青森から酒田まで 0
古文書 0
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金曜日のウォーク最後の場所は岡崎市土井町にある本多豊後守家のルーツと土井氏一族のルーツ。右側にあるのは土井城主本多豊後守秀清の墓清重・信重·広孝と続く家系が本多豊後守家。本多一族についてはまたの機会にしよう。左手奥に六基の小さな墓石がある。これが早乙女一族の墓、下総国古河16万石城主 土井利勝のルーツである。説明の看板2日前までは写真から説明文を書き写していた。昨日、早乙女一族の墓の説明文を書き写していて気が付いた。LINEの文章翻訳アプリがあった!さっそくアプリを使ってみた検出した日本語をコピーした。地名の読みはなかなか難しいみたいだ。あ( )内のかな書きは私が補足した。※※※※※※※※※※※※早乙女一族の墓この墓は、土井利勝の先祖である早乙女一族の墓であるといわれています。土井利勝は、元亀四年(一五七三)、遠江国(とおとうみのくに)浜松に生れ、幼少時代を土井で過ごします。数え年三歳の時、初めて主君家康の対面を許され、家康より「土井松次郎」を名乗るよう直々に命じられます。その後、秀忠が生まれると七歳にして子守役となります。家康・秀忠・家光の三代に仕え、下総国(しもふさのくに)古河(こが)十六万石城主となり、幕府の大老職に登りつめます。江戸幕府の基礎を築き、幕藩体制の確立に貢献しました。寬永二十一年(一六四四)、七一歳で亡くなりました。※※※※※※※※※※※韓国語の翻訳も載せてみるどこまで正確か私にはわからない。사오토메 일족의 무덤은 도이 토시카츠의 조상인 사오토메 일족의 무덤이라고 알려져 있습니다. 도이 토시카츠(土井利勝)는 모토카메 4년(15칠삼), 토오에쿠니 하마마츠(とおとうみのくに 浜松)에서 태어나 어린 시절을 도이에서 보냅니다.나이 세 살 때 처음으로 주군 이에야스의 대면이 허용되어 이에야스로부터 '도이 마츠지로'를 자칭하라는 명령을 받았습니다.그 후 히데타다(秀忠)가 태어나면 일곱 살에 자장가가 됩니다. 이에야스, 히데타다, 이에미쓰의 3대를 섬기고 시모소국(しもふさのくに) 후루카(こが)와 16만 석 성주가 되어 막부의 대노직에 올라갑니다.에도 막부의 기초를 마련하고 막부번 체제를 확립하는 데 기여했습니다.간에이 21년(1644), 71세의 나이로 사망했습니다.ついでに英語これも私には検証が難しいGrave of the Saotome family This tomb is said to be the tomb of the Saotome family, the ancestor of Toshikatsu Doi. Toshikatsu Doi was born in Hamamatsu, Toyoe Province, in the fourth year of the former Tortoise (1573) and spent his childhood in Doi.When he was three years old, he was allowed to meet his lord Ieyasu for the first time, and Ieyasu directly ordered him to call himself "Matsujiro Doi."After that, when Hidetada was born, he became a babysitter at the age of seven. He served three generations: Ieyasu, Hidetada, and Iemitsu, and became the lord of 160,000 stone castle in Shimo(しもふさ)kuni Furukawa(こが), and rose to the top of the shogunate's old post.He laid the foundation for the Edo Shogunate and contributed to the establishment of the shogunate system.He died at the age of 71 in 1944.楷書の読み取りはおおむね正しく出来ているようだ。一昨日、写真から かなり時間をかけて書き起こした「大久保一族発跡地」の石碑背面に刻まれた文で試してみた。 大人保民出於宇都宮奉藤泰藤従新岡義貞動王南朝義貞鹿後潜至舊領地上和田邑築城居之既而削髪号蓮常建動國寺以終焉掃政氏宇都其子春昌始仕徳川信光遂潟譜代臣細昌忠忠喫至忠長親及清康展有戦功清康欲賞之問其所欲日願賜続下市征清之忠茂會父老日君賜我市征自令悲闘之無所復徴旅具市民大幌青楽闘岡﨑殿冨創千此去忠茂有五男日忠俊忠次忠員速終惣平俊嗣家改氏大久保千孫漸繁相共翼賛徳川民之創業身線願三世忠流忠勝忠政忠都変忠教其顕著者也或封諸房或属教ル十九火保如此消二多士際跡指此地可調卿堂之名響也集仁典連碑専之後世云四年読み取り不能や間違いもあるが、ここまで書き起こしができていればかなりの時間節約になる。強い味方を得た気分だ。
2023/02/19
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8月は戦時中の記憶を呼び覚ます月。14日の中日新聞朝刊に「少年飛行兵『お国のため』」という記事を見つけた。1926(大正15)年生まれ1943(昭和18)年4月陸軍少年飛行兵学校(注記 14期)入学福岡県太刀洗兵学校、朝鮮郡山を経て満州拉林1944(昭和19)年12月満州四平航空隊配属その後、知覧と満州で2度にわたる特攻命令を受けながらシベリア抑留を経て生き残った関口さん。この記事を読んでいて中山道を歩いた時、岐阜県御嵩町で少年飛行兵の石碑に出会ったことを思い出した。「荒鷲の碑」陸軍少年飛行兵学校15期(昭和18年10月入校)大津、宇都宮、任生、古河の飛行学校を経て中国北支第28戦闘部隊入隊その後唐山103隼戦闘隊に移動し特攻に志願、群馬県新田原飛行場に着任終戦により九死に一生を得た。戦後は名鉄バス運転手、定年後御嵩町上之郷小学校スクールバス運転手を勤めた。たまたま、石碑を建立した本人 佐賀源一さんにお会いできた。どちらの少年飛行兵も終戦時19歳か20歳。もう一人、これは雑誌「婦人生活」の記事で画家で絵本作家の安野光雅さん。昭和20年4月、19歳で応召、山口県柳井の部隊に配属され「陸軍船舶兵」となった。軍隊での古参兵からのいじめを書いている。安野光雅さん
2022/08/14
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12月14日は吉良上野介義央(よしひさ)公の命日で領地であった愛知県西尾市吉良町にある華蔵寺で「毎歳忌」法要が行われた。3年前には本所吉良邸跡から高輪泉岳寺の赤穂浪士の墓まで歩いた。18年12月14日高輪泉岳寺あのときはずいぶん歩いたが今日は吉良上野介が築かせた「黄金堤」から菩提寺「華蔵寺」まで往復5000歩ほど。予定通り9時30分少し前到着。すでに駐車場は満車、われながら良い判断だった。山門を潜って本堂へ9時から始まっていた法要が終わり墓前に香を供えるこちらは一般参列者も加われた。墓参後、御影堂に向かう。普段は閉じられているのだが、今日は開放。吉良公五十歳の姿の木像を拝観出来た!木像の脇にある張り紙LINEの読み取りアプリで書き起こした。『 ○吉良さんは、この木像の出来栄えに大変満足したそうです。顔の部分は自ら彩色したと伝えられています。上品で優しい、穏やかで知的な好々爺、これが本当の吉良さんの顔です。作者は分りませんが写実的で、県の文化財に指定されています。芝居などに見る吉良さんの悪人面など、意図的に憎々しく作り上げられたものです。○この木像を東京の歌舞伎座に出陳して、全国の歌舞陵ファンにも本物を見てもらいたい思いです。三百回忌に当って 吉良公史跡保存会 』吉良家は義央の家督を継いでいた養子義周(義央が殺されたとき負傷、後、幽閉先の信州で死去)のときお家断絶しているのだが、吉良の住民はその後もずっとお慕い申し上げているのだ。帰りがけ吉良の銘菓「赤馬」という最中を買った。家に帰って一服菓子箱に添えられた歴史発見 実像を探る吉良上野介その文章が『有能な幕府高官で 温かい血の通った名君だったー吉良上野介義央を偲んで ◆芝居で作られた悪人像「忠臣蔵」芝居の中で吉良上野介は、無情、強欲、非道 の人物として登場する。実在の吉良義央公は決して悪人 ではなく、極めて有能な幕府高官であり、温かい血の通う、人 情豊かな人柄だったのに、事件後、幕府が下した浅野家に対する厳しい処断ー 内匠頭の即日切腹と浅野家断絶。吉良邸に討ち入った浪士の処断 (切腹) 等ー が庶民の浅野同情 論を呼んだのである。その後間もなく、浅野を。『善』 吉良を『悪』とする芝居が登場して評判と なり、「仮名手本 忠臣蔵」が大ヒットした結果、吉良悪人像が定着してしまったのである。◆歴史を陰で支えた吉良氏 鎌倉のはじめ、三河守護になった足利義氏を先祖に東西吉良氏が誕生した。両吉良氏は、南北朝時代に足利尊氏を支えて活躍し、室町幕府の成立に貢献し、以来、将軍家の親族として活躍。朝廷警護の近衛部隊長官(武者頭) を務めるなど、朝廷・公家・大名から絶大な尊敬をうけた。戦国時代の末には松平氏と結ばれた。関ヶ原合戦後、家康が将軍職を望んだとき、家康は吉良氏の系図を借りて、いろいろ策を講じ、ようやく将軍職を手に入れることが叶ったのである。◆高家筆頭として活躍 平和な世をむかえて徳川幕府が最も重視したのが、対 朝廷外交と江戸城における儀式・礼法の確立であった。これに専従する役として高家制を設けた。吉良氏は三代 (祖父・父・義央)約百年にわたり高家筆頭を務め、特に義央は高家衆を指導する肝煎になり、徳川御三家、老中 に次ぐ従四位上の位階を賜った。◆領民に愛された吉良氏鎌倉時代から元禄時代の絶家にいたるまで、吉良氏は この地、吉良庄の領主として五百年の間、一貫して治めた。 これは日本の歴史上他に例をみないことである。歴代の吉良氏が如何に領民との調和に心掛けて来たか 理解できる。元吉良町史論集委員長鈴木悦道 (十三世花岳寺住職)の資料から 』一度確定した悪評は、たとえ事実とは違う真っ赤な嘘であっても打ち消すことは絶望的である。それでも、あれは違う、真実はこうだと訴え続ける者が一人もいなくなったら嘘が史実となってしまう。吉良公毎歳忌これからも続けることに意義がある。これにて本日の打ち止め!
2021/12/14
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以前 テキサス州にある「アラモの記念碑」について書いたことがある。ここ ←記事に挿入した古ハガキ拓本の両端に書かれた説明部分「米国の長篠城」 「日本のアラモ」△米国テクサス州サン・アントニオ市アラモ寺に於るテクサス独立戦役殉難烈士の碑△碑石は三州岡崎附近の産 台石は同長篠古戦場鳥居強右衛門墓畔に獲たるもの 碑高 六尺幅二尺△別に鳥居墓畔に獲たる一石にテクサス建碑の事を刻み 龍城神社(家康忠勝両公合祀)に奉納す△長篠城の守将奥平九八郎貞昌二十二歳、アラモの守将トレービィス 二十五歳、共に年少の将軍△長篠アラモ共に二十七倍の敵軍に囲まる 両松平は長篠を両好漢はアラモを援はんと馳せ来れり△長篠に於る鳥居の使命及殉難、アラモに於るボナムの使命及殉難、真に東西の雙美」拓本部分の書き起こしと読み下しアラモの記念碑についてテキサス州在住の方が、この古ハガキの現代語訳を書いてくださっている。「敵五千、我百五十 弾は尽き いわんや糧食においてや三十二人の援軍が馳せ参じて 敵軍の包囲を破って砦に入る入ると隊長の顔から血が流れていた 兵は皆銃を担いで城壁を守備していた援軍の兵は義を見てせざるは 恥ずるところと意気盛ん白馬にまたがって砦に入る将は 砦の兵の手を握り笑って曰く 君とともに死なん戦傷を負った兵も戦気を取り戻す籠城中の兵百八十二人並んで死す 生きて降る者一人として無し二十四郡の住人一人残らず義に感ず 初めて知る人の和は地の利に勝るを天然の要害も保証にはならない 黄河の北はついに唐の天地になった我は今 海外九ヶ国を巡る長旅の末 サン・アントニオに着く爛漫の夾竹桃が地に満ちた天国で今将に一戦が始まらんとしている君見ずや張巡 許遠を思わせるアラモの英雄たちと南霧雲(ナムーン=ボーナンの意)をここは古の英雄の気風の香りを漂わせている西洋の習慣は必ずしも降伏を避けない だがテキサスの要害の地でトラピス隊長以下は「勝利なくば死を」と覚悟兵たちの意気に洋の東西の区別はない 葡萄酒そそぎながら哭くを咎めてはならないアラモの英雄を偲ぶ詩文を日本の石に刻む西暦一千九百十四年九月 東京 Prof. Shigetaka Juko Shiga (志賀重昂) 撰又建」アメリカ便り「アラモに立つ日本からの記念碑 2021年改訂版」ここ ←アラモの記念碑の保存についてYouTubeを見つけた。それによると1914年 志賀重昴によって建てられたアラモ・長篠記念碑は、1942年12月 日本の真珠湾攻撃の翌日、破壊されるところだったが石碑が漢文で書かれていたため日本とは無関係と認められ残されたらしい英語からの自動翻訳なので詳しくはわからない。「武田勝頼」が「猫百合」となっていたりする。「キャチュユリー」→「キャット」「リリー」→「猫百合」3女に聞き取ってもらったが「サンアントニオのアラモの壁の中の石碑に書いてあることナガシノは日本のアラモアラモはアメリカのナガシノナガシノの戦いとアラモの戦いとは 活躍した英雄に似てるところがあるって日本のサムライ武士切腹や鉄砲伝来を延々と説明して、ナガシノの戦いを延々と説明して、ナガシノは少ない人数で多勢に勝ったのとメッセンジャー カツヨリ?【鳥居強右衛門勝商かつあき】がいて、アラモも少ない人数で多勢に勝ってメッセンジャー ジェームズ【ジェームズ・ボーナム】が活躍したみたいだよ過去【日本が真珠湾攻撃をした翌日】に石碑を撤去か移動かさせようという話になった時に市民が反対して守ったそうです。日本語ではなく中国語で書いてあることが日本政府が関わっていない証だのなんだの言ってるっぽいよ、ほんまかいなチャイニーズポエムって言ってたから漢文てことだねナガシノとアラモは全然違う時代の戦いなんだね〜、なんで石碑たてたの?背景がまったくわからん世界にはお父さんみたいな人がたくさんいるということだねスネエモンは聞き取れんかったな〜、YouTubeのこの人のコメントに、発音が悪いって批判コメントがくるけど精一杯頑張ってるって書いてあったよ。英語も難しいけど日本語も難しいね〜」という次第だった。YouTubeの説明文Most Americans know the story of the Alamo, and yet know little about the battle referenced on a memorial there. The parallels between the story of the defense of the Alamo and the 1575 Battle of Nagashino demonstrate that the East and West share a common definition of heroism. ほとんどのアメリカ人はアラモの物語を知っていますが、そこでの記念碑で言及されている戦いについてはほとんど知りません。 アラモの防衛の物語と1575年の長篠の戦いの類似点は、東と西が英雄の共通の定義を共有していることを示しています。アラモの戦いについては、 いろいろ思うところがあるのだが、それはまたの機会にしよう。
2021/06/27
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1月の予定だった「家康公検定」がコロナの影響で5月に延期になった。 1月305人だった市内の感染者は. 2月90人、3月29人と順調に減っていた。 ところが4月は250と元の木阿弥。 5月に入っても1日当たり20人を記録している。 またまた延期か、それとも中止かと心配していたら、そのまま実施と発表された。 なんとなく力が入らないまま本日、試験の当日を迎えた。 小6のとき一緒に受験すると言ってくれた孫一は中1となり、やめると言うかと思ったが、「やる」と言ってくれた。 会場の商工会議所は駐車場が狭いため、試験開始の2時間前に到着。 時間潰しにスタバでコーヒー。 ジジと同じく延期により気が抜けて勉強がおろそかになった孫一は一夜漬けに継ぐ朝漬け。 ジジは不馴れなマークシートの答案用紙。 行を間違えては消して書き直すジジを尻目に、孫一は開始40分で答案提出。 10分近く遅れてジジも提出。 結果発表は6月1日。 果たして孫一は合格点の70点をクリアしているかどうか。 ハラハラしている。
2021/05/09
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昭和11年から終戦まで軍隊にいた親父が語りたがらなかったせいか、歴史好きなのに、なんとなく避けてたみたいな昭和史。陶芸仲間でもある歴史好きが「昭和史・半藤一利著」を手にしているのを見て図書館から借りてみた。本の内容は「日露戦争勝利」の結果、ロシアが満州に持っていた権益をすべて肩代わりしたことから書き出している。10日間かけてようやく昭和8年の国際連盟脱退まで読み進んだところで、巻頭に記されていた芥川龍之介の「支那游記」が図書館から市民センターに届いた。本を受け取って驚いた。大正十四年11月発行の初版本。箱付だと古本屋で一万円くらいする。こんな稀覯本が貸出禁止にならないのが不思議だった。右ページの左下角に「寄贈」のスタンプがあるのを見て納得した。こんなことに気を取られて、今日も一日道草してしまった。
2021/03/14
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岡崎市内にある柴田勝家の墓について調べていたらシンセサイザー奏者の冨田勲に行きついた。賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れ北之庄で自刃した柴田勝家には実子がなく、勝家の姉または妹の子 勝豊と勝政を養子としていた。賤ヶ岳の合戦前、豊臣秀吉は当時長浜城主であった勝豊を調略、離反させた。 一方の勝政は合戦中、豊臣方に討ち取られた。勝政の子の柴田勝重(当時4歳)は北ノ庄から脱出し母方の祖父である日根野高吉に匿われた。落城の時、勝家愛用の兜を与えられたという。この頃、日根野高吉は織田信孝の家臣であった。のち羽柴秀吉に仕え小田原の陣の後、信濃高島に3万8000石を与えられる。勝重は元服後、日根野吉時の娘を正室に迎えた。豊臣秀吉死去後、慶長4年(1599)徳川家康に仕えて上野国に500石を賜り、慶長5年関ヶ原の合戦に初陣、その後、大阪の陣の軍功により加増されて武蔵国(調布市仙川・三鷹市)の地を賜った。その屋敷に勝家の兜を祀ったのが「柴田勝家の兜塚」、社殿を建てたのが三鷹市に今も残る勝淵神社である。勝重の孫 勝門は延宝8年(1680年)に家督継承。元禄3年(1690年)従五位下、越前守(のちに出雲守)となる。元禄4年(1691年)に目付、元禄6年(1693年)に桐間番頭となった。元禄7年(1694年)に1000石の加増を受け3500石となる。元禄11年(1698年)領地を武蔵国より三河国に移され、本宿村(現岡崎市本宿)に陣屋を設けた。また、領地である岡崎市福岡町永井に武蔵国の勝淵神社の分霊を勧請した。以後、子孫は幕末まで同地を支配した。本宿陣屋・代官所跡地には現在冨田病院がある。冨田家は代々代官を勤めた家であるシンセサイザー奏者の冨田勲はこの家で育った。病院は実弟が継いだ。本宿陣屋ここ ←
2021/03/08
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借りていた本を返しに幸田町図書館まで7kmを歩いて行った。 帰り道、岡崎市福岡町で以前見た武田信玄の武将「山本勘助」の墓に寄ることにした。 途中で場所が分からなくなってWebで調べたら、勘助の墓のすぐ近くの寺に「柴田勝家」の墓があることがわかった。 今日返した本「神君家康の密書」に「冥土の茶席」という短編が収録されていた。 柴田勝家が信長から下賜された井戸茶碗にまつわる物語だった。 偶然とは思えぬ繋がりを感じて参拝することにした。 寺の手前で由緒ありげな神社「勝淵神社」を見つけた。 祭神 天津児屋根命 柴田勝家 神社名の揮毫は「文学博士 井上圓了」 越後長岡藩出身、東洋大学創始者、哲学者、妖怪博士とよばれている。 圓了が柴田勝家とどう繋がるのかは不明。 いずれまた調べてみたい。 神社の由緒書によれば 勝家の孫 勝重が大坂の役の軍功により武蔵国三鷹に領地を賜った。 勝重の孫 勝門の時、三河国に移封されたとある。 成光寺というところにあった。 北陸北之庄で亡くなった柴田勝家の墓である。 ここから山本勘助の墓まではほんのわずかな距離。 永井城跡の標柱のある畑と道をはさんで相対している。 岡崎市福岡町は江戸時代の旗本領地跡のたくさんあるところだから、探せば高名な武将の末裔の古地が見つかるはずである。
2021/03/06
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昨日立ち寄った京都所司代板倉勝重廟堂(肖影堂)のある長園寺 写真 石段上に肖影堂 手前にあるのは手水石 手水石の背面 勝重の座右の銘「苟日新日日新又日新」と、勝重の7回忌寛永7年に長子重宗が奉納した旨が刻んである。 刻銘の文字は勝重と交遊のあった本阿弥光悦の筆 苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日新たなり。 きょうの行いはきのうよりも新しくよくなり、 明日の行いはきょうよりも新しくよくなるように修養に心がけねばならない。 殷の湯王はこれを手水盤、すなわち洗面の器に彫りつけて毎日の自誡の句とした。 (『中国の古典名言辞典』・講談社学術文庫) 勝重の父板倉好重は深溝松平家の松平好景の配下であった。永禄4年善明堤の戦いで好景に従って吉良義昭と戦うが戦死した。 家督を継いだ三男の定重は徳川家康に仕えたが天正9年高天神城の戦いで戦死したため、菩提寺の永安寺に出家していた次男の勝重が還俗し、跡を継いだ。 家康に仕えた勝重は駿府町奉行、江戸町奉行を歴任。 関ヶ原の戦い後、京都所司代を勤め名奉行といわれた。 江戸の名奉行大岡越前の話の多くが実際は板倉勝重の実績だという。 勝重の長男重宗も京都所司代を勤めた。 さらに勝重次男重昌の子・重矩もまた京都所司代を勤めている。 板倉氏は明治まで大名として続いた。 幕末老中首座を勤めた備中松山藩主板倉勝静は自ら函館五稜郭まで転戦している。 幕末福島藩主板倉勝己は新政府恭順の姿勢を示し会津征討準備中、奥羽列藩同盟結成により、これに加わった。 新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀世良修藏暗殺に福島藩士が加担していた。 上州安中板倉家の藩士を父として生まれた新島襄は元治元年函館からアメリカに向けて密出国した。
2020/02/22
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久しぶりのウォーキング 家から岡崎城まで約8kmを歩いた。 歩くのにもなにがしかの動機付けが必要である。 今回は岡崎公園で開催中の「家康公生誕祭」でも見ようかというところ。 お城へ行く前に少し遠回りして、市が進めているリバーフロントの進捗状況を見てきた。 工期5年、総事業費約100億円。 岡崎城下を流れる乙川河畔を整備して市民や観光客を呼び込もうというもの。 東岡崎駅から河畔までの通路はほぼ出来上がっていた。 真ん中辺りに巨大な家康像。 河畔整備もほぼ終わって今は人専用の木橋ができかけている。 さらに新たに大通りまで作っている。 通りの両側には徳川四天王像が建つらしい。 巨額な無駄遣いに終わらなければ良いが。 岡崎公園はイベントをやっているにしては人が少なかった コスプレの大会でもあるらしく奇抜な格好の若者が集まっていた。 なかなか楽しそうではないか。 お城に留まること30分、家路についた。 途中、2時になって昼食。 すき家で四川風牛すき鍋定食。 付いてきたラー油をすべて入れ、花椒を半分入れた。 辛い! 二、三口食べては水を飲む。 胃が熱い! 雨が降りだして、家まで5kmのところで、かみさんの車に拾ってもらった。
2019/12/23
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私のガラクタコレクションこれは大正天皇の御大典記念の品々、例によってネットオークションで衝動買いしたものである。大正4年(1915)11月大正天皇即位の御大典は京都御所で行われた。11月10日即位の礼11月14日・15日大嘗祭この大嘗祭に供える米を献納する悠紀斎田(ゆきさいでん)に現在の岡崎市中島町の田んぼが選ばれた。これを記念して地元では毎年「御田植え祭」を行っている。百年祭の2015年には秋篠宮ご夫妻御臨席で盛大に挙行された。我が家から800mほどのところに「悠紀の里」はある。当時の田植えから刈り取りの状況を描いた絵の一部。(印刷)奉納された米は大嘗祭の悠紀殿に供えられた。半年に渡る名誉の行事だったのだ。一方、令和の悠紀斎田は福島県猪苗代町に決まった。写真は福島民報より拝借翌大正5年、記念の本「大正大典史」も発行された。令和の御大典は10月22日に皇居で即位の礼が行われる。一年限りの祝日である。大嘗祭は11月14日夕から翌日未明にかけて古式ゆかしく行われる。こちらは宗教的儀式のゆえにか祝日にはならなかった。さて「大正大典史」は部厚い本である。式典の次第、各国からの来賓の名前等、私には興味深い内容に満ちている。特に興味深いのは皇族方の写真であった。一番下の、お二方は大正御大典の5年前皇族に列せられた昌徳宮李王と李王世子である。元大韓帝国皇帝と皇太子日本側は敬意をはらっていたと言っても併合された側の屈辱感は癒されるものではなかっただろう。だからといって、なすすべもない。
2019/10/19
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朝9時、犬がさわぐわが家にパトカーが横付けされている。サイレンの音は聞こえなかったのだが、なんだろう。事故かと思ったが、それらしい様子は見えない。パトカーにはだれも乗っていない。田んぼをはさんだお向かいさんの庭で人が動いている。警察官も見える。盆休みの間に空き巣に入られたのかも知れない。あえて尋ねたりはしない。5月に始めたNHK学園通信講座「はじめての古文書」も最後の月になった。初歩の初歩を学習するのかと思っていたら、4ヶ月間、生の古文書を読んで行くという、かなりレベルの高いものでずいぶん手こずった。レッスン1 願い・訴えの文書恐れながら書付をもって願い上げ奉り候で始まる文章。レッスン2 取引・約束の文書離縁状の事一 、ミチ事、我ら妻に御座候ところ、この度相談の上、離縁いたし候ところ実正なり、然る上はいずかたへ縁付き候とも、差しかまいござなく候、その為離縁状、よってくだんの如し。レッスン3 命令の文書これ以前よりたびたび仰せ出でらるご法度の趣、いよいよ堅くあい守り、、、レッスン4 書状を読む一筆啓上仕り候、まずもって御道中ますます御勇健あそばされ、、、、いずれも、まず文章に慣れる。次いで頻出文例マスター、そしてくずし字解読のツボ毎月末リポート課題を提出して添削を受ける。不思議なもので、ミミズののたくったような文字が少しずつ読めるようになってきた。慣れる、覚える、ちょっとしたサポートを受ける、少し上に挑戦する。なるべく多くの文章に接して徐々にくずし字の記憶量を増やすことが大事なのだなあ。AIと一緒だね。先日ネットで手に入れた「三輔遺訓」も少しずつ読めて来た。クイズみたいなもんだ。ボケ防止にはいいと思うな。
2019/08/18
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孫一の宿題の一助にと灼熱の松本を歩いて1週間。 今度は、かみさんの姉の孫娘が岡崎大樹寺にある歴代徳川将軍の位牌を研究テーマにしたいというので案内してやった。 朝9時過ぎ寺に到着。 まずは大樹寺山門から岡崎城が見えるビスタライン。 見えた見えたと喜ぶ。 寺内は撮影禁止。 目的は歴代将軍の位牌。 初代家康159.0cm 2代秀忠160.0cm 3代家光157.0cm 4代家綱158.0cm 5代綱吉124.0cm ? (犬公方) 6代家宣156.0cm 7代家継135.0cm (満6歳薨去) 8代吉宗155.5cm 9代家重151.4cm 10家治153.5cm 11家斉156.6cm 12家慶153.5cm 13家定149.9cm (正室は島津の篤姫) 14家茂151.6cm (正室は和宮) 15代慶喜は神道で葬られたので位牌がない。 駐車場横の茶店の貼り紙が面白かった。 今日は10時に開店していた。 このあと、岡崎城も案内した。 なんと、あの三浦友和と手形がピッタリ。 なんだか、うれしい。 昼食後帰っていった。 夜は昼のナンの余りほか余り物で飲んだ。
2019/08/11
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飲水思源「水を飲むときはその井戸を掘った人の恩を忘れない」1972年、日中国交正常化を推進した田中角栄について周恩来がこの言葉を使ったそうだ。中国は田中角栄先生の恩は末代まで忘れない後にロッキード事件で被告となり病床にあった角栄のもとを、訪日した江沢民がわざわざ訪れたという。東日本大震災から8年になる昨日 こんな記事を見つけた。聯合ニュース東日本大震災から8年 駐日韓国大使が宮城県知事に応援のメッセージ〈前略〉韓国大使館によると、村井氏(宮城県知事)は李氏(韓国大使)に謝意を表明し、今後とも両国の交流強化のため取り組んでいく意思を伝えた。 韓国政府は東日本大震災直後、救助隊を派遣し、生存者の救助や復旧活動を支援。救援物資を伝達した。民間でも義援金の募金活動が行われるなど、復旧を支援した。>>>>引用終わりう~ん?韓国救助隊のことは聞いたことがあるような気がするのだが、義援金についてはなにか引っ掛かるのだ。調べてみたらこんなのを見つけた。日赤への海外からの義援金1位アメリカ(29億9800万円)2位台湾 (29億2800万円)3位タイ (20億5900万円)日赤への義援金だけの集計で自治体等への義援金は含まれていないようだから これだけで判断はできないのではあるが韓国は 2億1500万円。寄せられた救援や義援金に対して 16年3月11日には韓国の新聞に当時の在韓国別所大使のサイン入り感謝広告が出ている。産経フォト韓国で感謝の新聞広告 救助隊、最初に派遣救助隊派遣は間違いないようだが噂では、フェイクかもしれないけど)義援金は集めたものの竹島問題勃発によりなんやかんやで集まった金の ごく一部だけ 日本におくったとか先のリストで2位の台湾からは日赤への29億余円を始めこれまでに200億円もの義援金が送られてきているそうである。NHK東日本大震災 義援金200億円の台湾へ日本人留学生が感謝2019年3月10日台湾からは さらに南三陸病院建設費 4割台湾からの義援金こんなに良くしてもらっていながら72年以来台湾とは正式な国交がないというのはスッキリしないのだ。飲水思源 せめて民間交流の活発化だけでも力をいれようではないか。と思っていたら三陸町の恩返しという記事も見つけた!日本経済新聞東北の被災地、台湾に「恩返し」寄付 南三陸町が100万円2016年2月9日出来ることから始めよう
2019/03/12
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昨日に赤穂浪士ウォーキング。 義士の引き揚げコース中、築地に播州赤穂藩主浅野内匠頭邸跡を見た。 すぐ横の看板に、この場所は芥川龍之介の生地と書いてあった。 明治25年芥川はこの地で牧場を経営していた新原敬三を父として生まれた。 後、母の生家である芥川家の養子となった。 父新原敬三は三河の住人の実家からそれほど遠くない岩国市美和町生見の出身。 芥川は父のことを「本是山中人」と言ったとか。 ずいぶん前になるが子の芥川也寸志が生見にある新美家の菩提寺に「本是山中人」の碑を建てたと聞いたことがある。 私の実家は生見よりもっと山奥にあるから 私など「本是正真正銘山中人」である。
2018/12/15
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岡崎の人 志賀重昴に はまっている。岡崎公園のアラモの碑を調べていたらテキサス州サンアントニオ市のアラモ砦にあるという碑文を読みたくなった。しかしネットから借用した写真では拡大したら画面がぼけてしまって読めない。ネットをあちこち覗いていたら 石碑の拓本の絵葉書に行きついた。これだったら読めそうだった。読めるところをノートに書き写してある程度出来上がったら パソコンに入力する。旧字にはIMEパッド機能が役立つ文字をマウスで手書き入力して探す入力したものと原文を比べて直す次に読み下し文に直してみる。わからないところは 文字の読みと意味を調べるすべてPCで足りる。アラモ砦の戦いについての知識もPCで仕入れる。アラモ砦と長篠合戦 ボナームと鳥居強右衛門 はては唐の安禄山の変の張巡までつながっていた。そして まあまあの所まで来た途中で息抜きに 先日 yanpaさんが 言っていた坂本龍馬の手紙も加工してみた。これは 原文と読み下しも さらに 現代語訳もみ~んな ネットから拝借した。座ってばかりではなく 犬の散歩も スポーツジムもちゃんと 予定通り日差しも暖かくなかなか いい日だった。少し 黄砂が降ったようだった。
2018/01/19
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ネットオークションで落札した書の解読から始まった道草は、かなり深入りしてしまった感がある。ゴールはもうすぐのように思えるのだが、まだ終わってはいない。かみさんの知人(元高校の古文教師)に添削していただいて、活字書きと読み下し完了。完璧ではないが、いい線行っている。次いで市内にある、この書の作者、志賀重昴の碑文を再訪して活字書きした。石碑巡りのハイライト!岡崎では知る人ぞ知る「三河男児歌」この歌の全文はネットで調べても見当たらない。市の図書館かどこかで発表してみるかなついでに志賀重昴の年譜を作ってみた。調べている内に新たな発見が2つ。ひとつは、三河男児歌の初出の内容と流布しているものにはかなりの違いがあることもうひとつは志賀の3回目の世界旅行にあたって、その費用を岡崎市民から募った。その時、志賀の揮毫を頒布した。私が手にいれた書がそれではないだろうか。ひょっとしたら大発見ではないかと思うのだが志賀の名前が全国的にはマイナーなので振り向いてもらえないかも知れない。こんなのもある。日本の長篠の合戦とアラモ砦の戦い「志賀重昴」 もう少し深堀してみてもいいかな。
2018/01/17
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日曜日、スポーツジムは休日。 朝食後 「お父さん、今日 ヒマ?」と、かみさん。 暇だから「安倍清明展」にでも出掛けようかと思っていたのだが、そちらはまたの機会。 かみさんの妹の家まで苗をもらいに行くための運転手をつとめることにした。 弁当持参で昼食を一緒にとるのだというが、かなり時間が早かった。 先日新聞に三河国分尼寺跡が整備され当時の姿で中門を復元と出ていた。 かみさんの妹宅へ行く途中にあるので寄ってみた。 天平年間(750年頃)、聖武天皇の詔で全国60地域に国分(僧)寺と国分尼寺を建てた。 ここ三河国分尼寺はその規模150m四方あり、長年かけて発掘調査、境内跡にあった民家には立ち退いてもらって当時の礎石を復元整備。 最後に中門と廻廊の一部を当時の姿そのままに国内産木材で復元。 瓦も当時と同じに作られている。 建設には当時の技術を伝承している奈良の専門家があたった。 等々、ボランティアの男性にうかがった。 一時間やそこらでは足りない、またの機会に 孫一を連れてゆっくり見学したい。 見学に時間を取られたので途中で食事をして行った。 夕方5時過ぎに帰宅。 もらってきたのはブロッコリー苗5本だった。
2017/10/02
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昨日 3匹の野良犬を見て思い出した。先日、中学校の同級会の前 中野区へ出かけた。せっかくの東京行きだったから 享保の象が江戸到着の12年後に払い下げられて住んだという中野の小屋跡とその死後、頭骨と牙を安置したお寺を訪ねることにしたのだ。夜行高速バスで東京駅5時半着。象小屋跡は 中野坂上駅のすぐ近くの公園にあった。象小屋(象屋きさや)の跡 江戸名所図会に「中野に象屋(きさや)を立ててそれを飼わせられし」と書かれている中野の象小屋は、このあたりにあったと言われています。<中略>(享保14年 象は)江戸に着いて将軍吉宗が上覧したあと、しばらく浜御殿に飼われていました。のち中野村の源助にさげわたされ、源助は成願寺に近いこのあたりに象小屋を建てて飼育を続けましたが寛保二年(1742)に病死しました。死後、皮は幕府に献上され牙一対は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現 中央二丁目)に保存され、戦災にあいましたが、その一部がいまも残っています。お寺も象小屋跡から10分ほどの所だった。 米軍の空襲により 炭化した牙の一部が残っているが公開はしていない。見ることは出来なくても その地に立ったことで私の象道中も締めくくれたというものだ。中野まで出かけたついでに 動物つながりで中野区役所前に行って見た。ここは 五代将軍綱吉の「生類憐み令」により保護された犬たちを収容した「囲い」のあった場所。中野区役所HPによれば 1695年から1709年まで 現在の区役所近辺に30万平方メートル(東京ドーム20個分)の「囲い」があり数万~30万頭(9万数千頭の説もある)の「お犬様」が収容されていた。年間98000両(122億5000万円)の費用が掛かっていた。綱吉の死により「囲い」は廃止され 収容していた犬たちは殺処分ではなく 近在の住民に飼育を押し付けたようだ。囲いの廃止から10年後に長崎から江戸・浜御殿へ象がやって来て さらに12年後中野に引っ越した。中野の象は 犬と違って見世物小屋に飼われ 人気がなくなると ろくに餌も与えられず 中野に来て1年後には餓死同然に死んでしまった。そこのところまでは中野の看板には書かれていない。(都合の悪いことは書かないのが役所)悪いのは吉宗で 思っていたのと違ったか 飽きてしまったのか江戸に来た象に会ったのは たったの3度。昨日の野良犬も 最初はかわいい可愛いと飼っていて飽きたか何かで捨ててしまったのだろう。保健所の檻が 現在の犬屋敷。現在の犬屋敷は 収容した犬の多くを殺す。その実態を調べてみた。「生類憐み令」を 嘲笑う現代人だが 15年間 江戸の犬を殺さず生かした綱吉どっちがどっちやら 判断に苦しむ。せめて 死ぬまで面倒見ようよ。環境省統計資料 犬・猫の引取り及び負傷動物の収容状況
2017/06/25
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9日高森を発つ前、宇野千代の父親の実家を再訪。前日、傘についていた花びらの確認をしたかったのだ。前日、強い雨のせいで見上げることのなかった薄墨桜がそこにはあった。宇野千代が実家のことを書いた文章にも花びらこのことを、誰かに話したくて、この日20キロ歩いて岩国関戸宿に着いたあとさらに歩いて錦帯橋の満開の桜を見て、さらにさらに歩いて川西にある宇野千代生家を訪ねた。初対面の受付の女性に話をしたら、上手に、感動してくれた。生家の薄墨桜も散り始めていた。 こんなとき句がよめればいいのに爺は受付の女性にシャッターを押してもらうだけだった。ああ
2017/04/10
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昨14日は 赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日。世間では 吉良上野介を打ち取った赤穂の浪人47人を義士として持ち上げている。浪士たちが主君の墓前に上野介の首をささげたという東京・泉岳寺では今年も義士祭が開催されたという。赤穂市の赤穂城では赤穂義士祭が開催されている。しかし 日本の中でただ1か所 ここ三州吉良の町だけは この日討たれた吉良公の遺徳をしのび、菩提寺「華蔵寺」で法要を営んでいる。古い写真だが 06年吉良を歩いたとき駅で見かけた看板には「お気毒なお殿様 吉良さん」というのがあった。町なかの 和菓子屋の垂れ幕は「追慕熄まず おらがとのさま 吉良さん」華蔵寺には NHK大河ドラマ「元禄繚乱」の資料館があった。いまはどうだろうか。吉良上野介義央公の墓
2016/12/15
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先週 帰省したとき錦帯橋の近く岩国藩武家屋敷のあった場所を歩いた。昔、通っていた高校があった地域だから勝手知ったる土地。思いついてポケモンGOを起ち上げてみたら ポケストップがワンサとある。時間はいくらでもある、ポケストップ巡りと決めた。手前の攻略済みは 佐々木小次郎ゆかりの柳の木。次にあるのは 地元では有名なソフトクリーム売り場。そのはるか向こうに見えるのが わが母校の跡地で公園になっている。岩国出身の作家「宇野千代さん」の碑を3つ見つけた。そのうちの一つ1936年ベルリン・オリンピック 3段跳び金メダリスト 田島直人の碑、1928年アムステルダム 織田幹雄 1932年ロスアンゼルス 南部忠平そして 1936年、3大会連続金メダル獲得の偉業を打ち立てた。私の母が女学生の頃 祝勝行列に参加したと聞いたことがある。ベルリン大会で日本選手は金6、銀4、銅8を獲得している。田島は走り幅跳びで銅メダルもとっているのだが今では 水泳の前畑秀子は覚えていても 田島直人を知る人は少ない。同じベルリン大会のマラソンで金メダルを獲得したのが 孫基禎。後に明治大学を卒業している。当時 国籍は日本だが 出身地は朝鮮半島、反日の象徴扱いにされてしまったのは哀しい。そんなことを考えながらポケストップ巡りをしていると「文人石」というものに出くわした。ここまで来る韓国人旅行者がそれほどいるとは思わないが漢字交じりハングルの説明では読める人は いないのではないだろうか。何も書いてないのだが この石像は 多分 岩国出身の元帥陸軍大将 第2代朝鮮総督 長谷川好道が1918年 六角亭と一緒に持ち帰ったものだと思う。六角亭は なぜかポケストップではない。近くにある 野鳥のかんばんがポケストップになっている。碧蹄館は文禄・慶長の役のとき 明の李如松軍を小早川隆景率いる日本軍が打ち破った場所。この時、後に岩国城主となる吉川広家が参戦している。長谷川は その記念にと持ち帰り岩国市に寄贈したのであろう。先年 碧蹄館のある高陽市が返還要求したという話があった、その後 話を聞かないのだが 臭いものにふたポケストップにしてほしくない意向が働いたのだろうか。むかし むか~し 隣同士の間では よいことも悪いこともあったげな今では 仲良く くらしておるそうじゃ。なかなか そうは いかんものじゃのう。
2016/10/28
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戦前の絵葉書の発行場所を探す爺の太神丸GO土曜日、近場の「スポット」常滑市にある「柴船権現」を訪ねることにした。事前調査では常滑市市場地区あたりとなっている。市場交差点に着いて近くの正住院という大きな寺の裏にある駐車場に車をとめた。裏門脇の掲示板に尾張知多郡名所図会が貼りだしてある。これによれば 駐車場のあたりはすぐ浜辺、沖合に伊勢の山並みが見える。なるほど 家康が伊勢湾を横断するに目標には絶好の地点と言えそうである。今では 堤防の外が港 その向こうに中部セントレア空港が見える。自転車で通りがかった人に柴船権現の場所を聞いた。交差点まで戻って右折するとすぐにあるということだった。絵葉書を見せたが「太神丸」 そんなものは聞いたことがないそうだ。車で交差点まで戻ると 先ほどの人が待っていてくれて祠まで案内してくれた。ご親切に ありがとう 多々感謝。 柴船権現神社は 町中に建つ地蔵堂ほどの小さな祠、教えてもらわなければ見過ごしてしまいそうだ。墨痕が かすれかけた神社由来記があった。写真を苦労して判読した。柴船権現神社由来 平成二十五年記す 市場区天正十年(一五八二年)京都本能寺の変の際 堺に滞在中の家康公は急ぎ岡崎城に帰るため伊賀山中を越え伊勢白子の浜から柴船に便乗して常滑の浜に上陸市場村に暫く滞在し身の安全を確かめた後、三河の大浜港に無事帰着することが出来ました。知多半島を去るに際し世話になった市場村の八兵衛に家康公が常にお守りの神として護持していた観音像を下賜されました。後に八兵衛は家康公から領地名字を賜り名主衣川八太夫としてこの地で権現さま(家康公のこと)をお祀りすることを許されました。以来衣川家が中心となり三百年の長きにわたって柴船権現は守られてきました。大正十一年(一九二二年)に衣川家は市場区に祭主を移譲し、その後、この社が常滑町民の賛同を得てこの場所に建立されました。それ以降現在に至るまで地域を守る霊験あらたかな神社として大切に祀り続けられて来ました。家康公の命日である旧暦四月十六日の直前の土曜日に市場区が大祭をおこなっております。常滑市HPより拝借事前調査の時 家康の伊勢湾渡海は旧暦6月なのになぜ柴船権現まつりを5月に開催するのか疑問に思っていたが家康命日と聞いて納得。やっぱり現場へ出かけることは大切なのだ。さて 家康上陸の地に来てみたものの「太神丸」に結びつく事実は発見できなかった。地元のことは地元に聞け 常滑市民俗資料館に行ってみた。資料館は現在 とこなめ陶の森資料館と名前が変わっている。受付で聞いてみたのだが「太神丸」という名に関することは聞いたことがないという。ダメだったか。すると 女性事務員が資料館の坂下のお寺に家康から賜った木馬があると教えてくれた。その寺とは知多四国88ケ所の63番札所大善院のことだった。イブキの大木の真言宗の寺院である。御朱印受付にいた ご住職に木馬のことを訪ねてみた。はい ありますよ見せていただけませんかいいですよ「ビンゴ!」快く見せてくださり 寺の縁起から家康公の木馬まで丁寧に説明していただいた。写真撮影 ブログ掲示も承知してもらえた。家康公書状 寺域内「中の宮」に奉納したものである奉神納一 劔 一刀一 金 二歩一 木馬 一疋 右 武運長久祈者也 六月五日 三河守 家康(花押)木馬はこんなものだった。劔は刃渡り20cm白鞘の担当だそうであるが この場にはなかった。住職の話では「柴船」というのは 常滑焼に使うため伊勢の薪を運んだ小さな舟であり船名を取り付けるほどの大そうなものではない。おそらく後世の作り物だろう。またこの辺りで「太神丸」というのは聞いたことがないという。家康は市場の浜からこの寺に立ち寄り 陸路 半田市成岩(ならわ)の常楽寺を目指したということである。常楽寺も知多四国88ケ所の札所である。まだまだ「太神丸」探しは続きそうである。
2016/07/24
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任天堂の「ポケモンGO」とやらが世の中を騒がしているようだが 爺には手におえそうもない。爺の新たな興味は ネットオークションで手に入れた戦前の絵葉書。右から左へと読む。「太神丸」の下の方に「家康公ヲ助ケシ船ノ一部」とある。出品者に問い合わせたが いつ どこで発行されたものかわからない。「太神丸」で検索してみたが1件も引っかからない。家康には危ういところを かくまってもらったり・助けられたという伝説が多いのだが船で助けられたとくれば「神君伊賀越え」の折 伊勢白子から船で三河へ戻った船であろうか。天正10年6月2日、家康は滞在先の堺から京へ向かう途中、河内四条畷のあたりで 京都本能寺において織田信長が明智光秀に襲われたと知った。わずかな供回りしかいない家康一行は、明智方の探索を避けて河内~山城~伊賀~伊勢を経て三河岡崎へ帰還した。堺から四条畷を経て白子までの陸上ルートは 08年に歩いたことがある白子からの海上ルートについては諸説ある。「岡崎市三河武士のやかた」は 白子から三河大浜直行説。 白子から出て知多半島常滑へ上陸説天正10年、このあと豊臣秀吉の時代が続く、この頃の家康関係の記録は少なくて はっきりしたことはわからないのだ。家康に船を世話したと言われる人物に2人ある。伊勢大湊の開運業者「角屋七郎次郎」三河国大浜までの船を手配して、家康の帰還を助けた、後に家康より「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」と廻船自由の特権を付与された。白子の百姓「小川孫三」敵に捕まりそうになった家康をかくまったとも小舟で常滑まで送ったともいわれる。家康は後に駿河の藤枝宿の一角に土地を与え伝馬役など宿場の業務を免ずる地子諸役免除の朱印を授けた。藤枝市白子町に今も子孫の眼科医院がある。家康上陸の常滑市にも功労者がいる。常滑の庄屋 衣川八兵衛家康一行を出迎え、陸路、半田の常楽寺まで案内した。その功により、家康より槍、1本、後に常滑城のあった高台を授かった。後に、名主 衣川八太夫と改名し、柴舟で上陸した権現様(家康)を祀る柴船権現をたてた。常滑市市場地区にあり 今でも毎年5月には柴舟権現まつりが開催されている。この3人を調べれば 太神丸に行きつくかもしれない。行先は(1)三重県鈴鹿市白子 (2)静岡県藤枝市白子 (3)愛知県常滑市市場梅雨も明けたし さあ 太神丸GO!
2016/07/18
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ゴールデンウイークなのに、まだ孫たちの顔をひとりもみていない。 先日「大鎖国展」で見た朝鮮高僧松雲大師の書簡に引っかかっている。漢字ばかりではあるが楷書体だから かなり拾い読みできる「一 庚寅歳送使者日本只是交隣通信相好而己非〇コウ服」「一 此時対馬島守與行長所奏偽也欺罔日本及我朝鮮非実語也」「一 我国有君臣父子而後為属大明之国君臣義完誠心事大雖天地覆墜而不易也何可與日本借道而同伐大明也是臣叛君〇叛父天地之間寧有是理乎寧可百死也不願聞此等語」・・・皇明万歴二十五年三月二十一日朝鮮北海松雲本棚から 徳間文庫 日本の戦史「朝鮮の役」を見つけて調べてみた. 文禄の役(1592)の2年前、対馬の宗義調の案内で朝鮮からの使節が来日、太閤秀吉に謁見している。朝鮮側は太閤の国内統一を祝う善隣友好のための使節のつもり、間に入った宗義調は朝鮮が服従したようにこじつけ秀吉に信じさせた。 秀吉の答書には「近々明国を攻める 余が出陣したら朝鮮王は先導せよ」ということが書いてあった。帰国後、正副使が「秀吉は攻めてくる」「ただの脅しでせめては来ない」と異なる見解を述べた。朝議では当時勢いを盛り返した一派の「攻めては来ない」が通った。 文禄元年(1592)秀吉の軍が朝鮮に渡り破竹の勢いで、釜山から漢城へと進撃ついには鴨緑江まで攻め上った。やがて明の援軍を受けて戦いは膠着、文禄4(1596)年(12月慶長に改元)9月、一度は講和の運びとなったものの年末には再征が決定され 翌慶長2(1597)年正月早々再上陸した。 写真の書簡は 秀吉軍の両将、小西行長と加藤清正の仲を裂く目的で朝鮮の僧松雲惟政が清正と対談した時のものである。万歴25年は明の年号で日本の慶長2(1597)年に当たる、3月は再上陸してすぐのことである。 最初の行の「庚寅歳」は(かのえとら)年、60年に1回訪れる この頃では天正18(1590)年となる。「この年に日本に送った使者は善隣友好のためであり降服の使いではない。この時対馬の島主と小西行長が日本と朝鮮を欺いて事実ではないことを伝えた。我が国は君臣父子の序が有り大明国の属国として君臣の義をわきまえ誠心から仕えている、このことは天地が覆墜しようと変わらぬことである。日本に道を貸し共に大明を攻めることは臣が君に叛き子が父に叛くことでありたとえ百回殺されようともそのような語を聴くことはできない。」とでも訳すのだろうか。 あの時代には 文に書けば 日朝・日中間で意思の疎通は可能だったのだ。今では中国は簡体文字、日本は新漢字、韓国に至っては漢字廃止、三国がもう一度旧漢字に戻れば もう少しお互いを理解できるかもしれない。理解しあう気がなければどうにもならないことではある。
2016/05/02
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16日 土曜日午後2時、岡崎城 お城下菅生河原に大勢の老人が集まった。その数 500人は下らない?これらの人たちは「岡崎城跡菅生川端石垣調査現地説明会」のために集まったのだ。その中の一人として爺も2里の道を歩いてやって来た。定刻、石垣発掘調査の経緯説明に続いて、広島大学の三浦教授による説明があった、岡崎市が徳川家康没後400年・市政100周年を記念して実施している「乙川リバーフロント計画」の一環で行った石垣発掘調査で発見されたのは・高さ5m 切れ目なく400mも続く、日本最長の一連の石垣城壁・一連の石垣に3か所の横矢枡形が設けられているのは日本で。ここだけこの石垣があったことは 絵図により従来から知られてはいた。今回の発掘までは 石垣の一部が地上に出ているだけで 下部は堤防の土盛に覆われていた。掘り起こして見ると約2mの石垣が絵図の通り確認された。念のため一部、地下に掘り下げてみると 地下3mまで石垣が続いていることが分かった。絵図では 高さまではわからなかったのだが 石垣の高さは5mもあることが判明した。高さ5m 間に門などの切れ目なく400m続いているという。絵図の出っ張り部分は「横矢枡形」という敵の攻撃に備えたものだと判った。従来ここは お城下を行き来する五万石船の船着き場だと言われていた。高さ5mの船着き場というのはあり得ない。さあ どうする。これだから 歴史は面白い。
2016/04/17
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土曜日の中日新聞に こんな記事が載っていた。赤穂浪士の墓が我が家から12~3kmの知立市にある?これは見に行かなければ・・・・というわけで 日曜日午後 ちょっと見学してきた。「泉蔵寺は黄檗山寺院として開山された寺であった。明治5年、無住を理由に廃寺となり、一時は小学校として使われた。明治25年 臨済宗妙心寺派の寺院として再興されている。」黄檗山寺院の頃の姿はなく、新聞にあった墓を見つけるのに少し苦労したが先客らしき老夫婦を見つけて 彼らの後からたどり着いた。 墓の表面は風化して読み取れないのだが「大姉」とある。「吉田忠左衛門夫妻の墓吉田忠左衛門兼亮は、元禄十五年(1702)吉良邸討ち入りの時、北門の大将補佐役をつとめた赤穂四十七士の一人である。 その妻りんは、宝永七年(1710)刈谷に移った。夫亡きあと身を寄せていた娘婿の主君が、刈谷に転封されたためである。りんは当寺で化導を受け、後生を夫の冥福を祈ることに捧げたが、半年後に病没した。 生別の折、形見に貰った夫の生歯と共に、宝永七年(1710)十一月二日ここに合葬された。知立市教育委員会」傍らに立つ墓碑には忠左衛門の事績が 表だけでは足りず裏面までびっしりと刻まれている。裏面は生け垣が邪魔で あまりうまく撮影できなかったが そのうち 読み解いていきたいと思っている。またまた道草だが まあこれが性分だから仕方ない。帰りがけ 知立市歴史民俗資料館に立ち寄って 新聞に出ていた忠左衛門の浮世絵を見てきた。09年東海道を歩いたとき 高輪の泉岳寺に立ち寄った。吉田忠左衛門の墓は 大石内蔵助(屋根付き)の墓の次にある。大石の墓の横は浅野内匠頭の墓。15年4月赤穂城に行ったとき立ち寄った大石神社には参道に四十七士の石像が並んでいた。裏門隊 大石主税以下24体たぶん2番目が忠左衛門だろう。ウィキ「吉田忠左衛門兼亮」
2016/02/08
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バスで中禅寺湖へ行く途中に日光田母沢御用邸記念公園という停留所があった。戻りは このバス停で降りた。入り口の案内書で ここが大正天皇の保養地であったことを初めて知った。大正天皇には思い入れがある爺。入場拝観させていただいた。奥の間が天皇の御寝室御寝室 横から庭の紅葉が美しいこちらも風情がある広い庭園にも出てみた。紅葉が 本当に素晴らしかった。東照宮参道から少し奥の方にあり 観光客はここまで来ない。静かで雅な穴場である。かみさんへの土産に 御用邸まんじゅうを買って帰った。
2015/11/02
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高校時代 暗記が得意だった。暗記するのはやはり文語調のものがいい、明治36年華厳の滝に投身自殺した 第一高校生 藤村操が傍らの木の皮を剥いで記した「巌頭の感」には強くひかれたものだった。日光街道4日目は今市泊まり 翌日残り8.5kmを歩いて東照宮だけにお参りして帰るつもりだったが、今度いつこれるかわからないので 4日目終点の神橋まで足を延ばし5日目の朝、華厳の滝を見物、東照宮はその後にした。 華厳の滝行ってよかった。売店で 当時の写真のコピーを手に入れた。100円。現在の光景と「巌頭の感」行きたいと思った日から50年・・・・・・・古人復無し 洛城の東今人還對す 落花の風 年年歳歳 花相似たり歳歳年年 人同じからず 言を寄す 全盛の 紅顔子應に憐れむべし 半死 白頭の翁 此の翁の白頭 眞に憐れむ可し伊れ昔は紅顔の 美少年
2015/11/01
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石見銀山に行った目的は 大久保長安の墓がそこにあると聞いたからだった。公園の駐車場から あまり観光客が通らない山道を歩くと小高い所にそれはあった。墓域はかなり荒れている。目立たない場所に 案内の看板が転がっていた。石見銀山遺跡大久保石見守墓大久保石見守は名を初め藤十郎といいのち長安に改めました。甲州(山梨県)にいた関係で鉱山に明るい長安は慶長五年(一六〇〇)安芸、徳川家康の命令で石見銀山へ派遣されました。翌六年(一六〇一)、長安は石見國九万七千八百石の初代奉行に就任、それまでの銀山発掘を竪堀りから坑道掘り(横堀り)に改めました。数多くの坑道掘りの中で釜屋間歩を掘り当てて三,六〇〇貫(一三、五トン)の運上銀(上納銀)を算出して石見銀山の最盛期をつくりました。慶長七年(一六〇二)七月、長安は石見守に任じられ、従五位下に叙されて俸禄は二万石となりました。その後佐渡、伊豆、院内などの金銀山の奉行も兼務しました。長安は生前この地に正覚山大安寺(浄土宗鎮派)を建立して、自らの墓(逆修墓)を境内地につくりました。現在の五輪墓は寛政六年(一七九四)九月に再建したものです。また石碑は同六年春に建てられたもので撰文は当時、三十九番目の代官、菅谷弥五郎長昌で筆は大森町中にある観世音寺(真言系)の住職、漢学者の佐和華石であると印刻してあります。長安は慶長十八年(一六一三)四月二十五日に駿府(静岡市)で病没しました。行年は六十九歳でした。平成三年三月三十日再建 大田市教育委員会長安の死後、本多正信・正純親子は長安に横領の罪ありと徳川家康に訴えた。家康はこの訴えを認め 長安の墓を暴き安部川河原に晒した。さらに長安の七人の男子と側近は処刑、このほか多くの旗本や大名が処分された。大久保彦左衛門の宗家・小田原城主 大久保忠隣の改易もその流れであった。長安の建てた逆修墓も おそらく この時破却されたのであろう。寛政6年に石見銀山奉行により墓が再建されたということは 180年の後 名誉が回復されたということだろうか。観光客用に開放されている龍減寺間歩。中は涼しいのだが おそらく湿度は100%昔の坑内作業、下の坑道では 風を送り込む様子が描かれている。大久保長安は奉行として家康から銀山支配の権限を授かっていたが採掘の費用は自弁であった。産出した銀は四分は上納、六分を自分のものとする契約だった。石見銀山の街並みの豊かさを見れば それがどれほどのものなのか垣間見ることは出来る。
2015/08/23
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聯合ニュース日本語版に「朝鮮通信使」再現 愛知・岡崎の家康行列に初参加へという記事が載っていた。 恒例の「岡崎の桜まつり」メインイベント『家康行列』に「朝鮮通信使列」が参加するということを伝えている。家康行列は多くの武将列や姫行列から成っている。 ここ2年見物していないので今年初めてなのかどうなのか良くわからないが民団岡崎支部(在日韓国人団体)が朝鮮通信使列を結成参加する。今年は徳川家康没後400年に当たることから岡崎市では「家康公400年祭」という記念行事をやっている。秀吉の朝鮮征伐の後始末として朝鮮との関係修復を図った家康それに応えて慶長12年(1607)李氏朝鮮が通信使を日本に派遣した。この時の使節について日韓の歴史観に似妙な相違はあるのだが両者 戦後処理と友好改善が目的だったことはまちがいない。日韓国交正常化50周年という節目の年 なにかとぎくしゃくする日韓関係に板挟みの在日韓国人が友好回復に向けて 岡崎の地で草の根活動を開始しているのだ。指し伸ばされた手は 握り返すのが度量というもの今年の家康行列には 足を運んで応援しようかな。
2015/03/21
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ソウルで開かれた朝食講演会で駐韓米大使が暴漢に切り付けられた。犯人はその場で取り押さえられたが大使は80針も縫う怪我をした。産経ニュースによれば「聯合ニュースは「同盟国駐在の米大使がテロに遭ったのは初めて」と伝えた。中東歴訪中の朴槿恵(パク・クネ)大統領は5日、オバマ米大統領に「見舞い」のメッセージを送ったほか、韓国外務省は報道官声明で「遺憾の意」を表明。韓国政府は在韓米国大使館を通して米政府への説明に当たるなど、対米関係悪化の阻止に懸命だ。」このニュースを聞いて思い浮かべたのは「大津事件」 以前東海道を歩いた時 大津の街で見つけた「露国皇太子遭難地の碑」『明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切り付けた「大津事件」の発端となった場所。当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を献策、しかし大津地裁で開かれた大審院法廷では謀殺未遂罪を適用、禁錮徒刑の判決を下し「司法権の独立」を貫き通しました。』沈静化のため 急きょ明治天皇がニコライ皇太子の見舞いにかけつけたり 日本中がパニックに陥ったのだが 幸いロシヤからの報復もなく 津田巡査を取り押さえた人力車夫2名にはロシヤから勲章が授けられ さらに年金まで支給されることになった。米欧の列強国は これほどの大事件にもかかわらず 司法権の独立を守った日本を近代国家として見直すことになった。さて 韓国大統領は 今回の事件をどのように収束させるのでしょうか。
2015/03/06
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喫茶店で手にした「サライ」に宮本武蔵の記事があった。歴史研究家・福田正秀氏 解説・監修となっている。吉川英治の「宮本武蔵」では慶長5年(1600)関ケ原合戦に幼馴染の又八と 西軍側の落ち武者(足軽)として登場する。「サライ」の「宮本武蔵略年譜」によれば本当は 19歳で関ヶ原の戦いに九州豊後において黒田官兵衛の軍に属して出陣とある。21歳の時 京に上り吉岡一門と勝負し勝利23歳で巌流小次郎に勝利、円明流を樹立34歳で大坂の陣に徳川方三河刈谷城主水野勝成軍に客将として出陣51歳で小笠原家の転封に従い小倉へ57歳で島原の乱に出陣59歳で肥後熊本入国、細川藩の客となる64歳の正保年(1645)5月19日熊本城内で死去数年前ウオーキングの途中名古屋市の笠寺観音に立ち寄った時宮本武蔵之碑というのを見たことを思い出した。武蔵は名古屋にも滞在し その流儀も伝えられていたのだった。石碑正面には 新免武蔵守玄信之碑 三傳中興祖 左右田武助藤原邦俊 子孫門人等謹建□と刻んであった、尾張藩に伝わる武蔵・円明流の中興の祖左右田邦俊の子孫門人が武蔵百年忌に建てたということが側面に記してあった。石碑の左右側面及び裏面の写真から 私に読み取れたのは『 武蔵の略歴、尾張での円明流は 林資籠・八田智義・左右田邦俊へと伝わった。邦俊の時に門人は非常に増え 彼は中興の祖と言われている今年 新免先生百年忌に当たり邦俊の子孫・門弟が相談して石碑を建ててその事績を残すことにした。』というような内容だった。石碑の全文サライは取り上げていなかったのだが武蔵は50代の頃 3年ほど名古屋に滞在し初代藩主徳川義直の知遇を受けた。義直は柳生新陰流4世の道統を継ぎ新陰流は尾張藩の御流儀となった。尾張藩は剣術の盛んな土地だったのである。武蔵滞在中 林資籠・八田智義などは直接指導を受け後に印可を受けている。左右田邦俊は八田から道統を引き継いだ。武蔵の二刀流とはどんなものだったのだろうかそれを見つけた16分あたりから見て欲しい
2015/02/20
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徳川家康にはまり 大久保彦左衛門にドップリはまっているジジなのだがその傍ら「板倉勝重」にも 少しずつ はまり始めている。勝重も家康の家臣で いろいろと接点があるのだから仕方ないよな。でもあまり手を広げ過ぎると素人の手に負えなくなるから そこそこにしよう。板倉勝重の廟所についてしらべているうち 彼の父 好重の戦死地が わが家のすぐ近くにあることが分かったので ちょっと出かけてみた。岡崎市中島西町3丁目、私有地の中に石碑が建っている。前に「史跡 山本所有地」と書いた杭が立ちフェンスで囲んである。 碑文は 「永禄四辛酉年 板倉八右衛門源好重戦死地 四月十五日」とある。1561年松平元康(後の家康)は深溝松平好景に東条吉良義昭を攻めさせた。吉良側の善明堤まで攻め寄せたのだが義昭の策略により攻め返された。松平好景は討死にし寄せ手は全滅、板倉好重も深手を負い中島城に戻る直前で戦死した。父の死により家督を継いだ3男定重が天正9年(1581)高天神城攻めで討死仏門にあった勝重が還俗して家督を継いだ、37歳であった。 ついでだから ここから700mほどの所まで歩いてみた。遺構もなにもない住宅地だが このあたりに中島城があったと言われている。明日は 板倉勝重が生まれたと言われている岡崎市小美(おい)町まで行ってみようかな。こちらはかなり距離があるから歩いて行くわけにはいかない。
2015/01/25
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今日まで待てば風もなく絶好のウオーキング日和だったのに天気は良いが強風の昨日 近場を歩いてきた。家から3Kmほどの 西尾市貝吹町にある万燈山長円寺には江戸時代初期京都所司代を勤めた板倉勝重の廟がある。天正9(1581)年 高天神城の合戦で 弟、板倉定重が討死、徳川家康の命で仏門にあった勝重が還俗して板倉家を継いだ。元和6(1620)年 勝重が所司代を辞した後、嫡男重宗が京都所司代の職を継ぎ30年以上在職した。勝重は寛永元(1624)年に亡くなったが 7回忌の寛永7年嫡男重宗により 霊廟「肖影堂」が建立された。「肖影堂」の扁額は当時京都詩仙堂に隠棲していた石川丈山筆、参道に置かれた手水鉢には本阿弥光悦が「寛永七年四月廿九日」に書いた銘がある。丈山・光悦 その時代も今でも 超一流の文人である。親父の為に息子が手向けた最高の供養、これも京都所司代の役得、役得ここからさらに3Kmほど歩いた西尾市駒場町に浄土宗西山深草派東向寺がある。この寺には 今川義元の首塚と伝わる宝篋印塔がある。「当山は <前略> 第4世徳順上人は今川義元の伯父と伝えられ、甥の義元は深く帰依して供田を寄せたり、禁制を出したりしていたと言われている。境内の東の山麓には義元の首塚と伝わる宝篋印塔や数基の五輪塔がある。 永禄3年(1560)、桶狭間の合戦において討死にした義元の首は、織田郡によって持ち去られ、胴体は家臣たちに寄り豊川市牛久保の大聖寺に葬られた。首は信長の検分後、美濃街道の須ケ口附近に晒されていたが、鳴海城主岡部五郎兵元信のところへ返された。元信は城を出て、池鯉鮒(知立)より、刈谷城を攻略ののち駿府城へ帰ったが、途中須美峠(幸田町)を通り、手前の西麓口の当寺に立ち寄り、義元の首や戦死者を葬ったと伝えられている」あくまで寺伝である。静岡市の臨済寺には「義元の首は岡部元信が駿府に持ち帰り天沢寺に埋葬されたが、明治時代に天沢寺は廃寺となり、かつて雪斎が住職を務めていた臨済寺に改葬された。」と伝えられている。どちらの言い分が正しいのか 今となっては謎である。さて 岡部元信は 今川家滅亡後、武田家に仕えた。 高天神城の城将となったとき 徳川家康に攻められ落ち延びようとしたところを包囲していた大久保彦左衛門に討たれた。この合戦で 勝重の弟で板倉家当主定重が討死にした。高天神城の麓 林の谷には 板倉定重と岡部元信の墓碑が並んで建っている。 歴史上の人物の繋がりに感じ入る。ああ おもしろや
2015/01/24
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見るものの少ないTV番組だがNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は見ている。生まれ故郷 山口県の生んだ吉田松陰その妹 文が主人公だから。うん 杉(松陰の実家)文? 知らんな。でも 舞台は萩、頃は幕末、うんうん松陰、晋作、久坂、周布寄っていきんさい 見てつかあさい随所に出てくる 山口弁萩言葉は 私の地元 周防ことばとちょびっとちがうが まあほとんど同じ松陰の母役 壇ふみ様が「せゎぁないけぇ(大丈夫心配ないから)」ちゅうち ゆうちょる懐かしや うれしやいいも悪いも 維新の長州初代総理大臣 伊藤博文から あべちゃんまで日本の政治を引っ張っ(掻き回し)てきた。その根源が 吉田松陰。NHKが どのように描くか じっくりと見てみよう。
2015/01/19
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新春登城ウオーク元日は北へ岡崎城、3日南へ西尾城、5日西へ安祥城今日7日は東へ坂崎の大久保陣屋。明治維新まで 大久保彦左衛門の領地 額田郡坂崎1千石の陣屋があった場所は現在、額田郡幸田町坂崎 八百富神社になっている。ここから南1.4km大草城跡の正楽寺にも回って帰路についた。本日のウオークは約16Km。自宅まで3Kmの所で12時になった。昼食は 酸辣湯麺。1週間 わが家から片道4Kmの所にある城跡を訪ねて北南西東まだまだ 残っているから 今月中は歩くあてに困らない。白地の所が これから行く場所。こうして見るとわが家は歴史の宝庫のド真ん中にあることに気づかされる。
2015/01/07
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最近 ヤフオクで古書籍の入札を繰り返している。4月以来 10点ほど落札。高いものでも 15000円、安いのは60円。写真を見て入札するのだから 受け取ってみてがっかりのケースが多い。金を出して紙屑を買ったような気分になる。60円の広重「小田原」は ひどかった。中には 「やったね!}もある。(かみさんに言わせれば、それもゴミなのだが)今月の落札分。「古城関連冊子」840円。昭和40から50年代のガリ版刷り古城研究誌10数冊。 中に和綴じ本「淡海温故録附巻 古城図式」というのがあった。滋賀県の古城図と説明が載っている。観音寺城、小谷城をはじめ名をしらぬ古城もある。もっとも良かったのは 安土城。「工藝画 島津藩 薩摩 鹿児島 行列」1100円。丸に十の字の紋所、きらびやかな輿を囲む行列。島津の篤姫が将軍家茂に嫁すときの行列かと思っていた。ちがった よく見ると供奉の侍の中に しゃぐまが見える。毛利の紋所もある。 輿の前にあるのぼりは錦旗みたい。 宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのは何じやいなトコトンヤレ、トンヤレナあれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じや知らないかトコトンヤレ、トンヤレナそうするとこれは 幕末の征東軍江戸城入城の図ではないだろうか。ちょっと がっかり。年代物の がっちりした 横幅140センチもある額縁に入っている。飾る? どうしよう。粗大ごみになりそうな気配。まてまて額の中に入っていた古新聞。大正13年と昭和12年のものこちらも おもしろそう。大正13年の広告「仁丹ハミガキ」其の日爽快 一生の徳yanpaさん 欲しい?
2014/07/27
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図書館へ本を返しに行ったら「大名家の家訓」展をやっていた。―島原藩主深溝(ふこうず)松平家墓所の成り立ち―島原藩深溝松平家の墓所は愛知県額田郡幸田町深溝の瑞雲山本光寺にある。ここに 初代忠定(1531年没)から19代忠諒(ただあき)(1934年没)まで歴代当主の墓があるのだ。5代忠利(三河国吉田藩主1632年没)の遺訓に「深溝松平の当主はいずれの地に転封されようと その亡骸は三河国深溝に葬るべし」とあり 6代忠房(初代島原藩主)以来 遺骸は深溝に運ばれ葬られた。藩主の多くは江戸で亡くなっており江戸から運ばれている。島原で亡くなったのは8代、11代、13代、15代の4人。9代藩主が参勤交代の途次周防国下松で亡くなった。遺骸は島原へ運ばれ葬儀後 深溝へ運ばれている。2008年8月、三河地方を襲った集中豪雨により 7代当主松平忠雄公の墓地が傾いてしまった。その修復に伴う発掘調査で木棺の中から全国的にも出土例がないガラス製ゴブレット、見事な蒔絵の施された印籠、大量の金貨(小判と一分金)などの副葬品が発見された。コブレットは400年と言う長い間地中にあったため乾燥して展示できない状態。今回は フィレンチエで当時の製法で復刻されたレプリカが展示された。1599の文字が記されている。これはこれで見事だが私にとっては 8代当主忠侯の「御遺骸道中」の方が興味深い。寛延2年(1749)6月9日に島原を出た一行は 陸路を通り42日後 深溝に到着した。費用・規模については8代忠当主の時が費用1483両9代当主の一行は300人程度の随行員だったという。一人で歩けば970km 35日 費用30万円 というところかな。
2014/07/17
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松平信孝所用の兜 岡崎市下三ツ木の城護山観音寺には戦国時代の武将松平信孝所用と伝わる 「熊毛兜」がある。 観音寺 工芸 熊毛兜 一頭鉢は鉄鉢で、裏に布をはり、表は黒色の毛皮を全面にはってある。眉庇の正面やや左に戦いの時についたと思われる直径二~三cmの凹みがある。吹返は時代をあらわして小さくなってきており、ヒョウタンが五個花弁のように配された紋がついている。鉄鉢後に突起があり、ここに後立をつける。後立は皮を漆で固めたもので、表裏に金銀で南無阿弥陀仏と書す。シコロは三枚よりなる。 三ツ木城主松平信孝所用という。 桃山時代作。昭和四十七年七月五日指定 岡崎市教育委員会信孝供養塔 観音寺には 信孝の供養墓が設置されている。墓誌は右に開山教信上人と刻まれていて中央に安祥城主松平長親公 その左に 三ツ木城主 三木織部正信乗公・松平蔵人信孝公と並んで記されている。三木織部正は三ツ木城の築城者である。安祥城主長親公とは松平5代長親(入道して道閲)の事で 三ツ木城主松平信孝は その孫にあたる。 徳川家康を生み出した松平8代の系譜を掲げておく。安祥松平 松平3代岩津城主信光は、文明11年(1482)安祥城を奇計をもって攻略 さらに岡崎城の西郷頼嗣を下した。 信光が没すと 遺言により次男親忠が安城城主を継いだ。安祥松平家初代である。親忠は明応5年に隠居して 三男長親が安祥松平を継いだ。 永正3年 今川氏親の大将伊勢新九郎(のちの北条早雲)が岩津城を攻撃した。長親は安祥から兵を率いて駆けつけて応戦、今川方を吉田に退ける。この戦い以降 松平宗家が岩津松平から安祥松平に移ったといわれている。 長親は入道して道閲と号した。文亀元年(1501)に隠居して13歳の長男信忠に家督を譲った。 実権は大樹寺に住む道閲が引き続き握っていたものと思われる。 道閲は次男親盛を福釜、三男信定を桜井、四男義春を青野、五男利長を藤井にそれぞれ配置した。松平清康と 信孝・康孝 兄弟 わずか13歳で家督を継いだ信忠は 一門衆や家臣の信頼を勝ち得ることができず 大永3年(1523) 35歳の若さで家督を長男の清康に譲り隠居して大浜に住んだ。 次男信孝には合歓木、三男康孝には浅井と三ツ木の地が与えられた。 松平7代となった清康も父信忠と同じ13歳での家督相続であったが 期待にたがわぬ武将で 大永4年(1524)14歳のとき 山中城を攻略して岡崎に進出したのを皮切りに西三河を従えた。 享禄2年(1529) 19歳の清康は 東三河の吉田川合戦に勝利し次いで田原を攻め、翌年には 宇利城を攻略して三河統一を成し遂げた。吉田川合戦には 信孝・康孝の兄弟も兵800を率いて後詰の一手として参戦していたことが記録に残っている。 森山(守山)崩れ 破竹の勢いであった清康だが 天文4年(1534)12月 尾張守山の陣において家臣阿部弥七郎に切られて死んでしまう。享年24歳。 大将の突然の死によって松平軍は雪崩を打って岡崎城に逃げ帰った。このとき 清康の嫡男仙千代(後の広忠)はわずか10歳であった。 翌年2月尾張の織田信秀の大軍が押し寄せると 岡崎方は仙千代名代として信孝・康孝を両大将に立てて戦い 辛うじて織田軍を退けた。仙千代(広忠)の流亡と帰還 織田勢が引き上げると入れ替わるように桜井城主松平信定が岡崎城に入った。危険を感じた阿部定吉は仙千代を伴って伊勢神戸の東条持広のもとに落ち延びていった。仙千代一行は 駿府の今川義元を頼り掛塚に移り その後、形原、牟婁と各地を転々とした。 天文6年(1536)6月 大久保忠俊らの努力により仙千代は岡崎帰還を果たした。このとき 信孝は「大久保新八郎(忠俊)が来たら鍵を渡せ」と妻女に言い置いて有馬へ湯治に出かけたという。広忠はその恩を終生忘れなかった。やがて信孝は後見人として広忠を支えるようになった。 桜井の信定は、大樹寺に住む父道閲(5代長親)のとりなしで広忠に許される。道閲は信孝にも わが子の罪を赦すよう頼んでいる。信孝が岩津松平の旧領を得たのは道閲からであったかもしれない。信孝追放 天文8年(1538)桜井の信定、青野の義春ら一門の古老が相次いで亡くなり後見人として信孝の勢威は増してくる。 さらに 天文11年(1541)に浅井西城主康孝が病没。 跡継ぎがいなかったため 信孝が浅井と三ツ木の領地を継承し三ツ木の城を根拠地とした。 信孝が康孝の遺領を引き継ぐことにつき 広忠に異存はなかったようであるが 宗家より大きい分家ができたことに家臣に動揺が起こった。阿部定吉ら重臣たちは 信孝がやがてかつての桜井松平信定のように宗家を乗っ取ろうとするのではないかと恐れたのである。 広忠は信孝と重臣たちの間で悩んだであろうが かつて仲介役を果たしていた大樹寺の道閲は高齢であり 重臣たちの意向に沿わざるを得なかった。 天文12年(1542)(一説では16年)正月 信孝は 病気の広忠の名代として年頭のあいさつに駿府の今川家を訪れた。留守中 広忠の手のものが信孝の領地を襲い代官を置いて宗家直轄地とした。駿府から帰った信孝はこの非道を怒り 今川義元に調停を求めた。義元は岡崎から重臣を呼び寄せたが 本多忠高、酒井正親、石川清兼、阿部定吉、植村氏明ら重臣は みな信孝の非を訴えるので仲介することをあきらめてしまった。信孝反旗 今川は頼むべきにあらずと見限った信孝は天文12年(1542)8月 織田方に奔ってしまった。 大久保忠俊の弟 忠員・忠久は信孝に付けられた家臣であったが 信孝の留守中 他の家臣らを説得して引き連れて帰参していた。 信孝は「大久保一族の子供なりとも捕まえて はりつけ、串刺して怨みをはらさん」と怒った。用心した忠俊は一族の婦女子を針崎の鬘寺にかくまってもらった。 天文13年(1543) 織田信秀が安祥城を攻略し 長男信広を置いた。やがて上野の酒井忠尚 佐々木の松平忠倫らが離反して矢作川の西は 織田方になった。織田信秀は上和田に砦を築き 松平忠倫にこれを守らせる。松平信孝は 安城の山崎に城を構えて忠倫らと連絡を取り合い岡崎城に敵対した。 山崎城堀跡(安城市山崎) 天文14年(1544)お大の兄 刈谷城主水野信元が今川氏と絶縁し織田氏に従ったため広忠は お大を離縁した。この年 広忠は清縄手で織田方に勝ち安祥城を攻めたが 勝利は得られなかった。天文15年には上野城の松平(桜井)清定・酒井将監の上野城を攻撃して勝っている。 天文16年(1547)8月 広忠は今川の援助を乞うため竹千代を人質として駿府に送り出したが途中 田原の戸田氏により尾張に拉致されてしまう。 同9月 山崎城の信孝は渡河原において広忠と戦った。広忠方はかろうじて勝った。 同10月 広忠は刺客を送って上和田砦の松平忠倫を暗殺する。信孝討死 天文17年3月 織田信秀が大挙して岡崎に押し寄せてきた。今川義元は太原雪斎を大将に軍を差し向け両軍は小豆坂で激突したが 今川方の勝利となった。 4月 信孝は単独で500余の兵を率いて岡城崎奪取を目指した。待ち伏せる広忠の軍と明大寺村耳取縄手で合戦した信孝は 流れ矢に脇腹を射抜かれて討死。 耳取縄手(岡崎市明大寺) 信孝の首を前にして広忠は「どうして生け捕りにしてくれなかった。蔵人(信孝)殿に恨みはなかった。私の方が追い出し敵にしてしまったことなので 内膳(桜井信定)が敵になったのとは違う」と涙を流してその死を悲しんだという。 遺骸は 上和田の浄珠院に葬られた。享年は不明であるが 長兄清康24歳の横死から14年であることから 信孝は35歳前後であったかと思われる。 浄珠院信孝墓碑 浄珠院の信孝位牌清康様御舎弟、広忠様御後見、三木松平清光院殿忠岳心照大居士 霊天文十七年戊申年四月十五日松平蔵人信孝於明大寺村御討死 天文18年(1549)3月広忠没享年24歳。 同年 11月太原雪斎が吉田城から岡崎城に入り 安祥城を攻略。 織田信秀長男信広を捕えて竹千代と人質交換をする。竹千代は駿府に移されて人質生活を送り 岡崎城には今川氏の城代が入ることになる。以後 永禄3年(1560)松平元康(家康)帰還まで岡崎の家臣たちはつらい時期を過ごすことになる。 後に 信孝の子重忠は後に家康に仕えて大番頭となった。
2014/03/28
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昨日の産経ニュースに 伊勢神宮外宮を参拝された天皇陛下 の お写真が掲載されていた。先週のことになるが 近隣の神社役員260数名がバス8台で 伊勢神宮研修参拝があった。私も 氏子総代と一緒に参加させてもらった。神社庁を通しての正式参拝と言うことで 内宮も外宮も垣内参拝であったから普段 お賽銭をあげて拝礼している門の横から もう少し内側で拝礼させていただいた。260数名が2班に分かれての拝礼出で 1号車の私たちは1番後ろから垣内に入り大勢のひとの肩越しに拝むのだったから 感激には程遠かった。内宮はあっという間のお参りだったが 外宮では貴重な体験をした。ここでも 寸の間の拝礼であったが 参拝後横門から出て横を通り正殿の真裏に回って 旧正殿(古殿地)を拝観したのだった。古殿地は 式年遷宮のあった昨年、内宮は10月3日・外宮は10月5日 神様が新宮殿に御移りになる「遷御」の式までは 神聖な地であった。裏に門があり警備の人がいる。そこから中に入ると つい先日まで天皇陛下とそのお使い以外は入ることも見ることもできなかった神殿が建っていた。写真を撮りたいと うずうずしたのだが「撮影禁止」の立札と 要所に立つ警備員の眼。そして 一緒に拝観している人々の神妙厳粛な態度。カメラを取り出す勇気はなかった。それにしても わずか半年も経たないというのに神殿の屋根の傷み具合のひどさはなんということだろう。築20年の古び以上に 半年間の放置が傷みに拍車をかけたのだろうか。というわけで 先ほどの陛下のお写真。あの場所と そっくりな古い方の場所を先週歩いたのだよ私は。
2014/03/27
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日曜日 「はず夢ウオーク」に参加して 名鉄東幡豆駅から三ケ根山頂を歩いてきた。風がちと冷たく登山道にはうっすらと前夜の雪が残っていたが 絶好のウオーク日和だった。山頂からは三河湾が一望出来て急登坂の疲れは吹っ飛んだ。ウオーク・コースでは山頂にある三ケ根観音に向かうのだが 私は 脇道にそれて 殉国七士廟を目指した。昔 むか~し 私がまだ若かりし頃 三ケ根スカイラインをドライブしていたとき山頂の道路沿いに 殉国七士墓があるのに気付き お参りした記憶がある。今回訪れた廟所は 記憶にある場所とは少し奥まった広大なところにあった。参道の奥に巨大な門柱があった。殉国七士とは 東京裁判でA級先般として死刑となった7人の人士のこと。題字は 安倍首相の祖父岸信介元首相の筆。岸元首相もA級戦犯として巣鴨拘置所に入っていた。殉国七士については こちらのHPを見て欲しい。殉国七士墓の周りには いろいろな日本軍部隊慰霊碑が設置されていた。山頂には 行基作と伝わる像が祀られている三ケ根観音というお堂がある。その境内には 比島観音像が建てられていて フィリピン近辺で亡くなった50万の軍人・軍属・民間人を祀っている。多くの慰霊碑が周りを取り巻いている。数多くの慰霊碑の中に 従軍看護婦之碑というのがあった。 黙祷 ・・・・ 黙祷いずれの慰霊碑を見ても 生き残った関係者の 押し殺してきた声の数々が ひしひしと伝わってくる思いがした。あの時代を生きた男と女たちの子である 私たちには その声を 伝えていく義務があるのではないだろうか。
2014/01/20
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14日の日曜日、フリーページ 『安城市 山崎城址と松平信孝』 に掲載した岡崎市三ツ木 城護山観音寺へ行った。岡崎市の文化財に指定されている 戦国武将松平信孝の兜の御開帳があった。長い間 拝観したいと思いながら 果たせなかったのだが 陶芸教室でご一緒したSさんが 観音寺の檀家で 特別に拝観させていただいたのだ。岡崎市指定文化財の表示板によると『 観音寺 工芸 熊毛兜 一頭鉢は鉄鉢で、裏に布をはり、表は黒色の毛皮を全面にはってある。眉庇の正面やや左に戦いの時についたと思われる直径二~三cmの凹みがある。吹返は時代をあらわして小さくなってきており、ヒョウタンが五個花弁のように配された紋がついている。鉄鉢後に突起があり、ここに後立をつける。後立は皮を漆で固めたもので、表裏に金銀で南無阿弥陀仏と書す。シコロは三枚よりなる。三ツ木城主松平信孝所用という。桃山時代作。昭和四十七年七月五日指定岡崎市教育委員会 』 特別に 写真撮影させて頂いた。めったに見られないものを 間近で見せていただいて 眼福の極みであった。
2013/04/18
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産経ニュースの記事「186歳」の戸籍残る 江戸時代・文政生まれ、西郷さんより3つ上2010.8.26 17:50山口県防府市は26日、文政7(1824)年生まれで、存命していれば186歳になる男性の戸籍が残っていたと明らかにした。 市は戸籍削除の手続きを進めるとみられる。 1824年は、第11代将軍徳川家斉の時代。前年に来日したドイツ人医師シーボルトが長崎郊外に鳴滝塾を設立した。防府市の男性は勝海舟の1歳年下で、西郷隆盛より3歳年上に当たる。こんな戸籍なんて 見つかったら即削除すればよさそうなのだがあとで なにか言われたら困ると 公表したのだろう。このところ ありえないような高齢な人の戸籍が残っていたと 連日ニュースに 取り上げているがこんなのに年金を払っていたわけでもないだろうし実害がなければ たいした問題ではないと思う。1億2000万人もの戸籍が完備しているのだからそのうち 1万人やそこら間違っていたとしても1%未満。99%の精度は たいした正確さだといえるのではないだろうか。なんでも100%正確でなくては なんて 神様の領域。これくらいのことは ケンチャナヨの一言で 笑い飛ばしたい。むしろ1824年生まれの頃から戸籍があったことは賞賛に値するのではないか。
2010/08/26
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