人さえいれば、話したくてしょうがないということだ。ところが話すと、よくても奇人、変人扱い、最悪の場合は精神異常者扱いされる。目の錯覚だろうとか、作り話だ、嘘つきだとか言われることはザラだ。そうした現象に理解がある人が周りにいるならいいが、いない場合はやがて口を閉ざし、語らなくなる。そのような一種の虐げられた人たちが、駆け込み寺のように私のところに“避難”を求めにきた。私が理解を示すと、彼らはしゃべることしゃべること。抑圧されていた感情が解放されたかのように「自分が体験した驚異の出来事」を次々と語り始める。その中でも今でも鮮明に覚えているのは、身長3メートル超の宇宙人に会ったという話だ。取材メモが見つからないので正確性は少し欠けるが、場所は長崎県にある小さな島。目撃したのは、確か20代半ばぐらいの青年の二,三人のグループで、夜中に海岸で海と星空を眺めていた。すると、目の前の海上をオレンジ色の大きな飛行物体が横切るのが見えたのだという。その物体は岬の向こう側に消えた。グループは、最初は火の玉か、流れ星かと思ったのだという。しかし、とにかくリアルな物体であった。これは確かめないわけにはいかないと覚悟を決め、その物体が消えた岬の向こう側に行ってみることになった。そこで見たものは、常識では考えられないような巨大な生物であった。三メートルを超えるタワーのような生き物。よく見ると、その生き物には首から上がなく、人間でいえば鎖骨の辺りに目が二つ付いていたという。その若者のグループが恐怖で凍りついたことは、想像に難くない。さらに驚いたことに、その宇宙人とみられる生き物は、未知に対する恐怖に震えているか弱い地球人に対して、日本語で次のように言ったのだという。「恐れることはない。われわれは、この星でいえば学生のようなものだ」断っておくが、これは冗談でも笑い話でもない。私にこの話をしてくれた若者は、至って真面目に体験談を電話で語ったのである。それは声の調子でわかる。彼の話を信じるならば、その3メートルを超える巨大宇宙人は修学旅行かなにかで、あるいは夏休みの自由研究の宿題をやるため(?)に、地球の、それも日本の長崎の島にやってきたわけだ。これほど衝撃的な目撃談ではないが、大分・別府温泉で『未知との遭遇』の最後のシーンで出てくるような円盤型の巨大UFOが、空一杯を覆うように現われたのを見たという人もいた。そして、こうした目撃情報に呼応するように、UFO目撃史に残る大事件が起きるのである。その発信元は共同通信社のアラスカ・アンカレッジ通信部であった。(続く)
2006.10.27
コメント(6)
▼軽勤務とハレー彗星の写真勤務日報改竄事件で組合業務に明け暮れる一方、私は病休明けということで軽勤務にしてもらった。軽勤務といっても、最初の2ヶ月間だけ泊まり勤務の回数が月五回から二回に減ったぐらいだったが、その後すぐ、警察担当からはずれ遊軍になったので、勤務は非常に楽になった。当時、新幹線に関連する取材基地ということで大宮に拠点があった。遊軍担当はその大宮方面をカバーするほか、ヒマネタなどを発掘することが期待されていた。大宮警察署という大きな警察署がカバー範囲内にあるため、完全に警察担当から外れたわけではなかった。それでも遊軍になったおかげで、富山支局のときのように伸び伸びと取材ができるようになった。私は自分でも高橋製作所の反射望遠鏡を持つなど天文関係が好きだったので、ヒマネタ取材では何本か天文観測関連の原稿を書いた。そのうちの一つは、大分合同新聞が夕刊トップで掲載するなど大好評であった。それは埼玉のアマチュア天体写真家が撮影したハレー彗星の写真が、学術的に貴重であることが東京大学理学部天文学教室の渡部潤一さんの研究でわかった、という原稿であった。その写真は尾のでき始めを連続して捉えており、どのように尾が形成されていくかを解明する重要な手がかりになるものであった。撮影したのは埼玉県大里郡寄居町の会社員新井優さん(当時34)で、この原稿が出た後、「時の人」という朝日新聞で言うと二面の「ひと」欄に相当する原稿でも取り上げさせてもらった。新井さんは1985年11月13日、自宅で望遠鏡を使って、午前1時40分から同3時40分までの間、計6枚ハレー彗星の撮影に成功した。その約14時間前にイタリアの天文台グループが、ハレー彗星の核の表面から南向きにバースト(大規模な噴出)が起きたことを観測している。新井さんの写真と照合すると、バーストによって噴出された物質が太陽の紫外線で壊されてイオン化し、尾の物質になっていくことや、バーストから10時間以上経ってから尾ができ始めることなどが証明できるのだという。この写真に注目した渡部潤一さんは、いまでこそ国立天文台天文情報公開センター助教授として、様々なメディアに登場する日本の天文学者の第一人者的存在になっているが、当時はまだ博士課程を履修する大学院生であった。おそらく一般紙に自分が大きく取り上げられることは初めてであったのだろう。掲載紙を送ったら非常に喜んでくれた。
2006.10.26
コメント(0)
▼勤務日報改竄事件3当時浦和支局の支局員(支局長以外は全員が組合員)は、共同通信労働組合関東支部浦和班に所属していた。組合組織は基本的に会社の組織と対応しており、関東支部は関東総局に対応していた。関東支部には浦和班のほかに、千葉、横浜、水戸、前橋、宇都宮、新潟各班があった。そのうち比較的大きな横浜、千葉、浦和に持ち回りで書記局(関東支部で発生した出来事などについて定期的に組合ニュースを発行したりする)を置いていたが、そのときちょうど浦和班が書記局で、私の先輩記者が書記長、私が副書記長を仰せつかっていた。改竄が分かったので、早速職場団交である。班員が全員集まり、支局長を問い詰める。支局長は「魔が差した」と改竄の事実を認め、全面的に謝罪した。次の段階として、関東総局長と関東支部委員長(このときは水戸班員が務めていた)、書記長、副書記長による団交が本社で開かれた。社側は非を認め、改竄で減らされた分を支給することになった。しかし、それでも問題があった。実は改竄がいつから始まっていたか、証拠がないため、分からなかったのだ。われわれが持っている証拠は、ここ三ヶ月分ぐらいしかない。支局長はいつから改竄していたか、はっきりしないと言う。交渉の結果、支局長が浦和支局に赴任した2年ほど前まで遡り、直近の改竄による減額分を基本にして、証拠が残っていない分についても、その減額分の月平均額を班員全員(既に異動した班員にも適用された)に滞在月数に応じて支給することで決着した。加えて、確か一律慰謝料5万円も支給されることになった。組合側の全面的勝利である。浦和市局長は配置換え(支局長に対する処分は忘れました)となり、別の支局長が浦和支局に赴任することになった。私としては、退院後の初仕事が勤務日報改竄事件の団体交渉になってしまった。今はどうか知らないが、共同労組はかなり力を持っていた。歴代委員長にはそうそうたる顔ぶれが並び、委員長経験者が後に社側のトップに上り詰めることもある「出世コース」でもあった。ちなみに、社会部長、文化部長を歴任した後共同を辞め、テレビキャスターから政界へと転じた田英夫氏も共同労組の委員長経験者である。
2006.10.25
コメント(4)
▼勤務日報改竄事件2過勤した感覚と手当ての実態が違うと思った支局員は一計を案じた。支局員が記入した勤務日報のコピーをとり続け、自分たちで過勤時間を計算、支局長が報告したであろう過勤時間と照合したのである。給与明細にはちゃんと過勤時間が記入されており、照合するのは当初、簡単に思えた。しかし、実は過勤時間の計算は意外と複雑なのである。ここで簡単に過勤時間の計算法を紹介しよう。当時の記者職の勤務は、基本的に8時間拘束、1時間休憩で、その8時間を超えた場合、過勤となる。社内規則によると、過勤3時間で30分休憩を取ることになっている。さらに午前中から勤務していて、かつ午後9時を超えて過勤した場合はその日の拘束時間は7時間として計算する仕組みになっていた。この休憩と午後9時を越える勤務というのが曲者で、たとえば午前10時から午後10時まで12時間働いた場合、拘束時間は7時間となるから、5時間が過勤時間であると考えるかもしれない。しかし、過勤時間3時間につき30分休憩することになっているので、5時間の過勤時間のうち30分が休憩したとみなされ、差し引かれる。そのため、過勤時間は4時間半になるわけだ。新聞記者の仕事は本当に忙しいときは、一時間の休憩はおろか昼食や夕食など取る間もなく働かなければならないときもある。ちなみに10時から18時まで、8時間休みなく働いた場合は、実際は1時間の過勤時間が付くのである。だが、勤務日報にただ10時~18時と記入したのではこの1時間の過勤手当てはもらえない。どうすればいいかと言うと、「休憩なし」と書けばいいのである。そのほか、出張する場合の移動時間は自動的に勤務時間から引かれる。寸暇を惜しんで、移動中の車中で資料を読んだり、あるいは取材先に電話をしたりするなどの仕事をした場合、当然勤務時間とみなされるべきだが、これもちゃんと申請しないと勤務時間にならないことになる。その場合、たとえば車中の移動時間が3時間で、そのうち1時間取材などの業務をした場合は、車中2時間と書く。そうしないと自動的に勤務時間から3時間が差し引かれるのである。このようなルールを理解したうえで、支局員各人は自分の過勤時間を計算し、給与明細の過勤時間と照合した。すると、多い人で月20時間程度、少ない人でも同5時間過少申告されていたことがわかったのだ。(続く)
2006.10.24
コメント(2)
▼勤務日報改竄事件1今でこそ時効になっているので話せるが、私が急性肝炎の治療を終えて退院したとき、浦和支局ではスズメバチの巣をつついたような大騒ぎになっていた。それが、社内的に大問題となった、支局長による勤務日報改竄事件だ。共同通信の給料は当時、本給と超過勤務手当ての二本立てとなっていた(後の経済部編で詳述するが、現在は違う給与体系になっている)。年収に占める超過勤務(過勤)手当ての比率は高く、生活していくために過勤料は必要な収入源であった。この手当ては、毎日われわれがつける勤務日報に従って決まる。しかもこの手当ては、いわゆる青天井で、過勤した分だけ無限度に支給される。そうなると、カネを余計にもらいたい社員(記者)はなるべく過勤時間を増やそうとし、会社側は人件費を抑えるため、なるだけ過勤時間を減らそうとする。ここで軋轢が生じるわけだ。支局長は本社の総務局あたりから、それぞれの支局の毎月の過勤料を抑えるよう指令を受ける。その結果、それぞれが協力して無駄な業務を減らす方向に動けば、それはそれで結構なのだろうが、新聞記者の仕事はそうは行かない。それぞれの担当者がいて、その人でないと原稿が書けない場合もあり、勤務シフト以外の時間帯に発生する固有の取材事件も多い。そうすると、本人の意志にかかわらず過勤時間が増えてしまう。おそらく支局長には、自分の支局の過勤料を何時間以内に抑えるというノルマのようなものがあったのだろう。つい魔が差して、支局員の勤務日報を改竄、過勤時間を減らして本社に報告した。その改竄された勤務日報に応じて支局員に過勤手当てが払われた。あるとき支局員の一人が、「どうもおかしいな」と気がついた。自分が働いた過勤時間の感覚と実際に支給された過勤手当ての実態が食い違っていると感じたのだ。(続く)
2006.10.23
コメント(2)
▼入院生活2私は結局、白血球の数値がなかなか下がらなかったので一カ月入院したが、同部屋の入院患者さんたちのそれぞれの人生模様をじっくりと観察させてもらった。私の正面には、高齢の歯医者さんがいた。かなりの亭主関白で家では威張っていたらしかったが、ある日仕事中に脳溢血で倒れ、病院に担ぎ込まれた。脳溢血のせいで言葉と右半身の自由がきかなくなり、入院を余儀なくされた。気になったのは、家人がほとんど見舞いに来ないことだった。あまり好かれていないようであった。時々奥さんが見舞いに来るが、来れば来たで、不自由な口で奥さんに文句ばかり言っていた。看護婦さんに対しても、不平不満、わがままばかり。何か見ていると、悲しく哀れになってくる。これまで威張り散らしていたせいで、家人が寄り付かなくなったようにも思えた。斜め左前の窓際には、糖尿病の40代の男性がいた。口が達者でお調子者。しかし質素な食事療法に耐え切れず、しょっちゅう医者や看護婦に隠れてつまみ食いをしていた。看護婦もそれに気付いており、このままでは失明してしまうなどとよく諭されていた。左隣の年配の男性は、肺に溜まった水を注射器で抜く際、医者に横隔膜を傷つけられてしまった。私の真横でやっていたので、私はその目撃者である。処置の後、その男性はしゃっくりが止まらなくなった。医者は認めなかったが、明らかに医療過誤である。私はその男性の家族にしかるべき法的手段を取るべきではないかと告げたが、やはり治療してくれた医者を訴えるのは気が引けるようであった。その男性はその後数日間、朝晩となく、しゃっくりを続け、別の病院に移っていった。私は立ち会わなかったが、病室で死んでしまう患者さんも多いという。台湾から来た青年がそう話していた。真夜中、見回りの看護婦が患者の異常に気付き、急に騒がしくなる。宿直の医者が駆けつけ、処置を施すがその場で亡くなってしまったという。遺体は別の場所へそっと運ばれるが、翌日には新しい患者がそのベッドで寝起きするのだ。私の前にこのベッドにいた患者さんはどうなったのか、とはその台湾の青年に聞くことはできなかった。白血球の数値も下がり、ようやく退院することになった。すごくよく晴れた日であったことを鮮明に覚えている。五月晴れであった。入院はダイエットにはなったが、ほぼ寝たきりの生活のせいで体力や運動能力はかなり落ちていた。しばらくはリハビリが必要であった。しかしそれよりも、私が入院している間に、浦和支局は大変なことになっていたのである。(続く)
2006.10.20
コメント(2)
▼入院生活――薬と本の日々入院手続きを済ませると、すぐに車椅子に乗せられた。運動はもとより、歩くことも禁止。ベッドに横になると、注射針を腕に刺され、点滴が始まった。「ミノファーゲン」という肝炎の治療薬が使用された。入院する前は、せいぜい1週間ぐらいで退院できると思っていた。しかし肝炎は、そう簡単には治らないという。ただ幸か不幸か、血液検査の結果、私が感染したウィルスは肝細胞内で増殖する肝炎ウィルスではなく、EBウィルスであることがわかった。EBウィルスは世界中に見られるウィルスで、一生の間で大部分の人が感染する。多くの人は発症しないが、発症すると発熱、のどの痛み、リンパ節の腫れを伴う伝染性単核症となる。私の場合は、おそらくは疲れていなければ発症しなかったのだろうが、抵抗力が弱っているときに、そのウィルスが肝臓で悪さをしてしまい、急性肝炎となったのである。決して、お酒の飲みすぎではないので、お間違えのないように。さて、ウィルスは特定できた。後は治療法だが、ミノファーゲンの点滴と安静しか方法がないのだという。酒とバラの日々ならぬ、薬と惰眠の日々が始まった。肝機能の目安となるGOT、GPTの数値は、ミノファーゲンの威力ですぐに正常値に下がった。しかし白血球の数値が下がらず、ウィルスが完全に退治されていない可能性があったので、長期間薬の投与を続けなければならなかった。来る日も来る日もベッドでじっとして、点滴を打たれているのは、苦痛であった。つい数日前まで続いていた多忙な日常から離れて、なんと暇で平和な日々であることか。まったくの別世界である。本をたくさん持ってきてもらい、読書三昧の毎日となった。私は六人部屋に入ったので、他の入院患者を観察するのも、勉強になった。一つ一つのベッドはカーテンで仕切られてはいるが、昼間などは皆、カーテンを開けているのですぐに顔見知りになる。私のベッドは、入って左側の3つのベッドのうちの真ん中であった。私の右隣には、台湾から料理人として来日した20代半ばの青年がいた。彼の場合は、かわいそうに、来日して1年ほどで突然膠原病を発症してしまった。膠原病とは、全身の血管や皮膚、筋肉、関節などに炎症が見られる病気の総称で、原因不明の発熱や湿疹、関節の痛みなどの症状があるという。何が原因なのか特定が難しく、また治療法も確立しているわけでもない。その青年は、すでに入院して半年が過ぎていた。皮膚が炎症で赤くなり、関節も痛むと言っていた。発症前の写真を見せてもらったが、発症後は顔が膨れて別人のようになってしまっていた。彼からは、病院での生活のことをいろいろ教えてもらった。半年も入院していると、様々な人間模様が見られるのだという。(続く)
2006.10.19
コメント(4)
▼激務の果てに劣悪な環境での泊まり勤務、相次ぐ悲惨な事件の取材――。浦和支局に赴任してから一年以上が経ったが、その間、日航機事故の取材を含め、事件事故の取材に追われ、息を付く間もなく走り続けていたようだった。心身の疲労は蓄積され、私自身の体力もかなり落ちていたのだろう。ある朝、起きたら風邪をひいていたと、そのときは思った。体がだるく、熱も少しあるようだ。しかし、タイトな勤務シフト上、簡単に休むわけにいかない。無理をして埼玉県警記者クラブに出勤、その日の午前中は何とか通常の業務をこなした。ところが午後になっても一向に弱った体が回復しない。記者クラブ内にあるベッド(県警記者クラブ内にはたいてい仮眠用ベッドがある)で横になったものの、調子が悪い。支局に連絡して早退させてもらうことにした。「一晩寝れば治るだろう」。夕飯もソコソコにベッドに体を横たえた。翌朝、元気になっているはずの体が、逆にますます悪くなっていた。「これはいつもの風邪ではないかもしれない」と感じた私は、支局に休ませてもらうように連絡して、その足で一番近くの病院にでかけた。血液検査の結果は、衝撃だった。「急性肝炎です」と、医者は私に告げた。急性肝炎! なぜ肝炎になったのか、まったく心当たりがなかった。酒を飲むことはあっても、飲まれたことはない。これまで大病もせず、ラグビーや野球、テニスなどのスポーツで体を鍛えてきた「健康優良児」の私には寝耳に水の病名であった。「この肝臓の数値はひどい。とにかくすぐ入院してください」と医者は言う。何ということだ。入院しなければならないのか! ただ、私も病院を選びたかったので、血液検査の結果だけをもらって一度、家に帰った。そして何件かに電話して、川口市の別の病院を紹介してもらい、その病院に入院することにした。28年間の人生で初めての入院であった。(続く)
2006.10.18
コメント(2)
▼浦和地検刑事部長地方検察庁は、トップの検事正、ナンバー2の次席検事と続き、その下に実際に捜査を担当する検事がいる。次席検事に次ぐナンバー3を三席と呼ぶが、浦和地検(現在はさいたま地検)には刑事部長という役職があり、部長がその三席を務めていた。事件の少ない田舎の支局では、地検を回ったとしてもせいぜい次席検事を取材するぐらいだろう(地検にもよるが、三席以下の検事は実務で忙しくてなかなか取材に応じない)。しかし浦和地検ともなると、比較的大きな事件もあるので、実際に事件を担当する三席以下の検事にも取材する必要が出てくる。当時の浦和地検の取材では、各社のサツ担当は刑事部長のところに押しかけた。とくにサツ担当が注意するのが、汚職、横領、詐欺といったいわゆる知能犯の捜査だ。地方の警察は通常、大きな事件や知能犯罪の内偵があったりすると、地方検察庁と密接に連携をとりながら捜査を進める。単純な事件と違って、公判を維持するために綿密な証拠固めをしなければならないからだ。基本的に内偵ものは新聞社側が持ち込みでもしないかぎり、決して漏らさないが、その他の事件については、差し障りのない範囲で教えてくれることもある。当時の浦和地検刑事部長Mさんは、大の酒好き、マージャン好きであった。夕方5時半ごろ各社のサツ担当が刑事部長の部屋を訪れると、決まって「宴会」が始まった。九州の出身の検事で、機嫌がいいと郷土の地酒や焼酎を記者に振舞ってくれた。さらに機嫌がいいと、部下の検事を部屋に呼んで「大宴会」となる。暇なときは、そのまま記者と検事によるマージャン大会が始まるときもあった。こうした宴会やマージャン大会のおかげで、普段はなかなか話ができない検事とも顔見知りになることができた。M刑事部長は記者や部下の検事からは慕われていたが、次席検事とはうまくいっていないようであった。自分を差し置いて記者と仲良くしているのが気に食わなかったのか、あるいは次席検事に歯向かったためか、その理由はよく分からなかったが、薄い髪の毛がさらに薄くなっていくようであった。何年か後に、Mさんを知る他社の記者が霞ヶ関でばったりとそのMさんに出会った。Mさんはその後まもなく検察を辞め、弁護士に転職したのだという。いかなる事情があったのだろうか。
2006.10.17
コメント(2)
▼魔の月「魔の踏み切り」「魔の交差点」など事故がよく起きる場所を「魔」にたとえることがあるがよくあるが、1986年1月は浦和支局にとってまさに「魔の月」であった。タクシー運転手強殺事件、女子中学二年生の自殺のほかに、昼のワイドショーを賑わすようなドロドロした事件が相次いだ。とくに1月23日に起きた殺人事件は、ワイドショーの格好の餌食となった。同日午後11時15分ごろ、埼玉県北本市の建設会社社長(56)が「妻が帰宅せず、社の女子従業員の部屋の様子がおかしい」と上尾署に届け出た。同署員が女子従業員の住む団地の部屋を調べたところ、六畳間で社長の妻(44)が左手首を切って死亡、四畳半の部屋には女子従業員(55)が顔や腹など数十箇所を刺されて死んでいるのが見つかった。調べによると、社長の妻は夫とその女子従業員が親しい関係にあることを知って悩み、4,5日前から夫婦喧嘩を繰り返していたという。三角関係のもつれから、妻が夫の愛人宅に押しかけ愛人を果物ナイフでメッタ刺しにして殺害、その後自殺したらしい。1月27日には、北海道で妻を絞殺し、遺書めいたメモを残して行方不明になっていた土木作業員(57)が埼玉県大宮市で、殺人容疑で逮捕された。妻を殺害した後、青函連絡船から海に飛び込み自殺しようと思ったが、乗客に止められ果たせなかったという。男はそのまま埼玉県に住みつき、土木作業員などをしていたが、パチンコ玉を盗んだ容疑で捕まり、足がついた。宮城県内の建設会社事務所に忍び込んだところを見つかり、トラックで東北自動車道を約300キロも逃走、四時間にわたって五県警のパトカーを振り切って逃げた男が、ようやく埼玉県警に捕まる「大捕りもの」も1月30日にあった。このように埼玉県の「魔の月」は、続々と三面記事のネタを提供し続けたのであった。
2006.10.16
コメント(2)
▼国レベルのいじめ3国中が一丸となって“正義の戦争”を進めているときに、自分の国に対して少しでもマイナスのことを言うのは、利敵行為であり、反愛国的である、たとえそれが正しい意見であっても、政府の方針に逆らうのはけしからんと、シャーロットの国語の先生らは判断したのであろう。「愛国心のない子」という言葉に触発されて、生徒たちはシャーロットをバッシングしたわけだ。実は、これと同じような現象が日本でもあった。最近話題になっている、太田光と中沢新一による『憲法九条を世界遺産に』にも指摘されていたが、イラク日本人人質事件である。あのとき、人質になったほうが悪いのだと言わんばかりのバッシングが吹き荒れた。「いじめられるほうが悪いのだ」と。人質と人質の家族に対するいじめである。政府の方針に反してイラクに入ったのだから、たとえそれが善意の行為、正しい行為であっても彼らが悪いのだという自己責任の論理がまかり通った。その結果、人質の家族は、「自分の子供の命を救ってほしいという願いですら、口に出せなくなってしまった」(太田光)のである。多くの日本人は、あのいじめに加担したのだ。もはや政府にすがることしかできない人質の家族に対して、あの残酷な仕打ちは何だったのか。その点、シャーロットはまだ幸せであった。母親が娘の意見をインターネットで紹介して以来、世界中から続々と激励のメールや手紙が届き始めたからだ。私も当時、シャーロットがいじめられていると知り、すぐに激励のメールを送った。「シャーロット、あなたの言っていることは正しいよ。あなたを支持する人は世界中にいるからね」。母親からは間もなく、お礼のメールが返信されてきた。自分の国を悪く言うことが、なぜいけないのか。悪いものは悪いのである。政府の方針がいつも正しいわけがない。それを批判するのは当然のことだ。同様に過去に犯した過ちをきちんと認め、自戒することはいいことなのである。自戒することはいいことである。いわゆる自虐史観のどこが悪いのか。自虐史観だとあざける傲慢史観の持ち主よりはるかにましである。臭いものには蓋。過去の過ちをあいまいにしてしまうから、前に進めないのだ。責任の所在をあいまいにすれば、結局、岸信介のような過去の亡霊を現代によみがえらせてしまう。政府の方針に異を唱えることもせず、あの戦争を許したのは誰であったのか。戦争に突っ走った政権を支持したのは誰だったのか。それでもあなたは、いじめに加担していないと言えるのか。1986年2月3日、首吊り自殺した鹿川君の遺体は、岩手県石鳥谷町で火葬に付された。そのとき鹿川君の妹は「お兄ちゃん、行っちゃやだぁ」と、棺にとりすがったという。想像力の欠如により高校時代にいじめを結果的に止めることができなかった“前科”のある私が、自戒の念をこめて当時を振り返る理由をわかってもらえただろうか。
2006.10.06
コメント(2)
▼国レベルのいじめ2アメリカのいじめ体質は、“対テロ戦争”で当時のアーミテージ米国務副長官がしたとされる恫喝発言によく表れている。パキスタンのムシャラフ大統領が明らかにしたところによると、2001年の9・11テロの直後、アーミテージは米国によるアフガニスタン・タリバン政権の掃討作戦に協力しなければ「爆撃を覚悟しろ。石器時代に戻ることを覚悟しろ」とパキスタンを脅したという。ムシャラフは「非常に無礼な言葉だと思ったが、国益に照らした行動を取らなければならず」、アメリカに従ったという。有無を言わせぬ力による支配。「世界の警察官」は、実は「世界のやくざ」であった。日本が「みかじめ料」を払わなければならないわけだ。いじめに加担しないものは、いじめられる。鹿川君らが苦しめられた「いじめ地獄」は国際社会にも存在していた。「傲慢な帝国」内部でも、“いじめ(もちろん現実は、いじめよりもっと悲惨な戦争である)”に反対する声はあった。しかし戦争に反対する市民は、周りからいじめられたのである。アメリカのメイン州に住む当時13歳の少女シャーロット・アルデブロンは2003年2月、イラク開戦の気運が高まる中、学校の作文で平和への強い思いをつづった。それに対し国語の教師は「(このクラスには)愛国心のない子がいる」と言って非難。以来、先生やクラスメートから無視されるようになり、露骨な嫌がらせの言葉を浴びせられ、いじめられたのである。シャーロットは、後に当時のことを聞かれ、こう答えている。「社会の先生はイラクのクウェート侵攻やクルド人への化学兵器使用について話しました。私が『でも、イラクに化学兵器をあげたのはアメリカだし、CIAも協力しました』と言うと、先生は『君は間違っている』と言って議論を打ち切り、以後学年末まで私を指名することはありませんでした」シャーロットの母親は当然、娘の味方であった。娘の作文をインターネットのニュースサイトに投稿したところ大きな反響を呼び、平和集会に呼ばれるようになった。それがシャーロットの「非戦のスピーチ」につながった。シャーロットはただ、平和への思いを口にしただけであった。にもかかわらず、なぜシャーロットは、いじめられなければならなかったのか。その前に彼女のスピーチを聞いてみよう。シャーロットは「正義の戦争」に異を唱え、「忌々しくも」次のように語ったのだ。「イラクの子どもたちはどうなるの?」 イラク爆撃というと、何を思い浮かべますか。軍服を着たサダム・フセイン、あるいは銃を持つ口ひげの戦士たち、それともアル・ラシッドホテルのロビーの床に「犯罪者」という言葉と一緒に描かれたジョージ・ブッシュ元大統領のモザイクでしょうか。 でも、考えてみて下さい。イラクの2400万人の国民の半分が15歳より下の子どもなんです。1200万人の子どもです。私みたいな。私はもうすぐ13歳になります。だから、私より少し大きいか、もっと小さな子どもたちです。女の子じゃなくて男の子かもしれないし、髪の毛の色も赤毛じゃなくって茶色いかもしれないけれど、とにかく私みたいな子どもたちです。だから、私のことを見て下さい。よく見て下さいね。イラクを攻撃するときに考えなきゃいけないことが分かるはずです。みんなが破壊しようとしているのは、私みたいな子どものことなんです。 もし、運が良かったら、一瞬で死ねるでしょう。91年の2月16日にバグダッドの防空壕(ごう)で「スマート(高性能)」爆弾に殺された300人の子どもみたいに。そこでは、爆風による激しい火で、子どもと母親の影が壁に焼き付けられてしまいました。そんなに運が良くなければ、じわじわと死んでいくのでしょう。ちょうど今、バグダッドの子ども病院の「死の病棟」で苦しんでいる14歳のアリ・ファイサルみたいに。アリは湾岸戦争のミサイルで劣化ウランによる悪性リンパ腫ができ、がんになったのです。 もしかしたら、痛みにあえぎながら死んでいくかもしれません。寄生虫に大事な臓器を食われた18カ月のムスタファみたいに。信じられないことですが、ムスタファは25ドル程度の薬で完全に治ったかもしれなかったのに、制裁で薬がなかったんです。 死ななかったとしても、外からは見えない心理的な打撃に悩みながら生き続けるかもしれません。91年にイラクが爆撃されたとき、小さな妹たちと一緒にやっと生き延びた恐怖を忘れられないサルマン・ムハンマドみたいに。サルマンのお父さんは家族みんなを同じ部屋で寝させました。そうすれば一緒に生き残れるか、一緒に死ねると思ったからです。サルマンはいまだに空襲警報の悪夢を見るのです。 アリみたいに独りぼっちになるかもしれません。アリは湾岸戦争でお父さんが殺されたとき3歳でした。アリは3年間毎日お父さんの墓を掘り返しました。「大丈夫だよ、お父さん。もう出られるよ。ここにお父さんを閉じこめたやつはいなくなったんだよ」って叫びながら。でもアリ、違うの。そいつらが戻ってきたみたいなんです。 ルアイ・マジェドみたいに何の傷も負わなくてすむかもしれません。ルアイは、湾岸戦争のおかげで学校に行かなくてもよかったし、好きなだけ夜更かしできたと言います。でも、教育が受けられなかった彼は今、路上で新聞を売ってやっとなんとか生きています。 これが自分たちの子どもたちだったらどうしますか。めいだったら? おいだったら? 近所の人だったら? 子どもたちが手足を切られて苦しんで叫んでいるのに、痛みを和らげることも何もできないことを想像してみて下さい。娘が崩壊したビルのがれきの下から叫んでいるのに、手が届かなかったらどうしますか。自分の子どもが、目の前で死ぬ親を見た後、おなかをすかせて独りぼっちで道をさまよっていたらどうしますか。 これは冒険映画でも、空想物語でも、テレビゲームでもありません。これが、イラクの子どもたちの現実なのです。最近、国際的な研究者の一団がイラクに行って、戦争が近づいていることが、向こうの子どもたちにどう影響しているかを調査してきました。 彼らが話した子どもたちの半分が、これ以上何のために生きるのか分からないと語っていました。本当に小さい子どもたちでさえ、戦争のことを知っていて、心配していました。5歳のアセムは「銃や爆弾がいっぱい来て、お空が冷たくなったり熱くなったりして、みんないっぱい焼けちゃうんだよ」と言いました。10歳のアエサルは、ブッシュ大統領に「たくさんのイラクの子どもたちが死にます。それをテレビで見たらきっと後悔する」と知ってほしい、と言っていました。 こちらの小学校のことを話します。私は、人とけんかをしたときには、たたいたり悪口を言ったりするんじゃなくて、「自分がどう思うのか伝えなさい」と教えられました。相手の身になったらどう感じるのか、理解してもらうのです。そうすれば、その人たちはあなたの言うことが分かって、やめるようになります。 いつものように私は、どう感じるか伝えたいと思います。ただし、「私」ではなく、「私たち」として。悪いことが起きるのをどうしようもなくただ待っているイラクの子どもたちとして。何一つ自分たちで決めることはできないのに、その結果はすべて背負わなければならない子どもたちとして。声が小さすぎて、遠すぎて届かない子どもたちとして。 私たちは、明日も生きられるか分からないと考えるとこわいです。 殺されたり、傷つけられたり、将来を盗まれると思うと悔しいです。 いつもそばにいてくれるお父さんとお母さんがほしいだけなんです。 そして、最後に。私たち、何か悪いことをしたでしょうか。わけが分からなくなってるんです。 (訳:朝日新聞。英文はこちら)(続く)
2006.10.05
コメント(2)
▼国レベルのいじめ政府が弱肉強食の政策を推進すれば、必ず社会的弱者が生じる。どこの国にも貧困に苦しむ人々がいるが、これも国家によるいじめといえよう。貧乏人はますます苦しく、金持ちはますます豊かになるシステム。カースト制度や民族的差別のように下級階層を意図的に作ることによる“いじめ”もある。さらには他国に対する“いじめ”も存在する。まず歴史観による“いじめ”から始めよう。過去の歴史の過ちを自ら戒めることを自虐史観というのなら、自らの過ちを他人の責任に転嫁するのは荷虐史観といえるだろう。植民地化されたのは、された方が悪いのだという歴史観、「侵略されたのはお前ら(侵略された側)のせいだ」と言わんばかりの傲慢な歴史観である。自戒する謙虚な歴史観とは正反対の傲慢史観だ。謙虚な歴史観と傲慢な歴史観――あなたはどちらを選ぶのだろうか。身近なことに置き換えて考えれば、より分かりやすくなるだろう。いじめがあるのは、いじめられる方が悪いのか、いじめる方が悪いのか。いじめられる方が悪いのだと考えれば、いじめは永久になくなることは無いだろう。悪いのは被害者(弱者)だという加害者(強者)の傲慢な論理がまかり通ってしまう。そうすれば加害者のやりたい放題だ。行き着くところは戦争と決まっている。そう、ちょうどあの「傲慢な帝国」アメリカのように、だ。拙著『カストロが愛した女スパイ』の冒頭にも書いたが、もしテロ容疑者ウサマ・ビンラディンをかくまったとしてアメリカがアフガニスタンを空爆したことが正当化されるなら、1976年にキューバの民間航空機を爆破、73人の乗客・乗員の命を奪ったテロの容疑者オーランド・ボッシュをかくまった父ブッシュ政権のアメリカに対して、キューバが空爆を試みても正当化されるはずだ。だが実際には、そのようなことにならなかった。なぜか。今の世界では、強者の論理がまかり通っているからだ。アメリカの論理では、強者は弱者を一方的に裁くことができても、弱者は強者を裁いてはならない。そこにあるのは、徹底したいじめる側の論理である。いじめる側はいじめることはできても、いじめられる側は刃向かってはいけないのだ。大量破壊兵器を持っていないことを証明するのはフセインの責任であり、証明できなかったのだからフセインが悪いと言い張ったのは、アメリカであり、それを支持した日本の小泉であった。つまり、いじめる側の理論とはこういうことだろう。どうも気に食わないやつがいる。きっと、俺のことを心の中でバカにしているに違いない。けしからん、生意気だ。いじめられたくなければ、俺のことを心の中でバカにしていないことを証明してみろ。証明できなければ殴ってやる。心の中で考えていないことを証明するのは不可能である。そもそも大量破壊兵器を持っていないことを完全に証明することなどできたのだろうか。この場所になくても、あの場所にあるのではないかといちゃもんをつける。いちゃもんをつけ続ければ、永久に証明することはできなかっただろう。最初から結論は決まっていたのだ。いじめられる側が何をしようと、いじめたいからいじめるという強者の論理がある。そしていじめた上で、いじめられた方が悪いのだと居直る。それをブッシュ、ブレア、小泉らが見事にやってのけた。おそらく多くの方は学校のいじめが発生すると、憤りを覚えるだろう。しかし小泉が言ったことをもう一度よく考えてみればいい。小泉はなんと言って、イラク戦争を支持したか。その小泉を支持したのは誰だったか。結果的にブッシュと、その取り巻きの小泉たちのせいで、何万人ものイラク市民が殺されたのだ。私が高校時代にいじめを食い止められなかったことを、今でも自戒を込めて振り返るのは、このためである。(続く)
2006.10.04
コメント(0)
▼社会のいじめ学校は、社会で起きていることを映す鏡ではないかと思っている。日本の社会では昔から、弱者へのいじめが横行していた。戦前、戦中は朝鮮人に対するいじめ(虐待)が度を越していた。日本人の多くはそれを見て見ぬ振りをした。朝鮮人を「チョン」といってバカにしたりもした(「バカチョンカメラ」という言葉もそうである)。「朝鮮人は日本人よりも劣った民族であるから、虐待してもいいのだ」という思想があった。その右翼的思想は戦後、私が中学、高校生のときも顕著に残っていた。当時の世田谷の右翼学校は、戦前、戦中を思わせる“朝鮮人狩り”をやっていた。朝鮮中高級学生を見つけては、木刀などで襲い掛かった。その右翼学校は、朝鮮学校だけでなく、他校の生徒にも因縁をつけては悪質ないじめを繰り返していた。電車の中でタバコを吸ったり、大声出して威嚇したり、傍若無人の振る舞いをしていた。当時私たちは、この右翼学校を「暴力団予備校」と呼んでいた。今では高校野球で甲子園にも出場する“名門”国士舘である。もっとも有名な事件は、1973年6月11日に発生した「新宿戦争」である。午後4時20分、旧国鉄山手線新宿駅ホームで、東京朝鮮中高級学校生徒20人が下車したところを、ホームで待ち伏せしていた国士舘高校の生徒20人が襲い、大乱闘となった。双方に怪我人が出ただけでなく、突き飛ばされた老女(70)が階段から転げ落ちて2週間の怪我を負った。国士舘の横暴はこれで終わらなかった。翌12日、高田馬場駅で今度は国士舘大学生20人が「朝鮮人をぶっ殺してやる」と朝鮮中高級学校生を木刀で襲い、電車のガラスを割って三人が逮捕された。新宿事件が起きる前にも、国士舘の高校生と大学生は他校の生徒や大学講師を襲って重傷を負わせる事件が相次いでいた。突っ張り同士がタイマンのケンカをするならまだ許せるが、国士舘は朝鮮人とみると見境なく因縁をつけ、集団で暴力を振るった。国士舘としては「朝鮮人のくせに山手線界隈でのさばっているのは生意気だ」という言い分があったのだろうが、「社会的弱者」に対するいじめにしか見えなかった(ただし、朝鮮中高級学校生も十条界隈では、かなり傍若無人の振る舞いをしていたという説もある)。いずれにしても国士舘による一連の襲撃事件は、国士舘の右翼的教育方針に問題があるのではないかと国会でも取り上げられる問題に発展したのであった。(続く)
2006.10.03
コメント(4)
▼学校のいじめ2鹿川君の叫びもむなしく、学校でのいじめによる自殺は後を絶たなかった。鹿川君の自殺が発覚してまだ三ヶ月も経たない1987年4月23日。今度は長野で同じ13歳の女子中学二年生上原夕子さんが自宅で首を吊って自殺した。「なんでいじめがあるの」という内容の遺書が残されていた。鹿川君に対して「葬式ごっこ」があったように、夕子さんが通う学校でも常軌を逸したような出来事があった。夕子さんから「いじめられて悲しい」と訴えられた担任の男性教師が道徳の時間に、「夕子さんのどこが嫌か」「夕子さんはどこをなおしたらいいか」というテーマでクラス全員に無記名で作文を書かせていたのだ。作文は次の日、同じような内容のものを除いて夕子さんに手渡された。なぜこのようなことをしたのか。学校側は「いじめている生徒たちに自分の行為を反省させ、夕子さんを励ますつもりで書かせた」と説明した。しかし励ますどころか、自分のいじめが授業で取り上げられ、あからさまになったため、夕子さんはますます思い詰めるようになったようだ。自殺した夕子さんの遺書には次のように書かれていた。「こんな世の中がつくづくいやになった。だから死を選びます。この世の中からいじめがなくなればいいのに。なんでいじめがあるのか。お母さんありがとう。長生きして下さい。さようなら」(「社会のいじめ」「国レベルのいじめ」へ続く)
2006.10.02
コメント(2)
▼学校のいじめおそらく全国には、鹿川君のようにいじめられ、同じようにつらい学校生活を送っている少年や少女が、昔も今も大勢いるのではないだろうか。私にも思い当たる苦い思い出がある。高校生の時、学校は結構荒れていた。どこの学校も同じだろうが、中野富士見中と同様に性質の悪い「ツッパリグループ」がいた。彼らが「獲物」として狙うのは、おとなしくて心根の優しい男子生徒だ。そのツッパリグループが、私の級友にちょっかいを出すようになった(実は私も目を付けられていたが、私のほうが運動神経も体力も上回っていたので難を逃れていた)。最初はプロレスごっこなど悪ふざけだったが、段々とエスカレート。最後は当時流行っていたブルース・リーの過激なカンフーごっこにまでなった。技をかけられたり、標的にされたりするのは、その級友であった。私はそれを傍から見ていたが、どこまでが悪ふざけでどこまでがいじめなのかわからず、結局そのいじめへのエスカレートを止めることができなかった。後でわかったが、その級友は、毎日が地獄の苦しみだったという。鹿川君と同じである。いじめはとうとう警察沙汰になり、私の家にも刑事が事情を聴きにきた。暴行事件として立件できるかどうか、目撃者の証言を集めていたのだ。私はそのとき初めて、その級友が自殺しようかとまで思い詰めていたことを知った。私はその級友の心の叫びに気付かなかったのだ。何という想像力の欠如。結果的に傍観するということは、いじめへ加担するのと同質である。いくら口でいじめに反対していても、いじめを止められなかったら、ほぼ同罪だ。幸い、私の級友は自殺することはなかった。紙一重だったなと思う。もし自殺していたら、私の心には決して癒されることの無い大きな魂の傷が残ったであろう。その級友が自殺しなかった今でさえ、当時を思い出しては、自分の貧困なる精神と勇気のなさに恥じ入っているのだから。(続く)
2006.10.01
コメント(6)
▼中野富士見中学いじめ自殺事件3鹿川君へのいじめに対し、家族は手をこまねいて傍観していたわけではない。息子がいじめられていることを知った厳格な父親は、息子のだらしなさをしかる一方、いじめた子供の家に何度か抗議に行ったという。しかし、そのことがかえって、鹿川君へのいじめを陰湿にしていった。「チクった」ことに対する仕返しである。三学期の始業式の日に暴行を受けた後、鹿川君は前にも増して学校を欠席するようになった。こうした事態に、担任教師の認識は甘かった。この担任は数年後に定年を控えたおとなしい教師で、鹿川君の欠席も「ズル休み」程度にしか思わず、いじめの事実を知っていても生徒たちにも強く指導することはなかったという。鹿川君が最後に登校したのは1月30日であった。5時間目が始まる午後一時過ぎに顔を出したが、授業には出なかった。見咎めた別の教師が教育相談室に鹿川君を連れて行き、悩みを聞いた。その後担任と鹿川君の母親を交えて話し合ったが、担任はその席上、転校を勧めたという。この話し合いが開かれている際、姿が見えなくなった鹿川君を探していたツッパリグループの三人は鹿川君のスニーカーを便器に捨てていた。「もう嫌だ」――。その日は結論を出さずに帰宅した鹿川君の苦しみの胸中はいかばかりだったのだろうか。来る日も来る日もいじめられる毎日。翌31日、鹿川君は家を出たまま行方がわからなくなった。夜になっても帰って来ない鹿川君を、家族は必死に探した。父親は池袋や新宿のゲームセンターなどを隈なく探し回ったが見つからない。鹿川君が見つかったのは、2月1日夜のことであった。場所は遠く、父親の実家がある岩手県。午後10時すぎ、盛岡市の国鉄(現JR)盛岡駅前のターミナルデパート「フェザン」の地下飲食街の公衆トイレの中で、鹿川君が死んでいるのを見回りの警備員が見つけたのだ。鹿川君はトイレ内の洋服掛けフックにビニール紐をかけ、首を吊っていた。同デパートは午後九時には閉店していたが、トイレのドアが閉まったままなので不審に思った警備員が覗き込んで発見。制服のポケットにあった生徒手帳から身元が判明した。13歳の少年の無残な姿。床には鉛筆で書かれた、次のような遺書が残されていた。「家の人、そして友達へ突然姿を消して申し訳ありません。くわしいことについては●●とか●●とかに聞けばわかると思う俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になっちゃたんじゃいみがないじゃないか。だから、君達もバカな事をするのはやめてくれ。最後のお願いだ。昭和六一年二月一日鹿川裕史」(注:●●にはいじめた同級生の実名が書かれていた)鹿川君の死を賭けた訴えは、いったいどこまで届いたのであろうか。
2006.09.30
コメント(2)
▼中野富士見中学いじめ自殺事件2およそいじめる側は、いじめられる側がどのようにつらい思いでいるか想像することができない。戦場で敵兵を殺す兵隊も同様である。自分が落とす爆弾の下にどのような生活があるか想像しない。想像は殺され、人間性は消失する。人間は想像しなくなるとき、人間ではなくなるのだ。「追悼の色紙」に名前を連ねた教師たちもまた、想像力が欠落していたとしか言いようがない。「葬式ごっこ」をされた鹿川君がどんなに惨めな気持ちになるか、なぜ考え付かなかったのか。生徒に「ドッキリだから」と頼まれ、軽い気持ちで署名に応じたらしい。遅刻して教室に入ってきた鹿川君の目に飛び込んできたのは、自分の葬式が行われている光景であった。鹿川君は「何だ、これ~」と言って、最初は笑みを浮かべていた。だが、やがて寂しそうな顔になり、黙り込んでしまった。その日、鹿川君は「追悼の色紙」を持って帰宅。家族に「これを見てどう思う? ここに先生も書いているんだよ」と漏らしたという。「葬式ごっこ」で負った大きな傷は、鹿川君の心を押しつぶした。それまで数々の嫌がらせやいじめに対して平静を装っていた鹿川君にも、忍耐の限界があった。いじめに耐えられなくなった鹿川君は、学校を無断欠席するようになった。欠席の日は、朝、家を出てから、病院の待合室などで時間をつぶした。登校した日も職員用トイレに隠れたり、保健室で休んだりすることが多かったという。このころ、鹿川君は比較的親しい友人にこうつぶやいたという。「僕はあの日(葬式ごっこがあった日)に死んだんだ」(続く)
2006.09.29
コメント(0)
▼もう一つの悲劇川口のタクシー運転手強殺事件で私が支局で記事に併用する現場写真の焼付けをしているとき、他のサツ担当記者は別の事件の取材に追われていた。その日の朝、もう一つの悲しい事件が起きたのだ。1月8日午前4時ごろ、埼玉県朝霞市にある自営業者宅の風呂場で次女の中学二年生(13)がガス自殺しているのを父親が見つけ、朝霞署に届け出た。同署が調べたところ、次女は風呂場に座布団を敷き詰めて横になり、風呂ガマのプロパンガスの栓を開けた上でホースをはさみで切り、ガスを吸い込んで死んでいた。遺書はなかったが、次女は家族に対し「学校に行くのが嫌だ」ともらしていた。次女はなぜ、学校に行くのが嫌になったのか。学校関係者は心当たりがないという。ただ次女は、前年の秋ごろから、腹痛を訴え家に閉じこもりがちになっていたらしい。校内暴力やいじめがあったのか。同僚記者が調べたが、結局分からずじまいだった。正月休みを終えた子供たちが各地で一斉に登校する三学期の始業式の朝、一つの尊い命が消えた。
2006.09.27
コメント(2)
▼タクシー運転手強殺事件2不吉な電話は真夜中か早朝と決まっている。事件が発覚したのは、正月気分がまだ抜け切らない1986年1月8日午前7時半であった。埼玉県川口市弥平の路上に止まっていた個人タクシーの中で運転手が血を流して死んでいるのを通行人が見つけ、110番した。川口署は刃物で刺された跡があり、車内が物色されていることから強盗殺人事件と断定、捜査を始めた。殺されていたのは東京都江戸川区の個人タクシー運転手(66)だった。川口といえば、私の家も川口にある。警察からの幹事連絡を受けた泊まり明け勤務者は、躊躇せずに自宅で寝ていた私を呼び起こす。現場の写真を撮らせるためだ。現場に行くには、一分一秒でも早い方がいい写真が撮れる。到着が遅れると、非常捜査線が広げられ、現場にも近づけなくなる可能性が強くなるのだ。信じられないかもしれないが、新聞記者というものは、寝巻き姿で電話に出てから、速いときには5分後にはカメラを持ってタクシーに飛び乗っているのである。遅くても10分後には家を出ている。この日も10分以内にはタクシーを拾い、現場へ急いだ。契約しているタクシー会社を電話で呼ぶ手もあったが、タクシーが来るまでに30分近くかかることもあり、交通量の多い場所でタクシーを拾った。現場を探し出し、タクシーとその回りを調べる捜査員の生々しい様子を写真に収めると、撮影した写真を現像するため浦和支局に駆けつけた。支局にはたたみ一畳半ほどの小さい暗室がある。暗室に入って、まず自分でフィルムを現像する。その点、富山支局時代は楽であった。富山支局には暗室が無い代わりに、加盟社協力により北日本新聞社の広い暗室を借りることができたのだ。しかも、同新聞社には自動フィルム現像機があった。その現像機にフィルムをセッティングすると、5分後ぐらいにはフィルムが現像されて出てくる。至れり尽くせりだ。しかし、浦和支局ではそうはいかない。狭い暗室の中で現像液や定着液にまみれながら、ようやく現像を終わると、ドライヤーでネガを乾かす。次は焼付けである。自分でフレーミングをして、これはと思う写真を焼き付けていく。画像を印画紙に定着させ、後は乾かせば出来上がり。出来上がった写真は、写真説明を付けて、支局にある画像電送機のドラムに巻きつける。そして、本社写真部を専用線で呼び出して、電送順番を待つ。本社からの合図とともに、ドラムを回転させ、電送を始める。今はおそらくデジタルカメラになっているだろうから、このような苦労とは無縁であろう。タクシー運転手強殺事件は、密室で目撃者が少ないことをいいことに犯行に及ぶ極めて卑怯で卑劣な犯罪である。この川口のタクシー運転手強殺事件では、奪われたとみられる金額は1万円前後だった。おおよそタクシー運転手強殺事件の場合、多くても2,3万円、少なくて数千円が奪われる。それだけのカネのために、どうして尊い命が奪われなければならないのか。おそらくタクシー運転手ができる防犯対策は、不審者を乗せないことであろう。しかし、乗車拒否と受け止められかねないというジレンマがある。怪しげな人間に見えなくても、途中で豹変する客もいるだろう。卑怯者たちの犯行は連鎖する。二日後の1月10日にも、大阪市西成区で個人タクシー運転手が殺された。つい最近(9月16日)も、大阪府高槻市の個人タクシー運転手が出勤したまま行方不明となる事件が発生した。タクシー運転手を狙った犯罪は、今も続いている。
2006.09.23
コメント(0)
しばらく続いていた「昔の写真シリーズ」も今日が最後です(また再開しますが)。多分明日から「新聞記者の日常と憂鬱シリーズ」を再開します。今日の写真は、そのつなぎとなる貴重な写真です。何と共同通信浦和支局時代の写真なんですね。このときまだ20代ーー。若かりし日の勇姿!? 浦和市役所対記者クラブの軟式野球親善試合のスナップです。この打席の結果は? 残念ながらまったく覚えていません。ホームランを打った記憶も三振した記憶もありませんので、多分、凡打かシングルヒットだったのではないでしょうか。試合は急造の記者クラブが完敗しました。写真左にはサンケイ新聞のS記者、さらにその奧に、朝日新聞のI記者が写っています。I記者はその後、朝日新聞東京本社社会部勤務となり、金丸信自民党副総裁に絡む一連のスキャンダル報道で1993年度の新聞協会賞を取った取材班の一員として活躍したそうです。1997年には、ハーバード大学ケネディ行政大学院でジム・クーニーの国際関係論の授業を受講した仲でもあります。世の中は狭いので、いつどこで、かつての仲間と再会するかわかりませんね。『留学のための英語論文・ペーパー作成術(仮題)』では、ジム・クーニーの授業で私が書いたペーパーも紹介していますよ。←これは宣伝です。
2006.09.22
コメント(0)
▼タクシー運転手殺人事件1今思い出してもおぞましい事件である。最初は強盗事件であった。1985年10月4日午前0時40分ごろ、埼玉県八潮市の路上で東京の個人タクシー運転手のタクシーに乗っていた乗客の若い男が突然、「ここで止めろ」と停車を命じて、運転手の顔を素手で殴った。運転手は危険を感じて車外に逃げたところ、男はそのままタクシーを奪い逃走した。タクシーは30分後、約三キロ離れた東京都台東区で見つかったが、売上金8000円が入ったセカンドバッグが盗まれていた。このぐらいの事件なら20行未満のベタ記事である。おそらく読者の目に留まるか留まらないかぐらいのニュースであっただろう。しかしこの事件から間もなく、とうとう殺人事件が発生するのだ。発生場所は、今度は東京であった。10月30日、東京都八王子市のゴルフ場脇に停めてあった個人タクシーの車内で運転手が殺されていた。本社社会部の担当である。次に埼玉でも同様な強盗殺人事件が発生した。年の瀬も迫る12月16日午前6時50分ごろ、浦和市の住宅街の路上で停まっていたタクシーの中で運転手が血まみれになって死んでいるのを通行人が見つけ、110番した。浦和署が調べたところ、運転手の首には数ヶ所刃物で刺した跡があり、売上金も見当たらなかった。このため同署は強盗殺人事件と断定、捜査本部を設置した。タクシーは助手席側が半ドアになっており、殺された運転手のブレザーが車外に落ちていた。おそらく金目の物がないか物色した後、捨てたのであろう。付近の住民は同日未明に2,3回クラクションがなるのを聞いている。新聞配達員が同日午前四時半すぎに現場近くを通った時には、既にタクシーは現場に停まっていたという。このタクシー会社は東京都墨田区にある会社で、殺された運転手は同日午前2時で勤務を終え、その後は明けで休みの勤務であったという。タクシー運転手を狙った卑劣な強盗殺人事件は、年を越して1986年1月8日にも発生する。場所は私の住んでいた川口市であった。(続く)
2006.08.30
コメント(4)
▼阪神優勝と高校野球の思い出手製の鉄パイプ銃を使った自動車修理工場の放火殺人事件がほぼ解決したころ、埼玉県の別の場所では、大きなお祭りのような騒ぎが続いていた。1985年11月2日、埼玉県所沢市の西武球場で開かれたプロ野球日本シリーズ第六戦で阪神タイガーズが西武ライオンズを破り、三度目の日本シリーズ出場で初めて日本一を達成したのだ。セ・リーグで優勝したこと自体、21年ぶりであったため、阪神ファンは熱狂。西武球場では「六甲おろし」が響き渡り、興奮の坩堝となっていた。この年の阪神はすごかった。一番真弓、三番バース、四番掛布、五番岡田の強力打線が相手投手陣を粉砕、当時のシーズン記録となるチーム219本塁打を記録した。日航機墜落事故では球団社長が死亡するという悲劇を越えての優勝であった。原稿は基本的に運動部の記者が書くが、浦和支局としても雑感を書かなくてはならなかった。ところが所沢は埼玉といっても、顔は東京に向いている。埼玉県内ではお祭り騒ぎはほとんど起こらず、みな西武線で東京の池袋や新宿へと流れたようであった。それでも何も書かないわけにいかないので、大宮や浦和の西武デパートで残念セールをやっている場景などを原稿にして本社に送った。ところで、支局の仕事には、全国高校野球の地区予選の取材もある。全試合のスコアを送信するだけでなく、決勝戦ともなると、必ず球場に取材に行き、雑感を書くことになる。私も高校野球の取材で西武球場へ時々取材に出かけた。机のある記者室から見る野球は、また異なる雰囲気があり、面白かった。余談だが、私も高校時代は甲子園を目指す高校球児であった。中学時代は軟式野球とラグビーをやっていたが、高校生になって初めて硬式ボールを握った。軟式ボールと違って、何と重いこと。中学時代は速球派投手として鳴らした私であったが、硬式野球では勝手が違った。部員が10人しかいない弱小クラブであったため、すぐにエースで四番に抜擢された。しかし、6月にやった最初の練習試合ではめった打ちに遭い、19点も取られてしまった。投手ができるのは私一人しかいなかったので、投球数は256球に達した。ほぼ二試合分に相当する球数だ。それでも段々コツをつかみ、めった打ちされた一ヵ月後の一年生夏の西東京大会では一回戦2-4で借敗。秋の大会では甲子園に出場したこともある創価を10-8で破り、初の公式戦一勝を挙げた。二年生の夏の大会では一回戦を3-1で突破。しかし、肩を酷使する過剰な練習が祟って、二回戦は完敗してしまった。当時は試合が終わった後も、練習で投げ込みをし、肩を休ませるという発想がなかったのである。試合後も肩は冷やすなと言われ、夏の暑い時期にプールに入ることも禁じられた。今から思うと、なんというバカな練習方法だったかと思う。肩をこわした私は事実上、二年生の夏で野球部を去った。公式戦の戦績は2勝3敗であった。ラグビーも二年の秋で引退した。左ウイングだったが、公式戦のトライ数は確か3つほどであった。本郷戦での幻の50メートル独走トライは今でも悔やまれるが、その話はまたの機会に。
2006.08.29
コメント(2)
▼怪奇殺人事件浦和支局勤務の場合、殺人事件のネタには事欠かない。その中で奇奇怪怪な事件もあった。1985年10月30日午後7時10分ごろ、埼玉県与野市(現在はさいたま市中央区)の自動車修理工場から出火、鉄骨平屋一部二階建ての同工場約100平方メートルを全焼した。焼け跡から、この修理工場を経営していた44歳の兄と、38歳の弟の遺体が相次いで発見された。浦和西署が司法解剖したところ、兄は銃弾が左胸を貫通したため死亡しており、弟も後頭部に銃器による傷跡があることがわかった。埼玉県警捜査一課と同署は殺人放火事件と断定、捜査本部を設置した。誰が兄弟を殺したのか。自動車修理工場の国道に面した四枚のシャッターは閉められており、外から何があったかを目撃した人はいなかった。密室で起きた殺人事件である。二人の遺体から弾痕が見つかったというのも、異様であった。暴力団が絡んだ事件であろうか。しかし、その筋の話は一向に入ってこない。不審者を見たという目撃情報もない。またもや迷宮入りか、と思われた矢先であった。捜査本部は焼けた自動車の下から加工された鉄パイプを見つけたのだ。どう見ても、自動車の部品には見えない。近くには手製の鉛の弾も見つかった。決定的だったのは、工場二階の弟の部屋の机から見つかった、火薬の入った手製の鉄パイプ容器であった。凶器は手製のパイプ銃であった。埼玉県警科学捜査研究所が実際に鉄パイプ銃をつくって実験した結果、殺傷能力があることがわかったという。家族らの話によると、兄弟は鹿児島県出身で、大阪や東京の自動車修理工場で働いて技術を習得。事件が起こる三年ぐらい前に兄が与野市で修理工場をはじめ、その一年後ぐらいに弟も手伝うようになった。しかし兄弟は最近、工場開設資金や弟の仕事振りについて、いさかいが絶えなくなったという。捜査本部はこのことから、弟が鉄パイプで銃をつくり、兄を撃ち放火、自分も後頭部に手製銃を突きつけて弾丸を発射させたという結論を導き出した。ちょっと不自然ではあるが、弾痕の角度などから、これも可能であることがわかったという。兄を殺さなければならないほどのいさかいとは、本当のところ何だったのか。当人が死んでしまったので、真相を知る者はいない。
2006.08.28
コメント(2)
▼殺人事件の原稿の書き方ここで殺人事件の原稿の書き方を紹介しよう。日時と場所から始めるのは、どの原稿も同じだ。殺人事件の場合は、死体が見つかった状況から書く。誰がいつ、どこで、どういう状態の被害者を発見したか。たいていの場合、被害者は倒れている。だから原稿も、「ジョギング中の会社員が、どこどこの路上で男の人が(血を流して)倒れているのを発見、110番(119番)した」などと書く。もちろん、衆人環視の中で発生した殺人事件の場合は、発生状況をそのまま書く。これを受けて、警察の登場だ。警察や消防が調べた結果を書く。「どこどこ署が調べたところ、男性の胸には鋭利な刃物で刺されたような傷があり、既に死亡していた」とか「男性は病院に運ばれたが、間もなく出血多量で死亡した」などと書く。次に警察がこの事件を、どういう根拠でどう判断したかを書く。自殺なのか、他殺なのか、事故なのか、その根拠は何かを書けばいい。どう考えても他人がやったとしか思えないような傷が致命傷であれば他殺であろう。被害者本人が凶器とみられる包丁を持っていれば、自殺の可能性もある。誤って高い場所から転落して死亡した事故かもしれない。警察が調べた現場の状況や判断根拠を説明して、最後は「どこどこ署は殺人事件と断定、捜査本部を設置した」とか「どこどこ署は殺人と事故の両面で捜査している」などと書く。後は被害者の身元と目撃証言である。「所持していた免許証などから殺されていたのは、だれだれさん」などと書く。この被害者に最後に会った人の目撃証言などが後に続く。どういう理由で現場にいたのか。普段と変わった様子がなかったか。通り魔的な要素が強いのか、それとも怨恨か。被害者の足取りを中心に具体的に書く。殺人事件が発生した場合、通常記者一人(余裕があれば二人以上)が現場に飛び、もう一人は警察を取材して原稿を書く。今まで話したような内容は警察からも取れるが、現場に行った記者は周辺の目撃者を徹底的に取材する。被疑者に結びつくような目撃証言がなかったか。被害者の自宅周辺(最低でも向こう三軒両隣)、被害者がよく立ち寄りそうなクリーニング屋や床屋を探し出して被害者のことを詳しく取材する。現場の記者から新たな情報が入ってくれば、原稿を差し替えていけばいい。業界では取材が十分にできるようになるまで「殺し3年、火事8年」といわれているので、殺人事件の現場取材は比較的簡単な部類であるといえるだろう。原稿の最後は通常、被害者の家族構成がどうなっているか(一人暮らし、両親と同居、妻と息子の三人暮らしなど)とか、現場がどういう場所なのか(閑静な住宅街なのか、団地なのか、繁華街や駅からどれだけ離れているのか)といった情報を書いて終わる。以上が殺人事件の原稿の一般的なパターンである(今度、捜査本部を設置するような殺人事件が起きたら、どのような構成の原稿になっているかチェックしてみてください)。
2006.08.27
コメント(2)
▼世田谷・接骨院院長射殺事件東京からドンドン人口が流入してくると同時に、犯罪も東京から埼玉県に流入してきた。そのため、被害者も被疑者も東京から来たとみられ、犯行現場だけが埼玉県という事件が多く発生するようになった。1985年10月10日体育の日の午前4時10分ごろ。埼玉県川越市南大塚の関越自動車道下り線川越インター出口手前の減速車線に止まっていた乗用車の運転席で男の人が倒れているのを巡回中の道路パトロール会社社員が見つけ、119番した。救急車がかけつけたところ、男性は既に死亡していた。川越署が調べたところ、男性は右側頭部を短銃のようなもので撃たれて、ほぼ即死状態だった。同署は殺人事件と断定、捜査本部を設置した。殺されていたのは、東京都世田谷区の接骨院院長(41)であった。乗用車はベンツで、エンジンは停止して非常駐車灯が点滅した状態。被害者は左側の運転席で足を組みながら右側に傾けるような形で倒れていた。右こめかみ上部に穴が開いており、解剖の結果、鉛の弾丸が見つかった。接骨院長は従業員が九人いる接骨院を経営。交友関係が広く、前日から知人宅を転々と遊び歩いていた。10日午前0時45分ごろ知人の女性宅を一人でベンツに乗って出かけた後、行方がわからなくなっていた。いったい何があったのか。現場こそ埼玉県だが、東京・世田谷の人間である。取材も捜査も、距離という壁があった。もちろん土地勘も無い。暴力団とのトラブルがあったのか。あるいは偶発的な交通トラブルか。同僚の記者は新宿・歌舞伎町まで接骨院長と暴力団の接点を探しに出かけたが、手がかりはなく、まったく雲をつかむような話であった。そもそも東京まで捜査の手を広げて事件を解決するような能力は、埼玉県警にはなかった。警察も徹底した発生地主義であるため、警視庁の協力もあまり期待できなかった。埼玉県はまさに、未解決凶悪犯罪の多発地帯へと変貌してしまったのである。
2006.08.26
コメント(2)
▼埼京線の誕生東京への通勤圏であるがゆえに、爆発的に膨張する埼玉県南部の人口。もはや京浜東北線という動脈一本では、東京への通勤客を運びきれなくなっていた。そこで開業したのが埼京線であった。川越から大宮(川越線乗り入れ)を経て、東北・上越新幹線の脇を並行して南下し、赤羽、池袋に至る通勤新線である。1985年9月30日に川越駅と大宮駅で華やかに行われた式典には畑和知事らが参加、新しい通勤の足の誕生を祝った。当初は赤羽線乗り入れで池袋駅までの運行であったが、翌86年3月には山手貨物線へ乗り入れて、新宿まで直通運転が可能となった。埼玉県南部に住む人たちの通勤の足は飛躍的に向上した。通勤ラッシュの混雑で苦情が絶えなかった埼玉と東京を結ぶ京浜東北線は、埼京線の開業により30%ほど混雑が緩和した。しかし、それも一時的なものであった。交通の便が少しよくなると、マンション建設ラッシュに拍車がかかり、人口が増える。人口が増えれば、通勤ラッシュが激しくなる。これではまるでイタチごっこである。埼京線には別の問題もあった。騒音である。もともと埼京線は、上越・東北新幹線を通す際に騒音など公害問題で反対した沿線住民に対する見返りとして約束された新線であった。ただでさえ新幹線の騒音でうるさい地区に、新たに埼京線という騒音が加わったようなものだ。もちろん便利にはなった。地元の商店街は新たな発展を見せた。ただ同時に、大都会東京から流れてきたような犯罪も増加していったのであった。
2006.08.25
コメント(2)
▼卑劣な殺人2同一犯による卑劣な犯行なのか、あるいは模倣犯の仕業か、この悪意に満ちた毒入り無差別殺人事件は全国に広がった。9月19日に福井県の30歳の男性が自販機の受け口にあった毒入りコーラを飲んで3日後に死亡、同20日には宮崎県で45歳の男性が同様に毒入り清涼飲料を飲んで2日後に死亡した。23日にも大阪の男性が毒入り清涼飲料を飲んで、約2週間後に死亡。大阪の男性は、腐ったような臭いがしたため、途中で吐き出したが手遅れであった。つまり、飲んだ毒の量が多いと2,3日で、毒の量が比較的少なくても数週間で、ほぼ確実に死に至るのだ。そしてとうとう、同様な事件が埼玉県でも発生した。10月6日、埼玉県鴻巣市で44歳の男性が毒入り自販機にあった清涼飲料を飲んで約2週間後に死亡。11月7日、浦和市で43歳の男性が毒入り清涼飲料で九日後に死亡。同17日には、埼玉県児玉郡上里町の17歳の女子高生が自販機にあった毒入りコーラを飲んで1週間後に死亡した。自販機には毒入り飲料に注意の張り紙がしてあったらしいが、女子高生はまさかこのようなところに毒入り飲料が置いてあるとは思わず、軽い気持ちで飲んでしまった。その間にも、10月15日と28日に奈良県と大阪府でそれぞれ男性が毒入り飲料を飲んで死亡している。7月から11月の4ヶ月間に11人が殺されたわけだ。毒物は三重県の一件を除き、いずれもパラコートであった。パラコートは当時、最も一般的な除草剤の一つとして広く市販されていた。毒性が強く、人体内に入ると、激しい嘔吐や下痢などの中毒症状が表れ、消化器系の粘膜がただれる。やがて腎臓や肝臓の機能障害が起こり、肺出血を併発して呼吸不全で死亡するのである。一度破壊された器官は治ることはない。一連の毒入り無差別殺人事件で最後の犠牲者となった埼玉県の女子高生も、一週間苦しんだ末に、治療の甲斐なく亡くなったのだ。全国で11人もの尊い命が奪われたが、結局犯人はわからず、いずれも迷宮入りとなった。この事件の後、自販機に防犯カメラを設置するところが出てきたり、スクリュー式キャップを回して開けるタイプをやめて、細工ができないようにレバーキャップを引き抜いて開けるタイプにする清涼飲料会社が出てきたりした。自販機に余分に製品が出てきたと思ったら、おそらく誰もが軽い気持ちで余分な製品を持ち帰るであろう。まさか毒が入っているとは思わないだろうから、一気に飲み干すに違いない。人間の心理に付け込んだ悪魔の犯罪であった。
2006.08.24
コメント(2)
▼卑劣な殺人1世の中には、救いようがない卑劣な者がいる。自分は安全な場所に隠れ、ゲーム感覚で人を殺すやつらだ。その卑怯者は、人が死んだり、苦しんだりする姿を見て喜ぶ。それがまるで当たり前であるかのように。事件は1985年9月10日に発生した。大阪市富田林市の男性が自動販売機の受け皿にあったドリンク剤を自宅に持ち帰って翌11日飲んだところ、急に苦しみだし、その3日後に亡くなったのだ。死因は、農薬のパラコート剤を飲んだときの症状である呼吸困難であった。男性は自販機でドリンク剤を1本買ったが、受け皿には2本あった。販売機の誤作動で2本出てきたと思い、そのまま持ち帰ったらしい。同じく11日、三重県松坂市で大学四年生が自宅そばの自販機でドリンク剤を買った。ところが1本だけ買ったはずなのに、受け皿には二本あった。大学生は二本とも自宅に持ち帰り飲んだところ、1本目はなんともなかったが、二本目を飲んだ直後から吐き気がして、激痛に襲われ、14日に死亡した。このほか、二ヶ月前の7月にも京都府福知山市の自販機にあったドリンク剤を飲んだ東大阪市の男性が同様の症状で死んでいたことがわかった。連続殺人事件の可能性が出てきた。大阪府警などは、毒物を混入させた無差別殺人として捜査を始めた。そしてこの連続無差別殺人は、関西地方だけでなく、東京、埼玉へと飛び火するのである。(続く)
2006.08.23
コメント(4)
▼応援取材と留守番と科学万博浦和支局のように記者6人の中堅的な支局から2人の記者を応援に出すということは、残された記者の泊まり勤務などの負担が増えることを意味していた。つまり記者4人、デスク1人の5人で泊まり勤務を回す状態が続く。月4回強であった泊まりが6回強になるわけだ。各自予定していた夏休みも大幅な短縮を余儀なくされる。応援組みも大変だが、支局を守る留守番組みもつらい。実は日航機事故があった8月は、浦和支局から筑波に一人応援を出すことになっていた。当時開かれていた「科学万博つくば‘85」の応援取材である。浦和支局としては断りたいぐらいだったが、筑波のほうでも人がほしいという。私は群馬県藤岡市から帰ってきて一日休んだ後、浦和支局で泊まり勤務を含む1週間の勤務をこなし、再び一日休んで筑波へ飛んだ。科学万博の取材は、日航機墜落事故の取材に比べ非常に楽な取材であった。一週間の応援期間中、私が書いた原稿は1本だけ。あまりにも暇だったので、各パビリオンの館長らにアポイントメントを取って、取材して回った。特に外国館の館長らに今回の科学万博の意義や評価を聞いた。6ヶ月の期間中、2000万人が来場するという盛況だったこともあり、運営に関してはおおむね評価は高かった。ただテーマが「人間・居住・環境と科学技術」という割には、影像とロボットのアトラクションが中心で環境や自然を考えさせられる展示が少なかったとの声も聞かれた。実際、どの博覧会会場もそうかもしれないが、会場ができる前は鳥やタヌキが生息する自然豊かな雑木林だったのだ。それがアスファルトに覆われ、騒音が増え、夜は光でまぶしくなった。これではただの環境破壊である。人気パビリオン前に並ぶ長蛇の列は、大阪万博を思い出させた。入館待ち対策も十分ではなく、中には半日も待たされるパビリオンもあった。夏休みにはるばる日本全国からこの科学万博にやってきた子供たちも多かった。墜落した日航機にもそうした子供たちが乗っていたのを私は思い出していた。科学万博は9月16日閉幕した。
2006.08.22
コメント(2)
▼日航ジャンボ機墜落事故9私にとって日航機事故の取材は、汗と死体の臭いとともにあった。しかし、もっと悲惨な思いとともにあるのは、おそらく墜落現場の凄惨な光景を見た記者たちであっただろう。私は遺体安置所で棺が並べられるのを見たが、死体までは見ていない。取材で遺体の有様を聞いただけであった。聞くと見るとでは天と地ほどの差がある。以前にも話したが、その墜落現場を取材したのが、登山経験の豊富な、長野支局の同期の沼沢均記者であった。彼は現場で救援活動をする自衛隊員と寝食をともにし、取材活動を続けた。皆、夜は御巣鷹の尾根の地べたに寝転がるように眠り、昼は真夏の太陽が照りつける中、草木の茂る山の急斜面を上り下りしながら活動した。飛び散った赤い肉片や、木に引っかかった遺体――地獄のような光景がいやおうなく目に飛び込み、遺体の腐った臭いが鼻を突く。死臭に群がる虫たちとも昼夜を問わず格闘した。その後しばらく、阿鼻叫喚地獄の光景がどうしても頭に浮かんで、消えることもなかったであろう。一週間経つころから、地方の支局から応援に来ていた記者は、別の応援組と入れ替わることになった。浦和支局からは私を含め二人が発生直後から応援組として派遣されていたが、ちょうど一週間後に浦和支局の別の二人が交代要員として派遣されてきた。私たちの藤岡での任務もこれで終わりである。ほとんど着の身着のまま藤岡にやってきて一週間。怒涛の取材の日々であった。
2006.08.21
コメント(2)
▼日航ジャンボ機墜落事故8このような大事故を引き起こした原因は何であったのか。構造的な欠陥か、操縦ミスか。構造的欠陥が原因だとしたら大問題である。事態を重視した米ボーイング社と米国連邦航空局の調査員は14日午後には来日、事故調査を始めた。墜落当初から、尾翼部に異常な力が働いていたことが運輸省航空事故調査委員会の調べでわかっていた。事実、事故機の垂直尾翼は墜落前に破損して、相模湾に落下している。では尾翼部で何が起きたのか。御巣鷹山の墜落現場に着いた米国の調査団がまず真っ先に足を運んだのが、機体後部の圧力隔壁であったといわれている。圧力隔壁――。この聞きなれない言葉も、この日航機事故以来、ごく一般的な時事用語となった。圧力隔壁は客室の最後部の壁で、機内の気圧を保つ役割がある。これが破損すると、客室内は急減圧が起こり、室温も急低下する。日米合同調査の結果、運輸省航空事故調査委員会は「後部圧力隔壁に疲労亀裂があり、そこから隔壁が破れて、客室内の空気が噴出。その勢いで垂直尾翼や尾部が破壊された。垂直尾翼などを失った事故機は制御不能となり、墜落した」という主旨の報告書を発表した。同調査委員会は伏線として、1978年に事故機が伊丹空港でしりもち事故を起こした際、圧力隔壁の修理ミスがあったことを挙げた。しかし、本当に修理ミスが原因であったのか。圧力隔壁が破壊されたのなら、なぜ気圧の急減圧が起こらなかったのかなど疑問点もあり、今でも別の原因があったのではないかと考える研究家も多い。
2006.08.20
コメント(4)
▼日航ジャンボ機墜落事故7遺体安置所のシーンは雑感の材料となるが、それだけでは原稿にならない。私のもう一つの“職場”である遺族の控え室では、それぞれの遺族が語る被害者にまつわる話が物語として原稿となった。墜落した日航機にはさまざまな人が乗り合わせていた。一人一人には語りつくせないような人生の重みがあり、ドラマがあった。メディアがそれらのすべてを伝えたとは、到底思っていない。しかし、各社可能な限り遺族を取材し、彼らが歩んできた人生の生き様を紹介した。私は英語が話せるということで、主に外国人被害者遺族の取材を担当した。ドイツ人の被害者遺族は、日本人から見るとかなりあっさりとしていた。文化的な違いもあるのだろうが、火葬場では故人が生前大好きだったビールを捧げ、皆で乾杯した。足首から先しか見つからなかったイギリス人被害者もいた。決め手は外国製の靴と大きな足。それでも、あのような悲惨な事故で遺体の一部でも見つかれば、幸運であった。事故機には著名人も乗っていた。歌手の坂本九さん、阪神タイガーズの中野肇社長、ハウス食品工業の浦上郁夫社長らだ。私は坂本九の妻、柏木由紀子さんの記者会見を担当した。当時柏木さんは報道陣の目を避けるように近くの旅館にこもっていた。日航側が用意した遺族の控え室に行くと、報道陣が詰め掛けると思い、顔を出さなかったのだ。しかしこのままでは埒が明かないと判断、14日夜に報道陣を滞在先の旅館に招き、記者会見を開いた。そのときはまだ坂本九さんの遺体は見つかっていなかったので、柏木さんは目に涙を浮かべ「早く会いたい」と声を詰まらせていた。坂本九さんの遺体は二日後の16日夜、実兄が身元確認した。遺体確認の決め手となったのは、「芸道を極めるため」に坂本さん本人が特別注文したペンダントであった。(続く)
2006.08.19
コメント(6)
全187件 (187件中 1-50件目)