青森から酒田まで 0
古文書 0
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予約していたエッセイ集がようやく手に入ったら、どの文を読みたかったのかわからなくなった話を書いた。←ここ作者 浅田次郎は嫌いではないが余り著書を買ったことはない。図書館の小説棚の一番手前を占領しているので手に取ることは多い。わたしの本棚にずっと積まれたままの本内容が重すぎる予感で数年来放置状態。そんなことだけど、エッセイ集は別。あちらを読み、こちらを読みしたが結局、どうしてこの本を予約したのかイマイチぴんとこない。ぴんとこないが惹き付けられる一文があった。それは「理不尽について」という題だった。どんな内容か要約して投稿しようかと思ったのだが、下手に要約しては伝わらない。著作権法に触れるのを覚悟で無断で全文掲載することにした。 浅川次郎著『勇気凛凛ルリの色』講談社文庫より「理不尽について」殿下は馬がお好きだった。だから毎朝、広島市の郊外にある仮御殿を騎馬でお出ましになり、市内を南から北に縦断するようにして、山陽本線の駅近くにある軍司令部に通われた。その朝も同じだった。忠実なお付武官のY中佐が、今日はたいそう日ざしが強いのでお車をお使い下さい、と勤めるのを笑って退けられ、おまえは一足先に車で行け、とおっしゃられた。Y中佐はそうした殿下を、深く尊敬していた。うだるような暑さと不利な戦況の中で、日本の軍人たちはみなうんざりしているというのに、朝鮮王族である殿下はいつも馬上に凛と軍服の背を伸ばして、軍司令部との長い道のりを往還なされる。しかもお付のY中佐にはご自分の乗用車を使用させるのである。Y中佐が長靴も履けぬほどのひどい水虫に苦しんでいることを、殿下はご存じだった。ではお先に、と車で御殿を出るとき、Y中佐は遠ざかる殿下に敬礼しながら、いつも胸がいっぱいになるのだった。殿下はY中佐が車窓から体を引っこめるまで、馬上の答礼の手をおろそうとはなさらなかった。おそらく、それが士官学校の先輩に対する当然の礼儀であると、殿下はお考えになっているのだろう。口にこそ出さないが、Y中佐は理不尽を感じている。明治四十三年の日韓併合によって、朝鮮の李王家は日本の皇族として礼遇されることになった。それから四十年ちかくの歳月が経つから、お若い殿下は日本の皇族としてお生れになり、学習院と士官学校に学ばれ、帝国軍人としての人生をお過ごしになっている。歴史の必然と言ってしまえばそれまでだが、はたして当の殿下は、自分の感じているような理不尽をお感じにはなられないのであろうか、と中佐は思う。理不尽とは、道理を尽くさないで無理無体に押しつけることである。ならばこれ以上の理不尽はなかろう、と中佐はひそかに考えている。殿下の任務は、来たるべき本土決戦に備えて西日本の防衛を担当する、第二総軍の教育参謀である。沖縄を陥(お)とした米軍が、遠からず九州に上陸してくるであろうことはほぽまちがいないから、最高指揮所の参謀として、殿下の任務は極めて重大である。それぐらい殿下は、有能な軍人であらせられる。理不尽だとY中佐は再び思う。大東亜戦争は日本が世界を相手にした戦である。しかし殿下が世界を敵に回す理由は、何ひとつないと思う。自分は何度死んでも良い。だが殿下をこの戦で殺してはならないと、Y中佐は心に誓っていた。Y中佐が一足先に軍司令部に到着したころ、殿下の馬は二人の護衛憲兵を従えて、ちょうど市の中央部にあたる福屋デパートの前を通過していた。夏空に爆音が聴こえた。殿下は略帽に手庇(てひさし)をかかげて天を仰がれた。警報は発令されておらず、広島はそれまでにもほとんど空襲を受けてはいなかった。単機のB29は偵察飛行にちがいない。再び馬を歩ませたとたん、殿下はすさまじい光に捉われた。背中に熱鉄が巻きついたような気がし、馬もろともに車道の中ほどまではじき飛ばされた。真黒な煙の中で、殿下は気丈にも焼けただれた背を起こした。そのとき殿下は、わずか数百メートル先の爆心から、天に向かって魔王のように立ち上がる巨大な柱を、確かにご覧になった。軍服は破れくすぶり、参謀懸章は炎を上げて燃えていた。それでも殿下は、軍刀を抜き、長靴を曳いて、目前にそそり立つ理不尽の柱に向かって歩いた。爆心地から離れた軍司令部でも、四百余名の出勤者のうち百名が即死した。瓦礫の中からはい出したY中佐は、大声で泣きながら殿下の姿を求めて市内を走り回った。軍司令官や参謀長の消息も、家族のことも、爆死を免れた軍人としてやらねばならぬことも、何も思いうかばなかった。ただ、あの人だけは殺してはならないと、そればかりを考えていた。殿下は相生橋の橋脚の下に蹲(うずくま)っておられた。煮えたぎる川面をじっと見つめながら、殿下はそのとき何を考えていらしたのだろう。生きてはおられたが、お体は真黒に焼けていた。宇品の船舶司令部の舟艇が、蹲る殿下と、そのかたわらでなすすべもなく号泣する侍従武官とを発見した。舟はただちに二人を収容し、似島(にのしま)の海軍病院に向かった。背中一面に火傷を負われていた殿下は、ベッドにうつ伏せて手当てを受けた。痛みも苦しみも訴えようとはなされず、徹夜で看護をするY中佐に、大丈夫だから休めと仰せられた。自分の傷は浅いから、と中佐が言うと、殿下は声に出されずに、黙って足元を指さされた。おまえはひどい水虫だから、立っているのは辛かろうと、殿下は仰せられたのだった。子供のように泣きじゃくりながら、中佐は理不尽だと思った。理不尽とは、道理を尽くさず無理無体に押しつけることだ。殿下はよその国の軍服を押しつけられ、今またよその国に原子爆弾を押しつけられた。道理もくそもあるものか、と中佐は泣いた。殿下は昭和二十年八月七日払暁、薨去された。最期を看取った中佐はその直後、病室の前の芝生に正座し、働哭しつつピストルで自らのこめかみを撃ち抜いた。―-これは物語ではない。原爆の犠牲になられた旧朝鮮王族のお名前は李鍝殿下といい、自決したお付武官は吉成弘中佐という。多少の想像を加えてはいるが、まぎれもない事実である。想像を加えなければならなかった理由は、それぐらいこの出来事が歴史の中に埋もれてしまっているからである。私の蔵書のうち、はぼ三分の一は戦史と軍事関係の書物であるにも拘らず、思い立ってこのことを書こうと思ったら、記述はわずか一冊しか発見できなかった。だからたいへん不謹慎な話ではあるが「李鍝」というお名前にどういうふりがなを振っていいのかもわからない。それでも私は、夏の去らぬうちに書いておかねばならないと思った。この事件が歴史もれてしまうこと自体、理不尽だと感じたからである。戦後五十年を迎えた今年、話題と論議はほぼ二つに集約されたと思う。ひとつはスミソニあんの原爆展騒動とフランスの核実験に伴う、原爆の回顧である。もうひとつは、韓国の従軍慰安婦問題を初めとする、戦時賠償についてである。一見してこの二つは別問題のように思えるのだが、実は不可分の事実であることを、李鍝殿下はわれわれに教えてくれる。われわれは議論をしなければならない。しかし自己の正当性ばかりを主張する議論は無意味である。要するに、毎度口をすべらせる日本の政治家は、誰ひとりとして李鍝殿下の理不尽な死を知らない。原爆投下を正当な行為であったと主張し続けるアメリカ人も、その死を知らない。そして、もちろん一方的な被害者である韓国国民には、理不尽に殉じた日本軍人がいたことを、知って欲しいと思う。戦後五十年という節目の持つ大命題は、不戦の誓いである。謝ることや責めることや、言いわけや開き直りや、そういうレベルの論議よりも、もっと節目にふさわしい国家間のシンポジウムが「理不尽とは、道理を尽くさないで無理無体に押しつけることである。」。爆心地の橋脚の下でじっと蹲(うずくま)っていたという異国の王子は、そのときいったい何を考えていたのであろうか。よその国の軍服を着、よその国の落とした爆弾の熱にその背中を焼きながら。李鍝公の遺骸はただちに妃殿下の待つ京城の自邸に空輸されたという。だがおそらく、その魂魄は祖国に帰ってはおるまい。人類が核兵器の愚かしさを知り、真の不戦を誓うその日まで、彼はたぶん相生橋の橋脚の下で理不尽の炎に背を焼きながら、今もじっと蹲っているにちがいない。「李鍝(いう)殿下」 李鍝(いう)殿下は、朝鮮王家最後の皇太子、李垠(いうん)殿下の甥にあたります。1922年(大正11年)に来日し、軍人としての教育を受けました。被爆当時、第二総軍教育参謀中佐であった李殿下は、馬で出勤途中に被爆しました。西方に逃がれましたが、本川橋西詰で力尽きました。うずくまっているところを発見され、宇品の凱旋館に収容、似島(にのしま)へ転送されますが、翌7日に亡なくなりました。 李鍝(いう)殿下でんかの遺体は、総軍の飛行機で、現在のソウルの自宅へ運ばれました。(広島平和記念資料館資料より)作者が何度も繰り返している「理不尽とは、道理を尽くさないで無理無体に押しつけることである。」という言葉が重い。実は昨夕岡崎にやって来た天安のNさんにこの文を読んで感想をくれろとLINEで送った。今朝、東京への新幹線の中で読んでくれているだろう。韓国併合は日本側にいかなる正当な理由があっても、「道理を尽くさないで無理無体に押し付けた」ことは紛れもない事実なのだ。その後のすべてのネジレは、そこから始まっていると私は思う。
2024/03/23
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1日6時間もスマホの画面を見つめる生活を続けている。当然目に来る。車でスポーツジムに行くとき、近頃は眼鏡をかけている。これではいけない。スマホの時間を減らすためにテレビを点けたが見たい番組はほんとうに少ない。本でも読むか。少し前まで読みたい本は本屋か図書館で探したものだが、この頃はスマホで探す。スマホを見る時間を減らすためにスマホで本を探すというなんだかおかしな具合。ともあれスマホで岡崎市中央図書館のサイトを立ち上げて予約1週間ほどで家の近くの市民センターに届いた。先日の四国ウォーク、大洲城の麓で見つけた「日本朱子学の父」の碑建立の経緯が書かれた『姜はん 儒教を伝えた虜囚の足跡』朱子学と陽明学のことを知りたくて『真説「陽明学」入門』そして固い話の息抜きに土佐で飲んだ「酔鯨」の名の元になった鯨海酔侯 山内客堂を書いた司馬遼太郎の『酔って候』続いて予約したのはFacebookにしつこく広告が出る「大衆明治史」という本「GHQに消された」?この本、現在貸出中で4人待ち目の調子は 『やや良い』
2023/07/06
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市の図書館に予約しておいた本をようやく借りてきた。 予約したのは3月28日、23人待ちだった。 予約を取り消そうかと思ったが、いつになるか確かめて見ようと、そのまま放置した。 読み始めてみるとなかなかおもしろそうである。 これだったら孫一でも読めるかもしれない。 読み終わったら夏休み向けにプレゼントしてやろうか、なんて考えている。 孫一とのLINE
2021/07/02
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先日、吉良上野介義央の菩提寺「華蔵寺」参詣のあと訪れたのは明治45(1912)年の南極探検 白瀬矗隊長の墓だった。南極探検隊長大和雪原(やまとゆきはら)開拓者之墓秋田県金浦町出身の白瀬中尉の墓がどうして愛知県の吉良町にあるのか。昭和21(1946)年、次女の住んでいた豊田市で亡くなった。その後、次女は吉良に転居、さらに東京へ引っ越す際、当地の寺に仮埋葬した。昭和32年に秋田から甥が訪ねてきて分骨を申し出た。その時初めて白瀬の遺骨が町内にあることを知った吉良町民が立派な墓を建立した。白瀬矗のことをもっと知りたいと図書館で2冊借りてきた。「白瀬矗」は自伝。子供の頃のことから南極探検を終えて帰国するまでが書いてある。「南極にいった男」は立松和平が書いた小説。じっくり読むために即席書見台を作った。本を読んでいるうちに、南極探検前後のいきさつを書いた「本の万華鏡 白瀬矗 南極へ」というのを見つけた。ここ ←本の万華鏡白瀬矗が妻と一緒に豊田市の次女のもとに身を寄せた事情がわかるような気がした。とまあ、知りたい欲がどんどん深みにはまってしまいそうなのだが一日も早くやらねばならないことが控えている。5月9日の家康公検定試験。1月の予定がコロナで延期されたのだった。1月に備えて勉強したことは、長い空白期間ですっかり頭から抜け落ちてしまった。せめてこれから2週間だけでもテキストを読み返すくらいやらなくてはならない。白瀬はしばしおあずけということになる。
2021/04/24
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子供の日に和菓子屋で チマキと柏餅を買った。チマキを見ると思い出すのは 50数年前 アルバイトした室町時代末期から続く京都の老舗御粽司 川端道喜当時の当主は15代目を名乗っていた。その当主が書いた本を持っている。1990年発行の岩波新書「和菓子の京都」祇園のお茶屋話の中に大学時代の数少ない友人が出てくる。アルバイトの合間合間に聞いた面白い歴史話があちこちに書かれていた。本を買ったときは 興味のあるページを拾い読みしただけだった。コロナ自粛のひまつぶしに本棚から取り出して再読した。Amazonを調べてみたら定価500円のこの本を2008年に777円で買っている。今ではこの古本に8000円の値が付いていて、なんだか儲けたような気がした。同じ下宿の上級生に誘われてバイトにいったのは2年生のころだった。当時店は西陣にあった。当主と奥さん、当主の母親(14代目夫人)、パートのおばさん二人とアルバイト学生2~3人400年以上も続く老舗とは思えないほど小さな店、それも借家のようだった。本には書かれていないが14代のとき洋菓子に手を出して、御所の側にあった店舗を失ったらしい。店こそ小さくなっていたが、維新後の遷都まで350年間、何代もの天皇に朝げを届けた歴史と明治以後の裏千家との絆がある。その後 店は上賀茂神社社家の屋敷に引っ越したと聞いていた。あれから半世紀あのとき、自転車の後ろに乗せて店から自宅まで送っていった10歳くらいの坊が、今では16代道喜を継いでいるはずだった。(続きは次回)
2020/05/17
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継母の心臓ペースメーカー手術立合いのため帰郷している。 昨日入院させ今日手術の予定。 入院手続きを済ませて病室に入れたら、あとは手術時間までする事なし。 病院から錦帯橋まで車で15分。 行ってみようかと駐車場を出たが、途中に宇野千代さんの生家があることを思い出した。 紅葉の盛りはもう終わったかも知れないと思っていたが 真っ盛り! 閉館1時間前だが数人の先客。 ツーショット 同年齢に見えるのは、 なんだか、、、、、
2019/12/02
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6月に借り出し予約した本の順番がようやく回ってきた。 当初は、年越しになると思っていたのだが意外に早くなった。 先口の予約者がずいぶん降りてくれたのだろう。 キム・ジョン
2019/11/26
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6月に予約した時には57番だった。 半年経って4番にまで上がった。 待ちくたびれて、読む気はとっくに失せたのだが、一応借りて来るか。 果たして年内に回ってくるだろうか。
2019/11/12
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湿度が低く、寒くもなく暑くもなく気持ちのいい日だった。昼前にジムを終え、買ってきたカナダ牛を焼いて昼食。かみさんは、朝から新城市の妹宅へ出かけた。ゆったりと読書。一昨日読み終えた「隠居大学」にあった坪内稔典さんの俳句を書き写してみた。「一月の甘納豆はやせてます」「二月の甘納豆と坂下る」「三月の甘納豆のうふふふふ」「四月には死んだまねする甘納豆」「五月来て困ってしまう甘納豆」雑誌に発表したら3月の句だけが大ヒットしたという。まさかそんなに評価されるとは思わなくて自分でもびっくりそれで1月から12月までの納豆の句を作った。「甘納豆六月ごろにはごろついて」「腰を病む甘納豆も七月も」「八月の嘘と親しむ甘納豆」「ほろほろと生きる九月の甘納豆」「十月の男女はみんな甘納豆」「河馬を呼ぶ十一月の甘納豆」「十二月どうするどうする甘納豆」ついでに谷川俊太郎さんの詩「さようなら」私の肝臓さんよ さようならだ腎臓さん膵臓さんともお別れだ私はこれから死ぬところだがかたわらに誰もいないから君らに挨拶する長きにわたって私のために働いてくれたがこれでもう君らは自由だどこへなりと立ち去るがいい君らと別れて私もすっかり身軽になる魂だけのすっぴんだ心臓さんよ どきどきはらはら迷惑かけたな脳髄さんよ よしないことを考えさせた目耳口にもちんちんさんにも苦労をかけたみんなみんな悪く思うな君らあっての私だったのだからとは言うものの君ら抜きの未来は明るいもう私は私に未練がないから迷わずに私を忘れて泥に溶けよう空に消えよう言葉なきものたちの仲間になろう≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫昨日買っておいた鶏のセセリとかみさんが買ってきた茎ニンニクを照り焼きにした。酒はかみさんのお土産「喜久水」のぬる燗
2019/04/20
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図書館から借りてきた本を読み終えたら続編も読みたくなったのだが図書館の蔵書には見当たらない。久しぶりに古本屋に出かけてみたのだが、やはり見つからなかった。代わりに買って帰ったのがこれさして厚くもない本なのに古典落語100話・おつまみレシピ185品とは欲ばりなことだ。落語は1話2ページおつまみは1~2ページで1品こんな本だが楽しめているというわけで今夜の酒肴は本のレシピにはないが納豆のアボカド和え、アボカドのワサビ醤油、厚揚げを焼いて生姜醤油。酒は燗酒1合。あとから出てきた、「おかず」今年の初タケノコの煮物ジャガイモ・アスパラ・人参のスティックを豚肉で巻いたものもう少し飲むかな
2019/04/19
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朝の散歩をすませる頃降り出した雨が夕方になっても降り続いている。昼過ぎ家電の店に出かけた。昨日思い付いたラーメン鍋を探したが見つからず電氣ケトルを買ってきた。これを、昼は我流「なんちゃって茶」に使い夜は酒の燗付けに使おうという魂胆。保温機能はないが、わが家の庭くらいだったら持ち出せなくもない。0.8リットル入りだからすぐ沸くし、酒徳利を立てるに丁度いい深さだ。焼酎のお湯割には沸いた湯をそのまま使う、もちろんコーヒー・紅茶にも使える。と、まあ、かみさんに云わせれば、つまらぬことを。ではあるが良い買い物だと気に入っている。図書館から借りてきた本に面白い句があった。暇人や蚊が出た出たと触れ歩く 〈 一茶 〉 うんうん爺の日記も近頃は 花が咲きそう・咲いた・散ったと書き散らしているなあ。暇ついでに調べてみた。この本は2011年6月30日(爺の65歳の誕生日)発行なのだが今日までに作者と対談者のうち二人が物故者である。天野祐吉氏と赤瀬川原平氏それぞれ享年80と77横尾忠則(83)、外山滋比古(95)、谷川俊太郎(87)、坪内稔典(75)、安野光雅(93)は、いずれも健在である。
2019/04/17
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図書館で借りた本の中から面白いものが出てきた。 栞の代わりに挟んでいたのだろうが古い! 国鉄ウィークリー 1979年3月 ジジ33才 国鉄! 日本国有鉄道 名古屋~浜松往復きっぷと新幹線特急券を買うと新幹線車輌部品購入引換券がもらえる。 引換券は185枚 販売場所は浜松西武百貨店 ここは1997年12月閉店している。 そう言えば名古屋の丸栄百貨店が今月で閉店するのだった。 裏面がまた面白い 熱燗で聞く虎落笛 なんじゃそれ 読めますか?
2018/06/12
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10月も今日で終わり、 大事に生きても、いい加減に生きても1年なんてあっという間に過ぎて行く。 今月は前半の奥州道中ウオークで目一杯楽しんだのだが、その時の尻もちにより後半は家にこもりっきりだった。 おかげで、図書館の本をかなり読めたのだから、良しとしよう。 ウオーキング前に読んだのは 杉浦日向子「ごくらくちんみ」 酒肴の珍味をイラストとショート小説で連ねている。 ご親切に巻末に取り寄せ先一覧表が載せてある。 女性作家続きで、周防柳「蘇我の娘の古事記」 この作家が爺の高校の同窓生であることを最近知った。 同じ作家の「逢坂の六人」 古事記成立を描いた物語と古今集成立を描いた物語。 すごく面白いものがたり。 続いては、童門冬二「異聞 おくのほそ道」 奥州道中つながりで手にした本。 芭蕉と曽良に加え、水戸家臣の助さん格さん一行の道中記。 同じ作家の「大改革長州藩起つ」 長州藩が倒幕に向けて藩の体制を整えて行く過程を100%地方自治の確立ととらえている。 爺の読書は興味本意に行き当たりばったり、いくら読んでも身に付かぬ。
2017/10/31
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かみさんが妹の家に泊まりに行った。 頼まれた花と野菜への水やりを終えて夕食の支度。 スポーツジムの帰りに買ってきた鶏ももをフライパンで焼いた。 じゃがいも、ニンジン、長芋、オクラをレンジでチンして添えた。 昨日に続き今日もノンアルと決めていたのだが、あえなく撤回。 食後も発泡酒を片手に本など読んでいる。 どちらも家康がらみの歴史小説。 隆慶一郎は、昔よく読んだが長編ばかりだった。 亡くなってから30年近く経つ。 この本は短編集。
2017/08/28
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朝方の雨が涼風を運んできた。 久しぶりに気温30℃未満になった。 「絶好の草取り日和」 と言うかみさんには 返事をせず図書館へ行き本を借りてきた。 李白を書いた本もある。 窓をすべて開け放って読み始めた。 涼しい! 庭で、かみさんが草取りを始めた。 もうしばらくしたら、犬を散歩させよう。 そのあと久しぶりに居酒屋へ行こうかな。 客中行 李白 蘭陵の美酒 鬱金香 (ウッコンコウ) 玉椀 盛り来たる 琥珀の光 但(タ)だ主人をして能く客を酔わしめば 知らず 何れの処か是れ他郷 目の前の蘭陵の名酒はよい香り 玉の盃になみなみ注ぐと琥珀色の光がきらめく もしうまく酔えれば いったい、どこが馴染みのない異郷であろうか。 うま酒に酔えば いずこも わが故郷 凡人 今夜も快調
2017/08/26
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図書館で借りた「海賊とよばれた男」を読み終わった。出光興産創業者出光佐三の物語である。明治生れの佐三と部下たちの苦難に満ちた五十数年。かつて日本には、こんなにも熱い男たちがいたのだ。国際資本系がほとんどの石油元売り業界で民族資本としての孤高の歴史を歩んできた出光も創業者佐三亡き後30数年創業家の反対を押し切って つい先月創業家の株式比率を下げて反対を封じるために増資するという荒技で昭和シェルとの統合が決まった。その決定の正非は数年あるいは10数年を経なければわからないだろうが正々堂々としたものとは言えないからうまくいかないと爺は思っている。草場の陰では 佐三が怒っているだろう。借りてきた本には 「予約あり」なるべく早く返却をと印刷されたしおりが挟まれていた。上巻は2日前に返した、明日は下巻を返却しよう。
2017/08/03
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yanpaさんが編集した本をAmazonで探したら、すぐにヒットしたのだが買えない。なんと 「人気ベストセラー1位」在庫切れ!検索をしていて かなり褒めている書評を見つけた。発行元に注文すれば入るようだが送料が必要、わずか300円に 悩む・・・・・悩んでいたら頭の中をよぎった「これだけ好評だと著者には印税が入ることだろう。」そして編集者のyanpaさんだって かなりの実入りかな。なんて 人様の懐具合を・・・・・・これぞ 今 話題の森友学園理事長の言葉じゃないが下司の勘繰りそれにしても 安倍昭恵さん 話題に事欠かないお方ではある。しかし 育ちが違う名誉校長になっていくらかもらったのかなどと国会で質問する民主党議員こそ下司の勘繰り50年来応援してきた民社党の成れの果てだが権力の暴走を食い止めるべき政党民主が もっとしっかりしてくれないと日本の政治は面白くないままだ。
2017/02/28
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かみさんが プールに通い始めて5・6年になる。初めの頃は まるっきり泳げなかった。そのころ 図書館のリサイクル本の中から水泳の本を見つけて持ち帰った。古い本で 昭和60年7月15日第1刷発行。「新しいのを買えばいいのに」というのを無視してこの本を ずいぶん熱心に読んでいた。息つぎの練習方法毎週 隣町のプールで初心者教習を受けて その週のうちに スポーツジムのプールで復習。プールの教習がなくなってからは ジムのプールで週2回。これを5・6年 ず~っと 続けているのだから今では 25メートル・プールの往復も楽にこなしている。立派!ところで この本 あらためてめくっていて気が付いた。写真が1枚もない、すべてイラスト。カラーページは 見開きが2面だけ、これもイラスト。まさに古書! 30年前の「水泳指南書」として ヤフオクに出品してみたらどうだろう。
2016/12/24
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ネットオークションに「かぞえうた」の古本が出品されていた。競り上がって価格が3000円を超えたから入札をあきらめた。「朝鮮暴徒傳」かぞえうた明治27年の「日清戦争」を読み込んだ「かぞえうた」だった。子供向けに かな書きで12番まである。漢字交じりに直してみた。一ツトセ広き世界のその中で 日本は文武の御国ゆえ 大和魂、比類なき二ツトセ古きたくみのあるなしは 知らねど今度朝鮮へ 支那の大軍繰りいだす三ツトセみだりに動かぬ我国も居留人民、公使館 向こうにあるゆえ捨て置けぬ四ツトセ用意は平日怠らぬ 軍威を示して朝鮮へ 繰り出す兵士の勇ましさ五ツトセ急げばほどなく朝鮮の 港へ上がりて続々と 京城指してぞつめかける六ツトセむかし神功皇后は 懐婦の御身でありながら 三韓征伐なされしぞ七ツトセなおざる我らが無礼には 豊臣殿下も攻められし 古き験しもあるものを八ツトセ様子は知らねど万が一 事あるときには国のため 命惜しまぬ義勇隊九ツトセここやかしこと日本中 勇気をふるって陸軍へ 願い出すもの数知れず十ヲトセ東京 横浜 国々の 有志は軍費のその中へ 献金したいと願い出す十一トセ勇み進みし抜刀隊 そのほか名義は変わるとも 愛国心には変わりなし十二トセ人間わずか五十年 国の為なら身を粉にし 骨を砕くもいとやせん120年ちょっと前には 子供の遊びにも こんな言葉がちりばめられていたのだ。この歌が どの程度広まったのかはわからない。子供の頃 女の子たちがお手玉かゴムとびのとき歌っていた数え歌が ときどき頭に浮かんでくる。節は「大須ういろ」の『一番最初は一宮・・・』と同じだった。一かけ二かけで三かけて 四かけて五かけて橋を架け 橋の欄干腰かけて・・・・・これこれ姐さんどこ行くの 私は九州鹿児島の西郷隆盛娘です 明治?年・・・・・もう今では 思い出せないなあ
2016/09/03
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昼食のおかずを買いにショッピングセンターに行ったら 古本市をやっていた。地元の古本屋が合同でやっているので、岡崎、西尾の歴史資料が豊富。面白そうなのを2冊選んで買って来た。「せっかくいらない本を片付けたのに また買ってきてぇ」と言うかみさんには 「ほかの本を捨てるから」と言い訳した。「家康の書と遺品」1500円「街道を旅する」1000円家康の書は 古文書の数々の写真と読み そして解説が載っていて古文書解読のテキストにもなる。もう1冊の「街道を旅する」は日本全国の古街道の紹介記事と写真集。付録に 東海道絵図が2枚付いていて その1枚は葛飾北斎「東海道名所一覧」。もちろん写真印刷の複製だが これだけでヤフオクで1000円以上の値が付く掘り出し物。いい買い物をした日は きっと酒が旨い。
2016/04/26
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西尾市岩瀬文庫で開催中の「こんな本があった!」展に出かけた。~岩瀬文庫平成悉皆調査中間報告13~と銘打っているくらい膨大な蔵書があるらしい。西尾市岩瀬文庫今回の特集は「著書と著者の書」と「続出する珍奇本」新井白石。雨森芳洲、井原西鶴、松平定信ほかの書と著書が出ていた。石坂宗哲と「万宝魚図録」というのがあった。マンボウについての考察、漁師がマンボウの腸を取り出す絵も出ていたがほとんど読み取れない。こちらは珍奇本で「四十六士論」儒学の立場から 赤穂四十六士は忠臣にあらずとして批判した書。「本文のところどころにキセルなどで故意に焼損した跡があるが、後世の赤穂浪士ファンの所為だろう。」と解説されていて興味深い。いろいろ面白そうな本が並んでいるのだが 悲しいかなほとんど読めない。やはり本気で古文書解読の勉強をしたくなってくる。買って帰ったパンフレットの冒頭「はじめに」に「くずし字をスラスラ読めるようになって、江戸時代の古書や古文書を直接楽しみたい、そういう人たちがふえているようで<中略> そこで、くずし字習得の秘伝が二つあるので、ご伝授いたしましょう。と偉そうに申しましたが、たいしたことではありません。先ず第一に、昔の人の書き残したものを読むときに、意味不明の行文を出来るだけ残さないようにする癖をつけること。古い時代のものだから、わからないこともあるわいなと、どこか突き放した態度が最もよろしくない。第二に<攻略> 」相当に難しということであります。
2016/04/22
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喫茶店の「週刊新潮」で五木寛之「生き抜くヒント」を読んだ。今週は「恥ずかしながらの記」と題した文章だった。『物を書いて食べていくようになってから、半世紀以上が過ぎている。』『ああ、それなのに、である。あらためて確認してみると、読めるのに正確に書けない漢字がじつに多いのだ。』『キーボードを使って書いていれば、<中略>正しく読めれば困ることはない。』『しかし、手書きで原稿を書く場合は、読めるだけでは無理だ。 読むことができても、ちゃんと書けない文字がある。それがあまりに多いことに、最近、あらためて愕然としているのである』『正直なことをいえば、これまで鉛筆や万年筆で乱暴に書きなぐることで、その辺をごまかしてやってきた。』『形だけ似せておけば、編集者のほうで判読してくれるだろう、と、たかをくくっていたのだ。』『正しい字が書けないことに、あらためて自分で驚く、数えあげればきりがない、読めるが書けない字がいくらでもでてくるのだ』『書くほうだけではなく、読みにも自信がなくなってきた。』と、こんな調子の文章なのだ。小説家の五木寛之にして 老いては読み書きもあやふやになってしまうわけである。ましてや 文字をいい加減に覚えてきたジジなんぞ書けない読めないは当然至極「当たり前田のクラッカー」なのだ。政治家が漢字を読めないと言って「顰蹙」を買っていたのだが「未曾有」を(みぞうゆう)と読んでも 歯舞を(はぶ)読んでも前後の話から想像はつく それほど目くじら立てるまでもない。未曾有では その後 曾の字が曽になっているのは間違いだなんて騒いでいて「えっ そう?」だった。「八でもソでも判ればいいのだ」と爺は思う。それにしても 一体いつから こんなに息苦しい世の中になったのだろう。
2016/02/29
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神社の拝殿で新年を迎えた。お参りの人たちに お神酒の接待 ほぼ100杯、3時過ぎ帰宅、午前10時起床。いつもと同じトーストと野菜・卵にコーヒーの朝食。とっくに届いていた年賀状を見る。最高にうれしい1枚孫一からのものだ「ことしはこくごのてすとでひゃくてんをとりたいです」国語が苦手みたいだ。そのかわり 絵の才能はあるのではないかと じじバカ今年も 孫たちが しょっちゅう来てくれる楽しい「バアバんち」を心がけよう。
2016/01/01
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本棚の本を片付けている。基本的には 戦国時代と幕末の歴史資料・歴史小説だけを残して後は捨てようと思っている。中には例外もある。確認の為 ページをめくっているうち座り込んで読んだりしている。その一つ「妻一人娘二人猫五匹」永六輔著 中央公論新書版 昭和48年4月発行 360円この年私は まだ27歳独身だったから表題で選んだわけではない。当時「永六輔」の文章が好きだった。あらためて読み直している。たくさんの短文が載っていて それぞれに著者の画いたカットが加えてある。どの文章も どこか卑猥な内容になっていて そこが気に入ったのかもしれない。当時「婦人公論」に3年間連載したものをまとめたという。著作権違反の恐れがあるが 1文だけ ご紹介。 もう一つ 「一条さゆり」という文章に付いているカット書き出しは「このところ警察の取締りが厳しいので、一条さんはオープンをしていないという」分かる人にはわかる。
2015/09/07
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喫茶店で週刊文春「阿川佐和子のこの人に会いたい」を見た。週刊文春では 「川柳のらりくらり」と「この人に会いたい」を愛読している。今週の「この人」は浜村淳。京都出身、同志社大文学部卒。アランドロンと同い年。クラブの司会をやっているところを ナベプロの渡辺晋に誘われて上京。親に反対され京都にもどる、その頃 桂米朝に咄家にならないかと誘われるも断って司会業を続ける。1974年以来MBSラジオで「ありがとう浜村淳です」の放送を続けている。桂米朝から誘われた時のことを聞かれて「上方落語は不振を極めてましたからね。米朝師匠がマネージャーとジャズ喫茶までお見えになって、「うちにも、弟子が一人しかおらんねん」と。その弟子は小米、のちの枝雀さんですけど」「「名前も考えてるで。米朝の弟子で、桂モウチョウというのはどうや」って(笑)」「「いらんわ、そんな名前」と思いまして(笑)」対談は 浜村淳のしゃべり口の話から 歌謡曲の司会を七五調でやる話。その元祖とも言える 西村小楽天「この人は、いわゆる活弁、無声映画の解説をする活動弁士ですね。美空ひばりさんのお母さんはその人の大ファンやったんです。」「映画がトーキーになって小楽天さんが失業したとき、お母さんが娘のひばりさんの司会をお願いしたんですよ。でも、小楽天さんは歌謡曲の司会なんかしたことがないから、どうやったらいいかわからない。でも、活弁時代にやっていた、(声を張って)「紫紺の空に星の乱れ飛び、緑の地には花吹雪、千村万落春更けて、春や春、春南方のローマンス」・・・・・。」「同じようにしたらいいんじゃないかと思ったそうなんです」「見えぬ瞼のその裏に 過ぎた昔の思い出が 浮かぶ波止場の日暮れ時海の匂いが恋しさに 可愛い娘に手を引かれ やって来たんだ今日もまたああ『波止場だよ、お父つぁん』・・・・とやったわけです。」「後に宮尾たか志という人が現れまして、宮尾すすむさんの師匠なんです」「師匠のたか志さんはもともと咄家出身の方で、詠嘆調は古いんじゃないかと思ったんです。ちょっと臭みを抜こうというわけで、「浜の酒場の止まり木に そっと傾げたグラスの底に 可愛いあの娘の笑顔がうかんでいる 三橋美智也 純情詩集より『あの娘が泣いてる波止場』・・・・・って、ちょっとアクを抜いた。」 「でも、それでもアクが強いと言われるようになってきまして、ついに玉置宏という人が「演歌の世界に美しく咲いた花一輪 三沢あけみさんが歌います『島のブルース』、こんな風に変わって行ったんです。」浜村淳。1935年1月生まれ、当年80歳。いつまでもご活躍を!
2015/06/16
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調べたいことがあって 古本ネットで買った本「大正大典史」この本は 大正天皇が即位されて後 大正4年に行われた祝賀の大典「大嘗祭」のありさまを詳しく記している。国をあげての祝賀だから 恩赦もあり「死刑はこれを無期懲役とす」を始め減刑が行われた。「養老の為木杯並びに酒肴料下賜」というのもある。80歳以上・90歳以上・100歳以上にそれぞれ木杯一組と酒肴料50銭・1円・1円50銭を頒賜する別記事では「養老天杯五十万個」最初その筋の取り調べにより三十五六万個調製したるところ日を経るに従い其の数を増し遂に四十万個に昇り猶不足を告げ更に五万個を増し全国各地へ発送したるところ猶三千個不足を来たしたるより懸命に調製して発送し終われりという <なにやっとんじゃ!>へえ~ なのが「贈位の沙汰」(11月)十日即位の大礼に際して聖恩枯骨に及ぶこと左の如し贈正一位 従一位 豊臣秀吉贈従一位 正二位 三條西実隆贈従一位 正二位 山科言継贈正二位 従二位 北畠具行贈正二位 従二位 徳川頼宜<徳川家康の子>・・・贈正五位 従五位 大久保甚五左衛門・・・・贈従五位 従六位 大久保七郎右衛門<彦左衛門の兄忠世> ※追記 大久保七郎右衛門忠世ではなく 水戸天狗党志士だったほんの 100年前の話です。
2015/02/04
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日向(ひなた)半兵衛が相馬新太郎を養子にして隠居をしてから、二月がすぎた。が、毎日退屈で仕方がない。「さて、きょうは何をして過ごすか」目を覚まして、まず思い浮かべるのはそのことであった。毎日そればかり考えている。「勝手気儘な暮らし」といえばきこえはいいが、何もすることがないのである。 無趣味は昔からのことだが、暇つぶしといえば、書見と木刀を振ることぐらいしか知らない。しかし、それだけでは毎日のあり余る時間をつぶすことはできないし、第一飽きてしまう。 暦に、用人の勝谷彦之助が大番士としての当番日の印をつけていたころがなつかしい。四日に一度の勤めであったが、いま考えてみると、半兵衛の生活はあれで律せられていたのである。いまは暦を見ても真っ白で、何の印もない。「さて、きょうは何をして過ごすか」 その日も、半兵衛は起きてからずっとそのことを考えていた。先日、図書館で借りた本、「無用庵 隠居修行」の一節である。隠居の生活は いずこも同じであることよなあ。この半兵衛、54歳。徳川家の直参旗本、家禄は蔵米300俵。役は大番士をつとめていた。妻女に死なれても後妻を娶らず、子はない。このままでは 家は断絶だが それもよしとしていた。が ある事件で知り合った相馬新太郎を養子にした。隠居した半兵衛が退屈しのぎに いろいろなもめごとに手を出し解決していくと言う話。それをジジが退屈しのぎに読んでいるという構図、いとおかし。作者の海老沢泰久は1950年生まれ、1994年「帰郷」で直木賞を受賞したが2009年死去。この小説は 2006~2007年に発表されている。なかなか面白いのだが もう続編は望めない。小説の中で「類族」ということばを知った。 「島原の乱後 すべての百姓町人にいずれかの寺の檀家になることを義務付け寺院から切支丹でないことを証明する寺請証文を発行させて取締まりを徹底した。 貞享4年(1687)切支丹はたとえ改宗しても許さぬ方針に転じ本人の生前はもちろん死んでも五世代後の子孫まで監視するという切支丹類族令を発した」知らなかった「切支丹類族」 あれこれ知りたがりの虫を刺激することばだなあ。同じ作者の「青い空」というのが これを取り上げた小説らしい。読んでみるか。
2014/09/07
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学生の頃 よく言われた。「お前 源氏鶏太なんか読んでるのか」世の中 そろそろ 「お前 朝日なんか読んでるのか」と なるかと期待しているのだが週刊新潮9月4日号『長年の読者が見限り始めて部数がドーン!』「 首都圏で5000世帯に朝日新聞を配達しているオーナーはこう嘆く。「慰安婦報道の検証記事を掲載した8月5日、6日以降、すでに解約の申し出が10件に上りました。それも朝日を10年以上取り続けていただいた世帯ばかり3カ月などの短期契約と違い、販売部数の“基礎票”ともいうべき方々です。いきなり長期購読者に見限られるのは1989年の“サンゴ捏造事件”以来のこと。現段階では10世帯とはいえ、長年の朝日ファンを失うわけですから、ゆくゆくは死活問題につながりかねないのです。」朝日新聞の販売店は全国に約3000を数えるという。単純に、他の販売店でも同程度の解約があったとすると、わずか半月の間に3万部も減らしたことになる。<中略>現在、朝日の販売部数は約726万部。 しかし700万部を割り込むのは時間の問題だと見られているという。」太助::: 親分 大変だ大変だ! 彦左隠居: これこれ 騒々しい 何がそんなに大変なんだ。太助::: 半月で 5000世帯のうち 10世帯が購読をやめた。彦左衛門: 10世帯ということは たった0.2パーセントじゃないか太助::: いえいえ 全国3000の販売店で同じようにやめると すぐに3万世帯になりやす。彦左衛門: お前の言いようでは 全国の販売店が皆5000世帯の客を 持つように聞こえるが、それだと全国1500万の客がいる ということになる。そのうち3万の増減は騒ぐほどのことか。週刊文春9月4日号『「一番恐れているのは不買運動です」朝日幹部の苦渋の告白』<前略>「“朝日=捏造”というブランドイメージがつきつつあることに、上層部は焦りを覚えています。ある取締役は苦渋の表情で、『他メデイアからの批判は分っていた。一番怖いのは不買運動だ』と言っていました。」しかし、その懸念は現実のものとなりつつある。 朝日広告局のサイトによれば、朝日の購読者は他紙と比べて〈ホワイトカラー層や高学歴層が多い〉。朝日関係者が「富裕なインテリ層が多く、朝日の金城湯地」と口をそろえるのが東京の杉並・世田谷エリアだ。同地域の販売店に尋ねると、「『記事に納得できない』『検証が甘い』という苦情が来ました。集金の際に『悪いけど、今月でやめる』という人もすでに約十軒です」 別の販売店関係者は、こう悲鳴をあげる。「今月に入っての、購読の打ち切りは五軒ほど。販売店にとっては痛い数字です。サンゴ事件の時でも購読をやめる人はいなかったのに」“金城湯地”でさえこのありさま。<後略>三河の爺:: 週刊新潮、週刊文春そろって 似たような記事。取材先は どちらも一緒かもしれない。いや ひょっとすると 2誌の取材者は同一人物なんてことは?販売店で10軒の購読者の増減など 転勤・引っ越し等を考えれば日常茶飯事。この記事は 朝日の購読者がドーンと減っていて欲しいと思いながら取材して書いた希望的記事というものではないか。大江戸かわら版::「弱小週刊誌の総攻撃にも 大朝日新聞 びくともせず 無関心な購読者に 社長・幹部一同 高笑い」
2014/09/01
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図書館で借りた「隠居学」(加藤英俊2006)を読んでいたら 19世紀博多聖福寺の仙がい(崖の山カンムリを取った字)和尚の ちょっとおもしろい文章を見つけた。調べてみたら 老人六歌仙という題で画像を見つけた。「隠居学」では皺がよる、黒子ができる、腰曲がる、頭ははげる、ひげ白くなる。手は揺れる、足はよろめく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目はうとくなる。見に添うは、頭巾、襟巻、杖、眼鏡、たんぽ、温石、しびん、孫の手。聞きたがる、死にとうながる、淋しがる、心は曲がる、欲深くなる。くどくなる、気短になる、愚痴になる、出しゃばりたがる、世話焼きたがる。となっていたのだが画像と照らし合わせると老人六歌仙しわがよる ほくろができる 腰曲がる 頭がはげる ひげ白くなる手は震う 脚はよろつく 歯はぬける 耳は聞こえず 目はうとくなる身に添うは 頭巾襟巻 杖 目がね たんぽ おんじゃく しゅびん 孫の手聴きたがる 死にともながる 淋しがる 出しゃばりたがる 世話焼きたがるくどくなる 気短になる 愚痴になる 心がひがむ 欲深くなる又しても 同じ話に子を誉める 達者自慢に 人は嫌がる 仙がいと読める。1番=しわ、ひげ2番=歯・耳・目3番=目がね4番=聴きたがる 死にともながる5番=くどくなる 気短、愚痴、ひがむ、欲深 すべて6番=同じ話 達者自慢ずいぶん該当している、人に嫌がられているかもしれない。くどくなるけど仙がい義梵(せんがいぎぼん)1750年 美濃国武儀郡高野村(武芸川町高野)字大野の貧農、井藤甚八の子として生まれる。11歳のとき美濃の清泰寺の空印和尚について得度し、40歳のとき博多の聖福寺の第23世の法灯を継ぐ。岐阜在住の時の逸話も多い。博多の仙がいと呼ばれ、権勢にこびず独自の境地で数多くの洒脱、飄逸な作品を描いた。俳画的な墨画に傑作を多く残した。法名は義梵。天保8年(1837)、88才で没。
2014/08/24
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ヤフオクで 焼き物を見ていたらヘンリ・ミトワの「しがらき花瓶」というのが出ていた。即決価格 35,000円では 手が出ないけど商品説明に魅かれるものがあった。「信楽焼のヘンリ・ミトワ作のしがらき花瓶です。 ひっつきがとてもおもしろい味わいになっています。 シンプルで温かみのある花瓶です。 共箱付。銘あり。ヘンリミトワ略歴1918年、アメリカ人の父と日本人の母の間に横浜で生まれる。40年、渡米。太平洋戦争の勃発により強制収容所へ送還された。戦後、ロサンゼルスでエレクトロニクス技師に。千崎如幻の禅堂に通い、法号を受ける。61年、日本へ。73年より、京都天龍寺の平田精耕の弟子となる。」昔 テレビかなにかで 見たような記憶がある。ウエブ検索してみたら 京都税理士協同組合 10~11頁に 「京都に生きる -茶禅一味の求道者- ヘンリ・ミトワ師 」 という記事があった。なかなか興味深い経歴である。著書に 「嵐山のふもとから」「辞世の辞」がある。よく行く図書館の蔵書を検索したら「嵐山の 」があった。「辞世の 」は アマゾンで検索したら 38円の古本がある。「辞世の 」を注文して 図書館に出かけ「嵐山の 」を借りてきた。しばらく 変な外人の遍歴をたどってみることになる。
2014/05/09
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関東甲信越は 今日梅雨明け宣言!わが中部地区も そろそろかな。孫が来るかもしれないと言うので 外出を控えているのだが部屋の温湿度計では 気温30度 湿度65%、熱中症が怖い。でも室内は 風が吹き抜けているので 温度ほど暑くは感じない。2日続けてスポーツジムに行ったから今日は 文の日。熱いコーヒーを飲みながら読んでいるのは 津本陽 著「大久保彦左衛門」。このところ 追っかけている彦左衛門、関連の本は数冊読んだ。文献が彦左衛門の著作「三河物語」に限られているためか 同じような場面が出てくるので 少々飽きてきた。そのうち 彦左衛門の事績を諳(そら)んじてしまうのではないだろうか。おや 孫が やってきたみたいだ。
2013/07/06
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本屋に行かなくなって久しい。老眼で 読むのがつらくなったが 本を買わなくなったわけではない。最近は もっぱらアマ**で買っている。文庫本1冊でも送料不要、早ければ注文の翌々日には自宅に届く。近所の本屋では取り扱っていない本でも 手に入る。新品がなければ古本からでも探せる。かくして 本屋から足が遠のくばかりだ。その本屋に 先日久しぶりに寄ってみた。大型スーパーの中にある店だった。買い物のついでに ちょっと入ったのだ。世相を反映して 反日の中国・韓国に関する本が並んでいる。今更 読みたくもない。ふと目に留まった赤い表紙の本。「夫の終い方 妻の終い方」作者 中村メイ子中村メイ子は 東京生まれだが お母さんが 愛知県新城の出身。うちのかみさんの家の近くに おばさんの家があり代表曲「田舎のバス」は 子供の頃 おばの家に行くとき乗ったバスを思いながらうたったととか。そんなことを 思い出しながら この本をレジに持って行った。たった1000円の本だが カバーをかけてくれた上 袋に入れてくれた。なんだか 新鮮な驚きを感じた。カバーには「文化の遊園地 夢屋書店」と印刷されていた。たまには 本屋に立ち寄り 宝探しをしてみるのもいいものだ。
2012/12/04
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おさんぽきのこ を買った。23日 アマゾンや楽天ブックで検索しても 登録されていなかったので信濃毎日新聞社の通販へ注文した。なかなか届かなかったのだが 先ほどようやく届いた。2012年6月26日 初版発行、だから アマゾンに登録されてなかったのだろう。 今日検索したら登録されていた。楽天ブックにも登録されていたが 只今売り切れ中となっていた。?? オオッ 爆発的に売れているのだろうか!さて中身は まだ 目次と数ページ見ただけだが なかなか面白そう。各ページに満載の写真と肩の凝らない読み物(説明文)そして「おヤジクッキング」。この本持って 山に入りたくなること請け合い。4月から月ごとのきのこが出ているから、今すぐ役に立つ。食べたこともないキノコのオンパレード、こんなものを 普段食べてる作者シモジさんやyanpaさんが妬ましくなる。酒の友 老耳ことクロカワも ちゃんと「苦味がサイコーですね」と出ていた。これが素人さん(キノコおたく)の本だとは あっぱれ!!
2012/06/24
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