青森から酒田まで 0
古文書 0
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鶴岡市の鶴ヶ岡城趾に藤沢周平記念館があった。藤沢作品はほとんど読んでいないから立ち寄らなかった。翌日、酒田から三瀬に向かった。宿場の案内図があった。藤沢周平著『三年目』当時の江戸時代三瀬宿場町絵図この日泊まった坂本屋旅館は絵図の左端、木戸の側にある。今は絵図の中程、御本陣のあった場所で営業していて創業300年の老舗。落ち着きのあるいい宿だった。この日の夕食はLINEで写真を見た孫一が殿様みたいと言ったほど素晴らしいものだった。地元の魚を使った料理の数々。右上は、この日良いノドグロが手に入ったとのことで塩焼き。こちらの膳にはコウバコガニ(セイコガニとも言う)翌朝出立の折、宿の主人とおかみさんがみさんが見送ってくれた。二人ともわたしが笠取峠への坂道に入るまで店の前にたっていた。帰宅して図書館で本を借りた。短編集『神隠し』小説『三年目』はすごく短い。「海が近いのに、三瀬は山中の宿場のように、そそり立つ山の傾斜に囲まれている。夜は山の方からやってきた。(中略) おはるは店の前に立って、薄暗くなった通りを眺めていた。今日が、男と約束した三年目だった。おはるの胸は朝から騒いでいたが、男は現われないまま、夜になった。」あとは興味があれば本をどうぞ。坂本屋ここ ←
2020/11/13
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朝早く宿を出た。 宿のすぐそばに良寛堂があった。 石塔に「良寛和尚生誕の地」と記されている。 傍らの説明板によると 新潟県史跡 良寛生誕地(橘屋跡) この史跡は良寛の生家橘屋の屋敷跡です。 良寛は宝歴八年(1758)出雲崎町名主山本以南の長男としてここに生まれました。 もとの屋敷は現在地の約2倍の広さでここは幕府のお触れを掲げた御高札場であったといいます。 正面の良寛堂は故佐藤吉太郎氏の計画、安田ゆき彦画伯の設計によって大正11年9月に建立されたもので佐渡島を背景に、日本海上に浮かぶ浮御堂の構想に成るものです。堂内には良寛持仏の石地蔵をはめこんだ石塔を安直し、良寛の いにしへにかはらぬものはありそみと むかひにみゆる佐渡のしまなり の歌を刻んでいます。 「良寛さん」といえば、日がな一日子供たちと手まりをついているお坊さんの姿が浮かんでくる。 そのほかにもいくつかの逸話は記憶にある。 が、いったいどんなお坊さんだったのか、どうしてそんなに慕われているのか そこのところがはっきりしない。 東北ウォークから帰宅して図書館に行ったら放出図書の中に良寛に関する本を見つけた。 おまけに予定があって行けないけれど文学講座のチラシもあった。 これもなにかの縁かと持ち帰った本と旅の見聞によれば 出雲崎の名主の家に生まれた栄蔵(良寛の幼名)は18歳の年突然隣町の光照禅寺に入って剃髪した。 寺は坂の上にあって階段下に「良寛禅師剃髪の寺」という石塔が建っている。 寺のどこにも説明もないが良寛剃髪のおよそ80年後の1852年、東北遊学途中の吉田松陰が門前の宿で佐渡島に渡る船を待つ間に光照寺を訪れている。 「一日試叩向昌(光照)禅寺」 (東北遊日記) 日記には寺の住職について書いているが良寛に関する記事はないようだ。 話題にならなかったのか、松陰には興味がなかったのだろうか。 それはさておき 光照寺で4年の修行をしたのち良寛は22歳のとき備中(岡山県)玉島の円通寺「国仙和尚」に師事、33歳で悟りを得たという。 玉島円通寺にある詩碑には次のような詩が刻まれているという 円通寺に来りしより幾度か冬春を経たる 衣垢づけば聊(いささ)か自ら濯(すす)ぎ 食尽くれば城えん(巷)に出ず 門前千家の邑 更に一人を知らず 嘗て高僧伝を読む 僧伽は清貧を可とす 清貧孤独な修行を終えた良寛は 38歳で越後に帰るまで中国、四国や九州を漂泊していたらしい。 故郷の出雲崎に帰った良寛は生家の前にしばし佇んだだけで飄然姿をかき消したという。 いにしへにかはらぬものはありそみと むかひにみゆる佐渡のしまなり 「そしてそれ以来、出雲崎を中心として、中山の草庵や、国上の五合庵や、寺泊の密蔵院や、野積の四方院や、国上の本覚院や――といった具合に転々として一所不在の乞食生活をつづけておりましたが、文化元年四十七歳の頃、再び国上の五合庵に入り、ここにはじめて安住の場所を見出す一方、その心境はいよいよ円熟して、悠々自適の至妙境を打ち開いてまいったのでありました。」(良寛和尚の人と歌P33) ここまできても良寛さんの偉さがわからないのだが 長くなる その(2)に続く
2020/11/07
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12日の旅を終え、昨夕無事帰宅した。 最後の日は、直江津駅前のホテルから黒井駅に戻り雨模様の中を歩き始めた。 カッパを着けているからいつ本格的に降ってもいいのだが高田城趾に着くまでパラパラ降ったりやんだりだった。 街道は寂れた旧道を想定していたのだが以外にも上越市のメインロードだった。 高田の手前でやっと旧街道の宿場らしい町並みに出会った。 3時間ほどで城跡についたら雨が少し強くなった。 松平忠輝が城主の時代は60万石のお城だったのだから城趾はかなりの広さがある。 最後は徳川四天王の榊原康政の末裔で15万石。 お城を堪能して高田の宿に到着。 帰りの新幹線と中央線特急の指定時間を3時間早めてもらい上越妙高から長野、塩尻を経て5時間ほどで帰宅した。 今日は孫二姫がやってきてしばらく遊んでいった。 縁台のマットに庭の花をアレンジして写真を撮ってくれた。
2020/11/03
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一昨日は村上市から新発田市を目指して歩いていた。 胎内市というところに立派な仁王門のお寺があった。 天平8(736)年開山の「乙宝寺」(おっぽうじ)。 大日堂 国重要文化財「三重の等」 桧皮葺きが美しい弁天堂 こちらは 厠でした。 乙宝寺門前に「乙郵便局」というのがあった。 こちらは「きのと」郵便局と呼ぶのだそうだ。 近くに流れる小川が 一級河川「乙(きのと)大日川」 そこからしばらく行くと 二級河川「胎内川」があった こちらの川は日本海に流れているのだ。 河川の級分けもわかりづらい。 今日は新潟の萬代橋近くのビジネスホテルで1日休養。 千二百七十歩なり露の橋 虚子 ホテルでもらったGoToクーポンで辛味噌ラーメンと餃子を食べた。
2020/10/28
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東北ウォーク酒田から高田。 3日目の今日も朝方の天気は大荒れだった。 強風下雨が降ったりやんだりを繰り返す。 雨は小雨からいきなり強く降る。 道路が波打ち際だから打ち寄せた波が道路にふりかかる。 しぶきが顔を濡らす、しょつぱい! 雨は昼にはなんとか止んでくれたが波浪は1日中止むことはなかった。 奇岩奇石の絶景も、あまり続くと感動も薄れる。 5時前に村上に着いた。
2020/10/25
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三瀬を出てしばらくは降らなかったが10時過ぎから降り始めた。 バス待合所で雨宿り 雨雲レーダー 沖に竜巻を発見 鼠ヶ関を越えて新潟県に入った。 勝木の旅館に泊まる
2020/10/24
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酒田のホテルを出たときからずっと雨が降り続いた。 7時半に出てすぐ最上川を渡った。 一句 最上川渡る朝(あした)にしぐれかな 11時に昼食16km歩いていた、順調! ところが食事を終わって歩き出したら雨が強くなった。 おまけに風も吹く。 5km先の大山宿で気持ちが萎えた。 でもまだ時間が早い。 気を取り直して歩いた。 羽前水沢駅 2時。 大山から6km、酒田から27km。 寒い、風邪引きそう。 電車に乗って三瀬駅へ 三瀬の旅館に三時に着いた。 すぐ風呂に入った。 食事は6時からだった。 酒2合。 明日は笠取峠(70m)越え。 明日も1日雨予報。 寝よ!
2020/10/23
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旅をする芭蕉は「 只一日のねがひ二つのみ。こよひの宿からん、草鞋のわが足によろしきを求めん」(笈の小文)と言っているそうだ。私の旧街道ウォークはネットですべて予約しているから宿の心配はない。履き物についてはその大事さを今回思い知った。今年始めに買ったサンダルを雨の降った日に履こうとリュックに入れて出かけたのだが、歩き始めて4日目にかなりの雨が降り、さっそく出番が訪れた。履いて歩くと前日までにできた足裏のマメが気にならない。5日目からは天気が回復したのだが、そのままサンダルを履き通した。なれてみれば足が締めつけられないというのは実に快適なのだ。足裏のマメも救急絆創膏を貼っておいたら7日目にはほぼ消えてしまった。以後ゴールまでずっとサンダルで過ごした。もうウオーキングシューズには戻れない。200数十キロ履いて靴底(サンダル底)がかなりすり減ったので、次のウォークに備えて新調した。左が新品。雨の日は裸足にサンダルだったが濡れたまま歩くのはやはり調子が悪い。ネットで防水ソックスを見つけてかいもとめた。かなりの値段だった。これを履いてサンダルをはくと雨も気にならないはず。出発前に試した方がいいかな。次のウォークの準備は着々と進行中、行きと帰りのJR切符 よし!11泊の宿の予約 よし!Tシャツは半袖でいいかな?
2020/10/16
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春に計画していた東北ウォークをコロナのため秋に延期した。おかげでGoToトラベルの大盤振る舞いに出会えた。ところが日本政府には珍しいスピード感で見切り発車したものだから、現場がおっつかない。青森の油川から山形の酒田まで12泊した。すべてGoTo扱いで予約したのだが2泊については割引の恩恵にあずかれなかった。2泊中1泊は某旅行サイトを通して「じゃらん」からの予約だった。温泉宿でチェックアウトのとき宿泊証明書をくれて、これを旅行社に送り還付を受けるよう言われたが旅行社なのかGoTo事務局なのかわずか3000円のためにやるには面倒で放置している。もう1件は、いつも使う楽天では予約出来なくて困っていたが、たまたま近ツーのサイトで予約できた。GoToクーポン使用という条件で予約したのだが、チェックインのときGoTo扱いになっていないと言われた。その代わりでもないのだが宿のある自治体が始めたばかりの特産品2500円分プレゼントがもらえた。宅配してくれるとのことだが10日たっても届いていない。そんなこんなだが、12泊中「東横イン」5泊、「楽天トラベル」5泊の10泊がGoTo扱いになって合計2万円くらい得した。ところか次に行く、山形の酒田から新潟県の高田までのウォークで宿の予約をしようとしたら楽天トラベルでは1件しかGoTo扱いでの予約ができないのだ。東横インはいくらでもGoTo扱いができるのだがコース上では2泊しか用がない。あれこれやっていたらヤフートラベルで件数制限なし、割引上限3500円で予約できるのがわかった。5件をヤフートラベルで予約完了。4件は旅行サイトが扱わない地元の旅館をGoTo関係なしで直接電話予約した。ニュースでは、楽天などの人気サイトが取り扱い制限しているのを不公平だとか、GoToキャンペーンがずさんだとか騒いでいるか利用者が予想を超えていることによる混乱だから当初の目的はクリアしているのではないだろうか。景気づけの施策はスピード第一!足りないところはその都度直して行けばいいだけの話。これでいいのだ。お役所仕事にしては上々、「座布団1枚」
2020/10/13
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日曜日遅くに酒田から帰った。今日まで5日間休養したのに疲れが取れない。去年の同じ頃300kmを歩いて帰宅後、4日間の休息でまた300kmのウォークに出かけたのだが、なんだかなあ。かみさんに言わせたら、それが「年取った」ということだそうだ。認めたくはないが、そうかもしれない。どうしようかと思ったが、酒田~越後高田 300kmのウォーク計画を詰めている。1日目 岡崎5:45―東京―新潟―鶴岡 12:45 鶴岡市内見学後 鶴岡-酒田2日目 34km 酒田-浜中-大山(コンビニ)-羽黒水沢-三瀬 3日目 33km三瀬-笠取峠(70m)-温海-鼠ヶ関-(7号)勝木4日目 35km 勝木-板貝峠(150m)-越後早川-村上5日目 26km 村上-紫雲寺公園 6日目 29km 紫雲寺公園-新潟東港-阿賀野川-信濃川-新潟7日目 新潟 休養日8日目 31km新潟-岩室 9日目 29km岩室-弥彦-猿ケ馬場(標高180m)-寺泊-出雲崎10日目 25km出雲崎-石地-椎谷(陣屋跡)-宮川-刈羽原発(2km大回り)-柏崎11日目 30km柏崎-鯨波-鉢崎-( 御金蔵)-青海駅-柿崎-潟町-犀潟12日目 18km犀潟-黒井(コンビニ)-春日新田-高田 高田-妙高-長野-名古屋先日のウォークで30km超の距離がかなりつらかったから今回はなんとかしたかったのだが、宿の関係で そうもいかないみたいだ。2日目からの3日連続で30キロ超え、2・3年前だったら楽勝だったのに、今はなんとなく自信がないような。あと2日くらい考えよう!キノコの煮物とキムチを肴に焼酎のお湯割り
2020/10/09
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9時、昨日のゴール前川駅から歩き始める。 しばらくして道の駅「二ツ井」 展示場をのぞく サンダルの調子はいい、最初からこれにすれば良かった。 白神山地 やがてまた古道入り口 2キロくらいあったたろうか、 なかなかよく整備されていてありがたい。 出口 すぐ近くに鶴形駅、えらく早く着いたので14時56分に間に合った。 ところが東能代で乗り換えるのを失念、次の駅まで行って引き返したら1時間のロスになった。 間に合えば中に入れた能代の高級料亭「金勇」記念館の営業時間を過ぎてしまった。 中に入って見たかったなあ。
2020/09/27
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まさかと思った安倍さんの辞任を受けた自民党の総裁選まで1週間ちょっと。下馬評では菅官房長官が断然有利だとか神奈川県選出だと言うことは聞いていたが、フルネームが菅義偉(すがよしひで)ということさえ今まで知らなかった。ましてや秋田県出身だったとは!「自民総裁候補に菅義偉氏 秋田・湯沢出身、「おらほの首相」古里期待」ここ ←河北新報秋田県生まれだと聞いて自民党員ではないが応援したくなった。なぜか!この秋、東北(青森~秋田~山形~新潟)を歩く予定で、いろいろと調べている。先年 白河~福島~宮城~岩手~青森を歩いた時も戊辰戦争の史跡が、あちこちにあった。今度の旅先もまた「奥羽越列藩同盟」の地域である。戊辰戦争で明治新政府軍と戦った東北31藩は賊軍とされ多くの藩が過酷な処分を受けた。「白河以北は一山百文」という言葉もあったようだ。明治維新後も東北出身者は中央において差別扱いをされたようだ。明治以来、東北出身の総理大臣が少ないのは、そうした流れであろうか。調べて見たら青森、岩手、宮城、福島、秋田、山形の6県で岩手からしか総理大臣が出ていないのだ。岩手県からは大正7年に原敬、昭和に入って斎藤実、米内光政そして鈴木善幸。山形県出身で次期総裁候補といわれた加藤紘一は「加藤の乱」で自滅した。奥羽越列藩同盟の新潟県からは田中角栄が総理大臣になっている。菅さんが総理大臣になれば維新以来続く東北人の怨念か少しは晴れるのではないか。会津若松の酒蔵で山口県産米で酒を醸して会津と長州の融和を図った安倍夫人アッキーの思いと同じく、山口県出身の爺は東北人の怨念が少しでも晴れることを祈っている。でもあの大吟醸「やまとのこころ」720ml入りは高すぎて手がでなかった。ここ ←
2020/09/05
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火曜日の日記にJRジパング倶楽部入会申込書を送付したことを書いた。 ここ ←火曜日の日記 JRになっても国鉄時代のお役人体質は変わらないと、くさしたのだが 2週間かかると思っていた「会員手帳」が今日届いた。 わずか3日! 驚いた。 ただ 割引切符利用時は常時携行の必要があるというのに大きくて邪魔になりそう。 でも、仕事はスピードが第一だから JR東海 上出来! 誉めるときは誉めるのじゃよ。
2020/08/20
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9月の東北ウォークに向けて「JR東海ジパング倶楽部」に入会しておこうと思い付いた。 早速ネットで調べたが スマホ万能の時代だというのに、入会申込用紙はJRの駅でしか手に入らない。 国鉄時代のままの お役所意識なんだなと、立腹するのは老いの証拠か。 これっぱかりの用事のために駅まで出かけた。 申請用紙には年会費の振込用紙が添付されていた。 送付用封筒を作り申込書に必要事項を記入し、会員証用写真を貼り、年齢確認のために免許証写しを添えた。(男65歳以上、女60歳以上) 郵便局に行き年会費3840円を振り込んで、受付証をもらい申込書に貼った。 その場で郵送手続き。 完了! 2週間ほどで会員証が届くはず。 面倒ではあったが、これで今後片道あるいは往復200km以上の乗車券と 「のぞみ」「みずほ」以外の特急券が2割引になる。(4回目の乗車からは3割引) 今度の「油川・弘前~酒田」ウォークでは 岡崎~新青森 23800円 酒田~岡崎 20120円 の2割だから8500円くらい安くなる計算。 さらに悪評高い「GoToトラベル」により、予定している宿泊先の多くが35%割引対象施設になりそうだから素泊まりのビジネスホテルだとはいえ、かなりの額になりそうだ。 むふふふ 今日は孫二姫だけを預かっている。
2020/08/18
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4月に予定していた旧街道歩きはコロナ騒ぎで延び延びになっている。。このところ、春先に作った計画表を取り出して練り直しを行ったり、芭蕉の「奥の細道」や吉田松陰の「東北遊日記」を調べて日を送っていたら、いつの間にやら盆が来た。このまま首をすくめていたら『77歳、旧街道日本一周』達成が危ぶまれる。今年中には「油川・弘前~秋田~酒田」と「酒田~出雲崎~越後高田」とだけは歩いておきたい。萎えかけた気持ちを奮い起たせるために出発の日を決め旅行日程を確定し宿の予約だけでもやっておこう。手付けとして 3日目の温泉ホテルだけ予約しておいた。「ここにおいて遅疑せば、人必ず曰わん、長州人は優柔不断なりと。」(吉田松陰「東北遊日記」)※※※※※※※※※※※※油川~酒田 13日間1日目岡崎5:45-豊橋-東京8:40-11:51新青森 TAXI→油川 21km油川-(280号交差点左折234号へ)―新城(駅から247号-7号―285-101-大釈迦で285号)-浪岡 浪岡1709/1756/1851―弘前 駅前 ビジネスホテル2日目 18km弘前726/804-浪岡 浪岡-(285―7号―川左折260)-藤崎-弘前 弘前城・追手門松陰堂 駅前 ビジネスホテル3日目 28km 弘前-(260-藤田学園幼稚園右折127-236)-石川―(7号)-大鰐→(福島橋から7号)-碇ケ関-湯の沢 温泉ホテル4日目 25km 湯の沢-矢立峠(300m)-(矢立温泉から7号白沢手前まで)-白沢(松陰記念碑、相馬事件碑)-(白沢から左折7号 釈迦内手前まで)-釈迦内-東大舘(幸村墓 大館城 ハチ公) 駅前 ビジネスホテル 5日目 23km 東大館-川口-綴子-坊沢-前山 前山1502/1646 ―東大館 駅前 ビジネスホテル6日目 24km東大館735/838-前山 前山-今泉-小繁-荷上場→飛根→(県道を鶴形まで)→鶴形 鶴形1618/1716―能代 駅前 ビジネスホテル7日目 34km 能代703→鶴形 鶴形→檜山→豊岡→森岡(コンビニ)鹿渡(道の駅)一日市→大川(八郎潟駅)八郎潟→秋田 秋田駅前 ビジネスホテルまたは 八郎潟 駅前旅館8日目 31km 秋田728/820―八郎潟八郎潟(大川)→下虻川→大久保→土崎湊→久保田(秋田) 秋田市内 ビジネスホテル9日目 休養日 秋田市内 ビジネスホテル10日目 28km旭川刈穂橋(秋田)→(7号)→亀田 羽後亀田1551/1715―羽後本荘 駅前 ビジネスホテル11日目 26km本荘742/901-亀田 亀田―(347号、7号)―本荘―(7号―道の駅―海岸-7号―海岸)→仁賀保駅 仁賀保1520/1625-本荘 駅前 ビジネスホテル 12日目 32km本荘741/956-仁賀保 仁賀保→金浦→象潟→(7号―三崎山旧道)→三崎峠(73m)→(7号横断345号→酒田屋旅館左)→吹浦 温泉ホテル13日目 19km 吹浦―(345号―7号)―酒田湊―(112号)→酒田 酒田14:30―新潟16:56―東京19:27―豊橋-22:11岡崎
2020/08/13
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芭蕉が門人の曽良を従えて「奥の細道」の旅に出たのは元禄2年(1689)3月27日の事だった。このとき芭蕉46歳、曽良41歳。ここ ←参照 奥の細道全文奥の細道の行程は芭蕉の同行者のは「曽良旅日記」で知ることができる。「旅日記」には毎日の行程、距離、天気、宿所が詳しく書かれている。ここ ←参照 曽良旅日記地図::芭蕉翁顕彰会 http://www.basho-bp.jp/?page_id=186月13日 酒田へ6月15日 吹浦泊6月16日 象潟着、2泊6月18日 象潟から酒田へ戻る、7泊6月25日 北陸道 大山へ6月26日 温海へ6月27日 中村へ6月28日 村上へ、2泊7月 1日 築地村へ7月 2日 新潟へ7月 3日 弥彦へ7月 4日 出雲崎へ7月 5日 鉢崎へ7月 6日 今町へ、2泊7月 8日 高田へ、3泊私の旧街道ウォーク「油川・弘前~越後高田」計画で「奥の細道」が重なる部分を書き出してみた。1日目 (仁賀保駅-金浦-) -象潟-三崎峠-吹浦 2日目 吹浦-酒田湊-酒田 酒田から一度 帰宅して後日再開3日目 酒田―浜中-大山-三瀬4日目 三瀬-温海-鼠ヶ関-勝木 5日目 勝木-板貝峠-村上6日目 村上-紫雲寺公園 7日目 紫雲寺公園-新潟東港-阿賀野川-信濃川-新潟 8日目 新潟―岩室 9日目 岩室-弥彦-猿ケ馬場(標高180m)-寺泊-出雲崎 10日目 出雲崎-石地-椎谷-宮川-柏崎 11日目 柏崎-鯨波-鉢崎-柿崎-潟町-犀潟12日目 犀潟-黒井-春日新田-高田 歩き日数は芭蕉14日 私 12日 距離は 芭蕉 311km+35km(酒田-象潟) 私 311km+14km(仁賀保-象潟)歩きそのもので言えば 私は 俳聖「松尾芭蕉」に並ぶと言っても良いかもしれない。それはさておき「奥の細道」と「曽良旅日記」を重ねて読めば鶴岡から舟で川を下り酒田に入ったのは6月13日(陽暦7月29日)暑さの盛りであった。 川舟(かわぶね)に乗りて酒田の湊に下る。淵庵不玉(えんあんふぎょく)といふ医師のもとを宿とす。 あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕涼み暑き日を海に入れたり最上川6月15日、芭蕉たちは酒田から象潟(きさかた)に向かうが大雨が降り吹浦で1泊。6月17日、象潟に着いた。嘉永5年(1852)の吉田松陰「東北遊日記」には「象潟あり。いにしへは寺ありしも。四十九年前、地震寺を毀ち、今は則ち平田漫々たり」と記している。象潟は、文化元年(1804)の大地震で海底が2m以上隆起し、今は当時の島々が田圃の海に浮かんでいるありさまだが芭蕉の当時は松島と並ぶ景勝地であった。江の縦横、一里ばかり、おもかげ松島にかよひて、また異なり。松島は、わらふがごとく、象潟はうらむがごとし。さびしさに、かなしびをくわえて、地勢、魂をなやますに似たり。象潟や雨に西施が合歓の花汐越や鶴はぎぬれて海涼し6月18日、象潟から約10里の路を酒田に戻る。6月25日、酒田を出立鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改て、越中の国市振の関にいたる。この間九日、暑湿の労に神(しん)をなやまし、病おこりてことをしるさず。文月(文月)や六日も常の世にあらず(越後路)荒海や佐渡に横たふ天の川(越後路)文月6日といえば七夕の前日である、このあと市振に筆が飛ぶ。高田を出て市振に着いたのは その日の7月12日市振の宿では伊勢参りに行く新潟の遊女と同宿した。一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月曽良にかたれば、書(かき)とどめはべる。曽良に書き留めさせるとは、まだ病は癒えていなかったのだろう。酒田からは知人も少なく旅の宿を探し探しの日もあったようだ。1年前の旅行記『笈の小文』には只一日のねがひ二つのみ。こよひの宿からん、草鞋のわが足によろしきを求めむと書いている。今宵の宿を借りたい草鞋が足になじんで歩きやすいものであってほしい野宿もありの心細い旅だったのだ。私の旅は、すべての宿の予約を済ませた上での出発である。心細くはないが、心急く旅である。越前山中で曽良と別れた芭蕉は元禄2年8月21日に大垣に到着した。およそ150日、5か月間にわたる旅であった道のりは2,400キロにもおよんだ。しばらくは大垣に滞留したが、また伊勢に向かって旅立つ芭蕉であった。旅のもの憂さも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと又ふねに乗りて蛤のふたみに別れ行ゆく秋ぞ5年後の元禄7年、芭蕉 大坂の地で亡くなる。旅に病んで夢は枯野をかけめぐる旅の途中病気になったが、治ったらまた旅に出ようと解釈したい。私の旧街道「油川・弘前~越後高田」ウォークもコロナ騒ぎで延び延びになっている。今回のコロナ第2波が少し下火になったら思い切って出かけよう。
2020/08/11
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今秋に予定している「旧街道 油川・弘前~越後高田ウォーク」の参考に図書館で「日本思想体系54 吉田松陰」を借りた。吉田松陰は嘉永4年12月14日から嘉永5年(1852)5月4日まで肥後熊本の宮部鼎蔵・安芸五蔵共に東北各地を遊歴している。この「東北遊日記」の中から松陰の歩いたルートと里程だけを抜き出してみた。吉田松陰 「東北遊日記」 嘉永4年12月14日~5年4月5日東北遊学の願いは裁許されたが過書(通行手形)がなかなか届かない待っていては宮部・安芸との約束の日にまにあわない 官若し允(ゆる)さずんば、吾れ必ず亡命せん。 ここにおいて遅疑せば、人必ず曰わん、長州人は優柔不断なりと。嘉永4年12月14日 江戸桜田藩邸を脱す 19日 水戸に至る 滞在30日嘉永5年1月20日 宮部鼎蔵 那珂弥八(安芸五蔵)と水戸を出立 23日 勿来の関 25日 白河 28日 白河出立 勢至堂へ 途中 断然弥八と別れる 29日 勢至峠を経て会津若松2月6日 会津若松出立 9日 新発田を経て木浦 10日 水程4里 舟もて木崎を発し新潟へ11日 新潟 松前行の船を探すが彼岸まで欠航、佐渡行を決す ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※14日翳 7里 新潟―赤塚-稲島-岩室15日翳 8里 岩室-弥彦大明神-猿坂-寺泊-出雲崎 佐渡へ渡船天気待ち(延留13日なり) 27日晴 出雲崎8:00頃出港 小木湊14:00頃28日晴 順徳天皇陵29日晴 佐渡金山閏2月 朔日風 春日崎砲台 2日雨 精錬所 3日風 小木湊にて 渡船天気待ち8日10日晴 4里 小木湊~出雲崎-寺泊11日晴 12里 寺泊-岩室-新潟 松前行の船を待つも 舟人、士人を載するを喜ばず、意を決して陸行とす18日雨 4里8町 新潟―松崎-藤塚 19日雹 11里 藤塚-桃崎-岩舟-村上20日雪 7里半村上-大隅-葡萄山-大澤-碁石-大川21日雨 11里 村上(海沿い)鼠ケ関-温熱海-三瀬-大山22日翳 12里 大山-最上川-浜中-酒田―吹浦23日晴 13里半 吹浦-武也武也関--象潟-木浦平沢-本庄24日晴 11里本庄-道川-長村-御裳川-久保田 新潟よりここに至るまで大抵海浜平沙 漫々浩々として行歩頗る困しむ26日晴騎行7里歩行4里 久保田-土崎湊-大久保-一日市-鹿渡 27日晴 騎行8里 歩行4里 鹿渡-森田-豊岡-檜山-鶴形―飛根-荷上場-籠山-小綱木 蒙茸(もうじょう)を披(ひら)き荊棘を抜(よ)じて山を登ること2町許(ばか)り28日晴 11里 小綱木-坊沢-大館-釈迦内-白沢 大館は相馬大助滞在 白沢 山内儀兵衛を訪ねた29日晴 9里 白沢-長走-矢立峠-碇ヶ関―於阿仁-石川-弘前 矢立峠で 相馬大作による津軽藩主襲撃未遂事件を詠んだ両山屹立如屏風 一渓屈曲流其中 山窮水極欲無路 矢立之嶺当其衝杉檜掩天昼亦暗 天以絶険彊二邦聞説文政辛巳歳 津軽就藩過此際南部逋臣米将真 糾徒欲要過與衛幾日徘徊驚人視 敗露忽空数年計地利人和両得之 自謂籌画万無遺休言奇変出意外 一恃毎与百禍随君不聞鞱鈐上乗存一句初如処女後脱兎3月2日翳 1里 弘前午後4時発-藤崎3日晴 11里藤崎―鶴田-五所川原-中里 五所川原から中里は土地の人に誤った道を教えられる4日晴 7里中里-今泉-磯町―脇本-小泊5日晴 8里 小泊-砲台-算用師峠-三厩-今別-大泊-上月 小泊から三厩へ沢伝いに道なき道を進んだ去年今日発巴城 楊柳風暖馬蹄軽今年北地更踏雪 寒沢卅里路難行行尽山河万夷険 欲臨滄溟叱長鯨時平男児空慷慨 誰追飛将青史名竜飛岬にある記念碑(2018.5月撮影)6日風 4里半 上月-平舘砲台-二矢村~舟行8里~青森 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※7日 野辺地 8日 五戸 9日 一戸 10日 川口村 11日 盛岡12日 郡山 那珂弥八(五蔵)の兄の家を訪ねた後出立 13日 花巻14日 一関 15日 石森 16日 石巻 17日 塩釜 18日仙台21日 中田 22日 弥八と再会して白石 23日 戸沢 24日 弥八と別れて 滑津 25日 米沢 27日 大潮 28日 若松29日 田島 晦日 高原 4月朔日 鉢石 2日 壬生村3日 足利 4日 関宿 5日 江戸橋 到着 宮部は肥後藩邸へ帰る***************10日 桜田藩邸に入り待罪書提出18日 江戸を立ち帰国 余 逋亡の罪を以て壬子十二月八日、籍を削られ禄を奪わる。志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒 『産経新聞』 https://ironna.jp/article/949より無断拝借
2020/08/08
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コロナ騒ぎに巻き込まれなければ 4月と5月には越後高田から酒田、秋田、弘前を経て奥州街道との分岐点まで歩く予定だった。宿の予約を始めるべき3月になってもコロナは収まりそうもなく 出発を5月末以降に延期と決めた。ここ ←3月の日記その後も ずるずると延期してきて 9月中の出発さえも危ぶまれる始末である。この間 計画は練り直されて詳細になってきた。練り直すうちに 越後高田から油川のコースが逆になった。 出発を奥州街道油川、終点を越後高田に変更した。9月 奥州街道油川から酒田10月 酒田から越後高田コロナが下火になったら出かけるつもり
2020/08/06
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